ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。「君はもう40代も半ばなんだよ……?」。10月。
「緊急性があり、重要なこと」。「緊急性がないが、重要なこと」。
「緊急性があり、重要でないこと」。緊急性がなく、重要でないこと」。
これらのマトリックスについて記された本を立ち読みした。今日に照らし合わせた。
昼間、公園に行き、まだ咲かないかなと蕾を目視する。「まだだな」と、振り返るとうっすら匂う。隣に位置するキンモクセイはちょっと咲いていた。「やはり秋かと」ほんのりした気持ちですこし歩き、帰って仕事をする。
入念に書いた原稿を提出する。あとは案件フォルダには「確認待ち」ステータスのものが数件。つまり、やや手持ち無沙汰な気分になる。
もっと別の源泉、事業、ストック収益、なんでもいいから新たなアプローチをという能動のもと、あれこれ考えるがなにも思いつかず。YouTubeを流しっぱなしにして横になる。さほど疲労感はないので仮眠にも至らず。
もう呑みに行っちまおうかとも本気で思ったが、とりあえずやれることをやろうと、新たな楽曲を制作する。モチーフは特にないまま鍵盤やDAW上のソフトをいじっていると曲の芽が見えたので、ビートと土台の和音をスケッチする。
そうなってくると、ぼんやりした心境は消えて活力が蘇る。今日は何ヶ月ぶりかに、やや、やる気のない精神状態が数時間だけ生じたが、作業をしたらそれはシュッとなくなった。
「緊急性があり、重要なこと」は、明日締め切りであった原稿の提出である。これはきちんとやりおおした。
「緊急性はないが、重要なこと」は、楽曲制作である。楽器練習である。これらも行なった。
「緊急性があり、重要でないこと」は、特になかった。
「緊急性もなく、重要でもないこと」は、YouTubeを流しっぱなしにして横になってボーっとしていたことだった。
これら4つのうち、最も重要なのは、実は「緊急性はないが、重要なこと」と、本には書かれていた。確かになと思う。それを積み重ねることで、後々の大きななにかにつながるからであると、俺はそう解釈した。自分なりにそう、体現しているつもりだからである。
「緊急性があり、重要なこと」は、常に目の前にある。ほとんどの人がそうであるように、その日にやるべき仕事がそれにあたるだろうか。
そう考えると、重要なこととそうでないことの違いとは、深い生産性そのものではないかと思った。
しかし、生産性の源となるのは、「緊急性もなく、重要でもないこと」。それは、遊びだったり、リラックスして考えている時間だったりする。
結論、どれも大事ということで手打ち。バランスよく生きよう。そうだ、ちょっと酒呑んでから寝ようと、普段の精神状態に落ち着く。
今日は値引きの「タイ」の刺身を食べる。少々捻りを効かせ、わさびではなく柚子胡椒をつけて食べると新鮮な味わいを得る。切った状態ではなく、ブロック状の刺身を包丁で任意のサイズに切り分ける。
このひと手間が、案外たのしい。そこに、さほど重要性はない。
_10/01
本を読んだり、楽譜を書くときに顕著に感じるのだが、見辛い。よもや自慢の高視力が衰えたかと慄くが、対象物20cm程度以上の物や景色は、なんら視覚的に変化を感じない。
老眼である。認めざるを得ない。四十肩、微妙な白髪増加の次は老眼かと、えも言えぬしょんぼりとした退廃感に包まれる。
なんか上の方の人にトントンと肩を叩かれ、「平吉くん……君はもう40代も半ばなんだよ……?」と、『 1日外出録ハンチョウ』の主人公みたいな顔でニヤニヤされているかのような心境だ。
ChatGPTで「老眼」についてのレポートをまとめてもらったところ、アナログに老眼鏡を使用するのが無難と出た。
その際、雑貨屋などの店頭で自己判断のうえでピントが合うメガネを買うよりも、眼鏡屋に行き、きちんと自分の視力の状態を数値で測ったうえで老眼鏡を選ぶのが吉とのこと。
せつない。予定帳の次の休みの日の欄に「老眼鏡」と記すのだけでもせつない。しかし、軽微ではあるが「近くを見る」ことに対するストレス、そこまではいかないが「ううむ」という感情は払拭しておきたい。
そうなってくると、老眼鏡のデザインにこだわったりして逆に楽しんでやろうかと思った。
ジョン・レノンさんみたいな丸っこいやつにしてアーティスト気取りになるか。成田悠輔さんみたいな丸と四角のトリッキーなやつを選んで静かにウケを狙うか。横に細く四角い銀縁の任侠的なやつを装着して威嚇するか。
そう考えるとわるくない。歳は認めて、新たな大人のアイテムを買いに行く。そう捉えると「老眼鏡購入」はネガティビティではなくなる。
とはいえ、四十肩もそうだが、正直「ほんとうに、なるものなのですね」というのが心の奥底から出てくる本音である。
いつまでも気持ちは27歳とか抜かしている手前への叱責のようにも思えるが、「歳を重ねることをどう楽しむか」という課題にすげ替えるというテクもある。俺はこのテクを適用することにした。はたして老眼鏡は経費で落ちるのであろうか。
_10/02
仕事して十分ごはんを食べて楽器練習をする。深夜、さいきん来ないな、いっときの偏りだったのかなと、そのように懸念していた音楽全般コンサルティング業務の打診をいただいたので対応する。
この種別の仕事は「俺、こういうのいけるんじゃないか?」と思い、フライング気味に今年から走らせたもの。
すると、スタートからわりとすぐに数件受注し、各クライアントにご満足いただき収益となったので、「俺はコンサルタントとしてもいけるのか! よし!」と、興奮していたがすこし間が空いた。
だが今日、依頼見込みがきたので「やはりいけるのか!」と、丁寧にご返信して受注を待つ。攻め気味に待つ。
なんやかんや、いろんな仕事をしているのは楽しい。そのように、今日あたりは、かなりシンプルに考えが回る。
明日は時間にゆとりを設けた日なので、さっき買ってきた値引きのエビでもジュッと焼いて食べて寝よう。キノコと一緒にオリーブオイルとガーリックで炒めて食べるとおいしい優良な栄養満点のアテ。おいしいおいしい、ほぼアヒージョ。
_10/03
ゆとりをもって過ごす。秋葉原へ行き所用を済ませ、道中、既視感のない景色を楽しみながら上野まで歩いて心を浄化させる。
アメ横付近で、以前買って飲んだ「マムシ」のドリンクが効いたことを思い出し、リピートする。やはり髄から元気になる。
帰宅して、ライター案件の戻りの確認や、昨日のご新規さまの対応をする。楽器練習をして制作をする。それぞれ1時間ずつほど。ゆとりをもって。
そういったわけで「マムシ」の効能もあるだろうが、深夜0時寸前現在、覇気がみなぎっている。なにか、どこかで、なんなら昨日の構想の時点で、今日一日の過ごし方の配分を間違えた気もするがそれはそれで。
「マムシ」には、アミノ酸やペプチドが豊富に含まれており、疲労回復や血行促進、滋養強壮に効果がある。
そして、エネルギーの代謝を促進し、疲労回復をサポート。特に「ビタミンB1・B6」は体力回復に重要な役割を果たし、これらの成分が総合的に体力の維持や回復をサポートするらしい。ケース買いを検討。冷蔵庫のなか全部マムシ。
_10/04
