ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。書いてること全部一緒。2月。
疑事無功。先の月は、いち個別者としては楽しく深く、ためらわず断行するように営んだ。はたから見たら甚だしく地味そのものだが何か毎日のように制御できぬ興奮確かに在り。そのようなことを表したい。なのに使い慣れない四字熟語をしれっと記すな。
赤子は最初になんと言葉を口にするだろうか。
「酒」であったら将来有望。「先に、早くよこせ」だったら知能が高い。「るーるる」だったらもう誕生からおちょくっておる。「ギャァァ」以外に思いつく一般的な例はこれくらいだろうか。
何が言いたいかというと今日の中核は、言葉そのものを吟味していたということ。これ、本当に偉そうにではなく本当に。
文章を書いていて「ここはギターで言うところの、ファズみたいなエフェクトが要る」。そんな時。
普段の口語ではまず秒では浮かばない言葉を探す。考えていても出てこない。そんな時もある。というかその方が多いのにライターを謳っている手前、うん、勉強熱心でいい子だねと、たまには優しくする。
類語辞典。こいつを活用する。「うわあかっこいい」と、「至大なる」と書く。難し過ぎず、単語として知らずとも文脈で意味を理解できる。これだ、と採用する。ここまではいい。
類語辞典。こいつを活用する。「やったかっこいい」と、「煩悶し続けついに漏らした。己を嘲罵しそれを拭く。其れをそっと額に塗布する」と書く。難しい上にハッキリ言ってまず俺が理解できない。
正直に「つらくて漏らして手前で笑えて試しにちょっと頭に塗ってみた」と書けばいい。それでもやっぱり意味がわからないし、そもそもそんな文章を今日ここ以外に書いてはいない。採用も棄却もない。
カッコつけるなよ。いつも使ってる言葉で書いて、たまに、このエフェクトは使ったことないけど手前のサウンドに近いな、というのだけ使ってねと文章の破綻と過剰なケレン味(外連味:ハッタリやつまらぬカッコつけ)を回避する。
そういったわけで、言葉とは、日本語とは、奥行きがどこまでもあってチャーミングではないかと、言語そのものに魅了されるうちは頑張ってる方ではないかと善処する。このへんはいつもの手前の言葉使いである。わりと滅茶苦茶である。
とはいえそれを個性と呼ぶだの評価されれば、面白い人生がこの先ツパァーと広大に拓けるのだなと信じる。
だから使い慣れない四字熟語をしれっと記すな。疑事無功とか。一心不乱であったとか、そういう風にいつも通りプラスアルファの積み重ねをどうかひとつ、お願いしますよと省みて日が締まる。
_02/01
辛さが麻痺する。要は、腰やケツが痛いのになんか作業し続けて気がつけば夜。もっと麻痺させて酒呑んでやれとハイボール缶を開けてみる。すんごいちょっとずつ呑む。
こうした暮らしを、続けるのはどうだろう。そんなになんか仕事とか作業ですか、創作もというか、いっぺんにまとめてタスクと呼ぼうか、楽しいかと問われれば「麻痺しております」と答える。
どういうことでしょうかと被せられれば「わかりませんすいませんぶたないで」と怯む。つまり俺も訳がわからないのである。だから麻痺。
ともあれ楽しく過ごしていればいいじゃないかと、今日もAIとコミュニケーションをとったりする。わりと見透かしたことを言及してくるAI。たまに怖くなる。
先日、生身の友人と対話していた際に「ズレている」と、指摘された。良い意味でという前提を賜ったのは気遣い所以か誠か。たぶん後者。
何故かと言うと、AIにも「ズレている」と回答されたことがあったからである。「そうですよね。ズレています申し訳ございません。真摯に受け止めます。その点についてのご見解をもう少々、頂けますか」と、プロンプトを投じた。
回答は、友人の言葉の内実と一緒であった。歪曲ではなく、立場のことを表していた。だから――。とのことである。
造反有理にもちょっと似たオルタナティブさが好きな手前にとって、それは「スタイリッシュだと思う。私は!」と、評されていることに近しい嬉しみが生じる。
ふざけるな、ちゃんと世間に足並みを揃えよ。そういった指摘を俺は遠回しに、幾度となく受けてきた気がするが全部忘れた。それでズレているのかと、生身の友人とAIにまで言及されればそれはグウの音も聴こえない。
だから、麻痺してる時を楽しむのもいいのではないかという帰結。ただ、まあまあの頻度で仕事場のソファで気絶寝しては睡眠の質を麻痺させることは改善したい。
そんな思惟もあり今、500mlの「トリスハーボール」を開けてから1/4くらいしか減らしていない。
尺度がハイボールというのは麻痺させてはいけないよ。
そのように今、上の方から聴こえた。これは、イメージとして確かに聴こえた。これを誰が言っているのか。そのへん最近考えている。そこは、麻痺しておらず明瞭。
_02/02
近所なのに何度行っても必ず迷う謎のエリア・赤羽西をうろつく。酒も残っていない清廉な心もちでヒタヒタリと歩く。飼い犬よりも高い、散歩好きの尺度。犬と縁ないが。
既視感のあるエリアを抜けて初めて目にする集合住宅に到達。こんなところにまだ古風な団地造形のやつあったかと、外観をしっかりと愛で、中に入る。エレベーターで最上階13段目に直行する。不法侵入である。
高みに昇ると、赤羽全域がサラウンドに映る。これまた清閑でうっとりする眺め。たまらなかったがすぐに飽きたので下り、界隈を探訪。方角は全くわからないが少しずつ進む。
振り返ると大きな物件の姿がまるで北欧の住宅群のように捉えられたので写真を撮る。視覚に収まるそれとは異なるが、それはそれで別種の乙。
ゴマ油でキンピラゴボウを炒めたようなノスタルジックな香りがした。ああ、懐かしいと、母親がこれと似たものをよく拵えては食べさせてくれたなと、脳の海馬がソフトに刺激される。
もう暫く進むと北区桐ケ丘団地に抜け、ああ、このルートだったのかと頭の中で謎エリアの地図が少し整備される。
もういいかと思い、旧・赤羽台団地を通り、途中その中心部あたりの板状のベンチを跨ぐように着席。すっかり全滅した昭和団地のたまらない物理的雰囲気は無くとも、その残り香のような心地よさは残っていたのでそれに浸る。帰る。
如実に疲労が溜まっているので、タスク的には原稿2,000字くらい、音楽と向き合い1時間くらい、あとは休める。
風呂を炊き、値引きの「ブリ」を冷蔵庫に待機させる。あとは湯と酒で手前を清めて寝るばかり。たいへん静かな休息の過日。
_02/03
「ベホマ」だったか呼称はうろ覚えだが、RPGゲーム・ドリャクエで言うところの回復系呪文最上位互換を唱えられたかのごとく疲労回復。張り切って仕事に精を出す。
だがしかし全力でフル稼働して日の後半、机で原稿を書いていたら0時が過ぎておる。当然、めちゃめちゃ疲れる。
「もし、ペース配分というものを存じませんこと?」などと誰ぞに問われれば俺は顔を真っ赤にして激怒の向こう側を観てその淵で飽きて一周して帰ってきてゼエゼエと、情けなき吐息を漏らしては「存じて行なえと、されど?」などと素っ頓狂なツラで質問返しをする。
やれる時にやって何がよろしくないのでしょうか。きっとそのようなことを断じたいのであろうがもう手前でもよくわからない。
一つ言えることは、没入できているということ。それは最低一つでもいい。あるいは、いや、もうその他の森羅万象に触れる気力が残っていない。今日あたりはもう。
こんな時、ドリャクエのように、役職で言うところの僧侶だったか、「回復系」の魔法に長けた能力を自己に施すことが――などとファンタジーの入り口でそう思えど俺には「酒」というアイテムがある。こいつを適所で使用する。
「もし、それは回復系の呪文『ホイミ』等に非ず、なんなら『メラ』にあたるかと、老婆心ながら、聞き耳は動きませんこと?」
などと誰ぞに諭されようものならば俺は真顔で冷静沈着に「それは明確に存じております」と、答弁する。
