07/2020

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
やけに文字数が多い。7月


小菅刑務所の起床時間は7時。俺は今日それよりも早く、6時半に起きる。

囚人よりも罪深い気持ちがそうさせたわけではなく、なんとなく3時間弱睡眠で一度覚醒し、2度寝する気にならなかったからである。ちなみに俺は収監されたことはない。

アルコールの半減期は2合くらいまでなら約3時間。すなわち、俺は酒が抜けて一度目が覚め、なぜか気分が高揚していたのでそのまま起きた。

早起きでいいじゃないかと思うが、昼前まで寝ていてもかまわん日に過度に早起き、そして気分の高揚。これは正常ではないと判断できる。明日も同様の流れだったら先生に相談しよう。「最近無駄にアッパー気味です」と。

メンヘラ的な話だが、「躁」という概念がある。それは、「鬱」と真逆の性質である。元気ならいいじゃないかとも解釈できるが、3時間睡眠が続いても元気、というのは、ある種の特異体質でもない限り完全に異常。

強制的にスーパー躁状態にもっていけるという「覚醒剤」は、量にもよるが、摂取すると何日か寝ないでも平気でいられるらしい。

躁状態の人間のよくある共通項目に、「極端に寝ないで日中活動が続く」というのがある。

躁というのは、ただ元気というのわけではなく、いつもは制御されている本能が丸出しになりがち。

例えば軽率に高い買い物をしまくったり、ふだんかけない相手に電話をしてクソ長い会話につき合わせたり、刺激的体験である暴走運転や賭博行為にふけるなど、色々ある。

この「躁」と「鬱」の状態が交互にやってくるのがいわゆる躁鬱病(双極性障害)だ。NIRVANAのカート・コバーンはこれに罹患していたという。

躁鬱病は、昨日まで超ハイテンションだったのに今日あたり死にたくなる。そんな感じで感情が極度に揺れ動く“精神疾患”だ。一般的には「Lithium(リチウム)」という、NIRVANAの楽曲名にもある薬が効くとされているらしい。

そういったわけで、俺は冷静に「気をつけて判断する必要がある」と思い、1日活動しながら手前を俯瞰的に見た。

早朝、軽くめしを食いコーヒーを淹れ、PCでサイトの調整などをする。原稿をやる。昼飯を作ってすする。1時間昼寝。ぶらりと散歩。月頭なのでストック収益状態の確認。伸びている。いいぞ。DAWで制作。合間時間にYouTube「おかしんチャンネル」を観ながらノートを書きMIXの勉強。もう一回DAWを開く。

めちゃめちゃいつも通りである。1日が長かっただけである。酒欲も存分にある。まあ、大丈夫であろう。

感染症拡大の影響で、何人も知らぬうちにストレスを感じているはずだ。ささいなサインを見逃すとどこかで暴発しかねない。そういう時大事なのは手前を俯瞰的に観察することだ。超自我だ。

俯瞰的というのは難しいかもしれないが、ある種のバロメーターを持つと非常にわかりやすい。手前で言ったら、朝の一人朝礼がハキハキできなければ、あるいは全くしなければ、確実に鬱に近い状態。

日記の文字数が2,000字を超えるくらいだったらある種の躁状態。酒欲がなければ、ふつうに体の調子がよくない。

その点、ネコはいい。毛並みのツヤを見れば調子が一目瞭然だ。俺も、そういう視覚的に一発でわかるバロメーターが欲しい。気をつけよう。春先の鬱に夏の躁。秋のメランコリーと冬の鬱。一年中気が抜けない。考え方としてちとおおげさ。
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当然昼過ぎまで寝くさる。10時間は寝る。昨日の睡眠時間と合わせて2で割っていってこいである。身体の恒常性がまともに作用している証拠でよしとする。別に躁でも鬱でもない。至極ニュートラルな気分で過ごす。

池袋に行く。どうしてもタンバリンとシェイカーを生音で録りたいので、ポイントがやたら貯まっているので高級品でなければだいたいタダで買えるイケベ楽器店へ。

昨日の感染者増加の報道で池袋は人っ気が少なかろうと危惧していたが普通。むしろ多い。なんだかみんなマスクをしているだけで、けっこう普段通り生活している雰囲気を肌で感じる。

それがこの先どういった展開になるかと考えると心配にもなる。この時期にあえてこの地に来る手前も手前だが。赤羽にはイケベ楽器店がないのだから仕方がない。必要な外出である。そう手前に言い聞かせ、目的の物と消耗品をポイントでタダ購入し、目的を済ませる。

帰路、なんとなくパルコのジュエリーコーナーに行く。ふと、女子向けのアクセサリーを吟味したくなったのである。この心境の源流がどうもわからない。

だから、実際に彼女なりにプレゼントする体で、寿司屋のネタケースみたいなガラスの表面越しにネックレスなどにしげしげと目線を送り張り付く。

すると当然店員さんが「プレゼントですか?」と、接客をしてくる。正直に「違います」と言ったら変な空気になるのは明白。俺は「なぜ急に女子向けジュエリーを眺めたくなったのか」という心理の源流を知るため、99%の嘘で塗り固められた返答で接客に応じた。

「こちらはシルバーでございまして、こちらが…」

「そうですか。あ、これはピンクゴールドですね。可愛いですね」

「はい。あとこちらはけっこう人気があるんですよお!」

「なるほど。価格帯的にもうちょい上を検討しておりまして」

「では…こちらはダイヤが入っておりまして、ほら、真ん中の部分が揺れるんです!」

「これはすごい! チャーミーなポイントですね」

「どんな雰囲気のを、などはお考えでしょうか?」

「そうですね、とにかく可愛いやつがいいんです」

「可愛い方にプレゼントするんですね…!」

「はい。可愛い女性なのに、“カワイイ”っていう感じのアクセサリーをしないんです。服装もメイクもそうで。そこがよかったりするんですけど、実はキャピキャピしたのも似合うと思うんです」

「そうですか! ではこちらなど…」

「ハート型ですね。そうそう。こういうのです。女性の外見や趣味趣向に干渉するつもりは一切ないんですけど、『実はカワイイ寄りも似合っちゃうんじゃない?』ということをプレゼントで伝えたいという気持ちもありまして」

「どんな性格の方なんですか?」

「わりと硬派というか、ネイルとかもあまり興味がないような、ちょっと男性っぽいところがあったりするんです。極妻をやや丸くした感じです」

「ごく…? それでしたら一度でも超カワイイのを付けるの、いいかもしれませんね!」

「試しに、みたいなノリもいいと思うんですよ…『実は似合うかもしれないけど自分ではまず買わなそうなやつ』というプレゼント・コンセプトもありまして…気に入らなければ付けなければいいし…じゃあ他のも検討するのでちょっとフロア周ってきます」

「はい。お待ちしています!」

全部嘘である。俺が店員さんに応じた返事は全て架空の女性のイメージについての虚構である。なぜ、全力で嘘をついてまで商品を選ぶふりをしたのか。女子アクセサリーが気になったのか。その場では全くもってわからず終いだった。

こんなにも迷惑な冷やかしもないものだとやや反省するが、悪気は別にないのだからいいかなと思って帰宅。

「贈与するジュエリーが欲しい」ではなくシンプルに「彼女が欲しい」のか。ちと違う気がする。「誰かに喜んでもらうためにあらゆる選択肢の中で悩みたかった」であれば、近いかもしれない。

俺自身はアクセサリーを一切付けない。ピアスを刺すことも選択肢にない。腕時計ですらしない主義だ。

例えば俺に伴侶がいて、彼女がそれを知った上で俺に腕時計をプレゼントしてくれたとしよう。たぶん、普通に喜ぶ。「俺、腕時計しないって言ったじゃん(笑)」とか言いつつも、毎日装着する気がする。

そして、「俺は自分と他人の時間を大切にするという考えがわりとあると思うのに、腕時計はしない。やや矛盾が生じる。そうか、実は腕時計は俺には必要なアイテムなのか」と、手前のスタンスを見直す機会にもなるかもしれない。

干渉までいかなくとも、自分の主義やスタンスとは真逆の、他者からの発想なりを受けることで、自分の世界が広がることもあり、深まることもある。その思考を広げたかったのだろうか。

その、今まで言語化できなかった思いが俺をジュエリー屋で嘘を撒き散らかすという行動に繋がったのか。これが最も近そうである。

とりあえず、パルコのわりと美人の店員さん、無駄な時間を割いてしまいまして本当にごめんなさい。機会があれば、ちゃんと貴女のお店で購入いたします。
_07/02

 

 


マッシュルームが食いたいという突発的な欲が湧き、起床してまずSEIYUへ買いに行く。キノコ類は免疫力が高まる効果があるというので、この時期にはうってつけの食い物だ。

冷蔵庫にセロリの余りがあったのでマッシュルーム×3と一緒にスープにして食う。ほんだし、塩、やや醤油、高いオリーブオイル、バジル。このレシピでスープを作るとだいたい美味い。

なぜ急にマッシュルームを食いたくなったのか。俺は約19年前を振り返った。マッシュルームにまつわるトピックがある。

当時は高田馬場で麻雀店のメンバーとしてやさぐれた暮らしをしていた。リアルカイジだった頃である。

遅番明けの早朝、高田馬場駅前で「へその緒」みたいなのを並べている行商の老婆を見かけた。

確か一点数千円。謎のへその緒的干物。「あれはなんだろう」くらいにしか思わなかったが、近くで形状だけ確認して買わずに帰った。そして、翌年。

2つ上の地元の先輩であるトミオカさんという人間と一緒に4人組パンクバンドを組んだ。1年活動した。1枚アルバムを出してサッと消えた。セールス面以外はセックス・ピストルズと同じスタンスの実に潔いパンク・バンドだった。手前も、メンバーも全員、「俺達はマジでカッコいい」という自負があった。全く売れなかったが。

練習で使っていた秋葉原のスタジオは、ついこの間コロナのせいで閉店した。よく出演させて頂いていた渋谷のギグアンティックというライブハウスも今はない。ひしひしと時代を感じる。俺のパンク時代。クソみたいな1年。最高にアツかった1年間。

活動中、トミオカさんは、どういった話の流れだったかは忘れたが「マジック・マッシュルーム」という危険物がどういったものか説明してくれた。

「そうなんですか? そういや高田馬場の路上で売ってましたよ?」

「もう合法じゃなくなっちゃいそうだけどな。高田馬場行く?」

「行きませんよ。要はドラッグじゃないですか」

「パンクじゃねえなあ」

「あなたはパンクを吐き違えていますね」

「じゃあパチスロ行く?」

「行きましょう」

【マジックマッシュルーム(Magic mushroom)】
“トリプタミン系アルカロイドのシロシビンやシロシンを含んだ毒キノコ。主に幻覚作用がある。日本では2002年から「麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令」として規制対象。要は非合法ドラッグ。”

もちろん、非合法ドラッグが食いたいのではなく、なんとなく初期衝動的バンドを組んで楽しかった頃を懐かしむ心境がマッシュルームと紐付き、急に食いたくなった。そう解釈しよう。そして、俺はまだバンドがやりたい気持ちがあるのだろうか。

そう、ロック魂を燻らせつつも焚きつけ、今日の制作ではギターをたくさん録音した。ロックを作る。

あの時、21歳の時、“へその緒”を興味本位で買って、調べて、効能を理解した上で食ったら、俺はどうなっていただろう。
_07/03

 

 


アピレにソックスを買いに行く。アピレとは池袋で言うところのパルコ的な存在の赤羽の小ぶりな駅ビルである。ここには楽器屋もあるし無印良品もあるし安くて美味い弁当も売っているし、何しろ近いし、俺はたいへん重宝している。

1階でお客さんが願いを書いて短冊を吊るすイベントツリーがあった。

そうか、もうそんな時期かと思いつつ、例年通りみなさんの願いを眺めては「叶うとでも思っているのか」と、「どうか叶いますように」という相対する感情が湧く。しかし、言葉にして、文字にして掲示するという行為は、その具体的な願い自体どうこうより、まずポジティブな方向に行くことを俺はよく知っている。

