ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。9月。
夏はすごく楽しかったんですよ。と、本当のことを言う。聞かれたら、そう返す。具体的にどうだったんでしょうか、と尋問されれば先月に記した内容をむちゃくちゃ端折って答弁する。すると相手は、ひ、ひ、悲惨ではないですか。などと極めて失敬な感想をよこすものだから俺は頭にくるわけだが怒りの炉心は昨日を境にきちんと冷却に向かっているという肌感覚所以の事実。だから、そうではないんですよ。俺は別にね、熱海にもワイキキにも行っておらず、はっきり言って夏らしいことは何ひとつしていなかった。わかったかな。と、言葉を重ねるも「じゃあ何がすごく楽しかったんですか」などと真顔を向けられればこう答える。
そんなことより今は今日のことを振り返っている。と。
――月初からアドバンテージを稼げ、と言わんばかりにたくさん仕事をした。そして深夜前にひと段落。ふと、楽曲制作の営みが反映されるストック収益額を確認した。
というのも、その額が表示されない期間が数ヶ月ほど続いていた。「なんだよう」と、ずっとじりじりとしては困惑していた。ただ、理由はひとつしか考えられなかった。それは、公開先である楽曲管理元プラットフォームの運営体制に革命が起こったこと。だからなのかと。
運営体制が変わってもの凄くやる気を出したプラットフォーム。気概十分のプレスリリース発信やら、SNSでの新アプローチ公式発表やらと、どうしたんだろう、と思うほどの圧倒的展開をみせては漲っていらっしゃる。
その爆ぜたご様子に水を差すように――「あの。いつものスパンで入るあれ、金ですよ。金。四半期おきに入るやつ。その数字の反映、その制度も変えたんですかね。それともなかったことにされたのでしょうか。いつになったら反映するんですかね。しっかり――」などという旨をビジネスメール調に超丁寧に翻訳しては送信し、確認を煽る行為をしないでよかった。
その確認自体は正当であり、むしろすることが道理なのだが、「うるせえ小物の制作者だな」と、思われるのは心外というかシンプルに恥ずかしい。よって、そういった認知をされること自体を躊躇していたがために、ただ待っていた。つまり変に声を立てずに待っていたところ、その収益額が月初の今日になり、やっと、しっかり目の額で反映されていて歓喜。
というすさまじく地味な出来事が今日の白眉だったものだから、夏がどうこうなどといつまで同じことを蒸し返すのかということから記す程になる。
とはいえ、秋口の一速走行として良好。という日には、日をやりきった感覚が確かにあるからなのだろうか。
「いつもよりたくさん仕事をして、ようやく反映した収益額を目視しては嬉しみ、やれやれとDAWを開いて少し制作を進めた。9月の初動としては上出来であろう」
と、一文で済むことを膨らませようと変に恣意的な思考を動かすと「夏はすごく楽しかったんですよ」などと、今日ではないことから書き出す沙汰となる。それはそれで別にいいのだが、本流はそれより先。そんなことより前を見よう。今月も事物がどう動いていくか楽しみだな。と。
_09/01
DAWの波形が尾を引いては「閉めないで」と、言うはずがない。レコーディング中に、「これはあれだ。ストリングスだ」と、楽曲が言う。それはリアルにそう聞こえた。それは決してイマジナリー的な声ではない。楽曲に必要なパートはヒューリスティックスから「どのトラックがあと必要か」をオペレーション的に導き出す。それは疑いようのないアプリオリをわざわざ、あたかも自分が発明したかのように逆算してたどり着く鈍行に近しい。
――待った。いっかいタンマ。――死語だそれは。何だよ。――僕は指摘するよ。カタカナ使いすぎ。――だって便利だろ。――あのね。君が当然のように言うそれら、表現として腹立たしいの。――どれが?――“イマジナリー”がまずよくない。――〝想像上・架空の〟だろ。字面でなんとなくわかるだろうも。――まあいいよ。次。“トラック”ね。――DAWに走らせる各パートだろうも。――めんどくせ。君の説明を聞くの僕、大きらいなんだ。――お前ふざけてるの?――まあいいよ。次。“アプリオリ”ね。まじで一般的じゃない。――“あらかじめ決まってる事実・前提”だろうも。――それを音楽のことにねじこむのはよくないと思う。――何だよ。じゃあ説明してやろうか?「1+1=2」。この事実は疑いようがない。だから“アプリオリ”だ。――まあそうだね。でも――ばかだなあお前は。実は「1+1=10」なんだよ!――は?――二進法だと「=2」じゃなくて「=10(イチゼロと呼称)」なんだよ。――君がいま読んでるノイマンさんの本にかぶれたのはわかったよ。――お前俺をばかに――そんなことより日記を書きなよ。
DAWの波形が尾を引いて、「閉めないで」とは言わないが、ストリングスアレンジのギアがニュートラルに収まらなかった。だから、因果関係はないが、ハイボールを冷蔵庫から取り出しては机に置き、呑んだ。制作中の飲酒は御法度千万。つまり制作ではなく、ただ、鍵盤が弾きたかったからDAWは閉めず、制作とは無関係に鍵盤を弾いて遊んでいた。
レディオヘッドやミューズにスティーヴィー・ワンダーなど、完全に長期記憶に定着したそれらの楽曲を弾いてリラックスする。テキストを書く時とは別の脳の回路がアクティブになる。単音同士のマリアージュ、音価のグルーヴ、それらが保たれると、サリエントネットワークが直ちに分岐先を決定してはセントラルエグゼクブティブネットワークに血流が集まる。
――タイム。――なんだよ。――カタカナよ。僕は腹立たしい。――レディヘくらい知ってるだろ。俺の係を何年やってるんだよ。――固有名詞はわかるよ。そこじゃなくて、なんちゃら“ネットワーク”のやつがイライラする。――ふん。じゃあ、説明しないよ?――じゃあ僕が言うよ。要は刺激を受けてハイになるか落ち着くか。それでハイの方にいくのがセントラルなんちゃらでしょ?――その通り。ちなみに、そっちじゃないのはデフォルトモードネットワーク……――どうでもいいよ本当に。で、だから何をしていたの。――弾き語りの練習をしていた。――何のために?――遊びで。――君、ミューズとかぜんぜん歌えないじゃん。――それは指の腕慣らし。歌ってたのはミスターチルドレンとエレファントカシマシとフジファブリックと――次カタカナ使ったら僕、おこっちゃうよ。
仕事を十分にして制作をする。その前に頭皮を解す自己施術をしつつ、車両が峠を攻める描写が主となる活動写真を熱心に鑑賞。そして疲労を確実に認識したのでふんだんな綿の低反発が実に心地良い椅子に横臥して仮眠を得た。暫くだった。そして演算装置を基礎とした録音媒体を次々と通した末端の制作反映媒体の画面を見つめつつ鍵盤を叩いた。弦重奏の多重録音の必要性を察知しては、充填音を拵えるべく右脳を活性化。主となる充填音の旋律と音価が素描できたので、本日の営みとして十分と見なし、ここからは休憩だと赦し、缶酒を呑みながら鍵盤演奏と歌唱を併せて行ない弛緩と緩和を伴うべく、窓際に設置してある足立氏から賜った防音吸音に秀でた海綿状の巨大な防音機材に向かって自身の声を吸収させ、近所迷惑に気を遣った。
――つかれるから無理になんでもかんでも漢字にしないで。――吐いた唾を飲みやがったなお前。――いいよもう。それで、今日は何が言いたいの?――脳の話を覚えているか。――なんちゃらネットワークのやつ?――そうだ。――君が思うほど人間の脳はそんなに割り切れるやつじゃないよ。――実はな。――なに。――お前、俺の脳内を拠点とする係りの者だろう?――だから割り切れないって今言ったばかりじゃ――お前の正体がとうとうわかったんだよ。――ふうん。――あれだろ? さも俯瞰する架空の野郎の振りをしやがって。お前の舌は何枚あるんだよ。――ちょっと。散らかってる。――つまりな。――うん。一言で言ってくれないかな。――お前は俺の〝イマジナリーフレンド〟だろう?――アウト。カタカナ使ったから退場ね。――お前もな。〝アウト〟と明言した。――どうだっていいよ。――はは。そうかあ。お前は俺の想像上の友達だったのかあ。仲良くやろうぜ。――僕はそのイマジナリーなんちゃらじゃない。――じゃあ何だよ。――当ててみてよ。――イマジナリーフレンドだろ?――全然ちがうよう。――え。友達ですらないの?――その捉えかたは君の友達に失敬にあたるね。
