09/2023

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。 ニューロマイノリティで線が繋がる


LINEに既読がつかず1カ月以上が過ぎる。最後のメッセージは「――ちょっと救急車呼んでくる」であった。そう、ガチのやつであろうか、それから俺はずっと心配だったが連絡の取りようがなかった。ただ、頭の片隅で無事であることを祈っていた。

起きてスマートフォンをチェックすると、1カ月ぶり以上に返信があった。それは、俺と「同属性」と表現できるパーソナリティの友人からである。さすがに人様の容体などは記せないが、生きていたことに安堵する。

今日は、ドドドと来た案件に片っ端から手を付ける。ひとつ一気にやって原稿を提出する。ひとつ、受注した新規案件に対し、内容確認及び提案をしてコンテンツの骨格を提示する。先月からルーティーンとすることにしたYouTubeの投稿もする。

クタクタとする場面もあるが、どこかで、綺麗事の一言だが、「彼がダウンしているぶん、俺が頑張らねば」などという気持ちが芽生え、それは原動力ともなる。

ソウルメイトやらツインレイやら、魂レベルで繋がる相手がいるとスピリチュアル界では解釈されるらしい。彼がどうだかは知らんが、その人が嬉しめば幸せだし、ピンチならそのぶん手前がやらねばという相手は確かにいる。

歳を重ねるごとに思う。物事も、人間関係も、もう他は端折るが、ぜんぶ繋がっているのではないかと。そう仮定すると、わりと何事も納得するのである。

そんなことを考えているうちに夏は終わった。秋が来る。過ぎていく。大きな流れの中で皆、スイスイと泳いでいる。この世はなんだか、そんなフィーリングなのかなと、泳ぎ切ったら繋がれたその先で酒盛りでもするのかなとふと思う。その時に、ああだこうだと答え合わせをするのだろうか。

とりとめのない思考が巡る季節の変わり目。とりあえず今日あたりも、様々な繋がりに感謝しつつ日が閉じる。怒りや嫉みの感情は表面化されず、前述のような感情で覆われるのは大人になった証でもあるのだろうか。

43歳とは、若くもあり、そうでもない。何かこう一言でうまく表せんかとポッと出たフレーズはナイスミドル。どこかこう、カッコいいようなそうでもないような小馬鹿にされているような。
_09/01

 

 

 

 


粛々と仕事をし、宅に戻り原稿を進める。夜、編集部の村上氏が来訪する。彼はハイボール缶を2つぶら下げてくる。これぞ大人の対応あっぱれと冷蔵庫にゴロンと寝かせる。

小一時間ほど雑談しつつ、彼はずっと俺のメインギターを弾きながら、足元系機材を色々ためしては「ほほう」と頷く。

自身の楽器や機材を誰かにいじってもらうことは、なんだか手前の子どもの相手をしてもらっているような心境だなとポップに解釈する未婚独身。子育てはそんなに甘いものではないであろうことは、一応頭では捉えている。

バランスよく過ぎていく1日。うまくいっているような、いやいやまだまだこれからだというような、少なくともだめではないよねというような、恐らく、後になって、今がどの程度であるかと気づくであろう日常が連なる。幸福は、あとになって気づくことが多い。持論だが、そういった雑感がある。

「ちゃんと今を生きているのか?」という疑問も同時に生じるが、もやっと霞むようなダウナー気分に包まれない昨今、ちゃんと生きていると感じられる。

そうでないと、えも言えぬ漠然とした不安に襲われ続けることは体験済みなので、その点はきっぱりと断じられる。それは、誰かのためにやることがあればあるほど幸福度が増すという、当たり前かもしれない観念に帰属する。
_09/02

 

 

 

 


俺は自分にクソほど甘い側面があるので、意識的に厳しくしてみる。

そこまでいったらオーバーワークかなというラインを設定して、それをやりおおすまでは「やってないからだめです。まだ寝れません。酒なんぞ呑むべからず。ちゃんとやったら許します」というフィーリングである。

結果、昨日今日でもうクタクタになる。しかし人間よくできているもので「慣れ」という機能が備わっている。こいつにうまくドッキングできれば、しめたものである。

やればやるほど金になることをやり続けることが今は望ましいと、常々考えている。例えるならば朝イチでパチスロ台の設定6(出玉の数値設定がプレイヤー有利になっており、理論値としてプラス収益になる台)を掴んだ状態である。

例えはやや香ばしいが、そういった環境下で走り続ければ俺は成し遂げられるという思い込みがある。

しかし何故、それを毎日やり切れないのかと言ったら、やはりどこかで己に対しての甘さを捨て切れていないからであろう。

「設定6」を打ち続ける感覚を各タスクにスライドさせれば、収益は上がるわ誰かに喜んでもらえるわで良いことづくめであるのにも関わらずである。

基本、月に数回「半分お休み」みたいな日がある以外は仕事をする。しかし、仕事をしている時間の中で、本当に換金されるほどの実務時間は全てではない。

会社員に例えると、9時間デスクにいても実際はメシ時があったり、雑談をしたり、アクビをしたり、なんとなく関係ないネットサーフィンをしたり、実際には対価に繋がらないことをしている場面など、「やってない時間」がある。

もちろんどの会社員もそうとは限らないが、会社員だった頃の俺は如実にそうだった。

実務時間だけで換算すると、9時間勤務で6時間もいくかなくらいの感覚である。なんなら半分以下の時間は、実際に利益に繋がらないことしかしていなかったりもした。

そうなってくるとシンプルに俺は実務時間を増やせばいいという結論に達した。その中で、フロー収入(実務そのものに対しての一定の報酬)とストック収入(実務時間以外でも報酬が発生。加えて、何らかの行為をせずとも収入が続く)、要はフローがギャラで、ストックが印税みたいなものである。超細かく解釈するとこの限りではないが、それらを増やし続ければいい。

要するに、人生において、「設定」の数値は自分で変えられるということである。「甘え」とは、手前の場合においては、自ら「設定」を低くしていたことにあたる。

博奕打ちなら当然の認識だが、「設定6」の台を掴んだ日は厠に行く時間以外は席を離れない。開店から閉店までの13時間、目を血走らせて一心不乱に打ちっぱなしである。理由は、やればやるほど利益が上がる確率が激高だからである。

クタクタだけど案件が次から次へと来て、それでも多めに実務をして、慣れてきて、ウナギ登りに利益が上がりストック収入源も溜まるという流れが望ましい。そして次々とフェーズが上がっていく。それがベストであろう。

なにが言いたいかというと、以上の思考を当然のように抱いていない限りは、フリーで独立するとどこかで躓くぜと、少なくとも開業時の4年前の俺に諭したいということ。いちいち気づくのが遅い。

「夢を持て」「目標を掲げよ」と真正面から言われるとピンとこないが、「平吉さん、自分の『設定』を6にすればいいんですよ」と言われると、「なるほど」と一発で納得するというギャンブラー脳はまだまだ根深い。
_09/03

 

 

 

 


一心不乱に原稿を書いてひとつ提出するとヘロヘロになる。文章を書くって頭を使うんだなと、シンプルに再認識する。

小休止も仕事のうちと言い訳をしつつ長めにひと休みし、新規案件も着手する。過去に頂いた記事案件のなかでもこれは相当むつかしい部類だなと判断できるが、そのぶん、やりがいがある。これもカタカタパチンと半分くらい進めて深夜を迎える。

俺は、宅での仕事の際は実務時間をデスクトップのタイマー・アプリで測って記録している。その数値によると、今日の実務時間は5時間弱であった。

おいおい全然「設定6」じゃないだろそれは、とも思うが、本日における仕事内容の進捗としてはかなり良い方なので、心身のリソースとの相談の良き結果ととる。与えられた時間と仕事をそれなりにこなすというスタイルとは真逆の進め方たるや、けっこう難しい。何故ならば、サボろうとすればいくらでもサボれるからである。

そんな奴は絶対にフリーランスになってはならんという気もするので、タイマーを利用しているというわけである。今日はやや短めだったが、最近数日の稼働時間と合算して平均値として割り出すと、なかなかやってる方だから良きとする。