ビリーアイリッシュの最新アルバムの1曲目「SKINNY」が美しいと思った。歌声もさることながら、やはり演奏パートに注視する。メインはギターのアルペジオ。
そのパートにはすこし音を揺らせる効果が施され、音色はエレクトリックギターのクランチ、クリーン、その中間あたり。要はほぼほぼ歪んではいないサウンド。
「若者のアイコンであるアーティストのギターバッキングはどうかな」という好奇心と学びの姿勢所以で、コピーしてアナライズしてみる。
すると、意外なのはトリッキーな側面がぼほほぼないということ。むしろ、普遍的な和音進行。奇をてらっていない。音の並びがすこし独特で、アクセントが「日本のアーティストはこうはしない」といった所感。
そういうところが好きなんのだなと、演奏をしてみて初めて受けるサリエンス(新鮮に感じる顕著な特徴)があった。
これまで何度か聴いた難しい曲を練習することも大切だが、新たな感覚を身につけるのも併せて大事。そのように、真面目に捉える。それを毎日繰り返す。すると環世界(既知の独自の感覚的な世界観)が広がる。
いま居るところに居続けるか、変化し続けるか。と、いったら大げさかもしれないが、とりあえずビリーアイリッシュの「SKINNY」はセンセーションを起こすような役目のリード曲ではないが、そこにも深めに触れることで、手前の総合的な視野をすこし、広げてくれた。
つまり、未知の楽曲をアナライズする、コピーして演奏すると、視野が広がる。ただそれだけの話だが、どの分野であっても、それをするとしないとでは大きな違いがある。世間ではそれを勉強とも言うらしい。
_10/05
0時から8時までサーバーのメンテナンスだったことをすっかり忘れたのは、ハイボール呑みながらギター練習したその後のこと。
当然、等ウェブサイトの管理画面にはログインできないのでこれは昨晩書いたものである。
今日行なった各タスクのなかで刺激的だったのはコンサルティング業務。ビデオ通話において対話形式で実施する。
改めて、チャットでのやりとりよりも実際――VPN:仮想プライベートネットワーク。Zoom的なやつを使用――の対話のほうが、多い情報量を互いに認知していることを確認しながら圧縮ができるなと実感する。
むかしむかし、ソクラテスさんが対話によって哲学を説き、弟子のプラトンさんがそれを書物に記して学問となり、あらゆるシーンにおいて派生した。その源泉は「対話」である。
要は、人間のコミュニケーションの原始的な要素である対話というのは、実はアメイジングであるとしみじみ思った。
「対話」が収益になる。これは今年得た初めての発見かもしれない。考えてみると、俺は音楽分野において、実演や制作や分析や執筆など、あらゆる入力と出力においての視点がある。これに、「カウンセラーの資格を持っている」ということを繋げる。するとこれまでになかった仕事が生まれる。
それが案外需要があるという事実。やはりこれはいけるか、いってる途中だ、その過程が面白い。そんな風に、自身のスキルを“繋げる”ことによって新しく走らせ、実感を得るのが楽しい。
とりあえず、明けて今日、8時以降にウェブサイトがちゃんと機能していることを祈る。
_10/06
芝生があった。あまりにもわざとらしい芝生であった。そこは池袋の書店「ジュンク堂」のすぐ近く。公園というか、芝生と併設するなんらかの店で構成されていた憩いの場。
若いアベック(死語)や外国人、中高年の方々もちらほら、単身のとっつぁん。様々な人たちが平日の昼間から芝生で各々、絵に描いたようにリラックスしていた。
寝そべり、グルーミング的な過ごし方をしているアベックが目立つ。単に寝ているとっつぁん方も散見。ラップトップを開いてショッピングサイトを閲覧している女史。いろんなかたちで、そこで過ごしていた。
俺は芝生の中央に行き、ふと思った。こいつらが誰もしていない行為をもって、この場所を楽しもうと。
踊ろうかと思った。そんな気分ではなかった。どちらかというと静かにしていたい。辺りを360度見渡した。いない。そう思い、俺はあぐらをかき、両手を膝の上にそっと置き、上方に向け、力を抜いて自然と「座禅」のポーズをとる。瞑想をする。
周囲との隔たりがなくなり、神妙な気持ちになる。
整うもすこぶるつまんねえなと思い「ジュンク堂」で購入した2冊のうちのひとつを読む。「環世界」についての書籍である。
ははあと思い、いま作っている楽曲のタイトルは「Umwelt:環世界」にしようと決めた。環世界とは、それぞれの知覚・感覚によってみなしている世界の捉え方である。要は「手前のものさし」とも言えようか。
そのへんは書籍を読んでもっと深く学ぼうと帰路につく。各タスクを行なっていまに至る。今日のメインタスクは「新しい本を買ってくる」というものであった。環世界を広げ、まだ知らない楽しいところに移動するためでもある。
みんな、規模の多寡はあれど、時間の経過と共に、どんどん別の世界観に移っていく。とどまることを知らない時の中で、いくつもの街並みを眺めては。
そんな歌詞の曲があるが、もしかしたら、「環世界」のことを歌っているのかもしれない。
_10/07
起きてるうちの半分はたいへん非生産的に、だらだらとしていた。そういうのはいかんなと思った夜、楽器練習や楽曲制作をする。ひとつ全体像ができて、あとはそのモデルから、まだ音として録音されていない、聴こえてくる音をトラックとして重ねていく。
要はイメージを形にしていく工程だが、これがスッといくときとそうでないときがある。ただ、いずれにしても最終形に質の差はない。あとは誰がこういうのを求めているかである。
最初から「こういったシーンで」と、需要を考慮してから作るときがある。そういうときは必ずと言っていいほど、モチーフとなるジャンルや楽曲はアーティスト色がある。そうして出来た楽曲のほうが、リスニングおよびご使用いただけるユーザーの数字としても伸びる傾向がある。
よって、求められているコンテンツや作品というのは、全体像あるいは一部で「どこかで聴いたことがある」という“馴染み”の要素が必要なのは明白。根拠は、ヒットするような楽曲や作品は、やはり、“どこかで聴いたことがある”という要素を必ず含んでいるからである。
いまだかつて聴いたこともない、斬新すぎて前衛的な音楽が大ヒットした例はあるだろうか。あまりない。とても少ない。
それは、ジャンルで言ったら確立して派生する前のプログレッシブ・ロックやオルタナティブ・ロック、ブレイクコアなどそのあたりだろうか。
とはいえ、これらのジャンルにも背景にモチーフとなる音楽性が必ずある。ブレイクコアだったらドラムンベースをもとに分岐、発展したエレクトロミュージックであるように。
そういったわけで、モデルやモチーフがあるもの、いま作っている楽曲のように自分のイメージを形にするもの、半々くらいでつくっていくのがバランスがよい。いろんな意味で偏らないし、音楽に対する姿勢そのものが凝り固まらない。
そこまで思考がまとまっているのであれば、だらだらしていた時間は全部制作に充てればよかったと、少し反省した冷たい降雨のなかの一日。
_10/08
急に寒くなって体がびっくりする。くしゃみが出る。日に20回は出たかもしれない。早め早めの葛根湯で風邪を回避することにする。
