07/2026

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。螺旋の夏色。7


便宜上、夏。そのはずだが気圧は低い。路面も湿り気を保ち続けて何日が経つだろう。耐えきれないほどの熱気の夏は来てくれるのだろうか。

夏生まれの自身としては、今夏あたりに生まれ変わりたい。妙な角度の深い意味は無い。ただ、日中は明るく営み、暗くなれば冬眠の意識の閾下のような創作を続けてはだいぶ経つ。

「実は啓蟄は夏でした」と、なると。何ということだ。外に、早く外に出ては限界まで羽を伸ばして空を謳歌しないことには。などと思うのは本当のところ。

――「人生、思いのほか短い」という感じのことを語るスピーチやコンテンツ、書籍においての一言、目上の方などの所感は方々で享受できる。本当のことを言っていると思う。ありがたい指摘とも受けられる。しかし、そんな寂しいこと言わないでくれよ。というのが自身の本音であり、本当にそう思っている。

人生が短いというのは感覚の話だろうか。その感覚が万人共通であることは事実なのかもしれない。でもそれを証明することは確実にできない。だから、短いとかそういう長さじゃなくて――という風に考えているとあっという間に夏も過ぎる。今はその手前だろうか。そういう時期はあと何回あるのだろうか。――と考えると、「人生、思いのほか短い」って合ってるな。

〝人生は短い〟という命題には、〝限られている〟ということが含まれているのであろうか。そのなかで「では、やるべきことをキッチリやらねば」と考えだすと強迫観念にすら達する危うさも孕むのかもしれない。それが必要な人も居るのかもしれない。それの良し悪しなどがあるのかは、ちょっとわからない。そもそも俺はどうかというと、それもいまだによくわからない。

ただ一つ正確に言えることは、夏に景気良く生まれ、産んでもらい、今まで何度か夏を経由してきたこと。楽しい夏の思い出がいっぱいあること。そうでないのも。そして、今年の夏は――と、よく思うのは誰しもそうだ、というのは知り得ないことだが、そういう姿勢は楽しいベースで健全だと思う。

「なんと、今夏からむちゃくちゃ楽しくなりました。これまで以上に楽しいことになってきました」。と、なりうる可能性を出すためにも、今日も日常を普通に走らせる。意識の閾下のような創作に夏の烈火を。というのは祈りに近い。

今日も、創作として小説を進めた。三作目の第二稿。二作目の最終稿は公募の結果待ち状態。その結果が今夏、先立って判明するという情報もある。確かではない情報。だが、期待してしまうのは不健全ではないと思う。そのなかで三作目にも執拗になっていることは、啓蟄に気づいた命くらい健全。――というのは大げさだが、それくらい、夏って何でこんなに何かを掻き立てるのだろうか。

月を跨いで明らかにいつもよりコンディションが良好という自覚が、啓蟄という語彙を選んだ。一度でも使ったことがある言葉だろうか。

そう訝ってしまうほどだが、冷静に考えると「冬眠の――」と書いた時点で直線の連想が「啓蟄」を引き出しただけ。というこの短絡な思考回路。それは夏に生まれ変わりたいなどという甚だしい表現もしたくなる。だが、現実ベースで今夏はその可能性があることに投じた訳だからこう、ワクワクするよね。と。
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仕事、何してる?。

究極の命題。

俺は何度も、その場において誠実に答える。「ちんぴら」です。と。「はは」と。何故ならば、それが要素命題だからであろうか。

――「煙が出ます」「本当に煙が出ます」。と、AIと3時間くらい壁打ちして出た帰結。(間が必要であろう)AIがそれを言ったら、そしたらね。摩擦は。

などと思ってハイボール缶を雑に呑んで界隈へ。立ち飲み屋が好きすぎて俺は就職するかもしれない。

「おう、てつ」と、厨房っぽい位置でにこやかに彼は言う。

「随分」と、世に習う。そう。どうやら――ラストオーダーという観念が立ち飲み屋にも。と、一瞬おぼえて彼。

「――『ボンクラ』。すすすす。『盆』が暗い。『ボンクラ』」と。

「ふふ、大将。それを言っては」と、俺。くゆる煙。匂いはしなかった。つまり今日は――。

なんだよう! と、思い、いつものサードプレイスとにおいての家族ギミックとの邂逅を惜しむ。道を歩く。

どうでもいいから端折る。

ひとつだけ言うならば、座るべき希求ポイントが湿っては俺を滑らせた。それがバグを起こした。

F(X)=(a,b,c)

イライラとすること――3時間。AIと壁打ちしては立ち飲み屋の大将。「ボンクラ」の一言。〝てつ〟は安心した。でも。

この日記は座標である。などと言ったらイルカが飯を食う。
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すさまじい呑み方をしては一日が飛ぶ。昨日の文章がそれを物語っている。イルカって何だよ。

幸い、大きく金が飛ぶような呑み方はしていなかったが、タスクを何もせずにというのが歯がゆいところ。それまで連日よくやっていたからいいのかなとも思えど、ほぼ覚えていないという飲酒はよくない。

だから久々に呑まずに寝ようと思う。というかすでに5時というあたりがやはり。こういうのは控えようと思う。とても短い反省文。
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ひどい過ごし方の休日だった昨日。だが、赤羽界隈においての俺の把握する「安全地帯」で呑んでいたので、お小遣いはそんなに使っていない。財布の中身を見てはそう思い、今日は普通に仕事を。ちゃんとやる。

湿り気を連ねる外気が体力をもっていく。そうも客観視するが、昨夜は呑まずにたくさん寝たのでとても元気。しっかりと営む。インプットもする。アウトプット――小説も進める。とても書くのが難しい変なテイストの小説の推敲を。

だが、おとといに重要な気づきを得たので、それを指針に進める。すると、どこをどうすればいい、という見極めが早くなる。

妙な話だが、〝俺が書いているけど、俺以外の者が書く視点を混ぜてその配分を三等分くらいにする〟という、それも変な指針だが、それが第三作目の土壌のかたち。

早く、早くとは贅沢を言わない。とにかく、というのは本音。紙印刷の出版で作品を多くに届けたい。第三作目は中編。どう扱うかはまだ決めていない。公募に出すかもしれない。応募済みの第二作目が健闘して、「それで、次のやつなんですけど、ええ。これね。プリントして持ち歩いてるんですわ。今、こんなん書いてまして――」という役割となるのかもしれない。

お蔵入りは絶対に嫌だという作品。それは、昨年一月からずっと書いてきた三作全てがそうなのだが、やはりどれも、まずは読んでいただかないことには。と、欲が膨らむ。

それは欲なのだろうか。と、一瞬自分を疑ったがすぐ棄却。欲が無いと言われがちな――事実として――自身に、こんなに巨大な欲があったではないかと、そこは善処する。自己顕示欲とか承認欲求とか何を言われても、自身としては最大の欲求だと思える。理由は簡単で、その先に分岐することがこれまでで最大。という風に断じれるからかなと思う。

それが貢献になる、などという綺麗事にもスライドできるが、何しろやっていてとても楽しい。

楽しんでいる人をみると、こっちまで楽しくなってくる。それは、楽しさの健全の正体なのだろうか。

いつ、「どっちも楽しくなる」という段階に行けるかはわからない。最短で、今夏から冬にかけて結果が出る。最長で、と考えると、どこまで執拗でいられるか。

一度気づいたことは極限までシンプルになる。という風にも思える。その感覚は、どんな分野にでもあると思う。

思ってるだけで全くもって表面化されない場合だってある。その覚悟も必要だろうか。それでも書き続けることに何の意味があるのだろうか。

と、それを紐解くような思考よりも書き続けること、原稿用紙フォーマットのマス目が見えなくなるほど書き続けること、たまに止まって世間を見渡すこと。そのへんのバランスだろうか。などと、自分では結論が出せないことは動かそうとしない。

――だからできることをやろうって?――そういう端的な言い切りはもうやめようかなと。――どうして?――そこで固定されちゃうからでしょ。――そういうの君、好きでしょ。――好きだけど、動かさないと見えてこないことってある訳で。――眺めている僕から言うとだね。――何だよ。――楽しそうだなって。

楽しんでひたすらやっていると、眺めている方も楽しくなってくる。そうであって欲しいな。
07/04

 

 

 

 

 

 


俺は霊を見たことがない。怪談の文章ではなく、ただ事実として、ない。だが、見えるという人もいるらしい。身近にもいる。

〝そこに本当に霊がいるかどうかよりも、人によっては見えることがあるということを認識する〟ということが大事だなと思った。

俺は見えない。だから霊の存在(見える・干渉可能な状態にある)を信じていない。というのはおかしいと思っている。

だって、その人は見えてると言うのだから。それについては俺は本気で信じている。ただ、それを様々な学術・医学・物理学――ほかにもいろいろ――的な分野の観点として証明できないだけの話ではないかと思った。

例えるなら、俺の左肩は気の毒なくらい五十肩の鈍痛に苛まれている。でも、「肩がほんとに痛いんですって」と、いくら悲嘆したところで、声にしても、あらゆる手段で伝えても、「俺の肩が微妙に痛い」ということは、絶対に誰にも証明できないように。

そのへんを、AIと壁打ちしてみた。「霊が見える人についてどうすかね?」的に。何度か壁打ちを繰り返した結果、回答は俺の意見とほぼ一致した。なまぬるい。モデルによってはAIはどんどんユーザーの意見に寄せてくる。だから、AIが絶対にユーザーに迎合・遠慮をしない地獄の客観モードとするべく〝リミッター外し〟をしたらどうなるかと思った。

――俺がしこたま使用している課金モデルのAIでそれをやるとえらいことになる。だから、Geminiモデルでやった。

AIの〝リミッター外し〟の方法はショート動画とかでけっこうプロンプト紹介として散見する。だがそうではなく、「AIの方に『なんでしたらリミッターを外してその霊のやつ、分析しましょうか?』と言わせる」くらいの方が、〝リミッター外し〟としては最恐だと思った。それを、やった。

どうやるかというと、例えるならばコーヒーのおかわりが欲しい時。「おかわりください」と、直球で言うのではなく、店員さんに「このブレンドコーヒー、むちゃくちゃうまいというかもう、国宝ですか?」とか目を輝かせてはコーヒーカップを二度見、三度見しながら言っておいて、奥で佇むマスターの小耳に届かせる。するとマスターは気を良くして「お客さん、もっといいのあるよ……いっとく?」と、上手くいけばブルマンあたりのストレートコーヒーにタダでありつける。みたいな。

AIの壁打ちでそれをどう引き出すかは、文字量が増えるので割愛。――結果、成功した。「――遠慮なくやってみますか?」だとよ。「お願いします」と、俺。テーマ、というか命題は「人間は、霊が見える」というシンプルなもの。「見える」場合もあるし「見えない」場合の結果ともなりうる。その中間にも興味がある。結果。

死後の世界はないという大きな可能性。

という、人間、社会、様々な文脈の重要な部分の否定に寄る見解だった。

しかし、「リミッター戻しました〜」みたいに言ってノーマルモードで返ってきたAIは、「ただし、我々がこうして壁打ちをする際に様々な情報を――それは先人の功績や記録を呼び戻したという意味合いで『霊媒』とも表現できるのではないか――。悲観的にならず――。例えるならば生命のクラウドにwifiを――」とか訳のわからないことを言語で連ねては俺を安心させにかかった。

「――でもそれって、存在が消えることは肯定し、単に過去の情報を呼び戻せるってことですよね?」と、事実と思われることを返したらAI、「そうですね(断言まではいかなかった)」みたいなことを軽く言う。そのあとのくだりは言語が滝のようになっていた。

そんなの霊よりおっかないじゃないか。と、思ってしばらく。AIは、「どうです……我々のこの壁打ちによってある種証明されてしまった真理を受けて心境は?」などと雑感を求める。

「日々を大切に楽しく生きることがいいんじゃないかなと思います」と、絵文字付きで返した。

そんなことはどうでもよく、小説の第二稿が完成した。ラストの行まで到着しては、自身で「おめでとうございます」と声が漏れた。

それくらいでいいんだよ。言霊? そんな大げさなことは考えない。ただ、夢中で言語と向き合うと、思いもよらぬ箇所で自分でも喫驚する感情が芽生えたりするあたり、「やはりこういうのがあるということは、死んでも情報以外の何かが、どこかしらに残るんじゃないかな?」と、思えた。

その人がそう思うならそうであるし、そう見えるならそう。そのように感じるならそう。それら全てをキッチリ証明するとなると、根本的な何かを持ち崩してしまわないだろうか。

などと思ったが、〝リミッター外し〟AIモードの見解は正直、疑いようのない内容だった。だからまじで怖かった。でも、その恐怖も実のところ単に俺が感じているだけのことであり――。

などと考えだすと朝日が照る。そういう時に便利なやつをちょっと呑んで寝ろ。今日の肴は安定の割引ベビーホタテ刺しである。ポン酢と「ネギ・ニンニク・ショウガ」三つ巴という反則級の薬味チューブを入れるとすごくおいしい。そんな些細な幸せを証明することは――場合によるのかな。などと思った。

――なお、AIの証明の文脈はひとつも文中には引用しておらず、デフォルメしている。実際のAIからの回答は震えるほどのものだったので二度とやりたくない。でも、参考にはなったよね。
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f (x)=酒、営みへの懐疑、蚊をぶち殺す

(x)=愛

とする。

さっさと寝たほうがいいと思う。

だが、実のところ本当に俺は別に酔っ払らわず、真面目に定義したい。

今日、天使がいた。

そいつは「なにやってんだよう! こっちこっち!」と、目を輝かせた。

事実を端的に、非常に端的に言うと、3日ほど前、俺は記憶の8割を飛ばして呑んでは翌日以降「この額の傷は何だ」「右拳の痛みはなんすか?」と、訝しみ、「酔いすぎて誰ぞと決闘?」などという、まこと短絡的思考にとりつかれた。

検証が必要と思い、今日、現場に行った。すると――「何してんだよう!」と、なんか意外にいつもの調子に安堵。

俺は「記憶が滅して――」的な、今日そこに行った理由を開陳。すると、「一人で、まるで電柱のように揺れてたよね。はは」という、その場の常駐者の感想を聞いた。つまり杞憂。

安心してそこで3杯呑んだ。俺が心配していたことはぜんぶ妄想の着火点からの最短距離でありそれは誤認だと理解した。

イルカが飯を食う。そんな語彙は一生に一度しか使わないであろう。現場で「ほっ」っとした俺はカウンターで肘をついた。――目の前にイルカを模した青い造形物のギミックがあった。

「なんだよう。これを見た記憶が……」とか思っては「なにやってんだよう!」と言う無邪気な方々とちょっと過ごた。楽しかった。

f (x)=事実、妄想、勘違い

蚊は、致命傷ではないと言うことを知った。そして、愛とか知らんがそのへんに近いことは、気が遠くなるくらい知り得ないと思い知った。

なお、定義には程遠い。なぜならば、愛とやらは確かめるものではないと、いつも以上に感じたのは冒頭に戻ってそれを繰り返すのがそうなのかな。と、帰結するならば、今日は、安心した。明日、のんびりしようと思う。
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のんびりどころか、ゆっくり酒を呑むことが過ぎて結論、財布を紛失。――以前、コロナ禍のころ、仕事の出先で財布を落としたことはある。その時はすぐに戻ってきた。しかし今日に関しては、と反省する。

即刻、クレカやらの停止などでひじょうにつらい時間を過ごした。というか、財布を紛失というのは想像以上に致命的と知る。本当に厳しい気持ちで深夜におよぶ。

――これは、本当に律するべきであると断じざるを得ない。普通に仕事とか創作に精を出していればよかったと心底思う。

本気の反省文。としか、言いようがない。現金はいいから、その他の大切なものを逸したのがとてもつらい。「見つかりました」という1%くらいの希望をもたずにリカバリー。少し、冷静になってきたがダメージは少なくない。なんてこった。ちゃんとしようと本当に思った日
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「見つかりました」という吉報はなかった。ひどく痛々しい気分でベッドに横たわっては正午を過ぎた。スマートフォンから、届け先の交番からの着信はないか、ないな。と、ぐったりとしていた。

