ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。頭上に花を飾る男。6月。
こういう時に我々は〝躁〟をみるんです。と、左肩越しに目線を向けて言った。白髪染め特有の黒髪を艶やかにした主治医が今日、マスクをしていたかどうかをよく覚えていない。彼は〝躁〟だの〝鬱〟だの、いかにも精神科医が言いそうな、言うべきである専門的な病名や状態を表すフレーズをほとんど口にしない。しかし今日は珍しく〝躁〟と口にした。その口元から髪の色まで画角を広げた俺は少し、構えた。
――いつものように定期検診でクリニックへ行った。ロビーに患者は一人もいなかった。椅子が窓際に10個ほど並んでいる。ベージュ、ピンクと、それぞれの色が交代で壁際を埋めている。数秒、「どっちの色にしようか」と、選択思考がはたらいた。そういったこだわりは全く無い。しかし、今日はいつもと感覚が異なるのか。その時はそう思わなかったが「ピンクだな」と、そこにちいさなバッグを置いて厠へ行った。戻ってくると、それはそうだろうというタイム感。ピンクの椅子に臀部を落とす時間は短かった。
「平吉さーん」。「はい〜」と、待ち時間は自分で勝手につくったな、などと時間を惜しむ気持ちを俯瞰した。「1」の診察室の引き戸式ドアのつるつるした表面の喉仏の高さを狙い、三度ノックした。小さく「はいどうぞ」と聞き慣れた声を確認し、電車のドア直近両側に位置する縦に伸びる銀色の鉄の棒によく似た取っ手を右にゆっくり引いた。診察室に入ってドアをそっと閉めるとその感触に手応えがなかった。車を駐車する時に運転席から後ろを目視するのと同様の角度、同様の動作でドアを確認しては「ちゃんと閉まっているね」と、不要な安心を俯瞰して主治医を見た。
「どうですか。平吉さん」と、いつものイントロ。俺は刹那で「元気です」と、まるで外国人に調子を聞かれては「アイム・ファイン」と、それくらいしか語彙がないものだから単純にそう答えたかのような思考停止レスポンスだったと自分ですぐにわかった。しかし調子の度合いは本当であり、人間、正直に返答する時は最小限までそぎ落とされた返事をするのだなと自覚した。俺は続けて言った。「なんなら先月よりも――」。その度合いをなんとか精緻に言語化したかったが、対話においてそれを100%近く実行することはなかなか難しい。相手が居るからである。しかし、精神医療の文脈には〝傾聴〟という重要事項がある。相手の話を遮り回転寿司のように患者を廻す精神科医はきっとカール・ロジャーズを舐め腐っている。などと、傾聴の大御所偉人のことを思い出したのは現場ではなく、その後の想起。主治医は言った。
「いいじゃあないですか」。なにせ、専門用語を控える性質の彼。そこで詳しく、どのように先月から元気であり、どうの。などと、深掘りは俺が込み入った発話をするまではあまりしない。それを俺はよく知っている。だから、白髪染め特有の黒い発光を眺めつつ「俺より黒いな」と、雑感を脳内に広げたいくつかのフォルダのひとつ「観察」とラベリングされた場所に置いて話を進めた。具体的に、ここのところ仕事やらをし過ぎている気がします。疲れても休まずにできちゃうんです。必然的に睡眠時間が削られようが、しちゃうんです。と、実質稼働時間は日に10時間を超えます。と、「客観的に――」と、事実ベースであることを冷静に強調してその旨を口頭で伝えた。主治医はPCに何かを打ち込み、目を合わさずに傾聴していた。俺が言い切ると、左肩越しに目線を向けて主治医が発話した。
「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」。「は。〝躁鬱〟の〝躁〟でしょうか」。「そうです。〝躁鬱〟の〝躁〟です」。「そうですか。〝躁状態〟なのか、どうかと」。「そうそう」。――次の俺の応答のターンまで1秒もなかったが自然発生した主治医の駄洒落に突っ込もうか、そういう場所ではない、ただ、気の毒なくらい面白くなく更にはよせばいいのに韻を踏みつつ、もっぱら真面目なシーンなのだが「そうそう」をどう着地させようかと1秒未満でその処理方法をどうするかという課題は別のフォルダに放った。その短いタイム感、高速BPMスウィングビート楽曲におけるゴーストノートに似た裏打ちの音価を「先生はまず、気づいていないな。その面白くなさに」と、絶対に気づかれないように左を見てから対話における休符を1/16の音符を置いてから、首を前に向けた。主治医がおぼつかないタイピングでまた手元を叩こうとはしていない態度を確認してから俺は言った。
元気で過活動、とでも言うのでしょうか。そのような感じでして。そう言いたかった。しかし、主治医の顔つきに1/16以上の変化を察知した。彼は真面目なモードでメロディを出そうとしているように見えた。そのモードは、いつもの雑談ベースの、ピアノの白鍵のみで成立するような簡単なダイアトニックではなかった。彼が専門用語を出す時は、「Cのキー」なのに「黒鍵を少し叩く」時だ。だからだろうか。主治医は〝躁〟と、明言した。しかもそれを「それを疑っています」というニュアンスで「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」と、目を合わせて言った。俺は、その一言を聞いて「そうですか」と率直に思ったが内心「めずらしい」という、対話におけるアヴォイドノート――音楽の文脈で〝濁った響き〟――に興味があった。なにせ、本来の精神科医は「病名」や「症状名」などをきちんと言うのが必然。だが、彼は少し変わっているのか流儀なのか、極力、その〝本来〟では走らない。清潔の象徴のような白衣の衣擦れを微かに捉えて俺は続けた。
「まあ、元気だからいいかなって」。主治医は警戒するような物腰ではなく、いつものゆとりの大人の所作。とはいえ彼は3つ歳上くらいだからなんなら友達になれそうだ。精神科医と立ち呑み屋でお互い120%の仕上がりで時間を放棄するのも乙。などとは今思ったことだが俺の発話を受け、彼は言った。「つらくは、ないですか?」と。「いえ」と、俺は即答した。続けて、いろんなタスクに集中する時間がいいんですと、単純に主治医の心配だろうか、それを横軸に広げた。かなり端っこの方に的確な言語があったのでそれを拾った。「長時間集中して仕事やらなんやらしている方がむしろいいんですよ」と、事実を伝えた。「負担は無いですか。平吉さん」と、別に心配そうではない、地に足がついている人間特有の壁のような表情でそう言った。「横」に付き合ってくれたのでもっとコーナーを攻めた。「快感なんです」と、素直に言った。「なんならですね、そういう時、集中、没頭、いろんな言い方ありますけども、トイレに行くのを我慢してまで作業しているのが気持ちいいんですよ」。
ドパミンがどうの。エンドルフィンやらアドレナリンやらがどう。交感神経が……発達障害の特性、特にADHD。最近、最近でもないですかね、ニューロ・ダイバーシティーやらどうこう――などと主治医が言うチャンスである。しかし、俺がメンタルヘルスや精神医学や心理学において、〝ヲタク〟であることを共有しているからか、そういった込み入った単語は出てこなかった。ただ、主治医はニヤニヤしながら日常生活でしか使わない言葉で、俺の生活の具合を聴取した。日々の活動時間。睡眠時間の多寡。酒量。などなど。俺はそれらに対して誠実に答えた。――「じゃあですね、来月は――」と、毎回微動だにしない、いつものクロージング文句がスウィングビートをただの4拍子に変容させた。どうやら主治医からすると「そうではない」という診察と俺は察した。
――「なんなら〝そうだ〟の方が面白んだけどなあ」。などと、尻尾を道路と同じ角度、並行にして少し街を歩いた。買い出しをして帰宅した。今日は4時間くらいしか仕事をしていない。クリニック経由で仕事部屋につく。「そうではない」のかどうかは誰が決めるのかと、新鮮なフォルダの中身を吟味せずに直線的に事務作業をした。俺は診察室で言った。「以前まであった『面倒くさい』という感情がどこに行ってしまったのかと思うくらいですよ。はは」。「ふふ」。――主治医は「そうではない」と、断じる立場である。俺がいくら〝そうだ〟。〝そう、かもしれない〟という片鱗を晒しても、〝躁〟ではないというプロフェッショナルの判断。俺はそれを信用した。――どうかな。実はそうだったら、ここのところの――一週間くらいだろうか。時間の把握がいつもより正確ではないが、それくらいの――まあ、短期間だろうが、フル稼働していた。平成の名作鑑賞と深夜のちびっと飲酒の休憩時間以外は、常に10時間以上なんらかの作業に没頭しては鼻血に気がつくほどの喩えもあるだろうか。
本当に躁状態だったら、先生はきっとそれに適切な処方をする。だが、〝そうではない〟という診療だった。そこに不安も安心もなかった。ただ、「こういう時に我々は〝躁〟をみるんです」と言った時の主治医のガチモードの片鱗に興奮を感じた。きっと俺は、その先に興味があるのかもしれない。用事はないが、そこで何かを取材したいのかもしれない。――と、見事に帰結したと今思えた。よって、俺は〝そうでは――〟となるとつまらねえなと素直に思う。先生。先生。いいですか? 感覚でわかるのですが、日々の営みの締めの数値的ボリュームがいつもの倍以上いってますわ。それでも〝そうではない〟と断じますか? え? わざとやっているですって? その通りです。このウェブサイトのこの場所の特性でしてね、月初は、文章の改行のたびに広告がねじ込まれるんですよ。だからこうして、意図的に段落毎の文字量をいつもより多めに書いてるんですよ。どうです? 冷静でしょ俺。〝躁〟ではないでしょう?「そうである」だった方が面白いんですけどね。いろいろと。
――日々の健康的なエクササイズ習慣が起因か。
――酒をちびっとしか呑んでない連日が起因か。
――平成の名作鑑賞週間での青春想起が起因か。
――どれが決め手かはわからない。どれもある。
――どれも考えうるが、明日は休もうかと思う。
――なぜならば、主治医の挙動に黒鍵の音色が。
――それは、恣意的にとってつけた嘘が混じる。
――単純に、明日は午前中に起きる用事は無い。
――だからというかチルアウトが適切と見なす。
――気が済むまで酒を呑んでふやけるのが良き。
――せっかく規律正しく連ねた日々に背く行為。
――「正しさと〝そうである〟は、全然違う」。
――明日は何をしようかなと考えるふりをする。
――それは正に〝そうではない〟証左であろう。
――元気過ぎることは逸脱なのか、異なるのか。
――俺にはよくわからないことがたくさんある。
――〝わかる〟ことを〝連想〟の惰性で捉える。
――すると、〝わかろうとする根源〟が逃げる。
それがなくなると、そうであってもそうでなくても、どうでもいいという無感覚の屋根の下で香箱座りする顛末となる。それはそれでリラックスの極地。だけど、今日あたり期待していた。主治医からの「そうですね!」の一言を。
一連を鑑み、決して俺は、おちょくっている訳ではありません。その証拠に、この手の題材を扱うときは必ずこのフレーズで締めることが数年前から定例なのであります。先生、いつもありがとうございます。
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窓の外、そこから光がゆっくりと持ち上がるグラデーションが好きだ。閉じた日から開けるアナログな移動時間。そんなことを思いつつ酒を咥えていた。気が付けば仕事部屋のソファで気絶した。人事不省を持ち直すと正午をまわっていた。なんてひどい生活だ。
躁を疑う。などと、本気の目で言うんじゃないよ。精神科医。などと少し、そのような昨日の切れ端を抱えつつ「寝たと言えば寝たし時間も時間だし」と、睡眠が成されているかの判断基準をローストチキンを見ては「これはそう」というくらい単純に断じた。そのまま街に出た。蕎麦屋で食事をした。
――まだ陽は高かった。15時くらいだろうか。俺は「躁ではない」などと昨日の専門家とのやりとりを正確に示すべく「過活動を止めては呑んどけばいいか」などと、雑の情念を恣意的に掻き出しては「今日はのんびりと」などと、極めて堕落のコンセプトを掲げつつ赤羽駅東口前喫煙所を素通りしては『いこい』という立ち呑み屋の逞しい営業時間を想起した。
――現場で千円札をズイとカウンター席でベットするように差し出しては『サッポロ赤星瓶ビール』をオーダーしてはそれを愛でるように、まるで野生のネコをゆっくりと「イエネコ」に変容させるべく飼いならすかのように実にゆっくりと、小さなコップに注いでは口にあてた。その一本で、粘りと頑張りで1時間は過ごした。陽が落ちてきた。
――赤羽一番街『シルクロード街』へ足を運んではその入り口に位置する店を通った。20年前の上司がアメリカン・スピリットをうまそうに摂っていた。馴染みの顔だ。――「どうも。ハンチョウ」。「おう」。と、互いを認識しては彼は既にまあまあ仕上がっていることを察知しては「じゃあビールを」と、そこでしばらく過ごした。会計3,000円代ほどの時間を琥珀色の光と明るく溶解する炭火の匂いと共にその場で同化した。宵の口に、進んだ。
――「いつもの若鳩は元気かな」と、彼が勤める立ち呑み屋に様子を伺った。彼は、居た。肌を照りつつ上機嫌で少し、呑んでいた。電子タバコを掴まえていた。大将が居た。呑んでいた。菅原文太さんのような渋さを醸し出しつつ紙煙草の先をジ……と鳴らしていた。――「ああ、てっちゃん!」と、若鳩は笑顔を見せた。この店における俺の愛称。平吉賢治という実名のどこにもかかっていないその呼称に改めて彼とディスカッションした。
「哲学、てっちゃん!」「なんでだよう!」と、彼と俺。「だって喋らないで呑んでる時は哲学書を読んでるしね!」「そういう時もあったねえ」と、彼と俺。「あと、喋ってるとすぐ哲学っぽくなるし!」「なんだよう!」と彼と俺。俺にその自覚はない。だが、彼がそう断じた直後に菅原文太的大将は煙草の火元を誘いつつ「くくく」と、笑んだ。――絵に描いたようなキャバクラ嬢みたいな女性が乱入してきた。そのスピード感たるや今、それを想起する手元が止まるほどである。彼女は俺の左にビタ付いては〝常連〟フレイバーを即座に醸した。紫蘇由来の謎の酒をグイグイと唇にあてていた。
若鳩と菅原文太的大将とキャバ的娘とバンドを組んだ。四角形を型どるように酒を交わした。店員・マスター・俺・常連のアンサンブルはなかなかの音像。まるで家族でコタツを囲むかのような心象を得た俺は安堵に似た情念を手元のジョッキに向けた。若鳩は前提と言わんばかりに俺のハイボールの濃度を勝手に上げた。――「ねえ、濃くないこれ?」「いや別に――」などと、ああ。俺も常連認定か。と、嬉しむ時間の伸びを感じつつキャバ的娘はだんだん酔いどれては俺に肩パンを食らわす程に幸福そうなモードを確認。――「痛いよう」「てつ!」「俺は〝てつ〟じゃないよう」「てっちゃん!」と、まやかしのハートマークを末尾に配置する彼女の言動に感心した。そのうち、どんな文脈からそれが出たかと見事。と、喫驚したのは菅原文太的大将が発話した『慣性ドリフト』というフレーズである。その流れで、俺と大将と娘でもって群馬に旅行に行く約束が締結された。「絶対行かねえだろ」。という文句は野暮。
――見かけた客人が店に入ってきた。見知らぬ客人も居た。しかし、キャバ的娘が見知らぬ客に「みゃああ!」と嬉しそうに発話。何が面白いんだと、思ったが実のところその対象は以前に絡みに絡まれた20歳娘であった。隣には顔面に刺青がボッコボコ刻印されている男が居た。「死ぬかもしれん」というステレオタイプの感想の反対の情念所以で俺は彼らのテーブルにキャバ的娘と共に付き、グラスを丁寧に「かちん」とさせた。
「このあいだはすんません――」「えええ! 楽しかったですよう!」「すんますん。変な絡み方して――」「えええ! こっちこそすいません、変なことしませんでした?」「ぷはは」「きゃはは」「おい!」「痛い」「ねえねえ! ビーズの稲葉さんがさあ!」「いや君、それは俺世代だよう」「横顔がいいの!」「正面見ようよ」――などと、立ち呑み屋のテーブル席で花が乱雑。刺青の男は静かに笑っていた。