「はやくコロナがおさまりますように」等、やはりコロナ関係の願いが約4割。

「家族が健康でしあわせにすごせますよう」という、普遍的なものも散見。

「留年しませんように」たる、切実な願いもあった。それは手前が頑張れ。

「推しと結婚できますように」。これはなかなかジワる。

毎年思う。手前だったらなにを願い、何を記し掲示するか。

「みなさんの願いが叶いますように」という、腐った優等生的な願いが第一候補である。大勢が願うスポット、例えば初詣などでは俺はそう願いを込める。

みんなの願いが叶えば、誰一人として不幸にはならないと考えているからだ。

しかし、そう願うとすると、猟奇的趣向と異常性癖を持つサイコパスの願いも叶ってしまう。されど不特定多数の人間が犠牲となる。一概に「みんな」という言葉を使うのはなかなか難しいなとも考える。

じゃあ、「ちゃんとした人達だけが幸せになれますように」だろうか。

その場合、ヤクザや半グレ、アウトローや反社会的人格の人間は幸せになれない。それは差別というものだと俺は思う。

「みなさんが健康で文化的な最低限の生活を営めますように」だろうか。これだとなんだか生活保護受給を斡旋しているかのような願いだ。

「みんなの願いをどうこう」というのは難しい。だから、短冊には基本的に自分の願いばかりが記されていたのだろうか。どうやら、それが正解らしい。

「まず、自分が幸せになること」。これが正しい第一選択肢なのだろう。手前が幸せなら気持ち的にも対人的にも金銭的にも余裕が出てきて、何事も分け与えられるだろう。

じゃあ、特殊な人格の者はどうなる。生まれながらにして、人とは違う、ドス黒く鋭利な衝動が核にある人間というのはいつの時代も一定数いる。

そういう者達も含め、生きるあらゆる大勢が一律ハッピーになる手段はなんだろう。いくら考えても答えは出てこなかった。人それぞれの幸福の種類は把握しきれないくらい何色もあるからだ。

「みんなが救われますように」みたいなフワッとしたのが最も無難だろう。

留年しても、それがきっかけで痛みを知りタフになり、救われますように。推しと結婚できなくても、新たな推しと出会えますように。幸せはどこにでもゴロゴロ転がっている。
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推しに票を入れに行く。今日は都知事選である。

俺の推しにはしっかりと政治畑で頑張って頂きたい。そう思いながら改めて投票所の各人のポスターを眺めると、どうも俺にはYouTubeのサムネにしか見えん。まあ、何事もインパクトは大切なのだろう。

今日は早起きしたぶん、仕事は巻き気味にこなしたので散歩する。最近、SEIYUの陳列棚から姿を消した「ウィルキンソンハードナイン」という、ストロング酎ハイ史上最強の銘柄の缶酒を探す旅に出た。

あらかじめネットで調べたら「販売休止中」という情報があった。コロナの影響で生産ストップ中なのかと考える。

徒歩10分圏内に売っていて欲しいと願いつつ、たくさん酒を置いている店をはしごする。

アピレの地下スーパー的な売り場にもない。北口のスーパーにもない。ダイエーにもない。コンビニにもない。諦めた。おのれコロナ。「ウィルキンソンハードナイン」の次に美味いストロングハイを2本と真っ赤なマグロのサイコロ状のさしみを買って帰る。

俺の推しは当選したかなと思いニュースを見ると、「まあ、そうなるよね」という結果だった。それよりも、前回よりも投票率がけっこう下がったということの方が気になった。有事に投票率が下がるという事実は、社会人的人格の俺は「やばい」と感じた。

「選挙に行こうぜ!」と盛り上げるなり、SNSなどで「投票してきました」と投稿するなりして投票の大切さを謳うのは俺の性に合わない。正直、それらの行為は積極的にやったほうが良かれとは思うが。

政治に対して向き合う、政治家を選ぶ、国家がどうの、という考え方で選挙に行くのがマジョリティだと思う。しかし俺は、もっと身近に考えるのもいいのではないかとちょっと思う。

「庶民的で最高に美味いコスパ抜群の酒の生産を止めなそうな人を選ぶ」くらいのノリでも悪くないと思う。

「なんとなくこいつはやってくれそうなツラ」という理由だけで選んでもいいと思う。「こいつにだけは当選してほしくないから、誰でもいいからとにかくこいつ以外に」という投票の仕方もアリだと思う。

大前提として、投票しない方を非難するつもりは毛頭ない。弾を打つか否かは個人の自由である。しかし、その自由やルールを設定するのが政治家の仕事でもある。

参加して、推しを見つけるなり、「こいつはヤバイ奴だ」と判断するなり、どんな方法でも、まずは加わった方が視野や思考が広がる気がする。脳が反応すればこっちのもので、だいたい行動に移る。

人間の根本的な心理として、「関わる」「参加する」というだけで、物事や対人関係がポジティブになると聞いたことがある。そう思うのだが――、これはあれだ。選挙が終わった日に書いてもしょうがない内容だ。マグロ食って寝よう。
07/05

 

 


70%という湿度を示した温度計を疑うほど蒸し暑い。

保湿にいいじゃないかと無理にポジティブに捉え、鏡で肌をさすると髭に白髪が。これは切ない。マスク着用がデフォルトなので髭を剃らずにいたら良く言って伊藤英明さん、悪く言ってシャブ中のような面構えの昨今。

俺もそろそろ40歳という、髭に白髪が混じるほどの、若い時では考えられなかった年齢になる。10代、20代の頃など、「40代、それ以降になったらどう生きるべきか」など、1ミリも考えたことはなかった無計画性。特に明確な人生設計もないまま40歳を迎える。

こんな40歳は嫌だろう。手前の人生の先々よりも目先の髭の白髪を気にするアラフォーなんて嫌だろう。俺がまともな思考回路を持った女性なら「圏外」扱いである。そう思い、ちょっとこの年頃らしいことでもリアルに考えながら冷静にコーヒーをすする。

不動産が欲しい。これはアラフォーっぽい考えである。もっと明確に、俺はマンションが欲しい。この近辺に2LDKほどのマンションを購入したい。現金払い一括でズドンと行きたい。

現場で物件を見定めつつ、「いやあ、なんなら今日買っちゃいたいくらいなんですよね」と、現金3,500万円くらいを詰め込んだ銀色のエフェクターケースみたいな箱をチラつかせながら営業マンを焦らしたい。

「よし、ここに決めた。営業マンさん、ここネコとか飼っても大丈夫ですか?」

「ええ! それはもう! 持ち家ですからね!!」

「多頭飼いOK?」

「オッケーです!!」

「じゃあ…パカ。お確かめください。あと、領収証を…」

これは具体的な夢である。いや、目的の方だろうか。俺はそのマンションの一室は仕事部屋に、もう一つはぶらぶらとさせ、仮に伴侶が見つかった時用の部屋に、リビングの一部は改装して物置に。

2匹はネコを飼いたい。TVの横にブラウンカラーのキャットタワーを設置。ネコ用ベッドではなく、あえて、彼らが好むダンボールを無造作に置いておく。カウンターキッチンにはジンやベルモットなど、各種酒のボトルを並べ、たまに人様をお誘いして自宅バーごっこに耽る。

「どうぞ。マティーニです」

「うん美味い。いやあ平吉、ガチでマンションいったか」

「いってやったよね。一括でズドンと」

「この汚いネコたちは拾ってきたの?」

「そう。赤羽公園にいた奴らを拾って病院でケアしてイエネコとして一緒に過ごしてる。自由を愛する奴らだから、家暮らしに飽きたそぶり見せたらまた野に放とうかと」

「そうか。つうかネコの前に女じゃねえ? ここまでいったら結婚を考えるのもいいんじゃねえ?」

「わからんなあ。とりあえず老後も余裕だぜ!」

「ところでお前、固定資産税って知ってるかい?」

「しらん」

けっこうリアルに想像が広がる。

この目的を達成するために必要なのは、実にシンプルだ。現金3,500万円を手に入れることである。40代のうちにいけるだろうか。なかなか低くはないハードルだ。

もうちょい、コツコツ積み上げながら「いける」という感触も共に加えながらだと、こういうのはうまくいく。まずは1割の350万円を手に入れるところからにしようか。いきなり3,500万円よりはいける気がする。その手段たるやどうするか。

350万円あれば住宅ローン審査も通りやすくなるだろうが、ローンではなく一括払いというのがポイントだ。「俺の家」を確定させたいのである。

今の物件にいくら払っているかちょっと電卓をたたいてみた。75,000円×27ヶ月。更新料に敷金。200万円を超えていた。数字で認識し、さらに不動産が欲しくなってきた。

アラフォーらしくていい欲望である。人様によく「欲がない」と言われがちな手前にも立派な欲があるではないかと安心する。

3,500万円を手に入れるためにはどうすればと、リアルに考えよう。視野を広げよう。いくらでも方法はあるはずだ。

手前の七夕の願いは、案外俗なものだった。「3,500万円欲しい」。これは人様の目に付くところには晒したくない、たいへん品のない短冊だ。おとといあたりは「みんなが救われますように」とか抜かしていた気がするが、実際は俗な願いだった。理想と現実を隔てつつもいつか繋がる天の川。
_07/06

 

 


超高湿度と強風という嫌がらせのような気候。案件で渋谷へ。

さあ今日も3,500万円作るために頑張るぞいと思いつつ現地到着。早く着いたのでパーキングの近くでちょっと待っていたら事故発生。

車庫入れしようと頭から隅の位置に入ろうとした車が「メコメコメコ」という悲惨な音と共に駐車中の車に強かなアプローチ。10メートルくらい離れていても車の凹みっぷりがわかるほどの惨事。

「やっちまったな。『“わ”ナンバー』だからレンタカーか。慣れないのに無理をして頭からいくから…」と思いつつ、眺めていたら車で通りかかったとっつぁんと運転席越しに目が合う。

もの凄い笑顔であった。エイフェックス・ツインの『リチャード・D.ジェイムス・アルバム』のジャケットのような表情で「あいつ、やっちまったな!」と言わんばかりに俺を見る。ある種の共感を求めているように感じた。

なぜ、人間は、他人がやらかした時に笑ってしまうのか。わからないが、俺もとっつあんの笑顔を見たらこっちまで笑いがこみ上げてきたので、基本的に人間は人様のやらかしをせせら笑う基礎的感情を備えているのであろう。

昔、パーラーでバイトをしていた時、「人が超怒られているのを側で見ていると笑ってしまう」という先輩がいた。きっと、他人が怒られたり惨事に見舞われるのを傍観することは、人間にとって快楽なのであろう。

逆に、「怒られていると快感を得る」という人間もいるらしい。性的に興奮するという場合もあるという。これはただのマゾヒズムだろう。

共通するのは、自他共にネガティブな感情が激しく揺れ動くという点だ。それらを快感に変換するというのは、人間特有の精神構造だと考えられる。動物にはない感情だろう。

すなわち、怒られたり事故ったりするのを見て、あるいは食らって、笑いや快感を得られる人間は、精神構造が人並み以上に発達している、または知能が高いのではないかという仮説が出てきた。

そうすると、あの通りがかりのとっつあんの方が俺よりも優秀な精神と頭脳を持っていることになる。あの下品かつハッピーな笑顔をしたとっつあんよりも、である。認めたくないので仮説棄却。
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最近にしては珍しく昼過ぎまで寝くさる。「LSDを食うとこんな景色に包まれるのだろうか」という感じの、明らかに違う次元に居るようなサイケデリックな夢をいくつも見る。どうも起床時間が定まらない。