普通に仕事をして制作をする。特筆して変わったことはない。なんか寒かったくらいである。
気がつけば年の瀬も近く、年々、月日が経つのを速く感じる。四十肩に老眼にジワジワ増える白髪。このへんで歳を認めて、早め早めに対策をとることが今後の健やかな人生に繋がろう。なんという年寄りくさい日記であろうか。
気持ちばかりはそうではないと、マインド面、そこは明確に否定する。それがフレッシュな生き様に直結する。そう、言い聞かせるのも大事かなとかすみ目を擦る。
_10/09
一気に深まった秋、明らかに起床時に手前自身のギアが重いと感じ、葛根湯を飲む。さらにキューピーコーワゴールドをねじこむ。そのまま仕事をしていると夕方にかけてだんだんよくなってくる。
体調を崩す気配を1ミリでも感じたら即、対策が鉄則。やれやれよかったと今日のタスクをやりおおす。
新たな大きい源泉がほしいと今後について考える。俺は、基本的には文筆業と音楽業でしのいでいる。あとはそれに付随する――文字を書いたり音楽にまつわる仕事――業務が数点。あとほかに、どでかいのが何かないかと。
ここは大きく市場規模で考えると、日本では卸売や自動車、電気機器や金融が上位にならぶ。ライティングも音楽もあまり関係ないではないかと落胆する。
垂直に考える。音楽業界はどうかと。調べたところ、世界規模でみると音楽業界の市場規模において、日本は世界2位。1位はアメリカ合衆国である。
じゃあなんで日本の音楽は世界ではさほど波及されていないかと疑問に思う。そう、日本国内での消費が大半を占めるからではないかと推測した。
じゃあまず国内で音楽を撒き散らすのが吉。そう思い、ギターを練習しながら着手中の制作楽曲の次の新たなネタを出してメモる。
おい。それではいままでどおりではないかと、一点突破思考が一周してキュッと巻き戻る。
そうか、じゃあ地道にコツコツいくかと、書きかけの楽譜を眺める。音楽においての大きい源泉を考え、生み出し、実行すべしという結論が出た。
それは簡単ではないが、原点は音楽だし、それで跳ねれば言うことはないと納得する。
みんな、それぞれに適したタスクがある。俺は、なんなんだろうとここ数年、決めては考え、行動しては失敗し、また別のことをやり、戻ってくる。その繰り返しである。
そうなると、ここは集中する技術が必要なのかなという思考に帰結する。だから、周囲にアンテナを張りつつ、別の分野の勉強もしつつ世界観を拡げ、曲をつくることやそれに関連する業務の精度を上げようと意気込む。
それが合っているのかどうかは、死ぬ寸前にわかるであろう。やらなくていいことを切り捨てて、やるべきことだけをやる。それが、わりと難しい。
というかそういう思考の癖があるが、それもどこかでピカッとシュッと繋がるのかもしれない。みんなはどうなんだろう。
_10/10
なんか虫とかについていろいろと述べられている本を読みきった。要は、人も生き物も虫も、同じ環境下であっても、みんな見ている世界が違うんだぜということが言いたいようである。
それぞれの「主観的現実」とのことである。それが「環世界」。つまり、各々の尺度とも言えよう。ユクスキュルさんという生物学者・哲学者さんが論じたやつ。
そうですね、みんな見ている世界が違うから議論が出て生産性につながる一方、争いも勘違いも起きるし「わかりあえない」という心象が生じるわけですねと、書籍に対する俺の感想文としてはこの2、3行である。
だが、汎用性の高い捉え方だなと、なんか知識を得た感触があってほっこりする。そこで、「よしこれを業務に落とし込もう」と、試みた。
今日は日中「無職かしら?」とご近所様に訝しがれるほど界隈をフラフラしたのち、きちんとライター案件をやって、今年始めたコンサルティングの「主観的現実」に向き合う。
いまのところ、思いのほか――個人的な感覚なのでまだまだ小規模もいいところだが――依頼が来てくれている。だったらもっといけるだろと、この業務を加速させたい。もっと案件がほしい。そこで、サービス紹介ページを見直すことにした。
いまのところ、俺の主観的現実でしかこのサービスを紹介できていない。もっと別の、相当大きな客観で「ここをもうちょい、こうするとお客さんくるんじゃない?」というフィードバックが欲しい。
そこに必要なのは「客観的現実」であるとすぐに気がついた。それはなにかな〜と考えて秒で出てきたのがChatGPTである。AIに俺のサービスの伸ばし方をコンサルしてもらうことにした。AIにコンサルをコンサルしてもらう。すげえ時代になったものである。
「僕のこのサービス、安すぎますかね?」
「安すぎだろ」
「現状――という感じなんですけどなんかあります? いい案…」
「あるよ。バババババババババ……(ありとあらゆる提案)」
「これとこれとかいいですね。さっそくやってみます」
「その行動力、いいと思うよ」
「――さっそく先ほどのご提案を鑑みてサービス紹介ページをブラッシュアップしました! 見て!」
「うん。かなりいいよ。こことここが特によくて……あとはこことここ、もうちょいこんな風にいけるっぽい」
「はい! 精進します」
「頑張ってな」
「はい!」
こんなフランクではないが、かなり具体的に、現状のサービスの強みと改善点を“客観的”に捉えて指摘してくれた。それはそれは具体的であった。
「サービスの良点と、あなたのユニークな強みを、よりわかりやすく」
ここが最も強調されていた。手前のスキルなども提示したうえで提案してもらった各種のポイントは、ひじょうに的確で参考になったので、他者にどう伝えるかという各点をすぐに改善した。
「主観的現実」はときに人を盲目にさせる。だが、現代では恐ろしいまでに重厚な客観をAIで知ることができる。それが全て正しいというわけではないが、インターネット上のこれまでの森羅万象がソースというあたりは見逃せない。
各々の「環世界」に寄り添って提案する。助走する。コンサルティングの本質はここかなと考えてるのは果たして合っているのであろうか。今後の手前のコンサルティングの業績がその答えとなるだろうか。
とにかく、現状で楽しくやれているのがいちばんの良点かなと思うが、「これ、もうちょい対価を貰ってもいいんじゃないかな?」とビジネス思考がはたらいたのが発端であることは事実。そこにユクスキュルさんの本の通読。いろんな点をつなげるって面白いなと思う。
_10/11
なんかシンセサイザーのいいやつ欲しいなと、ネットで物色する。
俺が前から欲しいと思っているのは「Prophet-5」というアナログシンセなのだが、改めて価格をみてみると「いまは『欲しいな』くらいにしておけ」という高額さで慄く。
とはいえ、良質な楽器が手元にあると、あらゆる面でいいことしかないということは体現している。
必要で、実用的で、値崩れせず、資産ともなる機材をポンと買えるようになりたい。それは仕事頑張れとシンプルな結論におちつく。
今年はひとつ、ギターのいいやつをポンと買ったのでさすがに「Prophet-5」はきつい。だからというわけではないが、もう20年は愛用している「JUNO」のシンセで引き続き曲をつくる。
えらく高額というわけではないが、いつも制作において重要な役割を担ってくれる手元のシンセには愛着がある。そういう感情も、なにかをつくる上では大切なのだなと改めて思う。
