ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。11月。
一体何のために俺は小説を書き始めたのか、と、振り返るもそれは今進めている初作品に全て書いている。
面白いんですかねそれ。と聞かれれば「それはもう」と、顎を上げるであろうが一回死んだ。最初の公募に落ちた。
あの時の、まるで女房に三行半を突きつけられたかの如しカタストロフィー的情念は記憶に新しい。夏のことだった。
もしも俺に女房が居たとしたら、しばしば言及するであろう。「ふぁいと」と。目を合わさずに。
そんで離婚ですよ。しばらくしてこう、テーブルにやたら長文の、「むしろ君が小説を書けば」と喫驚するほど美しき筆致でメッセージが残されるのだろうか。
そこには、いかに自身の人生と俺との何らかに乖離があるかを、まるで初期の三島由紀夫氏のような文体という離れ業でA4用紙にびっちりと、危険なほど小さなフォントサイズで執筆されているであろうか。最後の手紙。そんな未来は嫌だ。
だからという訳ではないが、ちょっとはそういうことも何となしに思ってはいるが、つまり、これまで以上に立派に。隆盛に。人生をと。
その飛躍的な展望を見据えるべく、小説を。文学という世界で、俺はどこまで通用するのか、必要なのか、そうでもないのか、価値があるのか、クリーチャーなのか、凡庸なのか、鋭利なのか、要らない子なのか。
それを問うべく小説を書き続けている。今年は二作の長編を書いた。ひとつめを改稿しては「入賞したら女房が戻ってくる」というほど敷居、格式高い公募に挑む。
その最中に、女房、女房というような存在が居てくれたとするも残された手紙。冒頭はショックで理解できずに、だが頑張って読み進めるのであろうか。
「――そのような抽象的な熱さが、私には心外にも堪らなかったのです。決して、人間として揶揄する心象にあらず、ただ、ふと長い目で、私なりに思案することが様々ありました。それは、時間という残酷なすれ違いなのかもしれません。そうであって欲しいという私こそ、ある種の道化に魅せられた愚か者なのかもしれません。それを見極めるという意図がしばらくはあったということが、どうか、伝わればという想いは私独自のものかもしれません。すべては、明らかにすることは難しいと考えます。きっと、あなたは間違っていません。私が、柔軟さという文脈での正しさを知らない者なのかもしれません。しかし、人生が抽象的に寄ることをすべからく愉しむ術を、私は存じ上げないのです。他方で、あなたは、それを感じられる叡智を携えている人物であるのかもしれぬことは、少なからず信じております。遠くから、私はあなたを忘れることを拒む努力をある程度はするのかもしれません。遡ると、多様な思念があったことは、あなたもきっと、その色々しい肌で感じていたと私なりに胸に落としております。ただ、それはひとつひとつ、音を消すようにして、在るべき色の何枚もの薄い布で覆われるような気持ちなのです。言えることはもう、たったひとつになってしまいました。ふぁいと」
こんなんがお前、仕事帰りでしこたま疲れて帰ってきて真っ暗のキッチンで、ちゃぶ台に、そっ……と置かれていては俺は狼狽してね、ふためいて姿勢を正して読んでみろ。死ぬぞ。
強調するが、だからという訳ではないが、立派な人間。それが何なのか俺には現状わからないというか体現しないと理解できない。
――文学に挑む初年。11月目。俺は上のように思った。その半分くらいは架空の冷静な女房による執筆となるが、そういう視点。大事だよなとも思った。
一体何のために俺は小説を書き始めたのか。それを堂々と断じれる日まで。「ここにその理由が全部書いてある」と、書籍を渡せるその日まで。ねばりと頑張りと熱狂をすべてねじ込んで行け。などと思った。
だから、今日あたりも仕事以外の時間、けっこう原稿進めてたと。そういう日であった。いけるのか、出せるのか、評されるのか、書き続けて喜ばれるのか、それがまだ現段階ではわからない。〝抽象的な熱さ〟を具現化した暁には俺は狂喜乱舞して逆に冷静になり、きっと喋りがゆっくりになる。