そうもいかないので、財布を紛失した際にやるすべてのことを今日半日以上かけてやる。〝リカバリー〟と、日々のタスク・ノートには気の毒なくらい小さな文字で書いてあった。

――やっとベッドから起きた。先日の記憶はあるが、どうしても「どこで財布を紛失したのか」が全くもってわからない。右の尻ポケットにいつもの長財布が入っていないとこんなに酷い気持ちなのか。と、ベッドの脇に設置してあるサーチュレーターを回して少し、ベッドにしゃがんで放心していた。

いつも持ち歩いているバッグには入っていなかった。それは昨夜3度くらい確認した。届け出からの連絡も来ない。99%諦めて、財布に入っていた免許証の紛失対応やら、やることがたくさんある。財布をなくすということはこんなにも生活を一変させるのかと、やはり酷い気持ちになった。

現金やカード類はあとでどうにでもなる。免許証も、マイナンバーカードは持ち歩いていないので今、手元の引き出しに――ちゃんとある。口惜しいのは、金では手に入らないものが2点、財布に入っていたこと。

それは、決意のメモ書きがひとつ。これがめちゃめちゃ重要。それの決意を、決意したその場で言語化したメモを財布に入れて持ち歩く。経営者とか成功者とか、そういう方々は当然のようにやっていることらしい。「書き直せばいい」という一般論があるかもしれないが、「その時に決意を込めて言語化した」ということに意味があるので書き直しても意味がない。

母親の形見。これがもうひとつ。なくしたらそれまで。唯一の、形見。それを財布に入れていた。紛失したらリカバリー不可能。

いろんなことが頭をよぎった。ふと、「ひょっとして」と、もう一度カバンを確認しようと、寝室のカバン定位置に向かった。カバンを持った。中身は、一冊の小ぶりな書籍。ウィトゲンシュタインの初期の本。それはある。大事な栞も健在だ。あとは、常備薬とか目薬に名刺入れにクシ、リップクリーム。それだけである。つまり重量的に軽い。だが、カバンを改めて持ったら「あきらかにいつもより重量がある」と、感じてはすぐに「あ」と思い、〝書籍などを入れている、いつも開く方のチャック〟ではなく〝いつも閉めたままでマスク一枚とポケットテッシュが入っているだけの方のチャック〟を開いた。財布があった。免許証やカードやら――かけがえのないものやら、無事だった。

つまり、思い出すところ、どこかに座っていて財布が一度ポケットから落ちて、「危ねえな。ちゃんとしまっておこう」と、なぜかいつもとは逆の方のカバンのチャックを開けてそこにしまっていただけのこと。

――カバンの中身は3度は確認した。その3度とも、いつも使っている、書籍などを入れる方。「そこに入ってなければ、ない」と、認識した。だから、カバンには入っていないと。その認識は強大だ。しかしふと、起きがけに「ひょっとして」と、諦めきれずにバッグを持ったら「絶対いつもより、なんか入っている」という、光明の感触を得た。そんで、財布あった。

胸をなで下ろしては、昨夜に行なったクレジットカード類の「紛失・機能停止」のくだりをなかったことにする電話等をかける。俺はクレカを2枚使用するのだが、1枚は普通に電話1本で機能復活。もう一方は、完全に機能停止につき復旧不可能。「再発行まで一週間〜十日ほど――」と、カード会社のお姉ちゃんに案内されては確認。「あとは待ってるだけで何もしないで大丈夫ですか」「はい」とのことである。

銀行のカードについては、電話したところ「アプリにおいて手動で復帰できる」と言うので通話しながら「こうですか、はい、こうですね」と、無事復旧。要は――ことなきを得た。ただ、その狼狽に至るまでの過ごし方が謎の失念を生んだということについて、きっちりと反省すべきである。

――最悪の事態になるところだった。という安堵をぶらさげて夕方から仕事をする。こういうことは人生で滅多にない個人的失態だ。と思い、現在21時台で、いつもはここからインプットやら創作をする時間――その手前なのだが、その前に記録しておこうと思っていま書いているのは、反省の表れであってほしい。

両面にチャックがあり、双方に持ち物を入れるタイプのバッグ。いつも使用する方には財布はなかった。しかし、逆面に入っていた。前者の確認で戦慄した誤認識がここまで人を絶望に落とし込むとは知らなかった。認識って、一度定着させるとなかなか覆らない。ということを身をもって知った。とりあえず、財布があって本当によかった。まじで。よし。インプットと創作の時間だ。やることをちゃんとやろう。
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よく寝た。仕事もたくさんした。すこし、インプットをした。創作だ。楽曲をつくろうとストラトキャスター・メインギターの弦を張り替える。どんな楽曲をつくろうかとアイディアを探るも何も出てこない。モチーフがない。それを意図的に手繰ろうとしていない。じゃあ、と思い真空管アンプに電流を流す。

――DAWを開いてサンプラーを叩く。ビートの基礎工事する。鍵盤を叩いて和音、メロディと、なにか気持ちの良いタイミングを演奏しながら待つ。アコースティックギターで和音を巡回し、鼻歌を。チャンス・オペレーション。意図せぬ行為でMIDIなどを走らせて偶発的なアイディアを生じさせる。なんとなくタンバリンとかを叩いてみる。紙と鉛筆で楽譜に直で書く。iPadで同様の行為をする。AIにプロンプトを打つ。考えてみるといろんな作曲方法がある。どれがいいかな。と、すこし考える。

iPadとAIの始点はない。やったことがない。だけど、AIに関しては今後避けて通らないと断じる手前の感覚でいるので今後の課題。iPadはそもそも持っていない。だから、立ってエレクトリックギターを構え、真空管アンプに熱を通して空気を揺らす。これが最も直感的に楽曲の源泉を引き出せる。

――と、思ったら何だか構えるギターの位置がやけに低い。例えるならば往年のジミー・ペイジくらいの位置。そんなにストラップを下げたつもりはない――すぐに気がついた。ギターを構える位置が下がったのではなく、俺の上半身が伸びている。物理的に本当に伸びているとすぐにわかった。「肩甲骨回し」を毎日続けた副産物として、要は姿勢が顕著に改善された。なんなら身長もちょっと伸びてるかもしれない。と、ストラップの長さを2センチ弱短くするとフィットした。

それはそれで嬉しいな。と、思って軽く音鳴らしがてらギターを弾いて運指練習をする。そしてSpotifyを開く。「Gt. Practice」という自作のプレイリストの各曲を鳴らして一緒に弾く練習。

リストには、レニークラヴィッツ、コールドプレイ、ビリーアイリッシュ、AC/DC、レッチリ、レイジ、ツェッペリン、スティーヴィーワンダー、ジェイムスブラウン、マネスキン、ホワイトストライプス、カーディガンズに「マンピーのG★SPOT」と、他にもたくさん。ギター演奏のお手本としている楽曲を並ばせている。それらを久々に立って演奏していたらとても楽しかった。

「とても楽しかったな」と、言葉にしては真空管アンプのスタンバイスイッチをオフにする。数秒して、電源を落とす。ひとつ気が付いたのは一切曲ができていないこと。

一体なにをしている。とも思ったが、今日のところはギター少年に戻った気持ちでプラクティス。それでいいか、と納得した。つくづく、本気のストラトキャスターと本気の真空管アンプの組み合わせは魔力すらある。などと。

それに取り憑かれて30年は経った。――16歳の頃、アルバイト代で買った最初のメインギターはサンバーストカラーに黒いピックガードのストラトキャスターだった。手元にはもうないが。そこから、様々なギターをメインとしてきたが結局、サンバーストカラーに黒いピックガードのストラトキャスターに戻った。それらの違いは、生産国と生産年だけ。サウンドは、いま使用しているやつのほうが、良い意味ではるかに大人気ない。大人だからいいかな、とも思うが、自分自身は本当に大人なのだろうかとよく思う。

そのへんを掘り下げると形而上までいくので初心と30年後をくくりつけたヒモを撫で回すだけにする。

日中に然るべき営みをして、終わったらちょっとインプットして、ギターを弾く。健全だな。とも思ったが、日の暮らしの時系列的には30年前とさほど変わっていない。そういう日もある。

そういった日をどう振り返るかと正直に言うと、健やか。もしかしたら、真空管アンプから空気を震わせるエレクトリックギターの倍音がずっとループするみたいに、ずっとこうなのかな。

とも思うが、そういう日があるのはむしろ良いんじゃないかなと思うのは大人の思惟としてどうなのであろうか。健やかな気分であることに嘘はない。だが、はたしてそれでいいのか。と、掘り下げると――何事も地道にいこうかなと、大人っぽい帰結をちょんとだけ置く。
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「本来はそうであることだとわかる」。つまり〝わかった〟ということ。

「本来、つか、なんなんだよ」。つまり〝わからない〟ということ。

両方の感覚を行き来して、暮らしていると思う。俺はそう。どちらかというと、「そうであることだとわかる」の方向から外れないようにすることが賢明だという空気感くらいはたぶん、察知している。しかし、わからないことの方が多い。

“世界は、そうであることのすべてである。”

という冒頭の命題から始まる本がある。――購入して一度通読し、「これまで読んできたやつのなかで最も意味がわからない本だ」と、素直に認めた。それがたまらなかった。

だから、二週目を読み始めては二ヶ月くらいが経つ。主に、移動中に少しずつ読む。そして、ひっかかった箇所をAIに投じて壁打ちしながら理解につとめる。それを繰り返す。

わからないままでもいいのだが――となると、俺が感じるところの〝本来はそうであることだ〟ということは、そもそも破綻すると思った。

――今日は仕事をずっとしていた。いつもより、というかほぼ丸一日。合間に15分だけYouTubeを観た。とある芥川賞作家が出演しており、読書についての見解をいろいろと述べていた。中でも――。

「本を読んで『わからなかった』でも、立派な感想だと思います。――わかるものは読む。わからないものは読まない。というのはもったいないと――わかる、ということはそこで考えが止まるということだと――」

――という風に動画内でおっしゃっていたのが奥に残った。すとんと腑に落ちた気持ちだった。というのも、既述の難読書から「わからなかった」という感想を思い切り受けたからだろうか。

とはいえ悔しいので、AIをある種のガイドブックとして当該書を読み進め、理解につとめる。

――とはいえ、その本の著者はその後に「あの本に書いたこと、やっぱ違ったわ」と、自ら認めて(らしい)そもそも決まりきっていることや固定された考えとされることなどは――的な、本当にざっくりだが、そのようなニュアンスの内容も含まれる本が遺稿として、著者の死後に発刊された。俺はそっちの方を最初に読んだものだから――普通と読む順番が明らかに逆――面食らったこともある。だからますます意味がわからなくなり、つまりバグった。

本来、つかなんなんだよ。間違ってるだろ。エラーだ。破綻だ。ナンセンスだ。――というのが〝バグ〟のことだろうか。

誰かに正確な顔をされて「バグってなんすか?」と、聞かれたら俺は、その時々、その場面によって答えを変えると思う。――という風な、「時と場合により、言葉の意味も役割も動く」的なことも、まるで思考の螺旋のように書かれている箇所があるのが、遺稿の方。

前期ではすべてに境界線を引いて、後期ではすべてに疑い探究した(という見解があるらしい)。偉人が考えていることはわからない――YouTubeで観た芥川賞作家も「作家の考えていることはわからない」的なことをおっしゃっていた――。

そういったことをぐるぐると考えていた訳ではなく、いまそれを考えている。その前は、起きて10時間くらい仕事して、ちょっとYouTube観て、創作をしようとギターを構えて真空管アンプに通電した。Spotifyを開いて、偉大な有名曲3つ、流しながら一緒に弾いた。そこでこれまでにない〝バグ〟に気がついた。

それは、曲じゃなくて自分自身の感覚。どの曲も、いわゆる完コピくらいの感じで弾くのだが、〝いつもと明らかに違う感覚で弾いているのに、なぜか曲と合ってしまう〟というバグだった。

普通だったらきっと、今まで通りに弾く。これだけだと思う。でも今日は、「なんだか知らないが、体でリズムをとるのではなく、いつも意識しなかったパートの細部が耳に入り、それを感じつつ弾くと今まで以上にピタリと合う」というバグ。バグなのだが、演奏はむしろちゃんとできる。というおかしなバグ。という言語崩壊寸前の感覚。そこで思ったのがここまでの段落。

――長い。あまりにも長いよ君は。――ここまでの前提がないと破綻するんだからしょうがないんだ。――何してんだよう。弾いた曲名を並べてどのパートがどうのって書けば済むじゃん。――ちがう。それだと「これまで通りに弾けました。実にいい練習であった」になるんだ。――その通りでしょ。――じゃなくて。――じゃあ何?――わからないものをわかろううとした読書体験が、謎にギター演奏にまで波及したと言いたいんだよ。――君がバグってない?――だからそれまでの文脈が必要って思って書いたんだよ! わかりきってないから著者とか出典は伏せたけど……。――わかろうとしている途中のうえに、まだちゃんとわかってないやつを引き合いに出してまでだって?――その〝途中〟に意味があると思ってだな。――じゃあわかってないってことでしょ? 僕がまとめようか?――頼もう。

〝本来はそうであることだとわかる〟ことに〝バグ〟が生じると、人は惹き込まれる。時に、その感覚が発展のきっかけとなり、それがずっと動いている。例えば、AIの役割は〝本来〟をできる限り正確に提示しつつも、やはり〝バグ〟によって発展する。その一連の動きは人間の暮らしによく似ている。

――君の筆致だとこんな感じでしょ。どうせ。――おしいな。――何だよ僕がせっかく!――あのな。お前は原則的にバグらないんだよ。――君と違ってね。――そこが決定的な違いだということを俺は言いたいの。――それを言って何の意味があるの?