しかし、特に困っていないどころか、ここ1カ月は妙に早起きする日が2、3日に1度くらいあるというのがルーティン化しているので逆に見上げたものである。

定期検診にクリニックへ。上記の旨を主治医のドクターに報告しておく。

「おかげさまでおおむね良好に過ごしておりますが、そういうわけでして」

「“ハイ”になっているというわけではないのですね?」

「はい。いたって冷静に過ごしています。むしろ活動時間が増えて生産性がやや増し、最近は些細なことに苛立ったりすることも減ったくらいでして」

「そうですか。でも、立場的には『安定していない』という部分は考えものですね……」

「俺は『安定』してないんです先生。昔からいつの時期でも。体調も起床時間も他にも…特に起床時間は『出勤』などの縛りがない限りはバラバラでして」

「ううん……体調は大丈夫なんですよね?」

「おかげさまでして」

「わかりました。現状の処方で様子を見ましょう」

「ところで先生、前回相談に乗っていただいたのでご報告しますが、コロナ関連の金融施策は全て着金しまして」

「よかったじゃないですか!(急に目を光らせる)」

「はあ、やはり現金がどっしり手元にあると肚からの安心感があります」

「いや平吉さん、私もね、一応公庫(日本政策金融公庫)から借りておこうかなと考えていましてね…」

「先生、今なら審査ガバガバですよ。しかも公庫が一番対応早かったです」

「医療機関向けのコロナ融資枠があるんですよ…一応借りておいて、まあ使わなかったらそのまま返しちゃえばいいし……(いつもの脚をぶらぶらさせるクセを見せる)」

「先生、フロントでいつも思うんですけど、来るたびに患者さんが増えていて、こう言っちゃなんですが儲かっているのでは……?」

「でもね、やはりこういう時はうんぬん。お金はうんぬん……」

確信した。前回もその前もそうだったが、先生はお金の話大好きっ子だ。目の輝きが違う。俺の症状についてよりもよっぽど食いついてくる。しかも金融関係の話に妙に詳しい。

まあ、診察と金の話と、ダブルで頼もしい存在ではないかと感謝心を引っさげて街をぶらぶらと。外でめしをしっかり食う。帰って原稿をやる。制作をする。

安定した体と精神と暮らしを支えるドクターという存在。信頼感ばっちりなのだが、お金の話になると「クワッ」と目をギラつかせ、子供とヤクザを足したような表情に豹変する彼に、俺はある種の狂気を感じる。そこには好感度がプラスされる。

やはり、精神科医というのはどこか偏りがあって面白いパーソナリティだ。もちろん、悪い意味ではなく。いつもありがとうございます先生、来月もまたよろしくお願いします。
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今日あたりも大人しく部屋で仕事、作業と、コツコツ暮らす。

「明日から頑張ろうという人間に未来はない」「今日を頑張った者にのみ、明日がくる」「金は命より重い」

だったろうか。『賭博黙示録カイジ』に書いてあった気がする。どれも極論すぎて目を逸らしたくなるフレーズだが、どこかしらの的をグサッと刺している。しかし、「今日を頑張った者にのみ――」というのは、コツコツとした毎日の業務意欲に火を付けてくれる。

じわじわではあるが、ストック収益などが着実に伸びているのは、明日からではなく、今日を頑張り、お金の重みに目を向けたからかもしれない。

なんだってそうである。いきなり「結婚しよう」と言って「Yes」という人間はそうそういない。まずは雑談あたりからコツコツである。

ヒヨッコがいきなりホームランを狙ってもまず無様に三振だ。素振りを重ねて、ヒットを重ねてからが賢明だろう。

下手の横好きが毎回役満を狙ってどうする。まずはピンフなりタンヤオなりで安いアガリをコツコツ重ね、流れを掴んで好機を待つ。

これらを示唆することは、確か、俺は小さな頃に、違った言葉、アプローチで教わった気がする。しかし無視し、努力をないがしろにしてきた気がする。それはそうだ。子供はやっぱりホームランに憧れる。「そのためには」という発想がなかっただけである。

「そのためにはコツコツ頑張れ」と、俺が完全認識して行動に移したのは30代後半になってからであった。バカを通り越して、脳機能のどこかが確実に欠損している。しかし、その点についてもコツコツと勉強し、何が欠損していて、その場合どうすれば、という知識と方法を得た。

たぶん、多くの方々は、俺なんぞよりも早い時期に、当たり前に「コツコツやることの重要性」に気づいているのだろう。

俺は、「どのタイミングで気づきました?」と、みんなに聞いてみたい。しかしリスクがある。「気づいていない人に当たった場合」である。「え? まだ気づいてないんですか?」とリアクションをとり、秒で殴られるだろう。

というか、さも「コツコツやることが万人にとって大事だ」というような旨をつらつらと並べたが、一概にはそう言えないと思う。人によると思う。みんながみんなそうというわけではないと思うから、個人の自由だと思う。コツコツやらない人、そこに重きを置かない人は、いきなりホームランが打てる才能を持っていたりするのだろう。

そして、誰もが意図的にではなくとも、他の人からみたら「よくそれを毎日のようにやっているね」と、ポジティブに捉えられる何かしらのことを積み重ねていると俺は思う。どんなに些細なことでも、だと思っている。

人と会ったら笑顔で接するとか、人一倍体のどこかの手入れは入念にしているとか、どんな些細なルール違反も犯さないとか、会話では必ず笑いを狙にいくとか、人によって絶対一つ以上はあると思う。

それらは、手前にとって、そして他人にとって、あるいは両方と、必ず大きな何かのハピネスに繋がる行為だと思う。それも「コツコツ」というある種の善行だろう。

死んだ後、人生での行いをジャッジされる場があったとしよう。されど、神的な輩から答えが聞けるだろう。

「君はこの頃からあれをコツコツやってたね。あれ、ポイント高いから」

「そこっすか?」

「うん。あれはね、わりとみんな喜んでたよ」

「じゃあ、あれは? よかれと思って欠かさずやってたあれは?」

「うん。あれね。無駄。でもね、それじゃないあれはよかったよ。君が毎日やってたあれ」

「そこっすか? 一円にもならんやつですよ?」

「うん。でもあれ実はね、みんなわりと喜んでたよ。あと、あれもかなりポイント高いよ」

「それなんて無意識ですよ。今気づいたわ!」

「うん。実はよかったんよ」

「じゃあ、ずっと頑張ってたあれは? ポイント的に!?」

「すぐそういう考え方するよね。人間は。あと、あれもよかったよぉ…」

「ええ! 俺が地獄みたやつじゃないですか!」

「地獄っていう観念が違うんよね。こっちでは」

「うわあ……で、俺、どっちです?」

「うん。カチャカチャパチパチ……(そろばん)。君はギリで選べるかな。どっちがいい? 地獄 or 天国」

「うわあ……中間、ないっすかね? どっちも見てみたいんですけど……」

「(やれやれ。こいつもまた懲りずに人間やりたいのか)」

どんどんオカルト宗教思想的になってきたから、酒で清めて刹那的快楽に浸って寝くさろう。さすがにこれはポイント低いだろうも。
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「ノイリー・プラット」という最高に美味い酒がある。そこらへんのスーパーなどではまず売っていない、一般的にはややマイナーな銘柄だ。

しかし、バーなどではかなり重宝されているメジャーな酒で、赤と白と2種類あるが、俺が好きなのはドライベルモットという白い方だ。正確に言うと、琥珀色の美しい輝きを見せる名酒である。

5、6年くらい昔、この酒をカクテルなどではくロックで直に呑むことにハマっていた。しかし、あまりにもサイケデリックな酔い方をするので、いつからか控えるようになった。

ノイリー・プラット・ドライは、製造方法が独特かつ20種類以上の厳選されたハーブが入り混じっているという。そのハーブの中に、きっと麻薬的な成分が含まれているものが加わっていると俺は判断し、最近は呑んでいない。たぶんそんなことないのだろうが、感覚的に、必ずヘロヘロな酔い方をするのである。

相当昔は、酒の中に非合法的な感じのものが混じっている銘柄が流行ったそうだ。「アブサン」が有名だ。“ニガヨモギの香味成分であるツジョンにより幻覚などの向精神作用が引き起こされる”らしい。当時の画家やアーティストはこれにハマり、中毒者となる者が続出し、20世紀初頭には各国で禁止されたという歴史がある。

今も「アブサン」は売っているが、当時のようなドラッギーな成分は入っていないという。そこで「ノイリー・プラット」である。どうもこれにはそれっぽい何かが入っているはずだ。

徒歩20分ほどで着くリカー・ショップに行けばたぶん売っているのだろうが、やめた。そういった、依存を引き起こそうものに積極的になるのはヤメた。大前提として、おそらく「ノイリー・プラット」には変なものは入っていない。普通に、超優秀なベルモット酒である。

しかし、主観的にはどうも酔い方が違う。ハッピーとサイケデリックがうまくブレンドされる酔い方をするのである。呑みたい。

そんなことを考えながら、スーパーでストロング酎ハイを買う。これもけっこう際どい酒だが。2本までなら安全とみなしている。
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任侠漫画には目がないので『漫画ゴラク』連載中の渡辺潤先生の作品を買いに行く。

渡辺潤先生とは『代紋TAKE2』というヤクザ漫画で大ブレイクした漫画家さんだ。俺は10代後半から20代にかけてこの作品にどハマりし、その影響なのかその時期から言葉使いが汚くなった気がする。いまだに汚い。それまでは確か、比較的普通だった。漫画のせいにするのもどうかと思うが。『代紋TAKE2』はたいへん素晴らしい作品である。

他人様から「平吉さんはたまに汚い江戸弁が出るね」と、指摘されることがあった。でも、どうしても治らないのである。特に、ほんの少しでも相手に気を許すと出る。会社員管理職時代にも上司に指摘されたが、「味」ということで、その職場ではポジティブに捉えられていた。

「うるせえな、手前でやれよ。チッ!」と、部下に対応する。これは文面にするとパワハラそのものであるが、周りから見たら、どうもその言い回しをする時の表情や身振りが真逆で、どこか温かみがある許せる、とのことだった。良い職場であった。

そんな汚い言い回し満載の、と言ったら失礼にあたるかもしれないが、俺的にはそこに敬意も含むヤクザ漫画の新刊はまだ売ってなかった。そろそろだろうから期待が募る。書店をぶらりと周り、ふと目にした壇蜜さんの日記形式の著書を読む。

俺なんぞの日記とはこれまた真逆の綺麗な文面で、文学的文体でありながら読みやすいという素敵なものだった。見習いたいものである。

言葉使いや文面は人間性がかなり出る。俺は、根はたぶん生真面目だがアウトプットはキャッチーに、というスタンスがある。それがなぜか汚くフランクな言葉使いという形で出る。

人様の言葉使いにフォーカスすると、歳の近いのほとんどの人は「社会人語」に近い言い回しをする。ギャルは、やはりギャルっぽい言葉使いをする。バンドマンは基本丁寧な言葉使いなのだが、アツくなると言い回しを良い意味で崩してくる。

経営者系の人はやはり理路整然とした言葉使いで、どこか、こっちにもそれを求めてくる傾向がある。医者は、無意識だろうが、別にいいのだが、どこか諭すような口調が多い。警察官や役所の人たちはなぜか雑な言い回しの方が多い。

「素の言い回しや口調が似ている人間」というのは、高確率で仲良しだと思う。一人だけ、俺とほぼ同じ口調で喋る人間がいて、その人に対してはひっくり返って腹を見せる犬のごとく気を許している。

「なんとなく気が合うな」と感じる人種にまっとうな人間が少ないのは、俺の言葉使いが汚いからなのであろうか。会話の上での汚い言葉使いを治せば、常識人と心を通じ合わせられるのだろうか。でも、この歳になっても治らないのである。汚い江戸弁。
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10年選手の財布が限界を超えているのでデパートに買いに行こうかと思い立つ。

