11/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。11


どんな達人でも、チューニングが合ってない楽器を弾いていたら悲惨な演奏になる。だが、達人はその楽器を弾く前に「チューニング微妙にボロボロやん」と気がつく。そこも含めて達人である。

俺はなんらかの達人になりたい。そのようなたいへん抽象的な姿勢をもって日々を過ごしているつもりである。ときには具体的な姿勢でもいる。

だがしかし今日はどうも全体的にチューニングが狂っているということに、いま気がつく。達人なら、起床して秒で気づいて正す。これがなかなか難しいなという所感の日。

ものすごい簡単なベースラインであろうというパートが全然定まらない。仕事部屋になんかめちゃめちゃ蚊が寄ってくる。仕留めようとするも空振りの情けない音が響き渡る。

洗濯機の挙動までおかしく「ピピッ!」と、聴いたことのないエラー音がする。なんか持ち株までズドンと暴落している。ほかにも、余計なことに大事な時間を割いてしまう。そして、いつもより遅めの時間になだれ込む。

ぜんぜん達人ではないなとか思いつつも、まあ普通に仕事はしたし洗濯物も綺麗になったし、ベースラインに関しては新たな課題が生じたということだろう。株式相場なんて自身では操作できない。そのように、全て善処する。

そう、この意識の持ちよう、志向性こそが人間のチューニングの正体なのではないかと仮説を立てて一旦手打ち。

そういう日もあるが、そこをどう捉えて、チューニングの具合にいち早く気づき、正すということの重要性を噛みしめる。

偉いなあと思えたことはひとつ。昨日から「これから毎日続けよう」と決めた腕立て伏せ――四十肩回復期における筋力強化ならびに五十肩防止――を今日もちゃんとやったこと。

些細なことでも“評価すべきことはきちんとする”。これはメンタルヘルスにおいてとても大切なこと。情報源は、精神科医である。
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「ファッションや身だしなみは他者への配慮である」という言葉が輝く。おしゃれさんから享受した観念である。俺は感銘を受けたので今後はそれを念頭におくことにする。

そうなってくると、ずっと欲しかった黒いチェスターコートを買ってしまおうかと考えた。理想のデザインは漫画キャラのブラック・ジャックが着ているやつがとても近い。しかしあれはなかなか振り切っているので市販では見つからない。

だが数日前、ネットで近いコートを見つけたので、デスクトップのメモ書き「ほしいやつ」リストにURLを記しておいた。

今日、改めて見るとやはりこれが理想に近いなと、いこうかなどうしようかなと悩んだあげく、買うことにした。半額セールで1万円ちょいの価格であれば、着てみて「なんか違う」となってもさほどダメージは受けない。初めてネットで服を買った。

これで懐にポッケが過剰に施されていれば言うことはない。まんまブラック・ジャックのコートである。メスとか医療器具は入れないが、内側にポッケがあるだけで謎にテンションが高まる。なんでだろう。

よしよしとホクホクして制作をする。この曲においては簡単すぎるパートだろうと思ったが、何故か手こずったベースラインがすぐに固まる。昨日までの迷いはなんだったのであろうかというほどに。

そして次に重ねるパート草案も次々と出ては「これこれ」と腑に落ちるわけで、どんどんスケッチをしていく。

昨日は何かがズレまくっていたが、今日はそのへんが修復される。昨夜、その旨を意識したからかもしれない。昨日今日でいってこい。げに不思議なのは人間のちょっとした感覚のピント、歪み、洗練。

きちんと腕立て伏せもしたところだし、昨晩買っておいて放置していた「タコ」でもオリーブオイルでほっそいキノコと共に焼いてバジルをまぶして美味しく食べよう。ほどほど酒を呑もう。チューニングを常に見張っていよう。世間というアンサンブルと調和するためにも。
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人が購買に至るには、3つの大きな要因があると知った。

「作り手が好きだから」「利便性があるから」「よいものだから」。

とてもシンプルである。

「作り手が好き」の場合は、俺で言ったらエイフェックス・ツインの新譜がCD限定販売だったら迷わず買う。これにあたる。

「利便性があるから」だと、これから起業をするという人がビジネス書を買うことが例にあげられる。

「よいものだから」は、多岐にわたるが「超おもしろいから」「めちゃ美味しいから」などが一般的であろう。

これら3つが全て備わっていたら無敵なのだが、1つあるだけでも「売れる」要素・理由となる。最近読んでいる“利便性がある”要素にあたる書籍に、そうまとめてあった。

なるほどなと思った。逆に捉えると、「無名の者(または企業など)がつくったもの」で「役に立ちそうもない」「平均値以下のクオリティ」のものは、「売れる理由がない」つまり、売れない。そういうことになる。

手前の各種の仕事に置き換えて考える。

「ありがとうございます」と、言っていただけた仕事の内実には、必ず前述の3つの要素のうち、1つが含まれていることに気づく。

ライター業における記事だったら「利便性があるから」にあたるであろう。「よいものだから」というのも含まれていてほしいが、情報や知識の源流として機能するといった意味合いでは“利便性”にあたるので、そのように判断する。

音楽業における楽曲の場合は、かなりダウンロード数を稼ぎ、ひらけた場所でも耳にできた場合は「よいものだから」にあたるだろうか。

そうあってほしいというのは主観だが、地上波などでも使用されていることが確認できるものに関しては、「クオリティ」という点で評価するべきである。

あとは「作り手が好きだから」とういう点。この要素がほしい。なぜならば、“何が書いてあるかよりも、「誰が書いたか」で読者はその本を買う”と、漫画『あくたの死に際』で表現されていたように、ネームバリューは強力なマーケティング要素のひとつだからである。

どんなによくとも、無名の者の作品が売れることは難しい。だが、前提として“よいもの”であり、そこに「広告・プロモーション」という行為を思い切り加えればその限りではない。

だが、有名な者の作品はある程度の質を保っていれば「作り手が好きだから」という対象者には、アピールせずとも売れる。極端に言うとそうだろうか。

つまり、俺はネームバリューがほしい。知名度である。恥ずかしいくらい欲しい。では、それを得るにはどうしたらよいか。そこまで考えるとやはりいつもの結論に帰結する。コツコツやってひとりずつ需要を増やし、それを繰り返すことである。

そこに品質の高さがついていればもう文句なし。そういう存在になりたい。それは、自己顕示欲や承認欲求ではなく、どこまでも広く多くの人に貢献したいという気持ちがあるからである。

といったらほぼほぼ美辞麗句だが、実際は本当にどっちもある。正直に、名のある、価値のある人間になり、そこでつくられるものの価値はとても高い。それで誰かに喜んでもらえる存在。そういう風になりたい。ではどうすればよいか。

吸収するインプットを人並み以上に解釈し、どんなシーンでも常にアンテナを貼り、アウトプットは妥協せず、といったところだろうか。とはいえ、けっこうそれ忙しいなと真顔になる。

結論。日々行なっているタスクは冒頭の3つの要素のどれかにかかっていなければ即刻ボツにして次の行動に移るべく努力と判断力と行動力が必要となる。やはりこれは当たり前のことだなと書き終わってから気づく。

まあ、気づかないよりいいかな〜と、今日もしっかり生きたし現実に感謝しながら酒呑んで寝よう。肴に、いい「マグロ」を買ってきたのである……。
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新宿二丁目あたりで「微妙に違うな」という味わいのラーメンを食べる。600円で替え玉1つ無料。味がなんか違うが、もったいないと、リズムでおかわりして、あらゆるトッピングをもって“味変”を狙うもやはり、味の微妙な違いは揺るがなかった。

