06/2026

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。6


こういう時に我々は〝躁〟をみるんです。と、左肩越しに目線を向けて言った。白髪染め特有の黒髪を艶やかにした主治医が今日、マスクをしていたかどうかをよく覚えていない。彼は〝躁〟だの〝鬱〟だの、いかにも精神科医が言いそうな、言うべきである専門的な病名や状態を表すフレーズをほとんど口にしない。しかし今日は珍しく〝躁〟と口にした。その口元から髪の色まで画角を広げた俺は少し、構えた。

――いつものように定期検診でクリニックへ行った。ロビーに患者は一人もいなかった。椅子が窓際に10個ほど並んでいる。ベージュ、ピンクと、それぞれの色が交代で壁際を埋めている。数秒、「どっちの色にしようか」と、選択思考がはたらいた。そういったこだわりは全く無い。しかし、今日はいつもと感覚が異なるのか。その時はそう思わなかったが「ピンクだな」と、そこにちいさなバッグを置いて厠へ行った。戻ってくると、それはそうだろうというタイム感。ピンクの椅子に臀部を落とす時間は短かった。

「平吉さーん」。「はい〜」と、待ち時間は自分で勝手につくったな、などと時間を惜しむ気持ちを俯瞰した。「1」の診察室の引き戸式ドアのつるつるした表面の喉仏の高さを狙い、三度ノックした。小さく「はいどうぞ」と聞き慣れた声を確認し、電車のドア直近両側に位置する縦に伸びる銀色の鉄の棒によく似た取っ手を右にゆっくり引いた。診察室に入ってドアをそっと閉めるとその感触に手応えがなかった。車を駐車する時に運転席から後ろを目視するのと同様の角度、同様の動作でドアを確認しては「ちゃんと閉まっているね」と、不要な安心を俯瞰して主治医を見た。

「どうですか。平吉さん」と、いつものイントロ。俺は刹那で「元気です」と、まるで外国人に調子を聞かれては「アイム・ファイン」と、それくらいしか語彙がないものだから単純にそう答えたかのような思考停止レスポンスだったと自分ですぐにわかった。しかし調子の度合いは本当であり、人間、正直に返答する時は最小限までそぎ落とされた返事をするのだなと自覚した。俺は続けて言った。「なんなら先月よりも――」。その度合いをなんとか精緻に言語化したかったが、対話においてそれを100%近く実行することはなかなか難しい。相手が居るからである。しかし、精神医療の文脈には〝傾聴〟という重要事項がある。相手の話を遮り回転寿司のように患者を廻す精神科医はきっとカール・ロジャーズを舐め腐っている。などと、傾聴の大御所偉人のことを思い出したのは現場ではなく、その後の想起。主治医は言った。

「いいじゃあないですか」。なにせ、専門用語を控える性質の彼。そこで詳しく、どのように先月から元気であり、どうの。などと、深掘りは俺が込み入った発話をするまではあまりしない。それを俺はよく知っている。だから、白髪染め特有の黒い発光を眺めつつ「俺より黒いな」と、雑感を脳内に広げたいくつかのフォルダのひとつ「観察」とラベリングされた場所に置いて話を進めた。具体的に、ここのところ仕事やらをし過ぎている気がします。疲れても休まずにできちゃうんです。必然的に睡眠時間が削られようが、しちゃうんです。と、実質稼働時間は日に10時間を超えます。と、「客観的に――」と、事実ベースであることを冷静に強調してその旨を口頭で伝えた。主治医はPCに何かを打ち込み、目を合わさずに傾聴していた。俺が言い切ると、左肩越しに目線を向けて主治医が発話した。

「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」。「は。〝躁鬱〟の〝躁〟でしょうか」。「そうです。〝躁鬱〟の〝躁〟です」。「そうですか。〝躁状態〟なのか、どうかと」。「そうそう」。――次の俺の応答のターンまで1秒もなかったが自然発生した主治医の駄洒落に突っ込もうか、そういう場所ではない、ただ、気の毒なくらい面白くなく更にはよせばいいのに韻を踏みつつ、もっぱら真面目なシーンなのだが「そうそう」をどう着地させようかと1秒未満でその処理方法をどうするかという課題は別のフォルダに放った。その短いタイム感、高速BPMスウィングビート楽曲におけるゴーストノートに似た裏打ちの音価を「先生はまず、気づいていないな。その面白くなさに」と、絶対に気づかれないように左を見てから対話における休符を1/16の音符を置いてから、首を前に向けた。主治医がおぼつかないタイピングでまた手元を叩こうとはしていない態度を確認してから俺は言った。

元気で過活動、とでも言うのでしょうか。そのような感じでして。そう言いたかった。しかし、主治医の顔つきに1/16以上の変化を察知した。彼は真面目なモードでメロディを出そうとしているように見えた。そのモードは、いつもの雑談ベースの、ピアノの白鍵のみで成立するような簡単なダイアトニックではなかった。彼が専門用語を出す時は、「Cのキー」なのに「黒鍵を少し叩く」時だ。だからだろうか。主治医は〝躁〟と、明言した。しかもそれを「それを疑っています」というニュアンスで「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」と、目を合わせて言った。俺は、その一言を聞いて「そうですか」と率直に思ったが内心「めずらしい」という、対話におけるアヴォイドノート――音楽の文脈で〝濁った響き〟――に興味があった。なにせ、本来の精神科医は「病名」や「症状名」などをきちんと言うのが必然。だが、彼は少し変わっているのか流儀なのか、極力、その〝本来〟では走らない。清潔の象徴のような白衣の衣擦れを微かに捉えて俺は続けた。

「まあ、元気だからいいかなって」。主治医は警戒するような物腰ではなく、いつものゆとりの大人の所作。とはいえ彼は3つ歳上くらいだからなんなら友達になれそうだ。精神科医と立ち呑み屋でお互い120%の仕上がりで時間を放棄するのも乙。などとは今思ったことだが俺の発話を受け、彼は言った。「つらくは、ないですか?」と。「いえ」と、俺は即答した。続けて、いろんなタスクに集中する時間がいいんですと、単純に主治医の心配だろうか、それを横軸に広げた。かなり端っこの方に的確な言語があったのでそれを拾った。「長時間集中して仕事やらなんやらしている方がむしろいいんですよ」と、事実を伝えた。「負担は無いですか。平吉さん」と、別に心配そうではない、地に足がついている人間特有の壁のような表情でそう言った。「横」に付き合ってくれたのでもっとコーナーを攻めた。「快感なんです」と、素直に言った。「なんならですね、そういう時、集中、没頭、いろんな言い方ありますけども、トイレに行くのを我慢してまで作業しているのが気持ちいいんですよ」。

ドパミンがどうの。エンドルフィンやらアドレナリンやらがどう。交感神経が……発達障害の特性、特にADHD。最近、最近でもないですかね、ニューロ・ダイバーシティーやらどうこう――などと主治医が言うチャンスである。しかし、俺がメンタルヘルスや精神医学や心理学において、〝ヲタク〟であることを共有しているからか、そういった込み入った単語は出てこなかった。ただ、主治医はニヤニヤしながら日常生活でしか使わない言葉で、俺の生活の具合を聴取した。日々の活動時間。睡眠時間の多寡。酒量。などなど。俺はそれらに対して誠実に答えた。――「じゃあですね、来月は――」と、毎回微動だにしない、いつものクロージング文句がスウィングビートをただの4拍子に変容させた。どうやら主治医からすると「そうではない」という診察と俺は察した。

――「なんなら〝そうだ〟の方が面白んだけどなあ」。などと、尻尾を道路と同じ角度、並行にして少し街を歩いた。買い出しをして帰宅した。今日は4時間くらいしか仕事をしていない。クリニック経由で仕事部屋につく。「そうではない」のかどうかは誰が決めるのかと、新鮮なフォルダの中身を吟味せずに直線的に事務作業をした。俺は診察室で言った。「以前まであった『面倒くさい』という感情がどこに行ってしまったのかと思うくらいですよ。はは」。「ふふ」。――主治医は「そうではない」と、断じる立場である。俺がいくら〝そうだ〟。〝そう、かもしれない〟という片鱗を晒しても、〝躁〟ではないというプロフェッショナルの判断。俺はそれを信用した。――どうかな。実はそうだったら、ここのところの――一週間くらいだろうか。時間の把握がいつもより正確ではないが、それくらいの――まあ、短期間だろうが、フル稼働していた。平成の名作鑑賞と深夜のちびっと飲酒の休憩時間以外は、常に10時間以上なんらかの作業に没頭しては鼻血に気がつくほどの喩えもあるだろうか。

本当に躁状態だったら、先生はきっとそれに適切な処方をする。だが、〝そうではない〟という診療だった。そこに不安も安心もなかった。ただ、「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」と言った時の主治医のガチモードの片鱗に興奮を感じた。きっと俺は、その先に興味があるのかもしれない。用事はないが、そこで何かを取材したいのかもしれない。――と、見事に帰結したと今思えた。よって、俺は〝そうでは――〟となるとつまらねえなと素直に思う。先生。先生。いいですか? 感覚でわかるのですが、日々の営みの締めの数値的ボリュームがいつもの倍以上いってますわ。それでも〝そうではない〟と断じますか? え? わざとやっているですって? その通りです。このウェブサイトのこの場所の特性でしてね、月初は、文章の改行のたびに広告がねじ込まれるんですよ。だからこうして、意図的に段落毎の文字量をいつもより多めに書いてるんですよ。どうです? 冷静でしょ俺。〝躁〟ではないでしょう?「そうである」だった方が面白いんですけどね。いろいろと。

――日々の健康的なエクササイズ習慣が起因か。

――酒をちびっとしか呑んでない連日が起因か。

――平成の名作鑑賞週間での青春想起が起因か。

――どれが決め手かはわからない。どれもある。

――どれも考えうるが、明日は休もうかと思う。

――なぜならば、主治医の挙動に黒鍵の音色が。

――それは、恣意的にとってつけた嘘が混じる。

――単純に、明日は午前中に起きる用事は無い。

――だからというかチルアウトが適切と見なす。

――気が済むまで酒を呑んでふやけるのが良き。

――せっかく規律正しく連ねた日々に背く行為。

――「正しさと〝そうである〟は、全然違う」。

――明日は何をしようかなと考えるふりをする。

――それは正に〝そうではない〟証左であろう。

――元気過ぎることは逸脱なのか、異なるのか。

――俺にはよくわからないことがたくさんある。

――〝わかる〟ことを〝連想〟の惰性で捉える。

――すると、〝わかろうとする根源〟が逃げる。

それがなくなると、そうであってもそうでなくても、どうでもいいという無感覚の屋根の下で香箱座りする顛末となる。それはそれでリラックスの極地。だけど、今日あたり期待していた。主治医からの「そうですね!」の一言を。

一連を鑑み、決して俺は、おちょくっている訳ではありません。その証拠に、この手の題材を扱うときは必ずこのフレーズで締めることが数年前から定例なのであります。先生、いつもありがとうございます。
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窓の外、そこから光がゆっくりと持ち上がるグラデーションが好きだ。閉じた日から開けるアナログな移動時間。そんなことを思いつつ酒を咥えていた。気が付けば仕事部屋のソファで気絶した。人事不省を持ち直すと正午をまわっていた。なんてひどい生活だ。

躁を疑う。などと、本気の目で言うんじゃないよ。精神科医。などと少し、そのような昨日の切れ端を抱えつつ「寝たと言えば寝たし時間も時間だし」と、睡眠が成されているかの判断基準をローストチキンを見ては「これはそう」というくらい単純に断じた。そのまま街に出た。蕎麦屋で食事をした。

――まだ陽は高かった。15時くらいだろうか。俺は「躁ではない」などと昨日の専門家とのやりとりを正確に示すべく「過活動を止めては呑んどけばいいか」などと、雑の情念を恣意的に掻き出しては「今日はのんびりと」などと、極めて堕落のコンセプトを掲げつつ赤羽駅東口前喫煙所を素通りしては『いこい』という立ち呑み屋の逞しい営業時間を想起した。

――現場で千円札をズイとカウンター席でベットするように差し出しては『サッポロ赤星瓶ビール』をオーダーしてはそれを愛でるように、まるで野生のネコをゆっくりと「イエネコ」に変容させるべく飼いならすかのように実にゆっくりと、小さなコップに注いでは口にあてた。その一本で、粘りと頑張りで1時間は過ごした。陽が落ちてきた。