DAWの波形は全てを言った。その内実がこの記述の限りではない。だがその片鱗をどの回路で処理するかという分岐先について書こうと思ったその源泉は間違いなく、事実としてキーボードを弾いて自分の脳の活動状態を俯瞰していた時だった。
脳は、何を言っているのだろう。どうして人間はそれを言語化しようとするのだろう。この段落が今日の正直な所感を示していることは正確である。
_09/02
今日のタスクは「ペン」を買うことである。近場の書店でそれをこなし、よし。と思って界隈を歩くと「てつ!」と、聞き馴染みありの声が。俺は「よっす」と言った。そしてそいつは「呑もうぜ」と。ばか。正午付近だぞ。などと思いつつも俺の名前は平吉であり「てつ」という呼称にひとつもかすっていない。その語源は「哲学てっちゃん」らしいがその理由についてあまり納得はいっていない。俺が酒場で哲学をした覚えはないが、客体がそう言うならそれは事実なのであろう。
――正午付近。とはいえどうしても、そこではない酒場で煮込みとビールでほっこりしたかった。だからそう呼称した奴に言った。「あとで来るわ」と。
予定調和で、そこではない場で赤星ビール大瓶を丁寧に呑んだ。煮込みを食べた。赤羽界隈、わりと有名な立呑み屋のそれは150円であり俺は満足した。戻る、というのは正確ではないが、ふと呼ばれるっていいよね。などと思い、その場に来る者全員が俺の名前を間違えているサードプレイスに行くといつもの奴らが居たから安堵。
そこから――全部を端折るが適切。楽しく呑んでは、記憶滅失を危惧しては赤羽一番街における〝はしご酒〟の各場所をアイフォーンで逐一撮影しては「その時点で何があったか」を記録。
――帰宅。寝る。深夜眼が覚める。気づく。バッグがない。――とはいえ、全てを覚えている。珍しい。「ああ、あそこかあそこで、特定できる」などと、そうでなければ参事だが、記憶が演算できているのであまり危惧せず。バッグの中身はノイマンの著書と常備薬と櫛と名刺とか。最悪、「ないっすよ?」っと、方々の酒場で断じられる確率は極めて低い。それくらい、珍しく記憶が光る。それを頼りに――このへんでまた寝て陽が上がる。いかんと思い、今さっき回収に行ってはバッグ、無事にあったのでそれを抱いて帰宅して今。今は翌日の正午付近である。だめだろ。
――でも、不思議な上機嫌で「昨日は赤羽界隈遊泳」という一言に尽きるねえ。などと思ってはゆっくり、ちょっとは成長をしたのかなと思う根拠としては、俺はその日の行動の全てを覚えている。
今日はお休みとして一つも仕事をしておらず、界隈の酒場でバンド規模の人数で楽しく呑んでは日を溶かす。それもいいかなと。ここのところ仕事ばかりしていたからねと。
一言で言うと、今日は正確な凪でみんなの笑顔が愛おしく思えた。下は20歳ちょいのフレッシュネス。上は61歳の御仁。もっと上は藤原文太的大将。30歳ちょいの娘に、同じくその年代の若鳩店員。黒服ファッションの優しき顔面刺青男。そして46歳の同年代ニキ。かつての上司の異性にやたらモテる2つ上の通称〝ハンチョウ〟。イマジナリーではないリアルな友達っていいなと、楽しい休日を振り返る。
_09/03
今日は死ぬほど何もしていない。昨日は捨て身で呑んでいた。楽しかったよね。そしてさらに今日は死ぬほど何もしていない。俺は一つのことしか言っていない。それが今日の白眉である。つまりハイライト。――ソファで「情報を断つってこんなにいいんすね」などとつぶやいてはハイボールをむちゃくちゃゆっくり呑んでは寝たり起きたり。死ぬほど何もしていない。
――正午すぎに疲労の滅却を確かめて街へ出た。どうしても「かぶと焼き」が食べたかった。それはウナギの頭の串やらなんやら。つまり、日本規模で有名な鰻屋に行っては「かぶと焼きあります?」「おわっちゃいました」「おわったのかあ」「お飲み物は?」「え、赤星ビールを」「はいー!」というくだりから俺は冷静に「じゃあね、うん。煮込み的なやつ、あったり?」などと言った。すると。「牛スジならー」と。「それですわ」と。その牛スジ(550円)が凄まじく美味しかったものだから――誰かとここに来る機会があったらそこで相手が、「どうします?」とか言われたら第一選択肢に挙げるの「牛スジ」の逸品がある。その店を。
――その足でおとなしく帰ろうと思ったがめしが食べたい。日高屋に行った。生まれて初めてそこの食事に「ビール」を重ねた。おいしいな。と。次に、気を良くしたのか立ち呑み屋に無防備に普通に行った。
――「赤星ビールーを」と俺は行った。肌がやたらめったらきれいな店員女性は「あかぼしー」と発話した。秒で来たその瓶ビールとグラスを見ては、俺はそれを実に丁寧に呑んだ。
「さっき、ウナギの頭のやつね、『かぶと焼き』が〝ヤマ(飲食店用語で『もうそれはない』の意)〟」であったことに対してのこの悔しさよ。だからその界隈のオーダーを示すも「ナイヨウ」などと店員さん。「そっすか」と、無難な肴を頼んでふふっふっふっふ。ふ? と、その場で小一時間。――帰った。そして、自宅で丁寧に缶酒を進めた。
あれ。今日、何もしてねえな。ぐは。とか実のところそれが正しいのかな、どうかな、わかっているよね? などと提灯みたいな顔をしては仕事の請求書を真面目に送ったり、仕事の受注に対して慎重に真顔のテキストで対応。正確に言うと、わりと何もしてねえベースでもやることはやって今。
人ってさ、俺思うんだけど、〝決めたことを突っ切ることが正義〟というやつを翻す日があってもいいんじゃないかなと。それを実演したところ今日。後悔は全くない。とはいえ〝やっときゃなあ〟という気持ちは拭えない。しかし。一言で言うと気持ちいい日だった。とはいえ、それに限ると、ウナギの頭に似て非なる。などと言うと、とか思った。
_09/04
ウナギの頭くらい人間放棄していたのか。と、一瞬だけ昨日を振り返りつつも今日の営みの真面目さよ。と、襟を正して日を過ごす。
たくさん仕事をする。丸二日サボっていた創作もする。楽曲制作。ストリングスパートを録音する。各種の旋律の決定。
他の制作者がどうか知らないが、俺はどうにも、メロディを並べるのにやたら時間がかかる。とはいえ、楽曲の主旋律はすでにある。それを装飾する役割がストリングス。つまり、主旋律とぶつからない(同一のメロディラインとして当たらない)ようにすり抜けさせる鮮やかなカウンター。それが必要。つまり、ストリグスアレンジ工程においては「ストリングスのメインメロディ」を固めることが優先される。
ややこしくなってきたが四重奏で言うと「ファーストバイオリン」のパート作成が優先される。それをつくって鍵盤で弾いて波形にした。そして「セカンドバイオリン」にあたるパートも録音した。それでストリングスパートは無事終了。ともできるがそれだと面白くない。
〝四重奏〟と自分で例えるくらいだからあと2つはパートが欲しい。それらは「ビオラ」と「チェロ」。前者はバイオリンのハーモニーの仕事をして、後者は低音域を支える。
とはいえ、すでにエレクトリックベースでどっしりと低音パートは録音済み。カウンターメロディーの鍵盤パートだってある。ギターカッティングもある。それ以上要らなくねえか。とも思うが楽曲が言う。
「その隙間は〝余白〟じゃなくて、まだ泳げる〝余地〟なんだ」と。だからそれに従い、あと2本のストリングスを――というところでDAWを閉めるべき時間。ちょっと過ぎた。十分すぎるというか過剰なまでの休みを明けての今日だから過ぎるくらいで丁度良い。
とも思うが、そういった日の密度を連ねたある種の反発として死ぬほどなんもしていない日が生じる。それはそれで別に。とも思うがなんて難しいんだ。配分。
――ということが言いたいから、楽曲におけるアンサンブルのことを改めて言語にしたのかなと考えると、どの時間にどれくらい、どれとどれが役割をなして成立に向かうか。余剰はないか。過不足ではないか。逸脱していないか。凡庸ではなく中庸なバランスであるか。その尺度をきっと考えていたのだろうが、文字に起こさないとわからないのはどうしてだろう。
――アンサンブルにおいて「指揮者」がいる。彼は全てを把握している。指示を出す。それに従い、調和をなす。だが、彼が居ないとなるとオーケストラの全員が右とか左とか見ながら「合ってますかね?」などと不安の挙動を露骨に表しては悲惨なコンサートとなる。
