04/2021

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
クタクタジャガーは5万円もする。4月


数日前から設定していた休日。精神状態はニートに設定。ぬるりと過ごす。とはいえ世間は新たなスタートとなる4月第一日。 春という季節感と温度も交差すると無駄にワクワク奮起しがち。

「せっかく時間があるから」という理由で前のめりに真面目なことをする日ではない。そういったコンセプトではない。前のめりはここ3、4日くらいでだいぶやった。そういったわけでまったり暮らそうと思い、かつての同僚が集う日でもあったので都内某所に顔を出す。

「お、来やがったな自営業が」という職業差別的なご挨拶を受けるもそこはご愛嬌と判断。「はあ、どうも案件が少ない昨今でしてな」と、自虐気味に返すと失笑される。

かつての同僚というものは、心のどこかで「この野郎は独立したが、失敗しやがれ」というネガティブな心持ちがあるのではという猜疑心はなくもない。

大口叩いて組織からぴょんと飛び出て、ものの見事に失敗するか、わりと安定を勝ち取るか、思いのほか成功するか、手前でちびるくらい化けるか。2年前の決断はそういったギャンブル的行為でもあるので、まだ「勝負中」という感じであろう。そんな中ひやかされるのは悪い気はしない。数日ぶりに生で人間と対面して明るくゆるい時間を共有する。

完全にニートモードなのだが、どこか仕事に対しての考えが捨てきれず、そこ場にいる全員に「好きな音楽は?」と、リアルな情報を収集した。

「aikoだな」

「King Gnuかな」

「ディープ・パープルですね。リッチー・ブラックモアがどうこう……」

「アニソンすね」

「Adoとかですかね」

20〜50代の各世代のみなさまの意見は多種多様。わりとマニアックなものは出てこなかった。

「逆に、嫌いな音楽は?」と聞く。すると。

「応援されるようなやつはあんま。『頑張って』的なやつ」

「背中を押してくる系の?」

「そう。それ。『お前が頑張れよ』って思っちゃうかも」

「人様に対して『頑張れ』って、ある種失礼だよな」

「深い解釈ですね」

という感じであった。意外や意外、ポジティブソングは不人気であった。これはちょっとした取材になってよかったなと思っていたら、「それで、平吉さんはどんな音楽が好きなの?」と聞かれ、真面目に考えると困った。

大真面目に「レディオヘッドです」と答えると、今のみなさんの回答を聞く限り、そのバンド自体を知らない可能性がちょっとあるので高確率ですべる。「ジャズやクラシックです」と、背伸びをするとボロが出る。「色々ありすぎて答えられない」と、正直に言うとなんとつまらん奴だという空気になる。

だから、「普通に、ビートルズとか好きっすね」と答える。当然「ふーん」というリアクションしか返ってこない。「好きな異性のタイプは?」と聞かれて「優しい人です」と答えるくらい無難な回答をした手前は今日どうかしていた。実際ビートルズは大好きだが、もっとこう、機知に富んだ返しがあろうもと猛省。

そういった最中、スマホで案件を受注。よしと思い、頃合いを見て帰宅し楽器などをいじっていると入電。話の流れでもう数件の受注と見込み。光明。頑張ろうと言う気持ちになる。

俺も、「頑張って」的なアプローチはあまり好まない。なぜなら、その人なりのキャパシティやスタイルがあり、「頑張って」というフレーズはそこに対して干渉しかねないからである。だから、エールを送りたい時は別の言葉を使う。

「いけると思うよ?」とか、そんな感じだろうか。意味は「頑張ってね」と一緒の心情所以なのだが、「頑張ってね」だと、「やる・やってくれ」という意味が含まれ、「やること」が前提となる。だから、相手にとっては心に負担がかかるフレーズである気がちょっとする。

一方、「あなたなら可能かと」とか「君ならたぶんできるよ!」や「お前はそれ、いけると思うよ?」だと、単に個人の感想が基軸と捉えられ、さらに「やるかどうか」の選択肢はもちろん完全に相手が握る。フワッと相手を奮起させるフィーリングと言えようか。

そうなると「頑張ってね」と言いづらいのかという結論に陥りがちだが、そんなこともないと思う。明らかに「やってんな。こいつ」という熱気バキバキの人には「頑張れよ!」という言葉が燃料となるであろう。とりあえず、手前自身に向けては、頑張れよと言いたい。

いつの日か、「お、来やがったな自営業が」ではなく、「久しぶりですね、社長!」と、言わせたい欲はなくもない。こういう時、誰かに「平吉なら可能だと思うよ?」とか言われるとかなり嬉しかったりする。ほんのちょっとの言葉選びの差で人間の精神状態は激変する場合もある。日本語はとても難しい。
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ネズミがくるくる回る器具でひたすら走る様子。例えるならそんなムーブが近いかなという感じで1日宅で過ごす。

原稿を書いたり採譜をしたり楽器の練習、そして制作と。気がつけば26時である。もう治らない。宵っ張りは治る気がしない。何故、俺は赴く用や指定時間のある案件がない日は高確率で昼過ぎから活動するのか。そのぶん深夜までくるくる回ってるからいいのだが。

早朝の、絶望感と爽快感が混じり合って希死念慮すらじわりと湧きがちなあの感覚。そこに向かって明日あたりは早起きしてくるくる回ろうかと思う。
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絶望感と爽快感で言うところの絶望感の方であった。くるくる回るどころか1回転もしたくないくらい覇気の無い1日のスタート。俺は何度となく、連呼の如く確か書いている。春という季節はやばいと。ちなみに次にやばいのは年末年始。

簡単に言うと、これらの時期は国内においての自殺件数が統計上多い。要するに精神衛生上気をつけたほうがいいシーズン。

そんなシーズンの真っ只中、昨日と明日は父親と兄貴それぞれの誕生日。共に祝ってやりたい情念はあるが、なんというか父親はコロナ的に面会謝絶に、兄貴は接触拒否という、物理的にも相手の心情的にも叶わないのが切ないような気がするが、実は相当どうでもいい。

覇気が無いなりに頑張ってはみたものの、興行曲目の練習を数時間してめしをくったあたりでソファに吸われた。

体は別に不調ではないが、こう、「覇気が無い」以外の表現が難しい。ロールプレイング・ゲームで言うところの、「HP」はあるが「MP」が0か1くらい、そういった感じだろうか。「ホイミ」すら唱えられん。

今日はあと原稿をやって制作をするという予定だった。共に、今日中にやりおおさなかった暁には誰かがおかんむり、という感じではない。しかし、やらんと手前が気持ち悪い。原稿はやった。あとは明日精査して提出、という段階までいったのでよしとした。なにしろ締め切りにはまだ3日もある。

制作は、ペースを落としたくない。ストック収益の波を下げたくない。しかし、よく考えると調子が優れない日に無理に頑張ってクソみたいなトラックを録音しても無駄である。クオリティはどうしても落としたくない。だから今日は制作はお休みにするのが賢明だろうと判断した。

「休むべきか頑張るべきか」というラインは非常に難しい。誰かがそばにいれば、その人たちに判断してもらうのが恐らく適切。「顔色が悪いですよ? なんか声のトーンも。今日は休んだほうが……」「ですよね。じゃあ」となる。

しかし一人の場合はどうするべきか。俺は体調や気分が実に表情や態度に出る方だと、25年来の友人によく言われるので、とりあえず鏡を見てみた。客観視すると、右目と左目の大きさのバランスがいつもよりおかしかった。右目が人殺しのような眼つきであった。

人相学では、左右の目の右目と左目の大きさの違いが表す人間性は、男性の場合だと「二つの異なる性格を示す」と言われている。他にも色々あるが。

二面性というやつはある種、誰しもあるものと思われるが、手前の場合の二面性の「陰」の方は時にたいへんタチがよろしくない。今日あたりはそっちがかなり優位に立っているのかもしれない。だとしたら「陰」が暴走する前に休むべきであろうか。

とはいえ、練習はできたし原稿も90%は書けたので全然よしとする。人間の「陰」の部分は危険も伴うが、時にクリエイティビティの秀逸な原料ともなるという持論がある。

しかし今日あたりは只やる気をもってかれるだけであった。今日は早めに寝てバランスをとろう。夢の記憶も残らないくらい熟睡しよう。
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昨日の不調はなんだったのかというくらいの通常運転。やる予定は全て淀みなく進む。

何か特筆して普段と異なることがあったかというと、普段は年に1度も食べないコンビニ弁当に手を出したくらいである。ジェノベーゼのパスタ弁当を温めてもらって食うと思いの外美味くて、これは馬鹿にできなと、なぜ敬遠していたのかと改めて思う。