しかし、出発前に対応した電話で、ついでに「新しい財布を買おうかと思う」と言うと、「その金でアップルウォッチを買った方がいい」という意見を聞く。

確かに、今使っているポース・スミスの財布よりもちょっといいやつを買おうと思っていたので、その金があったらアップルウォッチは買える。どうやらアップルウォッチは決済に便利なアイテムだそうだ。

第一、今の財布でも別に不便ではないが、たまに「その財布、年季が入ってますね」と、要は「汚い」と言っているようなものであろう感想をよこす輩もいる。

金入になぜ金をかけようと思っているのか、根本的に考えたが、たぶんアクセサリーを買うのに近い心境だ。ブランド品には疎いが、ポール・スミスのデザインは好きだから、3万円くらい出して買ってほっこりしようという自己満足である。

国が無条件で給付してくださる件の10万円。あれはボーナスみたいなものなので、着金したらたまには自己満足のために3万円くらい使ってもいいのかもしれない。最近、とにかく贅沢品というか趣味嗜好に対して極端に金を使っていない。

そう思って、ポール・スミスの財布を1時間くらい調べていたらネットブラウザの広告バナーが財布だらけになった。悩ましい。

正直、財布なんて「がまぐち」でもいいのだが、なんと言うか自己満足に浸りたい。少し高価めの漢のアイテムが欲しい。革製のやつは4万円を超える。10万円着金はまだだろうか。
_07/12

 

 


愛用のアコースティックギターを自力で調整し、大手術の末、わりと復活させる。3時間かかった。やれやれと思い、原稿をやって提出する。

すると、俺のライター業の「案件」フォルダ内の未着手案件がなくなった。恐ろしい、コロナやなんやかんやといえ、だいたい毎日原稿を書くタスクがあったのだが枯れた。あな恐ろしや。

明日やることと言えば制作くらいだ。締め切り等はないストック収益用のタスクにつき、何なら明日はなにもせずゴロゴロだってできる。

「やべえな、1本いくらの案件が手元にない。不安だ」とか思いながらの休日は虚しい。ほぼ毎日やっていることではあるが、この際、無尽蔵に曲を作りためよう。なんならそれだけでも食っていけるという勢いが出るほど制作をしよう。

10代、20代と、人間的に盛んな時期よりも39歳の現在のほうがよっぽど、人生で一番いまが制作意欲があるという手前を褒めてやりたいくらいだ。

みんなはどうなんだろうと思い、「39歳の頃に制作された名曲」を調べてみた。すぐ見つかったのは、The Flaming Lipsの1999年の名盤『The soft bulletin』だ。これは、フレーミング・リップスのフロントマンのウェイン・コインさんが俺くらいの歳の頃に制作された作品だ。

そしてThe Flaming Lipsはこの後、『Yoshimi Battles the Pink Robots』や『Embryonic』など、死ぬほどクールでアバンギャルドかつ統合性のとれた名作を数々生み出している。

Radioheadで言ったら2007年の『In Rainbows』をリリースした頃が俺と同じくらいの年齢だ。その頃、さいたまスーパーアリーナにライブでレディオヘッドを観たが、漏らした。

39歳という年齢以降、若い者の感性に負けてくたびれたものしか作れないのでは、というステレオタイプな思考がほんの少しだけあったが、そんなことはないと偉人たちが証明している。なんだか勇気が湧いてきた。

タイミング的に案件が枯渇した。音楽を作る時間がめちゃめちゃ増えた。そう捉えればよい。第一、俺は今年に入って作った20曲くらい、手前でもかなり好きだ。自己愛性パーソナリティ。作った曲が好きで、ユーザーがいて、収益もある。最高ではないかと、そう考えよう。

この間誰だったかに「何でいつも音楽を作るのですか?」と、問われたことがあったが、俺もよくわからない。たぶん、子孫を残す行為に近い気がするが、それは崇高すぎる考え方だろうか。

音楽なり絵画なり何かしらのコンテンツを作ることに執着する行為。それは、こう、手前が死んでも末長く残るものを撒いておきたいという、意外とエロい行為なのかもしれない。
_07/13

 

 


コロナ関連の金融支援策である「家賃支援給付金」という制度が申請開始となったので調べて申請する。なかなか手間取り3時間はかかる。

しかし、こういったものをしっかりとやっておくと吉と出るのは先々月に実証した。とにかく助かるありがたき制度である。

それ以外の時間は制作をした。レニー・クラヴィッツさんが所有しているコンソール(レコーディング室にあるでかいミキサー的なやつ)をモデリングしたソフトウェアを追求する。色々イジると、確かにそれっぽいクールなサウンドができる。

1995年の夏あたり、桑田佳祐さんのラジオ番組からレニー・クラヴィッツさんの「Rock and Roll Is Dead」という曲がオンエアされた。

青臭い中学生の俺は、その曲のイントロのギターリフのカッコよさに、全体のサウンドのいなたさに強かに打ちのめされた。それをきっかけに、洋楽にハマった。次の日、同曲が収録されているアルバム『Circus』をチャリでCD屋に行って買って、おまけのポスターも貰い部屋に貼った。

“ロックの伝道師”という崇高なアダ名を持つレニー・クラヴィッツの音楽を聴くと、“伝道師”というのは伊達ではないと感じた。それは、手前がレニー・クラヴィッツのサウンドからロック史を遡り、レッド・ツェッペリンなどの70年代のロックにハマったことが証明している。

ヴィジュアル系ロックや小室哲哉サウンドが流行していた当時、高校生の頃の休み時間などに“ディスクマン”(ポータブルCDプレーヤー)で70年代ロックばかり聴いていた俺はすっかりクラスから浮いた。

しかし、部活が一緒だった足立くんなどは「しぶいね」と、音楽好き同士ならではの食いつきで、関心を持ってくれた。「君はシンセサイザーが弾けるんだ。ハイテクだね」などと、互いのスタンスを認識し合っては、わちゃわちゃと過ごしていた気がする。

今から24年くらい昔のこと。部室にこっそり灰皿があるというけしからん時代。文化祭の打ち上げで先輩方に誘われた呑み屋に、見た目10代でも普通に入ることが出来た犯罪級の世風がまかりとおっていた平成初期。“ヤンキー”や“チーマー”(共にならず者的10代の輩)が「パー券」という謎のチケットを売りさばきに来ては超ダッシュで逃げた懐かしい思い出。

そんなことを回顧しながらミックス作業をしたり、手がつるほど鍵盤を弾いて録音したりして過ごした1日。

あの頃、20年後も音楽を作ったりしているとは想像していただろうか。1つ、はっきりと覚えているのは、家で毎日欠かさず何時間もギターを弾いては「これ、ものすごく時間をかけてるけど何になるんだろ?」と、思ったことがよくあったことだ。

高校生の俺に、今の俺が答えられる機会があるとしたらこう言う。「毎日欠かさずやっていることは必ずポジティブで拓けたことに繋がる。もっと弾け。あと、ギャンブルには手を出すな。そして酒は1日2合までだ」と。

未来の手前からの声は聞こえない。しかし、今、「何となく毎日やっている生産的なこと」の重要性は、いつの世も必ず明るい未来に繋がると信じている。それは手前だけでなく、きっと生きる者全てに言えることではないだろうかと思う。

三島由紀夫さんの著書『美徳のよろめき』に記されている一節、「――習慣というものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけなのだ――」という部分がとても好きだ。

前後の文脈から、俺の解釈とは異なる意味合いなのかもしれないが、俺は言葉通りとっている。「習慣という怪物」を味方につければ、人間だいたい超人的になれると信じている。
_07/14

 

 


今日も案件はない。連日となるとなかなか精神的に焦るはずである。

こんな時期は確かコロナ禍が本格化した頃にもあったと思い、4月の日記を読み返してみた。何をして過ごし、どんな心理状態だったのかと確かめるべく。

「今日だって案件はない」という書き出しが多かった。それはそうだ。4月は記録的案件減少により、翌月の売り上げは「売り上げ合計欄に謎な関数でも入れたかな?」と、エクセルのマスを疑うくらい低収入だった。

だが、5月の売上激減により、「いくら」と、本当に書きたくないくらい激減したこともあり、受給条件のハードルの高い各種のコロナ金融支援施策にありつけた。なにがどう転ぶかわからないものである。

そして、4月の案件をする以外の時間に何をしていたか。日記によると「制作」ばかりしていたようだ。連日DAWに張り付いては録音やらMIXやらと、取り憑かれたようにやっていたもよう。

その効果たるやどうか。あれから3ヶ月。中途判断してもよいタイミングだろう。音楽制作による収益は上がったのか。冷静に数字を見つめる。

上がっている。じわじわではあるが、着実に上がりつつ、土台がしっかりと培われてきている。

詳細はというと、まず委託先の2つのサイト様に4つの収益源がある。そして、そのうち3つは右肩上がり、1つは横ばいである。総合的に、制作という“習慣という怪物”の実績は評価できるものであった。

3ヶ月でこれはなかなかである。そして、今日だってほぼ1日中DAWに張り付く。報酬脳が活発な俺は、「効果あり」とみなしたことに対しては中毒の如く継続する性癖だ。これがよい方向に転がった。

悪い方向に転がる事例としては、1990年代に「クランキーコンドル」というパチスロ機を打っていた際に、某攻略法(合法)で連日勝利し、「食える」と判断し、賭博行為が習慣化した。その頃はよかったが、その後、地獄が待っていた。「食える」台は、時代の流れと共に駆逐されたのである。今はどうか知らんが。

今日は、制作にネットで機材やソフトウェアの効果的な使用方法などMIXの勉強に努める。制作をする。作曲をする。楽譜を書く。アイディアを録音して波形として残しておく。これらの行為は、最終的に収益につながり、勉強にもなり、教養として身につき、ユーザーのニーズにも応えられる。よいことしかない。

ただ、毎日定額の報酬がゴンと入るわけではなく、長い目で見る収益のためのコンテンツ制作ストックである。あまり好きな表現ではないが、永続的な「不労所得」というやつになるのである。しかし、こいつの強化は今年の業務の重要事項の1、2を争う。年始にそう、目標として掲げていた。

3ヶ月後、どうなっているだろう。「あれ? ストック収益が全体目標収入の半分くらいになったじゃん」となったら、出来過ぎである。そこは冷静に計算している。だが、制作を続ける限りは増える、というのは確信して問題ないだろう。

俺は、3ヶ月前の日記を今日読んで思った。「それでいい」と。これと信じたことを毎日やるということはやはり大切だった。だから人気YouTuberさん方は毎日動画を上げているのだろうか。俺もYouTuberがやりたい。未公開楽曲のストックが10曲を超えたら時間的なゆとりもできるし、YouTube用の撮影でもしてみようか。

テーマは何にしよう。YouTuberやりたい欲は半年くらいあったので構想があるにはある。

「国営ギャンブル全盛期の裏事情……!」:雀荘勤務時代やパチンコ店店員時代の本当にエグい体験談と裏話を暴露。

「悦しい愉しい音楽エンジョイ☆チャンネル」:楽器を触りつつ、いろんな良曲を紹介しつつ、全力で漫談をするバラエティー。

「毒親介護チャンネル」:サイコパスの親を介護する際に体験した様々なグロい話を赤裸々に紹介。

「四十路独身男フリーランスのモーニング・ルーティン♪」:一番簡単だ。

けっこう案はあるが、企画をどう面白くするかにかかっている。視聴者がいなければ成り立たない。というか、需要はあるのだろうか。特に最後者のクソみたいな案は需要がなかろうも。
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今日はまずメンヘラサイトの更新をする。そのサイトは、精神疾患などについてのあらゆる情報や概要が記してあるわりと真面目なものである。そのサイトも、俺の収益源の一つだからちょいちょい管理をしている。

最近新たなページを更新していなかったが、「恐怖症(フォビア)」について調べてまとめて、4時間かけてまずは一気に20ページ更新する。

調べていると様々な恐怖症があり、たいへん興味深く感じた。巷に「●●恐怖症」というワードで出回っているのは200〜300種類くらいあるもよう。意味もなく、それが怖いというのがだいたいの概念だろう。幼少期のトラウマなども含むだろう。