なんだようと思い界隈を散歩し、新宿御苑に入ろうと思ったが閉館時間が思いのほか早かったので入らず。

なんなんだようと呟きながら書店へ向かう。東京都最大級の書店「ジュンク堂書店 池袋」の次の次、都内で面積数第3位の「紀伊国屋書店 新宿本店」ではどんな本が売れているかという視点でまず入る。

最初に目に飛び込んだのは東野圭吾さんの新作。そして羽生結弦さんの写真集だかなんだかの本。ここでは「作り手が好きだから」という“売れる要素”をもつものが第一に目立った。

ほかには――と、見渡すと『エッセンシャル思考』や『数値化の鬼』など、新作ではないがロングセラーとなっている実用書やビジネス書がちらほら平積みになっていた。「利便性があるから」という“売れる要素”にかかっている。どっちも読んだことがあるが、確かに役に立つことが書いてある。

やはり、いい位置にある商品は「売れる理由」がしっかりしているものがチョイスされているのだなと、昨夜の思惟とくっつける。

とりあえず微妙すぎたラーメンに即時性のなんらかがあったもようで厠へ。そして目当てのジャンルのコーナーへ行く。

途中、ものすごく目に入りやすい場所に、書籍『嫌われる勇気』があった。この本に関しては圧倒的に面白いので、「よいものだから」という“売れる要素”があるとみなせるであろう。

そんなことを考えつつ、哲学書コーナーで1時間くらい吟味して、現象学についてのやつを買う。これを選んだ理由は、以前読んだ現象学についての書籍が信じられないくらい難しくてあまり理解できなかったからである。

悔しいのでもう1、2冊はその分野の本を読んで「なるほどね」と腑に落ちたいという能動が購入意欲となる。ここには“売れる要素”はあまり関係がない。

新宿駅に向かい、当初の目的はなんだったけなと、その点だけ怪訝な気持ちで帰路につくもリフレッシュはできた。赤羽でもフラフラとし、4時間くらいの散歩を終えて宅で作業する。その前に寝る。疲れがたまっていたのかソファで1時間ちょい寝る。

起きてピアノのパートを執拗に詰める。執拗すぎて曲の半分ちょいしかレコーディングできなかった。なんなら打ち込みにすれば1時間もかからないのだが、生演奏のニュアンスでないとこの曲は成り立たないと判断したためである。

深夜になり、今日はぶっ続けで制作をしていればよかったかなとも思うが、外で思索の答え合わせをして、読みかけの本や街の様々な要素からインプットして、良質なアウトプットの種を頭やらに配置することも重要であると手打ち。

新宿はとにかく人が多かった。祝日はそういうもの。振り返ると、バランスのとれたいい1日だったなと、今日という日に感謝する。
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コンサルのやつどうしようかな〜と、せっかくご評価いただけてるのに顧客の絶対数が少ないな〜と、思い悩む。必要なのはプロモーション・広告ここだと判断し、何かテコ入れしようと考えを巡らせているところでライター案件を受注したのでそっちを優先。

まばらにくる新規事業案件よりも、定期的にいただける案件が先。順番としては間違ってはいないであろうが、同時にやるのが望ましい。

そういった基本的なスタンスも今後の課題だなと、それとは全く別の展望もノートに「企画」としてしっかりとアイディアと構想を書き出したりする。

なにか大きなことや目的を達成させるには「逆算」が有効という。その展望はでかすぎるくらいがいいという。

いわゆる「ゴール」を設定し、その手前で何をするか。それが現状ではきびしいと判断できればまたその手前の工程。まだかなと思ったらそのまた手前。それを繰り返し、「ゴールに向かうべく工程がいくつかあり、そのなかで、いま、できること」を愚直なまでに行ない、次の工程に進み最終的に「ゴール」に到達する。

これは、苫米地英人さんや岡田斗司夫さんなど、いろんな見識者が述べている見解である。

そして、それを「やるか、やらないか」というだけのこと。これはもう、何かを成し遂げた人たちがほぼ100%と言っていいくらい共通して断言すること。

じゃあやればいいじゃねえかという話になる。ただ、なにも設定せずにやるよりかは、「ゴール」の設定があったほうがよい。

あるいは、あまりにも好きすぎて没頭できることに関しては、何も考えずにひたすらやっていれば、あとから何らかの「結果」や「実績」につながるのでまずそこに集中する。このへんも識者がよく言うこと。

没頭することは昔から各種の分野でしてきて、いまに繋がっている。それはそれでよしとする。

ただ、「ゴールを設定して」ということについてはまだ脇が甘いかなという自覚が確かにある。だから手書きで企画をノートに記したりといった行動につながる。このささいなことも、やるかやらないかとでは、大きく異なる気がする。

そういったわけで、先々を見ながらも目の前のタスクを行ない、日々継続して没頭できることもしぶとくやる。あとはペースとゴールの解像度の問題だなという結論に至る。

頭でわかっていることをひたすらやり続ける。簡単だが、やる人間の方が圧倒的に少ない。そのように述べるスーパースター的存在もいる。

じゃあやっていこうと、襟を正して明日に向かう。これくらいの歳になってもそんな自己啓発的なことを明言する手前はアホの子なのかもしれない。だがはっきり言えることは、「やろうと思っていたが、やらなかった事実」は、甚大な後悔となりうる。それはとても面白くない。

つまり、でかい絵図を描きつつもコツコツ進む。その絵をもっとクッキリさせるには、これまでのあらゆる点を繋げ、新たな点を見つけ、また繋げる。その繰り返し。そう考えると本当に、実は、人生って短いのかと思う。なんならこれも成し遂げる人が共通して言葉にすること。

さっきソファで座ってギターの練習をしながら、「ついこのあいだまで、足立区鹿浜の実家の部屋のベッドに座って同じようなことしていたな」と、イメージと感情がセットで想起された。そう考えると本当に早い。だってそれって、30年ほど前のことなのだから。

当時高校生の俺に言ってやりたい。

「お前が弾いているそのフェンダージャパン製のストラトキャスターは数年後に売り飛ばしてしまうのだよ……!」

「は? なんで? バイト代で買ったばっかよ?」

「そんでもって30年後、またストラトを買う……! 同じ色合いのいいやつをな……!」

「いやいや、これでいいじゃないすか? なんで同じモデルのギター買うの?」

「うるせえ!! そこまでに色々あったんだよう!」

「あの。いま、練習中なんすけど…」

「そう。お前の言う“いま”は、それをやり続けろ……! “ゴール”はあるのかな……?」

「はあ、あんた(誰だか知らんが歳上なのはわかる)にゴールとか訳わからないこと言われなくてもひたすら毎日弾いてるけど…とにかく邪魔しないでもらえますかね?」

「もちろんだ……! あとな、ギャンブルはほどほどのところで撤退してくれ。頼むから……!」

「は? ギャンブルなんかしたことないけど?」

「1年後に手を出す……!」

「やりませんよそんなくだらないこと! 何なんだよあんたマジで…とにかく、いまもうちょいでツェッペリンのこの『天国への階段』ってすげー曲を弾けるようになるかなーってとこなので、帰ってもらっていいですか?」