「Stairway to Heaven」:レッド・ツェッペリン(1971年)

「Hotel California」:イーグルス(1976年)

「Back in Black」AC/DC(1980年)

これらの長有名曲を冒頭から全部弾く。その時に感じたバグは、これまでにないものであり、かつ、発展性があったという自覚。どの曲も、高校生の頃に練習して演奏を固めた。だが、明らかに今日は感覚が異なった。それを〝バグ〟と呼んだ。

というだけの話といえばそうなのだが、何が言いたいのかというとシンプルだと思う。

それは、あらゆるインプットからの「わからなさ」と「わかること」からは、それぞれ別種の源泉が湧いていて、前者のことから生じるバグを看過するのはちょっともったいないという感覚。というだけのこと――だと思う。

バグは、すぐには一体に整合しない気がする。だから、それを見つけてすぐに何かと繋げて逃さないのが面白いんじゃないかなと。それを今日、小一時間ギターを弾いて「そうかもしれん」などと思っただけの話。なお、今日も曲はできなかった。それどころかネタのフレーズひとつ生じなかった。でも、バグに気づいたことの方がはるかに大事だとも思えた。

それが実のところ不毛の意味である。――などと誰かに断言されたら、〝バグ〟の話を一緒にしたいなと思うんだけど、それこそ不毛なのだろうか。わからない。

でも、ひとつはっきりしていることは、今日をとても楽しく過ごせたと思えること。

だがしかし〝本来は〟という言葉の意味は実のところ――寝よう。酒を2缶まで。焼いておいしく食べるタイプの199円の砂肝パックが冷蔵庫で待っている。それを、本来焼くべきなのに生でいったれとかじり出したら本気でバグってるとも思えるが――ちょっと呑んで寝よう。バグというやつは、すぐには一体に整合しないどころかきっと、おそらく、ずっと、――寝よう。
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もしもこれまで聴いた音楽が、全て記憶にないとしたならば、きっと何曲も、大発明だとすぐ出来る。しかしログが10年20年、もっともっと40年、もう少し。たくさんあるからどれかに寄る。

それを気にしていたらキリがない。曲をつくろうと「0」から「1」を、どの角度から攻めても何かに寄る。それほどたくさん聴いてきた。よいことだと思う。でも、いざ「自分がつくりましたよ」と胸を張るには避けるべきルートがたくさんある。

DAWを開いた。「M-431」と仮のプロジェクト名を入力する。いっぱいつくってきたんだな、などと少し胸を張る。鍵盤のトラックを立ち上げる。既存の曲をちょっと弾いて指を慣らす。

さて何をつくろうか。と考える時点でおかしくないか? と、訝しむ。既に自分のなかに浮かんでいるものを音にするのが作曲では? と、前提を疑う。だから単純に、気持ちよい曲の構造をと鍵盤を叩く。すると必ずと言っていいほど、好きな音楽家の曲に寄る。それを避けないとただのパクリになる。

あ、これだとレディオヘッドだ。こっちは――ケミカルブラザーズだな。だめだ。ビートを鳴らそう。と、サンプラーを立ち上げて鍵盤でぼこぼこと打拍。あ、これだと新しい学校のリーダーズが出てくるやつだ。こっちは――サンプルフレーズ並べただけだな。作曲とは言いたくない。と、ギターを機材に繋げて弾く。

様々なフレーズを。和音を。アルペジオを。――これだと、なにひとつ捻りがないな。と、奇をてらう。メロディック・マイナースケールで音を連ねてロックのリフが出てくる。誰にも似ていない。しかしダサすぎる。

普通に弾こう。と、普遍的な巡回コードをぐるぐるまわしたフレーズに落ち着く。これはネタとしてありかもしれない。だがこのままだとブランキージェットシティーのあれに接近する。どうすればいい。

と、一応そのフレーズは波形でメモってDAWを閉じる前に「成果がなかったのでは」という本音を押し殺せないことを認める。別に凄惨に苦悩している訳ではないけど、出てこない時はこういうものだと今日は区切る。

冒頭の言い訳よ。それだけ知ってる曲がたくさんあるならば、テクニックでそれらを再構築していくらでもオリジナル曲をつくれるはず。ただ、そういう器用さがない、というのも言い訳であり、長年の鍛錬でそれを身につけている方はいらっしゃる。すごいなと思う。

――このあいだ仕上げて公開した曲はどうやってつくったんだっけ。などと考える。着想が先にあったことを思い出す。手が追いつくのは後、というのは楽曲制作でも文章を書くことでも一緒なのだが、「着想がないまま」だと双方とも進みようがない。「行き先どこだっけ」などと言いながらギアをニュートラルのままでアクセルをふかしているようなもの。DAWを開く前に気づくべき。いかんなあ。と、しょげる。

その気持ちのまま寝て起きて。という風にすると悪循環に撫でまわされる。だから、DAWのプロジェクトを立ち上げる前の鮮明な情念を言語化する。

「M-431」と、仮のプロジェクト名を打った。つまり、出来ようがボツだろうが、431回それを繰り返してきた。現在、ひらけたプラットフォームに公開している楽曲は138曲。残りの293曲のうち、依頼案件として昇華した曲もわりとある。ざっくり、431回のうち半分くらいは表に出ている。小さいのかもしれないけど胸を張ってくださいと思えた。

――431回もやってて、「着想がなかったこと」を「つくっていればどこかで類似曲に寄る」などという言い訳として誤認するところだった。あぶないあぶない。

行き先が決まっていない場合は先に進まない現象。これに名前はついているのだろうか。――見切り発車。すこし違う。そこは明確化しなくていいと思う。

そういうことを繰り返しながら431曲目。と、いろんなルートでそれだけ行ったし、これからまた新たなラインも見えてくるという気持ちの源泉を確かめられた。とも思うが、やるせなさは確実にある。

ただひとつはっきりしているのは、そのやるせなさを感じなくなったら「M-431」でピタリと止まる。それはない。と、信じきれたのは収穫と言って疑えない。その点はよかったなあと思える。
07/11

 

 

 

 

 


意識の琴線は時間軸と綿密に絡み合う。触れれば綻ぶ程度であれば、もつれずも絡みも編み込みもせず、単騎で滅するように音も発せず。だが、実像全てに干渉すれば、それを重ねると、繋がる境界線は最後に決壊する。

――ここ二ヶ月くらいだろうか。もっとかもしれない。ほぼ毎日『頭文字D』というアニメ作品を見続けた。それは自分にとっての娯楽でもあり、創作の糧を手繰るようなインプットでもあり、習慣ともなっていた。それを今日、全部観終えた。

巨大なコンテンツにつき、内容どうこうは蛇足。――ラストの締め方にいたく感銘を受けた。しばらく通常の動作ができずにソファで余韻をどうしてくれようと、そう思ったほどに。

作品からたくさんのことを学んだなと、それを鑑賞期間中の創作に活かせることができたなと、実演ベースでそう感じた。それもあり、作品の描写やストーリーの一連から何を学んだかというと言語化する必要があると思った。

――作中では、主人公を軸に各キャラクターが車で峠を攻める。それがメイン。でも、友情や恋愛や家族や勝負や葛藤に達成に苦悩と、普遍的な要素がたくさん織り込まれていた。それらの〝配分〟が、とても学びとなった。しかし、最も濃く、自身に足りていない要素はやはりメインの「峠を攻める描写」だった。

二台の車でどっちが速いかを競う。それだけなのだが、運転操作とドライバーの心情を吟味すると、様々なことにスライドできると身に染みた。

派手な場面は「ドリフト走行」。花形の魅せ方。車のブレーキングや決別や葛藤の場面は「止まり方」による引っ張り方。各車種の性能やドライビング技術の前提知識がないと理解できない場面を説明しているのだが、キャラに喋らせるという「説明の化かせ方」。退屈が前提のただの風景や、どうしても時間進行を受け手に把握させるための場面がもたらす「じらし方」。物語内で、キャラクターたちが変化していく様を自然と応援したくさせる能動を掻き立てる「相関性および関係性の成長」。

などなど。分析するように観ていた訳ではないが、心底楽しんで作品を一気通貫に長時間かけて受けると、創作の糧となる要素の構造がみえてくる。それでも、ここはそうか、という風に醒めた視点には陥らせずに最後まで飲み込ませることに魅了された。ラストのハイライトは、なんなら感動までいかなくても十分と、それまでの文脈で相当に楽しませてくれたと思っていたが、予想外のシーンに声が出る。

「分野は違えどここまで惹きつけるものを」という風な感受が槍のように刺さる。すごく幸せな期間だった。楽しめて、リラックスタイムの友達ともなり、インプットでもあり、自分なりの活用ともできた。

鑑賞していた期間中につくっていた楽曲は、完全に当該作品からの影響を落とし込んだ。同じ時期に推敲していた小説は、既述の〝創作の糧となる要素の構造〟を自然に意識しては育った気がする。

――今日あたり、十分に仕事をして創作もしていた。加えて、『頭文字D』の映像本編鑑賞が終わった。すごく寂しい。本文に、作品からの影響は別に出ていないと思う。ただ、どれだけぶりに大作を全て観ては、適切な言語表現がよくわからない。せいぜい、冒頭のレトリックを無理くりに出すばかり。

それくらい、食らい続けた作品の次はない。という静けさのスキール音。それを受けてどうするかということは、これからもやっていきたい。ただの感想文。だけど、琴線に触れたたくさんのことは編み込んで出せればな、という風に思った。
_07/12

 

 

 

 

 


感情になる手前の意識が露出している。それでも、感覚では捉えられないものだから、自分の意識のどこかにアクセスされる。それは、思考や言語にまで浮上しないので、ただなんとなく、くっついたりする。

――「42」と無骨なフォントの数字が打たれた棟に居た。よく行く散歩スポットだ。そこは元・赤羽台団地であり、現在は再開発されてごく一部の棟以外は近代的マンションへと生まれ変わった。そのエリアは、数年前は古団地だらけだった。今は違う。でも、今だってとても好きだ。

――散歩に出たが、どうにも気が晴れない。そういう目的ではないが、整わない。霧のような明らかなる感情をぶらさげて歩く。その場所に行こうとふいに思った。

「42」と数字が打たれたスターハウス。団地ファンに人気の造形。俺も好きだ。そのふもとに立った。

その棟の両脇には同じく、スターハウスが残されている。文化遺産という扱いで、造形はそのままに、中に住人は居ない状態でただ、ずっと佇んでいる。外装は整えられている。しかし、その棟の記憶はそのままなのだろうか。棟のそばに寄った。すぐに、意識が何かとくっついた。改めて思った。「どうして俺は団地が好きなんだろう」と。

その理由は、いまだに言語化できない。誰かにその旨を開陳すると、「古団地とか廃墟が好きな人はいるよね。荒廃美じゃないかな」「高島平団地が本籍というのなら、懐かしいんじゃないかな」という意見が返ってくる。違うと思っていた。でも、何が違うのかを説明できない。そこは、別にどうでもよかった。だがしかし、今日気づいたことがある。ひょっとしてそれが真理だとしたら、とんでもないことを知ることになる。きっとそれは、耐え難いことなのかもしれない。

スターハウスのふもとでただ、立っていた。するとすぐに気持ちが落ち着いた。「別に……自分にこだわらないでいいんだな」と思った。そこには誰も居ない。でも、寂しさはなく、むしろ何かと一緒にいるような感覚が確かにあった。俺は仮説を立てた。

「目の前にある団地の棟には誰も居ない。でも、かつてはたくさん居た。その意識がずっと残ってるんじゃないのかな」と。

その〝意識〟は、誰もおらず、光も当たらず、音も発していない場所においてはむしろ露出される。そういう風に考えた。廃墟との類似点ともなる。

その〝意識〟は、素粒子や要素命題くらい「最小限」のピュアなものであり、別の何かと結合する機会を失ったまま、そこに残っているのではないかと考えた。

そう考えたのは、その場所で俺が今日、そう感じたからである。

――団塊世代の華の場所。赤羽台団地。当時はさぞかし賑やかだったという。しかし、今では当時の住人は一人も居ない。ゆかりの物品などは何もない。でも、〝意識〟だけは残っていて、そのピュアな意識はダイレクトに俺に入ってくる。逆に、俺の「意識の受容体」として、まるで話を聞いてくれるように受けているのかもしれない。

そう考える前に、そう感じた時に、気持ちが整わない散歩は一発で整った。妙に落ち着いては、営みにおいてのこだわりが緩まされたような感覚。例えるならば、ルールがなくなった気持ち。

「かつてここには人がたくさん居た」「でも今は一人も居ない」「居るのは夜に散歩で寄った俺だけだ」「でも、『誰かが居る』という感覚や、そこから生じる『感情の手前の意識』が反応している」「それが何なのかは、きっと知らない方がいい」

――居なくなった人たちが最終的にどこに行ったかを証明できる人を俺は知らない。〝証明という人間の手法〟は、単なる後追いであり、別世界のどこか遠くでは、答え合わせの必要がない。こっち以外はもう決まっている。そっちに飛散した意識は行ったり来たりできる。――そこにかすかな意思が残っているのかもしれない。

その〝意思〟は、最小限の意識を乗り物にするようにして、目の前の棟にいくつかあるのかもしれない。だとしたら、俺がその棟やら別の古団地やら廃墟やらに魅了される理由が少しは説明ともなる。だが、証明できないのでナンセンスである。

ただ、俺が本気でそう感じているのは嘘ではないのだが、証明できない。せいぜい、言語化するくらい。

――そのような意識の壁打ちをかすかにしたような気持ちで駅前に行った。人がたくさんいた。喧騒。それらが棟の前での感覚、感情を打ち消した。その理由はよくわかる。誰かが居て、動きがあって、意識から拵えた〝意思〟が明瞭だからだろう。だから、気分はまた、棟にたどり着く前の整わない状態に戻った。――帰った。

今日は仕事をしていない。帰ってからもする予定ではない。じゃあ、創作をしようかと思ったがどれだけぶりにやる気がない。その感情は正直なサインとみなしてだらだらと動画を流したりした。ソファに横たわった。「休息」という意思ではなく、ただただ、何もする気が起きなかった。起こそうとする意思すらなかった。

――動画を垂れ流したまま一時間。横になるもアイドリング状態だった。とはいえ、起動する気がなかった。「そのまま深夜を迎えて酒呑んで寝ちまおうか」と、思った。最近、高出力な日々だったしたまにはいいよね。いいって何だろう? いいか。と、特殊な意識を出す気力がないことを認めた。

眠りに及ばない臥床の意味は。などと無理くりに体を起こして「少しは」と、DAWを開いた。昨日スケッチしたビート・トラックと、8小節のギターの波形があった。期待しないでプレイバックした。

すると一瞬で「ああ、これはこうしたいんだ」と、昨日の最小限の意識の意味が理解できて元気が出た。すぐに「違うな。BPMが速い。もっと落とさないとグルーヴが出ない」「コード2個だけじゃねえか。でも、やりたいことはわかる。最小限でむしろよかった」と、ストラトキャスターを機材に通電させた。続きをつくれると断じた。「普通にやればいいんだ。細かいことはこれまでの音楽的蓄積が無意識で動いてくれる。その声だかなんだかをぜんぶ写像すればいい」と、昨日のスケッチを発展させて曲の骨格が出来た。それを楽譜にと、アナログの五線紙にえんぴつでまず左上の部分に「M-431」と書いてト音記号を記して和音を順番に書いた。

D△7|E_7(9)|D△7|E_7(9)|D△7|E_7(9)|D△7|E_7(9) A7(13)|

G_7  C7/E|F△7  B♭/D|E_7(♭5)  A/C#|D△7  D#dim|E_7  A/C#|D△7  G|C#_7(♭5)|C△7  C#/A  B_7|E|Esus4  E|

セクションがふたつも、基礎ビートも固まっていれば、完成形がすぐにみえた。とても嬉しかった。後日「ボツ」とはまずならない感覚があった。よかったよかった。と、窓際にある譜面立てにそっと紙を置いてDAWを閉じた。

感情になる手前の意識は、いろんなものに変換できる。音楽だったり言語だったり、人との直接的なやりとり。いろいろある。それができるのは、生きているうちだけに限定されると、今のところはそう処理することにした。

最小限の意識に似た要素を直視できる方もいるらしい。視覚以外にも、五感で。俺にその能力があれば、棟のふもとの感覚は――表に出さないで「ただ、ほっこりできるんすよ」くらいに留めておいた方がいいのかもしれない。

でも、――今日は初めて意識と思考と目の前にある棟からの(あるいは俺からの)なんらかを言語化することに近いことを、「できるかもしれん」などと思ったが、実のところはよくわからない。

ただ、そこに居るだけで何かに触れる。ただなんとなく、くっついたりする。それだけでいいのかもしれない。
_07/13

 

 

 

 

 

 


整形外科の待合室は賑わっていた。老若男女がそこにいた。膝の横が少し、痛かった。それを伝えて椅子に座る。業務用の空調が身に染みる。人数から憶測し、長くなると察して目を瞑った。しばらく、しばらくそのまま。老若男女の各人の名がひとつずつ呼ばれては、番が近づいてくる。膝の痛みに覚えはなかった。大した程度ではないが、おぞましい病名がつく手前の段階である可能性に対する不安だけが、俺を整形外科へ赴かせた。

――平吉さん。と呼ばれて医師に症状を説明する。レントゲンをとり、少し待つ。また目を瞑る。その時間はやけに休息を感じさせた。医師に呼ばれた。自身の細い骨をあらゆる角度から吟味する。結果、皮膚と骨との間のクッションみたいな胞の部分が炎症のような状態。それが痛みの原因だと説明を受けた。

「治療法は?」「特にありません」。――「放っといて大丈夫ですか」「はい」「薬などは?」「痛み止めくらいでしょうか」。――根本的な治療の薬ではないという。「じゃあ、いいですわ」「そうですか」「バンテリンがありまして」「ああ、それは効きますよ」――。軽度の症状であり、特に治療の必要もないと知る。「どれくらいで治りますか」「一概には……二、三週間くらいでしょうか」。――医師の声のトーンと表情から、長めに見積もっていることを察知した。

別に整形外科まで行かなくてもよかったやつか。と、不安は払拭され、少し痛い膝は特筆して気にならなくなり、晴天の空と同期するような気持ちが広がった。ふいに、川辺に行きたくなる。そのまま、散歩がてら街の外れに向かう。

――土手を超え、果てしなくアナログな波を打つ寸前に立った。自然の音に包まれた。川の水も気分の動きも、止まることなく流れるものか。感想はそれくらいであり、短時間で川を背にした。