そういえば俺は「天体恐怖症」だ。天体が意味もなく怖い。土星や冥王星の写真ですら、見ると本当にゾッとする。なぜかは知らん。

そんな各種「恐怖症」についてのページの作成、あとは制作をして過ごす。真面目なものである。夕飯後散歩をしたが、夏が終わり秋を迎えた時のような今日の東京の気候はとても気持ちがよかった。

歩いていて、そのままどこかに蒸発してしまおうかというくらい浮遊感のある心地よい空気だった。しかし、帰って制作に勤しみ、すっきりとして昨日の残りのテンプラニーリョのワインが呑みたいからちゃんと帰った。

「恐怖症」のように、人間には様々な恐怖対象もあれば、様々な欲の種類もある。「蒸発欲」というのは初めて感じたかもしれない。破滅欲や希死念慮とはちと違う蒸発欲。

メンヘラサイトの「恐怖症」ページが完成したら、次は「欲望」の種類についてのページを作ろうか。それにしても俺は人間の細かな精神構造を調べて何を得ようとしているのだろうか。ある角度からみたら実にキモい。
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俺には「資産」というものがほぼないと思っていた。しかし、それは無知所以のネガティブな思い込みであった。

知人のメルマガに「資産と負債」について記してあった。俺は「負債」に関しては悲しいまでに人一倍知識があるのだが、「資産」に関しては無頓着である。

読んだ内容によると、「資産」というのは金そのものだけではなく、所有物や不動産、制作したコンテンツ、知識財産なども含まれるという。というか手前はなぜ今まで知らんかったのか。

昨日とほぼ同じ時間軸で過ごしていた今日、ガンガンとメンヘラサイトの更新をしている時にふと思った。

長い目で見て収益につながるサイト更新やコンテンツ制作は「資産を産む行為」ではないか。そう考えるとたいへん価値のあることをしているというポジティブに包まれサラウンドに花畑が見える。とても綺麗だ。

だからと言って手前のサイトに広告を貼りまくるのはどうかと思った。更新したサイトのページがちゃんとスマートフォンでも正常に表示されるかチェックするのだが、広告が多すぎるのは客観的にウザい。特に、画面上下に横長に張り付いているやつは特にウザいというか実にキモい。あれは綺麗ではない。ひとつ剥がそうか。

長期間に渡り収益に繋がるコンテンツは、資産だという。そうだとしたら、いや、そう認識したのだが、俺には資産がある。

現金換算したらさほど大したことはないが、それを作り続けるという行為は、資産を産み続けるということなのだ。

ユーザーがつくコンテンツ、知識財産の制作や管理は、それによって生じる利益は足し算というか掛け算的な増え方をする。素晴らしいではないか。俺にとって音楽制作やサイト更新は資産作りなのだ。

昨日は「恐怖症」というたったひとつのワードから、サイト更新にターボがかかるという体験をした。今日は「資産」というひとつのワードが俺をポジティブで包んでくれた。

たったひとつのワードが行動を変え、前進へと向かわせることがある。それに必要なのは、「なんとなく進みたいのだが」というアンテナを常にちょっと脳内に張っている必要もある。張ってなければ「そうか」で終わることが多いと思われる。

「点と点を線で繋げ」とはよく言ったものである。繋がりさえすれば伸びる、そう信じて今日も明日も作り続けよう。資産を。俺はそういった類の“資産家”になって肥えてみたい。

なんだかここのところ金のことについてばかり考えている気がする。手前が卑しくなってきたのだろうかと危惧する。

いいや、今まで考えなさすぎだったのである。だから、年利29.2%という鬼金利の時代に借金地獄に陥ったのだろう。なつかしいな。円ショップ武富士とかのATM。金利だけ払ってジャンプする無限地獄返済方法。「限度額が増えます!」という小悪魔の報せ。
_07/17

 

 


昨夜、酒を呑み散らかしていてアルコールが脳の変な部位に入ったのか、小学生の記憶がフラッシュバックした。3年生くらいの頃である。

当時、『白じいさん 黒じいさん』という演劇にクラスで取り組んだ。

この物語の内容は、記憶が確かならば、「白じいさん」という常識を尊ぶ正直者と、「黒じいさん」というアウトロー的な悪漢が対立し、最終的に「太陽」という存在が彼らの日常的な争いを両成敗し、「どちらの言い分も行動も間違っているわけではない」と、両者を尊重するアサーティブな思想で諭し、めでたしというもの。

主役は各じいさんである。しかし、重要キャラは「太陽」だ。最後に一番おいしいところをかっさらう役どころ。10歳くらいの俺はこの役に抜擢された。

劇の稽古では、当時の担任教師であるサザエさんのような物腰の富澤先生は、いつもは凄く優しいのに、なぜか俺にだけ相当厳しく指導をした。

子供ながらに「なんで俺にだけめちゃめちゃ厳しいの?」と、はっきり感じたのをよく覚えている。物語の内容から察するに、適当にやられては困る重要な役だからか、とか納得した気がする。

母ちゃんが張り切ってあつらえてくれた「太陽」の衣装は、エルビス・プレスリーとジミ・ヘンドリクスと錦野旦のステージ衣装を掛け算して黄金色に染め上げたような、それはそれは傾奇者スレスレの衣装だった。

物心がついたばかりの10歳の手前は、「恥をかかんだろうか」と、本番当日がたいへん心配だった。そして、厳しい稽古をこなし、担任のOKを頂き、本番に臨んだ。

俺の出番は、最後の最後、各じいさんのケンカを仲裁するラストシーンのみだった。

神が降臨するかの如き煽りの登場シーン、「わしだ。太陽だ!」と、荘厳な声色で叫び、舞台中央に立つと、全校生徒からの爆笑に包まれた。どう考えても錦野旦的な衣装で真面目に登場したという“出オチ”的な空気だった。

俺は「ほらな」と思い、稽古通り演技をした。「白い思想と黒い思想、両方否定せずに互いを尊重せよ」的なセリフの締めくくりで手打ちとし、物語は幕を閉じた。

<白じいさんと黒じいさんが 手を取り合って仲直り たんぽぽスズメに蝶や蜘蛛 もう心配はなくなった――>

という、世界平和を謳うような合唱をもって大団円。俺は「やれやれ、やっと終わってくれた」と思い、舞台を降りた。

その翌日からである。クラスメートでもない他学年の不特定多数の人間から、廊下ですれ違うたびに「あ! 太陽だ(笑)」と、イジられた。悪い気はしなかったし、彼らもまた悪い意味でそうしているのではないのが伝わってきた。それは当分続いた。そして自覚した。俺はあの演劇でバズったのだと。

「白い思想も黒い思想も、常識人もアウトローも肯定も否定もしたくない。互いに尊重すれば、それでだいたい大丈夫」

そういった、俺の根底にある思想は、あのバズりが潜在意識に根付かせたのかもしれないと、昨夜ふと納得した。

やけに厳しく指導した担任教師、ノリノリで衣装作りに励んだ母ちゃん。それらの熱意と気合いは、俺の人格形成に関わる体験になるということを想っての愛所以だったのかもしれない。

結果、どうやらそうなったし、全校生徒にウケたわけだし(物語の内容的に絶対に笑う場面ではなかったと思われるが)貴重な体験だった。

白か黒かなんてどうでもいいと俺はよく思う。グレーくらいがちょうどいいとよく感じる。「どちらかでなければいけない」という考え方は、たいへん危険だと俺は思っている。

それをバサッと、ギラギラに滑稽な格好で断言する、太陽のような存在がいつの世も必要なのかもしれない。暗いニュースを見るたびに、少しそう感じる。

白か黒かではなく、グレーを許容、あるいは、反対色の気持ちも汲み取るべきだと。そのきっかけに気づくのに、こんなに長い年月を要するとは。母ちゃん、富澤先生、頑張って色々やってくれたのに、気づくのに30年かかりました。ごめんなさい。
_07/18

 

 


ここ4日ほど、ほぼ同じ時間軸で過ごす。サイトの更新を4時間ほどやって、残りは制作という流れ。それほど、締め切り含みの案件がないのである。

しかし、不思議と不安にはならず、粛々とストック収益に繋がるタスクをこなす。普通に考えたら営業をするべきなのかもしれない。しかし、俺は今、しばらくは、出来上がればあとは不労所得となるコンテンツ制作をガンガンやるのが得策だと思っている。手前にそう言い聞かせている。

「何となく、これが正解だ」という、直感所以の感覚は最も大切にしている。理由は、これまで、「何となくそうだ」と思ったことはだいたいそうだったし、「何となくいかん」と思ったことはだいたい地獄を見ることに繋がった。だから今日も「何となく、今はこう過ごすべきだ」と思うので、取り憑かれたかのようにフロー状態で作業に没頭できる。

変わったことがあったとすれば、夕飯を宅や店舗ではなく、赤羽公園で夜のピクニック気分で食べたことだ。ひとつも面白くなかったが。

もうすぐ30代という時期が終わろうとしている。「30代の後半、やりきった」という心境を残したい心理が、コンテンツ制作をやけに捗らせるのだろうか。明日も、同じく、制作等に努めよう。習慣化すると本当に捗るし集中力も増す。

それにしてもそろそろ四十路という事実にリアリティを感じない。同い歳の人は、どう感じているのだろう。だいたいは、家庭を持ち、子供は小学生、中学生になろうかという感じだろうか。そういう人と、何を話していいのかわからないほど俺は浮世離れしてしまったのかというフワッと感。
_07/19

 

 


浮世離れて早5日、誰とも喋っていない気がする。しかしむしろ心地よい精神状態で今日もサイト更新と制作に励む。案件受注を示唆する連絡も3つほど入り、少し安心感もあった日。ありがたい。

そういえば先月、「自殺」について来月あたり記そうと、寸止めしておいた内容があった。それを今日、以下に記す。

というか、実際に書いたのは先月である。しかし、記録として残すのは「7月20日の0時過ぎ」が適切なタイミングという理由があって、とっておいた。それをリライトする。

――「手前の誕生日」と「自殺」。俺はこの2つが紐づいている。

前置きとして、最近はたいへん調子はよく、いたって普段通りの精神状態である。むしろここ5日は先述の通り、カッコよく言うとクリエイティブ魂がはちきれんばかりの時間を過ごしている。

18年ほど前、俺の実家は同物件2部屋にわかれていた。301号室が実家、203号室が親父の仕事場だった。俺は2DKの間取りの203号室の一室に住んでいた。「そろそろ一人暮らしでもしようか」と、考え出す年頃だった。

父親の仕事場なものだから、朝から父親とその部下的な「ABさん」のやりとりがよく聞こえる。今風に言うと、ABさんはけっこうな頻度で父親からパワハラを受けていた。

パワハラの主な内容は暴言だ。反吐が出そうな言動なので「こういったことを言っていた」と、例を出したくないほどである。一言で言うと、「人格否定に繋がる暴言」を日常的にABさんに浴びせていた。

20歳そこそこの俺は思った。「親父のあの性格は死んでも治らねえ。死んだ母ちゃんによく浴びせていた穢い言葉が、今度はABさんに向かっている」と。

ABさんは、ちょっと変わり者だった。おとなしい変わり者だった。ショートホープを吸っていた。母ちゃんの葬式の時、「賢治君、あっちに煙草吸いに行こうか?」と、なんとなしだが俺がその時求めていた気遣いをそっとしてくれるような、やさしくて純粋な人だった。

俺はABさんがけっこう好きだった。同じくギャンブル狂(当時)という点でシンパシーもあったのだろうか。とにかく、波長が合う人だった。

ある日、ABさんが仕事上がりに、父親に対して「お疲れ様でした」的な意味とタイミングで、「さようなら」「さようなら」と、2度言ったのが妙に引っかかった。壁越しに、俺は聞いていたのである。

