05/2023

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
認知行動療法は、効く。5月


死んで詫びろ、というほど、酒を呑んではうへへとサボっていたわけではない。仲間たちとの会食は人生の瞬き。文脈的には人の一生を物語る。

それはちとおおげさかなと思いつつ、ハイボールを重ね、1日を振り返る。なお、“ハイボールを重ねる”などという形容は創作に帰属する。

俺の仲間はみんな頭がよい。どれくらいかというと、手前の性欲について古畑任三郎さんばりに「なるほど、では、こういうことでしょうか? う〜ん…ちなみになんですが…?」と、謎のなんらかに則った思考を数名で議論できるレベルである。

俺はちなんでいない。日本語が破綻するほど、ちなんではいない。しかし、人と深く接すると、「ちなみ」には明瞭な答えが浮き彫りになる。

それって面白いぞと、アルコールで頭をふやかしてゲラゲラと。今日の後半はそんな感じであった。

リボ払いでハイボールを買うとその金利たるや、などとほぼほぼ無滑稽な経済的活動を考慮して酒追加。うんそうよねと当然一括。

おいお前、『ちゃんと「人間失格」読んだよな?』と、脳内の神みたいな輩風情のアーティストみたいな長髪の奴から定期的に啓示がほとばしる。「知らん」と右から左へ受け流し、JR京浜東北線にブン投げる。

真面目に、今日に向き合う。すると、やはり、うふふありがというという心境しかないのは酒所以。それはエフェクト。俺は何度でもここに記したい。仲間に恵まれいるからこそ、うへへとほざけるのだと。
_05/01

 

 

 

 


西友赤羽店が今年5月2日をもって閉店した。赤羽に住んでからというものの、俺は毎日この店に行っていたから遺憾の一言である。

18時の閉店時間のちょっと前に、特に買い物はないのだが、惜しむように入店する。店内はわりとお客さんはいるが、品は当然ガラガラ。しかし、最終日だからなのか、店員さん方はたくさんいた。

俺はレジを通り、よく深夜に会計をしてくれる店員さんに「ありがとうございました」と告げた。彼女は、俺がいつも来ていた常連と認識している表情で、「ありがとうございました」と、応えてくれた。

その言葉の裏には、お互いに数年分の想いが詰まっていると感じた。

いつもあるし、いつでも行ける、といった場所がなくなると、たいへん寂しい気持ちになる。

幸い、西友から歩いて1分の場所にダイエーがあるので買い物に困るわけではないが、やはり通っていたお店に対しては、応援の気持ちがどこかにあったのである。例えるなら、推しのバンドやアイドルが活動休止発表をした時というのはこんな気持ちなのだろうか。

とはいえ、数年後には再オープンする予定だという。パワーアップしての再開店の日に期待を寄せる。いつも、深夜なのに廉価で酒や刺身などを提供してくれてありがとうございました。本当にお世話になりました。大好きな西友赤羽店さま。
_05/02

 

 

 

 


今日は興行のリハーサルで都内某所へ。一日の音合わせで仕上げるあたり、みなさんさすがだなとリスペクトを寄せる。

起きがけの意欲減退がしんどかったり食欲がなかったり、頭痛に見舞われたり、一方で、夕飯のタンメンを食べたらめちゃめちゃ美味くて急に元気になったりと、謎に気分がグラグラとしていた。

まあそういう日もあるよなと意図的に2時間ほど思い切り心身を休め、YouTubeでひろゆきさんやメンタリストDaiGoさんらの討論動画やブレイクコア・ミックスリストなどを聴いたりする。

いつでも元気に安定してニコニコと過ごせる人というのは、普通なようで、けっこう少数派なのではないかなと思うのは俺だけであろうか。

そこも捉え方一つ。変に偏った考えすぎはあまりよろしくないというのは確かな気がするので、適度なリラックスにもつとめたゴールデンウィークの中日。
_05/03

 

 

 

 


窓から外に目を向けていたらカゲロウの虫が居た。さりげない解像度の緑色に透けた、美しい姿だなと眺める。

「中華ドンをください」とオーダーしたら、さりげなく「中華メシですね?」と店員さんに訂正され、「はい、それを」と言った直後、別の店員さんが隣の客に「はい、中華ドンです!」と配膳する。

なんだか腑に落ちない気もしたが、あまりにも短い時間しか成虫として生きられないカゲロウにとっては、微塵にも気にかけないことだろう。

なんとなくそのまま数10分、夜の散歩をしていたら道端の葉の先に佇むカゲロウを見つけた。日に2度もめずらしいなと思うが、今まで視界に入ってはいたものの、認識していなかっただけなのかもしれない。

幼い頃に何十回も脱皮を繰り返し、完全体となり、数時間から数日で死ぬ。カゲロウは、儚さの象徴とも言える生態かもしれない。

どういうわけか、その姿形は美術的には綺麗とは思えないのだが、目に入った瞬間の最初の感想は美しいという率直なものであった。

そう感じられるのは、今調べるまで知らなかったカゲロウの生き様がバックボーンにある気がしてならない。極端な生き物の謎の美しさは閾下(まだ意識に上らない段階)に刺さる。
_05/04

 

 

 

 


興行案件で埼玉は川口市へ。みなさまとライブをして楽しむ。お客さんがたくさんおられた。

なんだか久しぶりに、1年ぶりくらいとまでいかないくらいか、まともに人前でギタリストとしての役割で演奏するな、緊張もするなと、そうも思った。

しかしやはり、ステージで煌びやかなライトを浴びながら、みんなで音を合わせて気持ちも合わせて会場で楽しむのは別格の素晴らしさがあるなと、ステージ上で改めて実感する。

その場に居る人間がパフォーマンスをして、エネルギーを発し、お客さんが賑わう。憩う。シンプルにパワフルな空間。一緒に過ごしてくれたみなさまに対する多大なる感謝の意。

時間にして数時間だが、いろんな方々と過ごす一生のうちのその一瞬は、やはりキラキラと眩く美しい。
_05/05

 

 

 

 


漫画版『スティーブ・ジョブズ』全6巻のうち、2018年ごろに4巻まで読んで面白いなと感銘を受けた。

5、6巻は絶版のためか、市場ではふざけるなというくらいのプレミア価格で出回っていたので買わずじまいだった。

あれから約5年がたち、ふとしたきっかけでそこまで高騰していない出品をみつけて全巻セットを購入。昨夜、やっと最後まで読んだ。

ジョブズさんは、マッキントッシュ、Macを生み出し、コンピューターを身近な物として普及させ、音楽をファイル化して何万曲も持ち歩けるようにした。iPhoneは現代人の生活を激変させた。

