12/2019

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
今年は色々あり過ぎてだいたい忘れた。12月


渋谷のタワーレコードの反対側を歩いていたら超聴き慣れた曲が大音量で耳に飛び込む。俺の曲ではないか。

俺がアーティストとしてリリースした曲が「Now on sale!」と流れている、というわけではない。

タワレコの店頭のでかいモニターで流れるCMかプロモーションか何かの映像に、俺の曲が差し込まれていた、というだけである。このサイトか委託先のサイトかどこかで選別して使用して頂けたのであろう。

こうなんというか、たいへん嬉しいのは確かだが、そんな目立つところで使ってくれるのなら、もっとこう、実入りがもうちょい欲しいというか、俺の曲だということをもっとみんなに知って欲しいというか、そういった欲深くも複雑な心境になる。

自己顕示欲や金欲は、俺の自覚以上に下品に水面下で蠢いている。よし、俺は健全な精神を失ってはいない、そう思い、仕事も創作もがんばろうと奮い立った。タワレコ渋谷店さんありがとうございます。もっと流してください。
_12/01

 

 


改めて、とんでもない情報量にあふれている現代だなと思う。

そのせいか、ついさっきのこと、昨日とか一昨日のことは、特にネガティヴなことはすぐに忘れてしまう体質になってきた気がする。酒の呑みすぎだろうか。

1の情報やネタを10に膨らませるより、10の情報を1くらいに圧縮する技術などが、現代では重宝されるのではないかと思ってきた。一番凄いというか重宝されそうなのは、やはり0を1に、なのかもしれないが。

こう、1つあった出来事をしみじみ愛でるというような思考が俺は好きなのだが、現代ではなかなかそうもいかん。スマホを1日見ない、ということすら、仕事上不都合が生じる。

「人間、何日間何もしなかったら発狂するか」という実験、あれをやってみたい。だいたい平均値として3日間、外部からの情報のいっさいを遮断し、自発的になにも作業的なことを行わないという環境にいると、人間はだいたい狂うらしい。

俺はたぶん1週間くらいいける気がする。どちみち発狂するのだろうが。発狂の向こう側も知っておきたい欲。
_12/02

 

 


覇気がないというかなんだか具合が良くはないので休み休み過ごす。

こういう時は1日寝てしまえば良い。そういうわけにもいかんので必須タスクはやる。夕飯食べてまた寝て、ホリさんと電話したあたりから回復する。誰かと喋りたかっただけなのかもしれない。

だからきっと、「人間、何日間何もしなかったら発狂するか」という実験の被験者となったら俺は1日もたないかもしれない。
_12/03

 

 


高まる年末感。先立って今年を振り返ると、まあ色々あったものだと雑多な記憶を辿れる。

数年に年に一度、あるかないかということばかりだった。

例えば仕事のスタイルをガラリと変えたり、PCと周辺環境を一新したり、撮影の案件のために一眼レフにややハマったり、常習犯的に行なっていた賭博行為のいっさいを年始から禁忌としたりと。

みんなはどうなんだろう。「今年ですか? いつも通りでしたね」という人の方がマジョリティなのだろうか。

「いつも通り」というのは、ずっとある目標やらに進んでいる類と、大きな変化はなく通常運転で平和だったという、2種類にわかれるだろうか。どっちも素敵だ。

人間の精神は、「変わりたい」という奮起する心と、「このままでいたい」という据え置き的な心と、絶妙なブレンド比で成り立っている気がする。

面白いのは、久しぶりに会う人に「雰囲気が変わったね」と「お前は変わらないな」と、相手によって言われることが分かれることだ。

その2つに反応がわかれるということは、絶妙なブレンド比を保っている証だと思って、良いほうにとっている。まずはそれを崩さないように2019年を完走しよう。
_12/04

 

 


今日は宮本浩次さんの歌声が生で聴けて幸せだった。

宮本浩次さんの、あの歌のカリスマ性はなんなのだろう。あんなに魅力溢れる歌声もないものだと思う。

とにかく良かった。あと、やっぱり喋っている姿も面白くて最高だ。
_12/05

 

 


感性の変化について考えた。

どう安く見積もっても、10代の時の感性、感じ方というのは、はち切れんばかりにビンビンだった気がする。たぶん万人共通の傾向だと思われる。

若いほどにインプットのパワーが凄いというか、そう考えると、納得できる。歳を重ねると、インプットパワーは下降する代わりに、アウトプットパワーは上昇すると自分では感じる。

10代の頃だったらどう表せば伝わるかわからんかったことが、いまならスムーズに伝えられたり表現できたり。いまじゃ全然興奮しないことなのに、10代の頃は発狂の如く昂ぶったりと。