その翌日、父親は俺に言った。「おい、ABが首を吊ったぞ」と。ABさんはその日の前日深夜、自宅で自殺をした。所轄刑事による死亡推定時刻は、俺の誕生日の深夜だった。すなわち、7月20日の0時過ぎあたり。今、俺がこれを書いているこの時間くらいである。

話によると、ABさんは家賃を数ヶ月ぶん滞納し、さらに各種消費者金融からの借り入れでパンク寸前、いわゆる多重債務者であったことが判明した。

親父はあまりショックを受けていない様子でこう言った「あいつが多重債務者だったなんて……それでかあ……!」と。

俺はその時、完全に認識した。こいつは人の心を汲み取るという感情が欠損したサイコパスだと。(当時はサイコパスというフレーズは知らなかったが、精神がイカれていると認識した)

俺はABさんの気持ちを考えてみた。多重債務者であっても、現役ギャンブラーである限り、希望はまだ持てる。それは、その後、自分が体験したので説得力がなくもないと思う。負けまくっても、借金まみれでも、軍資金さえあればギャンブラーはいつでも前向きになれる性分なのである。

シンプルにこう考えた。「親父のパワハラも要因の一つなのではないか」と。そして、シンプルにこう認識した。親父は人に対する良心の呵責が皆無だということを。

それから数日して、ABさんの仕事も抱えることになった親父はキャパオーバーとなり、夜中、俺に泣きついてきた。「ダメだ。賢治、今のお前のバイト辞めて明日から仕事手伝え」と。

サイコパスは、他者を自分の目的の為の駒として扱う。俺は自殺したABさんの後釜として、親父の仕事を手伝うことになった。翌日、バイト先でその旨をみんなに伝え、赤羽パーラー新世紀というパチ屋のバイトを即日辞めた。凄く悲しい気持ちだった。

「そういう事情じゃ仕方がない」と、みんなが言った。俺はこの時点で、完全に親父のペースに乗せられていることに気がつかなかった。

「知るか。手前が撒いた種が暴発したことに気づけ。俺は家を出るから手前でなんとかしろ。この人格破綻者が」

当時、そう言えばよかったのだが、俺の中の優等生人格が「親父をサポートしないと」という気持ちを芽生えさせた。サイコパスは、こういった感情につけ込むことに関しては天才なのである。

その後数年間、自殺したABさんの机が俺の出勤場所となり、俺はたびたび親父の暴言を浴びながら過ごしていた。

親父の暴言をメインで浴び続けた人間は、俺が知る限り2人死んだ。それが直接の原因かどうかは置いておく。しかし、俺はその因果関係を重く捉えた。

単純に、親父との関係値が近くなればなるほど、具合が悪くなる。原因は、父親はネガティブ感情を直接他者に浴びせるからである。

手前の誕生日およびABさんの命日が近づくと、だいたいこういったことを改めて考える。

実際はそうではないと信じたいが、言葉は人を殺せる。考えたところで実際は、ABさんがなぜ自殺をしたのかというのは、ABさんしかわからないのかもしれない。

そういったこともあり、俺は父親を「絶対に許さない人間リスト」に載せた。物理的に存在するリストではないのだが。

どう許さないか。自分でもよくわからなかったが、ここ数年わかるようになってきた。不治の病に罹り、ゆっくりと、どんどん弱っていき、死に近づいていく彼の様をずっと診ていて、「なんとかならないか」と、全く思わない自分が確かにいるからである。親不孝者。

「大丈夫だ親父、俺は親父を絶対に見放さないからさ」と、言葉で伝えたこともある。しかし、その言葉の裏にある、「苦しんでゆっくり死んでいく様を俺は絶対に見逃さないという、報復に近い感情」もあることを、どうしても否定できない。人として最悪の感情である。

親父は、施設を10カ所くらい転々として今、茨城県の病院にいる。容体はゆっくりと悪化しながら、現在ではロクに動くこともできなければ喋ることもできない。数年かけて、ゆっくりとこうなった。

こういう時息子は、悲しむべきである。しかし、「悲しみ」というより「観察」に近い思考に振り切っている。親子の関係値が悪い、というのは実に人間そのものをグニャっと歪ませる。そしてその「歪み」を肯定しようとする。正当な感情を歪曲させる。その状態がデフォルトになる。サイコパスと同じではないか。俺はそうなりたくないのだが。

親父は、子供の頃、継母に育てられ、その過程で虐待を受けていたという話を本人の口からよく聞かされた。だから、後天的に人格破綻者になったのだろうか。きっと、根は優しいの人間。なんとなくそれは心底理解できる。しかし、一度他者に向けたネガティブな言葉はキャンセルできない。

俺は、神のような精神力で、それをキャンセルしてやりたい。許してあげたい。さんざん酷い目にあわされた父親だが、ちゃんと俺を育ててくれたという恩がある。

それが父親に対するアンビバレンスな感情に繋がる。――

 

ネガティブな感情を言葉にして他者に向けると、受けた者が自殺する場合がある。

人はなぜ、自殺するのか。あれから、誕生日になるとよく考える。

「他人に、世間に絶望したから」であろうか。「自分に対して絶望したから」であろうか。あるいは両方だろうか。それとも、「どうでもいい」という心境の淵までたどり着いたからだろうか。わからない。

精神疾患に罹患すると自殺のリスクは跳ね上がるというデータがあることは確かだが、「精神疾患」というもの自体が、実はかなりフワッとした概念であることは、俺なりに相当調べまくった結果ひねり出た結論だ。

理由は、長くなるからまた今度記そうと思う。

ひとつわかることは、生まれた日は、生まれたことに感謝しようということだ。俺なんぞ元をたどれば、絶対に許さない存在である父親の精子だ。とんでもないサイコ野郎に感謝すべきである。

死んだ母ちゃん、明日死んでもなんら不思議ではない状態の親父よ、よくぞ俺を生んでくれた。ありがとうございます。何と、あれから40年が経とうとしています。どうもありがとう。予定では、あと40年くらいはキャッキャと楽しく生きようと思っています。張り切っていこう。
_07/20

 

 


今日はお休みである。どれだけぶりか。そして本日は月一の遠隔介護日でもある。

目的地は茨城県取手市。めちゃめちゃ遠い。だから俺は旅行気分をひねり出し、レンタカーでルンルンと楽しんで行こうと気持ちを上げることにした。

近場にある地域最安値のレンタカー店「ガッツレンタカー」に向かう。ここの看板イメージのビジュアルは、もちろんガッツ石松さんのほほえみである。

しかし「すいません! お盆まで予約でいっぱいなんですよ〜!」と、係の者に聞き落胆。もう一軒、近場のレンタカー屋に行くもなぜか空きがない。

これはもう、久々に運転、しかも茨城まで、これはリスクがある、そういやこないだレンタカーが事故っていたのを目視した。これらの理由で、レンタカーが調達できなかったのは、俺を守るスピリチュアルな報せと判断し、電車で赴く。

途中、特急列車で豪快に乗り過ごすというミステイクもあったがご愛嬌ということでTwitterのネタにし、無事到着。駅からさらにタクシーで向かうという僻地へ。

父親は302号室から307号室へ移動となっていた。病室移動というのは、だいたいの場合は「病状の変化起因」というのが多い。ヤバいのか、そう思いながら学校のような空気感の館の階段、廊下を歩く。認知症患者たちの奇声を浴びる。

307号室へ行くと、父親が目を開けて寝ていた。これはめずらしい。

「おい、わかるか? 来てやったぞ」

「(パクパク)」

「(そうか、こないだからろくに喋れなくなったんだった)調子はどうよ?」

「(パクパク)」

「まあまあ、といった感じかな?」

「アウ」

「(喋った)あれ? 声出んの? あれれ? 右手も動いてるじゃん!」

「よいよいふぁー」

「何言ってるかわからん。なんか先月よりも良くなってね? ぶははは」

「(ニコリ)」

「そうだ、耳はちゃんと聞こえる?」

「ひほえる」

「うお、喋った。ちょっと良くなってきてやがる。退屈だろ? だから俺が最近作った曲でも聴かせてやろうと思って。これ、わかるか? 昔で言うところのウォークマンだ」

「わはる。あう」

「おおお、意思疎通できるじゃねえか。このド田舎、いや、のどかな空気感のこの地に合いそうなこの『July Flowers』という曲を聴かせてやるよ」

俺は、iPod Classicに繋げたイヤホンを、持参のアルコール性ウェットティッシュで執拗なまでに拭き、奴に渡そうとした。

「あら、どうされました?」

「ああ、看護師さん。その、俺が作った曲を聴かせてやろうかと思いましてね」

「まあ素敵……! (ちいさく拍手)」

「これでがっつり拭いてからだったら大丈夫すか? コロナ的に」

「はい、どうぞ!」

手が動くようになったとはいえ、まだ脳梗塞の後遺症は深刻だ。自発的に耳にイヤホンをつけることもできないもよう。だから俺はウェットティッシュ越しにイヤホンを装着させ、「July Flowers」というアコースティックで綺麗な楽曲を再生した。

すると、約3分間ある楽曲リスニング中、親父は目線を一点に絞り動かさなかった。俺のこの行為に対して敬意をはらっているようにも見えた。

すると、親父の両目から涙が流れ落ちた。

というのを期待していたが、反応は薄かった。

「どう? いい曲だろ」

「アウアウ」

「ちょっと感想が伝わってこねえな。まあいいや。また今度来た時は違うのを聴かせてやるよ」

「ほじゅうろくか?」

「ん? 56? 齢のことかな。親父は今75歳だ」

「そうなのか? あえ!」

「けっこうはっきり喋るようになったな。ちなみに俺は40歳だ」

「あええ! よんじゅう!」

「そんな驚くことかね。おかげさまで今日、俺は40歳になった。ありがとうございます。おかげさまで40歳になった誕生日なんだ今日は。ありがとう」

すると親父はスナック菓子の「カールのおじさん」くらいの笑顔を見せた。とても美しく、とても喜ばしい空気感が2人を包んだ。

「ほれは72か」

「だいぶ発声もしっかりしてきたな。惜しい。75歳だ」

「ほええええ!」

「うん、喜怒哀楽もなかなか。こないだよりなんか覇気が出たな。よかったね。じゃあ、また来るわ」

ということで病室を後にした。

「看護師さん、面会終わりました。なんか、元気になってましたね。復活されてもどっちかというと困るんですけど」

「おほほほほ」

「ぶはははは」

「そうだ、次男さん、来週からコロナ第二派の影響で一律面会謝絶になるんです。だから今日来てくださってよかったわあ……!」

「そうですか、仕方ないですね。というか、今日俺が東京から来るのもなかなか際どい行為だと思いますけどね」

「いいえ、よかったです!」

不要不急と言えばそう。しかし、世間一般的には必要な外出と捉えられるかもしれない。わからん。そう思いながら、帰りは病院から徒歩で20分ほどかけて駅へ。途中、ひなびた「焼肉レストラン」があったので遅い昼食「カルビ定食」を食う。めっぽう旨い。¥1,130。あるじゃないか。茨城のよい所。

電車で赤羽に向かう途中、さっき父親に聴かせた「July Flowers」を聴いてのどかな風景を見てリラックスする。

本当は、「Last Farewell」という曲を聴かせてやりたかったのだが、この楽曲はタイトル通り、最期のお別れというテーマで作った曲なので、聴かせたら即死するのではという危惧のもと、ヤメといた。

旅行気分でリラックスした日。こういう日があってもいいなとしみじみ思った。帰宅してソファでうたた寝する。今日は作業はしない日だ。こういう日は重要だ。第一、ここのところ明らかに疲れが溜まっていた。ゆっくりした気分の良日ではないか。