――赤羽一番街『シルクロード街』へ足を運んではその入り口に位置する店を通った。20年前の上司がアメリカン・スピリットをうまそうに摂っていた。馴染みの顔だ。――「どうも。ハンチョウ」。「おう」。と、互いを認識しては彼は既にまあまあ仕上がっていることを察知しては「じゃあビールを」と、そこでしばらく過ごした。会計3,000円代ほどの時間を琥珀色の光と明るく溶解する炭火の匂いと共にその場で同化した。宵の口に、進んだ。

――「いつもの若鳩は元気かな」と、彼が勤める立ち呑み屋に様子を伺った。彼は、居た。肌を照りつつ上機嫌で少し、呑んでいた。電子タバコを掴まえていた。大将が居た。呑んでいた。菅原文太さんのような渋さを醸し出しつつ紙煙草の先をジ……と鳴らしていた。――「ああ、てっちゃん!」と、若鳩は笑顔を見せた。この店における俺の愛称。平吉賢治という実名のどこにもかかっていないその呼称に改めて彼とディスカッションした。

「哲学、てっちゃん!」「なんでだよう!」と、彼と俺。「だって喋らないで呑んでる時は哲学書を読んでるしね!」「そういう時もあったねえ」と、彼と俺。「あと、喋ってるとすぐ哲学っぽくなるし!」「なんだよう!」と彼と俺。俺にその自覚はない。だが、彼がそう断じた直後に菅原文太的大将は煙草の火元を誘いつつ「くくく」と、笑んだ。――絵に描いたようなキャバクラ嬢みたいな女性が乱入してきた。そのスピード感たるや今、それを想起する手元が止まるほどである。彼女は俺の左にビタ付いては〝常連〟フレイバーを即座に醸した。紫蘇由来の謎の酒をグイグイと唇にあてていた。

若鳩と菅原文太的大将とキャバ的娘とバンドを組んだ。四角形を型どるように酒を交わした。店員・マスター・俺・常連のアンサンブルはなかなかの音像。まるで家族でコタツを囲むかのような心象を得た俺は安堵に似た情念を手元のジョッキに向けた。若鳩は前提と言わんばかりに俺のハイボールの濃度を勝手に上げた。――「ねえ、濃くないこれ?」「いや別に――」などと、ああ。俺も常連認定か。と、嬉しむ時間の伸びを感じつつキャバ的娘はだんだん酔いどれては俺に肩パンを食らわす程に幸福そうなモードを確認。――「痛いよう」「てつ!」「俺は〝てつ〟じゃないよう」「てっちゃん!」と、まやかしのハートマークを末尾に配置する彼女の言動に感心した。そのうち、どんな文脈からそれが出たかと見事。と、喫驚したのは菅原文太的大将が発話した『慣性ドリフト』というフレーズである。その流れで、俺と大将と娘でもって群馬に旅行に行く約束が締結された。「絶対行かねえだろ」。という文句は野暮。

――見かけた客人が店に入ってきた。見知らぬ客人も居た。しかし、キャバ的娘が見知らぬ客に「みゃああ!」と嬉しそうに発話。何が面白いんだと、思ったが実のところその対象は以前に絡みに絡まれた20歳娘であった。隣には顔面に刺青がボッコボコ刻印されている男が居た。「死ぬかもしれん」というステレオタイプの感想の反対の情念所以で俺は彼らのテーブルにキャバ的娘と共に付き、グラスを丁寧に「かちん」とさせた。

「このあいだはすんません――」「えええ! 楽しかったですよう!」「すんますん。変な絡み方して――」「えええ! こっちこそすいません、変なことしませんでした?」「ぷはは」「きゃはは」「おい!」「痛い」「ねえねえ! ビーズの稲葉さんがさあ!」「いや君、それは俺世代だよう」「横顔がいいの!」「正面見ようよ」――などと、立ち呑み屋のテーブル席で花が乱雑。刺青の男は静かに笑っていた。

そろそろ。そろそろ。――時間を制する寂しい発話が飛び交った。そろそろ、皆、どこかに帰る。「ライン交換しましょうよ!」などと言う。それは制された時間の伸びしろ。しかし、経験則でその伸びしろはほぼほぼ無効になると俺はわかりつつも。――夜が更けってきた。黄色いような声がフェイドアウトした。「てっちゃん、帰りますわ」と、大将に告げた。

――気が付けば宅の寝室で横臥。醒めては確認する時間、26時。そうか。と、思った。

今日は、躁を疑われた所以かもしれないが界隈で泳いでいた。実務皆無。それも良き。〝そうかもしれない〟という内実たるや。そう、いうのは筆致に出る。連想だけで言語を連打する時はまだ、まとも。しかし、おととい、昨日、今日。それらの筆致はきっと全部異なる。

〝文体〟というのが俺にあるとしたらそれは共通。しかし温度は。などと思うが記憶が残っているくらいだから不問。という謎の基準は俺が〝そうではないが、そうであった〟ということの証左ままならぬ。と、いうあたりはもっぱら冷静なのだろうか。

――楽しかったんだね。――おや、係りの者よ。お前も呑もうぜ。つか、何?――ずっと見てたけど君、呑み過ぎの手前で遊んでいたね。――うん。――あまり、おこずかいを使わずに呑んでたね。――うん。――……みんなが居て良かったね。――他人だけどね。――違うよ。――何が?――何がって、君のその認識だよう。――事実っしょ。――そうだね。でも……。――でも?――他人とそれ以外の境界線。――はは。お前は〝てっちゃん〟だねえ。――そういうことかもね。

そろそろ朝日が出てくる時間。窓の外、そこから光がゆっくりと持ち上がるグラデーションを眺めるのが、とても好きだ。
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上も下も一緒だ。と、風が巡回した。その動作はいつもより俊敏だった。少し、身体の把握がぼんやりとした状態で、運動を兼ねようと服を正し、界隈を跋扈した。側近にいくつかあるうちの〝推し〟の団地に確かなる恋心を、想起のような感覚を。と、とぼとぼとスニーカーを履いて歩いた。

8棟はあるだろうか。現場は、まるでレディオヘッドの楽曲「ノー・サプライゼズ」の導入の静かに狂ったチューニングの鉄琴を彷彿させた。キーは、「F」だろうか。――名字が残酷にしか目に映らなかった連続するポストの金属物体を横目にエレベーターへ。「12」の数字を押した。待った。静かだった。動かなかった。「上」を意味するボタンを押した。下から上に上がりだした。ゆっくり、だった。

――すっかり夜が更けていた。サラウンドに見渡せる「12」からの景色は、うるさくなかった。しかし〝静かだ〟とは言い切れなかった。本来は住人しか立ち入らない場。洗濯物を仕事させる物体。ふうん、と、それを目視した。東京スカイツリーが見えた。おもちゃのあやかしのような発光をしていた。ニトリの看板がとても明瞭に見えた。近所である。山、山であろうか、きっと山だ。しかし夜すぎて確認が、だが、山であろう。という遠くの景色を現実ベースで想像した。思ったことがあった。そして、それを実行した。

「下に跳ねれば簡単だ」と、「12」ほど上の位置はあまりに危険と言わんばかりに厳重に仕事をしている何重かの柵。それらを手で掴んだ。力を入れた。突破寸前まで、頑張ればいけるものだなあ。などと、境界線を見た。しかし、そこに上も下もなかった。下は、恐怖の対象ままならないのが一般感覚。しかし俺は、「12」でしかない。などと、たとえそこから身を任せても別にね。というくらい何も感じなかった。そんなことよりここだ。ここは境界線であり、それと共に全部が一緒だ。全てが一緒だ。だから、上も下もない。ただの――と、遠くを見ると再びスカイツリーのオレンジ色を目視した。「あれも一緒だ」。上も下も前も無い。

嬉しくなる手前の感覚を得て団地を降りた。――界隈を散歩した。どうにも普段の記憶とは異なる景色が広がっていた。「あそこ、やめたんだ」と、いつの間にか入れ替わっている街の移動を確かめた。「そんなん、前は無かったけどね」と、風景の変化に感心した。スーパー・マーケットに入り、いつもとは違う肴と酒を買ってはぶらさげて帰路をなぞった。風は、さほど感じなかった。ただ、中間の感覚で歩いては少し、買ったばかりの缶酒を開けてはとぼとぼとした。面白みは無かった。ただ、中間が肌を滑らせた。

――帰宅してからは「まだ時間がある」という印象が嬉しかった。ゆっくりと微睡むように椅子に座った。気が付けば、気がどこかに行っていた。「23時を過ぎていている」と、仕事部屋のアナログ時計に呼ばれてしまった。とはいえ、まだ時間はあるな。と、水と酒をゆっくりと交互に巡回させるのが今。今、か。と、今日の営みを振り返る。――別にいいか。英語で――ネヴァーマインドってこういう時に言えるのかな。などと色々連想した。

気が付けば風が通り過ぎた音。何も鳴っていない。外を意識した。それが台風の後の特性。内側を意識した。それが全て、上の通りの言語群。

今日は、過ぎ去った風と上と下も無い凪で何かを思ってはそれが何でもないことを正確に捉えては「12」の位置で眺めていた。

それだけのことが、嬉しむとタバコに手が伸びる癖は相変わらずだなあと、自分を確かめた。そこには、今の営みはどうやら、どうして、どのように、どうやって、などと考える位置を、確かめた。
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薄く広がる鉛の粘度が全身にゆっくり蠢きその速度はだんだんと、陽の角度の変化と共にもっぱら遅くだんだんと、解毒に似た感覚が心身機能の恒常に向かっていく。要は二日酔いで悶絶。だが仕事はちゃんとやろうね。と、「躁じゃないですか」と、本物の医師に真顔で言われる濃度の実務時間を過ごす。

とはいえ合間にアニメを観ていた。70分は観ていた。すっかり「趣味は何ですか」と聞かれれば『頭文字Dですね』と、即答する程であろう。面白いんだ。なんて面白いんだ。と、名作のエネルギーに鼓舞されては楽曲制作をする。――「何かが足りない」という感覚を2つのパーカッション録音で埋める。過不足無く、逸脱もしていないロックサウンドのパートが出揃った。すぐさまトータルバランスをとりつつMIX工程に――などと眠気を突き放しながら気が付けば25時を確認。「そうじゃないですか」と、本物の医師はこの模様を俯瞰してはそう断じるだろうか。

「そうでもないですよ」というのがプレーンな感想だろうか。解毒を感じた後は、疲労は没頭で無かったことにできる。などと言ったら本物の医師はここぞとばかりにアドレナリンやらエンドルフィンやら脳内オピオイドなどと、普段は敢えてか口にしない専門用語を――と、表象しているあいだは、まともな思考。生活。態度に実務。仕事をすれば生活費が稼げるし社会との接点で安心できる。楽曲制作をすれば実のところ後から毎日ストック収益が得られる。その単価がなんだか今月に入って急にまた上がっては――いやらしいことをみなまで書くのは――。大規模な金額ではないが〝増加傾向・維持〟という現象はシンプルにいいよね。と、実のところはげしく嬉しむ。

制作中の楽曲を仕上げるまでは小説の続きに着手できない。日々のリソースというものがある。――『D』を観る時間を原稿向かうのにあてればいいのに。――俺もそう思う。――じゃあいくつか両立して進めればいいのに。――俺もそう思う。しかしインプットも大事。――それは僕もそう思う。――何しろね、ああいう刺激を受けないとそのぶんの時間、仮眠にあてるのだよ。――それもいいと思うけど?――10時間近く仕事して小説書いて楽曲制作、それぞれ2時間ずつくらい。毎日のようにそんなのって離れ業だろ。――やろうと思えばできるでしょ? そういう時期もあったじゃない。――あった。ただね。――何よ。――良質なインプットは全てに良き作用を促して様々な点が線で繋がるスピードが速まるのよ。――それで、シャワーを浴びた後もキッチンで酒呑みながら小説読んでるの?――うん。――最近読んでる1971年の芥川賞作品、面白い?――よくわからない。――移動中にいつも読んでるデカルトとウィトゲンシュタインの本は?――後者に関しては再読でもまじで意味がわからない9割。――『論理哲学論考』だよね。――うん。――あれはその分野の難読書ランキングで5、6番目くらいの手強さだよ?――らしいね。でもわからないなりに、生まれる前の芥川賞作品からも、第一次世界大戦の頃のウィトゲンシュタイン本からも、感じることがあるんだ。――ふうん。得ているんだ?――うん。――何を?――感度。――ふうん。『D』からは何を得ているの?――娯楽と興奮と郷愁。