だから、昔の方が冴えていた、という考え方ではなく、バランスが整ってきたという考え方が一番健やかな気がする。

そう考えた上で、いま自分が一番興奮することは何かと考えた。シンプルな根源としては、やはりエロスとタナトスだろうか。

要は、「生きている!」と心底感じるか、「死ぬかも!(あるいは死にたい)」という情念が湧く、なにかしらである。

「死ぬかも!」というタナトス的興奮、死の疑似体験は、ギャンブルという分野でだいぶやったしもういい。

「生きている!」という方は、まだやる余地が十分にあると思う。普通はそれ一択なのだが。

どうすれば最も自分が「生きている!」と感じるかは、案外日常にあったりすることに気がついた。

人と話していて笑いあったり、アウトプットしたことに反応があったり、めしが旨かったりと。全部基本的かつシンプルである。

エロスもタナトスも、疑似体験ではなく、そこにリアリティがあるかということが、真のサティスファクションに繋がるということは、たぶんみんな知っていることっぽい。

そしてそれは、ひとそれぞれ違う形で追求していると思う。「自分なりの」というのをはっきりと一つ、あるいは複数見つけて没頭すること、これが真のサティスファクションっぽい。

感性の変化というのは、疑似体験を削いでいく上で生じるものなのかもしれない。そう考えると、そのうち俺も酒も煙草もやめて、「本当に自分に必要だ」と思うことしかやらなくなるのかもしれない。

それは、崇高でストイックな生き方でカッコ良いが、なんというか、ノイズもヨレもない完璧的な音楽を聴いているようで、少し味気ないような、寂しいような。でも、憧れる生き方でもある。
_12/06

 

 


レモンサワーとヤキトリとカキフライ。先方様にお誘い頂き、呑ってから帰宅。ほっこりと楽しかった。都心で温かい年末感を少し味わえた。

駅で別れ際、「まあ、帰っても寝る前にまた呑むんですけどね」と言ったら、「私もです」と言う。「ですよね」と言って別れる。ここである。俺はこの選択の寡多を知りたい。

呑み会とかが終わったあと、どれくらいの人が帰宅してもまた呑むのか。少なくとも俺は酒を呑み始めたら、「酔いが覚める」という感覚までもっていかず、酔ったまま寝る。だから、0時より前にお開きになったら、ほぼ帰っても1、2杯呑む。

どう考えても、酔いを醒ませてから就寝した方が健康的なのだが、その選択肢がない。

アルコールの半減期は、個人の体重にもよるが、2、3杯だとだいたい約3時間くらいらしい。だから「酔いが醒めたな」と感じ始めるのは呑み終わってから約3時間後だ。それまでの間、何をしていろと。ホットミルクでも飲んでおとなしくしていれば喜ばれるのだろうか。

作家の町田康さんが禁酒についての著書を出したらしい。読んでみようか。禁酒の向こう側にどんな景色が待っているのか、知りたいような知りたくないような。
_12/07

 

 


わざわざ時間を割いて頭がバグった父親の面会へ行く。しかし、彼は帰り際「それでお前は何しに来たの?」と言いくさる。

そこで考えたのだが、俺は一体何をしに行っているのだろう。バスに乗ってまで北区赤羽から足立区江北まで、なにか重要なことをしに行っているのだろうかと。月に一度とはいえ、行き帰りまでで数時間はかかることを、何の為に行っているのであろう。

施設の料金の支払いは振り込めばいい。逐一現金で払いに行く必要はない。そのついでに面会、という習慣は、どうやら不必要ではないかと思った。当人に言われて気が付いた。

俺が行ったところでふざけた病が改善に向かうわけではない。むしろゆっくりと、病状を遅らせる投薬を続けたところでどんどんゆっくりと、アルツハイマーというのは進行する病である。

「自分が自分でなくなるなら生きる必要はない」という頑なな持論から、アルツハイマーに罹った中期くらいで自決する、という内容の漫画がある。

それは、福本伸行先生の『天』という作品で、重要キャラの「アカギ」は、盟友の渾身の説得に応じず、認知症によってボケきる前に、自らの手段によって死んだ。そして、物語は完結した。

その言い分は、まるでカート・コベインの遺書の内容のようだ。アカギもカートもカッコ良いのだが、人間そう、潔く逝けるものなのだろうか。

アカギとカートと父親に共通しているのは、完治する療法が現在ない病に罹患したという点である。

身体的な病と異なり、脳や精神の病は、数値化と視覚化があるようでない。だから、わかってあげられない。

「それでお前は何しに来たの?」の返事として適切なのは、きっと「わかりたいから」だろう。

帰路、そんなことを考えながら環状七号線鹿浜橋から見た夕暮れの美麗な西日と空の橙と紺のコントラストは、はっきり言って汚かった。じわじわ陽が落ちるくらいならスパッと暗くなれと、そう感じた。しかしそれはどこか残酷であり、心底思うことが俺にはできない。
_12/08