そのようなくだりも思索した結果、〝余白〟と〝余地〟は異なる。と、たった一つのことを言いたかっただけの気がしてきた。
真っ白のように過ごす日と、塗りつぶすべくフル稼働する日の違いと見極め。それを指揮してくれる者の所在とは。
人間は一体、何を指針として動いているのだろうか。そこにはまだまだ考える余地がある。余白として残す手もある。そればかりは、正解があるのかどうかが俺にはわからない。だけど、いろんなパートに触れることでそれはきっと、形になっていくのかな。
_09/05
きっと、今生で人類果ての郷が視野に。近年の進歩は加算、乗算、そのまた上の、類稀に対峙する速度でもはや乗冪、累乗、しこたま高次演算で進んでは人間が置いていかれるのではという危惧。だがそれを完璧に無視しては二次関数的どころか階乗関数で容赦なく進歩を遂げる。つまりメインで使うAI「ChatGPT」がまた進歩を遂げては1年ぶりのメジャーアップデート「GPT-6 Astra」がご開帳となり宴を散らすかの如く歓喜。よし、即、使おうと試すも滝のように流れるテキストを追うことが不可能という事案に即、対面。もはや、もう追いつけない速度に、とも思ったがよくよく吟味すると謎に画面が下にスクロールできないバグ的現象と判断。俺は激怒した。
新しいやつ、ちょっと試したい。軸索を隆々、延々と分岐してはその顛末はもはや誰にも止められぬ暴走とも捉えられるそのテクノロジーをリアルタイムで体験したかった。だが、画面を下にスクロールできない。
ポンコツじゃないか。そうも思った。だが冷静に考えた。不備には必ず原因がある。俺は少し振り返り、「以前使用していたスレッドだとそのバグは起きない」ことを突き止め、そこで本人、AI、「GPT-5.6」の方に問い詰めた。
「あの。あなたの新しい〝6〟モデルは一体どういうつもりでしょうか」と、ひじょうに丁寧に助けを乞うた。画面下にスクロールできないなんて古典的バグはここにきて意味が解せるわけがない。
――小一時間かけて、GPTからログアウトしたり入り直したり、ブラウザを変えたり特殊なウィンドウで試したり、キャッシュがどうの、アカウント設定やら果てはOpenAIのAIチャットに聞け?「何て聞いたらいいでしょう」と、GPTの不具合をGPTにその報告文を拵えてもらい丸投げするもOpenAIからの回答は何を言っているのか本気でわからないものだから「何て言ってるんすかね?」とGPTに解読してもらっても「出力/ソース/メモリ」だの「UI(ユーザーインターフェース)が――」などと技術屋じゃねえんだ俺は。と、激昂を通り越してだんだん大人しくなってきたものだからもう、一旦Macを再起動というほぼ諦めのムーブでそれをする。再度GPTにログインして――だめです。と、GPTに言う。
もう疲れてしまって画面をぼんやり見ていた。すると、「GPT-6 Astra」の画面右上に不可解な小窓のようなものがあった。そこをスクリーンショット添付してGPTに言及した。
「この枠みたいなのがある時はだめなんすよ。どうやっても画面下に行けなくて」
「その枠はは新たなUI――」
「てことはこれを引っ込めれば?」
「ありうりますね」
目を細めながらGPTの画面上部の方を見ると、これまた今までになかった「Chat」「Work」と、それぞれのモードを切り替えるアイコン的なものがあった。言語通り、前者はチャット用。後者は作業丸投げ用。
俺は壁打ちメインだから前者でいいんだ。という風に思い、「GPT-6 Astra」デフォルト表示らしい「Work」を「Chat」それぞれをカチカチやって「Chat」切り替えたら一発でスクロール不可地獄は決着がついた。なお、「Chat」モードではまだ「GPT-6 Astra」は使えない。
もう嚇怒の煙も残っていないがいちおう確かめた。「じゃあ意味なくないっすか」と。「いえ、数日もしたら『Chat』モードでもいけますよ」的にふわっと返すGPT。しかしそれはOpenAIをソースとした根拠付きなので気長に待つか。と、2時間は下スクロール不可地獄で喘いではとりあえず全部使えなくなったわけではないと判明。安堵した。
現状、デスクトップブラウザ環境において「ChatGPT-6 Astra」は「Work」モードでしか使えない場合がある。そして、そのモードでテキストのやりとりをすると画面を下にスクロールできないケースがある。それらは後日、改善されるであろう。ユーザーの環境によっては事実としてそのようなバグ報告がOpenAIで確認できる。この事実を把握した。
今まで2時間かかっていたことが5秒でできるテクノロジー。しかしそのアップデートの狭間で日の2時間を溶かした。これが本当に憤懣の極みなのだが、ついでにいろいろ勉強にはなったかなと手打ち。
「チャッピーが新しくなったのになんだか様子がおかしい。うわあ」と、狼狽するGPTユーザーにこの事実を伝えたい。俺のように2時間も溶かしてほしくない。この体たらくを拡散したいところだが稀なケースなのかもしれない。
人間はAIにどこまでついていけるのか。俺はうまい具合に付き合っているつもりだと思っていた。だが今日、些細なことだが、たったひとつの勘違いをバグと思い込んでは真偽を見誤るあたり、やはりAIがあったほうがいいなと、そうも思うが、結局原因をつきとめたのは俺の画面目視からの手動操作だった。
俺は、新しいGPTの画面の下に行きたかっただけなのに奈落の底に2時間は居た。そこでの忿怒。そんなのが日の白眉だなんて俺はいやだ。
今日はしっかり仕事をして、最新テクノロジーに迫り、制作も少しはできた。日の記録の一番下の画面にスクロールした際に、文末が八つ当たりに近い義憤の文言だったら品性を見直す必要が生じる。
だから、今日はやることやって、AIの仕組みなどに迫っては学びもあった。機能の発展を能動的に受ける前に、まず目の前の画面をちゃんと確認しろと。その態度がある限りきっと、人類果ての郷は眩いばかりの恩恵を受けた光に満ちては誰しもが最高善を得られる幸福の到達点なんだ。と思うのが吉かな。などと思った。
_09/06
遊泳。水の中でも言える。海やらそのあたりがラベリングに似合いそうだ。でも宇宙でも言える。そこはよく知らない。宇宙遊泳。みんなそこに最終的にはいくのかもしれない。でも、今日は世間を遊泳していた。つまり、息ができるところだ。
目の前に精神科医が居る。彼はきっと医学の畑でいっぱい泳いできた人だ。俺は違う。でも一緒に同じ部屋で息をしている。――俺は聞かれたから言った。「なんだか日に日に若返っていくような感覚でして」。
すると彼はふふ、と発生せずに可愛らしい目をして黒髪を輝かせた。そのあとに処方箋をぶらさげていつもの薬局に行ってはいつものように薬剤師N女史と雑談をしては世間の話をした。その寸前に彼女はというと、一ヶ月分一気に服用したら9割方死ねるほどの薬を調合していた人間だ。俺とは吸っている空気が違うのだろうか。でも、雑談は楽しかった。「ではお大事に」と、「こっちのセリフですよ」と、俺は彼女に対して語尾にハートマークをつけた発話を期待したがN女史、「お大事に」と、笑んだ。浮き輪をつないで遊泳した10分ほどだった。
――呼吸の足かせのような湿度がいやだった。外に出ると前髪が「くるん」となる。それが気に入らない。誰も見てねえよ。だからこそ気にするのは前提、みんなと泳いでいてどこで誰と会うかの半分は予測できない。だからなのかな。――とはいえ仕事も用事も済んだので宅に戻った。スピーカーからの呼吸に集中した。
難所だなあ。と思いながら、決めた範囲である3時間以内に制作楽曲のストリングスアレンジを成功させた。音源完成前に成功。それは筋が通っていない。だけど息でわかる。
四重奏アレンジ最後のトラック「チェロ」のパートを考えながら鍵盤を弾きながらモニタリング精度を上げるためにヘッドフォンをしながら音を重ねると四重奏の息が合った。口角が上がった自覚があった。次に「サリエンスネットワークがいま、確実に俺の脳でこう――」とか言語脳が反応したがそれはいいや。と、思って軽く四重奏とベースとギターとローズピアノとドラムスと――それぞれのバランスをとって思った。「あとは感覚一本で悩まず進む工程だ」と。めしを食べて息継ぎして次。と思ったが仕事文脈の呼吸ですこし、整える必要性を感じたので人工心肺ばりのテクノロジーを使いさっさと次。そこに向かった。