彼がもたらしたイノベーションは他にもあるが、こんなにも人間の生活に影響をおよぼした人物というのは稀有だなと改めて思う。

ユニークとも偏屈とも過激とも捉えられるジョブズさんの若い頃から晩年までの人間性と功績を描く、伝記をもとにした漫画版『スティーブ・ジョブズ』は、読み応え十分。

今思うと、「金をケチらずに一気に全巻買って読んどいてもいいんじゃない?」と、2018年ごろの俺に伝えたいくらいである。

特に、本書において“文系と理系の交差点”と表現される視点は、あらゆる分野において重きをおける大切なものだなと感じた。

音楽で言ったら、アナログとデジタルだろうか。最近で言ったら人為とAIだろうか。そのへんをうまくやると、より深く広い人間味が露わになるというように俺は解釈した。

そのようなことを思いながら名著を読んでいたが、酔っ払って読んでいたので半分くらい覚えていないので今夜もう一度読もうと思う。

むしろ、“シンク・ディファレント”な見方で再度解釈できるかもしれないからそう考えるとお得かもしれない。
_05/06

 

 

 

 


今月は興行案件をもうひとつ頂いているので公演曲の練習をする。なんだかんだでここ数年、年に何本かはライブをやらせて頂けているのがありがたい。

フィジカル的に、10代20代の頃は永遠にギターが弾けた気がするが、事実として年齢的に何時間もぶっ通しで連日弾くとギター筋にくるので決めた時間内で集中してやる。案外、その方が効率はよいことに気がつく。

15歳、16歳くらいの頃、「なんで俺はこんなに毎日何時間もギターを弾いているのだろう?」と、足立区鹿浜の旧宅でふと思ったことを今でも覚えている。前提として、毎日楽しく弾いていた。

それは、今現在があるからなんだぜと、なんならマネタイズもできてるぜと、フェンンダージャパンのギターを必死に弾いている当時の俺の肩をポンと叩いてやりたい。

音楽のマネタイズ。1990年代のその頃と現在2023年とでは激変している。なにせ当時は、当たれば縦長シングルが100万枚は売れるという音楽業界バブル時代。

現在音楽はコンテンツとしては売り物というより、定額制なりネットでの視聴なりと、そういった聴き方が一般的となり、リスニング環境は著しく変化した。

「お前はバンドで売れてCDがヒットするという感じではなかった。しかし、ネット経由での広告収益、ロイヤリティーフリー音源販売、定額プラン収益、制作依頼、たまにライブもやらせてもらったりして、金を得ることができる」。

と、当時の俺に現状を伝えても一ミリも理解できないであろう。なんなら「ネットって何?」くらい真面目に聞いてくるはず。

なにせ、PHS(パーソナリティー・ハンディーフォン。2023年3月公衆的に絶滅)をケツポケットに入れて原チャリに乗って『ギターマガジン』という雑誌を買いに行っていたような時代だったのだから。

そういうことも考えつつ、もっと音楽での収益を増やす方法を練る。YouTubeで導線を張れないか、なにかまだやっていない音楽コンテンツ制作はないか、配信をからめてもっとないか、今だったらAIを盛り込みつつ何かアイディアはないか――などと。

仕事は安心の基盤。と、先々月知って腑に落ちた。なぜならばと、自分で考えた。答えの一つは、社会との関わりと収益に直結するからというもの。

俺にできるいろいろなことはやりたいが、やはり最たる初期衝動の音楽での稼ぎをもっと増やしたい。そこは、スティーブ・ジョブズさんの言うところの「点と点を線でつなぐ」ということにつとめたい。まだ繋がってないことが絶対にあるはずである。
_05/07

 

 

 

 


ChatGPTなど、AIにホワイトカラーの仕事(頭使う系の仕事)が奪われるなどと方々で囁かれ俺もまた、わりと真面目に慄いてはいたがライター案件の提案を賜る。

未来、どうなるかはまだわからないが、やはり文書作成は、やはり人間がやったほうがいいという空気感は無くなってしまわなければいいなと切に思う。

何の漫画作品だったかは忘れたが、そこに、“バカの書く手紙は心を打つ”的な表現があった。

明らかに日本語が破綻している文章であっても、その人の懸命さと血が通っている情念が、その人なりのスタイルで言語化されていると、スッと文字に引き込まれることがある。

「明らかに人間が熱心に書きました」という文章は、どこかに、良い意味での、非合理的な人間臭さやエモさが表れていて、文字を追う目が止まる刹那が生じることがある。

俺が謎に文字を書くのが好きなのは、文章には書き手によってそういった側面が滲み出ることがあるということに心惹かれているからなのかもしれない。

魅力的な文章を読んだ時、俺が感じる共通項がひとつだけある。それは、読んだ時に、「これは、何かがあった人が、書いたやつだ」と思うことである。

それは、深い悲しみや溶けるほどの幸福など、要は、人間だからこそ感じられる体験が神々しい源流になっていると俺は信じて疑っていない。

そうでなくても、人間独自のアルゴリズムが生み出す創作もまた胸を打つこともある。

ほかの人がどうかはわからないが、これらの点をもAIが学習できるかという部分で、俺は最近の人工知能の発展に注目している。

――なお、本日の日記の全文は、過去約10年分の俺の書いた日記を全てAIに読み込ませ、今日の出来事と思ったことを4点ほど箇条書きで書き出し、「こういった文調で原稿用紙2枚分くらいで日記としてまとめてください」と指示したものである――

もし、仮にそういう感じだったとしたら、俺は本当に震え上がる。事実としてそんなことはなく、さすがに手前の日記は全部自分で書く。引用とかはがっつりするけど。
_05/08

 

 

 

 

 