 

 


死んだら苦も楽もいっさいの感情がなくなる。

そう思うと、頭に霞がかかりながらゆっくりフェイドアウトするのも悪くはないのではないだろうか。そういった死生観ばかりぐるぐると考えるのはどうなんだろう。

頭がメコメコになるくらい考えすぎて、スーパーで買い物をしたあと、袋に入れずにまんまカゴを持ちながら100メートルは歩いて引き返す。これは恥ずかしい。死ね。カゴを被って死ね。

単純に、気温が低いとより内向的になる。鬱っ気のあるダウンビートを作っていると気持ちが安らぐ。こういうときに陽気でパツパツのEDMなど聴くとたまらん。

酒すすってポーティス・ヘッドでも聴いて寝よう。
_12/09

 

 


今日はなんだかやけに褒められたり、自己肯定してくれる言葉を直接対面して頂けた不思議な日だった。さいきん鬱々としていた傾向にあったので漲る。

人を褒める時は、具体的かつ、自身独自の表現で褒めると刺さるという。

ただ「可愛いいですね」ではなく、たとえば「目が凄く綺麗ですよね。吸い込まれそうというか」くらい、口説いているのかというくらいでいいという。

「渋いですよね。喩えようのない雰囲気です」とかもいいかもしれない。唯一無二感にプラスして“雰囲気”という全体像を指して相手を完全に肯定している。

たった一言、自分の言葉で相手の良きと思ったことを直接口にして伝える。あるいは、そういった褒めや自己肯定に繋がる言葉を受ける。すると、言った方も言われた方も、どっちもドーパミンが噴射するらしい。確か。

要は、良いことを直接相手に「いい」と言うその数秒だけで、最低2人はハッピーになれるということだろう。「いい」と思ったことは即相手にアウトプットすると良いことしかない。

しかし、「照れ」や「嫉妬」という感情がそれを邪魔するのか、なかなかストレートにいかないこともある。それらの感情に勝つのはけっこう難しい。

だから、自然に褒めたりできる人間というのは感情面、コミュ力面で優秀なのだという結論に達した。人付き合いがうまくいかないなと思ったら、嘘は交えずとりあえず褒めてみれば円滑にいく気がする。これはたぶん合っていると思う。

素敵な褒め言葉を受けると随時幸福感再生可能な感情がずっと残るし、人格否定の言葉は殺意が芽生える。俺は前者を尊ぶ。後者は暴力よりも悪しき。褒めよう褒められよう運動。
_12/10

 

 


カレーうどんを食べたことがなかったので作る。見よう見まねで作る。

カレーもうどんもそれぞれ単体なら好きだが、混ぜるとなると言語道断という思いがあった。

しかし食わず嫌いは良くないので食う。普通にうどんを作って、最後の工程でレトルトうどんを投入する。たぶんこれでカレーうどんになると思う。

出来上がったものを食べたところ、生まれて初めてカレーうどんを食べたところ、なんの感動もなく、100%予想通りの味がして逆に驚いた。あまりにも普通に美味しかった。

じゃあカレーそばも、と攻めたいところだが、蕎麦好きとしてはやはりカレーと蕎麦の組み合わせは禁忌。蕎麦の香りもだしの味わいもへったくれもない。カレーが強すぎて、麺ならなんでもよかろうとなる。うどんでも蕎麦でもソフト麺でもなんでもいい。

そう考えたあたりで、小学校の頃にカレースープ的な謎汁にソフト麺を入れて食ったことがあるのを思い出し、別に初体験でもなかったとがっかりする。今度、ちゃんとした店で“カレー南蛮”というやつを食べてみよう。俺が今日食ったのはカレーうどんではなく、ただのカレー麺だ。

“カレーうどん”とか“カレー南蛮”だったら、きっと初体験の感動をもたらしてくれると信じている。
_12/11

 

 


「人生を変えた本」というのをよく聞く。読んで生きるスタンスなりに大きく影響を及ぼした、というやつだろう。

8年くらい前に「人生が変わった。ケンちゃんも読んでみなよ」と勧められて借りた本を読んだが、俺はピンとこなかった。しかし、そいつはそれからメキメキと頭角を現した。よっぽど刺さったのだろう。借りパクしたまま本棚で寝てる。