そろそろ。そろそろ。――時間を制する寂しい発話が飛び交った。そろそろ、皆、どこかに帰る。「ライン交換しましょうよ!」などと言う。それは制された時間の伸びしろ。しかし、経験則でその伸びしろはほぼほぼ無効になると俺はわかりつつも。――夜が更けってきた。黄色いような声がフェイドアウトした。「てっちゃん、帰りますわ」と、大将に告げた。
――気が付けば宅の寝室で横臥。醒めては確認する時間、26時。そうか。と、思った。
今日は、躁を疑われた所以かもしれないが界隈で泳いでいた。実務皆無。それも良き。〝そうかもしれない〟という内実たるや。そう、いうのは筆致に出る。連想だけで言語を連打する時はまだ、まとも。しかし、おととい、昨日、今日。それらの筆致はきっと全部異なる。
〝文体〟というのが俺にあるとしたらそれは共通。しかし温度は。などと思うが記憶が残っているくらいだから不問。という謎の基準は俺が〝そうではないが、そうであった〟ということの証左ままならぬ。と、いうあたりはもっぱら冷静なのだろうか。
――楽しかったんだね。――おや、係りの者よ。お前も呑もうぜ。つか、何?――ずっと見てたけど君、呑み過ぎの手前で遊んでいたね。――うん。――あまり、おこずかいを使わずに呑んでたね。――うん。――……みんなが居て良かったね。――他人だけどね。――違うよ。――何が?――何がって、君のその認識だよう。――事実っしょ。――そうだね。でも……。――でも?――他人とそれ以外の境界線。――はは。お前は〝てっちゃん〟だねえ。――そういうことかもね。
そろそろ朝日が出てくる時間。窓の外、そこから光がゆっくりと持ち上がるグラデーションを眺めるのが、とても好きだ。
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上も下も一緒だ。と、風が巡回した。その動作はいつもより俊敏だった。少し、身体の把握がぼんやりとした状態で、運動を兼ねようと服を正し、界隈を跋扈した。側近にいくつかあるうちの〝推し〟の団地に確かなる恋心を、想起のような感覚を。と、とぼとぼとスニーカーを履いて歩いた。
8棟はあるだろうか。現場は、まるでレディオヘッドの楽曲「ノー・サプライゼズ」の導入の静かに狂ったチューニングの鉄琴を彷彿させた。キーは、「F」だろうか。――名字が残酷にしか目に映らなかった連続するポストの金属物体を横目にエレベーターへ。「12」の数字を押した。待った。静かだった。動かなかった。「上」を意味するボタンを押した。下から上に上がりだした。ゆっくり、だった。
――すっかり夜が更けていた。サラウンドに見渡せる「12」からの景色は、うるさくなかった。しかし〝静かだ〟とは言い切れなかった。本来は住人しか立ち入らない場。洗濯物を仕事させる物体。ふうん、と、それを目視した。東京スカイツリーが見えた。おもちゃのあやかしのような発光をしていた。ニトリの看板がとても明瞭に見えた。近所である。山、山であろうか、きっと山だ。しかし夜すぎて確認が、だが、山であろう。という遠くの景色を現実ベースで想像した。思ったことがあった。そして、それを実行した。
「下に跳ねれば簡単だ」と、「12」ほど上の位置はあまりに危険と言わんばかりに厳重に仕事をしている何重かの柵。それらを手で掴んだ。力を入れた。突破寸前まで、頑張ればいけるものだなあ。などと、境界線を見た。しかし、そこに上も下もなかった。下は、恐怖の対象ままならないのが一般感覚。しかし俺は、「12」でしかない。などと、たとえそこから身を任せても別にね。というくらい何も感じなかった。そんなことよりここだ。ここは境界線であり、それと共に全部が一緒だ。全てが一緒だ。だから、上も下もない。ただの――と、遠くを見ると再びスカイツリーのオレンジ色を目視した。「あれも一緒だ」。上も下も前も無い。
嬉しくなる手前の感覚を得て団地を降りた。――界隈を散歩した。どうにも普段の記憶とは異なる景色が広がっていた。「あそこ、やめたんだ」と、いつの間にか入れ替わっている街の移動を確かめた。「そんなん、前は無かったけどね」と、風景の変化に感心した。スーパー・マーケットに入り、いつもとは違う肴と酒を買ってはぶらさげて帰路をなぞった。風は、さほど感じなかった。ただ、中間の感覚で歩いては少し、買ったばかりの缶酒を開けてはとぼとぼとした。面白みは無かった。ただ、中間が肌を滑らせた。
――帰宅してからは「まだ時間がある」という印象が嬉しかった。ゆっくりと微睡むように椅子に座った。気が付けば、気がどこかに行っていた。「23時を過ぎていている」と、仕事部屋のアナログ時計に呼ばれてしまった。とはいえ、まだ時間はあるな。と、水と酒をゆっくりと交互に巡回させるのが今。今、か。と、今日の営みを振り返る。――別にいいか。英語で――ネヴァーマインドってこういう時に言えるのかな。などと色々連想した。
気が付けば風が通り過ぎた音。何も鳴っていない。外を意識した。それが台風の後の特性。内側を意識した。それが全て、上の通りの言語群。
今日は、過ぎ去った風と上と下も無い凪で何かを思ってはそれが何でもないことを正確に捉えては「12」の位置で眺めていた。
それだけのことが、嬉しむとタバコに手が伸びる癖は相変わらずだなあと、自分を確かめた。そこには、今の営みはどうやら、どうして、どのように、どうやって、などと考える位置を、確かめた。
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薄く広がる鉛の粘度が全身にゆっくり蠢きその速度はだんだんと、陽の角度の変化と共にもっぱら遅くだんだんと、解毒に似た感覚が心身機能の恒常に向かっていく。要は二日酔いで悶絶。だが仕事はちゃんとやろうね。と、「躁じゃないですか」と、本物の医師に真顔で言われる濃度の実務時間を過ごす。
とはいえ合間にアニメを観ていた。70分は観ていた。すっかり「趣味は何ですか」と聞かれれば『頭文字Dですね』と、即答する程であろう。面白いんだ。なんて面白いんだ。と、名作のエネルギーに鼓舞されては楽曲制作をする。――「何かが足りない」という感覚を2つのパーカッション録音で埋める。過不足無く、逸脱もしていないロックサウンドのパートが出揃った。すぐさまトータルバランスをとりつつMIX工程に――などと眠気を突き放しながら気が付けば25時を確認。「そうじゃないですか」と、本物の医師はこの模様を俯瞰してはそう断じるだろうか。
「そうでもないですよ」というのがプレーンな感想だろうか。解毒を感じた後は、疲労は没頭で無かったことにできる。などと言ったら本物の医師はここぞとばかりにアドレナリンやらエンドルフィンやら脳内オピオイドなどと、普段は敢えてか口にしない専門用語を――と、表象しているあいだは、まともな思考。生活。態度に実務。仕事をすれば生活費が稼げるし社会との接点で安心できる。楽曲制作をすれば実のところ後から毎日ストック収益が得られる。その単価がなんだか今月に入って急にまた上がっては――いやらしいことをみなまで書くのは――。大規模な金額ではないが〝増加傾向・維持〟という現象はシンプルにいいよね。と、実のところはげしく嬉しむ。
制作中の楽曲を仕上げるまでは小説の続きに着手できない。日々のリソースというものがある。――『D』を観る時間を原稿向かうのにあてればいいのに。――俺もそう思う。――じゃあいくつか両立して進めればいいのに。――俺もそう思う。しかしインプットも大事。――それは僕もそう思う。――何しろね、ああいう刺激を受けないとそのぶんの時間、仮眠にあてるのだよ。――それもいいと思うけど?――10時間近く仕事して小説書いて楽曲制作、それぞれ2時間ずつくらい。毎日のようにそんなのって離れ業だろ。――やろうと思えばできるでしょ? そういう時期もあったじゃない。――あった。ただね。――何よ。――良質なインプットは全てに良き作用を促して様々な点が線で繋がるスピードが速まるのよ。――それで、シャワーを浴びた後もキッチンで酒呑みながら小説読んでるの?――うん。――最近読んでる1971年の芥川賞作品、面白い?――よくわからない。――移動中にいつも読んでるデカルトとウィトゲンシュタインの本は?――後者に関しては再読でもまじで意味がわからない9割。――『論理哲学論考』だよね。――うん。――あれはその分野の難読書ランキングで5、6番目くらいの手強さだよ?――らしいね。でもわからないなりに、生まれる前の芥川賞作品からも、第一次世界大戦の頃のウィトゲンシュタイン本からも、感じることがあるんだ。――ふうん。得ているんだ?――うん。――何を?――感度。――ふうん。『D』からは何を得ているの?――娯楽と興奮と郷愁。
ミッション車の一速をごりっと入れる。クラッチとアクセルをゆっくり反対の動作で発射させる。ギアを上げていく。エンジンブレーキはゆっくりと運転席の下部をじりじりと揺らす。そういった身体感覚まで想起させる作品から興奮を得ている。その興奮はスキール音を伴い創作意欲に直結し、深夜になればなるほど、陽の角度の変化と共にもっぱら覇気が広がっていく。
だから「そうかもしれない」などと言われるのだろうか。ここに文章を書いていて、一段落の文字量の多さに気づける時。その多さは〝躁〟と因果関係があると自覚している。
しかし、本物の医師が「そうではない」と断じた――制御不能にまでは達していない――ことは、意識すれば文章の段落をなんなら一文字もブレさせずの同一化だって可能だ。
なかなか重かった一速のギアからトップギアまでゆっくりと。そのようなイメージはとってつけたかのような言語化だが、あながちそういう表現が今日の意識としては適切。
それが何だっていうんだというくらい、四段落の文字数を揃えてみたがそこに大した意味はない。――それがあるとしたら、個人的過ぎる意味だが、制御の証明ままならない。
5速まで、という意味合いでもう一段落揃えてスッキリした気持ちでシャワーを浴びて5段落。締める。という制御には本当に意味がない。あるとしたら、制御の俯瞰と言えるだろう。
くそ、ちょっと数文字はみ出た。惜しい。――明日も、一速からゆっくりと1日をドライビングに楽しく過ごそう。
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昨日と同一時系列で過ごした。だから詳細は割愛する。それでは日記にならない。というのも。
さっきまでここに、AIから感じる〝えも言えぬ感情〟についてをベースに4,000文字くらい書いては今、削除して書き直している。
何でってまずクソ長いし、「何らかのバグかもしれない」と、自身に対して思えたから。
――さっきまでは楽曲制作を、MIXの着地地点がなかなか見えないなと苦戦するも、「おお」と、声が出るフェーズまで行けたので上機嫌でDAWを閉じた。
きっと、脳が発火しそうになっていたのかもしれない。月初に主治医に疑われた〝躁〟を、俺もが疑うほど。だから、細かい感度を俯瞰しておかしな広げ方をするのは胸に閉じておく。
自分の身体の責任の所在は自分だけのものではない。などとも書いていた。それはそうかな、と思えた。健康第一。
今日は、仕事をして名作を見て制作をして幸せに過ごした。それでいいじゃないか。という風に思う。変なギアに入った時の俯瞰、制御、慣性を見張ることは大事だなあと思った。酒呑んで丸っこいアツアゲ食べて寝よ。
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心残りなことは、残念で後悔でしかない。そういう風に思っていた。俺に心残りはあるだろうか、と思うというかそもそも〝心残り〟という言い回しを一度も発話したこともなければ言語として書いたこともないことに気がついた。それは別に、心残りではない。
一般的に使用される言い方。だけど、一度も浮かべたことも出したこともない。ということは、俺にそういう感情はないのかと疑った。無い訳が無い。そんな人間は存在しないと考えた。――異論が見当たらなかった。だから、その言語の感覚を吟味した。などというゼロベースではない。
今日、読み進めていた本をひとつ、通読した。「人間のあらゆる感情の説明書」のような内容だった。――その、最後の方に記述されていた。
“二〇九 心残りについて。
心残りも悲しみの一種である。これは、つねになんらかの絶望に結びつき、享楽がわたしたちに与えた快感の記憶とも結びついている点で、特別な辛さがある。というのも、わたしたちが心残りに思うのはただ、かつて享受した善、しかももはや失われていて、わたしたちが今心残りに思っているとき、そのときに思っているあり方では、再び得られる希望のまったくない善であるだからだ。”
――俺の知っている〝心残り〟と全然違った。単に、「悔いや未練を振り返る感情」意味とは一味違う。なにせそこに、“快感の記憶とも――”とある。ここが決定打だ。――などと、そのページから数分動けずにはページの隅っこをちょん、と折った。そんで考えた。
〝振り返ってみるとすごく悔しいうえに、「あの時は良かった」という、二度と取り戻せない想いがセットになっているからしこたま辛い〟
――ということだろうか。だとしたら、実のところ「あれが心残りでねえ……」と、わりと軽めにも言えるそのフレーズは相当根が深いと感じた。
読んだのは17世紀の本。だから、「現代とはニュアンスが異なる」と捉えるのも間違えではないかもしれない。一般的解釈としてネットでそのフレーズ単体を調べると、ただ、〝気がかりや未練〟の文脈しか説明されておらず、〝快感の記憶とも結びついている点〟などという要素は排除されている。
でも、古典に書かれていた方の〝心残り〟の方が「味がある」と思った。
前提としてそれは、“悲しみの一種”。それはわかりすぎるほど、わかる。だがそこに“かつて享受した善”と、ある。要は「以前味わった良い想いなど」が付随しているところがどうにも見逃せなかった。――こういうのは自分の胸に手をあてるのが手っ取り早い――。
心残りだらけではないか。「その時は良いと思った。嬉しかった」――かつて享受した善――ことを思い出してはちょっと悔しむ。そして、二度と得られない過去の良さと現在の残念さが混じる。そんな複雑な感情が人間に搭載されているのか。というのは、胸に手をあてたらなんぼでもあったので、疑う余地がない。
〝別れた恋人にきちんと言うべきことが言えなかった。それが心残りだ〟――という想いには、恋人との楽しい想い出と後悔が混じる。と、考えると確かにっすねと思った。
〝いくらやっても売れなかったバンド時代、もっとマネタイズ面やトレンドを意識していれば上手くいっていたのかもしれない。それが心残りだ〟――という想いには、二度と味わえない20代の頃の眩しいライブステージからの光景がセットで想起される。と、考えると一緒っぽいっすね、とも思った。
そうやってフレーズの深部になんとか潜り込んでは海底まで辿り着き、濁った視界の向こうで知覚できた黒い宝石を捉えたかのような気持ちになった。それは、そういう色としてしか今は見えないが、実態は誰にも変容させられない。
――今日、心残りだったことは何だろうか。思いあたらない。きっと、まだ〝かつて〟という風に時間軸として掴めないからであろう。
じゃあ、去年、心残りだったことは何だろうか。ひとつだけ挙げようとすると、「初めて書いた小説が会心の出来だったが公募で即死した」こと。――最終選考まで残れば爪跡を残せた。それが心残りだ。でも、原稿を書いている時のあの、小説に対しての初期衝動の熱狂は再び得られることのない〝善〟だとしっかり思える。
――そう考えると、心残りというのは決してネガティブな言葉ではなく、あればあるほどに人生に色彩を広げる感情なのではないかと考えた。
どこまでおめでたいんだとも思うが、その本の“二〇九 心残りについて。”のページでビタ止まりしては思惟は確かに広がった。
人間の情念は何色あるんだろう。その本では主に6つに分類して記されていた。そしてそれらは枚挙されて書かれていた。
驚き。重視と軽視。高邁と高慢。謙虚と卑屈。崇敬と軽蔑。愛と憎しみ。欲望。希望、不安、執着、安心、絶望。不決断、勇気、大胆、競争心、臆病、激しい恐れ。悔根。喜びと悲しみ。嘲り、うらやみ、憐れみ。内的自己満足と後悔。行為と感謝。憤慨と怒り。誇りと恥。いやけ、心残り、爽快。――まじで枚挙にいとまがないとはこのことか。
