11/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。離婚とお見合いの猟奇。11


一体何のために俺は小説を書き始めたのか、と、振り返るもそれは今進めている初作品に全て書いている。

面白いんですかねそれ。と聞かれれば「それはもう」と、顎を上げるであろうが一回死んだ。最初の公募に落ちた。

あの時の、まるで女房に三行半を突きつけられたかの如しカタストロフィー的情念は記憶に新しい。夏のことだった。

もしも俺に女房が居たとしたら、しばしば言及するであろう。「ふぁいと」と。目を合わさずに。

そんで離婚ですよ。しばらくしてこう、テーブルにやたら長文の、「むしろ君が小説を書けば」と喫驚するほど美しき筆致でメッセージが残されるのだろうか。

そこには、いかに自身の人生と俺との何らかに乖離があるかを、まるで初期の三島由紀夫氏のような文体という離れ業でA4用紙にびっちりと、危険なほど小さなフォントサイズで執筆されているであろうか。最後の手紙。そんな未来は嫌だ。

だからという訳ではないが、ちょっとはそういうことも何となしに思ってはいるが、つまり、これまで以上に立派に。隆盛に。人生をと。

その飛躍的な展望を見据えるべく、小説を。文学という世界で、俺はどこまで通用するのか、必要なのか、そうでもないのか、価値があるのか、クリーチャーなのか、凡庸なのか、鋭利なのか、要らない子なのか。

それを問うべく小説を書き続けている。今年は二作の長編を書いた。ひとつめを改稿しては「入賞したら女房が戻ってくる」というほど敷居、格式高い公募に挑む。

その最中に、女房、女房というような存在が居てくれたとするも残された手紙。冒頭はショックで理解できずに、だが頑張って読み進めるのであろうか。

「――そのような抽象的な熱さが、私には心外にも堪らなかったのです。決して、人間として揶揄する心象にあらず、ただ、ふと長い目で、私なりに思案することが様々ありました。それは、時間という残酷なすれ違いなのかもしれません。そうであって欲しいという私こそ、ある種の道化に魅せられた愚か者なのかもしれません。それを見極めるという意図がしばらくはあったということが、どうか、伝わればという想いは私独自のものかもしれません。すべては、明らかにすることは難しいと考えます。きっと、あなたは間違っていません。私が、柔軟さという文脈での正しさを知らない者なのかもしれません。しかし、人生が抽象的に寄ることをすべからく愉しむ術を、私は存じ上げないのです。他方で、あなたは、それを感じられる叡智を携えている人物であるのかもしれぬことは、少なからず信じております。遠くから、私はあなたを忘れることを拒む努力をある程度はするのかもしれません。遡ると、多様な思念があったことは、あなたもきっと、その色々しい肌で感じていたと私なりに胸に落としております。ただ、それはひとつひとつ、音を消すようにして、在るべき色の何枚もの薄い布で覆われるような気持ちなのです。言えることはもう、たったひとつになってしまいました。ふぁいと」

こんなんがお前、仕事帰りでしこたま疲れて帰ってきて真っ暗のキッチンで、ちゃぶ台に、そっ……と置かれていては俺は狼狽してね、ふためいて姿勢を正して読んでみろ。死ぬぞ。

強調するが、だからという訳ではないが、立派な人間。それが何なのか俺には現状わからないというか体現しないと理解できない。

――文学に挑む初年。11月目。俺は上のように思った。その半分くらいは架空の冷静な女房による執筆となるが、そういう視点。大事だよなとも思った。

一体何のために俺は小説を書き始めたのか。それを堂々と断じれる日まで。「ここにその理由が全部書いてある」と、書籍を渡せるその日まで。ねばりと頑張りと熱狂をすべてねじ込んで行け。などと思った。

だから、今日あたりも仕事以外の時間、けっこう原稿進めてたと。そういう日であった。いけるのか、出せるのか、評されるのか、書き続けて喜ばれるのか、それがまだ現段階ではわからない。〝抽象的な熱さ〟を具現化した暁には俺は狂喜乱舞して逆に冷静になり、きっと喋りがゆっくりになる。

そこまで想定しつつ、初動から冬が一周する手前の地点でそう思う。ふぁいと。と。それでも、ふぁいと。と。
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スピリチュアル・ヒーリング。近所にあった。ずっとずっと、気にはなっていた。それで三年ほど経っても行かず。そのうち、ポストに投函されたその店のクーポンが含有されているチラシ。それを捨てられなかった。

クーポンの内実は「3万円が1万円」。うさんくせえだろ。きっと誰でもそう思う。俺は騙されん。養分になる体たらく。断る。でもチラシ、いつまで経っても二ヶ月くらいであろうか。キッチンの小ぶりな台の棚の隙間にずっと、ねじ込みっぱなしにしては捨てられなかった。

今年初月。うさんくせえだろ。それが麻痺してきた頃に決起して「ううん、2万円得するわけか――」という思いは願いましては脳内のそろばんが決着をつけた。つまり、行った。そのもようは当時、ここにかなり克明に書いた。なお、ヒーリング中に録音機などは回していなかった。バレたら霊的に殺されると本気で思っていたからである。

結果。すっきりした。調子がよくなった。あと、俺になんか変な霊が憑いていたらしく、それも「ついでに――」と言われつつというかそんな軽いものなのでしょうか。現場ではそおう慄きつつ祓ってもらった。

――その数日後にとある出来事との邂逅。それが発端というか決定打となり、小説を書き出した。芥川龍之介賞受賞者発表日の前日であったことはその当日にJ-WAVEからの報道で知った。「何かの縁だ」と、俺はすさまじくバイアスのかかった善処とした。

経緯、行為、契機的な側面で言うと、書き始めて熱狂しだしたのはこのくだり。今日、小説原稿の改稿を進めながらふと思い出した。

というか忘れないようにメモ書きをずっと財布に忍ばせている。初期衝動を言語化した紙をいつも持ち歩く。経営者や起業家がよくやるあれである。ごく自然と、俺もそのスタイルを採用した。今も入っている。

うさんくせえかどうかは、体現しないとわからない。俺はライブとしてそれを吟味した。結果、そう捉える者も居るであろうが、俺は行動に繋がる一要素となった。

当時、ヒーリング店で最終的に「ここまでやったら本来は8万円コースだけどね」と、語尾に音符をつけながら霊媒師は言った。だが、会計は1万円ポッキリであり、俺は「うさんくさくはなかった」と、断じた。嘘ではなく現に、あれから調子の〝質〟みたいのが変わった実感が今も続いている。

なおこれはアフィリエイト記事ではない。月初になるとこのページ前半には俺の文章を完全に無視した広告がバンバンねじ込まれる訳だが――というか俺が広告を入れる設定にしている――そこにはスピリチュアル系の誘導線はないはずである。

いちいち確かめないが、とにかく「詳細はコチラ」「試しにいかがでしょうか」「一度そういった体験を経るのも人生の糧となるのではないでしょうか」などというしょうもない導線の一文を俺は記さない。

ただ、事実として俺はそういう体験をして「いや、なんかいいっすね」という感じになった。うさんくさくはなかったということを一次情報・体験として知ったというだけなのだがこれ、今日の出来事とそんなに接点はない。

と思いきや、この文脈のシーンが改稿中の小説内にあって、そこに対し、目を皿にしては原稿を磨くべくメスを入れたり、余分な贅を抜いたりして進めていた。

と――改稿中に思考を巡らせていた裏側では、上のような一連の思案が想起されていた。リアルタイムでは小説をどう磨くかしか考えていない。

だが、どうやら意識と無意識やらには何重もの〝層〟があり、その表面層ではない部分を日の記す内容として言語とすると何でこうなった。このようになる。

そこで俺は思った。スピリチュアル・ヒーリング。近所にあった。ずっとずっと気には、なっていた。その時点で行けと。赤羽に、新規開店のピンク・サロンができた。やや気になった。その時点で行けと。

前者は、生産性に繋がる行為であった。後者は、俺にとってはまず、消費でしかない。すなわちピンサロにはまず行かない。というか、やや気にもならない。男だろ。行け。という暴論というか正論。論理ではない。リビドーと昔の人はそう言った。違う。それはもっと学術的なものである。

こんな風に意識とか「自分の思考の正体」なんてものは、実のところまるでわかっていないどころか文章としたらあらぬ下心までむき出しになること。多々ではないであろうが、あるのかな。俺にはわからないけど、今書いているのは思考の裏側の部分である。

そうでもなければ、もっと文章を丁寧に書こう。昨日の女房を見習え。というかあれは誰だ。誰なんだよ。そう。〝裏側〟のどこかに、確実に居るやつが書いたのであろう。

意識の分岐。そうは書かれていなかったが、偉い心理学者さんの著書などに触れると、その内実にいくぶんかは迫ることができてけっこう俺は、面白いと思う。何冊か購入して本棚に、今、目前にある「IKEA」製の本棚に、ズンと鎮座している。

このように記すと、仮に俺がアフィリエイターであったら本文のあちらこちらに「スピリチュアル」「遊郭案内」「心理学書」「フロイトやユング」など、魑魅魍魎の如し色彩とレイアウトをもってしてそれらの広告が乱雑にビタ付けされては混沌とした状態に成り果てる。

俺は夢を見ながら日記を書いているのであろうか。近いと思う。

しかし、きちんと一日の体験と思考と想起と表彰という〝事実〟に基づいたものであることを強調。しても別にしなくても。アフィリエイトってまだ儲かるのかな。どうやら俺にはそのセンスは控えめに言ってなさそうなのでしないかな。アフィリエイト。これは日記。今日も豊かな一日にとても感謝している。思考の層が雪崩を起こしそうなので酒で食い止めよう。

今日の肴は。すごいな。さっき買って冷蔵庫に入れたばかりなのに今、本気で思い出せない。そう。それほど、〝意識の層〟といやつは果てしない。気がする。
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ブックオフで迷子になる。意図としては、昨夜に「夜に読む用の文学作品」を読みきったので次。それを一冊買おうというものである。だが、何を買えばいいのか、何を読めば血肉となるのか、それがまるで訳がわからなかった。

文学の学び。〝小説のフォーマット〟を自分に慣らす。これらの前提で最近は人文学書以外に、吸収・参考ベースで、小説を常に読んでいる。ここ数週間のその書籍のラインナップはというと、以下のようになる。

「好きな作家」として中島らも作品、町田康作品らを4冊。「最新・現代の小説」として『それいけ! 平安部』を1冊。計5冊を通読。あとは、書店や図書館で乱雑に作品を手にとっては部分読みして参考にする。という内訳。

じゃあ次は。というところで俺はブックオフ赤羽店の文庫本コーナーで立ちすくんだ。前提を鑑みて、次は誰の作品を読めば全くわからないのである。

しげしげ様々、各作家さん方の書籍を手にとっては冒頭を読み、発表年数を確認し、著者プロフィールを眺め、「どれを読めば今の俺にフィットするか。学びとして適切か」と、正解を探そうとしていた。

気づけば文庫本コーナーから逸れ、文庫サイズではない小説コーナーで右往左往してはいろんな書籍を手にした。「どれだろう」と漁っているうちにコーナー端まで達してはノンフィクション漫画コーナーに差し掛かり、『アル中ワンダーランド』という作品を手にとっては立ち読みし終えて「これ、ウチにあるやつだ」と、その名作っぷりに改めて敬意を表した。

そのへんで思ったことがあった。「何というか、変に真面目すぎやしないか」と。意欲といった点では善処だが、何というか、その捻りのない真面目さは面白いのを創るといった観念では凡庸に舵を切るのではないかという懸念。

それも正解がわからないと、とにかく有名な作家。売れた作品。話題作。色々手にとったが正解、答え、それはないのかもねと暗に思った。だが、ひとつ思い出した。

創作の参考といった場合においては〝名作を読むよりも、その名作を書いた者が読んだ作品を読むべし〟的なことを。これ、誰の提言か本気で忘れたが、それだよなと同意できる。

音楽に例えるならば、ブラックミュージックの素敵な作品を創りたいとしよう。そこで最近のヒット曲を参考にするのもいいと思うのだけど、やはり一世代、二世代遡り、更には始祖までと、その潮流を汲み取るのが得策だと個人的には思う。

この場合、やはり(以下、敬称略)ディアンジェロは1stアルバムまで聴いて、スティーヴィー・ワンダーもスタジオ盤を一通り聴いて、ジェイムス・ブラウンのグルーヴを身体に叩き込む。最低でもこれくらいはするのが。という風に思う。

ロックだったらやはり、オアシス、ニルヴァーナ、AC/DC、エアロスミス・レッド・ツェッペリン・ビートルズ――くらいまで遡るというかこれらを一切聴かずに素敵なロックミュージックを創れるなんて離れ業だ。という風に思う。

ということで変に構えずに大御所。普遍。始祖。それをきちんと改めて抑えようと思った。ブラックミュージックだとスティーヴィー・ワンダー、ロックだとビートルズ。文学においてこれらに充たるのは――。

芥川龍之介。太宰治。三島由紀夫。川端康成。大江健三郎。坂口安吾。安部公房。このあたりだろうか。

上に挙げた作家の半分くらいの方々の作品は、20代の頃に買ってまあまあ読んだ。しかし、現在のように〝小説を書いている前提〟ではないので、今読むと間違いなく見え方が違うはず。だから、その視点でもって学ぶべく、昭和の作家さんの〝普遍〟の作品一冊に絞ることにした。そこで迷子から親に出会えるかもしれないと。

チョイスしたのは三島由紀夫著『仮面の告白』。内容は、何となくしか知らないのだが、名作らしい。これを通読して学ぶことにした。確実に俺の文体や色は三島由紀夫とは似ても似つかないだろうが、学ぶべき部分は、スティーヴィー・ワンダーやビートルズ級にあると捉えることに異論は出てこない。だからそれを購入した。

――音楽だったら、「次に何を聴こうかな」となった場合に、自分に合いそうなのは脊髄反射くらいでわかる。それだけ音楽を聴いて、弾いて、創ってきたからだと思う。だが小説は俺、まだ一年生である。「次に何を読もうかな」の〝学びが前提〟チョイスが秒で出るはずがない。だから、古典――とまではいかないかもしれないが――を選ぶ。普遍を捉える。三島由紀夫作品で学ぶ。

というところで迷子は親に出会えたか。それを証明するのは、自分の小説がお店の本棚に並ぶ時である。

「ふざけやがってこの野郎、どこぞの野郎が売り飛ばしやがったなこの野郎」と、顔を真っ赤に染めて憤慨してはブックオフの棚に陳列する自分の書いた小説すべてを買い占める。そういった意味のわからない行動に出ることができるその日まで。お勉強をしよう。

三島由紀夫は享年45歳。俺は今45歳。文学をやる一年生として、はたして俺は遅すぎるのでしょうか。そのへんも、学ばせていただこうかと思います。
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たばい。ただ、酒を呑んで口のなかを切らしてまた呑んだ。

11/04

 

 

 

 

 

 


冒頭一文字目で致命的な誤字。酔っ払って書いたんだろう。なんか日付のレイアウトもいつもと微妙に違う。日記=その日の記録という扱いにつき、別にそのへんを直さないが、何というか酷いな。

おととい、フルに仕事やらタスクやらAIとの壁打ちやらと、もの凄い密度の一日を過ごしては酒で締めていた。

深夜――立ち呑み屋に言って、見知らぬ年上の女性と談笑しつつ呑み、楽しく憩っていた。しばらく経ち、所々覚えていない夜を振り返る。

明るい時間、キッチンで翌日に財布の現金の減り方を確認。4,000円くらい使ったのか。そう振り返るとつまり、呑みすぎたのである。立ち呑み屋で4,000円くらいってけっこう呑んだはず。そして鈍い痛みを覚えては出血を確認した。

唇が痛い。両膝が赤青いことになっている。そこから判断できるはまあ、派手にコケたのであろう。前歯が一本、ほんの少しだけ欠け、唇は誰ぞにしばかれたかのような、軽い傷がある。両膝から崩れ落ち、手で堪える瞬発力が酒でバカになっていて顔面、地面に打った。そんなところであろう。

まずないことだが、仮に誰かと本当にケンカなどをしていたとしたら、この負傷からその説明ができない。だって両手が無傷で、両膝と唇だけ傷んでいるって、どうやって相手とやりあえばそうなるか。仮にそうだとしたらちゃんと覚えている。あと俺は人様と殴り合いのケンカなどしたくない。すなわちこの可能性はゼロに近い。すなわち激しくコケて今も痛い。

ちょっと酒の呑み方考えないといかんな。とは思いつつも体は休まったからいいか。などと善処したいところだが、今日やるべき仕事をしなかったのは反省すべきである。それでも小説はけっこう進めたというこの、謎の優先順位。