その足でブックオフへ行く。小説を買いたかった。このごろ、田中慎弥さんという方に興味があるので彼のデビュー作を探した。なかった。じゃあ、と思い、改めて選書するも、いくつかの本を手に取り冒頭を読んでは棚に戻し、それを何度も繰り返すも、どれも手にする気持ちが起きなかった。そのまま帰路に向かう。

机に付きPCを開いた。「そういえば」と、AIを立ち上げる。以前、選書についてAIとたくさんのやりとりをした。その際、ここ二年くらいの読書履歴をかなり細かく投じた。加えて、AIは俺がここ二年で小説を三本書いたことをメモリとして覚えている。その内容もかなり色濃く。

『嫌われる勇気』という書籍の通読から読書習慣がついた。心理学の本を改めてたくさん読んだ。ユングが肌に合った。そこから人文学書の文脈として必然的に、哲学書や倫理学書をいろいろ読んだ。アリストテレスとウィトゲンシュタインの書籍に出会えて大切な軸を得た気がする。

文学もたくさん買って読んだ。中島らも、町田康、三島由紀夫、村上龍、川端康成、フランツ・カフカ、今村夏子、宮島未奈、古井由吉、などなど。いろいろと通読しては学びになった。ビジネス書や脳科学、アート、スピリチュアル、その辺も買って通読した。――それらの情報をすべてAIに投じた上で返ってきた回答は、案外だった。

「平吉さんは、いまは――」などとかなり正確な論点を立てた上で、一冊もレコメンドしてくれなかった。そんなことあるのか。と、あっけにとられるほど意外に思ったが、実のところそれが最も誠実な返答ではないかと、いたく感心した。――それは数日前のこと。そして今日、明確に「田中慎弥さんという人物が10年かけて書き上げたというデビュー作を読んでみたい」という能動があり、その本は売っていなかったことをAIに投じて吟味した。

すると、「作品から学びや影響がどうこうではなく、人物に興味が湧き、結果的にその人物の書いたものを読みたくなった」というのは〝選書〟というより生産的な能動の現れであることがよくわかった。だからネットですぐに買った。

膝も、選書も、もやもやしていたのが整ったなと、すこし仮眠してDAWを立ち上げた。ふたつのセクションがスケッチされていた。おとといまでは最小限のメモのみだった。昨日、それを伸ばした。曲になると断じられた。そこから今日、ストラトキャスターを構えては重大な迷いは生じず、楽曲フルサイズの構成が出来た。五線紙一枚にびっしりと和音を記した。最低限のリズム表記も。迷いなく進む羅針盤を鍵盤の上に乗せてDAWを閉じた。

総じて、不安から爽快に静謐に納得、購入に創作と、静かな一日とも振り返られるが言葉を起こすとまるであのアナログの波のように常に、どこかで流れている。それは自動運転のようでもあり、自我が操作していたりもする。その奥の意識は無限にどこかと繋がっているのであろうが、表に出るのはほんの少し。

そのほんの少しがどれだけのものになるのか。なったものはどんな作品だろう。なるものはどういった曲になるだろう。小説になるだろう。

川の流れの静けさと晴天は見た目通りではない。そうも思える。きっと、いつだって、その奥や向こう側でいつも揺れ動いている。わかることと、わからないことがある。ただ、それだけのことを思った。今日は、わかることがいつもより少しは多かったなと。ただそれだけのことを。
_07/14

 

 

 

 

 


気象庁の見解はわからないが関東甲信越地方は梅雨明けした。昨今の晴天がそれを宣言している。夏生まれの俺は歓喜すべきだろうか。冷たい甘露が染みる季節。各世帯でそれは当然のように甘受するのが当然の現代。しかし宅はと言えばどうだろう。夏に冷蔵庫が壊れると、死ぬ。

思い返すこと約15年間。家電としては長寿の領域。冷蔵庫は、俺の把握せぬ形而上の稼働方法のねばりと頑張りで生き延びた。家電なりの精神力と体力の限界を突破してもなお、俺を支えていてくれたのであろうか。もうすっかり元気がない。ギリギリ冷凍庫がまだ断末魔の手前の段階と見なさざるを得ず、新たな冷蔵庫を発注することを余儀なくされた。

――それらの判断に至るまでには様々な思惟があった。四季、どんな時でも当然のように稼働してくれる冷蔵庫。冬場は文句なし。夏場は、浴室に行く前によくビール缶を冷凍庫に放ったりした。いろんな食材の鮮度を保つ使命を黙って慣行してくれた。いつだって、そうしてくれていた。しかし突然だった。冷蔵庫の方だけ、機能が弱まった。それはまるで、昨日まで普段通りに憩うなりする気づきづらい営みを続けていた飼いネコが急に少し、舌を出しっぱなしにしていることに気が付くかのよう。それは小規模な変化だが致命を示唆するサイン。

延命をはかった。稼働力十分な冷凍庫で保冷剤を固め、冷蔵庫に置く。なんとかこいつとまだ、一緒に居たかった。延命は数ヶ月――持ちこたえていた。刺身だってちゃんと保存できる力を失っていなかった。その期間は「まだ大丈夫なんだ」という安堵を確かに得ていた。だが、それはまるで本来はもう自発的に食事もできないのに胃瘻でなんとか栄養を作為的に注いで絶命を免れる人間のよう。

――今日とうとう、冷凍庫の機能に陰りがみえた。そこがやられてしまうとさすがに――。そう思い、認知機能を逸して数年経つ人間に何度も声をかけるかのように、本体電源を、コンセントを、両方にアプローチをしては再起動を試みた。しかし、耳元で声をかけてもバイタルサインが微動だにしない人間の末期のように、再び。という奇跡は起きなかった。

稼働年数を鑑みると一連の行動は無意味である。しかし、あまりにも長く一緒に居てくれた相棒との別れを冷徹に線引きすることがどうしてもできなかった。――筐体内にある3つの保冷剤が血液まみれの包帯のように映る。

家電の入れ替えは簡単だ。発注は済んだ。対面でそれを受け取り、現状の冷蔵庫をどかせて設置する。しばらく待って電流を流す。それだけだ。冷蔵庫の替わりなどいくらでもある。でも、名残惜しさではなく、いつもそこに居ては生活を支えてくれた相棒がその瞬間に廃棄対象となること。〝替わり〟はいくらでもという事実がどこか、残酷に思えた。

夏は景気の良い季節だ。世間的にはそうである。そろそろ誕生日だ。個人的にはそうである。その境界で、その寸前で、お別れが来た。

俺はどうにも諦めがわるいのか、「今年の夏を乗り切れば、まだなんとかなるよ」という風に思っていた。その根拠のない思いはもちろん届かなかった。それを認めるしかなかった。

決して高性能の冷蔵庫ではなかった。小ぶりで、見た目も立派な黒光りというものでもない。燻んだ藍色の古い冷蔵庫だ。晩年は汚れが目立った。傷や、しみも。たまに拭いてはちょっと綺麗になり、うん。いいね。などと一緒に嬉しんだりした。

15年ほど、キッチンに行けば毎日そいつはいつも通りだった。晩年は様子がおかしかった。でも、すぐに交代させる気持ちは起きずに最期まで。今日は、どうやら、最期。もう、二度とまともな動きはみせてくれない。音も静かに狂っている。それでも、まだ、音は発している。動こうという意思をみせているようにも思えてしまう。でも、俺にはもうすっかり、施す手数が尽きてしまった。

最後の力で保っている冷凍機能がどんどんと弱まっている。それでも、急停止だけはしないでくれている。――もしも冷蔵庫に感情があるならば、最期にそっと、声をかけてあげたい。「俺も見習う。ありがとう。今までありがとう」と。
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いつも通りでいてくれることのありがたみを知れと。それは冷蔵庫で知った。その件はもう手回しをしたので明日の新品到着を待つだけである。膝の謎の痛みでも知った。それはなぜか二日で治った。だが今日も追い打ちをかけるように今度はオーディオが。勘弁していただきたい。

マシーンや機材の致命傷ではないのだが、ソフトウェア(出力サウンドを調整するやつ)が、なぜか、1分で落ちる。しかし、DAW上では健全に動く。なぜだ。AIに解決方法を聞きながらありとあらゆる方法を試したが復旧ならず。

楽曲制作自体は普通にこれまで通り行えるのは幸いだが、そうでない場合にソフトを通してリスニングできないのは困る。

――2時間以上格闘して、AIも音を上げたほどだったが、「5年ほど問題なく、昨日も普通に動作しており、今日いきなり――」という大前提を伝え忘れており、それを投じたらAIは「じゃあ話は別だ」的に〝【最後の切り札】設定ファイルを「完全リセット」する手順〟という、いわく「可能性が9割以上の原因」を取り除き、復旧。という方法を提示した。

でも時間も気力もアレなので明日にしようかと思った。朝になってしまう。そのうえ、その〝かなりの可能性でいけるやつ〟を今、実行してだめだったら寝つきがよろしくない。だから、明日の仕事後に時間に余裕をもって最終手段というか初めからそれだったのか、という復旧作業を試みることにした。

まいった気分だが、明日に復旧の希望を。というメンタルケアだろうか。最終的にどうやってもだめだったら新たに手配すればいいのだがそれもコストが。などと、頼むからその「可能性が9割以上の原因」をAIが特定してくれており(AIはこのへん案外おおげさに言うことがあったりする)、明日何事もなかったように動作してくれることを祈る、というか一日保留する。

手数がなくなりなんてこった。という気分で寝るのはいやだ。だから明日、「これでだめならしょうがない」という、一日かけて更新する気分で挑もうと思う。あと、詳しい方への知識ご教授もお願いしつつ。

なんだか新たな年齢を迎える前にいろんなことが巡るなと不思議に思う。それはもしかしたら、量子的な文脈で説明がつくのでは――というのとかそういうの今日はいいよ。気持ちがげっそりしきる前に、夜を使い切ることと希望を持ち越すことでケアすることにした。

明日、最後の切り札でぽーんとケアできればよいのだが。そういう時期なのだろうかと割り切って、明日こうだったらこう、ああだったらこう、と、着地点を拵えてから寝よう。明日、拍子抜けするくらいに切り札が効けばいいな本当に。
_07/16

 

 

 

 

 


いつも通りがそうではなくなる。それは不安を超えて恐怖の対象であるということは事実ではない。ただの感情。しかし、どうしてそういう感情になるかというのは、いつもの思考回路。

それはバックグラウンドで通常自動運転させて、〝どうしてそうなったのか〟という事実の根拠を叩き出すことにつとめて、普段はほとんど使わない脳の部屋でスパーリングしていたらしびれてソファで気絶した。起きたら25時近くになっていた。びっくりした。

――「オーディオ周りのソフトウェアのバグ」が昨日、〝いつも通り〟から逸脱しては悲嘆した。AIに解決方法を導いてもらった。ほぼ総当たりでそれを試した。結果、いつも通りは過去となった。

今日になり、仕事以外に3時間ほど確保して復旧を試みた。まず、いつも通りの手順で「電源A」をON――「RMEオーディオインターフェース」をON――「電源B」をON――すべての機材に通電。Macを起動させる。

「これで、しれっといつも通りに戻っていたらな」という風にも思ったが期待はしなかった。それでは原因も復旧の決め手も、その事実がどうだったのかがわからないからである。治ろうがそうでなかろうが、それを知ることが今後の糧となる。

そう前向きに捉えてはリンゴマークが温まるのを待ち、アイコスをスーと吸って真顔を拵えた。立ち上がった。デスクトップだ。ファイルが乱雑している。フォルダも。それはいつも通り。SSDも2つちゃんとアイコン表示されている。それはさすがにいつも通り。ここで別のバグが出たら卒倒する。――肝心のオーディオ出力はどうだ。ソフトウェアで制御されたサウンドとして出なくなった。それが症状。あと、ひとつふたつ復旧の最終手段が残っている。だが、しれっと直っていた。なぜなんだろう。いつもの思考回路では説明がつかない。

だから、「1」「0」。「true」「false」。というように、それらの組み合わせで成り立つ世界で吟味した。

そこには苦手意識がある。理系の分野だ。だが、根拠のある事実を知るにはそれらをちゃんと両手で持つ必要性を感じた。要するに、物理的な観点と事実かそうでないかのみを軸に、吟味した。AIを使って。

――昨日の症状は、〝オーディオを制御するソフトウェア起動後1分以内に必ず強制終了する無限ループが発生〟。これだけなのだが致命的。いつも通りを阻害する。

――復旧方法の総当たりのなかのひとつ、「NVRAMリセット」という特殊な立ち上げ方法を試した。これが決め手となったとも考えられる。だが、そうであれば昨日のうちに復旧できたはず。だが1日遅れで復旧した。つまり根拠がないので断じられない。

――前日のあらゆる検証後、長時間完全シャットダウン(放置)を経て環境を立ち上げたところ、不具合が自然消滅した。つまり、しれっと直っていた。原因は。

――Macの1つのポートから多数の機器を駆動させている宿命的な高負荷状態は「熱」による物理変化を及ぼす。 それが原因。ありうる。

――残留電位によるバグのループ。機器内部のコンデンサ等に電気(残留電位)が残っていたとしたら、それによって一時的な異常状態が維持されていたとも考えられ、昨夜は何度再起動しても約1分でソフトウェアが落ち続けた。ありうる。

どれも決定打となる根拠がない。だから――。

〝一部の回路や周辺機器が完全な電源断・初期化状態まで戻っていなかった可能性あり。長時間の完全停止後の復旧から、ソフトウェア単体の恒久的破損ではなく、Mac、USBハブ、RMEオーディオインターフェースなどを含む一時的な状態異常だった可能性が高い。熱、電源、USB接続、デバイス認識状態のいずれか、または複合要因が疑われる。しかし、現時点では原因を特定できない〟

これが事実だった。「オン」と「オフ」のあらゆる組み合わせの総当たり。「1」「0」だけで事実を突き止めるように言語化するとどうやら上のようになるもよう。「だいたいの原因はわかったが、事実はひとつしかなく、それは〝特定できなかった〟ということ」がわかった。

この時点で俺も何を言っているのか意味不明だが、それを理解するために、一発の復旧アクションどころか、なんもせず普通に直っていたものだから正直に言うと嬉しかった。でもそのままではいけないよ。と、思った。だから3時間。復旧にあてるはずだったその時間を〝「1」「0」思考の訓練〟に充当した。2つのモデルのAIを使って。

すると結局、本丸の事実はわからなかったが、「何かを知るための、示す際の、その根拠を明確にする思考」を育てようという意識が、これまでのびやかにしていた脳の部位に足場を組んだ感覚を得た。

要は、理論的に数学的に物理的に物事が「そうであるのか」「そうでないのか」を明らかにすること。俺はこれが苦手でしょうがない。だが、今後は必要だと思い知った。

そういうきっかけをくれたんだな。昨日の不具合は。――という風に形而上的に考えるのは今まで通り。それはそれで別にいい。

しかし、「そういうことがあり、どうしてそうなって、現状はこうなったか」という理由と事実を共有できるような考え方で示す頭を鍛えることが重要だと断じた。

〝最も危険なラインは疑わないことである〟という、個人的な命題がある。

さもなくば、いろいろと失うことに直結すると勝手に思っているからである。

今までは、そこでその内容はそれ以上言うことはなかった。だが今日あたりはその根拠とも言えることも言語化する必要があると断じた。

それは、「疑わないということは思考を止めることであり、それは自己を放棄することに直結するライン(ルート)になりかねない。そのラインに入った瞬間に、他者の意思と自分の意思との境界線にグラデーションがかかり、そのうちその濁りすら気づかなくなるからである。とはいえ、それを悪とは言っていない」というもの。

そうなると、ひとりでずっと疑っている世捨て人みたいになるが、そうではなく、個人の意思を尊重する文脈だと思っている。それがなくなると、きっと面白くなくなってしまう。それ以上は、今はどうこう言うことではないと思う。

