04/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。恥と許し。4


誰に見せるでもない可憐な笑顔。花よ。与えるでもなく受けるもなく、ただそこに居る。その美麗たる佇まい。俺は吸い込まれる心境を粛然とこらえつつ、花びらのたもとを探る。するとそこから確かに肉肉しい、人間の汚さを模すかのような実相を目視した。美しいものは、遠くから眺めるにとどめることが――。

などといった気持ちのわるいポエム文章を小説の原稿にねじ込んだ。訳ではない。

情報量が多過ぎと思える箇所のあいだに、もうちょい、さりげない情景描写を加筆しただけである。脇役も脇役の役柄でヤクザ出してみた。いや、本当に景色みたいなヤクザ役。どういう状況だそれ。ともあれ、内容はすごく普遍的なテーマ。だと思う。

要は、推敲3回目に入ってさっき、序盤が「おお、これだ」みたいになってよかった〜と思った。それでその前、日中は楽曲制作ずっと詰めててやっとこ完成して「これは(ことオルタナティブロック系楽曲については)最高傑作かもしれん」と悦に浸り、後者においてはプラットフォームに申請した。

もっと前。起きて最初。身支度してまず近所の教会に行った。徒歩数分なのに雨とか寒さがしんどかった。

中世の香りを確かに想起させるシンメトリーな造形。迷い人、そうでない者、懺悔を乞う者。拒まず。万事を慈愛で受け入れる。神のもとにあらゆる差異はない。静謐な構内に空調非ず。ひんやりとした褐色の長椅子に腰をかけ、思想書に耽る。しばらくし、非言語的な導きを受け講堂中央に導かれ、そこで書物と対峙する。啓示――虚構の感覚ではない光に包まれた。

いいよこういう気持ちわるい情景描写はもう。でもね、こういうのも適切に、ここまでおかしくは書かないけど、さりげな〜くねじ込むと効果あり。ということをちょっと実感したという訳である。

それで教会を出て、老舗蕎麦屋に赴き、「大もり」を美味しく食べたけど、なんかちょっと量がいつもより少ない上に100円値上っててもう、声が出なかった。しょうがないけどね、と思いつつもそこから帰宅していろいろ営んでいた。いろいろなことを考え、つくり、アウトプットもした。

そこでいま、思った。最終的にはどうなりたいのかと。さらにいま、思った。それを知ってしまったら人間というやつはきっと、絶望してしまい、生きる活力から精力から気力から何から何まで枯渇して動けなくなってしまうのではないかと。

だから、定期的にこう、手前に言い聞かせるように書いたりするが、今を生きることこそに最たる意味と楽しさがあるのではないかと。

だが、その〝今〟を変にこねくりまわして情景描写のような文章にすると、先のようになる。しかし、それが時に有効な時もある。

小説を書くということに真剣に対峙していると、様々な気づきのようなものも同時にあり、それもまた楽しい。

あと、ディテール――本文の場合は2箇所の情景描写ねじ込みがそれにあたる――は、ほどほどじゃないとおかしなことになる。そこは適切かつセンスよくいきたいよね。
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訂正。先日のあたった件、「ブリ」ではなかった。

さきほど、編集部の村上氏より入電。内容はというと口頭一番「変なこと聞くけど、最近腹こわさなかった?」とのこと。

当然俺は「ブリ」翌日の惨事を思い出し「ありました!」と口にするがすぐにわかった。村上氏は「やはり……」と、その前日に酒の席を共にした時の「牡蠣」を持ち出した。

つまり、俺は、ブリにあたったのではなく、居酒屋で食べた生牡蠣にあたったということがほぼ確定となった。

理由は、村上氏は生牡蠣にあたった経験があり、その時の症状と似ていたこと。ならびに、同時期に俺も発症したこと。おとといからの症状を口頭確認ですり合わせたところ、全くと言っていいほど同一の症状であったこと。現状のコンディションは〝80%くらいかな〟という彼の所感と一緒な部分も。

思い込みって恐ろしいなと思った。「ブリ」冤罪。「生牡蠣」本線。というかほぼ確定。ノロウィルス。軽傷寄りでよかった。そう、互いに電話口で安堵した。何故ならそれ以外考えられなく、それは、別の大病であることを否定することにも繋がるからである。