_10/12
銀座でほっこり過ごす。その予定だったが身体がしんどい。微熱を確認したため「ロキソニン」を服用すると、怖いくらいすぐよくなる。結果、ほっこり過ごす。
帰路、近所の立ち呑み屋で2杯ひっかけて1,550円。内訳は、ジムビール・ハイボール2つとハツテキ、厚揚げ、しらすおろし。物価高に怯まない行きつけ酒場に敬意を払う。
整い帰宅。適度に酒をリレーして事務作業だけして日をそっと仕舞う。とてもよい一日。
_10/13
風邪気味の傾向や昨日の発熱。大事をもって今日はゆったり過ごす。何のことが書かれているのか、いまのところ本当に不明瞭な本を読む。中身を理解することが難しい読書は、より読解力がつくという利点がある。
辺りを散歩する。完全に秋の空気感。赤羽公園のキンモクセイを確認すると、とうとう咲いていた。オレンジ色の花がちいさく、恐縮するように咲いていた。
まだ香りはさほど周囲には広まっておらず。だから直接嗅ぐ。秒でメランコリックな気分になる不思議な匂い。
イトーヨーカドーに行くと「カツオ」の刺身ブロックが半額になっていたので即決でカゴに投下。適当にその他の買い出しもして帰宅。
よしお氏に渡すバースデープレゼントの梱包をする。売却すれば数万円にはなる機材だが、俺はもう使わないので彼に託す。ネットで売値相場をたしかめては「やはり数万円か」と、刹那ピタリと迷うが、近い人に使ってもらう方が嬉しいので現金化はせず。
楽曲制作においてのベーストラックを録音する。生演奏トラックと打ち込み重低音ベースの交差というあまりやらない手法。なんか海外の音像の香りがして完成が楽しみになる。
重低音が顕著に出力される「Limit To Your Love」という楽曲(ジェイムス・ブレイクさんの1stアルバム『James Blake』(2011年)収録)があり、それが理想。しかし、どうやればここまで出るんだというレベルなので、参考程度にする。ともあれ、音像の理想は高ければ高いほどいい。
なんだかんだで、じっとはしていなかったと思えど、わりとゆっくり休めたような秋の休日。
_10/14
仕事してあとの時間はだいたいギターを触る。弦を交換する。ブリッジ(弦を張り出す根元の部分)を少し調整する。さらにトラスロッド(人間でたとえると背骨的なシビアな部分)をちょっと捻る。
つい数ヶ月前に買った楽器なのに何故ここまでやるかというと、生産から44年経っているので微調整を重ねる必要があるためである。
買ってからすぐリペアに2回出し、何ならもう1本フェンダー製のギターが買えるのではというほど金を投資した。なにぶん「新品」ではないので、自分が弾きやすいかたちになるまで、自分でも調整する。そして弾き倒す。
良質な楽器は弾けば弾くほど音がよくなる。たぶん、物理学とか素粒子学的に証明できるのではというくらい、本当に音が締まって豊かなサウンドで鳴るようになる。
俺は学術的ではなく体験としてそれを知っているので、なるべく弾く。練習という義務的な感覚ではなく、弾きたいので弾く。忘れかけていた大切な何かがどんどん戻っていく。なんなら膨張する気もする。
日に日に身体と心に馴染み、フィジカル的にも弾きやすくなっていく。なんだか俺だけではもったいないという気持ちもあるので、音楽仲間が宅に来て弾いてやってはくれないかとも思う。
買ってしばらくして「弾きに行っても――!?」と発言したホリさん、村上氏、後藤氏、Nくん。どんどん状態をよくして待ってるから早く来て。明後日とかずっと宅に居る予定だから早く来て。仲間とこの情念を共有したいから早く来て。
_10/15
今年もあとちょっとしかないなと思い、2024年の経済面をすこし振り返る。すると、生活費以外にかなり金を使ったことが事実としてあった。
高額な機材や各種修理費、新しいアイフォーン、本棚のいいやつにたくさんの書籍、革靴。ほかにもけっこう買っている。物欲はそんなにないと自覚しているが、例年以上にかなり金を使っている。
とはいえ、資金自体は大きく増えもせず、減りもせず。事業資金の借り入れは順調に減っている。なんとかやっている。
知人の占い師に診てもらったことを思い出す。「平吉さんは、お金を使ったら使っただけ入ってきます」という一言を。
事実、たしかにそうなっている。でかい出費があると、何故かその前後で仕事が増える。そういう摂理なのだろうか。
不思議に思うが本当にそうなっている。じゃあいいかと、もっと使ったれと、「投資」として認める対象に関しては金額をケチらないほうが吉ということを認識した。
これをもっと若い頃に気付いていたらなとも思うが、今年わかったのでよしとする。一生気付けないより全然いい。
じゃあランボルギーニを買って髪を玉虫色に染めてキャバクラで数千万円のシャンパンでも空ければいいとも思うがそれは違う。
何故かというと、それはただの刹那的快楽の昇華のごまかしだからである。というかランボを買うほどの資金は無い。いまは。
ごまかしのきかない金の使い方。
今年、それを実行したあたりは手前を評価してもいいのかもしれない。みんなはどんな基準で金を使っているか。取材が必要である。そうだ、明後日は銀座に呑みに行こう。そこで聞いてみよう。
何かが得られるかもしれない「生きた金」という勘定。なかなか新鮮な取材となりそうである。ただの呑み代だが、どう出るか。
こういった、普段とは異なる“体験”に投資するのは明らかに得策というのはわかってきた。ベロベロになって散財して悔やむことだけは回避したいが。
_10/16
3時間くらい散歩してクタクタになる。決して暇なわけではないが散歩は大事。なんらかの源泉が得られる。おぼろげなイメージがストックされる。瞑想みたいな感覚もある。
JR京浜東北線に乗り、北区王子駅で下車し、そこから石神井川の流れに逆らって川沿いに延々と西へ歩く。チェスターコートを着て歩くにはすこし暑い気候であった。
全力で咲いているキンモクセイをおもむろに嗅ぐ。ちいさな池の水面の動きをムービーに収める。美的な廃墟的建造物を発見しては興奮して写真で捉える。妙にこぢんまりとした公園に吊り橋があったので渡る。中央で体重を使い橋をギシギシと揺らして遊ぶ。一人で散歩。唯一の趣味。
「ここはどこなのであろう」と、ふいに思ってアイフォーンで地図を見る。そこで方向感覚を取り戻し、「もっと石神井川を逆走したらどこまで――」と、地図を広げると「東京市」と記された場所、もっとその先まで伸びていた。
「無理だ」と思い、最寄駅であった十条駅に向かう。近隣のブックオフで『ジョジョリオン』を立ち読みする。初めて、吉良吉影というキャラクターがこの章にも描かれていることを知る。
「吉良吉影」って「ひらよし」となんか語感が似ているなという感想をひっさげて電車で赤羽に帰る。食料等を買って宅に戻り、4時間ちょい原稿を書く。値引きの中華弁当をおいしく食べる。1時間制作をする。シリアルキラーのテーマソングみたいな音像が完成に向かっていく。
こういった日々の過ごし方で今後、俺は一体どこに向かうのだと素で考える。石神井川くらい、果てしなく伸びるのかもしれない。今日のように、途中でどこかに戻るのかもしれない。