というか、仕事に関しては昼間やらなければならないうえに、気持ち悪かったからできなかったと。三日酔いみたいになっていて俺は一体何をしているんだと、溶かした時間と生活態度に謝罪したい気持ちである。あと、唇がまだ痛い。

結局、酒は抜けたが、おととい買った三島由紀夫作品もまだ1ページも読んでいないし仕事もやるべきタイミングでしなかった。それらを原因は怠惰である。よくないね。酒に飲まれるというか自分の欲に翻弄されるのは。

正しい欲はきちんと昇華に務め、怠惰の欲は律するべし。今読み進めているアリストテレスさんの倫理学の下巻にそんなこと書いてあったよ。学ぼうよ。紀元前にそんな基本的なこと説かれた訳だから。

昨日今日は、生産的なことはほぼできずに、せめてと、小説はまあまあ進めた。だが、それ以外は善く生きていなかった。そんな日々もあるけど、もうやめようね。夜中に一人で立ち呑み屋に繰り出すの。

人生の隙ってどこでどう出るかわからない。「生活」においては中庸であるべし。出血までしてやっと理解できましたよ。アリストテレスさん。何かごめんなさい。反省文になってしまいました。
_11/05

 

 

 

 


昨日の体たらくから思った。誠実さとはと。

今日はしこたま仕事をして、とても気分が良かった。小説の改稿もなかなか進む。真面目な一日でよかったじゃないかと一瞬、思った。しかしそれは違うと感じた。

正直、俺の捉える、自分においての「真面目」というやつは悪癖みたいなものである。端的に、「誠実」とは似ているが、相当に非なるものなのではと。

辞書によると「真面目=本気、真剣、誠実、誠意」とかそのへんらしい。というか「誠実」が入っているあたり、俺の考え方が間違っていることになるがそうではなく。

もう結論から言うと「誠実」というのは原則として「他者と自身両方にかかる」やつ。だと思った。

一方で「真面目」というのは、〝本気・真剣〟あたりは「まんまそうですよね」と、さほど異論はないが、「向かう方向が、自己完結である場合を含む」という風に、さっき近隣を歩いていてふと思った。本当に一瞬でそう思った。それってどうかなと。

――真面目な場合、それが自分にとっての喜びや義務感、「そうでなければならない」という思い込みに羽交い締めにされる。

――誠実な場合、それは自分起因ではあることは真面目と同一だが、そこから生じる喜び等は「他者にも向かう」ということ。

要するに、「独りよがり」か、「みんなの幸せに向いているか」、というだけのことだろうか。

前提としてこれは持論である。だからあとでAIあたりに厳しく吟味してもらっては明日、言い訳を書くかもしれない。だが、本当に俺はそう肚から思った。

だから、真面目というやつは、俺にとっては悪癖でしかないと。

仕事も対人関係でも呑みの席でも何でもそうだが、そこに誠実さがあれば、みんな楽しく居られる。そうでなければ、変に真面目だと「いや、私はこう思うのでこれ、突っ切ります」というニュアンスに似たある種の〝頑固さ〟に直結する。これ、いかがなものかと。

そういうのが似合う人も居る。だが、俺は、そうであるべきではない気がしてならない。

〝あるべき〟などと言ってしまっている時点でもう真面目じゃねえかという側面もあるがちょっと脇に置いて、あとで記す大前提がありますから。

真面目だと、どこか、手の抜き方と言ったら飛躍しすぎだが、本来の意味での「いい加減」を逸する。

それは、ロックサウンドで例えるならば、あの生々しいノイズの魅力。揺らぎ、グルーヴ、けたたましいシャウト。それに欠けたロックサウンドって――それはそれで綺麗で、いいけど、何か、真面目っすね。と、個人的には思う。決してそれが良くないと断じるつもりは毛頭ないが。

ただ、真空管アンプからフォォォォ〜〜ン……とフィードバックされるあの恍惚とした倍音。地を這ってはライブハウス揺れてるじゃないかというほどの重低音。「怒ってるんですか?」というほどのボーカルの殺気立った所作と声。それらがないと――みたいな感じであろうか。

これを俺は誠実と呼びたい。となるとまた若干飛躍しているが例えとしては変ではない気が俺はする。

つまり、真面目に丁寧にロックギターを弾く方が居たとしよう。上手でいいじゃないですか。とはならないと思う。「ちょっと、思い切りギターソロしくじらねえかな」「弾いたね」「あの際どい部分わざとかな?」「圧、伝わってきたね」「途中ちょっと何か下手だったけど」くらいの〝加減〟がないと何かこう。というような感覚である。

でも言ってしまうと俺はきっと真面目である。いやそうなんじゃないかと思った。ただ、それは、こと自分個人に対して言うとどこかおかしい。そこで出てきたのが誠実という言葉。

辞書によると「誠実=偽りがないこと、真面目なこと、真心が感じられるさま」とのことである。やっぱり真面目、入ってるな。とも思う。

だが、「個々において」というある種の言語ゲーム(言葉の意味は固定されたものではなく、文脈や状況に応じてゲームのルールのように変化する)的な吟味をすると、やはり俺からすると「真面目」と「誠実」は違っていて、後者のスタンスで居たい。

などとシンプルなのか複雑なのかわからないことを考えては夜空を歩き、落居した。しかしその内実をまとめてみようと今書くと何だ、ギターが何だって? ということに成り果てる。だから短くまとめる。

「真面目」=起点が自分で、返ってくるのも自分。

「誠実」=起点が〝他者があっての〟自分であり、みんなに波及する自分の行為なり。

なんじゃないかな〜と思った。一人称単数とか一人称複数とかそのへんの考え方だろうか。とかそういうのいいよ。要は上の二行でまとまってる。

つまり、誠実に生きてみなさまと楽しく。そのためには、きちんと自分に、そうあるべき抑制力がかかる。ぜんぜん魅力的とは言えない逸脱は生じない。だが、真面目だけだと、何かこう、あんまし面白くないなと。そう思っただけの話である。

間違ってたら明日訂正するが、というか間違っているはずがないが、本気で俺は今日、このように思った。真面目か。
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昼イチで懸命に小説原稿を頑張ってガッツを伴い進めるところ、タバコが点かないというか電子タバコ。某電子タバコがいきなり死んだ。

何度となく再起動しては半ば、気づいていたがこのデバイスの寿命、それは約2年。生産当初からそういった設計のもと作られていると、そのデバイスの競合他社の者から、いつだったか確かに聴取したことがある。

律儀にまた2年で故障とはと、俺は憤慨して近場にデバイスの購入に行く。6,980円。痛い出費だと懐を心配するもそれよりも原稿だと、すぐに帰宅してけっこう時間をかけては進めに進め、ようやく気持ちが落ち着くかに思えた。

だがそれでも憤怒に冷却の気配、それを察知せずまま俺はクリニックの定期検診でロビーに行った。そこではフジファブリックの楽曲「若者のすべて」が、オルゴール・バージョンBGMとしてコロリコロリと鳴っていてはサビの三連符がいいなあ〜などと聴覚に集中し、俺は手元の倫理学の本を少し傾けると同時に、怒りの静まりを感じ取った。

「平吉さ〜ん」と、係の方。「はい〜」と、俺。主治医の問診を受けつつ以前の血液検査の結果を共に確認する。

指摘を受けてこれまたふざけるなと思っていた中性脂肪。その値は前々回「200少々」つまり中庸に非ず過度。しかし今回は「100少々」であり正常値。ようやくここで、完全に安堵した。

他の数値は正常の範囲内。唯一、「γ-GT」なる〝酒の呑み過ぎ〟がダイレクトに反映される数字が「91」と、これまたここのみ、唯一、デッドラインを超えていた。前回は「84」であった。俺は叱咤を覚悟した。

しかし、先生曰く「まあ、前回と『7』しか変わらないですし平吉さん。他は大丈夫ですから、そんなに気にせず――」とのことであった。

そうか。と思い俺は薬局に行き、そこでいつも対峙するN氏という歳上の女性薬剤師と話し合う。

「ちょっと見てやってくれますか。俺のこの血の値」と、血液検査の用紙をフロントのテーブルにずいと差し出した。N氏はにこやかに各数字を見ながら全ての数値の略称を正確な名称で口にしながら解説してくれた。

「――いやいやぜんぜん大丈夫ですよ?」「でもここが」「いやいやぜんぜん」「さようですか」「ほら、尿酸値だってナトリウムだってカリウムだって」「ですよねでも、酒が」「減らしたのですね?」「とはいえ91て」「これくらいなら別に――」「そうですか!」「それでお酒ヤメるというのもねえ――」「それは手厳しい!」「そこまでしなくても」「ですよね。面白くないよ!」

このへんで別の薬剤師が侮蔑するようにせせら笑っていた。それを見ては「ああ、客観的には滑稽なのか」と俯瞰。頭に登った血はバランスよく身体を循環。薬局を背に、ネギタワー・タンメンを食べて帰宅。すこしゆっくりして楽曲制作をする。

――ああそうか、この楽曲のメモのこれ、こう発展するのか。わりと壮大だな。そうか。着想の楽曲がそうだったからそうもなるだろうけど、この方向性だとモチーフの肉付けなどではなく、自分が作る曲になっていくなあと、どんどん血を流していこうと、アレンジ案が色々と浮かんではどこか安心して、楽しくなってくる。ピアノトラックを継ぎ接ぎに録音してスケッチし、全体のサイズが決まる。

そこで今に至るが何で俺は昼間にあんなに、必然的現象を目の当たりにしては心象を乱していたのであろうと我に還る。

――「平吉さん、血圧の方はどうですか」

「はあ、相当低いのです」

「遺伝的なお話ですが、ご家族の方で血管や心臓、脳の疾患の方は?」

「父親が脳梗塞を2度起こしては認知症、あと、えらく高血圧でした」

「ではその時点でひとつ、危険因子となるのです」

「大げさでは」

「いえ。お気をつけください」

「でも僕、血圧なんてたまにマツキヨで測りますけど、どんなにいっても上が120とかですよ」

「それなら現状は大丈夫でしょうが、年齢と共に――」

「あんま興奮しないほうが――?」

「それも」

「ははあ」――。

という主治医とのくだりがあった。だから、電子タバコのデバイスが無音の霹靂と共に壊れたくらいで血圧を上げないことにしよう。

血液検査で主治医にさほど言及されず。デバイス死す。創作はとても進む。振り返るといいことの方が多い一日。だから、些細なことで健康を害するなかれ。そう思いつつ、いつもは3本買ってくる缶酒が今日は、今日も2本。こうやって老いていくのかな。

そうもすこし思った。要は健康に注視した一日。じゃあ喫煙デバイスが死んだその時点で禁煙という発想がどうして無いのか。遺伝もそう、そして興奮もそうであろうか、共におざなりに捉えると、時に、節制の忘却の危険因子となりうる。医学的知見と俺の反省。覚えておこう。先生いつもありがとうございます。
_11/07

 

 

 

 

 


いつもくらい、2,000文字くらいさっき書いたが全て削除して書き直す。

端的に、以前落選した公募先から郵送物が届いた。そこには、俺の小説初作品についての「講評」があった。

初めて生身の方から、ライター業以外で文章のフィードバックを得たなと、実に新鮮な気持ちであった。そこには、いいところ、懸念点、課題点などがA4紙2枚におよぶ文字量で記されていた。

それ以外にも、生々しいことをさっき書いた訳であるが、それを、たとえこのプライベートな場所にであっても残すことは倫理的によろしくないと断じ、改めた。

そこで気づいた。言いたいことは一つだった。落選したが、批評文をいただけてよかったじゃないかと。結果的に、わりといいところだかその手前あたりまでは、初作品、健闘したんだねと。

改めて気を引き締めて、目指すは太宰治賞。次に――来春に第二作目を投じる――目指すもある。だから、今日も改稿を進める。出版社様。フォーマルな形でのお言葉など、心より感謝申し上げます。
_11/08

 

 

 

 


奇怪な夢をみては中途覚醒。キッチンへ、水、水が飲みたい。昨夜は「エビ」のボイルに醤油をつけすぎた。水、いや、何の心境の変化かこの間、ポカリスエットをリッターで買って冷やしてある。こっちだ。しっかりしろ冷蔵庫。死にかけて再起動一発で復活を遂げたお前を俺は信頼している。甘露。水と酒以外の飲料を宅に置くことは滅多にない。だからポカリ、冷えているそいつから桃源郷のような喉越しを。

などとは全くもって考えることもできない早朝の大脳。飲んだ。俺は思った。冷蔵庫はまだいける。そして、水以外も、たまにはわるくない。と。

酒は3杯まで許す。この鉄則を100回以上破ったことだけが起因ではないが、ここのところ「2杯まで許す」という抑制をきかせては数日。体調がよい。こんな、数学みたいに式と答えが一致するなんて人体とは。いや、常識とこれを世間では言うらしい。俺は世界を見直した。

日中四六時中、己の思考で世界を点検する。そんな意識はほぼほぼない。しかし無意識下では確実にはたらいている。

肝臓もそう。フィジカル的な無意識みたいなものである。しこたま痛めつけるまでは沈黙を続けるが、度がすぎると決壊しては病となる。

つまり、心も一緒で、意識下でぐつぐつとさせ続けるといつか、その無意識の領域からさまざまなかたちで、さまざまな観念の顔を出す。よくもわるくも。

何が言いたいのかというと、自分で制御できている「つもり」の境界線は、案外曖昧であり、時には数式の如き正確な結果を導き出す。時には文学の如き多様な反応を示す――俺は自分の原稿を見直した。

前稿では問題視しなかった部分。そこに吟味の必要性を見出せた。上の例えで言うところの、以前よりも無意識が膨張しているということになる。その源泉は、さまざまな読書体験を集中させたことが比重として大きい。

勢いで書いて、リズムよしと断じた箇所にも、「文学だとこうじゃないか?」という点検が入る。それはまるで旅行前と旅行後の日常の景色の見え方の相違の如く。

そうなると、行く、行く、行こう、行ける。などとここに書いてはもう3年は余裕で経った熱海旅行。行ってねえな。と、そこにも点検が入るうえに「その日帰りちょいの旅行の前後」の体験だけでさらに、無意識に創作材料がストックできる。だがまだ行っていない。

――ふとその理由を考えると、日々を旅行のように、本当に強引にそのように捉えているという意識が確かにあるからであろうか。

そうなってくると今日はどんな旅行でしたか。

はい。ポカリがやけにおいしかったです。寝不足で仕事がしんどかったです。小説原稿の会話劇シーンにちょっと中島らもさんと宮島未奈さんらのニュアンスを入れたら整いました。三島由紀夫さんの真似というかタッチを入れるのは、俺にはまだ難しいです。これくらいだろうか。旅行と言えるのか。

インドへ行け。そこら中に、一日何もしないで転がってるおっちゃんとか馬とか象とか聖人とか居る。人生観が変わる。とか言われてもどうだろう。

正直、二択だったら「行きたいです」となるが、「別に象とか」。となる。それよりも今は、無意識下から浮上しようとしては閾下でプルプルしているやつを作品に、小説に落とし込む。結果をまず出す。それからインド。その前に熱海。茅ヶ崎でもいいんじゃないかな。とにかく今やることをやりおおす。

中途覚醒しては水。それを求める。その生理現象は、ここのところの日々の営みのもっと先。そこへ向かう希求との写像。そうも捉えられる。

酒を少し控えては逆にバカになった可能性はゼロではない。ひとつ断じられることは、進みたい道が明瞭にあり、そこに対して、光を上からも下からもあてては日々の点検を欠かさない。世界をチェックする。その文脈で俺が今することとは。

そう考えるとインドは早すぎ。熱海は、別にいつ行ってもいい。だが、ふと、いつも水だがたまにポカリを早朝に飲んでは感じること。そういうことだって大事にしたい。「旅行」の対義語は「日常」ではなく、「創作」なのではないだろうか。などと、ふと、個人的に思った。
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ここ数日、よく眠れているのだがやはり、どう考えても自分の意識外の進入としか考察できない夢をみる。映画で言うと何本もの短編というのだろうか、それをノーカットで連続数本観る感覚。

そこから得られる何らかのヒントは――などと考えつつ、いつも通り、やることやっては今日あたり、特筆して疲れを感じては夜、ソファに横たわると一時間以上寝てしまう。いかんと思い急いで小説原稿を開く。

その初作品に関しては何度も推敲、改稿、そのまた推敲と。工数的にだんだん訳がわからなくなってきたが、実際の編集者とのやりとりを挟むともっとあるのかな、などと推測する。