そこまで想定しつつ、初動から冬が一周する手前の地点でそう思う。ふぁいと。と。それでも、ふぁいと。と。
_11/01
スピリチュアル・ヒーリング。近所にあった。ずっとずっと、気にはなっていた。それで三年ほど経っても行かず。そのうち、ポストに投函されたその店のクーポンが含有されているチラシ。それを捨てられなかった。
クーポンの内実は「3万円が1万円」。うさんくせえだろ。きっと誰でもそう思う。俺は騙されん。養分になる体たらく。断る。でもチラシ、いつまで経っても二ヶ月くらいであろうか。キッチンの小ぶりな台の棚の隙間にずっと、ねじ込みっぱなしにしては捨てられなかった。
今年初月。うさんくせえだろ。それが麻痺してきた頃に決起して「ううん、2万円得するわけか――」という思いは願いましては脳内のそろばんが決着をつけた。つまり、行った。そのもようは当時、ここにかなり克明に書いた。なお、ヒーリング中に録音機などは回していなかった。バレたら霊的に殺されると本気で思っていたからである。
結果。すっきりした。調子がよくなった。あと、俺になんか変な霊が憑いていたらしく、それも「ついでに――」と言われつつというかそんな軽いものなのでしょうか。現場ではそおう慄きつつ祓ってもらった。
――その数日後にとある出来事との邂逅。それが発端というか決定打となり、小説を書き出した。芥川龍之介賞受賞者発表日の前日であったことはその当日にJ-WAVEからの報道で知った。「何かの縁だ」と、俺はすさまじくバイアスのかかった善処とした。
経緯、行為、契機的な側面で言うと、書き始めて熱狂しだしたのはこのくだり。今日、小説原稿の改稿を進めながらふと思い出した。
というか忘れないようにメモ書きをずっと財布に忍ばせている。初期衝動を言語化した紙をいつも持ち歩く。経営者や起業家がよくやるあれである。ごく自然と、俺もそのスタイルを採用した。今も入っている。
うさんくせえかどうかは、体現しないとわからない。俺はライブとしてそれを吟味した。結果、そう捉える者も居るであろうが、俺は行動に繋がる一要素となった。
当時、ヒーリング店で最終的に「ここまでやったら本来は8万円コースだけどね」と、語尾に音符をつけながら霊媒師は言った。だが、会計は1万円ポッキリであり、俺は「うさんくさくはなかった」と、断じた。嘘ではなく現に、あれから調子の〝質〟みたいのが変わった実感が今も続いている。
なおこれはアフィリエイト記事ではない。月初になるとこのページ前半には俺の文章を完全に無視した広告がバンバンねじ込まれる訳だが――というか俺が広告を入れる設定にしている――そこにはスピリチュアル系の誘導線はないはずである。
いちいち確かめないが、とにかく「詳細はコチラ」「試しにいかがでしょうか」「一度そういった体験を経るのも人生の糧となるのではないでしょうか」などというしょうもない導線の一文を俺は記さない。
ただ、事実として俺はそういう体験をして「いや、なんかいいっすね」という感じになった。うさんくさくはなかったということを一次情報・体験として知ったというだけなのだがこれ、今日の出来事とそんなに接点はない。
と思いきや、この文脈のシーンが改稿中の小説内にあって、そこに対し、目を皿にしては原稿を磨くべくメスを入れたり、余分な贅を抜いたりして進めていた。
と――改稿中に思考を巡らせていた裏側では、上のような一連の思案が想起されていた。リアルタイムでは小説をどう磨くかしか考えていない。
だが、どうやら意識と無意識やらには何重もの〝層〟があり、その表面層ではない部分を日の記す内容として言語とすると何でこうなった。このようになる。
そこで俺は思った。スピリチュアル・ヒーリング。近所にあった。ずっとずっと気には、なっていた。その時点で行けと。赤羽に、新規開店のピンク・サロンができた。やや気になった。その時点で行けと。