ポストに、来年23回忌をむかえる母親の儀式斡旋の報せが届いていた。俺が帰る場所は、足立区鹿浜の墓くらいしかない。それを維持するには家族を築く必要がある。そこも真剣に考えた。
しかし、思考と行動が乖離している。非合理であり、矛盾しており、計画性に乏しい。俺の頭の中身はやはり、ニワトリなのかもしれない。ただひとつ明瞭に感じていることは、今日という一日をありがとうございますという気持ち。
その感情が毎日起床時に湧き起こっている限りは、きっと、行きたい方向にへと、どうにでもなるであろう。
_10/17
動画コンテンツの校正をする。どんだけ俺は重箱の隅をつついては編集マンに「信じられないくらい指摘が細かすぎる」と、クソ野郎扱いされているのであろうか。そんなことを懸念しつつも、プロダクトの品質向上優先。この点を最重要として仕事を進める。
夕方、定期検診で心療内科に行く。
「平吉さ〜ん」
「はい〜」
ノックを三回。第一診察室に入る。
「どうですか。平吉さん」
「ええ。おかげさまで毎日たのしく過ごしております」
「そうですか。いいですね。なかなかないですよ…毎日たのしくだなんて……!」
主治医よ、どうした。よもや医者の不養生かと、目線を合わさない先生を憂いて俺は聞いた。
「先生は、たのしくないんですか?」
「たのしくないですよ…」
「こう、日々のやりがいとか――」
「まあ、休みの日はたのしいですかねえ……」
「趣味とかに没頭してと!」
「私は趣味とかなくてこう、『休み』というだけでまあ“たのしい”と言いますか……」
どっちが診察を受けているのかわからんだろと指摘したくなるような導入であった。
雰囲気で察したのは、先生は俺に対して「重症ではない、連日のあらゆる患者たちの診察における疲弊のなかに在る、ある種のクッション的な患者」という立ち位置のように捉えているということ。「平吉さんの診察は、あんま気を張らなくていいかな」といった関係値。なんだそれはと思う。
「先生。最近、僕は虫の本を読んで思ったことがあるのです」
「虫ですか!(クワッ!)」
「ええ。虫です。(なにそのリアクション?)その本によると――端的には『環世界』についての書籍なのですが」
「はあ。『環世界』というのは初めて聞きました」
「そうですか。要は、僕なりに咀嚼したうえで端的にまとめると、環世界というのは、『生き物や人間それぞれ、捉えられる世界観が異なる』ということを提唱したものです」
「ほほう」
「手前の物差し、他人の物差し、とでも言い換えられますでしょうか――」
「はい」
「そこで考えました。『環世界』をメンタルヘルスにスライドさせると、『精神疾患者は、捉えている世界観が他者とは大きく異なるのではないか』と」
「うん?」
「たとえば僕は、ネガティブな事象にひじょうに敏感です。一方で、他の何者かはそうではない。つまり、個体差によって、メンタルヘルスの具合が大きく異なるのではないかということです」
「平吉さん」
「はい」
「たとえばカウンセリング、彼らのスタンスと私のスタンスは異なります」
「はい。カウンセリングは『過去のトラウマや、疾患のきっかけとなった“過去”にフォーカスすることが多い』一方で、先生は『それはそれで変えることはできない。できることは、“いま、こここから”どうするか』であることに重きを置く。でしたよね?」
「そのようなことを前に平吉さんと話しましたね」
「ええ。刺さりました。アドラー心理学や認知療法の核心とも言えるファクターです」
「そこでなぜ、虫が?」
「虫ちゃんたちは僕らと捉えている世界が違うんです。たとえば、ダニは見えず、聞こえず、触覚と嗅覚を頼りに生きています」
「そうなんですか」
「そのように書籍に書いてありました」
「それで?」
「人間のメンタルヘルスにおいて、『もともと感性が鋭く、かつ脆弱』または『元来、感じなくてもいいことに直面し、それが刻印されてしまった』という世界観に直面した人間は、各種の疾患の“引き金”になるのではないかということです」
「なるほど」
「生まれつき、あるいは後天的に『恐怖という感情がない』『緊張という感情がない』という人間が居ます」
「それは、訓練などによる後天的なものだと思いますよ?」
「そうですか。では、『先天的に感じやすすぎる』という“環世界”に居る人間は、精神疾患になりやすいのではないか? という質問です。前提が長くなりましたが、ここが今日、先生にお聞きしたかったことです」
「平吉さん」
「はい」
「後者が多いと思います」
「はあ。“元来、感じなくてもいいことに直面し、それが刻印されてしまった”つまり、『きっかけ』があった場合でしょうか」
「そうですね」
「ということは、『どんな特性を持つ誰であっても、精神疾患には罹りうる』ということですか?」
「そうです」
「今日は、それが聞きたかったのです」
先生はリラックスしながら対話をしているという肌感。「まーたこいつ、質問を準備してきたな。ふふふ」という感じである。
「先生、僕は最近、あらゆる分野から考えていろいろ繋げるのが好きなんです」
「いいんじゃないですか? ただ、ある一定のものに傾倒しない限りは……」
「わかります。だから僕は、アドラー心理学に出会った時に『これはハマれるやつだ』と思い、深追いはしませんでした。他者に概要を軽く説明できるくらいの段階にとどめ、次の別の分野に思考を向けました。哲学とか」
「哲学は難しいですよぉ……?」
「はい。難しいです。ほぼほぼわけがわかりません。ですから、さわりだけ以上くらいにしておいて、次は虫の本を読みました。いまはまた別の分野に視野を向けています」
「いいじゃあないですか」
「先生、このように、自己完結ではなく、先生という主治医であり第三者である方にこのような質問をし、対話し、今日で言ったら『精神疾患は、誰にでも罹りうるものである』という結論に至り、それで『そうか!』と納得するのが、僕は気持ちがいいんです」
「あまり深く――」
「はい。難しいかな〜みたいなことをポップに考えて、先生のような専門家と『答え合わせ』するのが好きなんです。これはメンタルヘルスにおいて、よいことですか?」
「平吉さんがそう思うならいいと思いますよ! たまに……ふふ! モヤモヤしたままの方もいますけどね……!」
「へえ。そうなんですね。もったいね。とりあえず僕はそうしますね! これからも、また色々考えては聞きます」
「はい」
「先生ありがとうございます」
「じゃあ平吉さん、次回なんですけれども――」
診察終了。答え合わせ手応えあり。帰宅してもう1つ、2つ作業して呑みに行く。銀座へ。
音楽仲間たちとたのしく過ごす。さきほどのようなシリアスさというか謎の対話のような要素があるも、性質が異なる。ただただ、たのしく銀座という敷居の高い土地で呑む。仲間とも、さまざまな人たちとも良質なコミュニケーションをとりつつ、たのしい時間を過ごす。
こうやっていろいろ知恵と工夫と体験と疑問と答え合わせを駆使して、手前の「環世界」を広げる。それがたのしい。
みんな、それぞれ違う。だから、ジャムセッションのように混じり合い、みんなとたのしく過ごせる。それが、生きるということの醍醐味なのであろうか。
そのようにポップに捉え、また明日からも、広げて交えてたのしく、素晴らしくも、たまにクソが混じっては答え合わせを希求しては昇華を繰り返すようなドラマティックな人生を謳歌しよう。