そういった感じでたいへん地味ながらものどかな1日。
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機材を持ち出して移動する日は絶対に雨に降られたくない 。だがしかし圧倒的降雨。3つの機材をガラガラと牽き、傘もさせずにうすら濡れ、都内のスタジオに着く。今日は興行のリハーサル。

「傘をささない派なんですね。濡れますやん」

と、関西弁で挨拶され、「させないのです。この場合は」と、返す。ギター2丁とでかいエフェクターボードを連れ回すと物理的に傘をさすのは困難。そう説明しつつメンバーのみなさんと会うとほっこりした心境になる。

集合したところで、一同真剣に張り切る。帰りはみなさんでステーキを食らってから帰る。痩せ細った華奢な身体ではあるが、うまいステーキとなると450グラムくらいペロリである。

なんとも深い話をしながら足立くんに車で宅まで送ってもらい、夜は原稿を少しやる。予定の進捗までいったというポイントで一呼吸おくと、退屈という感情に属するであろう感覚にみまわれる。今日はもうやる予定のことはやったので後はなんでもありである。

だから、うっすらと何かを求めるようなこの感情は何であろうかと考えた。「退屈」「つまらん」「手持ち無沙汰」という表現がはまるのだが、もう一押し欲しい。

人によっては、ほとんどの人は、例えば呑み会の帰りや、集団で遊んだ帰路、あるいは恋人とのデートの別れ際で、寂しさを感じるという。

しかし手前はというと、このフィーリングが、思い返せば幼少の頃からほとんどなかった気がする。

そのはずだったが今日は異なり、さっきまで気のおける人達とわいわいやっていたのに急に独りになった気分になり、変に侘しくなった。

「侘しい」だと、何か和風に格好つけすぎなきらいがある。じゃあやはり「寂しい」のだろうかと思い、その感情の定義とは、と思った。

それは、「退屈+相手(主に人)を欲する」というものと断定した。退屈、つまらん、と思うことはたまにあるが、そういう時に人を誘ったり電話したりLINEで誰かに絡んだり、そういった類のことはしない。

だが、さっきはそんな心情だった。そこで、手前に不足していて、かつ必要な感情こそ、その寂しさなのではないかと、一般的には人生の折り返しとも言えようこの歳にして気がついた。

だとしたら、しめたものである。寂しかったら人を求める。求愛だってするだろう。恋人探しや婚活もするかもしれん。マッチング・アプリをインストールするまである。

人間の社会生活、日常生活は、誰かが一緒に居たほうが豊かで楽しいであろう。おそらく、だんだんそこに本気で気づき始めている感覚こそあるが、数日すると根本から忘れるのは明白。「一時的な感情」という脳内フォルダ行きとなり、きっと精神まで根付かないだろう。

だからちゃんとログを残しておこうと思った。今日は仲間と別れた後、なんか寂しかったと。
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とはいえ一人で過ごすのは性に合っているなと思いつつ、宅で1日作業して過ごす。急に寒くなるあたり、やはり春は油断できない。

曲目の練習をして、みっちり原稿を書いて、あれと思い返すとまためしを飛ばす。これはもはや俺は1日1食が性に合っているのかとも思うがやはり胃腸から抗議の音が鳴る。「スカスカです。グウ」と。

過度の空腹のまま就寝すると眠りが浅くなり、またわけのわからん悪夢にうなされそうなので何かしらちょっと食って酒でふやかしてからベッドに行こうと思う。ハンペンとかでいいか。

いつもはそのままスライスして食うが、たまには茹でて食おうか。しかし、ハンペンを茹でると2倍くらいに膨れ上がり、その水死体を彷彿とさせ様たるや、俺にはダイレクトに「グロテスク」としか感じないので生で食おう。わさび醤油。
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洗濯物など秒で乾くであろう好天候。興行リハーサルで都内某所へ。駅で掘氏とはちあい、「着けてきましたね?」と問うと、「なんなら電車の中から見てました」と挨拶をする。

現地へ一緒に向かい、めしやコーヒーをやりながら開始時間までロビーで憩う。「そういえば配信はやりましたか?」と問われたので、「はいしん?」と、あたかも知らんフレーズのように振る舞うと、Twitterと連動している配信プラットフォームでの配信のやりかたを教えてくれる。

1カ月くらい前から「俺は配信という世界に興味があります。やりたいのです」と言いつつも、いつまで経ってもやらんというやるやる詐欺の最中だったのである。

リハーサルを終え、ロビーで再び配信用のアプリをペロペロし、「結局どうやれば始められるのですか?」と問う。すると「その『配信ボタン』を押すんすよ。とりあえず押してみましょうか?」と、エスコートされる。

他のメンバーさんからも「平吉さん、とりあえず押してみましょうか?」と、ニヤニヤされる。そう、何事も「とりあえずやってみる」ということは大切であろう。俺の人生のコンセプトにもある。「興味があることはあれこれ考えるよりとりあえずやれ」という箇条が。

スタートボタン的なものをタップしたら本当に始まったので数分あたふたする。すると数名閲覧してくださっていることを画面で認識する。これは実感がある。そう思い、なんやかんやと2分ほどやっていたらスマートフォンがブラックアウト。電池切れ強制終了という事故により初回配信はただちに終わった。

これはアホすぎると思ったが、「とりあえずやってみたからまたやってみよう」というポジティブな感情が芽生えた。背中を強打気味に押してくれたメンバー方に感謝すべきである。これが手前の部屋だったら、「いや、まだテーマが…コンセプトが……」とか延々と言いくさりながらボタンを押す行為にすら至らなかったであろう。

とはいえ、そこまで構えるようなものではなく、気軽なノリだとみなさんは言う。気軽に「配信」というものを楽しみ、みなさんに楽しんで頂けたらとてもハッピーだなと思う。しかし、本流的なコンセプトは欲しいところ。気軽に考えよう。なにぶん、新たなことを始めるというのは精神衛生上よろしいかと思われる。
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宅でいくつかやることがあり、それなりにといった1日。夜飯は牛丼店できちんと多めに食べ、コンビニで立ち読みをする。読んだ本はパチスロの「裏モノ」と呼ばれる台がテーマの内容だった。面白くも懐かしい。

パチスロはもう10年くらい打っていないが、ハマっていた頃は「お前は他にやることがないのか」というくらい打っていた気がする。あの感心しない類の熱意はどこへ行ったのだろう。

当時、その「裏モノ」と呼ばれる台を俺も打ったことがある。「裏モノ」とは、要は台の基盤などを違法に改造してギャンブル性を強かにブーストしたヤクザな台。

それを設置するとなるとほぼ犯罪だが、当時はグレーというかあまり摘発されなかった。1990年代というわりとアウト寄りのセーフがまかり通った香ばしい時代。

そんな時期に触れた「裏モノ」に、ほとんど良い思い出はないのだが、今日立ち読んだ漫画では、そいつを攻略して荒稼ぎするという実話に基づいた内容。

10代後半の頃は、そういった行為に対して全くもって罪悪感などはなかった。むしろ燃えたものである。しかし、現在の年齢になると、「それはいかがなものか」というつまらない思考がはたらく。むしろ正常とも言えるが。

他人がそれをやることに関しては、全くもって責める心境は生まれない。そういう生き方も全然アリだと思うからである。しかし、手前がやるとなると、「今のスタンスと異なる」といった判断でその行為に至らない。

いつの日からか、手前の信条として「隠し事はなるべくしない」というものが出てきた。他人に言えないようなことはしない、手前で恥じていると思うことはしない、というものである。

理由は、人に言えないようなことを内に持ち続けていると、結果的に高確率でロクでもないことになることを過去にいくつも体現し、もう懲りたからである。

パチスロ台の特性の隙を突き、連日勝利ができる方法を知り、打ち、「これは食える」とか思いながら何の疑問も抱かずにいた頃。その行為自体と、類似するグレーなことを全くしなくなった現在。

クローズからオープンへとコンセプトを変えたところ、ありとあらゆる部分が変化した。環境、仕事、付き合う人間、日々の行為、顔つきなど、ほとんどのことに変化を及ぼした。

「開示できないこと」を抱えていると、そのぶんだけ人間は往々にして苦しむ傾向がある。それに気づいたのは、ギャンブルに死ぬほど浸かっていた経験が大きいのは間違いない。よく死ななかったものである。

とはいえ、「裏モノ」の漫画を立ち読みしていたら打ちたくなってくるのが元リアルカイジの性。狂ったようにボーナスが非合法クラスで連荘するあの黒い快感は脳裏に焼き付き、一生取れることはない。