俺にとって 「人生を変えた本」があっただろうか。大きく変えたのには出会っていないと思う。第一、読む本のジャンルが偏りすぎている。

心理学や精神医学系というか犯罪者系や異常者系というか、メンヘラにまつわるやつが多い。「人生が」というような感じではなく、人間の肚の底の知識が備わるという系統である。

小説も読むには読む。有名なところはおさえとこうと、太宰さんや芥川さん、三島由紀夫さんに夢野久作さん、中島らもさんに町田康さん、坂口安吾さんに澁澤龍彦さんも読んだだろうか。

どこかサブカル的に偏っている気もするが、読むには読んだ。面白いが、「人生が」というところまでには、と言う感じである。

「人生を変える本」というのは一般的に自己啓発系か社会学系が多い気がする。そういえば、わりと「あなたの人生を変えた本は?」という会話はしたことがない。返事を用意しておくとしたら何の本だろう。

『人間失格』だろうか。ラストが凄まじく良かった。でも隠キャと判断されそうな気がする。

『今夜、すべてのバーで』だろうか。アル中の手前と思われがちだ。

『歯車』だろうか。情緒不安定だというイメージがつくかもしれん。

『連合赤軍「あさま山荘」事件』だろうか。危ない輩だと思われる。

『少年A  矯正2500日全記録』だろうか。ダメだ。

どれも超面白いのだが、難しい。こう考えると「あなたの人生を変えた本は?」という質問は、どこか相手を値踏みしているコミュニケーションともとれる気がしてきた。

こういうところで背伸びするとボロが出る。「そうですね。『カイジ』です」くらいではぐらかすのが良かれ。ある種、嘘ではないし。
_12/12

 

 


規則正しい生活リズムを送るためにペットでも飼おう案が出た。

第一選択肢はやはりネコである。ネコはかわいいし、昔飼っていたからたいへん親和性もある。

犬はいけない。俺はなぜか知人の飼い犬に高確率で噛まれるという体質だ。現に何度となく、腕と腿と、ガブリとやられた。

しかし、住んでる物件の都合上、犬もネコもなかなかきびしい。魚にしようか。小魚とかなら水槽一つとちょっとした機材でいけそうだ。

しかし熱帯魚は意外と高額なうえ、どうも俺はビジュアル的にグロいと感じる。鮮やかなカラーリングの熱帯魚ほど、グロく感じる。

だから、馴染みのあるイワシとかししゃもとか、サイズ的にもそのへんが良いと思う。

日に三度、決まった時刻にエサを与えて愛でる。話しかけたりもするだろう。帰宅してししゃもちゃんがいるとホッコリするだろう。ちょっと落ち込んだ時、ししゃもちゃんのピチピチとした姿を見ては元気を取り戻すであろう。

そして、頃合いをみて食う。数年、手塩にかけて育ててから焼いて食う。その時どんな気分になるだろう。人間は日々、何かしらの命を頂いて生きている。それを改めてドメスティックに体感するだろう。

という妙な趣旨に変わりそうなのでペットはヤメとく。既に3鉢ほどいるが、植物たちを増やそうか。植物はいい。リアルタイムでは動いているのがわからんのがいい。
_12/13

 

 


2万円ちょい出してソフトウェアをアップグレードする。

音楽制作環境をソフトごとガラッと変えてからしばらく、上から2番目のグレードのやつで試していたが、とうとうガチのやつに上げた。

こう、一応「購入」をしたのだが物質が手元にこないと味気ないと感ずるのは昭和生まれ所以なのだろうか、カードでちゃちゃっと支払うと懐がノーダメージに近い感覚なのは思う壺なのか。

しかしDAWがパワーアップすると興奮してくる。金を出せば質が上がるのなら、制作環境にあと200万くらい突っ込みたい。機材費と音楽の質が比例するかというと難しいところだと思う。

クソみたな曲が超高音質でパッケージされていてもそれはちょっと。音楽力と感性も大事だし、機材環境も大事だし、どれかが極端に劣っているとあれかなと思う。

「弘法筆を択ばず」とか言うが、それもあると思う。しかし、ある程度の筆は必要だ。

俺は筆に“Pro”とついているやつが好きだ。Macbook“Pro”もそうだし、そのモデルの最上位というのはある種のブランド感というか信頼感というか。“Pro”と末尾に銘打ちながらもショボかったらメーカー全体の威厳に関わる。

しかし酒は違う。バカみたいに高価なシャンパンを2杯呑むのと、ワンカップ大関佳撰を2杯すするのと、俺は大差なく酔える。上等な酒も好きだが、それは特別な時だけだ。

だから、ありがたくも上等な酒を頂いた時などは、もうそれだけで嬉しいものだから瓶とラベルとくれた奴の顔を思い浮かべるのを肴に酒が呑める。わけがわからない。しかし、楽しみ方としては合っていると思う。