_10/18
すごい二日酔いだなと逆に感心する。体内水分のほとんどがハイボールなのではないかというコンディションで、今日は主に制作をして過ごす。
深夜になったのでメールをチェックして日記書いて寝ようと思ったら、今夜がコンサル対応の日であったことが発覚。
完全に俺の認識に相違があったので、平謝りの謝罪文を送る。次回のコンサルの時にも、口頭で謝罪する予定である。
納期、締め切り、集合時間など、仕事においてそのたりはほぼ無いと言っていいほど守ってきたが、ふとそんなことがあるのだなと猛省する。どこか驕りがあったのかもしれない。
定期的に、自分の状態を客観的に見直す癖をつけることにする。丁寧に、生きよう。
_10/19
15分ほど寝坊をして遅刻しそうになる。なんか凡ミスをする。コンテンツ精査のやりとりがやや複雑になる。
こう、ススっとスムーズにいかないようなことは重なるものだなと改めて思う。甚大な負荷がかかったというわけではないが、シンプルに、ちょいちょい「あれれ?」となることが重なるこのごろ。
そういうときもある。大事なのはそれらのリカバリーであり、「次そうならないためにはどうすればよいか」という対応や謝罪が第一である。適切な対応をして再発防止に努め、感傷的になるのは最後とかでいい。ならなくても別にいい。
どこかの超大企業の教訓には「やらかしたらまず、大声で『やらかしました〜!』と周囲に伝えるべし」的なものがあるらしい。それと似ている。まずは、対応第一ということである。
とはいえ、たとえばライブ演奏中に明らかなミスをして「やらかしました〜!!」と、あろうことかマイクを通してバンド全体に知らせるのは違う。絶対に違う。
そこは、「俺じゃねえよ?」というそぶりすら見せず、信じられないくらい堂々としている方がよいというケースもある。
ミスはミスなので明らかによくはないが、興行などにおいてはミスった顔や所作は禁物。それをどう上手くごまかし悟られないようにするという技術が求めらえるシーンもある。
臨機応変。誠実に。認めることは事実として認める。ときに堂々と。こういったところだろうか。手前なりの各種リカバリーの基礎は。
「あんた、本当に堂々とミスるな(笑)!」と、足立くんがライブ後に嘲笑うように述懐することが過去に何度かあった。俺は弁明する。「いや、まあ、そうだよ? でもあそこで全体演奏を止めるよりかは――」と。「そうだけどさ(笑)! おかしいじゃん!」と、彼は指摘する。「それは認める。ごめんて。いや、申し訳ございません」。「頼むよ(笑)!」という風に。
それが笑いで済むか、なんか深刻な空気になるか。それはそのシチュエーションや関係値ごとに異なる。
何がいいたいかというと、ミスったり、なにかスムーズじゃないなというときは、それをきちんと認めて、そこからどうするかという「成長の機会」と捉えるのがいいのではないかということ。
明らかにまずいやつだったら速攻でごめんなさい。そして「今後は――」と、感情面だけではなく具体策をきちんと伝える。
スムーズではないときは、「じゃあ次はどう進行すれば潤滑になるか」と、新たな手法を考えて生み出す。
以前にも何度か書いた気がするが、よく言われる「ピンチはチャンス」というその実態は、「ピンチは、自他共にもっと大きく成長できるべく変化を得る機会」だと思っている。
別にそこまで今日ヘコむことがあったわけではないが、その手前の手前くらいの段階を感じたため、ある種の教訓として、早いうちに以上のスタンスをリマインドする。驕らないためにも。成長を止めないためにも。
人生最大の演奏ミスをしてイジりにイジられた回があった。
そのパートにおいて要となる機材を踏み忘れ、戦慄するほどすっとんきょうなイントロを独奏したという内容。「イジり」で済ませて――済んでないのかもしれない、あるいは演者一体としてのみなさんの“技術”が作用したか――くれた仲間たちには感謝しかない。
あれは確かほぼ10年前。あれから俺は、すこしは成長できているのであろうか。
_10/20
「成長できているか?」ではなく「成長する」のである。などと、いかにも成功をおさめたどこぞの経営者が言いそうなことを頭に巡らせ1日を謳歌する。
どのタスクも、考え方一つでとてもエキサイティングだなと、ありがたくも与えられたことを気持ちよく実施する。
やることが多いことは、それだけ求められていただけているのであろうかと、前向きに振り切って考える。そうであってほしい。
いま、洗濯機が「ピー」と、完了を報せる音を出力した。明日履くパンツがなかったから深夜の突貫洗濯としたためである。それくらい多めに買えという至極当然の判断があるも、手前は昔から謎に必要最低限しかアンダーウェアを確保しないことにしている。
健康で文化的な最低限度の生活ができていないわけではない。
「パンツが多くても俺は別に満たされない――」という極めて不要な思想があるからである。たぶん“思想”という単語の使い方、間違ってる。
まあそれはそれでと、今日も幸せな日が閉じていく。それは決して、最低限度ではない。豊かである。
パンツはもう1枚くらい明後日買おう。ペイズリー柄のいかついやつにしようか野性味を帯びたヒョウ柄にするか、運命の別れ道。
_10/21
仕事をして仲間たちとしゃぶしゃぶを食べる。酒もちょいちょい呑む。そして雀荘に行って遊ぶ。
過去に沼で溺れ続けた「博奕」は、かなりの年数、完全に禁忌としているが仲間内に限りは許容。というか賭けないノーレートなので普通にみんなでたのしむ。
とはいえ、今日行った場所はかつて足繁く通っていた当時の馴染みの賭場。最後に行ったのは5年以上前。懐かしいなという思いと、当時の常連客が一人も見当たらない客層と店員のメンツに時代の変化を感じる。
帰宅して、ふと「仕事について抜本的な変化が必要なのでは」と熟考する。いまのままのペースで進行した場合、数年後に大きな変化は望めないのではないかという予測を基軸に。
明日は、その点を会議レベルで考えることを重点に置くことにする。なんで現状維持ちょいだと不服なのかという情念を昇華させるべく。
そこに必要なのは新たな行動である。頭ではわかっていても実行に移すのはたやすのになかなかどうも、という変なモヤをこう、スッキリとさせたい。
そういうときは、普段と全く異なる環境下にまず身を置くことが手法として挙げられる。いまだに人生において迷子になることがこの歳になってもあるのだなと実感する。
ともあれ、博奕禁忌を貫いているのは、まだマシなほうかもしれない。今日、仲間と金を賭けずに、たのしく麻雀をしてはそうしみじみ思った。
_10/22
楽曲制作や楽器練習を主に行なう。事業メニューのプロモーションのテコ入れをする。あらかじめ予定していたタスクはこれらで、あとは軽く散歩したり調査をしたりする。
調査というのは、コロナ禍前に直接案件で関わった方々がいまどうしているかというもの。
絶賛活動中。アプローチの変化。活動終了。様々であった。ここ5年の顕著な時代の変化のなか、自身やスキルに特化して表に出ている人たちがどのように凌いでいるかを調べて、分析したかったのである。
