ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。12月。
「北方領土をかえせ!」「北方領土をかえせ!」「北方領土をかえせ!」。んんんっ……! 「北方領土をかえせ!」。
銀座でデモが行われていた。目的は「北方領土をかえしてほしい」らしい。しかしなんであろう。客観視して感受するこの全体的なユーモラスは。
すぐにわかった。彼らは「北方領土をかえしてほしい」のが目的ではなく、「デモがしたい」ことであるのではないかという肌感覚所以だと。かなりデリケートなところなのでこのへんは完全に俺の主観であることを強調する。
今日はSPALの興行で1日の大半を楽しく過ごす。
2024年における当該アーティストの興行は今日が締めなので、ある種の節目を示すべく、普段はあまりしないネクタイを締めて臨む。イタリア産のペイズリー柄のいいやつである。ヨディーさんいわく「マフィアみたいです!」とのことであった。強そうでいいではないかとポジティブに捉える。
本当に楽しく過ごして帰路につく。仕事部屋で定位置につく。四半期ごとに入る、今年新たな源泉となった「制作楽曲における放送使用収益」をチェックする。要は、俺の作った曲が地上波やインターネット配信コンテンツで使用された際の俺の取り分の確認である。
バカラにおけるトランプカードを捻りつつ認識するかのように数字を見たら「やった〜」という額であった。ああ、手前が確認していない場で、この曲も、この曲も、この絶対万人受けしないであろうという自覚があるこの曲も、公共で鳴っていてくれていたのだなと認識する。
テレビ買おうかな(宅にテレビは無い)とか思いつつ、表に出て近場で軽くハイボールを3つ引っ掛け、いまに至る。
自分の特性を活かした仕事が数字として伸びていることを確認することは至上の喜び。加えて「貢献できているのだな」という幸福感。なのにそれを酒でふやかす。
まあ、そのへんも含めて自分自身なのかなと、ポップに評価する。
正装がマフィア的で、あらゆるタスクをして、「貢献」を命題として、認められた数字に歓喜し、酒と遊ぶ。関わる全ての人たちに感謝をする。
綺麗なのか穢いのかよくわからないが一つ断言できるのは、それらを包括してとても幸福に過ごせていることが、とても嬉しい。
_12/01
JR埼京線に乗り隣の十条駅で下車して、南へ歩く。既視感のないルートの散歩はクリエイティビティが高まるという持論のなか、「何かすごいのが降りてこないかな、いや、脳内に網羅された点と点がバチっと繋がらないかな――」と期待しつつ。
特にそういったパルスが脳内で走ることは意識上では感じず、ただただ、ポケットに手を突っ込んで歩く。とても心地がよい。気がついたら国道17号線という既視感のある場所に出たので、都営地下鉄三田線で巣鴨駅に向かう。別に巣鴨に用事はないが。
着くとそこは拓けていた。「そうだったかな?」という意外な感想のその奥には、幼少期の頃に濃く定着した記憶が起因とわかる。
日曜日になると家族全員でこの巣鴨の駅近くのスーパーに行って買い物をする。たまに食事をする。母親は謎に巣鴨地蔵通商店街が大好きだった。そんな、昭和60年前後の記憶である。
「カクヤス」を見つけたのでふらっと入ってジンのボトルを眺める。青や碧の色彩が美しかった。
「ピンサロ」を見つけたのでふらっと入ってしまおうかと思ったが、しない。「巣鴨の5,000円のピンサロに入ったらね……?」と、話のネタになることはほぼ確な気がするがおこづかいがもったいない。
そのまま界隈をぶらぶらとしていると哀歌を唄いたくなるようなノスタルジックとリラックスが混じる平穏な気持ちになった。気が済んだので帰る。
宅で各種のタスクを行なう。「続けてるものだな」と、noteの記事を投稿する。「久しぶりだな」と、インタビュー案件の準備を進める。「あと少し、というか手を加える度に良くなっていく曲だな」と、楽曲制作の最終工程を納得いくまで執拗に詰める。
平穏な日。どのタスクもいつも通りやっていたつもりだが、どこかで、ゆったりとした散歩のなかで繋がった何かが活きている。そう感じてならない。
_12/02
この場の文章ではないが、さいきんよく書く記事に対してChatGPTを編集者に見立てた活用をしている。その際の指摘が顕著なことから、「便利ではあるがライティング周辺の人間の役割がかなりシュッとしてしまうのでは」と、危惧とよき兆しのリャンメンで捉えている。
なにせ、2,000字程度の文章だったら「それだ!」という見出しの案を秒で10個は出してくれる。
「ふくらませる箇所」と「冗長なくだり」もバシッと洗い出して例文までくれる。さらに、「より冒頭で読み手を引きつけるには」といったマーケティング視点まで兼ね備え、リード文を一瞥すると最後まで読みたくなるくだりの提案をくれる。
「編集者そのものではないか」とシンプルに驚く日々である。
だが、「ヒットする本やコンテンツのアイディア」など、人間がゼロベースあるいは様々な見識や礎やを鑑みた「人を惹きつける要素」を求めると、凡庸なものしか出てこない。
投じるプロンプト次第なのかもしれないが、やはり、端的に「売れる」「受ける」タネはそうたやすく出てこない。さすがにそれは永久不滅の人間の仕事なのかもしれない。
ChatGPTや各種生成AIは、あくまで人間の制作やタスクのパートナーである。そこは、いまのところ揺るがないが今後どうなるのかなと、毎日のように思う。
「会話が噛み合わなすぎて逆にエモかったAIアプリもあったな」と、笑えなくなったような時代が来るのか共存するのか。別にそこまで深刻に考えてはいないが、とにかく「驚異」と捉えている。
もしかしたらウェブサイトのスマートフォン用アプリ開発もササっとできてしまうのかもしれない。というか、たぶん俺がやり方を知らないだけですでに出来ると思う。
そのように考えると、逆に凄いしこのサイトのアプリ作ろうとなるのでワクワクする。誰がダウンロードして使ってくれるのかという、そもそもなこともあるが、そういった流れも当たり前になるのかもしれない。「個人に特化してアプローチしたアプリが常識」となる時代が。
いやそれ面白いと思う。だってそれSNSの次の段階っぽいし。
_12/03
数千円かけて修理したソニーの定番ヘッドフォン(YouTubeの『THE FIRST TAKE』でアーティストが使ってるあれ)をつけて鍵盤を鳴らす。
「C」のキーのダイアトニック(基本として白鍵だけ使用する7つの和音)を任意で巡らせる。
「なんかいいやつできそう」というコード進行に辿る。なんかいいかもな〜と感じて発展させるも形にならず。
ジョン・レノンさんの「イマジン」を弾いてみる。音を拾って手書きしたMUSEの「Exogenesis: Symphony, Part 3」の楽譜が目の前にあるので弾いてみる。
「何回弾けば気が済むんすか?」というほど、お客さんや亡き叔父に楽しんでもらうために弾いた両曲が響いていた場所、西川口の昭和レトロ喫茶店『アルマンド』でのひとときが琥珀色で蘇る。
再び「C」のキーのダイアトニックで何かを辿る。何も形にならない。
今日は普通に仕事したりAIに文章のダメ出しをしてもらってムキになったりという1日。地味だなあと思う。
突出した情念がなければ、それは何も創作のタネは出ないなと左脳あたりで納得する。
あのまま、喫茶店経営を引き継いだパラレルワールド上の俺は、今日も当該店内で両曲を弾いていたのかなと想像する。それもいい人生。現実は、謎にAIのリテイクをねじ伏せようと躍起になっていた。
「本来、歩むべき人生とは異なるルートを生きている」という解釈があるらしい。スピリチュアル界隈での提唱かなんかである。
たぶん、異なっている気がしてならない。とはいえ、それを自ら選択していることは事実として認めている。