前者は、生産性に繋がる行為であった。後者は、俺にとってはまず、消費でしかない。すなわちピンサロにはまず行かない。というか、やや気にもならない。男だろ。行け。という暴論というか正論。論理ではない。リビドーと昔の人はそう言った。違う。それはもっと学術的なものである。
こんな風に意識とか「自分の思考の正体」なんてものは、実のところまるでわかっていないどころか文章としたらあらぬ下心までむき出しになること。多々ではないであろうが、あるのかな。俺にはわからないけど、今書いているのは思考の裏側の部分である。
そうでもなければ、もっと文章を丁寧に書こう。昨日の女房を見習え。というかあれは誰だ。誰なんだよ。そう。〝裏側〟のどこかに、確実に居るやつが書いたのであろう。
意識の分岐。そうは書かれていなかったが、偉い心理学者さんの著書などに触れると、その内実にいくぶんかは迫ることができてけっこう俺は、面白いと思う。何冊か購入して本棚に、今、目前にある「IKEA」製の本棚に、ズンと鎮座している。
このように記すと、仮に俺がアフィリエイターであったら本文のあちらこちらに「スピリチュアル」「遊郭案内」「心理学書」「フロイトやユング」など、魑魅魍魎の如し色彩とレイアウトをもってしてそれらの広告が乱雑にビタ付けされては混沌とした状態に成り果てる。
俺は夢を見ながら日記を書いているのであろうか。近いと思う。
しかし、きちんと一日の体験と思考と想起と表彰という〝事実〟に基づいたものであることを強調。しても別にしなくても。アフィリエイトってまだ儲かるのかな。どうやら俺にはそのセンスは控えめに言ってなさそうなのでしないかな。アフィリエイト。これは日記。今日も豊かな一日にとても感謝している。思考の層が雪崩を起こしそうなので酒で食い止めよう。
今日の肴は。すごいな。さっき買って冷蔵庫に入れたばかりなのに今、本気で思い出せない。そう。それほど、〝意識の層〟といやつは果てしない。気がする。
_11/02
ブックオフで迷子になる。意図としては、昨夜に「夜に読む用の文学作品」を読みきったので次。それを一冊買おうというものである。だが、何を買えばいいのか、何を読めば血肉となるのか、それがまるで訳がわからなかった。
文学の学び。〝小説のフォーマット〟を自分に慣らす。これらの前提で最近は人文学書以外に、吸収・参考ベースで、小説を常に読んでいる。ここ数週間のその書籍のラインナップはというと、以下のようになる。
「好きな作家」として中島らも作品、町田康作品らを4冊。「最新・現代の小説」として『それいけ! 平安部』を1冊。計5冊を通読。あとは、書店や図書館で乱雑に作品を手にとっては部分読みして参考にする。という内訳。
じゃあ次は。というところで俺はブックオフ赤羽店の文庫本コーナーで立ちすくんだ。前提を鑑みて、次は誰の作品を読めば全くわからないのである。
しげしげ様々、各作家さん方の書籍を手にとっては冒頭を読み、発表年数を確認し、著者プロフィールを眺め、「どれを読めば今の俺にフィットするか。学びとして適切か」と、正解を探そうとしていた。
気づけば文庫本コーナーから逸れ、文庫サイズではない小説コーナーで右往左往してはいろんな書籍を手にした。「どれだろう」と漁っているうちにコーナー端まで達してはノンフィクション漫画コーナーに差し掛かり、『アル中ワンダーランド』という作品を手にとっては立ち読みし終えて「これ、ウチにあるやつだ」と、その名作っぷりに改めて敬意を表した。
そのへんで思ったことがあった。「何というか、変に真面目すぎやしないか」と。意欲といった点では善処だが、何というか、その捻りのない真面目さは面白いのを創るといった観念では凡庸に舵を切るのではないかという懸念。
それも正解がわからないと、とにかく有名な作家。売れた作品。話題作。色々手にとったが正解、答え、それはないのかもねと暗に思った。だが、ひとつ思い出した。
創作の参考といった場合においては〝名作を読むよりも、その名作を書いた者が読んだ作品を読むべし〟的なことを。これ、誰の提言か本気で忘れたが、それだよなと同意できる。