一点だけ、仕事関係の作業を小一時間するが、これくらいなら「休日だが少し仕事をした」という概念としてはノーカウントだ。

とても静かでまったりした日。7月の花。「July Flowers」。40年前の7月に俺は生まれ、当時、両親家族と手前と、きっと笑顔の花を咲かせただろう。

そんな想いを7本のアコースティックギター多重録音というスタイルで作った楽曲。そいつを父親に聴かせた。なんだか崇高なことをしたような気分でもあるが、肝心の、楽曲に対する当人のリアクションがいまひとつだった。

聴いて、「感動」が明らかにわかるリアクションをとったら、認知症および精神疾患の者にも響いたら、俺の音楽は本物だと確信できたのである。しかし当人の感想たるや「アウアウ」という一言だった。頑張ろう。音楽制作。各種仕事。そして、たまには思い切り休むという行為。俺を生んでくれてありがとう。親父よ。死んだ母ちゃんよ。
_07/21

 

 


先週、案件が枯渇していたぶん、毎日制作をしていたものだから「未公開ストック楽曲」が溜まり、制作のための時間に関しては貯金がけっこうある。

だからというわけでもないが、このあいだDMでお誘いいただいた楽曲コンペに参加しようと思う。採用されれば箔が付くであろうコンペティションである。

今日あたりトトトとライター案件を数件頂けたので、タスクのバランス的にちょうどいい。むこう1週間から10日くらいの流れがイメージできた。案件をしつつ、勝負の類の制作。うまくいけば実に幸先のよい40代の幕開けとある。

一度でもいいから「わりと有名どころのコンペに通った」という体験がしたい。30歳の頃、コンペに参加しまくってはことどとく玉砕したという絶望体験の敗者復活戦に勝利したい。そう思い、制作に努める。

こういうのはイメージだ大事だ。「採用される前提で制作する」。されどいける。このスタンスとマインドは今まで持ったことのないものだ。

もしかしたらコンペに落ちまくっていた当時の俺に足りなかったのはこれなのかもしれない。不思議なもので、考えても出てこなかったスタンスというのは、つらつらと書き記しているとスススと湧いてくる。

ポジティブなこともネガティブなことも、思考は現実化する。そう、自己啓発書やらスピリチュアルチャンネルやらでよく言われている。これに関して、俺は本当にそうだと心底信じている。

人間の「思い込み」のパワーは激しくエネルギッシュなのだと。「そうなりますように」と、「そうなる」という思考の差はけっこうある。それにしても最近、YouTubeでスピリチアルチャンネルの見過ぎかもしれん。どうにも同意できることが多すぎるのである。

スピリチュアルでよくある考え方などには、精神医学界の認知療法との共通点がかなりあるということに最近気がついた。あなどれん。スピリチュアル。
_07/22

 

 


原稿ひとつやってYouTubeで現役エンジニアさんの「おかしんチャンネル」を観る。最新動画では電源ケーブルについて語ってらっしゃった。

電源ひとつで音がかなり変わることもあるという。そうだと思い、こないだ足立くんがくれた立派な電源タップを付け替える。なんだか音がクリアになった気がして満足する。

しかし、コンセントの位置の都合上、ソファを壁から10cmほど離す必要が出てきた。すると、窓際に不自然なデッドスペースが生じる。これは気持ちよくない。

ソファにいつも30冊くらい漫画が散乱している。これはどうにもみっともないかなとずっと思っていたので、漫画用の棚をそのデッドスペースに設置しようと、徒歩10分で着くホームセンターに向かう。実にジャストサイズの本棚があったので即決購入。¥2,980。

帰宅して組み立てて設置。非常によい感じにデッドスペースにはまり、漫画も整理できて、ソファも広く使える。最高の気分だった。

だが、本棚に漫画を収納すると、背表紙が並ぶものだからファーストビューで手前の趣味嗜好が丸出しになる。基本的に仕事部屋なので、漫画の棚をあまり来客に見せたくないような気もする。

『スティーブ・ジョブズ』や『中間管理職トネガワ』『1日外出録ハンチョウ』あたりはまだいい。一般的な趣向かと思われる。

しかし、『善悪の屑』『外道の歌』『ナニワ金融道』『死刑囚の最期』『闇金ゼニガタ』あたりのアウトローモノを並べておくと人となりを疑われないだろうか。どれも素敵な作品なのだが。

そのなかに『ハイスコアガール』あたりのかわいいのを全巻並べてあると、なんらかのカモフラージュかと思われそうな気もする。

この際、BL本や過激なSM描写含みの漫画も意図的にねじこんでおこうかと思う。そして「こいつの性癖たるや掴みどころがない」という印象を与えようか。一体なんのためにだろう。

まあ、なんにせよ気にしすぎだろうと思い、普通に漫画を並べて手打ちとする。なにより整理整頓できたし、来客が漫画喫茶の如く寛げていいじゃないかとよい方にとる。でもなんだろう、この、漫画棚専用のミニカーテンを設置して覆いたい欲は。
_07/23

 

 


執拗なまでにまとわりつく高湿度に屈する。なかなか調子がすぐれない。原因は、蒸し暑いからの一点である。

夕方、リモート案件がひとつ。Zoomごしに少々待ち時間があり、編集部の村上さんと雑談して暇潰す。

「平吉、調子はどうだい?」

「だめです。湿度が凄くて具合悪いです。けだるいです」

「よし、平吉。エアコンをつけようか。『除湿』にするんだ。そして窓を閉めてみようか」

「ピコ。ガララッ。すずしい。いやあ、快適ですね!」

なぜ、彼が、俺がエアコンをつけていないことが判ったのか。何故かは不明だが、なんとなく俺の性格やらを把握してくれているのだろうとほっこりする。

若い若い娘らと小一時間お話をする。若過ぎてリモート越しにでもツルプヤな肌を直視できん。若さというのはそれだけでボーナスである。

そんなことを思いつつ、トトンと終えてめしを食いに行く。ずっと気になっていた近所の「鯵専門店」に行く。

この店は鯵料理しかない。フグとかウナギとかならわかるが、アジでここまでピンポイントに絞った店も稀有。鯵のヅケさしみ丼みたいな、この店のレギュラーメニュー的なやつをオーダーして食う。

その丼には鯵のヅケさしみが15枚くらいのっかり、細かいネギと生姜おろし、白ごまが散りばめられたシンプルな一品。スープ付き。これがひっくり返るほど美味い。もう、スープからして個人経営店ならではのこだわりの味がにじみ出ている。

「最高の夕めしだった」と呟きながら散歩をして、帰宅し制作をする。ニルヴァーナとナイン・インチ・ネイルズを足したような曲調の楽曲を作る。

半分くらいできたところで、「これはニルヴァーナすぎる。ナイン・インチ・ネイルズすぎる」と、なんだか心配になってくるが、この2アーティストの音楽性を足したサウンドはなかなか聴いたことがない。「ニルヴァーナとナイン・インチ・ネイルズを足した感じのを」と、言われて作れる人はそうそういないと思う。

じゃあと思いそのコンセプトで続ける。仕上がったら凄いだろうなと、なんだかワクワクしながらギターを半音下げチューニングにして録音する。

「アジだけでやっていけるのだろうか」と、鯵料理専門店の店主は当初思ったのだろうか。しかし、「アジだけでやっていける人はそうそういない。じゃあ」と、思い、あの見事な料理を提供する店ができたのだろう。きっと。

何事も、一点二点くらいに絞って、まず徹底的に極めると言うことは大切だ。俺も一回、グランジでインダストリアルなサウンドを徹底的に再現して、そのあとにオリジナリティを加えればきっと昇華される。そんな思いが俺をあのアジ屋に足を運ばせたのであろう。だんだん日々の行動・思考を強引にこじつけるのが上手くなってきた気がする。
_07/24

 

 


湿度が高いというだけでこんなにも具合が悪くなるものか、というくらいだるい。やる気が漲らない。鬱の一歩手前だ。セロトニンとドーパミンが枯渇している。ふざけるなと思いながら仕事部屋の時計を見ると湿度75%という今年最高値を確認。

なにかしらの疾患ではないかと心身に目をみはるもどこも悪くなさげ。湿度が高いだけである。

ジリジリした気分でなんとか仕事をする。制作もする。エアコンをつけているのに汗ダクになりながらベースを録音していたら、入れたつもりのない謎な怖い音が聴こえてきて戦慄。これはまずい、精神がイカれると思いながらも予定通り1日をこなす。もう本当に「こなす」という感じの1日。もったいない感覚だ。

ひきこもって誰とも話さず一人で仕事、というのが堪えられるのはここ数カ月で認識できた。しかし、湿度が高いのが続くのは辛抱たまらん。どうにも耐えられん。カラッとした国へ逃避したい。そうだ、インドへ行く予定があったような気がする。

ちょっと調べたらインドまで往復約8万円。現地では1日あたり1,500ルピー(¥2,000ちょい)もあれば楽しく過ごせるとのこと。ということはこのあいだ入金した特別定額給付金の10万円でちょうど行ける感じだ。

現実逃避ではなく、旅行。インドで悟りツアー。石油王と友達になる。小ぶりのメスの象に乗って遊ぶ。おもむろに素手でカレーを食う。みやげに本場のシタールを買う。そいつを日本に戻って弾いてサイケデリックな楽曲を作る。やることはたくさんある。

湿気がどうのとか不満を言っている場合ではない。高湿度などに俺は屈しない。頼むから明日は晴天の湿度30%くらいでありますように。
_07/25

 

 


今年は例年通りのカラッとした夏などこないのだろうと諦める。今日も仕事部屋は湿度75%。朝から「電脳警察」と「村八分」という、70年代あたりに快活だった日本のロックバンドをYouTubeで鑑賞する。なんで急にこの2バンドが気になったのかわからないが。

1970年代日本に対する俺のイメージは“殺気”の時代。

白ヘル・鉄パイプ・火炎瓶装備の学生運動や浅間山荘事件など、若者は肉弾戦で怒りをぶちまけていたというイメージなのである。実際どうかというのは団塊世代のとっつぁんに聞くのが手っ取り早いが、とっつぁんと呑みながらするこの手の話はたいへんしつこそうだ。

「電脳警察」や「村八分」のロック音楽からは、明らかに“殺気”を感じる。その源流たるやわからないが、ネットがない時代は、直接の行為や音楽などを通して怒りを露わにしていたのだろうか。

平成後期から令和にかけてのロック音楽から俺は“殺気”をぜんぜん感じない。それはそれで別にいいのだが、90年代にもまだあった“殺気ロック”を肌で知っている身としては、なにか寂しい。最後に“殺気”を音から感じた日本のロックバンドは「神聖かまってちゃん」だったろうか。

そういった視点で、手前がハマったロックバンドを並べると、ニルヴァーナもナイン・インチ・ネイルズも殺気を感じる。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンあたりからは本当に殺されるのではというくらいの怒りのパワーを音源から感じる。

殺気とは少し別種だが、内面的な狂気を感じるのはレディオヘッドやソニック・ユースやフレーミング・リップスなどなど、陰と陽で言うと、ロックは明らかに“陰”のパワーが基調となっている気がする。

じゃあもっと昔、ビートルズとかはどうなんだと思った。最初はアイドル扱いみたいな感じだったらしいが、中期以降になってくると明らかに音源から狂気を感じる。その背景には、やはり“陰”のパワー、具体的にはLSDやらのいけないものが背景にあったりする。

俺がロックファンになったのは、そんな“陰”やら“殺気”やら“怒り”やらの情念が、あの歪んだエレクトリックギターの音、割れんばかりのドラムの強拍、ゴリっとしたベースライン、けたたましいシャウトと共鳴したと、そう思っている。

「電脳警察」や「村八分」の過去の映像をアップしたYouTube動画のコメント欄には「日本のロックはこの頃が一番カッコよかった」的な意見がけっこうあった。ある角度からすると、率直に俺もそう思うかもしれない。音楽を聴き始めた10代の頃から、70年代の海外のロック、レッド・ツェッペリンなどにハマりまくったのは直感的に、そういった源流に魅力を感じたからなのかもしれない。