じゃあ「本来――」とはなんぞやと考えると、そのルート上にはたぶん、鍵盤を叩くことも毎日執拗に文字を書くこともない気がしてならない。
20年後くらいの俺の声が聞こえる。「あらゆるルートにちょっとずつ顔を出したかった。その最中ですよ〜」と。
「ハゲとるやないか64歳の俺。よくわかった。ハゲんように、その言葉すら発しないように、別のルートにも顔を出すことにする」
そう答えた。
「壁に向かっての独り言は正常です。ただ、壁から『返事』が返ってきたら受診を――」という医師かなんかの見解を思い出す。
「うん。ギリセーフかな!」と断じる。今日は、ちょっとしたイレギュラーがあった気がするがわりとどうでもいいなと感情を整理しつつも、いろんなルートで人生を楽しもう。「白鍵だけではないルート」を。
_12/04
なんだか元気がないなと日中を過ごす。「覇気がない」とまではいかないあたり、包括的にこう、なんかよくなってはきているのかなという所感。
各タスクをこなすように行う。淡々としっかりやる。ちょっとラファエルさんの動画をYouTubeで転がりながら観て、そのあとに楽曲制作もする。
超ホワイトカラーな曲調の制作の最終工程がおわる。全然数日前の音像とほぼほぼ変わらないのだが、言語化不可能な感性の領域からの「出来た。出来てる」という判断がさっきようやく下された。要は完成した。
そうなってくると元気にもなる。この、いかにも公で流れてそうなサウンド、しかしがっつり生演奏込み所以の生々しさも含んだ楽曲。
マスター音源として書き出してデスクトップに置いたwavファイルを明日聴き、「出来た。出来てる」という同様の判断であれば公開できる。
「開けた場でたくさんの方々にご使用いただけるサウンドを」という命題の楽曲なので、その通りになることを願う。命題が異なっていれば、とっくに先月仕上がっている。大勢の人様を意識するということはそういうことなのかなと気がつく。
_12/05
頭がしびれるくらい仕事をしてあっという間に深夜におよぶ。年末年始が視野に入る。忘年会と新年会がそれぞれ開催されることが決まっているのは心の癒し。
クリスマスシーズンは何をしようかと考える。いまのところまるっと空けられる。ついに、熱海に行く日が聖なる夜だったか――といきたいところだが多分行かずに近場の教会に冷やかしに行くことあたりが想定される。たぶん、そういう心情でいくのはあまりよくない。
仕事ばかりしているなかで、読んでいる本の一節が光って見えた。
各種の仕事をするにあたってのやりがいや、ある種げんなりする感情を捉えた文脈で「小さな使命」という表現があった。
それは、「小さな使命」は大きな使命に向かう各種の糧であり、どの仕事も行為も人間関係も、大なり小なりの使命となっており、どこかで大きな使命に繋がる。そういったことが説かれていた。個人的な解釈だが。
その本の筆者は哲学博士でありつつも、日々工場での仕事をしながら当該著書を執筆していたという。けっこうここ、強調されていた。
つまり、自身が本流と思っている研究職や翻訳の仕事ではないことを日々こなしつつも、その哲学書の執筆という「本当にやりたいこと」を並行して行なっていたという。
その中で「工場の仕事は本来やりたいことではないが――その過程で発見できる、学術とは別の視野や技術や社会においてのスタンスなどを学べる」と、哲学的かつ前向きに捉えていた。
だから俺には「小さな使命」という言葉がひときわ煌めいて見えた。心に染み入った。学者様ほどの見識には到底およばなくとも、どこか本質的に似た考え方を手前も持っているつもりだからである。
だから、自身の「本流」と思っていることをするのも、そうでないことをするのも、感謝しつつもポジティブに“捉えるのがいいのではないでしょうか”ということを再認知した。
そうすれば、どこで何をしていても世界は美しく輝き、使命という希望を持って生きていられるのだと。
『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた:哲学、挫折博士を救う』(関野哲也さん著)という本を半分ちょいまで読み進めてそう感銘を受けた。
哲学書なのに信じられないくらい読みやすい文章で書かれている。そこにも感服した。
池袋のジュンク堂書店4階で1時間以上吟味して買ったこの本。考えまくってチョイスしてよかったなと、出会えてよかったなと、心の底からそう思える。
なお、著者の関野哲也さんは俺の3つ年上の方。そのあたりもなんだかこう、たまらない気持ちになる。
_12/06
音楽を聴くうえでの感動する度合いが低下していると感じた。以前なら落涙するほど魂に響くような、あの感覚である。
「ああ、歳だ。それ、歳な」というのがきっと一般論であろうが俺は認めたくない。病的なまでに感受できることはギフトだと思っていたからである。
なんとなく、そんなことは考えずにいた頃、好んで聴いていたフレーミング・リップスの「Race for the Prize」を聴いてみる。「ああ、懐かしいな。当時はバンドをやりながら、この世で最もリラックスできる空間であった軽自動車を運転しながらこの曲のアルバムをよく聴いていた」と、回想した。
こっちはどうかなと思い、レディオヘッドの「Everything in its right place」を聴いてみた。しっかり鳥肌が立った。誇張ではなく物理的に自律神経が正直に反応したのである。
「ああ、歳ではない、それ、歳ではない」と、動機を翻せた。
バカだから各曲のストリーミング再生回数に注視した。すると、両曲とも、世界のメジャーシーンで大バズりしている楽曲の数字とは2、3桁も少なかった。
本当にバカだから、「そうか。オルタナティブロックというのは音楽の市場規模だと言葉通り、一線ではないのだな」と捉えてしまった。
そうではない。感動できる楽曲に出会えたことと、それに対しての享受の度合い(のようなもの)は年齢や数字どうこうではないとハッキリ認識した。
よかったよかった。じゃあ張り切ってこれからも俺も音楽をつくろう、さっきも1曲全力で仕上げたやつをプラットフォームに公開申請したし、次はどんな曲つくろうかなっと。そう鼓舞された。
何が言いたいのかというと、俺は感動できること、喜ぶべきこと、楽しく感じること、深く情念に刺さる感性が薄まることに対し、極度の恐怖を感じているということ。
そうなったら、もう何もする気が起きなくなることは明白。それが本当に怖くて仕方がない。
10代の頃からいまも、定期的にイメージに浮かぶことがある。以下のようなものである。
少女が居る。彼女は誕生日を迎えた。家族は飾り付けに凝り、ご馳走を用意し、少女がずっと欲しかったプレゼントを用意している――目の前には喜びしかない――焼きたての七面鳥や芳醇なイチゴがふんだんにデコレーションされたケーキだってある。
素敵な音楽が流れている。大好きな家族が祝ってくれている。美味しいものが目の前にある。待ちに待ったプレゼントは開封前。好きなタイミングで手にしていい。
だが、少女は喜べない。
目の前のごちそうは食べたくない。
プレゼントに興味がない。
家族が喜んでいる。
私は嬉しくない。
でも喜ばないと――嬉しくない。楽しくない。食べたくない。欲しくない。
「これ、なんなのかな?」と思ったが、いまだにわからない。
一つ言えることは、俺はいま“少女”の状態ではないことをフレーミング・リップスとレディオヘッドを聴き、手前でつくった楽曲の仕上がりに対し、喜びと感動を得られていることで証明できる。
しかしそれがなくなると“少女”の状態になる。それが怖くて怖くて仕方がない。真意はちょっとわからないが、数十年以上、このイメージが定期的に脳裏にカットインする。