定期検診へ行く。やはり混んでいる。気持ち的に調子が優れない人が増えているということを如実に表しているのであろうか。

「最近はどうですか? 平吉さん」

「はい。悪くはなっていないです」

「そうですか。よかったじゃないですか」

「ええ。1年は続いたあの謎の不安感も少しずつ治ってきている気が確かに、といった感じでして」

「なんだったんでしょうね? 謎の不安は?」

「ええ。客観的に1年間で仕事面でも色々あり、なにせ近しい人が3人も死にましたし、そりゃあ――と」

「ほう……」

「親父も含め、一緒に仕事もしてた叔父もそうですし、新たな事業で最初のお得意さんになってくれた方も、と……」

「うーん」

「自分では平気と思っていても、やはりけっこうなダメージがあったのだろうと思っています。あとはシンプルに、仕事が思うようにいかないということも重なったりと」

「そうですよね…」

「で、交通機関移動の苦痛もだいぶ和らぎました」

「よかったじゃないですか」

「都内とかなら別に、という感じで。でも、いきなり沖縄に飛行機で、というのはまだ恐怖感があるので、仲間からの旅行の誘いは断ったのです」

「うん、平吉さんが乗り気じゃなかったのならそれでいいんじゃないですか?」

「行きたい気持ちはあったんですけど」

「いいと思います。だんだんで」

「ですよね」

そんな感じでクリニックで診てもらい、俺の客観と、精神科医の第三者視点が近しく、どこか安心した。

あとは楽器の練習や制作などをする。新たなアプローチが功を成したのか、ストック収益にちょっと上昇傾向がみられて嬉しむ。

よくない部分にフォーカスして変に考え込むバイアスを是正し、よかった出来事をちゃんと認識する。認知行動療法の入り口くらいであるその思考を持つだけでも、気持ちや心のよろしくない渋滞は緩和する。わりと大事なことであろうと思われる。
_05/09

 

 

 

 


出稼ぎに行き、帰宅してアコースティックギターの練習をする。タイピングにアゴギと、さすがに指が痛えなと思いつつ歳を感じる。

しかし今日は30歳の方に「4つ上くらいかと思ってました」と言われ嬉しむ。この嬉しみは、歳を重ねている証拠でもあるだろうか。

手前が公開している楽曲について、とても喜ばしいお知らせがあった。詳細は記せないが、とにかく著作権やらの扱いというのはとても複雑だなと感じる。

そういった感じで、起きがけはたいへんダウナーな気分に見舞われたが、1日を振り返るとちゃんといいことがいくつかはある。

毎日よかったことを紙に3つは書くと精神衛生上非常によい効果をもたらすという研究結果があると、メンタリストDaiGoさんがYouTubeでおっしゃっていた。

たぶん、こうやってウェブに記すことも同様かと思われる。心の禊を伴う行為は脳をもピチピチにしてくれると信じて疑わない。
_05/10

 

 

 

 


さいきんなんだかやること多いなと、わりと疲労を感じては葛根湯を飲んでそう思う。とはいえ収支もそれについてきているのでよしとする。

あとは効率と不要な動きを減らす引き算が上手くなれば、もっと稼げるようになれると俺は前向きに考えた。

時間がもっとあればもっともっとやりたいことがある。その気概たるや肯定したい。だからもっとスマートに動きつつ、カラフルに描いた絵をいくつも実行したい。

毎月10日に総資産を計算する習慣が去年から続いている。ここのところやっと赤字を食い止め、資産がちょっと増えた。

この調子で万全の体制で進めばさらに稼げるぜと希望を見出す。借金もあるけど。しかし「借入金」と表すると総資産、バランスシート的にちゃんと捉えてるっぽくなるのが不思議なところ。
_05/11

 

 

 


ライブのリハーサルで都心某所へ。コロナ禍は終焉したのかというほどの賑わいをみせていた街並みを通る人々はみな、どこか品がよろしそうだった。

がっつりリハをして、「アコースティック編成ライブのリハは疲れる」というメンバーの一言に全員同意。そう、誤魔化しのきかない演奏の練習はシンプルに指とかが疲れる。

とはいえ、各楽曲の仕上がりをなんとかしていくのがメンバー皆様のすごいところ。帰りは至高の鴨せいろをおいしく頂いて帰宅。疲れ気味が続くので部屋でYouTubeを観たりしてまあまあのんびりする。

今日は、便利屋業務で残ってくださっている常連さんの依頼ひとつとリハーサル。そしてピカピカの鴨せいろ。数時間意図的に休む。振り返るとわりと彩りのある、そのような1日であった。
_05/12

 

 

 

 


「なか卯」という丼モノ屋でめしを食う。シビアなこのご時世にメインメニューの親子丼を値下げするという逆張りたるや恐れ入る。

ふうん、親会社ってどこなのかなと、ふと調べて丼をかつかつ平らげる。なるほど、ゼンショーホールディングスかと、すき家の親会社でもあるのかとピンと来る。

どれくらいピンと来たかというと、当該企業の株を俺は昨年長期間保有し、ちょっと上がったところで売却したというくらいのレベルである。

今はどうかなと株価を見てみる。えっと、俺が株を売った時は¥2,900くらいで、昨日付けでは¥4,465まで爆上がりと、なるほどなるほどと天を見上げる。

投資については、俺は昨年、株式投資に加えて投資信託、仮想通貨、はてはFXもと、何事も経験だと思いけっこう触った。

暗号資産とFXについては嘲笑われるかのように資金を増やせなかった(軽傷を負い早めに相場から退場する)。投資信託は、かったるくなったのでちょっと増えたところで全部利益を確定させた(少し増えた)。

しかし、なんとなく寝かしている現金の一部を再び引き出しに寝かせとくのもなと思い、株式投資だけは続けている。理由は、社会や経済や経営の勉強にもなるからである。現時点で、元手プラス10%増(「含み益」という利益は確定させていない状態で)という謎にまあまあ優秀な現状。

まぐれかもしれんが、俺は本気で「これがあと2桁多い資金でやれば投資家としての十分な利益になるではないか」と思ってしまう。ほぼほぼ、リアルカイジ時代のギャンブル脳と同じ部位にざわざわとパルスが走る。

とはいえ、頑張って稼いで本当に数千万円クラスの余剰金が弾き出せたらガチでやるであろう。今はそのタイミングまでの勉強期間と捉えると実にストンと納得できる。

だが、週明けに大暴落して「俺はすべての相場から去ることにした」と書き出す可能性もあるあたり、投資というのは簡単なものではないのであろう。

でも株式投資は本当に視野が広がるし勉強にもなるので続けていきたいところ。株主総会に突入し、意見しに行くという体験も面白そうなのでやりたいリストにそっと入れておく。なお、ゼンショーホールディングスの株については忘れとけリストにそっとしまう。
_05/13

 

 

 

 


興行案件で銀座へ。友達の足立くんのバースデーライブというたいへんハッピーな日である。

アコースティック4人編成で約90分のライブを二回しというのはなかなか疲れるものなのだが、そこは想像以上に楽しかったのと、友人を祝いたい気持ちとが圧倒的に勝った。

ヨディーさんが「MCで足立さんと平吉さんとの高校時代の話とかどうですか?」と提案があったので「そのネタは大量にあります」と快諾する。

両公演ともそのくだりがあった。基本的に足立くんがいかにすごい好漢かということをベースにトークをするも、だんだんお互いの高校時代のおいたの暴露合戦のようになったあたりはご愛嬌。