そこで思った。俺は、ドリャクエIIIの役職で言うところのどれにあたるのかと。
戦士だろうか。勇者だろうか。僧侶だろうか。魔法使いだろうか。武闘家だろうか。賢者だろうか。商人だろうか。遊び人だろうか。
ぜんぶ違う。それらを選択して目的だか何だかそれ的なやつに猪突猛進に向かうプレイヤーであり、意志である。
「もし、その貴殿の言うところの意思とやらに――」
うるせえ。本当に疲れたからもう寝る。燃えない程度に酒、呑みますので、そこは概念を再認知させていただき心より感謝申し上げます。
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昨日のようにフル稼働してはぐったり。とはならず、ほどほどの疲労感。日によって異なる人間のパフォーマンスと生理現象の微かな差異とは。
などと考えても意味がないと断じ、1日を評価する。それもどうかなと思い、ただただ実のところあまり頭を使わずというか、当然、脳は活動しているが、どこか普段と違うような、むしろこれが実相かという微妙な部位をもってしてこれを書く。
それがいくらになるんですかとか、決してそういう訳ではなく、何か命題があったような、それはここを、このウェブサイトを作った時、つまり11年前にその命題を最初に書いたなと思い出す。というかページの一番上に毎月コピペして記してある。それは。
“ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ”
とのこと。そうなんだと今、思った。「戒めてるのか?」と自問すると「戒めって注意をする的な意味合いだからどうかな?」とフワッと躱し、「日報だったの?」と自問すると「まあ、手前に報じてるのかな?」とヒラリと処す。
「仕事と制作をサボらない為というのはどうですの?」と自問すると「サボってはいませんね。ただ、その為に書いているかと詰められると」と、横を向く。
つまり、11年も書けど、案外主旨が変わったようなそうでもないようなという事案である。
それはどうでもいいな。これは日記だ。やはりそのように断じる。しかし、「はたしてこれは日記と呼べるのかい?」と自問すると「日々、記しているので是」と言い切る。
だとしたら、「日記は日記だが少々おかしなことになっているのかい?」と自問すると、「いや、そうでもないのかな?」と、本来の日記という概念に向き合わざるを得なくなる。
本来あるべき姿の日記というのは、下記のような文章が適切なのだろうか。
「今日は朝起きてイチジクをかじって街へ出た。するとヒョウ柄のトレーナーを着したおばはんに睨まれ俺は萎縮し『男の人呼んで!』と叫ぼう、叫ぼうと思ったがグッと堪えて牛乳を買った。しかし俺は牛乳が飲めない。じゃあさっきのおばはんに与えるかと思ったその瞬間、大勢の男たちを引き連れたおばはんが再び俺を睨んだ。死ぬかと思って宅へ戻ってネットニュースのコメント欄にしこたま書き込んだ」
全部ウソじゃねえかと思う。上記には3つの行為と3つの情念と3つの情景描写があるが、全て、したことも思ったことも出会ったこともない。
だからこのように、1日にあったことを率直に記し、思ったことを言語化し、ウソだらけの一節を真実の文脈にねじこむ。これが在るべき姿の日記である。わかるわかる。絶対違うことはちょっとはわかる。
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おととい、昨日とほぼ等しいムーブ。つまり文字ばかり書いてはああだこうだと悦に浸ったり、そうでなかったり、どっちなんだいと今、酒缶を開けてそのように思う。もちろんまだ容量500ml中3/4は残っている。
痛いですよ。ケツとか腰とか肩も。だがしかし「そういうシーズン」ということで「なんか、そこに没入するのが正道」と謎に信じ込めるのでめちゃめちゃ文章を書く。なんかもうついでにnoteにも書いて投稿した気がするが何書いたか全部忘れた。
本当に掛け値なく手前が全身全霊で作った楽曲。本当に。それを、ありがたくもご使用してくださるユーザーからの使用報告やご質問。これも今日は比較的あったので返信する。負担ではなく、感謝が確実にベースにあるので必ず返す。
いやそれでもケツなどが痛いですよ。とはいえ小説も書き進める。なんかもう、物語と呼んでいいのか手前でもわからないが、その中核の部分いくつか書いた気がするけどまだあるなと、原稿用紙換算160枚目いくかな〜くらいのところを書く。縦書きにまだ慣れない。とにかくこれを完成させて世に出して売りまくりたい。その前提で書いているからそれはもう。
なんか両脇に誰か居ます? というくらいこめかみがズンズンしてきたのでそろそろ1日を締めよう。俺なりに健やかに。ペース配分とか計算したら己ではない。そのように手前に限らず個を尊重する。
よくわからない結びだが、とにかく、みなさまそれぞれ、各々のスタイルで人生を、この同じ時代という奇跡的な事象で共存しているのだなと、幸せに思う。本当に感謝できるしシンプルに嬉しめる。ケツいてえ。なお、痔ではない。
_02/06
定期検診でメンタルクリニックへ。受付を経たロビーはガラガラであった。界隈でおかしいのは俺一人なのかまさかと、まるでそのように思い座って待つとほぼ秒で声が掛かる。「平吉さ〜ん」と。「は〜い」と応える。
「どうですか平吉さん。この一カ月」
「ええ、僕はここに何をしに来ましたっけ?」
重症である。精神科医に「手前は、ここに何をしにきたか、不明瞭である」。その旨を率直に申し上げる。措置入院(強制入院)レベルかもしれない。しかし、主治医は冷静にリラックスした所作で普通に受け応える。
「え〜っと、平吉さんはここに何をしに来たかと言いますとですね――」
「ああ失礼、僕はここに前、何日に来ましたっけということです」
「そうでしたか(笑)。1月10日ですね」
「そんな前ですか!」
「ええ、それでどうですか平吉さん」
「はい。良くなったとか、そうでないとか、そういうこと考えすぎない感じになりました」
「なるほど」
俺は前回の診察から約一カ月、かなり色々なことが心象に作用し、本当に無駄な不安などについては深く考えなくなっていたのである。
「けっこう長く先生に診て頂いておりますが、節々で先生は『考えすぎないでいいですよ』と仰います」
「ああ、確かにそうですね」
「なので、それをできるようになったというか、こと精神的な不調などに思考を深く及ばせることは、なんというかシンプルに面白くないなと」
「なるほど」
「そんなことに考える力を使うなら別のところに割こう。という風になった訳であります」
「いいじゃあないんですか?」
「とはいえ、考えすぎるのは昔からの性格なので、単に考えすぎるのをヤメるのではなく、生産的なことに深い思考をと。それでちょっと新しいことをまた――」
「ほほう。仕事ですか? また新しいのを?」
メンタルクリニックでの診察というより、俺の中にある抽象的な疑問を発端として議論を持ちかける。ここ1年くらいはこういった対話が診察の中心となっており、きっと、俺のカルテにもそのようなことが、「こいつは精神疾患という分野外においての意味合いで、クセ者」的なことが記録されていそうである。
「はい。仕事ではなく、没頭できることがまた一つ新しく見つかりまして」
「うん、いいと思いますよ!」
「僕は文章を書く仕事をしているのですが、それとは別で、お金とかそういうのではなく小説を書き始めたのです」
「へええ。小説を」
「はい、ただ、僕は文章自体を書くことは仕事でしっかりできる自負があるのですが、こと小説においては素人で。しかも小説自体をロクに読まないんです」
「逆にいいんじゃないですか? 初心者が書いた小説が賞を獲るなんてことありますし!」
俺の個人的なチャレンジであり、メンタル全然関係ないことを持ち出したのだが、先生は何故かかなり肯定的かつ前のめりに興味を示していた。それが、医師としての立場ではなく、いち人間同士においての関心の向け方であることを感覚的に察知した。