今日夜、いやいや治ってきたと嬉しみ、カップうどんに卵を入れて食べた。直後、具合がまたよろしくなくなった。小説原稿を推敲するもこう、横になっていた方がいいという本能に従い休む。その間に入電。上記のようになる。

という訳である。なお、この症状は数日で自然治癒する――ネット調べでしかないが――らしいのでまあ、一安心だろうか。とにかく、村上氏が早く全快しますように。あと俺も。繰り返しになるが、あたったのは「ブリ」ではなく「生牡蠣」だったという訂正文。
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「下記の」って記述したいのに「牡蠣の」って出る。それくらいあたった訳ねとMacの変換機能に諭される。

今日あたりだいぶ回復して、更にやっぱり酒、控えめにしてるからなんならいつもより体調良好。とはいえ牡蠣の食あたり完治率は85%くらい。

なのにハイボール350mlをものすごくちっさく呑みながらいま、過ごす。だめと思わしいがだめまでいかず、だめをちっさく啜る。こう、女々しい。

今日あたりも小説の推敲に熱を寄せる。どんどん、よくなる。という肌感覚がいい。けど、世に出なければ――出たらというか出て貢献できる評を、いただけたら、というか出す前提だから手が止まらない。

とはいえ、タイピングのしすぎでいま本当に指関節がクリッとなったので休む。もっと面白くて楽しい明日を更新できるようにと、手前啓発する。酒の肴にもちゃんと、熱を通そう。
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さすがに腹が治って安心する。それとは別で定期検診へ。メンタルクリニックのロビーはガラガラで、待っているのは俺一人だった。それ以外の人たちは皆、健やか。そういうことなのかなとか思って診察室に呼ばれる。

「ああ平吉さん。もう1ヶ月ですか――」

「ええ先生。早いものですね――」

やはり主治医は俺を月単位の尺度かなんかだと捉えている。何ヶ月か前から口頭一番のセリフはずっとこれ。絶対俺を月の目印にしている。

「どうですか平吉さん」

「はい。メンタル関係ないですけど、牡蠣があたりまして」

「ははあ。多いですよ…最近……」

「そうなんですか。というのもですね、さすがに腹をこわしたものだから、おとなしく酒を控えていたのです」

「はい」

「するとですね、いつもより若干、二割くらいでしょうか。心身共に健やかさが増しまして」

「アルコールは精神状態にすごく関係しますよ」

「以前、仰っていましたね」

「ええ。呑みすぎて翌日『ああ……』となってまた呑んでと。それを繰り返すと鬱になります」

「ははあ……わかるような……前も申し上げましたが、僕は毎日酒を、大量とまではいきませんが呑むのです」

要は、酒を控えていたここ数日、体と心がいつもより軽い。その報告だった。そこから先生は、自身アルコール依存症患者の病棟に勤務していた経験を引き合いに出し、酒と精神衛生との関連性を強調した。

「あれですね、平吉さんはそういう依存症の『ケ』がありそうですね……」

「自覚があります」

「今はね、依存症になっても『断酒』から始めず『減らす』ことから治療なりを始めるんです」

「知りませんでした」

「お話を聞いていると――平吉さんもお酒減らしたほうがいいです」

「そうですか」

「やめろとまでは言いません。せめて半分にしてください」

「そうしよかなと思います」

手前から言い出したのだからそういう話の流れになったが、飲酒量に言及されるのは初。しかも。

「平吉さん、『しようかな』ではなく、減らしてください」

「そんなに深刻ですか!?」

「いえね……せっかく上手くいってきているのに、お酒で持ち崩したら……」

先生はPC画面に目線を向けながらそういった。〝上手くいってきている〟というのは俺の症状ではなく、仕事等の営みであるニュアンスであることは間違いないと伝わってきた。

それも、前回まで数回に渡り、小説を書いていることを伝え、先生はそれを凄く高く評価してくれていることがまずある。そして、俺がその先のことまで綿密に考えていることも伝えており、その点も大いに鼓舞してくれている。かなり関心を抱いてくれている。

だから、そのあたりについてを指していると捉えた。というかそれ以外の要素は考え難い。

「わかりました。減らします」

「そんなに多い量ではないようですが、そうなる前に――依存症は一度なると元に戻らないんです。脳の仕組みがそうなるからなんですよ」

ギャンブル依存症である俺には、先生が何を仰っているのかよくわかる。「ケ」どころではないのである。重度の淵まで行ったことが事実、体験としてあるのである。

更に、もう何年も博奕には手を出していないが、それでも、俺自身「依存症が治った」とは思っていない。ただ、「今日は打たなかった」という日を何年も積み重ねているだけだからである。