「テーマにかかる本流の部分」と「説明部分」と「描写の部分」「対話形式メインの部分」など、それぞれのバランスを鑑みる。

今日あたり、「どうかなここは」と、思ったので、次の工程の最終推敲時に参照するメモに「当該章、全体的圧縮の必要性あり」などと書いては「それで合ってるのかな」と、正解がわからなくなってきた。

そこで、どこの文脈からかは失念したが、編集者的な立ち位置の誰かが、こんなことを提唱していることを思い出した。

「頭のおかしい作家には、まともな内容を描かせろ」

「まともな作家には、おかしな内容を描かせろ」

という、それぞれ対比する指針。噛み砕くと、変態が変態の物語をそのままの態度で変態に描いてはつまらないものになる。だから逆に、変態には、普通のニュアンスで描かせたほうが作品として光る。

まともな人間がまともに描いては何が面白いんだとなる。だから逆に、まともな人間には、まともな態度ではなく、逸脱を遠慮せずに描かせたほうが作品が光る。ということだろうか。

言われてみれば、ゲテモノみたいな芸人が仮に居るとしよう。それはもう、見るからにして危険人物であり触れればその凶暴さを秒で露わにしてはその姿で際どく見せる芸。「まんまじゃねえか」という風になる。

しかし、そいつがものすごい真面目なテーマを扱った芸を真剣に、丁寧に、純度最高の緊張感のなかで披露する。そっちのほうが面白味があると思える。

一方で、見るからに上場企業の一般職員みたいな物腰の芸人が居たとしよう。それはもう、全ての言動、一挙手一投足が土下座みたいな雰囲気の短髪黒縁メガネが死ぬほど下品な芸を発狂テンションで披露。そっちのほうが面白いであろうと思える。

それを世間ではギャップと呼ぶ。と、言ったら身も蓋もないがつまり、面白さというのは、個々の裏側や真の部分を晒け出すことに回帰する要素があるのではという思惟。あくまで、一要素として、あると思えてくる。

まともな者は、臆病を捨てて逸脱を出す。

おかしい者は、逸脱を抑えて臆病も見せる。

ということだろうか。そうなってくると双方ともに、中庸という最高の状態でのパフォーマンスなりが期待できる。

仮説ではあるが、そう考えると、まともなところをまともに描いてもそれは面白くない。むしろ逆を行けと。そういうことだろうか。

そのへんの考えもある種の問いとして、自分の作品に滲ませる。それがとてつもなく難しい。だが、楽しい行為であることには間違いないので、それを共有できる形に、どうか早いところ。という希求。

自分の意識外の進入としか考察できない夢。それらを断片的に、今も覚えている。その記憶と、今日の営みがセットとならないと上のような思案は出てこないと言ったら言い過ぎかもしれないが、とにかく「面白味の内訳」なるものについて考えた。

「頭のおかしい作家には、まともな内容を描かせろ」。「まともな作家には、おかしな内容を描かせろ」。共通するのは〝他者に意識外を見せている〟ということである。

そんなことを思案しつつ、小説原稿を進めるにおいてちょっと迷子になっていた訳だが、「迷った」ということに改めて気づけただけでも善処かなと、そう思ったので思考をこのように仮説としてまとめ、実証に移す。

以上ではあるが、本当に実証できたら凄いよね。と、現実の夢に向かっては、今日も訳のわからない睡眠時の夢を見るのかな。そこからのヒント、何と言うかそれこそシェアできたら凄いよね。などと思う。

まともとは。頭がおかしくとも、そうでなくとも、他者との関係において成立させること。いや、意味がわからないが個人的には妙に落居する。まともという、中庸なありかた。
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ここ数日、働きすぎだな。などと単純に思った。というのは時間量を基軸にしたらそれはシンプルにそうも思う。たまには遊びを。酒。それしかないのか。しかし、それすらも抑制している。1日2本まで許す。誰が律しているのか。上の人ですよ。係の者。形而上の何か。つまり、最善の状態の自分からの声。

いよいよかなと思えどこれはまっとうな態度。というか2本であろうと毎日呑むってよそから見たらアル中予備軍二等兵。けっこう強い。だから抑制している。そう、俺は12時の方向を見ながら今日を点検した。働きすぎだなと。

何のために。疑問は当然。だが結論、そのひとつが昨日出た。それは、世界においての自分を、他者との関係において成立させるためである。改めて文字にすると意味がわからないが感覚的には腑に落ちる。だから今日だって、これはもう今年いっぱいは毎日このことを書くであろう。小説原稿を進めては改稿の終盤に差し掛かった。当該小説の主人公は、俺みたいな男である――。

――三島由紀夫氏の初期作品『仮面の告白』を読み進めている。正直、今のところ笑う箇所がひとつもないのだが、謎に読み進めさせられる引力を感じる。その内容はというと、おそらく、ご自身の想いを主人公にスライドさせて描かれているのではないかとダイレクトに突きつけられる。まるで、一晩中お話をしていたい酒の友人とのひとときのような文体で。

きっと、自身についての葛藤や、生活では昇華しきれぬ欲求や、現象化が極めて困難な希求らがあるからなのかもしれない。誰かに、添ってほしいのかもしれない。誰かに、救ってもらいたいのかもしれない。

そのようなことを、昭和の時代から現代まで、文学作品を読むと、俺なりにはこのように感受する作品がしばしばある。

太宰治さんもそう。『人間失格』が特にそうだろうか。中島らもさんだってそう。『今夜、すべてのバーで』がご自身のことでないはずがない。町田康さんの作品からもしばしばそう映る。思えば、いろんな作家さんが、自身を媒介して人間を描いている。なぜか。世界においての自分を、他者との関係において成立させるため――。

と言い切ってしまったらそこまでになる。そんな簡単ではないはず。だから、俺も、まずは自身を媒介して物語を書いて世界に接続し、問う。そこで呼応してはじめて、次の世界がクリアに見えては渇望を剋する。

そしてまた次に進んでは、それを繰り返し、その頃も酒を呑んでいるのであろうか、わからないが、きっと考える。どこで落ちをつけようかと。

落ちをつけて死ぬ。こんなに幸せなことはない。そうだろうか。それを天寿全うと捉えていいのだろうか。たぶん違う。もっとしたいことがある――ぐふ。くらいに死ぬのがいいのか。俺にはわからない。ちょっと前までは「もうやること何もねえ」と、全力で首を横に微かに振っては笑む途中で臨終。これかと思っていた。だが今思うと、違う気がする。なぜかというとそれは自殺とさほど変わらないからではないかと思う限りである。

暴論はやめよう。自殺のくだり、なし。とにかく、向上の途中で「あれ!」というところで、できれば多めに歳を重ねたタイミングで、誰かに囲まれて上に行きたい。そこで、その場所のような部分で、係の者に確認しよう。

「合ってましたかね俺」「おおむねは」「ちょい、惜しかったですかね」「よくやったほうでは」「まだ、あったんですよ――」「――行くぞ」「どこに」「上だ」「じゃあ俺は――」「酒、呑むか?」「え。まだ、一生分呑んでないまま俺は」「そういやそうだった」「いや、一口くれよ」「だめだ」「頼む!」「よせ!」「許さん」「やめろ」「くれ!」「こいつはだめだ!」。

生き返る。という体験をする可能性だってある。だが――。

別に俺は今、酒を呑んでこれを書いている訳ではない。ただ、眠くて眠くて仕方がない。普通に頭がやや、クラクラする。タバコを吸おう。やっぱ新しい喫煙デバイスはいいな。そんで、それでもこのあと酒、2本だけは呑みたい。そういう状態でないと、以上のような思考がなぜかでてこない。気がする。

上の人。係の者。形而上の何者か。つまり、最善の状態の自分からの声。一気通貫していたのは、美辞麗句のようなくだりではなく、実のところ酒をいっぱい呑みたいという我欲。能動。正直、それなのかな。わからない。本当のところはどうだろう。いつか、上の人に、上で、酒を許されてしまったら、そこまでなのかもしれない。ただ、最終的にはどう抗ってもそこに行く。だから。

当面はそこに行くつもりは毛頭ないので下で呑もう。2本だけという抑制で。さいきんはこれに快感を覚えたニュー・タイプのアル中予備軍二等兵。よもや除隊も近いのかもしれない。それも楽しいかな。今日は飲むけど。2本弱。
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生の停滞はノイローゼと同義である。

ユングさんのやつ。これだよ。この一文に、というかその前後に大事なことがたくさん書かれていたが、そこだけ切り取ってお前、ショート動画。それくらい希薄なものに、やめろ。つまり、文脈を端折ると訳がわからないことになる懸念に加え、そこだけが過剰にフォーカスされかねない。

なので補足と言うか偉そうに。つまり、精神学者・心理学者のユングさんは、とか肩書きを言わなくても有名人だから何となく「古の心に詳しい学者さまでございますよね」何てことは俺が言うまでもない。ただ、いちおう。というか、〝いにしえ〟とか勝手なことほざいたけど1961年までご存命でございました。

生の停滞はノイローゼと同義である。

「やらないとなあ」「進めないとなあ」「だるい」「現状維持でいいっしょ」みたいな感じのままでいいかな、とかいう状態はノイローゼというか現代では〝神経症〟と呼称。それと一緒だという意味。

「滞ってますね。生き方が。わたくし」みたいなことを言う奴は見たことがないが、つまりそれが続くと心身に不調をきたすのでは。

ということをユングさんは言いたい訳だが、実のところ厳密にはもっともっと事例込みで、その意味は深い。だから、おそらく、現代においてはさっき二回言った引用したやつの意味は、「成長や自分らしさが引っ込むとまずいんじゃ」という解釈で〝完全には間違っていないであろう〟こと、主観も混じっていることは、本気で補足する。

変に安定とか求めると、おかしなことになる。

そしてそれは、これとも意味が似ている。俺はそれに、そこに陥りそうになっていることに、いろんな手段をもってして気がついた。生き方とか営みとか日常とかではなく、もっともっと具体的に。

それは今日、小説原稿の改稿が終わったということ。あと一回だけ推敲、これが最後の最後の工程。という段階。そこで、原稿を全体的に点検した。そこで、思ったのがさっき三回言ったやつである。三度目はもう俺が勝手に言い換えた失敬なやつだが、あながち間違ってはいないはず。

要するに、改稿版は、明らかに完成度が上がった。整った。綺麗になったし読みやすい。じゃあいいではないか。そう思うのだが違う。〝変に安定とか求めた結果〟が少々現れてしまっている。それがよくない。

音楽に例えると、歌ってる人の伴奏をするとしよう。そこで、ギターで、そこで、歌が途切れた刹那にオブリガードをなぜ入れない。最初はおもむろに入っていたのをなぜ、ちょっと消した。そこを、ちょっとだけでも無くすと、「歌はきちんと立つが、両者の演奏としてはどこかわずかに不十分。そのユニットの魅力はやや損なわれる」という構図である。

そういったものは今後AIでもバンバン秒速で量産される。俺はそういうのを書きたい訳ではない。

ひどく爆ぜているのだが謎に成立している突風のようであり凪が要所にある。なんて居心地がよいんだ。珈琲をひとつ、と言ったらマスターにタコ殴りにされてはお会計を申し上げたところ金をくれた。くらい「どうしたらいいんでしょうか」「でもまた来ますね」みたいなやつが書きたいという能動がある。

その能動は、初稿でちゃんと出ていた。しかし、マスターが凶暴すぎた。だから少し抑えた。それを繰り返した。すると、マスターはきちんと会計に応じるようになった。

普通。別にそれはそれでその喫茶店に「また来ますね」と、まあ、なるかもしれない。そうではなく、「いや、また絶対行かないと。あのマスターの顛末が気になって仕方がない。なんなら来週、あの店が更地になっているまである」くらいの――適度を凌駕した危険性を抑制をもってして飼い慣らして作品とする。その必要性がある。

すなわち、マスターに珈琲単品を注文したらエビ・チャーハンが出てきて当然憤慨。しかし即座にマスターは「グアテマラ」のストレート珈琲をニコ……ニコ……と差し出すもそのエビ・チャーハンの「エビ」の内実はロブスターの頭であり更にブリカマが添付されていた。しかしセットで780円也。というくらいに。

半端ではないほどわかりづらい例えだがつまり、容赦無く出るところを引っ込めすぎると魅力に欠ける。だから、俺は改稿が終わって、そこに気づき、「ああ、エビくらい出していいんだ。じゃないとノイローゼになっちゃうもんね」と、最終工程前の原稿を吟味して思った。

わるいところは消えたが、よいところもなくなった。

これが最悪のパターンである。創作において。だから、あぶないあぶないと、さすがに上の一行くらい、酷く〝安定〟したまでには至っていないが、きちんと爆ぜるところは。ということを、生身の人間の呼吸として出すべきであると。そこに何の遠慮をしているんだと。そう思った次第である。

生の停滞はノイローゼと同義である。変に安定とか求めると、おかしなことになる。

要は、書いている小説にこれを当て込むと、1割ほど思い当たったのでそれを最終稿の指針とする。その道が見えて、気合が入った。という一日。

書いてて疲れる文章というものがある。それは、このように思ったことをそのまま書くことではなく、何かに遠慮して停滞した自身が書かされているもの。なのかな。

個人的にはそのように少し思ったが、一日という文脈では普通に疲れたので酒を2本呑んで寝よう。第三作目は、狂人マスターを主人公とした枯渇の昭和純喫茶を舞台としようかな。5,000文字くらいですでに筆者がバテていそうな構想である。とりあえずそれ、俺がまず読んでみたいけど――これ。生の停滞に非ず思念。書かないと思うけど。狂気のマスター乱舞短編。
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目当ての人文学書を読むために、叡智の森へと足を運んだ。そこで目当ての書籍を探して棚から持ち出し、図書館の中央あたりの椅子に座って繁々と読む。

“――他の人々が私の書物によって自分で考えずに済ませることを私は望まない。私が望むのは、それが可能だとして、人が自身で思考するよう私の書物が励ますことである。”

このように、その書籍の序章に書いてあった。要は手前で考えろと。それは大事ですよねと率直に思った。そんななかヴヴヴとスマホが鳴いたので電話に出た。そこで俺は初めて、出版社の編集者の方と話をした。

内容については倫理的にこの場であっても記さないが、おそらく、少しは喜んでいいことなのかなと、考えて思った。その先にどうこうというアクションに直結する内容ではない。ということくらいは記して問題はないと思う。

ただ、出版社の生身の編集者と、自身の小説作品のことについて話をしたという新鮮な初体験に感謝した。

そんな思案をぶら下げつつ、人文学書を65ページほど読んで本棚に放流。あとは文学コーナーに行ってミュージアム気分で様々な小説などを手に取る。各書、冒頭を少しずつ読む。

最初1ページ目のインパクト、文体、筆者の匂い、それぞれを感じようと、調査しようと、そういった目的でいろんな書籍に触れた。思った。なんかどれも似たり寄ったりだと。

そう感じるのは俺のセンスのなさか。実際そうなのか。読解力に乏しすぎて読めていないのか。俺がバカなのか。どれか。わからなかった。

――ふと棚を見る角度を変えると、現代文学ではなく古典というか、一昔もふた昔の前の文豪の名が連なる多数の壁のようなコーナーがあった。そこでもしつこく同じことをした。

『芥川龍之介全集』というのがズラリとあったので無作為に手に取る。「芥川さんくらい知ってるわ」などと思い読んでみる。すると、これは全く違うと率直に思えた。文章の解像度というか倍音というか、奥行きがまるで違うのである。つまり全然知らなかったことがその場で露呈した。

『井伏鱒二全集』というのもしこたまあった。同様のことをして、同様の感触を得た。『安部公房全集』――同じだった。現代文学コーナーで感じるあの疑問がいっさい湧かなかった。どれも、少し読むだけであっとう間に引力を受ける。そのような実感が確かに、あった。

これが文学か。なんてこったとそう思い、「文豪というのはそういうことなのか」と、かなり抽象的に知覚しては再び現代文学コーナーへ。もう一回、色々触れた。やはり同じだった。

おかしいなあと思い俺は、『パンク侍、斬られて候』という小説を掴んで読んでみた。すると数行で「あ、これは凄い」と率直に沁みたのでどこか安心し、そのまま図書館を後にした。

古典に関しては問答無用の筆力を受けられる。現代文学に関しては――好みの問題かな。と、考えた結果、そうだった。それもあり、学びの姿勢で読むことに関しては古典文学を専攻するのが得策のひとつと、そう判断した。

音楽に例えると、俺が高校生の頃、ギターをとにかく練習していた頃、当時――1990年代J-POP黄金時代――のロックギターにおいて、流行のビジュアル系バンドのサウンドなどがイマイチ刺さらなかったこと(今になってその魅力はわかってきたつもりだが)と似ている。