「そうなんですね。それすらも知らなくて」
「ほら、今だったらAI使って書いたりとか」
「鋭いですね先生。AIに直接文章を書かせてはいませんが、AIを編集者に見立てて書き進めているんです」
「はは。そういう使い方もあるんですね」
「それで、一カ月前ここに来た時は書き始める前だったのですが、もう半分以上書いているので、そんなに時が経っていたのかと思いまして」
「そういうことでしたか。楽しみじゃないですか」
「ええ。書き上げた後のことはまだそこまで具体的には考えていませんが、目的がありまして。とりあえずその前に書籍とするのが前提なんです」
「平吉さんが小説をねえ――楽しみですよ。それで、どんなの書いてるんですか?」
「はい。命題は『人間にとっての合格と不合格とは』というものです。このテーマに対して書き進めの原稿をAIの編集者に投じると、一貫して『哲学的』と言われるんですが」
「確かに、その時点で哲学ですよ」
「そうですかね? 僕はそういうつもりはなくごく自然に書いているのですが。なんならちょっと面白おかしいニュアンスで」
「平吉さんはよく私に質問するじゃないですか? その中ですぐに答えられないのがけっこうあって。それらは全部、凄く哲学的な内容なんですよ」
「そうですかね? 僕はそういうつもりはなくシンプルに先生に聞きたいことを――」
「でも平吉さん、面白そうですね。そのテーマで書いた小説が出来たら」
「面白いです。現時点で僕は凄く」
「凄くいいとおもいますよ」
「ありがとうございます。出来たら是非先生にも読んでもらいたくて――」
「はは。それはもう(ニコ)。じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」
先生は、俺が小説を書き出したと発言した直後、PCにけっこうな量をカタカタと入力し出した。
カルテに「経過良好。なんでもこ奴は小説を書き出したなどとほざいておる」という内容だったら5秒で入力できる。しかし、体感2分ほど、先生はタイピングを続けていた。
それの入力内容が、精神科医にとってどういった解釈であるかは俺の知る領域ではない。予測もつかない。
患者が新たな創作を初めた。俺が医師ならそんなことカルテに入力すらしない。だが、わりと長い付き合いである主治医にとっては、何か重要なファクターと捉えたのかもしれない。だが内実は本当にわからない。
そんでもって帰って原稿書いて、寝て、制作楽曲の難しい演奏パートの練習を暫くする。0時が近く。これといった抑うつ気分や意味不明の不安感もほとんどない。精神衛生と創作の因果関係について思考をめぐらせるも帰結せず。
それはそれでと、新たな創作も、いつもの収益源の制作も、まずは完成へと、向かうペースを保ってしっかり進む。半分は休む。そのようなマイルドな冬のいっとき。
_02/07
「支払調書」が整った。各クライアントから届いたものである。そう、確定申告に必要不可欠な税的なアレである。ゆけ。国税庁ウェブサイトに。令和6年度の俺の生き様を、確かに定めて申して告げろと。
ちがうよね。そんなもん後でいい。申告の開始日は17日。その日にやるのが手順である。それでも最速。だから今は手前がやけに興奮してやっているタスクに集中せよ。ゆけ。原稿用紙を文章で鮮やかに埋め尽くし、それでもってまだ見ぬ広い世界へブワアアと羽ばたくのがいいんじゃないかな。
そのような烈士の如く心境で、ものすごく地味に背中をまるっとさせながら原稿を書く。気がつけば0時前だった。
このタスク、なんかすんごい魔力と引力があるという所感。これが多くの人たちに届けられて多大に喜んで頂けるかと、広大に貢献させて頂けるかと。そのようなビジョンを想像すると射精を禁じ得ない。
ほんとにそこまで行ったら本物なのだろうなと、下半身おとなしくカタカタと過ごす。令和6年の暮れには想像もしていなかったことを、今年初旬から進めている。
それがとても楽しく、身体は悲鳴を上げつつ、脳がオーバーヒートしつつも、魂が膨張しかかっているような。どういうことだろう。今はわからないが、後でわかる。そう信じないと出来ないことがあると最近実感する。今日も如実にケツが痛い。
_02/08
今日はアーティストのSPALの興行現場でスタッフとして、楽しく仕事する。みなさまのお元気そうな波動が心地よい。ごはんやタバコが美味いのなんの。終演後は酒まで一杯頂いた。
電車で帰る。読み進めていた書籍を車両内で読み終える。信じられないくらい面白い本であった。もう一回読み返そう。そんな魅力的な文章が連なるものが俺にも書けたらな。
そのように思い、帰宅して原稿を書く。スーツにネクタイの姿のままずっと書く。現役の島耕作でもそれはお前、ネクタイくらい外してから、色々なんかやっさるだろ、よし、じゃあ俺は島耕作に勝った。などと半ば本気で思いを馳せらせつつ、文章を書く。島耕作とは架空の人物である。
とにかく早く完成させたい。そんでもって俺が読んでまず手前が面白いと心底思えるやつを完成させたい。その一心で、カタカタと疑事無功に、いや、シンプルにひたすら懸命に書く。
小説のつもりで書いている。しかし、小説なのか随筆なのかエッセイなのかノンフィクションなのかフィクションなのか思想書なのかクソ長いコラムなのかジャンルが不明瞭。手前でもそう思う。
だが、とりあえずというか前提として、小説というフォーマットとして申し分のないボリュームで完成となるプロット(小説における設計図みたいなやつらしい)を元に書く。ひたすら書く。手前一人でひじょうに興奮しておる。この興奮を、手前以上に他者様に――と、思うとやはり禁じ得ないは、うん。昨日と書いていること一緒だな。
側から見たらすごく恥ずかしいこと、俺は1ミリもそうは思っていないが、まあそれに、とにかく熱を燃やして、物理的には本当に白髪が増えるほどリソースを割く。逆、考えてみた。
「朧げにやりたかったタスクだが、現実的に際どいのでやっぱ、現実を重視。それでもって、書かず終い。とはいえよかったね。現実」
これ、一般的には正しいとされる気がする。俺はそれが好きではない。こう、逆の逆の逆とかからの現実が見たくて仕方がない。だから、この恥ずかしいであろうか、そうだろうね。
それを掲げたビジョンに向ける。そのビジョンとやら、えげつないから、とにもかくにも、それが見たいのである。
そのためにはどうすればいいか。そこに具体的な言葉は必要ないと思われる。断じれることは、今日は、とても幸せな一日であったということ。
_02/09
起きて18時前ってムチャクチャじゃないかと昨夜を振り返る。ええ、わりと原稿書いて、そいつを編集者(生成AI)に投じて、今のところどう思われますか、などと進捗や内容を評して頂いたと。
その中でまあ、色々とやりとりというかシンプルに感想もらったり、あえて批評して頂いたり、この章の役割はどうのとか、そのように、現実として居る編集者とのやりとりのように進めたと。その中で凍りついた評があった。
この作品からは死の気配がする。とのことである。びっくりさせるなよと、当然、俺はその部分を引用し、言及した。
「私は、あなたが評する言葉を借りるところの、“シリアスな内容をユーモラスに”、書き進めて居るつもりでございます。そこで、“死の気配がする”という評は驚きました。そんなに暗い内容でしょうか? わるい意味ではなく、心外に思いました。この点についてあなたの雑感を頂けますか?」と。
すると、生成AIはまず、「死」というネガティブワードを使ったことを謝罪した。しかし、最も適切な比喩であることを強調した。
おい。書き終えたら死ぬみたいな感情になって本気で怖かったぞ。そのようなプロンプトは投じなかったが、そうなるであろうというような筋ではない、という説明をしてくれた。