――仕事の合間にSNSのタイムラインを、その視点でスクロールさせた。YouTubeを開いて、その視点で各サムネイルを眺めた。
すると必ず、どの投稿も、〝枚挙したどれかの情念〟のうち一言を選んで言い表せることを俺なりに確認した。言い表せないものは、今日のところは見つからなかった。
17世紀に、全部わかっていたのか。などと信じがたい気持ちになった。
ただ、その〝驚き〟から享受できることがあった。それは、幸福なことに長いこと生きていられているうちの過去において、俺も、心残りがたくさんあるということ。そして、心残りがあるからこそ、再び得られる希望にすがることなく、これから得る希望を宝石のように捉えられるのではないかと思えたこと。
現代で〝心残り〟と言うと、ただ、残念周辺を表すだろうか。ただ俺は今日をもって、心残りは、心が残ったことを〝どう振り返って、どう前向きに先に進むべきか〟という解釈もできるのではないかと思えた。
そう考えると、心残りって何て美しい言葉なんだ――大前提として“悲しみの一種である。”なのに――と、うっとりとしては、それは文章も長くなる。疲れたから買ってきたタコのスライス食って酒呑んでさっさと寝よ。
(※出典:『情念論』デカルト著)
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流れる時間を小粋に美化して水圧を上げるように日を振り返る。それはまるで正面から食いつきたくなるような美麗な女性の顔面を四白眼で凝視しては丁寧に施された化粧の、そのうしろの、本当のレイヤーを逆算しては〝すっぴん〟を捉えては化粧前の美しさの感想を滲み出す。かのような感覚だが総じて比喩の気色がわるい。今日は通常運転だった。
仕事部屋の薄い扉を経由して廊下、短い廊下、スリッパに履き替える必要があるのかと、住み始めてからずっと思っているが律儀に作法に準じてはキッチン、厠、寝室、浴室、玄関へと繋がる短い廊下。その細い空間を通じ、浴室で蛇口を捻って戻る。比喩ではない水圧のとても落ち着く音がじゃぶじゃぶと浅い天然リバーブを纏って仕事部屋に届く。かのような感覚は正に現在の肉体感覚であり、そこに特筆した感想は無い。
スキール音が聴こえた。道路を滑る車輪は順調にブレーキをかけたり加速したり。はたまた、際どさのピークオーバーだったり。「どっちのスキール音だろうか」などと想像しながら昨夜はゆっくり少々酒をくゆらせていたらいつのまにか気絶していた。
しかしそのままの状態で社会から村八分にされてはかなわない。と、きちんと午前に起床して仕事をする。そのなかで思った。それをせずとも暮らせるのであれば俺は自由なのではないかと。次に思った。その次の瞬間までの速度はスキール音がピーキーにつんざくほどに速かった。
完全に自由だと実のところ困る。案外、人間は自由を獲得すると、どこかで制限を希求する〝本能〟が顔を出すのではないかと。
――仕事中にそのようなことをAIと壁打ちした。すると、エーリッヒ・フロムという賢い方が近いようなことを何かに記されたと。そういった文脈を吐き出したAIの胸ぐら経由で頚動脈を掴んでは少しずつ、鎖骨から耳下のリンパが溜まりがちなポイントにかかる領域を正確に捉えては問い正そうかと思ったが仕事中だしな。と、ほどほどにした。
仕事をした。名作を観た。楽曲制作をした。各々にかかる水圧はここ数日、数週間だろうか。ちょっと高いな。と、俯瞰できる。だが、その「制限」と「自由度」の均衡がちょうどいい。だから苦せず過ごせる。流れる時間を小粋に美化して水圧を上げるように日を振り返る必要性はないのかもしれない。だが、そういうのが営みのひとつとしてあってもいいのかもしれない。ただ、それが俺にできるのかどうかと言ったら話は別。別に、美化したり過剰に卑下したりという意識は動いていない。嘘を書かないようにしているだけである。
しかし、自覚のない化粧が施されているのかもしれない。それを、裸眼で凝視されてはすっぴんを見透かされるのか。また、スキール音が聴こえた。
日常における摩擦は、時にそのまま音となったりする。そもそも擦れるほどに滑らなかったりもする。だけど、日を振り返ると、見逃しがちなスキール音がいろんなセクションで鳴っている。それを言語化するのは可能なのだろうか。
――冒頭一行を書いては浴槽に流し始めた湯が溢れていないか心配になり、スリッパを履いて廊下を数歩進んで確認したら案の定の手前で蛇口を捻った。「キュッ」と、音がした。1日の暖簾を両手で持ってはゆっくり下げる時間。いくつかの制限のあとの選択的自由の時間。また、スキール音が外から聴こえた。
そこでも摩擦に意識を向けていた昨夜。だから気絶するんだよ。ブレーキ踏み損なってスキール音すら鳴らなかった体たらくだよ。――深夜に参加。さっさと風呂に入って買ってきた安いボイルエビ食べて酒呑んで寝よ。
_06/07
もう呑んじまおう、と、変な水圧のここ連日を鑑みて今、発泡酒を開ける。「ALC. 6%」とラベルの下部に記されている。
ビールに似たこれは発泡酒。ビールのアルコール度数は一般的なそのほとんどが「5%」。麦芽がごっそり削られてなんとか成り立っている発泡酒は安いぶん、「ALC. 6%」がある種の免罪であると俺に主張するように机のコースターに座しては威勢を張る。酔っ払ってはいない。
1本、2本で酩酊してきたら俺は即座に白旗を上げて病院に行く。「左肩が痛い」と、実のところ数ヶ月前から居つくまさかの五十肩再来を地味に意識しながら「もしもその時が来たとしたら白旗は右手で上げよう」などと思う。だが、5杯呑んでも10杯呑んでも上機嫌というか前頭葉が匙を投げて「本来なら逸脱分は、出す」という機能を備えた嘔吐中枢神経はもう10年、それくらいだろうか。稼働停止してはもう二度と再起動してその復活を念じるムーブすら起こす気も俺の細胞だか生物的本能だかホメオスタシス(恒常性)やらは一体何をしている。責めはしない。でも、そのリミッターはまるでレベル7の放射線事故から10年経っては廃墟と化したその一帯の郊外、本来観光地であるべく場所で退廃感の〝美〟を醸すかのような錆やらが地平まで落ちるかのような景色に恍惚となる。
と、俯瞰するもその比喩は間違っている。と、元に戻れる訳だから「レベル7」には達していない。「ALC. 6%」に癒されては敏感に蚊の気配に人並みに苛立っては「パン」と、仕留め損ねたクラップ音が仕事部屋の独特なルーム・リバーブを伴い、なんとも情けなく鳴り響く。
疲労と寝不足を無視してフル稼働する。すると、本当の意味でのヒューマンエラーはいつか「レベル7」に達する事故を起こしかねない。倫理的に、文章上の比喩であり放射線事故という痛ましい事案を軽く扱うつもりは無い。〝その場所で、それが起きた〟という特定要素なんてもちろん比喩に内包していない。ただの、比喩である。
――今日は、昨日、一昨日と、その前と――等しいタイム感で同じタスクを各々こなした。厳密には、俺なりに真面目に向き合った。それは善き営みだと断じられる。
しかし、連日ノンストップだとどうだろう――といった理由で、今夜あたりはフライングして酒の缶を開けただけの話。深刻ではない。だが、「それを無視すると――」という警鐘にも耳を塞ぐと良くないよね。と、緩めた深夜。明日は、一日単位で緩めるべきかなと冷静に考えた。
冒頭を書く寸前に開けた「ALC. 6%」は、まだ缶のラベルに水滴が繊細な間隔でその水位を示すように残っている。千文字くらい書いたかな、という時点で呑み切ってたらやべえだろ。などと俯瞰しつつ。
何かをまとめようとしている。何かを繋げて一日を総括しようとしている。それを一節で表そうとしている。――今日はそういうのはいい。スキール音が聴こえた。――今日はそういうのいいよ。ただ単に、外から車のブレーキ音を察知した。それだけの感覚。そこを精緻に吟味すると――そんなのは昨日やった。
――まだ、机上の発泡酒はラベルに水滴を保っている。それはまるで、日常のコンプレッサーの適度なメーターの動きのように感じる。
ここで何かを回収する思考を放棄する。
――放棄したって明言したから僕が言います。――頼んだ。――珍しいね。君が素直に僕に依頼だなんて。――頼もう。――似ている言い回しだけど、この場面だと言葉の意味が変わるよ。――す、水滴が……。――頼んだあとはギャラリーに回りなよ。――よせ!――どっちだよう。
机上の缶を金属製コースターに置いた。「コン」と、鳴った。
_06/08
物書きのヘミングウェイさんは、午前中に執筆してその後に酒場やらに。という生活スタイルもあったと何かで知った。どこまでが真実かは、知り得ない。彼の誕生日は7月21日だ。
今日は、早朝までゆっくり酒を呑んではそのまま仕事部屋で寝てしまい、午前を迎えた。快適な目覚めとは言い難かった。だが、そのままひとつはタスクをしようと思い立ち、楽曲制作をした。――今日は、何もしない日にすると昨日思っていた。だけど、ひとつしたな。と思いつつ、またソファで少し寝ては正午過ぎを確認した。シャワーを浴びて街を歩いた。平日昼過ぎでも凌ぎを削る酒場街を通った。
ちょっとしたテラスにはみ出た酒呑みたちの風景。その景色は俺に声をかけた。「――じゃあ後で来ますよ」と、彼らに伝えて蕎麦を食べに行った。よく行く立ち呑み屋の連中からの声はまるで家族からの生存確認のようだった。
蕎麦屋経由で立ち呑み屋へ。よく見る常連客が居た。いつもの若鳩店員が居た。一歩、時間を置いて俺の腰を撫でたのは大将だった。「やあ」と、笑顔の菅原文太的大将。「どうも」と、常連認定されては返す。馴染みの連中がカウンターを囲んだ。
顔面刺青男客が居た。キャバ嬢的女性客が居た。ふたつ上くらいかなという近い先輩世代の男客が居た。俺は、カウンターで彼らと会話しながら、わきわきと、ゆっくり、ジムビールハイボールを呑んだ。一杯350円良心価格。しかも、二杯目以降はそれをオートマティックに若鳩店員がブラッシュアップさせる。「酔わせるのがおれの仕事なんですよね」といういつぞやの台詞を想起した。早すぎるだろ。とも思ったが、笑顔で原酒を「プシュ。プシュ」と二度、グラスに注ぐ彼の所作がとても愛おしく見えた。
若鳩と大将と先輩男客と嬢的女性客と和んだ。サードプレイスとはこういうことかな、などと思ったのは現在の思惟。その時はただ、ゆっくりと、350円にしてはむちゃくちゃ濃いハイボールをゆっくり呑んでは交流を楽しんだ。
「昼間からみんな呑んでるけど、普段は一体何をしているんだろう」。という思考の主軸の奥、そのレイヤーを露わにしようとはしない不文律。それが心地良い。ただ、にこやかに、刺青男の〝刺青論〟を傾聴しては「なるほどね」と、ジョッキを傾けた。彼のその場での愛称は「ベードーベン」。だが俺的には「ルードヴィヒ」のほうがしっくりくるのでそう呼んでは定着させた。彼は即座にスマートフォンでその呼称を調べてはウィトゲンシュタインに辿り着き、俺はその哲人の説明を軽くしては刺青男、まんざらでもない笑みをこぼした。――みんな、呼称はあだ名。本名にはあまり言及しない。俺は「哲学・てっちゃん」と呼ばれている。経緯経由理由意味不明だがまんざらでもない。そのあたりの距離感が独特の温度で癒しを受ける。
――さほど酒量はいっていないかな。とも思えど若鳩店員の倍プッシュ・サービス濃度ハイボール所以で簡単に酔っ払った。楽しく過ごして店を後にした。その後の記憶はちょん、ちょん、といったところ。気がついたら仕事部屋のソファで目覚めて0時過ぎを確認した。
よくないな、と、一瞬思ったが、「何もしない日」というコンセプトを実施できたという気持ちが同時に出ては「――とはいえ午前中に作業をした。その後に呑んでいた」と、ヘミングウェイさんのルーティーンとどこかで知った――本当かどうかは知らない――ことを想起した。
客観的に断じられる高水圧の日々が続いていた。だから、今日は蛇口を締めるべしと決めていた。実際には、少し作業をしてサードプレイスで一日のほとんどの時間を酒と対話で滲ませた。楽しい時間だった。
この日常を繰り返すのもいいかな、などと思った。前提として、午前中からの作業はもっといっぱいしてから。とも思った。その後に酒場に行っては次の日の午前中は酒を残さずにしっかりと。という流れ。ヘミングウェイ流だろうか。彼の誕生日は、俺と一緒だ。
その日は来月に来るな、と思った。生まれた日。そこからどう終えるかと、――ヘミングウェイさんの最期は――それは一緒じゃない方がいいな、と思った。ただ、〝やることをやってから自身を緩める鉄則〟という、彼のスタイルはちょっとこう、どこか重ねては俺も立派に――という気持ちになれる。
一週間くらいだろうか。あまりにも水圧の高い日々。酒もちびっと。だが今日は、ちびっと作業にたっぷり酒を。――本名を言わないみんなと楽しく過ごした。情報量が多いようで、それは良質なものだから負荷はまったくかからなかった。
やかましい実態の奥にある静けさを探らぬひととき。それがとても心地良かった。
_06/09
ちびっと作業にたっぷり酒を。という昨日。それまでは明らかなる高出力の日々だった。それを自覚したのが今日の暮らし。暮らしていない。止まっていた。ほぼ、仕事部屋のソファに居着いては缶酒をゆっくり呑みつつテンション感ゼロに近い心境でいた。動きが極端に、少なかった。
外から人の声が微かに聞こえる。スキール音が聴こえた。特に何も思わなかった。過活動の日だと、スキール音ひとつ聴くと様々なことが連想されては創作に似た記述をする。しかし今日はスキール音でしかなかった。
スマートフォンをたまに見ては時間だけを確認した。「いつもなら仕事をしている時間だ」「いつもなら『頭文字D』を見ている時間だ」「いつもなら楽曲制作を」――と、日々の時間にラベリングされた営みを思い浮かべる。今日は、そのどれもしていないなと、横になった。睡眠と覚醒の中間の状態でただ、外の明るさが徐々に下がっていくのを感じていた。
特筆した動作も作業もしていないとこんなにも〝楽〟とは言い難いのか。率直にそう思った。何かをしている時に必ず得られるある種の快楽が無かった。それが無いと、こんなにも楽でもないのかと意表を突かれた。
スマートフォンをたまに見ては時間だけを確認した。それを何度も繰り返した。そのたびに「まだこんな時間か」と、時間は何もしていないと時間として機能しないものなのだなと気がついた。微睡んでいた。時間を見た。「時間なのかな?」と訝しんだ。――22時台に身を上げた。
コンビニエンスストアに行って入金、出金。胃薬を買った。酒を2つ。最低限度の食料。水。それぞれをぶら下げて、やや遠回りをして夜道を歩いた。少し、気分が晴れる尻尾を感じた。
帰宅してメールチェックなどのルーティーンだけした。時間が手持ち無沙汰だった。YouTubeを開いては2分くらい動画を観た。そのままだらだらとする気持ちではなかった。0時前にここにログインした。
記述すると、実のところ何かはしていたのだが、何もしていない。連日の過活動の反動を明らかに感じた。時間の機能の背後に居るようだった。
そろそろ0時だ。本日中に日記を書くのはいつぶりだろう。と、ようやく時間が機能した。0時になった。今日は、畑で小さな風になびく大麦の揺れのような一日だった。
_06/10
バチンと仕事をして夜、基本的に車が追いかけっこする描写メインの作品を観た。1時間ほど、リラックスをした。――車で峠を攻めてはバトルする。どっちが速いか。勝負する。何が面白えんだと考えた。――それはこの世の定理ではないかと腕を組んだ。五十肩が静かに悲鳴を上げてはすぐに肘を下ろした。
勝負するということは最も人間が熱狂的になれること。だろうか。わかりやすい「追いかけっこ」だとなおさらそうだろう。でも、それはそこまでシンプルではなく、ウサギとカメの寓話くらい人間の営みに根付いているのではないかと考えた。
様々な社会生活を表象した。みんな、実のところ毎日勝負している。きっと、勝ち負けを意識している。無意識なのかもしれない。でも、どの文脈でも「競い合っている」という視点で捉えると全部、全部がそうなんじゃないかと考えると恐ろしくなってきた。