日本のギャンブル依存症の人口は100万人前後いるという統計がある。しかし、俺は、全然もっといると思う。

ギャンブル依存症(ギャンブル障害)は「病気」と捉えられている。「DSM-5」という、米国精神医学会の精神疾患の診断と統計マニュアルにも診断基準が記されている。

しかし、個人的には、病気というか、もっとタチの悪い、「後天性の性癖」という気がしてならない。だからとにかくしぶとい。
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1日宅で作業してのたうちまわる。というほど忙しいわけでもないが、気がつけば深夜という時間の流れ。変わったことはというと、特にない。数日前のようにコンビニのパスタ弁当を食ったことくらいである。

経済的ではなく、体にいいかといったらそうでもなさそうなコンビニパスタだが、意外と美味いと知ると反芻する。

なにか突出したことがあったかと回顧するとコンビニ弁当くらいだった、というほど地味かつ真面目に過ごしたあっという間の春中盤。近所の桜はというと、ほぼ散った。
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夜、1時間ほど用事があるので外出する。階段を降りて3メートルくらいだろうか、道端に茶色い紙が落ちているのを目視。

よくよくみるとそれは一万円札であった。「マジかあ」と2回ほど声を漏らしつつ当然拾い、一万円札を掲げて透かしを確認すると諭吉の真顔が浮かび上がる。

しかし俺はハッとし、「どうせ近所のユーチューバーの仕業だ。一般通行人を巻き込んだドッキリだ」と思い、辺りを見回すが居らず。居たとしたら、透かしを確認していたあたりのムーブで撮れ高バッチリだったろうに。

「あ、革ジャンの男性が食いつきました!」

「いやあ! もちろん即拾いましたねえ! 早っ!」

「見てください! 透かしを確認してますわ! プークス!」

という感じではなかったもよう。俺はただ、神に試されているのか僥倖なのか、出かけて数秒で「裸の現金」を拾ったのである。

すぐに頭をよぎったのは「タバコが20箱は買えるな。しっかりした定食が10回は食えるな」という動物的な能動所以の実にあさましい思考だった。

しかし、2つ折りの状態で落ちていた一万円札のすぐそばに、銀行ATMの明細書もあった。見てみると、その残高たるや10万と一千円なんぼ。ほぼ確で落とし主はATMで金を下ろし、その明細書と現金を落としてしまったと思われる。

ここでようやく理性がはたらいた。「全財産10万円ちょいの奴が一万円落とした。それは筆舌に尽くし難いやらかしであろう」と。

俺は数カ月前、財布を落として現金をモロに抜かれた時に、「俺は財布を拾っても無傷で届ける。しかし、『裸の現金』の場合はその限りではない」的なことを書いた気がする。

しかし、現実として裸で一万円札を拾うと様々な考えが浮かんだ。「ラッキーだ」「色んなものが買えるぜ」「落とした人は哀れだ」「残高10万ちょいか。この一万円紛失は痛かろう」などなど。

だがどう考えても、落とし主特定不可能な「裸の現金」を拾ったら迷わずポッケにないないする。これが正解である。

「拾った金で喜ぶか。貧しき心よ」

「ちゃんと働いて稼いだ金とそうでない金」

「いい大人が。拾い食いと変わらんとは思わんか」

なぜか腐ったような正義心のようなものを孕んだクソみたいな優等生人格がネガティブな言葉をかけてくる。しかし、金に綺麗も汚いもない。ユダヤ人は昔からそう考えるらしい。俺もそう思う。

なんやかんやと想いが交差する中、決定打となる思考が出た。それは、俺の中核となる人格からの一言だった。「こんな、一万円を拾ったということなんぞで“ツキ”を使いたくない」というものである。共感してくれる人は少ないと思われる。

結果、近場の赤羽駅東口前交番へ行った。

「おまわりさん! お金拾いました!」

「おっ! 落とし主が現れなかったら3カ月後にもらえますよ!」

元気な公務員の第一声は、落とし主が現れない前提のものだった。『裸の現金』の場合は、そりゃそうだろうもと思った。

とりあえず書類に色々書いて、その権利を法的にゲットし、「見つかった場合は連絡を」的な希望欄にもチェックを入れた。なお、交番内は、俺も含めた全員から「この茶番的なやりとりはなんなんだ」という空気で充満していた。

万が一、落とし主が現れ連絡がきて「はあ、この度はありがとうございました」くらいの薄い反応だったら、今後は現金を拾ったらなんぼだろうが即ポッケ。

正直、3カ月後に一万円ゲットより、落とし主の元に戻ってほしい。全財産の約10%を落とした(憶測だが)となると絶望中もいいところだろうと、手前の老婆心がそういった心境にさせる。

今日のこの珍しい行為は、決して道徳心や正義心が源流ではないということを声を大にして言いたい。俺は「当たり前」的な正義感がどうも性に合わないからである。理由は、色々ある。

ただ俺は、一万円札一枚で自分の“ツキ”というか、王道の流れを澱ませたくなかっただけである。自分でも何を言っているのかよくわからない。
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興行案件の1日をフルに過ごす。現時刻は06:45。捉えようによっては過活動気味ではあったが、頭からケツまでとても楽しい日。

時系列的には、午前のいい頃合いに集合し、昼過ぎに公演、夕方にもう一公演、20時撤収。みなさまとハッピーに過ごす。メンバー同、そして何より観て頂いたみなさまへの感謝は禁じ得ないことこの上ない。とてもありがたい。

その後たるや、赤羽へ直行。宅に本日の「パラダイス・ロスト」という公演の演者全員が手前の宅に赴き、打ち上げと相成る。俺の仕事場で盛大に食うわ呑むわ喋るわのほっこり一時。

前回もそんな感じだったが、メンバー全員総勢5人がキュッと部屋でわちゃわちゃするのは初である。率直に、例えば孤独な老人目線で、なんとも賑やかな人たちが自宅でしっちゃかめっちゃかに過ごされ、えも言えぬ嬉しみを得た心情。

それにしても、特にギター2名&ベース陣は呑みすぎであった。キッチンに並ぶ酒の空き缶と瓶の乱雑さは、「酷すぎる」の一言で表現し尽くせるのだが、なにか、その光景が愛おしく思える。

俺は人様が来宅し、ひどく散らかした環境をその後に整理する行為がどこか愛おしい。「あいつら、こんな散らかしやがって。まったく……」という心境を表す一言とはなんだろうか。あったとしたらそれである。

「ここ、居心地いいですよね?」と、愛くるしい笑顔で放つメンバーの言葉はなんとも率直に嬉しかった。手前の最たるパーソナル・スペースを全肯定された心境である。

「君ら、よく居たなあ」と、そう言葉にしたのは午前何時であったろうか、スズメあたりがチュンチュンと活動を始める時刻。今日は楽しかったなと実感しつつ彼らを見送る。

とにかく、今日はメンバーのみなさんとよくお話をした。ネットの「配信」の援護をしてもらったり、やりかたなどもしっぽりと教えて頂いた。総じて、楽しくもとても短く感じるもめっぽう楽しかった良日。
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なんなら寝る前からわかっていたまあまあの二日酔い。今日は定期健診の日なのでいつものクリニックに赴く。

春という、メンタルがガタガタになりがちな季節にしては今日はロビーはガラガラだった。みんな健やかなのか、しかし油断していると知らんぞと、そのように赤の他人の心配をしつつじっと座って待つことたった5分。主治医に最近の手前のメンタル具合をレポートする。

「先生、ご報告がありまして。実は僕は14歳の頃に、いわゆるパニック発作らしきものを体験したことがあるのです」

「ほおぅ。どんな感じでしたか?」

「こう、端的に言いますと、幽体離脱して死にそうな感覚に襲われ、自分の体は自分のものではなくなったように感じ、動悸は激しく、ただただ強烈にテンパるといった感じです」

「なるほど」

「そしてその後は、その時ほどのインパクトの発作は起きていないのですが、『起きそうになる』という不安感にふいに襲われることがありまして」

「それは、『予期不安』という立派な症状ですね」

「(メンタルヘルスの知識として知ってはいたが)へええ、そうなのですね。それで、その感覚がここ数年は全くと言っていいほど表れなかったのですが、最近はたまにありまして」

「ではですね、頓服でちゃんと効くお薬を10錠出しておきますね」

俺はこの、主治医の問答無用で薬物を提示してくるあたりがとても好きである。なんというか、話が早い。

「先生、ちなみに僕のこの感じ、言い表すと何でしょうか?」

「パニック障害です」

「精神科医の先生にそうスッパリと断言されると逆にスッキリしますね」

「うん。平吉さんね、パニック障害というのは、長期間症状が表れなくても再び発作が起きるということは珍しくないんですよ」

「タチが悪いですな」

「そう、でもね、薬を飲めばまず治りますから大丈夫です。『起きそうだ』と感じたら飲んでください。20分くらいで効きますから。副作用としては眠気と倦怠感です。ちなみに、5年間症状が表れなかったけどまた起きた、という患者さんは現にいますよ」