公演の合間に「足立くん、さっきのMCの内容、言っちゃまずかったことなかったかな?」と確認する。

すると、「全然? むしろ平吉が当時免許取消になった話、しちゃって大丈夫だった?」とのことなので「全然? ほうぼうでネタにしてくれ」と、パンチは効いていたが安全運転であったことを認知する。

そういった感じで、演奏は活き活きと、雰囲気は和やかな空気感に満ちた一大イベントであった。

帰宅して、まだ時間があったので未着手の案件の原稿を書き進める。その際、楽しかったさっきの出来事の反芻思考がむくむくと湧いて出る。

捗らなかったわけではないが、足立くん含め、みなさんも俺も本当に楽しかったのだなという思念を包み込む。

改めて足立くんおめでとうと祝う。付かず離れず27年の友人関係というのは、まごうことなき人生の幸福の上位クラス。
_05/14

 

 

 

 


生きる時間の経過と共に、脳内色眼鏡が増えていき、そいつで各々勝手に景色や心情を歪曲させているのかなとふと思った。

赤ん坊が、電車の中で見知らぬ乗客に手を振っていた。俺にも向けて、手を振ってきた。俺も振った。ああ、この子は色眼鏡がまだひとつもないんだなと思った。

なんだか居心地がよくないな、と思う時。それは自分の黒い色眼鏡をかけて周りをみているからなのかなと思った。

幸せだなと感じている時。それは80年代にありがちなポップなハート型のバカみたいな色眼鏡をかけているのかなと思った。

ちゃんとしようと思う時、鮮明に物も人も識別できるように、度の入ったシュッとした普通の眼鏡をしているのかなと思った。

大人になって、あらゆるシーンで色眼鏡をかけて過ごす時があるのは、蓄積されたあらゆる知識が入り乱れ、裸眼だと耐えられない苦痛を伴うからなのかなと、そう考えた。

でもそれは逆で、色眼鏡をかけないほうが、思考や精神状態にバイアス(偏り)はかからない。

日中、タバコを吸っていた間の数秒でそのような考えが頭をよぎった。別になにか特筆して面白くないことがあったわけではない。ふと刹那に、そう思っただけである。

色眼鏡をかけないということは、客観視とも言えるだろうか。そして、色眼鏡をかけるということは、先入観と偏屈な主観が先導するということだろうか。

だとしたら、手前はカラフルな色眼鏡をけっこう多く持っているが、なるべく裸眼で過ごすようにしていると思われる。

とはいえ、案外、他者から見たらそうでもないと思われていることもあるあたり、人と人とがわかり合うということは難しくも尊いのだなと思う。正直、この考え方自体も色眼鏡のひとつな気もするが。

生まれた直後と、死ぬ寸前と死んだ後には、すべての色眼鏡から解放されるのだろうか。

繰り返すが、別に何かが会ったという日ではない。前提として、今日もいそいそ元気に過ごした5月のど真ん中。あと、前提というのは最初に言うべきであろうか。
_05/15

 

 

 

 


たっぷり寝てチャージをして上機嫌で過ごす。ライター案件をやる。楽曲制作をする。めしを多めに食う。元気な証拠だとシュッと過ごす。

そういった日は、インサイドな思考はあまり湧かずに今に集中できる。おしゃれな楽曲の基盤のイメージができたのでよしよし工程いっこ進んだと落ち着く。

やはりもの作りはいいなとしみじみ思う。自分の中のなにかが形となり、誰かと共有できるのは、それだけでも社会と関わっている実感につながる。そのような、まともな認識がきちんと脳内に配置される爽やか碧空の1日。
_05/16

 

 

 

 


クソほど楽しいことはないかなと、スマホを見ながら一服して思う正午。やっぱライブだよなと、今月は2本もやらせて頂き良かったなと、あったじゃないかと回顧する。

それはそれでこれからもっと楽しいことないかなと、出稼ぎ行って帰宅してライター案件やって制作して思う。

通常運転でも見かたひとつで楽しいではないかと、各タスクに没頭する。結局、いま生きていると実感できればいいじゃないかと集中する。

最近、42歳ちょいから50歳くらいまでどう生きて、その後どうなるかをよく想像する。あと8年くらいである。

8年間は長い。どれくらいかというと、8年前、俺はライターをやっていなかった。ライブも3年はブランクがあった頃。ネットに楽曲を公開することもなかった。今の住まいには居なかった時期。父親も叔父も、生きていた。そして俺はまだ、しつこくギャンブル地獄で踠いていた。

そう振り返ると、8年という年月はけっこう劇的な変化を伴うと事実込みで捉えられる。そしてこれからの8年と考えると、全然希望があるではないかと中年期特有のクライシス的思考を回避できる。

クソほど楽しいことはいっぱいある。自分でつくればいい。周りの楽しいひとたちに乗ればいい。みんなと一緒にその時を楽しめばいい。なんだシンプルではないかと、今日もせっせと生業に励む。そのうちきっと、大きな声で笑える日がくるからと。
_05/17

 

 

 

 


そろそろ死ぬのか平均寿命の真ん中くらいなのか、いずれかはわからないが、このごろ人生についてよく考える。

よく、人生をロールプレイング・ゲームに喩えたりする。主人公は手前である。ラスボスを倒すなり、なんらかの重要人物を助けに行ったりと、ゲームには必ず最終目的がある。

途中、仲間に会ったり敵をボコボコにしたりけちゃけちゃにやられたり、カジノがあったり酒場があったりと色々ある。

なるほど、人生に似ているなと納得できることはできる。

すると、俺は今、そのゲームのどの辺なのかなと隣接して考える。わりと中盤以降まで進み、まあまあ必須のアイテムを揃えて船旅で新たな地へ向かっているとかなのだろうか。

はたまた、いまだにこん棒か何かの廉価の武器を振り回してスライム的なザコキャラをなぎ倒しては満足している日々なのだろうか。

あるいは、ラスボスのことなどどうでもよくなってしまっているのか。よもや、慄いて序盤ちょいのあたりでぐるぐるしているのだろうか。

今日まで、いろんな仲間と会った。いろんな楽しい仕事もした。様々な景色を見た。まさか会えるとは思わなかった人物にもたくさん会った。便利な道具やしっかりした楽器や機材もそこそこある。できないと思ったことがいくつかできたりもした。