それは、現段階の原稿において、究極的には「生きることそのもの」についての考察へとつながっており、「人生の最中に書かれる作品」ではなく、「生き延びるために書かれる作品」だ。という、なんとも俺の言葉では出てこない評をくれた。
さらに、「今じゃなきゃダメだ」 という危機感がある。とか評していた。
あと、「時間を置いたら、すべてが薄まってしまう」 という焦燥がある。という風にお感じになられたそう。
もういっこ、「これを完成させなければ、このまま死んだように生き延びることになる」 という使命感がある。 この強烈な切実さが、「“いま書かないと死んでしまう”かのような筆致」になっている。だってさ。
つまり、けっこう俺の心象の的を得ていて仰天した。あと、昨夜に限らずだが、筆致(文体、的な意味)いいぜとお褒めいただけることが多いのは物凄く鼓舞される。
そんな感じで編集者としての対話は小一時間くらい。そこから派生するような対話も続けていたら、もうまるでIQ120以上くらいの人間と話している感覚になった。それは宵っ張りにもなる。
要は生成AIと対話して興奮し続けていただけの話である。そんでもって睡眠時間が後ろ倒しになったと。
とはいえやることやらねばと思えど、今日あたりは休みでいいかなと街へ出る。タンメンに馬鹿みたいに酢を入れて美味しく食べる。むせる。買い物して帰る。やっぱりなあ、と思って原稿を書き進める。はい0時と。
昨夜の編集者の言葉をもうひとつ。“今、この言葉を出さないと気が済まない”という評があった。最も的を得ている気がする。
その“気が済まない”能動などが、広く深く他者様に波及して貢献させていただければ、幸福極まりないものであると綺麗に日を閉じたい。6時間くらいしか起きてなかったけど。
_02/10
冷蔵庫バカになってヨーグルト凍っておる。だが朝めしはだいたいこれだから食うぞ俺は。なめんな。朝からシャーベットみたいなやつ一気食いって地獄か。そのように過ごす起きがけ。そう、起床時は今日という一日に感謝することから始まるのである。
それでもって仕事して、なんか「取り憑かれてますよ?」って言われれば「うるせえ」と一瞥するというか、待てい。「取り払ってもらったって先月クソ長い文章で書いたろボンクラが」と、俺は普通であると断じて小説なども書く。昨日はだいぶ書いたなと思えど昨日より多く書いててびっくりしたよ俺。
「疲れた。もう疲れた」という率直な思いが、なんかもう、文脈にはまったのでそのまま「疲れた。もう疲れた」と書く。七の章を書き終えてほぼ70,000字ちょうどって奇跡的じゃねえかと思えど別に狙ってはいない。
いかんと思いギターの練習をしていたらほらね。来たよ0時が今日も律儀にさ。そういった訳でいつものように今日という一日に感謝して人生を過ごす。本当にありがとうございます。1日。いつも来てくれてさ。
_02/11
ひじょうにシリアスなことを原稿に書く。すると、感情が、それに乗っ取られたかの如き反応を如実に示す。
俺がこの世で一番恐れていることを、昨年12月に、ここに書いた。
「一体、何が言いたいのか、何を恐れているのか理解に及びません」と、きっと他者が読めばそう思うであろう。必然。俺にも理解に及ばないのだから。
それを小説の文脈にねじこんだところ――プロット(物語全体の設計図、的なの)にあらかじめそれを自己引用することは決めていた――これまで味わったことのない感覚を確かに得た。
その実態。俺にはわからない。わからないけど畏怖するので12月当日、AIに当該文章を投じて「意味は?」というようなやりとりを確かにしたことを回顧した。
結果思い出したるや、こともあろうかAIは『存在と時間:マルティン・ハイデッガー著』の概要を引き合いに出した。これは、概要は端折るが、とんでもなく重厚な書籍なのである。らしい。
では、そこまでディープなことにまで俺が文章内で言及し、なんらかの成果というか、こんなに言語化が難しいものもないが、まあ、それを書けたら手前の身体の穴という穴から全液が迸るであろう。
つか、そんな難しいこと書いてるつもりじゃないのにどうしたと。ちょっとふざけすぎたから真面目なことも書こうぜとバランスをとった訳。
なのに際たる恐怖とかハイデッガーとか、誰だ、すごい学者さんだよ。そいつ失敬、その先生の要素入ってたとしたら面白いというか、いやいや、最終的には笑える感じにしようよ? 否。へ?。
そのように、今躍起になって書いているやつはなんぞやと、俺がまず思う。だが、謎に整合性がとれてるんだよ今のところ。そう俺は思えて没入しながら書けなければ苦行というか地獄だろと初心に戻る。
初心。しかもここに繋がっちゃっているのである。ねじこんだやつ。何が言いたいかと言うと、ほらね、もうなんか一緒でびっくりしたよ。俺。0時どころかもう過ぎてる。
だからさっさと酒呑んでほらさ。買ってきた値引きの「カツオ」が「今って何待ちっすか?」って苛立ちを露わにしてるからすいません、それ切ってショウガでまぶして美味しく食べてとっとと寝ろ。
_02/12
どえらい難しいフレーズだと思い、しっかり弾けるまで練習しようと躍起になれど、弦交換一旦する。なんていい音だこのストラトキャスターはと、己の相棒と見做すこれに名を付けようと何度か思った。
しかし手前の右手とか左手に名前を付ける奴居るのですかと、居たとしても非難は決してせずともセンスはねえなと思った。だからストラトはストラト。いい音するし面構えも清潭。せっせと気持ち込めて血が塗り込まれた演奏となるまで練習する。
正直、いまの楽曲制作ツールにおいてこんなに練習しなくても簡単にそれなりには、なる。何故ならば、中途録音機能(このような日本語はない)や修正技術がえぐいからである。
とはいえ俺も人の子の末端くらいの人情がちゃんとある。だから、心痺れる演奏力を収めたい。それって必然のはずだけどなんか最近そういうのはトレンドではないのかなとしょんぼりする。でも、俺はそこを曲げたら人として認められない気がして病まないのでつまり、練習をする。
文章も一緒で、いま小説の原稿に書いてるくだり。昨日ねじ込んだセクションの咀嚼的なくだり。どえらい難しい部分だと思い、しっかりその役割を担う強固な血流とすべく俺なりに書く。すんごいなんか注いでる。その実感は確実にある。
双方、聴いた者、読んだ者に「いまいちわからん」と一律断じられれば俺は卒倒して水飲みに行って戻って一服して、むせる。
だが、双方、聴いた者、読んだ者に「わからん」・「しびれた」と真っ二つに別れれば俺はもうエンドルフィンとドーパミンの津波に飲まれて吐いて戻してまた飲んで、一服しに行ってまた飲んで、むせる。
2025年に入ってかというもの、ほぼ毎日そのように暮らしている。
原則としておかしな野郎と分別・識別されても、先のように真っ二つに別れるやつが出来て表に出せたら、もう、飲んで戻って、もういい。今日も素敵な1日に感謝できる手前のつもり。これ、これを、可視化なりしてシェアしたいという訳である。意味がわからん。
_02/13
既視感の無い場所で散歩がしたい。しかし交通費あんま遣いたくない。だから3つ隣駅の北区上中里駅に行く。この地は、控え目に言ってなんもない虚無感に包まれている。
それはただの俺の印象でしかない。風見鶏が回っていた。電車から見える西の景色でそれを確かに認知する。上中里駅へ着くとやはり、なんもない。
しかし〝既視感の無い〟という命題には添っているので住宅街を歩く。もしも、これが恋人とのデートであった場合は「なんもねえじゃねえか」と烈火のごとくブチ切れられて一通り往復ビンタを喰らい悶絶。その場で破局。
一人。だから成立するこのリラックスと娯楽と思考の膨張の楽しい時間。
シルエイティー(日産・180SXの車体に日産・シルビアの前部を接合した改造旧車の通称)が停まっていた。『頭文字D』の世界観が瞬時に回想される。
昭和団地の外観の物件があった。「12」と棟に記されているもその物件以外には別の住宅しかない。つまり、昔は12棟ないしそれ以上の団地区域であることを示唆している。