「じゃあ次回なんですけど平吉さん――」

「はいそれで――ありがとうございました」

「はい。お大事に」

「ガラ。失礼しま」

「本当に気をつけてくださいね?」

「は、はい」

診察室から出るタイミングで念を押されたのは始めてであった。

それくらい俺が酷い――というわけではなく、なんというか非言語コミュニケーションの雰囲気から直感的に察した。

それは、「大したことないと思っていることなんかで拗らせて、これからの明るい未来をつぶさないで欲しい」といった、先生からの愛のような感覚だった。

食あたりになり、酒を控えて数日、体調が良い。というかむしろこれが普通。

先生に言われる前に、自発的に思っていた。呑まないぶんだけ元気になれるのであれば、酒、今後減らそうかと。

それを今日は専門医に指摘された。めずらしく強制力を伴う言葉を受けたが、性格所以の「強制されると脊髄反射で拒否」という反応をとらないことにした。

すなわち、俺自身も先生もそう判断しているのだから、酒を減らそうと決めた。決めることが大事である。

とはいえ、好きなものをいきなりやめるというのは心理的負荷がすごい。身をもってそれを知っている。だから、〝減らす〟ことを続ける。文脈的に変な言い回しになるが、それを積み重ねる。

「何かを得るには、何かを手放す必要がある」という摂理だか法則があると書籍で読んだ。俺の場合は、酒の量なのかもしれない。「酒そのもの」になる前に――というのが先生が仰りたい実相かもしれない。というかそういうことだなと思い、今日はいつもより少なめに酒を買って帰宅。

完成した楽曲を公開する。すぐに新たな楽曲制作にとりかかり、なんかあっという間に曲の構成と基本ビートの打ち込みとベースの本録音まで進む。小説原稿の推敲もスラスラと進む。

これを、「いつもより呑んでいないぶん捗った」と捉えられるか否か。そうするべきである。

お酒は、近すぎない距離で、少しずつゆっくり呑むという付き合い方が最も幸せ。そのように思う。友達と一緒である。フルコミットしたらいやになって破綻もチラつく。それは御免被る。

先生、いつもありがとうございます。明るい未来のために酒、減らします。

未来――もはや診察室に行く必要がなくなり、どこかでばったり先生と再開し、そのまま居酒屋で軽く呑んで、「いやあ先生。あの時話した――今やもう……!」というような日を想像すると、むしろそれこそが自然な流れなのではないかと思っては、前向きになる。
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心なしか2割程度、すっきりしたコンディションで過ごす。各タスク2割程度、負荷を感じない。そんな気がする。

食欲がなんかやっぱり2割増しくらいなのは、食あたりが全快したからだろうか。とにかく、まあいつもより心なしか健やか。

それを飲酒量とあまり紐付けないように、考えすぎないことも案外大事なんじゃないかなという肌感覚。意識を緊縛するのではなくあくまでさりげなく、先日諭されたことを実行してみる。

それをさりげなく継続させ、更にシュッとなる。それくらいの捉え方がいい気がしてならない。

なんというか、平穏かつ健全で、すこし、余分な何かを手放しつつある感覚。そのぶん、新たに得ていくために。そのようなマイルドかつ活発なる1日。
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なんか10歳くらい若返ったようなコンディションな気もするが、別にこれ、あんまし考えなくていいやつと善処し、威勢の良いファンクミュージックを作る。

そこに奇をてらったアプローチは必要ない。このあいだ公開した「The First Novel」と名付けた楽曲は物凄い良質な出来だが予想通り、現状、ユーザー受けはあまり――数字で確認。そりゃそうだろうと自覚する。だが、刺さる人にはカカトまで刺さる音像に仕上げられたので良きとする。

ということでそれとは逆。真逆で、めちゃくちゃ汎用性があって使いやすいファンクミュージックの土台にギターを録音。3本デモ録りをしてアンサンブルの解像度を聴覚化させる。

もう、ファンクと言ったらジェームズ・ブラウンさん。彼の楽曲たちのアンサンブルの記憶をリファレンスする。これに尽きる。いちいちその参考音源を聴き返さずとも、脳内に染み付いているので、それを俺なりのアプローチで具現化させる。