そして新たな展望への、少なくともアイドリング思考は止めずにいる。ということは、中盤と考えていいのだろうかなと思った。

はたから見たら「やってるねえ。そこそこ」かもしれないし、「まだそこなの?」と見下されるかもしれないし、「わりといいとこいってるねえ」という進捗かもしれない。

今日ふとした会話の中で、「平吉さん、自分の人生なんですから」と言われ、思わず「その言葉が聞きたかったです」と、笑顔で返すというくだりがあった。あくまで雑談ベースだが、俺はそういった輝く言葉を見逃さない。

いつのまにか、他人の人生にのみこまれてないか、自分の人生を歩んでいるかと、日々確認することはわりと大切だなと思った。

「人生は一度きり」と、いろんな人は言う。じゃあ輪廻転生は眉唾ですねということになる。しかし確実なのは、平吉賢治の人生は本当に一回しかないということである。

そうなってくると、そろそろキングスライムあたりは楽勝に一撃で即死させるくらいの段階になっていたらいいなと年齢も鑑みて認知する。

生まれ変わりがあるとして、次の人生ではパク・ヨンヒとかいう名前で生を受けた韓流ライフだとして、青年期に前世の夢を見たとする。

その時、「僕、前はすごかったんだ…よし!」と、起きがけに奮起し、前世のなごりで相変わらず鏡に向かって一人朝礼とかしてたら悔いはないかなと、どんどん主題の思考が脱線する。

このような雑文を日々つらつら書くのも、もしかしたら俺の前世のなごりなのかもしれないなと思いつつ。
_05/18

 

 

 

 


AI作曲サービスで『Soundraw』というのがある。音楽の知識や技術がなくとも音源を生成できるものである。

そのサービスの紹介動画を観てどんなもんかと吟味してみた。一言でまとめると、それっぽいのは普通に出来るやつであった。正直とうとうここまできたかと思った。

それっぽさで言ったらミュージシャンが制作する以上のスピードで、ありとあらゆる“らしい”やつがこさえられる。

ううむどうしたものかと、DAWを開いて今日は何時間も制作をする。AIは使わずに。楽曲の雛形が出来る。その時点で、聴く人にもよるだろうが、明らかに人間が作った感覚が音となっていると俺は感じる。

理由は簡単で、打ち込みのパートもあるが、ギターやベースや鍵盤は生演奏して録音しているからである。その曲に適した心地よい揺らぎを意図的に収めているからである。かっこよく言えばグルーヴである。

生演奏トラック無しのエレクトロミュージックでも、グルーヴは生成できる。手前でもよくやる。拍を気持ちいい部分でずらしたり、感覚的にダイナミズムを調整したりすることでそれが生じる。

ライブや生演奏でなぜ感動が生まれるかと言ったら、人間特有のゆらぎやズレ、ノイズなどが如実にアウトプットされ、聴く者と共鳴するからではないだろうか。この点に関してはAIでは生成不可能だと思っている。

“AIの発展によって、遠くない未来、人間のすることといったらノイズを出すようなことくらいになる”

といった感じのことをどこぞやの知識人がYouTubeで言っていた。なんかわかる気がする。

ノイズや人間独自の“間”は、感情を持つ生命体でないと出せないという結論になるのだろうか。それこそが人間らしさということなのだろうか。

少なくとも、俺が作ったり書いたりすることはノイズが多い。多くしている。この場合のノイズとは、「雑音」というよりも「含み」や「感覚の倍音」という解釈の方が伝わりやすいのだろうか。

たとえば、ここまでの文を、いっさいのノイズを除去して記すと以下のようになる。

「AI作曲の具合を確認し、楽曲制作をして、人がつくるものとは明らかな違いがあると感じた。人間の創作には感情起因直結のものが含まれ、AIにはそれがない。

他の人もそれに似たことを言っていた。人間特有の感覚のあらわれ、例えばライブなどはAIでは不可能であろう。人間にしかできないことが、確かにある」

実に淡白である。たぶん、ChatGPTに要約させても上記の感じになるであろう。ちょうど今日、ニュース記事で英国ミュージシャン・スティングさんが寄せたAIの音楽使用と最新技術についてのコメントをみかけた。

そこには、“機械やツールは人間が使うものであり、使われるもの、コントロールさせてはいけない。我々は気をつけなければいけない”とあった。確かになと思う。

AIで生成するものに対しての感動は確かにある。しかし、なにしろ人間が創作したものはあらゆる倍音成分とノイズが含まれ、惹き込まれるものがある。単に、俺はそういうものが好きだというだけの話である。

一方で、AIツールでイラストを生成してはちまちま動画制作などもするという、本文の内容とは矛盾があるとも言えることもしていた1日。

人間はいつだって矛盾という成分が含まれ、それこそが進展のカギのひとつとなっている気がしてならない。
_05/19

 

 

 

 


最近微妙に酒の量が減ってきたのは少々意図的だが、自然な流れでもある。もしかして肝臓やら体力自体が弱ってきてるのと訝しむも全然そうではなさそう。1日元気に過ごす。

身辺整理でもしているのかというほど、夜は公開用の既存楽曲別バージョン音源制作をする。動画を作る時間まではなかった。それも、ここまで作った曲を別の切り口でアプローチする用途のものである。

とはいえ、新しい楽曲も昨日公開したのでまた新規の制作もしたい。いつだったか仲間が俺の仕事部屋に遊びにきて、鍵盤の前に広く何枚も並べた手書きの楽譜を見ては、「平吉が一番やりたいことは音楽なんだな」と言った。

結局そうなのかなと、客観的にも主観的にも思う。だが、そこからの源泉だけでは生活費の全てを叩き出せていない現状。

だからというわけではないが、やれることとして、稼ぎとして成り立つこととしてライティングもするし、サイトの運営もするし、去年は2つ別の新たな業務もした。新事業はうまくいかなかったが。

そんな感じで常に打席でバットを振っていればホームランなりスマッシュヒットなりと、当たる日が来るというポジティブ思考で手打ち。やることとやったことと、脳の感情を切り離すことで続く日々の凌ぎ。

30代の序盤あたりまでは、その感情にいちいち振り回されては腐ったり落ち込んだりしていた。

しかし今となるとそれは無駄でもあるし原動力にもなると、やはり人間はノイズだらけの生き物だなと改めて思う。それが大事な時もあり、不要な時もある。やはり、ノイズに似ている。
_05/20

 

 

 

 

 