「繰り返しになるが、お前は30年後もストラトを弾いている……!」

「だからこのギターでしょ? めちゃカッコよくないですかこれ?」

「もっともっともっと、いいストラトだ……色一緒のやつ……!」

「いやいや、だからこれでいいじゃないですか。もうその――。帰れ。」

「うん。頑張ってな」

「テ〜レ〜レ〜レーレ〜レ〜レ〜レー……(『Stairway to Heaven』)」

「うまいうまい」

「うるせえ! 帰れ!(灰皿を振りかざす)」

「なつかしいね。その『ラッキー・ストライク』のソフトパックとか。いいか。30年後お前は火を使わずにタバコを……!」

「もういいよ!」

「頑張ってな」

「うん。絶対にこの宝物のギターを売ったりしないから安心していいですからホント」

「数年後にお前はそのギターを自分の手で――」

「お願いですから帰ってください」

そういうわけで帰ってきたが、あの頃に思い浮かべていた未来といま、どれくらいの乖離があるかは、彼にしかわからない。

その後、思い描きもしなかった幸福もたくさんあり、なおもまだ試行錯誤しつつ、前進したいという意欲を持っているつもりであるということは、あえて伝えない方がいいのかもしれない。
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2年に一回あるかというかまず、ないであろうという「寝坊」で謝り倒す一日。

以上。あとはたのしかった。
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近所のおばあちゃんのおつかいに行く。電気代や水道代とかも代わりに払いに行く。

そう、高齢者に特化した便利屋的代行業である。一昨年立ち上げてコケて終了。だが、数名の常連客だけはいまも対応している。新規獲得営業は、もういっさいしていない。

実は時給換算したらキャバクラ嬢レベルのこの業務。だが、全力で営業していたつもりの当時は、プロモーションが思いのほかうまくいかずに頓挫。いまは月に1回くらい、依頼をくれる常連さんだけに1〜2時間くらいサービスを行ない現金を得る。

まあそれはそれでと仕事部屋に戻り、ライター業を数時間やる。棚に目を向けると、ずいぶん本が増えてきたなと今年の読書量を振り返る。

本はインテリアとしても作用する。仕事部屋には楽器と音楽機材がたくさん、書籍たくさん、ソファに漫画棚とかわいい植物たち。スタジオのようであり書斎の雰囲気もあり生活感もちょっとある。親しみやすいアトリエとして実感できる。

宵がすぎたくらいに楽曲制作をして、手前で考えて手前で手こずるピアノパートに向き合う。指がくたびれたので一区切りする。

様々な志向性が交差する日常。そんな日々が毎日きてくれることに感謝しだした昨今。起床時に「今日という一日をありがとうございます」と、ベッドで発声してから生活を開始する。本当にそう毎日言っている。なお、香ばしい新興宗教などには傾倒していない。

当たり前のことがそうでなくなる瞬間を、何度となく目の当たりにしてきた。それもあるかもしれないが、シンプルに歳なのかもしれない。ともあれ、それだけ豊潤な時間を過ごしてこれたのだなと前向きに捉える。

近所のおばあちゃんは、脚が痛いご様子で少ししか外出できない状態。腰の角度はデフォルトで志村けんさんのコントみたいになっている。耳は遠く、本当に「あんだってぇ?!」と連呼する。物事を理解するスピードと認知度は信じがたいほど自分とかけ離れている。

俺も、いつかそのようになる。その前に死ぬかもしれない。だから、いまの状態でできることや、感じられることそのものに対して率直に感謝するようになった。

そう言ったら大げさかもしれないが、「当たり前と感じていることがそうでなくなること」は、何よりも「死に近い感覚」なのかもしれないと認識する。

だから日々をしっかり生きる。もしも明日が来てくれるのであれば、ありがたく享受してなんやかんやと楽しく過ごす。

“普段通り”生きていられるというのは、実はものすごく大切なことなのだなという、ただそれだけの話である。
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いつぞやの断捨離のしすぎで冬服が不足していることに気がつく。必要だし欲しい、だがしかし服にあまり金をかけたくない。そのようなアンビバレンスな心境のなか池袋に買いに行く。

どうかな、このへんかなと、予算重視で店をいくつかまわる。「これしかない!」という逸品には出会わなかったので無難なカーディガンとインナーを1点ずつ買う。ファーストリテイリング系、つまりユニクロなどで買ったので合計6,000円弱。ワンシーズンもてばいいかなと納得して電車で帰る。

赤羽駅東口の喫煙所でガールズバーの娘にからまれる。

「お兄さんいかがですか? イチキュッパです!」

「(さっき買った服もそれくらいだ)へええ。安いし、楽しそうだね」

「楽しいですよ! 行きましょう!」

「僕ね、これから買い物に行くんだ」

「いまからですか?」

「うん。あっちでお弁当がこう、半額とかになる時間だからそれを狙うの……」

「じゃあそのお弁当持ってこっち来ましょう! 楽しいですよ!」

「弁当持ってガールズバーって、なんか面白いことにならない?」

「だからいいんじゃないですか! 行きましょう!」

「(いやそうじゃなくて俺自身がなんか面白いことに――)また今度行くよ〜」

「いま行きましょう!!」

「また今度――」

同年代である1980年生まれ以外の人物に対しては一律敬語と決めている。決める前にタメ口だった人は例外だが、今後はそのようなスタンスでいることにしている。

理由は、人間関係における関係値や上下関係、序列などを自分の口調起因で生じさせたくないからである。だがしかしガールズバーの娘はそのスタンスを秒で崩す謎の開示性(?)と訴求力があった。

じゃあ行けばいいのにとも思うが、いまはガールズバーで飛び跳ねて遊ぶ心持ちではないと、帰宅して仕事をする。けっこう食い気味に一気にやる。出費があったことがその集中力の源泉であろう。

服なんてブランドの店を選ぶ基準とし、ガールズバーの娘に営業かけられたら秒で「行く行くー!」くらいの豊かな経済状態になりたい。

そのためにはと、今日もいつもと違う視点でいくつか考えていたつもりだが日常。やはりコツコツ行こう。思考は止めずに。
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ふつうに仕事をして、先日来ていた明らかに無差別営業と思わしきメールが気になっていたので掘り返す。

いまやっている各業務とは全く別分野だが、どこか繋がるものがあるなと、無料だったのでオンラインセミナーに申し込んだ。なにか新たな発見や発展のタネとなるのではないかというのがその能動の源泉。

しかし正確に言うと、そもそも優良な何らかであるとはハナから信用していない。だから対象の企業について調べ尽くした。

その上で、当サイトのメールフォーム経由からくる「無差別営業メールの内実がどういうつもりなのか」ということを知るための潜入取材的ムーブであることがメインである。その実態たるやどうであるかは、セミナー実施日の26日にレポートとしてここにまとめようと思う。

第一、このサイトのメールフォームからくる依頼やら相談は、数はそんなに多くないがほとんどが第1通で「どんな内容か」「対応可能か」「費用はいくらか」という3点が記されている。これらがあった場合はガチの案件ならびに見込み顧客である。俺なりの最上級ビジネス文調でご返信して受注に臨む。時には相手の文調のフランクさに合わせた筆致にする。

そうでないのは99%ほどスパム。毎日来る。外国からが多い。ロシアからとかなんなんだと最初は慄いた。しかしだんだん頭にきたのでメールフォームに広告を貼り、スパムメールを送るために、そのページにきた時点でインプレッション収益に繋がるようにした――これもそろそろよしたほうがいいのかもしれないが――くらいである。