今日図書館で得た感覚のように、ある種、どれも一緒に――というような感覚。当時の俺は、古典を耳にしたところおもむろに刺さった。1970年代前半あたりの洋楽である。

思い返すと前後しているが、その古い洋楽に刺さったのがギターを本格的に始めたきっかけだった。レッド・ツェッペリンなどに傾倒してはそればかり聴き、CDで楽曲を再生してはせっせとギターフレーズをコピーをして、昔の洋楽から学んでいた。

今で言う、文学の学びの姿勢とどこか近いなと思った。リアルタイムにおいての〝現代〟の作品がどうも刺さらない体質というのは共通項だと思った。だが、例外もある。

さすがに100万部以上も売れた文学作品については、俺でもその凄さがわかる。『成瀬は天下を取りにいく』とかは本気で面白いと感じる。だが、圧倒的なもの以外に関しての現代作品については、そこまで刺さらない。今は。

だから俺は今日、芥川龍之介、井伏鱒二、安部公房ら(敬称略)の各作品の香りから、高校生の頃に古典洋楽ロックから受けた衝撃に似た感受を少しずつ得ていたのであろうか。そう考えると落居する。

“――自分で考えずに済ませることを私は望まない。”という一節。これが記されていたのも、部類としては古典の書物。だから手前で考えてみた。そして、〝考える〟ことに加えて、〝感じる〟ことも受動で済ませず、能動をはたらかすこと大事かなとちょっと思った。

文学でも音楽でも、基礎はやはり古典にありと。そこから学んだ方がいいと。いや、ベストセラーの書籍の構図をトレースして自分なりに変換して、それを元に物語を書いた方が売れるのかもしれない。だが、それが当たったとしてもまず、秒速で淘汰される。

そう考えると、やはり自分で考える方がいい。ただ、ノーヒントはつらいので参考を。学びを。その大枠は――というと「古典」だな。ということに帰結する。

“――それが可能だとして、人が自身で思考するよう私の書物が励ますことである。”ということで、そう記されていた古典にも励まされた。

古典と言っても、レッド・ツェッペリンも芥川龍之介も引用した人文学書の一文も、どれも1900年代なのだが、〝現代〟からは遠く離れているといったことで、ここでの言語ゲーム的な意味で、これらを俺は古典として扱う。そのへんから学ぶ。そうなると、購入して自宅で読んでいる三島由紀夫作品(1949年発行の小説)も古典に分類される。

やはり、今売れているものから学ぶなりするよりも、その源泉の潮流を遡ることが重要。総じて、そのように感じた次第。である。
(出典:『哲学探究』L. ウィトゲンシュタイン著・(翻訳)鬼界彰夫 )
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視力低下が明るみとなった先日。両目0.7。数字で断じられた。だが今日はやけに視界がクリアだ。解像度が高い。俺は逍遥するべく、北区王子駅まで赴いてはポケットに手を入れ、界隈を歩いた。少し、冬の匂いがした。

北区船堀一帯。このエリアには思い入れがある。米を売っていた。俺は30歳ちょいの頃、農家直送の米を一般家庭に売りつける生業に精を出していた。しこたまチラシを投函する。営業手法はその一点だった。そんなのでいけるのか。

いけた。当時はいけたのである。特に「団地」をターゲットとして営業していたものだからわりとうまくいっていた。当時、俺が拵えた企画書は銀行員も一瞥では済まさないほどの説得力を孕んでいた。つまり、固定客がわりといたのである。その顧客層の居住地のひとつとして、この北区船堀一帯があった。

――約15年前の記憶といまの知覚。かなりの乖離があった。そもそも無くなっている物件などもあると予測していた。だが違った。

昭和の公団。その風景は健在で、俺はえも言えぬ心象で当時の営業ルートを徒歩でまわった。公園の遊具を目にした。ポケットから手を出し、能動にかられては雲梯の鉄に触れ、そのまま登っては降り、「いまも米、この地で売れるかな」などと想像した。

このへんにお客さんが何人も居た。三号棟の奥に一人。こっちの棟にも何人か。辺りの風景から受ける感情はほぼ、15年前と同一。ネコが居た。思い出した。こっちの団地にはネコが当時もたくさん、我が物顔で敷地内で自由にしていた。ふと横を見るとババア手前くらいの主婦と思われる女性たちが溜まっていた。俺は近づいた。すると、何かを唱えていた。

「シッポちゃん。シッポちゃん」

三毛猫を近くで目視した。ネコは、女性たちに囲まれていては気難しい顔をしていた。

「シッポちゃん。シッポちゃん」

「あら、来たわ」

「シッポちゃん。かわいいねえ」

「さいきんあまり食べないのよ」

「どこかよそでもらってるのよ」

「あっちにごはんが置いてあるんじゃないかしら」

「かわいいわねえ。シッポちゃん」

「みんなのアイドルだわねえ」

「保険をかけなきゃね」

女性たちは様々な憶測とネコへの愛情と、わりと怖い発言も交えつつ、いわゆる井戸端会議で憩っていた。ネコは女性たちに触られては「わるい気はしない」といった所作を見せては共にしていた。俺もネコに。そう思って更に接近した。

「シッポちゃん。シッポちゃん」

「かわいいわねえ」

「ほら、お兄さんも見ているわよ」

言及された。俺は笑顔を拵えて一定の距離感を保った。なぜならば、このエリアにおいて俺はもう、余所者でしかない。米はない。別の地から来たただの通行人である。和を乱すわけにはいかない。だから、礼儀を心がけた。応答した。

「いやどうも。かわいいですね」

「シッポちゃん。シッポちゃん。ほら!」

女性は尻尾の付け根を強めにバンバン叩いてはネコ、堪らぬといった表情。俺がこの地の者だったら逆に女性を叱咤してシバき倒す場面だが、余所者。だから、その行為を否定しなかった。合わせた。

「かわいいですね。〝シッポちゃん〟というのですか」

「そうよ。ほら、尻尾がこんなに丸くなって。特徴なの」

「本当ですねえ」

小ぶりのシュークリームのように茶色く丸まっている尻尾。その肉体的特徴一点が名の由来だと紹介を受ける。立て続けに女性はシッポちゃんについて解説をした。

「ネコちゃんはねえ、ちゃんとかわいい声で呼ばなきゃだめなの」

「はあ」

「こうやってね、シッポちゃん。シッポちゃん」

ネコは鳴いた。

「ほらね。『シッポ!』とか乱暴なのはだめよ」

「はあ」

「ほら、お兄さんネコちゃん好きだからそんなのわかっているわよ」

別の女性の補足が入った。

「シッポちゃん。ほら、お兄さんも呼んでみて。こう、声を高く、かわいらしくよ?」

「そうそう。優しく、よね」

いつになったら俺に「シッポちゃん」と呼ばせてくれるのかというほど話に区切りがない。どうやら彼女たちの日常。俺はそのように見なしては契機を待つ。余所者。一見はおとなしくという姿勢を貫いた。ふと、女性たちの発話が一瞬途切れた。

「そうですか――」と、一言。俺のターンであることをさりげなく示す。そして、ゆっくりとしゃがんだ。

「そうそう。ちゃんとわかってるわねえ。そうやって目線を合わせるのよ!」

いかん。また喋り出した。これではいつまで経ってもネコに触れない。それは困る。だからすぐに返答した。

「そうですか。そうですよね」

当然である。ネコは基本的に警戒心が強い。というか俺は実家暮らしの頃にネコを多頭飼い、ネコに囲まれて育ってきた。彼らの特性には精通している。だから、女性たちには申し訳ないがもっと適切な手段がある。ネコの気の引き方においては甲高い声で「シッポちゃん」と名前を呼ぶよりも有効な手段がある。それを。

「ちっちっちっち……」

秒でネコが俺に向かってきた。

「シッポちゃ……」

「あらあ! 偉いわねえ。ほらほらよしよし。あらあ!」

ババアが余計なことをしやがってからに、せっかくネコが来たのに手前が急に触るものだからまた元の位置に引っ込んだ。

「この子はねえ、首から上はだめよ。尻尾の付け根。ここよ」

女性はネコの取り扱いについて注意喚起した。それを受けて俺は思った。首から上はネコを知る者であればむしろ、喜ばせ放題の部位に富んでいるのであると。

だが俺は反論せず、やはりこの場のレギュレーションにならい、静かにしていた。すると女性たちの談義がまた止まらなくなったので俺はネコとの触れ合いを諦めた。

アイドルには簡単に触れないものだな。などという表象はいま生じたものだが、そういった場面もありつつ、北区堀船を後にして帰宅する。

あんなに推されて愛されるアイドルも幸せだろう。そう思いながら、団地ネコの営みを目にしては、とても穏やかな気持ちになった。ああいったアイドルに関しては、「推し活じまい」などという現代においてかなりの前提とかなりの情報量が必要な用語は無用であろう。

実のところ、尻尾の付け根よりも、首から上を撫でて欲しい。そんな、アイドルの本音を明かさずに、推しに愛され続ける存在というのもどこか、儚いようで、それこそが美しいのかもしれない。

いいかババア。ネコはな、首から上の耳の付け根を揉まれると至福なんだよ。覚えとけよ。

団地の冬の匂いは、家族ネコとの思い出も共に、温かく引き出してくれた。
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11月真ん中。気がつけばこんな時期かと俺は焦った。

なぜかというと、挑む小説公募の締め切りが12月10日だからである。いや、あと25日ある。とはいえ、最終稿の推敲がまだ、原稿用紙36枚ぶんまでの進捗。書作品は全部で300枚弱ある訳だからまずい。最悪、「間に合いませんでした。じゃあ次の公募は〜と――」などという牛歩のようなペースを延々辿っては「いやあ、だめだったかあ」と、言い聞かせる理由が不明瞭な結果に、結果にもコミットできなかった体たらくに成り果ててはそろそろ死ぬ。そう言う時期に足をぶらさげる。

そんなのは嫌だ。

だから俺は今日、気合を入れて、がっつり普通に仕事した後に、気合を入れて原稿用紙に向き合う。フィジカル的にも脳髄的にもメンタル的も絶対に負荷がかかっている。というかこの一年で視力が「1.3」はあったのが「0.7」だぞ。ただの加齢かもしれないが俺は認めない。それくらい熱狂しつつも負荷をおもむろにかけてまで全力で文学と向き合っている。そこで挑む文学賞『太宰治賞』のエントリー、過ぎちゃいましたね〜。などという失態は絶対に許されない。

だから今日は50枚、推敲をした。

単純計算で15,000〜20,000文字数だからそれは疲れる。視力。また下がるのか。とはいえ、実は昨日、実にうさんくさい「視力0.4 → 1.0まで驚異の回復!」とか謳うYouTube動画を凝視しては謎のエクササイズに勤しんでいた。何なら今日もちょっとやっていた。

前言を撤回すべし。

今朝起きて、ふと街を見ると輝きを感じた。その光景は青春の画角を明瞭に捉えるかの如し蒼く、解像度の変化を如実に確認できた。恐れ多くも識者の見識から俺は眼精ならびに肉体の回復へ直結する叡智を享受した。通学する女学生が芽吹かせるその生脚はひどく清爽に写り、彼女らの人生の初動を確かに目視した。そこから生命の息吹、俊敏なる成長の過程はまざまざと俺の感性を刺激した。肌に惹かれぬ生命は存在するのであろうか。そのような問いは我を忘れるほど煌びやかに広がる視界がその解を得ようとする能動すらをも拒絶した。見るということは人間の五感のたったの五分の一のセンスでしかないのかもしれない。しかしその、生存活動において利便性に長けた感覚の精度を取り戻す快感というのがあることは、女学生らにはまだ想像にも及ばないのかもしれない。つまり、目からの知覚は様々な表象を無限に迸らせる潮流の源であり、それを維持するためには時に鍛錬が必要となるであろう。肉体に勝る美はおそらくないであろう。俺はその〝肉体〟を鍛えることは鎧を纏うことに等しいと考えられると同時に、それは決して身を守ることではなく、時に弱さをも同時に他者の目に捉えられるということを肚に置くべきであると自戒した。

女学生のくだりが気持ち悪い。だめだ。三島由紀夫氏の文章を意識して書くことは難しすぎる。

というか要は、そのYouTubeの視力回復だかなんだかの動画のエクササイズやったら一日で本当に、効果を感じたから感謝してますということである。

要点は、今日は50枚、推敲した。そのペースでゆとりを持てと。絶対に締め切り間に合わずという顛末は認めるなということ。

なにせ、原稿用紙のフォーマットを公募の指定――推奨と書かれていたが、それに合わせるのが妥当であろう――に変えて、さらに紙に印刷するというハードルがある。これは、やったことがないという理由で進行時間に十分な余白を持つべし。ということ。

だから今日になってちょっと焦って一気にけっこう進めた。でも目の調子が急に良くなったからよし。このまま進めと邁進の気持ち。そういうことである。目指せ、太宰治賞。せめて、二次選考突破――案外、冷静に熱狂している。ともあれやはり、目が疲れたよね。
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俺はレディオヘッドになれなかった。でも、なりたかったのである。バンドマン時代に、暗にそう思っていた。

別に「レディオヘッドの再来」だとか「系譜に――」とかそのように評されたかった訳ではなかった。なにぶん、彼らのサウンドはもちろんだが、その存在、態度が好きなのである。オルタナティブロックと分別される、音像(も、そうだが)以外においてのその姿勢が。

万人に受け入れられるような楽曲テイストをことごとく拒否する彼ら。リリースを重ね、ひとつの到達点として、〝ロックそのものを手放した〟とも捉えられるアルバム『KID A』を発表したのは2000年。その作品は賛否両論の極みのような内容。

しかし、実績として全米・全英チャート1位という記録を打ち立てた。こんなに凄いことはないと思っている。革命くらい言っても許されると。これがオルタナの破壊力かと。

俺はバンドでそういう風になりたかったが――年月が経った。2025年1月14日。小説を書き出した。「文豪になりたい」とかそういう感じではなく、ただひたすら書いていた。俺はその晩、『KID A』を何年振りかに通してしっかり聴いた。そして肚から思った。作家としてレディオヘッドみたいになりたいという風に。

1月14日。三島由紀夫氏の誕生日である。偶然だが、俺の文学開始日と同一。今日、なんとなく調べてたらそれを知った。そこを一致させて喜んでお前は三島に謝れと、様々な三島ファンから怒号が鳴るやもだが別にここでしか言ってないからほぼ、言及はされないだろう。

俺は、三島由紀夫氏には絶対になれない。さいきん著書を読み進めては、昨日あたり文体を真似してみたりもしたが、明らかに違うテイストの大作家だということがハッキリとわかった。というか、なろうとしてもなれない弩級の作家。

じゃあ、という訳ではないが、文学において俺は〝一体、誰に寄った者・寄る者〟なのかと客観的に考えた。

ある程度はその対象が居てほしいというのもあるが、居てほしくないというアンビバレンス。そこで、レディオヘッドみたいな――とか言われたら俺は乱舞する。つまり、オルタナだが大記録を打ち立てるほど――流れを覆しつつ大勢の読者に貢献すること――の作家になりたい。そのように筋を立てる。

じゃあ今から〝レディオヘッドっぽい文体〟を披露する。

となると、それはなかなかできることではない。なぜならばレディオヘッドの作品は音楽だからである。ここ。このへんをシームレスというか境界線が確実にあるのだが、根底では共鳴しているようなもの、そういうのが書きたいなと思っているのは自身のスタンスである。それはめちゃめちゃ難しいというか「可能」「不可能」では測り得ない領域。そういうのこそ、書きたい。

要するに「こいつにしか書けない」というもの。

それだけは絶対に譲らないように、今日も小説原稿を磨いてはもう、昨日からそうだけど目が疲れるんだけど逆に視力が上がってきてる感覚というかたぶん事実。しかし、YouTubeの視力回復謎エクササイズ。これを今日もやった。その効果が実際どうだったんだよお前、お前が謎って言ったよな? などと言及された暁に叩きつける「眼科で実施した視力検査」の結果を後日、ここに記録する。現在――先日「越谷レイクタウン」の眼鏡屋での検査の結果――は両目「0.7」。これがどうなるか。

オルタナティブ(代替)という謎エクササイズで見事視力復活というルート。これも自分らしいと言えばそうだが、そんなにメガネをかけたくないのか。そういうわけではないが、ある種の〝抗い〟と捉えると、少々強引にもほどがあるが、成りたい自分像へのルートとしてはオルタナ。そう在る気がする。