音楽に例えるならば、ブラックミュージックの素敵な作品を創りたいとしよう。そこで最近のヒット曲を参考にするのもいいと思うのだけど、やはり一世代、二世代遡り、更には始祖までと、その潮流を汲み取るのが得策だと個人的には思う。
この場合、やはり(以下、敬称略)ディアンジェロは1stアルバムまで聴いて、スティーヴィー・ワンダーもスタジオ盤を一通り聴いて、ジェイムス・ブラウンのグルーヴを身体に叩き込む。最低でもこれくらいはするのが。という風に思う。
ロックだったらやはり、オアシス、ニルヴァーナ、AC/DC、エアロスミス・レッド・ツェッペリン・ビートルズ――くらいまで遡るというかこれらを一切聴かずに素敵なロックミュージックを創れるなんて離れ業だ。という風に思う。
ということで変に構えずに大御所。普遍。始祖。それをきちんと改めて抑えようと思った。ブラックミュージックだとスティーヴィー・ワンダー、ロックだとビートルズ。文学においてこれらに充たるのは――。
芥川龍之介。太宰治。三島由紀夫。川端康成。大江健三郎。坂口安吾。安部公房。このあたりだろうか。
上に挙げた作家の半分くらいの方々の作品は、20代の頃に買ってまあまあ読んだ。しかし、現在のように〝小説を書いている前提〟ではないので、今読むと間違いなく見え方が違うはず。だから、その視点でもって学ぶべく、昭和の作家さんの〝普遍〟の作品一冊に絞ることにした。そこで迷子から親に出会えるかもしれないと。
チョイスしたのは三島由紀夫著『仮面の告白』。内容は、何となくしか知らないのだが、名作らしい。これを通読して学ぶことにした。確実に俺の文体や色は三島由紀夫とは似ても似つかないだろうが、学ぶべき部分は、スティーヴィー・ワンダーやビートルズ級にあると捉えることに異論は出てこない。だからそれを購入した。
――音楽だったら、「次に何を聴こうかな」となった場合に、自分に合いそうなのは脊髄反射くらいでわかる。それだけ音楽を聴いて、弾いて、創ってきたからだと思う。だが小説は俺、まだ一年生である。「次に何を読もうかな」の〝学びが前提〟チョイスが秒で出るはずがない。だから、古典――とまではいかないかもしれないが――を選ぶ。普遍を捉える。三島由紀夫作品で学ぶ。
というところで迷子は親に出会えたか。それを証明するのは、自分の小説がお店の本棚に並ぶ時である。
「ふざけやがってこの野郎、どこぞの野郎が売り飛ばしやがったなこの野郎」と、顔を真っ赤に染めて憤慨してはブックオフの棚に陳列する自分の書いた小説すべてを買い占める。そういった意味のわからない行動に出ることができるその日まで。お勉強をしよう。
三島由紀夫は享年45歳。俺は今45歳。文学をやる一年生として、はたして俺は遅すぎるのでしょうか。そのへんも、学ばせていただこうかと思います。
_11/03
たばい。ただ、酒を呑んで口のなかを切らしてまた呑んだ。
11/04
冒頭一文字目で致命的な誤字。酔っ払って書いたんだろう。なんか日付のレイアウトもいつもと微妙に違う。日記=その日の記録という扱いにつき、別にそのへんを直さないが、何というか酷いな。
おととい、フルに仕事やらタスクやらAIとの壁打ちやらと、もの凄い密度の一日を過ごしては酒で締めていた。
深夜――立ち呑み屋に言って、見知らぬ年上の女性と談笑しつつ呑み、楽しく憩っていた。しばらく経ち、所々覚えていない夜を振り返る。
明るい時間、キッチンで翌日に財布の現金の減り方を確認。4,000円くらい使ったのか。そう振り返るとつまり、呑みすぎたのである。立ち呑み屋で4,000円くらいってけっこう呑んだはず。そして鈍い痛みを覚えては出血を確認した。
唇が痛い。両膝が赤青いことになっている。そこから判断できるはまあ、派手にコケたのであろう。前歯が一本、ほんの少しだけ欠け、唇は誰ぞにしばかれたかのような、軽い傷がある。両膝から崩れ落ち、手で堪える瞬発力が酒でバカになっていて顔面、地面に打った。そんなところであろう。
