01/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。かっ開く。1


野太い筆におもむろに墨をつけ、大きく「愛」などと書きなぐってはその写真をここに貼り、今年最初の日記とする。そんなアイディアがあるにはあるが、その効果たるやと考え、思いとどまる。

年末。そして元旦。信じられないくらい普段通りに過ごす。ふつうに仕事をしては文字を書きまくる。日の後半ではなんか耳鳴りするまでいった。

特別なシーズンでもルーティーンを崩さない。そういった観点では、なんか意識が高そうにも捉えられそうだが、シンプルにやることが多く、それを懸命にこなしていたら「除夜の鐘は!」「紅白は!」「モチ!」「おせちのカズノコ!」と、日本の年越し風情の数々が高速で廻る走馬灯の動きの如く過ぎ去っていった。

「いいんじゃないんですか? それだけ金になること、先々につながることをちゃんと行っていたのですから……!」と、言われれば「そうですよね」と善処できる。

「年越しも余裕がないなお前は。そうやって惰性で生きていき、秒で死を迎えた日には『愛……』とか今生の句を不本意にたった一文字で発しては……」と、言われれば「うるせえな」と反論、いや、論駁する。

顔を真っ赤にして「世間のように当たり前に休まず、その隙に差をつけるんだ、積み重ねるのだ、成し遂げるのだ」などと、まくしたてる。

「それは、年越しに休むペースで各タスクを進行させていれば、ふつうに熱海とか行けたのでは?」と、言われれば「そうですよね」と、俺が論破されるだろうか。

いや理屈ではない。計画を立ててそれどおりの時間軸を生きるよりも、「何!」と、嬉しい前提だが大晦日に頂いた案件を正月にすぐやる。それくらいでいいと思う。柔軟に対応するプロフェッショナルさを持っていたい。

“計画通り”であった場合は案件をペンディング(保留)して熱海でリラックス。それは俺的に楽しいのであろうかと考えた。

楽しいであろう。だが、仕事を先延ばしにする歯がゆさのほうが勝る。だから今日は普通に各タスクを進行させた。

なんかただ余裕がない野郎なだけな気も少々否めないが、それはそれで良い点としておいておく。

だが、より良くするために、今年はもっと時間にゆとりを持たせるべく、質を落とさずにいかに効率良く生きていくかという、やや苦手な面に対峙することにした。

そこは書籍『数値化の鬼』に書いてある通りにすればできると思う。だが、その要素も含めつつ、いかに自分らしさを損なわず、むしろ膨らませつつ楽しく生きて、ひいては他者も楽しませ、全体的に貢献の循環ができればいいなという壮大な思念におちつく。

要は、シンプルにシュッとクールに楽しく生きていこうという一文にもまとまる。

年始からあれこれ考えるが、ほのぼのしている期間を設けるためにも、手を止めず、いま、ここからも張り切り続けているのがわりと手前らしいのかなということで手打ち。

別にそこまで超多忙というわけではないが、自分がやるべきだと思えることを与えられることが嬉しかったりする。そして、自分がやるべきだと確信できることを創り出すこと。このへんを今年の中核とする。その濃度を高める。

今年の抱負はそんなところだろうか。それにより、自分が幸せで、他者も幸せで、それが循環して最終的にはまとまる。なんか結論はいつも一緒な気がするが、この考えについては自分では異論がない。

よっしゃ酒呑もう。せめて「カズノコ」単品で買っておくべきだったと、その一点だけは、年末のムーブとして反省する。それくらいは余裕でいけるだろと。売ってたじゃん。ヨーカドーにいっぱい。
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数年に一度くらい、センセーションな初夢を見る。今年はそういう感じではなく、漫画家の清野とおるさんと会っただか喋っただかという内容だった。

北区赤羽に住んでけっこう長いが、この土地の実態と深みとエグ味を見事に描いた清野とおるさんと会ったことはない。

何を示唆している夢かよくわからないが、とりあえずものすごい熟睡できたのは珍しいと率直に思った。

それで今日たまたま道端で出会ってコンタクトしたという話だったら鮮やかなものなのだが、実際はそんなことはなく、普通にず〜っと仕事をして今に至る。

これほどまでに年末年始感のない年もないもんだなと思えど明日は新年会。ほどほどに思クソ呑んで和もうとけっこう楽しみにしている。

楽しかった忘年会に、楽しみな新年会。そういうのがなければ、この年越しは頑張れなかったのかもしれないが、結果、突出した悔いはない年跨ぎ。ちょうどいい年末年始。
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肝臓ならびにアルコール処理班フル稼働。つまり新年会である。呑んで、呑んで、呑まれて、いや、呑まれずゆっくりとチェイサーを挟みつつ、呑まれんように、呑んで。呑まれて、呑んで。

やがて俺は静かにタクシーを捕まえようとするも三が日は手厳しい。気がつけば、「歩いて赤羽までいけるのでは――」という、足立区西新井からの帰路でようやくタクシーに出会える。

いかん、いま、俺はタイピングがおぼつかん、本当に手の指が乳飲み子の所作そのものではないかという雑感。ササと寝ればいいのは明白だが、もうちょい呑みたい。

村上氏と桑原氏との宴は愉悦そのものであった。いかん、倒れそうである。物理的に椅子からゴトリと。

よせ、明日はゆとりと定めた日。26時にはベッドに臥床し、次の日を健やかに迎えよ。理屈は以上である。

だがしかし、指がいうことをきかない。楽しすぎて呑まれておる。これが何を意味するか。

なんかこう、フワッと楽しかった。そこに落ち着く。いかん。本当に手が鍵盤演奏初心者のようである。そういうのもいい。

酒を10杯くらい呑んでは書く文章。乱筆。主旨はそこではなく、楽しい一日をありがとう。その、あくまで抽象的な感覚に尽きる。

現に、タイピングがおぼつかないほど楽しめた今宵に、感謝する。いかん。崩れそうである。この幸福に名前をつけよう。だめだ。手がおぼつかん。やめろ、やめろ。

しかしうまいな。ハイボールと大好きな仲間。
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本当にそのまま椅子から崩れ落ちずによかったと、気がつけば机に向かって座って気絶していた。全然よくない。

よし呑み直そうと深夜のなかごろ、またもやソファで気絶する。目がさめると正午。どういうタイム感だとまた1本レモンサワーを開けて呑む。

「レモンおいしい。レモンおいしい」と、もうなんか幼児なみのIQ状態で不当なリラックスタイムに耽り、やっとベッドに行く。起きて18時。

うん、こういうのはさすがに年に1回くらいにしようと、正月休みと定めた今日を過ごす。天丼食べにいったりタコを買ったり、旧・赤羽台団地をフラフラして謎の安堵感を確かに得て帰宅。

1時間だけ原稿をやる。今日の仕事は以上。あとは、さいきん投稿していなかったnoteの記事を書いたりする。「どーせ売れねえだろ」と、ニヒリズムな姿勢で捉えていた「有料記事」が売れたという通知がきていた。

おお、たった二カ月弱で収益化するとは――率直にそう思った。

じゃあと奮い、50本くらい公開しているの記事のうち2つしか有料としていない体制を改め、「これは有料でいいだろ」と判断したものを10記事くらい「有料記事」と設定する。

全く売れないのと1回でも売れたのとでは雲泥の差がある。ゼロからイチ以上にすることはとてもハードルが高い。

だがしかし案外いけたので、過剰な負荷がかからない程度に更新し続けることにする。金になった、すなわち誰かの役に立ったわけなのであるから。

とはいえ売れたのは100円の記事。原稿料とは桁からして2つ以上違う。ともあれ、新たな源泉のタネがまたひとつ増えるか、太るか、どうか、というこの感覚が、なかなか楽しい。
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興行スタッフとして銀座で一日過ごす。ここにきてやっと正月のフィーリングを得る。本当に昨日まで年越しの感覚がなかったからとてもありがたいこと。

なんやかんやとみなさまと楽しみ、ごはんもちゃんと食べて健やかに暮らす。宅に戻ってからは原稿の戻りのチェックとか、今日は正装だったこともあり、なんかすぐ着替えるのもったいねえなと思って動画を撮りつつ遊んだりする。

酒を現場でいただいた。おいしく呑む。ほどほどにして明日に備える。ようやく、今年もよろしくお願いしますという感情が湧き出た賀正。寧日。
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世間は仕事始め。株式市場も今日からか〜と、保有株を見てみるとわりと下がっている。よせばいいのに「いや、チャンスだ」などと買い足す。投資の世界における典型的な養分である。

株に関しては余剰金で行っているので、数字がどう動こうがさほどヒリつかない。なんというか、経済のお勉強も兼ねた趣味みたいなものである。如実にリスクを伴う趣味。

今日はしっかり雨が降っていた。一件、外出が必要な案件があるときに限り何故と思えど凍雨を楽しみながら小一時間対応して現金ゲット。帰る。

原稿をスススと丁寧に進めて仕上げる。一晩寝かせて明日、最終精査ステータスとする。

あとはリラックスしてnoteに投稿したり、いかつい父親と令和の若者といった主要人物2人からなる「親子バラエティ」というYouTube動画を観る。とうとうチャンネル登録をした。

なぜならば、俺がどうしても辿り着けなかった親子の姿がそこにあるからである。その2人の楽しそうなYouTubeライフの情景に心を打たれたからである。そんな「親子バラエティ」は、けっこうすごいネームバリューがあるという事実。

今年、ひっそり野望がある。それは、圧倒的に面白く、人様の心を動かし、めちゃめちゃ売れるコンテンツを創って世に出し、自分のネームバリューを上げることである。

それはとても高いハードル。だがしかし、高ければ高い山のほうが――と、日本の歌にもあるように、そういう目標をひとつ、常に肚に置いておいたほうが手前の各アンテナの精度も上がる。

そういうこともあり、今年はとにかく発信頻度を上げて、そのハードルを跳び越える現実性の解像度を高めたい。

そこには、俺が何を出せば、誰がどのように喜んでくれるのか。そういうデータを集めるという明確な理由もある。

そして、目標である「めちゃめちゃ多くの人が喜ぶコンテンツを出すこと」につなげる。具体的に何を創るのか、まだひとつも決まっていない。だが目標があれば思考も行動も捉え方も変わる。

そこを強くイメージし、日々暮らす。そのためにも早めにまず熱海に。たっての希望である熱海旅行にヒントがある気がしてならない。そう、最近売れている書籍には「移動」がもたらすパワフルさが提唱されていた。

だからもう、日帰りでもいいからとりあえず行くことが大事だと、それなら全然普通にすぐ行けるだろうと、何故そんなこと今まで気がつかなかったかというと、明確な目標がさほど無かったからということに落ち着く。