「きっつ」

「けっこう多いんですよ……でも大丈夫ですから」

「そう断言されるだけでも安心しますね」

「あと、前に平吉さん言ってましたよね? 薬を持っているだけでも安心感があるって。これもそうですから大丈夫ですよ」

精神科医の「大丈夫です」というフレーズはなかなかパワーがある。ついでに聞いてみた。どういう時にパニック障害という病は引き起こされがちなのかと。先生は具体的に条件を出し、それらにいくつか当てはまれば発作は起こりうると仰った。

「精神的なストレスを抱えている場合」
「季節の変わり目」
「お酒をたくさん呑んだ時」
「睡眠不足」
「疲労困憊」

これらの5つだそうだ。意外と当たり前な感じかつ、基本的に注意が必要な条件でもあり、俺は改めて思った。メンタルヘルスがグラつく時は、当たり前のことのバランスが崩れていることが理由という、わりとシンプルな場合もあるのだと。

そして、定例の血液検査。採血大好きっ子な手前は待ってましたとばかりに女医にうすら細い腕を差し出した。

「聞いてくださいよ」

「はいはい。何でも聞きますよ」

この女医は以前、「血液型と性格と恋愛傾向の関連性」というテーマや、「採血好きは変態か否か」という話題、「キース・リチャーズの血液全とっかえ行為の是非」といった雑談などにもちゃんと付き合ってくれた傾聴のプロ。

だがしかし「お前はまた妙な話題を持ち込むんだろ?」という思考がマスク越しでもわかるくらいモロに表情に出ていた。呆れと蔑みと興味と少々の慈愛が混じった味わい深い目つき。しかし今日のテーマは場所に似つかわしいものである。

「パニック発作的なやつの前段階の症状が最近出がちなんです」

「あら、そうだったんですねえ」

「それでも日々なんやかんやと過ごしているのです」

「立派だと思いますよお」

「ですよね。メンヘラの鏡だとは思いませんか?」

「プークス。そんなこと言っていいのかしら」

「ちょ、手元が」

「あらごめんなさい。針抜きますね……痛かったですか?」

「痛みは問題ではないんです。血を抜くことが大事というか」

「うん、メンヘラの鏡ですね」

そういったわけで検診を終え、薬局に行き帰宅してめしをちゃんと食って制作。思った以上に捗り、 また一つ音源を完成させてプラットフォームへ申請。

それにしてもやはり春は、人間の精神をどうかさせてしまう最たる季節。そういったこともあり、メンタル管理の大切さを改めてリマインドした1日。
_04/12

 

 

 


今月半ば過ぎは暇なのではという空気感であったが、トトトと案件を頂き、そうでもないもようが見えてきた。その方がよい。

宅蕎麦をもっさり茹でて食い、昼イチから制作をする。ここのところゴリっとしたロックを作っていなかったので、シンプルにロックンロールを作ろうと、国内寄りのロックアレンジだが洋楽寄りのサウンド、というコンセプトを脳内に掲げつつストラトキャスターを振り回す。

すると2、3時間くらいで構成ができたので楽譜を書き、メモ的なギターを録音してドラムを打ち込み、ベースの本録音まで出来る。これは素晴らしいスピードだという満悦感。

7時間ほど作業をしていて疲労を実感し休憩。ネットをペロペロしていたら、よしおさんが21時からツイキャスを放つと告知。ちょうどいい休憩のひと時となるなと、じっくり観ようとそう思い、変なハムが挟んであるサンドウィッチを買ってきて食べながらPCで観る。ツイキャスの流れ的なものを学習する。

配信中に、彼が寸止めしていた話題。おとといの朝方の帰り道での出来事。正直、俺もここに書き記したいが、それは、さすがにやめておこうと思うくらいの内容なのである。

「個人のブログとはいえ、よく書けるな」という、様々な手前の黒歴史、一般的にはたいへんセンシティブと捉えられることもモザイク無しで綴ってきて早何年が経つだろうか。

なぜそのようなことを晒し続けるかというと、変にオブラートに包んだり隠したり嘘を交えると日記の意味がないからである。エフェクトは効かせるが。

それでも、おとといのその件に関しては、書かないでおこうと思う。というくらいショッキングなことであった。としか、書きようがない。

とりあえず、よい小休止になったなと思い、別件の案件の採譜を3つやる。今日はなかなか捗るな、昨日血液を抜いたのがよかったのか、微妙に短時間睡眠だったのが張りを生んだのか、色々考えられるが、制作に加えて計4曲の楽譜まで書くと、やっぱりくたびれてクタクタジャガーみたいになる。よいくたびれである。

なお、クタクタジャガーとは、今最も宅のソファに置いておきたいアイテムである。欲しいからメルカリで探したらまさかの5万円。
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「カベルネ・ソーヴィニヨン」というブドウの品種のワインを呑むとなぜか翌日腹をこわすことが多い。ではと思い、昨夜は「メルロー」という品種の安いワインを呑んでいたら美味くてボトルが開く。一人で1本は呑み過ぎである。

そういったわけで今日は微妙に二日酔いであったが、張り切って制作をする。手前の楽曲の制作の場合は、立ちながらブンブン頭などを振って弾いて録音したりする。理由は、ノリが出てグルーヴが増すからである。

しかし、今日のはギター録音の依頼案件につき、丁寧にやる必要がある。すなわちずっと座ってギターを録音していた。でかいネコ一匹分はあるであろうエレクトリックギターを腿に乗せて長時間作業する。これが意外とケツにくる。

とはいえ、1曲分の複数トラックが録音できたのでよしとする。なんだか今日もワインを呑み散らかしたいが連日は贅沢というもの。安い缶酒2本で手打ちとしよう。なかなか「呑まない」という選択に至らないのはいよいよかもしれんが、まだ依存症予備軍くらいであろうか。線引きが難しい。各種依存症。
_04/14

 

 

 


5時くらいに寝るも10時あたりに起きる。全くもって睡眠時間は足りていないのだがどうも元気なのでそのまま活動し続ける。軽躁の疑いがある。でも、ここ最近はそれくらいでいいかと思う。鬱気味よりよっぽどマシというもの。

そういえば病院から来る請求書が溜まり気味だったと思い、板橋区の病院へ親父の入院費を支払いに行く。コロナ上、面会は出来ないが金だけ払いに行く。凄まじく好天候なのであまり悪い気はしなかった。たいへん、ほのぼのとした心境であった。

用事は直ちに済み、その足で西台駅付近のブックオフまで赴く。この店舗はとにかく在庫が豊富だから重宝している。漫画を2冊買い、帰りに餃子の王将西台店で大食いをする。眠いとシンプルに腹が減る、という感覚は久しぶりなのでがつがつと食う。

何か変わったことがあったかと言ったらそれくらいのほぼ日常的な1日。あとの時間は8時間くらい制作をする。昨日の続きで別の曲のギター録音。

5トラックも録るとなかなか腹が減るなと思いつつ、また夜飯を飛ばすところだったので、タバコも切れたところだったのでコンビニでにぎり飯1個買ってきて食う。2分の食事時間。酒を呑む時間としては2時間くらいは費やすのだが夜飯は2分。どうかしている。

しかし逆に、まあまあ酔っ払うくらい酒を2分で呑んだとしたらもっとどうかする。単独宅呑みで急性アルコール中毒となると自殺未遂を疑われることは固い。そういったわけで、ゆっくり呑んで、ゆっくり今日は寝よう。
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ゆっくり起きて蕎麦を茹でる。たまには変わりダネをと思い、具として野太い山芋を購入。「田舎のサービスエリアにありそうな具だくさん蕎麦」というコンセプトを掲げ、ネギやらキノコやら山芋を入れて調理する。

出来上がった田舎サービスエリア蕎麦は、思った以上に芋感がすごくてお腹いっぱいになる。たいへん健康な心境を抱えつつ珈琲を淹れ、原稿を書く。

机で静かに過ごしながら思ったが、ここ4日ほどまともに人と喋っていない。もう、こうなってくるとそれが日常、デフォルトということでいいかと思いながら口寂しいなと、誰かと雑談をしたいなという欲も出るが、孤独はある種のクリエイティブ原料。蓄えようということで手打ちとする。

明日は知人が来宅する予定の日。「来客が楽しみ」という心境が湧くパーソナリティに変化するとは幼少期には夢にも思っていなかった。

昔は、なぜか自宅の「ピンポン!」というチャイムが鳴ると異常なまでに怯えるという変なところがあった。「来客」そのものが、どういうわけかめちゃめちゃ怖かったのである。

決して対人恐怖症というわけではないという気もするが、あるといえばある気もする。そういったわけで、アラフォーになった現在でも、来客そのものは嬉しむが、「ピンポン!」と鳴ると相当「ビクッ!」となる。いまだに、である。「日常生活に支障はない」ため、病気ではない。原因不明のスーパーライトなPTSDである。