赤羽のエロい界隈に、やたらハイクオリティな肴を出す立ち呑み屋がある。

その店の生ビールはジョッキごとキンキンに冷えており、さらにハイレベルな麦酒銘柄につき言うことなき味わいなのである。そこに、なかなか主張強めに直筆で書かれた「レバテキ」と「ハツテキ」のメニュー。共に、桃源郷でむさぼる新鮮な半生肉のような至高の味わいなのである。

今夜あたり、これらを愉しみに行こうかと思ったが時間が許さなかった。逆算して、もっと早起きして仕事をしていればなと後悔するが、ならず。なにせ昨夜は仕事部屋で夜更けに酒を呑み、気付けばソファで気絶からの二度寝。昼過ぎ起床であったことが起因である。

生活態度を改める必要があるのかもしれないが、酒は欠かしたくない。美味しいんだからもうそれは抗えないのである。でもきっと、いつか、「そろそろ毎日のように呑むのはヤメよう。歳も歳だし」という日が来るのかもしれない。

だから今のうちに、若い頃に青春を謳歌するかのように、「その時だからこそ楽しめること」、「その時だから頑張れること」を、自分に正直にやりおおしたい。今をちゃんと生きたい。されど、後々、「あの時に全力を出しておいてよかった」と思える日が来る。

今日もそんなことがあった。数年前に全力で作った自信作たちが、某巨大ストリーミングサービスで何曲も使用されていることを確認できた。あの時、今を全力で生きていた証なのだなと凄く気を良くした。

だから、今日は今日でベストを尽くしたとするが、ちょっと昼寝の時間長すぎたなと引きずるのは疲労所以もあるから仕方がない。「やった時間」も大切だが、それよりも「どれくらい出来たか」の方が重要であるという部分に着目して手打ち。
_09/04

 

 

 

 


起きたらクッタクタでもげそうだったので散歩することにする。2時間は界隈を歩く。最近出来たショッピングモール内のドラッグ・ストアには健康測定ブースがある。手前のバイタルたるやどんなものかと、まずは血圧を測る。すると、上が98mmHgという見事なまでの低血圧っぷりであった。

一般的に、血圧が100mmHg未満になると、“めまいや頭痛、倦怠感など、様々な症状を引き起こすこともあり、脳貧血や脳梗塞などを起こすことがあるので要注意”とのことである。

それは疲労感も顕著だよねと納得し、体重を測ってみる。53.5kgであった。俺は身長173cmなので痩せすぎである。とはいえ高校生からずっとこの数字だよねと、今日のだるさとの相関関係は否定する。

その他の数値も測った。結果、体脂肪率がボクサーばりに低く、基礎代謝がマックスに近い値で、内臓脂肪はやたらと低かった。

要は、えらくコスパの低い体質である一方で、健康体でもあるがクラクラしがちというわけであろうか。なんにせよ、基礎代謝がめちゃめちゃ高いのはいいことらしいのでなんだか気分がよくなる。

団地を通る。突発的に、最上階まで昇りたい欲にかられ、12階まで、古びたエレベーターで低速浮上する。デリケートな理由につき、団地は屋上には侵入できないことがデフォルトである。しかし、俺が上がった団地は屋上への道に施錠がなかった。

興奮した。もちろん、屋上に上がった。夕方過ぎの時刻。南西方向に灰色に染まった富士山が見えた。その情景はとても美しかった。あと一歩進んだら確実に死ぬであろう壁ギリギリのラインで、鉄の柵を掴みながら美景に酔いしれた。しばらく、屋上でリフレッシュした。「生死の交差点」と喩えたら不謹慎であろう「団地の屋上のギリの位置」で、俺の魂はピュルっと綺麗になっていった。近場の聖地スポットがまたひとつ増えたなと確かな収穫を得て帰宅。やっと仕事をする。

文句なしに素晴らしい単価の案件を進める。そのぶん、内容もむつかしい。だが、俺はライター案件に関して、「その内容だと書けません」「結果、書けませんでした」ということはこの8年間で1度もない。そういった実績込みの、文筆業としての矜持がある。紅に染められて戻ってきた添削後の原稿に深い悲しみを覚えたことはあるが、最終的にはなんとかできてきている。

とはいえむずいなあなどと呟きながらも、楽しんで書く。7割ちょい出来たので、あとは予定通りの進捗でいけるという段階に達する。

楽して稼ぐことなんてこの世にはないのだなとふと思う。楽とはなんぞやと思う。きっと、またあの聖地に行けば秒で解るだろいうというこの感覚、一体誰と共有したらいいのかと思う。しかし、ほぼほぼ自分しかわからないであろう感覚というのは、それはそれで大切なものだなのだと解釈している。

そうは言っても、案外わかる人は居ると思われる。薄暗い団地の屋上で佇むこと。その場所で、情念でも込められているのかというほどトリッキーに通り過ぎる風を浴びること。なんらかの交差点で考えさせられるような、あの不思議な感覚を。
_09/05

 

 

 

 


入浴して、ドラマ『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』を観返し、ぐっすり眠ったらスーッと疲労が抜ける。

出稼ぎに行き、戻って原稿を進め、動画の書き出しなどをしてしめやかに0時が近づく。

いろんなことを並行しておこなうことで、様々な学びがある。ドラマの設定のように、今、手前が高校生に戻ったとしたらきっと、思いもよらぬ気づきがあるだろう。

高校生の必修科目は様々あるが、やはり「恋愛」という科目をおざなりにしたことについては浅く後悔している。

そのかわり、高校生で必須なはずがないであろう「酒屋のバイト」や「パチスロ」という科目にどっぷりであった。それはそれでオルタナティブでいいかなと、悪い方には捉えない。コピーバンドで切磋琢磨したことについては高校生らしい青春だっただろうか。

そんな過去を、現在と未来に結びつける。10代で得た膨大な酒の知識は、仲間とのひとときなどで役に立っている。博奕の地獄で悶絶した体験は、人生最大級の教訓ともなった。コピバンについては、音楽の仕事に繋がった。それぞれ、今後も役立つそれぞれの手前の武器となるだろう。

サボった科目である恋愛。思い返すと、サボっていたというよりも勇気がなかっただけだったとも判断できる。恋愛に繋がる確かな機会はチラッと何度かあった気がするが、単に逃げていたような気がする。だから当然、今にも未来にも繋がっていない。

死ぬ前に悔やむことの代表格は4つくらいあると聞く。それは、「仕事ばっかしてないでもっと遊んでいればよかった」「もっと友人と触れ合っていればよかった」「やりたいことをやりたいようにやっていればよかった」そして、「恋愛を存分に謳歌すればよかった」ということ。

人生がドラマだとすると、ドラマには人生に通づることがたくさん詰まっている。じゃあ恋愛をすればいいじゃないかと思う。しかし、いまだにどこかでサボっているというか消極的というか、学生の頃にリアルに通信簿に書かれた「引っ込み思案」という、担任の所感そのままではないかという現状が確かにある。

そういったわけで俺にとって恋愛とは、メジャーシーンの第一線を走る科目というか概念というか、ちゃんとやったほうがいいであろう人間の営みのひとつなのである。勇気がないとかサボっているとかそういうことではなく、シンプルにモテないだけなのかもしれないが。それこそ最たる言い訳であろう。

広辞苑によると、恋愛とは、“男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい”とのことである。

恋愛に疎いが、“互いに相手をこいしたうこと”という一節は胸がキュンとくる。胸の内側の木こりの野郎がザクザクと刻んでくる。

死ぬ前に「もっと、相手をこいしたっておけばよかった」と後悔するのは誠に遺憾なので、もっと漢を磨いて明日からも頑張ろうと自身を鼓舞する。恋愛そのものが漢を磨く要素ともなるであろうとも思いつつ。恋に恋い焦がれ――いや、もうなんというか、無駄に考え過ぎなきらいはこの上なく否めない。
_09/06

 

 

 

 


昨日とシンクロするような時系列で過ごす。特筆して変わったことはないはずなのに、明らかに違いを感じる季節感。そう、もう秋が来たと個人的には断じられる。

誰もがそうであるかはわからないが、秋になると記憶がスローバックされる。実家にいた頃の夢をみては起きがけに「そうだ、現代だ、この部屋は足立区じゃないや」と、本気で意識を確かめるほどである。