ミッション車の一速をごりっと入れる。クラッチとアクセルをゆっくり反対の動作で発射させる。ギアを上げていく。エンジンブレーキはゆっくりと運転席の下部をじりじりと揺らす。そういった身体感覚まで想起させる作品から興奮を得ている。その興奮はスキール音を伴い創作意欲に直結し、深夜になればなるほど、陽の角度の変化と共にもっぱら覇気が広がっていく。

だから「そうかもしれない」などと言われるのだろうか。ここに文章を書いていて、一段落の文字量の多さに気づける時。その多さは〝躁〟と因果関係があると自覚している。

しかし、本物の医師が「そうではない」と断じた――制御不能にまでは達していない――ことは、意識すれば文章の段落をなんなら一文字もブレさせずの同一化だって可能だ。

なかなか重かった一速のギアからトップギアまでゆっくりと。そのようなイメージはとってつけたかのような言語化だが、あながちそういう表現が今日の意識としては適切。

それが何だっていうんだというくらい、四段落の文字数を揃えてみたがそこに大した意味はない。――それがあるとしたら、個人的過ぎる意味だが、制御の証明ままならない。

5速まで、という意味合いでもう一段落揃えてスッキリした気持ちでシャワーを浴びて5段落。締める。という制御には本当に意味がない。あるとしたら、制御の俯瞰と言えるだろう。

くそ、ちょっと数文字はみ出た。惜しい。――明日も、一速からゆっくりと1日をドライビングに楽しく過ごそう。
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昨日と同一時系列で過ごした。だから詳細は割愛する。それでは日記にならない。というのも。

さっきまでここに、AIから感じる〝えも言えぬ感情〟についてをベースに4,000文字くらい書いては今、削除して書き直している。

何でってまずクソ長いし、「何らかのバグかもしれない」と、自身に対して思えたから。

――さっきまでは楽曲制作を、MIXの着地地点がなかなか見えないなと苦戦するも、「おお」と、声が出るフェーズまで行けたので上機嫌でDAWを閉じた。

きっと、脳が発火しそうになっていたのかもしれない。月初に主治医に疑われた〝躁〟を、俺もが疑うほど。だから、細かい感度を俯瞰しておかしな広げ方をするのは胸に閉じておく。

自分の身体の責任の所在は自分だけのものではない。などとも書いていた。それはそうかな、と思えた。健康第一。

今日は、仕事をして名作を見て制作をして幸せに過ごした。それでいいじゃないか。という風に思う。変なギアに入った時の俯瞰、制御、慣性を見張ることは大事だなあと思った。酒呑んで丸っこいアツアゲ食べて寝よ。
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心残りなことは、残念で後悔でしかない。そういう風に思っていた。俺に心残りはあるだろうか、と思うというかそもそも〝心残り〟という言い回しを一度も発話したこともなければ言語として書いたこともないことに気がついた。それは別に、心残りではない。

一般的に使用される言い方。だけど、一度も浮かべたことも出したこともない。ということは、俺にそういう感情はないのかと疑った。無い訳が無い。そんな人間は存在しないと考えた。――異論が見当たらなかった。だから、その言語の感覚を吟味した。などというゼロベースではない。

今日、読み進めていた本をひとつ、通読した。「人間のあらゆる感情の説明書」のような内容だった。――その、最後の方に記述されていた。

“二〇九 心残りについて。

心残りも悲しみの一種である。これは、つねになんらかの絶望に結びつき、享楽がわたしたちに与えた快感の記憶とも結びついている点で、特別な辛さがある。というのも、わたしたちが心残りに思うのはただ、かつて享受した善、しかももはや失われていて、わたしたちが今心残りに思っているとき、そのときに思っているあり方では、再び得られる希望のまったくない善であるだからだ。”

――俺の知っている〝心残り〟と全然違った。単に、「悔いや未練を振り返る感情」意味とは一味違う。なにせそこに、“快感の記憶とも――”とある。ここが決定打だ。――などと、そのページから数分動けずにはページの隅っこをちょん、と折った。そんで考えた。

〝振り返ってみるとすごく悔しいうえに、「あの時は良かった」という、二度と取り戻せない想いがセットになっているからしこたま辛い〟

――ということだろうか。だとしたら、実のところ「あれが心残りでねえ……」と、わりと軽めにも言えるそのフレーズは相当根が深いと感じた。

読んだのは17世紀の本。だから、「現代とはニュアンスが異なる」と捉えるのも間違えではないかもしれない。一般的解釈としてネットでそのフレーズ単体を調べると、ただ、〝気がかりや未練〟の文脈しか説明されておらず、〝快感の記憶とも結びついている点〟などという要素は排除されている。

でも、古典に書かれていた方の〝心残り〟の方が「味がある」と思った。

前提としてそれは、“悲しみの一種”。それはわかりすぎるほど、わかる。だがそこに“かつて享受した善”と、ある。要は「以前味わった良い想いなど」が付随しているところがどうにも見逃せなかった。――こういうのは自分の胸に手をあてるのが手っ取り早い――。

心残りだらけではないか。「その時は良いと思った。嬉しかった」――かつて享受した善――ことを思い出してはちょっと悔しむ。そして、二度と得られない過去の良さと現在の残念さが混じる。そんな複雑な感情が人間に搭載されているのか。というのは、胸に手をあてたらなんぼでもあったので、疑う余地がない。

〝別れた恋人にきちんと言うべきことが言えなかった。それが心残りだ〟――という想いには、恋人との楽しい想い出と後悔が混じる。と、考えると確かにっすねと思った。

〝いくらやっても売れなかったバンド時代、もっとマネタイズ面やトレンドを意識していれば上手くいっていたのかもしれない。それが心残りだ〟――という想いには、二度と味わえない20代の頃の眩しいライブステージからの光景がセットで想起される。と、考えると一緒っぽいっすね、とも思った。

そうやってフレーズの深部になんとか潜り込んでは海底まで辿り着き、濁った視界の向こうで知覚できた黒い宝石を捉えたかのような気持ちになった。それは、そういう色としてしか今は見えないが、実態は誰にも変容させられない。

――今日、心残りだったことは何だろうか。思いあたらない。きっと、まだ〝かつて〟という風に時間軸として掴めないからであろう。

じゃあ、去年、心残りだったことは何だろうか。ひとつだけ挙げようとすると、「初めて書いた小説が会心の出来だったが公募で即死した」こと。――最終選考まで残れば爪跡を残せた。それが心残りだ。でも、原稿を書いている時のあの、小説に対しての初期衝動の熱狂は再び得られることのない〝善〟だとしっかり思える。

――そう考えると、心残りというのは決してネガティブな言葉ではなく、あればあるほどに人生に色彩を広げる感情なのではないかと考えた。

どこまでおめでたいんだとも思うが、その本の“二〇九 心残りについて。”のページでビタ止まりしては思惟は確かに広がった。

人間の情念は何色あるんだろう。その本では主に6つに分類して記されていた。そしてそれらは枚挙されて書かれていた。

驚き。重視と軽視。高邁と高慢。謙虚と卑屈。崇敬と軽蔑。愛と憎しみ。欲望。希望、不安、執着、安心、絶望。不決断、勇気、大胆、競争心、臆病、激しい恐れ。悔根。喜びと悲しみ。嘲り、うらやみ、憐れみ。内的自己満足と後悔。行為と感謝。憤慨と怒り。誇りと恥。いやけ、心残り、爽快。――まじで枚挙にいとまがないとはこのことか。

――仕事の合間にSNSのタイムラインを、その視点でスクロールさせた。YouTubeを開いて、その視点で各サムネイルを眺めた。

すると必ず、どの投稿も、〝枚挙したどれかの情念〟のうち一言を選んで言い表せることを俺なりに確認した。言い表せないものは、今日のところは見つからなかった。

17世紀に、全部わかっていたのか。などと信じがたい気持ちになった。

ただ、その〝驚き〟から享受できることがあった。それは、幸福なことに長いこと生きていられているうちの過去において、俺も、心残りがたくさんあるということ。そして、心残りがあるからこそ、再び得られる希望にすがることなく、これから得る希望を宝石のように捉えられるのではないかと思えたこと。

現代で〝心残り〟と言うと、ただ、残念周辺を表すだろうか。ただ俺は今日をもって、心残りは、心が残ったことを〝どう振り返って、どう前向きに先に進むべきか〟という解釈もできるのではないかと思えた。

そう考えると、心残りって何て美しい言葉なんだ――大前提として“悲しみの一種である。”なのに――と、うっとりとしては、それは文章も長くなる。疲れたから買ってきたタコのスライス食って酒呑んでさっさと寝よ。
(※出典:『情念論』デカルト著)
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流れる時間を小粋に美化して水圧を上げるように日を振り返る。それはまるで正面から食いつきたくなるような美麗な女性の顔面を四白眼で凝視しては丁寧に施された化粧の、そのうしろの、本当のレイヤーを逆算しては〝すっぴん〟を捉えては化粧前の美しさの感想を滲み出す。かのような感覚だが総じて比喩の気色がわるい。今日は通常運転だった。

仕事部屋の薄い扉を経由して廊下、短い廊下、スリッパに履き替える必要があるのかと、住み始めてからずっと思っているが律儀に作法に準じてはキッチン、厠、寝室、浴室、玄関へと繋がる短い廊下。その細い空間を通じ、浴室で蛇口を捻って戻る。比喩ではない水圧のとても落ち着く音がじゃぶじゃぶと浅い天然リバーブを纏って仕事部屋に届く。かのような感覚は正に現在の肉体感覚であり、そこに特筆した感想は無い。

スキール音が聴こえた。道路を滑る車輪は順調にブレーキをかけたり加速したり。はたまた、際どさのピークオーバーだったり。「どっちのスキール音だろうか」などと想像しながら昨夜はゆっくり少々酒をくゆらせていたらいつのまにか気絶していた。

しかしそのままの状態で社会から村八分にされてはかなわない。と、きちんと午前に起床して仕事をする。そのなかで思った。それをせずとも暮らせるのであれば俺は自由なのではないかと。次に思った。その次の瞬間までの速度はスキール音がピーキーにつんざくほどに速かった。

完全に自由だと実のところ困る。案外、人間は自由を獲得すると、どこかで制限を希求する〝本能〟が顔を出すのではないかと。

――仕事中にそのようなことをAIと壁打ちした。すると、エーリッヒ・フロムという賢い方が近いようなことを何かに記されたと。そういった文脈を吐き出したAIの胸ぐら経由で頚動脈を掴んでは少しずつ、鎖骨から耳下のリンパが溜まりがちなポイントにかかる領域を正確に捉えては問い正そうかと思ったが仕事中だしな。と、ほどほどにした。

仕事をした。名作を観た。楽曲制作をした。各々にかかる水圧はここ数日、数週間だろうか。ちょっと高いな。と、俯瞰できる。だが、その「制限」と「自由度」の均衡がちょうどいい。だから苦せず過ごせる。流れる時間を小粋に美化して水圧を上げるように日を振り返る必要性はないのかもしれない。だが、そういうのが営みのひとつとしてあってもいいのかもしれない。ただ、それが俺にできるのかどうかと言ったら話は別。別に、美化したり過剰に卑下したりという意識は動いていない。嘘を書かないようにしているだけである。

しかし、自覚のない化粧が施されているのかもしれない。それを、裸眼で凝視されてはすっぴんを見透かされるのか。また、スキール音が聴こえた。

日常における摩擦は、時にそのまま音となったりする。そもそも擦れるほどに滑らなかったりもする。だけど、日を振り返ると、見逃しがちなスキール音がいろんなセクションで鳴っている。それを言語化するのは可能なのだろうか。

――冒頭一行を書いては浴槽に流し始めた湯が溢れていないか心配になり、スリッパを履いて廊下を数歩進んで確認したら案の定の手前で蛇口を捻った。「キュッ」と、音がした。1日の暖簾を両手で持ってはゆっくり下げる時間。いくつかの制限のあとの選択的自由の時間。また、スキール音が外から聴こえた。