この世で一番怖いことが抽象的すぎる。どんなコンテンツを流しても、どんな音楽を聴いてもあらゆる書籍を読んでも、この感覚について言及されていない。
「アパシー:無感動」が近いが、根本的な部分が異なる。怖さと失望と絶望の間くらいの感覚が膨張するべきところでそこにも無関心であり、自己が蒸発するような感覚。
そんなことを、ハイボールを呑みながら超ハッピーな機嫌で考える。このイメージについて万人と共有できる名前をつけたいな〜。と。
既にあるのかもしれないがまだ知らないだけかなのかもしれない。生きる価値を失った“少女”の感覚。それにしてもハイボールうめえ。
_12/07
先日めちゃめちゃ気に入ったコートを購入した際、キャンペーンで5,000円分の商品券をもらった。やった〜と思い、今日使いに行く。パルコ限定での商品券であり12月いっぱいが使用期限だからである。
いぶし銀なニュアンスのインナーをひとつ買おうと思ったが、どうも「これだ」というのが見つからなかった。
「5,000円ぶんどうしよう」と思い店員に「別館でも使えますか」と聞いたらイエスと答えられたのでパルコ別館の楽器店で消耗品である弦を6,000円弱ぶん買ってホクホクする。
「パルコ」って響きがいいよな、などと呟きながら適当にぶらぶらして赤羽に戻ってまたぶらぶらして黒服くんにつかまる。ひとまわり年下くらいの、たまに会う元気な男である。なんか嬉しそうに声をかけてきた。
「あれ! ひさしぶりじゃないですか!」
「よっすよっす。どう? いそがしい?」
「ひまですよ〜! みてください!(お客さん見込みが閑散とした駅前)」
「いつもそれ言うじゃん」
「そうなんすよ〜!」
「そういえばなんか、警備みたいな人たちウロついてるじゃん? あれなんなん?」
「あれはオレたちみたいなキャッチを取り締まってるんですよ!」
「敵なの?」
「そうっす! 敵っす! つかまれたらヤバいやつです!」
「あなたがやってるのと似てるじゃん」
「いやあ! あははははは」
「あはははは」
「じゃ!(互いに拳をあてるヒップホップ的なあいさつ)」
黒服くんは元気であった。
俺はと言うとそのあとブックオフに行って2冊ほどコミックを立ち読みした。その『マンガに、編集って必要ですか?』という作品に出てくる主人公の嫁のキャラが、俺の「脳内嫁」の見た目と性格、なにからなにまでがあまりにも一致していてかなりびっくりする。
「3巻まで出てるみたいだし今度新刊で買うか――」などと思いつつラーメン屋に行くと、オーダーしてまもなく気分がわるくなってくる。
「食えんかも」という危惧があったが完食し、帰宅してひと作業して寝たら治った。疲労困憊が原因と断定。確かにここ数日、多動すぎたきらいがある。
それもあり、今日はほぼほぼお休みの過ごし方。ひと作業と、楽曲制作のネタ出しでロックサウンドのギターリフを捻り出し8小節楽譜に記す。
仕事周りのタスクはこの2点。あとは散歩。そういう日があっても、いや、あったほうがよい。
_12/08
限界まで寝てやろうと奮起して床につく。起きたら昼過ぎで12時間以上睡眠をとったことを確認する。すんごく調子がよい。
人間の生活習慣で一番大事なのは「睡眠」確定でいいのでは、などと本当にそう思う。
2種類の仕事をこなす。続くものだなとnoteに投稿する。楽曲制作のネタを昨日のとは別のものをまたひとつ考えて4小節だけ楽譜におこす。メロディとコードのみである。
これを小曲としてスピーディーに仕上げて年内アップロードを目指す。このあいだ出来た小綺麗な楽曲は今日公開した。初動を確認しては「けっこういいな」と気をよくする。
「初動がけっこういい」すなわち「今後の数字が伸びる見込みが期待できる」よって「多くのユーザーにご使用いただける」つまり「貢献できる」ということになる。それが幸せでならない。
今年はアドラー心理学に出会い、その文脈で「人間の幸福とは貢献感である」というひとつの思想があり、それがとても刺さった。
だから、仕事をしてお礼を直接もらったり、公開した楽曲のダウンロード数を見ては貢献感を得て幸福を感じる。
このように、俺なりに、急速に展開されるホワイト社会に適合しようと頑張っているつもりである。よって、今日公開した楽曲のタイトルは「White Philosophy」と名付けた。清い考えを音にした。つもりである。
_12/09
墓の管理費を払い忘れており、催促状が届く。さすが寺からの手紙。封筒の宛名書きからして筆書きというこの圧。
中身を見て、どうやら俺は昨年分も支払い忘れていることを認識する。「やべ」と思い、額を確認しては「安くねえな」と真顔になる。
前提として完全に俺に非があるわけだが、その催促文の文末に、手書きで一行の加筆があった。
「まあ、そうですよね」という内容の一行、丁寧な言い回しであるがあまりにも直球すぎる表現ではないかと俺は久しぶりにネガティブな気持ちになった。内容を、ここに記したくないほどである。
いつもならそのまま遠慮なく書くが、本当に書きたくない文言だったのである。
すぐに郵便局に支払用紙を持って行き払おうと思ったが、時間的に現金以外は受け付けないとATMは回答した。
その謎システムなんやねんと思い、後日払おうと支払用紙に現金を挟み棚に置いておく。
『闇金ウシジマくん』の作中描写であった、「スーーッ! ハッ!!」という深く短い間隔の呼吸を真似してネガティビティを吐き出す。
繰り返しになるが、支払い忘れていた俺に非がある。しかし、電話でもいいからまず「どうしましたか?」「払い忘れてるので――困りますよ!」くらいのクッションを挟んで欲しかったのは甘えだろうか。
いや、坊さんならびに世間はそのへん厳しいのかもしれない。父親が亡くなった翌日も、葬式の手配の流れでその坊さんに指摘を受け、電話でのその口調はかなり厳しめだったことを思い出す。
「あの、昨日今日で俺、一応喪中なんすけど――」と当時感じた気がするが、それよりも「坊さんって思いのほか容赦ねえな」という記憶の方が濃く残っている。それもセットで思い出し、そういった気分になった。
だがしかし当然といえば当然なので別に引きずらず。原因は俺なのだから。正直、「――って言いかたとか何か色々、おかしくねえか?!」と、愚痴る家族がいれば確実にそうしているのだが。
それはそれとして、それでも墓を管理していることは事実なのでそこはきちんと感謝する。とはいえ、なんかふと切ないなと思っただけ。
あの世にいるお母さん、ケチがつくようなことをしてごめんなさい。親父よ、平吉家の墓の建立という俺にはできないことをしてくれてありがとう。金払い忘れてて詰められたわ。あと親父が亡くなった翌日も。
お金のことはきちんとしなさいという戒めと捉える。管理費を払えばそれで済むこと。『闇金ウシジマくん』全巻読み直そうかな。
_12/10
「とうとう腱鞘炎がきた」と慄くピリッとした右手の痛み。今日の出だしはこの症状に絶望すらおぼえるが数時間で治る。
何だったんだろうと訝しつつもフィジカル的な休息が以前より必要。そういう歳なのだなと、今年ほど「歳」を感じざるを得ない年もなかった。そう、あと今年も20日で〆。
どうだったかなと振り返るにはちと早いと今日を見直すと、やはりいつも通り文字を書きまくったりちょっとギター練習したりと、そういった日常であった。
熱海。つまり今年も旅行に行けず。いや、行かなかったというのが正確だろうか。行こうと思えば全然行けるのだが、行動に移していないだけ。仕事や日々のルーティーンを優先させた結果である。
ただ、それがあり今年積み上げてきたものが生じたし、新たにチャレンジしたこともいくつかあった。じゃあいいじゃないかと手打ちとしたいが、本当にさっさと行って新たな体験と共に新鮮なインプットを得て視野を広げろと如実に思う。