それを証明する。眼科で。それもやるが違う。違くはないが、いま取り組んでいる本流、文学で、文学界にそれを問う。これは「こいつにしか書けないやつ」であり、覆しましたかと、人様に貢献できる作品ですかと。そんな文体ですかと。広く大きく書き続けていられるその場所に、入れてもらえますかね。そうですか! と。

レディオヘッドになれなかった。だが、なろうとした姿勢をただの過去するのではなく、今もその態度を背後の大流としながら、別の分野で証明する。気概は、むしろバンドマン時代よりも。

という感覚が、間違いなくある。それ、めちゃめちゃ難しいのでは。という事実は何となくわかる。ただ、それくらいでないと相手にもしてもらえないと厳しく自覚している。

だから、好きな作家は何名かいるが、ダイレクトに同じ分野の先人にならう、そのようになりたい、という直線的な姿勢ではなく、「その、レディオヘッドみたいな作家になりたいんです」というオルタナティブな姿勢を崩さないこと。

それがどうでるか。当たると確実にでかい。と、思う。当たらないと「如実に訳のわからない物書き」くらいに成り果てる。それは断じて――くどくど言ってる暇があったら原稿を増やせ。とも思うが、俺は日々の思考の文字起こしも、オルタナな意味で大事なんじゃないかなと思っている。

そのうち誰かが言ってくれたとしよう。レディオヘッドみたいな作家っすねって。そしたら俺はもう大喜びして涙を浮かべながら声を詰まらせてそのお方の目を見て言うよ。日記、読んだでしょ。って。

だとしても、それは凄くありがたいことなのです。
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日々の飲酒量をやや減らすとそれに反比例して、体調がよい。誰でも知っていることを体現しては、その差分の活力を小説原稿を磨くことにねじ込む。ねじ込み過ぎていま、わりと酒を呑んでいるくらいの血流が脳髄にいってる。この感覚。客観的に、必死だな。と思う。

必死って、〝絶対死ぬから〟という意味合いと、〝死に物狂い〟という、それそれの意味合いがある。そうなると、ちょっと言語の使い方としていまは、ふさわしくない気がする。

――今日あたり本当に心底、ふとした日常で感じたこと。それは〝絶対に死ぬから死ぬまでにやっておかないと〟という観念。その上の感覚。思考。それを形而上とも言う。どこか祈りに近い情念。

だから、死ぬという前提で、狂ったようにする。と表すと「正確」に近いが、まだ完全に表現として正しいとは、落居できない。

真剣だな。

だとこう、綺麗すぎる。真剣にやっているのは間違いないのだが、「いやね、真剣に書いてるんですよ――」などと人様にあまり言いたくない。だから、〝必死〟と〝真剣〟を混ぜた言葉が適切であろう。

不思議なもので、人間は何かに必死になって真剣になっている姿が時に滑稽に映る。俺はパチスロを必死に真剣に打っていたバカ提灯な時期があった。掛け値なく、上の表現で合ってる。だから、いまの営みと同列でこう表現するのは誤りである。

半年くらい前に思ったが、バカになってやっている。この表現。実のところ一番ピタリとくる。きてしまった。バカになって、原稿における表現や構図などを吟味しては、どうにか百皮くらいズル剥けようと〝必死〟になっている。

脱皮中の生物は無防備である。その最中につっついたら蛇さんあたりは――「いや、いま皮むいて次、行こうと思てんねんけど何をさらす?」と、純真無垢なその瞳を一瞬俺に向けるであろう。

「いや、あまりにも必死でバカのようだなと思いまして」

「ぼけ。これを僕らはな、一生続けへんことには生きていけん。知っとるやろ?」

「いや、いまネットで調べて初めて知りまして」

「じゃあ、やめい。つつくなて。ここからやから」

「必死ですね」

「わかっとるならみなまで言うな。必ず死ぬんやて。それまでこれ、つつくなて。やらなあかんねん」

「俺もですね、こう、必死かなとふとさっき、言葉を選んでおりまして」

「人間はそうやろな。便利なもんやで。言葉やて? そんなもんとは無縁の世界で必死で生きとんのや。だからやめいて」

「いや、必死な奴みてるとおちょくりたくなって」

「自分の胸に手ぇ当ててみ?」

「こうですか」

「せや。そのままもう手、出したらあかんで?」

「は!」

「そうや。さっき『バカ』て言うたな? そいつがやっとることを見守るのが、必死になっとる奴へのせめてもの礼儀やで?」

「へえ〜」

「やめい」

ということで俺は必死でやっているということで手打ちとした。ここでは、〝必死〟という表現が適切とする。酩酊時くらい血流が脳髄にいってるこの感覚。その状態で自他と世界に誠実に営む。これか。

蛇さんもたいへんだな。一生あれ、やるんだってよ。必死に。人間はね、別にそうでもなくても普通に死ねるんだよ。ただ何と言うか、皮が剥けて気持ち良い。そうなのかな。それでまたその皮を剥くんだ。一生も。死ぬまで。

そうなってくると、ちょっと触れただけで怒っちゃう脱皮中の蛇さん。それはそれで終わったらトグロでも巻いて憩う訳じゃない。それもつかの間、また脱皮か。その生き方って俺は必死そのものだと思う。

必死で皮を剥くことは、次への進展その必至。なり。

蛇さんの脱皮なんて見たことないけどね。きっとこれ、個人的には間違っていないと思えたあたりで、もういいよ。

「必死でやってます――」などとは、言語にして人様には言わない。黙って静かに脱皮する蛇さんのように。
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人間は、集中の向こう側に行くとラリってくる。厳密にいうと、脳内オピオイドにより、苦痛に似た生理現象がコケインあたりのそういったもの以上に異常に効果をもたらす。

そんな向こう側に俺も行きたいものだなあ。そのように閾下に思いを忍ばせつつ、小説原稿を完成稿とすべく、全力で進める。

上の「全力」の内実は、〝いま、その時〟という文脈の作用とは少々違うということを知った。

事実として、いまという時間軸で、言語を、文章を、小説を、文学を、初作品を創っている。

だが、それを創作するのに必要なのは、過去のさまざまな嬉しみや地獄の情念を、制御可能な扱い方をしたうえで、〝いま〟に浮き上がらせる必要がある。さらに、いまの先、未来への展望を表象させる必要性もある。

何を言っているのか訳がわからないのはラリっているからである。なお、酒はいま呑んでいない。あとでしこたま呑む。

つまり、現在進行形なのだが、その行為の対象には過去も未来も必要であり、そのうえで、全てを込めている。いちセンテンスで言えるじゃねえか。そういうことである。

――途中。来るのは珍しい友人が宅に来ては幸福をそっと置いて颯爽と帰路についた。

彼にもこの体験を、現象を、その先を、共有してほしい。幸福のお返しがしたい。これは正直に綺麗にそう思ったつもりである。

――もういいか。そんなに一気にってペース配分。鑑みろ。とも思ったが、ラリっているこの、中庸とは言い難い状態で進めることを惜しむのは、ある種の放棄に近しい。

要は、〝のっている〟と感じているのに途中でブレーキをかけると、その勢いがもちろん死ぬ。それは中庸どころか――中庸とは「最高・最適」という意味合いもあるらしい――凡庸にまで成り果てる。それ心外。だから一気に進める。それが、俺にとっては最高に気持ちがいい。

と、手前に酔って創った小説を読まされる方の気持ちにもなれ。下手をすれば石を投げつけられる。という解釈もある。だがそれは違う。酔っているのではなく、陶酔しているのである。

意味一緒。そう、ご指摘を受ければ俺はこう弁明、いや、論駁、いや、自分の姿勢を言い表す。「酔ってはいません。陶酔です。後者には〝境地〟があることが前提です」と。そして、石をもういっこ投げられる。

従って、頭がいま物理的に痛い訳であるが、それは酒を呑めば治ることを本能的に知っている。嘘だな。後天的に知ってしまった。丈夫な体をありがとうお父さんお母さん。

つまり俺はいま、人生の清算と昇華と祈り、三権分立で営んでいる。そのあまりにも脆く猛々しく輝かせる結晶を、文学界に投じて問う。そして、「しまった」と、いろんな意味でそれを、しまったと、波及させては爆破というか物騒な意味ではなく、言葉が出てこない。理由は明白。結果が出ればそれを言語化できるという未来のフェーズの観念をいま、言語化しようとしているからである。ここでそれができてしまったら〝酔っている〟こと確定。決して、そうではないということを、この段落での論考とする。

本気でなにを言ってるかわからない気がしてきたが、わかる。とどのつまり、「これはなんだ」というものを書けているという感覚が明らかにあるということ。

自分でもわからないのである。だが、「これを広く、吟味していただかないことには――」というこの感覚。だから「これはなんだ」と、手前が書いている初作品改稿版について感じている次第である。

これはなんだ、と、わからないものは自分で死ぬほど考えて答えを探る。探究。それでもわからないものは、もう、きっと、人格をもっているようなもの。

そんな解釈もあるのではないでしょうか。もういかん。辛抱たまらん。ハイボールを買っておいたの冷蔵庫。そこにある。シャワーを浴びてそれを呑むとき俺は、さいきん、いつも思う。先に行かないと言語化できない言葉というのがまだまだあるのだなと。

つまり俺はアル中二歩手前で止まってそこから向こう側に行こうとしている。その過程はどうでもいい。つまり、毎日の幸福度が毎日更新されているのでしょうか。わからない。わからないことは探究。それでもわからないことは――その繰り返し。それを、死ぬまで。
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昨夜、しこたま呑もうと思えど缶酒3本で気絶。昼過ぎに起床。疲労か。それは、それだけブスブスと文字を書き続ける日を重ねればそうもなる。じゃあいいか。そう思い俺は教会へ行った。

――祈るために行くのが本筋。だが、対象の教えに信仰がない俺は、ただ教会に入って憩いを得るのが目的。つまり冷やかしである。

というつもりは微塵にもないのだが、そんな輩を一蹴するグレゴリオ聖歌と思わしき荘厳たる歌唱。合唱、斉唱。慄いた俺は係の者を呼ぼうと怯んだその刹那、教会の係の者がサ……と、英語だらけの用紙を俺に手渡す。

びっくりしたなという感情を完全に悟らせずにそれを受け取り、辺りを眺め、中央に注視――教壇の外国人高齢者聖人的なまあ、神のほうの係の者だろうか、双方なにかを唱えているので俺はしばらく硬直。しばらくするとオルガニストが神妙に打鍵をしたのか、えも言えぬ恍惚とした主音・倍音・響音が教会を包んだ。いたたまれなくなり俺はソ……と、教会をあとにした。

蕎麦を食べた。

そして赤羽を縫うように散歩をする。

気がつけば北区神谷という地の古団地に囲まれた公園に居た。もうあたりは暗くなっていた。遊具があった。

どの公園でも遊具というのは独特な形状。そう思い雲底に近づいたがこれ、この間に北区船堀の団地の公園で登ったやつと一緒じゃねえかと肩透かしを食らうも「そんなはずがない」と俺は認めず雲底に、その扇型の雲底の鉄梯子を上ってはその遊具を制した。そして「一緒のやつだ」という確認を経てベンチで放心した。

別の遊具を見た。動物を模った各遊具。ゾウ。あとラクダ。キリン? バク? 首から下が地面に貫通している。名称不明な動物型遊具。まるでフランシス・ベーコンの抽象絵画のモチーフのようなそれらは、視覚的に俺を不安の世界に誘うようであったがすぐに雑な心境に戻りまたすぐに、静謐な感情となって公園をあとにした。

ああそうだ。友人がくれた漫画、それらを収めるスペース。いよいよ書籍も漫画も、それぞれの本棚がキャパオーバーとなったので小ぶりの本棚が欲しいんだったと、徒歩圏内の「ニトリ」を目指す。あたりは完全に消灯の光度であった。

小さいの売ってないのかよ、と漏らしつつニトリを後にするも諦めきれない。その思いが俺を、すぐ近場のホームセンターへと運ばせた。そこにもなかった。

あったのはネズミ捕りとか色々、ネズミ捕り売り場の記憶以外は希薄であったが、赤羽駅東口のホームセンターで以前見た〝最後の晩餐〟くらいパンチのあるネーミングというか生産者は何を考えている。というかセンス抜群だなというやつ。それは今日訪れたホームセンターにはそういうの、なかった。

ふざけるなと俺は思い一直線に宅へ向かった。気がつけば3時間以上も散歩をしていたからである。帰宅して音楽制作をする。ベースを弾く。難しい。しかしベースパートのベースはできた。よし。小説原稿だ。今日で最終稿が完成する。やった。できた。もう磨ききった。あとは400字詰原稿用紙を、公募の推奨するフォーマットに着替えさせて精査し、紙に印刷していざエントリー。日本の文学界でも相当格式高い公募に、この作品で、問う。

初作品を、納得いくまで磨き上げてはもう、選ばれようが評されようが落とされようが、後戻りできない。いや、するつもりがないところに来た。後ろにかかっていた橋はもう木っ端微塵に爆破され、あるのは崖である。前にはフロンティア。その境界線に居る。どっちに行くかの二択。立ち止まるという選択肢はない。

では今日の過ごし方をどう説明する。何時間もお前、暇という現象を見事に行動で示したな。凄いよそこまでいくと。などとは思っていない。逍遥という、俺にとって必要不可欠な思考整理、思考熟成、思考発展の役割を担う大事なお散歩なのである。

だから、祈るためではなくすべて、行動で。という訳であるが酒3本で気絶するくらいだったのであるから、たまにはゆったり過ごしてもいいのでは。

とはいえやることはやった。最終稿が完成した。嬉しい。頼む。公募先、この原稿からの問いに応じてくれ。ください。そうすれば人生の光度も彩度も劇的に。

やはり、どこか祈っている。それは、善いことだと思っている。やりきって最後に何をするべきか。それはもう、祈るしか残ることはない。そこまでやって、初めて、祈りという行為が成立する。

などと教会の教壇で彼らのマイクを奪い演説したらオルガニストはどんな曲目を演奏してくれるだろうか。それがドアーズの楽曲「The End」(1967年)だったらえげつないセンスしているなと称えると同時に俺は反論の檄を飛ばす。

そんなことはしない。和みつつも、熱狂がひとつ完成した寧日であった。
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「知識の森」と、館内の掲示物に我が物顔で記してあった。

それ、俺のやつ。「叡智の森」って俺が最初に言ったやつ。公的に堂々とパクっておる。おのれ。そう思ったが、「叡智の森」なんて別に公言せずにここに書いているだけの「北区立中央図書館」を表す俺個人の呼称である。だが、まさか、ちょっと矮小化させたその言葉で、本家にそう書かれているとは。

そうか。俺は役所の施設が公的に決定するほどのセンスに近しい――〝叡智〟のほうがカッコいい気がするが――言い方をしていた。よし。譲ろう。そのように思い、俺は当該図書館で読書に耽った。

推しの学者の本。読み進め中。それを読もうと思ったがヤメた。思ったのである。これは図書館で読むのではなく、買うやつだと。だから、ウィトゲンシュタイン著『哲学探究』については後日、神保町に行って発掘して(絶対にあるはず)購入しようとペンディングとした。

代わりにというか、今日起きて謎に「カント」という方の名前とその内実について気になったのでそれ、読むことにした。

とはいえ、いきなり原著の訳書はハードルが高い。様々な人文学書を読んできてわかったことである。「入門編」みたいなやつ、他人のフンドシを借りてセラーを狙うような猪口才な類ではなく、しっかりと「入門編」として誠実かつ小粋な書籍。それを吟味して読む。

『90分でわかるカント』。タイトルからしてあれだ。上に書いたやつの前者にモロにあたる。そんな気がしたが、前書きを読むと「こいつ真剣だ」と、その文体から察知したので俺は90分間、これに賭すことにした。吉と出るか凶と出るかそもそも何が出たかすら理解できないか――俺はいつもの位置の椅子に腰を下ろした。

本当に90分ほどで通読した。カントさんが何者か。それはけっこうわかった。すげえ。率直にそう思った。さらに、彼が何をしたか。それはめっぽうわからなかった。だから、入門して次に進める。よし。役割として十分な書籍。つまり吉。清々しい気持ちになった。

カントさんが何を提唱したのかは分からずじまいだが、〝何者でありどんな人物であり、どういった立ち位置の者か〟は、しっかりと理解できた。あと、昨日ここにふと記した、フランシス・ベーコンさんという画家について、その本にも何故かちょっと書かれており、このシンクロニシティはなんだとやや喫驚。なんか、あるんだろうくらいで手打ちとした。

――なかなか小粋な時間だったと、俺はワンシーズンぶりに着るチェスターコートをふかふかとさせて帰宅。楽曲制作をする。昨日軽く固めたベースラインの本録りをする。いいのレコーディングできた。よし小説を進めよう。昨日やっと最終稿を書き上げた。これを公募用のフォーマットに当て込む。