いつも目につく場所に言葉を書き、それを毎日見る。すると達成する。そういう体験がいくつかある。

じゃあ書いておけばいい。鏡の横スペースに「熱海」と。それが来客者に見つかり「あの、他のはわかるんですけど『熱海』ってなんすか?」と、真顔で質問される前に。

ちなみに熱海までは赤羽駅から電車1本。

株に投資するよりも旅費に充てて手前に投資すべきである。

遠すぎず近すぎないその場所に何があるのか。遠い目標を近づけるためにも本当にさっさと行ってほしい。熱海。もうなんなら行って帰ってくるだけでもいいかもう。ほんとに。
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ここのところ、コエンザイムQ10のサプリメントを飲んでは、ナチュラルかつ明らかな効果を感じる。

何に効くのかよくわからないが、きっかけはドラッグストアのポップの記述を読んで「屈強じゃないか」と思い衝動買いしたことである。

本当に全体的な軽さを実感するのでよくよく調べてみた。すると、まず前提として、コエンザイムQ10は人体の細胞内に自然に存在する脂溶性の補酵素であり、エネルギー生産と抗酸化作用に重要な役割を果たすとのこと。

これをサプリメントとして摂取することは、細胞のエネルギー産生に関与するという。

そう、この「細胞に――」というワードに触手が伸びたわけである。だってそんな根本的なところに“関与”すると知ればそれはスッと金も出す。いい歳であることが露呈。

もっと掘り下げると、コエンザイムQ10はミトコンドリアでのエネルギー生成に不可欠であり、抗酸化作用も持つことから、健康維持に役立つ成分となる。

注視したのは、細胞の酸化ストレス軽減による細胞膜およびDNAの保護、老化の進行抑制。シワやたるみの予防に寄与といったアンチエイジング効果。

DNAを守るってもう俺からしたら異次元サプリである。「なんか飲んだらまずいのでは……」というほどのレベルにちょっと慄く。まずくはないらしい(禁忌となる可能性がある妊娠中や授乳中などを除き)。

さらには、ミトコンドリア内でATP(アデノシン三リン酸)の合成に関与することにより、運動パフォーマンス向上、持久力や筋肉疲労の軽減。

とどめは脳のエネルギー需要にも関わり、神経系の健康維持に効果あり。認知症予防につながるという。俺の恐れている病をかわせるのかと感服。

なお、現在このコエンザイムQ10について、効能に関する多くの研究が進行中とのこと。わりと注目を浴びているということであろうか。

サプリメントの種類にもよるが、個人差がある。俺の場合、このコエンザイムQ10がはまった。

個人的に刺さった要点だけまとめると、「細胞のエネルギー産生に関与して元気になる」「抗酸化作用によるアンチエイジング効果がみられる」。これら2点。効果に個人差があるも俺には合っているもよう。

すばらしいじゃないかと歓喜するも、さきほど45分くらいソファで倒れていた。全然効いてないじゃないかという見方もあるがシンプルにちょっと寝不足で普通にフル稼働していればそうもなる。よってこの点は不問。

結論。適度なサプリメントの摂取と相性とその効果は、老いを実感せざるを得ないアラフォーの後半年齢にシュッと健やかに刺さることがあり、快適なライフスタイルをサポートしてくれる。

そして、そんなサプリなど1つも飲まずとも徹夜(主にマージャンとか)すらできた「青年期としての若い頃」とは異なる現実を認めざるを得ない。

つまり、歳か。となる。人間、時間の経過はやはり平等。しかしその経過でさまざまな出会いや気づきがある。

加齢は悲観に非ず。生きる人間としての経過と変化と熟成と洗練の価値。そのように前向きに捉えることにする。でも明らかに増えているのは、内側の方で潜む白髪。

俺に嫁がいたとしたら「後ろの方の白髪、抜いてくれるかい?」とオーダーしては、「わからせてやろう」と、バリカンで見事な丸刈りにされるであろう。「お前自身の前提とやらを見直せ」などと捨て台詞まで吐かれつつ。なんか正論っぽいのでそのままツルッと暫く過ごすのであろうか。
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平和に仕事して、録音したりMIXしたりして制作をする。普段の1日。

とはいえ、「今年45歳か」「そういえばその年齢で、三島由紀夫さんはクーデター起こして自殺した」「漫画『ナニワ金融道』の著者・青木雄二さんがデビューしたのは45歳か」などと想起する。

著名人すぎて比較にならないが、要は、なんか大きなことして世間の貢献につながればな〜と思えど実態は、ひじょうにほのぼのした日常。だめではないがどうすれば――という問いが付きまとう昨今。

継続してコツコツは好きだから各種タスクを続行するが、こう、起爆剤となる何かについて毎日考えている。

今日も思いつかなかった。それが悔しさに似た感情ともなる。別にそれでもいいのだが、どこか興奮し足りていない感覚があるあたりは明確に否めない。

「中庸であればいいのでは?」とも思うが、そうではない生き方でいたいこの情念。名前が付いていない気がする。

「承認欲求」が近いが、根底が異なる。「自己顕示欲」も近いが、目的が自己に対することだけではないので、これも完全にそうではない。「欲求不満」となると性的な何らかが浮かぶがそこじゃない。

ひとつハッキリとわかるのは、同じ環境で同じことをし続け、そこで得られる結果と全く違う結果は出ない。それを望むことや期待することを“狂気”というらしい。アインシュタインさんがこれに近いことを言っていたらしい。

とはいえ、いきなりだと心身がびっくりするから、寝て起きたら、ちょっといつもと明らかに違うことをして、そこで得られる感覚からヒントを掴もうという思索。

現金3万円くらい握って吉原にでも行くか。いや違う。だが、発想としては割と近い。
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いつもと明らかに違うことをして、そこで得られる感覚からヒントを掴もうという思索。そうだ、スピリチュアルヒーリングを受けに行こうと思った。

年末、居住地である北区のいろんな店舗のクーポンが包括されたチラシが投函されていた。そこに、近場のスピリチュアルヒーリングの割引もあったので取っておいたのである。

「行くことにした」で後回しになる。

この傾向を、今後は改めると最近決めた。つまり、すぐに電話で当日予約を打診した。

「もしもし。今日、いけますでしょうか」

「はい。どちらにお住まいでしょうか?」

「徒歩――分圏内であります」

「では18時におこしください」

「はいかしこまりました」

「楽しみにしています……」

「(!?)は、楽しみにしております。――ツーツー」

すぐに予約できた。印象的だったのは、滅多にないことだが、電話口の相手の最初の第一声を受け、「本物だ」という直感がはたらいたこと。受付の係の方とかではなく、施術者当人であることは明白であった。

「デリヘルとか予約した時ってこんな気持ちかな!」というくらい本当に楽しみになり、ワクワクしながら18時まで宅で過ごす。そしていざ、スピリチュアルのライブ空間へ。

現場に4分前に着き、路上で少し待つ。緊張する。人前で何かパフォーマンスをする寸前くらい緊張する。そして18時ジャストになり入室する。

歳70代中盤あたり。清潔感があり穏やかな物腰。スピリチュアルヒーラーは笑顔で「ようこそいらっしゃいました」と迎え入れてくださった。

部屋はマンションの一室。6畳ほどの広さで、壁一面には景色の写真に謎の光が写り込んだものがズラリ。部屋の各所には大きなアメジストがいくつもあり、水晶だってある。「いかにも」という雰囲気に俺は興奮を禁じ得なかった。

初対面ではないニュアンスの雑談から始まり、氏名と生年月日に住所などの記入を促される。先生は、それを一瞥してテーブルに置く。ここからが異次元であった。

俺の目的を探るストレートな感じではない話の進め方だった。しかし、ここのところ俺の中に漠然とある「これからどうしたいか」というテーマにすぐ達する。どこか、誘導された感覚もあった。

なにせ、文脈的には米国のトランプ氏にまつわること、宇宙の原理、新型コロナウィルス、縄文時代とユダヤと日本人の関連性、皇室、高次元の自己(ハイヤーセルフ)について――などなど、スピリチュアル視点で語るなかで、俺の主題にたどり着いたのだから。その話術自体にまず驚愕した。

「先生、そういったわけで、もっとこう、できる気がするのにといったモヤモヤ感がありまして」

「うん。大丈夫だよ。できる」

「そうですか!」

「そう思って、考えないでいればいいんだよ」

「?」

「アセンションってわかるかな?」

「はい! 次元上昇ですよね?」

「うん。今は3次元にいるじゃない? 次の5次元、そのまた次……アセンション『すること』と『できること』をちゃんと信じるの。それでいいの」

「はあ!」

「あとチャクラが開いているかどうかも――チャクラは頭のてっぺんからここ、ここ、と、股間まで指差で位置を教えてくれる――そういうのもあって」

「先生! チャクラは7つあるんですね!」

「そう。ただ、前は……う〜ん今は7つだけど12個、肉体から離れた位置にもあるんだよね」

「ははあ!」

「それでね、あなたどこか、自分を責めたり、『いけない』と思ったりするでしょ?」

「はい確かに。このままではいけない、といった観念では、どこか自責があるかなと……」

「そんなに考えなくてもあなたは大丈夫だから」

「そうですか!」

「ハイヤーセルフの話したじゃない? 魂はなくならないんだよ……」

「今も、過去も、未来も、でしょうか……?」

「そう。過去からあるし、未来はその次だし、今は今。要は、今どうするかが大事なの」

「それはひじょうによくわかります!『いま、ここから』というのは僕の座右の銘くらいでありまして!」

「ハイヤーセルフは『12』あってね、そのまたかける『12』で『144』あるの」

「は?」

「そのうちの1つがあなた。そしてあと残り『143』、同じ役目の魂があるの」

「つまり……よく聞く『魂のグループ』的な解釈で合ってますか?」

「まあ、そんな感じだよね。それにパラレルワールドも含むと、もっとあって――」

「(だめだもうわからん)先生。それだけいろんな道があり、選べて、自分で実行できるということでしょうか?」

「そういうのもあるかな」

「先生! 僕いけますかね?! アセンション!」

「考えすぎないで。大丈夫だから」

肉体はいつか滅びても、魂はなくならない。このあたりは俺も同意できる。前世や来世というものが「無い」ほうが、いろいろと感情的につじつまが合わないからである。

そして、スピリチュアル界隈の方々のコンテンツを見ると同じことを言っているということも加わる。

スピリチュアルヒーリングを行う一室で、俺はまだどこか緊張していた。そして、常に冷静を保とうと、いつもよりもクリティカル(批判的)な姿勢で先生と対話した。

なぜならば、料金を払ってまでもすることか、体験としてどうなのかと慎重に吟味するためである。

「じゃあそこに仰向けになってくれる?」

俺は部屋に設置された、とても清潔感のあるベッドに横たわった。これから何をされるかわからない。スピリチュアルの力で人格まで変えられてしまうのかもしれない。まだ緊張していた。