そういったわけで、自宅のチャイムのボタンを押すと「ピンポン!」ではなく、「ファ〜」というソフトなサウンドが出力するように改造したいが大家さんに怒られるのは明白なので棄却。
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しっかりした雨天の春下旬。本日の天候をもって桜のはなびらは全滅すると思われる。北区赤羽あたりはそれくらいの本降りであった。

夜に来客の予定があったが、どうも体調不良とのことでリスケジュールとなる。これは切ないなと思いながら、しょぼんと机に付く。編集部の村上さんと電話でやりとりしながら昨日の原稿を少々手直しして仕上げる。

遠隔とはいえ人と喋ったからいいかなという感覚こそあるが、もう1週間は人と直接絡んでいない。きっと、俺が次に会う人間には、ネコがすりすりグイグイと足元に付きまとうかの如く、必要以上にべったりと懐くことが予想される。

こういう時に、馴染みのお店などがあったらとても潤滑である。しかし、手前が「常連」と認識されているであろうと判断できる近所の店は呑み屋と雀荘くらいである。

前者は、国の政策により20時までの営業。すなわち、行く時間帯ではないため足が向かない。後者は、一人で行くこと自体を禁忌としている。

なんとも人恋しい。そういったまともな情念がゆっくりと、徐々に膨れるが、まあいいやと思い制作をする。ギター録音依頼案件の2曲ぶんは出来たので各トラックを書き出して提出する。あと1曲、パートを考えて2トラックのラフをメモ録音して日が閉じる。

宅で仕事をすることがメインとなった昨今、どんどん浮世離れしていく気がするが、そこはもう、振り切ってもいいのかもしれない。この間、「パラダイスロスト」公演のメンバーの一人にも具体例を交えつつ言われた。「平吉さんは振り切った方がいいです」と。

確かに、振り切った渡世というのは手前の生きるコンセプトに合う。では、どのように振り切るか。それを考え、具現化させるためには、1人になっている時間こそが重要な期間なのではないかとポジティブに捉える。

10代、20代、30代中盤あたりまでは「人恋しい」などという感情は全くと言っていいほどなかった。しかし、年々その感情が少しずつ浮き彫りになってくる。それはきっと、いいことであろう。

今日も宅の植物たちに挨拶してから静かに眠ろう。昨夜は、伴侶ができた夢を見た。無意識というのは、正直である。
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案件で台場へ。起きがけはたいへん覇気がしぼんでおり、JR高崎線、ゆりかもめと乗り継いだ道中は深く眠りこけていた。

いざ台場に着き空を見渡す。やりすぎだというくらいの晴天。早めに着いたので一服していたら「自由の女神」像が視界に入る。

側まで行き、女神をバックに自撮りをする。陽射し全開につき抜群の光具合で撮れる。そして「ニューヨークはたいへん良い天気です」と、写真を添付してTwitterに投稿しようと思ったがどうにもアホすぎる気がしたので寸止め。写真はお蔵入りである。

目的地で取材をし、近場のスタバでカタカタと原稿を書いて提出。あたりは家族づれやカップルが非常に目立つ。とても楽しそうである。「日曜日のお台場」という空気が蔓延していた。

そうかそうかと思い帰路につく。赤羽へ戻り、サービス券を財布に忍ばせていたのでワンコインで天丼が食える店舗へ。スタンダードな天丼と、サービス券でゲットした「えび天」をもう1本トッピングし、バカみたいにタレをかけて搔っ食らう。たいへんなぜいたくである。会計は500円。

夜に自宅に着き、ヨディーさんたちが予告していたツイキャスを閲覧しようとウキウキしていたが既に配信時間は過ぎていた。そうかそうかと思い、なんだかくたびれたコンディションに身を委ねソファに横たわる。フレーミング・リップスを流しっぱなしにして仮眠。

90分が過ぎて目覚め、「馬鹿野郎」と思いDAWを開いて制作をする。ギターを2トラック録音し、気がつけば26時。ニューヨークあたりはまだ昼間だろうか、アメリカーナは元気に活動しているのだろうか。

俺がどう過ごそうが、誰が何をしようが世界は常に動いているのだなと、壮大な視点が広がる。手前はといったら、いつも通りであった。“ただいっさいは過ぎて――”とはよく言ったものである。

明日はスタミナ苑という間違いない焼肉屋へ友人と行く予定だったがバラシ(予定が流れる)となった。どうもなにかと過ぎすぎである。そういうシーズンもある。どこか、静かな時期。
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外出の予定もなくなったということで宅で作業。地球まるごと爆発しねえかなとか思うくらい外的刺激を欲しがちだが、そうなった場合はまず爆死は避けられないので当面は爆発しない方向で頼む、とか思いながら制作をする。

ふとLINEを見ると、今日スタミナ苑に行く予定だった友人から「じゃあ平吉さん宅でどうでしょう」的な旨を受信していた。これはよかったと思い夕方に落ち合い、まずは赤羽の焼肉店へ行ってたくさん食べる(おごってもらう)。

たいへんな僥倖を賜ったと感謝し、宅でギターをいじったりして遊ぶ。意外と長めに遊ぶ。どうも赤羽に来てから早3年は過ぎるが、この仕事部屋にはどうもたくさんの来客があり、なかなか嬉しくもある。

友人はギターの腕前は以前よりも上がっているという所感だったので、その場で曲を作って彼のプレイをDAWに録音してマスタリングまでしてmp3にして差し上げる。わりと楽しい遊びである。

彼が帰宅した後は再び制作をする。やはりムキになり気がつけば26時。このパターンたるや多すぎである。そのぶん、いろんな音源が出来ていいじゃないかと手打ちとする。

そういった感じで久しぶりに人と直接しっかりと触れ合えた健やかな1日。明日はというと、また引き篭もり作業日である。この落差も慣れてきた。
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「一時支援金」という、中小企業および個人事業主に対する経済救済がある。給付の対象となる条件は、緊急事態宣言2発目の時期にその影響を受け、1〜3月の売り上げが前年比50%下回るというもの。

昨年の「持続化給付金」と似ている。しかし、今回のは手続きや審査のハードルがクソ高く、断念する事業者が続出。予算が大幅に余ることが確定したと聞く。いろんな税理士ユーチューバーさん方からの情報である。

俺も「どうしようかな」とは思っていた。というのも、2月の売り上げが前年比50%落ちという情けなき数字を叩き出したため、手前は対象なのである。

昨日、焼肉をジュウジュウと食いながら友人にその旨を聞いたところ、「全然いけますよ?」とのことであった。そういったわけで、今日はその申請をする。

ネットの申請フォームで3時間ほど格闘してクタクタにはなったが、仕上げに「こんな感じでございましょうか? 今後の流れはこういった感じでしょうか?」と、コールセンターに質問および確認をすると、なんだかいけそうな気がしてきた。あと、電話対応が素晴らしく親切丁寧で感銘すら受けた。

昨年の5月だったか、明らかにコロナ禍の影響で、売り上げが6万円前後という、高校生のバイト代以下の売り上げという悶絶の月があった。振り返るとほぼ1年前である。

さすがにその後、色々とコツコツと対策をし、ストック収益などがじわじわ増えてきたこともあり、以降はその忌みじき記録は下に更新されていないが、それでも今年の2月はけっこう落ちていた。

そういったわけで、個人事業を当面続ける気概があるという自負のもと、「一時支援金」を申し込んだ。

どうなるかはまだわからないが、ここはひとつお国の救済措置にすがってでも厳しい時期を乗り越えるべく進みたいなと思う。会社員時代の「給料」という安定した収入が懐かしくも、あれはある種、組織の愛も含まれていたのだなと、素敵な制度だったのだなと、その時はありがたみがわからなかったのだなと、改めて実感。
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案件で六本木一丁目へ。小綺麗なオフィスビル等が乱立する、わかりやすいくらいの都心ではあるが、駅近隣には多分な植物が見られる。

4〜5月という、国内での自殺発生率の最も高い時期、緑の植物たちは最も美しい姿を見せる。1年で一番丁度良いと思われる日光の輝度、彩度で照らされる緑の葉の輝きはたいへん美麗なビジュアルで視覚的に心を奪われる。

植物には感情がない。きっと、ないと思われるが、この時期の新緑からは輝かしい生命力と情念を感じる。新緑は光合成をして新鮮な酸素を生成してくれる。それを人間は吸うわけだが、そういった恩恵を意識する者は多くはないだろう。だから、死にたくなったら葉っぱに近づいて深呼吸するのもいいかもしれない。要は、葉っぱ大事。