とはいえ、サイトメニューの「ご依頼 受付」や「管理人」と「WORKS(楽曲がどこでご使用されたかをアピールするページ)」あたりにドンと広告を表示させるのは適切とは捉えがたい。プロモーションとしてよろしくない作用となることは明白なので、今日剥がした。

せっかく「依頼してみようかな」「どんなところでやってるのかな」という大切な顧客見込みの調査の目下に、いきなりババアの顔面ドアップデザインのわけわからん広告がせり出したら萎える。俺なら萎える。なんならその時点でページから離脱する。

そこで、当サイト全ページ広告やめようかなとも思ったが、そこはストック収益との兼ね合いもあるので全てとはせず。

この日記ページにも広告は表示されるが、「読みづらいから広告をなんとかしろ。ババアとかいいだろ」という、実にありがたいご指摘が来るまでは剥がさずにいようと思う。たぶん来ないと思うが、これは来てくれたほうが嬉しいクレームである。それだけページに訪れてきてくれている証しだからである。

そういったこともあり、ウェブまわりは専門ではないため、節々で「むつかしいものだな」と実感する。予算があれば本当に、コンテンツの作成およびアップロード以外の管理とブラッシュアップはプロに依頼したいくらいである。

そうでなければ、ここを動かしている「PHP言語」というやつをきちんと学ぶ必要がある。サーバーの知識も必要。セキュリティもそう。そうすればロシアからの謎メールは来なくなるであろうか。

何にせよ、ウェブ上の看板とメニューと受付口をも担っているわけだから、また時間を見て質を向上させるべきである。

その際、まずは何と言ってもファーストビュー(最初に目に入るところ)が重要な要素のひとつとなるわけであるが「ANONYMENT Records」という名前が既に怪しすぎる。

それはロシアからスパムメールが連打されてもおかしくはない。その国が喧嘩を勃発し始めてから数日間、ロシアスパムメールが激増したのは、この名前が原因なのかもしれない。いまさらもう変えられないというこの歯がゆさ。

もちろん変えること自体は容易にできるが、SEO対策などがまた1からとなるので望ましくない。

「最初が肝心だ」と、サイト開設当初の俺に、広告のババアくらいの訴求力をもってして説得してやりたい。あれから10年が過ぎた。続いているという点については、きちんと評価するのがいいだろうか。
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言語。特に日本語は、うまく「文章として」組み立てようとすると、なんかむつかしくなる。書くのも読むのも。

他方、「箇条書き」にするとある程度はそうではなくなる。だが、その場合は想像力が多分化される。そのように思った。今日を箇条書きで記すと以下のようになる。

■仕事
・起きて睡眠時間がやや足りず眠い
・SPALの興行スタッフ案件で銀座で半日弱過ごす
・俺に限らずクルーのほとんどが眠そうだったがそこは皆プロ
・途中、足立くんが別件でひととき抜けてやや不安を感ずる
・結果、無事みんな笑顔で帰路へ

■そのあと
・帰路の読書でフッサール(哲学者)関連書籍で「写像」の概念を知る
・なんか気分良いので赤羽一番街「思い出横丁」の店で2杯ひっかける
・その店に決めたのは、いつもの立ち呑み屋で定位置に付くも隣の任侠確定(刺青・濃いグラサン・昭和の物腰・50後半〜60代前半の年齢)の御仁から「兄さん……ラストオーダーだよ?」と、やさし〜い助言を賜ったこと
・よって、河岸を移し「レバ刺し」を食べる
・会計して缶酒を適当に買って帰宅

■宅
・メール確認すると楽曲使用報告が多かったので丁寧に返信
・手前の撒いてる楽曲は客観的にどうなのかなと各曲プレイバック
・いまに至る

「写像」とは、“ある集合 「AA」の各要素に対して、別の集合「BB」の要素を1つだけ対応させるルール”。

西村ひろゆきさんの「なんですか? 『写像』って」という有名な返しこそ、「それを知るか否かのほうが重要である場合がある」ということを知ると同時に併せて解釈する。

『やきとん魚友 赤羽店』でレバー以外の感覚的な情報源である「喧騒」だけを受けながら、ただただその場を楽しみながら呑んではそう思っていた。

そして、構造でも箇条書きでも散文でも、人それぞれ解釈の仕方にかなりの違いがあるんだなとストンと収まる。

結論。次に赤羽で誰かと呑みに行く際は問答無用で前述の「レバ刺し(ブタレバー低音熱調理)」の店に連行する。だって信じられないくらいおいしかったのだから。
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なにか新たな収益源はないかと、とりあえず散歩しながら考える。今日に限らず、その「なにか新たな」という思考をバックグラウンドにずっと置きながら色んなコンテンツや本などの情報を処理して、散歩でそれを整える。そういう明確な目的もある。

戸田公園駅までJR埼京線で北上して下車。そのまま線路を目印に歩いて南下する。

途中、これといって畏怖するような景色には出会わなかった。見落としていたのかもしれない。ただひたすら考えて歩くこと2時間いったかいかないか、「赤羽駅までは無理だ」と判断し、途中で電車に乗る。

書店に行き、実用書やビジネス書をパラパラと読む。今日は1冊も買わなかった。帰宅して机で思ったのは、「コンテンツビジネスの新たな種別を増やそう」というアプローチの模索だった。

結局は、基本的には「自分のスキルに特化した仕事を」というコンセプトがあるので、それをコンテンツ化したもので収益化する。

初の試みというわけではなく昔からやっていて、ウェブサイト経由の広告収益や制作楽曲の配布先からの収益などがそれにあたる。

記事を読んだユーザー数や、楽曲リスニングおよびご使用数に応じて収益となる。いわゆるストック収益(継続的に発生する対価)である。

それに加え、原稿料や音楽を軸とした制作や現場稼働などの収益。さいきんではコンサルティングというやつも始めてみた。これはフロー収益(その度に発生する対価)にあたる。

その中間に位置するコンテンツビジネスがあるのではないかと考えた。手前の場合だと、まず「書いた文章」を「ストック型収益」とするスタイルである。

そうなるとそのマーケットはどこにするかと書店で調べて行き着いたのが「note」というプラットフォーム。これは10年くらい続いているサービスで、ユーザー数も主要SNSくらい多い。じゃあやるかと思う。

というか、数年前に少しやっていた。だが、全く金にならないどころか閲覧数も悲惨なことになっている上、ひとつもメリットがないのでヤメたのである。

そこで「なぜそうだったか」という点を分析した。いまならすぐにわかる。それは、“なにかが売れる大きな3つの要素、「誰が書いたか」「役にたつか」「圧倒的に面白いか」”という、それぞれのどれにもかかっていなかったからである。

当時は、試しにとnoteに小説を投稿し続けていた。個人的には面白いとは思っていたが、“圧倒的に”とは判断し難い。小説という分野においては前述の「誰が書いたか(例えば東野圭吾さんが書いたものであれば――)」「圧倒的な面白さ」が、かなり重要となる気がする。参入するにはかなり手強い分野である。

そういったわけで、これからnoteに投稿するにはまず企画がものを言うと、これまたすぐに手順をたぐることができた。数年前はこういった考え方はできなかった。だから、撤退に至った。

では、どの要素にフォーカスをあてるべきかと考え秒で出たのは「それを読むと役に立ち、実用性がある」という点である。そこに体験談などのストーリー性も加わるとかなりよいと思われる。