「右足をゆっくり上げて……」

「こうですか?」

「そう…止めて……どうかな?」

「太ももがプルプルします!」

「はい。左足も……」

「太ももがプルプルします! 右よりかは……」

「はい。ありがとう」

ここからようやく具体的なヒーリングが始まるもようを察知した。さっきまでのは、おそらくだが、ヒアリング、カウンセリング的なくだりであったと考察する。

「じゃあ、やっていきますね」

「(きた!)お願いします……」

先生は俺が横たわるベッドから右側に1メートルほど離れた椅子に座り、タクトを持たずにオーケストラの指揮をするようなムーブをみせた。

「順番にみていきます……足…大丈夫……」

「ドキドキ」

「心臓……心臓自体は大丈夫だけど、右心室OK、左心室OK……そこまでの………頚椎の右の動脈が滞ってるね」

「えええ! 先生、やばいやつですか?!」

「大丈夫。あとで流すから」

「お、お願いします!」

「頭の中、みていいですか?」

「(みれるの?)お願いします!」

「前頭葉…大丈夫……海馬……大丈夫……あ」

「あ?」

「頭蓋骨のつなぎ目がちょっとガタついてるというか、全部ずれが生じているね。あと、脳の各場所そこまで問題というところはないけど……」

「(なんかやばそうだろ!)けど!?」

「全体的に緊張してる。さっきみたけど肋骨の間の筋肉もそうだし、全体的に緊張してるね」

「なんとかなりませんかね!」

「大丈夫。今やるね」

「おおお」

「シルバー……天界からの言葉……この場所で……集める光……望むもの……」

後述していたが、この時先生は、“上”から届く言葉を発していたという。それは、この場で言葉として発することでスピリチュアルの力で癒すことに通づるという。

「うん。大丈夫」

「先生! さっきの背骨の動脈のやつ! 超気になるんですけど!」

「今やってる。通すから……これまで……静かに……あることと……集めて……」

「(横になって30分は経つぞ)」

「ちょっとパラレルワールドからいくね」

「(並行世界かな?)」

「通したよ」

「もういけますか?!」

「大丈夫。そこ通したし、心臓自体はいいから! あなた心臓に毛が生えてるよ(笑)」

「(なにがおもろいんだろ?)は! よかったです!」

「あと変な霊が憑いてるね!」

「(おおおおおおおおおおおおおおおい!)やばいやつでしょうか……?」

「気にしなくていいよ」

「気になります!」

「考えすぎなんだよあなたは(笑)」

「わかりましたよ!」

「大丈夫だから。あと、全身のバランスが偏ってるね。姿勢とか右足にかかる比重とか。自覚あるでしょ?」

「あります。作業とか楽曲演奏とか、アシンメトリーな状態で集中することが多いので」

「だよね。そこもやっとくね」

「おお……」

「あとストレスが……」

「(ふふ。それはそんなにないんだな)どうでしょうね?」

「66%だね」

「はあ?」

「ふつうは63%くらいです。70%を超えると鬱病くらいの感じ」

「ひどそうじゃないですか! なんとかなりませんか?!」

「やっとくから」

「あと先生! 僕のチャクラは開いていますか?」

「うん……5%だね」

「ほぼほぼ閉じてるじゃないですか!」

「やっとくから」

「お願いしますよ!」

「レンガ……花、花園……しっかりと……」

「どうですか……?」

「今ね、やった。ストレスはもう1%だよ」

「(極端すぎねえか)無いに等しいではありませんか!」

「チャクラは75%開いたから」

「ついに僕のチャクラが……!」

「あ、いまストレス0.5%くらいだね」

「やりましたね!」

「はい。いいよ。ゆっくり、ゆっくりだよ? ゆっくり立ってみて」

「ムク」

「どう?」

「なんか、劇的にではないのですが、すごく自然に楽になりました!」

「でしょうね」

この時点で、初対面で謎の空間で何をされるかわからないという緊張感はゼロになった。本当に、ナチュラルでニュートラルな気分を確かに得た。

その後、俺には理解に及ばない雑談を経て終了となった。結果、俺のストレスレベル的なものは実は高く、66%から0.5%に。チャクラは5%という凄惨たる具合から75%までかっ開く。

頚椎の動脈の滞りは解消し、頭(脳)全体的の慢性的な緊張(曰く、生まれてからずっとらしい)はほぐされた。そして、いつでも高次元にアセンションできるというお墨付きをいただいた。

「あ、ついでに霊もとっといたから」

と、帰り際に先生は言う。実はやばいやつだったのかもしれない。

そして、入り口で靴を履いていたら引き止められ、「サービスだよ?」と前置きして開運の念をもらえる儀式をしてもらう。どうやら俺は、いけるらしい。

なんだか気に入られたのか、謎におみやげとしてしっかりした生麺のラーメンを一袋くれた。

俺は最後に握手を求めた。だが、手の甲で反対側を触れ、拒否された。どうしてかと率直に聞く前に、なんとなくスピリチュアル的な流儀として、たやすく気の流れだか何だかを交わすのはよろしくないのではと納得した。

先生は否定的に思って欲しくなかった様子から、「これならいいよ?」と、グータッチを提案してきたのでコツンと笑顔で拳を交わし、スピリチュアルヒーリング・ルームを後にした。

それから現在まで、言葉としては伝えなかったが、ヒーリング的に一番どうにかしてほしかった「たまにやってきては俺を苦しめる、不安症における予期不安」の感覚がゼロになった。おおげさではなく、本当に。

あと、何度か強調された「考えすぎ」という部分が研ぎ澄まされた。考えること自体はいいのだが、「それを考えすぎるとよろしくない」という思考が、明らかになくなっているのである。

以上がスピリチュアルヒーリングを体験したレポートである。

なお、料金は最初の雑談後のヒーリング直前に前払いした。前でも後でもどっちでもいいと仰っていたが、直感で前払いにした。

先生は最後にラーメンをくれたあと、「今日はいろいろやったけど、本来なら全部で……8万円くらいのだよ!」と、推定70代中盤とはおもえないほど屈託で綺麗な笑みをこぼしていた。

ちなみに、雑談中に年齢を聞いたのだが、回答は「829歳だよ」とのことだった。なんか美輪明宏さんあたりが返しそうなニュアンスだなと、いろんな意味で妙な説得力を感じた。

アメイジングな体験だったなとほっこりする。

帰宅して、もう役目を終えたクーポンを捨てた。

改めてそれを見ると、最も高額なコース「¥ 30,000」がクーポン利用で「¥ 10,000」まで割引って、値引幅もアセンションしすぎじゃないですかね先生。

まあそこも、考えすぎないことにします。先生ありがとうございました。
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次は熱海である。行きたい行く行こうと思い立ち、はや2年は経つだろうか。もうそういうのはやめよう。昨日のように、思い立ったらすぐに行動することが重要である。

とはいえ今日の定期検診で一応、主治医に相談することにした。熱海に行くのになぜ医師に聞くのか。それは2年前あたりの時期、不安症からくる「予期不安」という症状で、交通機関での移動がたいへん苦痛だったからである。

今日はメンタルクリニックのロビーは混んでいた。時期によってかなりばらつきがある傾向をつかんできたあたり、俺はもう素人ではない。何に対してのかななどと考えているうちに呼ばれる。

「平吉さ〜ん」

「はい〜」

「1番の診察室へ……」

「コンコンコン。ガラ。よろしくお願いします先生」

「どうですか、平吉さん」

「はい。こう、ニュートラルというか穏やかで、しかし前向きでポジティブな気分です」

「(カタカタカタカタ)よかったじゃあないですか」

「ええ。そこで、以前申し上げました電車とかの――」

「ああ、予期不安にだいぶ悩まされていましたね」

「ひどいものでした。でもさいきん、いい加減もういけるだろと思いまして」

「ふんふん」

「本当にそう思えるようになれたのです。だから、もう大丈夫だろうという感覚をきちんと落とし込むべく、小旅行に行こうかと――熱海へ」

「いいじゃあないですか!」

意外な反応だった。このへん慎重な先生だから、5割くらいの確率で「お前にはまだ早い」と、咎められることを予想していたからである。

「そうですか!」

「とてもいいと思いますよ!(ニコニコ)」

「じゃあ時期を見て早々に行きますね!」

「はい。ただ、いきなり熱海は遠すぎる気もしますがね……?」

「先生、2年前のひどい時期、熱海までの距離の中間地点、茅ヶ崎へは仕事で行けたのです」

「そうなんですね」

「ですから距離的にはちょうどいいかと!」

「まあそう考えるのでしたら……グリーン車とかとるといいですよ?」

「じゃあそうします!」

「本当はもっと小刻みな距離で慣らすのですが……平吉さんがそういう感覚ならいいと思います!」

「いやあ! よかったです」

「一応、頓服薬お出ししましょうか? アルプラゾラムを」

「はい。あれは今も持ってますがほぼほぼ飲んでなく、だいぶ経つので……」

「飲んでから行くのもいいですし、具合がわるくなったら飲めばすぐ効きますからね」

「はい、威力は何回か飲んでわかってるつもりです! だからこそ、効くのは理解できたというところでほとんど飲まず持っていただけなんです」

「それもいいと思いますよ」

「どうせ飲めば効くのわかってるので、お守りのような感じでして」

「ははは。まあ、飲んでもいいですし、そうでなくとも――」

「じゃあ行きますね! 熱海へ!」

「いいと思います! じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」

ということで主治医の太鼓判を得た。それだけでも気が晴れた。昨日のことはなんとなく伝えなかったが、あらゆる方面でケアしていただけることに感謝しかない。

熱海まで片道2時間。飛行機なら沖縄あたりまではいける移動時間。これで行ってきて「いやあよかった」となれば、歪んでいた認知が是正され、俺の症状は相当よい方面へ。だからこそ、熱海へ行く行為がひじょうに重要なのである。

想像しよう。熱海へ行ってふつうに楽しんでふつうに帰ってきて「全然いけるじゃないか!」という感覚を得る。あの忌々しい不安症状と決別する。とてもよいプランである。

些細なことかもしれないが、これを成したらもうどこへでも行ける気がしてならない。

いい感じに行って帰ってこれたらもう、次はペルーである。それくらいの気概が生じる精神状態になれる気がしてならない。先生いつもありがとうございます。
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おととい昨日と、魂とメンタルをケアしたからか、調子がよい。正確に表現すると「本来はこんな感じだろう」という自然な具合。

休んだり調整したりすれば心身ともに回復なりする。これは当たり前だが、なぜそうなったかと考えた。考えすぎないように端的に考えた。

異次元世界での体験と精神医療現場、2つについてのシンプルな考察。

精神科医は、先人が積み重ねてきた学問や研究などの科学的根拠の確かな裏付けと成果を源流として診断し、治療し、人間を快方へ向かわせる。

異次元スピリチュアルヒーラーは、さまざまな専門用語――その分野においての共通認識だろうか――の意味と原因と結果あたりをもとに説明し、治癒に似た行為をする。その源泉は、実体験で「施術者の確固たる確信」だという肌感覚を得た。

前者は「医療」という世界共通であるべきやり方で「治療」する。

後者は「自己の確信」に基づいて「治癒」や「覚醒」なりを促す。

肉体という物質や脳の認知にアプローチするのが医療で、相手の思考や在り方などにアクセスするのが魂レベルの治癒なりだろうか。

手前には、「人間は思い込みで出来ている」という仮説がある。

それがひとつ確信となったのは、「完全に自分がそうである、本気でその能力があると思い込んでいる人間」というのは稀有であること。

そして、そのような人間は、それに応じた甚大な能力を他者に供給したり、干渉もできるということ。100%かそれ近く“思い込んでいる”人間は、一般的ではない強固さがあるということ。