帰路、黒服の方が近寄ってくる。男子が一人夜道を歩くと出くわす赤羽あるあるである。

三十路くらいのその黒服の方に以前、俺は笑顔でそっとクギを刺しておいた。

「あれですよ? 俺がこのくらいの時間に一人で歩いているときはノーチャンスですからね?」

「そんな〜ワンチャンありますよね…? 店暇なんすよ! 死んじゃうからお願いです!」

というようにである。しかしその後もその黒服くんはめげない。決して諦めたりはしない。

「あ!」

「(また来やがった)なんすか?」

「実はですね…ゴニョゴニョ…」

「近い。近いねえ」

「今世紀最大のお願いがございまして…」

「本当にあなた方は誘い文句の宝石箱だよ。参考になってるよもはや。じゃあ!」

「そんな〜」

こういったくだりがもう5回以上は繰り返されている。今日あたりも彼は居た。普通に赤羽駅東口付近のエロめな繁華街に居た。

「あ!」

「(やれやれ)よっす!」

「おつです! 一人ってことは…ノーチャンスでしたよねえ!」

「わかってんのに何なんだよあなたは(笑)」

「んで、確か帰って仕事でしょ?」

「覚えてるねえ。つか遊んでるだろ! 俺で!」

「へへへ〜」

「はは! そういったわけで俺これから一旦ラーメン食いに行くからさ」

「うぃすっ! ではまた!」

しかし目当てのラーメン屋が何故かやっていなかったので別店へと思い引き返す。パチンコ店の間にあるラーメン屋の店外メニューを眺めてると黒服くんがまた来た。

「あれ?『とんや』やってなかったですかあ?」

「(なんで俺の行動把握してるんだこいつは)うん。やってなかったからここでいいかなってね…!」

「ここならこの黒い汁のラーメン一択っしょ!」

「いや、ちょっと高いなあこれは」

「はは! 値段なんて気にしてないでしょ?」

「(黒服さんというのはさりげなく人を持ち上げるのが上手いな)するよお! う〜ん。この味玉のやつにするわ」

「へっ! 安牌とりましたね!?(この場合、無難なところを選んだの意)」

「いいじゃんよ!」

「そんじゃ!」

「うん、じゃまたな!」

彼はもはや俺で金を稼ぐつもりはなさげである。ただのよく会う友だち感覚である。悪い気はしない。

帰って原稿を書いたりする。ふと思う。こうなってくると「まあ、いい奴だし1回くらい行ってあげようかな」と。そう、思うツボである。

でも、「その気にさせる」というスキルは全ての仕事において有効なので、やはり夜の街の黒服さんに寄せるリスペクトは決して否めない。

あの、人との距離感の詰め方の巧妙さといったらさりげなくプロフェッショナル。普通に友だちとして呑みに行きたいけど誘い方がわからないこのやるせなさ。

それこそ彼らみたいにススっと近寄り、「実は初出の耳寄りな情報が…!」とか言えば誘いに乗ってくれるのかもしれない。黒服くんと呑んで遊びたいという謎欲。そういった感情を生じさせるのも、彼らのチャームなのかもしれない。
_05/21

 

 

 

 


原稿を書いて制作する。合間に、書店へ行った。大量にある書籍の中から、どんなタイトルに目を引かれるかで、現在の自分の課題や悩みがわかる。そんな気がする。

思わず手に取った本は、『東京美容外科』統括院長である麻生泰さん著の『もしも、人生を今日からやり直すとしたら 孤独を恐れず自由に生きる法則』だった。

一気に立ち読みで読破した。立ち読みはあまりよくないのはわかっているが、スススと読んでしまった。

タイトルにあるように、俺は、人生を今日からでもやり直したいのかなと、だから読んだのかなと思った。そして特に、本に書いてある内容のお金にまつわる部分が印象的だった。麻生泰さんは、とにかく貧乏は嫌だという原動力があるという。

次に手に取ったのは、西野亮廣さん著の『夢と金』だった。はしがきの、“「お金」が尽きると「夢」は尽きる。これが真実だ。”というくだりが刺さる。

この本はちょっとしか読まなかったが面白そうだった。そこで購入に至らないあたりが、俺に足りていない部分の何かの一つなのではないかと、書店を出て歩きながら気がついた。

そして、俺はいま、自分の人生にとって十分な金が不足していることで、どこか振り切れないところがあるのかなと考えた。じゃあ稼げばよいと、現状の各種仕事について根本から考えた。変わる必要があるのかもしれないと思った。

まずは目の前にある、今やるべきことをやる。それはいい。だがそうしているうちに、理想や夢が遠ざかることもある。そして、万人平等に時間が過ぎる。

本をいくつか読み、金や稼ぎや夢や理想などについて、共通項だったのは「すぐやる」ということだった。だから書店から帰ってからは「タスクを手につけるまでの時間」という、この、なかなか手強い相手に屈しないことから始めた。

結果、いつもより時間に余裕ができた。「すぐやる」ということを、稼ぐ、理想に向かうということを源流にして意識するだけどもけっこう違うなと実感した。

そのように、淡々と過ごす中にも自己啓発が湧いた静かながらも変化を考えた1日。
_05/22

 

 

 

 


出稼ぎに行く。案件のリテイクがあったので速やかに応じる。合間にYouTubeを観る。

70分ちょいという長尺の動画だったが、これは見ておかないといけないなと思う内容だったので全て見る。今年観たYouTube動画の中で一番感動した。

ユーチューバー・ヒカルさんの『「僕は歩けないから会いに行けない」289日間ずっと毎日ヒカルに会いたいとDMをしてきた少年に会いに行きました』というタイトルの最新動画は、もの凄く考えさせられるものであった。

やはり、夢を持って今に集中されている人は強いなという感想が心底から湧いた。

なんだか、こうしてはおれんと元気が出て制作もする。ひとつ、エディットバージョンを作成する。

俺の夢とはなんぞやと、再考こそしなかったが、とにかく今やるべきことをやる。目の前の目的に向かう。そのひとつは、金を増やすことである。

収益も大事だ、そして投資も大事である。そんなことも思い、昨日は某企業を見込んでまあまあえいっと株を買ったがさっそく下落していて草生い茂る。人生も投資も長い目で見よう。そして今に集中しよう。
_05/23

 

 

 

 