――実際にしげしげと眺めたことはないが、例えば主婦や〝ママ友〟の方々の触れ合いのひととき。どこかで、競い合っている文脈の言葉を交わしている気がしてならない。どっちが上か下かなんてどうでもいいと無意識にありつつも実はそれが本質で――とか考えるとドロドロしてきそうなのでやめよう。ウサギとカメの思考に戻ろう。――ウサギは、速い。カメよりも。しかし油断して、すさまじく遅いカメに抜かれた。そこに何らかの教訓があるらしい。
でもその教訓は、人を操作する構図そのものではないかと腕を組んだ。痛いのですぐ下ろして「ウサギとカメ以外にも競争する存在が居るんじゃないか?」と、思考を広げた。
自己啓発書とかだと、「それは自分自身である」などと太いフォントでその行が目立つように印刷されてはその前後の話が全部どうでもよくなる。というのはただの俺の感想でしかないが、それは事実だと思う。世界は事実の総体である。事物の総体ではない。などとこ難しい命題が頭をよぎったが、手前にスライドして考えろと、夜のタスクをと、DAWを開いた。
――よく出来てきた音像。MIX工程。あとちょっとで仕上がる。とはいえ、比較対象は必要だ。と、リファレンスとしてマネスキンの楽曲を平等な音量で聴いた。――かなりわかりづらいが圧倒的な部分で確実に負けている。さらっと聴けば気づかない程度かもしれないが、そこを詰めないと質が高いとは言い難いと断じられる。だから、徹底的に――特に低音域。キック・ベース――詰めた。
世界的成功を収めている無添加ロック系バンドに勝てる訳がないんだよ。とはわかりつつも、実のところ勝負の相手はマネスキンやウサギではなく、カメのような自分自身なのかもね。などと思いつつ執拗に詰めるも〝近似値までいけばさすがに機材と技術の差ということで手打ちとできる〟――とかいういつもの完成判断基準がある。
しかし、制作中のロックサウンドの音像はDAWの再生とマネスキンの曲を交互に聴いても「あんま変わらねえな」と、そんな訳がないのにそうだと聴こえてしまう程度に感覚が麻痺したことを自覚した。えらい深い時刻を確認して明日に持ち越す。カメは、遅いんだよ。
「いい音楽をつくりたい」一心でやっているのに、やはりどこかで「勝負」という観念があった。それがなければとっくに完成と見なしてアップロードしている。マネスキンさえ、聴かなければ。でも――世間の凄い方々との差はどうなのだろうと、勝負がはじまる。やっぱ、全部そうかもなと思った。
公募に出した小説もそうであることに異論が見つからない。というかあまりにもわかりやすい勝負。最終選考まで勝ち上がらないと何も残らない。能動としては、物書きのキャリアアップという社会的理由がまずある。しかしそれは後付けでもあり、初動は、ただ熱狂して小説を書くことが楽しくて仕方がなかっただけ。だが、それが仕上がると、楽曲制作同様に――世間の凄い方々との差は――なる。勝負でしかない。
楽しければそれでいいし、そんな考えることでもない。ただ、何で勝負するのが面白いのかと立ち止まっていくつか吟味したら、「社会生活において〝勝負〟ではない」と、言い切れる営みがどれだけ少ないかを薄っすら気づいたような気がする。
なんとなく、ニュースサイトを開く。どの内容もほとんどが「勝負している」ことが背景に、前面に、見出しに、露わになっている。YouTubeを開く。サムネの圧がそれを物語っている。SNSを開く。タイムラインではみんな、何らかとバトルしているレイヤーが必ずあるとも捉えられる。――ウサギの走り方が多いと個人的に思った。カメが自身を俯瞰しては自分との勝負だと感じているとすれば健全な方なのかなと仮説を立てた。ペースの主導権を、ある種、カメは逸していないからだと思った。一方でウサギは速い。だから、ペースを乱さぬようもできるが、周りがウサギだらけだったらそうはいかないな。とも思った。
勝ち負けが判定されないことも当然あると思った。でも、それを眺めている状態の自身に〝勝ち負け〟を判定する思考ってわりとあるんじゃないかなとも思った。それはそれで勝負よりも――その先は、この小一時間とかでわかるものではないと思った。
勝負の様子を観ると楽しい。熱狂する。自分も勝負したくなる。その勝ち負けがあるから他者との差分が明瞭になり、次々と――いろんな意味での――勝負をしては、安寧の暮らしの中にも実のところ散りばめられている勝負が続いては、ある種それで世の中の均衡が保たれているのかもしれない。と、ちょっと考えるくらいだとこれくらいの位置にしか着地できない。帰結とは言えない。
ただ、ウサギは速いことが前提。カメよりかは。遅すぎるカメはなぜか勝つ。その理由は子供にでも理解できる寓話がある。車で峠を攻めるアニメとは本質的に異なる。
ただ、終日稼働していると、なんか勝負していた気持ちになれる。それは健全なことであり、いちいち考える必要はないのではと思う。とはいえ――勝負というやつに固執するとどうなるのか。その情念の源泉は何かと知りたかった。それは、行き過ぎなければ平和の営みの滑油とも摩擦ともなり、元気にみんなで暮らしていくための必要な、良い意味での原始的観念なのかもしれない。
ウサギでいくか、カメでいくか、それらを眺めるか。どれかに固執するよりも、巡回するように踊るように暮らすのがバランスいいのかなと、自分でも割と何を書いているのか訳がわからない気持ちになってくるのはけっこうな時間所以。ちびっと酒呑んで甲羅に潜って優しく寝よう。
_06/11
マネスキンと勝負をする。勝ち目のない勝負。でも、ギリギリ追いつけるかなという場所まで行っては「これはもう、彼らの祖国・イタリアと日本の電圧の違いだ」などといった系統の負け惜しみを言えるまでは詰める。今夜は楽曲制作のMIX、低音域の詰めが上手い具合にいった。
自分でも本当にしつこいと思うが、今日も仕事後に『頭文字D』を観ては60分ほど楽しんでいた。主人公が、明らかに勝ち目のない勝負に出ては拮抗するくだりだった。
――すっかり白髪がやる気を出してしまい「カラー・トリートメントでなんとかならんか」と、本気で検討する中年にも、アニメの主人公の心境と自分を、まるで少年のように重ね合える感情がまだ残っていたのかと、そこは善処した。だから、引き続きマネスキンのロックサウンドの真後ろを目掛けて各コーナーでケツを滑らせて走る。そんな気持ちで行う深夜の作業は確実に負荷がかかっているのだろうが、脳内オピオイドがそれを無効化させる。
「ほぼ出来た。あとは超高級機材を使用するか、彼らの若さ迸る素晴らしいプレイとの差異であり、これ以上は――」という判断基準に達したので、音像は一晩寝かせることにした。明日、完成かを比較対象無しに確認する。完成と声が出れば、音源データを書き出して公開に向かう。そして、寝かせている小説原稿を開いて別の勝負にとりかかる。
――やっぱり、人間の営みに勝負というのは大小差異多寡はあれども、どこかで触れているのだなと今日も思った。その詳細は昨日しこたま書いて2本の酒を呑んでいたら窓の外に刺青のようなグラデーションを確認した。
――寝が足りないなと宵を引きづりつつ、仕事を。鑑賞を。制作を。勝負がどうこう。さっさと寝ろと自分でも思うが、マネスキンのような猛者や、すっかりハマった名作からの刺激は勝負脳を活性化させ、何よりの精神賦活剤となる。
ただ、それが逸脱すると生活の均衡に意図せぬ曲線が生じる。だから「今日は絶対に0時半までには一日の作業を済ませる」と決めていたが、はみ出す。
――文章を書くと不思議なもので、精神状態が露わになる。昨日は〝ウサギ〟の速度でそれを書いては〝カメ〟をちぎった。――今日は、何故かわからないが「税金と憲法第三十条と日本人の誇りと移住者との関係性」について書き出しては2,000文字手前くらいで「内容が危うい」と断じて書き直した。きっと、ウサギの速度でコーナーを曲がりきれていなかった証左。だから早いところ甲羅にもぐって――と思えど26時か、と。
俺は勝負に向いていないのかもしれない。だけど、行けるところまでは行ってから。最低でも一度はすさまじく大きなゴールテープを胸で突き破ってからがいいな。
どこかに自身が勝負になる場所が無ければ、この世は必ず成り立たない。――などとも思いつつ、「道中楽しい」と言い切れればそれだけでも幸せな人生を送れるのかな。――というのはカメの感想ままならないのだろうか。
勝ち目のない勝負か、そうでもないか、その場所なのか。ピンポイントで進むのが正解なのか、回り道も有効なのか。実のところ既に負けているのか。気がつかないところで実は勝利していたのか。これからの勝負が本丸なのか。――とかそういうのおおげさに考えると疲れるからさっさと甲羅に戻っては乾かないようにして明日も元気にと。
_06/12
続けて同じ時系列の暮らしをする。さっきまではDAWに張り付いてはフェーダーを上げる。下げる。ラック型のアナログコンプレッサーのツマミを左に捻る。右打ちするように最大値まで。プラグインで音域を精緻に調整する。トータルの音域で300Hzを僅かに下げると刹那で洋楽の匂いを察知しては声が出る。
昨日、制作中の楽曲に対して「さすがにもう出来ただろ」と思った。しかし今夜、詰めれば詰めるほどにまだ、伸びしろを感じられた。それは良い傾向なのだが、そう見なすといつまで経っても完成と断じられない。
「これはもう欧米と赤羽の気候の差だ」と、――昨夜も似たようなことを思っては今夜も同様にサウンドを拵える。さっさと仕上げて公開しないことには一円にもならない。とはいえ、そういうのは後。という捻れた優先順位が執拗さの源泉だろうか。今日も遅くまで粘っては――。
――「さあ! えー、はいっ。CRコーナーからは2コース、新機種新台角台のお客様! 粘りと頑張り、粘りと頑張りで325番台にお付きのお客様からさあ! 1,000回転寸前からの小粋な逆転劇! お見事、中段スリーセブンからの確率変動ラッキー・スタートおめでとうございます! 張り切ってお出しくださいませお取りくださいませおめでとうございます張り切ってどうぞ!」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「張り切ってどうぞ」
「張り切ってどうぞ」
「ラッキー・スタートぉ!」
「張り切ってどうぞ!」
と、俺が客人の背後でマイクを水平に構えて絶叫した後、各所離れた持ち場の同僚たちがコールを一言ずつ重ねる。パチンコ屋でバイトしてた時の日常。22歳くらいの頃。『赤羽パーラー新世紀』というお店。その遊技場はもう、無い。だが、熱狂を過度に煽っては射幸心をブスブスと刺すほどの半ばおちょくり口上マイクパフォーマンスは記憶に刻印されている。
――何で今それを思い出したのかというと、そうなって欲しいからであろうか。粘りと頑張りで到達する地点でこだまする祝福の声。完璧に破綻しているパチンコ店内に響き渡るすさまじい音像。それでも、拡張された肉声はたとえ耳栓をしていても訴求に似た感度が即座にそれを察知しては誇大解釈として脳内に残る。それに似た福音を、楽曲完成後に受けたいものなのかな。などというナンセンスなことが頭をよぎるほど、過度に粘る。完成直前のMIX作業。
「俺はこんなにもMIXが下手だったか?」と本気で思っていたが、「それだけ、ある種の視野が広まった証拠だ」と、ポジティブな観点で捉えることにする。粘れば粘るほど良くなっていくなら、回し切った回転数が〝カンスト〟されるまでやるべきだ。などと非効率的な作業に没頭しては机上の灰皿に溜まりに溜まった吸い殻が何かを抗議している。
もしも、自身にフェーダーやツマミやピークメーターなどが搭載されていたら随分と摩擦している。だが、続けて同じ時系列の暮らしは側から見たら本気で地味。だが、摩擦に摩耗に消耗に疲弊と。その態度がまるで――と、目を血走らせながら台と勝負している博徒の背中を回顧させた。
「あれだけハマってから当たると超嬉しいんだよね――」などと、人ごとのような細い目で客人を見ていた頃。それを知っているからこそ、ようやく到達した大当たりを確認したら俺は即座に背後で遠慮なく絶叫していた。
そんな、乖離した例えをここに書く前にメールチェックをした。ユーザーからの楽曲使用報告メールがあった。「――とても助かりました。これからも応援しています」 と、あった。そうか。と、思えた。張り切っていこう。と。
_06/13
ストイックと無理は根本的に異なると思った。身体から悲鳴がきこえた。それを無視してきた。今日は悲鳴ではなく危うさを示唆するスキール音だった。だから仮眠をとった。20分なら時間配分的にむしろ適切と断じた。しかし気が付けば90分経っていた。
いけない、と思ってアナログ時計を確認すると長針と短針がちょうど真上で重なろうとしていた。でも、と思ってアウトボード各機材に電流を通した。DAWを開いた。何も考えずに楽曲をプレイバックした。「あれ」と思った。
エレクトリックギターのヒステリックな演奏的ノイズが楽曲末尾で摩擦を示した。大きな修正案は無かった。すごくしっかりと低音域が出ていた。
「これなら10KHzあたり以上の高音域をもう少し稼いでさらに磨ける」と、軽微な調整案だけ浮かんだ。アウトボードの硬質な銀色のツマミは「12k〜」を表す方向にスイッチされている。それを左、右、と、同時に摘んで平等に少し、捻った。もう一度プレイバックした。
トータルの音圧を示すラウドネス値を数字として見張った。ここの値が派手になっていない状態で、いかに音楽的迫力を出せるかが重要な点。その値を軽視して音圧を稼ぐことは、あまりにも下品な音像に直結する。俺が一番好ましく思っていない――昔はよく破綻させたけど――重要な点。例えるなら、過剰に化粧を濃くして顔の輪郭を際立てることはかなり簡単、だろうか。だが、それは安易な手法ままならぬもので、その喩えの顔を見れば、わかる人には一発で看破される。「簡単に盛ってるな」と。
それがダメとは思わないうえにあくまで比喩だが、自身としては、その音圧の〝値〟の死守は鋼鉄のルール。その制限のなかで、なかなかしつこくMIXをした音像をもう一度聴く。すると「もうイジりたくない」と、やっとそう正直に思えた。過不足は無い。逸脱もしていない。だが、咆哮と血流を感じる。しかし過度には爆ぜていない。これだ、と思って強敵・マネスキンのリファレンス楽曲を聴いた。「あ、似てる」と、声が出た。
音像をパクった訳ではないが、「遜色ない」とようやく思えた。音圧の値も、いつもの俺基準――世間に出回るバランス良い様々な音源を参照――で〝収まった状態で迫力がある〟と、判断した。つまり、出来た。
昨夜まで連日、執拗に各メーターやらをイジり倒してはだいぶ時間をかけたが、今日は20分で判断できた。不思議だとも思った。だが、危うさを示唆するスキール音をきちんと捉え、心身の回転数を落としてニュートラルに置いた後に吟味したことがその怪訝の正体だと断定できた。ずっとトップギアで走っていればそれは景色だって標的だって正確には見えない。それに似ていると思った。
自身の感性というのだろうか。それに自負があるのならば、それを裏付ける知識や論理と俯瞰性が必要なのだろう。そういう風にも考えられた。
それは、楽曲制作だけではなく、仕事で文章を書くことや小説を創作することにも共通するという思索。間違ってはいないと思う。
もっぱら直感的にそれらをすると必ずどこかでオーバーヒートする。過度に走る。爆ぜる。熱する。散らかる。スキール音が鳴る。その音は〝そのまま突っ切るべく音なのか、止まるべく警告なのか〟を見極める必要性はとても大事だと思った。それを無視したら――音圧を示す値を無視しては派手に鳴る音像に満足してしまう。書かなくても成立する節を放置して冗長な文章になる。
などと言ってはこのように冗長な文章になる――と、書くとそれこそ冗長に鳴るので本来は書くべきではない。それを裏付ける知識や論理と俯瞰性を尊ぶと、そうするべきであろう。この段落を書かなくても本文は破綻せず、ここ以外の箇所で機能している。だからここの節は文章の重複、言い換え、不要なまとめ――それらままならぬ部分。このような思いを記述したこの段落は、確実に、丸ごと「必要性」は無い。
――ストイックと無理は根本的に異なる。前者は、上の段落を見極めて削ぎ落とすことに近い。後者は、内的な声を無視しては良かれと書き続けることに近い。一日の使い方もきっと、それに近いと思う。