俺も、好奇心でいろいろとメンタルヘルスや心理学の勉強をしたり、スピリチュアルの魅力に適度な距離でいることが、ある種の「自己の確信=完全に思い込める」となり、双方の癒しの恩恵を享受できたのだろうか。

自身という人間を創作し、設定し、どうなれるかは、自身の思いからである。そのように、書籍に記してあった。それは先述の考えと共通する観念ともなり、大きく頷けた。

要は、人間は、そう思えればそうなるし、そうでなければならないよということだろうか。

じゃあどっちをとるかといったら、自分がありたいように思うこと一択。つまり自分を信じること。世間ではそれを自信とも言うらしい。

答え簡単じゃねえかとあっけにとられるが、案外、本気で挑むと難しくとも楽しく、かつ、その姿勢でいれば、人間の思いという種から開く感情という花の彩りが広がる。

そう考えると、人生どうにでもなれるのだなとスッキリ思考が整う。

だがしかし、傾倒することは回避したい。

なぜならば、知らぬ間に「自分の思い」であるつもりだが実のところは他者からコーティングされており、自己を見失う可能性が生じるからである。

つまり、自分らしく生きるためには、さまざまな方面で体験し、吟味し、自分なりに取り入れ、自分らしく行動するのが面白いのではないかということ。

今日あたりは自分らしくいられただろうか。金のためにずっと仕事をした。そういう日もあっていい。先日のような日もそう。いろんな景色が見たいからそのようにする。じゃあいけると善処する。

俺らしいこのあとの時間の過ごし方といったら――酒呑んでふやけて寝よう。冷蔵庫で「GINON」の缶酒が「くどくどと一体何を抜かしてからに。はよ」と、待っている。これも思い込みだろうか。
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チャクラとか置いといて五感で認識できる現実を生きる。昨日仕上げた楽曲を聴き直す。するとなんかベースが右曲がりに聴こえるではないか。

本来、ど真ん中の定位である役割のベースがちょっと右に寄っている。これは致命的だとやり直そうかと思ったが、「完成」と判断したのにベースの定位が寄ってることに気づかないなど経験上まず、ありえない。

何が原因かと思い、Spotifyで各アーティストの楽曲をリスニングして参照する。するとやはり音像の左右中央の定位に違和感をおぼえたので、手前の聴力を疑う。

「四十肩や白髪の次は聴力低下か!」とめちゃめちゃ戦慄する。左耳の低音域の聴覚が老いたとなると大問題である。

冷静になり、まずはGENELECのスピーカー(いいやつ)の位置を改める。定規まで使って。すると微差だがズレていることが判明。

原因は昨年、左スピーカーの後ろのスペースに本棚を設置したことで一度思い切りどかして置き直したからだと思われる。

なんだ〜と思い、もう一度Spotifyでビリーアイリッシュの曲を聴くと完全に真ん中からベースとキックが聴き取れる。耳が正常で胸をなでおろす。

そして手前の楽曲のベースの位置、やりなおしだとDAWを開くがそんな微差を埋めるだけでも他のパートとのバランスに関わる。やっているうちに他のトラックも微調整すること3時間。やっと仕上がり安堵。

音楽とは不思議だと思った。各音の出力の位置であるPAN(定位)が、距離で言うところのミリ単位でほんの少しでも違うと全く違うリスニング感覚となる。

それに気づいたのだから、老いどころか逆にまだ聴力はフレッシュであることが証明されたのだなとポジティブに捉える。

本来は次の曲を制作する予定の時間をこのミリ単位を修正することに充当し、疲れ果てる。

とはいえ、着想からのイメージ通りのほっこり楽曲が出来て嬉しむ。明日のプラットフォーム公開準備が出来る。ストック収益の種。現実的に必要なタスクをとことん詰めた。

開いたチャクラにより、その微差に気づいたのかなと、いいようにとる。とにかく聴力異常ではなく本当によかった。

今日はもうこの、ものすごい微々たる感覚を吟味できた状態であることに感謝する。もしかして本当に何かが根本的に変わったのかもしれない。そのへんは中庸な立場にいることがが適切だろうか。
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都内特有の刺すような寒気のなか、ひたすら散歩して2時間ほど。これといったインスピレーションは生じなかったがリラックスを得た。

近隣の書店で遠慮なく立ち読みすること約1時間。「作家」というスタンスについてくまなくアプローチする書籍を手にとって。買えばよかったと思えどほぼその場で読んでしまう。

部屋に戻り、完全にエンタメ視点でYouTube動画やショート動画などをひたすら観ては2時間くらい。そのうち「これ、前も観たやつだ」と気づけど内容が濃いなと、岡田斗司夫さんの講演の動画を流しっぱなしにしてソファで横たわること小一時間。

合間で家事をしたり野菜を丁寧に調理して食事をしたり。

真空管アンプをオンにして、座ってギターの基礎練習などもする。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズの楽曲「Under The Bridge」のギターパートは、よくよく音源を聴いたらオーバーダビングされている(ずっとギター1本だと思っていた)ことに気づいたので、それをライブでカッコよく演奏するジョン・フルシアンテさんのように自然に弾くには――と、復習しながらプレイ含みの考察をする。

業務的なことは、楽曲をプラットフォームに公開したり、案件の確認用の素材をダウンロードしてSSDに格納。メールチェック。これらだけである。つまり休日。

今日やれるタスクもあったが意図的に心身を休める。ここのところ、また疲れ目で休息優先と判断したからである。

仕事をササッと前倒ししてやる方が気持ちがいいのだが、案外、徹底して休むことも重要だと日の終わりに感じる。

「常に生産的な何かを、毎日し続けなければ」という姿勢は立派なものだが、それが強迫観念になると精神衛生上よくはない。

ただ、手前の場合は「習慣」になっているので別に業務的なことを量的に大なり小なり毎日するのは苦痛ではない。

だが、たまには意識的に完全にフシュ〜と休むのも、メリハリという点ではどこかキリッとするという逆説的な感覚。

そう考えると完全週休二日制を立案した人は、人間の適切なライフスタイルに言及したすごい感性の持ち主ではないかという思惟。

俺はそういうのはあんまし向いてない気がするので、このような日をランダムに挟んで過ごす。あって月に2、3度くらいがちょうどいいのかもしれない。完全休日。
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圧倒的に魅力的で売れるコンテンツを作るには。どうすればどうすればとか考えつつずっと仕事をしてくたびれる。

ふと、YouTubeを観たら「やりたいことを見つけるには、好きでやっていることを育てる」的なことを耳にした。識者、いいこと言うなと思い、純粋な気持ちでギターを弾く。

すると、いまの脳のデフォルトモードネットワークの活動を反映したような、ものすごい不穏で美麗なアルペジオフレーズが滲み出てくる。

素直な感情が音に現れたと、手前で「これ、何のコードだ?」とか左脳で処理しつつ、オーギュメントや6thトーンと判明した和声が交差する、如実にオルタナティブなコード進行をメモる。

葛藤が楽曲のモチーフになるという、どこかカッコつけた風な着想となるが、そもそも制作とかの源流はそこだよなと少し気が晴れる。

なんとなく流行りのジャージークラブ(エレクトロミュージックのジャンル。1小節内において2拍・3連符のキックのビートが要となる、ややBPM速めのやつ)を取り入れて次の制作をと思っていたが却下。

なぜかと言うと、トレンドをモチーフにすると後々「古い」聴こえ方がすることがわりとあるので、前提として楽曲制作において流行を着想とすることは禁忌としているからである。

だから、ちょっと前の時代に流行ったEDMもダブステップも、それらの形態を主として作ろうとして作ったことがない。

しかしそこで、「世間に背を向けるようなそういったやり方で、圧倒的に魅力的なコンテンツはつくれるのか?」という問いが出る。そこは、自分なりにやっていることを育てるという、ハッとさせられたことがある種の鼓舞となった。

自分なりのスタンスがある楽曲制作という、これまでにきちんと成果がみられたことをやり続けつつアンテナを張っていれば、どこかでピピーンとくるのかなと今日も模索する。

何かを作る人たちは、一体どこで「これだ」と確信して一点突破に向かうのだろうか。

それがあるような、ないような、これから見つかるような、どこにあるのかと、ふとギターを弾いていたら「このルートなのかな」と、原点を忘れるべからずという思考がやや落ち着いた深夜。もう0時過ぎかと時間の流れを日に日に短く感じる。

今年45歳。この妙ちくりんな焦燥感は何だろう。たぶん、ずっとあったほうがいい類のやつだと善処する。やはりチャクラが――それはもういいか。しかし、かっ開いたらしいその抽象的感覚を具現化したいこの欲求の名前は、本当に何なのであろうか。シンプルに「しつこい」だろうか。
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「合格人間」と、4文字書かれた手帳の切れ端があった。キッチンのテーブルにファサと。

「あ、行くところまで行ったかこれは!」と、率直に思った。しかし、書いたのは覚えている。朝起きて、寝起きにみていたっぽい夢でそのフレーズが刻まれ、「忘れてはならん!」と思い、起きてすぐにメモっておいたのである。

作家の中島らもさんは、ご自身のアイディアのメモに対して「あとで見たらよくわからなかった」ということがあるという。そのなかで、「冷蔵庫」というメモ書きがあったとのこと。

「――その時はなんか凄いと思ったんでしょうね〜」的な文脈があり、俺はそれをちゃんとユーモアと捉えた。

だが“合格人間”はそうは捉えられない。文字単体だとひとつも面白くない。じゃあこの、夢から派生した造語をモチーフに「何かしろ」ということなのかなと、わりと真面目に「問い」として対峙してみた。

「人間失格」ならまだわかる。太宰治さんのやつである。「人間合格」でもまだわかる。文法的に。

じゃあ「ネズミ人間」みたいな(実在した犯罪者の表現の引用)のにも似た“合格人間”ってなんぞやと、よくよく考える。これは深掘りすべきかなと。

しかし「どう掘れと?」という自問は当然。じゃあ結論を出そうと思った。この謎の4文字の造語から小説でも書けんかと。

さっそく夜、「形から入るか」と、縦書きの原稿用紙のWordファイルに2,500文字ほど書いてみた。縦書きに慣れてないからそこにまず手こずる。しかし、書き進めてみると、その時点で「これは私小説なのでは?」ということが浮き彫りになった。

これを死ぬほど面白くできたらいいな〜と、わりと新鮮なアプローチに出たことに胸踊る。とはいえ他者がエンタメとして読んで面白いのかなと、とりあえず書き出しも書き出しの時点だけど、どうでしょうかと全知全能AIに聞いてみた。

“――(中略。結論のみ)内面的な葛藤や自問自答を描いたエッセイとして成立しており、読み物としての一貫性と魅力があります。”