だからと言って最近のロックがつまらない、とは思いたくない。しかし、カッコいいロックを聴こう、と思うと、70年代から90年代後半までの楽曲が選択肢に挙がる。それ以降は、本当に素直にカッコいいと感じられるのは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやホワイト・ストライプスあたりしか出てこない。手前が他に知らないだけなのかもしれないが。

現代では、各々、“殺気”をどう扱っているのだろう。たまにネットのコメント欄やSNSで殺気じみたテキストを散見するが、なんか“殺気”までいかない気がする。

みんな、怒ること自体あまりよくないという風潮になりつつあるのだろうか。怒ること自体に引っ込み思案になるのがよしとする世風になるのだろうか。

今日は新しい植物ちゃんをひと鉢買ってきた。この行為たるや“殺気”とは程遠い。俺も現代に馴染んできたのだろうか。それはそれでいいと思う。でも、“殺気”が見事に昇華された時のあの素晴らしくもカッコいい姿、音、情念は、殺したくない。

心の奥底に張り付く殺気を殺して去勢された飼いネコのように過ごすよりも、殺気を隠さず撒き散らして村八分になるほうがいい。とか言うロッカーは絶滅してしまったのだろうか。というか、殺気は、あるなしで言ったら、ないにこしたことはないだろうも。
_07/26

 

 


SMプレイに興じる夢を見る。俺は縛る側の役割だった。そうか、手前は潜在的にはサディストなのか、潜在意識が分かりづらい形で夢に表れるとは聞いたことがあるが、ずいぶん直球で来たな、とか思いながら起床。俺は特に極端なサディズムを持っていないという自覚はある。

リモート案件、デスク作業を経て、知人のギターレッスンの見学に行く。最近本当に人と接する機会がなかったのでたまにはいいなと思い、俺もセッション授業にベースで参加する。とても愉しい。

そんな感じであっという間に1日が経ち、「それにしても、なぜ俺はあんなに強かに女性を荒縄で緊縛拘束する夢などみたのだろうか」と、唸りながら帰宅。

俺はガチのSMプレイというのをやったことがない。興味は、なくもない。しかし、性癖で言ったら俺は特に偏りはないと思うが故に、興じようと行動に移したことはない。

200はあるであろう異常性癖の種類の中で、手前は特にどれにも該当しない。いや、こればかりはわからない。根源的な能動に、いまだに気づいていないだけなのかもしれない。だとしたら、「俺は40年間、一体何を」という心境になるであろう。だから深く考えないようにする。

そういった感じで、仕事と遊びとSMプレイのことがごちゃごちゃに脳内でかき混ざった珍しい日。今日あたり縛られる方の夢をみたとしたらもうわけがわからない。
_07/27

 

 


この世に各種ある地獄の中のひとつ、二日酔い。自業自得の成れの果て、それが地獄というもの。他者から被る害悪ではなく、手前で蒔いた種が諸悪の根源であり、それがブーストされた概念が地獄。俺はそう解釈している。要は昨夜ワインを呑み過ぎて今日はだるい。

「缶酒をひとつ、あとはこの廉価のワインを半分、それが丁度よい」と、考えスーパーで買ってきたものの、昨日は久しぶりに対面でセッションに興じてテンションが上がっていたのが起因か、ワインをほぼ全部呑む。一人酒にしては呑み過ぎである。オーバー・ドーズである。

まあたまにはいいかと手前を甘やかしつつも仕事に励む。リモート案件がひとつ。あとは原稿を書いたり鍵盤を弾いたりして過ごす。

ふと憩う酒場などでピアノが設置されていたとしよう。されど、さりげなく手前が作った曲をおもむろに演奏して拍手を得る。するとギャルが「いまの何の曲ですかあ?」と、グラス片手にキャッキャと寄ってくる。そして「ああ、僕が作った曲で……」とか言いくさりながらさりげなく一緒に呑む。果ては、まぐわう。

そんな不純の極みのような感情を1ミリを持たずに鍵盤で練習したり作曲をしているわけではない、と言ったら嘘になるか否かのギリギリのライン。

ただ、「何気なくそこにあったピアノで手前の曲を披露してオーディエンスを沸かせたい欲」は、あるだろう。そこに不純な情念はない。そう信じたい。

宅の鍵盤、シンセサイザーの筐体上にはいつもスティーヴィー・ワンダーのアルバムを置いている。『A Time 2 Love』という、2005年の盤だ。スティーヴィーさんは俺の鍵盤の先生だ。譜面立てにはいつも先生の楽譜集を置いている。

実際に鍵盤を教わったことがない俺は、20代中盤あたりから、この楽譜のオタマジャクシを追っては弾く練習をしていた。だから事実上、スティーヴィーさんは俺の鍵盤の先生なのである。

転調の仕方やコード進行など、メロディのアプローチもそう、鍵盤で曲を作る時はだいたいスティーヴィーさんのやり口をパクることが多い。いや、参考に、オマージュすることが多い。それくらいスティーヴィーさんの作曲方法や音の並びは普遍的。どうパクろうとしても、“スティーヴィー風”にならない。最終的には、ちゃんと自分の曲という感じに仕上がるのである。さすが俺の先生だ。

『A Time 2 Love』のジャケットでは、スティーヴィーさんはニヤリと笑ってこっちを見ている。

「おいお前、エロいこと考えながら練習してるだろ?」

「決して、そんなことはありません。先生」

「BARでピアノを弾いてモテようとしてるだろう?」

「全くもって、そんなつもりはありません。先生」

「いやね、それくらいでいいんだよ。もっと弾け。もっと作曲をしろ」

「まじすか」

と、盤からスティーヴィーさんの声が聞こえてくるようである。スティーヴィーさんは女性を膝の上に乗せながら創作なりをすると、何かで読んだ気がする。そうか、それくらいでいいのか。

どうせ種を蒔くなら、地獄に繋がる種ではなく、素敵な音楽に繋がる種、人との素敵な繋がりとなる種、ダイレクトな手前の種、そういったものを撒き散らした方がよい。そういう意味でスティーヴィーさんは俺に囁いているのだろう。そうですよね。

「そうだ」

と、言っている気がするが、スティーヴィーさんはいつもシンセサイザーの上で、ただ、微笑んで、俺の練習や制作を見守っていてくださる。気がする。
_07/28

 

 


秋のようなわりと涼しい気候の7月下旬、やたら早起きしてHIP HOPを聴く。ドレイクさんとか最近のHIP HOPのサウンドはこう、容赦ない。凄いなと思いながら仕事をする。

早起きしたぶん昼寝しようとすると役所から入電。どうやら父親絡みの件で戸籍謄本が必要とのこと。俺の本籍は板橋区高島平団地。板橋区役所まで行く気力が今日はない。

調べると郵送でいけるとのことなので書類を作成して郵便局に行って手続きを済ませる。さてメールをチェックしてから昼寝だと思ったが、案件が数点。

よしと思い帳簿で管理していたら「ちょっと前倒しでやろう」と思い、そのままカタカタとする。そのまま深夜。これは疲れた。オーバーワークはあまり感心しない。

最近、赤羽在住の中国人に大人気だというミミガーを肴に酒呑んで寝よう。今日あたりクタクタだから1合でも仕上がるだろう。

明日「当然昼まで寝くさる」という風にならないようにまたここで律しておこう。明日、昼過ぎまで寝ていた暁には禁酒だ。それはつらい。だからちゃんと朝起きる。こういう書き記す系の戒めは効果絶大。
_07/29

 

 


昼過ぎまで寝ずに起床。やはり目に付く場所に書き記しておくというのは相当な効果がある。この方法をスライドさせれば「禁酒」だって「禁煙」だって容易いだろう。容易いだろうがしないのは確実に甘え。

今日は熟睡したからか、実に集中力がみなぎる。2日に分けてやろうと思っていた案件を5時間かけて一気に仕上げられたのでご満悦で夕めしを買いに行く。

たまにはと思いイトーヨーカドーの地下スーパーで和風パスタ弁当的なやつを買い、帰宅して食うがどうも味気ない。

よくよくかき混ぜると、ソースが硬めのゼリー状になっており、バターはカチカチである。明太子もモッサリしている。どうやら電子レンジで温めて食う前提のスタイルのもよう。宅に電子レンジはない。

俺はこの「電子レンジおよびレンジでチンして温める前提の食い物」を見るとたまらなくなる。たまらな過ぎて電子レンジを設置しないのである。

どうたまらないのかと言ったら、考えると思考停止する。数千円もあれば余裕購入できる電子レンジをいまだに買わないのは、この、きっと何かトラウマ起因の電子レンジアレルギーがブレーキをかけている。

火もガスも使わずに、電子の力か何かの類のエネルギーで「チン」と、あっという間に温まってしまうのが何故か、たまらない。

電子レンジありきのパスタを直で食ったのがよくなかったのか、食後には直ちにハラがズンと重くなる。電子レンジさえあれば、こんなことにならなかったのにと思いながら小一時間横になってソファを濡らす。

電子レンジがあれば、冬はヤキトリを買ってきてチンと温めてわしわし食える。安い弁当もホカホカにして食べられる。だから、そろそろ買おうかと思う。しかし、どうにもたまらない。あれを冷蔵庫の上に設置したイメージをするだけでたまらなくなる。

しつこく「たまらない」とか言っていれば誰かが電子レンジをくれるのではないかという、「まんじゅうこわい」だったか、古典落語的な振りではない。どうしても俺は、「レンジでチン」がたまらないのである。
_07/30

 

 


感覚的に梅雨は明けたと判断。明らかに空気が違う。例年よりもさらに違う。「秋」的な匂いと空気感がする。俺は本気で今年はいつも通りの気候ではない夏となると思う。

とりあえず今年の7月は確実に例年通りの気候ではなかったと肌で感じたので「2020年 7月 天気」で検索したら、完全に「晴れ」と判断できる日は2日間しかなかったことを確認。異常気象だ。台風も来ない7月は前代未聞とのこと。

手前で日記を読み返すということはほぼないのだが、前代未聞の月らしいのでなんとなく今月のは読み返してみた。いつもの月より明らかにクソ長かった。異常気象との因果関係は否めない。いや、単に人と喋る機会が少なすぎて病的に独り言が増えたとも捉えられる。

宝石店で嘘を撒き散らしたり、茨城県へ行ったり、タンバリンを買ったり、精神科医と生々しく金の話をしたり、仕事部屋の模様替えをしたりと、巣篭もり期間にしては割と色々なことをして過ごしていたことが客観的にわかる。

あとは神様やスティーヴィー・ワンダーさんと交信したり、昔話を誇張なしに書き記すという、たいへんメンヘラ的内容だった。

俺は、みんなの日記が読みたい。SNSがあるから無理だろうが、その日のことを原稿用紙2、3枚ぶんくらいの文字量、すなわち今日の日記の文字量くらいの文章として綴られた、友人・知人の日記が毎日読みたい。投げっぱなしの交換日記がしたい。

SNSの発達やYouTubeの一般化というのは、日記という古風な行為が進化したかたちなのかもしれない。

2000年代中盤から後半あたりは「ミクシー」が流行って日記を見せ合うのが主流だったから今とは違う楽しさがあった。俺も3日おきくらいにふざけた日記を書いては「マイミク」さんとキャッキャと愉しんだものである。SNSは、あれくらいの温度感が殺伐としていなくて丁度よかったと思うのは俺だけだろうか。

未曾有の8月がくる。フジロックも海水浴も居酒屋で生ビールをガチンとすることもない8月がくる。フェスも海も居酒屋もどれだけ行っていないだろう。

居酒屋くらいならいいか、と思う。しかし、時期的に誘えない。誘われもしない。一人外呑みも若干躊躇する。爆発しそうである。ボカーン。今日も一人、酒をすすって静かに深夜を過ごす。今日のつまみはコリッコリのやげん軟骨1パック。
_07/31

 

 


 

 

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