すると見るも無残なレイアウト崩れを起こし、PDFをポンコツAIにテキスト解読させたがの如し文字化けで何語かすら、言語の種類すらわからん体たらくに成り果ててその修復作業、数日以上確実にかかる。締め切りが、締め切りまであと20日しかないんだよ。

というのを覚悟していた。しかし、「400字詰め原稿用紙から『40字×30行』フォーマット」に全文コピペという蓋を開けてみると、原稿が輝いていた。普通に、まるで本を読んでいるかのような感覚でその原稿、綺麗〜に整っていたのである。

少なくとも一週間はかかると多めに目測したこのフォーマット合わせ。一点、「段落落とし」が全文の半分くらいずれていたので、それを直すだけ。どういうことかというと、この段落には、というかここの文章は、俺は意図的に「段落落とし」をしていない。しかし、仕事の原稿などでは必ずする。それがなにかと言うと以下のようなやつである。

文章を読む上で、改行などがなくとも読みやすいようにする。それは、文頭の上の箇所に「全角スペース」を配置する。書籍やネット記事などではこれは当然のように施されており、ある種の不文律とも言える。
普段ならここで俺は改行をする訳だが、「段落落とし」すると、この段落のように改行せずとも読みやすいように、俺の文章が読みやすいか読みやすくないか、日本語を理解しているか。そもそも文章が破綻してるとか文体とか抜かしやがってお前、句読点の打ち方すら手前が思ってることそのままやってはおい、ちゃんとしろよ。してるよ。文法くらいわかる。意図的というかすいません。思ったまま書いている。
このような弁明をする必要はあんまりない気がするが、仕事で文章を書くときはきちんと、主語・述語・形容詞・固有名詞などの並べ方を、基本にならって書く。話が逸れたが、以上、改行してからここまでの3つの段落の頭、それぞれの空白が「段落落とし」ということである。

そんなもん義務教育で習う。という気もするが、とにかく、wordアプリにおいて原稿用紙からページごとの文字数フォーマットを変更してコピペすると、「段落落とし」だけが半分は修正必須となるということである(動作環境・Mac OS)。

そんな訳でその修正は今日一日で終わった。なんならそのまま印刷して公募にエントリーできる準備が整った。とはいえ、別角度の精査もする――通読して致命的な修正必須箇所を洗い出しては正す――のだが、下手をすれば二週間はかかるやもという工程が一日で済んだ。嬉しい。

知識の森、いや、叡智の森でほっこりとインプット脳を肥やし、アウトプットの最初の集大成とも断言できる小説もできた。

――森に。俺の書いた本が置かれては森の一部となっては、堂々と、「知識じゃなくて〝叡智〟の方がよくないですか。すぐに変えましょう」などと司書に言及できる日が来るそのときまで――。

そんな野暮なことは言わないが、もうちょいで完全一致だった北区中央図書館のキャッチコピーのフレーズに、なんとも言えない気持ちになった。
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「即死」か「とんでもないことになるか」の二択だな。などと、最終稿、今度こそ正真正銘の最終稿。つまり、改稿をして推敲を重ねて完成した小説の原稿を精査しつつ読者目線で読んで思った。

一撃で落とされるのは困る。だが、公募という性質上、それは俺に決定権などない。だが、一撃で落とされる理由が俺には、こと個人的にはどうしても思いつかない。

とはいえあるとしたら――「あまりにも分別不能でもはや文学ではない。こんなもの」と言われてしまったら。あたりだろうか。されど、「さようですか」と、その旨を受けるしかない。

「いやね、これまでにない起爆剤とか。そういう風に捉えられなかったのでしょうか」と悔しみ遺憾。それを漏らすだろうか。そんなん認めたくない。

逆にと言うかこうあってほしいのだが、一撃秒死回避というか、「続きが気になって仕方がない」と、冒頭から数ページで思ってもらえたら、正直なところ、恐縮ながら、最後まで読んでいただければ、というかその促進力を感じていただければ、最後まで読みきらずにはいられない。そんな構成にしたのである。

それは初稿から一貫して変わっていない、作品の根底の激情である。

などとと書いてお前、即死してみろ。今度こそ本当に壁にめり込むほどの悲嘆に包まれてビタと固まったままコンクリートに語りかけてはついに壁から返事が返ってきてそれを繰り返し文字通り壁打ちを繰り返しては俺の喋りが壁よりもゆっくりになる。

そう考えると、大したことなさそうな気もするが、絶望の形容をいま、リアルに言語化したくなかっただけである。言葉には信じられないくらい宿るものが森羅万象あるからである。

だから、冒頭で言うところの後者であってほしい。

では自分で読んだところどうなんだと、「最終稿」という完成形として、書籍フォーマットに近いレイアウトの原稿を、客観的に読み進める。

うん。これは勝負になると――時間が許すなら今夜このまま最終章まで一気読みしたいという気持ちに、まず俺がそうなれた。まず俺が面白いと思えた。つまり、これ以上手を加える部分はない。今日、中盤まで通貫して読んだところ。心底そう思えた。

あとは、格式高い公募先がどう捉えるか。なんなら原稿を手にした審査員に数分おきに笑ってほしい。そういった箇所もちゃんとバランスよくまぶしたつもりである。――お願いしますよと、とうとう祈りの段階まできた。

あとは明日、明後日で精査・通読して、紙に印刷。右肩を綴じて封筒に入れ、筑摩書房内太宰治賞係宛てに郵送する。エントリー。そこまであと一歩。

――長期プロジェクトとして明瞭に構えたこれのくだり。今年の1月からのやつ。それの初作品。

作家になるためにまず、作品が大いに評され認めを得たい。なんなら第二作目も既に手元にある。とはいえ、やはり、初作品ってどこか特別。気合の入り方が、自分で言うのはおかしいのだが言うくらい許されると思う。尋常ではない。だから、すごく冷静に原稿を吟味してこう思えた。 「即死」か「とんでもないことになるか」の二択だな。などと。

どうしても、中途半端な結果が想像できないのである。

自惚れ。その可能性は大いにある。しかし、この期間、俺は様々な文学に触れて学んだつもりである。だから、ある種の〝感覚的な根拠〟がないわけではない。

今年の半ばまではそれが白痴なほどになかった。だからなのか――色々、ここまであったが、今回の勝負、〝問い〟は、どうなるか。どういった判定、〝回答〟となるか。

一言で言うと楽しみで仕方がない。というとけっこう嘘が混じる。正直に言うと恐ろしい。怖い。本当に怖い。だが、この感覚が結果に紐付いたとしても、弾が枯れるまで。枯れても生産して発する。そんな短いスパンのプロジェクトではないとずっしり構えているのである。

だが即死って怖い。とんでもない方に〝選ばれて〟ほしい。そう。公募というのは〝獲る〟ものではなく〝選ばれる〟もの。そのように、そこまで冷静に考えられるようになった。

「絶対に獲る」などと言っていた数ヶ月前が懐かしい。その意気込みは立派なのかもしれないが、どんな分野であっても、学びはしっかりと。それを思い知った。だから学んだ。ずっと学んでいる。そこでひとつわかったことがある。

俺は絶対に、三島由紀夫にはなれない。太宰治にもなれない。芥川龍之介にもなれない。中島らもにもなれない。町田康にもなれない。又吉直樹にもなれない。宮島未奈にもなれない。だが、必ず、何者かには絶対になれると思った。

手前が初めて書いた小説を読み進めてそこまで思える。なんておめでたいのだろうか。

などとは思わない。ただ、とんでもないこと、そっちに判定されれば、必ず俺は何者かになれる。そして、そこから、商業作家として書き続けて世界に貢献するという〝目的〟に向かえる。そのためにはまず〝目標〟であるデビューをと。

そういうロードマップというかマイルストーンというか、文学どうこう抜かすなら日本語で書けとも思うがつまり、ほぼ確実に「どっちか」であろうと容赦なく冷静に思えた日のこの身震いするような初体験。

どっちに転じようが、生涯においての魂の記憶としては来世まで残っては消えない。そうでもなければ、この、脳髄が滾る感覚は証明できない。

もっと冷静に考えるとそれはPC画面の見過ぎだろうがとにかく。今日は一旦頭に栞をはさんで酒呑んで寝ろ。そろそろ缶酒2本で気絶するフェーズまで行くぞ。

それでも書く。つかそれでも、呑むのか。とにかく、いまはそういう〝時期〟なのだと暗に、いや、芯から思える。イメージしろ。授賞式の挨拶で俺が正装で胸に赤い勲章を付けてなにを言うか――記者を笑わせたい。どうしてそうなる。だが、秒でそのイメージしか出てこなかったのをどうとるか――即死か、とんでもないことか。いずれかだとしか、思えない。
(※文中作家名敬称略)
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「つい数日前、死んだわよ」と、死んだ母親に、死んだ父の死の事実を告げられる夢を見ては、本気で子供の頃の純真無垢の恐怖を覚えた。

そして、起床から2時間くらい――「俺はじゃあどこから生まれた。いま、なにをしているんだ」などと慄いていた。そのまま夢うつつの上位互換の気分で仕事をしては中華昼食を食べたあたり――で現実に戻った。

あぶねえだろ。最近スピリチュアルに傾倒というか、そういったYouTube動画をしげしげとは観ていないのに。というか現実とは。などと、また、人文学書かぶれなことを探ってはその思考は、だんだんと引き戻されるように、〝現在〟にふさわしい状態に戻った。

そんなことに耽っている時間があったらお前。などと思い、最終稿を進めると興奮してきては「ああこんな時間か」と、日記を書こうとここを開くも「あれ――」となり、この文章を書く前に三度ほど、全く違う内容を千文字ちょいずつ書いては消す。それを繰り返してこうなった。

長期的なプロジェクトをマラソンに例えて書いてみた。昼間にふと、その思考がよぎったのである。

しかし何が言いたいのか甚だ俺もわからない上に、マラソン走行時の水分補給時にカップを取り損ねそうになるもなんとかそれを掴み、それを雑に飲んでは「器官が」などという訳のわからない発言が要所となる描写を精緻に書いていた。

そして「な〜んか嘘を書いてねえか俺」と訝しみ、「俺は嘘ばかりついている」などという鬱ブログと表現するのが適切かはわからないが、それを書いては「嘘で、嘘をついてるな」と、ス……と納得したので消して、こうなった。

そして、過去に賜った「おじいちゃんの日記以下の文章」という非難ベースのアンチコメント。それを想起しては、倫理的なことを書いていたつもりだが「これは当時、リアルタイムで書いたやつだ」と思い出しては消して、こうなった。

つまり思うことは色々あったが、全部訳がわからなかった。ただ、ひとつだけ、真実があった。ここに、嘘は、書いてないなと。

だから何なんだと誰かから凄まれるような性質のテキストではない。

思うことは、嘘を書かないことはさほど重要ではない。しかし、ひとつくらいは、嘘を書かない場所で過ごすことで〝自身を担保〟しているのではないかなとそう思った。そうでないと、下手な嘘もつけずに生きづらくなりかねない。

いま、俺が生きやすいかどうかはちょっとわからない。毎日幸せに過ごしては感謝をしている。だが、つい数日前に死んだことに気づけないような生き方は回避するのが賢明かなと、率直に思った。

いま、酒を呑んでいる訳でもなく、頭がオーバーヒートしている訳でもないのに、なぜ、正直に書けばいいだけの日記を三度も、都合四度目を書き直しているのか本当にわからない。結局、本文が圧倒的に訳のわからない内容となったが、正直に、嘘をつかずに書くと、こうなった。

たったいま、缶酒を開けて一口だけ呑んだらその理由がわかった。

ついさっきまで「嘘ではない現実ベースのことを小説という創作に仕立てた原稿の文章」を真剣に吟味していた。その時間においての螺旋構造の思考が、俺が「嘘を書いているのか正直に書いているのか」の〝判定基準〟を畝らせた。めちゃめちゃ正直にそう思えた。

「死」の描写の夢は「更新」を象徴するという解釈。これは、俺がいろんな書籍を読んだ上で納得できる解釈。

だとすると、少しは前に進めているのであろうか。今年で最も訳のわからない内容だがひとつだけ断じられることがある。むしろ、良かったと正直に今思える。

脚色も、誇張も、外連味もない。嘘を書かないってこういうことなんだなと落居した。

12年ちょい、日々、ここを更新して初めてわかった。嘘を書かないということの正体が。それは、「いまを確認していること」なのだということを。死ぬほどシンプルな真実だった。しかしやっぱり甚だ訳のわからないテキストとなったが、一貫して、嘘はついていない。
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“六法全書に八つ当たりを――”。という感情。

全くもって意味がわからないが、俺はこれをちゃんとユーモアとして捉えた。読み進めている小説内の心理描写の一部である。その表現があった段落の締めには、“落第坊主が!”。とある。俺は、顔面の筋肉を引きつらせつつそのページの右上をちょんと折った。

どんなシチュエーションだとそんな気持ちになれるんだよ。そのように率直に思ったが俺の感情は大きく揺れた。

というのも、その小説は、読んでも読んでも「笑うところ一個もねえな」と感ずるも急に、先の表現がねじ込まれていたからである。その作品は〝読み進めさせる重厚な推進力〟が多分に孕んでいる。文学的魅力に満ち溢れているのである。著者は三島由紀夫さん。

引用の部分は、主人公の〝男〟が、女性から初めて「恋文」をもらっては有頂天になり、やったぜと中身を確かめようと下心に似た情念を隠しきれずに期待の念をおもむろに膨らませてはいざ読むも、そこには実に淡白で事務的な筆致でさほど恋愛色とは捉えられぬ内容が書かれいた。

期待とは真逆の文面と対峙した男は恥じた。徹底的に恥じた。なんかちょっと怒っていた。そのうえで、六法全書に八つ当たりをした。

ポップなのか真面目なのか甚だわからん例えだなと、そのほかにも男の精神状態や一挙手一投足が異様なまでの精度で書かれていたが「六法全書」は格別だなと素直に感じ、俺の長期記憶に刻印された。なお、本作は語彙や比喩や表現、描写手法の「宝庫」と断じて差し支えないと思う。

――おそらく、〝男〟は、筆者である三島由紀夫氏の分身かと思われる。単に男が女性から恋文をもらった。という純愛のワンシーンではなく、もっと、男にはダイバーシティーな性自認のようなものが――深い作品につき断言は避ける――ある前提で、「初めて女性から恋文をもらった時の浮かれ具合と肩透かし、失意と恥」を生々しくも容赦なく遠慮なく書かれている。これ。こういうの大事だな〜と俺は三島氏に敬礼する気持ちが浮上した。

「三島さん、よっぽど悔しかったんですね」という一言でまとめられないあたりが、作品の、文学のエネルギーなのだなという感覚。それを、少しは学んだつもりである。同時に、「他方、俺の恋愛とは」と、そこまで自分のこととして考えさせる魔力まで伴っている。

――やはりどの時代でもどの国でもどんな場合でも、恋愛、愛についての描写や解釈は徹底される。

「いま読み進めている本」ということで一方、別の書籍でも「愛」「愛情」についての倫理観についてこう書かれていた。

“――相手かたへの善の願望と、相手かたにとって快適であるということによって、「均しきもの」(ト・イソン)をもって相手かたに報いているのである。「親しさは均しさ」といわれているが、このことは善きひとびととの愛において最もいちじるしい”

文脈をすっとばすと死ぬほどわかりづらいがこれ。

要は、「親しさは均しさ」というのがが大事と。

〝均しさ〟という、まんべんない、状態に差がない双方の〝愛〟の具合ってのが大事なんですよ。ということを(この箇所においては)アリストテレスさんは言いたかったもよう。

そうなってくると、先の三島氏の「恋文」のくだりは〝均しさ〟とおもむろに衝突している構図ともなる。

だから、六法全書に八つ当たりするほど憤慨とも恥辱とも誤認とも期待はずれとも、様々捉えらえる心象となり、つい、思いもよらぬ飛躍した例えにまで達するという離れ業の記述とした。俺はそう捉えた。

そして、恋文を読んだ男はなんとか、なんとか、「いや、照れているから事務的な内容を書くに至ってしまった」「実のところ自分のことが好き過ぎに違いない。だから一周してこうなった」――女性はきっと「本当は何度も書き直したけどいけないわ。これだと懇意の殿方への失敬にあたってしまう。やり直しだわ」「最低限にすることでこそ、この昂ぶる恋心が伝わるのよ――」などと、これらはいち読者としての俺の表現であるが、そのような、恋文の内容の深層を徹底的に想像・吟味しては〝捨てきれない期待感〟を言葉として、三島氏が執筆した。そう考えると、恋愛ってすげえなと思わざるを得なかった。