今年できたことはたくさんある。できなかった、いや、やらなかったことは旅行。旅行は人生を変える顕著なエネルギー源ともなるというのが一般論。だから早く行け。熱海へ。電車で1本じゃないか。ゆけ。
_12/11
死ぬ寸前に「もうやること、ない」と言って死ねるような日々を送っていられているのかと問いを立てた。こういったことは、いつもの環境では思考にバイアスがかかる。そう思い、セーブ・ポイントへ向かった。近所の立ち呑み屋である。
琥珀色がメインの照明デザイン。それは裸の白熱灯起因。ワンオペ大将はいつもの所作。現金前払いスタイルで酒と肴を口頭でオーダーする。「すいません。ジムビールハイボールとあつあげをください――」と。千円札をズイと渡して450円戻ってくる。
しばらくTV画面を眺めては『この、ひな壇の構図――『アメトーク』だっけなこれ?」と、察知する。蛍原徹さんを目視したので「ああそうだ」とは思えど「宮迫さんは?」と疑問に思う。
自宅にはTVがない。なんなら2008年頃から俺は意図的にTVをほぼ観ていない。当時は確かに、宮迫さんがTVで大活躍していた。今はそうじゃないのかという現状を、地上波ビジョンにおいての空白の16年間を孕んで実感する。
「だからYouTubeで宮迫さんが活躍してるんだ」と、時代の流れに直面する。
蛍原さんの隣に宮迫さんが居ない違和感を感じるのは「TVを観てないから」だけであるという原因を確かめ、「今日何しに来たんだっけ?」と右脳にクエスチョンマークを燻し出しつつ2杯目をオーダーする。「レバテキ」と共に。
「ハツテキ」は人気メニューにつき、深夜においてはほぼ品切れなのはこの店においての不文律。
結果、「昨今における『人生の課題』について批評しよう!」というテーマは全て立ち呑み屋の心地よい空間に溶け渡る。そうか、ちょっと休みたかったのかと気がつく。そしていまに至る。
思考停止は広義的によろしくないとされている。しかし、狭義的・個人的にはそういう刹那は必要であると断ずる。
宮迫さんは、16年前とは別のステージで活躍している。その理由に対しては立ち入らないが、結果、そこに違和感を覚えるも「ああ、次のシーンで頑張ってるんだな」という鼓舞に似た感情にスライドさせることもできる。
セーブ・ポイントで得た啓示はこのようなもの。俺はあとどれくらい生きられるのであろうかと最近頻繁に思う。現場からは以上である。
_12/11
酒を呑んで気絶寝して朝。もう一回寝る。夕方前に起きて「今日という日をありがとうございます」と声にする。
だめですよね。こんなんイカれていますよね。そう思っているようで、特筆してに気にしないまま定期検診でメンタルクリニックへ。
「失礼します」
「――ああ平吉さん。もう一ヶ月ですか……」
「ええ。早いものですね」
主治医は、俺をタイム感の尺度としてるのかなという口頭一番の言葉。珍しいなと思った。いつもは、「どうですか、平吉さん」で統一されているからである。
先生とは長い付き合いとなっている。だんだん人間関係の距離が縮まっているのであろうか。ふ。恋愛みたいだな。そのように少々思ったのはやはり俺はイカれているのだろうか。
「――どうですか、平吉さん」
「――はい、『悪くなってはいない』というのは確かです」
「よかったじゃないですか」
「ええ。おかげさまで。何と言うか、どの状態になれば『先生! もう大丈夫です!』と言っていいのか、もはやわからないのです」
「ふふふ……」
「何と言うか、どの状態が『メンタル正常』というのがわからなくて日々、考えています」
「前回言ってましたね」
「はい。申し上げましたね。『どうすればメンタル強くなれますか?』と」
「そんなにメンタルがタフでいたいですか?」
「はい。スティーブ・ジョブズさんくらいタフでいたいです」
「偉人ですね〜」
もはや精神科医と患者の問診ではない。
「平吉さん、覚えてますか?」
「もちろん克明に。『メンタルが強くなくてもいい、弱くたって――それも含めて人間ですから』ですよね?」
「そ〜うそう」
「とはいえ、どこが“正常”かと、いろんな本を読んだりして考えるんです。先生、先ほど『偉人』と仰いましたけど、そういう方々は共通してどこか『いびつ』ですよね?」
「そうですね。イーロン・マスクもそうじゃないですか?」
「あれは確かになーんかおかしいような……そうそう。僕、スティーブ・ジョブズさんの自伝を全部読んだんです」
「ほほう」
「決して人格否定はしませんが、ある種のいびつさを感じるな、と」
「ははは」
「でも、ジョブズさんは偉業を成し遂げましたよね? そのへんは評価すべきというか――彼は、今で言う発達障害なのでしょうか?」
「イーロン・マスクもそのような診断でしたっけ? そういうのなんかありましたよね」
「なんか聞いたことあります」
「まあ……あんまり深く特定と言いますか、決めつけるのも――あっち(欧米圏)ではこっち(日本)よりもそう診断なりをすることが多いんですよ」
「そうなんですか!」
「ええ。何でも症状に名前つけたがるというか。ふふふ」
「(何がおもろいんだろ?)確かに!」
先生はいつもより、正確には月日が流れるにつれて、俺との対話をどこか楽しんでいるように思える。
「まあ平吉さん、あまり考えすぎ――いや、決めつけなくてもいいんですよ?」
「はあ。先生、僕は発達障害でしょうか?」
ものすごい直球の質問である。俺は自覚がある。普通に振舞っていても「社会」とどこか軋轢がある。幼い頃からずっとである。そして、「明らかに発達障害」と断じる家族と共に育ったことも起因としてある。
「……。ニヤ……! (マスクをずらす)……(眉間にしわを寄せる)……スー……」
「(これまでにない圧倒的な“間”だな。発言まで待とう)」
「平吉さんは、最初の頃はそういう傾向が見られました」
「(おい!)さようですか」
「最近はだんだん――」
「なんかよくなってきたんですか!?」
「というか、発達障害は薬での治療法があります。平吉さんはその必要はないと思います」
「(なんで断言しないの?)はあ。今まで言いませんでしたが、兄貴がいまして、そいつは僕から見たら明らかにおかしいんです」
「はあ」
「いまは――(兄貴の個人情報なので割愛)――ですが、以前はプログラマーとして活躍していたみたいなんです」
「ほほう」
「でも」
「人間関係で?」
「そうです! 兄貴は幼少期から『天才ってこういうことか』という、あらゆる面があったんです」
「へえ……どんな?」
「中学生なのに、物理学ですかね、数学かな? 僕には理解に及ばない学術書ですかね? そういうやつをたくさん読んでたんです」
「ははあ……!」
「いつだったか『どっちが円周率の桁を多く覚えられるか』という遊びをしました」
「お兄さん、凄かったでしょ?」
「(なんでわかるんだろ?)はい! 僕は20桁まで暗記しましたが、兄貴は常人離れした桁まで……!」
「発達障害というのは、そのケースですと『自閉症スペクトラム』ですかね。知識や知能は極めて優れているんです」
「そうそう! やばいって思いました!」
「とはいえ、人間関係は……?」
「……ご察しの通りです。それで今は――」
「平吉さん。グレーゾーンなんて捉え方もありまして――」
先生は「臨床」ベースであるということを強調しつつ、慎重に、俺の直球の質問に応えてくれた。結論づけなかったが、答えはまあ、そういうことであろうと察知した。
「じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」
「はいわかりました」
「寒いですからね。お体気をつけて――」
「ありがとうございます」
先生は今日、デスクワークをする社内の女子のようにブランケットを膝にかけ、机周りに謎の防寒具を設置していた。ちょっとだけ、いつもと違っていた。