とのことである。魅力はちょっと現時点では判断せず、“成立”、“一貫性”という指摘にポジティブ反応した。

さらに、その先の展望や提案もChatGPT4oは的確にくれたのだが、それが、俺がこの“合格人間”とやらに思い描く青写真とほぼほぼ同一だったことにちょっとびっくりした。

それじゃあコツコツと小説として完成させようと決めた。ちょっとでも触手が「ピク」となったらすぐやる。結果を恐れずやってみる。これ大事だよ〜と、俺のハイヤーセルフがそう言ってる。スピリチュアルもう置いとけ。横に。現実を生きろ。

ともあれ、まだやったことないアプローチを完成までもっていくことも新たなチャレンジ。失敗しても別に鮮やかに流血するわけではない。

出来た暁には、どこかの編集者のご意見をいただくなり、なんかの賞に応募するなり、自己出版するなり、とりあえずコンテンツができる。結果どうなるかは知らん。

とりあえず、手前が楽曲を作る最初の段階「ネタができた! 完成したらどうなるかな?!」というワクワク感にひじょうに似ている。楽曲においては完成して絶望したことはない。世に出してウケようがスベろうが、それは俺が決めることではない。晒すことが重要だと思っている。

とはいえ、小説ってふだんそんなに読まないし――『人間失格』や中島らもさん作品は好んで読んだが――書けるのかなと思う。

しかし、俺は経験則で断じた。

「小説の平均文字数である10万字ほどのやつなんて書けるかな?」ではなく、「一日1,000字〜2,000字をほぼ毎日やれば書けない理由などない」と。

とりあえず、自身が完成が楽しみだからコツコツ書こうかと思う。“合格人間”という謎の啓示と向き合うやつの文章。

それで完成し、読み返して「クソすぎる」となったら、とりあえず俺が面白い。自虐的に面白い。そうなったらその時点でお蔵入りどころかデータを破棄して墓まで持って行き先祖にも読ませずおしまいだが、仮に、他者も「面白い……?」となったら、胸踊る。

やりきったことがないことを、結果までもっていき、そこを直視する。その繰り返し。それが「合格人間」の結末なのかもしれない。

それを、文章から精液が吹き出るかのようなものにできたら、まあたいしたものであろう。

なお、タイトルがまんま『合格人間』だったらダサすぎるからそれは書き終えてから吟味しよう。『ネズミ人間』にして炎上を狙う手もある。やめとけ。不謹慎すぎる。
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夜、noteを更新してから、引き続き小説を書き進める。なんでも書き始めた昨日は「芥川賞・直木賞」の受賞発表日だったと今日知った。

偶然だろうか、書き始めのスタート日がそのような文学界的に大事な日であったことと重なったことは勝手にシンクロニシティと捉える。

俺が小説を書くのは賞を獲ることが目的ではない。とはいえ、もらえたら狂喜乱舞することは明白だが今はそこではなく、まず完成させること。

原稿用紙の縦書きにまだ慣れないが、案外スススと書けてくること数時間。気がつけば夕飯用に用意していた「カップ焼きそば(塩味に加えてなんとバジル風味も)」を食べるタイミングを逸する。

めしを飛ばすほど没頭する。体によくない。だがしかし、コロナ渦において頻発していたこのくだりで楽曲を作りまくり公開し続け結果、現在も収益として少なすぎない源泉となっている事実がある。

つまり、食べることを忘れて行う創作は、後々明るく照る。このような図式がある。

だから事実ベースで己を信じて、書ききったことがない「小説」というコンテンツの初作品の完成に向かう。小説の執筆は子羊くらいビギナーだが、こういったコツコツとしたマラソンライクな継続はたぶん得意。

書き出しは、昨日の日記の五段落目までそのまんまである。命題は、突如としてはみだした謎の4文字造語の奥にある真理への言及と理解と共通意識。

完成したやつをまず俺が読みたい。そういったナルシシズムにも似た欲求は、何かを作る人間において不可欠だという持論がある。

空腹もヤマを超えるとなんも感じなくなる。「じゃあ酒でいいか」と、安い缶酒に手が伸びる。体によくない。しかし、この「いびつさ」がどこか、自分の源流である気がしてならない。

こうしてまた体が痩せ細っていくのかもしれないが、そのぶんが対象に付与される。

頬のこけた手前のツラを見て「なんかさっきから平吉さんが芥川龍之介にしか見えません(笑)」と、2021年のライブ本番のMCで、下手(しもて)ギタリストの役割を担った時に言われたヨディーさんの言葉を思い出す。

顔が似てればどこかでつながっている。じゃあ自殺するじゃん。やめろ。そのへんは考えるな。そうではなく、文章を書いては「ワオ」となるあたりが似ていてほしい。それくらいでいい。

そういった、これまでの人生をフィクション・ノンフィクションを交差させつつのコンテンツ制作。負荷はかかれど鼻血が出るのでは――というほど楽しい。結果どうなるかは今はそんなに模索しない。

作っている時は「これが新たなどこかにアクセスできるはずだ」と、言語ではない感覚を持って食わずに臨む。それが心地よい。とはいえ今ヤキソバ食べたら翌日起きて後悔する。だからハイボール缶でいい。蛇口からハイボール出ねえかな。
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駅前の「富士そば」でもりを食べる。寄り道して書店で、世間はいま何を欲していのかと売れ線の書籍のタイトルから逆算する。

いま読んでいる本がもう後半も後半なので1冊購入しようと吟味する。ふだんはほぼ立ち入らない小説・エッセイコーナーでちらほら手に取る。

その中に町田康さんの新作があったので立ち読みする。20代の頃、この著者の本をよく買っては読んでいたなと想起する。

文章そのものに言及した内容のその新作を読み進めると、全く離脱する気が起きなかった。25ページほど読んで6回くらい笑いが声として出た。よって「これは買うやつだ」と決して購入。

帰宅して事務作業をしたあとに原稿を書いていると、またである。めしを食うタイミングが過ぎていた。「あれ?」と思って書き始めた時間を思い出すと3、4時間机に張り付いていた計算となる。

1日に食事もりそばだけってやばいだろと思えど、小説を書くこと自体の魔力のような何かに気づかされるここ3日。3日で1万字少々書いたってどうなんだろうと思う。

別の種類の原稿であれば、3日あればもっと書ける。つまり不慣れな類の原稿においては遅いのであろうが、平均値がわからない。ともあれこのペースだと早くて1カ月で10万字という小説の文字量平均値に達する。

そこから推敲したりなんやかんやでプラス1、2カ月だろうか。どんなに遅くとも半年以内に原稿が完成する計算となる。

半年後には誕生月を迎える。ちょうどいい、44歳の新たなチャレンジを締めくくるアプローチとしようと、自分なりの締め切りを決めた。7月21日の前日までである。完成してからどうするかはその時考える。

新たな行動もして、普段のタスクもする。楽曲制作において、先日感情所以で出てきた不穏なアルペジオフレーズをDAWに録音してスケッチする。

昨年、えいっと買ったガチのストラトキャスターで録ったその1トラックのサウンド的に圧倒的な存在感。スケッチ段階でこれなら――と、なんとなくのアンサンブルが自然と頭に浮かんだのでこれも進める。今日はギターのメインフレーズのみ。

時間を疑うほど創作をしていると腹が減らない。思い出すと若い頃からそうだったなと、手前がいくつになっても華奢な体格である一因がわかる。酒と肴でそのへんカバーして寝よう。いつもこれじゃん。
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人間の中にある濃い濃度の欲求。そのひとつに、「残す」ということがあると考えた。

考えなくてもそれは当然であり、何をいまさら阿呆が。とも捉えられるが、基礎からハイヤーセルフ――もうスピリチュアルは一旦横に――の段階まで考えてみた。めちゃめちゃ端的に。

人間、もっと原始的に、「生物」。こいつが何を残すか。子孫である。なんなら植物だって子孫を残す。だから最重要と言っていいのがこの「子孫を残す」という部分だと考える。

だからか〜みんな恋愛とか婚活とかセックスとか不倫とかセックスとか一夫多妻とかセックスとか、だからか〜と、頭では納得できる。

俺には伴侶たる嫁がいない。倫理上(あらゆる見解があるがここでは超狭義的に)現状では残せない。子孫を。

しかし、原始的生物よりも広く解釈できる「人間」である俺は、子孫以外にも「残す方法」をいくつかは知っている。

それは、作品だったり提唱だったり学問だったり、マテリアルなものとできる種類から、想い出だったり言葉だったり精霊レベルの思念だったり、抽象的なものもある。

それらを生産したり、思い巡らせたり、体験したりすることは「残す」ことに直結する。そう、セックス以外でもいっぱいあるということである。

そして各々が大なり小なり、享受の仕方はそれぞれだが、人間である限りなにかを、なんらかを残す。残すものが出来たとき――出生はきっと至上の喜びだろうか――人間は歓喜する。

残ったものは、また残す。残されたものからまた新たなものを残す。その系譜のなか、みんな、少なくとも俺はいろんな人たちに支えてもらって生きている。

こういったしょうもない文を残すことにも意味がある。あってほしい。ないかも、いや、ある。お願いだからあってください。そう、この恥ずかしい感情や情念こそ「残す」このとの原動力なのではないかと考えた。

そしてそれらはそのうち、知らんどこかで一つにまとまりめでたしめでたし。「いや〜! 残したよね〜」などと、酒盛りをしては現世での残しっぷりを肴に爆笑していたい。

なお、俺だって人間の子孫を残したい欲求はある。そこに必要なのは愛の課題である。ああ、また愛の課題だ。やはり究極は愛ですか。そうですか。勉強しますから許してください。

愛にも“技術”や“勉強”という観念がある。そのように係の者に聞いた。いやウソですごめんなさい。本に書いてありました。そういうのも残されていました。

結論、人間の中にある濃い濃度の欲求である「残す」ことは、人間の営みの多分な要素に架かっている。

その点にきちんと向き合えば、俺もいつかは家族を築けるのであろうか。そういうの頭で考えすぎってこのあいだ指摘されたばかりなのに、もうこれは性癖レベルなのかもしれない。
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朝起きるとキッチンの三角コーナーに四角いトレイがさかさまに放ってある。そうだ、昨夜は腹の空きすぎで寝る寸前に「カップ焼きそば(塩味に加えてなんとバジル風味も)」 をおもむろに食べるという蛮行に及んだと想起する。

さいきん食いっぱぐれた野良ネコの肋骨くらいほっそくなっていた「夕飯のあるべき姿」。

それをおざなりにしていたものだから、適当に夜、酒を呑んでから「カップ焼きそば(塩味に加えてなんとバジル風味も)」で補うことに直結。そのような体たらくとなった。

めちゃめちゃおいしかったから別に気に病むほどのことではない。

だが、なんでそんなに食わんで日々を過ごしているのかと問いかけた。それは食を犠牲にしてまで進めたいことがあるからだ、という仮説が生じた。

待て、別に20分ほど時間を割いて食べてからその「進めたいこと」やらを再開すればいいだけのことであるというのが当然も当然というか当然である。

だが、数時間も厠に行くことすら躊躇するほど集中する時の謎の“グルーヴ”みたいなものを止めたくない。それくらい抽象度の高い、いや違う。そんなインテリじみた表現ではない。“ムキになれる力”を大切にしたわけである。