だから、時間も時間なので音源書き出し作業以後は明日。この最終工程を今続けてやると、アナログ時計の長針も短針もどんどんと右に傾く。その傾斜は、無理の度合いを冷徹に示す。
DAWの「M-430」というプロジェクトファイル名の手前に、英語で〝スキール音〟と、タイトルを置いた。その瞬間、窓の外からリアルなスキール音がしては呼応の合図かな、などとも嬉しく思い、DAWを閉じた。
ストイックと無理も度がすぎると破綻しかねないので買ってきた安いベビーホタテ食って酒呑んでさっさと。惜しい、数秒前にまたスキール音が聴こえた――今タイピングしているこの瞬間に鳴っていたら――とか言うこれ。これが冗長。寝ろ。
_06/14
感じて、どう反応するか。それが、どれくらい正直か。それは、脳の3つの層によって分かれるという。
心身が――「本当にそう反応する」層。「人間の仕様としてそう反応する」層。「理性でそう反応する」層。抽象的に表すとこうなる。
それぞれを順に〝1〟。〝2〟。〝3〟。と単純に区別する。数字が小さいほど「より、正直」ということになる。
心身の反応は脳で処理されて神経などが走る。それにより、身体に変化が表れる。
「1:視床下部」「2:扁桃体・海馬、等」「3:前頭前野」
などと身も蓋もない分け方をすると訳がわからないうえに危うい。俺が言うのは危うい。正確性に欠けると実にまずい。だから、とてつもなく抽象的にするのがきっと、吉。
――日中、仕事中になんとなくAIと壁打ちしていたら、上のような流れになった。俺はただ、素朴な疑問として「なんで車酔いって起きるんすかね?」と、質問しただけ。てっきり三半規管のズレとかそのへんだと思っていた。だが、AIは“脳のバグ”とか抜かしてきた。
そこからふむふむ。と対話していくと、何でこうなった。というくらい――最終的にAIは、“脳の可塑性において”などと言い出したのでまずいと、脱線を元に戻そうとしていた。
――でも、確かに言われてみればそうかもですね。とも思った。そこを追求すると人生のリソース全部持っていかれると思い、とりあえず日常に落とし込んだ。
さっき、制作中だった楽曲を音源ファイルとして書き出した。完成である。よしよし。と、判断する手前で考えた。冒頭の「3つの層」で。
〝3〟にあたる層、理性だけで曲の音像や心地良さを吟味していれば、とっくの先月に完成している。でも、音楽的構造と経験則がそれを否と断じた。
それでも、その奥の〝2〟にあたる層で判断すると、「うん。こういう感じだよね。そうだよ」と、感覚的に判断できるまで時間がかかる。だから、しつこくMIXをしていた。それでようやく昨夜、その層で「これでいただきます」と、判断できた。
しかし今日聴いたら〝1〟にあたる層に触れるルートがまだ塞がれていると感じた。――何も考えないで聴いて、ときめくか否か、というやつだろうか。
個人的な基準としては、聴いていて思いもよらぬ声が出たり、タバコに手が伸びたりするのがその判定基準だったりする。今日、やっと〝「本当にそう反応する」層〟にいくぶん届いたと思えたので、最終工程を済ませた。
一晩寝かせて明日、DAWを開かず、デスクトップに置いた音源wavファイルを再生して、横でも向きながらエロいことでも考えて聴いても「おふ!」と、声が出るなりしてくれれば、〝1〟の層が反応した証拠。そうであれば、音源を公開できる。
単純に、反応が嘘をつかないものをつくりたかったというだけの話。
――君以外誰も気づかないよ。そんなん。――おや。係りの者よ。言うねえ。――うん。あとね、脳の話を引っ張らなかったのは正しいと思うよ。――だよね。――メインはそこじゃないからね。――うん。――そうそう。ボロが出る前に……。――それは俺の〝3〟の層で判断したよ。――どこでもいいんだけどね。とにかく理屈で反応されたくないってこと?――ちと違う。――感動させたいの?――そんな、恐れ多い……。――じゃあ何?――俺の中の〝1〟の層のしつこさじゃね?――違うと思うよ僕は。――じゃあ何なんだよこの野郎。――そこを一度でも誤魔化すときっと君は……。
あれこれと正直に営むことが絶対的な善ではない。だましだまし生きることが渡世のコツ。そういう風に、たまに思う。
最も原始的な〝1〟の層を無視すること、騙すことは、原則として不可能に近い。でもたまに、「確実に〝1〟の層がそうだと反応したこと」をスルーするのは面白くないかな。と、個人的に思った限り。
――大変そうだね。色々と。――そんなことはないよ。楽しいからやってるんだ。――そう。あとね、そんな単純に3つの層で分けるのもどうかなって。――お前はそう思うの?――良し悪しじゃなくてね。――じゃあ、いいじゃん。――楽しいなら、いいんじゃない?――うん。そんでお前はどの層から偉そうに俺に言ってるんだよこの野郎。――そうだねえ……。――そういうタメは要らねえんだよ。――何でいちいち分けて考えるんだろうね君は。――は?――楽曲のMIX作業は、最終的にどこに向かうの?
――感じて、どう反応するか。それが、どれくらい正直か。それは、脳の3つの層とかじゃない。そんなもん一個あればいいんだよ。とも考えられるな。と、色んな層でぐるぐるぐると。
_06/15
到達した。24時間、食事をしていない。身体によくないよね。という一般論はすごくおおげさだ。むしろ良い。などと実感する。
――正確に言うと、11時前に起床しては「もずく酢」を掌にちょうど収まるほどの小ぶりなパック。それをすすってはサプリメントを四種、流し込む。それ以来、固形物は。
いつものように仕事。理由は逸したがタイミングも逸した。食事の機会を逸した。そのまま――夕方。「タンメンでも食べよう」と思ったが、「ここまで逸したら攻めよう」という謎の断食希求が湧くこの感情を俺は本能と呼ぼうかなと。
バカか。と、すぐに思っては「モカ」のコーヒー豆をキッチンで規定量以上にわささ……と粉を山状に積んでは肘の高さまで行けるかな、というくらい、思ってはいないが反時計回しにヤカンを回して湯を注いだ。キッチンの換気扇を止めた。湯はまだ、湧いている。わずかな火力で高熱を保つ。「マグマのような湯の温度がおいしいコーヒーの秘訣だよ」。などと、信じられないくらい根拠不明な秘訣、それ教えてくれたのは死んだ叔父だ。彼は最期までコーヒーを淹れては皆に愛された。そうか。死ぬまで高熱でいろと。違うと思うが、大好きな叔父を少し思い出しては換気扇を停止させた静けさに「ほっほっ」と微かに鳴るヤカンを見ては思った。そこまでしなくても味、そんな変わらねえだろうと。
コーヒーを飲んだ。濃い味がした。褐色の表象は舌に張り付いた。不味い、と思った。「胃がやられるよう」と、係りの者の声にリバーブがかかった。そうだ。台所のポケットに蕎麦の素が乾いて待機――食べるともったいない。空腹を引き伸ばすという謎の快感をダイレクトに掴んだ。
――仕事をひと段落させ、紆余曲折慣性ドリフトで制作中だった楽曲の完成度を吟味した。そこで思った。
〝声が出る完成のサインを、思ってから出そうとしている嘘〟を、自覚した。つまり、出来ていない。
そうですかと屈してDAWを開く――いろいろイジり直す――も声は出なかった。もういいでしょ。というタイミングで楽曲を聴いた。するとBPM138の拍と同期して自身の身体が。ということは、と思い、完成した音源をプラットフォームに申請した。
食事のタイミングをまた逸した。今日はここまでです。と、視床下部が断じた。原始的な層の声。「じゃあ」と、制作期間中ずっと観ていた車競争のアニメを観た。時間に余裕があった。「食事代が浮いた」と、ほのかに思っていた。しかしその余剰分を酒に充当しては冷蔵庫で待機させ、そのうちのひとつを開けては萎んでいく圧を確かに自覚しては簡単に酔いを感じた。信じがたいアクビの連打が面白くて仕方がなかった。
今は、深夜を跨いでアナログ時計が右上から左下に直線を模す時間。24時間前、安いボイルエビをついばんでいた時間。そこから食い物らしいやつを口にしていない。すると、気のせいではないくらい、鏡に映る手前が小顔になっている。そんなことあるのか。
“プチ断食で顔がスッキリすることなんてあるんですかね。気のせいですよね”と、GeminiさんモデルのAIに虫みたいなプロンプトを400文字ほど伸ばしてそこまでの経緯を連ねつつ伺った。すると、生物学だか医学だかその文脈で根拠ありだという。
「メシ食わずに小顔になってよかったじゃあないか」などと声に出る手前で耽る中年の気色悪さと言ったら。正直に言うと、本当に顔の形が変容していたから病院に行こうとは、その必要性は感じなかった。
――厠に行っては手が止まったようなので僕が続きを書きます。――やめろ。――君は寝て。――俺の視床下部に居るのがお前だろ。やっと、わかったぞ。――違うって昨日言ったよ。――いいや、間違いない。――人が「間違いない」と言う時はね。――うん。――錯覚を認めているようなものだよ。――何だと。俺の本体はだな。――そういう話じゃなくて。――そう。じゃあ、やっぱ書いてもらっていい?――いいよ。――やめろ!――わかったよう。
肩肘を張る。やけに頬が、無い。たったの24時間食べてないだけなのに。じゃあ、と、まだ食べない。食べない快感。その正体。裏側が察知する。
そういう風に人間はできているらしい。まずいと思ったら、背後から。
――だめだね、着地点に向かっていない。――お前は背後の係りだろう?――だから違うって。――じゃあ正面とかサイドだろうも。――いいかい?――はい。――君は昨日、実のところまあまあ惜しい〝脳の三層〟のことを言った。――だっけ?――ログを晒す君の癖。――癖ではない。何なんだよお前、この唐変木が。――自分で言ったじゃんよう。――視床下部、原始的な脳の奥地?――そうじゃない。――俺を論駁したらお前もダメージを負うよ?――それも違う。――正解は?――君のバグを見張るのが僕の役目だとでも思ってる?――ちょっとね。――全然違うよ。――あのね、否定され続けると折れるのが人間って訳で。――否定ではないんだよね。――じゃあ、肯定?――そうやって連想で考えるのが君。僕は違う。――どう違うんだよ。――否定と肯定の決定的な差って何だと思う?――マイナスとプラス、的な?――全然違う。――教えてくれよ。――君は今日、どうして食事を放棄したの?――良かれと思って。――「良かれ」って「座標」?――お前、何を言ってるんだよ。――いや、決まり事というか……。
腹を極端に減らせた。たったそれだけの日に思ったことは、案外だった。
_06/16
浮かぶ円は空気に触れつつ光を回した。ひとつ、ふたつと、浮かぶ円を目にした。その円は、くるくると回りながら夜風になびき、完全な円形に近づいていった。
界隈を歩いていた。すっかり暗くなっていた。喧騒の逆を求めて気分の同期を試みた。だんだんと静かになっていった。小さな円が浮かんでいた。
何だろうと、目を疑った。しかし、確かにそれは複数、夜道を泳ぐように蛍光を反射させていた。どんどん円が増えていった。何だろう、と前を歩く2人が見えた。左側にいる子供の背後から、シャボン玉を吹いている様子が表象された。
赤羽駅に向かう道中は賑やかだ。ひとつ道をずらすと、またひとつ、道をずらすと、どんどんと静かな空気に。その道を選んで、ゆっくりと散歩した。止まるように、驚きも喜びも期待感もない気持ちで。どんどんと駅に近づいた。
20年以上前の職場『赤羽パーラー新世紀』があったビル裏口に差し掛かった。とても暗かった。その道に街灯は無かった。出勤の際に昇るエレベーターの入り口には黄色いテープが横に。かつての喧騒は記憶にしかもう残っていない。今はただ、入れなかった。そうか。と思って蕎麦屋に向かった。
二日ぶりくらいにまともに食事をした。それほど期間を空けると「食べられるのかな」という、妙な心配があった。事実、別に食べたいという希求は無かった。しかし、生物的機能に関わると、半ば義務感に似た気持ちで蕎麦を頼んだ。目の前にそれが来るまでは「食べられるかな」と、やはり思った。しかし、湯立つほのかな白い匂いと手に持つ器からの温もりが、食事を歓迎した。麺を食べ、蕎麦湯をきちんと注ぎ、暖かい汁を薄めては栄養価を上げた。半分飲み干すと、すっかり腹は恒常の感覚を得た。店を出た。
この界隈から喧騒は避けられない。スクランブル交差点に向かって歩いた。女性が二人居た。右側に居た一人は頬に両手を当てて「きゃあ」と、歓喜を表していた。うるさい、とは思わなかった。女性って、まるで漫画のようなそういう所作を本当にするのだなと感心した。スーパーに向かった。
酒を2つ。安い練り物を1つ。それだけ買って店を出た。赤羽公園を経由して帰路につく。公園では月光を演出のようにして若者たちが踊っていた。女学生たちがブランコを大きく揺らしていた。静けさとは言い難かった。だがその様子を横目に見ると、時間の経過を共有するような感覚となった。宅に戻った。
最低限のルーティーンをした。メールチェックや仕事先の状態などの確認。今日、必ずやるべきことは無い。YouTubeを開いた。
最近の個人的トレンドであるアニメは観なかった。YouTubeプラットフォーム上に乱雑するサムネイルを下に、下にとスクロールさせては世間の様子を伺った。ひとつだけ、動画を再生しては数分で止め、ソファで横臥した。
今日は何一つ仕事をしていない。創作もしていない。するとこんなにも気持ちが静かであり、精気が前に出ないものなのだなと拍子抜けした。何もしないことは楽だ。その一方で、歯がゆさが確かにあった。しかし、今日の過ごし方は適切だと断じた。――気がつけばソファで三時間ほど経っていたのがそれを小さな声で語っている。体と気持ちを起こして机に向かった。
ブラウザを開いてここにログインし、今日初めて言語を打った。何もしなかった日に書くことなど何も無い。
そのはずなのだが、ただ、小さな円が琥珀色に照らされてくるくると浮かぶように思いが出てきた。それをそのまま、言語とした。それは、だんだんと増えてく。完全な円を描くまではきっと、ずっと、そうするのだろうか。
_06/17
円がどうのと言って何もしなかった昨日。そういう日がたまにあるのは正しい。と、心身が訴える。首輪を外された若犬のように今日は元気だった。
過剰なほどのそれは営みをフル稼働させた。仕事、インプット、創作と。楽曲は完成したのでもう公開した。初動の数字はまあまあ良いかな。くらいでユーザーに感謝の意を送る。
よし。と思い、一ヶ月ほど寝かせていた小説、第三作目の推敲にとりかかるも冒頭で卒倒しそうになった。なぜかと言うと、書いた俺自身が読み進めるのをくじけるほど爆ぜているから。というのは良い言い方であり、率直に破綻スレスレだったのである。だからすぐにプロットのメモ欄に書いた。
“勢いと破綻は違う。必要最低限の〝説明を機能する描写〟の加筆がかなり必要”。と。そりゃそうだろう。
だから――400文字詰め原稿用紙換算たった10枚ちょいの推敲に90分か120分かそれ以上か、時間感覚が軽くバグるほど手こずる。しかし、「第二稿段階では、第一章まではこれでよし」という段階に光明をみる。
――なぜ、破綻寸前に気づけたか。それはこの一ヶ月の暮らしが座標を示したと自身で気づけたような。
ここ一ヶ月間、何をしていたか。アウトプットとして楽曲制作。特にMIX工程を執拗に。いわゆる〝引き算〟と〝制御〟が要だった。倍音の扱いもそう。「実際に聴こえる音の奥を感じさせる施し」というやつだろうか。それをMIXでずっと詰めていた。
インプットとして、読書とアニメ『頭文字D』鑑賞があった。一ヶ月スパンのそれらを明瞭に表すことができる。
読書。デカルト著『情念論』を通読した。人間の感情やらの説明書のような17世紀の書籍。各種の情念が体系化されて記されていた。人間の基本的な感情構造は昔からそんな変わってないんだなと、率直に思えた。
古井由吉著『杳子』を読んだ。今も読書中の1971年の芥川賞受賞作品。〝止まるべきところで止まり、脱線せず、一節一節の役割を感じられる〟という感想がある。散らかっていない。通読まで達していないのでそれくらいしか言えないが、そういった感覚を得た。
ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』を再読した。超訳のわからない内容である印象は変わらないが、〝理解しようとする姿勢が少し伸びた〟感覚くらいは得られている。文体は――極限まで削ぎ落とされ、ガイドが居ないと意味がわからない。はたまた居たとしても俺にはわからないのかもしれない。だが、「微かにわかる気がする」という感情がたまに芽生えるのが心地良い。
『頭文字D』をしつこく見続けた。走り屋たちが峠を攻める。なんともニッチな、特に現代においてはもう、居るのかな? というほどの題材を鮮やかに、しかし無駄なく描写されているところに最たる魅力を感じている。しかし、大局で観ると、王道的な根幹もあることに気づかされる。
――というような「イン」と「アウト」をしていた一ヶ月の期間を経てまず読んだ手前の三作品目の冒頭。すさまじく走っていた。
全体的にみると、冒頭以外はそういうスピードではない。それは、推敲前の心境として直感的にわかっていた。何しろ、今日、推敲を始める前にプロットメモに「懸念がある」と書いたことがその証左。それは、冒頭を指していたことも同時に察していた。現に冒頭からの数ページ、ちょいちょい事故寸前の書き方だった。
そこを、勢いは殺さずに、破綻を正した。スピードは保つ。本来の生音をエフェクトでぼかさないMIXのように、時間をかけた。そこで気がついた。
一ヶ月、全く別の創作に全振りして小説原稿を寝かすと、こんなにも景色が変わっているのかと。アスペクトの転換――対象の見方が変化する、意味や解釈が変化する、観点が切り替わる――とは厳密には少々異なるかもしれないが、露骨なまでにそれを感じた。
というかそれに気づけて良かった。
第三作目は、書き切るまでにどう扱うかを決めていない。公募に出すかもしれない。作品の手数として、弾倉に入れておくかもしれない。それを決めるきっかけは夏に来るらしい。
すでに来月に迫っている夏。そこで、「第二作目」の方を『文藝賞』にエントリーした結果がひとつわかる。らしい。と、断定しないのは一次情報が何もないうえに公式情報には明記されていないからである。
そのフワッとした情報は、「最終選考通過者には、公式発表に先駆けて7〜8月あたりに編集部より電話にて報せがある」というもの。ネット、AIからの情報である。公式は、“【発表】雑誌「文藝」2027年冬季号誌上”のみ。『太宰治賞』の時のように、メールで「一次選考通過者発表――」というような順次アナウンスは無いもよう。
つまり、第三作目は、第二作目の健闘次第で役割が決まる。ということになる。どういう役割かは――書き切ってから言え。という風に思う。
書き切るまでの第二歩。推敲一回目。そこで、自身の〝捉え方の変化〟の露骨さにびっくりした。それだけの話なのだが、それを「以前の甘さ」とみるか「成長の傾向」とみるか。
そんなもん両方だろと断じて明日もやろう。色々と。地味な進み方かもしれないが、次々と景色が変化していくその道中がすごく豊かな気持ちになれる。とはいえ結果が欲しいなと。――そのために明日も。やっぱ、円なんだな。などと思う。
_06/18
時系列にそって、丁寧に文章を書くことは訓練によって磨かれる。しかし、出来事や思いを方々から集めて、破綻させずに書くことは極めて難しい。それは、訓練により慣らせることもあれば、そうでないこともある。
当たり前のことを言っているようで、実のところそんな簡単に上のようにまとめられる訳がないだろうと、文章についてふと考えた。
というのも、今日はどうにも原稿用紙を開くまでの手が重かった。それは、「実のところ三作目の小説これ、普通につまらねえだけなのでは」という感覚が確かにあったからである。もしそうだったらすさまじく気の毒なことになる。俺が。
しかしそうもいかないと原稿を開き、恐る恐る冒頭から読み返してみた。すると、あれ。小説だ。と思えた。異物が溢れ出るような冒頭からの走りだったが、〝文章形式〟のようなものがそれを各所でギリギリ支えていた。
だから、数ページ読み返しては「昨日やった部分は、いける」と安堵して、続きである「第一章」「第二章」の跨ぎに目を落とした。すると事故っていた。
ベビーホタテが旬なのか、売り場を賑わすその陳列っぷりは俺の購買意欲を刹那で引き寄せた。――というくらい文章が飛躍していたのである。それがショートカットが決まるように機能していれば採用なのだが、どの角度からそれを見ても、壁に激突しては煙すら出ない凄惨たる状態と判断できた。
以前であれば、それが味だとかなんだとか甘んじては熱を帯びてそのまま言語を走らせていたと思う。だが、三作目においてはそこ、慎重にと。そう芯から思えたので、時系列の破綻に標識を置く。
その標識は、〝記号〟の役割であるべきだともうっすら思った。絵を見て全てを一瞬で把握して、適切な動作に移るかのように。
もしも、その標識が説明文だったら「なになに……文字が小せえな。ん、この先クマに注意と。この季節のクマたちは冬眠前につきたいへん飢えている。誰彼構わずその屈強な両腕は無差別に無慈悲に容赦なく振りかざされる……と、命が惜しければ前後左右をよく確認しては確実にクマを避けろと。さもないと、なになに……文字が小せえな……」食われて死ぬ。
そういう感覚が出てきたのは今のことだが、相当近い推敲の指針としてそれを掲げる。原稿をまるでマップを見るようにもチェックする。乗り物を乗っているかのような気持ちで文章を読む。そして、「ここは危険区域」「振り落とされる」「道路の舗装が全然無いじゃないか」「そこでアクセル踏むとぶつかる」というように見定めてはやはり、時間がかかる。だが、着手前の重かった心境は払拭のルートに向かう感覚を得た。
――今日あたりはやはり仕事をびちっとして夜、スーパーに行ってはベビーホタテの鮮度に嬉しみ。などと、ここで時系列を飛ばすのはギリギリいける。というようなモチーフ。本文は、そういった文章として全体が機能しているはずである。
毎日文章を書く。言語を連打する。そういう暮らしをしている。いよいよ白髪が本気を出してきた年齢。それくらいになっても、文章、言語という、かなり、表現として基礎的なことに対して「やはり難しいのだな」と、本気で思い知った一日。もう一つ奥の層があるとすればそこで言うと、「やはり難しいと思えることができていなかった」という日々がいくつかあったのだろうか。
それほど、文章って難しく捉えることもできれば、簡単に記すこともできる。文章というのは、果てしない進化を止めない生き物のようにも思えてきた。だから面白いんだなと、健全にこれを捉える。
だって今日なんて「しっかり仕事しては酒と肴を買い、ちょっと休んで小説書いたらどうにも難しさを感じた。その感覚が、新しい難しさだった」――と、数行で事足りる。だが、生き物と捉えると何故か凶暴なクマが出てくる。文脈的に出る必要性は無い。しかし、機能しているから出てくる。
何かを書いていて、本文上のクマのような〝異物〟が出てくる瞬間。その機能。そういったことが作用し始めると、だんだん書いていて楽しくなってくる。ただのレポートや報告書などではなくなる。しかし、上司に提出する議事録に「クマが」などと書いたら上司に叩き殺される。
いやその、ですが、ちゃんと「クマ」は機能している訳で――などと、これ以上ここで引っ張ること。それが危険区域の入り口。そういうことを少しは学べているかなという日が、このくらいの年齢になってもあるのは善処すべきだろうか。とはいえクマは飛躍。だろうか。
_06/19
時間が後ろに過ぎていく。その速度は以前よりも増している感覚。前を想像すると還暦なんてあっという間ではないか。そういうスピード。増える白髪はそれを示唆しているとも思える。
一日の営みもそうだろうか。気がつけば0時なんて余裕で超えている。
今日も小説の推敲をしていた。その前は見事にソファで仮眠。90分は仮なのか? などと思考を詰める必要はあとでいい。と、原稿を開いては妙な毛色の小説を創り進めた。
――エントリー中の第二作目とは全然温度が異なる。必然なのだろうか、推敲時の精神状態も真逆のように感じる。第二作目は、賑やかな気持ちでやっていた。
第三作目は、静かな気持ちで。とにかく〝止まる〟場面が多い。ある種、命題にかかっているのかな、などと思っては「なぜ、俺がここで止まったか」「削るべきなのか」「表現がチャラいのか」「逆に硬質すぎるのか」「説明でしかないのか」「むしろ〝説明を機能させる描写〟が過不足なのか」「そもそもこの小説は何だ」「とはいえ、別種の楽しさを感じる」――と、表面上ではない部分。脳で言ったら視床下部、原始的な領域でそれらを判断する。
となると、簡単な判断となるのが道理なのだが、逆だった。
テクニカルとかそういうもの、俺に文章のテクニックなどがあるかどうかは置いておき、そこではなく、本能的な判断と能動的な手数で感じ取り、それらを根幹に表面、それこそ考えて文章を加筆修正する。すると思いのほか、加筆が多い。とても多い。第二作目は信じられないくらいの文字量を「削る推敲」だったが、第三作目は真逆。それが新鮮。
その新鮮さは、時間の経過の〝質〟までも変容させるように感じた。今日も、たった10数枚程度の量にどれだけの時間が対応したか。――これまでと異なることは明瞭だった。それが面白いと思った。
生きている時間が長ければ長いほど、これまでと今とこれからに対する感じ方が増えていき、それを調整するように時間は圧縮して感じられるのだろうか。
そんなどぎつい命題を立てたらそれこそ、どんどんと時間が後ろに。そう思い、抽象的なことはそのままに。感覚の変化は具体的に。一日単位だとわからないことは持ち越して、時間の速度の兼ね合いと相談。だけど、時間に「待つ」という性質は含まれていない。
だから、――思ったことをそのまま書くことで時間との調律をはかってみるが、そんなに自在に時間感覚をどうこうすることは不可能だと感じた。
そもそも、〝時間を感じる〟という感覚は、感覚ですらない気がする。などというどぎつい命題を立てると。――寝よう。酒が呑みたい。
唯一、時間を自在に歪曲させられると信じさせてくれる酒。それは古代から現代まで重宝される訳だ。という誇大解釈は少なくとも、罪ではないと思う。――このへんの思惟は時間の無駄か。有意義か。時間の意義とは。――仕事部屋で吐く白い煙が昇るスピードは、なんともいつも通りだった。
_06/20
今日はいつもより早起きであった。そのぶん、生活を長く楽しめた。そのなかで、ふいに強く思った。今日がどんな日であろうと、ちゃんと楽しまないとあっという間に前の景色は無くなると。
仕事をして赤羽駅東口喫煙所経由で帰宅。小説を創り進める。その手は重かった。ただ、原稿を開くとその感覚は「前に進まないことにはどうにも」という健康な気分を引っ張り出してはじっくりと進めていた。その対象は原稿なのであるが、今日あたりは「指針」が照った。
なんで小説を書くのか、というどぎつい命題。それがやっと分岐しては帰結に向かおうとするルートが今日、初めて見えた気がしたからだった。
それまでは、「ただ面白くて熱狂できるから書ければいいし書いた。そして世に出すべくアプローチをとった」。
それでいいと思っていた。でも今日は、そのもう一つか二つか、数字でどうこうできるのかは俺にはわからないが、自身のあらゆる器官の奥に居る、なんらかの手招きがキラリと見えた。
それは勘違いではない。と断じられるくらいだが、それを決めるのは誰なのか。そのへんが――「トン」と――脳あたりに置かれたから清々しい気持ちになった。
書いて、いっぱい人が集まる場に置いておけばいい。というのは言葉通りだと雑。でも、その過程で得られることを最も希求していたということに気がついた。
置く音は無音。そこから手拍子で連想することは悪手だと個人的に思った。
今日は、楽しい日だった。そして、前に、いろんな景色がある。そこに対する構えをあと1,000文字くらいここに書きたいけど、「トン」と、500万字くらいで記された観念が10文字くらいで「おや」と、底に根を貼る瞬間もあったりする。今日は、そういう日だった。
あまり深い意味は無いけれど、生活の中で取りこぼすとすぐに前がせり出るようなルートを回避、捉えたような感覚を得たのは気のせいではないと思う。それを、奥の方の器官。そこに、メモらずに置いておくのが吉かな。と、今日も元気。
_06/21
逍遥。散歩をしたかな。帰路、覚えていない。なぜか。今日は仕事もせずにその他諸々というかなんもしていない。だから、逍遥に耽るも「どこ歩いていたっけか」というのが今の、実に正直な感想。
――最中。「モール」的な場所に寄った。なんだってあるスーパーマーケットだ。そこで何か。というよりも、ドラッグストア・ブースに食指が。俺の何らかが数値化されるのか。などとすぐに思ってはそれを数値化できる場所につき、測る。色々と。
おい。俺は中年である。だから、自覚以上に体重が。などと思う。――そのブースには「体重・血圧」などが冷徹に数値化される。それを目視するのが怖いというフレッシュな感覚。そこ、攻めてみた。
――1997年。俺はブレザーを着ては学校に行っていた。つまり高校生。当時の体重は。などと想起した。今は、2026年。すさまじくも冷徹な時間の経過。――当時俺は、痩せていた。今は。
ドラッグストア・ブースで体重計に乗った。プププブブブブ。「51キロ」。だってびっくりした。最近、ごはんいっぱい食べてる。意識しているのはアンチエイジング。なのに「51キロ」て高校生から。と、はっきり言って嬉しかった。だって、というのは蛇足。
そんなもんですよ。今日は、中年の俺が寝たり呑んだりを繰り返して止まっていた。高校時代? はあ。ブレザーを着て同級生の足立くんとかとはしゃいでいたよ。友達、おい。そいつは昨日いっしょに仕事をしていた。
なんというか。色々と覚えていない。ただ、なんでしょうこの気持ち良さは。「スリム」と言われれば。身長173センチ。今日はあれだな。文章も。お腹が空いた。
_06/22
本作推敲特有の〝難しさ〟の正体がわかってきた感覚。派手な面白さはなくても〝食い入るように読み進めてもらう〟という感覚を言語で操ること。楽しくなってきた。
と、小説のプロットにメモ書きをした。その源流である初稿は、フルパワーでアクセルを踏んでコーナーに突っ込んではつんざくスキール音と共に遠慮ない走行で閉じられていた。
抽象語の連打。それは、読み手にとってはたまったものではない。だから、標識や、曲がる時のブレーキ、淀みないクラッチ操作に明確なギアチェンジ。それらを、勢いよく走ること自体は殺さずに、要所に的確に加筆する。エンジンが焦げるほど回転数が上がっているような箇所は、ばっさり削る。ルート、ライン取りを明確にする。すると、〝食い入るように読み進めてもらう〟文章となるのではと、第三作目において今日、初めて感じられた。
なぜ、例えが全部車なのかというと、執拗に『頭文字D』の鑑賞を続けているからである。普通に面白い名作だからという理由もあるが、もっと別の理由が奥の層にある。そこに気がついた。
アニメは鑑賞において絶対的な時間軸がある。読書は、その時間をコントロールすることができる。
だから、限られた時間内で「物語がどう動くか」「描写の緩急・濃淡をどう演出するか」「山場で魅せるために、どう静けさや退屈さを混ぜるか」「決定的な事実を描写しないことにより視聴者の余白で想像させるか」――とかこのあたり。それをまんま、自分で書く小説に写像している気がする。
――写像ってなんすか?――「あるルールに従って点と点を線で別のことに繋げること」だろ?――ほんとに?――うん。意味の表現をAIで厳し目にチェックしたから大丈夫だ。――ただ言いたかっただけでしょ?――ちょっと黙っててくれ。
要は、『頭文字D』から学んでいると。ドライビングでもドリフト走行でも登場人物たちの恋愛模様や青春群像でもなく、〝仕組みやルール〟を〝魅せ方〟と捉えたという訳だと思う。そういう視点で観ると、言い方が極端かもしれないが何冊かの書籍を読んで勉強している気持ちにもなる。現に、応用しているつもりである。
それを踏まえて、言語を操って名作が書けたらえらいことになるな。などと冷静にも考えるが、そこにきっと希望を持っていると思った。だから、メモに「楽しくなってきた」などと、別に書かなくてもいいことを書いたのかもしれない。ふと出てくる感情を言葉にすることは大事かなと思った。