そこでも摩擦に意識を向けていた昨夜。だから気絶するんだよ。ブレーキ踏み損なってスキール音すら鳴らなかった体たらくだよ。――深夜に参加。さっさと風呂に入って買ってきた安いボイルエビ食べて酒呑んで寝よ。
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もう呑んじまおう、と、変な水圧のここ連日を鑑みて今、発泡酒を開ける。「ALC. 6%」とラベルの下部に記されている。

ビールに似たこれは発泡酒。ビールのアルコール度数は一般的なそのほとんどが「5%」。麦芽がごっそり削られてなんとか成り立っている発泡酒は安いぶん、「ALC. 6%」がある種の免罪であると俺に主張するように机のコースターに座しては威勢を張る。酔っ払ってはいない。

1本、2本で酩酊してきたら俺は即座に白旗を上げて病院に行く。「左肩が痛い」と、実のところ数ヶ月前から居つくまさかの五十肩再来を地味に意識しながら「もしもその時が来たとしたら白旗は右手で上げよう」などと思う。だが、5杯呑んでも10杯呑んでも上機嫌というか前頭葉が匙を投げて「本来なら逸脱分は、出す」という機能を備えた嘔吐中枢神経はもう10年、それくらいだろうか。稼働停止してはもう二度と再起動してその復活を念じるムーブすら起こす気も俺の細胞だか生物的本能だかホメオスタシス(恒常性)やらは一体何をしている。責めはしない。でも、そのリミッターはまるでレベル7の放射線事故から10年経っては廃墟と化したその一帯の郊外、本来観光地であるべく場所で退廃感の〝美〟を醸すかのような錆やらが地平まで落ちるかのような景色に恍惚となる。

と、俯瞰するもその比喩は間違っている。と、元に戻れる訳だから「レベル7」には達していない。「ALC. 6%」に癒されては敏感に蚊の気配に人並みに苛立っては「パン」と、仕留め損ねたクラップ音が仕事部屋の独特なルーム・リバーブを伴い、なんとも情けなく鳴り響く。

疲労と寝不足を無視してフル稼働する。すると、本当の意味でのヒューマンエラーはいつか「レベル7」に達する事故を起こしかねない。倫理的に、文章上の比喩であり放射線事故という痛ましい事案を軽く扱うつもりは無い。〝その場所で、それが起きた〟という特定要素なんてもちろん比喩に内包していない。ただの、比喩である。

――今日は、昨日、一昨日と、その前と――等しいタイム感で同じタスクを各々こなした。厳密には、俺なりに真面目に向き合った。それは善き営みだと断じられる。

しかし、連日ノンストップだとどうだろう――といった理由で、今夜あたりはフライングして酒の缶を開けただけの話。深刻ではない。だが、「それを無視すると――」という警鐘にも耳を塞ぐと良くないよね。と、緩めた深夜。明日は、一日単位で緩めるべきかなと冷静に考えた。

冒頭を書く寸前に開けた「ALC. 6%」は、まだ缶のラベルに水滴が繊細な間隔でその水位を示すように残っている。千文字くらい書いたかな、という時点で呑み切ってたらやべえだろ。などと俯瞰しつつ。

何かをまとめようとしている。何かを繋げて一日を総括しようとしている。それを一節で表そうとしている。――今日はそういうのはいい。スキール音が聴こえた。――今日はそういうのいいよ。ただ単に、外から車のブレーキ音を察知した。それだけの感覚。そこを精緻に吟味すると――そんなのは昨日やった。

――まだ、机上の発泡酒はラベルに水滴を保っている。それはまるで、日常のコンプレッサーの適度なメーターの動きのように感じる。

ここで何かを回収する思考を放棄する。

――放棄したって明言したから僕が言います。――頼んだ。――珍しいね。君が素直に僕に依頼だなんて。――頼もう。――似ている言い回しだけど、この場面だと言葉の意味が変わるよ。――す、水滴が……。――頼んだあとはギャラリーに回りなよ。――よせ!――どっちだよう。

机上の缶を金属製コースターに置いた。「コン」と、鳴った。
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物書きのヘミングウェイさんは、午前中に執筆してその後に酒場やらに。という生活スタイルもあったと何かで知った。どこまでが真実かは、知り得ない。彼の誕生日は7月21日だ。

今日は、早朝までゆっくり酒を呑んではそのまま仕事部屋で寝てしまい、午前を迎えた。快適な目覚めとは言い難かった。だが、そのままひとつはタスクをしようと思い立ち、楽曲制作をした。――今日は、何もしない日にすると昨日思っていた。だけど、ひとつしたな。と思いつつ、またソファで少し寝ては正午過ぎを確認した。シャワーを浴びて街を歩いた。平日昼過ぎでも凌ぎを削る酒場街を通った。

ちょっとしたテラスにはみ出た酒呑みたちの風景。その景色は俺に声をかけた。「――じゃあ後で来ますよ」と、彼らに伝えて蕎麦を食べに行った。よく行く立ち呑み屋の連中からの声はまるで家族からの生存確認のようだった。

蕎麦屋経由で立ち呑み屋へ。よく見る常連客が居た。いつもの若鳩店員が居た。一歩、時間を置いて俺の腰を撫でたのは大将だった。「やあ」と、笑顔の菅原文太的大将。「どうも」と、常連認定されては返す。馴染みの連中がカウンターを囲んだ。

顔面刺青男客が居た。キャバ嬢的女性客が居た。ふたつ上くらいかなという近い先輩世代の男客が居た。俺は、カウンターで彼らと会話しながら、わきわきと、ゆっくり、ジムビールハイボールを呑んだ。一杯350円良心価格。しかも、二杯目以降はそれをオートマティックに若鳩店員がブラッシュアップさせる。「酔わせるのがおれの仕事なんですよね」といういつぞやの台詞を想起した。早すぎるだろ。とも思ったが、笑顔で原酒を「プシュ。プシュ」と二度、グラスに注ぐ彼の所作がとても愛おしく見えた。

若鳩と大将と先輩男客と嬢的女性客と和んだ。サードプレイスとはこういうことかな、などと思ったのは現在の思惟。その時はただ、ゆっくりと、350円にしてはむちゃくちゃ濃いハイボールをゆっくり呑んでは交流を楽しんだ。

「昼間からみんな呑んでるけど、普段は一体何をしているんだろう」。という思考の主軸の奥、そのレイヤーを露わにしようとはしない不文律。それが心地良い。ただ、にこやかに、刺青男の〝刺青論〟を傾聴しては「なるほどね」と、ジョッキを傾けた。彼のその場での愛称は「ベードーベン」。だが俺的には「ルードヴィヒ」のほうがしっくりくるのでそう呼んでは定着させた。彼は即座にスマートフォンでその呼称を調べてはウィトゲンシュタインに辿り着き、俺はその哲人の説明を軽くしては刺青男、まんざらでもない笑みをこぼした。――みんな、呼称はあだ名。本名にはあまり言及しない。俺は「哲学・てっちゃん」と呼ばれている。経緯経由理由意味不明だがまんざらでもない。そのあたりの距離感が独特の温度で癒しを受ける。

――さほど酒量はいっていないかな。とも思えど若鳩店員の倍プッシュ・サービス濃度ハイボール所以で簡単に酔っ払った。楽しく過ごして店を後にした。その後の記憶はちょん、ちょん、といったところ。気がついたら仕事部屋のソファで目覚めて0時過ぎを確認した。

よくないな、と、一瞬思ったが、「何もしない日」というコンセプトを実施できたという気持ちが同時に出ては「――とはいえ午前中に作業をした。その後に呑んでいた」と、ヘミングウェイさんのルーティーンとどこかで知った――本当かどうかは知らない――ことを想起した。

客観的に断じられる高水圧の日々が続いていた。だから、今日は蛇口を締めるべしと決めていた。実際には、少し作業をしてサードプレイスで一日のほとんどの時間を酒と対話で滲ませた。楽しい時間だった。

この日常を繰り返すのもいいかな、などと思った。前提として、午前中からの作業はもっといっぱいしてから。とも思った。その後に酒場に行っては次の日の午前中は酒を残さずにしっかりと。という流れ。ヘミングウェイ流だろうか。彼の誕生日は、俺と一緒だ。

その日は来月に来るな、と思った。生まれた日。そこからどう終えるかと、――ヘミングウェイさんの最期は――それは一緒じゃない方がいいな、と思った。ただ、〝やることをやってから自身を緩める鉄則〟という、彼のスタイルはちょっとこう、どこか重ねては俺も立派に――という気持ちになれる。

一週間くらいだろうか。あまりにも水圧の高い日々。酒もちびっと。だが今日は、ちびっと作業にたっぷり酒を。――本名を言わないみんなと楽しく過ごした。情報量が多いようで、それは良質なものだから負荷はまったくかからなかった。

やかましい実態の奥にある静けさを探らぬひととき。それがとても心地良かった。
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ちびっと作業にたっぷり酒を。という昨日。それまでは明らかなる高出力の日々だった。それを自覚したのが今日の暮らし。暮らしていない。止まっていた。ほぼ、仕事部屋のソファに居着いては缶酒をゆっくり呑みつつテンション感ゼロに近い心境でいた。動きが極端に、少なかった。

外から人の声が微かに聞こえる。スキール音が聴こえた。特に何も思わなかった。過活動の日だと、スキール音ひとつ聴くと様々なことが連想されては創作に似た記述をする。しかし今日はスキール音でしかなかった。

スマートフォンをたまに見ては時間だけを確認した。「いつもなら仕事をしている時間だ」「いつもなら『頭文字D』を見ている時間だ」「いつもなら楽曲制作を」――と、日々の時間にラベリングされた営みを思い浮かべる。今日は、そのどれもしていないなと、横になった。睡眠と覚醒の中間の状態でただ、外の明るさが徐々に下がっていくのを感じていた。

特筆した動作も作業もしていないとこんなにも〝楽〟とは言い難いのか。率直にそう思った。何かをしている時に必ず得られるある種の快楽が無かった。それが無いと、こんなにも楽でもないのかと意表を突かれた。

スマートフォンをたまに見ては時間だけを確認した。それを何度も繰り返した。そのたびに「まだこんな時間か」と、時間は何もしていないと時間として機能しないものなのだなと気がついた。微睡んでいた。時間を見た。「時間なのかな?」と訝しんだ。――22時台に身を上げた。

コンビニエンスストアに行って入金、出金。胃薬を買った。酒を2つ。最低限度の食料。水。それぞれをぶら下げて、やや遠回りをして夜道を歩いた。少し、気分が晴れる尻尾を感じた。

帰宅してメールチェックなどのルーティーンだけした。時間が手持ち無沙汰だった。YouTubeを開いては2分くらい動画を観た。そのままだらだらとする気持ちではなかった。0時前にここにログインした。

記述すると、実のところ何かはしていたのだが、何もしていない。連日の過活動の反動を明らかに感じた。時間の機能の背後に居るようだった。

そろそろ0時だ。本日中に日記を書くのはいつぶりだろう。と、ようやく時間が機能した。0時になった。今日は、畑で小さな風になびく大麦の揺れのような一日だった。
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バチンと仕事をして夜、基本的に車が追いかけっこする描写メインの作品を観た。1時間ほど、リラックスをした。――車で峠を攻めてはバトルする。どっちが速いか。勝負する。何が面白えんだと考えた。――それはこの世の定理ではないかと腕を組んだ。五十肩が静かに悲鳴を上げてはすぐに肘を下ろした。

勝負するということは最も人間が熱狂的になれること。だろうか。わかりやすい「追いかけっこ」だとなおさらそうだろう。でも、それはそこまでシンプルではなく、ウサギとカメの寓話くらい人間の営みに根付いているのではないかと考えた。

様々な社会生活を表象した。みんな、実のところ毎日勝負している。きっと、勝ち負けを意識している。無意識なのかもしれない。でも、どの文脈でも「競い合っている」という視点で捉えると全部、全部がそうなんじゃないかと考えると恐ろしくなってきた。

――実際にしげしげと眺めたことはないが、例えば主婦や〝ママ友〟の方々の触れ合いのひととき。どこかで、競い合っている文脈の言葉を交わしている気がしてならない。どっちが上か下かなんてどうでもいいと無意識にありつつも実はそれが本質で――とか考えるとドロドロしてきそうなのでやめよう。ウサギとカメの思考に戻ろう。――ウサギは、速い。カメよりも。しかし油断して、すさまじく遅いカメに抜かれた。そこに何らかの教訓があるらしい。