よし。マッチング・アプリに参入しよう。そんでもって、俺もあれくらい生々しく、文豪の卓越した表現。そして、哲人くらい達観したレベルの「恋愛観」ならびに「愛情」についてリアルベースで学ぼう。そのように思った。

そうなると――まずはマッチング・アプリのプロフィール作成からだ。情報の第一印象は肝心である。よし。

「45歳フリーランス。東京都北区在住。未婚。恋人を探しています。趣味は特にありません。強いて言えば飲酒です。飲酒。あとは散歩かな。好みのタイプは――ちょっとよくわかりません」

絶望的に不出来なプロフィール。誰がこんなん見て食指を動かすか。具体性がない。方向性がない。そこに信念が見えない。やる気が伺えない。こんなんでマッチングするかよ。

しかし。よく考えると、これは、三島作品においての〝女性の恋文の内実〟と相当近い構図となるのでは。

事務的。多くを語っていない。そう、相手にしこたま想像を巡らせてはスマートフォンに八つ当たりさせるほどの含み。それがあるに違いない。きっとそうだ。だから及第点突破。むしろ美しい。いや、これはだめだと思うよ俺は。

だがしかし、「親しさは均しさ」という倫理を鑑みるとこれくらいが上等。なにせ情報源は紀元前の哲人。いや、やっぱだめだと思うよこんなんじゃ。もっとガツガツいかないとね。これだと懇意の女性への失敬にあたってしまう。やり直しだわ。

「45歳フリーランス。東京都北区在住。未婚。恋人とセックスフレンドを両方多分に探しております。三度の飯より女性を愛してやまない性質です。〝性欲オバケ〟と、友人からはしばしば讃えられます。酒は無限に呑みます。お望みとあれば極地まで、果てしないフェーズまで、どこまでもお付き合いいたします。かつての異名は〝成るべくしてNo, 1の玉座に就いた清潔・ホストの極み〟で、あります。即日対応OK。奮ってのご応募いただけると幸甚です」

逸脱。それは〝中庸〟という態度では許されぬ態度。そのくだりがしこたま書かれている書籍を読んで俺は一体、何を学んだのか。というくらいこれもだめだな。引くだろ。女性が。あと「即日対応OK」が一番だめだ。消費者金融の看板を思い出した。

このように、恋愛は書籍からは学べない。厳密に言うと、恋愛の深い体験を積み重ねないことには、その観念などはせめてもの理解に及ぶが、そのままでは、童貞がセックスについて意気揚々と演説をするくらい希薄な中身の態度となる。それは滑稽ほかならない。

よって、俺がいまするべきことは、誰かを愛することなのかもしれない。極地まで。均しさを肚に。

これくらいちょっと考えたうえで、俺はマッチング・アプリに参入しないであろう。だから、まだ、六法全書に八つ当たりするほどの激情を文章に浮き彫りにとはならない。あれほどの表現の域に達せない。「親しさは均しさ」の真意にたどり着けない。

今日も、自分の小説を磨いていた。あと一歩という段階。出来は、「即死か、とんでもないことになるか」といった所感。だが世界は広かった――恋愛・愛情という文脈について、まだまだ艶かしい鉱石が潤沢に潜んでいる。それに気がついた。

全くもって意味がわからない比喩。それを笑うのではなく、痛いほど理解におよぶにはまだまだ「体験」が必要不可欠。そのように思った次第だがマッチング・アプリはまあ、やらないかな。いや、試しにさっきのプロフィール・第二稿でもって取材がてら――不純な動機は即座に女性に見透かされる。

――いや、動機が一緒の女性もいるかもしれないではないか。このあたりの薄い期待に想像を馳せるくだりあたりは、〝男〟が恋文に対して抱いた心情との近似値。それ。わりとあるのかな。なんかすいません。三島さん。というかプロフィールに嘘を書くな。
(※出典:『仮面の告白』三島由紀夫著・『ニコマコス倫理学(下)』アリストテレス著)
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2012年11月24日。10年以上昔の、今日を示す日付のことである。

その日、俺は、東京都北区王子の賭場でパチスロを打っていた。目の前にある、欲しい〝何か〟に夢中だった。

――2025年11月24日。本日の日付である。ふと、電車で、赤子が視野に入った。男の子なのか、女の子か、わからなかった。唯一判断できたのは、赤子は生まれたて。生まれて間もない。何かから生まれ変わった直後の生き物なのであるということだけだった。

赤子は、最新型と見なせるアイフォーンを手にしていた。

「そういう時代か」と、暗に思った。すると赤子はアイフォーンに噛み付いた。まだほぼほぼ発達していない前頭前野がせりだすような膨よかな額は輝かしく、その奥はまだ機能していなかったことが明るみになっていた。

かじった。赤子はアイフォーンを「かじるもの」だと認識したのか、目の前のそれに夢中であった。

カドをかじった。足りん。それではまだ満足しない。そう言わんばかりに、いや、まだ言語も習得していないので「あぴゃ」と発しつつ、今度は側面をもしこたまかじっていた。

「実に嬉しそうだな」と、俺は綻びながら赤子を直視していた。すると母親がデバイスを奪い、本来のアイフォーンとして機能させるべく何度かスワイプした。そして、いかにも赤子が食いつきそうな、一匹の謎の動物がフワフワと動くだけという、大人がそれを長時間観たら精神異常に至るのではというシンプルすぎる動画だかゲームだかの画面に設定し、アイフォーンを赤子に放流した。

すると赤子はその謎の動物だかなんかを少し、目で追っては「あぴゃ」と無邪気に発した。「そうそう」とは俺は思わなかった。知っているのである。赤子の今の能動を。

もちろん2秒後に赤子はかじった。アイフォーンをかじりたおしては母親――お咎めなし。そう。赤子にとってそいつは「かじるもの」であり、今は、それが最適なのである。赤子が俺を見た。

目をそらさずに俺は、いかにも大人が赤子をあやすような笑顔をぐっと堪え、微々たる笑みで対応した。すると赤子が喚き散らして電車が緊急停止。乗客たちは一律慄き「すぐまた走り出すだろ」と、事態を楽観しては各々のデバイスを穴が空くほど見つめ直す。しかし一向に車両はビクともせずにそのうち癇癪持ちのババアが「誰かお医者さん! 呼んでほら!」などと発狂し出してはいかんと俺は思い制圧しようと奮起する刹那に確認したのは、震源は俺であった――という事案にはならず、赤子は嬉しそうに笑ってくれた。

何故かは、わかった。俺が邪心を出さなかったからである。ただ、「かじるものだよね」と、心底、赤子を肯定する心持だったからである。少し目を逸らす。もう一回目を向ける。互いにピントが合う。赤子が笑う。到着駅。

赤子は、これから人間としての営みを進める。最初は間違える。あれはね。かじるものじゃないんだ。即座に世界と繋がることすらできる魔法の板なんだ。それは追い追い、気付くのであろう。

――帰って小説を進めた。

今年1月。文学という文脈だと俺は赤子であった。そいつが生まれた、いや、生まれ変わりたかったのであろうか。とにかくその月から霹靂のきっかけを得ては小説を書くようになり、書き続けた。

2012年11月24日という過去。俺はその日を境に、パチスロを打つことを辞めた。博徒として死んだ。その日から俺は生まれ変わり、12年が経った。さまざまなものを、生みだす営みに舵を切った。

2025年11月24日。以前の俺が死んだ、日付的に同日である今日、小説の初作品が本当の意味で完成した。俺は、この作品で生まれ変わりたい。12年というスパンを経た初年に、そう、心底思った。

赤子がアイフォーンをかじるように、最初は間違えているのかもしれない。その用途を。しかし、赤子と俺とのそれぞれの対象には共通点がある。それは、世界と繋がることができるということである。そこに賭けている。

2012年の同日の賭けの行為とは質が全く異なる。邪道を知り尽くして死にかけて戻ってきた。そして正道で賭ける。その突破口となる弾丸が、起爆剤が、完成した。

――きっと、いまの自分が、世界から見られていたら、赤子がアイフォーンをかじって笑っているかの様子に映るのかもしれない。

俺は、過去の自分を見捨てない。疑いを捨てない。そして考える。考えることを捨てない。俺は、俺を見放さない。だから、完成した。というように思った。

世界が自身を、どういった表情で迎え入れるのか。それが楽しみで仕方がない。

――死んで、生まれ変わった12年前のあの日。そこから、今年の同日。俺はまた、生まれ変わりたい。それは、本格的な死を迎えるまでは、何度でも何度でも、自分を見捨てない限りは必ず可能なことである。そんな風に思った。
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半日ほど仕事をした。その後は、錦糸町で仲間とジャズ・セッションバーを見学した。俺はジャズは専門外である。なんなら能動的に聴かない。それもあり見学。

――現場で、「ハートランド・ビール」の5%の酒度を愛でつつ音を吸っては「こういう感じかあ」と、その場を過ごした。

その後、錦糸町の雑居ビルで仲間と安酒という甘露に甘んじた。それはたいへん潤しい態度を我々に呼応させた。

とはいえ、席での会談の内容は、現在の各々の熱狂のリソース、旅への姿勢、RPGの始祖を築いた堀井雄二氏への善き言及など――その場の仲間とは。コンサル業の桑原氏と編集者の村上氏である。

各々の熱狂の対象に言及しつつ、番がまわって俺に言及される。「俺ですか?」と、言う前に、「小説、どうなった?」と、自身のリソースの割きっぷりを先だおしで言われては「よくご存知で」と、丁重に感謝ベースでその内実を開陳。

彼ら。俺との比率は計り知れないが、やはり、日々熱狂していることがあると談話で察しつつも酒は進む。

だがしかし、ここのところの自身の節制が功を成したか、いくら呑んでもクレイジーな酔い方のドミナントには迷わず。つまり、俺は今けっこう呑んでいるのであるが、さほど。とか思えどどうかな。

赤羽に戻る。

黒服くんたちが精を出す日常。「お兄さん〜」と、テンプレ誘導文句の発話を並べる娘さん方。ああ、帰ってきたのだなと思ったその刹那。24時ちょい過ぎ。こともあろうか――某宗教系勧誘の女性が「こんな時間に活動を」と喫驚しつつそれに、よせばいいのに真面目に対峙しては、俺は大人気なく彼女らを論駁する姿勢で30分ほど論議しては最終的に「あなたは何一つわかっていない。俺も何一つわかっていない。だから、考えることを放棄しないでほしい」という結論を最終語として言語として伝えては俺は後にして耳を確かた。すると、「酔っ払ってるのかしら。きゃきゃ」と発話する彼女らの動物のような言語を俺は聞き逃さなかった――大人気ないな〜って思いつつコンビニで酒、なんぼか買って帰宅。今に至る。

今日は、楽曲制作もしていなければ、小説を触ってもいない。つまり、半日の仕事と、あとは流れるように世間にならった。

すると、前提も論証も帰結も快楽も苦悩も反省も邁進も半分くらいになる。これをどう見なすか。そのへんもさほど、考えていない。そういう日があるのは、あっていいと見なせるのは、そのへんも考えずに。という一日。線の蓋が威勢良く空いた翌日の心象。
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夕方まで睡眠。堕落。そうではない。これでいいのである。なぜならば今日は休日。日々のタスク・ノートには手書きで「やすもうね」と、とっ散らかした「毛」を、もの凄い丁寧に組み合わせたかのようなフォントで、というか俺の筆跡だがとにかく、そう書かれていた。つまり、休むという鋼鉄の意思をそこから感じた次第である。

よっしゃパチンコだ。というくらい安直な趣味を俺は持ち合わせていない。「平吉さん……ご趣味は?」と、〝見合い〟の場で仲間由紀恵似の平安的美貌を中核とした顔面の女史に言及されたとしよう。俺には趣味がない。

「ええ……狩猟を少々」などと嘘をつくであろう。相手の脳内次第では笑いともなるかスレスレの嘘であるが仲間由紀恵似女史はブルジョアな育ちなもので〝疑う〟という発想が欠損している。

「まあ……素敵なご趣味でいらっしゃる」と、少し横を見て笑んでは尿色のハーブティーが注がれたウェジウッドのティーカップに口を当て、よせばいいのに俺の嘘を掘り下げにかかる発話に容赦はなかった。

「平吉さん……この時期は、なにが狩れるのですの?」と。

そんな愚直なまでの会話の進め方に硬直手前の心象となった俺は「嘘を貫くしかない」といった態度を自覚して、真摯に応答した。

「ええ……ウリボウが狙い目ですね。間違いありません」と、嘘に嘘を重ねる。さすがにここでジョークと捉えない人間はもう足を洗うのが最適。しかし仲間由紀恵似女史に〝遠慮〟という感情は搭載されていなかった。

「まあ……やはり、若いうちが食べごろですの?」と、逆に猟奇的な発言をする仲間由紀恵似女史。俺はだんだん脇汗が止まらなくなり、肘に「ヒヤ……」とした感覚を確かに得ては戻れなくなるその手前で引き返そうと躍起になる。

「いえ……その……ウリボウを狩ったらかわいそうっすよね」と。

しかし仲間由紀恵似女史は後ろで誰かに銃口でも突きつけられているのかと訝しむほど、一ミリのブレもないその態度を翻す気配すらなかった。

「平吉さん……わたくし、ウリボウを口にしたことがないのです……是非、今度ご一緒に――」と、地獄のような初デートの提案。

「だめだって。たぶん、法的にも禁止――いや、倫理的に考えましょうよ。ほら」と、俺は手元のハーブティーに、軸が壊れた砂時計の如し勢いで砂糖を注ぎ込む。

「だって……平吉さんのご趣味、とっても魅力的だわ」などと仲間由紀恵似女史はオニキスのような輝きを放つ瞳で俺をまっすぐ見つめ、いや、追い込みにかける。たまらなくなった俺は話題を変えよう、変えてなかったことにしようと質問返しという禁じ手に出る。

「まあ……機会がもし、仮にですが、もしあったらまあ……ところであなたのご趣味は?」と。

「ええ……鳩の頭を――」

俺は仲間由紀恵似女史の発言を認めたくないがために話を遮っては強引に〝家族に対する価値観〟という普遍的かつ見合いに適した話題に舵を切ろうとしたがどうにもならない場所まで、気がつけば、足元は、すでに、人力では抜けないフェーズにまで達していた。

「平吉さん……ご覧あそばせ――」と、ほぼ確で鳩の頭のなんらかがぎっしり詰まった考古学研究用だろそれ、というほどの屈強な保存袋をおもむろにテーブルに立ち上げてはハーブティーが、ウェジウッドが、すべてが木っ端微塵に乱雑に見合い部屋で踊り出してはとうとう仲間由紀恵似女史、それを開けにかかる。その中身は俺を喫驚の上位互換の情念に立ち上らせる、人間の能動というやつの大前提を逆さまにする体たらくの――。

という、オチまであと5万字は必要な文章の冒頭をここに書くほど、今日はつまり、休んでいた。

俺のお見合い経験自体がまず嘘。あと、ちゃんと趣味を聞かれれば「特にはないですね! 昔はギャンブルを趣味としてそこから逸脱しちゃいましてね! はは」と、正直に答える。そしてあと仲間由紀恵さんに謝れ。

というように、日記というかただの創作な訳であるが、事実としてそういった思考がはたらいたと。

――じゃあ今日、具体的に何をしていたかというと、いつものように散歩したり、AIをいじったり、薄毛白髪対策マッサージをしたり、視力回復エクササイズをしたり、あと岡田斗司夫。岡田斗司夫さんのYouTube動画を閲覧したり。そのへんである。つまり前提は揺るがない。俺は今日、休んでいた。

ともあれ――既述の地獄初デートはちょっと魅力的かもしれない。狩るのではなく、飼って、育ったら野に放つ。それは男女の営みとしても健全。そして倫理的にも顛末が正しい。

だが、嘘をつくんじゃないよ。嘘だけはここに書かないって先日に暑苦しく言ったじゃないか。ただ、そう思ったのは真実なので、嘘ではない。俺は、ウリボウの扱い方について10分くらい熟考した。そうしたらこうなった。

つまり、よく休めた寧日に感謝すべきである。嘘と創作の違いとは――。
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小説の原稿ができた。今回の応募先の規定にならい、紙に印刷する。そして、〝原稿は必ず通し番号(ページ数)を入れて、右肩を綴じてください〟。これを実行する必要がある。とはいえ――。