そこまで考えて思ったが、そのように絞ると、案外やることはシンプルになり、ネタもわりとある。これから取材して生み出すこともできる。

ということでまずはnoteに「利便性のある情報が含まれる記事」をコツコツ投稿し、読者やフォロワー的存在を増やし、有料記事を作成し、ストック収益源とする。

今日のところはそこまでの「最初の段階のアプローチと企画性」が整ったので、新たにアカウントを作り、そこで実名でプロフィールページを作成し、クッキリした企画と作成は明日から走らせることにする。今日においての“なにか新たな収益源はないか”を具現化させるべくタスクは以上とする。

あとは楽曲制作をする。やっとピアノパートができたので別のトラックを録音していく。「この曲は、売れる3つの要素のどれにかかるか――「曲調や尺からして、『役に立つ』=『広く使いやすい』という点だ」と、着地点を明瞭に見すえる。

だからマニアックなアプローチはしない。ただただポップに、聴きやすく、耳馴染みのよいように、だがしかし手前が作ったという匂いも残しつつ、ファッションで言ったら清潔感のあるスーツスタイルで笑顔でいる感じの楽曲に仕上げるべく、アレンジを進める。だって作り始めのコンセプトが「企業プロモーション・CM向け」なのだから。

そこに前衛的なやつは要らない。そういうのは1つ前に作った「Umwelt」という楽曲で思い切りやったので、それはそれでそういうのも配布する。「私はいろいろ作れますよ」というアピールともなりうるからである。作りたいからという能動が第一だったりもするが。

そういったわけで、楽曲制作もライター業も、コンテンツビジネスも、幅広くやるのがいいという思索をもって生産性に重きをおく。本にも書いてあったが、これから先に求められるのは「対応力」。そこに「専門性」が加わればけっこう強固。

戸田公園駅から赤羽方面まで歩きながらグルーヴさせていた考えは以上のようにまとまった。散歩大事。
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昨日は飲酒がいつもより少なめだったことが起因か身体が軽い。気持ちも軽い。おやおや単純だなとも思うが、因果関係に酒は含まれていないことを願うこの感覚は「酒はそんなに影響していないよ」と信じたい酒のみの認知バイアス。歪んでいる。あきらかに偏っている。

まあいいかとススと仕事をして、プラットフォーム「note」に参入してみる。そんな大げさな構えである必要もなさそうだが、きちんと企画というかコンセプトを決めて記事を書くことにする。

命題は「体験ベースの有益な情報の提供」である。つまり情報源は“体験”という一次情報。音楽分野に関しての制作やライター業における取材(オフレコ除く)やから得たものや、専門家との対話などで得た情報、汎用性のある実体験からのの気づきなど、そのへんを書いていく。カテゴリーは「音楽」「文筆」「メンタルヘルス」に絞った。

どこから書こうか、というかどこからでもいけるなと思ったが、どうやらこのプラットフォームでは「自己紹介」の記事から入るのが不文律と見受けられた。

そういったわけで、自己紹介文から書いた。実名である。「誰が書いたか」という読まれる要素としては俺は悲しいかなさほどネームバリューがないという事実があるので、「利便性のある・役に立つ」という要素に振り切ることにする。

とはいえ「お前誰やねん?」という反応は明白なので、文中に小見出しで、“そもそも誰?”という段落を設けてそこに手前の生業と書くコンセプトと趣味などを記す。

なんだかSNSのやりはじめの頃を思い出すが、ここは情報発信からの収益化が目的。きちんと書く。ユーモアであるつもりのスパイスも適度にまぶす。

こんな自己紹介文誰が読むねんという確信的予測があったが、「はじめましてのnote」というハッシュタグがわりと強力であるという一点の要因のみで、SNSでいう「いいね」的なやつが最初からいっぱいつく。この場合の“いっぱい”は2桁である。

なるほど。こうして最初からユーザーを萎えさせない工夫をこらしているのだなと、noteの目論見を分析する。そして、そこからどうするかが運命の分かれ道。

SEOライティングを意識しつつ、命題をおろそかにせず、コンセプトをぶらさなければ、ある程度は読者がつくはずである。そうあってほしいというか、そのために企画性を重んじた。

あとは継続力だろうか。とりあえず、ほぼ毎日更新して様子を見ることにする。初動が萎えるものではなかったのは心情的に大きいなと実感した。

誰でも、新たにやることにおいて諸段階で反応があると嬉しむ。そこに対してきちんと手を打っているnote。あなどれんと敬意を払う。

無料公開を連ねる。濃いめの記事は有料にする。フォロワー的な人数と記事の内容との関連性を分析する。それを繰り返して続ける。流れは今日決めたのであとは続けること。どんなことでもコツコツしか数字を増やす方法はないと思っている。

知らないだけで、最短ルートもあるのだろうが、俺はコツコツが好きだからそうする。そのあとの夜の時間は楽曲制作もコツコツ進め、順調に音像が明瞭になっていく。

「ウサギを狩りに行く者の目的は?」という問いがある。

当然、答えは「ウサギを捕まえて食べるためである」であろう。

では、「そのウサギを狩る者の出発時にウサギを渡したらどうか?」という問いがある。

答えは「狩りに行く手間が省けた。ありがとう」であろうか。

異なる。という見解がある。

それは「俺はウサギを狩りに行くスリルと過程もセットで目的なんだ。そこを飛ばしてウサギだけ毎日目の前に与えられたら、俺は一体何のために生きているのか? 何をして日々を過ごせばいい? 萎えるだろ!」というもの。

生きる上での一連の行為を奪われることにつながる。そういうことだろうか。手前のタスクにスライドして考えると、「楽曲を作るぜ」「――はい。お前が作りそうなやつこれな」と、WAVファイルを差し出される。完成度は確かに頷ける。

架空だが、そういうケースに出くわしたら俺はこう言うであろう。「すごいね。理想形だ。くれるの? だが、断る」と。

だって音楽を作っている時のあの高揚と苦悩(といったらカッコつけすぎだろうか)を奪われるからである。ウサギのくだりと一緒。

要はそういった理由で、仕事におけるどんな行動でも最初の思考やプロセスや葛藤や完成時の悦びはとても大切だなという、それだけの話。だからコツコツやる。こういうことをnoteに書けばいいのだろうか。

いや、ウサギのくだりは書籍『暇と退屈の倫理学』に記されていた部分の受け売りなので、一次情報ではない。だからnoteには書かない。こういうのはここに書いて心に刺しておく。なんにせよ、ウサギを追いかけているときというのは、実に楽しい。
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先日、黒いチェスターコートをネットで購入し、とても楽しみにしていた。そして到着。ウッキウキで開封した。

シュッとスタイリッシュで「ブラック・ジャック」が着ているようなクールなやつ。そういうデザインのものを選んだ。

発注先は海外の謎サイト。めちゃめちゃ謎。どこの国かもわからなければ、生産地すら判明不能。謎のタイムセール。価格は1万円と少々。

リスクがある。あまりにもリスキーである。しかし写真のデザインとイメージが見事に合致したので俺は「ここでリスクをとらなければ――」と、奮起したわけである。

そして着てみた。うん、うんん? いいかな? は? カッコいい……いやなんかちがう? ここをこうして……なにこの位置のボタン? サイズ感が……なんか写真と生地の艶がぜんぜん……? スー。「ダサい」。