そういったわけでコスパ最強のストロング缶でも2本買ってこよう。西友だと98円。酒として大丈夫だろうか。おいしいのだが。

「ストロングハイ Pro(¥298)」とかいう商品が出たら俺は買うだろうか。酒の立ち位置的に微妙過ぎる。
_12/14

 

 


NHKに行く。だいぶ早く着いたので取材席的に最前列。YOSHIKIさんはどんな意気込みを発表するのだろうと思っていたらKISSの4人も出てきて漏れそうになる。

会見中、どういうわけか、絶対に気のせいではないと思うのだが、ジーン・シモンズさんが何度となく俺をガン見する。ディープなメイクをしていても完全に目が合っているのがわかる。なんの圧だろう。

しかし、オーラというか雰囲気というか、目つきもどこか温かい人間と本能的に感じたので恐ろしくはない。ただただ、漏れそうになるだけである。

カメラ目線をくれているのかなと思いピンスポで撮ったりもしたが、なかなか目を逸らさない。なんだったのだろう。すごい圧だった。

怖いのか嬉しいのか威圧されているのか友好的なのか、わけがわからなくなってジーン・シモンズさんの目が焼きついたまま帰宅。どこか嬉しかった。
_12/15

 

 


ジョン・フルシアンテさんのレッチリ復帰に興奮する。ジョンフルさんは好きなギタリストベスト5に入る。

ジミ・ヘンドリクスさんもジョニー・グリーンウッドさんもジミー・ペイジさんもサーストン・ムーアさんもトム・モレロさんも大好きだが、やはりジョン・フルシアンテさんも好き過ぎる。

20代の頃、さんざんギターの弾き方の参考にさせて頂いた。無駄がなくエモく魂がこもっている感じが最高だ。ああジョンフル。
_12/16

 

 


どれだけぶりかに車の運転をする夢を見た。ハイエースに乗って車庫入れをする、という感じなのだがどうも不思議な感覚だった。

父親をブチ込んだグループホームからは、月一でレポート的なものが請求書と共に郵送されてくる。そこはたいへん手厚く、スタッフさんも優しく、清潔感もあり、俺の食事よりも美味そうなメシが出てくる優良施設である。

今日届いたそのレポートのテキストの一部には、「ご自身の車のことを心配なさっているご様子です。ご家族がメンテナンスをしているのでご安心をと促しております」と綴られていた。

親父の愛車・ハイエースは、諸事情により数年前とっくに売っぱらった。認知症や精神疾患に罹患している者には、事実をそのまま伝えず、話を良い方に合わせるといったセオリー的対応がある。

要は、ご担当者様は車の件に対してうまくなだめて安心させておいたから、俺とハイエースの話になったら口裏を合わせてね、ということである。

ハイエースが恋しいという親父の情念が、俺の夢の中に飛んできたのであろうか。だとしたら納得である。

計算能力や記憶力、思考能力などのIQ的な部分がガッツリ低下したぶん、生物の本能的かつ解明困難なコミュニケーション能力が補填するのだろうか。

そして、そのような電波的波動を俺が受信できたということは、正直嬉しくもある。直感や霊力的なものに対応できているということは、新時代により役立つある種のスキルだと考えている。

父親が乗っていた同型同色のハイエースを俺が買って、その足で施設に行き、奴をドライブに連れて行ったとしよう。これは親孝行と言って過言ではない。霞がかかった頭でも嬉しみくらいは感じるであろう。

ハイエースは高い。数百万する。親孝行とは高いのか。レンタカーでいいか。
_12/17

 

 


奄美大島出身の歌手の方とお話しする。物腰から良き意味で霊的な何かを感じたので、本題終了後、そういったお話しに付き合っていただく。

昨日のハイエースの件も普通に聞いてくれるような、優しい方だった。「鳥肌が立った」と言っていたからキモい思いをさせてしまったら何だなと思ったがそうでもない様子。

そんな中でスピリチュアルな話の流れにもっていったところ、その方はよく「霊感があるでしょ?」と言われるそうだ。本人はさほど自覚はないそうだが、そういった体験はあるそうなのでごく自然に受け入れているらしい。

端的に、俺もそう思ったのであろう。そこで、「奄美大島には行ったことがないが、島にはスピリチュアルな何かというイメージがある」といった偏見を申したところ、「一回行った方がいいですよ。ユタに会うといいです」とのことだった。ガチであるらしい。