結果、走り続けている方たちには「変化を恐れず定期的に発信している」という共通項があった。
じゃあ俺もなにか新たな「定期発信」をしようかと考える。SNSか、YouTubeか、自身のウェブサイトか。そのほかにもいろいろやり方はある。まだ全くもって未知の方法もあるだろう。
それを知るには「人と関わること」が重要になる。まだ自身は気づいていないが、他者には映っている一面を認知することから何かに繋がることはけっこう多いからである。
とはいえ今日は一人で過ごし、誰とも深くは関わっていない。しかし、そういう風に体制を見つめ直す時間も必要なのかなというところで前向きに捉える。
あとは、「いけるかもね!」というものを見つけたらすぐ行動すること。こればかりは鉄則であり、普遍的なことであろう。
今日の成果は、以上の思考の帰結と、制作中の楽曲が進捗率95%までいったことと、演奏レベルをすこしばかり向上させたこと。地味だなあ。
_10/23
起きてまず散歩に行く。おじいちゃんのようなムーブである。行き先は戸田公園にしようかと、JR埼京線8番ホームから北上するも、なんかいいかと思い、隣の北赤羽駅で下車。地方に行かなければ気づかない都内の匂いと曇り空の下、自由にさまよう。
川沿いを歩く。橋下で黒く映る川と高音域を可視化したような光が交わる絶妙なコントラストがたまらない。
この一帯は昭和の公団とまではいかない、古すぎない集合住宅が密集している。気に入った物件をみつけてはエレベーターに乗り込み最上の17階まで――これは不法侵入にあたるのだろうか――登る。
ただ、「景色を眺めたい」という能動のみなので背徳感はそっと置いておき、東京のほぼ最北をサラウンドに見渡す。「高えな」という感想しかなかったのですぐに降りる。
また別の団地テイストな物件のふもとの小ぶりな公園がとても居心地がよく、居るだけで心が和んでいく。いまだに、手前が団地を好く明確な理由がわからない。
「本籍が高島平団地だから懐かしいのでは」という説が有力だが、もっと本質的ななにかがあるような気がしてならない。だが、それに気づいたら古い団地の魅力を感じなくなってしまう気がしてならないので、こちらもそっと置いておく。
赤羽まで徒歩で戻り、イトーヨーカドーの鮮魚売り場へ。「ブリ」か「マグロ」かで迷ったが、「ブリ」のほうは「ブリしゃぶ」として食べるのが前提の品であったため、生でいくにはリスクを伴うという判断基準に則り「マグロ」に決める。無論、値引きシールがビタ押しで貼ってある。
帰って制作をする。ひたすらMIXとマスター調整を詰め、「どう考えても、聴いても、感じても、これ以上、施すことはない」と判断する。つまり完成したので気持ちよくなる。コンテンツが仕上がったとき、至上の幸福感が得られる。
ユーザーからの楽曲使用報告メールなどを見ては、「出来て俺だけ気持ちいいだけなわけではなく、聴いて、使ってくれる方が居て、誰かに貢献できているのだな」と実感する。今日届いた報告メールは実に熱い文調で、たいへん感慨深かった。
今日の成果は、日常の景色から得られる「美」の吸収とマグロと楽曲の完成。貢献感。やはり地味ではあるが、ちゃんと幸せである。
_10/24
今朝、ラジオでこんなことを聞いた。「人が急激に老いる年齢があり、それは44歳と60歳である」と。そのようなエビデンスまである傾向を伝えるラジオ・パーソナリティは60歳は超えているという。
彼の「おいおい、本当かよう!」と、驚きを交えたその口調は元気そのもの。老いは感じさせない。プロだな――と思い、いやまてよ俺は44歳じゃあないかと今年を回顧する。
四十肩から始まり白髪の微妙な増加、さいきんでは老眼の気配。三つ巴。ピタリと当てはまっているではないかと驚愕した。
だが、昼間に電車に乗って本を読んでいるとそんなに読みづらさを感じない。ふと考えると、ここ数ヶ月、文字を書いたり目で追ったりする仕事、メインタスクなのだが、その業務がけっこう連なっていた客観的事実を認める。
「なんだ、ただの疲れ目だったか」と、ここ数日はそこまで詰めて文字を扱うタスクが多すぎというわけではなかったことが「眼精疲労回復」となり、老眼疑惑を個人的に払拭した。
夜、なんとなくエアロスミスの「Walk This Way」をギターで弾いていて思った。「おかしい。数ヶ月前『こんなに難しかったか?』と感じたAメロの跳ねたバッキングが今日は余裕で弾ける」と。
右肩に意識を向ける。ちょっとAC/DCの「Back in Black」とマネスキンの「ZITTI E BUONI」あたりを右肩を遠慮せずに振って弾いてみる。「ああこれだ、この勢い。これがここのところはずっと制御されていた」と気がつく。
つまり、右肩の可動域を無意識にかばうことを解放していい時期だとわかる。四十肩がけっこう治ってきたということである。
白髪に関しては、髪をかきあげた状態で手を止めない限りは別に目立っていない。じゃあ“急激な――”という先述の説にあてはまらない。
そういった、調査と論文による(らしい)「44歳と60歳、急に老ける説」は、統計的には確かにそうなのだと否定はせずとも、こと手前はどうかという観点では鵜呑みにせず、冷静に各行動でいまをたしかめたら「別にそうでもねえな」という所感におちつく。
じゃあ張り切っていこうぜと、なにかもっと新しいことはないかと、新たな打席も見つけてどんどんバットを振っていきたいとイキる。
日々の積み重ねに加え、新しさを伴う前向きな姿勢。これらを「老い」の一言で納得してしまってどうすると背筋を伸ばす。とはいえ、経年という事実には抗えないので、そこはうまくやっていこう。
「老い」に関しては、きたとしても「酒弱くなったな〜」くらいの感覚をおぼえるくらいでいい。いまのところその感覚がないのは幸か不幸か。酒、ほどほどに。
_10/25
秋といえば「ツーファイブ」だなと、新しい楽曲のモチーフを楽譜に書く。
ツーファイブとは、ダイアトニックコードの「ツー」と「ファイブ」という並びから展開される定番の和音進行の構造。
つまり「ドレミ……で言ったら「ド」を『1番目』とした場合、2番目の『レ』をボトム(ベース音にあたる)とした和音から始まり、次は5番目」という流れを基礎とするもの。
楽曲例を挙げると「枯葉(Autumn Leaves)」や「Fly Me to the Moon」のようなジャズ・スタンダードあたりが原型とも捉えられる、聴き馴染みのある切なく感じさせるコード進行のこと。
これがめちゃめちゃ汎用性が高い。高すぎていまだに世で流れるポップスなどにも使用されている。
だがそのままというのもつまらないので、俺なりにスパイスを効かせる。この工程こそ、センスが問われる。「よくよく聴いたらツーファイブだね!」と、分かる人には見抜かれるかなくらいの程度に進展させ、アレンジでちょっと今風かつ普遍的な音像にする。そこが着地点という構想。
昨日作り終えた楽曲が絶望的に暗すぎたので、今度は懐かしさも含む切ない旋律と馴染みやすさ、軽快さ、さりげなく現代的なエレクトロミュージックの要素。これらが上品に馴染んで明瞭に表現できたら完成とすることにする。