ずいぶん寝かせていた小説の推敲。2ヶ月ぶりにその原稿を開く。その間、すさまじく地味ながら人生観にいくつかの軸索が確実に伸びた感覚を得たその期間の体験と思惟を原料に推敲をした。
すると思いのほか、2ヶ月前までは――今よりも、その前よりもはるかに――呼吸が浅かったとすぐにわかった。そこに秒で気づいては「ここはこうだ」という真偽で言うところの「True」を遊泳しながら促すこと90分。予定通りに進み「この小説は、どこかで息ができるのか」――窒息するかもね。――その可能性はある。――おや。冷静だね。――ふん。息をしたいという意思が肝心なのだよ。――へえ。筋だけは通ってるかもね。
そういう日だった。
どこで息ができて、どこではそれが難しいのか。それを決めるのは誰なのか。いつまでという期限を守るのが正義なのか。そもそも、全てが恣意的なのか。
環境を見渡すと全てが遊泳している。どこかで息をしている。必ず、どこかでそれは停止する。当然、俺が例外なんてことはあり得ない。
ただ、ひとつお願いがあるとしたら、海でいいか。そこだとしたらせめて、その時が来たとしたら、遊泳が禁じられ、はい。わかりました。と、観念する。そのうえで、水面に平行になり、仰向けになって次の呼吸を欲している姿でありたい。
_09/07
どうしてもウナギの兜焼きが食べたくなり、赤羽一番街へ行く。しかしお店はやっていなかった。そうか、と思い戻るが経路にある「いこい」という立呑み屋で一杯だけ呑む。そこで帰ればいいのに、いつも行く別の立呑み屋に顔を出す。空は湿り、お客さんの居ない昼間のことだった。
そこから――いつもの若鳩店員が出勤してきたので彼とお話をしながら過ごす。大量の雨が降ってきた。傘がないので帰るにも帰れない。と、酒を重ねた。――ちらほらと知っているお客さんが来る。雨は止まずにまだ過ごす。――立呑み屋が入るビルのテナントにあるカラオケ。店員が誘うので、その場にいた4名ほどで短時間入る。エレカシなどを歌ってはなんか褒められた。立ち呑み屋に戻った。もう夕方を過ぎている。店が賑わってきた。
そのまま、まだ数時間――。記憶を飛ばすほどではないが、ようやく帰宅し、そのまま仕事部屋のソファに倒れこんでは日のタスクを行わなかった。
目がさめると当然の二日酔いで午前中を確認。いかん、昨日はサボってしまったと悔やんだ。よくねえな。日記すら書いてねえってよっぽど呑んだんだなと。そんなに金は使っていないがよくねえなと、二日酔い特有の後悔の念に見舞われつつ、ソファでまた寝ては夕方現在。つまり、昨日書かずに寝てしまったので、昨日の日記を今書いている。
よくないな、と、呑み歩きっぱなしには注意が必要だと振り返る。これは本当に、ただの反省文である。みなさんと呑んでいる時はとても楽しかったのだが、翌日その真逆の感情に包まれる。楽しさの前借りみたいなもの。気をつけよう。と、思った
09/08
骸のムーブでソファに沈む。二日酔いの特効薬はない。もしもあったとしたら、それさえあれば――と歓喜する酒呑みたちは永遠に呑むわけだから、きっと現代医療やテクノロジーにより「実は簡単に出来ます」というのが事実であるがそれを売りに出したら人口が減る。といった理由で、二日酔いの特効薬はないのかもしれない。
つまり二日酔いで寝てばかりいたのだがそうもいかないと、駅前にうどんを食べに行った。20年以上前からほぼ時が止まっているその立ち食い店の自販機よ。現金以外お断り。というかそもそもそういったアプローチの発想がたぶんない。そしてお釣りを出す際はノブを捻る。これがたまらない。玉子うどん420円。時が止まるも優良価格。
二日酔いの日はこの店のやたらめったら濃い汁のうどんに限る。そう思い喜んで食べるも喉が痛む。食べると喉が痛むのは風邪などではなく酒の呑み過ぎ所以。酒でダメージを受けるのは肝臓だけじゃないんだなと、その取り扱いの繊細さに改めて留意を促そうと考えながらものすごい手こずってうどんを完食。傘で防御し湿りのきつい街を少し歩く。買い物をして帰宅。動画を見ながら「肩甲骨回し」ストレッチを勤勉におこない、原稿用紙を開く。
第三作目はまたしても文学賞の公募に応募することに決めた。それに向けて、せっせと推敲をする。中編小説は始めてだが、なんか俺は珍しい面白さが光ってるんだよな。と、自負できるので丁寧に進める。その際、「ここは削る」「ここは膨らませる」「ここは段落ごと要らん」「ここは前後、文脈的に説明ではない補助、加筆が必要」という判断基準、解像度が明らかに前稿である第二稿完成時、2ヶ月前より精度が上がっている。そういった自覚が出るのは嬉しい。それを繰り返すうちに、諦めずに続けることで――と、夢に向かう中年の姿は側から見たら実に滑稽なのかもしれない。
でも、土俵に立てる日が来ればそんなのは全部消し飛ぶ。という風にマインドコントロールレベルで自分を鼓舞し、原稿用紙に向きあう。いい感じに進む。DAWを開く。プレイバックする。「よくやったなこれ」と、一昨日にようやく仕上げたストリングスアレンジの良さにびっくりする。自惚れではないことは経験則でわかる。――別のトラックを重ねて録音し、DAWを閉じる。
よかった。今日はやることやった。骸のムーブだけで終わる一日なんて本当にいやだ。という、別に休んでてもいい日なのだったが、進めるものを進めたい。原稿を応募して勝負する地点に立つ。楽曲を発表してユーザーに貢献したい。あと後者はちゃんと金になる。前者は、現状を飛躍させる目的がある。
というように半ば格好つけの文章だが全部事実である。半分は、寝て過ごしていた。半分は、というように。
届かなかったけど、得られるものがあった。せめてそこまでは行きたい。そこからまた何をするのかは決めていないが、今は決めたことに、その場所に進むためにやることをやるわけだが呑んでなければもっと進んだのにね。という後悔の念はちょっとあることは正直なところである。二日酔いの特効薬なんてものがなくて本当によかったよ。
数日止む気配を見せない降雨に、何かを諭されているような気もする。
_09/09
日中に仕事をしっかりして、暗くなったら創作をする。という生活。いいと思う。だが気がつけば死ぬ。というのはいやだなあという不安が勝手に脳内で物語化されてきたので本気で悲しくなってくる。
楽曲制作は、わかる。仕事の一環だからである。収益に直結するルートと言って嘘ではないのでそのまま言うが、それはむしろ絶対にやり続けるべきである。音楽という初期衝動とアイデンティティと生活と仕事がクロスした営み。それをやり続けることに対して悲しむ理由はひとつもない。なんならもっとつくれと思う。
小説執筆は、どうだろう。始めて1年9ヶ月。ひとつも結果を出していない。今さっきも第三作目の推敲をしていたが、これが公募にひっかからなかったらもちろん、金にはならない。金のためにやっているのかと言えば、正直に言うとそう。ただ、賞金目当てのみというわけではなく、受賞まわりのその先の「書き続ければ仕事、営みとして成り立つ」という場所に行くのが本流の目的。
しかし現状を吟味され、「ずいぶんと無駄なことをしていますね」と言われれば殺してやりたい気持ちを倫理的に抑え、「論理上は、そうですね」と、たいへん丁寧に返す。だが、その状況が長年に渡りまくってはそのうち――なんてことになったら実にたまらない。という気持ちに今日は纏わり付かれた。
現実的に、第二作目の長編は最終選考に残らなかったもよう。本格的な結果が判明するのは10/07。そこで「選考的にどこまでいったのか」を確認する。そして、その作品は今振り返っても結果が出なかったことに憤慨しかないので次の公募で再挑戦。という絵図をかいている。――と、その前に第三作目の中編を。というのが筋。そこで、原稿用紙に向かう前に思った。
これもだめだったら、第二作目の再勝負もだめだったら、俺は第四作目を書けるんだろうか。そもそも、その気持ちは残るのだろうか。
というもの。だから都合よく考えた。
俺の第一作目の楽曲。初めて作曲した曲はどうだったか? 20代の頃なのでなんなら記憶があやういほどである。そこからバンドの曲をつくり続けてはダメで、コンペ作家みたいなことをやっては一律引っかからず、くだを巻きつつも作曲はしつこく続けては30歳をけっこう過ぎてからようやく、公開楽曲が人様にダウンロードされるという体験をした。気を良くしてそれを連ねた。気がつけば、公開楽曲は100曲を超えた。10年前につくった楽曲がいまだに稼いでくれるシステム管理下の恩恵にを賜っている。だから悲観することはない。