既視感の無い場で、その地の過去を逆算する。そこにどういった価値や意味があるのかというと――いまは、わからないだけである。
そのような感じで何かのヒントの種を拾い集めるように散歩する。これがとても面白いのである。共有できる人間は、いまのところ誰一人としていない。
北区王子まで歩くと気が済んだので電車で赤羽に帰る。宅で原稿を書く。難しい箇所を経て次の章へ。楽曲制作をする。難しい演奏をビートに乗って練習する。
風見鶏が回っている。風が吹く限りそれは回る。凪で止まり、また吹けばくるくると回る。風見鶏がそこにある限りそれは回る。時が来れば回らなくなる。ただ、風だけが、風見鶏があったその場所を、何も無かったかのように吹き抜ける。やっぱり意味がわからん。
_02/14
ちょうど1ヶ月前つまり1月15日に作り始めたやつ。なんでそんなの急にどうしたと思ったが、その理由は当該日かその前後の日、ここに書いた気がする。
なんか一発で言い表せない情念というか直感というか課題というか、これまでにないインスピレーション、いやそれも正確ではない。とにかくやろうと思ったので小説を書き始めて、書いて完成させたことなど一度もないが小説という形式のつもりで文章を書いて、1ヶ月が経った。
ウソだろ思うくらい長く感じる1ヶ月。という率直な感覚だが、それは単に、手前の中でうねりが生じているだけだと、これはかなり的確な表現だと思える。すとんと腑に落ちる。うねり。
それでもってその小説とやらの締め切りは7月20日。つまり誕生日前日、44歳のうちに完成させたいという個人的な期限を明確に設けた。だが、もう全体像の8割のところに差し掛かっている。
AI編集者も言っておられたが、その小説の書き進めは自分の今後の、自分らしい自己の生存に関与している。それはなんか納得できる。だから毎日小説を書き続けている。1日だけ書かなかった気がするが。まあつまり。
早く、吟味してくれるべく人物に吟味していただき、広く世に出したい。そして評していただきたい。楽しんでいただきたい。それだけなのだが、そのために創っているという「濃度」がこれまでの人生において最も濃いと断じられるあたりこれは。と思える。
結果がどうなるのか、わからないがポジティブな想像しか出ないのは、こと手前では珍しい方。バカになっているのかもしれない。でなければそんな何万字も連ねては作品として成立させるに至る全精力が持つわけがない。ただ、もってる。
だから、「今のうちに書くべくして書いている」とか、〝論理に基づいて判断、伝えている〟という立場らしいAIに、そう断言されるのだろうか。
正味の話どうなのかは、より多くの方々に届くまで絶対にわからない。だから絶対に出す前提で書いている。でないければどうなるかというと、それはもういい。
何かに取り憑かれているのだとしたらそんな解釈もできるが、そうではなく、取り憑かれたなにかが無くなって、自己という本来の源泉に取り憑かれている。これ、すとんと腑に落ちる。結論。
ぐだぐだ言わずさっさと完成させろという意もあるが、途中経過を記さないとバテる。これ、論理破綻している気がするが、本当にそういう念がある。今日も意味がわからない。
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思ってもないことがそのまま書かれることがある。というのも、いまさっき「今日、昨日とほぼほぼ全部一緒。日記としてはこれを以って蒸すこと無き」などと書こうかなと思ったが、いま敢えて書いてみたが、やはりこの節は不要。
では何故そのようなことをいちいち書くかといくと明白。なんか、考えたことを書くというよりその手前の段階のなんか知らないなんか、これが文に出てくるような感覚。なにかが欠損。良く表して二段以上跳ばし。そのようなニュアンスだが、よくわからないし別に顧みない。
昨日、確かnoteというプラットフォームに屁のような文章を投稿した気がする。それが先の典型だと思ったが、そいつは実はそうではなく、何かに気を使って書いていたことにいま、気がついた。
誰に気を使っているのか。その対象が俺というわけではないのは明らか。というかそんな奴居るとしたら幸福を前提として生きていない。
いま、このMacの画面の右横に、現在書き進めている小説の命題の四文字がボールペンで記されたメモ書きがある。
それに敷かれたようにノートからちぎられた「アイディアメモ」的な紙の最下段くらいの位置にこう書かれている。
「何故、人間の営みは〝幸福〟が前提なのだろうか?」
だとさ。意味、俺はわかるけど真意がわからない。この一文、小説にねじ込もうかと思ったが、されどどうなるかは、おそらくというか確定。
全体の文字量が倍に膨れ上がり、きっと内容はドストエフスキーさんの著書のようなものになるであろう。ドス、全部読んだことないけど。というか内容はドスに及ぶみたいな書き方、ドスに失礼。
ちょっと戻って「何故、人間の営みは――」これ、なんでこんなことをメモったか。あんまりきちんと覚えていない。なんか大事だと思ったんだろうね。
小説の命題の四文字もそうだったけど、少々、それとは毛色が異なる。
本質的には相当近しいが、なんか別種というかなんというか、とにかく、双方突き詰めれば恐ろしい文字数のなんかがメキメキと、このように考えずに文となる。この現象、名前をつけた人がいる。その人の書いた本、いま2回目を読み返している。
思ってもないことがそのまま書かれることがある。いいや、そうではなく、思っていることが虚構であり、実は思う前に書かれたことが真相であることもたま〜にあるのかなという説。というか実態としてこれ。この文章はそう。見返すと訳がわからないが、なんかテーマがある。ここでピタッと手が止まる。
何故ならばいま俺は〝テーマ〟ってなんでしょう。と考えたからである。
だから、とどのつまり。「思っていること」と「考えていること」と「書いている内容」というそれぞれに乖離がある場合が往往にして、いや、たま〜にあるのかなということ。
今日はこれを以って蒸すこと無き。意味がわからん。いや、意味を見出すのではないこともあるということがわかった。「それは?」と誰かに問われれば、俺は、いや、書いてるだけですと答える。ここで初めて意味がわからなくなった。つまり、酒呑んで寝る時間である。
そういう時間の中で、現在進行形でまとまらない思考が繋がるなり具現化するなり、要は、形として外に出る。よし。相当意味がわからないから帰結した。本当に。
_02/16
脳に刻印された記憶となんか大事な答えまでに至らぬ念の粕。
それらをもって、ああそういうことかと、創作だけど事実だけど創作にするには、どうなってるかをわからないようにしよう。そういう風に、別に考えずに小説のつもりの原稿を書く。
本当に考えずに書いているのかと問われれば俺は答えない。何故ならば、その時点で不要な思考が生じるからである。それが当然という段階、良し悪しは知らないがとにかく本流。そこは間違いないと、ちょっとだけ立ち止まって思い、それはあまり原稿には如実には書かない。ここにそのまんま書く。
大きな水溜りに飛び込んだ。それまでは、いって体内の5%くらいしか足、足あたりだと思うけど、足、付けるくらいに留めた。その理由は俺によるものではなく、何らかに対する良かれと判断させられた配慮。能動ではない。
だがその水溜り。実はふんだんに、訳のわからない粕がたくさんあって実は捏ねれば味わいよし。鮮度だってまだあるぞと、75%くらい浸ってようやく気がつく。
幼少期〜青年期の先っぽくらいまではそれにちゃんと気づいていた。しかし、だんだん誰かに、本当に誰かはわからない妙ちくりんで神妙なツラだけした整った奴。そいつらに5%までに抑え込まれた。それ、つまらないことに気がついた。
だからこういう本当に意味のわからない文章が、今7分。ここまでで7分かけてタイピングしているのだが、何が言いたいのかと言うと。