だが、それを一編とするのは難しい。とはいえその〝難しい〟が〝楽しい〟に変わったのが今日。おかしな話だが、執拗に同じアニメをずっと観ていなければそっちにステアリングは回さなかった。という、わりと大切な気づきを得た。――ような気がするが、もしかしたらすさまじく回り道をして得たことかもしれない。
もしも小説執筆の説明書や設計図があるとするならば、そこに明記されているのかもしれない。だが、俺はどうもそういうのを読んで直接的に参考にするという発想がどこかに――あるはずなのだが、車のアニメのほうが参考になる気がしてならない。だって、〝食い入るように〟観てる理由を直接探る方がこう、面白くて。
_06/23
後ろが不穏だった。ちかちかと、まるで何かのシグナルを静かに、でも真剣に伝えるように思えたがそれを軽く見ていた。正確には、そのランダムな点滅が神経を刺激した。たいしたレベルではないとその時は思っていた。でも、それはいつもの何かが声を発さずに、普段とは今は違うと警告するような切迫感はその時は感じなかった。
昨夜、キッチンの琥珀色の蛍光灯が寿命を訴えた。明日、明後日か、仕事の関係で、明後日だな。買いに行こう。でも、面倒だ。その蛍光灯と同じ型番をスマートフォンで撮影してはそれを調達する。売り場は近い。デパートにある電気屋でそのスマートフォンの画面を見せては、同じものをください。と、言えば事足りる。それが、ものすごく面倒に思えた。
夜が明けた。非常に体調が良かった。心なしか、若返ったような顔をキッチンの鏡で11時前後の自然光を交えて確認しては「そのまま」などと不可逆的な祈りに耽る年齢。そこまで考えずにドライヤーを雑に、あらゆる角度を意識して頭皮にあてては高校生とほぼ同様の髪型にセットした。白髪はしょうがない。と、いくつか出しゃばるそれら数本を無視することにやや抵抗を感じた。
仕事をした。平均値であろうか。8時間くらい。それでも、通してと言う訳ではなく、合間にちょいちょいとタバコを吸っては雲の動きになんらかの共通項を考え浮かべては「いつも違うから共通することは別に無い」などと、肩をくるりと回して灰皿に向かいダーツのように投げ込み一発で的中。そこに特筆した感想は無いが、少しだけ、何かを達成した気分になるのは勘違いしているのであろう。
仕事中にAIと壁打ちしては二週目となる読書の対象書籍について紐解くことを試みる。〝ガイド〟がないと理解不能と思える難読書。どこかで見切りをつけるのが賢明かもしれない。だが、「そこに何が書かれいて何を意味しており、そこから何を自分が得るのか」という、体験よりも「意味不明なことを切迫して書いた著者の寂しさに似た『どういうつもりで書いたか、それがどれだけ理解されなくて不毛な気持ちになってはキレ散らかしたか』という部分を発行年の100年後に理解したい」という気持ちが勝る。
そいつがどういうつもりかが理解できず、そいつが本当の意味で理解されずに誤解で済まされるということが辛抱に及ばない。
少年期に、近い人間が笑顔を見せた。彼は、花を手動で拵えた輪っかを頭に巻いた。笑顔で、良かれと思い、俺に寄ってきては感想を求めた。それを、俺はどうしても理解できなかった。
「綺麗だね」と、言って欲しかったのだろうか。でも、俺にはそうは思えなかった。だから言葉ができなかった。きっと、表情でそいつを傷つけた。一重まぶたのそいつは、表情で、その感情を露わにした。
その系統の出来事がよくあった。それを思い出しては、理解不能な書籍の内実をAIと共に解析しようと、理解しようと、わかろうと、綺麗だね、ときちんと言えるように試みた。少しは、わかってきた気がする。仕事中にそんなこともしていた。それは事物の動きであり事実の整理とは少し違う。それくらいはわかる。
仕事を済ませ、東京都は錦糸町に向かった。遊ぶ約束があった。村上氏と桑原氏。仲間と言える人間たちである。彼らとセッションバーで和むこと。たまにやる定例行事であり、彼らとの音楽を通じた関係だ。
現地に到着するとゆっくりとしたシャッフルビートの生音がドアの外からねっとりと漏れていた。自身、体調はいいのだが、疲労を感じていた。舌が気になった。だが、それは、入り口にてチャージと同時に求められるワンドリンクの「ハートランドビール」でどうにでもなると思っていた。カウンターの店員に俺は顔を覚えられている。
「ハートランドですか?」と笑む長髪の店員に対し「はい」と、即答した。700円を現金で払った。セッションに参加する料金は払わなかった。時間が押してここに来たものだから、演奏をする目的は逸したというのが明確な理由である。だから今日、俺はギャラリーだ。その意思を、カウンターの用紙の――ドラム・ベース・ギター・キーボード――各種ある項目のうち最も右に位置された「見学」という項目に俺はボールペンで丸印をつけた。
ホストの役割の人物が怪訝な物腰で寄ってきた。食い気味に言おうとしたがシャッフルビートの音量が発話の手段を遮った。俺は左手首を「トントン」と、指した。彼は時間の文脈を理解した目つきで俺の手首を一瞥。理解してくれてありがとう。と思い、フロアをうろついた。
ビールを三分の一ほど、一気に流し込んだ。今日は食事をまともにしていない。51kgの身体にそれは酷。などとは思わないが舌が気になった。胃が、抗議をしているのではないかと、その舌の色で判別することは容易だ。
しかし、自分のそのあたりの都合よりも、セッションバーの喧騒に意識を寄せた。見かけたギターが視界に入った。ストラトキャスターだ。俺のメインギターとのディティールに類似点を確かに感じた。持ち主が側にいた。その、リーゼントの若者がそのストラトをふと、手にしたことで察知した。つい、言葉をかけた。
「ビンテージのストラトですよね」。正解だった。立派なレリックの入ったストラトはきっと、俺のストラトよりも。などと思っては話が弾まなかったので少し移動し、村上氏と桑原氏の位置を確認。挨拶を交わした。
今日はギャラリーだ。展覧会でも見るような気分でビールを呑んだ。舌が気になった。トイレに行った。舌を出して鏡に写しては蛍光灯の白色の陰にそれを落とした。色は病的に白かった。焦りが急に出てきて獣が自身の体をケアするような動作をとった。たいした変化はなかったので気にしないことにした。バーの席に戻った。
様々な客たちが代わる代わる演奏を重ねた。よく見かける英国人のテレキャスターによるプレイは達者だった。村上氏のギターソロを聴いた。「高校の先輩のイメージはずっと変わらないな」と、思った。桑原氏の番はまだか。自分がプレイする前提ではない日なので、足を組んでは傍聴していた。桑原氏がステージに上がった。――リズムが安定していた。プレイ自体は別に。というのが正直なところ。だが、リズムが。と、それだけ思った。
「次は、――さんと、平吉さんです!」と、アナウンスされた。俺は今日、見物です。プレイに必要な料金は払っていません。ビール代しかその。という顔をホストに向けた。彼は「いいから」と、粋な目をした。じゃあ。と、俺は桑原氏のギターを拝借してはフェンダーのアンプのボリュームを右に捻り、音量を確認した。「うすい」と思い「Bass」のイコライザーを機能するツマミを右に全開にした。よく知らない曲を、随分年上の方々とステージ上で軽く確認し「キーは、Gmですか?」「そうですね」「はい」と、ストラトのピックアップセレクターをフロントに寄せてはトーンを少しだけ絞り、何か久しぶりの光景だな、と演奏をした。
左肩が鈍かった。五十肩がせめぎ寄ることが起因。いつもの自分のストラップの位置――ベルトのナックルよりもやや下、かなり低めの位置――でないと、痛みを感じる。なんか不利だ。とも思ったが、よくわからないブルースの楽曲を初見でアドリブで演奏することにさほど弊害はない。そう考えはせず、感じつつ、ちょっとさすがに何だろう。疲労かな。弾けるけど何かが。と思っていたら右に位置する御仁が右手を俺に向けてそっと質問するように挙げた。俺のギターソロ演奏の斡旋。それっぽく弾いた。ギャラをもらう場面ではないのでひとつもプレッシャーの無い場面。そこでプレイする音と言ったら。などと思っては場面が転換。――喫煙所に行き、夜風のぬるさを得て戻り、ビールをもうひとつ。700円。高いかもしれない。という風に思ってはそのセッションは時間を迎えた。
――村上氏と桑原氏と帰路、『鳥貴族』に行った。すごく空腹だった。舌は限界だった。店内に入り雑談した。鳥料理をたくさん食べた。あっという間に満腹になってはビールを更に3つは呑んだ。珍しく、皆、飲酒ペースが同一だった。すこし、嬉しかった。でも、どういう訳か俺は全くもって酔っていなかった。だが会話は弾んだ。彼らは、どうやら元気に健やかに、日常を過ごしていることがわかって暗に、嬉しかった。
一人頭3,000円少々の会計を済ませて帰路に着いた。錦糸町駅前で桑原氏は地下鉄に乗った。俺と村上氏はJR線に向かった。30年以上の付き合いの村上氏。彼と会話が尽きることは無い。でも、どうして俺は酔っ払っていないのかが不思議だった。舌が気になった。彼は――途中で自宅の最寄り経由の駅で降りた。またな。と、俺は降りずに赤羽駅までゆっくりと車両に揺られた。
赤羽駅東口に着き、喫煙所に寄った。呼び込みの娘たちと柔道耳を伺う黒服を横目にアイコスを吸った。「どうですか」と、ウサギ耳の娘。「眠いんです」と俺。「お酒飲めば目が覚めますよ!」と、ウサギの暴論。「眠いん……」と言った瞬間見事。秒速で交わすウサギ。早い。宅に帰った。酒をもう4本買って。
舌が気になった。その前に酒を開けて再び呑み始めた。あんまり美味しくなかった。娯楽が必要だ。そう思い、最近執拗に観ている車が峠を攻めるアニメを30分ほど観た。あまり気分は変わらなかった。それよりも舌が気になる。薄暗い仕事部屋にかけてある鏡を見た。舌は、と。色がよく確認できなかったが、酷い印象は無かった。おかしいと思い、キッチンに行きギリギリ判別可能な光量を照らして舌を見た。するとまるで『鳥貴族』で食べたハツ串のような健康的赤色を確認した。
何だよと思い、それら一連を8割ほど正確に言語化しようと思った。そこに何の意味があるかといえば、逆説的に言える。どんな時であっても、人と触れあい、酒を飲めば恒常となる。それを証明したかった。だが、そういう時はいつものような回顧となるはずである。外連味なくそれをストレートに記すことでその証拠となる。その行為が、ある種、なんだかおかしいと懸念した払拭材料となる。そう思っては「直線に、5,000文字くらい書くことで、舌がどうとか何らかの疲労やらは消し飛ぶ。ないし、事実の総体となる」と、もう観念した。
――今日は朝起きて、体調が良かった。きっちりと仕事をした。セッションバーに遊びに行った。村上氏と桑原氏は今日も元気。酒を呑んでは手応えを感じなかった。胃がおかしくなったのか。舌の色からそれを疑った。しかし今ではすっかり綺麗な内臓色。たくさん話をした。音も重ねた。肩が痛いのは仕方がない。時間の経過のエフェクトのようなもの。気の利いた言い回しを書いていない。狙うと滑る。
冷徹に、今日会ったことを感情を冷たくして記述することに努めたつもり。でも、それはとても難しいこと。
不穏に感じた後ろの蛍光灯。褐色、琥珀色の蛍光灯。それがチカチカと消えそうなサインがひどく気になった。今はそれを消して、Macの画面から発せられる光と机上の左やや上に設置した小さなライトだけを照らす。
疲労に気づけなかった日とは、そこまで自身、やりきって攻め込んでいるのかと俯瞰するとよくわからない。ただ、いつも照っていてくれる光が昨日から頼りない。それに呼応しているのだろうか。
これだけ30年も40年も、そろそろ50年も生きていて、自分が元気なのかバックグラウンドでは閉じているのか、そもそもその判断をいまだに出来ていないのか。花を誇示するその光景が全く理解できなかったかのように、自身でもよくわからない日を抵抗するかのように記す内容はそのままの意味。比喩も出てこない。出そうと思ったが抗うなんらかの反応を確かに感じた。
いつもキッチンで照っている褐色の蛍光灯がたった1本、4つあるうちの1本、それがチカチカとカウントダウンするだけでなんで気分が沈むのか理解できない。
――頭上に花を飾る男が何を俺に期待していたのか。いまだに理解できない。その悔しさが、今も残る。すごく、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そいつが誰であろうと、自身であろうと、どういうつもりかということを理解できないことは、自身最も、我慢ならない事実だと改めて思った。――長い文章がまるで、そこを、そこについて、徹底的なのに外連味なく抗議しているかのようなニュアンスは決して、悲観的ではない。だんだん酔っ払ってきてくれたからね。
_06/24
傘で視界がいくぶん削られる散歩。それも小粋だなと、気持ちはスキップで跳ねつつ、冷ややかに濡れる空気を感じて思った。今日は何もしてやらないぞと。
自由と設定した日には図書館に行きたくなる。現に向かう。狭まる視界でも紫陽花は方々で、かき入れ時と言わんばかりに6月を記号のように示す。
第二の本棚と呼んでいいる北区立中央図書館のふもとに着いた。その際、必ず、隣接した公園の入り口にある推しの大木に触れる。見る。嗅ぐ。すると雨にも関わらず大木の幹は乾いていた。理由を考えることを自然に打ち消されては「かなわない」という気持ちになった。
図書館の入口に向かうと「休館日」と、俺の予定が打ち消された。「この間もそうでしたよね。お疲れなのでしょうか」などと思い、玄関に貼ってあるカレンダーを見る。すると、今月の休館日はわずか4日ほどである事実を知った。俺はそのうちの2つを、今月に2度この場所に来ては2度とも「休館日」だったというピンポイントな肩透かしを食らう体たらくであることに少し驚いた。確率的にすごいと。読みたかった本と、偶発的な知識への邂逅は、今日は素直に諦めた。
本を読むと語彙力が増す。表現力が広がる。それを期待していたのに。そう思っては図書館の脇を歩いた。
雨が本降りになってきた。足元を見た。濡れた排水溝。横を見た。単独で笑む紫陽花。ぽつんと縮まり、俺の意識を汲む名称不明の花も。それを目視しては一瞬で小学生の夏休み直前日の下校を思い出した。「朝顔の鉢を持ち帰る」。きっと、その花は朝顔だったのかもしれない。連想の時間軸を極限まで縮める機微な表情の花は、その感覚を肥大させた。
公園にさしかかった。雨脚はますますと。スニーカーから侵入する水分に気を取られた。――男女が前を歩いていた。絶対に恋人同士ではないと俺の経験則が判断した。だが女性は男性の腕を無邪気に掴んだ。「理性を緩めれば、自分も他人の女性の腰に簡単に手を回す」などと思った。そういう感想や表現は、本を読んでいても得られないのかなと、暗に思った。――前回、この界隈に来た際に入れなかった文化センターを目指した。
そこの入り口には日時計がある。このあいだはそれを見て、様々な思惟がぐるりと回った。今日は、一発で停止した。ひとつだけ思った。時計は前提としてずっと機能することがその役割だ。でも、日時計は、雨天において何も機能できなくなる。時計であることがそうでなくなる。――文化センターは幸い、入ることができた。
どんな文化に触れられるかと期待を寄せた。しかし、俺の勘違いなのだが、その文化遺産のような建造とは裏腹に、内容は「視聴覚室」がそのほとんどを占める地域センターのようなものだった。悔しいので文化を探した。二階に、それが少しあった。カモシカの剥製である。彼は、申し訳なさそうにただ、ガラスに四方を囲まれてはそこに居た。死んだ目を補う義眼の黒光りがなぜか俺を申し訳ない気持ちにさせた。すぐ、そこを出た。雨は止んでいた。
さっさとJR十条駅に向かい、途中でブックオフに寄り、1時間立ち読みし、赤羽駅で買い物をし、ささっと帰った。今日は何もしない日だ。3時間ほど散歩して気が済んだ。
とはいえ、何もしないのもなと、机に付いては当サイトの楽曲ダウンロードページを更新した。何もしない歯がゆい気持ちを払拭したかったのだろうと俯瞰した。それから食事をして、仮眠をとった。満足感を得ては時計を見ると120分経っていた。