昨晩、酒を少々啜りつつ小唄を放っては翌朝、明らかな疲労を感じては歳を感ずる昨今。

しかしながら歳下の婦人から「歳下だと思っていた」などという小粋な感想を寄せられると素直に悦ぶこの体たらく。

ええい、だらしのない豚のような体をしおってと、叱咤するまではいかぬ身体はせめてもの救い。

類似したことを何度も記しはしたが、ああやはり俺は42歳厄年であり、立派な中年日本男児なのだなと改めて思う。

ハゲてやせんかとせっせと頭皮を摩る日々に、決別すべくと「AGA」の検討をするもそこは自然に委ねたいと、今夜も顔部も含めてえいやせっせと揉みしだく。

猪口才(ちょこざい)な、もういっそのこと剃ってしまおうか、煩悩ごと滅却してしまえという発想は、なんだかそれ自体が恐ろしいので慄き決行には至らず。

しかしながら「このどサンピンが、貴様はそれでお国に顔向けできるのか!」と、脳内鬼軍曹は怒号と共に何度も何度も手前を木刀で激しくなぶる。

そして、冤罪です、冤罪ですと、お許しくださいと、ぼろぼろ涙を流しながらも竹林が育つかの如く漢は強くなっていく。

そういったわけでくだくだと抜かしているが、今日は出稼ぎに行って案件を一つ無事クローズし制作に励む。通常運転の一言で方が付く1日であった。永遠の42歳を象徴するような口語調で日記を綴るのもあと2カ月といったところであろうか。
_05/24

 

 

 

 


なんだかまあまあ調子がいいなと朝活をする。内容は、葉っぱの鉢を陽の当たる場所へ移動させ、寝室のサーキュレーターを稼働させ換気をし、仕事部屋のデスクをはたきでハタハタと清め、キッチンで鏡に向かって声張っての朝礼である。

昨日スッキリ切った襟足はどうかと確かめるも、自分で切るとたぶん他人には気づかれない程度だなと認識する。

日中、夜まで仕事をして、合間に手作りスライスにんにく味噌汁とスーパーの安い弁当を食う。めちゃめちゃうまい。

当然そのスープの具はにんにくのみである。しかし、4片入れるのがミソである。さらに韓流ゴマ油でヒタリと追い込みをかける。やみつきになるシンプルな味わい。

うむ、日常だなと、ふと旅に出たくなる。電車や車での移動が苦痛でしかたないというパニック障害の予期不安の症状もだいぶよくなってきた。

都内あたりだったらもうほとんど気にならなくなった。では、一泊ひとり旅あたりから慣らし、快方へ向かおうではないかと、行こう、もう行ける、という思念があることだけ認知する。熱海で温泉か伊豆で廃墟巡りとかそのへんにしておこうか。

日本の真裏側、ペルーまでなんなく行ければ完全回復どころか特大パワーアップといっても過言ではない。それには金が必要である。そうムラムラと考えてはせっせと稼ぐ5月も終盤。
_05/25

 

 

 

 


過食が止まらない女性が居たという。彼女は、毎日ジャンクな菓子を大量に食べては後悔の念を連ねていたという。

ある日彼女は、高級なケーキを用意し、花を添えたテーブルに座り、きちんとした身なりで心ゆくまで美味しいケーキを堪能した。

すると過食はピタリと止んだという。本当に食べたいものをちゃんと食べたら、潜在意識あたりまで満足感が届いたのであろうか。

山崎紗也夏先生の漫画作品にそういったくだりがあった。それは、恋愛関係の本質にも通ずるということを説明したかった例えと解釈できる。浮気性などは、本当に愛し合う関係の相手がいない場合を指すかのように。

恋愛に関して俺は決して明るくないが、とりあえず今日、まず本当に美味しい蕎麦を食いに行こうと思った。

冒頭の例えのようなことがあるのだろうかと思ったことに加え、とにかく俺の、安い蕎麦屋で軽く食事を済ませがちといったことも行動原理も併せてある。近場の「きちんとした蕎麦屋」に向かった。東京都北区赤羽台にある『八幡蕎麦 赤羽屋』である。

店に入ると、秒で湧き上がる心地よさを感じた。古い団地や近所の教会で得られるフィーリングに近かった。聖地に居る感覚である。

そこまで広くない店舗のフロアに店員さんが3人いた。客は俺1人。もりそば大盛りを頼み、1、2組ちらほら来店。

出てきた蕎麦は艶やかな女性の透き通った肌のような光沢感。味は申し分なし。蕎麦湯は全部飲み干す。完璧に満足した。

会計時、店員のマダムに聞いた。

「このお店は、いつからやっているのでしょうか?」

「昭和3年からなんでですよ」

「すごいですね」

「この建物になったのは38年前。お店はもう少しで100年経ちます」

「うへえ。美味しかったです。ごちそうさまでした」

「またどうぞ」

1928年から営業し、第二次世界大戦もオイルショックもリーマン・ショックも東日本大震災もコロナ禍も乗り切った老舗の蕎麦屋。

入店してすぐに感じたオーラは、そういったことも起因しているのかもしれないなと思った。場所と時間には、記憶がある。

さてこれでしばらく安い蕎麦の乱れ食いは止まるかなとも思うが、たぶんそうでもないかなという所感もある。

一方で、酒をほぼ毎日適当に呑む。これもまた、しっかりした酒を然るべき場所で心して呑めば、日々の飲酒はピタリと止まるのかなとスライドさせて考えた。

だがそこは、アルコールという依存性の強烈さに帰属し、そう簡単ではないなと客観的に判断する。

人間、何をどのように体現すれば「満足」という感覚が得られるのかと、どんな人生をもってして悔いなしと思えるのかと、深く考えずにはいられなかった。単に美味い蕎麦食っただけの話だが。
_05/26

 

 

 

 


やっぱ蕎麦食おうかなと思えど安めの天丼にしておく。今日は朝から腹の調子がよろしくなかったが、揚げ物いったれという気概があるなら不問とする。

しかし、メニューを眺めていたら、単品の「大根おろし(¥60)」が目に飛び込むやいなや明らかに欲する感覚に従い追加する。

結果、大根おろしが絶好に美味しく感じ、ああやはり殺菌効果もあるこの食べ物を不調な腹が求めていたのだなと、体からの聞こえない正直な声を知る。

「その時に食べたいと思ったものを食べるのが一番大事」と、大昔に交際していた恋人に言われたことがある。今日なんかはその典型である。

男は元カノの成分で出来ている、と歌うシンガーソングライターもいる。まあそういうのも確かにあるよねと腹をさする。

結局人間、深く関わる人や好きな人やリスペクトを寄せる他者からの影響は大きい。どれだけアイデンティティが確固たるものだと自覚していても、やはり他者との繋がりでできている。

そのへんがうまく契合されると、この世においての変な疎外感や厭世観に苛まれることはさほどないのかなと思った。単にトッピングで大根おろしを追加しただけの話だが。
_05/27

 

 

 

 