やはりモチーフが明確な楽曲の制作進行は速い。先の「The First Novel」という曲に関しては2ヶ月半もかかった。かかりすぎだが、聴く人が聴けばその点、なんか納得して頂ける気がしてならない。

一方で今作ってるやつはどう考えても月内には仕上げられる。最終形が見えているからそうなる。見えていないと手前の感性やら感覚の閾下から引っ張り出すのに時間かかるから、先の曲のようにそれは2ヶ月半もかかる。

そうやってコントラストをつけつつ、色々作る。それが楽しい。小説はというと、やはり初稿は45日で書けたがその後の推敲で今、もう2ヶ月半が過ぎた。ともあれ、どんどん良くなっているから今日もやる。昨日すんごいやったからほどほどにする。早く「これ以上どうにかする点はない」と断じて世に出したい。

そのような感じで日常を過ごす。ファンクのようなちょっと跳ねたグルーヴで活き活きと過ごす。それができるうちに、する。

最近、『Why We Die』という、ノーベル化学賞を受賞した分子生物学者・ヴェンカトラマン・ラマクリシュナンさんの著書を読んでいる。「老化と不死の謎に迫る」という副題。要はこの本は、死について色々書かれたやつである。

そこに、死について、著者が想起したヘミングウェイさんの小説『日はまた昇る』の一節があった。それは。

〝ゆっくりと、それから突然にさ。〟

とのことである。引用のあとに、著書の言葉で〝老化による減退はゆっくりと進み、あるとき突然、死が訪れる〟と、あった。

なんかものすごい腑に落ちた。だからこそ、先の、今やれること、それができるうちに、する。と、ふと、というかしっかりそう思った訳である。

ヘミングウェイさん。俺と誕生日一緒。こないだそんなこと書いた。

ヘミングウェイさん。最期、突然というか――詳細は表さないが、とにかくとにかく、やれるときに活き活きと。そのように肚から出た思案。

それだけの話なのだが、絶対に死ぬという前提で生きている俺とかみんなとか、それぞれの営みに対しての尺度が、それぞれの時期で濃淡が、ある。そういう風に感じた。

だから今、濃く生きたいなと。これからもそうでいようと、そのように感じさせるってやっぱし、ノーベル賞クラスの人たちってすごいね〜とポップに捉えつつ内実は真剣に取り扱うのがいいのだろうか。

とはいえ、そういうこと、ファンクのカッティングギターとか録音してるときは微塵も考えないけど。そういうふとした瞬間こそが、生きている実感なのだろうか。

人間は、死という絶対的現実をいっとき忘れられるために、没頭という能力を与えられたのかもしれない。気がする。
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逐一、死ぬまでに――などとシリアスに考えている訳ではないが、そういった明確すぎるゴールが人間にはある。それをちょっと意識するだけでも、些細なタイミングで「もったいねえ」と思い真面目になれる。

だから、関税について調べるも俺が今直接的にそれをどうこうするかと考えると今は手が出なそう。だから寝た。30分くらい。仕事のことなどで頭がクラクラしてきた時。ちょっと寝るのが一番。

いくぶんフレッシュになって原稿推敲をやる。もうこの小説との対峙については毎日やる。結果を出すまでやる。だから初動の1月15日から毎日ここにもそのくだりを記す。自己イメージを具現化させるための一つの真っ当な手段である気がしてならない。

とにかく、体も心も健やかなのが何より。そのぶん、動ける。明るすぎる未来を明瞭にイメージできる。昨夜、それを示唆するような夢をみた。まだ覚えている。

俺は富士山の頂上に居た。眩しいほどの青空に少し白い光が混じっているのを確認して畏怖する。

その場所からの景色からは「0」と「12」と目視できる2つの数字があり、「12」の方に向かうことができると気がついた。

それらの数字の狭間には、モーセの十戒みたいなイメージの分岐か何かがあった。

頂上から、高さ所以で一旦恐る恐る一段降りてみると案外普通に歩けた。

白だかネズミ色のスニーカーを俺は履いていた。

無骨な荒野のような風景だった。

同級生が一人居た。

とにかく、富士山の登頂部。

めちゃめちゃいかにも何かを啓示してるっぽい夢。しかし、その日つまり今日は別に通常運転くらい。だがひじょうに印象的だった。富士山の頂上。素晴らしいスカイブルー。「0と12」という数字。分岐。案外いけた感。