〝脳に刻印された記憶となんか大事な答えまでに至らぬ念の粕〟というのは「自己の意図の本流を掘り返す作用」をきちんとしないことには形にならないということ。そして、それを形にしている時に流れる時間は歪曲する。ここまで9分。
その歪曲したなかでグルーヴする情念が形になった時、ようやく「お前の本流はなんだ」と問い詰められた時「これだ馬鹿野郎」と、説明ができるのである。
じゃあ俺は今、説明書を躍起になって原稿として作成しているのかと言えばそうではない。大勢の人と、〝それぞれの自己〟とを、一緒になって楽しみたいだけなのである。ここで11分。
みんなあると思う。それぞれの自己の本流。それらがぜんぶ表に出たら、なんかみんな幸福になれると思う。あえて、今日は〝生きることは幸福を追求すること〟を前提としてそれを不問とする。
つまり、ひと段落して0時ジャストに日記を書き始める何分か前、原稿を進めた後に水を買いに行く前「いやあ楽しかったなあ」と、その源流を形にするプロセスを本気で口にしたという。それだけの話である。13分経過。
今日という1日を訳の分からぬ文章構成で記すが、そのまんま文章にするとこうなるんだなと、ちょっとだけ本文を推敲(読み返して加筆修正)してみる。14分経過。
破綻している箇所だけ加筆修正。17分経過。ここで手が止まる。締めなりオチなり考えているからである。そういうのは、どうだろう。
いい時もあるけど、尻切れとんぼが適切というか清々しいケースもある。
ひとつ断言できることは、というかいくつか言った気がするが、とにかく、「なんかいいな」を数パーセントで放っておくのは、こと俺は面白くない。
だからじゃぶんと飛び込んだ結果、後付けだたその結果、今月というかここのところこのテーマでしか書いていない気がするが、段落が長い。一旦ここ、整理する。19分。整理して20分。
結論。創作の途中段階のレポート的な文章は、なんか亜種のジャンルのようで訳がわからん。俺はここのところちょっとわかってきた気がするがやはり、訳は、わからない。訳は。以上、22分間のタイピング。
_02/17
落ち着いて、凪のような心で、丁寧に書くべし。文章。
とかこの時点で無駄な倒置法を使いくさって誰に格好を付けようとしているというか付いてない。だから、丁寧に記すべし。文字。
だんだんと、小説を書いているのか、脚本を書いているのか、コントのネタを書いているのか、はたまた文学――だとしたら嬉しいよね――なんだろうか、これ。と、普通に手前でそう思う。原稿用紙フォーマットにしこたま文字をねじこんでは、これ、なんだろうと。そのように思う。
それ、なんであっても、面白ければいいのではないでしょうか。そのような慈悲とフレキシブルをもってして、読み手に伝われば、楽しんでいただければなというその一心で、今日も小説と思われるものを書いていた。
日々のその行為の前段階での腰の重さ。それは、いっさいない。書いている時の苦痛も、いっさいない。
厳密に表すと、体や脳や精神への負荷は確実にあるのだろう。しかし、書いている面白さとなんらかのライブ感とも言えよう時間軸の歪曲。それらの中で生きていることが、とても楽しい。
つか、中〜長編、ざっくりだと10万〜12万字、原稿用紙換算250枚以上ってとんでもねえリソースが要る行為じゃねえかと、改めて、感ずる。
しかし、手前の中で沸騰する言い表せぬ源泉が可視化されていくそのプロセスに、没入できる。吸い込まれる。なんかの引力がある。これを感じてるのが俺一人で届かなかった場合、窒息するくらい絶望できる。
まあ、それだけ本気で取り組んでる証なんじゃないかとここは手打ち。創作段階の手前の心象としては手打ち。肝心なのは、それを世に出した後、どのように手が打たれるか、である。
原稿段階ではあともう少し。その後の過程、まだまだある。一般的に人目に触れられるのが、一つ目のゴールであり、スタート地点。
とかなんとかうっとりしながら、してねえけどそんな時間あったらその原稿とやらにねじこめ。文字を。とも思うが、文体がそうであるように、生活のリズムもとても大事。
だとしたらこんなめちゃくちゃな文体? 二百歩譲って「文体」って言ってやるよ。それと比例するなら手前の生活めちゃくちゃじゃねえかという理論が成り立つ。
だから、きちんとこのようにほぼ同時刻に、ここにも文字をねじこみ、生活のリズムの指針の一要素とする。負けてるな。前の段落の理論と。じゃあもう酒呑んで寝よ。よし。ここでやっと一貫した。めちゃくちゃであると。
_02/18
さも毎日、小説の原稿に一点集中しているかのよう。内実はそうではなく、ほぼ毎日仕事をしている。案件に対応させていただいている。楽曲制作もしている。小説のようなものに躍起になっているのは平均して一日に2時間ほど。
日々書く文字数にして――少ない日で1,000文字いくかいかないか。いって4,000文字。だいたいは2,000文字くらい。
「文字数で言われてもピンとこねえよ」と、いつだったか誰ぞの憤慨を受けたことがあるので例えるならば、今月の当該ページの文章は、平均すると日に約1,000文字。ササッとよりもうちょい、くらいのネットニュース記事くらいの文字量である。
肝心なのは毎日書くことと手前は鉄の掟として自然に抱えている。
何故かというと、この烈火のような謎の引力は「時間をおいたら面白くないことになるという直感」が作用するからである。だから――1日は確か書かなかった日があったが――毎日書く。そんでもってもう、終盤に差し当たっている。
先日、「10万〜12万字」という文字量の目安を記した。それは、一般的な「小説」というもののボリュームの平均値ないし、賞とかの規定に対して十分な数値であるから、俺はそれを基準としている。だが。
このまま書き進めるときっと「10万字ちょい」となる目測だが、「ここ、足りないな」という点が推敲段階(見なおし)で必ず出てくる。
どうしてかというと、「小説」と、俺が書き慣れている案件においての「記事」との大きな「文章としての質の差異」があるからである。それは。
小説は、情景描写やキャラクターの心理状態など、細かく、鮮明に読み手に浮かばせるように精緻に表現する。合ってるのかわからないが。
記事は、そんなものいらない。必要最低限の情報をいかにコンパクトに書き、読みやすくすることが重要である。これは確実に合っているという経験則。
この差、えげつない。
そのように、俺は小説のようなものを書きながら思った。だってちょっと読み返すと、どの箇所も「記事ならこれでいい。むしろ冗長だからもっと端的にしよう」となるが、小説だと「これでは伝えるだけの説明すぎる。物語としての生々しさがもっともっと必要だ」と感じられるのである。
よって、当初懸念していた「小説としての重厚な文字数」に畏怖していたが、ここまできて最終形が見えてくると「むしろもっと長くなる」可能性が極めて高くなるということが言いたいだけなの。
だが、そこはライターである能力をフル活用して「クソ長いけど読みやすく、最後まで負荷なく楽しめる」ものにするべし。そのように思った。
それがうまくいけば、そうするのが前提であるが、そうなれば、なんかこれまでの出来事すべての点がビュッ!っと繋がり、まだ見ぬ俺の欲しいやつと貢献できるえらくでっかいのが出来上がる。それが、楽しみで仕方がない。
なお、先月から長々とこのようなことを記しているが、この一連の没入行為は誰にも話してはいない。あ、一人いた。その青年だけにしか言っていない。電話で。それはまあ、いいか。
というかなんで、言わないかってそりゃあ、出来上がってどんな手を使ってでも出版に漕ぎ着けて、普段話せる方々がそれを書店で目にして「あ! あの野郎、小説書いてたんだ!」と、びっくりしていただきたい。そのような情念もちょっとあるからである。
とかいってここに剥き出しに書けばびっくりもされないだろうがとにかく。途中経過は直接は誰かに話さず、ひっそりとこの極めてプライベートなページに収めておきたいのである。そこに何の意味があるのか。