ここ数日で一番ショッキングであった。このチェスターコートは圧倒的に「何か」が違うのである。つまりダサいのである。そう認めるまでに1時間は溶かした。

袖の幅は過度に大きくバストも広すぎる。肩にはパットが施されており、バブル期を彷彿とさせる。しなくていいやつである。ダブルのスーツのような締め方がデフォルトであり、それ以外の締め方はなく、ボタンを締めると信じられないくらいチェスターコートではなく映る。どう考えても絶望的にダサい。

これは着られない。売っちまおうとも思ったが、買い手にこれを着て欲しくない。それくらいダサいのである。いや、言い過ぎだろうか。単に手前のサイズと合致していないだけなのかもしれない――いやダサい。

もうその気持ちを引きずりすぎて制作の時間がとれなかった。ファッションについてこんなにも深手を負うのは初めてではないかというほどであった。いまは気持ちを切り替えたが――しかしダサい。

教訓。服は必ず試着してから買うこと。これを鉄の掟とした。あと、ネットショッピングにおいてリスクをとるなどというスタンスは必要ない。ないのである。
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仕事の合間に池袋パルコ本店に行く。当然、チェスターコート挽回の取材である。

あらかじめ昨日の失態を、知人のファッション・賢者に伝えた。すると「だから言ったじゃないですか!」と、当然のように笑われ、服選びにおいての濃いめの教えやレコメンド店を賜る。そして3店舗に絞っていただき実際に各店で試着および価格調査をする。

わからないことは詳しい人に聞くのが一番早い。その理念を基に、店頭でもまず「あの、シュッとしたチェスターコート探してるんですけど――」と店員さんに聞く。

中でも印象的だったのは、「ユナイテッドジャパン-UNITED JAPAN」の店員さんの対応だった。店員さんというか、その若い方(28歳)はなんでも代表の方だという。

彼は、コートにおいては裏地の生地は「キャプラ」であることの重要性と、ウールの細かさを示す数値は高い方がいい(120以上)こと、ウールの配合率は80%程度が好ましいなど、生まれて初めて聞いた知識をくれた。

試着したやつがよろしかったこともあるが、知識をくれたことがとてもありがたかった。そして、前述の各要素はファッションや服選びにおいては、詳しい人は「知ってて当然」というスタンスもあるということも併せて教えてくれた。

例えるなら、エレクトリックギターを選ぶ際に「ピックアップのシングルってなんすか?」「メイプル指板ってなんすか?」という感覚にひじょうに近い。

なんなら酒で言ったら「アルコール度数ってなんすか?」くらいのレベルである。俺だったらそう聞かれた時点で「お前はあれだ。もう酒呑むな」と、静かに激昂するくらいの基礎的知識だろうか。

服において、それくらい頭ニワトリ状態の俺に、きちんと丁寧に教えてくれた「ユナイテッドジャパン-UNITED JAPAN」代表の方への感謝は禁じ得ない。その場できちんとスマホでメモした。

知らなかったことを知り、「これだ!」と思ったチェスターコートに巡り合ったこと、アパレルの代表の人って肌ツヤッツヤだなといった所感、いろんな収穫があった。

まだ買っていないが、試着して「これだ!」と直感で判定できたやつは、その代表のお店の品ではない、すこし敷居の高そうな別の店舗のもの。実はそっちを狙っている。繰り返しになるが、直感が明らかに「これ」と判断したからである。

服にあまり予算をかけたくないが、俺はコートについては少なくとも向こう5年は着るつもりで買う。そこでケチると冬のたびにショボい気持ちになる。そして、向こう5年後――つまり50歳目前――の頃にダサいコートを着ていたくない。

さらに、その頃はもうチェスターコートのような細身に適した体型ではなくなっている可能性がある。要は、いま買うべきはベストと思うチェスターコート。しかしそいつは税込57,000円也。運命の分かれ道。

知人のファッション・賢者の言葉が心に刺さる。「平吉さんには5万円はするコートを着て欲しいんです!」という言葉が。それは愛所以だろうか。

とはいえ5万。ともあれ5万円。ギターには迷わず50万円を出しても服には5万円で悩む。人間のアイデンティティって自己投資対象への金額に明瞭に出るなと深く知る冬寸前。
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昼まで寝くさりライター業の原稿戻りの対応をしてまた戻す。それから定期検診へ行く。体調は、とてもよい。

「どうですか。平吉さん」

「ええ。おかげさまで徐々に、だんだんと、あの変なのがなくなっていくのを実感しております」

「あの変なの?」

「あれですあれ。交通移動中の、耐え難いがギリ耐えられる変な不安です」

「そうでしたね。予期不安でしたね」

「そいつです。さいきんは移動中は読書をしているのですが、そうしているとあまり気にならなくなりまして」

「よかったじゃあないですか」

「はい。『あれはなんだったんだろうな』というくらいに。とはいえ、先生が『認知の歪み』についてディスカッションしてくださったことが大きいです」

「平吉さんね、それパニック障害とか不安症でよくある症状なんですよ……」

思い返すと先生は、俺がほぼほぼよくなったと明言した今日まで、先生の口から「パニック障害」や「不安症(不安障害)」という具体的な病名を口にしなかった。あえて、段階を見ていたのだろうかと想像した。

「そうらしいですね。10代の頃に一度、パニック発作を起こしたことは申し上げましたよね?」

「……はい(PCのカルテに目を向ける)」

「それから一度も起きてないのですが、あの体験はあまりにもセンセーションでして」

「ほほう」

「とはいえ、それから1度も起きていないことに対して予期不安を抱えるのはナンセンスだと、どうやら認知の歪みを修正できつつあるという感覚です」

「まあ、平吉さんの場合はそこまで症状が重いものではないので」

「そんな感じだと思います」

「ですから以前処方した抗不安剤を頓服して、慣らしていくのがいいんですよ」

「そう仰ってましたね。だけど謎にその薬を飲まずに自力でなんとかしようともがいていた自分がいるんです」

「ははは」

「いま思うと、最初から先生の言う通りにしておけば長引かなかったのかなと」

「そうかもしれないですね」

パニック障害や不安症の治療は確立されている。程度にもよるが、まずは投薬で症状を緩和させ、不安対象に身をおいても大丈夫であるということを慣らせ、そこから認知を修正していく。

この限りではないが、まずは薬飲むのが有効というのが、俺に対しての先生の見解。なんで言う通りにしなかったのであろうかと、いまさら後悔するがそれも含めてきちんと報告した。

「あとですね、四十肩が治ってきたので再発や五十肩防止に毎日の腕立て伏せを始めまして」

「反対側の肩もなりますよ!」

「(なんで脅すんだろ?)はあ、そうなったと先生このあいだ言ってましたね」

「それで、腕立て伏せは効きますか?」

「いいですよ先生。運動にも筋トレにも四十肩ケアにもなるし、いいことずくめです!」

「そうですか……!」

「そこでですね、この筋トレのように、メンタルも鍛えることができるのかという質問があるのです」

四十肩のくだりあたりから先生は発言のたびにマスクを顎の下までずらしたり、舌を少し出したりと、要は口元に意識が作用しているように映った。

「むつかしいですけど、野球に例えると、苦手なコースにスライダーを投げられて打てないバッターがいるとするじゃないですか?」

「野球の例え、わかります」

「そうしたらそのスライダーが苦手だとわかっているので、そこを重点的に練習するなど、ですかね」

「訓練ですね」

「そうなりますね」

「なんとなくですが、もしかして『これ』といったメンタル強化法はない……?」

「そのね、別に強くしようと考えなくてもいいんですよ! 平吉くん!」

「(はじめて『くん』って言った)ははあ!」

「弱くたっていいんです。それも含めて自分なんですから」

俺はどうかしていた。そして先生はなんかもう、マスクを外して机に置いていた。精神科医のその言葉を聞いて俺は一体何を質問しているのかとあっけにとられた。なぜならば「自分の弱さを受け入れる」という「自己受容」の重要さはあらゆる文献からその重要性を知った経緯があるからである。