だが、この論理で言うと「100本小説書けばなんとかなる」というすさまじい遠路ともなりかねない。それをやれるのか、と言ったら飛躍。だが、超絶自信作の第二作目が通らなかった――厳密にはまだどこまで健闘したかは後日までわからないが――忿怒の気持ちは一生忘れないであろうと。遺恨ではないが、そういった執念とかがないと。という風に雑には片付けたくない。
ただ、「その時にあきらめなかったことが現在、物を言っている」という事実が、不安が勝手に脳内で物語化だかなんだかそういうのあるんだったらそれを次の小説にでもすればいいのに。という風に今は思える。
なんだか自分で書いてて暑苦しくなってきたから缶酒2本呑んで冷却して寝よう。そういう風にたった今思った。
こういう風に、不安とか悲しみの感情って都合よく熱することもできるんだ。などと思うが、――小説については結果が出ずにただの戯言で終わるか、作家としての土俵に立てるか。
ただのその最中と、日中に仕事をしっかりして暗くなったら創作をする。という生活。これを、気が済むまですればいいのであろうか。
今日に不服はない。そういう日を続ければ、そういう日が徐々に変容していくなかで、今は全く知り得ない先があるのかもしれない。不安をアレンジするには、きっといくつか方法があるのだろう。俺はそれを、そんなにいっぱい知らない。ただ、今日に不服は全くない。
_09/10
これ、どうなるかな。と、楽しみながらする創作は楽しい。どうもならなかったらどうしよう。と、悶絶しながらする創作は苦しい。どちらが正解かは場合によると思う。基本的には前者でそれを今日も行う。しかし、妙な軸索も伸びる。
「苦しみが足りないから結果が出ないのである」というのが不文律だとしたら、俺は根底から間違えているのかもしれない。
「楽しみながらやるのが前提だがすぐに結果を望むのは尚早である」というのが原則だとしたら、俺はそれを知らないわけではない。
じゃあ何をくどくどと言うのかというと、上に挙げたふたつ、今日がどっちの状態だったかというと両方であり、それをいちいち言うような奴に未来はない。などという御仁が世界を支配しているとしたらそいつに異を唱えるよりもハックした方が早い。という風な物騒なことは禁じるのが正しいのかは俺はよく知らない。だから、ぽこぽこ言わずにつくって出してつくって出してと、それを今の馬力でひたすら愚直に行なうのが吉ではあると思えど、「もう無理ですよ」と、和室に転がっては灰皿を満たして天井の板の配置から何か壮大なヒントはないものか、という高次元に行く前に現実的な次の次元に行きたいなと、要は今日もそのように営んでいた。
そんななか日を振り返ると、でもそれが、やるだけやって結局は「心残り」の一言で終いだったら――という風にも思った。
『情念論』に書いてあったな。心残りについて。
“心残りも悲しみの一種である。これは、つねになんらかの絶望に結びつき、享楽がわたしたちに与えた快感の記憶とも結びついている点で、特別な辛さがある。――”と。
そうなると今日の前提が「悲しみ」になってしまう。
そうではなく、楽しさがどれくらいで、絶望に結びつくほどの感情がどれくらいで、それぞれの配分をどう制御すればいいのか。そもそも制御できるのか。あるいは、そんなことは考える必要がないのか。でも、それをもうひと回し考えると、やっぱり考えることではない気がしてきた。
なんとなく腑に落ちることがあるとすれば、焦りのような感覚の先に心残りという感情を予測することは、毒にもなり得るのではないかということ。
だから今日も予定通りに仕事もしたし創作もした。ただ、日を閉じようと思考を掘り返してみると、バックグラウンドでは上のような心境がチラッチラしていたことが露呈した。
それを悲しみと一歩でも捉え出したら、楽しさの配分が〝わからないくらいのペース〟で減っていちゃうかもね。という風に思うことで「制御」というのは可能なのだろうか。バックグラウンドでは以上だが、表面上はまじで普通に楽しい日であった。
_09/11
毎日、AIを使う人間はいまどれくらい居るだろう。使わなくても生きていける。だけど使うと便利。その代わり、その使用等の程度によっては、生きていく上で必要な源泉が〝わからないくらいのペース〟で減っていってはある日を境に全員死ぬ。という風に考えているのは俺だけだろうか。
OpenAIとかそのへんの技術者が警鐘をつんざめいた。この速度でのAIの進化はまじでやばいよと。だからいろんな企業が「ちょっとAIの開発ペース落とさないと人類がどうの」と、誇張ではなく、そんな風に判断しようとしているとかなんとか。ビル・ゲイツさんもそういった立場らしいというニュースを見ればそれはびっくりする。
――生活圏に戻る。世界のそういった声を危惧すると寝込みたくなってしまうから。だから俺はと。今日もしっかり仕事をして創作を。そういう日だった。
合間にYouTubeを開けた。よせばいいのにそれ関連のニュースを閲覧した。関連して、「生成AIによる小説が――」という文脈の動画が視界に入り、食指が動いた。
それは端的に、生成AIの普及により、文学賞への公募数が跳ね上がっているという事実。いろんな文学賞の年次推移データが折れ線グラフで示されてはそれは露骨だった。その中には俺の初作品が即死した『太宰治賞』も含まれていた。
簡単に考えると、AIで小説を〝生成〟できるものだから小説の形にすることが容易くなった。その内容、どこまでAI、どこまで人間の執筆、その割合は変数すぎるので置いておき、とにかくそういう手法で小説を完成させて公募に。という傾向があるということだった。
AIが生成する小説。それは立派なクオリティだ。俺は先月に試したからよく知っている。正確に言うと、勝負と実験だった。どういうものかと言うと、まずテーマと文字数を俺が決め、AIに小説を生成させる。俺は自力で執筆する。完成したそれらを、生成したAIモデルではない別のAIに「どっちが面白いか判定をさせる」というもの。結果、俺は負けた。
だが驚いたのは、「勝敗とは別に、どっちがAIがつくった小説か?」と、AIに聞いたら、俺が執筆した小説を指したこと。ふざけるなという忿怒はなかったがとにかく驚いた。
という、どうでもいいエピソードを挟むことに意味があるとしたら、〝現状で既にAIが生成した小説は人間の執筆と見分けがつかないレベル〟ということの個人的証明。
――公募の話に戻るとなんでも、選考員サイドも首を傾げているという文脈もその動画では紹介されていた。それはそう。応募数が増えればそれだけ選考にあたっての労力・コストがかかる。そして、AIで生成されたか人間の執筆か見分けることができるか問題。これが現状では極めて困難との見解。たいへんだなあと思った。
という呑気な話ではなく、俺は深めに考えた。というのも、世にたくさんある公募の募集要項には――「生成AIの使用について、使ったならどう使ったか細かく書いてね」的なことが明記されていることが実際にある。現に、俺が第二作目を送った『文藝賞』がそうだった。ということは。
未来がどうなるかはわからないが、AIを使用することが前提での小説の執筆(生成含む)が当たり前になるのではということ。
全然深く考えてなくただの事実と憶測だけだがここから。――深めに考えると、「じゃあ、人間が小説を書く意味は」ということ。それは簡単な話である。俺が何で小説を書いているのかということをまず晒せば話は比較的早いからだとちょっと思ったからである。
原則として、俺は自分の小説をAIに投じて壁打ちすることはあるが、本文を生成させることはしない。編集者扱いの使用方法。厳密に言ったら「それはAI使ってるだろ」という話になるが、たぶんここからが境界線だと思う。
AIがないと冒頭から結びまで小説を執筆できないスタイル。AIがなくてもそれはそれで全部執筆できるスタイル。
前者は、今後AIまわりでなんらかの法的整備があった際に「書き続けること」が困難になる。後者は「そうっすか」くらいでダメージはほぼない。ということは。
〝人間が小説を書く意味は〟という命題は、AIではなく〝その人間が生成したいことがあるかどうか〟ではないかということに帰結する気がする。