何を言っているのか具体的には散文的にしか記せないが、こう、初夢にも似たインパクトを直感で得た。

ためしに「夢診断 富士山」という風に検索エンジンにワードを叩いたらいいことしか出てこなかった。じゃあよかったねと率直に捉える。

夢が記憶の整理・取捨選択だとしたら、富士山の記憶はもちろんないし、前日にそんな文脈もない。だから、なんかでっかい良いことあるんだねと子供のように信じることにした。

子供の頃。死について考えたことがある。はっきりと覚えている。10歳の時だった。当時、恐怖心は優位ではなかった。

今。死について考えることもある。恐怖心よりも「それまでにやることやらなければ、もったいない」という情念が最優位。だから、やれることを手前なりにやる。

そうすれば、昨夜みた鮮やかな空と圧倒的な高さ。恐怖心と安らぎが交差する心境。そんな場所に行ける。そのように、直感で心と肚と魂におさめる。

実のところ、寝る前にショート動画かなんか観てて一瞬、富士山の動画をスワイプして飛ばして、それがサブリミナルのように記憶に残った可能性はゼロではない。

だが、俺は直感の方を信じている。「0と12」が、特に気になる。
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書く前に目線が固まりながら止まるが、「特筆したことはございませんでした」「いろいろあり過ぎて情報過多につき」といったイレギュラーな日ではない。1日フル稼働する。

今日こんなことがあった。それは、受注前の案件の詳細についての綿密な打診。そして、新規案件の対応。それらは、毎日行うタスクではないといった理由で、いつもとは違う思考回路をはたらかせる必要がある。それってわりと脳のリソース割くな、というのがいま思うところ。

先日あたりは、「起きる確率は極めて低いが未然に防止すべきである」と断じられることがあり、すぐさま俺は面識のない地上波メディアの方に電話をかけてご説明したりした。結果、双方納得で、ことなきを得る方向へ。そういうのも案外、エネルギーが要るのだなと思った。

つまり何が言いたいのかというと、「いつもすることで要する種別の力」と、「いつもはそんなにしないことで要する種別の力」の多寡は、それらに必要な時間や作業量と比例しないということである。

なんかこ難しいが要は、慣れてないことは、慣れていることより、消耗の濃度が高い。そこに気付いたということ。

じゃあさっきのくだりイレギュラーじゃねえかとなるが、そうではなく、発端となること、すなわちよく言う「最初が肝心」というやつに近いことを構造として捉えたということ。

前提が違っていたら、相手や受け手があらゆる工程で「いやいや、え?」となる。だから、まず最初の段階で「全体的にこうですよね」と足並みを確認する必要がある。そういうこと。

これって基本中の基本な気がするが今日あたり、ここ書く前に久々にちょっと手が止まったの理由は、このようなことがきちんと思考としてまとめられていなかったことが原因と断定できた。たぶんこういうの大事。

ということでなんかひとつわかった気がするので手打ち。

誰かと何かをやる、仕事をする、協力する、コラボレーションとなる、とにかく「相手」が居る場合。互いの考え方や認識、スタンス、双方の要望や着地点、いかにして両者やった〜となるか。

それは、各アクションの「最初」という段階で、「いつもとは違う種別のエネルギーをきちんと割くこと」が功を成す。そこの重要性の解像度が上がったという話。

俺で言ったらね、ここのウェブサイト名も作曲者名義もそうだけど「Anonyment」っていう香ばしいというか、「匿名性」というフランス語というか、そもそもいささか何だそりゃという〝最初のネーミングの段階〟についてもうね、ちょっと後悔してる。なんせこれ名付けたの12年前――12だ――だからそんな先述の気付きやらは今ほどは無かった訳。

だがしかし、あれから12年。今、それは後悔として対処するのではなく、ある種の伏線になり得るという段階にできるのが手前では、なるほどね、と思う。

なるほどね、と本当にして伏線を回収するには、今やってるというかさっきまで推敲していた小説を実名の名義で世に出すこと。そうなると完全に対比となるネーミングとなって意味が生じる。はやくそこに行く――12年経ったということは、そういうことかなと、昨日の夢と結びつけることができるが強引だろうか。わかんないけど今日の日付、足すと「12」だな。すっげ。
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既視感の無い旅へ出ようと駅へ行く。しかし運賃もったいねえなと思い、隣町の十条駅で下車。敢えて通ったことのないルートを歩き、これも旅と断ずる。