“以前の俺は、おかしかった”という文脈があった。そうですかと認めた。一方で、俺も似た感覚をおぼえた。“今日、最近の先生だって、以前とは違いますよ”と。
ここのところ、絶対に自覚がないと断言できる先生のクセ、「足をぶらぶらさせる」行為が今日とこの頃は見なくなったことである。
みんなちょっとずつ、おかしいんじゃないかな。いびつなところは、悪いところは抑えて、よいところは伸ばせばいいんじゃないかな。そういった提言を先生にした。
すると先生は「うん、それでいいと思います」と仰った。
俺はグレーゾーンで、兄貴はASDで、親父はADHDで――なんかどうでもよくなった。「特性」をどう「扱う」かという重要性。それだけが残った。
今日は基本的にのんびりすごした。この日記ではないが、文章をたくさん書いた。
仕事の打ち合わせで編集部の村上氏とたくさん話をした。「レモンサワーについての見解9割」「本題1割」という、シリコンバレーのCEO同士の打ち合わせチックでなんかクールだなと思った。
先生、俺は正常なのか、精神疾患者なのか、発達障害なのか、グレーゾーンなのか、ただのおもちゃなのか、断言しないあたり、来月の診察が楽しみである。
_12/13
せっかく、ウチのストラトキャスターのいいやつを弾きに行きたいという来訪の打診LINEがあったのだが、寝すぎてて気づかずまたのお招きとする。
悔しいなと思いつつ今日やるタスクを各種やる。小曲ができたのでメロディとコードと和音楽器のリズムパターンを鉛筆で楽譜に起こす。
たいへん小規模な日常。寒の塩梅も師走らしくなってきていよいよ年末。昨夜、村上氏と話していて気づかされたが、今年はわりと色々とあった。
マラソンペースのように、少しずつは前進できているのだなと、そのはずであると、月末にはポジティブに今年を振り返りたい。
_12/14
今月のクレカの引き落とし額がおそろしいことになっているなと少々、真顔になるがそれはそれだけ買い物した当然の数字である。現実。
ともあれ、いつもの倍とかそこまではいっていないので、チェスターコートの一括払いによる分割払い手数料発生回避を選択したことは評価する。
口座額が枯渇しており引き落とし「不渡り」になりかねる状態ではないが、「ちと買いすぎたかな」と現実を見つめる。
案外、本を定期的に新刊で買っていることが出費の割合増加の要因となっている。しかし、読書は秀逸な自己投資であるはずだと、そこはあんまり惜しんでいない。これが吉と出るか否か、今後、答えとなるであろう。
昨日今日あたりはスピリチュアル分野の本を読み進める。その前は実用書で、その前は思想書で、その前は哲学書だった。
ばらつきがあるようでわりと偏っている気がするが、「思考」や「想い」そして「観念」や「謎」について直列にアプローチしていると考えると、それはそれでいいんじゃないかなという肌感覚。
とりあえず考える、思うことが起点。デカルトさんみたいでいいじゃないかと善処する。
スピリチュアルの本によると、亡くなった親族などについて、言葉にしたり思ったりするだけで、向こう側で「忘れていないんだな」と、嬉しむという解釈を得た。
「そういうものなのか」と感じつつ逆に考えた。俺が死んだあと、誰かが「平吉、いたな〜! あの時スベってたな〜」とか誰かが話題にもちかけていたことを察知したとすれば、たぶん嬉しいんじゃないかと思う。
生死の境目は明確にあれど、そこをシームレスに扱うスピリチュアル界隈。五感で捉えられな俺的には「謎」の分野だが、そういった書籍を楽しく読み進めらるということは、なんらかの知識や、これまでになかったフィーリングに繋がるのではないかとポジティブに感じている。
幼少期から20代まで、実家でネコを多頭飼いしていた。俺はいっさい餌やりをしなかった。親父が好んでその役目を果たしていた。
いわゆるボス的な、界隈最強のいかついネコも買っていた。彼は俺には懐かなかった。親父にだけ、唯一心を許していた。彼の最期を看取ったのは親父だった。ちょっとよくわからない言い回しで俺にその最期を説明していたが、とにかく彼と親父は縁が深かった。
親父が亡くなったあと遺品整理をした。あんな奴だったけど最終的には、俺は綺麗な死に顔で逝ったことが救いだった。だから寝室に、遺影はないが親父の写真を飾っておこうと思った。膨大な数の写真を選定するも「これだ」という一枚がなかった。
唯一あったのが、そのボスネコを抱いて、革ジャン姿で流し目のように振り返る親父の表情の写真だった。すごく素敵な写真だと、直感でそう思った。
よって、寝室に飾ってある写真はそのネコとの2ショットと、施設にいてまだ会話ができた頃に撮影した、俺と一緒の2ショット。確か当時で言うところのTwitterに投稿した写真である。
スピリチュアルの本には、「亡くなった者同士が会える確率は低い」と記してあった。何故ならば、死後に魂が「次」的なところに向かうので、時間軸として先に亡くなった者は、その後に亡くなった者よりも先にいるからとのことである。
ただ、たまに、「どうしても会いたい」という場合は、先に亡くなった者が「待っていてくれる」ケースもあるという。
俺は今日帰宅して親父の写真を見て「ネコに会えた?」と聞いた。
俺にはなんとなく、ボスネコは親父のことを待っていてくれると思ったからである。
もしも、そうであればネコとの2ショット写真は遺影の代わりに飾っておくにふさわしいのかな、正式な流儀としてはだめなのかな、などとも考えたが、とにかく、それくらいネコと親父の2ショット写真は「これ」と直感がはたらいたのである。
とりあえず、いま生きていられることが奇跡的であることを、より実感するとともに感謝する。
もしも、本当にネコが待っていてくれて、親父がそこで彼と再会していたとしたら、なんだか涙が出そうになる。
それくらい彼と親父は、仲良しで、幸せそうだったのである。
_12/15
昔の人は、とても考えていた。今の人は、それぞれだろうと思った。前者の極み「常軌を逸したレベルを突破して考えて書いたのかな」という本がある。
その書籍を買おうと思ったことがあった。しかし「まだ早い、まだ早い」と、自己認識できた。レンガみたいに物体じみたその本。それは『存在と時間』というやつである。
それは察するに、哲学書の到達点のようなもの。現状、俺がそれを「ウンウン……ハッ!」とか言いながら読んで理解に及ぶとは思えない。
というか「“理解”とは」と、そもそも改める必要が出てきて、頭がニワトリになる可能性はたいへん高い。
だからまだ読んでいない。
最近、AIのパワフルさを如実に実感している。「じゃあ――」と思い聞いてみた。『存在と時間』について。
その書籍についてのイメージ感は一致していた。シンプルに聞いた。“『存在と時間』はご存知ですか?”と。
ChatGPT4oはこう答えた。
“『存在と時間』(Sein und Zeit)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)が1927年に発表した重要な哲学書です。この作品は現象学的存在論の一つの頂点であり、20世紀の哲学に多大な影響を与えました。”
と。
「頂点だってよ!」と思い、禁断のプロンプトを投じた。“2,000文字くらいに要約できますか?”と。
するとAIは秒で要約した。この時点で俺は、文脈をすっとばして偉人の名言を理解したつもりの脳内量クルミくらいの人間に成り下がるか否かという分岐点に居た。なお、俺はクルミを非難はしない。
これは、実験である。
要約文を読むと「な〜んか、わかるわ〜」という感想が出た。だから俺はその感触を一行でまとめたプロンプトを投じた。
“(この本は)人間は、時間という有限のなかで生きる(存在する)ということを紐解いたということでしょうか?”