どうでもいいかもしれないが、こと俺に関しては、思うことをずっと書いていたいからであり、それをやり続けることが社会的に生産的となる場所に居たいからである。そうでもなければ今日も書いていたりしない。AIで生成すればすさまじい速度でそれっぽいのが――実験で判定させたら俺より面白いやつが――生成できるのだから。
以上が今日感じたAIへの脅威。
以下は、読み手と書き手としての愛の内実。ひと段落。
「その人がどういうつもりでその文章を書いたのかを感じたい。そこで得られる人間同士の繋がりは最も原始的で、最も透き通った源泉だとずっと信じている。しかし、時に毒を含むわけだから場合によってはどこまでも引きずられる。それが、生きていく上で必要な源泉だと好いている。俺はそういうのを、広い世界でずっとやっていきたい。それをどうか許可してほしい」。
_09/12
晴天下の水面に散らばる光は凝視せずとも目に入る。でも、意識を集められていない時には何もない。ただ、それに気付くかそうでないかで、決定的な何かが浮き上がるか、そうではないか。
一体何を言っているのか俺にもわからないのだが、原稿を書いていて、こうかな、と磨いていたら上のような暗号が露出した。
――長らく止まらなかった。それに逆らう術を知らない。ただ、平坦に昼夜が交差した。その間、上も下も濡れていた。呼吸は尋常だったがあまりにも長い湿りは気付かないうちに侵食する。雲の色が頑なに変わらなかった。ふと、オレンジ色が見えた。久しく会う友人に挨拶は不要であるかのように、その色は、理由を問わずに湿りを拭うようだった。
要は、仕事部屋のエアコンの隅っこからとうとう水漏れしてきてはまずいと思い、直下に「コップ」を置いては何秒おきに一滴落ちるか。60秒ほどか。じゃあしばらくコップで凌いで様子を見ようとするも被害規模は小さいがどうにも気になるのは俺の気が小さいからかと徐々に徐々に恥ずかしくなってきては数日、ふざけるな。その下には本棚だ。しかもIKEAで買ったいいやつだ。さらには数多の重要な資料、資料と表現したい本が納めてあり、それらにとって水は天敵。「ばしゃ」くらい注げば即死する物質的記録媒体に何という酷い仕打ちをしてからに何か俺に責任があるのか? とうとう償う時が来てはすさまじく地味な罰の手法でじっくり俺に改心を強制させているのだろうか? 心当たりを問われれば「すっ」と小さく息を吸っては胸中から罪あたりを探すところからでなければ許されないのかと思えどとにかくあんまりだ。というくらい、雨天が続いた。それがいっとき、今日は晴れた。太陽がとてもありがたかった。
そのような天気と気持ちの同期というのだろうか。表裏一体な関係値には、抗えないのだろうか。そのへんは重要ではない。ただ、降雨は気持ちも湿るし晴天は言わずもがな。それは日々の営みのメーターの閾値をわりと揺さぶっている。
だが、その影響によりけりで日にすることの配分をどうこう。というのはあまり好きではないので、今日も普通に仕事をして創作をした。特に、後者から「今日までよく見えてなかったな」というものが、実は目の前にあるのだが見てなかっただけであることに気付いたような感覚だった。
でもそれは一朝一夕ですばやく立派に高めの解像度でうんぬん。という類ではないとも思った。
意識を集められていない時には何もない。と、冒頭で言ったのはきっとそういうことだろうか。意識自体はあるが、それを統合するには時間がかかる。そのためには、普段通りではない生体的な動きも必要だろうか。心象的にも。だから、8月はおかしなムーブが多かった。
だが、それがないと今日、決定的な何かが浮き上がるかそうではないか。などとこれも冒頭で言ったことだが、確かに浮き上がった感覚があった。
別に長々と書く必要もないと断じられる日はそういうものなのかなと思った。
晴天下の水面に散らばる光、くらい眩いまでの綺麗なものを原稿用紙に書いているわけではないが、確かに、その例え以外は出てこなかった。ただ、そういう日だった。
_09/13
煩悩丸出しで小説を書く。その内実は、世に出たいとか認められたいとか普遍的な承認欲求だろ。と、一言で片付けられたら俺は黙る。ただ、ひとつだけ抽象的に返す言葉があるとしたら、それはレディオヘッドみたいな音であってほしい。全て、あるべき場所で、みたいなやつ。
つまり、いま改行に悩んだくらい俺も何言ってるのかわからないが改行したらわかった。簡単だった。〝その人が、すべての人が、その中での一人が、あるべき場所で元気であってほしい〟という、ただそれだけのことだった。そこにただただ、執着している。
執着について。『情念論』だったか『ニコマコス倫理学』だったかうっすらだが、そのへんの書籍に詳しくその実態が書かれている。本棚から掘り出して引用して重ねたいところだがその気力、あるにはあるが時間の都合を考えるという、デカルトとアリストテレスには申し訳ないが執着とは真逆の性質にならうことにする。
つまり執着の細かい観念やら概念についてはすっ飛ばすが、何に俺が執着しているのかと言うと、あるべき場所におさまって、移動もしつつ、その場所で、〝その人〟がその人らしく元気でいられるという、態度。
その態度に執着するとろくなことはない。そういう世の中になることに強い不安を抱いている。嘘ではなく、AIの発達の文脈。それをここから広げると、まとめるまでえらい時間がかかりそうなのでワンフレーズ。その人らしさは簡単に生成できてしまう。
――そういう不安はどんどん物語化されては、本当の意味でろくなことにならないので一旦殺しておく。
個性というやつが必要なくなる方角に進んでいるのだろうか。という今の俺の考え方は間違っている。なぜなら、〝らしさ〟というものをほぼ完璧にトレースしてその平均値まわりをいつでも生成できるとなると、「そもそも個性とは」という巨大な問いが生じるからである。こういう風に一旦殺しても簡単に蘇る不安はなかなか手ごわいのでアレンジが必要だ。
不安は一次感情ではない。恐れを察知した上での〝予測〟が不安の正体。
――ちょい待ち。――いいところに来た。考えをまとめようとするとどんどん軸索が――じくさく。かあ。――そうだ。軸索だ。――逆に考えた方がいいよ。ストレートに一本でこう、ほら。男らしくさ。――いや、そもそも俺は考えをまとめようとしていない。――どうしたの?――ひとつ頼みがある。――なんだい。――お前が一発でまとめてくれ。――いいよ。
仕事をして原稿用紙に向かい小説を書く。報われたいという煩悩がはみ出ては悶絶の方角が飛散しては主体を見失い「不安」という実に単純な言葉に翻弄された。一旦定義づけたがその先には変数の枝がある。それを、どの幹からどう生えてはなどとまとめようとすると逆に分岐してはどんどん強固な命題が濁流のように押し寄せてきては「煩悩」の意味すら危うくなってくる。主体は、そもそもどういうことかを一言で言いたい。だが、AIまで話題に持ち出すとヘイフリック限界すら無視してどんどんと思索が分岐する。だから「執着」という簡単な言葉を持ち出すもその真意をもって正しく使用するには偉人の力が必要。それを避けるとさらに枝が伸びては「全て、あるべき場所」の地図がばらばらになる。その状態を言語として一言では言い表すことは不可能ではないが、その言語は明日にはまた動いて別の機能をする。つまり、〝あるべき場所で元気であってほしい〟などという宣言に似た態度を、疑っている。
――お前にしちゃ長いな。――いやね。それだけ分岐してるってことだよ。――そうかな?――そうだよ。煩悩ってやつを難しく考えすぎ。――煩悩って言い方がよくなかったかな?――君は人間なんだからそれがあって当たり前なんだよ。――いや、お前にはそういうのないの?――あるとかないとかそういう感じじゃないよ。――ふざけてるの?――それもないよ。――まあいいや。その、とにかく上のやつまじで長いから一言で頼むよ。――いいよ。――待てい。やっぱ俺が一言で。――なんだよう。
夢とは煩悩や執着ではなく、呼吸や習慣のような執念であってほしい。
――かっこつけすぎだね。ださい。――ぐ。――あと、夢ってそれ。主語だよ。最初に言わないとだめなやつじゃん。――俺、夢について書いていたの?――要するに、君がしつこくやってることが認められたいんでしょ?――みなまで言うな。――僕は、褒めたものじゃないと思うよ。――ひどいなおい。――けなしてもいないよ。――どっちだよ。――自分で言ってるじゃん。――なんて?――呼吸や習慣を褒める人、いる?