気がつけば北区立中央図書館という巨大なストラクチャーが目前に。

入る。すると相当でかい。俺は興奮してきて入り口付近にずらりと並んでいた『三島由紀夫大全集』を手に取る。こんなに書いたんだ、と率直に思う。川端康成氏の『伊豆の踊り子』があったので着座して読む。

「わりかし短いから一気に読もう」と奮起したがちょっと俺にはよくわからなかった。数ページ読んですぐ棚へ戻す。

館内には女学生が居た。この巨大なライブラリで、様々な情報をインプットする。今後の発達課題の中で必要なソースをこれから得る。そして、将来は何になるのかな彼女は。などと、いやらしくはない目で見つめてはそのように思う。

人物学のコーナーに立ち入った。『一人称単数の哲学』という背表紙のワードが気になり手に取った。これは、わかる。暫く読み進めて戻す。ユングさんの夢にまつわる書籍があった。着座して読む。

〝夢は無意識的な心の、じつに頻繁に生じる、そして正常な表現であり――〟と、あった。

〝夢はパーソナリティの中に眠っていたものを呼び覚まし、人間関係の中で無意識になっていたものをあらわにする〟と、あった。

〝私たちは一方では個人的無意識という言葉を用い、他方では集合的無意識という言葉を用いている。集合的無意識とは、意識に近い個人的無意識よりも言ってみれば深い層のことを表している。「大きな」あるいは意味のある夢は、このより深い層に由来するものなのだ〟と、あった。