ユタとは、シャーマンのことだそうだ。なんだその存在は。死ぬほど興味がある。ユタに会って、俺の微妙に不思議な、数値化や科学的証明不可能な体験を聞いてもらいたい。

そして、そこで「あなたの感じた通りですよ」と、プロに肯定してほしい。霊能力に目覚めたい、というか、目に見えないような説明解釈不能だが直感的に「そうだ」と、半ば思っていることを信じ切りたい。

なぜかというと、きっとそうなれば手前の何事も良き方向に進む気がするからである。

良くも悪くも、強く念じたことや思考化したことが実際に現実化するということがたまにある。それは、霊力やらの類ではないかとも思う。

「強く思えばそれは行動に移すだろうからそりゃそうだろう」と、言われてしまえばそうかもしれんのだが、こう、別軸というかそういう感じのやつをユタと相談したい。

正月は数日休みがとれそうなもよう。奄美大島へ。そしてユタに会い、黒糖焼酎を呑み散らかし、解脱して帰ってくる。そんな素敵なスピリチュアル・ツアープランがあるにはあるが、普通に赤羽で呑み散らかしていそうだ。
_12/18

 

 


卒業論文というのがあるらしい。俺は大学に行っていないので書いたことがない。仮に、大学生であったとして卒論を書くとしたら何を書こうかと考える。

その前に、何学部に行っていただろう。たぶん、心理学部とかそっち系を専攻していたと思う。それでもって卒業すれば心理カウンセラーやらの資格がとりやすくなっていた。なぜ大学に行こうという発想すらなかったのか。

もし大学に行っていて卒業手前まで行っていたら、「欲望と依存について」というテーマで卒論を書くだろう。

酒やらギャンブルやら薬物やらの依存性と、人間の根源的な欲求と脳汁の関係とエロスとタナトスについて、中島らも的な文調を真似て書くだろう。そして教授に「やってるのか」と、疑われるだろう。

そんなキャンパスライフを送ってみたかった欲もあるが、大学に行っていたとしても高確率で中退していただろう。そんな人生パラレルワールドを考えていたらキリがない。

俺の今の人生の現状は、何種類もあるパラレルワールドの選択のなかのどの位置なのだろう。上の方なのか下の方なのか、たぶん自分でも他人でも判断できないと思う。

大学を卒業してフォーマルな企業に入り、10年くらいして結婚して子供がいてネコがいて。という選択肢も確実にあったはずだが、全くもってそれは選ばなかった。いまだになぜかわからん。
_12/19

 

 


ありがたくも仕事でくたくたになって深夜。滅多に起こさない体質なのにゲシュタルト崩壊を若干おぼえた深夜、ホリさんからLINEで届いていたファイルを聴いてみる。

そこには俺が遊びで作ったビートルズ「Yesterday」のカバーが、クリスマスな雰囲気を纏いつつバキバキにリミックスされたバージョンが収められていた。

そういえば数日前、機材環境の相談をしていた際に、ステムミックス(歌とかギターとか打楽器とか各パートのバラのトラック)を彼に渡していた。こんなに本気で遊びでイジってくるとは思わなかったのでほっこり。

これはクリスマスにどうにかして配りたいものである。というか、そうしろという振りであろう。大人が本気でふざけ合うのは実に面白いなと、くたくたも吹っ飛ぶ。ホリさんありがとう。
_12/20

 

 


順さんにがメシをおごってくれると言う。これは僥倖と思うが、遠慮してしまう。

「マジですか。じゃあ、とんかつとかどうですか?」

「赤羽にうまいとんかつ屋あるんだ?」

「いえ、俺がたまに行く550円で食える所です」

「馬鹿野郎。せっかくなんだから高いとこでもいいんだって」

「いえそんな。めしに1000円以上とかは贅沢です」

「お前はもっといいの食え」

「本当はステーキが食べたいです」

「それでいいじゃねえか。安いと逆に奢り甲斐がないんだよ」

実にカッコ良い。言ってみたいものである。「安いメシ奢らせるんじゃねえよ。俺に恥をかかせる気か」的なの。カッコ良し。

「順さんここです。通りかかっては食いたいなと思うんですけど、高いかなっていつも指くわえてスルーする店です」

「よし、ここにしようぜ」

「この『サービスステーキ』っての、安くていいですね」

「お前はさっき言ってたの聞いてなかったのか?」

「実は、こっちの高いやつが食いたいです」

「それいけ。Lサイズでもいいから」

「そんなん440gですよ。アメフト部キャプテンとかが食うクラスですよ!」

「食べたくないの?」

「Lサイズください。ライス大盛りで」

というわけで満腹である。Lサイズは順さんが引くくらいデカかったが、実は俺は誰かと食う時に限り、大食いになる。白井さんもいつだったか同じことを言っていた。「一人だと別にそんなに食わないです。みんなと一緒だといくらでも食えます」と。俺も一緒である。なんなら600gとかでも全然食える。