夜、雨も降っていないのに街頭の光から細かな水泡がふわりとひろがる景色を見る。

とうとう俺にも霊感が降りてきたかと半ばガチで思うような幻想が視覚化されたりする。日中の心境も同様に、どこか幽玄的。メランコリックな精神状態は秋の特徴の顕著なところ。

とはいえ、やってることはいつもの延長線。積み上げるように仕事をして、原稿を書き、「書きすぎたな」と、規定文字量を目指してコンパクトにしていく。

この工程は凄く時間がかかるのだが、過度な厚化粧をナチュラルメイク美人にしていくことにも似たような快感がある。

若い頃はいくらでも動けたが、時間の経過と共に無駄な動きが減る。老化すると、必要な動きすらままならなくなる。

やはり、某アーティストが言うように、時間はどこか残酷。そのようなことを如実に感じるのは、やはり秋。

秋は人を振りかえさせ、いつもより先に進ませようとするような、なんとも妙な魔力がある。やはり考え過ぎなだけの気もするが、それこそ秋。
_09/07

 

 

 

 


清々しいまでの大雨の東京。ほぼほぼ宅で過ごす。着手中の案件の原稿を書き上げ、提出して確認工程へ。

とてもやりがいのある内容につき力が入る一方でへとへとになる。だがそれで良いと、ある種の快感を得る。

確認中を除き、久々に「案件フォルダ」が空になったので、最近はいそいそとしていたのだなと実感する。

だがもっと稼ぎたい、誰かの役に立ちたいという欲は常にあるので当然絶賛案件募集中。ここで訴求してもあんまし効果ないだろうが。

「そのように、ちゃんと思ってますよ」と書き記す気持ちの面もわりと大事なのかなと思うのは“思考は現実化する”というナポレオン・ヒルさんの書籍のタイトルにい基づく。読んだことないけど。
_09/08

 

 

 

 


数々のビビッドな悪夢が交差するめまぐるしいノンレム睡眠が連荘したが快眠。出稼ぎに行って戻って夜、ギターの練習をする。

賜った来月の興行案件に備えるためにも腕を鈍らせるわけにはいかない。とはいえ、このあいだ中野区のセッションバーでプレイしたら、その場に居た中国人のリー君という方からお褒めの言葉を頂いた。「君のプレイはチャーミングだね」と。

そうだ、俺のプレイはグローバルにちゃんと通じているのだという認識のもと、ちゃんと自信を損ねぬよう練習する。

なんとなく、ジャミロクワイやカーディガンズの曲をもとに、おしゃれに指を走らせる。ギター歴28年。そんな経ったのかとも思うが、ちょっと訓練に間が空くと明確に音に表れる楽器演奏というもの。エフェクターの踏み込みもあわせて、せっせと弾く。

いい汗かいたと、いかついのアンプをオフにして机につく。まだ汗をかいている。立って本気でギターを弾くことはけっこう運動にもなる。音楽力も高まるし精神統一の一環にもなるしでいいことづくめである。

こうなってくるともう1本エレクトリックギターを買おうかなという欲が出る。「ギターが欲しいから金が欲しい」という少年のような能動。

そういえば、先述のリー君にはこうも言われた。「君は、僕より年上なのはわかるんだけど、少年のようだね」と。リー君は22歳だか24歳だか、ちょっと忘れたがそう言っていた。

初対面の第一印象だから、本当にそう感じたのであろう。おいおい43歳だぞこの野郎などという野蛮な感想ではなく、相当な褒め言葉であると俺は捉えた。

そう、ギターを弾いているときは少年の心になれるのだよと言ってくれた気もする。みんながみんなそうかはわからないが、外国の方はどこか、いいと思ったことはストレートに相手に言葉で伝えるあたりリスペクトに値すると思う。それをちゃんと、リー君に言うべきだったなと反省。

次会ったらちゃんと伝えようと思う。しかも中国語で「你是好人, 因为你告诉他们你认为什么是好人」と。そこまでやるのが日本の「おもてなし」ってやつだこの野郎と。いや、もてなしの意味とは微妙に違う。

言葉で感銘を受けた相手にはちゃんと言葉で返す。そんな礼儀正しい日本人でいたい。もちろん、友好的に。
_09/09

 

 

 

 


YouTube再生回数が全然伸びないなと、最初はこんなもんかと、そもそもオルタナティブやアブストラクトなど、なぜマニアックなところから投稿し始めたかなと、ふと我に返る。

これではスーパーチャット(投げ銭)可能な環境で生配信をしたいという欲が満たせんと目線も遠くなる。

そもそも、コンテンツが消費されるには、誰かに喜んで頂くという前提がある。じゃあもっとキャッチーな曲から上げればよかったなと思うが、もう10曲くらい投稿しているので、とりあえず予定通りあと1曲とミックスリストをちゃんと連投してオルタナシリーズを一旦落ち着けることにする。

次はわかりやすいロックシリーズかチル系のやつを連投して様子をみようと思う。そのように牛歩で進みつつ、新たな曲も制作する。

このごろライター案件が多くて喜ばしい一方で、ストック収益は下降気味。なにもかもが右肩上がりというほど、万象は楽勝に設定されていないのだなと実感しつつも各タスクをコツコツ続ける。試行錯誤していくうちに、続けていくうちに、どれかは跳ねるだろうという希望を持ちつつ。

なんだか俺は永遠に人生を模索しているなという感覚。振り切って一本道でガツンと行くのがベストなのだろうか。しかし、そうでないケースもあるはず。自分で選んだルートの結果は手前に帰属する。いろんな景色が見られていいじゃないかということでここはひとつ手打ち。さらなるファンタスティックな絶景を見るために、明日も張り切ろう。
_09/10

 

 

 

 


“――だから、どうせ死ぬことを考えるなら威勢のいい死に方を考えなさい。できるだけ人に迷惑をかけて派手にやるつもりになりなさい。これが私の自殺防止法であります。”

「人に迷惑をかけて死ぬべし」という、フレーズだけ切り取ったら令和においては大炎上必至のタイトル。この短編が収録されている本を、病院のロビーで読みながらリラックスしていた。

誰でも一度は、もののたとえとして、死にたいと一度も思ったことがない人は少なくないと思う。しかし、本当に危険を伴う希死念慮に纏われることは少数派だろうか。

手前が今、そうであるなど、全くもってそういった話ではないが、先述の一節を読み、30歳前後くらいの頃の不思議な体験を思い出した。

夜中、2時過ぎ。軽く酔っ払ってコンビニにおかわりを買いに向かう途中だった。近所には環状七号線と交差する片道4車線の大通りがある。そこは道幅が大きいため輸送車等の定番ルートとなっているのだろうか、大型トラックなどがよく走る道である。

ふと、「ああいう車に当たれば一発だな」という直線的な思いが頭をよぎった。あの鋭利な衝動のような感覚は今でもよく覚えている。それに酔うようなまま、大通りに差しかかった。

その刹那、近所の2つ歳上の知り合いに偶然出くわした。一瞬「なぜ、こんな時間に?」と思った。

そして、いつもはそんなに長く喋るほどの仲ではない彼が、どういうわけか長時間ずっと俺に向かってポジティブな言葉を投げかけ、励まし、慰めてくれるような、そういったトークを続けた。終始とても穏やかで、仏のような表情だった。

なんだかスッキリした気分でコンビニで酒を買い宅に向かう途中、急に、脂汗が出るほどゾッとした。そこで気がついたのである。

もしかして彼が偶然あそこで俺に話しかけ、足を止めなければ車に身を投じていたのではいかと、その瞬間の心境を認識したのである。

彼は、それを察して俺を助けたのか、見えない何かの力が彼を介してそうさせたのか、そうとしか捉えられないような出来事だった。

今日、皮膚科で、軽い持病でもある「異汗性湿疹」の診察を受け、薬を処方してもらい、ほっこりしていた。散歩をした。老舗で蕎麦を食べた。とても幸せだと感じた。人間はいつだって死と隣り合わせなのだなと考えつつ近隣をよく歩いた。