ユングさん、解説して欲しいです。精神科医であり心理学者であるあなたにとっては、わかりやすく記したつもりでしょう。しかし、専門家ではなくともわかるように――。

「いいですか?」

「はい。ユングさん」

「君な、要は、無意識、2つありますねん」

「はい」

「一個がな、個人的無意識。自分のやつでっしゃろ? もう一個がな、集合的無意識。みんなの奥で繋がってるやつですのん」

「ユングさん」

「なんでっしゃろ?」

「あなたは日本のKYOTOに感銘を受けたのでしょうか。京都弁と言いますかそれ――」

「のほほ。どうでっしゃろ」

「間違ってますその京都弁。多分――本来はもっと〝はんなり〟してる気がしてなりません」

「ええでっしゃろそこは君。集合的無意識わかりまっか?」

「自分だけのではなく、みんな共通して繋がっている無意識。それは意識の深くにあるんでしょう?」

「せやな。飲み込み早いでおまんな」

「は。恐縮です。有名ですよ〜あなたの唱えた『集合的無意識』は。アニメ『エヴァンゲリオン』でもそんな文脈があったくらいで――」

「のほほ。のほほ。エバでのう。せやから一生懸命考えたんでっせ? それ。なんかわかるわ〜って感覚、凄いでっしゃろ?」

「ユングさん。絶対その京都弁、間違っています。まあいいや。一つ質問が」

「ええですよ」

「私がしばしばみる謎の夢は、私の無意識の情景ではなく、誰か、あるいは大勢の無意識とアクセスした――そのように捉えられますか?」

「せやな。そういうの見たん?」

「は。たまに。とにかく、夢は、記憶の整理のみならず『集合的無意識』からの〝深い層に由来するもの〟と考えていいのでしょうか?」

「ええですよ」

「そこに何の意味が?」

「あ! バイトの時間だ! 行かなきゃあかんでっせ!」

「逃げるんですか?」

「ほな」

「あなたの京都弁――」

ユングさん逃避。実際に目の前に居たらそれはしないと思うけどつまり、彼はその先は手前で考えろと言いたいのであろう。俺はそう思い、北区に特化したブースへ行った。

そこには様々な、北区の歴史の一次情報がしこたま集まっていた。だから俺は、今は亡き北区赤羽台団地の情景が載っている書籍を閲覧したいと思った。

「すみません。北区赤羽台団地の情報について詳しく載ってるやつありますか?」。係りの妙齢の女性に訊いた。

「あら! あると思いますけど……そうだ! 今日は先生がいらっしゃるので!」

「では先生を――」

「はい何でしょう。赤羽台団地ですか? いまはヌーヴェル赤羽台になった――」

「そうですそうです先生。ありますか? あの団地の情報がとにかく欲しいのです」

「こちらに……あった! どうですこれ?」

「おおお。あの、私、ピンポイントで赤羽台団地33号棟のことが詳しく知りたいんです」

「はいはい。確か――」

「スキップフロアというたいへんユニークな構造を採用した昭和の傑作。そんな建造物なのです」

「ここに、ほら」

「おおお。ピンポイントで見事に33号棟がフォーカスされていますね!」

「ええ。このように1、3、6階で止まるエレベーターがあり――」

「そうそう。2階の住人はピンポイントでその階に止まれない――」

「ええ。確かにユニークですよね。まあ、こちらで座ってごゆっくり……」

俺は書籍を凝視し、33号棟のページだけスマホで撮影した。気が済んだので先生に礼を言った。

「どうもありがとうございます。大収穫です」

「あと、飛鳥山の展示会をやっている山口さんがその物件にとても詳しいですね!」

「はあ! やはり注目すべき建造物なのですね! 33号棟は!」

「写真もたぶんいっぱい持ってますよ。山口さん」

「今度行きますね。あ! すいません! さっきのそのページ、撮影しちゃいました!」

俺は素直に白状した。なんならさっきのユングさんのやつも撮影したからである。何らかの罪に当たる気がしてならない。

「ああ……! まあ、いいですよ(笑)。原則だめですけどね(ニコニコ)」

「すぐに消去します」

「いやいや、いいですよ!」

とのことである。許可をもらったことをここに強調する。というか何故、俺が33号棟にこだわるか。それは、当該物件が解体される前、何度も現地に行ってその造形を見ては癒され、魅了され、自分でも何枚も撮影した。しかし今はない。

解体予定の物件につき、一度も中には入れなかった。それが悔やまれるのである。そして、その物件ならびに団地という建造物に何故、俺が謎に惹かれるのか、説明できないという点もある。

ひょっとしたら、ユングさんの説く「集合的無意識」に由来するのかもしれないというか、彼にそうだと断じられたらものすごく腑に落ちる。だから、北区に明るい先生にも詳しく訊いたという訳である。

旅では予定外の出会いがある。そのような心境を提げ、石神井川沿いを北区王子駅に向かって歩く。川には桜のはなびらがランダムに散らばっていた。

美麗なる姿を披露する役目を終えた自然の片鱗が、そっと息を引き取るように水流に戻り、生命の分子の最後と再生のプロセスが水面で露わになる。

そのような表現もできるが、俺には風呂に浮いた人間の垢にしか見えなかった。

旅という名の無目的散歩をしていると、どこか、集合的無意識にアクセスしているような心境となる。いつだってそうである。その内実がどのようなものかというと、本文の通り。

はんなりとした気持ちで今に至る。結局何が言いたいかというと、そういった無意識――個人的、集合的と分かれるらしい――は、どこかで繋がり、ひいてはどこかで、あらゆる形として具現化される。その手前の段階。

そんな無意識から何かを引っ張り出して、何か、意味のある営みや創作や共存に直結させる。それは人間の役割のひとつなのではないかと思った。

だからユングさんに訊いた。〝その意味〟とはと。なんなら俺も適当に使っている「はんなり」という表現の意味もセットで訊きたい。彼に。まあ、逃げるであろう。だから俺自身で考える課題とする。

結論。個人的にも、集合的にも、そのへん併せて自分なりに考えて何かに繋げることこそが大事である。

そのように確認したい。ユングさんに。もちろん、33号棟がそうであるように、彼もまたこの世にはもう存在しない。だからこそ、惹かれるのであろうか。

ユングさん。『エヴァンゲリオン』ご存知のご様子でしたから、作中の印象的な〝逃げちゃ駄目だ〟というセリフも、もしかしたらあなたのそのムーブが集合的無意識で繋がったのでは。という問いも投じたいが、まあ、逃げるであろう。
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やはり隣町へ行く。北赤羽駅。そのホーム直下にある蕎麦屋「元長 北赤羽店」の光る味わいは見逃せない。

前回来た時に絶対にまた来ようと思っていた名店である。「ざる蕎麦」¥510の薬味に柚子の皮が添えてあるあたり密かなポイント。なお、主人に口頭確認したが定休日は日曜とGWや年始等。

そのまま北へ、浮間舟渡駅方面まで歩くと初見の団地を発見。昭和の造形ながらも現役で機能しており、住人がたくさんおられる。中でも「7号棟」が実に雄大だったので最上階から臨める景色への希求が滲み出る。