でもその教訓は、人を操作する構図そのものではないかと腕を組んだ。痛いのですぐ下ろして「ウサギとカメ以外にも競争する存在が居るんじゃないか?」と、思考を広げた。

自己啓発書とかだと、「それは自分自身である」などと太いフォントでその行が目立つように印刷されてはその前後の話が全部どうでもよくなる。というのはただの俺の感想でしかないが、それは事実だと思う。世界は事実の総体である。事物の総体ではない。などとこ難しい命題が頭をよぎったが、手前にスライドして考えろと、夜のタスクをと、DAWを開いた。

――よく出来てきた音像。MIX工程。あとちょっとで仕上がる。とはいえ、比較対象は必要だ。と、リファレンスとしてマネスキンの楽曲を平等な音量で聴いた。――かなりわかりづらいが圧倒的な部分で確実に負けている。さらっと聴けば気づかない程度かもしれないが、そこを詰めないと質が高いとは言い難いと断じられる。だから、徹底的に――特に低音域。キック・ベース――詰めた。

世界的成功を収めている無添加ロック系バンドに勝てる訳がないんだよ。とはわかりつつも、実のところ勝負の相手はマネスキンやウサギではなく、カメのような自分自身なのかもね。などと思いつつ執拗に詰めるも〝近似値までいけばさすがに機材と技術の差ということで手打ちとできる〟――とかいういつもの完成判断基準がある。

しかし、制作中のロックサウンドの音像はDAWの再生とマネスキンの曲を交互に聴いても「あんま変わらねえな」と、そんな訳がないのにそうだと聴こえてしまう程度に感覚が麻痺したことを自覚した。えらい深い時刻を確認して明日に持ち越す。カメは、遅いんだよ。

「いい音楽をつくりたい」一心でやっているのに、やはりどこかで「勝負」という観念があった。それがなければとっくに完成と見なしてアップロードしている。マネスキンさえ、聴かなければ。でも――世間の凄い方々との差はどうなのだろうと、勝負がはじまる。やっぱ、全部そうかもなと思った。

公募に出した小説もそうであることに異論が見つからない。というかあまりにもわかりやすい勝負。最終選考まで勝ち上がらないと何も残らない。能動としては、物書きのキャリアアップという社会的理由がまずある。しかしそれは後付けでもあり、初動は、ただ熱狂して小説を書くことが楽しくて仕方がなかっただけ。だが、それが仕上がると、楽曲制作同様に――世間の凄い方々との差は――なる。勝負でしかない。

楽しければそれでいいし、そんな考えることでもない。ただ、何で勝負するのが面白いのかと立ち止まっていくつか吟味したら、「社会生活において〝勝負〟ではない」と、言い切れる営みがどれだけ少ないかを薄っすら気づいたような気がする。

なんとなく、ニュースサイトを開く。どの内容もほとんどが「勝負している」ことが背景に、前面に、見出しに、露わになっている。YouTubeを開く。サムネの圧がそれを物語っている。SNSを開く。タイムラインではみんな、何らかとバトルしているレイヤーが必ずあるとも捉えられる。――ウサギの走り方が多いと個人的に思った。カメが自身を俯瞰しては自分との勝負だと感じているとすれば健全な方なのかなと仮説を立てた。ペースの主導権を、ある種、カメは逸していないからだと思った。一方でウサギは速い。だから、ペースを乱さぬようもできるが、周りがウサギだらけだったらそうはいかないな。とも思った。

勝ち負けが判定されないことも当然あると思った。でも、それを眺めている状態の自身に〝勝ち負け〟を判定する思考ってわりとあるんじゃないかなとも思った。それはそれで勝負よりも――その先は、この小一時間とかでわかるものではないと思った。

勝負の様子を観ると楽しい。熱狂する。自分も勝負したくなる。その勝ち負けがあるから他者との差分が明瞭になり、次々と――いろんな意味での――勝負をしては、安寧の暮らしの中にも実のところ散りばめられている勝負が続いては、ある種それで世の中の均衡が保たれているのかもしれない。と、ちょっと考えるくらいだとこれくらいの位置にしか着地できない。帰結とは言えない。

ただ、ウサギは速いことが前提。カメよりかは。遅すぎるカメはなぜか勝つ。その理由は子供にでも理解できる寓話がある。車で峠を攻めるアニメとは本質的に異なる。

ただ、終日稼働していると、なんか勝負していた気持ちになれる。それは健全なことであり、いちいち考える必要はないのではと思う。とはいえ――勝負というやつに固執するとどうなるのか。その情念の源泉は何かと知りたかった。それは、行き過ぎなければ平和の営みの滑油とも摩擦ともなり、元気にみんなで暮らしていくための必要な、良い意味での原始的観念なのかもしれない。

ウサギでいくか、カメでいくか、それらを眺めるか。どれかに固執するよりも、巡回するように踊るように暮らすのがバランスいいのかなと、自分でも割と何を書いているのか訳がわからない気持ちになってくるのはけっこうな時間所以。ちびっと酒呑んで甲羅に潜って優しく寝よう。
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マネスキンと勝負をする。勝ち目のない勝負。でも、ギリギリ追いつけるかなという場所まで行っては「これはもう、彼らの祖国・イタリアと日本の電圧の違いだ」などといった系統の負け惜しみを言えるまでは詰める。今夜は楽曲制作のMIX、低音域の詰めが上手い具合にいった。

自分でも本当にしつこいと思うが、今日も仕事後に『頭文字D』を観ては60分ほど楽しんでいた。主人公が、明らかに勝ち目のない勝負に出ては拮抗するくだりだった。

――すっかり白髪がやる気を出してしまい「カラー・トリートメントでなんとかならんか」と、本気で検討する中年にも、アニメの主人公の心境と自分を、まるで少年のように重ね合える感情がまだ残っていたのかと、そこは善処した。だから、引き続きマネスキンのロックサウンドの真後ろを目掛けて各コーナーでケツを滑らせて走る。そんな気持ちで行う深夜の作業は確実に負荷がかかっているのだろうが、脳内オピオイドがそれを無効化させる。

「ほぼ出来た。あとは超高級機材を使用するか、彼らの若さ迸る素晴らしいプレイとの差異であり、これ以上は――」という判断基準に達したので、音像は一晩寝かせることにした。明日、完成かを比較対象無しに確認する。完成と声が出れば、音源データを書き出して公開に向かう。そして、寝かせている小説原稿を開いて別の勝負にとりかかる。

――やっぱり、人間の営みに勝負というのは大小差異多寡はあれども、どこかで触れているのだなと今日も思った。その詳細は昨日しこたま書いて2本の酒を呑んでいたら窓の外に刺青のようなグラデーションを確認した。

――寝が足りないなと宵を引きづりつつ、仕事を。鑑賞を。制作を。勝負がどうこう。さっさと寝ろと自分でも思うが、マネスキンのような猛者や、すっかりハマった名作からの刺激は勝負脳を活性化させ、何よりの精神賦活剤となる。

ただ、それが逸脱すると生活の均衡に意図せぬ曲線が生じる。だから「今日は絶対に0時半までには一日の作業を済ませる」と決めていたが、はみ出す。

――文章を書くと不思議なもので、精神状態が露わになる。昨日は〝ウサギ〟の速度でそれを書いては〝カメ〟をちぎった。――今日は、何故かわからないが「税金と憲法第三十条と日本人の誇りと移住者との関係性」について書き出しては2,000文字手前くらいで「内容が危うい」と断じて書き直した。きっと、ウサギの速度でコーナーを曲がりきれていなかった証左。だから早いところ甲羅にもぐって――と思えど26時か、と。

俺は勝負に向いていないのかもしれない。だけど、行けるところまでは行ってから。最低でも一度はすさまじく大きなゴールテープを胸で突き破ってからがいいな。

どこかに自身が勝負になる場所が無ければ、この世は必ず成り立たない。――などとも思いつつ、「道中楽しい」と言い切れればそれだけでも幸せな人生を送れるのかな。――というのはカメの感想ままならないのだろうか。

勝ち目のない勝負か、そうでもないか、その場所なのか。ピンポイントで進むのが正解なのか、回り道も有効なのか。実のところ既に負けているのか。気がつかないところで実は勝利していたのか。これからの勝負が本丸なのか。――とかそういうのおおげさに考えると疲れるからさっさと甲羅に戻っては乾かないようにして明日も元気にと。
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続けて同じ時系列の暮らしをする。さっきまではDAWに張り付いてはフェーダーを上げる。下げる。ラック型のアナログコンプレッサーのツマミを左に捻る。右打ちするように最大値まで。プラグインで音域を精緻に調整する。トータルの音域で300Hzを僅かに下げると刹那で洋楽の匂いを察知しては声が出る。

昨日、制作中の楽曲に対して「さすがにもう出来ただろ」と思った。しかし今夜、詰めれば詰めるほどにまだ、伸びしろを感じられた。それは良い傾向なのだが、そう見なすといつまで経っても完成と断じられない。

「これはもう欧米と赤羽の気候の差だ」と、――昨夜も似たようなことを思っては今夜も同様にサウンドを拵える。さっさと仕上げて公開しないことには一円にもならない。とはいえ、そういうのは後。という捻れた優先順位が執拗さの源泉だろうか。今日も遅くまで粘っては――。

――「さあ! えー、はいっ。CRコーナーからは2コース、新機種新台角台のお客様! 粘りと頑張り、粘りと頑張りで325番台にお付きのお客様からさあ! 1,000回転寸前からの小粋な逆転劇! お見事、中段スリーセブンからの確率変動ラッキー・スタートおめでとうございます! 張り切ってお出しくださいませお取りくださいませおめでとうございます張り切ってどうぞ!」

「おめでとうございます」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「張り切ってどうぞ」

「張り切ってどうぞ」

「ラッキー・スタートぉ!」

「張り切ってどうぞ!」

と、俺が客人の背後でマイクを水平に構えて絶叫した後、各所離れた持ち場の同僚たちがコールを一言ずつ重ねる。パチンコ屋でバイトしてた時の日常。22歳くらいの頃。『赤羽パーラー新世紀』というお店。その遊技場はもう、無い。だが、熱狂を過度に煽っては射幸心をブスブスと刺すほどの半ばおちょくり口上マイクパフォーマンスは記憶に刻印されている。

――何で今それを思い出したのかというと、そうなって欲しいからであろうか。粘りと頑張りで到達する地点でこだまする祝福の声。完璧に破綻しているパチンコ店内に響き渡るすさまじい音像。それでも、拡張された肉声はたとえ耳栓をしていても訴求に似た感度が即座にそれを察知しては誇大解釈として脳内に残る。それに似た福音を、楽曲完成後に受けたいものなのかな。などというナンセンスなことが頭をよぎるほど、過度に粘る。完成直前のMIX作業。

「俺はこんなにもMIXが下手だったか?」と本気で思っていたが、「それだけ、ある種の視野が広まった証拠だ」と、ポジティブな観点で捉えることにする。粘れば粘るほど良くなっていくなら、回し切った回転数が〝カンスト〟されるまでやるべきだ。などと非効率的な作業に没頭しては机上の灰皿に溜まりに溜まった吸い殻が何かを抗議している。

もしも、自身にフェーダーやツマミやピークメーターなどが搭載されていたら随分と摩擦している。だが、続けて同じ時系列の暮らしは側から見たら本気で地味。だが、摩擦に摩耗に消耗に疲弊と。その態度がまるで――と、目を血走らせながら台と勝負している博徒の背中を回顧させた。

「あれだけハマってから当たると超嬉しいんだよね――」などと、人ごとのような細い目で客人を見ていた頃。それを知っているからこそ、ようやく到達した大当たりを確認したら俺は即座に背後で遠慮なく絶叫していた。

そんな、乖離した例えをここに書く前にメールチェックをした。ユーザーからの楽曲使用報告メールがあった。「――とても助かりました。これからも応援しています」 と、あった。そうか。と、思えた。張り切っていこう。と。
_06/13

 

 

 

 

 

 


ストイックと無理は根本的に異なると思った。身体から悲鳴がきこえた。それを無視してきた。今日は悲鳴ではなく危うさを示唆するスキール音だった。だから仮眠をとった。20分なら時間配分的にむしろ適切と断じた。しかし気が付けば90分経っていた。