冒頭文は、三島由紀夫さん著『不道徳教育講座』の「人に迷惑をかけて死ぬべし」最終段落からの引用。

彼は1970年に、憲法改正をはかるために自衛隊市ヶ谷駐屯地にて“決起”の演説を行なった。同意者は、いなかった。直後に、凄惨な最期を遂げた。そこまで繋げて考えると、えも言えぬ気持ちになる。

自殺防止法とはなんぞやと、あまり深くまで至らない思考階層で吟味した。俺にとっては、深呼吸をするように日記を書くことだろうか。

心身のメンテナンスをし、案件を進め、鍵盤練習したり制作をしたりと、今日も元気に人生を謳歌する。
_09/11

 

 

 

 

 


さて今日も道徳的に生きようかと、全くそんなことは思っていないが、どこか歳を重ねるごとにそのような無意識がじわじわと水面下で膨らんでいるような気がする。

無意識とは本心でもあり、植え付けられるものでもあり、自身で叩き込むこともできる。

それもあり、毎日、起きてから鏡に向かってポジティブな言葉を手前に投げかけている。ポイントは、「俺はどうこう――」ではなく、「平吉さんはどうこう――」と、あたかも第三者目線で言うことである。

側から見たら滑稽千万の一言だが、手前は、こういうのはめちゃめちゃ破壊力があると思っている。例えるならば、幼い頃に親に「あなたはやればできる子なのよ」と言われるのと、「お前は本当にダメだな」と言われることの差くらいのパワフルさがあると思っている。

要は、思い込みならぬ“思い込ませ”とも言えようマインドコントロールに近しいからである。人間が本当に「そう思い込む」には、様々なイニシエーションが必要である。

楽器だったら練習をすればやっただけ自信に繋がるし、スポーツならばトレーニングの量が試合での結果に直結する。それらの行動が、自身の良き「思い込み」に繋がるのだと思う。「あれだけやって、出来ない理由がない」と。

とはいえ、どこかでたまにミスるのも人間特有の進化要素。失敗して「下手を打った。なんてダメなんだ」と思うよりも、「あれだけ盛大にやらかしたから次は失敗する確率が減る。むしろ、改善策がいくつも湧き出た」と、思うほうが生産的。

ということは、いける、いける、と思い込みつつ、いけなくても次はもっといける、というマインドこそが人生を豊かにするのではないかと結論づけられる。それが“道徳”とやらに繋がるのかもしれない。

物事を生産的にするか凄惨的にするか、読み方は一緒のあたりが、なんか的を得ている気がしてしかたがない。道徳はあんま関係ない気がしてきたが。
_09/12

 

 

 

 

 


“大丈夫かなオバケ”という厄介な精霊がいる。それは、各々の脳内に棲みつく道徳心と強迫観念の合いの子である。

この精霊は、作家や制作者、ミュージシャンやクリエーターなど、創作をする人間にとっては顕著に現れることが比較的多いとされる。

「ここの表現、大丈夫かな?」「これでなんか、クレームとかこないかな?」「炎上しないかこれ……」「誰かを傷つける表現じゃないかな?」「ビジネス的にこれはNGだろうか」「そもそも全体的に没かも…」「こんなこと表して何か言われないかな…」などなど、精霊の影響は多岐にわたる。

創作面のみならず、一般的な生活面でも現れることがある。「さっき、あんなこと言って気を悪くさせちゃったかな」「これ、やばいミスに繋がらないかな?」「なんか昨日変なこと言った気がする……」などなど、こちらも実にカラフルな種類がある。

共通点は、「これ、大丈夫かな?」と、一人で、延々悩み、結論が出ないことに加え、「大丈夫」と認識するまでえらい時間がかかることの2点である。

解決方法も2点ある。“大丈夫かなオバケ”は、「客観視」が最高に効く。懸念している対象を誰かにチェックしてもらえばいいのである。

「これ、大丈夫でしょうか……? ちょっと攻めすぎでしょうか?」と訊く。第三者が「全然大丈夫っしょ?」と言えば“大丈夫かなオバケ”は秒で消える。なんなら「むしろもっとそこ、行っちゃえよ?」くらい、ブラッシュアップする場合もある。

もう1点は、開き直ることである。「とりあえずこれで出してみるか。ダメだったら早めにごめんなさいしとこ」と、腹をくくることである。すると、大丈夫じゃなかった場合であっても、それが「なぜ大丈夫ではなかったのか」という基準が明確になり、自身の中の大きなチェック項目が生成されるというプラス作用がある。そして、全然大丈夫な場合もある。

そう、“大丈夫かなオバケ”が顔を出す時は、それだけそこが要点だったり、それだけ当人が真剣に取り組んでいるポイントだったりするのである。よって“大丈夫かなオバケ”は、ガチなスタンス時の検閲者のような存在なのである。

だから、作家には編集者がいるし、音楽ではプロデューサーという存在がいる。うまくできているななどと思いながら、ちょっと一人で“大丈夫かなオバケ”と対峙していたついさっき。

俺の場合は、腹をくくってそのまま提出することが多いが、たまに「懸念しておりますので恐縮ですが――」という点を吐露し、吟味していただくというスタイルもとったりする。

要は「心配」の一言なのだが、その亜種として“大丈夫かなオバケ”という、こじらせると社会生活に困難を及ぼす精霊がたまに湧き出ることもあるので注意が必要かもしれないということ。

逆を言うと、「大丈夫」と思っていたり、気にも留めていなかったことが全然大丈夫じゃなかったりすることもある。だから、一般生活においては“大丈夫かなオバケ”は無視したほうがいいのかもしれない。

なお、この“大丈夫かなオバケ”は俺の言葉ではなく、超大物著名人が語ったフレーズの引用なのだが、その出典を記すことに対し“大丈夫かなオバケ”が猛威を振るうので伏せる。

ネット検索しても出てこないフレーズであることをちゃんと確かめるあたり、やっぱり精霊にチクチクやられてる。しかし、そこは気にしないことにする。何かを創作する時はきちんと、この精霊と対峙する。

何事かのクオリティに直結するとも言えるこの精霊。味方につければ頼もしいことこの上ないのだが、変にハマると時間が溶ける。けっこう共感してくれる人が多いようなそうでもないような。
_09/13

 

 

 

 


編集部より案件の打診を受ける。仕事が途切れずいいことだと思いつつ、本題はコンパクトに打ち合わせ、あとはしばらく村上氏と音楽について語り合う。大事な時間である。

「10代の頃、あれだけギターを弾いていなければ今の我々のスタンスはなかった」という、初期衝動の大切さをすり合わせる。

現在までのあらゆる生業の始点が、ギターへの関心だったことはまごうことなき事実だということである。なんなら、それがなければ当サイトもなかっただろうとしみじみ思いながらカタカタと文字を打つ。

明日はちょっと一休みの日なのでゆっくり夜を過ごす。かすかに響く駅前の雑踏が透き通ったような音で聴こえる。静かな秋の夜。
_09/14

 

 

 

 


ずいぶん疲れていたのだなと夕方前に起きて気がつく。サッと家事をして郵便物の受け取りや様々な買い物と、諸用で出かける。

池袋で仲間のバースデイプレゼントを物色する。百貨店に入り、目当ての品があるフロアへ行くとコンテンポラリーアート(現代美術)展が開催されていた。

タダでみられる様子だったので100以上のアートをしげしげと見つめては「ほほう」と解ったようなツラをする。作者プロフィールを見ると藝大出身者が多いなという所感。聞いたこともないアーティストの絵画が主に並ぶが、やはり、どの作品からも何かしらの感銘を受ける。

アブストラクトアート(抽象芸術)という、はじめて聞くジャンルのコーナーを回る。音楽のアブストラクトはわかるが、絵画だとどうなのだろうという視点で芸術に触れる。なんか共通点あるなと、「うん」と解ったようなツラをする。

価格が印象的だった。25万円と100万円と、共に税別での値段の作品が多かった。購入する人が限られているという雑感。そして、価格設定に厳密な基準などはあるようでないのだなと、誰かが吟味して決めるというより、どこか、作者の思い切りと自信の現れがプライスに反映しているのかなと個人的には思った。