案件先に行きがけ、かわいいぼうずが小チャリに乗ってイキっている。新緑。感情のある新緑のようなものかなと思う。「俺に、あれくらいの子供がいたらどういった感情になるのだろう」と、想像するが、わりと無関心気味かもしれない。

夕方に案件が済み帰宅。せっせと録音する。新緑のようにこの先めきめきと育ってはくれんかと思いながら音を録って混ぜる。もうひと鉢、植物をまた買ってきてしまおうかと悩む。部屋の各所に緑があるとそれだけで健やか。
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お店で酒出すな、という内容も盛り込まれる気配の緊急事態宣言第三弾確定。これはさすがにデモやクーデターでも起きやしないかと危惧するが、その行為自体が密なので起きなさげ。

新型ウイルス感染症拡大という長丁場になりそうな変事。まあ大人しくしておこうと今日も宅で過ごす。ほぼ丸一日制作をする。ムキになってやる。

当然のように夕食のタイミングを逸したが、過集中気味に延々作業ができたため、手元にあった録音依頼案件の3曲が完了した。

めしも食わずに約9時間、どこからこのエネルギーが出ているのだろうと思い、ふと仕事部屋のピンちゃんという名の植物に目をやると、全ての葉っぱがかつて見たことないくらいの角度でクタァとなっている椿事。

とりあえず水をたくさん飲ませたが、何故こうなったのか。もしかしたら、植物が俺にエネルギーをくれていたのかもしれない。そういった考えが真っ先に頭を過ぎり、そうであったとしたら納得。というくらい疲れた姿をしている。

とりあえず宅にある植物全て、4鉢に水を飲ませて活力が湧くことを祈った。人間でも植物でも、生存活動や行動にはエネルギーが必要で、底をつくと周囲から吸い取る、あるいは分けてもらう、という摂理があるのかもしれないという仮説が生じた。

意識的にも、無意識的にも、たぶんそうだと思われる。仮説が合っているとしたら、俺は植物のエネルギーを貰った、あるいは奪ったことになる。いずれにせよ、基本的には自力でなんとかしたいところなので対策を考える。

ピンちゃんが果てる姿を見ると寂寥感に苛まれる。どうすればよいか。答えは非常にシンプルである。ちゃんと飯食おう。
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この日の日記の文字数は2,000字少々。

【要約】
「最近『切り抜き』という手法がネットを通じて目立つ。それはYouTubeチャンネルなどに限らず、あらゆるシーンで見られると感じた。「要約」と似たその概念は便利で面白い反面、他人のフィルターがかかってるからある種のリスクも伴う気がしないでもない。でも面白いから観ちゃうよね。でも、実体験という『一次情報』が一番面白いし『生々しくてリアル』だから俺は一番好き」

全編を読むと約5〜10分はかかる。「要約」すると約10秒。それぞれを読んだ時に感じることの違いってなんだろな、というお話。

【全編】
「切り抜き」が流行っているもよう。そう認識したのは、最近よくYouTubeで『ひろゆき切り抜き』と銘打つ各チャンネルを観る機会が多いからである。

「2ちゃんねる」の創設者のひろゆきさんが、YouTubeの配信で1、2時間ほど、有料チャット機能の「スーパーチャット」で視聴者から寄せられる質問を軸にトークを繰り広げるという感じの、ご本人のチャンネルがある。全編を観たことはない。

それを、ひろゆきさん以外の方がうまい具合に数分に編集し、サクッとポイントだけ観られるようにしているコンテンツ、それが『ひろゆき切り抜き』YouTubeチャンネル各種だそうだ。それはいくつか観た。

「サクッと観られて要点だけ掴める」というのは便利かつ時間もかからないので、情報が死ぬほど溢れている現代で重宝されるのは理にかなっている。みんな忙しいんだなと思う。

そういった視点で改めて考えると、わりと「切り抜き」というアプローチは多い。同じくYouTubeで言うと、書物の内容を要約したチャンネルがけっこうある。法律や制度についてわかりやすく数分で説明してくれるものもある。

他の分野だと、例えば記者会見の内容を記事にして発信するというものがある。「ここが大事でみんなが知りたいであろう、伝えるべきところ」という部分にフォーカスして、要約し、簡潔な文面と写真等で発信するというもの。すなわち、「要約」と「切り抜き」は、かなり近しい概念なのではないかと思った。

俺がビートルズ来日の記者会見に参加したとしよう。

実際の会見時間は知らないが、おそらく、30分前後、あるいは小一時間ではないかと想像する。というのは、現代においてのアーティストの記者会見などの場合はそれくらいの尺だからである。その内容を、1、2分読めば起きたことを理解できるように伝える。

「ザ・ビートルズが来日した」「武道館公演をする」「ライブへの意気込みとしてジョン・レノンさんはこのように語った」「ポール・マッカートニーさんがこんなジョークで取材陣を笑わせた」「記者からの質問にこう答えた」「なお、前座には内田裕也氏やザ・ドリフターズら数名が務める」という感じの内容が各新聞記者の独自の視点で「要約」された記事が400〜1000字くらい、サクッと読める内容でまとめられる。

しかし、まともに全編を説明すると8,000字超えは余裕でいくと思う。読むのに20分以上かかる。

そう考えると、「要約」「切り抜き」は重宝される。そして、現代ではYouTubeやSNSなどのプラットフォームが増えたぶんか、その「切り抜き方」と「対象」が多種多様で凄く面白いなと思う。

しかし、「要約」や「切り抜き」には、各記者やライター、クリエーター、エディターなどのフィルターがかかる。媒体の記事によっては、「ビートルズが来日してライブをおこなう」という旨しか記していなかったり、「ポールさんのジョークの内容」にフォーカスして面白げな見出しにした記事だったりする(実際にポールさんがジョークを飛ばしたかという点は完全に想像だが)。

そのフィルターをどう感じるかが「切り抜き」を見るときのポイントなのではないかとしみじみ感じた。ある一つの記事だけを読んだ場合は、「ビートルズが来日して武道館でライブをする」という情報しか得られないし、「前座が誰なのか」という情報が得られなかったりする。

全てを知りたかったら、会見全編を見ること、あるいは映像付きの実況動画などを観ることだがそれは現実的に難しい。

そういったわけで、「これは切り抜きではなく全編を」と、フィルターなしで得た方がいいなと思う情報もあったりする。例えば、本の要約YouTubeチャンネルも面白いし時間がさほどかからないが、その本を熟読した時の感銘は、何時間もかけないと受けられない気がする。

ちょうど今日、そんな情報があった。「緊急事態宣言第三弾」にまつわる菅総理の会見である。「これは切り抜きではなく全てを」と思い、夜にソファに座りながらライブ配信されていた記者会見をPCで見ていた。

「また大変なことになるなあ」とか思いながらだんだん姿勢は横になり、「長えなあ」とか思っているうちに、寝た。

当然、内容全てが把握できていなかったので、ちょっとして起きてそれにまつわる記事をいくつか読んだ。やはり便利なものでいい感じに要約されており「なるほどね」となった。

しかし、本当はどういった理由と発想と流れでそういった有事になるのか、判断に至った背景は、そういったエアー感までは得られない。

要約された情報を得て「そうなんだ」と、納得するのは便利だが、ある種のリスクもあるのでは――と、個人的にちょっと感じた。とはいえ、手前も「切り抜き」的なものはちょいちょいお世話になっていることもあり、決して、是非がどうこうという話ではない。「切り抜き」は、めちゃ便利。

好みもあると思われるが、個人的には、どれだけ時間や労力や現金がかかろうとも、実体験などの「一次情報」が最も生々しく脳裏に焼きつくので、それを最重要視しているし、何より、好きである。
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熟睡明け、ブロッコリー定食をこしらえてポン酢をドバドバかけてモリモリ食って机へ。原稿をガリガリと書く。

夜、来客の予定だったが、来宅訪問時間寸前に、先方の都合により後日へと変更になる。しかし、「ドタキャンじゃねえか馬鹿野郎」という感じの怒りの感情はなぜか全く起きない。人それぞれ、思いもしない都合というものがあるのだろうと。では制作をしようと奮い立ったがその前に、機材の交換をすることにする。

先月仕入れた若干年式が新しくないオーディオインターフェースという機材を、USB-Cタイプの宅のマシーンに繋ぐには2つの変換ケーブルをねじこむ必要があった。それらの機具は全て事前に揃えており、いざ繋いだがやはり互換性の問題であろうか、常に変なノイズが出る。

appleの店員さんに「強引」と言われた手法で繋いだわけだが、危惧していたことが現実となり、現在の宅の制作環境では使用困難ということが判明。

機材などにめちゃめちゃ詳しい村上氏に電話で相談に乗ってもらいながら色々と検証する。一つずつ、原因を探っていく。宅の配線やミキサーなどには問題がなかった。

もしかしたら機材自体に問題がある可能性もなくもないので、ケーブル1本直結でいける2011年製のMacbookproに繋いでドライバをインストールし、いざ音を出力させると正常に動作し、素晴らしくクリアなサウンドが確認できた。