順さん、本当にごちそうさまでした。レシートもくれるあたりの細かい配慮までありがとうございました。
_12/21

 

 


クリスマスも近づくと改めて何の日かわからなくなる。本来は聖なる夜というか神聖な感じの清し夜なのだろう。

しかし、基本的にはみんな騒ぐというかハッピーな日っぽくなっている。

昔、クリスマスの日に教会へ行き、ガチの聖なる夜を味わってみたが、それはそれは神聖な雰囲気で、絶対に笑ってはいけない感じであった。

しかし、教会を出て街を歩くとまあお祭り騒ぎである。このコントラストはなんぞやと、俺はいまだにクリスマスという日がなんなのかわからない。

とりあえず、シャンパンがよく売れる日だから便乗して呑もうか。チキンと食ったらさぞかし美味かろう。
_12/22

 

 


病院に定期検診に行って血を抜かれてくる。

看護師さんは俺の「人間のチューニングの微差と精神状態の変化」についての話に付き合ってくれながら血を抜くという大したスキルを持っていた。

前回の採血の時の看護師さんは、キース・リチャーズの血液クレンジング的な話に合わせてれた。赤羽の病院は猛者が多い。
12/23

 

 


クリスマスというのはきっと、幸せをシェアする日だ。よくわからんがそうに違いないと思いながら仕事をする。

出先から帰ってきて、俺の一方的なクリスマスプレゼントをSNSでばらまく。需要があるか否かという点は二の次である。

ホリさんとトラックデータをやりとりして遊んでいた先週くらい、彼からクリスマスに何かに使えば良きかと、的な雰囲気を醸すパスがきたのでせっかくだからと思い、動画まで作ってばらまく。

たった一人でもいいから、その動画と音源で、一瞬でも幸せを、ひと時でも笑いを感じてくれたら俺はサンタクロースのはしくれだ。俺も嬉しい。

だがしかし、音源がビートルズの手前カバーがもとなので、著作権の関係上、俺が1円でも利益を上げるわけにはいかん。そういうわけで当然フリーダウンロードだし、数日はサイト広告もひっぺがす。これを機に、ビートルズも好きになったという人が増えればさらに幸せな気がする。

一人でもいいから、俺とホリさんが真面目にふざけて作ったコンテンツで、一瞬でもいいから、誰かが幸せになってくれれば晴れてメリークリスマス。
_12/24

 

 


仕事の合間に鍵盤を弾いてリフレッシュする。これはよくある日常だ。しかし今日はどうしたことか、あまりにも無駄に歌が絶好調である。

スピッツの「ロビンソン」が原曲キーで熱唱できるくらいのコンディション。なんだこの覇気は。だがしかし1時間くらいそうして過ごしていたら疲労がピークに達し、ソファーに沈む。1時間。本末転倒。

起きて今日やるべき仕事を全て完了させ、さあ酒でも呑みたいと思ったら今日は本チャンのクリスマスデーである。シャンパン。ドン・ペリニョン。モエ・シャンドン。ヴーヴ・クリコ。

いずれも数千円はする俺の知ってる美味いシャンパン。呑みたい。しかし、一人で呑むシャンパンほど味気ないものもない気がする。一人で呑むのがデフォルトの俺も、さすがに一人でシャンパンを空けるのは気が引ける。バチが当たりそうである。メリクリ・ストロングチューハイとか売ってないものだろうか。聖なる夜に迷子になった酒呑みにバカ売れするはず。
_12/25

 

 


サメの切り身を焼いて食う。以前ごちそうになったホリさんクッキングによるサメ焼きがうまかったから、俺も美味しく焼いて食おうとホクホクして調理する。

食ってみたが普通。ホリさんが作ってくれたサメ焼きはビフテキのように美味かったのに何故俺が焼くとこんなに普通なのか。単純に料理の腕前だろう。

調べてみたらサメ肉はヘルシーで栄養満点、DHAやらビタミンB6・B12を豊富に含むそうな。だったら良いかと思いながら夜まで仕事なり過ごしていたら今日は自作のサメ焼き定食しか食ってないことに気づく。すげえ腹持ちだ。

というわけではなく、シンプルにめしを食うのを忘れていた。これがちょいちょいあるから俺は誰かと会うたびに「痩せた?」とか言われるのである。つまみを多めに買ってこよう。酒でカロリーを補完しよう。これも貧弱な体格の原因かもしれない。
_12/26

 