まずないことだが、仮に誰かと本当にケンカなどをしていたとしたら、この負傷からその説明ができない。だって両手が無傷で、両膝と唇だけ傷んでいるって、どうやって相手とやりあえばそうなるか。仮にそうだとしたらちゃんと覚えている。あと俺は人様と殴り合いのケンカなどしたくない。すなわちこの可能性はゼロに近い。すなわち激しくコケて今も痛い。
ちょっと酒の呑み方考えないといかんな。とは思いつつも体は休まったからいいか。などと善処したいところだが、今日やるべき仕事をしなかったのは反省すべきである。それでも小説はけっこう進めたというこの、謎の優先順位。
というか、仕事に関しては昼間やらなければならないうえに、気持ち悪かったからできなかったと。三日酔いみたいになっていて俺は一体何をしているんだと、溶かした時間と生活態度に謝罪したい気持ちである。あと、唇がまだ痛い。
結局、酒は抜けたが、おととい買った三島由紀夫作品もまだ1ページも読んでいないし仕事もやるべきタイミングでしなかった。それらを原因は怠惰である。よくないね。酒に飲まれるというか自分の欲に翻弄されるのは。
正しい欲はきちんと昇華に務め、怠惰の欲は律するべし。今読み進めているアリストテレスさんの倫理学の下巻にそんなこと書いてあったよ。学ぼうよ。紀元前にそんな基本的なこと説かれた訳だから。
昨日今日は、生産的なことはほぼできずに、せめてと、小説はまあまあ進めた。だが、それ以外は善く生きていなかった。そんな日々もあるけど、もうやめようね。夜中に一人で立ち呑み屋に繰り出すの。
人生の隙ってどこでどう出るかわからない。「生活」においては中庸であるべし。出血までしてやっと理解できましたよ。アリストテレスさん。何かごめんなさい。反省文になってしまいました。
_11/05
昨日の体たらくから思った。誠実さとはと。
今日はしこたま仕事をして、とても気分が良かった。小説の改稿もなかなか進む。真面目な一日でよかったじゃないかと一瞬、思った。しかしそれは違うと感じた。
正直、俺の捉える、自分においての「真面目」というやつは悪癖みたいなものである。端的に、「誠実」とは似ているが、相当に非なるものなのではと。
辞書によると「真面目=本気、真剣、誠実、誠意」とかそのへんらしい。というか「誠実」が入っているあたり、俺の考え方が間違っていることになるがそうではなく。
もう結論から言うと「誠実」というのは原則として「他者と自身両方にかかる」やつ。だと思った。
一方で「真面目」というのは、〝本気・真剣〟あたりは「まんまそうですよね」と、さほど異論はないが、「向かう方向が、自己完結である場合を含む」という風に、さっき近隣を歩いていてふと思った。本当に一瞬でそう思った。それってどうかなと。
――真面目な場合、それが自分にとっての喜びや義務感、「そうでなければならない」という思い込みに羽交い締めにされる。
――誠実な場合、それは自分起因ではあることは真面目と同一だが、そこから生じる喜び等は「他者にも向かう」ということ。
要するに、「独りよがり」か、「みんなの幸せに向いているか」、というだけのことだろうか。
前提としてこれは持論である。だからあとでAIあたりに厳しく吟味してもらっては明日、言い訳を書くかもしれない。だが、本当に俺はそう肚から思った。
だから、真面目というやつは、俺にとっては悪癖でしかないと。
仕事も対人関係でも呑みの席でも何でもそうだが、そこに誠実さがあれば、みんな楽しく居られる。そうでなければ、変に真面目だと「いや、私はこう思うのでこれ、突っ切ります」というニュアンスに似たある種の〝頑固さ〟に直結する。これ、いかがなものかと。
そういうのが似合う人も居る。だが、俺は、そうであるべきではない気がしてならない。
〝あるべき〟などと言ってしまっている時点でもう真面目じゃねえかという側面もあるがちょっと脇に置いて、あとで記す大前提がありますから。
真面目だと、どこか、手の抜き方と言ったら飛躍しすぎだが、本来の意味での「いい加減」を逸する。
それは、ロックサウンドで例えるならば、あの生々しいノイズの魅力。揺らぎ、グルーヴ、けたたましいシャウト。それに欠けたロックサウンドって――それはそれで綺麗で、いいけど、何か、真面目っすね。と、個人的には思う。決してそれが良くないと断じるつもりは毛頭ないが。