呼吸や習慣とは生きることそのものであり、いろんな場所でそれをすれば時に大吉。というくらいの筋だったら普通に毎日が楽しいじゃないか。そうだったらいいな。
_09/14
今日未明、『俺の文章修行』という町田康さん著の書籍を通読した。3周目の再読。今日午後、『The Computer and the Brain(計算機と脳)』というノイマンさん著の書籍を通読した。彼の遺稿。今日深夜、『第三作目』の俺の小説の第三稿が出来た。とてもうれしかったです。
昭和の時代は月月火水木金金。未満くらい、週に6日間ほぼ全日稼働してはようやくありつけた日曜日には家族サービスという地獄の沙汰が当然であったと係りの者に聞いた。彼は今日さっさと寝たもよう。俺も、というわけではないが要は6日間ほど血圧臨界点突破実務時間というくらいのフル稼働しては今、脳の軸索が分岐すべきなのだが何を思ったか逆に、まとまり始めている。
過度が過ぎれば収束に向かう。これ、この世の真理。――ぜんぜんちがうよう。――寝てろ。
――つまり、だめだ。こんな簡単なラインなのに言語が出てこない。だから今は令和だし週に2日以上は休息を。ネコのしっぽを恐縮しつつ触りながら話が通じない前提で「ネコ。これは何のためにあるんだい?」などと人間のエゴの象徴のような質問をそっと置いてはキャットフードを試しに食い、「ネコまっしぐら」という昭和のそのキャッチコピーを想起しては令和のヒット作品『ヤニねこ』を昨晩は鑑賞してはセブン・スターズを台所で一本吸っては簡単にむせた。
アイコスはやさしいよ。むせないので無限に吸える。などと思い今も吸っては「脳に計算機の作用をねじこむならば、俺はアセチルコリン界隈をごまかしてニコチンで補っている。その式は。ノイマンさん。今なら、あなたのその頭脳ならば、それを数式化できるでしょうも」などと思うも今、机に置いてある『The Computer and the Brain(計算機と脳)』の表紙に〝えくぼ〟を見た。
幻覚である。実際には嘘である。また手が止まる。言語が出てこないというか、言語はそもそも出るものではない。存在しない。テキストとして共有可能な〝状態〟にしてはじめてその役割を果たす。ここで「言語のやりとりとは」などと考え出したら俺は憤死する。
だからもう、ゆっくりヒステリック・ブルーのヒット曲でも聴いて寝ようよ。その頃に俺は20歳とかの――言語が止まった。そうか。よっぽど20歳の頃の話をしたくないという心理的抵抗がはたらいたことは明らかなる事実である。その時期はというと26年前である。簡単な計算でわかる。しかし困難なのは――と、ここまでの羅列で、俺の文章は、単細胞的な〝連想〟で一拍ずつ進んでいることが露呈された。
そうでない時もある。そういう時はかっこつけている。しかしそれらの交差点に立って――などとスティーブ・ジョブズ級の偉人のセリフを連想するのは失敬千万。彼が創設したApple Computer, Inc.が1984年に世に出した「マッキントッシュ」からここまで羽を伸ばした「MacBook Pro」でこれを書いている。
――「微妙な脱線に、修正を。」みたいなApple社のキャッチコピーの没案みたいなものは後ろに遠慮なく放り、とにかくジョブズ氏が言ったことは「文系と理系の交差点に立ちたい」的なことである。それは彼の自伝を読んだ上で感銘を受けました。
つまり、俺は酔っ払いながらこれを書いている。というのは正確ではない。ただ、昭和の働き方を模倣して6日間アクセルを全くに緩めず今日、「明日は休日である」という風に週末くらいは自身を許す。というスタイルを行なったところ逆にアクセルというか――「ミッションのギアって11速まであるんだ」などという勘違いに冷や水を浴びせるべく『秋味』というビールをつまんでは泥酔は回避すべく、ネコの例えや現実鑑賞を用いた。そこから安直に連想すると。
昭和の親父は週末だけ、おいしそうにビールを呑んではえくぼを見せては飼いネコに「さしみ」のおすそわけをしては幸せそうだったな。という記憶が交差点に衝突する。
時代により、営みも幸せもぎこちなく動く。
_09/15
傘を手に持って目の前の階段に脚を交差させる。レンガの素材が昇降を促すそれが、レバーの焼き物にしか見えなかった。それを踏み、元赤羽台団地の一角に向かった。その行為に意味はないと自覚した。ただただ環境音がずっと濡れていた。連想思考に水を差した。事物しかない世みたいに思えた。
ひとつも意味がないことをしていても、そこに価値や収益がついてまわればたちまち意味が生じる。などと思って階段を昇った。お気に入りの区画に入った。「44」と、無骨に数字が記されたスターハウスのふもとに着いた。そこに行く意味は、やはりない。
ただ、その場所に行くといつだって例外なく気持ちがまとまる。44号棟を左に見て、正面には団地ミュージアムの建造物。右には、保存が前提の棟。それは横に長く広がる。スターハウス星形の造形とは対をなす。ふと、左を見た。
すると、物件の窓に傘を差す細い男のシルエットが夜光経由で目に入った。反射的に、こいつ死ぬなと思った。そいつは俺なものだからそれは困る。そう思い、吸っていたタバコの残量から逆算して3分ほど居るな、とだけ思った。ここに来ると例外なく、気持ちが不思議にまとまる。そういう風に思ってはもう一度44号棟の1階の窓を見て、シルエットを知覚しては生きている奴が写っているだけの現象だ。と、誰もいないその区画を案外、はやく出た。適当に散歩するには嫌な天気だと、それだけ思った。
――今日未明、すこし酒を多めに呑んではソファで気絶しては正午前。もうひとつ寝ようと思い、寝室に行った。起床したら夕方を過ぎていた。そのあと、界隈を歩いて、意味もなくそこに行った。今日は休日。意味のあることをする気概がゼロだった。9時間以上は寝ていたものだからギアをニュートラルからどこにどう、という発想もなく、せめてアイドリングを。という風に過ごそうと思っていた。生活拒否。
――酒を多めに買ってきた。呑んじまうか。とも考えたが、考えている時点でそれはしないとすぐに気がつき義務のようにデスクトップに行く。最低限のルーティーンをする。もういいか、と何もせずに過ごすことには罪悪感という慣性がはたらく。俺はそれにどうしてもに逆らえず、アコースティックギターの弦を交換した。面倒だなと正直に思った。
きちんとチューニングまですると、季節跨ぎ恒例の弦楽器不備を察知した。良くないと思い、アコギの背骨を曲げようと思った。アナログな楽器は本当に生き物だ。しばらく触らないだけで弦高が嘘みたいな状態になっている。だからトラスロッドを時計回りに矯正した。嫌な音がした。だがもっと回した。たちまちギターのネックは曲がってはいけない方向にいってしまった脚のような状態になり、それを逆に、すこし戻してメンテナンスを終えた。DAWを開いた。開くのは、酒の方が適切な日のはずだが、レコーディングをした。
複数の機材に通電した。48Vをコンデンサーマイクにあてた。パーカッションのトラックを録音した。アコースティックギターのトラックを3つ録音した。初心者かというくらい左指先4本が悲鳴で訴えた。でも、必要なパートだし、今日これを録らないで持ち越すとレバーみたいな顔色で日を跨ぐ。という心象でレコーディングをした。モニタリング用のMDR-CD900STヘッドフォンから受ける高音域が煌びやかだった。
録り終わってGENELECスピーカらモニタリングをした。高音域をとらえる解像度が死んでいた。4時間くらいヘッドフォンしてレコーディングしていたからかなと、年齢が所以であることを防御的に考えないようにした。楽曲全体をプレイバックした。すべてのトラックが出揃ったかなと、しばらく聴いていては嬉しくなってきた。綺麗な曲に仕上がるなこれは、と。DAWを閉じた。