1点、インターネットの世界観をサンプリングしまくってひとつの絵にした作品があり、俺はそれが一番いいなと思った。わりと欲しかったが100万円。ふと俺は、「どんな職業の人がこれを書い、芸術家はふだんどんな生活を送っているのかな」と、想像した。

いつもと違う出来事といったらこれくらいだろうか。美術品ではない目当ての品を購入し、寄り道せずに帰宅。軽くデスクワークをしてYouTubeをテラテラと観て横になる。2時間寝る。けっこう疲れが取れたと実感する。

芸術に触れ、溜まった諸用を一気に済ませ、軽くタスクの整理をし、休んでと、それはそれで地味ながら充実した1日だと着地する。コンテンポラリーな生活においてこういう日は、月に何度かは必要であると。
_09/15

 

 

 

 


酒の量が減った。とはいえ基本的に毎日呑むが、絶対量が抑えらている。「それ以上は、いけないよ」というリミッターがきちんと働いているのである。

仕事量と酒の量が反比例するのは“男あるある”かもしれない。野郎という生き物は、人様に対してやれること、すなわち仕事やら凌ぎやらがないとロクなことをしない。酒は呑むわ博奕は打つわ遊郭でのたうちまわるわと穀潰しの一言でまとまる。

昨夜、案件を2つ受注した。がっつり着手するのは明後日。今日は別の仕事をして鍵盤の練習などをして夜を過ごす。

人間は、誰かのためになることをすること、それに繋がる行為に没頭することででしか本当の幸福を実感できない。

酒や博奕や女遊びやドラッグなどは、出血を止める絆創膏の役割みたいなもので、真の病巣の傷口に両手を突っ込んで正面から治療に向き合うことでしか解決はできない。そんなことが愛読書に記してあった。

「ははあ」などと本当に俺は実体験込みで納得する。その一節を綴るまでに、どれだけの地獄と経験を積んだのかなと妄想する。すると、人間というやつは良いことも悪きことも込みで様々なことを行ない、森羅万象をなにかひとつの場所にまとめる役割の生物なのかなと、個人的な解釈が生じた。

そうなってくると、何をしていても「これには意味がある」と思えるのである。金持ちになるには、リラックスするには、病的なメンタルを改善するには、幸せになるには、などなど、いろんなところにヒントと答えが散らばっている。

それを拾って納得するも行動するも各々の勝手であろう。だが、本当に「そうである」と腑に落ちた時、行動できた時、ときに結果につながった時、人間はフェーズが上がる。

そして確実にそのうち死んで、その先で「そういうことだったのね」と、ポンと手を叩きながら相変わらず遥か上の次元でやっぱり酒呑んでるんだろうなと思う。死んだ後もどこかで絶対呑んでると断じる。

酒が、各種儀式でも欠かせないのはそうだからであると強引に紐づけたいのは、酒を崇めつつ、さて今日も気持ちよく呑もうという言い訳に帰属するかもしれないがそれは人それぞれ。
_09/16

 

 

 

 


案件で銀座へ。9月も中盤だがけしからんほどの蒸し暑さ。秋は、まだであった。

今日はアーティストのSPALの興行で1日みなさまとほっこり楽しく過ごす。途中、プロデューサーから差し出された「アナーキー 82ノット・サティスファイド」というポーランド産ウォッカを1ショット、クイっと呑んで喉が焼けそうになる。

そう記すとまるで怪我をしたかのようなくだりだが、そうではなくシンプルに美味しいが、82%という甚だしいアルコール度数を軽視してはいけないよといった気つけのシーン。

そのようなこともはさみつつ、仲間とちゃんと仕事をして、お客さん方の豊かな表情を見て「良い日だ」と、心に落とし込む。

帰宅し、コンサルタントの桑原氏から打診を受けた案件の対応を熟考し、現在の自身のスタンスも俯瞰的に精査する。今やるべきことは何か、明日は、来月は、来年は、その先は――と。

そうなるとやはり手前は文字を書き、音を出し、仲間と走ることが大切だとリマインドする。

知り合いが、占い師を始めたと聞いた。俺は、占ってもらおうと思った。以前、界隈の店で占いを初めて受けた時は「なんとなくこう、全体的にお願いします」と、フワッとオーダーした。

しかし次は明確に決めてある。「俺はこの世に何をしに来たのでしょうか?」と聞き、そこを占ってもらいたい。

「使命を果たしに来たんです。具体的には――」

「人間とはどういうものかを知るために来たんです」

「愛を知るためです」

「この世の法則を知らしめるために来たんです」

「イノベーションを起こしに来たんです」

「何が人間にとって良くないことなのかを晒すために来たんです」

「共存を実現させるために来たんです」

「人間を、救うために来たんです」

「象徴的な存在となるために来たんです」

「多様性を示すために来たんです」

「人間の心を豊潤にさせるために来たんです」

「注意喚起のために来たんです」

「遊びに来たんです」

なんとなく言いそうなことはこれらだろうか。だが、占い師という存在がどういったものか、俺はまだよく知らない。

もしかしたら、占い師というのは「言い当てる」「未来を示唆する」ということがメインではなく、「その人が言って欲しそうなことを言う」という癒しの側面があるのかもしれないという憶測もある。

だとしたら俺は、「あんまし深く考えなくて大丈夫ですよ〜」くらい、半笑いで言われて秒で占いが終了するくらいでちょうどいいのかもしれない。その店には二度と行かないが。

いや、知り合いの占いはそんなことはなく、俺の知らない俺を啓示し、次へ導いてくれると期待を寄せる。もちろん、手前の道は手前で切り拓くという前提で。

そして、そこに仲間の愛は絶対的に必要かつ常に感謝すべきだときちんと忘れぬようにする。アルコール度数82%のウォッカを仕事中に差し出す行為も、仲間からの愛。なかなかエッヂの効いた愛。
_09/17

 

 

 

 


ここに800字(原稿用紙2枚分)ほど書くのは15分くらいだが、案件でその倍の量を書くのには数時間かかる。

単純計算で1,600文字なら30分で書けるはずなのだがな、などと思いながら何時間かかけて原稿を丁寧に書く。8割ほどの進捗、なんなら翌日読み返して「これでいい」と判断できれば完成という段階まで達する。

不思議なもので、それらしく内容が織り込まれてきちんと書けていても「出来ているが――」と感覚が納得いかない場合がある。

一方で、内容はほぼ変わらないが、ちょっとした部分が入れ替わったり、「その一言」が加わるだけで「これでOK」という判断がくだる場合がある。

もちろん後者のフィーリングが得られて「よし、これは気持ちいい」とならなければ提出には至らない。楽曲制作もそうで、誰が聴いても完成というサウンドだが「なんか、ときめかない」という場合があり、それは世に出すべきではない。

そういった感覚は凄く大切だなとずっと思っていて、俺だけかなとなんとなしに感じていた。いつだったか、「なんでも『なんか、ときめかない』とかいった理由でリテイクで――」という話を他のミュージシャンから聞いたことがある。

やっぱそうかと思い、その一点の有無で、コンテンツの質の決定打となりうるのだなと腑に落ちる。特に、著作物においては顕著であるとも加えて思う。よいコンテンツとは、そこに「ときめき」があるか否かの判断基準があるのかもしれない。

そうなってくると物作りというのはやはり人間特有。医学的な解釈だと、生物がそれを認知した時に脳内神経伝達物質が分泌されるか、快感のパルスが走るかどうか、だろうか。

ネコですら、良い演奏をしているピアニストが居たら、その側に寄ってリラックスすることがあるという。ということは、いわゆる“作品”というものは、人間的と野生的な部分の交差点で判断することが有効なのかなという感覚が言語化できる。

「なにかが足りない」「サムシングがない」「魂が感じられない」「血が通っていない」「刺さらない」「シンプルにつまらない」「AIで作ったの?」などなど。

合っているかどうかはわからないが、要するにラフでも雑な段階でも、こんな感じで表現される「ときめき」が一点でもあれば、それはもう完成が約束されたようなものであるということ。その「一点」には、人それぞれ言い方が違うあたりが面白い。
_09/18

 

 

 

 