これが決定打となり、新しいMacbookproに2つの変換ケーブルをねじこむという手法がノイズの原因と判明した。要は、今の制作環境だと使用は難しいことがわかった。

とはいえ、「名器」と言われるブランドの機材なので、売却すれば金銭的なダメージはない。そのつもりはないが、買値よりも高く売りに出しても買い手はつくだろう。それよりも、今使っているオーディオインターフェースよりも素晴らしくクオリティの高い機材だということが知れて、それが大きかった。

そういったわけで、現在の宅の制作環境に適したそのブランドの機材を新たに購入する予定ができた。楽しみである。今の環境でもサウンドに対して文句はなかったのだが、もっと上があるのだなということが体験できたのは収穫である。

「次用の機材が実は宅では正常動作しなかった」という、まあまあヘコむべき場面ではあるのだが、むしろ前向きな気分なれたのは、金銭的ダメージはまずないということと、音質の「上」の方を実体験として知れたことであろう。とにかく2時間近くリモートで立ち会って検証に付き合って頂いた村上氏、本当にありがとうございました。
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人間には「属性」という概念があるとフワッと思っている。

「なんとなく同類」「どうも根源的に気が合う」「魂レベルで似ている」「気に掛かる」「合うと無条件に嬉しくなる」と、感じる人間は、「属性が同じである」と、解釈している。エビデンスは、無い。

「属性」が同じと判断できる人間は、どういうわけか出会えることは極めて珍しい。これまで出会った何人かのそういった人間。ここ数年で言うと、一人は、かつてのいきつけのフリー雀荘(一人で行っても知らない人同士で麻雀が打てる店)の常連客。

彼は、スラッとやや筋肉質のかなりのイケメンで、ヘアスタイルもファッションも嫌味なくおしゃれ。しかし、どこかヤクザ的でやさぐれた油断ならぬ物腰。会話がとても上手。そして、えも言えぬ“人を惹きつける魅力”があった。両腕にはバキバキにタトゥーが入っていた。

彼とは何度か同卓(一緒の卓で麻雀を打つ)し、そのうち世間話を交わすような仲になり、同年齢とわかった。なぜか、彼は俺と打つのが好きな様子で、いつもそういった空気感を出していた。

現に、同卓した時は「朝まで打つんすか? 平吉さんいるならもうちょい打とうかな……」という類の発言がちょいちょいあった。そして俺もまた、彼が店にいるのを確認するだけで嬉しくなり、「彼が打っている卓、空かないかな」と、待ち時間は必ず思っていた。

お互いに、なぜか惹かれ合う理由はなんだろうなと思った。そこで「属性」である。たぶん、彼と俺は属性が一緒という気がしてならなかった。無条件で、彼が気になるのである。しかし、フリー雀荘に行くのを禁忌としてからは彼とは会っていない。なかなかいない「同属性」と縁が切れてしまうのは非常に寂しい。

もう一人、2つ年上で、かつての同僚がそれにあたる。単純に入社同期で、お互いにギャンブル地獄で死にかけたという共通項もあったことから、すぐに仲良くなった。会社では、彼がいるだけで俺は楽しかった。彼もまた、同じような心境だったのは表情や仕草や雰囲気でよく伝わってきた。

そんな彼が「異動」となった時は、その年の1、2位を争うくらい精神的にヘコんだ。親友が転校する気分といった感じだろうか。

しかし、そんな彼とは今でもたまに連絡をとりあっている。そして、今日はその彼が来訪した。用事を済ませ、近況を聞くと、なんやかんやと相当大変な状況で、たいへん気が滅入っているようだった。辛辣な言葉で世間等に対し毒突いていた。

顔色はクソまずい蕎麦色で、姿勢は常に前傾で、目つきは干からびたししゃものようだった。だが、ネガティブ方面の色だが、目の光は失っていなかった。

「平吉さん、そのギター弾いていいですか?」

「いいすよ。あれ? 弾けるんですか?」

「中学生の頃にやってて……今はギター自体持ってないですけど。久々に弾くな」

「ルナシー弾いてください」

「どうだっけ……揺れて揺れていまここっろっがっ……」

「A、B、C#mあたりのコードを食い気味にする感じっす」

「ギャギャッギャーン。おお、これこれ」

「あれ、弾けるじゃないすか!」

「ギャギャッギャーン!」

「揺〜れて揺れていまここっろっが!」

「うはははっ。楽しいすねこれ平吉さん」

「次はニルヴァーナを弾いてください。FとB♭と……」

「ありましたねそんな曲。こうすか? ベーンベベンッ」

「あれ? いけますね。いま原曲流すので一緒に」

「Hello, hello, hello, how low〜 」

「ぶはははは」

彼は何10年もブランクがあるとは思えないくらいちゃんと弾き、そして、リズム感が凄まじくよろしかった。そして、演奏中に彼から漂うエアー感たるや、来訪時のあの獄中にいるかのような絶望色は払拭されたように俺の目に映る。彼は、時間を忘れて明るく元気に笑って楽しそうに弾いていた。

俺は、同属性の彼がいっときでも幸せそうに過ごしているのを見て、手前のことのように安心した。

だから、「まず、出番はないであろう」と判断できる、寝室でずっと寝ているエレクトリックギターを差し上げることにした。「楽器を弾いていれば幸せになれるのなら」という、同属性に対する謎愛的情念がそうさせた。

ズタズタの状態のギターを綺麗に拭き、弦を張り替え、軽く弦高調整し、渡して弾いてもらったらお気に召した様子。

「いいんですか平吉さん?」

「はい。ギター弾いている時の顔、全然違いましたから。可愛がってやってください」

そういったわけで俺は「属性」が一緒の人間には言い表せない感情が出る。無条件で、どうにかしたいという気持ちと、合体したいというか融合したいというか、そういった妙な感情である。

「姿や育ちや環境や現状などは違うが、どこか物凄く似ている」という人間。なかなかいない。そういった相手は、大事にしたいと思った。そうでない相手も、大事にするべきだしそうしているつもりだが、俺にとって「同属性」の人間は非常に稀有。

一生のうち、そういった人間に何人で会えるか、どれだけの時間をどのように過ごせるか、わからないが、「同属性」と一緒に触れ合える時期は、人生においての幸福な時間と言い切れる。

それくらい、「同属性」は大切にした方がいいのではと改めて思った緊急事態宣言第三弾発令初日。宅に人を招いたのは世間的にどうかと思われそうだがここはひとつ堪忍して頂きたいところ。
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平穏かつ案件がない1日。散歩に行く。三度目の緊急事態宣言による北区赤羽繁華街の様子はと思い、パトロールする。これぞ不要不急。

俺がヤクザの幹部以上のポジションの漢だったら、界隈をうろつくだけで色んな人に声をかけられることであろう。

「あ! 平吉さん! お疲れ様です!」

「オウ! シノギはどうよ?」

「はあ、やっぱこんな感じでして……」

「そうか! シマで何かあったらすぐに事務所こいや!」

「はは……! いつもどうも!」

「オウゥ!」

という発想はヤクザ漫画の読みすぎだろうか。そういった光景を実際に見たことは皆無。

呑み屋さんはけっこう閉まっていた。「アルコール類はお出しできません」的な貼り紙も目立つ。かなり寂しい風景であった。

街単位で覇気がねえな、つまらんなと思いつつ、前傾気味に歩く。今日は革ジャンを着ていても肌寒い。ふと道端に目をやると革衣類よりも暖かそうな毛で覆われたケモノを目視。地域ネコがシルクロード街付近の道端で香箱座りしていたのでゆっくりと近づく。

逃げる気配はなかったので人差指をネコ鼻の近くに差し出して嗅がせる。これはネコに対する挨拶および「絡んでいいか?」と、許可を得る行為である。

すると、ウシ柄の恰幅の良いネコはフレンドリーにグイと寄ってきたのでサワサワと触れ合う。「うん。フワッフワで気持ちいいねえ。ネコよ」とか言っていたら通行車のハマーに轢かれそうになったので避難。その足でラーメン食って帰宅。

キッチンの琥珀色の照明を点け、J-WAVEを流しっぱにして、仕事部屋の電気は消し、ソファで横になる。当然寝る。1時間ほどして覚醒し、「コロナで案件減ったからという理由で俺はサボってないか?」と、急に不安になる。