と。
すると、ChatGPTの回答は以下だった。
“はい、その通りです。『存在と時間』は、人間が**時間という有限の枠組みの中で生きる存在(現存在=Dasein)**であることを徹底的に紐解いた作品です。ハイデガーは、時間という視点から人間の存在の本質を探求し、その有限性が人間の生き方や意味を根本的に規定すると考えました。具体的には、以下の点に注目しています――略”
と。
この冒頭の“はい、その通りです。”
これが恐ろしくて仕方がなかった。
なぜならば、俺が『存在と時間』を数分で理解したという解釈になってしまうからである。これをすべての書物や創作物に当て込んだら、ねじこんだら――ぐは。想像もしたくない。
今日の各タスクのうちの一つ、楽曲制作をしていた。制作中である小曲のそれは、いつものように「着想・アイディア・採譜および作曲・演奏・レコーディング」という風に進め、青写真ができた。
だが、アコースティックギターとタンバリンをコンデンサーマイクで録音している時にふと思った。「俺は、こういったアプローチの楽曲の際、必ずといっていいほどこうする」という自分の「構造」があると。
それを他者にがっつり掴まれたら俺は必要なくなるのかもしれない。「Anonyment(俺)という作曲者が作りそうな楽曲をいくつかください」というプロンプトを投じたら秒で10曲以上吐き出される時代は、数年かからずに来る。そんなプロンプト投じてくれる人がいたら、現状ではたいへん恐縮かつ嬉しいが。
だから、いつも以上に、俺なりの別のやり方を考えて実施した。とはいえベースにはどこか、過去に制作した手法の匂いが必ず出てくる。
それを「自分らしさ」とポジティブに捉えるのがいつもの手前のつもりだが、今日は危機感を持った。
その者がひじょうに著名である限りは、「その人っぽさ」は価値となるが、逆の場合は悲惨なことになるのではと判断できたからである。こと、何かを創ることに特化したい者は。
死ぬまでの限りある時間の中で俺がどう存在し、他者と関わるか。
『存在と時間』という本を読破すれば、また別の色の答えが出るのかもしれない。今の所はただ、入念に、日々感じたことを吟味しながら慎重にいることで、悲惨なことにはならないであるという仮説のなか暮らしている。
何が言いたいかというと、「自分らしくある」という個人的には絶対的な「生き方・在り方」について、“人間の存在の本質”は、現在のテクノロジーによってうねりが生じているのではないかという点である。
存在していた証明がスッカスカで扇情的になる。そんなのセンスがない。
ひとつも記録せずも、この世でどれだけ楽しく生きていたか。それを冷徹にデータ化、情報化するのは、冷たい。でも便利なAI。結論、共存する。
記録をほぼ残さず死んだ奴がいた。だが、そいつの記録は俺が残す。当人は何のテキストもコンテンツを残さなかったとしても、その情念や使命を別の者が残す。
そこには価値がある。ソクラテスが書籍を残さずとも弟子のプラトンがソクラテスのことを後世に伝えたように。
俺は哲学のことはあまりよくわからないが一つ言えることは、たまに疲れる。
だから酒を呑んで頭ウメボシくらいにして寝よう。明日がまたきてくれたら、元気に人生を謳歌しよう。
_12/16
放送禁止用語は書かないようにしようと思った。日記ではあるが、インターネット公開しているので、誰かが見て傷つくことは不本意だからである。
今日はたっぷり寝て蕎麦を食べる。あれ、1食しかしていないなと、いまなんか気怠いのはそのせいかと納得する。
一気に丁寧に原稿を書き、進捗率85%に達したので一晩寝かせる。別の案件の準備を整える。noteに投稿したり腕立て伏せをしたりする。
えらく寒かったり紅生姜天蕎麦しか食べていないこと以外は、平均的なニュアンス。もうちょい早く起きていれば、このぼんやりした感じもなかったのかなと、ちと生活態度を見直す姿勢をとる。
夜型というか夜行性というか、午前よりも午後深くなればなるほどパフォーマンスが上がる性質は加齢とともに逆になると思っていた。しかし実態はずっとそのままである。自分に適した生活でいたい。もちろん、健やかに。
_12/17
体と行動と心が一致していないような、すごく不思議な感覚の起きがけ。2時間くらいしたら元に戻る。原因は不明だが、ちょっと慄いた。
証明できないだけで不思議なことは多々あるよなと思いながら、スピリチュアルの書籍を読んだりする。「対象が人でなくても感謝を言葉に出すことの大切さ」におけるスピリチュアル観点に膝をピシャリとたたく。
なぜならば俺は、宅の楽器や機材やPC、植物たちなどに本気で話しかけているからである。
とはいえ、軽く「おつかれさまでした……!」「ありがとね〜」とかそれくらいの感じだが、その気持ちを言葉にすると、感謝は伝播するという。
いやあ、素敵な提唱じゃあないかと、普通にいつも通り各タスクを行う。原稿に追い込みをかける。案件準備をすすめてプリントアウトしたりする。よう続くなと思いながらnoteに投稿する。
今日は「発達障害」についての呼称がちょっと、他の言い方あるんじゃないかなという所感を、専門家との対話を元に書いて投稿した。
そして仕事を終えてメールをチェックをしていたら、その記事に、医師免許を持っておられる方からコメントがついていた。
「これは恐れ多い!」と、ちょっとびっくりしながらそのコメントを見ると、やはり「障害」という言い方は見直されてきているという見解が示され、具体的な各呼称もご教授いただいた。
嬉しいベースだが、一方で「なんか、もしかしてプロを怒らせてしまったか!?」という懸念もちょっとあった(決して辛辣な筆致のコメントではない、ご丁寧なものを頂いた)なか、そのコメントに対する率直な感想をお返事した。
するとしばらくして、俺のコメントの返信に対して、その方から「いいね」的なアクションがあった。
「ああ、よかった。建設的なやつだこれ」と思い、その方に対して感謝の気持ちを抱いた。
やっぱり大なり小なり、率直なことを発信するというのはそういうことなんだなと、前向きに捉える。
体と行動と心を一致させるためには、自分らしくいることが第一で、そして、あらゆるかたちで表現し、さまざまな他者様と触れることなのかなと思った。
基本的なことかもしれないが、ふとしたことで改めて実感することもある。44年人間をやっていてもまだ、いくらでも出てくる。それがとても、面白い。
_12/18
もうこれ以上クオリティを高められん、というくらい原稿に追い込みをかけて提出。編集部の村上氏から「概ねよし」の判断を賜る。記事を書くって、ありがたい仕事だなと改めて思うと同時に、きちんとその旨も口頭で伝える。
日中、やけに体調がよく、小休止の仮眠をとらなくともいける昨今。やはり「コエンザイムQ10」摂取の効果は否定できないところまできた。
決してプラセボ効果ではないと断じれる確かな効果。いや、それだけ手前は歳を重ねているのであるというこのアンビバレンス。もう、一周して俺には美しい観念に映る。
ちょっと何を言いたいのかよくわからないがつまり、今日も様々な人たちと関わり、健やかに暮らせ、幸せそのものであったという帰結。ゆるぎない、感謝の気持ち。これ大事。俺はそっと、大事にしているのである。
_12/19
ライター案件でリモート取材をする。これが対面でのインタビューとは感覚がかなり異なる。何故ならば、会話以外の「非言語コミュニケーション」がまるっと無いわけだからである。