何の意味もない日を過ごす予定だった。なのに、それができなかった。そのほうがいいという風にも思える。ただ、まったくもって行く予定のなかった場所に行くと、一旦無効化された。
物件の窓に映った傘をさす細い男のシルエットは何を言っているのかわからない。それを考えないと、直感的にその時に思った心象が実行される。それは困る。だからなのか、案外な過ごし方の環境音のような日だった。
_09/16
執拗に停止した。ただ、歩きたい、川が見たい、という能動にかられては昼、スニーカーを履いて東に向かうことにした。涼しい晴天、風が運ぶキンモクセイの香りが記憶を後退させた。まっすぐ、川辺に向かう途中の団地。そこにはキンモクセイの現物があった。鼻をあてるとやはり、と感じた。じぐざぐと道を縫うように進み、街の境を目指した。
川辺に着くと、特に思い入れのある場所ではないのだが「ここ」という位置を察した。そこが気に入り、止まってはしばらく水面を見た。濁りの色だったが表面は輝いていた。
上流、下流と、どちらに流れているのか判別不能の波が散らばっていた。ずっと眺めていられる。喜劇を観るより面白い。そういう感覚は停止している状態特有の脳波だろうか。そう、後付けで思った。その場所では、ただただ「どっちに向かうのか」とだけ、散らばる波を見た。右に流れているようにも見える。左にもだ。自由自在にアスペクト転換できる。それは自然の本質なんじゃないかなと、後付けで今思った。
街に戻ろうと脚を交差した。道中、いろんな植物を触った。草は男性、花は女性の感触だ。触覚は直感的に何かを判断する。どの植物も、必ず異なる触覚を得ては不思議と笑いがこみ上げてきた。
真上付近にあった陽がどこかに消えていった。その前後の切り替えを川で感じたかったが、自宅に着いた。ふと鏡を見ると、やけに若返った自分の顔にすこし驚いた。――ずいぶん歩いたかなと、iPhoneの歩数カウントアプリは確認せず、ソファに横臥した。宵の口だった。ただただ、停止していた。
0時を跨ぐ。そろそろか、時計を確認しながら思ってはその場所から動かずに微睡んだ。水を飲みに少し立ち、また戻る。微睡んだ。記憶がどこにあるのか、――意識がどの時間軸にあるのか本当にわからなくなった。そろそろ、と思って体を起こすとスッキリとはしていないのが案外だった。
何もしていない、という義務感に反する意識がPCを立ち上げさせた。オーディオインターフェースが正常作用しなかった。明らかに狼狽した。しかし、再起動の際、経由する別の電源を再投入すると、ぐらぐらしていた「ADAT44.10」であるべきの数値が「44.10」に固定した。サウンドを出力して復旧を確認して安堵した。そこが停止するのは本当に困る。そういった同期も起きるものなのかなと、形而上に考えた。
メールチェックなどの最低限のルーティーンだけして、執拗に停止した。と、書き始めた。今日は、何一つしていない。ただ、感覚と意識が水面に散らばる波のような動きをしていた。
_09/17
小説の第四稿にとりかかる。中長編、というのは初めて書いた。異物みたいな内容だ。これを、今月末締め切りの『文學界新人賞』に応募する。もうすぐじゃないか。とは思えど、その決定事項は先月に決めていたこと。だからペース的には、「あり過ぎずもなさ過ぎずも、むしろ引き締まる時間軸」という風に思っては冒頭から推敲しては「落ちるかもな」「落ちるんじゃねえかこれ?」と、これまでにない心境で進めていたのが案外だった。
初作品の長編は自信満々だった。だが落ちて絶望した。第二作目のもっと長編はすさまじい完成度だという自負に疑いがなかった。だが落ちて忿怒した。
第二作目に関しては正式発表が二週間後くらいなので、どこまで健闘したのかはまだ知り得ない。ただ、初作品は「今振り返るとそりゃあ落ちるわ」と回顧できてしまうのだが、第二作目に関しては本気で納得がいかない。だから、別の公募に再投入するというほぼ確定事項がある。
――それは来月までさておき、今は、まだどこにも出していない第三作目を磨く。でも、「落ちるだろ」とか自分で思いながら進められる感覚がおかしいだろう。という風に思うのだが「良い方に捉えられればこれ、化けるだろ」という風にも同時に思える。主観と客観が逆転する奇妙な感覚。それがまた新鮮で。と、今日は仕事をフルで張り切り原稿も、という昨日とは真逆の営み。しばらくそれを続ける予定。
「落ちるんじゃねえかこれは」という思いは、「駄目元だがせっかくだからいってみよう」という思いとは全然異なる。という自覚がまた不可思議だった。そういう作品だと最初からわかっていた、というのが第四稿の時点でも変わらないのが強みと出るかそうでもないか。――という中間が俺にはどうしても浮かばないから「やっぱじっくり腰を据え、ゆとりのある締め切りの公募に応募しようか」という気持ちにならない。新鮮な刺身を温めて台無しにするくらい、という比喩が安直ながら正確だと思える。
今日は休み明けのロバのような具合で昼を跨いだ。しかし、言語を連打しているうちにそれは末脚抜群のサラブレッドのように――ということを人間年齢の限界値から逆算するところの中間地点あたりでそれを思う。
_09/18
昨日に引き続き同軸で仕事をする。辺りが暗くなりきったら原稿に向かう。すると、整理しきれない感情が落ちる。それを拾っては謎、としか一切の答えが出てこなかった。
第三作目は、やはり公募で爪痕を思い切り残すという〝目標〟があるのに、今日あたりは「この作品は何なんだろう」という謎解きに変容していった。自分でもよくわからない作品を投じていいのだろうか。ということに近い気持ちが広がる。
本作原稿について、「自信作ですか? 力作ですか?」と、例えば編集者と対面して顔を紅潮させながら言及されるシーンにありつけたとする。されど「いや、俺にもよくわからないんですよ」と自身、真顔の立ち上げ方を失念したかのような表情でそれを渡す。と、正確に想像できた。
ただ、自分がやっていることの意味がよくわからなくなってくる。とまで言うとそれは正確ではない。意味はわかる。ただ、原稿に書いてあることの全体像が、テーマはわかるのだけど実態が本当によくわからない。正体がみえない。という感覚が湧き出る。
それは、これまで書いてきた小説ではまずなかったこと。別分野、楽曲制作でもそんなことは一度もない。あったとしたらそれは没としてきた。仕事の納品物やらの場合は言わずもがな。「いや、俺にもよくわからないんですよ」などとクライアントに言うことは禁忌だろう。事実として言ったことは一度もない。
だけど、本気で書いては完成に向かう小説原稿の正体がよくわからない。だから、誰かに答えを教えて欲しい。それが、明るい答えであろうがそうでなかろうが、とにかく何なのかが知りたい。という謎解きへの変容。そういった、アプローチの位相逆転は今までになかった。
正直に、不安ベースなのだが逆にその方が面白いかなとも思える矛盾はそれこそ何なんだろう。もしもこれが、〝その繰り返しと積み重ねが、功を成すことへ向かうスタートラインである〟と、誰かに断じられたらひじょうに納得してしまう。
しかし冷静に考えたらおかしな話。自分で「いい」と思えるものを出すのが正道で、「よくない」と思えるものを雑多に出すことはそうではない。というのが一般論だろうか。どっちでもない。自分でつくった「よくわからない」ものの正体を知りたいという、これまで気づかなかったルートを初めて見たのだろうか。もしかしたらそれこそが突破口の――という風に考えるのは俺の都合でしかない。
――でもはっきり言えるのは、その「よくわからない」ことが既に全て原稿に書いてあること。それを推敲すると、確実に手が止まるか一旦放置するか没にするかなのだが、そのどれでもなく、むしろ想定の倍以上の速さで今日は進んだということ。
わからないものと対峙すると負荷がかかる原則があるはずなのだが、それがなかったのもやはり謎。ずっと鳩のような顔で夜を過ごしていた。
_09/19