正直、今日あたりは1日ゴロゴロしていても差し支えないのだが、「収入に繋がるなにかをせねば」という強迫観念にかられ、DAWを開き制作をする。ストラトキャスターギターを振り回しているうちに、ファンクロック的なカッコいいネタを思いついたのでギターパートのメモ録音とドラムを打ち込んで、半分楽譜を書いて気が済む。

そういったわけで「半休」といった暮らしの日。半分はまったり溶けそうだった春の終焉一歩手前の1日。来たのか来てないのか不透明に感じた2021年の春は、もうすぐ静かに閉じてゆく。
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案件で六本木へ。昔は確かにあり、常に人で賑わっていた喫煙所がなかったことになっている六本木交差点で時代の変化を感ずる。

夕方、紅生姜天蕎麦をすすって南北線経由で帰宅。ちょっと休んで制作して深夜。出向案件があってもなくても、あまり過ごし方は変わらんなと思いつつ1日が過ぎる。

不穏な時代となり早1年少々。ゴールデンウィーク明けまで緊急事態的な自粛要請タイムが2週間ほど。みんなは宅でどんな風に過ごしているのかなと想像するが、今日の都内の様子を直に目にした限りでは、わりと人がいた。

これほどまでに個々で過ごし方の差があり、物事に対する価値観の相違が生じる時代というのは初めて経験する。

時代の変化を感じる昨今だが、この先さらに変化することが予想される。個人的には、劇的に変化する気がしてならない。

まだこの先どうなるか相当読めないが、“変化”というものをポジティブに捉えることがキーとなる気がする。とはいえ、感染症拡大は本当に早く収まってほしいところ。

とりあえず、ゴールデンウィークはきっと暇である確率が高い。案件がなかった場合、制作以外に何をして過ごそう。また配信というものをやってみて、ある種の“変化”を楽しもうか。ネタでも考えとこう。
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昨日の案件をもってしてライター業の「案件フォルダ」は空に。このまま俺は経済的にゆっくりと朽ち果ててゆくのか。

そういった心配、不安、顧慮と、人並みにあるわけだが、はたから見たら欠損しているのかもしれないが、いずれにせよ、じゃあ他の源泉のために今日は頑張ろうと決起し、1日中DAWに張り付いて制作をする。

ソリッドなロックンロールというテーマの楽曲。土台はできているので、ギターを録音する。こういった楽曲に必要なのは気迫とテンションである。本当に汗が出るくらいゴリゴリと弾く。擦る。刻みつける。アベフトシさんくらいのけたたましいストロークでバキバキに弾いてゼイゼイ言いながら録音をする。そこまでする必要はあるのだろうか。

オカルト野郎と思われようが全く構わないが俺はこう信じてやまない。楽器を弾く際の気迫やテンションは音に刻印され、人の心に伝わると。だから「お前、来週Zeppとかでライブでもあるの?」というくらいの圧を込めて録音をする。Zeppでライブをしたことはないが。

そんな中、ハァハァ言いながらトラックをプレイバックして確認していると編集部より入電。案件を頂く。そして、色々と企画などのお話をする。

コンテンツの「オリジナリティ」は大切だという共通する話題が挙がった。異論はない。むしろ、「人としてオリジナルでありたい」という、自己愛性パーソナリティ障害気味のスタンスが手前にはある。

俺が好きな人や敬愛する人、リスペクトする人に共通している点でもある「オリジナリティ」という概念。「その人でないと――」というやつだろうか。それがある人は、生き物として尊い気がする。

「俺も尊くなりたいな」という、たいへんフワッとした気持ちを認識しつつ終話。「自分が自分でなくなるくらいなら」という話や観念はよく聞く。しかし、それを貫ける人というのはカッコよくも稀有。

「俺も貫きたいな」という、字面にするとけっこうわけのわからない気持ちに落ち着いて1日がまた過ぎていく。とりあえず、今日あたりは執拗なまでに激情を込めるべく録音をしていたあたり、なにかを貫けていたのだろうか。それはきっと、死の直前に判断できるであろう。
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雨の1日。蕎麦を茹でる。出汁を多めに入れてツユを少なめにする。「ちょっと塩分を控えていこうか」という、健康志向、アンチエイジング的な発想が出て行動に移すあたり、体には良いのだろうが、どこかこう、虚しくなってくる。

塩分の摂りすぎは体内に水分を留まらせるという。すなわち、むくみやすくなる。いつだってスッキリした漢でいたいものだというコンセプトから、出汁を多めに、ツユを少なめに。

さぞかしあっさりしていて物足りないだろうと思いきや、いつもより美味しい。「いりこだし」の効果は絶大だ。そういったことに歓喜しているくらい、けっこう退屈気味な日。

じゃあ制作しようと思って昨日の続きをやる。だいたいパートは揃い、あとはギターソロを入れれば録音は完了である。しかし、全力投球で考えたギターソロが難しくて弾けない。わりと速弾き含みのソロを、BPM205で32小節弾き倒すのがキツかったのである。

それでもムキになって弾くわけだが、「今日1日では無理だ」と、23時くらいになると指の疲労がそう悟らせる。

20代くらいまでは「ギターを弾き疲れた」などということはありえなかった。しかし今はそうではない。これがアラフォーか、やはりアンチエイジングが必要か。と、さらに虚しくなる。

そういったわけで今日は湯船に浸かって入浴剤をかき回し、黄色いアヒルちゃんでも浮かせてプカプカと突っつきながら身体をいたわろうと思った。

考えてみれば、あと20年すれば還暦である。20年前は二十歳であった。なんというか、考えられんという心境になる。

「減塩」をするくらいだから、そのうち煙草もやめてしまうのだろうか。酒も控えてしまうかもしれない。老い。基本的に抗えない概念。

しかし、気持ち的には今が、アラフォーという現在が人生で最もフレッシュな状態という自負がある。人間というやつは“思い込み”でできている割合が相当高いと聞く。俺もそう思う。思い込もう。基本的にフレッシュだと。死ぬまでフレッシュだと。それはそれでわりと鬱陶しそうだが鮮度は大事。
_04/29

 

 

 


祝日か平日かうろ覚えの4月末。空がとても蒼く、風は透き通っている。これは宅にいるのは勿体ないと思い買い物へ。秋葉原まで、機材を繋ぐ特殊な線を探しに行く。

攻めた格好をしているメイドさんが散見される街模様も10年前あたりは新鮮だったが、今や「こういう街だ」という認識すらある。

特殊な線は、どこに行っても見つからなかった。ネットで買えるからいいかとは思ったが収穫なしというのもむず痒い。せっかくだからいつもと違う何か食って帰ろうと回転寿司屋へ。

10年少々前、当時の恋人と入った回転寿司屋が目に入った。「微妙だったね」と、食後に同様の感想を言い合ったことを同時に思い出す。

要するに、互いの期待に沿わなかったのである。しかし、あれから10年あまり。「店は進化したのではないだろうか」という期待の念を寄せつつ入店。11皿たいらげる。主にコハダを食い散らかす。

昼飯に2,000円も遣うのはたいへんな贅沢、そういえば回転寿司屋自体、会社員を辞めてから1度も行っていなかったから2年以上ぶりに回転寿司を食べたことと相成る。退店後の心境はというと、やはり微妙であった。

しかし、どんな内容であっても食事に対してケチはつけたくないというスタンスが、10年前にはなかったそういったポリシー的なものが今はあるので、「微妙だった」という思考はキャンセルした。皿の枚数を気にせずに寿司を遠慮なくたいらげたことに感謝する。

メイドさんの営業も回転寿司屋も、秋葉原は変わらんなと思った。唯一、変化を感じた点は、シャッターが閉まっている店がやたら目についたこと。これはさすがにコロナ禍という時代感を受け止めざるをえない。

不要ではないが不急の外出をして眺めた都内の模様。この間行った六本木もそうだったが、やはり、人で賑わっていた。こうなると、時代はもっと変わっていくのだろうと考えつつ帰宅。

時代は変わっても不朽の音楽、ロックンロールを制作する。いつの時代も鳴り止まないでほしい音楽だが、最近は世間の状況的に控えめなシーンとなってしまっている。

約10年前、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲が収録されているアルバムを買ってよく聴いていた。「これは本物だな」と、いたく感銘を受けた。今聴いてもしびれる。

「鳴り止まないでほしいのだが」という心境でせっせと制作をする。やはりギターソロが難しくて今日も弾けなかった。パートは出来たが、録音レベルの演奏は半分しか弾けなかった。

基本的にフリーに使用できる用途の配布および収益目的で作っているのだが、ロックンロールとして、鳴り止まないでずっと残れば、とか思うと、「弾けないから簡単なパートにしちゃおう」という気にはどうしてもならない。そういったわけで今日もムキになって数時間はDAWに張り付く。鳴り止みませんようにと願いつつ。
_04/30

 

 

 


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