データでいいじゃないですか。と、俺は最初の段階から思っていた。

音楽の文脈に例えると、音源の納品やコンペの応募等で「wavやmp3ファイルではなく、CD-Rを送付してください」くらい、データでよいのでは? とういくらい。けっこう失敬に近い例えかもしれないが本当にそう思った。だが、その思いは軽薄だと今日、体現した。

正式な公募先の規定。これをしないことには、作品がどれだけ大傑作であっても、〝しなかった〟というだけで即、落とされる。厳しい。そう、正直に思った。

〝右肩を綴じる〟やりかたについて。ネットでもAIで調べても案外、決定打がが乱雑していた。だから俺は近所の「ハンコ屋さん」に依頼するのが最短ルートではないかと、これまたAIに聞いた。するとAIにしては珍しく「ほぼ100%の確率でそれが正解です」とのこと。

俺は昼間、ハンコ屋さんに電話をした。結論「無理です」。

AIの「ほぼ100%とは」などと訝しんでは足を使いホームセンターへ。「一撃で原稿用紙100枚単位を貫通できる屈強な穴開けパンチ」を探した。結局は自分でやるのがいいかと。するとそれは、あるにはあったが4,500円くらいした。

高いから隣接の100円ショップで穴開けパンチを探した。すると、一応あった。

だが、「いけて10枚くらいですよ」というその穴開けパンチのポテンシャルを示す文言があった。とはいえ、「普通に10枚ずつくらい分けてパンチすればいいのでは」という妥協案に辿った。

というかそれでよくねえかと、それを10回もほぼ正確な位置でパンチすれば〝右肩を綴じる〟ことは可能。ついでに買った「紐」と「パンチ穴補強シート」、穴開けパンチと合わせてしめて330円。これで自力の最終仕上げの流れとする。試しに完成原稿を部屋のプリンターで11枚ほど試し刷り。

すると、今までずっとPC画面のwordアプリでのみ見ていた文章が明らかに表情を変えた。

紙で出力された本文を見たら時の「これは全然違う」という第一印象。データの原稿とは感覚的・物理的質感がまるで異なり、変な話、俺は本当に小説を格式高めの公募先に投稿するのだなと実感した。

その試し刷りの11枚にはパンチして穴を開け、リハーサルがてら紐で結んでパンチ穴補強シートも施した。

――レコーディング終わりましたね。じゃあマスターはあとでデータで送りますから――いや、なんというか実感がないので盤で――今時ですか?――いやその、実感がないのでせめてCD-Rに焼いて――そもそもCD-Rあったかな……――本当にここレコーディングスタジオですか?――いや、一昔前はそれは通例だったけどさすがに――お願いしますよ――めんど――

というくだりが令和の現代であるかは知らない。だが、俺が20代の頃は、レコーディングしたあとにエンジニアさんから渡されるマスター音源のCD盤が宝物のように光って見えた。メンバーもみんなそうだった。各々、盤面に落書きをしては「マスターだぞ?」などと笑い合うような場面。それを思い出した。

手元にある試し刷り原稿11枚右肩綴じ済みは、一枚「40字×30行」というフォーマット。つまり、文庫本で言うと、見開いて2ページ分が一枚に収まるのとほぼ同一形式であり、「本を読んでいる感覚」になってちょっと情念高ぶった、それだけの話なのだが「こういうことか」と落居したのである。

きっと、この時代でもデータでのエントリーを許可していない(公募先による)のは、「習わし」というのもあるだろう。

しかし、俺が感じたのは、「そこまでの作業込みで仕上げて、ちゃんと挑んでくる覚悟があるのか」くらいに思えた。だから、むしろ紙印刷公募規定でよかったと感じたほどである。

「データでいいじゃないですか」と、最初に思った数ヶ月前の俺に言ってやりたい。

「そこまで覚悟を持って真摯に向き合う姿勢を、ドレスコードにならって参加する、挑む心持ちであるのか?」と。

AIやネットからの情報ではなく、迷子になった末の思考が最適案だったというあたり、「このへんも試されてるのかな」などという思案。

――あとは、原稿をPDFに凍結、最終精査、家で100枚単位印刷は無謀に近しいのでコンビニで一気通貫に印刷、穴は分割して貫通、丁寧に右肩を紐で綴じる。

今日、人生で最も美しい筆跡で書けた気がする『筑摩書房内太宰治賞係』御中宛の文字、住所、裏面の俺の住所、氏名。この封筒に入れて12月1日に赤羽の郵便局から世に放つ。特定記録郵便で。

大げさな言い方だが、この一連の最終工程はもはや儀式と思えたのでそうもなってしまう。

紙に印刷された文字の魔力。そういったものがあるのだと、自分の小説作品の原稿を刷って初めて体験した。

だから、「データでいいじゃないですか」。とは今後二度と口にしないであろう。きっとそれは、今後、人類が存在する限り、「書籍」というマテリアルな存在は絶対に滅びないであろうという持論に直結する。

もしも、異を唱える者が居たとしたら俺は言及する。「一回自分でしこたま文章書いて、正式なフォーマットの原稿で印刷して読んでみてくださいよ。景色が違いますから。景色が」と。

まあ、「データでよくないですか?」と、言われるだろうが、それはそれで、それでも別にわるくはないと思う。ただ、俺はもう、そのようには言えなくなったんだなと、ふと思った。
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酒の量を少し減らす。だがしかし律儀に毎日飲む。とはいえその差分が起因で、夜ごはんをちゃんと食べるようになる。

薄毛白髪防止および視力回復エクササイズを日々行なう。するとそのぶんパッと見の髪型は他人からは「いつも一緒じゃないかお前は」と指摘されるに踏みとどまる。なんなら顔のむくみもとれてシュッとする。共に起因は――日々行なっていることの結果。

単純だな。と俺は思った。減らせば減らしただけ、良きことに充当され、やればやっただけ、物理的に身体も呼応する。創作もそうある種、そうであろうとふと思った。

今日、原稿の最終精査をして、三種類の視点から斜め読みを繰り返したところ、やはり思った。「本稿は、即死か、とんでもないことになるか、その二択」と。先日も書いたこの感覚は、変わらないどころか確信に成り上がった。

すなわち、「絶対にこれ以上は一文字も動かさない」という段階。つまり小説の初作品改稿最終稿が完成した。このまま、データを物理的原稿として印刷するという段階。これで大勝負に出る。

などと書いては後日、「――結果。二次選考の手前で落選しくさった。まこと遺憾なその半端な結果を受けて俺は人事不省に陥るほどの落胆、ではなく、上気の向こう側に行ってしまったテロリストの失敗の如し、ではなく、よっぽど手前の世界でメルヘン思考に浸かっていた成れの果て、でもなく――」と、そういうのは全くもって現実的に想像できない。

人間は、想像できないことは成し得ない。想像できること、思考すること、その先にある道を進んではなんと――宇宙まで行った。という事実がある。

大袈裟なんだよ。と、言及されれば俺はこう答える。

「世界で生きている存在証明のいいやつの〝わかりやすい最初のやつ〟。それが完成して、これから世に問うて、その結果をしこたま楽しみにしている段階の俺のこの態度ですよね? そんなにおかしいでしょうか」と。

すると、半端なサディズム性質の御仁だかなんだかはこう、返すであろう。

「一年溶かしたなお前は。一日平均で毎日だいたい二時間ちょいとかだっけ? そのぶんバイトをしてれば約100万円は稼げたな。いや、ほんとに東京都の平均賃金くらいでいま計算した。それで結果が出なかったら――というか何がしたかったの? いやあ、まあ、頑張ったねえ」と。

そこで俺はどう反論しよう。しない。黙る。

するとマキャベリストの別の者はこう言うだろうか――というか、そんなの想像すること自体センスがない。

だから今、マキャベリズム――目的達成のためには手段選ばず非道徳的な手段や暴力も許容する思想(本来は国家の文脈で)――の御仁の言わんとすることの想像は棄却した。ちょっと3行くらい書いたが書いてて手前が腹立たしくなってきたので削除した。

つまり、日々の抑制や、精進や、積み重ねの営みは、必ず人生を善き方面へと導く。けだし、全力の人生の挑戦において一点突破すべく小説初作品が、文句なしに完成した。

というだけのことと、他者からは映るだろうか。

だが、既述の後者、つまり即死でなかった場合は、今後の人生が色鮮やかに拓いてはまるでペルーのアワヤスカやLSD幻覚を地で表象できるくらいカラフルかつ絢爛な営みとなる。

とってつけたような例えだが、要は、見たこともない景色に囲まれつつ、「見たいけど、どこでも見れなかったもの」をずっと創り続けるフェーズに行ける。そういった心境になる。

こんなの、はたから見たら――ではなく、〝世間〟という目から吟味してもらいたい気持ちでいっぱいである。

想像すること、思考すること、その先にある道を進んでは、なんと――そういうことを本気で思える気概があってよかったなと感じる。

なかったら、きっと、酒を抑制することも、薄毛白髪マッサージに精を出すことも、というかそんなの人それぞれ。――ただ、俺は、抗うのが好きなのだろうか。案外、挑むのが好きだったのだろうか。わからないが、ただ、気がついたら、出来た。それに、とても、救われた気持ちになれた。

誰かを救うために、ではなく、まずは自分を救う。クソみたいなことばかりしていた頃の救われない自分を迎えに行くように。と、そんな風にちょっと思った。

とはいえ即死はいやだ。あとは、祈り。だろうか。
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小説原稿を印刷に、セブンイレブンに行く。アイフォーンのデータ経由の印刷だと1枚20円。USBメモリ等経由だと1枚10円。

「倍か」と言葉を漏らして帰宅し、USBメモリに原稿を入れて再びセブンイレブンへ。

40字×30行フォーマット原稿を128枚。1,280円かけて印刷した。そこには感動があった。「例えば、これが何万部とか売れるってなったらこれ、このアナログな作用が何万回も――」と。

印刷を終えた紙を掴むと熱かった。こんなに熱い紙を触るのは初めてだと思った。そして、思いの外のボリューム感。300ページほどの文庫本よりも厚い128枚。枚数が二進数的にキリが良くてなんだかゲンが良い。保存用仮封筒にそれを神妙に入れた。

――現金だときっと500万円くらいの重量だろうか。だが、本気で、500万円よりも大事なものを持っている心境で夜道を歩いて宅に戻った。

机に向かい、原稿を10枚ずつくらい、右上に一穴、パンチしてそれを10回ほど繰り返す。すると思いの外、穴は128枚をまるで一気通貫したかの如き仕上がりとなった。紐で結んだ。若干、手こずったがきちんと結べた。そして128枚の10万字弱の紙の原稿を斜め読みしてチェックした。

これは最終稿のマテリアル。つまり、これを公募に郵送する。完璧でなければならない。

なのに冒頭からしばらくして気がついた。「――に於ける」という、要らん外連味の表記、そんなん普通に「――における」と書け。なのに「――に於ける」という箇所が確かにあった。

俺は「変なところでカッコつけるのはよくない」と断じ、改稿段階で、全て「於ける」「於いて」は、「おける」「おいて」と、表記を統一させた。

表記統一性というのは文章において、見逃されがちかつ軽視されがちだが、めちゃめちゃ重要。それは、誤読を招くことが最大の理由であり、あとセンスの問題と文章に対する本気度と真摯さも当然加わる。

とにかくそれが重要かつ、俺、校閲の仕事もしていては――「いつだって多い指摘点は『表記統一性』だな。前述で『今は』って書いて途中で『いまは』。気持ちはわかるけどダメ。修正と――」なんてことをしこたま重ねてきたのに手前の原稿の最終稿で見逃していた。

なんということだと改めて、その注視すべき点を精査したら5箇所も表記統一されていない――やり直し。

後日、また1,280円をコンビニの印刷機のコインセレクターにインサートしてやり直し。音楽に例えると、マスター音源をCDにプレスしてそれから出音したら「なんか微妙なノイズが5箇所もあることに気付いた」というくらいの体たらく。まいった。

公募においての原稿の「完璧さ」はプラスにはたらくらしい。調べててそういった情報(一次情報ではないが)を見つけた。だからやり直し。

完璧な状態でこれを送る。世に問う。文学界に、入れてください。そんな風に思いつつ、まいった。今日あたりは本当に。

とはいえ、別に修正は容易いからそこまでの問題ではない。

ただ、投稿前にそれに気付けて本当によかった。本気度100%で臨む気概が少しでも揺らぐのは認めないからである。――やはりどこか、最後の最後までこう、試されている気がしてならない。
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駅の喫煙所で霧生に包まれ、多種の喧騒、聞き分ける。街の生態、その場の温度を精緻にたぐる。女性が寄ってきた――。

「オニイサン、マッサージ、イク?」などと言う。

俺は脊髄反射で『ブレイキングダウン』オーディションで激昂した方が口にする類の暴言で返した。すると。

「ナンデ、オコッテルノ?」などと、笑顔で言われた。

それ以上は口を聞かず、少しだけ移動して一服とる。しばらくすると、本当に『ブレイキングダウン』に出てきそうなめちゃめちゃ怖いというか逆に普通にも見えてしまうが確かに、その背景には、明らかに、アウトサイダーの匂いを隠しきれてない妙に熟れた物腰でゆっくりと、黒服兄ちゃんが距離を詰めてきた。

「どうですか? このあとお時間は……」と、下からの目線を向けては礼儀正しく仰る彼。俺は間髪入れずに是非は答えず質問をした。

――「お兄さん。あの外国人の女性の呼び込み、何なんでしょうね?」と、明らかに猜疑心を剥き出しにしたその奥で黒光りする情念を隠さず、尋ねた。

「ああ、あれですか」と、黒服兄ちゃんは一言も噛まずにリズム良く、理路整然と説明。

「最初は3,000円で普通にね、台湾式マッサージなんですよ。でもその最中に『サービスよ』とか言って、スピリタスとかウォッカを無理にこう、お客さんにね、飲ませるんです。それで酔わせてね、高額な請求ですよ。するんですね。でね? 手持ちがなかったらと、酔わせてほぼ判断できない状態にしたお客さんをね、こうね、ATMに連れて行ってね、暗証番号を聞き出してけっこうなお金を引き出させるんです。これ、ニュースにもなってましたね。それで――」

俺は深く礼を述べた。何故ならば、そこまでの詳細は報道されていないからである。ただ、何となくは知っていた――。現地という文脈での一次情報を取得したので、黒服兄ちゃんに敬意を払い情報を記録。それで終い。その先のことは、しょうもない。なさすぎる。いま本気で向かうべきは原稿である。

琥珀の光が灯る元、踊る言語に情念を、生むべき新たな進路をと、一本槍を軸に開拓。仕事部屋での一箇所は、孤島の一部屋それと同一、錯覚おぼえる主戦場。そこで不乱に丹念に、本島に向かい舵を切る。一意専心奮い立ち、ずっと小説原稿と向き合った。

誇大妄想でも過大評価でもなく、現実的に現生において、この突破口から世界に問うべく自身を膨張。必然的にそうさせるべく『ブレイキングダウン』級の爆ぜ方で挑む。しかし姿勢と態度は必ず真摯に丁寧に誠実に、文学界に問う。その回答が、どういった表情となるのか。

――「まずは偶然。それが必然となって、人と繋がって、楽しくなる。必ずそうなんだから――」

500回くらい聞いた、故・叔父の口癖。いや、西川口という土地で純喫茶を半生に渡り営み続けては、あらゆる人々に広く深く愛された叔父さんが辿り着いた人生の真理であろう。

――年初に謎の四文字のメモ書きとの邂逅があった。意味がわからなかった。自分で書いたメモの内容の意図がひとつもよくわからなかった。その時点ではなんらかの偶然だった。

その発想の源流も本気で忘れたが、ひたすら小説を書き出していま、気がつけば、その最終稿が目の前に。物理的に、ある。その先の〝必然〟を見出すために、これがあるはず。

仕上げた原稿が世界とどう呼応するか。必然となり、拓けるか、あるいは。それは俺が決めることではない。

しかし世界に見逃して欲しくない。その一心。だから、街の喧騒のひとコマは非効果的ノイズ。その実態は、たぶんやさしそうな黒服兄ちゃんから生々しい情報として知った。それで終い。

余計なものは正しく見極め切り捨てる。削る。本流を磨く。その邪魔をしないでよと、俺はつい、その女性に「ふざけるな」と、真顔で言ってしまった。

つまらない相手の土俵で撒く塩なんて持ち合わせてないものだからつい。だからごめんねさっきの女性。つい本音が。干渉はしませんが。

――餌食と見なされ脊髄反射で腹立つ精神状態とは。それを喫煙所経由で思考を因数分解した。すると、〝偶然〟という起点からの今日までの営みが栄えている証左ままならぬ。くらいでいいんじゃないかなと、ふと思った。まずは本島。どんな景色なんだろう。
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