それが何か大きなことにつながれば幸甚。その前提でやっているがめしは大事。風呂も大事。だからいま、湯を沸かせている。バスルームからちゅるっちゅるわしわし。シバッ! と、命を洗濯する水流の音色が聴こえる。

つまり今日は早めに締めてリラックス時間をちょい増しにする。それだけ、なんかもう指疲労が著しい。湯に浸って揉んどけ。

人生や長期にわたるムーブをマラソンに例える者が居る。それにならうと、途中での給水は必須。しないと死ぬ。俺はまだ死にたくない。だから食った。「カップ焼きそば(塩味に加えてなんとバジル風味も)」を。

あとはその時間軸のさじ加減と“グルーヴ”とやらのコントロールである。これらが制御できれば、パフォーマンスはめきめきと、脈脈と、滝に本意気で逆らい源泉へ向かう鯉のように美しく雄大に昇りつめる。そう信じている。

だから今日は――と言いたいところだが夕方に『なか卯』の辛いやつを食べた以外に食事をした記憶がない。やばい、脳みそニワトリ状態になる前に学ぼう。

よし。酒の肴を多めに、そうだ、冷蔵庫内の「豆腐」がまだ健在だった。そいつと買ってきた「タコ」ともやしのなんかわけわからん惣菜で補おう。やっぱいつも同じではないか。いや、気が付いたから善処できる。

「めしを飛ばすと、補填する能動がどこかで衝動となり、翌朝の凄惨たるキッチンの光景と化す」

このように帰結する。当たり前じゃねえか。
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「作品には、わからない部分もある」から魅力的である。的なことが本に書いてあった。すごくわかるような、そうでもないような。

たとえば2000年リリースの『KID A』というレディオヘッドの傑作アルバム。リアルタイムで20歳の頃に聴いたが1割くらいしかその良さがわからなかった。

おいふざけるな、あの前作のようなギターの「ギャオオオ」って音を欲しているんだ俺は。どういうことだ。と、芸術作品ともいえよう名盤の理解に苦しみ、悔しみ、寝た。

その数年後、確か25歳、26歳くらいの頃に埼玉県の吉川駅前で車を停め、仕事をサボりつつ、カーステレオにメモリしてあった『KID A』を聴いた。すると、あれこれすごいやつだ、最後まで通して――すごいやつだ。と、ボキャブラリーがたった一つに言いくるめられるほどの感動を得たことはよく覚えている。

わからなかった部分が魅力的すぎたのである。セクシー過ぎたのである。なお、英語圏において“セクシー”とは、日本での“セクシャル的な魅力”とはニュアンスが異なり、いや、日本が異なっているのであろうが、とにかく本流では“セクシー=魅力的”という風に言葉を使うのがふつうらしい。

それは置いておいて、なにしろ「魅力がわからなかったものがわかる瞬間」というのは嬉しい。何故ならば「知らなかったことを理解できた」ことに近しいからである。

ともあれ、わからんものをわかった気になるよりかは、「わからない」と、きちんと判断することが「わかる」ことに繋がるのではないかという普遍的な捉え方に落居するのではと、さっき思った。

なんでかというと先述の“落居”という言葉をさっき知り、その言葉の“なんらかが落ち着く、決まりがつく”という意味合い(もう少し深く、もう少し幅があるが)がピタッとはまったからということもある。

『KID A』の1曲目「Everything in Its Right Place」も、そのタイトルの直訳の言葉、サウンド、ロックという文脈、それらすべてが“落居”というフレーズと重なる。

そのことからも、魅力がわかった、知らぬことを知った(気になっているのかもしれないが)ということは新たな何かが生じる分岐点、終着点、始点ともなると、ぼや〜っとこのめちゃめちゃ頭が疲弊してズキズキ脈打つこめかみあたりで確かに感じる。

よし、今、今一度聴いてみよう。「Everything in Its Right Place」を。うおお。両肩から太ももまで肌が物理的にヒリついた。もう一周。また一周。やっと聴覚が優位になった。手が止まった。

何かを問うている。レディオヘッドが何かを問うている。歌詞の意味がわからない。レモンが何だって。2色が頭の中に何だって。ああ、もう曲が終わる。アナログシンセもうっすら脈打つ4つ打ちキックのビートも、トムヨークさんの声も、それ以外も、あ。終わった。再生を止めよう。

リリース時にわからず、5、6年後に感じて、25年後に落居と思ったがまだある気がする。それが正直な感覚である。

俺はこのアルバムを何回聴いたかわからない。

ただひとつ、100年以上未来も“残る”作品であることは後頭部に銃口を突きつけられようが断言する。いや、それはさすがに「いえ、いい盤かな?」くらいのところで妥協するかもしれない。

いずれにせよどっちにしたって誰にそれが作用するかはどうでもいいが、いま、あるいはこの直後、『KID A』を聴いた人が何を思うか感じるか。知らん。俺は、そういったセクシーな作品の持つ魔力のことを「引力」とよんでいる。いち個別者としてそう、落居する。もう一回聴いてみるか。
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池袋ジュンク堂書店でスピリチュアル書籍を立ち読みに行こう。いやちがう。そのように何かが作用し、赤羽駅構内で7番線埼京線ではなく2番線京浜東北線へ。埼玉県西川口へ自然と足が向いた。

そう、その土地で純喫茶『アルマンド』を永らく営業して2年前に逝去した、そこのマスターである実の叔父の命日が先週くらいだったことが起因であろう。

スピリチュアル的にそのような選択をとったと思われる。二日酔いで最初の方のくだりは実のところ、よく覚えていない。

2年弱ぶりに西川口へ来た。駅前のパチンコ店が畳まれていた。そのほかにも『アルマンド』へ向かう道中の風景の変化から、わりと短い尺だが時代の変化を感じた。

前回来た時は閉店後2カ月後くらい、つまり2022年の春あたり。私物であり、店で使用していたスピーカーとミキサーを引き取りに行った。その時点でもうシャッターは閉まっており、閉店のお知らせの紙が掲示されていた。

あの琥珀色の灯りと昭和の空気感を凝縮したようなエモすぎる店内観がなつかしい。半年弱という短い期間ではあったが、俺は当時、店員兼コンサルの役割を担い、「そろそろ潰れる」という当時の店員さん方の悲痛を受け、需要に応えたつもりである。

しばらくして叔父貴が亡くなり、では予定通り俺が継ぐかと思いきや、テナント大家さんの「どんな事情だろうが今後は立ち入らせない」という鋼鉄の意思で不成立。

そのあと俺はけっこう路頭に迷った。2022年1月の日記にその悲痛さをしたためたことはよく覚えている。「無職」というワードを100回くらい使用した気がする。

「あの、シャッターが閉まった店の姿を、見たくはないな」という思いをひっさげつつ、店に向かう。墓参り気分というかそういう目的である。

だったら叔父の墓にいけばいいのだが、場所を知らない。知る方法はなくもないが、墓よりも『アルマンド』現地で偲ぶほうが、叔父とアクセスしやすいという直感がはたらいたから西川口に来たのである。

現地に着くと、すっかり更地になっていた。言葉が出なかった。そうか、あの鋼鉄の意志は物件自体をすっからかんにしたいという思い所以。そうだったのかと納得。

いっさいの名残もない更地で、煙草などを吸いつつ想った。思い出した。振り返った。念じた。あの時期のことと、叔父にお世話になったことや、楽しかった思い出に、忙しかった営業日や、暇すぎてずっと店内のピアノを弾いていた日々を。

「伯父さん。来たよ。ケンジだよ」

「ああ、ケンジ君かい。ほら座って。まずは飲め飲めーい」

と、コーヒーを出してくれる。叔父貴は糖尿病の合併症からほとんどの視力を失っていた。顔を識別できないくらいにである。当時は店に行くと上記のやりとりが定例となっていた。

「更地じゃないか。叔父さん来たよ。ケンジだよ」

「いやあ、イケメンが来たねえ〜」

「見えるようになったんだね」

「何でもありだよこっちでは……忙しいのにわざわざ、ひゃっひゃっひゃ」

「コーヒー飲みたいな。いつものやつ」

「見てごらんよケンジ君。な〜んにもなくなってるね」

「さみしいです」

「いいんだよ。こうなるのは必然。まず偶然があって、それが必然となって。ぜんぶ繋がってるんだよ」

「それ、100回くらい聞きました。生前」

「だろう。ああ、せっかく、ましゃ(福山雅治さん)が店に映画の撮影で来てくれて一緒に写真まで撮ってくれたのに……燃やされちゃったのかな。ひゃっひゃっひゃ」

「あの時嬉しそうでしたよね叔父さん。というかあれから福山さんの聖地になってお客さん増えて、売り上げ上がって、でもコロナが来て――」

「やばかったよ〜あの頃は。本当にケンジ君きてくれきゃあ、その年に店を畳まないといけなかったんだから」

「楽しかったですね。あの5カ月くらい」

「いやあ〜しびれたよ。ケンジ君、いつもの『イマジン』弾いてくれるかい? 最高だよ〜」

「叔父さん、ピアノも、もうないですね」

「そうだねえ。ミューズの曲(「Exogenesis: Symphony, Part 3」)もよく弾いてくれたねえ」

「ええ。大変でしたよ。お客さんからリクエストもらって、あの曲を採譜からやるの」

「弾いてほしいねえ」

「弾きたいです。今でも弾けます」

「そう」

「叔父さん、あれから色々ありまして、おかげさまで楽しく生きています」

「そうかい。ケンジ君なら大丈夫だから。これから凄いんだから。大金持ちなるよ〜!」

「よく言ってくれてましたね。向こうからもそう言ってくださるなら自信が出ます」

「すごいんだから〜」

「叔父さん。コーヒーが飲みたいです」

「こっちに来たらいくらでも淹れてあげるよ」

「怖いこと言わないでください。暫く――だいぶ時間をかけますが、そっちに行った際はいつものやつお願いします」

「オッケー。おいしいよ〜」

15分くらいその場に立ち止まり、別に手を合わせるとかそういった作法は全て無視して行なわなかったが、上のような心象が浮き出た。

そのまま西川口から生きた心地がしない心境で歩き、川口駅まで達したので電車で帰る。赤羽駅1番線ホームに着く。

今日は、静かにしていようと思った。noteに記事を投稿し、DAWで楽曲制作を進める。あとは特筆したことはしていない。

叔父貴のコーヒーは、すごく美味しかったりそうでもなかったりと、一定の味わいではなかった。

喫茶店においてそれは珍しいことなのだが、お客さんはどんな人であっても、その場所で憩ったあと満足し、気さくな所作で会計をして各々の営みに戻っていった。

そんな、とても特別な場所が完全に無くなっていた事実を確認した。

そこで思ったのは、わりと普遍的な人間の想いである、肝心の「叔父さんが死んでさみしいよ」という感情がいっさいなかったこと。

その点に言及するならば、人間としての、心の重要な部分の一つが欠損している。あるいは、逆に達観して当然の悲しみはおぼえない。

どっちでもいい。ただ、俺は叔父さんの淹れるコーヒーが飲みたかった。叶わぬそれが、ただ、侘しかった。
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今日こそジュンク堂書店池袋本店に行く。前提としてスピリチュアル書籍の立ち読みに行くのが目的。買いに行くわけではない。