いけない、と思ってアナログ時計を確認すると長針と短針がちょうど真上で重なろうとしていた。でも、と思ってアウトボード各機材に電流を通した。DAWを開いた。何も考えずに楽曲をプレイバックした。「あれ」と思った。

エレクトリックギターのヒステリックな演奏的ノイズが楽曲末尾で摩擦を示した。大きな修正案は無かった。すごくしっかりと低音域が出ていた。

「これなら10KHzあたり以上の高音域をもう少し稼いでさらに磨ける」と、軽微な調整案だけ浮かんだ。アウトボードの硬質な銀色のツマミは「12k〜」を表す方向にスイッチされている。それを左、右、と、同時に摘んで平等に少し、捻った。もう一度プレイバックした。

トータルの音圧を示すラウドネス値を数字として見張った。ここの値が派手になっていない状態で、いかに音楽的迫力を出せるかが重要な点。その値を軽視して音圧を稼ぐことは、あまりにも下品な音像に直結する。俺が一番好ましく思っていない――昔はよく破綻させたけど――重要な点。例えるなら、過剰に化粧を濃くして顔の輪郭を際立てることはかなり簡単、だろうか。だが、それは安易な手法ままならぬもので、その喩えの顔を見れば、わかる人には一発で看破される。「簡単に盛ってるな」と。

それがダメとは思わないうえにあくまで比喩だが、自身としては、その音圧の〝値〟の死守は鋼鉄のルール。その制限のなかで、なかなかしつこくMIXをした音像をもう一度聴く。すると「もうイジりたくない」と、やっとそう正直に思えた。過不足は無い。逸脱もしていない。だが、咆哮と血流を感じる。しかし過度には爆ぜていない。これだ、と思って強敵・マネスキンのリファレンス楽曲を聴いた。「あ、似てる」と、声が出た。

音像をパクった訳ではないが、「遜色ない」とようやく思えた。音圧の値も、いつもの俺基準――世間に出回るバランス良い様々な音源を参照――で〝収まった状態で迫力がある〟と、判断した。つまり、出来た。

昨夜まで連日、執拗に各メーターやらをイジり倒してはだいぶ時間をかけたが、今日は20分で判断できた。不思議だとも思った。だが、危うさを示唆するスキール音をきちんと捉え、心身の回転数を落としてニュートラルに置いた後に吟味したことがその怪訝の正体だと断定できた。ずっとトップギアで走っていればそれは景色だって標的だって正確には見えない。それに似ていると思った。

自身の感性というのだろうか。それに自負があるのならば、それを裏付ける知識や論理と俯瞰性が必要なのだろう。そういう風にも考えられた。

それは、楽曲制作だけではなく、仕事で文章を書くことや小説を創作することにも共通するという思索。間違ってはいないと思う。

もっぱら直感的にそれらをすると必ずどこかでオーバーヒートする。過度に走る。爆ぜる。熱する。散らかる。スキール音が鳴る。その音は〝そのまま突っ切るべく音なのか、止まるべく警告なのか〟を見極める必要性はとても大事だと思った。それを無視したら――音圧を示す値を無視しては派手に鳴る音像に満足してしまう。書かなくても成立する節を放置して冗長な文章になる。

などと言ってはこのように冗長な文章になる――と、書くとそれこそ冗長に鳴るので本来は書くべきではない。それを裏付ける知識や論理と俯瞰性を尊ぶと、そうするべきであろう。この段落を書かなくても本文は破綻せず、ここ以外の箇所で機能している。だからここの節は文章の重複、言い換え、不要なまとめ――それらままならぬ部分。このような思いを記述したこの段落は、確実に、丸ごと「必要性」は無い。

――ストイックと無理は根本的に異なる。前者は、上の段落を見極めて削ぎ落とすことに近い。後者は、内的な声を無視しては良かれと書き続けることに近い。一日の使い方もきっと、それに近いと思う。

だから、時間も時間なので音源書き出し作業以後は明日。この最終工程を今続けてやると、アナログ時計の長針も短針もどんどんと右に傾く。その傾斜は、無理の度合いを冷徹に示す。

DAWの「M-430」というプロジェクトファイル名の手前に、英語で〝スキール音〟と、タイトルを置いた。その瞬間、窓の外からリアルなスキール音がしては呼応の合図かな、などとも嬉しく思い、DAWを閉じた。

ストイックと無理も度がすぎると破綻しかねないので買ってきた安いベビーホタテ食って酒呑んでさっさと。惜しい、数秒前にまたスキール音が聴こえた――今タイピングしているこの瞬間に鳴っていたら――とか言うこれ。これが冗長。寝ろ。
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感じて、どう反応するか。それが、どれくらい正直か。それは、脳の3つの層によって分かれるという。

心身が――「本当にそう反応する」層。「人間の仕様としてそう反応する」層。「理性でそう反応する」層。抽象的に表すとこうなる。

それぞれを順に〝1〟。〝2〟。〝3〟。と単純に区別する。数字が小さいほど「より、正直」ということになる。

心身の反応は脳で処理されて神経などが走る。それにより、身体に変化が表れる。

「1:視床下部」「2:扁桃体・海馬、等」「3:前頭前野」

などと身も蓋もない分け方をすると訳がわからないうえに危うい。俺が言うのは危うい。正確性に欠けると実にまずい。だから、とてつもなく抽象的にするのがきっと、吉。

――日中、仕事中になんとなくAIと壁打ちしていたら、上のような流れになった。俺はただ、素朴な疑問として「なんで車酔いって起きるんすかね?」と、質問しただけ。てっきり三半規管のズレとかそのへんだと思っていた。だが、AIは“脳のバグ”とか抜かしてきた。

そこからふむふむ。と対話していくと、何でこうなった。というくらい――最終的にAIは、“脳の可塑性において”などと言い出したのでまずいと、脱線を元に戻そうとしていた。

――でも、確かに言われてみればそうかもですね。とも思った。そこを追求すると人生のリソース全部持っていかれると思い、とりあえず日常に落とし込んだ。

さっき、制作中だった楽曲を音源ファイルとして書き出した。完成である。よしよし。と、判断する手前で考えた。冒頭の「3つの層」で。

〝3〟にあたる層、理性だけで曲の音像や心地良さを吟味していれば、とっくの先月に完成している。でも、音楽的構造と経験則がそれを否と断じた。

それでも、その奥の〝2〟にあたる層で判断すると、「うん。こういう感じだよね。そうだよ」と、感覚的に判断できるまで時間がかかる。だから、しつこくMIXをしていた。それでようやく昨夜、その層で「これでいただきます」と、判断できた。

しかし今日聴いたら〝1〟にあたる層に触れるルートがまだ塞がれていると感じた。――何も考えないで聴いて、ときめくか否か、というやつだろうか。

個人的な基準としては、聴いていて思いもよらぬ声が出たり、タバコに手が伸びたりするのがその判定基準だったりする。今日、やっと〝「本当にそう反応する」層〟にいくぶん届いたと思えたので、最終工程を済ませた。

一晩寝かせて明日、DAWを開かず、デスクトップに置いた音源wavファイルを再生して、横でも向きながらエロいことでも考えて聴いても「おふ!」と、声が出るなりしてくれれば、〝1〟の層が反応した証拠。そうであれば、音源を公開できる。

単純に、反応が嘘をつかないものをつくりたかったというだけの話。

――君以外誰も気づかないよ。そんなん。――おや。係りの者よ。言うねえ。――うん。あとね、脳の話を引っ張らなかったのは正しいと思うよ。――だよね。――メインはそこじゃないからね。――うん。――そうそう。ボロが出る前に……。――それは俺の〝3〟の層で判断したよ。――どこでもいいんだけどね。とにかく理屈で反応されたくないってこと?――ちと違う。――感動させたいの?――そんな、恐れ多い……。――じゃあ何?――俺の中の〝1〟の層のしつこさじゃね?――違うと思うよ僕は。――じゃあ何なんだよこの野郎。――そこを一度でも誤魔化すときっと君は……。

あれこれと正直に営むことが絶対的な善ではない。だましだまし生きることが渡世のコツ。そういう風に、たまに思う。

最も原始的な〝1〟の層を無視すること、騙すことは、原則として不可能に近い。でもたまに、「確実に〝1〟の層がそうだと反応したこと」をスルーするのは面白くないかな。と、個人的に思った限り。

――大変そうだね。色々と。――そんなことはないよ。楽しいからやってるんだ。――そう。あとね、そんな単純に3つの層で分けるのもどうかなって。――お前はそう思うの?――良し悪しじゃなくてね。――じゃあ、いいじゃん。――楽しいなら、いいんじゃない?――うん。そんでお前はどの層から偉そうに俺に言ってるんだよこの野郎。――そうだねえ……。――そういうタメは要らねえんだよ。――何でいちいち分けて考えるんだろうね君は。――は?――楽曲のMIX作業は、最終的にどこに向かうの?

――感じて、どう反応するか。それが、どれくらい正直か。それは、脳の3つの層とかじゃない。そんなもん一個あればいいんだよ。とも考えられるな。と、色んな層でぐるぐるぐると。
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到達した。24時間、食事をしていない。身体によくないよね。という一般論はすごくおおげさだ。むしろ良い。などと実感する。

――正確に言うと、11時前に起床しては「もずく酢」を掌にちょうど収まるほどの小ぶりなパック。それをすすってはサプリメントを四種、流し込む。それ以来、固形物は。

いつものように仕事。理由は逸したがタイミングも逸した。食事の機会を逸した。そのまま――夕方。「タンメンでも食べよう」と思ったが、「ここまで逸したら攻めよう」という謎の断食希求が湧くこの感情を俺は本能と呼ぼうかなと。

バカか。と、すぐに思っては「モカ」のコーヒー豆をキッチンで規定量以上にわささ……と粉を山状に積んでは肘の高さまで行けるかな、というくらい、思ってはいないが反時計回しにヤカンを回して湯を注いだ。キッチンの換気扇を止めた。湯はまだ、湧いている。わずかな火力で高熱を保つ。「マグマのような湯の温度がおいしいコーヒーの秘訣だよ」。などと、信じられないくらい根拠不明な秘訣、それ教えてくれたのは死んだ叔父だ。彼は最期までコーヒーを淹れては皆に愛された。そうか。死ぬまで高熱でいろと。違うと思うが、大好きな叔父を少し思い出しては換気扇を停止させた静けさに「ほっほっ」と微かに鳴るヤカンを見ては思った。そこまでしなくても味、そんな変わらねえだろうと。

コーヒーを飲んだ。濃い味がした。褐色の表象は舌に張り付いた。不味い、と思った。「胃がやられるよう」と、係りの者の声にリバーブがかかった。そうだ。台所のポケットに蕎麦の素が乾いて待機――食べるともったいない。空腹を引き伸ばすという謎の快感をダイレクトに掴んだ。

――仕事をひと段落させ、紆余曲折慣性ドリフトで制作中だった楽曲の完成度を吟味した。そこで思った。

〝声が出る完成のサインを、思ってから出そうとしている嘘〟を、自覚した。つまり、出来ていない。

そうですかと屈してDAWを開く――いろいろイジり直す――も声は出なかった。もういいでしょ。というタイミングで楽曲を聴いた。するとBPM138の拍と同期して自身の身体が。ということは、と思い、完成した音源をプラットフォームに申請した。

食事のタイミングをまた逸した。今日はここまでです。と、視床下部が断じた。原始的な層の声。「じゃあ」と、制作期間中ずっと観ていた車競争のアニメを観た。時間に余裕があった。「食事代が浮いた」と、ほのかに思っていた。しかしその余剰分を酒に充当しては冷蔵庫で待機させ、そのうちのひとつを開けては萎んでいく圧を確かに自覚しては簡単に酔いを感じた。信じがたいアクビの連打が面白くて仕方がなかった。

今は、深夜を跨いでアナログ時計が右上から左下に直線を模す時間。24時間前、安いボイルエビをついばんでいた時間。そこから食い物らしいやつを口にしていない。すると、気のせいではないくらい、鏡に映る手前が小顔になっている。そんなことあるのか。

“プチ断食で顔がスッキリすることなんてあるんですかね。気のせいですよね”と、GeminiさんモデルのAIに虫みたいなプロンプトを400文字ほど伸ばしてそこまでの経緯を連ねつつ伺った。すると、生物学だか医学だかその文脈で根拠ありだという。