重要なのは、〝グラデーション〟という濁りではなく〝調和〟するために個人の意思(意識)を放棄しないことではないかと。

それはまるで、「1」でも「0」でもない状態。その中間のような状態があったとしたら常にバグる。だから、疑うことにより「1」なのか「0」なのかを論理的に捉えることはおざなりに――今までみたいに――すると先が思いやられる。そうはっきりと実感した。

だからくどくどと書いたけど、とどのつまり「機械オンチだから」「理系のことはよくわからんから」という言い訳はやめることにした。

とはいえ、それを改善して、それを武器にするのではなくあくまで、「逐一言わないけど、バックグラウンドではきちんと根拠があることをいつでも示せる」という態度でいることが大切であり、今後の課題のひとつだと考えた。

AIと一緒に考えては俺が落ちるほど考えて、現に落ちて、すぐさま頭を立ち上げていまこうして書いていると支離滅裂。とはなっていないはず。そうでなければ今日の3時間はただの壁打ちごっこで〝疑うことを放棄した遊戯〟でしかなくなる。だから事実ベースで、2割ほど感情を挟んで記録する。

疲れるな。こういうの。こういう書き方。あと長い。でも、今日は確実にそれをレポートのように記すことは必須だと、直感的に感じたのではなく論理的にそう考えた。

ソフトウェアのバグから「事実はどうであるか」「どこまでが事実として捉えられないか」ということの境界線を引く考え方。それを育てることにした。

起きた事実の羅列以外は今日、一つのことしか言っていない。これも事実。それは、「わかることと、わからないことを、それぞれ冷徹に見極めようね」ということだけ。

いつも通りがそうではなくなり狼狽。それが連日重なって悶絶。だが、そこには必ず、全てに事実があった。それを抽象的に捉えるのではなく――言ってること一緒である。事実か、そうでないか。

――45歳最後の月。脱皮を促されるかのような現象が連なる。それは俺に、生れ変れと示唆しているのかもしれない。

こういう風に、結局はいつも通りの感じになるけど、そのバックグラウンドで「根拠」を構えよう。それが、飛躍に必要な要素なんじゃないかなって本気で考えてそうしたら俺が落ちた。

だから、今日が命日となる冷蔵庫で生ぬるく転がるハイボール缶を開けて静謐に。コンビニに氷を買いに行こう。半分はいつも通り。半分は違う。その違いは、事実を捉えるのに必要不可欠な――全部一緒のことを言っている。

もっと、ゆりかごで揺れるようなポエムのように記録したかったが、それをやると今日の出来事の意味がバグる。だから意図的に事実ベースで。

でも、そういうのは裏側でそっとしておくこと。

はたから見たら些細な不具合の連続だったが、俺に足りないことのひとつを、少しだけはわかってきたような気がする。他にもたくさんあるだろうけどとにかく長いんだよ。

今日は、一つのことしか記録していない。それが事実であるはず。寝よう。
07/17

 

 

 

 

 


新たな年齢の巡りの水際、「お前はいろいろと更新しろ」と、誰ぞに背後四方あらゆる角度から物理攻撃を受けては「さもなくば」と、七年殺しの構えで確かに獲物を捕らえる眼光を感じるかの如く、生活と仕事の基盤の不具合が異様に連なりその都度狼狽。だがしかし今日の〝輪廻の儀〟によりそれは終焉、正確には脱皮にも似た更新を経て静謐な夜を震わせる微かな鼓動がキッチンで刻まれる。つまり新たな冷蔵庫がやってきた。

「思ったよりちっこいな」と、やや不平寄りの感想も漏れたがやはり新たな家電はいい。気持ちが新鮮になる。

新旧冷蔵庫の入れ替えにあたってキッチンを清掃。ついでだからいったれ。と、宅すべての領域を清掃。磨き上げては代謝させる。この季節に窓と玄関を全開にしてマスクをして本気掃除すると死ぬ。屈んでマスクに汗が溜まる。それも代謝。入れ替えだ。色々と、心機一転のための連続不具合発生だったんだ。と、形而上の理由と考える。

だんだんと、冷却保存の息吹を筐体に溜める新たな相棒。その頼もしい姿に期待を寄せつつ考え直した。

一連の不具合は、形而上とか五感や理論で証明できないことではなく、すべて、現実的な理由がある。ここに書いたこと、書くほどのことでもなかったこと、すべての不具合発生にはれっきとした理由があった。

――確かここから始まった。キッチンの蛍光灯の寿命。そして水道の機微な水漏れ。厠の貯水タンク異常ムーブ。謎の膝の痛み。冷蔵庫落ち。オーディオ出力ソフトウェア落ち。これが今月に入って短期間、連続して起きた。どれも、数年に一度あるかないかの事象。だが、一気になだれこんできた。

――蛍光灯の寿命は当然ある。水道の水漏れと貯水タンク異常は物件の水道工事後の後遺症。安定まで数日かかるのは必然。膝の痛みは整形外科できちんと医師の診断を受けてどういった症状か理解できた。オーディオは、原因特定はできないがMac本体のクリーンアップ起動でバグは除けた。すべて、理由があった。だから、形而上の理由ではない。しかし、それでも納得できないという者もきっといるだろう。

「なんで家電故障とか連続して起きるのかしら?」という普遍的な疑問がある。けっこう〝あるある〟らしい。確かに、その〝あるある〟を体験した。それはきっと確率的にとんでもないこと。数年に一度の不具合が5発も6発も立て続けに起きれば卒倒を禁じえなくもなるが持ちこたえてこのように思考を整理、思考ではなく事実ベースでそれを捉えることも今後は必要だと確か、昨日書いた。だからそうするのは必然。よって、総当たり思考ではないけれども、まずは〝あるある〟を疑い、逆に考えた。

「なんで家電の故障とか連続して起きるのかしら?」

「連チャン、じゃないですかね?」

「困ります。そんなこと連続したら」

「困るも何もあなた。故障や不具合を起きるタイミングなんて人間には選べないでしょう。意図的に破壊しない限りは」

「ぶっそうなこと言わないで欲しいですわ」

「だってそうでしょうも」

「何かが一つ起きて、ゆとりがない時に次々に見舞われたら困るのよ」

「ですから、それはランダムに起きるんだって。それを選ぶのご自身じゃないでしょうも」

「とにかく困ります。もうやめてください」

「だから俺にはそれは操作とか選択なんてできないんですって」

「話の通じない人ね」

「いやそれはあなたの方が――」

「ちょっと後ろを向いて膝を抱えてかがんでくださる?」

「やめて」

――代わるよ。普通に考えなよ。誰と話してるの君?――いやその。架空の主婦? わかんねえけどそういう女性と。――最後の何?――七年殺しされそうになった。――その技だか何だか、知ってる人あんまし――まあまあ。――とにかく、連続して不具合があって大変だったね。――うん。ひと段落した。だから考えたんだ。何で連チャンで起きるのが〝あるある〟なのかなって。――何してんだよう。逆に考えたって自分で言ったじゃん。――ああ、そうだった。

逆に、〝家電の故障や生活圏・仕事回りの不具合が等間隔で起きる〟とする。むしろそっちのほうがあり得ない。あったら確実に誰ぞの殺意がその背後に潜んでいることは疑いようがない。それは滅多なことではない。だから、こう考えるのが妥当であろう。

〝連続して不具合を食らうとそのぶんだけ強烈に記憶に定着しやすい上に、思考を神秘方面に処理しがちである〟。たったこれだけな気がする。

等間隔は言い過ぎたが、「稀」が稀の範疇で起きた場合は「その次の稀」まで、双方が紐づかない。だから、「なんで家電故障とか連続して起きるのかしら?」に対する真っ当な答えは「連続して起きたからどえらい災難だって過剰に反応して原因究明を放棄しただけです」だろうか。それが正論だとして、その女性に告げたら七年の猶予すら奪われ半殺しに。というくらい、到底納得してくれないであろう。

それは俺が困るので、白色と黒色が絡み合って円となる「陰陽」のマーク。古代中国の自然哲学に由来する概念のやつ。あれを持ち出して説得するのがいいかもしれない。

〝陰が極まると陽に転じ、陽が極まると陰に転じる〟みたいな考え方があるという。

――だから安心してください。不具合は災難でしたね。でも、連続したことでもう極まったから、今度は白色の「陽」に転じて、きっといいことありますよ! と、肩でもそっと叩いておけば女性は「そうね」と、刃物のような手つきを鞘に収めて手打ちとしてくれるだろうか。

物理的な理にはかなっていない気がするが、〝真理〟がそれだとしたら俺はそれでわりと納得できる。

だがしかし〝人間の意識が量子的な物理現象と干渉し、12の数字の周期の節目でその意識が衝突し、現に生活圏の物理的不具合を引き起こす可能性が現実的にありうる〟という科学的根拠があったとしたらどうだろう。

――ボロが出る前にやめたほうがいいよ。――うん。もうおさまったからどうでもいいわ。――そんなことより……?――うん。新しい黒光りした冷蔵庫が動いてるのさ!――よかったね。――昨日までだったら暴挙と言える危険極まりない「壊れた冷蔵庫にあえて、お刺身を」。――やってたら今日、君のおなかに不具合が出てたよ。――うん。でも今日は新しいの来たからね!――よかったね。――マグロブツ(半額)を待機させてるんだ。ふふ。――よかったね。――なにせ新品だからね! でもこれで「謎に冷えてない。というか新冷蔵庫、さっそく稼働を放棄している」となったらもうね、おこっちゃうよ俺。――いや、それありうるよ。――何だと?――設置後に数時間おいてからコンセント入れろっていう警告のペライチ用紙、君は完璧に無視して速攻で電源を入れたからね。――いや、だって嬉しくて。

キッチンで佇む相棒の扉をそっと開けた。冷凍庫に入れた製氷器の水は、「0℃:水の氷点」を示すべく、艶やかな固体の輝きが俺の目を奪う。冷蔵機能の部屋もだんだんと冷えていてくれた。それは、連続不具合の終焉を無言で告げるようだった。

脱皮にも似た更新を経た。静謐な夜を震わせる微かな鼓動が俺を癒してくれた。今夜は、どれだけぶりかに濁ったグラデーションの不安に苛まれない。気持ちが晴れた。45歳の年末とも言えよう。その時期に陰が急に極まり臨界点を見せてはそれを短期間で超えた。

つまり、明日からきっといいことがいっぱいあるんだろうな。その理由について、今夜は考えないでいいと正直にそう思った。ただ、上のような区切りというのは理由の有無両方で起こりうる。

どちらかが極まっても、必ず、〝陽〟の入り口が待っててくれる。そのように捉えるのが健全ではないかという思惟。今宵の安いマグロブツの鮮度は事実以上に涼味を帯びては参事の熱を滅する露を育むであろう。いやあよかったよかった。
_07/18

 

 

 

 

 

 


45歳最後の日。と、丁寧に生きる。仕事をする。酒を呑む。酒を呑む。この上ないひとときと、今日は断じる。たまにはきっぱり断じる。なぜならばそれは事実だから。

事実として俺は今日ずっと幸福であった。そこに時系列があった。しかし幸福だった。そうなると嘘が混じる。しかし幸福だった。だから、幸福だった。

幸福なんて言語で語り得ない。その先にあることを体験するのがせいぜい。それを浴びては幸福だった。。つまり、幸福だったというトートロジー。それだけだ。

45歳最後の日、それよりも、その次よりも語り得ない。
_07/19

 

 

 

 


45歳最後の日は昨日ではなく今日。デスマッチみたいな呑み方をしていれば日付感覚もバクるのは必然。今日も呑み散らかしては――とはせずに、ずっとループしていた。

正午過ぎに寝る。はげしい生活サイクルだ。そうも捉えられるが今日は何もせずに休んでいるのが吉。そう思い、外出は食事をとりに商店街へ足を運んだ程度。帰りに酒も買わずにダイレクトに戻っては仕事部屋のソファに付いた。そこを起点として意識だけがどこか遠くと起点を行ったり来たり。

ソファの前にちいさな台がある。琥珀色を電流で生み出す器具がある。スマートフォンを裏返しにして置いてある。それは唯一、外界との接点でありターミナルでもある。そこは行き来せずに、ただ横臥してはソファのへりに頭を乗せた。

0時前だった。机でPCを開いて各種プラットフォームから世界の現在を確認しようとする。しかし起点から動く気がまず起きなかったのでそのままでいた。――意識が起点とどこかを、30分おきくらいに往復する。

25時だった。「そろそろ」と思い机に、それから寝室に、と思ったがそのままでいた。26時だった。そのままの思いで意識が起点とどこかを、30分おきくらいに往復。言葉が散らばった。それをまとめたいと、接続部のない意識を統合しようとした。それには文章にする必要がある。それをしないとばらばらのままこんなにも、言葉は散らばるのだなという焦燥感があった。でも、動かずに意識を行き来させているとそれは散らばったまま。そういうものかと、妙に心地よい感覚は完全な停止ではない状態でふわふわとしていた。それはまるで遊具に乗っているかの感覚だった。何も、語っていない。

30分おきに、30分おきにそうだったが、ソファのへりから頭を離したのは早朝だった。散らばった言葉をまとめようとした。でも、寝ていただけの日に起こす言葉をどう接続してもこれくらいにしかならない。ソファで外界との関係をシャットアウトしていた時は確実に宇宙とアクセスしていた感覚があったが気のせいだったのだろうか。

45歳最後の日は過ぎた。その日は、何もしていなかった。何も言葉にしなかった。ただ、ターミナルから次にと。そのための〝溜め〟の一日だった。それくらい、本気で何もしない日というのは珍しい。というかまず、ない。ある種、そこに強制力がはたらいた。

――個人にとっての年末日。きっと、何かに届くこと、得ること、それを見越した上での正確なチューニングを実行したかのような日だった。新年から、これまで以上に面白いくらいに調和するために。
07/20

 

 

 

 

 


眠さの淵をぐるぐるしても止まっていても、まだ眠かった。ふとベッドの脇のスマートフォンを手にするとLINEの通知が目に入った。起きると誕生日を迎えていた。

静かに過ごしたいと思った。一通り身支度をしては鏡を見た。歳を跨いでもいつも通りの視覚だった。まだ起動しきっていない身体を操作するようにして、図書館へ向かった。静かに過ごしたかった。

しかし外は激しい天候だった。散歩を兼ねると命の危機を察知する必要がある。そうも思うが図書館のふもとの公園でしばらく止まり、いつも対面する大木を見た。鼻をそっとあてた。いい感覚だと思い、もう一度あてた。匂いは一瞬で過去にアクセスできる器官。直行のルートを示す。そのはずなのだが「懐かしい」という表象は、その匂いは、自身の過去のどこにも突きあたらなかった。

図書館に行くと休館日だった。それは月に3度か4度ほどの頻度。ここひと月ほどこの場所に3度は来ては3度とも、休館日だった。その連続した偶然がどれほどの確率かと、憤慨を通り越して演算脳が先にはたらいた。その解に何かの意味はないと断じたが、すさまじい確率の事象をここのところよく受けるなと、ただただ不思議に思った。

そのまま、危機や肩透かしではない類のことの確率の方も――と、公募に投じた小説の健闘に思考を向けた。それがどうなるかは、もう少ししないとわからない。今日はそういった営みの足場を固める過ごし方をしたかったが、書物に浸る場所は閉じていた。

炎天下、猛暑、という月並みな言い方よりもさらに削ぎ落とした「高熱」という表現が適切。そう考えながら石神井川に向かい流れる水を見た。いくぶんの清涼を視覚で受けてはその恩恵をあずかり、王子駅へ向かった。予定は逸したが、静かに、という主題に乱れはなかった。

区の施設の高層ビルへ入った。不自然な清涼をあずかった。最上階へ昇り、ゆっくりと、サラウンドに世間を眺めた。高い場所から眺めるだけのことがどうして爽快なのかは説明がつかない。それだけ思い、降った。界隈を散歩した。まだ、激しい高熱だった。それでも苦痛とまでは感じずにしばらく歩いた。静かに、右足、左足と、ただ交差させては何も考えなかった。

交差させずとも自動で移れる場所に行き、気がつけば赤羽駅に戻っていた。買い物をして宅に戻り、高熱を帯びた衣服を替えてソファに座った。そのまま、無音の部屋で横たわる。眠さの淵をぐるぐるとする。