おうこら買わねえと罪だろ。と、言及されようと「俺はこの半年くらいで、御店で数万円は落とした」と弁明すれば腹を切れとは凄まれないであろう。

そういったわけで4階の人学コーナーへ直行。その前にまずは1階のファーストビューにどんな書籍が置かれているか、世間の関心の内実たるやと観察する。俺がこの間買った書籍は、この店の最近の売れ筋「10位」にランクインしていた。

よし、最近のも抑えているぞ俺はとある種のセンスとバランス感覚に自信を持つ。それでもって4階へ。

心理学、精神医学、哲学、宗教、医療、思想、教育、精神世界――それらの「人間そのもの」にまつわる書籍が本棚をこれでもかと埋め尽くすのがこのジュンク堂書店4階である。なんなら俺はこのフロア以外でほとんど足を止めたことはない。

「絶対買わねえぞ」という鋼鉄の意志を肚にスピリチュアル本のタイトルを吟味する。

どれもほとんどが「幸福のための――」「引き寄せの――」「出会える――」「交信できる――」など、“目的”がタイトルに含まれていた。そうではない。俺が今求めているのは「実用的なスピリチュアル」というわけのわからんそういうものではない。スピリチュアルの概念・観点・概要など、もっとわけわからん知識を求めているのである。

だから「スピリチュアル用語辞典」という、人生のどの場面においてそれを引用すればいいのか俺にはわかりませんという書籍がドンとレンガのように置いてあるも一応見る。

うん、どれもこじつけというか逆に形而上(感覚的経験を超越したなんかそういうやつ)的にも捉えられる。しかし単語の意味だけ覚えていても脳のメモリがもったいない。

そう思って「松果体」という脳の部位とスピリチュアルの視点セットで解釈する、精神科医が書いた書籍を立ち読む。とんでもねえ切り口だなと感服する。

松果体とはメラトニンという睡眠に対して重要なホルモンや、セロトニンというメンタルヘルスにおいて、分泌などのバランスを崩すと鬱病などになりかねないホルモンを出したりする部位。

それとスピリチュアルをかけて、あるいは覆って、よくわからなかったがそういう提唱もありなのだなと100ページくらいスススと読んで閉じる。こんなもん売れるわけねえだろと刊行日のページを確かめるとがっつり重版されていた。

申し訳ございませんと思い、今度は霊能力者が書いた、スピリチュアルそのものに切り込んだ書籍を立ち読む。なんでも著者の師匠は美輪明宏さんと記してあった。40年間、スピリチュアリストとして「結果」を出しているのが自負とのこと。

こういうの。こういうの待ってましたと1時間くらい立ち読み進める。霊視や除霊とあとひとつ何だったか忘れたが、それら3つのスピリチュアル的三大能力を全て持っている人間は稀有。だが著者は全て持っているらしい。

こいつはすげえやと思って夢中で読み進める。買わねえぞと思いつつ。中でも印象的だったのは、霊能力者の「見た目」の共通点についての記述であった。

それは、体格は大きすぎないことがまずひとつ。理由は、大きすぎると「地」と離れすぎてあまり感度的によろしくないということだった。

ふたつは「白目が青白いこと」らしい。これはかなり具体的かつ本物を見分ける際の参考になる。

みっつは「黒目が二重のようになっている」ということ。そんな奴見たことねえぞと訝しむが、よくよくそこまで「この人ガチ霊媒者かな……?」と、黒目まで凝視したことはない。

そしてその理由として、直視するのではなく、霊も視るわけであるから、黒目がそのように視覚的にダブルで捉える必要性があるとかなんとか。例外もおり、その限りではないとも。

また、女性においての霊力についても言及していた。つまるところ、性行や出産をすると女性霊能力者の霊力はガクンと落ちるらしい。例として、巫女が処女――そうであるのが絶対であるかは失念したが――であることが多いのはそういった明確な見解があるという。

なかなかおもしろかったなと、何も買わずに店をあとにする。「おい、買わねえなら腹を切れ。腹を」と言われても「俺はここ半年で何万円――」と、誰のおかげで飯が食えていると思ってからにといった啖呵にも似た言葉は出したりしない。

今度はちゃんとお金出して買いに来ますね。素敵な素敵なジュンク堂書店御中。そう思いながら帰宅。先の情報を書きかけの原稿に落とし込み、処女のスピリチュアリストの人物像ができた。

いや真面目に生きろと、いいや大真面目であると一息つき、楽曲制作をする。フィールドレコーディングしたトラックをオルタナティブロックサウンドに混ぜ、ドラムパートの打ち込みにドラムスティックを生録音で叩くトラックを追加。なんかもう精神世界の世界観も滲んできてこれ、あとは無心で完成までいくかなという感覚を得る。

つまり俺は今日、取材に行っていたのである。

書籍という一次情報からネットでは得づらいヒントを金も出さずに記憶して、つくってるやつたちに落とし込む。真面目に1日を過ごしたつもりである。

なお今日の取材費はゼロ円。交通費のみ。今度はちゃんと買いに行きます。だから今日は目を瞑っていただけると甚だ幸いでございます。日本一の規模を誇る素敵な素敵な尊い尊いジュンク堂書店池袋本店御中。
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今日とて原稿や制作を進める。進んでるからまだいいと思う。これが頓挫するのではというほどピタリと手が止まると地獄である。そんなことはない実相なので楽しく過ごす。

モデルはいるが、全く別の性質に変化させた人物としてキャラクター化させ、はたかも実在するかのように物語に配置し、文章を書く。

音を並べたり構築したり吟味したりと、現時点で完成していないものを想像しながら形にする。手前でも聴いたことのない楽曲に向かう。

しんどさもあるけど楽しいなと、日々そのように暮らす。しかし、いま完成していないものを、どうして育ませようと、現に完成品なりに辿ろうとするのであろうか。

さらに、なんで人間ってそんなことができるのだろうかと、ふと立ち止まって考えた。

それは、足りない何かを補完させるためではないかという仮説が秒で浮き彫りになった。すぐそう思った。

不完全ではあるが、完全に向かって各々生きている。けっこうな割合の人間がそのようなライフスタイルでいる気がする。

要は、幸せな人生という、不服のない暮らしを少しずつ築きながら、完全にも似た人生の幸福を追い求める。

逆に、死にたい人間がいる。その方の暮らしはというと、どこかしらの破綻に向かっている。

だが、どこかで助けを求め、少しでも恩恵を、ちょっとでも光が見えれば完全の方向に舵を切り直す。そこで作用するのが創作という行為なのかもしれない。それはもしかしたら生きることへの希求の種別のひとつなのかもしれない。

その、不完全さが完全に向かう途中あたりが面白い。だから、人間はそんなことができるのであろうということに勝手に帰結する。

そうであれば、俺も含め、みんながそれぞれやっている様々なことへの熱量なりの内実として、じゅうぶん理解できる。

そんなこといちいち考えている暇があったら手を動かせばいい。されど、完全に向かうことは可能であろう。そして、そのほうが楽しいだろうと思えど、いちいちこう、考えてまとめないと、どこかで本当にピタリと手が止まってしまう気がしてならない。

そのへんはみんながどうかは、実際には知り得ない。だが、そう考えると、納得はできる。

あれだけスピリチュアリストに「考えすぎなんだよ」と連呼されてもそれが渦を巻く。このへん、手前がまだまだな明確な理由なのかもしれないが、悪手ではないと自分では断じられるので、たまには、くらいならいいのではとフワッとさせておく。よっしゃ酒呑んで寝よう。
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気でも触れたか。というくらいずっと文字を書く。文章を書く。文節になる。章になる。字を書く。ふと鏡をみたら手前のツラが漢字の「宇」みたいになっていて「いいねえ!」と思った。触れたのかもしれない。

インターンネットの検索エンジンで「なんやら 類語」と検索して参照するのではなく、ライターを始めた頃に買った「類語辞典」を活用する。け。作家気取りが。というニヒリズムが俺をおちょくる。殺す。

なにはともあれ、不乱に行動――あまりにも地味ではあるが――し続けるとこう、生きている感覚に疑いを持たぬ心境でいられるなと清涼な気持ちになれる。

小説という、俺には到底書けないと思っていたスタイルの文章に挑み始めてちょうど10日。ペースは、たぶんいいほう。肝心の内容は、うへへと手前で薄気味よろしくない音を漏らしつつ書いている。

このようなことを日記やら別のプラットフォームやらに書き残しておくと、「やっぱ書けませんでした」は通用しない。己の心情的にまずそれは認めない。そして「やっぱり口だけ平吉くんだねえ」とおちょくられる。殺せない。

つまり超個人的なプロジェクトを進めているニュアンスになるが、目的と目標とゴールと新たなスタートという明瞭なビジョンがある。

次、ビジョンとかプロジェクトとかフェーズとかローンチとかマイルストーンとか抜かしたら殺す。そのように揶揄されてもいいから辿り着きたいところって俺にだってあるのである。

生きて、何か、自分も他者も喜ぶなんらかを、残したいのである。

翌日には残らない程度に、酒呑んで寝よう。さっき買った肴がなんだったっけと、本気で思い出せない。触れた。いやまだ大丈夫なはず。
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健やかな熟睡。代え難き快感。そのように思い、起床して1日を過ごす。

「以下同文」でまとまる1日。だが、触れ方がどんどん濃くなっていく。それでいいのかと自問すれば「知らん」と誰もいない。それもまた快感。

マゾヒズムだかSMだかという性の営みの類があると聞く。係の者にそう聞いた。面白いですよと。たまりませんよと。

そういったことが催されるパブなり集いなりに仮面でも被れどその他丸出しで参加すればいい。愉しいであろう。変態と表現して誰に責められようと一体皆、何に怯えているのかと開眼するかもしれない。

そこに健やかさは要らない。綺麗すぎる野暮な音楽に近しい。そんなのいくらでも聴いたことがある。それはそれで評すことこそ野暮。

俺は一体、何に対して躍起になっているのか、わりかし異常に、ポジティブに主観、俯瞰、客観の三つ巴で思うも本当に内実がわからない。

そのような謎にムキになること。なんか青年期にギター練習に没頭していた頃に遠からず。

なお、ここ10日ほど、本文は音声入力で記している。

嘘である。人間が嘘をつくときは、なにか恥ずかしい内実が根にあるとき。そんな気がしてならない。じゃあ何で嘘つくんだろう。
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埼玉県の元郷という地でふらふら漂う。散歩する。心地よい公園で憩う。ふと視界に入った、肝心の電話機が取り除かれた電話ボックスが物質としてシュールだった。