「ですよね……!」

「平吉さんはね、どこか『もっとこうしなければ』という部分があるんじゃないんですか? そういう考えが強すぎるんじゃないんですか?」

「ありますね〜」

「別にいいんですよ弱い部分があったって。人間なんですから」

「ですよね」

「メンタルを強くする方法があるとしたら――ふふふ。このクリニックだって開業して3年も持つかもたないかですよ」

「みんな来る必要なくなりますもんね」

「そーそう……!」

「なんだかんだで先生とは5年くらいですかね。お世話になっています。その文脈でいただける様々な言葉がなんかこう、いいんです」

「そうですか」

「先生、YouTubeとかでよくあるじゃないですか? メンタルヘルス系の『こうするといい!』みたいなやつ。メンタリストDaiGoさんとか」

「へええ。私はそういうのは観ないですね!」

「ああいうのは結果と根拠とかだけ示すんですけど、なにぶんこの場のようにプロセスがないので心底までは響かないんです。コンテンツとして面白いので、決して批判するつもりはありませんが」

「まあ、情報としてはいいんじゃないですか?」

「そうですね。僕はエンタメとして観ています。先生みたいなガチの精神科医もYouTubeやってたりしてますよ?」

「へええ……!」

「(先生と組んでYouTubeやったら面白そうだな)いるんですよ。出たがり精神科医とかカウンセラーが」

「ははは」

「人間、弱いところがあってもいいんですね先生。僕はそこを、薬で補填するなりカバーするなりします」

「それでいいと思いますよ」

「じゃあ次回なんですけれども――予約しますか?」

初めて今日、先生は「次来るのは任意だよ」といったトーンで俺に診断の意思を確かめた。

「はい? そのほうがいかな〜と。先生、俺はもう薬とか飲まなくてもいいんですかね?」

「いえ、平吉さんの場合は飲んでいたほうがいいと思います(危うい奴を見る目)」

「(即答だな。まあ、先生としてはビジネス要素もあるだろうし)僕は薬を飲むことに全く抵抗がないので――」

「じゃあ次回は来月の――」

人間は弱い部分があってもいい。そこを認めることが大切である。そして、そこを責めるのは悪手である。今日の要点はここである。

「こいつ、メンタル強いな」と思った人物が「どうしたの?」というムーブを見せることがある。逆もある。

今日わかったことは、メンタルに強いも弱いもないということ。強くする必要性もないということ。意外だったがそういうことになる。

要は感度の問題と偏り、そこから身体への影響が大なり小なり出たり出なかったり。著しい場合は治療が必要で、治療法が確立されているものもあればまだ研究中のものもある。そんなところだろうか。

だから、手前のメンタルが弱いとか強くしようとか、そういうこと自体を考えることはヤメにした。これって、けっこう大きな収穫だと思う。

「弱い」部分を知り、「強い」部分はそうしたければ伸ばす。おかしすぎる状況になったら治療を視野に入れる。いずれにせよ人間として自然なこと。

「メンタルを強くする方法はない」。正直すぎるというか、俺の主治医はすごいこと言うなと恐れいった。正確に言うと訓練によって改善が見込めることもあるが、一概にはメンタル強化方法は一言では伝えられないということ。

それにしても、精神科医の人間味をリアルで垣間見ることはすごく面白い。
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買い物以外は仕事部屋に引きこもる。noteで書いたり、noteというプラットフォームの自体を分析したりする。いろいろ工夫もこらす。

楽曲制作を数時間はする。「あとはアコースティックギターを生録音してMIX」という工程まで進む。四十肩の可動域の影響で座ってアコギが弾けなくなり半年は過ぎた。

このあいだ、現場でよしお氏のアコギをなんとなく座って弾いたところ、まだちょっと痛いが弾けるには弾けるようにまで回復していることに気づいた。スティービーワンダーの曲を弾いたら横でフフフフンとヨディーさんが歌ってくれていた。いろいろと嬉しかった。

今日は時間的にアコギ録音まではいかなかったが、メロディとストリングアレンジまで進んだのであとはもう1、2トラックのアコースティックサウンド。それでレコーディング完了。

当然のように弦が錆びまくってる手前のアコギ。半年以上ぶりに録音できる。安堵と嬉しみ。だって肩が痛くなり始めた当初は、本当に「このまま永遠に座ってギターが弾けなくなるのでは」と、慄いたくらいなのだから。

そんなことを想起しつつも、各種コツコツと進めた静かな日。あまりにも地味だが小さな幸せがたくさんあった良日。
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よし、半年以上ぶりにアコースティックギターを録音しようと、まずは弦を替える。もちろんめちゃめちゃ錆びているうえにボディも薄汚れていた。なんか変な虫の足跡みたいのも付いていた。

「弾かれない楽器というのはこうもふてくされるのか」と、ピッカピカに磨きバシッと弦を張り替え、本当にまともに座って弾けるかなと四十肩の快復度を懸念しつつ弾く。

「あれ、俺のこの弾き倒しているアコギはこんなに良い音色だったか!?」と感動する。久々にまともに弾けたことによる安堵という名のエフェクターがかかっているのであろうが、現に「心底、良い音だ」と嬉しくてずっと弾く。ちょっと右肩痛いがまともに弾ける。

「普通に楽曲のスピードについていけるかな?」と、レディオヘッドの「High and Dry」という3コードの曲を流しながら一緒に弾いてみる。するとなんのブランクも感じずに余裕で弾ける。

手前で作った「Breath」というアコギ1本のみで成り立たせた曲も弾いてみる。弾ける。やったと脳の大脳辺縁系にパルスが走り、ずっと弾いていたら指先と右肩が限界を迎える。

とはいえ「思っていた以上にふつうに弾けたてよかった」というアコギサウンドのブリリアントな高音域にも似た感情に包まれる。

肝心の録音、できなかったなと時計をたしかめる。いや、今日は十分。以前のようにアコギが弾けた。普段のエレクトリックギターの練習量も相成るであろうが、とにかく再びアコギが弾けて本当によかった。今日はもう、この一点がハイライトと如実に感じた。

地味だが、心の底から「ずっと弾けなくなったらどうしよう」「肩の可動域が変化してしまい、以前のようなプレイができなくなったらどうしよう」と、けっこうなレベルで心配していたのである。

それにしても耳を疑うほどアコギの音がサリエンスに輝き、ギター自体の状態もばっちりだったこと、共々、とにかくホッとした。いま感じている、長時間アコギ演奏ならではのこの左指先の痛みがとても懐かしくも愛おしい。
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一日の気温差が激しすぎて昼過ぎ、急に冬になる。体がびっくりしたのか滅多におきない頭痛に見舞われロキソニンを飲む。