「メシ食わずに小顔になってよかったじゃあないか」などと声に出る手前で耽る中年の気色悪さと言ったら。正直に言うと、本当に顔の形が変容していたから病院に行こうとは、その必要性は感じなかった。

――厠に行っては手が止まったようなので僕が続きを書きます。――やめろ。――君は寝て。――俺の視床下部に居るのがお前だろ。やっと、わかったぞ。――違うって昨日言ったよ。――いいや、間違いない。――人が「間違いない」と言う時はね。――うん。――錯覚を認めているようなものだよ。――何だと。俺の本体はだな。――そういう話じゃなくて。――そう。じゃあ、やっぱ書いてもらっていい?――いいよ。――やめろ!――わかったよう。

肩肘を張る。やけに頬が、無い。たったの24時間食べてないだけなのに。じゃあ、と、まだ食べない。食べない快感。その正体。裏側が察知する。

そういう風に人間はできているらしい。まずいと思ったら、背後から。

――だめだね、着地点に向かっていない。――お前は背後の係りだろう?――だから違うって。――じゃあ正面とかサイドだろうも。――いいかい?――はい。――君は昨日、実のところまあまあ惜しい〝脳の三層〟のことを言った。――だっけ?――ログを晒す君の癖。――癖ではない。何なんだよお前、この唐変木が。――自分で言ったじゃんよう。――視床下部、原始的な脳の奥地?――そうじゃない。――俺を論駁したらお前もダメージを負うよ?――それも違う。――正解は?――君のバグを見張るのが僕の役目だとでも思ってる?――ちょっとね。――全然違うよ。――あのね、否定され続けると折れるのが人間って訳で。――否定ではないんだよね。――じゃあ、肯定?――そうやって連想で考えるのが君。僕は違う。――どう違うんだよ。――否定と肯定の決定的な差って何だと思う?――マイナスとプラス、的な?――全然違う。――教えてくれよ。――君は今日、どうして食事を放棄したの?――良かれと思って。――「良かれ」って「座標」?――お前、何を言ってるんだよ。――いや、決まり事というか……。

腹を極端に減らせた。たったそれだけの日に思ったことは、案外だった。
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浮かぶ円は空気に触れつつ光を回した。ひとつ、ふたつと、浮かぶ円を目にした。その円は、くるくると回りながら夜風になびき、完全な円形に近づいていった。

界隈を歩いていた。すっかり暗くなっていた。喧騒の逆を求めて気分の同期を試みた。だんだんと静かになっていった。小さな円が浮かんでいた。

何だろうと、目を疑った。しかし、確かにそれは複数、夜道を泳ぐように蛍光を反射させていた。どんどん円が増えていった。何だろう、と前を歩く2人が見えた。左側にいる子供の背後から、シャボン玉を吹いている様子が表象された。

赤羽駅に向かう道中は賑やかだ。ひとつ道をずらすと、またひとつ、道をずらすと、どんどんと静かな空気に。その道を選んで、ゆっくりと散歩した。止まるように、驚きも喜びも期待感もない気持ちで。どんどんと駅に近づいた。

20年以上前の職場『赤羽パーラー新世紀』があったビル裏口に差し掛かった。とても暗かった。その道に街灯は無かった。出勤の際に昇るエレベーターの入り口には黄色いテープが横に。かつての喧騒は記憶にしかもう残っていない。今はただ、入れなかった。そうか。と思って蕎麦屋に向かった。

二日ぶりくらいにまともに食事をした。それほど期間を空けると「食べられるのかな」という、妙な心配があった。事実、別に食べたいという希求は無かった。しかし、生物的機能に関わると、半ば義務感に似た気持ちで蕎麦を頼んだ。目の前にそれが来るまでは「食べられるかな」と、やはり思った。しかし、湯立つほのかな白い匂いと手に持つ器からの温もりが、食事を歓迎した。麺を食べ、蕎麦湯をきちんと注ぎ、暖かい汁を薄めては栄養価を上げた。半分飲み干すと、すっかり腹は恒常の感覚を得た。店を出た。

この界隈から喧騒は避けられない。スクランブル交差点に向かって歩いた。女性が二人居た。右側に居た一人は頬に両手を当てて「きゃあ」と、歓喜を表していた。うるさい、とは思わなかった。女性って、まるで漫画のようなそういう所作を本当にするのだなと感心した。スーパーに向かった。

酒を2つ。安い練り物を1つ。それだけ買って店を出た。赤羽公園を経由して帰路につく。公園では月光を演出のようにして若者たちが踊っていた。女学生たちがブランコを大きく揺らしていた。静けさとは言い難かった。だがその様子を横目に見ると、時間の経過を共有するような感覚となった。宅に戻った。

最低限のルーティーンをした。メールチェックや仕事先の状態などの確認。今日、必ずやるべきことは無い。YouTubeを開いた。

最近の個人的トレンドであるアニメは観なかった。YouTubeプラットフォーム上に乱雑するサムネイルを下に、下にとスクロールさせては世間の様子を伺った。ひとつだけ、動画を再生しては数分で止め、ソファで横臥した。

今日は何一つ仕事をしていない。創作もしていない。するとこんなにも気持ちが静かであり、精気が前に出ないものなのだなと拍子抜けした。何もしないことは楽だ。その一方で、歯がゆさが確かにあった。しかし、今日の過ごし方は適切だと断じた。――気がつけばソファで三時間ほど経っていたのがそれを小さな声で語っている。体と気持ちを起こして机に向かった。

ブラウザを開いてここにログインし、今日初めて言語を打った。何もしなかった日に書くことなど何も無い。

そのはずなのだが、ただ、小さな円が琥珀色に照らされてくるくると浮かぶように思いが出てきた。それをそのまま、言語とした。それは、だんだんと増えてく。完全な円を描くまではきっと、ずっと、そうするのだろうか。
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円がどうのと言って何もしなかった昨日。そういう日がたまにあるのは正しい。と、心身が訴える。首輪を外された若犬のように今日は元気だった。

過剰なほどのそれは営みをフル稼働させた。仕事、インプット、創作と。楽曲は完成したのでもう公開した。初動の数字はまあまあ良いかな。くらいでユーザーに感謝の意を送る。

よし。と思い、一ヶ月ほど寝かせていた小説、第三作目の推敲にとりかかるも冒頭で卒倒しそうになった。なぜかと言うと、書いた俺自身が読み進めるのをくじけるほど爆ぜているから。というのは良い言い方であり、率直に破綻スレスレだったのである。だからすぐにプロットのメモ欄に書いた。

“勢いと破綻は違う。必要最低限の〝説明を機能する描写〟の加筆がかなり必要”。と。そりゃそうだろう。

だから――400文字詰め原稿用紙換算たった10枚ちょいの推敲に90分か120分かそれ以上か、時間感覚が軽くバグるほど手こずる。しかし、「第二稿段階では、第一章まではこれでよし」という段階に光明をみる。

――なぜ、破綻寸前に気づけたか。それはこの一ヶ月の暮らしが座標を示したと自身で気づけたような。

ここ一ヶ月間、何をしていたか。アウトプットとして楽曲制作。特にMIX工程を執拗に。いわゆる〝引き算〟と〝制御〟が要だった。倍音の扱いもそう。「実際に聴こえる音の奥を感じさせる施し」というやつだろうか。それをMIXでずっと詰めていた。

インプットとして、読書とアニメ『頭文字D』鑑賞があった。一ヶ月スパンのそれらを明瞭に表すことができる。

読書。デカルト著『情念論』を通読した。人間の感情やらの説明書のような17世紀の書籍。各種の情念が体系化されて記されていた。人間の基本的な感情構造は昔からそんな変わってないんだなと、率直に思えた。

古井由吉著『杳子』を読んだ。今も読書中の1971年の芥川賞受賞作品。〝止まるべきところで止まり、脱線せず、一節一節の役割を感じられる〟という感想がある。散らかっていない。通読まで達していないのでそれくらいしか言えないが、そういった感覚を得た。

ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』を再読した。超訳のわからない内容である印象は変わらないが、〝理解しようとする姿勢が少し伸びた〟感覚くらいは得られている。文体は――極限まで削ぎ落とされ、ガイドが居ないと意味がわからない。はたまた居たとしても俺にはわからないのかもしれない。だが、「微かにわかる気がする」という感情がたまに芽生えるのが心地良い。

『頭文字D』をしつこく見続けた。走り屋たちが峠を攻める。なんともニッチな、特に現代においてはもう、居るのかな? というほどの題材を鮮やかに、しかし無駄なく描写されているところに最たる魅力を感じている。しかし、大局で観ると、王道的な根幹もあることに気づかされる。

――というような「イン」と「アウト」をしていた一ヶ月の期間を経てまず読んだ手前の三作品目の冒頭。すさまじく走っていた。

全体的にみると、冒頭以外はそういうスピードではない。それは、推敲前の心境として直感的にわかっていた。何しろ、今日、推敲を始める前にプロットメモに「懸念がある」と書いたことがその証左。それは、冒頭を指していたことも同時に察していた。現に冒頭からの数ページ、ちょいちょい事故寸前の書き方だった。

そこを、勢いは殺さずに、破綻を正した。スピードは保つ。本来の生音をエフェクトでぼかさないMIXのように、時間をかけた。そこで気がついた。

一ヶ月、全く別の創作に全振りして小説原稿を寝かすと、こんなにも景色が変わっているのかと。アスペクトの転換――対象の見方が変化する、意味や解釈が変化する、観点が切り替わる――とは厳密には少々異なるかもしれないが、露骨なまでにそれを感じた。

というかそれに気づけて良かった。

第三作目は、書き切るまでにどう扱うかを決めていない。公募に出すかもしれない。作品の手数として、弾倉に入れておくかもしれない。それを決めるきっかけは夏に来るらしい。

すでに来月に迫っている夏。そこで、「第二作目」の方を『文藝賞』にエントリーした結果がひとつわかる。らしい。と、断定しないのは一次情報が何もないうえに公式情報には明記されていないからである。

そのフワッとした情報は、「最終選考通過者には、公式発表に先駆けて7〜8月あたりに編集部より電話にて報せがある」というもの。ネット、AIからの情報である。公式は、“【発表】雑誌「文藝」2027年冬季号誌上”のみ。『太宰治賞』の時のように、メールで「一次選考通過者発表――」というような順次アナウンスは無いもよう。

つまり、第三作目は、第二作目の健闘次第で役割が決まる。ということになる。どういう役割かは――書き切ってから言え。という風に思う。

書き切るまでの第二歩。推敲一回目。そこで、自身の〝捉え方の変化〟の露骨さにびっくりした。それだけの話なのだが、それを「以前の甘さ」とみるか「成長の傾向」とみるか。

そんなもん両方だろと断じて明日もやろう。色々と。地味な進み方かもしれないが、次々と景色が変化していくその道中がすごく豊かな気持ちになれる。とはいえ結果が欲しいなと。――そのために明日も。やっぱ、円なんだな。などと思う。
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時系列にそって、丁寧に文章を書くことは訓練によって磨かれる。しかし、出来事や思いを方々から集めて、破綻させずに書くことは極めて難しい。それは、訓練により慣らせることもあれば、そうでないこともある。

当たり前のことを言っているようで、実のところそんな簡単に上のようにまとめられる訳がないだろうと、文章についてふと考えた。

というのも、今日はどうにも原稿用紙を開くまでの手が重かった。それは、「実のところ三作目の小説これ、普通につまらねえだけなのでは」という感覚が確かにあったからである。もしそうだったらすさまじく気の毒なことになる。俺が。

しかしそうもいかないと原稿を開き、恐る恐る冒頭から読み返してみた。すると、あれ。小説だ。と思えた。異物が溢れ出るような冒頭からの走りだったが、〝文章形式〟のようなものがそれを各所でギリギリ支えていた。

だから、数ページ読み返しては「昨日やった部分は、いける」と安堵して、続きである「第一章」「第二章」の跨ぎに目を落とした。すると事故っていた。

ベビーホタテが旬なのか、売り場を賑わすその陳列っぷりは俺の購買意欲を刹那で引き寄せた。――というくらい文章が飛躍していたのである。それがショートカットが決まるように機能していれば採用なのだが、どの角度からそれを見ても、壁に激突しては煙すら出ない凄惨たる状態と判断できた。

以前であれば、それが味だとかなんだとか甘んじては熱を帯びてそのまま言語を走らせていたと思う。だが、三作目においてはそこ、慎重にと。そう芯から思えたので、時系列の破綻に標識を置く。