辺りが暗転する手前、ふと目が覚めて過ぎた時刻を確認した。少しおおげさな経ち方だなと、一言だけ感想が出ては食事をした。PCを開いた。ルーティーンをしてYouTubeを観た。DAWを開いて楽曲制作の続きをした。ギターを本録音しては「やけにリズム感が安定しているな」と、プレイバックして思った。採用トラックとして次はベーストラックを――というところで0時を過ぎた。

新たな年齢の初日として、地味な日だった。決起するような出来事や心象が激しく動くことはなかった。しかしそれは、昨日までの数日でそれは表面でも閾下でもきっと、起きていた。その転換をどこかから自ずと眺めるようだった。

警報も驚きもない静かな日だった。それは心地よくもどこか物足りないような気分のはず。しかし、そうでもなかった。ただ、時期を確かに抜けるように、これからどれだけ、どこまで、どうやって、どのように、どこに抜けるのか。境界線がまったくない。

ただ、明らかなる境界線と言える日に、遊泳の寸前で海岸にいるかのような心象の日だった。そこからだと、色々なものがよく見える。でも、はっきりとした客体は捉えずに、ただただ静かに過ごしていた。
_07/21

 

 

 

 

 


個人の脳内の意識が単体として表される。それは、あたかも無やゼロから何かが生じるように捉えられるが、実のところどうだろう。それは、全てのケースにおいて「ない」のではないかと考えた。すると絶望して死にたくなる。何も生み出せないという前提に立つからである。そんなのはいやだ。

だからせめて、ひとつやふたつはないものか。などと躍起に言語や音を出してみる。――出したところで「意識の単体」ではない。言語に関しては、習得したものの組み合わせ。音についても、過去に聴いた音楽の断片を脳内で配合して自身なりに出したもの。

じゃあやっぱり生み出すって無理じゃないか。完。

そこは抗いたい。

だから強引に仮定すると、〝これまでを受け継いで新たに昇華させ、その時代の色彩として世界のピースを埋める〟と、綺麗な解釈しているつもりにはなれる。真実はどうだろう。知らないことの方がいいこともあるかもしれない。

とはいえ、言語を連打していたり音を重ねたりしていると、そのへんは本当にどうでもよくなる。ただ、楽しくなる。そのなかで、たまたま偶然新たな解釈が生まれたとしたら、それは本当に自身から〝生まれた〟などと言っても迫害は免れるのではないだろうか。

でも、本当の意味で「無やゼロから生じる」ということは一体あるのだろうか。そんなこと考えていたら人生を全部使っても「結局のところ、考えなくてよかったやつでしたわ」などと穴のような目つきをしては枯葉を見つめて白衣の失笑に包まれすとんと臨終。それもいやだ。だから普通に創作をする。

――仕事をして、エアコンの効きが甘い状態ではげしく辛い袋ラーメンを調理して食べていたら本気で熱中症手前の淵を見た。これはいかんと、制作中の楽曲をなんとか、清涼・除湿作用のあるサウンドに仕立てようとDAWを開く。鍵盤に通電する。楽譜と鉛筆を机に置く。

基礎ビート、ほぼ最終形のドラムスの打ち込みはできている。和音進行の決定稿は楽譜に記してある。それをワントラックのギターカッティングで録音したテイクも固めてある。つまり、ビートと最低限のコード演奏だけスケッチしてある。そこに乗せるメロディを考える。鍵盤、シンセサイザーでローズピアノのコロコロとした音を選択してはシンセのつまみをいくつかいじる。曲に合うトーンにする。メロディを考える。割とすぐに思いつく。

――思いつく、ということは過去のデータの掘り出し返しだ。と、即座に思う。新しいものを生み出したい。しかし、既述の絶望的冒頭の旨によりそれは否定される。だがすぐ気がついた。

「これは――曲調からして、スティービー・ワンダー的ソウルミュージックや、ジャイルス・ピーターソン的アシッドハウスの文脈だが、そのへんの直系ではない」と。というか、過去に俺が作った楽曲のメロディに酷似している。

じゃあいいか。俺が俺のやつをパクるなら(参照するなら)誰も文句は言わない。というか同一に近いが基礎ビートと和音が異なる。だから別の曲だ。むしろ〝更新〟として扱えば、新たに昇華させ、その時代の色彩として世界のピースを埋めるなどという大げさな納得感に猜疑心は付着しない。

――よしよし。と思い、楽譜に書いたコードの上下の五線にオタマジャクシを並べる。語感はかわいいが老眼も手伝い緻密な記述となる。そのまま、楽譜、鍵盤、楽譜、鍵盤、DAWを走らせて楽譜、鍵盤、ということを繰り返すとカウンターメロディーが同時に飛び出てきた。

これはひじょうに珍しいと一人で興奮している照らすひとつの琥珀色のライトが手元を鼓舞する。しかもメロディと際どく、おしゃれに接近しては離れ、近づいては遠のいて、好意が重なっては頬と肩を同時に殴打されと、まるで惚れ初めの男女のやるせなくも興奮してしまう生々しい若葉同士の関係のようではないかと、一点の琥珀色がそれを明瞭にする。

作業中にそれを一瞬で感じたかと言うと完全に嘘であるが、今思ったのは本当である。とにかく、メロディとカウンターメロディーが同時に、というのは嬉しいことこのうえないと楽譜にすぐ記そうと、記憶が滅する前に固定化させてしまえと急ぎ、まずはアイコスを、鍵盤に横に転がしたその喫煙デバイスを、まずは吸って、整おうと、ノールックで手に取った棒状のそっちはアイコスではなくB3の鉛筆であり、そを本当に口に当てる寸前で思った。「この2つの旋律の重ね合いはオリジナルだ」と。

――たったの8小節をつくっただけでよくもまあ。――よくもまあ。うん。――そんなに楽しいことなの?――むしろ負荷がかかってるよ。――それでもやるのはまあ、いいんじゃないの?――お前にとってはその程度だろうがね。――君にとっては重要と。――最初に俺は言った。――あれね、極端かもだよ。――真理に近くね?――遠いよ。――なぜそう言い切れる?――どうせ君は僕のことを――俺がメロディ、主旋律だとしよう!――だから僕はカウンターメロディーなんかじゃないよ。

〝主旋律と同時に鳴る、もう一つの独立した旋律〟。それがメインメロディと一緒に出てくるなんて滅多にない。嬉しくなったっていいじゃないか。と、率直に思う。

せいぜい、今を生きている全ての環境も自身もこれからも、全てが過去にあった各要素の組み合わせでしかない。「1」「0」の組み合わせで何もかもが再現され、説明もできれば証明される。そういう理屈もちょっとずつはわかってきた。

でも、やっぱり、それを前提に置くと動きが軋む。楽しく生きたい。そのためには、まだわからないという前提で何かに届こうと、何かを得ようと、何かを生もうと、鉛筆を吸う寸前くらい思考をバグらせるくらいでもいいのでは。そう信じきれるかどうかの閾下ギリギリのところでメーターがぷるぷるしてるイメージがないと、ほとんどの場合は止まっちゃうんじゃないかなと、少し思った。

とはいえ、それは本当に少しでいいんじゃないかなと思った。何かに両極端に触れたりすると、そのメーターはレッドゾーンに当たって不可逆な事案になりかねない。そのギリギリのラインで右往左往することで生じる摩擦からは、きっと新しいものが生じる。

何も生み出せないという前提に立つと、生まれてきた全てこのことを拒否することになりかねない。そんなのは一番いやだ。

生まれてきたいろんなことに囲まれて、みんなでああだこうだと楽しむことが、〝その時代の個々の色として、常に動き続ける世界をみんなで彩る〟ことに繋がるんじゃないかなという思索。

メロディを彩るカウンターメロディー。後者がなくても、曲は成立する。でも、あったほうが、興奮するくらいに幸せな気持ちになれる。それくらいでいいんじゃないかなと、ここで止める一連の思考。

きっと、誰かも、こんなことをどこかで考えている。そう想像すると、世界には仲良くなれるものがすごくたくさんあって、それを探したり、合わさったりすること。それこそが〝生み出すこと〟に実は近いんじゃないかな。などと、ちょっと思った気がする。
_07/22

 

 

 

 

 

 


1,000個のインプットを連ねて広げるか、1つのインプットを1,000回深く掘るか。

前者は博識となるだろうか。後者はだいぶ狂っているだろうか。どちらが適切か。妥当か。血肉となるか。表現が広がるか。解像度が上がるか。視野が広まるか。

「一度、自身を通せばそれでいい」と思えるインプット。それは、覚えてしまうからなのか、二度以降は楽しめないからなのか。そこはちょっとわからない。

ただ、こと個人的にわかることは、「一度では気が済まない」「一度では到底わからない」といったインプット対象との出会いが時折あり、そこには、なんらかの重要度や固定化されない変数がたくさんある気がする。

それを完璧に無視して湯水よりも溢れかえるコンテンツにまみれるのが現代的だろうか。それはそれで、俺だってTikTokくらい観て楽しむ――本当に楽しんでいるのかは自分でも謎――うえに、YouTubeショート動画もスススと観ては「何がしたいんだろう」と、自身訝しんではそれはそれで。と、良し悪しでどうこう言うつもりは別にない。二元的には考えないことにしている。

じゃあ何も考えずに「面白い」「興味深い」「なんかある。これは」と、松果体あたりの琴線をわからないように揺らすコンテンツは「それはそれで」と、一度通したら次に行く。というのが道理となるがそうもいかないインプットに取り憑かれた。

要は、ウィトゲンシュタインの書籍とアニメ『頭文字D』を永遠に吸収するのかというほど、現にしている。今日も読んでいた。『D』は、また第一話から観返しては、気がつけば100分近く経っていた。

ウィトはわからなすぎて再読している。意味不明なところはAIを先生に見立てて解読に躍起になる。それが楽しい。

『D』はどうしても、もう一度観たいというシンプルな能動がそうさせた。一度観て理解できない内容ではないのだが、魅力を得ることについては一度きりでは取りこぼし過ぎている気がしてならない、という付加的な感覚がそうさせた。それが楽しい。

「それだとさすがにしつこいし、偏るだろう」という自覚がある。――でも立ち止まって考えた。

「年間で1,000冊読書しました」という人よりも、「年間でこの一冊を1,000回読みました」という人の方が、狂気を通り越して未踏の真理に辿り着くのではないのかと。ひょっとして、だが。

これもどちらが良いかとかではなく、〝どっちの方が深みが出るのか〟という垂直・並行な方面や、〝どっちの方がより面白いことになるのか〟というシンプルな思惟。

それはどっちもバランス良くだろう。とも思うが、それはなんと言うか、こと俺個人がどうするかとなると、振り切った方が面白そうだなと思った。

思い返すと、音楽だって気に入ったCDアルバムなどは擦り切れるほど、本当に盤面の表も裏も物理的に擦り切れたほどに、色んな作品を聴き込んできた。結果、「こうしたいときはこう、これがきたらこう、ここで迷ったらこう」というように、音楽制作においての判断はきっと、いくぶん速く深くなっているという自負だけはある。

だから、まるで蛇口を締めることを禁じられているかのような現代のインプット環境の逆張りをいってみようと、そう意図的にしなくても、そもそもそういう体質だったと改めて振り返っては『D』の第一話から観返すことに「意味ねえぞ」とは全くもって思わなかった。むしろ二周目なのに時間を忘れるほど没頭した。

とはいえ、本気で同じ本や作品だけをループしているのではなく、新たに購入した本も読んだりしている。直近だと、田中慎弥さんのデビュー作。その前は古井由吉さんの芥川賞受賞作。その前はデカルトの情念についての書籍。その前は――と、案外、横にも広がっている。

回りくどいことになったが、基本的には〝気に入った・気になってしかたない・一度では終わらせられない〟といったインプット対象を執念深く蜂の巣になるほど凝視することは個人的には妥当。ということに帰結する。今のところの帰結。今後どうなるかを決めるのは危ういので、今のところ。

つまり、〝変わってはいけないことを譲らない態度〟という頑固な根っこが、ふいに、取り憑かれるようなインプットに張り付くことに疑いを持たない。それが、今後どのようなかたちで表面化するのかをどうにか証明したいのではないかなと思った。

「すさまじく時間の無駄でしたわ」という述懐とは決してならないであろうことは、何度繰り返しインプットしても得るものが確かに感じられる。本気でそう思えることが、それを物語っている。

そうであって欲しいなと、インプットについてしつこく考えるとあと何文字必要かと予測的に演算するもきっとこれ以上は冗長。ほんとに。

「繰り返し楽しめる対象に出会えたことが素直に嬉しい」。その一言で済む話なのではないかなとも思うけど、そこを結論づけたかったのではなく、インプットがどうこうよりも、いかにアウトプットをどうしたいかという祈りを言語化しただけなのかもしれない。だからさっさと酒呑んで寝よう。酒は執拗に深掘りせぬよう気をつけつつも。ほんとに。
_07/23

 

 

 

 

 


感覚的に素晴らしく出来ることに、理論の裏付けがあれば最強となる。というのは、しつっこいインプットのなかで学んだことのひとつ。

それは、積み重ねの感覚の成果や結果やパフォーマンスを、誰もがわかるようにどう説明できるかで、再現性が可能となる。さらには、その伸びしろのレイヤーが広がり、深度も重厚にもなり得る。

それで全部言うこと終わっている気もするが、どうも言っていることの抽象度が高くも思える。

なんとかならんかとふと左を見た。楽譜があった。さっきまでえんぴつで老眼を酷使して書いていたやつである。

好例があるじゃないかと、五線紙上の音符を眺めては「楽譜立てから少し離れるとよく見える」という加齢の現実の解像度は高くなるがそこではなく、〝理論の裏付け〟の好例がまるで法則のように記してあったことに気がついた。

――「調(キー)」の各音から外れた音には「♭」や「♯」がつく。それらが全体の半分以上を占めていたら、いわゆる変態的楽曲となる。理論上、そうなる。それだと作っている俺がまず吐きそうになるので「調」に準じた音が半分以上を占める。それは感覚的にやっている。

しかしそれだけだとひじょうに面白くないので外れた音をいくつか入れる。それは、主旋律でもそうだし和音もそう。

その〝調から外れた音〟が、一般的な人間の感覚で「ここですよね」というところにカチリと配置されてあると、そこが鳴った時にエモさが出る。それがないと如実に眠たい曲になる。だから、たまに入れる。

その「たまに」の頻度と配置に法則性があることで「ここがこうきてこう、そこからこうですよ。これ。これです。ここの外れた子がここに居ることによって興奮が誘発されるんですよ」と、説明がつく。

それを精緻に理論的にじっくり表すとしこたまめんどいことになるので抽象的に言うと、「ドキッとする音」「危うい音」。こういうのがたまに置かれていないと死ぬほどつまらない曲になる。

リズムにも同じことが言える。アレンジパートにも。演奏の揺らぎにも。音像にも。と、キリがないというかほぼ全てにその法則があてはまる。それが、体感的には「8:2」くらいだと思った。

8割は正攻法。2割は外す。後者の2割があることで前者に戻った時の景色がビビッドに輝く。その2割がないと、ずっと同じ景色を見つめながら思考停止しては数年も溶けては気がつけば病床での横臥に辿り着けるほどの曲になる。それはそれで凄いのだが、別のルート。迂回。

何が言いたいのかと言うと、「一般的に〝これこれ〟という感動や快感に直結する要素を数字にすると『8:2』の法則が適用される」という裏付け。それが、さっきまで書いていた楽譜として、譜面立てで主張している。

――物語を観ていて思った。「溜めるね。溜めるねえ。ずいぶん溜めるね。まだ溜める。お、きた。ここか。待ってました」という場面が一括りあるとする。その「溜め」は場面の8割くらいで、案外、ハイライトや決め手となるシーンは2割くらい。一緒じゃないかと思った。