同時進行の案件が共に「確認待ち」の工程へ。ファ〜と転がり一眠りする。そして、音楽の時間を大切にと、鍵盤を叩く。なんとなく、80年代洋楽の名曲を練習する。

この時代の音楽について、リアルタイムではちびっこだったから詳しくはそう思っていなかったが、いま聴き返すとまた違った角度で聴こえる。一言で言うと「遠慮がない」という感じであろうか。ストレートかつ、キラキラしていて、変に鬱屈とはせず、前向きな響きが多い。

時代背景もそうだったであろう。キラキラは置いておいて、遠慮がないという点では、バスや電車のホーム、会社の会議室でタバコを吸うのが当たり前。パワハラ・モラハラ・バイオレンスどんとこいの時代である。それだけ勢いがあったということであろうか。

一方で現代では、どこか不文律の“遠慮”が不可欠な時代だという肌感。綺麗に表すと、他人を慮ることが大前提。ネガティブに捉えると、ガツンと出るにはボコボコに叩かれる覚悟が必要。平成の約30年間は、それらの中間、あるいは、徐々に変化していった時期だという解釈もできる。

そうなってくると「令和においてどう立ち回るべきか」などと考えてしまう。遠慮なくオラつくと格好のターゲット。過度な配慮ばかりではうまく前には進めない。すると、超丁寧語をもってしてヤクザのような勢いで突進するのが善作だろうか。

よくわからんが、音楽にしても世風にせよちょっとした他者とのやりとりも、全てにおいてそう感じる。

もっと未来を考える。国内で言ったら暦が令和の次の時代である。あくまで想像だが、なんだかもう全部が整い尽くして出がらしのような状態になるのか、はたまたブラッシュアップの先の仕上がりまくったユートピアなのか。

どう感じるかは人間各々の認知と脳が判断するだろうか。とはいえ、魂の態度はずっとそんなに変わらないのではないかと、クリストファー・クロスの「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」(1981年)を聴いてそう思う。

音スッカスカだけどなんていい曲だと。よ〜く聴くと歌唱が超達者というわけでもないのに胸に響くなと。そんな、時代を超越するなんらかを残し続けたら、この世に生まれた冥利につきると焦がれる秋の深夜。秋ですら季節そのものが変化してしまったなと、令和の初頭で沁沁と。
_09/19

 

 

 

 


一人での時間を有意義に過ごすこと、それが「教養」である。的なことが、昔読んだ中島らもさんの本に書いてあった。

じゃあ宅で酒呑んでる時間は「教養」かと言ったら、文字から察するに何一つ養っていないので除外されるだろう。

制作など、金銭に繋がることも、やはり違ってくる。すると俺にとっての教養とはなんらかのコンテンツで知識を得ることだろうか。

時代の流れに添い、ショート動画をよく見るようになり「なるほどね」などと思うことがあるが、出典やらソースの提示や精査がほぼほぼ充分とは判断しかねるのでこれも除外。教養というよりエンタメの一環であろうか。

じゃあ読書は間違いなく教養と呼べるが、手前はやたら本を読む時期とそうでない、まるで発情期と倦怠期ほどの差異があるので微妙なところ。読んでいる時期はそうだが、そうでない時期もある。

ということは、なんとなしに、ちまちま行なう弾き語りの練習や楽器演奏の訓練は「教養」だなと、これは断じていいなと、うっすら思うか思わないかの閾下で鍵盤の練習をする。

弾けなかった曲が弾けるようになる喜びがあり、たまに晒してシェアしたりする。そこに収益は発生せず、単に楽しみつつ音楽力を高めるだけである。これぞ教養じゃないかと前向きな気分になる。

約20年前に購入したRolandのシンセサイザーは現役で稼働している。個人的には経過年数的にビンテージ扱いである。

「バンドでやる曲のデモにストリングスを入れたい」という動機一点でえいっと買った当時は、20年後も弾いているかなどと考えていなかった。そこそこ伴奏くらいはできるようになるとも思わなかった。ただただ、MTR(当時の最新宅録機材)にゴージャスなサウンドをおさめたかっただけである。

そういったわけで、時代が流れて何が何に繋がるかわからないなと強く感じる。特に、手前の場合は音楽に関わるものは全てが繋がっていて、この先もさらに豊かな景色に連れて行ってくれると信じて疑っていない。

それがあるとないとではあまりにも人生のテイストが違ったであろう。途中でヤメていたら、振り切って博奕を打ち続けてパチスロ・ライターになっていたかもしれない。それはそれで魅力的だが、そっちもハードルが高い。

誰かと居るときはもちろん必須の時間。対して、一人で何をしているかという時間も大切かつ、その人間のパーソナリティーを決定づけるといったら少し大げさだろうか。一つはっきりしているのは、少なくとも俺は昔から一人で執拗にし続けていたことが今に繋がっている。

なんだか最近どんどん日記が壮年期の悟りみたいになってきたが気持ちは27歳。永久に27歳の精神でいたいが、わりと酒量が減ってきたり衝動性がやわこくなってきたあたり、認めざるを得ない。40代も半ばが近いと。

それでも、人間誰しも、その時期その時期の“艶”があるという持論のもと、フレッシュに今を生きる。
_09/20

 

 

 

 


秋が来ない。いきなり咲く彼岸花も見かけなければ金木犀も香らない。店頭で「秋味」ビールも確認できない。この時期特有の死生観にまみれる抑うつ状態の気配もない。

暑くも寒くもない、グレーな温度感。色彩の滲みのような季節が好きだが年々絶対日数が少なくなっていく。

物足りないな寂しいなと、日本の四季を危惧する。このままでは秋と春がなくなる気候になるのではと。

そのへんは俺が気にしたところでどうにもならんなとやることやって日を〆る。自力ではまず変えられないことに思考や行動を消費させるのは得策ではない。それは生き方としてへたっぴだろうと、気にしないことにする。

無理くりに季節というか変化を感じるため、11月に旅に出たい。3日間ほど休暇にして熱海に飛びたい。今のペースで案件をトトトと頑張れば旅費も心配はない。

旅先で時期の変化を体現する。それは素敵だなと思うが、なんだかこの時期に同じようなことを書いては実現せずのここ数年。今年こそはと切に思う。案外、赤羽駅から電車1本のルートなので日帰りでもさっさと行けばいいとも思うが。
_09/21

 

 

 

 


清々しいほどファ〜とまったりする。夕方までにひとつ仕事をして、あとの時間は特に目的もなくほぼほぼ頭やらを使わずに過ごす。

YouTubeショート動画を延々と閲覧したり、ちょっと気になる人物を調べたり、蕎麦屋で相撲を観ながら「おおもり」を啜ったりと、半日以上のんびりする。

傍観的視点だと完全にサボっている様子だが、そういう休みも必要と、メリハリを利かせる。

その前後の時期にしっかり仕事がない場合は、ただただ不安に襲われがちな生活態度。しかし、そうではないので“休息”という大義名分ができる。

ジャンクな焼きそばを食べて仮眠して、手前のYouTubeチャンネルの動画制作をちょっとする。開設から一カ月ちょいで12本の動画をアップロードした。各動画の再生回数は、10回ちょいという悲惨なものから数100回ちょいのもあるという現状。

最初はこんなもんなのかなという所感。予定通り、最初の段階のオルタナティブ&アブストラクト・シリーズの現状の厳選楽曲を全て投稿した。

あとは、それらをまとめたミックスリストでまとめにしようと、編集ソフトに各曲をずらっと並べてアルバム1枚分くらいの尺にする。

作業的なことはそれくらいで、すっかり疲れも取れたかなという感覚を得て日が暮れる。やはり休息日も必要だなとわりと心も落ち着く。

こういう日ばかりだとめちゃめちゃ精神が不安定になる。逆にそういう日が月に数回でもつくれないと気付きづらい疲弊に見舞われる。

人間、バランスが大事だなと、当たり前のことを実感しながら穏やかに流れる秋雨の1日。
_09/22

 

 

 

 


卒業論文の話を大卒の知人と少しした。曰く、卒論とは、テーマに沿って数万字書いて提出して認められないと卒業できないという概要だそうだ。大学生が能動的に好むものでもないといった雑感もあるという。