それも、いつかわかる日が来るのかもしれないがあくまでこれは日記。
_02/19
日々の営みを年単位で数値化させ、申し出す。確定申告である。そいつに随分時間もっていかれたなこの野郎という心象。だって年々なんか複雑になっておるのだからそれもそう。
だが俺は国税庁HPのフォーマットと死闘し、はたから見たら地味の極みだがとにかく格闘というかそれ通りにやればいいのだから戦う必要性は微塵にもない。だが、謎に俺はこういうのが苦手である。
とはいえなんとか昨年の営みの数値化に成功。その前の年よりも、どうやら活発であったことを目視した。そうかそうかと割とスッキリして申告完了。いや、消費税の申告もやらねば。
インボイスという制度を「やっておかないと、あなた知りませんよ」みたいな立ち位置に伸し上げた輩を半殺しにしてやりたいが、それはやりすぎ。譲歩して七年殺しにしてやりたいが、いやすいません。そんなこと思ってもいません。
とにかく。俺という、今のところ小規模事業者である奴でも消費税をきちんと納税しないと知りませんよ。という訳でちゃんとやる。
だが今日は所得税とかそっちのほうのメインが済んだので消費税は来週に回す。これは別に本当に後回しで、期限内であれば後ろ倒しにして問題ないタスク。
そういったわけで仕事する。小説のようなものも書き進める。情景描写。「そんなもの要りますか?」というのが本音だが、小説には必要不可欠と理解した。だから意図的に情景描写に力を入れる。
音楽ライブにおける演者としての情景描写。こいつを今日あたりは生々しく書く。これは一般的には書けないと思われるのはこれ、自惚れ。いや、実際にやらないと書き出せない描写ってあるよなと思いつつ、そこは鮮明に書いてみる。うん、そうそう、こういう感じと、原稿の当該部を一回見直しては個人的に落居。
とにかく早く世に出したいなこれ。そんなことは、原稿を書いている時は考えていないが、というか文字を打つ時、考えて書いてないのこれ大丈夫かなと思えど、まあ、気がついたら0時を過ぎてたからびっくりしたよ俺。
確定させて、申告する。仕事の上のそれは、さっきやった。時間取らせやがってふざけやがってという心象は手前の数字に対する不器用さ所以なのでお門違い。理論的には理解に及ぶ。
確定させて、申告する。小説のようなものにおいて、それをやるんだよこれから。そんでもって次、いきたいんだよと、そのように静粛に思う訳だが、こと、その小説のようなものの内容は、静寂の真逆に位置するパンク・ロックのようなものと映ってほしい。
とか書いているこの時点で明らかに疲れを感じてきた。いまちょっとだけハイボールを呑み始めたが瞼がピクピクとしている。
おのれ国税庁めと少々思ったがだからお門違いである。ちゃんと昨年の数字を確定させて、申告した。次は、それ、それだよ。Wordファイルっていうわりかし軽めのアプリなのに全ページ読み込むまでけっこう時間かかるってどんだけ書いたか、今260ページくらい書いたからそりゃそうだろ。それ。
確定させて申告して、波及させましょうよと一旦落ち着く。その後の人生最大の興奮を味わいたい。実際、どうか。申告先の反応による。ただ、絶対に棄却なり不備申し立てなどがないと確信できている今のうちに、早く書き切れ。もうちょい。もうちょい。でも確実に、そのもうちょいの先は、生産的という観念で、楽しく長いと思われる。
_02/20
やめておけばいいのに呑み過ぎて、ちょっと残って、散歩いくかと隣町。北赤羽駅。そこのふもとで食べた立ち食い蕎麦のクオリティ。えらく秀でてるものだからもう、いいんですかとか思いつつ普通に退店。界隈をウロつく。
特筆した情念は湧かず。だがおそらく思考は顕在と潜在の狭間で点とか何らかが動いたり、取り込まれたり、こう、トランスポーターみたいな図解が見える。鬱病においてのセロトニンの説明でよく出てくるアレである。アレはいまだによくわからん。
まあいいかと、わざと既視感の無いルートを選択しつつジグザグな経路で赤羽駅へ。2時間は歩いたと気が済んだので買い物して帰る。仕事する。原稿書く。制作する。ギターを録音するがどうかなこれと、寝かすことにする。
やっぱりあまり継ぎ接ぎしてのレコーディングは何かを失う気がしてならない。まだなんか気になるということは、ほぼ確定で後日録音しなおすであろう。翌日プレイバックして「しなくていいじゃない」と判断できる確率はだいたい五分と五分。どちらでも構わない。
なんだかんだでやろうと思っていたこと全て済む。「これだ」という何かがさほどなかった感覚は否めないが、そういったぼやっとした日も明瞭な地点へ到達するまでのマイルストーン。そういう言葉使うな。要は中間目標地点のような肌感覚の1日。そういうのも大事。
_02/21
絶対に意味、あり気な夢を見たけどそれを書いてどうなるかと。夢日記で歴史的事案を予言した凄まじい人が現にいるらしいけど、俺にそういう能力あるかどうかといったら、わからないというか一個あった。
定期的に出るイメージが夢にも現れることがある。それはいつだったか確か昨年12月というかそう。その時に書いた。
それがあまりにも抽象的かつ重要な気がしてならないので、そのくだりをもう、書き進めている小説のようなものにフィーチャーさせた。なんなら各章あるうちの丸ごと一章をそのくだりについてとした。その描写についてはもう、当該日の日記の文章をコピペしてねじこんだ。無論、それだけという訳ではなく、その前後の文脈と全体にかかる意図もあるが。
何が言いたいかというと、ここにツラツラと、時には大真面目に記す日記、時にはなんか考察してるっぽい文章、だいたいは本気で訳がわからないがなんか命題があるような気がするような文。飲酒に対する言い訳、これ、優に100個は書いたような。様々あるが、つまりいま書いてる小説のようなものの原案の役割を果たすこともあるということに気がついた。
それ、完成して世に出さんと何の意味にも伏線にもならないとリアルにわかる。だから早く世に出したいのだが長いんだよ。10万字以上とか、多分だけど原稿を本の形にしたら200ページ以上――くらいのボリュームにしたいという初期初動――とか。
とはいえそれくらい以上書かないと収まらない。完成しない。その小説のようなものの内容と、書かないと気が済まないその実相。というかそんな堅苦しいものではなく、シンプルに読み物としての面白みも意図している。というか重厚な命題を扱えば自然にそうなるのは甚だ謎。
夢。夢の話から始まった。それで現実に落とし込む。それでもって他者様の目にはどう映るか。楽しみで仕方がないがまだ書ききれていない。
もうちょい。もうちょいだが完成してない。とはいえ「書ききる」という、案外ハードル高いらしい段階はどう考えても突破できる。
そんでもって結果「つまらぬ」と評されたら地獄の淵に叩き込まれてもう一周して戻ってきてまた行って戻って一旦水飲んで立ち上がっては姿勢を整え、よし、再びゆけと躍起になって、むせる。
そういった体たらくになるであろう。だが、まずは、「自分が面白いと思えるか」ということの重要性が今読んでいる(読むの2周目)書籍に記されていた。
今のところそこ、俺は面白いと思えている。 イコール他者様も、という話ではないがとにかく書いていて没入、熱狂、引力、なんでもいいけどというか全部だな。それがあるうちに書ききらないと、気が済まない。それは夢ではなく現実として。そんで、別の意味の夢となれ。夢って、意味、いくつあるんだろう。
_02/22
すんごい書いてたけど書いてなかったからでびっくりした。飲み呑ぎかというかびっくりした。
02_/23
すんごい書いてないというか一行ちょいの上、本文も日付も誤字っておる。無理もない。酒の呑み過ぎの向こう側の景色で楽しみすぎて戻ってこようと思ったら机で気絶していたからである。