 


エイフェックス・ツインの2019年のライブ映像をYouTubeで観る。

尺は90分ちょいあったのだが全部観る。仕事部屋で踊りながら観る。なんというか何故か最近忘れていた「俺はこういう音楽が好きだったんだ」ということを思い出した。

棚に10枚はCDが並んでいるミュージシャンは好きすぎるやつだ。CDを10枚以上持っているのは、ソニックユースと、スティーヴィー・ワンダーと、エイフェックス・ツインだ。

2009年にサマーソニックでエイフェックス・ツインを生で観たことは今でも鮮明に覚えている。どこまでも綺麗でグロくて最高だった。

10年前の記憶だが、意外と覚えているものだと思った。同日、ナイン・インチ・ネイルズも観た。当時流行ったゲリラ豪雨直撃のステージだった。

帰りは連れ4人でステーキを食った。同行の当時恋人と帰路、ネコジャラシで遊んだ。めちゃめちゃ細部まで覚えている。当日来ていた服まで覚えている。その翌日と前日のことはひとつも覚えていないのだから、人間の脳というのは本当にどうなっているのだろう。
_12/27

 

 


今年あと3日。正月はほぼ3日まるまるお休みの日の予定。そう考えると漲る。

年始はジャパニーズらしく書き初めといきたいところ。2020年の意気込みを漢字一文字にして野太く綴る。実に正月らしいではないか。何の一文字にするかは正月に決めるとして、今年を漢字一文字で表すとしたら何だったろう。

「死」である。ネガティヴな意味ではなく、「死」である。どういうことかというと、俺は今年ほど「死」を本気で意識したことはない。

「どうせ死ぬんだし」とか、「だいたいあと40年もしたらたぶん死ぬ」とか本気で実感しだした年だ。

どれくらい本気だったかというと、春先からあらゆる環境をガラリと変えまくったことがそれを物語る。根本的な仕事、仕事道具、機材、新たにやり始めたこと、などなど。

どうせ死ぬなら、死ぬ前に「あれをやっておけばよかったのに!」と思って死にたくない。そう思った結果である。

死ぬときは「もうやることないしね」と笑って死にたい。これほど前向きな今年を表す漢字一文字もないと思うのだが、来年はどんな文字が浮かび上がるだろう。正月に決めよう。
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今年セミ・ファイナル・イブ。「仕事おさめ」とかいうフレーズとは対極の年末の日々を過ごす。いそいそとなるのはありがたいが眠い。

よっぽど遊び呆けたいのか、パチンコを打つ夢を見た。遊びたい。なるべくエロい遊びがしたい。女性がたくさん集うパーティーなどに行って気が触れたかの如く踊り狂いたい。
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大晦日2Days初日。くたびれて帰宅して洗濯してゴミを出す準備をしようとするも1月5日まで回収はお休みと知る。どうすればいい。

小出しにしてコンビニのゴミ箱に捨てに行こうか。コンビニの店員の兄ちゃんの気持ちにもなってみろ。それはモラル的にいかん。

キツく袋をしばって廊下に置いておこうか。お隣さんの謎テナントの住人に何をされるかわからない。最近の世間の空気感だとちょっとしたルール違反で刺されるまでありそうだ。恐ろしい。

まあどうにでもなると思い、PCのゴミ箱を見たら36GBもたまっている。とんでもない容量である。

なぜ消去しないか。それは、捨てたが実は仕事で必要なデータだったということを恐れ、仕事が数日空くまで待っていてはや数ヶ月。正月3日目くらいに捨てよう。

要するに、大掃除が全くできていない。俺は何度でも言いたいのだが、部屋の乱れは心の乱れ、普段からの掃除が大切だ。というわけで自宅はどこもそんなに汚れていないので大掃除パス。
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2019年ファイナル。仕事中に出先で年を越し、電車で帰宅。

深夜4時くらい、電車内の40%くらいの人々は寝ている。普段は寝ている時間なのだが、年越しというイベント故になにかしらの活動をしては帰路につき、寝る。どこか不自然を感じつつ、俺も電車で赤羽に着くまで寝る。

今年は色々ありすぎてだいたいのことは忘れた。楽しかったことだけは覚えている。頭にきたことは全て忘れた。ネガティヴなことは記録すらしていない。それが良きか悪きかは知らんが、精神衛生上よろしかろうと思う。

明日から3日、久しぶりすぎる休日を迎える。自由すぎていかなることをすれば喜ばれるかと悩みつつもう5時は過ぎる。とにかく、自由に過ごそう。2019年は、とてもとても楽しい年だった。ある種のギャンブルに勝ったという手応えがあった良き年だった。
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