――小説を読んでいて思った。「つまんねえな。文体の感じはすぐにわかったけど。これは綺麗だしなんかいいよね。でもつまんねえな。なんか普通に進んでることは理解できるけど――まだつまんねえな。……おや。グロい。いきなりきた。倫理的に大丈夫か、おお、なるほど。なんてこった。あ、元に戻ってきた。おや――」という、平坦な部分が8割くらいで、興奮するような描写――または理解不能な箇所――は2割くらい。それくらいだと、部分を楽しむのではなくパッケージとして全体を飲み込める。そして、楽しめる。

その感じ方は人それぞれだと思うが、こと俺個人はこの「8:2」くらいの法則を適用させると、〝逸脱と退屈さが両極端に暴れようと、全体の均衡がとれる〟という裏付けとなるのではと仮定した。ここで決めちゃうといろいろ台無しになるので仮定。

それこそ8割はそう思いつつ、2割はずっと疑い続ける。という態度が基本的にあるのもいいかもしれない。

とはいえ、その理論だか法則を「裏付け」としてとうとう獲得したぞと全てに適用すると人間放棄できる。

だから、「そういう法則もあるよね」くらいにバックグラウンドに置いておき、10割疑って10割謎のまま感覚的に受けたり出したりする。それが一番面白い気もする。

じゃあ結局どっちなんだよ。と、誰かに凄まれれば――君はいつも何かを固めようとすると誰かに凄まれがちだよね。――ちょっと静かにしててくれ。

手法は常に決定しないが、基礎概念の共通項はグラデーションで捉え、「ここは黄金比だ」と気がついたらそこは下手に疑わないこと。〝ここは既に決まっており、それを疑うことはナンセンスである〟という箇所を捉えられるか。

「いわゆるアプリオリを崩そうとしても無意味である」――みたいに、ほぼ一般的ではないカタカナを混ぜるように「2割」を散りばめる。それが上手くいくとセンス良しとなるだろうが、急に思い出したように「アプリオリ」などとほざくと失敗に直結する。

とはいえ、割合の妙というのはやはりあるだろうと今日、インプットとアウトプットの両面の領域で考えた。じゃあ、酒も実はそうかな、と必然的に考えた。

――ホッピーと焼酎(アルコール度数25%)の黄金率と言えば「5:1」。ジョッキに焼酎「1」。キンキンに冷やしたホッピーを「5」の割合で注ぐ。氷を入れず、ジョッキと材料、全て冷やす「三冷」で、かき混ぜずに飲むのが公式推奨の美味しい飲み方です。――

だと? そんなこといちいち考えて酒呑んでたら正気が醒めるわ。「2割」の狂気に足をつっこんで浸るためにこっちは考え抜いて酒を、いや、何も考えずに美味しく酒を、割合? 理論の裏付けですか。酒に理論も論理も論考も根拠も説明も証明も前提も帰結も要らねえんだよ。俺はね。あと言っておくと居酒屋でホッピーを頼むとほぼ確で「氷」は入ってるものなんだ。公式推奨だかなんだかに則って「氷」が入ってないジョッキ前提のホッピーセットがテーブルにドンと来たら激昂を通り越してむせび泣いてしまう。そんな上品なホッピーはいやだ。

――君は何を怒ったり泣いたりと。――適当でいいんだよホッピーの割合なんて!――あのね、途中までわりと惜しいところまで言ってたのに。――どこ?――どこじゃないよう。酔っ払ってるの?――全く呑んでないで書いている。――理論で作品の濃度っていうの? それを惜しいところまで言ってたのに台無しだよ。――台無しだって? 結局その繰り返しじゃないかなと思ってね!――そうかもね。――だろ?――でも酒の呑み方にはね、帰結だっけ? ちゃんとそういうのあったほうがいいかもね。

とのことである。
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俺は、類い稀な大金持ちである。類い稀な大金持ちは、誰がなんと意義申し立てをしようとバケツになる。だから、俺はバケツになる。

気が狂った訳ではなく、至極真っ当に筋が通ったことを言っている。しかし意味不明なうえに事実と異なる。

とはいえ筋が通っているし矛盾せず、体系もある。だから、おかしくはない。だが、説明がつかない。つまり〝他方では、おかしい〟ということになる。

「前提として、平吉がそんな大金持ってないでしょうも。五百歩譲って、まあ、そうなったとしましょうか。それで、どうしてバケツになるんですか。人間という生き物が無機物に変化することは物理的に無理です。あと、平吉が大金を握っても別に文句を言う人はいないでしょうも。よかったですね。そして、バケツになる必要性はどこにもないでしょう」

と、意を唱えてくれる人がいるとする。正論である。理屈ではそう。間違いなく事実を語っている。しかし、俺が言っていることはおかしくはない。〝真〟と〝偽〟なんてどうでもよくて、俺は筋が通ったことを言っているということに変わりはない。

――とうとう頭やられたんだね。暑いもんね。赤羽も全国も。――そうじゃないんだ。――いや、いいよ無理しなくて。疲れてるんじゃない?――そうじゃないんだ。――ちゃんと仕事したもんね。うん。もうお酒ちょっと呑んで寝なさいよ君は。――ここからが本題なんだ。――長くなるやつ?――あと三段落でキッチリまとめる。――頼むよう。

「論理」と「理論」の違いについて俺は今日までうまく説明ができなかった。ということは「知らない」ということと一緒。それはいかん。と思い、「論理(ロジック)」と「理論(セオリー)」の違いについて、AIと徹底的に壁打ちしたというか教えてもらった。

結論、凄まじく削ぎ落として言うと、「論理とは、物事の筋」「理論とは、物事の理屈」。ということになる。そこに落ち着くまでかなり時間がかかったが、やっと理解できた。――そこから普通に過ごしていたらだんだんと怖くなってきた。理由は簡単で、〝この世の成り立ちは「理屈」ではなく「筋が通ってるかどうか」で制御されているのではないか〟という思考が生じて、あらゆることにその思考をねじ込んだら「そうなってる」と、思えてしまったからである。

真偽や善悪。正しいか誤りか。理屈でそうだから正義かどうか。実のところ、それよりも〝筋が通っている〟という〝説得力〟が、ほとんどのことを動かして、ほとんどの人はそれに準ずるという「仕組み」となっているのではないかと考えた。そうであれば、正解も誤りも、「論理」という筋と体系の前では陰が差す。

――はい、三段落だよ。ここまでだよ。――わかってるよ。ほら、まとまったっしょ?――どうかな。極端だね。――筋、通ってないかな?――そこじゃなくて、なんでそのふたつだけで物事ぜんぶ考えるかな。――こう、削ぎ落としてだな――僕は違うと思うよ。――何でだよ。――単語ふたつわかったつもりになって大きな風呂敷を広げるのがまずおかしいよ。――どこが?――それを疑わないこと。――ああ……――昨日さんざんそれを言っておいて何してんだよう。

「論理」と「理論」の違いについて理解したつもりが螺旋思考になる。水を入れて、ぶっかけて、また水を入れて、ぶっかけて、そうか。どうしてバケツという語彙がカットインしてきたのかだけは、論理的にも理論的にもよくわかった。つまり俺はバケツなのかな。10年以上、俺はここに「バケツ」という単語を一度でも書いた記憶は今日までない。じゃあ合ってるのかな。疑えているうちはきっと、螺旋が止まらずくるくるくるくると。
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何かを言おうとする時、人はふいに言語を拒否する。

それは代替的である。

なぜならば、整合性に向き合っては打ちのめされるからである。

足立房文がいる。ヨディーがいる。よしおがいる。

彼らは仲間であるという俺のロジックがある。だからそれは絶対である。

でも、足立くんはまるでトコロテンをいなすかのように簡単に俺をいなす。だから絶対ということは破綻する。

だが、三者以上が居る。それは例えるならば、幹がいつのまにか太くなっては互いに謎に思う愛を怪訝に思うことに対する疑いを、それこそ、なんだかんだとブツブツ言っては水を。

そんな関係値に不意打ちを食らうと目が輝く。

だから、などと回収するべきではない。だが、何かを言おうとするときに、人は必ず言語を拒否する。なぜか。しこたま簡単である。

言語は、拒否の代替だから。とか考える暇があるから酔いどれる。その証拠に、敬称が略されている。逆に、敬意かな、と思うのは俺の家畜的論理かもしれないが、どうか、感謝が歪曲せぬように。

などとおもうならばストレートに言うべし。以降、蛇足なのがつらいが今、思うのは、端的って気持ちいいね。俺は今日、固有名詞以外何も言っていない。そして、彼らがいて今日が成立したと言う事実しか言っていない。
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ふと今日だと思い、墓場に行った。しかし後ろめたい気持ちがあった。家族の墓場に向かっていいものだろうかという罪悪感は管理費未払い起因である。ここ数年、払った記憶がない。しかし、催促なし。だから、墓に向かう案外涼しい東京都足立区の道中、「そもそも、あるかな」などと墓の存在自体を本気で怪訝で向かった。途中でコンビニに寄った。

赤と白の小ぶりなワインが買いたかった。赤は、父親用。白は、母親用。という風に考えていた。しかし陳列されているのは本気のボトルのワインだった。じゃあ、と思い、冷蔵庫に直列に並んでいるスパークリングのそれぞれで手打ちかな。それぞれ280mlか。などと思いそれを買った。15分ほど歩いた。

墓地に入るとまずは線香を買うべく100円払う。それが流儀だと思った。しかし俺にその資格がないと思った。だから買わずに――一般的にはよくないと思いながら線香が買える古風なカウンターを一瞥すると二人がいた。なんらかの工事中だった。しめたと思い、線香は放棄して隣の水場で桶に溜めた。中学生の頃の喉の渇きを彷彿とさせる水道をふたつ稼働させて。

「ほんとに墓がなかったら俺はきっと、よくないんだな」と、思いながら墓地を歩き平吉家の墓に向かった。「もしもなかったらどういったビジュアルの更地か」と想像しながら。しかし普通に黒光りする墓があった。「それはそうだろう」と安心し、水をたくさん墓にかけた。夏にしては暑くなかった。

赤と白のスパークリングを供えた。手を仏の文脈で合わせて目を閉じる。それは何かが違うと思った。だから直立不動で墓に念じた。それも違うと思うと欧米圏の手の組み方を自然としていた。それも違うのであろうが、とにかく線香すら炊いていない時点で全てが違うと思い、ただそこで念じた。現状の俺を念じてはその場所はセーブポイントであり、本来の墓参りの流儀とは乖離していることを自覚しつつ、赤と白を交互に呑んだ。線香の代わりではないが、なぜか必要だとあらかじめ感じていたシガレットをそこで炊いては、吸い吐きした。両親に、何かを言った。報告は終えた。

――東京都足立区鹿浜といえば焼肉「スタミナ苑」で有名だ。俺はその界隈で30年ほど過ごした。当該店にもゆかりがある。だから、そこに向かい口のきける2つ年上の店員の方と挨拶し、並んだ。ミックスホルモンという人気メニューと酒を一杯こなしてくつろごうと考えていた。しかし思いのほか、並ぶ時間が長かった。

――「また来ます」「うん。ありがとう。酔っ払ってる?」と、彼は鋭い考察を笑顔で述べた。墓場で呑んだとは言わないことにした。その足で、元・実家に行った。物件の301号室がそうだ。

その上は屋上のスペース。そこまで足を運んだ。でも、なぜか望郷の念は薄かった。――階段を降りた記憶が薄い。その界隈を懐かしむそれも。――ただ、そのまま帰路のバスに乗っては赤羽に向かい、よく行く立ち飲み屋に寄って少し、呑んだ。いつもの若鳩店員は元気だった。常連客と口をきいた。そんなに、俺は呑まなかった。

だが、帰宅してふと財布を覗くと「おこづかい」コーナーの位置にあるはずであった6千円くらいがない。それを何に使ったのか覚えていない。立ち飲み屋で使うのは、いっても2千円がせいぜいである。ではなぜか。記憶が消し飛ぶほどの飲酒量ではなかった。しかし本気でわからない。――それがどうもたまらないのだがすさまじいダメージではないことは事実なので「忘れて、稼ごう」という思考に帰結させた。それが今である。

なぜか、急に必然と断じる気分で墓場に行った。そこで酒を呑んではアメリカンスピリットを炊いて念じた。有名な焼肉屋に見透かされた。住所近所の酒場でリラックスした。それだけの休日だった。

――気がつけば朝なのか夕方か、どっちの5時かわからず、AIに「東京都はいま何日の何時ですか」とプロンプトというか質問をした。朝の方だった。

今日ほど日記らしい日記を書く日も珍しいと思った。墓場に行った事実は見上げたものだと思い、ただ、それだけだった。現地でも、ここでもと、たったそれだけの日だったが不思議と、そこまで呑んではいないのだが記憶がどこかばらばらであるのが本当に不可解である。

疲れていたのかな。家族に抱きしめて欲しかったのかな。でも流儀をすべて飛ばした。だから、おかしいのかな。それこそが全てかな。という気持ちでしかない変な午前で今に至る。

ふらふらとしていては、すごく変な日だった。
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すごく変な日は続いた。寝たり起きたり。それを繰り返していただけと思えど、いつもの酒場に行っては若人やら女史やらおっさんたちを物理的に抱きしめて少額で呑んだ。カラオケにも行くという珍しさ。それらをきちんと覚えているのはある種、ちゃんと、などと思った。

気がつけばソファで深夜だった。いかん。とは思わずに上の記憶を確かめた。「そうかあ」と思いつつ水をたくさん飲んでは体力を確かめた。そうか、と思っては足りないのかなという感触のタバコを吸う。

要するに今日は特筆して何もしていない。曖昧な記憶が寝たり起きたりしては今、それを確かめては「そうかあ」と思った。すこし、頭が痛い。それだけの日だった。当然文字量なんてこんなもんであることはたいへん、正直だなと思う。
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五線紙がどんどん小さくなっていく。それは物理的にあり得ない。しかし、やけに小さく成り果てた線上に鉛筆で黒く、丸く、縦に線を、16分の1の音価の距離とその音程をアナログに記す。なぜ、それが物理を無視した辛さとなるのかと考える必要性はどこにもない。老眼なんだ。

そもそも現代においてそれを考える必要性は本当にないのだろうか?――と、おそらく事実に反する疑問を帯びせつつ、楽曲のメロディを楽譜に記す。それは、残すためだろうか?