俺は大学に行っていない。ストレートに行っていれば、22歳の頃に卒業論文を書いたであろう。当時だったら何を書くかと考えた。

無論、博奕の漬物みたいになっていた頃なので『報酬脳と確率との葛藤』などと、いかにもそれっぽいが中身はただの私小説みたいなもので教授に「不適合」の烙印を叩きつかれるのが関の山だろうか。

卒論ではないが、『報酬脳と確率との葛藤』というタイトルをつけてもおかしくないブログを書き続けていた時期があった。

33歳の頃、パチンコ・パチスロから決別すべく“禊”のような意図で、アメブロに3日おきくらいに投稿し続けていた。

内容は、17歳から博奕に手を出し、そこが如何に地獄であり、どれだけ手前がもがき続けていたかの様子をリアルに、エッセイ風に、「ですます文調」で綴った。

書くのがとても辛かった記憶が鮮明に残っている。それは数カ月で完結させ、文字量で言ったら卒論くらいには達していた。

そこそこウケていたのか、当時のブログランキング「ギャンブル」系のカテゴリーで謎に1位を記録するという、喜んでいいのかそうでないのかわからん状態にもなっていた。その文章は、手前が運営する別のウェブサイトに引っ越しさせて今もそっと残してある。

では、43歳の今だったらどんな論文を書くのだろうかと当然再考した。思いつかない。本当に思いつかない。

何度考えてもわからないのかが何故か、わかった。それは、おそらく卒論に似た何かを書くのはこの先、もしかしたら晩年にかけてであり、この日記がその伏線になっているのではないかと思うからである。

今日掲載の、手前が書かせて頂いた記事に“「点」を「線」で繋げ――”と書いた。それは、各々が何かをすることは全てどこかに繋がり、自分以外にもそれは波及するであろうというポジティブな表現である。

だから、卒論というか、人生で得た何かをまとめて、いつか書こうという日が来るのではないかと腑に落ちたのである。その際、ほとんどの内容において、この日記からの引用がなされるのではないかと思うのである。

“人間、20代〜30代なんて――60代からやっと伏線回収に入って面白くなる”と、岡田斗司夫さんは言っていた。

どこか、光明を感じさせる見解である。毎日おこなっている各種のこと全てに意味があると思わせてくれる。物事を頭ごなしに否定する気すら起きなくなる。

思考や体験をもととした言葉や文章には、各々にとっての、誰かにとっての価値ともなると、以上の理由をもって根深く感じる。

「点」を「伏線」と捉えると、毎日に感謝できる。そのように綺麗にまとめたいが、時にはドス黒い「点」もあり、それに屈服しないブレのない自分という軸が不可欠だと併せて思う。

そこに必要なものは、やはり自身も他者も尊重する姿勢だろうか。その観念は年々、確信に近づいている。

いい時期の自身はもちろん讃え、酷い時期の自身は必要な壁と戦っていると。明らかにやらかしたことも、自他共に向ける猜疑心に苛まれる時も、先のなにかに繋がらないわけがないと、そのへんをうまくまとめれば、“卒論”的なものとして認められるのだろうか。こういうのを数万字におさめるのは確かにキツそう。
_09/23

 

 

 

 


急に涼しくなったが身体は驚かずに快調。明らかに秋が来た。特筆して感傷的な気分にもならず。秋特有のあの感覚はもう味わえないのかなと、それはそれでどこか物悲しい。

一日、普通に仕事して、興行案件の準備で楽譜を引っ張り出したり音源を揃えたりして練習する。

だいたい、1日あれば起きてる時間で1度は眠気がくるのだが、楽器を持っているときはいっさいこない。いい脳汁が出てるのであろう。

淡々と日が過ぎていく。変化もあれば維持もある。睡眠よろしく悪夢も見ない。メンタルがフラットだと安寧そのもののはずが、平らな気持ちはどこか慣れない。そこは、ようやく、コントロールできるようになったと良い方向に捉える。
_09/25

 

 

 

 


税務署へ行き、インボイスという凄惨な政策に対応しようと思ったが、要請があったので仕事をする。

手のひら返しのような膚寒さの今日の気候のように、スススと時間が流れていく。

七輪で秋刀魚をパチパチと焼き、じっくり秋を堪能しようという発想はあるが、そのような環境は整っていないのでマグロの刺身を購入し、そっと冷蔵庫に寝かせる。

来月から「第三のビール」が値上がりし、ガチの「ビール」は値下がりするという。

もうなんだか訳がわからないという思いのなか、「第四のビール」の開発が近いのではと憶測する。しかしそれはさぞかし美味しくないんだろうなと、期待を寄せるには至らない。

えらいスピードで世の中が変化していくなとつくづく感じる。俺もまた、竹のようにすくすくと成長したいのだが、退化しているのか、維持しているのか、わりと進化しているのか、主観的には判断しかねる。

そういう弱気にも似た思考が生じた時は、4カウント鼻から吸って、4カウント止め、4カウント以上で口から吐くというマインドフルネス的呼吸法で心を整える。これが実に効く。

この方法を知ったのは1冊の名著から。それを知人の80代の女医から頂いた時期からもう1年は経つだろうか。改めて礼を言いたいのだが、当時、主に会っていたその場所はもう無い。

あまりにも早く時代が流れていく。やはり秋は、物悲しさの感情が露わになる。
_09/25

 

 

 

 


ギターの練習をしていたら真空管アンプが「バスッ」と鳴る。電源は落ち、起動を試みてもオンにはならず。

壊れてしまったかと、リペアの知識がないので修理しかないと狼狽する。今まで普通に使っていた物が急に動かなくなると、とにかくあたふたとしてしまう。

そうこうしているうちにクリニックに行く時間が過ぎていたので急いで向かう。ロビーで座り、ネットで修理屋さんを調べたりして気が気ではない心境。

「どうですか最近は」

「はい、なんか、悪くなっていません」

「そうですか」

「だんだんちゃんと、普通に、元に、いや、いい方向に、言い方が非常に難しいのですが、とにかく、悪くなっていないのは確かという感じです」

「いいじゃないですか」

本当に言語化が難しいので感じるままに喋る。とはいえ、主治医は言わんとすることはわかる、といった雰囲気だった。そういえばと思い、先月言い忘れていたことを伝えた。

「あと、酒の量が減りましたね…!」

「うん、それは関係しますよ。精神状態とアルコールは本当に…密接に関わるんですよ」

主治医は、確信に満ちた表情でそう仰った。

「はあ、やはりそうですか。一人で呑みすぎかなということが明らかに減りまして」

「それは良い傾向です。ではいつものように――」

そのように診察をしてもらい、アンプがいきなり鳴らなくなって心配だが、とりあえず俺自身は大丈夫だなと、客観的に専門医に判断して頂く。

宅に戻り、アンプの裏側をごそごそ見ながら、機材に詳しい友人に電話で相談に乗ってもらう。

すると、どうやらヒューズが切れていることが判明した。友人が言うには、電源自体が入らない原因はまずそこで、順序としては同様の型番のヒューズを買って交換し、様子を見ることだそう。

前提として、ヒューズが飛ぶほどの過電である可能性が高いので、本当の原因はなんとも言えないかもしれないという。

そういったわけでネットでヒューズを発注。これ自体は非常に安いし数日で到着する。修理となると3万円とかそれくらいはかかり、日数も数カ月単位である。ヒューズ交換のみで復活することを願うばかりである。

友人の助言もあり、ヘコんだ気持ちも引きずっていないが、やはりいつも使ってる物が急に全く動かなくなることはショックである。

機材のみならず、植物や動物や、他人であっても身近であっても自分でも、人間がそうなったら益々――と考えると、なんだか、危機感にも似た悲しみと、いつも普通に使えていることや接してくれている人間に対しての感謝の気持ちを再確認できる。

シンプルに、アンプがいきなり壊れてショック。と、一行で表せることだが、やはりその奥にある「いつも通りが、いつまでも続くというのは、当たり前ではない」という事実が根深く刺さった。

内観的な注意喚起であると同時に、「いつも通りでいてくれてありがとう」という気持ちは本当に大事だなと、切に考えさせられた1日。
_09/26

 

 

 

 