その比率は一説によると「7:93」。つまり、対話におけるコミュニケーションにおいては、表情やリアクションなどの非言語コミュニケーションの割合の方が圧倒的に多いらしい。
実際に会って対話することの重要性を如実に物語るが、実際のところはちとおおげさな数値かなという雑感。
とはいえ、初対面の方ではないのでリモートでもスムーズにできたかな、というのがこちら側の感覚。
そのへんも、現に対面しているとその場の空気感込みできちんと掴めるのだが、言語のみの場合はやはり「どうだったかな……」という感覚が残るが、相互「よかった」という取材であったらいいなと思う。
すぐに原稿に着手する。しばらくして休憩しようと、YouTubeのおすすめで謎に浮上してきた『オーラの泉』を観まくる。本当に面白い番組だったなと、2000年代後半を回顧する。
今日あたりはこの時点でなんだかエネルギーの消耗を如実に感じたので、ソファに沈む。流しっぱなしにしていたYouTubeからラファエルさんの「頼むでおい!」という声が聞こえ、起きる。
楽曲制作をする。バッキングメインパートと基礎ビートだけ録音した青写真にメロディパートである口笛を生録音する。
「口笛むつかしいな!」と思いつつ、SHURE 57のダイナミックマイクの角度をこっちか、こっちかと、「ボフッ」というポップノイズ回避に試行錯誤する。
宅ではボーカル系レコーディングはあまりしないため手元には無い「ポップガード」をさっさと買うべきである。
なんとか録音できて、全体像がみえたので今日のところはDAWを閉じる。今日はほぼ一日仕事部屋で過ごすも生産性があったという穏やかな1日の着地。
_12/20
スピリチュアル本をひとつ読み終えて、とどのつまり感謝の気持ちが大切だということを知った。ああシンプルだなという思考のまとまり。
その本と同時に買ったやつを読み出す。愛についての書籍である。俺は今年の誕生日に抱負をあげたことを思い出す。それは「愛の課題」に取り組むことである。
内実、なにひとつやっていない。あからさまに「課題」をサボっておる。いかんと思ったその自責の念が、「愛について」の本購入の能動だったのであろう。本から入るのがすでに間違っている気がするが。
数ページだけ今日読み、すぐにわかった。「これは哲学書ではないか」と。
本末転倒、とまではいかないがこう、慈愛に満ちたセンテンスで構成され、美輪明宏さんに「ヴォホホ……(ニコ)」と、諭されるようなことを期待していた俺は「ああ!」と思った。別にそれはそれでいいのだが。
なんかもう、ちかごろは最初の段階でわかるようになってきた。タイトルはポップでも、ちょっと読むと「――参照について」「――引用における」などという注釈が冒頭付近にあり、本編最初の1ページに「前提として――」という風に書いてあるやつはもう俺の中では哲学書確定である。
そういうのわからなくとも、好きだから進んで読むが、「ああ! また哲学だ――」という思いがどこかでうねる。それはそれでいいのだが。
手前は自覚はないが、哲学だいすきだったんだな〜くらいやんわり捉えることにした。
「前提」「文脈」「思索」「帰結」このへんの単語が散見するのはもう哲学書あるある。日常会話ではあんま使わない。使ってる人の喋りを受けると「ああ、この人いっぱい本読んでるんだな〜」とか察する。
しかし、そういうあまり利便的ではなさげな感性が身につくのもまあいいじゃないかと善処する。
哲学、つまり考え抜く学問がいつも懐にあると、それはそれで思考プロセスがいくつも交差して繋がって、なにかとやりやすいじゃないかとこれまた前向きに捉える。
だが、「固っ苦しくて理屈っぽくてな〜んか嫌味ったらしい野郎だな」と思われるのは心外というか人間関係における楽しさみたいのが削られる気がするので、人前ではあんま「文脈」とか言わないようにしようと思う。
とはいえ「文脈」とか「前提」って、言葉の文字数をスリムにして伝える面についてはひじょうに効果的なんだけどなという葛藤もある。
ばか。「流れで――」とか「前置きがさ――」と、言い換えればいいだけではないかと今気づく。そう。言い方。言い方ひとつで柔軟になれるさというところに“帰結”する。
いや、やはり便利な単語が多い。哲学書あるあるフレーズ。「帰結」じゃなくて「おちつく」って言えばいいだけじゃないか。ばか。
_12/21
名前は「ケンジ」。 野球少年であり、生年月日は7月21日。いつも、どんな場面でも、自分自身の“立ち位置”を殺して、良かれと思い場に適した「役」を演じる傾向がずっとある。自己紹介である。俺である。
全く同じ傾向の、ある人物がいる。
名前は「ケンジ」。 野球少年であり、生年月日は7月21日。いつも、どんな場面でも、自分自身の“立ち位置”を殺して、良かれと思い場に適した「役」を演じる傾向がずっとある。冒頭と一緒だが、自身ではなく他者。
その人物の芸名は、はるな愛さん。
へええと思い、YouTubeにアップロードされていた2000年代後半にTV放映された記録をさっき観た。
シンプルに「はるな愛さんかわいいな」と思った。だが、その奥底にある、あらゆる面があるということが番組内で紐解かれていた。
人気タレント(現在では別の分野でも活躍)のはるな愛さんと俺は比較にならない。しかし、一致している点が多すぎて眼の角度が直線になった。
それらのことに関して全て書くほどのスタミナが今はないので――昨日今日と過活動だった――ぜんぶ略。書いても別に“俺が”面白がらない。
ひとつ肚に刺さったのは、「“立ち位置”を殺して」というセクション。俺は、現在も過去も、未来はわからないが、とにかくその観念が一致した。
仕事で原稿を書く。「本当はこうは書かない」ということは当たり前。眠いので、別の要素もそうであるという例はぜんぶ略。
じゃあ、殺していないところは何かなと思った。ここだけだった。
_12/22
タモリさんから理不尽な罵倒を受けるという奇妙な夢をみて起きる。きっと疲れているのだなと、 家事をして日高屋にごはんを食べに行く。とうとう800円を超えたニラレバ定食はとてもおいしかった。
宅で真面目に原稿を書く。新しい案件を受注したので格納庫にコンテンツを保存する。まだ続くなと、noteに記事を投稿する。
楽曲制作でベースを生録音する。フェンダー・ローズの音色のパートをスケッチする。あっという間に日が閉じた。
20代あたりから毎年思うが、聖なる夜の時期はメランコリックな気分になる。律儀にやってくるそういう周期なのかと怪訝になるほど、そうなる。なにか明確な原因があると個人的には思うのだが実態は知らない。
そういったわけで、明日明後日のクリスマスシーズンは静かに過ごそうと思う。それが、手前にとっては最も健やかな営み。
「パァァァン! イエア!」とスパークリングワインを開け、友などと騒ぐのも好きだが、実情は一人で過ごすのが心地よかったりする。宇宙規模のなんらかの分岐点と考察する、クリスマス。
_12/23
東京藝術大学へ行く。前提として俺は大学出ではないが、なんとなくここのところあった「芸大の雰囲気だけでも楽しみたい」という思いが、昼イチで上野駅へ足を運ばせた。
国立西洋美術館では「モネ」の催しをやっているようだったがスルー。動物たちの営みを眺めようという恣意的な感覚が走るもスルー。最短ルートで芸大に向かう。
なんとなく、この時期のこの界隈の「アート」を感じたかったのだろうか。行ってみたら生徒さんたちはほぼおらず、冬休みとみなす。あらゆる舎を見て回る。