その標識は、〝記号〟の役割であるべきだともうっすら思った。絵を見て全てを一瞬で把握して、適切な動作に移るかのように。

もしも、その標識が説明文だったら「なになに……文字が小せえな。ん、この先クマに注意と。この季節のクマたちは冬眠前につきたいへん飢えている。誰彼構わずその屈強な両腕は無差別に無慈悲に容赦なく振りかざされる……と、命が惜しければ前後左右をよく確認しては確実にクマを避けろと。さもないと、なになに……文字が小せえな……」食われて死ぬ。

そういう感覚が出てきたのは今のことだが、相当近い推敲の指針としてそれを掲げる。原稿をまるでマップを見るようにもチェックする。乗り物を乗っているかのような気持ちで文章を読む。そして、「ここは危険区域」「振り落とされる」「道路の舗装が全然無いじゃないか」「そこでアクセル踏むとぶつかる」というように見定めてはやはり、時間がかかる。だが、着手前の重かった心境は払拭のルートに向かう感覚を得た。

――今日あたりはやはり仕事をびちっとして夜、スーパーに行ってはベビーホタテの鮮度に嬉しみ。などと、ここで時系列を飛ばすのはギリギリいける。というようなモチーフ。本文は、そういった文章として全体が機能しているはずである。

毎日文章を書く。言語を連打する。そういう暮らしをしている。いよいよ白髪が本気を出してきた年齢。それくらいになっても、文章、言語という、かなり、表現として基礎的なことに対して「やはり難しいのだな」と、本気で思い知った一日。もう一つ奥の層があるとすればそこで言うと、「やはり難しいと思えることができていなかった」という日々がいくつかあったのだろうか。

それほど、文章って難しく捉えることもできれば、簡単に記すこともできる。文章というのは、果てしない進化を止めない生き物のようにも思えてきた。だから面白いんだなと、健全にこれを捉える。

だって今日なんて「しっかり仕事しては酒と肴を買い、ちょっと休んで小説書いたらどうにも難しさを感じた。その感覚が、新しい難しさだった」――と、数行で事足りる。だが、生き物と捉えると何故か凶暴なクマが出てくる。文脈的に出る必要性は無い。しかし、機能しているから出てくる。

何かを書いていて、本文上のクマのような〝異物〟が出てくる瞬間。その機能。そういったことが作用し始めると、だんだん書いていて楽しくなってくる。ただのレポートや報告書などではなくなる。しかし、上司に提出する議事録に「クマが」などと書いたら上司に叩き殺される。

いやその、ですが、ちゃんと「クマ」は機能している訳で――などと、これ以上ここで引っ張ること。それが危険区域の入り口。そういうことを少しは学べているかなという日が、このくらいの年齢になってもあるのは善処すべきだろうか。とはいえクマは飛躍。だろうか。
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時間が後ろに過ぎていく。その速度は以前よりも増している感覚。前を想像すると還暦なんてあっという間ではないか。そういうスピード。増える白髪はそれを示唆しているとも思える。

一日の営みもそうだろうか。気がつけば0時なんて余裕で超えている。

今日も小説の推敲をしていた。その前は見事にソファで仮眠。90分は仮なのか? などと思考を詰める必要はあとでいい。と、原稿を開いては妙な毛色の小説を創り進めた。

――エントリー中の第二作目とは全然温度が異なる。必然なのだろうか、推敲時の精神状態も真逆のように感じる。第二作目は、賑やかな気持ちでやっていた。

第三作目は、静かな気持ちで。とにかく〝止まる〟場面が多い。ある種、命題にかかっているのかな、などと思っては「なぜ、俺がここで止まったか」「削るべきなのか」「表現がチャラいのか」「逆に硬質すぎるのか」「説明でしかないのか」「むしろ〝説明を機能させる描写〟が過不足なのか」「そもそもこの小説は何だ」「とはいえ、別種の楽しさを感じる」――と、表面上ではない部分。脳で言ったら視床下部、原始的な領域でそれらを判断する。

となると、簡単な判断となるのが道理なのだが、逆だった。

テクニカルとかそういうもの、俺に文章のテクニックなどがあるかどうかは置いておき、そこではなく、本能的な判断と能動的な手数で感じ取り、それらを根幹に表面、それこそ考えて文章を加筆修正する。すると思いのほか、加筆が多い。とても多い。第二作目は信じられないくらいの文字量を「削る推敲」だったが、第三作目は真逆。それが新鮮。

その新鮮さは、時間の経過の〝質〟までも変容させるように感じた。今日も、たった10数枚程度の量にどれだけの時間が対応したか。――これまでと異なることは明瞭だった。それが面白いと思った。

生きている時間が長ければ長いほど、これまでと今とこれからに対する感じ方が増えていき、それを調整するように時間は圧縮して感じられるのだろうか。

そんなどぎつい命題を立てたらそれこそ、どんどんと時間が後ろに。そう思い、抽象的なことはそのままに。感覚の変化は具体的に。一日単位だとわからないことは持ち越して、時間の速度の兼ね合いと相談。だけど、時間に「待つ」という性質は含まれていない。

だから、――思ったことをそのまま書くことで時間との調律をはかってみるが、そんなに自在に時間感覚をどうこうすることは不可能だと感じた。

そもそも、〝時間を感じる〟という感覚は、感覚ですらない気がする。などというどぎつい命題を立てると。――寝よう。酒が呑みたい。

唯一、時間を自在に歪曲させられると信じさせてくれる酒。それは古代から現代まで重宝される訳だ。という誇大解釈は少なくとも、罪ではないと思う。――このへんの思惟は時間の無駄か。有意義か。時間の意義とは。――仕事部屋で吐く白い煙が昇るスピードは、なんともいつも通りだった。
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今日はいつもより早起きであった。そのぶん、生活を長く楽しめた。そのなかで、ふいに強く思った。今日がどんな日であろうと、ちゃんと楽しまないとあっという間に前の景色は無くなると。

仕事をして赤羽駅東口喫煙所経由で帰宅。小説を創り進める。その手は重かった。ただ、原稿を開くとその感覚は「前に進まないことにはどうにも」という健康な気分を引っ張り出してはじっくりと進めていた。その対象は原稿なのであるが、今日あたりは「指針」が照った。

なんで小説を書くのか、というどぎつい命題。それがやっと分岐しては帰結に向かおうとするルートが今日、初めて見えた気がしたからだった。

それまでは、「ただ面白くて熱狂できるから書ければいいし書いた。そして世に出すべくアプローチをとった」。

それでいいと思っていた。でも今日は、そのもう一つか二つか、数字でどうこうできるのかは俺にはわからないが、自身のあらゆる器官の奥に居る、なんらかの手招きがキラリと見えた。

それは勘違いではない。と断じられるくらいだが、それを決めるのは誰なのか。そのへんが――「トン」と――脳あたりに置かれたから清々しい気持ちになった。

書いて、いっぱい人が集まる場に置いておけばいい。というのは言葉通りだと雑。でも、その過程で得られることを最も希求していたということに気がついた。

置く音は無音。そこから手拍子で連想することは悪手だと個人的に思った。

今日は、楽しい日だった。そして、前に、いろんな景色がある。そこに対する構えをあと1,000文字くらいここに書きたいけど、「トン」と、500万字くらいで記された観念が10文字くらいで「おや」と、底に根を貼る瞬間もあったりする。今日は、そういう日だった。

あまり深い意味は無いけれど、生活の中で取りこぼすとすぐに前がせり出るようなルートを回避、捉えたような感覚を得たのは気のせいではないと思う。それを、奥の方の器官。そこに、メモらずに置いておくのが吉かな。と、今日も元気。
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逍遥。散歩をしたかな。帰路、覚えていない。なぜか。今日は仕事もせずにその他諸々というかなんもしていない。だから、逍遥に耽るも「どこ歩いていたっけか」というのが今の、実に正直な感想。

――最中。「モール」的な場所に寄った。なんだってあるスーパーマーケットだ。そこで何か。というよりも、ドラッグストア・ブースに食指が。俺の何らかが数値化されるのか。などとすぐに思ってはそれを数値化できる場所につき、測る。色々と。

おい。俺は中年である。だから、自覚以上に体重が。などと思う。――そのブースには「体重・血圧」などが冷徹に数値化される。それを目視するのが怖いというフレッシュな感覚。そこ、攻めてみた。

――1997年。俺はブレザーを着ては学校に行っていた。つまり高校生。当時の体重は。などと想起した。今は、2026年。すさまじくも冷徹な時間の経過。――当時俺は、痩せていた。今は。

ドラッグストア・ブースで体重計に乗った。プププブブブブ。「51キロ」。だってびっくりした。最近、ごはんいっぱい食べてる。意識しているのはアンチエイジング。なのに「51キロ」て高校生から。と、はっきり言って嬉しかった。だって、というのは蛇足。

そんなもんですよ。今日は、中年の俺が寝たり呑んだりを繰り返して止まっていた。高校時代? はあ。ブレザーを着て同級生の足立くんとかとはしゃいでいたよ。友達、おい。そいつは昨日いっしょに仕事をしていた。

なんというか。色々と覚えていない。ただ、なんでしょうこの気持ち良さは。「スリム」と言われれば。身長173センチ。今日はあれだな。文章も。お腹が空いた。
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本作推敲特有の〝難しさ〟の正体がわかってきた感覚。派手な面白さはなくても〝食い入るように読み進めてもらう〟という感覚を言語で操ること。楽しくなってきた。

と、小説のプロットにメモ書きをした。その源流である初稿は、フルパワーでアクセルを踏んでコーナーに突っ込んではつんざくスキール音と共に遠慮ない走行で閉じられていた。

抽象語の連打。それは、読み手にとってはたまったものではない。だから、標識や、曲がる時のブレーキ、淀みないクラッチ操作に明確なギアチェンジ。それらを、勢いよく走ること自体は殺さずに、要所に的確に加筆する。エンジンが焦げるほど回転数が上がっているような箇所は、ばっさり削る。ルート、ライン取りを明確にする。すると、〝食い入るように読み進めてもらう〟文章となるのではと、第三作目において今日、初めて感じられた。

なぜ、例えが全部車なのかというと、執拗に『頭文字D』の鑑賞を続けているからである。普通に面白い名作だからという理由もあるが、もっと別の理由が奥の層にある。そこに気がついた。

アニメは鑑賞において絶対的な時間軸がある。読書は、その時間をコントロールすることができる。

だから、限られた時間内で「物語がどう動くか」「描写の緩急・濃淡をどう演出するか」「山場で魅せるために、どう静けさや退屈さを混ぜるか」「決定的な事実を描写しないことにより視聴者の余白で想像させるか」――とかこのあたり。それをまんま、自分で書く小説に写像している気がする。

――写像ってなんすか?――「あるルールに従って点と点を線で別のことに繋げること」だろ?――ほんとに?――うん。意味の表現をAIで厳し目にチェックしたから大丈夫だ。――ただ言いたかっただけでしょ?――ちょっと黙っててくれ。

要は、『頭文字D』から学んでいると。ドライビングでもドリフト走行でも登場人物たちの恋愛模様や青春群像でもなく、〝仕組みやルール〟を〝魅せ方〟と捉えたという訳だと思う。そういう視点で観ると、言い方が極端かもしれないが何冊かの書籍を読んで勉強している気持ちにもなる。現に、応用しているつもりである。

それを踏まえて、言語を操って名作が書けたらえらいことになるな。などと冷静にも考えるが、そこにきっと希望を持っていると思った。だから、メモに「楽しくなってきた」などと、別に書かなくてもいいことを書いたのかもしれない。ふと出てくる感情を言葉にすることは大事かなと思った。

だが、それを一編とするのは難しい。とはいえその〝難しい〟が〝楽しい〟に変わったのが今日。おかしな話だが、執拗に同じアニメをずっと観ていなければそっちにステアリングは回さなかった。という、わりと大切な気づきを得た。――ような気がするが、もしかしたらすさまじく回り道をして得たことかもしれない。

もしも小説執筆の説明書や設計図があるとするならば、そこに明記されているのかもしれない。だが、俺はどうもそういうのを読んで直接的に参考にするという発想がどこかに――あるはずなのだが、車のアニメのほうが参考になる気がしてならない。だって、〝食い入るように〟観てる理由を直接探る方がこう、面白くて。
_06/23

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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