川口駅まで歩き、電車に乗る。俺は「越谷学会」という架空のえげつない悪徳宗教団体について考えた。それと同時に、電車内の座席に座っていたアベックの男子の方が「越谷には行ったことがないんだけど――」と、言葉にしていた。

こういった謎のシンクロニシティがここ数日やたらと多い。昨夜も、キッチンで考え事をしていて、何だったか忘れたがある単語を思い浮かべた0.5秒後くらいに、ラジオから同じ言葉が語られた。他にもある。

そういうのって何か理由があるということは確信している。だが内実がわからない。そこは深く考えずも、まず、たいへんよい予兆と捉える。それくらいにしておく。

今日は、明らかにここ数日オーバーワークだったのでほぼほぼ休んでいた。散歩なんて4時間くらいしていた。あとは仕事部屋でYouTubeを観たり横になったり。楽曲制作と原稿は双方、少しづつ進めた。

肝心の電話機がない電話ボックスの中。通話はできないのに、何かと確かに大事なコミュニケーションをとっていた。そんな気分のタプンとした1日。
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溶けるほど睡眠をとる。当然の如く頭は冴え、体は「浮くのこかこれは」というほど軽く、鏡からは眼球に輝きを見る。

いかん、もう昼過ぎではないかと俺はとりあえず近場を散歩した。バッグも持たず、スマートフォンの通知察知を認めぬよう、音も振動もオフにした状態にする。集中したいのである。逍遥(無目的散歩)に。

赤羽西というエリアはほぼ迷路。既視感があろうがなかろうが確実に迷う。そんな領域でフラフラと彷徨うわけであるから本当の本当に目的のない散歩と相成る。

しかし、目的がない行為に勤しんでいる時こそ、脳内に数ある点がバシッと繋がる。俺はこれを信じてやまない。

ネコが居た。飼い猫のようである。こちらの様子を見ている。

俺は気をつかい、通り過ぎた。しかしそうもいかんなとゆっくり振り返り「チッチッチ……」とネコの気を引こうと目論んだ。

「ニャア〜」

「おすおす」

「ニャア〜。ゴロン。スリスリ。グルンッ!」

「おすおす。飼いネコかい? 素敵な首輪だねえ」

「ニャア〜。グルンッ!」

「食い込んでるけど、きつくないかい? 首輪……」

「グッ! グッ! スリスリ……」

ネコは機嫌がよろしかった様子で俺の足元にまとわり、両足の中間にちょうど体を収め、なんかそのまま発射するのかといった姿勢をとった。

「いけるか? こう、『シュボッ!』って」

「ニャア〜。グルンッ!」

だいたいネコは人間の期待に応えるムーブをみせてくれないのは不文律。別れの挨拶をして迷路を楽しんだ。得たものは、特になかった。

夕方あたりに帰宅して楽曲制作をした。オルタナティブロックをモチーフとしたもので、まだまだスケッチのような状態である。

ふんふんと、基礎ビートパターンを発展させる。スケッチ的に録音してあった3セクション1コーラスのギターパートを切り刻む。

J-POPで言うところの「Aメロ」「Bメロ」「サビ」。洋楽で言うところの「バース」「コーラス」。その他。

構築したビートをブレイクビーツのように、切り刻んだギターパートをサンプリングのように、直感と経験則に従い、クククククと充て込む。伸ばす。展開させる。構築する。

たまに、無意図に並べてみたビートのかけらをプレイバックする。いきなりカッコよく聴こえた部分を確認したのでそのまま採用する。これをチャンスオペレーションとも言う。

同時に楽譜で譜割をして和音を記入する。気がつけば2枚目の楽譜の40小節目に「fine.」と書けた。つまり、5分強の全体像がいつのまにか自然にできたのである。明らかに最終形がみえたという段階である。

それは2時間くらいでできた。こういう風に早い時は早い。なぜかというと散歩したからである。その最中に、その5分強の全体像は脳内かどこかの器官にメモリされており、それを具現化させたのが先の約2時間の作業。

これを受け「そうですよね」と納得する人が居るのかそうでないかは知らないが、俺はこういうことがけっこうな頻度である。なぜかというと、散歩したからである。

だから散歩がオススメですよ。などと抜かせるほど俺は高貴なステージには居ない。というかそこに達してもそういう言い回しはしない。

なぜならば「いいこと聞いた!」と、嗅ぎつけた人が群れをなし、散歩する時に界隈が渋滞するからである。そんなことはまずないだろうが。

暗に、好みの問題である。散歩中に整う創造性の賜物。
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ケツが裂傷して2つないし3方向以上に割れるのでは、という程と言ったら大げさだが要はずっと机でカタカタという一日。身体的にはそのような比喩とも成りうるが、精神的にはむしろ充実感をおぼえる。

じゃあいいじゃないかと思えど、先日「どうやって短時間でその工程を進められたか」というのを翌日忘れぬよう記した、楽曲制作をする時間がとれなかった。若干ではあるが、日単位での悔しさ。

そのぶん、書くほうが進んだから全然、むしろ善処すべきなのだが「時間がとれなかった」という点において、それはな。と思うところである。

俺は口が裂けても「時間がないから」「忙しいから」という各フレーズを使用しないことにしている。

なぜならば、これら万能な“打ち消す破壊力絶大な言葉ら”は、何かをしない、あるいはできない理由として使う際に、相手にぐうの根も出させない甚大な要素を孕んでいるからである。

「もし、誰某よ。明日あたり呑みませんか」

「忙しくてちょっと時間とれないんだよね〜」

「さようですか。では来週のこのへん、一緒にカッフェでも行きませんか」

「その日は仕事で終電までなのよね〜!」

「大変でございますね。では来月のご予定を少々伺いたく」

「ちょっとまだその時間とれてなくて――」

「では来年までに一度、一度でいいので、もう何でもいいから遊んでやってはくれませんかね」

「おけー。時間あったら誘うね」

「あなたにとって時間とはなんですか」

「やべ、時間だ! またね〜」

「待てい」

というように。時間がないなどという観念はあっても、時間そのもの(何かをする期間)が「ない」はずがない。あったとしたら君、死んでいらっしゃいますよ、という最期の刹那のみである。

つまり、忙しくしてるのも、時間をなくしているのも、自分に放じられた人生の配分次第。そのような暴論となる。だから俺は使わないようにしている。

だが今日、間接的に使ってしまった。

「数日後の某時、空いてるいるかい。されど君の部屋に遊びにでもとでも思ってねえ」という嬉しいお誘いをLINEで受けた。

しかし、その日のその時間は予定があるので、それを歪曲しない限り不可能であった。曲げるわけにはいかないといった理由で俺は「その日は――」と、泣きっ面の絵文字付きの謝罪ベースで「応じられる時間のない日である」という旨を伝えた。

そうかい。忙しいのか君はと思ってくれたであろうか。そうであれば優しい人だと断ずる。しかし、個人的な思いとしての理由としては違うと断じる。単に、手前の“自分に放じられた人生の配分”に、改善の余地があったわけである。

今日、一番悔しかったのは実のところ楽曲制作時間を逸したことではなく、折角ほっこり遊べる契機をいただけたのに、俺がとどのつまり「時間がないのであります」とも紐解ける回答をしたこと。

その悔いをどう改めるか。個人的な思惟ではあるが、他の方々はどのように捉えているのか、少しだけでも知れたら、手前のへたっぴさの何かの足しになる気がしてならない。
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今日あたりはケツに加えて腰にくる。時間だなんだと、ある種、実相は抽象的なことを律する前にまずはケツ。腰。肩。四十肩はそろそろ全快するなという感覚。

なにはともあれ「痛いからできません」という段階になる前に癒すべし。

そのように根底から思えたので、パフォーマンスは全ツッパで時間配分はほどほどに。今日はもうそれ以上言葉が出てこない。酒呑んで値引きのエビ食って寝ろ。
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呑みすぎて寝れん。寝たけど寝た気がせん。そのように酒量には注意を払おうと思い、身だしなみを整える。徒歩で東十条あたり、つまり隣駅くらいまで歩く。

運動になり、思考も整う。いい習慣だと王子五丁目団地まで足が伸びる。14階建て2,000戸以上の巨大物件がきちっと並んでいる。圧巻で足が止まり和む。憩う。耽る。

スピリチュアルより言語化困難な古団地の魅力。いまだに説明がつかないが、とにもかくにも居るだけで癒される。

この心象が俺だけではないことは『団地ブック』という書籍が何冊も刊行されていることが証明となる。つまり、団地そのものを愛してやまない団地マニアの一員。周囲には誰一人として理解者が居ないが。

わからないままのほうが、精神的な余白となり心地がよろしい。そういうことにしてさっさと帰る。

三崎優太さんが仮想通貨に億ぶち込んでチャートの動きに一喜一憂、嘔気まで収められたYouTube動画を観て愉しむ。ラファエルさんの最新動画で俺の曲が使用されているのを確かに認識して嬉しむ。そんで、寝る。いかんと思い原稿を書く。DAWを開いて楽曲制作を進める。

そうしているうちになんと1月も明日まで。早い――とは感じずむしろ遅く感じた。なんやかんやでカラフルな体験や新たな挑戦も生じた年のスタート。いいじゃないかと善処する。

生きているとは素晴らしい。そんな個々が2,000戸以上もの膨大な数の情念が凝縮されている場所。だから団地に魅了されるのかもしれない。しかしそこは断ずるとたぶん面白くなくなるから仮説で止めておく。明らかにしないほうがいいこともあるというこれまた仮説。
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1月、過ぎた。何をして31日間過ごしていたか。えっと、チャクラが開いた。仕事は実はけっこう普通にしていた。

急に小説書き出した、酒呑んだ、コエンザイムQ10すげえと思った。熱海へ行こうと本気で決起したが行っておりません。

『愛するということ』『「原因」と「結果」の法則』という各書籍を読んだ、愛の課題どこ行った。めちゃめちゃ散歩した、存在と時間について考えた。腕立て伏せほぼ毎日やった、なのに細っそい手前の両腕。

1日のやつから読み返せばもっとあるはず――全部で36,000字以上ある。よう書くな、それが気持ちいいからね。そんなところだろうか。

つまり人間31日間あればわりとカラフルかつ重厚と表現してやりたいニュアンスで営める。そのように綺麗に振り返りたいが「お前は1月、何をしていたんですの?」と問われれば、えっと、チャクラが開いた「待てい」となる。

それもいいんじゃないでしょうかと、いま、ここから現在を生きている手前を評価するのもいいのではないかと手打ち、その前に、「どこを評価できましたか」と詰められれば、そうですね、チャクラというのはまず7つございまして「おうコラ」となれば、まあ、なんかしら生きてればありますぜと相手をなだめる。

それはもちろん、いつもいいことばかりではないが、日々生きていれば何か感じる。それをどう心で処理して魂に提案するか。刻めるか、棄却か。その行為が許されるのは、どうか、自己であってほしい。意味がわからん。
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