学生さんの作品が販売されているブースがあった。どれも手作り一点ものらしい。わりと強気な価格設定に、アートとビジネスの交差点の初期衝動を感ずる。
いくつかに分かれている校舎をさらにまわる。芸術作品や歴代の先生方の銅像を散見。「ここが一流の芸大か」と、それくらいの感想を抱き、通りをまたぐと「東京藝術大学」と圧のあるフォントで記された、たぶん本館的なエリアに着く。
「関係者以外立入禁止」という看板が、絶対に見逃せない位置に立っていた。だが視界に入らなかったことにして立ち入る。こういうのよくない。
一通り、建物やその雰囲気を感じるも、特筆した刺激があったかというと別にかなという雑感。とはいえ散歩としていいなとは思った。東京藝術大学という場所からアートの空気感を確かに感じた。
だが、ふとした小道で目に止まった、どれも同様の形状をした落ち葉がランダムに散りばめられている自然の景色にこそ、最たるアートな感覚を得た。
その界隈では、聖なる夜の要素は皆無と言っていいほどだった。それはそれで、心地よかった。
アメ横で「マムシグロン」というドリンクを買って飲み一服する。駅正面のマルイだかなんかで服を一着買う。とてもクールなデザインなのでわりとひょいと買う。¥12,100。なんか本当に今年は物を買いすぎなきらいがあるが、人生においてのそういう時期であるということにしておく。
帰って原稿を推敲する。昨日頂いた案件の原稿も書き進める。楽曲制作をする。各パートが出揃った感覚があり、あとは音像調整。
俺に子供や家族がいたら、プレゼント剪定に1日を費やしたであろう。だが実態は、思いつきで出かけたり葉っぱに感動したり普通に仕事をしていた日。
特別な日を普通に過ごす。それはそれでどうだろうと思えど、マムシのやつ飲んでも至って冷静な、聖なる夜。
_12/24
今日はあれだな、まずはメリークリスマスだなと、世間と肩を並べることにする。サンタ帽を被ってどうとかチキンを嚙るとか、それでは生ぬるい。俺らしくない。そう思い、近所のガチのカトリック教会へ。
聖なる日に“らしさ”とか要らねえなと思いつつ神聖な気持ちで構内へ。
信者以外が入っていいかどうかというと、確かダメではなかった気がする。ダメでも入ってしまうような、この不法侵入癖はどうにかならんかと思う。何者かに迷惑をかけていない限りは不問であってほしい。というかよくない。
入ると、まず係の方がいた。「信者ですか、どうですか」といったくだりはなかった。つまり入っていいのである。
昼だったが大勢の方々がいた。外国人の比率が高く、日本人は4割程度といったところ。シンメトリーな造形の美麗な構内。講壇に向かう人々約60人は、賛歌を唄っていた。
とても美しいサウンドだった。厳かな合唱にサブ・ベースの低音域から煌びやかな高音域まで網羅して奏でられるオルガンの音色。そう、そこは聖なる日のライブ空間そのものであった。
音楽制作分野において、“church=教会”という、教会内の響きを模したリバーブエフェクトがある。そのリアルバージョンの荘重な残響音も全身で受け、こう、スンと真面目な気持ちになった。
こういった集いでなくとも、俺はたまにこの教会に入ってぼーっとしたり座って本を読んだりすることがある。
理由はわからないが、いるだけでとても心地よいのである。疑いなどの類の感情が溜まらない、良い「気」だかなんだかに纏われている感覚をいつもおぼえる。前世でなんかあったのかもしれない。
その居心地の良さの究極が、今日の集いだろうか。普段とは異なり、大勢が唄い、経典などが読まれてはお決まりのフレーズが復唱され、また唄う。その繰り返しであった。
確かに、その場にいる全ての要素がひとつとなっているフィーリングを得た。そこにいる時間は、俺が俺であるが、みんなと一緒であり、俺にこだわる必要はない。信頼し合っている。穏やかで安心だ。そんな感想である。
数十分したら飽きたので退出。あとは普段通りに過ごす。
仲間とさわいで楽しむシーンもある。家族とほほえましく時間を共にする家庭もある。恋人とここぞとばかりにセックスしまくる若人もいるだろうか。教会で祈る人もいる。クリスマスという観念自体を無視する者もいる。
どれが正しく、どれが誤りであるなど、そういうのは不要であり、ただイエスという感情が飛散したり、集まったり、留まったり、昇ったりする日。
俺はそれらの交差点で、ただ眺めたり、畏怖したり、笑ったり、深い念を出したりと、そういう過ごし方が肌に合う。人それぞれの聖なる日。
_12/25
スーパーで昨日の売れ残りのかわいそうなチキンを狙う。しかしそもそも陳列されていなかったので「食い尽くされ駆逐されたのだな」と、需要と供給のバランスに安堵する。
正直、現場ではそんなこと一ミリも思っていなかったがいま、ふとそう思った。
今日あたりもずっと文字を書き続けて暮らす。死んだ後に神的な何らかに「お前は今世でなにをしていた?」と問われれば、「はあ、なんか文字ばっか書いておりました」と答え、「そうか。ゆけ……!」と言われそうな、そんなイメージが頭をよぎる。
昨夜はとんでもない悪夢を数個みて慄いたが現実は平和そのもの。実にほっこりと日が暮れた。やりたいこといっぱいあるのに時間が足りないなと、最近声に出す寸前までいく。
いやそれはタイパへたっぴなだけだろうと、人間は時間(の経過)だけは完全に平等だろうと手前の思考を批判する。そう、もっと効率よく質を落とさずに生きようと。
そのためにはどうすればいいか。それについてずっと考えて答えを出して実行してまた考える。つまり、仕事においてのムーブの基本と一緒であると気がつく。
ううむと唸り、ふと、いつのまにかラベルがリニューアルされていた「トリス・ハイボール」の缶をみつめる。
味は以前のデザインのものと変化は感じない。ではなぜ、何のためにリニューアルしたのか。
「売れ行きが伸び悩んだので見た目を変えてみた」
「近年のデザインセンスとの乖離に気がついた」
「上層部より『なんらかの変化を』と言われたので面倒くせえから見た目だけ変えてみた」
「『トリス部』みたな部署がヒマすぎて『仕事してますぜ』感を出すため、本質的要素なしに、ただ変えただけ」
「生産コストを削減させるために成分を変化させたが、それに気づかれることを懸念し、対応策としてデザインをブラッシュアップした」
5つの憶測がある。最後のやつが有力である。根拠はある。
煙草の「アメリカン・スピリット」がこの手法をとった――所感含みの憶測――ことは、2000年代に販売されていたアメスピを吸った人にはわかるその変化が如実だからである。
当時のアメスピは、1本吸いきるまで10分弱(スタンダードなタバコは5分程度)、「火をつけてしばらく吸わないと火が消えてしまう」というほどのボリューミーな葉っぱの量だった。
しかし近年のアメスピはというと――製造するサンタフェナチュラルタバコ社やJTのディスにもなりうるので詳細は控える――当時のとは違う。
とはいえ、消費者が「気づかない」のであればそれは「工夫」と呼んでもいいんじゃないかなと最近は考えるようにしている。
現に、いま手元にある「トリス・ハイボール」に文句はない。現行のアメスピも、たま〜に吸っては「うまい」と思える。
結論。トリスのラベルチェンジは時代の流れに沿った変化。適応。それだけのこと。俺もそのようにして生きていきたい。そういうことをいちいち考えずに呑んだ方がおいしい。お酒とかは。
_12/26