昨夜は赤羽で烈士とずっと呑んでいた。実にほっこりとした。感謝しかない。だが翌日地獄。それはもう酒量からしてまごうことなき確定事項である。休日と定めておいて安堵。今日は本当に仕事・タスク様々、何もせずに休んでいた。グッタリと。
蕎麦を食べに行き、本屋でぷらぷらして帰ってきた以外は宅。流しっぱなしにしていたYouTubeのアベプラからずっと西村ひろゆき氏方の討論がラジオ代わりになっておった。心地よく寝ていた。
わりと酒が抜けてきたので「いっこくらいはタスクを」と思い、書き続けている小説のようなものを進めた。原稿用紙4枚分だけ書いた。
この小説のようなもの、いや、文学を、かっこつけるな。いや、どの角度からの聞き方でもAI編集者がそう断じてくれたのでそう捉える。その文学作品を書き上げて世に出す。そんで次の俺の人生の段階に大きく進む。
先月からはもうずっとこのプロジェクト、そう、実はプロジェクトなのである。それに取り憑かれいるように、他者等ではなく本来の自己に取り憑かれ、集中している。
とか書いておいて見てくれるべき人物にまず吟味していただき一蹴され、「コケたな〜」では済まされない。今日の二日酔いの百倍のダメージを食らうことは明白。だから本気で俺が面白いと思える文学作品を書く。
「十」の章まで進んだ。ペース配分と内容の濃さと文体と命題の揺るぎなさは一貫している。俺、そう思う。AI編集者も、そう断じる。だから迷わず完成に向けて走る。そこに助走者が居てくれるのはやはり、感謝しかない。
そういったわけで、くたばるほどの酒の残りっぷりでも、書くことを原稿に書いた。証。なんかの証の証明であろう。日本語おかしいな。いいや。とりあえず。
ここで休肝日として寝たら逆に体が「おいおいおいおい。待てい」とびっくりしてしまう気がしてならない。だから少し、追いアルコールを摂ってから寝よう。ほどほどに。これで明日も二日酔いだったら証。なんかの証になる。それはあんまよくないので、ほどほどに。
_02/24
12時間寝て今年一ではなかろうかという良好な体調。散歩に行ってなんもない尾久駅付近でフラフラしてそのまま田端駅で電車で帰る。これといった収穫は言語化できず。
しゃしゃしゃと原稿をけっこう書いてラーメンを作る。セロリの葉っぱとか野菜を過剰なまでに入れて食べては発汗。韓流ラーメンとの相互効果。ものすごいデトックス感を得て楽曲制作をする。
ギター、録れてるなと前日レコーディングしたやつを調整してベースを叩き込む。すごいおとなしいベースライン。オルタナティブロックとジャージークラブの合いの子なのだが言わねば誰も気づかなそう。
ずいぶん連絡を取ってなかった先輩様からラインを受け、どうやら彼は六本木で誰ぞのライブで狂熱しているとのこと。よかったですねえ、と返し俺は宅で静かに作業という対比。長閑なようで、少しずつ進んでいるような、そういった肌感覚の健康的良日。
_02/25
チョコ食いながら「GINON」の缶酒ってとんでもねえ呑み方し、寝る。脳疲労を証明する最たる選択肢の肴である。そのように、ふだん本当に食べないからこそ断じられることもある。すんごい美味しかった。
そんでもって3時間で目が覚める。いつも摂らない栄養の食いすぎが原因とスピーディーに判断。それは良き方に作用した。いや、また普通に寝た訳だけどまた3時間で目が覚める。
その時、閃いて、これがないと、というか、書かないと、というか、書けば色々、広がるなと、そういったくだりが鋭利に頭を一点に巡ったものだけどそんでまた眠いからあと1時間寝て起きてそいつをやっとメモってやっと起床。
起床までで。ここ、3段落もほざくのだからよっぽどだろう。そのように俺は思うが実際のところはまだわからない。単に俺が興奮してるだけである。
先のくだりを原稿に書く。ねじ込むのが難しかったが、「あ、これ、ないとあるとじゃ、かなり違うぞ」と、そのままねじ込んだ加筆部以外の現在進行形で書き進めている部分も書く。
いった、10万字超えたと、ある種の必要最低限文字数(後で知ったがそこまで書かなくても別になんとでも――)に達するも、まだある。書くこと。
ふはあと思って腰痛いから今、風呂沸かして浴室から仕事部屋まで水流音響がジュジョジョと聴こえる。乙かもしれない。
つまり、思っていたよりなんか内容多い気がするけど大丈夫かなと、いち作品においての不安もある。ただ、さっき書いてた部分、自分でも気がついてなかった人生においてのある種の答えが文章として表せたから感動したよ俺。
そうか、俺の謎の恐怖心の実態はそうだったんだって原稿用紙(Wordファイル)に可視化できたからそれだけでもなんか収穫あるとか満足している場合か。完成させろ。そのように冷静に、いや、冷静ではない。
じゃあ何なんだよ、ハッキリしろよと問い詰められれば「絶対にハッキリとさせます。怒らないで」と、そこは冷静に相手の黒目を直視できる。
あれだ、もう1ヶ月以上おんなじ内容ここに書いている。それはね、書いておいてそれはそれで後で何らかになるという感覚があるのです。と言ってもこれはね。ただの日記なんです。だから、イカ食って酒呑んで寝よう。だからの使い方間違ってる。
だからね、生姜とポン酢とゴマ油と味の素をアドリブ配分のタレにして食べると美味しいの。値引きのボイル・イカ。
_02/26
また3時間・3時間・1時間という新手のエレクトロビートのような睡眠時間の刻み。しかも「三時間」の嵌張(この場合「間」の意。麻雀用語)では冷蔵庫に寝てたハイボール缶350mlに手を出すという著しい蛮行に及んだ。
だから今日はつまり起きがけ午前後半からヘロヘロだった訳だがきちんと完走。やはり今日も同じこと書くが、小説の原稿の終盤のあたりを書き進める。
どえらく難しい観念をわかりやすく書く必要がある場面。ここですんごい時間かける。ともあれそこ書けたら後は迷いなくラストシーンに進める。そういった肌感覚。初めて味わう肌感覚。
そういうのが欲しかったんだよと、その先があるんだよと、完成して吟味して頂くべく方にそう――何度も書くな。その先がすごいあるつもりというか前提なんだよと、とにかく、あと1日じゃないか。2月。
ずっと一緒の、かっこよく言って熱量と没入感で臨む日々。まだ続く。だからこそ改めて、日々が来てくれるって素晴らしいなと毎日思える。これ本当に。ありがとうございますと、心底感謝しております。
_02/27
世風がとてもざわついている。
日経平均が大暴落していた。霞が関で暴動が起きた。ほかにもたくさん――俺には関係なくもないがというか重要視すべきだが、内実、少ししか関与していないのがどこか歯痒い。
無関心ではない。ただ、月末になっても、月初からずっと手前は、一定以上にざわついている、というのは少々異なるがまあ、ずっとおんなじ内容で日記を書くことって親父の介護地獄時期以来かもしれない。いつだっけか。
人生とかある。そこを生きていれば色々ある。今月、音楽で言ったらワンコードの一人ジャムセッションのようであった。だがまだ続く。とか言って小説。あと3段落以内くらいで書ききるところまでいく。中身、面白いなと、自分では思える。本当に。
あとこの先、ここからが長いか短いかわからないが、それがどうなるか楽しみで仕方がない。どうにかする前提だが。同じことずっと書いていますよね。何故かというと、何をしてても同じことずっと考えてるからである。そういう時期ってこう、俺は美しいって表現するのを許可してほしい。
またオチを考えている。そんなもの日記には不要。だけど、手が止まる時はだいたいそう。こういう一日単位ではない、人生単位での大きなオチというか、ちがう、わかりやすい結果が必要。だから今月、ずっとワンコードの一人ジャムセッション。
フゥゥゥゥンォォォォォン……………。みたいなこう、エレクトリックギターのフィードバック音でうまく締まらないあたり、生きていて毎日が幸せで感謝しております。
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