出社したり、制作をしたり、動画をちょちょと弄ってこさえたりして過ごす平常運転。

そろそろ梅雨の時期だなと、速攻でギターの弦が錆びるコスパのよろしくない時期が来るなと少々憂う。

しかし、最近宅に追加した植物を見ては、梅雨はむしろ葉っぱが喜ぶ季節だなと、この子の名前は何にしようかなとのんびり耽る。

目の前にあることに集中しつつもそっと普通に過ぎていく梅雨の入り口香る月末。
_05/28

 

 

 

 


電車や車などの密閉空間が謎に恐ろしい。初めていく場所が不安でしかたがない。周りに人がいるだけで気が気じゃない。なんなら部屋にいても落ち着かない。住まいよりも高い所が怖い。

なんだそれはと、俺はこのまま病的な不安症の淵で詰むのかと、新たな展望へ行けずに朽ちるのかと、そんな症状がずっと続いていた。

それはよろしくないなと思う。もっといろんな景色がみたい。新しいことがしたい。だから少しずつでもと、認知行動療法じみたことをして回復を狙う。なんなら以前よりパワーアップする前兆にすぎなかったという思いを胸に。

今日はクソ高い場所に行って「なんだ、全然大丈夫じゃねえか」という実感を叩き込むことにした。目指すは地上約270メートルのストラクチャー・池袋サンシャインビル最上階である。

いざ登ってみると本当に「たいしたことねえな。高いけど」くらいであった。あと、入場料700円も高いけど、と。

ひととおり眺めを楽しみ、素材としての目的でもあった撮影もし、家族連れなどが憩う人工芝ゾーンで超高層ヒッピーかのごとく寝転がり「余裕だぜ」という感覚をちゃんと認知する。

どうしてもその画角で手前を撮影したい場所を見つけた。そこで「高所恐怖症克服の証」の写真を撮りたかった。

だからその場から離れようとしなかったインド人っぽいカップルに頼むに至った。「エクスキューズミー! ヘロー!」と、笑顔できさくにアプローチをした。すると彼らは「Hello!!」と、スマイリーに応じてくれた。

俺は「Hello!! can you take a picuture? 」と、お願いしてみた。

「ええよ? 写真な?(英語)」

「そう! こう、景色をバックに2、3枚いいすかね?(英語。以下同)」

「もちろん。貸してみ?」

「これね。ここ押してもらってと…」

「あれやな兄さん、光の加減で顔のとこ暗くなるけどええか?」

「いいですよ大丈夫。この場所で撮ることに意味があるんです。頼みますよ?」

「ほんじゃいくで? カシャカシャ」

「ありがとうございます」

「どないや? ええ感じか?」

「うん! ばっちりです。ちなみにどこから来たんですか?」

「ネパールやで!」

「へえ。ネパールかあ! 本当にありがとうございました!」

「ええて。いつでも言ってな」

「えへへ(握手)」

ということで確か日本で二番目くらいに高い場所でも全然余裕でいけるという平常以上の精神を取り戻し、意気揚々と地上へ。

これまで全然平気だったことが急に怖くなることがある。あったりする人もいるのである。しかし、行動をもってして以前よりも怖くなくなることもあると証明した。

それは、他者からしたらたいしたことではないかもしれないが、本人にとっては凄く大きな意味を持つこともある。人間の精神のバイオリズムたるや本当に不思議かつパワフルだなと実感した1日。
_05/29

 

 

 

 


1日、楽曲制作を進める。ギターパートを録音する。ストラトキャスターでのスウィングビートのカッティングである。それは、演奏者が素人か玄人かすぐにわかるアプローチのひとつ。

俺はギターソロなどの派手なプレイよりも、アルペジオやカッティングでの伴奏をクールに弾くのが大好きなので丁寧にレコーディングする。

整ったのでミックス工程に入る。ここで下手に厚化粧などを施すと全てが台無しになりかけないので、元の各トラックの魅力を最大限に引上げるべく、様々な音域を整備する。その際、個性と客観の交差点に立つ必要がある。

などと、わりと真面目に過ごしつつも合間にちょいちょい休んだりして溜まった疲労を除去する。こういった流れが月に2、3日でもあれば完全休日はなくてもいけたりする。

とはいえ今度はひとり旅に行きたいのでそういった期間も設けたい。長距離移動の謎苦痛を克服したい。

できるならば国内なら池島か軍艦島へ行き、神々しき古団地のオーラに癒されたいのだがいきなり東京から長崎県は遠いのでやはり熱海あたりに行く所から慣らしたい。

もう1年前くらいにもそのようなことを企てていたが実行に至っていない。今年こそはと思う。制作のように、コツコツ進めれば何事も最終形態に仕上がると経験込みで信じつつ。

改めて俺の最終形態ってなんだろなと思う。なんかこう、シュッとしたやつかなという雑感の抽象度の高さたるや。
_05/30

 

 

 

 


気づけば過ぎている5月。ライブ案件に2つ出させて頂いたり、相変わらず制作をしたり、ちょっと動画を少しづつ作り始めてみたりと、わりといろんなことがあったが気づけば過ぎている。

それだけ充実しているのかと言ったらそうとも感じるし、そんだけ稼いだのかと言ったら桁違いにとは程遠い。

桁違いに稼いだ際に見る景色や、その時の精神状態の今との違いを実感したい。なぜ稼ぎたい稼ぎたいだのといつの日からか連呼するようになったかというと、この点は要素として大きい。

なんぞやを「したい」ということには、そこに基づく行動が必須となる。だから色々やっているつもりだがまだ満足する成果には至っていない。

そんなことをしているうちに人生なんてあっという間だと、今月ほど思ったことはないかもしれない。それは突拍子に高層ビルの頂上へ行ったりもする。一応、前向きな目的こそあったが。

もしかしたら、いくら稼いだとしても、地上290メートルの景色を見て思った「たいしたことねえな。高いけど」と同様なのかもしれない。

しかし、それは実際に体現してこそ説得力を孕むというもの。ひとつはっきり言えることは、生きているうちに「これは体験しておきたい。食っておきたい。会って感じたい」ということに対してはアグレッシブであれということであろうか。

エレクトリックギターとパチスロ機さえあればあとはいいやとか思っていた10代後半の頃とは大違いである。その頃に、今のマインドがあれば別軸の人生を歩んでいたのかもしれない。だが、そういった並行人生は存在しない。

人生とは、今の連続であると、誰かが言ってたか俺がそう思ったのか忘れたが、本当にそう思う。くだくだとこのようなことを日々夜な夜な書き記し続けてそろそろ10年が経つ。
_05/31

 

 

 

 


 

 

 

> 04/2023

> BLOG Top