昨日の肴の「タコ」のしわざか腹まで痛くなってきたので散々だなと、なんとか日常を過ごす。

「季節の変わり目は注意が必要」と医師も言っていたしなと思い出す。あと気をつけないといけないのは「睡眠不足」と「過度な変化やストレス」だったか。「この3つは覚えておいてくださいね」と、精神科医に強調された。

とはいえ、“変化”に関しては恐れていては前進できんと、定期的に新しいことに挑んでいるつもりである。

まあ、いまのところ顕著な反応というか成果はあるといえばあるようなないような。そんな感じではあるが毎日なんかそんな風に考え出して何年が経つだろうか。

とりあえず健康第一だなと実感する冬の入り口。出口では「なんと実のある冬であったか」という書き出しでいたい。そんなことを思っていてもう来月で2024年が閉じる。

早すぎるだろと去年の年末日を回顧するも、覚えているのは酔っ払ってタクシーで帰った気がするがその記憶があまりなかったことであろうか。

いや、たしかそれくらい頑張って仕事をしていたのは事実――いま思い出した。編集部がタクシー代をもってくれたのであった。すいませんどうもありがとうございます。本当にいま思い出すとか脳の仕組みってすごくファンタジーなところある。手前だけだろうか。
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ケツがせんべいみたいな感覚と痛みに包まれるほど座り続けてライター業をする。コロナ禍の頃くらい引きこもって各タスクを行なう。

ごはんは「手抜きですよ」といわんばかりのスーパーのパスタ(レンジで温めるスタイル)とか手巻き寿司とかカットサラダなど。たまにはキッチンで山岡士郎(美味しんぼの主役)ばりに中華鍋でも振りたいが、そもそもウチにはカセットコンロしかない。

まあいいかと楽曲制作でアコースティックギターを録音する。四十肩はもういいよという体現のなか、サクッと3トラックがレコーディングできた。そしてMIXをする。すると音像から感動をおぼえる。

これである。この感覚があってはじめて、現状ではAIにはつくれない、人間のつくった楽曲となるのである。などとちょっと声に出しながら着地点が明瞭に見えたのであとは詰めの工程だとDAWを閉じる。

誰とも会ってなければ会話もしていないが実のある日。なにかが進んでいれば、それだけでこう、奮い立つ。

酒呑んで寝よう。さいきん「GINON」ばかり呑んでいる。いま市場に出回っているレモン系サワーでは「GINON」が圧倒的に優勝。アル中系YouTuber「アル兄」も自身のチャンネルでそう言っていた気がする。さすがの着眼点である。とはいえ量はほどほどにしておこう。
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やはり新たなコートが必要だと身に沁みる寒さの1日。目当てのチェスターコートのめぼしはついているがまだ買いにいけていない。今日あたりもずっと現在まで仕事をしていた。

カタカタと文字を打ち、ちょっと打ち合わせも挟みつつ、またカタカタとする。ごはんはお弁当と起きがけのちっこいヨーグルト。よく足りるなと手前ながら思う。

まあそこは酒と肴でカバーするかと、半額シールがビタ付けされた「マグロ」を仕入れる。

昨日今日と、地味ながらもコツコツ過ごす。先週始めたnoteも書く。いまのところ毎日更新している。案外、PVはわるくないといった所感。新たな源泉、案件受付窓口として育ってほしいなと切に思う。

というか育てる、すなわち毎日更新することが必要。現状ではメンタルヘルスについての見解ばかり書いているが、それはそれでいまのところ一貫性があってよしとする。なにぶん、その分野のネタに困ることはない。脳内に大量のストックがある。

それを、あくまで「体験ベース」での「有益な情報」というコンセプトを揺るがせずに書いているつもりだがどうだろう。これもコツコツ進めるマラソンに近い。

ゴールはいくつかある。そこに、ひとつでも到達することができれば、また点と点がひとつ、あるいは複数つながる。そこまでのプロセスが楽しい。続けるコツみたいなのがあるとしたらこの一点だろうか。楽しんでやる。

とはいえYouTubeの更新が止まっているのは、楽しくなくなったからではない。次のシリーズで投稿し続けるフェーズに入るのに必要な手法(アニメーションにしたい)がまだ身についていないからである。これも、時期をみてまた投稿し続ける。それも楽しんで。
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さいきん疲れにくくなった自覚がある。思い当たるフシは一点。「サプリメントの追加」である。

俺は30代半ばに「ビタミンC」のサプリに手を出し、翌日いきなりその効果を実感した。なんか手のツヤを顕著に確認したのである。

これはいいと思い、しばらくして「亜鉛」にも手を伸ばした。飲むと酒が翌日に残る程度が低下したことをおもむろに体現した。

「すげえなサプリって……!」と思い、その後はもうサプリなしの生活は考えられなくなっていったのである――その次は「ビタミンB群」さらに「ビタミンD」と、どんどん摂取量はエスカレートしていき――もう二度と、ひとつもサプリメントを摂取していなかったあの頃には戻れなくなっていた。依存である。

先日ついに、新たなサプリに手を出した。「コエンザイムQ10」という、これまで摂取してきたサプリよりも高額な代物である。

その効果はというと、「エネルギー増加」「抗酸化作用」「心血管健康」「肌の健康」「神経保護」などなど、垂涎の効果のラインナップ。

俺はこの「コエンザイムQ10」を摂取しないことには溜飲を下げることはできないと、自制心が崩壊した。効能を一言でまとめると「アンチエイジング」に直結するからである。

もう後には引き下がれない――あの頃には戻れない――様々な心象が交差するなか、2カ月ぶんで1,800円弱という、やや高額という所感のその代物を入手するに至ってしまったのである。

飲んだ翌日。なんだかいつもより眼球が澄んでいた。「コエンザイムQ10の効き目だ……」俺は率直にそう思った。

しかし、最後の最後の、すこしだけ残っていたギリギリの平常心で、俺は「コエンザイムQ10」の摂取効果についてのレポートをChatGPTに訴求した。スマートフォンを持つその手には、うっすらと冷や汗が出ていた。

「飲んだら翌日に眼が――」という文脈も含んだプロンプトに対しての回答では、一節目に真っ先に「プラセボ(偽薬なのに効果を思い込む)の可能性」を指摘された。

俺は顔を真っ赤にして憤慨しながら続きを読むと、先述の5つの効能が記されていた。

真相は不明のままだが、現に俺は、1日フルに仕事をやりおおした深夜現在であっても、疲労がポーンと飛んだように元気なのである。

もうあの頃には戻れない。サプリメントなしでの生活なんて考えられない。そう、ぬか漬けのキュウリが元の新鮮なキュウリに戻れないように、非可逆な体になってしまった。何のサプリメントを飲まずともピチピチだったあの頃が煌びやかに回想される――。

なお、市販の各種サプリに依存性など断じてない。俺の勝手な、精神依存に似た感覚である。そして、本文で挙げた各種サプリメントは安心・安全・健やかな健康をサポートする商品。

つまり、元気に健やかに暮らせて幸せだなというそれだけの話である。あくまで健康補助食品であるサプリメントは、適量を摂取すると人生豊かになる。

以上、個人の感想である。月の各種サプリ代、合計約¥2,500也。それで元気に過ごせる。サプリメント製造各企業様、健全な生活をサポートしてくださり、ありがとうございます。

(本文においての“依存”とは、単にサプリなしの生活が考えられないという個人的・感覚的なものであり、医学的な「依存」および「依存症」とは異なります。甚だしく異なります。)
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