まだモチーフ段階だが、完成した最終形を聴いて「イメージ通りだ」と心の底から思えると本当に気持ちがよい。これが昔はなかなか難しかった。モチーフがあったのに途中で謎に歪曲し、「なんでこうなった?」となることが多々あったのである。
それはそれでカッコよければいいのだが、「再現性」を豊かにするスキルを伸ばすという観点では「モチーフを膨らませて形にする」とするほうが優秀であろうか。
この再現性というやつは、なにかをつくる際はある程度以上は必要。「さっきの曲もう一回弾いて」と言われ、「いや無理です」というのが続く場合は「どうなんだこいつは?」と思われても仕方がない。
それがアバンギャルドで芸術性も帯びたインプロビゼーション(即興演奏)である場合は別軸だが、コンテンツの量産や、共通項のあるアイデンティティの具現化において再現性は深く関わってくる。
ビジネスシーンや商売などにも同じことが言える。たとえば、お気に入りのラーメン屋に行って「なんかいつもと味が違うぞ?」ということが2回も続けばもうそのお店には行かないであろう。「いつものおいしいラーメン頼んだ! 今日はどんな味かな!?」なんて奴は相当の変わり者である。
だから「ある程度同じスタイル、いつも通り、その人らしさ」という要素が“再現性”をもってしてアウトプットできることは、あらゆる分野において共通しており、必要なスキルだなと思った。それだけの話である。
ツーファイブは、再現性がある。ニュアンスを変えて独自性も加えられる。「馴染みのやつだ」と感じさせることもできれば「よく聴いたらあれだ!」という意外性と安心感すら生じさせることもできる。結論。万能だね、ツーファイブ。
_10/26
やたら熟睡できて目覚めもよい。「桃」のヨーグルトをシュッと食べて各タスクをこなす。
合間、ちょっと著作権の知識を落とし込んだ。ついでに手前の著作物の管理詳細はどうかなと、あわせて調べる。
各制作楽曲の著作者は俺。ダンロード先や使用権利などについては委託先が管理してくださっている。このウェブサイトでもダウンロードできるが、使用条件はプラットフォーム先に準ずる。
プラットフォームやGoogleの各サービスにおいての権利をサポートしてくださる企業、そしてNexToneという著作権管理会社も管理してくださっている。
NexToneの「作品検索データベース」というページで、アーティスト名の欄に手前の作曲者名義を入力して検索すると、公開中の楽曲ほぼ全てが表示された。配信、放送、演奏など、各種別においてどの方面で手前の楽曲がどのように管理されているのかをたしかめる。ちゃんと表示されていてなんか嬉しかった。
じゃあもっと曲をつくろうぜと引き続き楽曲制作をする。シンセサイザーのサウンドメイクに力を入れる。
ああ、プロフェットの高いシンセがあればもっといけるのになとも思うが、20年は使用している手元のシンセに愛着があるので、これで音色をつくる。ベースとなるいい感じのができて気をよくする。
そのように、仕事したり調べ物したり制作したりと、わりといつも通りに過ごす。世間では大きな決定事項が執り行なわれたが、それはそれで俺も一石を投じ、今後の発展を祈る。自分と国家。コツコツやるのがよければ、イノベーションが必要な場面もある。
_10/27
イノベーションのかけらもなさ気な日常。ブックオフでビジネス書を吟味するが買わず。『ジョジョの奇妙な冒険』とか立ち読みして界隈をふらついて帰る。
さいきんは新刊で買うことが圧倒的に増えたなと本棚を眺める。「一体俺は何に悩んでいるのであろうか」という、ここ数ヶ月で読んだ書籍のラインナップ。
認知療法の本、哲学書、心理学、形而上学、アートと脳の本、暇と退屈についての本、虫の本(環世界についてのやつ)。などなどほかにも。それはそれで手前なりに考えている証明、知識の希求であろうと善処する。
それが制作物にどう作用するのかなとも考えつつ、昨日録音した楽曲のスケッチをDAWで聴き返す。しかし全然ときめきがなかった。これはだめだと即決でなかったことにして、ツーファイブがメインというモチーフは根幹にしつつ抜本的に変化させる。
「既存の何かと何かを掛け算させる」。これがアイディアの正体と、今日立ち読みした本に書いてあった。
じゃあと思い、「ツーファイブ」と「ビリー・アイリッシュのアプローチ」を掛け算してみるかと鍵盤を叩き続ける。
すると“ときめき”が生じたのでDAW上の波形ではなく、楽譜にコードと音符で記録する。紙とえんぴつ。書いた音符がしっかり見えるのでやはり老眼ではない。明日この楽譜通りに弾き、ときめいたらようやく楽曲の土台となる。
地味ながらもぷつぷつと進んでいるようなそうでないような。少々モヤッとしていた日だが、そういう日常は過去にも何度となくあった。そしていまに至る。それならいけるだろうと、今日という日の価値をたしかめる。
イノベーションというやつは日々の積み重ねと、これまでのインプットとアプトプットの質と量とフィードバック、そして行動力から生まれる。そういった結論におちつく。
_10/28
一日中仕事していたら夜、胃が痛くなってきたのでソファで1時間くらい寝る。なんでだろうと思いつつもだいたい回復する。
急に寒くなったせいかなとも思うが、やっぱり健康第一だなと身体をいたわることを見直す。それにしても本当に寒い。雨まで降っている。
季節は急速に冬に向かっている気がする。まだ秋が足りない。今日の降雨でキンモクセイが果てないことを祈るばかり。
_10/29
胃の痛みは内臓の下る順番に推移し、しばらくして完全に治る。なんだったのかわからないが、大病ではないかとすこし恐れていたが杞憂。よかったなと制作をする。
なんかすぐ形になりそうなアイディアのメモをギターで録音する。すると全体像がすぐできたのでこちらをササと完成させることを優先させることにする。
ユーザーがひじょうに使いやすそうな音像。そういうのを狙ってつくるのも大事だなと、「とにかく綺麗なサウンドメイク」というコンセプトとする。
今日は特筆して変わったことのない平和な日。読み終えた本が「難しすぎることを終始、難しい文調で書いてあったな」というのが第一の感想。うすぼんやりと、現象学という分野に触れたかなというくらいの肌感。
次に読む本は昨日届いていた。『ヒットを生む技術』というそのまんまの内容と思われる。そう、ヒットが出したいのである。だからたまには直球でその手法の参考書に手を伸ばす。
そこからなんらかのヒントを見出し、ヒットを狙う。たまにはヒットを狙う志向性を重んじる。
_10/30
サササと制作をして各トラックを録音する。今度はフェンダー製ジャズベースが1本欲しくなったが、今年はもうそんな予算ないよと資金力を憂う。
散歩に行って近所をウロウロとしてリラックスする。なぜかこれがとても心地よい。散歩は本当に瞑想に近い。
夜はコンサルティングサービスの対応をする。気持ちよくクロージングし、よしもっとこのタスクを伸ばそう、さらなるプロモーションを考えようと思うが時間切れの深夜0時。
気がつけば今年ものこり2カ月。あと61日で2024年が閉じる。いや61日もある。あと数曲作って公開し、案件をこなし、新たな事業を考える。走り出しのサービスを伸ばす。
61日後に何を思うのか、どう思えるか。日々の積み重ねという筋トレみたいな裏切らないやつに尽力する。
_10/31