ただ、真空管アンプからフォォォォ〜〜ン……とフィードバックされるあの恍惚とした倍音。地を這ってはライブハウス揺れてるじゃないかというほどの重低音。「怒ってるんですか?」というほどのボーカルの殺気立った所作と声。それらがないと――みたいな感じであろうか。
これを俺は誠実と呼びたい。となるとまた若干飛躍しているが例えとしては変ではない気が俺はする。
つまり、真面目に丁寧にロックギターを弾く方が居たとしよう。上手でいいじゃないですか。とはならないと思う。「ちょっと、思い切りギターソロしくじらねえかな」「弾いたね」「あの際どい部分わざとかな?」「圧、伝わってきたね」「途中ちょっと何か下手だったけど」くらいの〝加減〟がないと何かこう。というような感覚である。
でも言ってしまうと俺はきっと真面目である。いやそうなんじゃないかと思った。ただ、それは、こと自分個人に対して言うとどこかおかしい。そこで出てきたのが誠実という言葉。
辞書によると「誠実=偽りがないこと、真面目なこと、真心が感じられるさま」とのことである。やっぱり真面目、入ってるな。とも思う。
だが、「個々において」というある種の言語ゲーム(言葉の意味は固定されたものではなく、文脈や状況に応じてゲームのルールのように変化する)的な吟味をすると、やはり俺からすると「真面目」と「誠実」は違っていて、後者のスタンスで居たい。
などとシンプルなのか複雑なのかわからないことを考えては夜空を歩き、落居した。しかしその内実をまとめてみようと今書くと何だ、ギターが何だって? ということに成り果てる。だから短くまとめる。
「真面目」=起点が自分で、返ってくるのも自分。
「誠実」=起点が〝他者があっての〟自分であり、みんなに波及する自分の行為なり。
なんじゃないかな〜と思った。一人称単数とか一人称複数とかそのへんの考え方だろうか。とかそういうのいいよ。要は上の二行でまとまってる。
つまり、誠実に生きてみなさまと楽しく。そのためには、きちんと自分に、そうあるべき抑制力がかかる。ぜんぜん魅力的とは言えない逸脱は生じない。だが、真面目だけだと、何かこう、あんまし面白くないなと。そう思っただけの話である。
間違ってたら明日訂正するが、というか間違っているはずがないが、本気で俺は今日、このように思った。真面目か。
_11/06
昼イチで懸命に小説原稿を頑張ってガッツを伴い進めるところ、タバコが点かないというか電子タバコ。某電子タバコがいきなり死んだ。
何度となく再起動しては半ば、気づいていたがこのデバイスの寿命、それは約2年。生産当初からそういった設計のもと作られていると、そのデバイスの競合他社の者から、いつだったか確かに聴取したことがある。
律儀にまた2年で故障とはと、俺は憤慨して近場にデバイスの購入に行く。6,980円。痛い出費だと懐を心配するもそれよりも原稿だと、すぐに帰宅してけっこう時間をかけては進めに進め、ようやく気持ちが落ち着くかに思えた。
だがそれでも憤怒に冷却の気配、それを察知せずまま俺はクリニックの定期検診でロビーに行った。そこではフジファブリックの楽曲「若者のすべて」が、オルゴール・バージョンBGMとしてコロリコロリと鳴っていてはサビの三連符がいいなあ〜などと聴覚に集中し、俺は手元の倫理学の本を少し傾けると同時に、怒りの静まりを感じ取った。
「平吉さ〜ん」と、係の方。「はい〜」と、俺。主治医の問診を受けつつ以前の血液検査の結果を共に確認する。
指摘を受けてこれまたふざけるなと思っていた中性脂肪。その値は前々回「200少々」つまり中庸に非ず過度。しかし今回は「100少々」であり正常値。ようやくここで、完全に安堵した。
他の数値は正常の範囲内。唯一、「γ-GT」なる〝酒の呑み過ぎ〟がダイレクトに反映される数字が「91」と、これまたここのみ、唯一、デッドラインを超えていた。前回は「84」であった。俺は叱咤を覚悟した。