いつも通りだが起床時のけだるさは有難くねえなと、その一点だけはなんとかならんかと、ぬるっともっさり這うように起きる。

昨夜は、部屋にあるあらゆるものに対し「ありがとう」と口にした。摘発ギリギリの新興宗教のイニシエーションの如く、唱えるように、「いつもありがとう」と連呼する。

すると気持ちがリラックスする。光に包まれた心持ちになる。良い意味で俺もいよいよかと思ったが、感謝は口に出すだけで気分が向上すると知る。昨日からつくづく思う。万物への感謝の気持ちをおざなりにしてはいけないかなと。

いつも当然のように水が出てきてありがとう水道と。ちゃんと普段通り音が出てスピーカーありがとうと。包んでくれてありがとう服と。秒で光ってくれてありがとう電気と。世界中と交信させてくれてネットありがとうと。関わる人様いつもありがとう。酒、ありがとうと。

こと酒に関してだけは、「――してくれて」という、付随する言葉が出てこない。ただクワッと、飲料企業からCMのオファーが来るのではないかというほどの明朗快活な発声で、シンプルに「うまい!」と言える。ただただ気持ちよくさせてくれる物に対しては、「どうありがたいか」という理由は要らないのだろうか。

そんな、問答無用で他者様を気持ちよくさせることができる人間に俺はなりたい。あまりに抽象的すぎて、やはりいよいよかと思うが大前提としてポジティブ。起床時以外はだいたいポジティブ。
_09/27

 

 

 

 


「変わり者」「天才」「社会に馴染みづらい人」「能力に著しい差がある」「気分の変調が激しい」「普通の人間関係や社会活動がやりづらい」「感覚が敏感過ぎる」「感受性が強過ぎる」 という人間はたくさんいる。

手前は、これらを全部「個性」だと思っている。

例えば、数字などに対し天才的な能力を発揮する、人を恍惚とさせる音楽を作ることができる、心を打つ絵を描く、ギャグセンスがズバ抜けている、人の心を見抜くことができる、誰も気づかなかった法則を定義できる、神がかった洞察力がある――などなど。

一方で、コミュニケーションが苦手だったり、異常なまでのこだわりがあったり、日常生活がズレがちだったり、人の気持ちがわからなかったり、なにかに依存しやすかったり、一般社会ではなかなか理解されない側面があるかもしれない。

1990年代あたりから(もっと前からかもしれないが)、これらの特性を持つ人間に対し、いろんな名前が出てきた。

ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)などがそれにあたるだろうか。

断言できないのは、俺は専門医ではなく、前提として俺の知識が源流の個人の感想だからである。なお、前は「アスペルガー症候群」や「自閉症」とも区分されたものは現在ではASDに含まれる。

これらは、主に精神医学界で、一般的な脳の個性とはかなり差異があり、普通の社会生活に支障をきたしている場合についての、それぞれの呼称である。

いまは、厳密には「障害(または障碍・障がい)」とは呼ばず、「症」とつける場合もあるという。いずれにせよ、名前に病的な印象がある事に対し、俺はどうも腑に落ちなかった。

なぜかというと、やはり人それぞれの個性があって、そこが逸脱レベルでも、良い方に捉えるべきだとずっと感じていたからである。

だから、「もっとクールな呼び方があっていいんじゃないか」「そのへんをみんなが理解して、個人の能力を伸ばす方向に努め、社会で楽しく共存することが望ましいのでは」と思っていた。

なんならそれを広められるくらい勉強しようかなとも思ったが、たまたま今日、その名前を発見した。

「ニューロマイノリティ」という言葉があり、神経学的少数派という意味だという。

そして、これを尊重しようというニューロダイバーシティという概念がすでに提唱されているという。意味は、文字通りで「ニューロ(神経・脳もちょっと含む)」「ダイバーシティ(多様性)」が合わさった言葉。発達障害などを、各々の神経や脳の違いによる「個性」だと捉える概念とのこと。

手前が知らないだけで、すでに同じことを思っている方々がいたのである。いわゆる、「普通」に合わせようとすると感じる生きずらさを、特化した部分に活かしてめちゃめちゃ能力を発揮する方に促すわけであろうか。

その特筆すべき能力にフォーカスして仕事のやりかたや人付き合いの工夫を整備すれば、みんな幸せになれるんじゃないかなと思う。

だから、ニューロダイバーシティが浸透すれば、「なんか生きづらい」「心がしんどい」「会社に行きたくない」「なにをするべきかわからない」と苦悩する人が、伸び伸びと人生を謳歌できる環境に、すぐにたどり着けるのではないかと思った。

いわゆる天才や、世に名を残す偉人は、どこか偏りがセットだと思う。iPhoneを発明したスティーブ・ジョブズさんは本当に世界を変えた人物だが、彼の自伝の漫画版を読むと、人格が相当偏っていた様子の描写がある。

要は、「偏った人間(悪い意味ではなく)は、そのぶん突出した能力を必ず持っていて、然るべき環境で過ごすとめちゃめちゃすごい事になるはずだ」ということである。

それを牽引するのが「ニューロダイバーシティ」だといまのところ認識している。

そうなってくると未来は明るい気がする。いじめや差別も減るんじゃないかと思う。俺は今日初めて知った概念だが、まだそこまで広まっていないのが現状かと思われる。

けっこう調べたら、ニューロダイバーシティのイベントやサミットが国内でも開催されているらしい。

だから、機をみて行こうかなと思う。取材して、記事にしたいと思う。俺が書いたやつじゃなくとも、そういう記事がネットニュースのトップにあがることを早々に願う。そういう案件を掴みに行きたいと切に思う。

一つの言葉を知るだけで、強めの感想が滲む秋の1日。
_09/28

 

 

 

 


真っ先に興行案件の練習をする。続いて進行中のライター案件の対応をする。時間はこの時点で15時台。時間にゆとりがあるなと界隈をさまよい老舗で蕎麦を食う。

イトーヨーカドーの本屋で株式投資関連の書籍を立ち読む。ふむふむと少しずつ知識を重ねる。借金もあるくせに手前は株をいくつか保有中。返済に充てるのが順番として正しいことはわかっているが、投資を初めて1年9ヶ月。地味に増えているからよしとする。

そういう問題ではないかななどと思いつつ、駄菓子屋の前にあるちびっこ用のゲーム機に似た筐体の「血管年齢」を測るやつに200円をインサート。結果は、ランク的に最悪の判定だった。

そんなはずはないと上気した俺は隣にある別機種同検査のやつにも200円を投下。結果は、偏差値はちょっと良く、血管年齢は「40歳」とのこと。

なんだ普通じゃねえか、機種によるとかパチスロの設定か馬鹿野郎とも思い少し安堵。だが、俺は謎に体の健康状態に自信があったので「27歳」くらいを叩き出したかった。やはり時間、すなわち年齢を重ねることは残酷なのかなと若干むくれた気持ちになる。

赤羽公園で彼岸花の蕾をいくつか確認。すると明日には咲いているなと、いきなり咲く秋の名物の出現に先手を打つ。そして、健康に対しての免罪符を発行するように葉っぱを多めに買って夕食にプラスする。

あとはYouTubeの動画を更新したりチェックしたり、次のシリーズの構想を立てたりしてわりとゆったり過ごす。

中秋の名月とやらは曇っていて見えなかった東京都北区。家で過ごして近所でフラフラしていても、なにかと発見や喜怒哀楽が芽生える秋季の日常。
_09/29

 

 

 

 


日中いっぱい仕事をし、夜は知人のバーへ行き楽しく過ごす。初対面の方々とも多岐にわたる話題で場が温まる良き時間。

なんなら朝まで居たかったがそこは翌日を優先させ、ほぼ終電の帰路。そこまで飲んでない(ジントニック4杯)ので酒缶と「さけとば」を買って帰宅。

ほろよい前後くらいの塩梅だが、やはりふと、このあいだのように「俺はこの世に何をしにきたのか」と、しげしげと思う。

おそらく、決定的な何かを模索しているのだろうかと俯瞰する。とにかく、今日という今を一生懸命生きていれば、それはあとからついてくると思考をフワッと一旦畳む。

満月が視界に入る。秒で過ぎ行く9月末日、やはり季節らしい心境になっているのだなと想う。
_09/30

 

 

 

 


 

 

 

> 08/2023

> BLOG Top