やはり――と思い、小説の推敲に時間をかけた。この小説を満足いく仕上がりにできれば、作家になるための一撃必殺の作品として世に放てるというより、書き手としての自身のステップアップとなると信じきれた。そこは、すごく大事だなと思った。
何も見ずに、インターネットに一切アクセスせずに、世捨て人のように暮らそうと。今日はそう思っていた。でも、自然から得られる視界はいつもより遮られていたが、その制限こそが、逆にいろんなものを吸収する指標を際立たせた。
散歩で雨は歓迎できない。でも、晴天時のそれよりも、濃度の高い何かを得られた気がする。それは、広く得られるそれよりも深く、ふいに肝心な時に噴出する源泉ともなるのだなと、傘を差しての散歩の座標が水滴のように染み入ったような気分だった。
_06/25
情を報じると書いて、情報。報じられると、認識すると、知覚すると、情が出る。すなわち感情が動く。気持ちが生まれるということだろうか。今日は情報をなるべく遮断して過ごそうと思った。しかしそれは日の後半に思ったこと。日の前半は、書店で情報を集めていた。
書店に行くまで、行ったあと、散歩がてらだった。書店で得ようとして能動を尖らせたその対象は、自分の小説をいかに磨くかというところ。いろんなヒット作品や名作や古典をかたっぱしから手にとって少しづつ読んだ。いろんなことを知覚して、情報として知覚しては気持ちが生まれた。それを小説に落としこもうと思っていた。
しかし、何だか今日は疲れていた。買い物を済ませて帰宅してすぐ机に。という気持ちには、今日得た情報らは直結しなかった。夜が近づいていた。
するともう一度散歩がしたくなってきた。本降りの雨の中わざわざ傘をさしてまで、というのはよっぽどのことだ。ただ、歩き続けることによって情報を断ちたかった。静かな場所に行きたかった。機能を止めているかのような建造物のふもとあたりで雨音だけを聴きたい気持ちだった。現に、そうした。
体調がわるいのかな。とも思った。気分がすぐれない。起きてからずっと右の脇腹の肝臓の下の位置が筋肉痛のよう。その痛みが、今日の俺の気分を決定づけていると素直に思った。その痛みからくる懸念は、静かに夜、傘をさして歩いている時間は感じなかった。
傘に当たる雨の音は出来損ないの打楽器の試奏のようだった。ぼっ、ぼん、ぼつ、ぼむ、と、「嫌な音までとはいかないな」などと感じつつ、歩いているうちにイオンモールに着いた。生活を照らす灯りが、痛みからくる懸念をぶりかえさせた。
ふと、この目的もあったと思い出し、ヘルス的測定コーナーがある場所に行った。体重と体脂肪率とBMIと内臓脂肪レベルと筋肉量と基礎代謝レベルを計測する機器で数値を測る。
体重は52.7kgだった。その他の数値は文句なしのエリート級の値。と、少し嬉しかった。血圧も測った。5回測ってはその平均値、上は「110mmHg」ほど。昨今、130mmHg台が平均値であり、たまに150mmHgとか弾き出すことが多々あったので、明らかに安心した。同時に思った。気持ちと低血圧の呼応、それだけの話なのではと。
――帰宅してはキッチンでラジオをつけるいつもの習慣。それをする気にならなかった。無音で、仕事部屋のソファに横臥した。やる気が起きないのではなく、やる気を出す気が起きない気持ちに素直にならった。
起きたら60分経過していた。食事を作って食べる。PCをやっと今日初めて開き、最低限のタスクをする。アニメを少し観る。小説原稿を開いた。難しい推敲だなと、加筆メインで進めるとけっこう時間が経っていた。脇腹下部の痛みは、あまり気にならなくなった。
いろんな〝報せ〟を知覚して生じる感情を確かめる。その発生源と放出先を管理していたかのような過ごし方だった。
晴れているため鳴らないから静かとも限らない。むしろ、雨が降ると音が鳴るのにその方が静けさを感じるのがとても不思議だなと思った。
_06/26
「ドパガキ」という言葉を目にした。YouTubeのサムネから飛び込んできた。ネットスラングだろうか? 俺はその意味を知る前に、それは一体何を示す言語かと憶測した。
「ドパガキ。ドパ。ドパミン。ドーパミン。医師は〝ドーパミン〟ではなく〝ドパミン〟と呼称することは一次情報として知っている。だが一般的には〝ドーパミン〟だろうか。とはいえ、ドパミンの〝ドパ〟かな。あと〝ガキ〟はそんまんまだろうか。あんまり説明はしたくない言葉だ。つまり、〝ドパミンを過剰に求める者に対してのややネガティビティ寄りなスラング〟かな」と。
そのYouTube動画を観た。そのフレーズについてまず解説なさっている方は、そうか。と、思うことを仰っていた。
という訳でドパガキ全開の文章とは。と、考えるのは自然なことだと思う。ここにログインするまでは、「よし。今日はそういうテイストの文章を長文で羅列してみよう」と、考えていた。でも俺のドパミンが枯渇というか溢れ出るというか――ここに1,000文字くらい事故りそうなくだりを書いたが削除した――もう遅い時間だし、と思った。
――今日は仕事をしっかりして小説を書いた。なんだか難しい小説だ。原稿に向かってそれを磨いていると、健全にドパミン――というか、覇気が出る。自身の営みの先に希望が持てる。その道中で、日常会話ではまず出てこないカタカナやアルファベットの名詞を連打して並べるのは、自身は、するべきことではないと思った。
日々の営みとして、原稿用紙フォーマットで長文前提の創作をしていると凄く健全な気持ちになれる。負荷は確実にあっても。
――要は〝刺激〟の話であろうか。刺激は受けることもできれば、生産することもできる。どっちがどっちというのは、こと俺は別に。と、思う。すごく面白くて生産的な刺激をつくれたら嬉しいな。それを受けてくれる人がたくさん居たら嬉しいな。と、だけ思う。
きっとだけれども、冒頭のフレーズは、対象者を示す言葉ではなく、表現の一環なのかな。と、いうところで止めることにした。
_06/27
纏う雫は季節の移りをたぐり寄せる。それがどんなに優しくとも、激しくとも、極端であってはならないであろう。しかし、自然の摂理に亀裂を与えるほどに操作しようと、まるで、0と1で世界の全てを制御するような営みを長らく続ければ続けるほどきっと人間は、思わぬところで参って音を上げてしまうのかもしれない。綿が散るような天候が続く。それは何かを、知り得ぬものの均衡を保つべく慈悲深い現象なのだろうか。それに抗うのは偽りの行為なのだろうか。従うのことこそが中庸なあり方なのだろうか。いささか俺にはまだ、その加減をどう扱うべきか知り得ない。〝なるべく〟という力加減というのであろうか。そのように、逆らうことなく凪のような心境でなるべく、自然に委ねることにしている。つまり洗濯物が全然乾かねえんだよ。
頭にきたので禁じ手に出ることにした。なにせ二日間の部屋干しで「乾いてないねえ」なんて声が出るのは狂っている。雫なんぞどうでもいい。
俺は生乾きの匂いを忌む。「でも乾いてないよね〜」などという呑気な発話にも限度というものがある。
だから、別に禁じる必要性はひとつもないのだが、選択した衣服をカゴにカチ盛りにしてコインランドリーに行った。道中、霧雨が俺が着衣するシャツを腹立たしく濡らしては限界に達しては逆に、とても穏やかな気持ちになってきた。
梅雨の夜道は懐かしい匂いがするなあ。と、青年期の感覚を取り戻したかのような退行を前向きに捉えることにした。
コインランドリーには滅多に行かない。赤羽公園のふもとにひとつそれがある。そこでさっさと事を済まそうと思った。
気の毒なくらい不慣れな手つきで乾燥機の説明書きを読んだ。最低限かつ容易な表現で衣服を乾かすための手順が記号・イラスト付きで記してあった。
俺はそれを眺めてはなぜか理解に及ばず、まず100円玉をインサートしようとまごまごとしていた。側には「乾き待ち」のお兄さんが居た。
彼は「右下の、空いてるっすよ」と、優しく俺をエスコートしてくれた。「あ、どうも」と、言った。
親切っていいなあ。と、ほのぼのしては100円玉をイン――乾燥機が回り出した。即、起動した。「優秀じゃないか」と、感心してはぐるぐると音を発する乾燥機の円型のガラス張り表面を眺めた。まだ衣服を入れてなかった。しまったしまった。と、閉まった器具のノブを開けようとするが拒絶された。キャンセルボタンっぽい金具の出っ張りを押したが、「硬貨投入後は――」などと記している文字を目視しては観念か。と、慄いた。
ぐるん、ぐるん、と、まあまあの速度で回る乾燥機に俺の衣服は入っていない。お兄さんが背後から言った。「左上の、空いてるっすよ」と、優しく。「これ、やらかした感じっすか?」と、答えた。俺は、100円損失をそこで初めて確認し、「はは」とか言いつつ左上のを開けて衣服を全部投入しては「こうすか?」などとお兄さんに言うと右下を一瞥しては「しょうがないっすよね!」と、失笑をほんの少し漏らした。
「100円でいいっすかね?」と、相場をお兄さんにたずねると「僕はいつも200円っすね」と、おっしゃるので言われるがままに200円、ちゃんと衣服投入・扉を閉める・硬貨投入という、最初に見たガイド書き通りに習う。
どうして最初からその通りにしなかったのだろう。と、お兄さんに意味のわからない笑顔で会釈してはコインランドリーから少し出て、赤羽公園で霧雨にくすぐられながら徐々に腹が立ってくると思ったが、優しいお兄さんに免じて。などと責任の所在を霧にまぶした。
無事に乾いた衣服を提げて帰宅。雨はまだ、ゆっくりと舞っていた。ちゃんとその場の、その時の、その目の前のことに準じた所作はとても大切だなと学んだな。
などと綺麗に思う訳はなく、上気しつつ、という無駄な力を使いたくないので無かったことにして小説を進めた。あんまし進まなかった。
二行の加筆に二十分くらい固まるようなことはこれまでほぼ、無いにも関わらず今日はそういうのがよくあった。というか今書いてるやつはそういう〝場面〟がひじょうに多い。そういう〝性質〟なのだと、そこに逆らって本文を書くくらいの速度でやったら成立しない。という風に本当の意味で思えた。それについては「とても大切だな」と学んでいると本当に思えた。
極めて著しい湿度や霧に八つ当たりするべからず。なのだろうか。快適とは言い難いその時にしか感じられないことがある。なのだろうか。
頭にきたのか、優しくされて嬉しかったのか、冷静に原稿を書いていたのか訳がわからなくなってきたが、ただ、今だって外は濡れている。
知り得ぬものの均衡を保つべく慈悲深い現象に、関わってくれる人に、目の前にあることに、感謝と〝向き合い方〟を大切にすること。そういう気持ちがあれば湿気などにキレ散らかさずにちゃんと、仕事も創作も人間関係も、真摯に向き合い続けられてはその真意にいつか、出会えるのかもしれない――。
空のまま10分間回り続ける乾燥機のあまりにも無慈悲な光景は日の雑感すべてを巻き込むほどに、圧巻であった。
_06/28
強制停止。止まる。思い描くラインを走るために止まること。そこにはたまに、強制力が伴う。
ゲームセンターに入ったら実のところそこはジャンク・フード店。待ち合わせていた若い女性を探して二階に上がる。するとそこにいた彼女はペラペラと何かを言いながら俺にキレ散らかしていた。ただ、それを「何でだろう」と眺めてはその激昂を正面からずっと受けていた。
そういう夢をみた。不条理な描写。くっきり覚えてということは、それは何らかの伝達、報告なのかもしれない。などと捉えるのは自身の思考の癖。そういう自覚はある。
睡眠不足気味だったが面白いくらい元気なのでガリッと仕事をする。インプットもする。硬い書籍読書。AIとのやたら長い壁打ち。映像作品の鑑賞。
――そろそろ小説を進めよう。と、キッチンで鏡を見たら是正の必要性を感じる眼とその周辺の色合いを確認した。
「20分、仮眠しよ」などと口に出してはソファに横たわった。しばらくすると覚醒と気絶の境界線の明瞭な感覚化。言語化するとそのようなフィーリングは「あ、身体あったわ」という感覚が頭を一瞬よぎり、そのまま横になり続けては80分が経っていた。
これが強制停止の感覚かな。などとアナログ時計を目視すると、長針と短針が一直線になっていた。「もう日を跨いだか」と、少しもったいない気持ちになって60分ほど小説原稿に過不足と判定した箇所に、限界値まで加筆する。
それだけの日なのだが――と、続きを、ほかにもいろいろと、などという気持ちを止めることは、思い描くラインを走るために必要なことだと断じた。
境界線の明瞭な感覚と、怒ってた夢のなかでの若い女性の態度はそういうことなのかなと、そこで止めるほうがいいと思った。止めなければ、それらはここに「そういうことであった」と、完結しては済んだだけのことになってしまう。
そうではなく、明日走るための着火剤・燃料として蓄えて止める。というのが最も生産的だなと逆説的に思えてきたあたり、年齢を重ねているんだなとも同時に思う。それについても、来月からアラフィフか〜。くらいで止めていいんじゃないかという日。
――右脇腹の謎の痛みも消失し、心身共に今日も元気。だが、誰かが、強制停止をかけてきた。そうなのかな? と、まとめきらずに止める勇気。とまで書くと大げさだしそれを回収しようとするとまた――止める大事さを、案外で得たのかな。と、思った。
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俺は言葉をよくわかっていない。ともあれ、ちゃんと調べて知ろうというガッツはあるつもりだが、仕事中にそれをやりだすとすさまじく時間がどんどんと過ぎていく。
「無意味」「ナンセンス」「トートロジー」という3つの言葉の意味。
わかるのは「無意味」。言葉通りだ。意味が無いという究極の意味を持っている意味と、謎にファンタスティックに思える。
わかったつもりだったのが「ナンセンス(ノンセンス)」。〝意味の無い〟〝バカバカしい〟〝そんなもんクソだ〟。という意味だと思っていた。違った。〝ルールにそっていない〟〝破綻している〟〝エラーを起こしている〟というのが正確なところ。と、今日知った。
「トートロジー」なんて日常会話で絶対出てこねえよ。とも思ったが、読み進めている硬い書籍のひとつの章の中でしこたま連打されているので知る必要があった。意味は、〝同じ言葉や意味を反復させる〟〝あまり中身の無いことを言っているようだが、破綻はしていない(ナンセンスではない)〟〝情報量スッカスカだが間違いは言っていない〟――とか、なんだかとっても難しい言葉。
――君がそれらを知って何の意味があるの?――いいところに来てくれた。あるんだよこれが。――ナンセンスでしょそれきっと。――いいや。ちゃんと、今進めている小説の内容に直結してるんだ。――考えすぎでしょ。――考えないで書けっていうのか? そんなの無意味だろ!――はいはい。ごめんて。――いいか。死ぬほどしつこく言ってきたが、ここのところずっと、3つのインプットに集中してる。――ドリフトのやつ?――それだけじゃない。――エロいやつ?――おま、そんなこと言うようになったのか?!――いや、もう2時だよ。はやくまとめてよ。僕ねむい。
『頭文字D』『論理哲学論考』『古井由吉著: 杳子』の3つ。これらから、〝説明しすぎると死ぬ〟というデッドラインをインプットしている。
――その一段落でもういいでしょ今日は。――その一段落の羅列だけだと意味不明だろ。――じゃあどうするの?――ちゃんと説明が必要だろうも。――そしたら死ぬじゃん。
これ以上説明するとナンセンスになる。という言い方は間違っている。無意味であるというのも間違っている。トートロジーという言葉を当てこもうとするとボロが出る。
だから、しかるべきポイントではブレーキング。言い切るところは端的に。沈黙も選択する。もどかしさや理解し難さも描写する。この3点を学んでは落とし込もうとしているということで、それらに含まれるパーツでもある「よくわかっていない言葉」を吟味したと。それだけの話じゃねえか。俺も眠い。酒呑もう。肴は半額のマグロ刺だ。
ブツ切りのマグロの刺身は、ブツ切りにされて刺身となっているマグロだ。
トートロジー。それを謎にファンタスティックに思えることに意味があるのだろうか。そのへんを知ろうとしては一周くらいはできたかなとぐるぐるぐると。
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