しかし、先生曰く「まあ、前回と『7』しか変わらないですし平吉さん。他は大丈夫ですから、そんなに気にせず――」とのことであった。
そうか。と思い俺は薬局に行き、そこでいつも対峙するN氏という歳上の女性薬剤師と話し合う。
「ちょっと見てやってくれますか。俺のこの血の値」と、血液検査の用紙をフロントのテーブルにずいと差し出した。N氏はにこやかに各数字を見ながら全ての数値の略称を正確な名称で口にしながら解説してくれた。
「――いやいやぜんぜん大丈夫ですよ?」「でもここが」「いやいやぜんぜん」「さようですか」「ほら、尿酸値だってナトリウムだってカリウムだって」「ですよねでも、酒が」「減らしたのですね?」「とはいえ91て」「これくらいなら別に――」「そうですか!」「それでお酒ヤメるというのもねえ――」「それは手厳しい!」「そこまでしなくても」「ですよね。面白くないよ!」
このへんで別の薬剤師が侮蔑するようにせせら笑っていた。それを見ては「ああ、客観的には滑稽なのか」と俯瞰。頭に登った血はバランスよく身体を循環。薬局を背に、ネギタワー・タンメンを食べて帰宅。すこしゆっくりして楽曲制作をする。
――ああそうか、この楽曲のメモのこれ、こう発展するのか。わりと壮大だな。そうか。着想の楽曲がそうだったからそうもなるだろうけど、この方向性だとモチーフの肉付けなどではなく、自分が作る曲になっていくなあと、どんどん血を流していこうと、アレンジ案が色々と浮かんではどこか安心して、楽しくなってくる。ピアノトラックを継ぎ接ぎに録音してスケッチし、全体のサイズが決まる。
そこで今に至るが何で俺は昼間にあんなに、必然的現象を目の当たりにしては心象を乱していたのであろうと我に還る。
――「平吉さん、血圧の方はどうですか」
「はあ、相当低いのです」
「遺伝的なお話ですが、ご家族の方で血管や心臓、脳の疾患の方は?」
「父親が脳梗塞を2度起こしては認知症、あと、えらく高血圧でした」
「ではその時点でひとつ、危険因子となるのです」
「大げさでは」
「いえ。お気をつけください」
「でも僕、血圧なんてたまにマツキヨで測りますけど、どんなにいっても上が120とかですよ」
「それなら現状は大丈夫でしょうが、年齢と共に――」
「あんま興奮しないほうが――?」
「それも」
「ははあ」――。
という主治医とのくだりがあった。だから、電子タバコのデバイスが無音の霹靂と共に壊れたくらいで血圧を上げないことにしよう。
血液検査で主治医にさほど言及されず。デバイス死す。創作はとても進む。振り返るといいことの方が多い一日。だから、些細なことで健康を害するなかれ。そう思いつつ、いつもは3本買ってくる缶酒が今日は、今日も2本。こうやって老いていくのかな。
そうもすこし思った。要は健康に注視した一日。じゃあ喫煙デバイスが死んだその時点で禁煙という発想がどうして無いのか。遺伝もそう、そして興奮もそうであろうか、共におざなりに捉えると、時に、節制の忘却の危険因子となりうる。医学的知見と俺の反省。覚えておこう。先生いつもありがとうございます。
_11/07
いつもくらい、2,000文字くらいさっき書いたが全て削除して書き直す。
端的に、以前落選した公募先から郵送物が届いた。そこには、俺の小説初作品についての「講評」があった。
初めて生身の方から、ライター業以外で文章のフィードバックを得たなと、実に新鮮な気持ちであった。そこには、いいところ、懸念点、課題点などがA4紙2枚におよぶ文字量で記されていた。
それ以外にも、生々しいことをさっき書いた訳であるが、それを、たとえこのプライベートな場所にであっても残すことは倫理的によろしくないと断じ、改めた。
そこで気づいた。言いたいことは一つだった。落選したが、批評文をいただけてよかったじゃないかと。結果的に、わりといいところだかその手前あたりまでは、初作品、健闘したんだねと。
改めて気を引き締めて、目指すは太宰治賞。次に――来春に第二作目を投じる――目指すもある。だから、今日も改稿を進める。出版社様。フォーマルな形でのお言葉など、心より感謝申し上げます。
_11/08