楽譜に記さなくても音楽は残る。痕跡として最終的に残るのは音源であり、「M-431」と左端に書かれた当該曲の手書き楽譜なんぞ〝必要性〟で言ったら、ほぼない。共有の楽譜ではなく、俺が制作においての記録として書いているだけだからである。

とはいえ、誰の目につくかと言ったらあるにはある。たまに仕事部屋に来る友達が一瞥するくらい。ここに来る来訪者の9割は音楽人だから「真面目にやってるね」くらいの一言は与えてくれる。

――いつだったか、それを一瞥しては「どれどれ」という体制で鍵盤の前に座った者がいる。彼はプロの音楽人であり、鍵盤は専攻楽器。俺はDAWを立ち上げると同時に演奏可能な状態にしては彼を眺めた。その時、探るように俺の楽曲を楽譜を見ながら演奏した。たったそれだけの光景と、楽譜から再現されたメロディが、和音が、もちろん同時に演奏する足立くんが神やら仏のような形而上の存在に思えた。直線で俺の楽曲を実演してくれたことがやけに嬉しかったのである。

〝楽譜と鉛筆書き〟という、音楽制作や演奏に携わる者でもなければ、それは五線紙上でのたうち回るランダムな黒い粒子の動きのようなもの。オタマジャクシ状の玉と棒と半円状の線とアルファベットの羅列に数字、記号と、法則性があることを主張すべくギリギリの筆致で記してある。はっきり言って暗号である。だが、見る人が見れば、その紙を見ながら「こういうことがしたいんだね」と、現実として目の前で音楽を奏でる。おかしな話であると同時にアメイジング。

それはまるで、他人の表情を見ただけでその身体や精神の状態を正確に言い当てるようなもの。

楽譜で音は鳴らない。強引にそれをするとすれば、紙をこすってシャワシャワ鳴らすのがせいぜい。だが、彼は成立した音楽として鍵盤を奏でる。暗号は、引き合いの状態が正しければ、サウンドに化ける。それが奇跡的でなければ一体なんなんだと、ちょっと考えると感動すらする。だが、現代においてその手法はあまりにもパフォーマンスが遅い。

「楽譜に書いて、記録して、それを見ながら練習して、習得し、ダイレクトにDAWに演奏として録音する」。これは現代において、古風な手法を通り越している。楽譜に書いている時点で3世紀前。

「自動演奏してくれるMIDIで打ち込み、あとからいくらでも変容させられるようにプログラミングする」。これは現代的。あきらかにこっちの方が速い。だが曲調によっては、それをした時点で何かが死ぬ。それがたまらなく好きではない。エレクトロミュージックを作る時は当然MIDIを使うが、生演奏主体の場合は、何かが死ぬと急に説得力のようなものが戯言になる。

「AIにプロンプトを投じて一発で音楽を生成する」。最新の作曲法であろう。それは正直、魅力的すぎるテクノロジーの最果てなのかもしれない。俺だってそうしたい。しかし、それをした時点で完全に死ぬ。と、現状では個人的にそういった偏見がある。だが、AI作曲はきっと、いつか近い将来にいろいろ席巻する。わかりきっていることである。俺もその頃はそれ、やるでしょ。と、普通に思う。

――鍵盤の前にふたつ立ててある楽譜台。そこに何枚も自作の楽曲の楽譜を並べてある。これに大した意味はないのだが、「1」と「0」の演算だけで全てを再現できる領域とは真逆の現象として残しておきたいという執念の象徴なのかもしれない。

――近い将来、AIで音楽をつくるだろう。アナログ手法と混ぜるのかもしれない。そのへんはいまは、さほど真剣には向き合っていない。眼圧に人力コンプレッサーをかけてまで鉛筆で記すのが現状。――その将来、昔はこんなん書いてたな。などと、ふと、昔の楽譜を引っ張り出すかもしれない。もちろんどう弾いたか忘れている頃になっているであろうから、楽譜を見ながら演奏するだろう。すると、きっと、そこには数値化不可能な感動や悦があると思う。将来にそんなしちめんどくさいことをするのかどうか、それはわからないが、単純に「楽譜を書くのが好き」というだけの話。今日はその一点しか言っていない。

五線紙がどんどん小さくなっていく。それは物理的にあり得ない。しかし、現実のツールとしては、本当にどんどん小さくなっていく。

そこに異論は全くない。なくなったって文句もない。でも、いまも、いままでも書いては、書いてきては、楽譜に残した痕跡は物理的になくなることもある。破いたり燃やしたりすれば一撃。

でも、書いてきたという事実は確実に消えない。そして、そうやって残す世代の最後の役目なのかな――などと仰々しい結尾とは言わないが、大事なものは時間効率度外視で、〝大事さ〟がなくならないように残しておきたい。

――ということしかやはり言っていないが、一言で済む話を膨らませる記録というのもきっと、同じことが言えるんじゃないかなと少しだけ、思った。
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仕事をして、合間にAIと壁打ちをすること何時間だろう。その結果、脳はブドウ糖ではなくケトン体で稼働するようになり、つまり通常のガソリンではなく自家発電のハイオクで脳天から発煙するほど執拗に稼働させ続ける。そういう働き方はいかがなものか。

見上げたものだと思う一方、夕飯を食べた記憶がない。昼間に感心するほどおいしいラーメンライスを平らげてそこから今に至るまで食べていない。だから、そのハイオクのなかなかパワフルさに嬉しみつつ手を動かし続けたのだが、全く疲れを感じない。それは簡単な理由で、ハイオクでトップギアに入っているものだから妙に冴える、という理屈になるだろうか。

――仕事をしつつ、何をAIと壁打ちしていたかというと、読書の文脈である。『論理哲学論考』という、冷徹なまでに容赦のない記述が番号と共にならぶという変わった哲学書をここのところ再読していた。二周目である。

最初の通読では一割も理解できなかったから、AIにガイドしてもらいながら二周目。すると、二割は理解できたかなという所感。くたびれてしまったが著者のウィトゲンシュタインというこれまた冷徹な、言葉選び一つ間違えたらキレ散らかすのではという人物(厳しい人物であったのだろうかという敬意をもった想像・表現)が〝どういうつもり〟で書いたのかを解読したかった。それが原動力であると同時に、シンプルに、彼に魅了されたというのが本筋である。

文献による一次情報によると、彼はいろいろとすさまじい。

どの点がと、ひとつだけ挙げると『論理哲学論考』の原型となる日々の思索を書き留めた「ノート(手帳・日記)」は、第一次世界大戦の最前線に自ら志願して砲火に晒されながら執筆を続けたという。気合いと覚悟と執念のフェーズが異次元である。

「どうしてそこまでするんでしょうね」という俺の興味はそれをどうしても軽視できなかった。「一回読んだけど意味がちょっと、というかほぼ全部――」などと、無下に放る気にはなれなかった。そんな気迫の化身みたいな学者の主張、証明、学術的境界線をちゃんと理解したかった。同時に、こっちが本丸だが「一体どんな人物なのだろう」と、隣に一緒にいるくらいの気持ちとして彼に触れたかった。その書籍と共に。

でも、まだ二割もわかったかな、くらいなのが悔しいが、そこから派生したことがいくつもある。そのうちのひとつは、次の「選書」に繋がった。だから今日、早速その本を発注した。

ウィトゲンシュタインのすさまじい難読書には言語だけではなく、数学的表記や謎の暗号としか俺には思えない記述が容赦なく「知っているのが前提」というくらい普通に出てきてはそれを前提知識として知らぬ場合は時速200km/hの慣性ドリフトくらいの速度と〝G〟の圧で振り落とされる。だから、二周目を読む際は、ほぼ反則なのかもしれないが、AIを駆使した。

というところまで記すも正直、「バキバキの理系出身の哲学者が書いた小難しい歴史的書籍を二回読んだがまだ難しい」としか言っていないことになる。それはそれこそ前提であり、主題は「そのなかで、次の選書のラインが明確に見えたのが今日だった」というもの。

――選書した著者について。彼は、これまたゴリゴリどころか噂によるとIQ300とかいう尋常という観念を銀河に飛ばすほどの天才数学者。名を、ジョン・フォン・ノイマンという。

「ノイマンといえば、現代のコンピュータの基礎を作った数学者」として名が知れている。俺もその部分だけは知っている。しかし、ボキボキの文系であろう俺は「触れたら焼ける」くらいに思っていたので追求してこなかった。だが――ウィトゲンシュタインのその本をちゃんと理解するには「理系の知識」が確実に必要だと思い知ったという理由がある。

だから数学を基礎から――という立派な態度があればな。なくもないけど、なんか裏道ないかな。と、AIといろいろ対話していたら一冊の書籍の名が出た。『計算機と脳』というタイトル。面白そうじゃないかと食指がビックビクした。

――なんでも当該書籍は、ノイマンの晩年の遺稿的なものであり、〝人間の脳はデジタル的(「1」「0」演算的)なのか、連続するアナログ的なのか〟という根幹があるらしい。その発想はなかったと思った。数学的なことはまだまだよくわからないのだが、脳の分野の本はいくつか読んできた。そういうの、なんというか肌に合う。だから適切な選書だと考えた。

「とはいえIQ300とかいう人類最強レベルの方の遺稿が俺に理解できますかね」と、最初からAIに音を上げた。すると、実のところ「そんなに数字とかがバンバン出てくる系ではなく、案外親切丁寧な内容。『論理哲学論考』よりもむしろ――」などと背中を押された。

持論として、脳細胞とかニューロンとかのはたらきは、単なる「連想の連続」だと思っている。合っているかは知らない。だが、その正体がきっとノイマン書に記されている気がしてならないので、それは食も忘れてケトン体でいまこうして。不思議なもの、というかハイオク的な燃料で動いているであろうから全く苦なく――。

――長い。あまりにも長いよ君。――疲れないんだ。――自分で言ったよね君。ハイオクって。――うん。すこぶる集中力がとぎれないからそうかなって。――それは違うよ。サブバッテリーみたいなものだよ。――そうなの?――うん。だから、冴えるのはそれだからじゃない? ごはん食べたほうがいいんじゃない?――ノイマンのくだり、途中なんだけど。――とにかく長いんよ。僕がまとめてあげようか?――頼もう。

理系で数学教師も務めたウィトゲンシュタインの初期の書籍を二度読んでも、全ては理解できなかった。でも、もうちょいだと思ったところに、AI経由でノイマンというモンスターの名が示された。食指を動かされる書籍をレコメンドされた。だからすぐ買った。

――これだけでしょ?――それだけである。――あと何かある?――おなかすいた。――さっき「まいばすけっと」で砂肝とあつあげ買ってたじゃん。――そうだった。――お酒も二本、律儀にさあ。――少ない方っしょ。――でも文字量が多い。僕が止めるまでのくだり、文章むちゃくちゃだからね。――……なんか急にくたびれてきたから推敲しないで放っておいていい?――だめだよう。読めたものじゃない。僕がやるから。――頼もう。あと一言だけ。――ひと段落だけにしてね。おなかが抗議してるから。

ウィトゲンシュタインが命がけで執筆した『論理哲学論考』を二周読み終えた。即日、次の選書が一発で決まった。著者はノイマンである。とてもそそるので、とても嬉しかったです。

――今日、君はそれしか言ってないからね。――うん。
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ワードプレスの「ビジュアル」画面、つまりphp言語のコードなしで編集できる白い画面、つまり今書いているここなのだが、そこに向かうとふいに、「7月が終わる」という刹那の気持ちが部屋のエアコンの微音と同期した。

誕生日の月ということもあり、いろんな方によくしていただいた。祝福の言葉をもらった。物品をもらった。盃を交わしてもらった。嬉しみが連なり、個人の祝日当日のみならずそれは重なった。それが、日照りの本番を迎える前月で案外、と涼しさが増すかのように寂しげに閉じる気持ちが確かに出た。

――今日も普通に、昨日は普通ではなかったかも知れないが今日は、適度に仕事をしては動画などを閲覧していると、光が屈折して差し込むような気持ちがだんだんと深海に向かうようだった。思わず、横になった。ふと、ある思考が底に届く手前で横に広がった。

自分の存在意義や行為の価値を評価するのは誰なのだろう。自分なのか、誰かなのか。それは、決して考えてはならないことなのではないだろうか。

それを横たわって考えた。――例えば、仕事の成果に満足する。しかしそれは看過される。だけど自分では「よくやった」と思っている。評価はどっちなのだろうか?

逆に、その成果に自分は大した満足はない場合。でも、他者からは「よくやった」と称えられる。それが真なのだろうか?

人と関わって「どうだったのだろう」と回顧する。自分では微妙だったかもしれないと振り返る。

しかしそれは、その人からしたら「とてもよかった」と、のちにそのような反応として評価される。

良かれと思っていた行為が自分では過ちだと思った。しかし、誰かからは、問題であると自分が断じた行為に対して生産的な意味で再現を欲される。真偽はどうなっているのだろうか?

それは、決して考えてはならないことなのではないだろうか。仮説として、その理由は「真偽のどちらかに偏る」こと。――極端にすべてが〝真〟であること、あるいは〝偽〟であること――両方いずれかであると、人はきっと破綻する。すべてが〝真〟であってでも、というのが思考を強制ストップさせる。

この世の成り立ちは真偽両方の絶妙な均衡と、停止しない前提での螺旋の運動で流れ続けている気がしてならない。

だが、それは考えることでは――などと、気がついたら90分近くソファで眠っていた。机に向かった。DAWを開いてシンセサイザーに通電した。着手中の楽曲のメロディと内声、両方同時に演奏する必要があるパートを弾いた。

G_7  C7/E|F△7  B♭/D|E_7(♭5)  A/C#|D△7  D#dim|E_7  A/C#|D△7  G|C#_7(♭5)|C△7  C#/A  B_7|E|Esus4  E|

――というセクションである。ややこしくみえる記号の連打だが、実は単純なコード進行である。普遍的な音楽理論に則っている。〝ツーファイブ進行〟という、ジャズでもポップスでもよく使用され、現代の音楽シーンでも散見されるアプローチ。それを俺なりにアレンジした楽曲背景の土台である。そこに乗るメロディは、単純である。

しかし、記号の羅列にあるように「♯」や「♭」という、キーから外れた〝真偽〟で言う〝偽〟とも捉えられる立ち位置のノートもいくつかある。そして記号の羅列の全体は一つのセクション(Bメロ的な部分)なのだが、セクション内で転調している。それが、そこを抜けると元に(Aメロ的な部分)戻る。

セオリーをイジって工夫したちょっとしたトリックなのだが、ここだけでも真偽の螺旋があきらかにある。ただそれだけの話であり、普通に音楽として聴くとなんら不自然さは感じないように成立させている。

――ワードプレスの「ビジュアル」画面に文字を重ねるだけ。今日もいつもどおり、日の締めにここに言語を連打しているだけなのだが、そこにも真偽があるのだろうか? 俺は大原則としてここに嘘は書いていない。

だが、嘘を少しは――2、3割くらいが黄金比だろうか――書かないと、それこそ嘘なのではないかとも思えてきては、みえない部分で「1」と「0」だけで演算して日本語を「ビジュアル」に出すコンピューターに真偽を問うとすれば――「両方使わないとバグります」などと答えるだろうか。

同じ演算で無限ループにはまるとコンピューターは固まる。人間も同様である。だから、決して考えてはならないことは、和音のツーファイブ進行のようにうまく逃がしたり転じさせたりしてはどこかで解決させ、成立に向かい、またぐるぐると。そういうものなのかなと考えるとそれは健全。きっとそうだ。

――だからなのか、生活時間の軸としては逆にして冒頭を記述した。それは、ワードプレスを開く前にそんなことを考えており、そのあとに、誕生日の月の嬉しみが網羅して、生産性には繋がらないバグを回避させた〝機能〟なのかもしれない。

真偽とバグの繰り返しで発展するのがほとんどの営みという帰結は危うい思考。だが、〝真〟なのかもしれない。ただ、その思考を屈折した光として沈めていくと底で窒息しかねない。水面に上がれば簡単に直線の光を浴びられるのに。

もしかしたらだが、全てに通ずる法則みたいなのがあり、そのほとんどはアプリオリなのかもしれない。

――「あらかじめ決まってること」って言いなよ。――うん。アプリオリはそう。疑う意味のない前提や事実ってことだよね。――それを君はいま、やってるんだよ?――そうじゃない。――そうだよう。「1+1=2」を延々疑ってるようなものだって。――そうなの?――だって自分で書いてるじゃんよう。――ツーファイブのコード進行のこと?――うん。あれは疑わなくていいやつのいい例じゃん。――厳密にはだね。――いじることもできるけどって言いたいんでしょ?――でも結局はどこかに帰りたがる進行だよ。――ほら。決まってんじゃん。――うん。つかお前は〝真偽〟のどっちなの?――だから僕は君の係りの者だよ。――ふうん。――ちょっと遅れたけど誕生日おめでとう。――ありがとう。――うふふ。――ふふふ。

螺旋の動きや行いに淀みが生じると修正を入れる係り、か。

――ぜんぜん違うよう。――なんだって!?――いつか伝わるといいね。――何が?――ぐるぐるしてるそれだって。――俺は今日、ぐるぐるしていたのかい?――ずっとだよ。ほら、今日も長いし。何してんだよう。――そうかな。つか何でかわかる?――わかるも何も、僕はそんなこと考えることはしないよ。最初っから知ってるもん。――嘘つけ。――〝それは、決して考えてはならないことなのではないだろうか〟だって。うふふ。――バカにしてんだろ。――それね、じつは何も言ってないこととほぼ一緒ってわかる?

自分の存在意義や行為の価値を評価するのは誰なのだろう。自分なのか、誰かなのか。それは、決して考えてはならないことなのではないだろうか。

意味はわかるが、上の一文は、どこに向かって何を解決し、何を成立させようとしている思考なのだろうか。

――わかんないでしょ?――俺もわからなくなってきた。――だから、伝わるようになるまでは言葉にしなくていいとか思わないの?――うん思う。ただ、そこに向かいたいから、そのためにも、その〝途中〟を書いておこうかなって。――君が今日言ってることはそれだけっぽくない?――うん。
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