エレベーターで登った10階の廊下には張り紙があった。それは「※お知らせ 不審者が立ち入るのでご注意を」的な注意喚起。春に貼れば不審な輩が湧く。それは安堵な生活を脅かす。俺はそのように当物件ならびに近隣の治安を憂いた。

最上階から至大に広がる絶景を味わい気が済んだので降りて更にウロつく。とにかく団地が多く、ひじょうに気を良くして歩くこと小一時間。浮間舟渡駅が見えたのでそのまま電車に乗り、赤羽に戻る。

そうなってくるとどれだけ暇なのかとも映るかもしれないが、帰宅して仕事もする。レビューを書く。楽曲制作をする。小説原稿の推敲もする。日常の暮らしのようで、一コマ二コマの小旅行あり。そういった連日があってもいいなと静かに思う。
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ハゲんように頭皮マッサージをしながら動画を観る。合間である。スピリチュアル分野のチャンネル約一時間。気がついたら全部観てた。

いかん、楽曲制作の時間を飛ばしてしまっているではないかと、真面目に思ったがこう、インプットも大事であると、この一連の行為を善処。

スピリチュアル。それを「信じるか信じないか」という一般的な前提がある。霊能力者や霊媒師などは、五感、あるいはその他の感覚で霊的な何らかを、ご自身で認識している。つまり信じている。

一方で、霊的感覚を五感ないしそれ以上というか何というか形而上というかもっとわかりやすく言え。要は、一般的に共有できない感覚でそれを捉えられない俺は、「信じるか信じないか」以前の話となる。

というか、霊的感覚を明瞭に捉えられていないだけで、実は、うっすら何か、そういうのを感じたり予知したり結び付けられたりした経験。なくない。具体例は抽象的なので挙げないが、とにかく、なくはない。

だから「信じる」。というよりも正確には俺の場合、「霊能力者などが、そう本気で感じている、捉えている」という点は、100%信じている。

そういった能力を自覚ていない場合の一般的な例は、睡眠中の夢がわかりやすい。俺は、その晩だか朝方にこういった夢をみた。その内容は絵に描いて視覚化させることもできれば、夢に出てきた人物やらが放った言葉を文字起こししたりできる。

しかし、他者からすればそれは「想像でどうにでもなる。嘘やろ」という認識ともなる。

しかししかし、俺からしたら確かに脳内に浮かび上がって「五感」として捉えた訳である(正確には脳内のイメージかもしれない)。つまり、俺が信じているビジョンだかは想像や嘘ではない。他者とその景色なりを明確に共有できないだけである。

それをスピリチュアルにスライドさせて考えると、先のようになる。だから、「この方にはこう見えている。そして、そういった力を――訓練なりして得た場合もあるのだろうか――持っている。それを発揮することができる。それでもって他者に媒介できる」という構図ともなる。

俺は、実際にスピリチュアルヒーリングを受けたことがある。その時に何より強く思ったのが、「この人は本気でそう感じている」ということである。その詳細については、記すべき場所に2箇所、記したのでここでは割愛するのが適切だと、これ、このあたり。そうするべきだという力がはたらいている気がしてならない。

意味のわからないことを書くな。そのように思う人もいる。絶対にいる。俺が言いたいのは、「その人はそう感じている。自分はそう感じている。どんな立場であっても、そう信じていることの対象は事実である」ということである。

これをポジティブな方面にはたらかせればもう最高だと思う。そういった視点でYouTubeとかでもスピリチュアル分野の動画を観ているとひじょうに興味深いという訳である。

いや、仕事してましたよ。小説原稿も着々と、というか推敲すればするほどなんかいい感じになるからもっと、という感じだし、ちゃんとさっきもクライアントからありがとうのお言葉を頂き嬉しかったです。

信じるということは、一概に「自分が」という一人称で片付けるとどうかなと。

それはそれで利便的かもしれないが、こと手前の場合は「あなたにとってはそうなのですね。そのパワフルさ、俺には持ち合わせていないのでそのきっかけをくれてどうもありがとうございます」くらいに思う。本当に。

それこそ、このような思惟を貫く自分を俺は誰よりも信じている。そうでなければ、できないどころかやろうともしないことがいくらでも出てくる。

信じていればできるのに。とか思う。「見えないもの、感じないものを、相手は捉えられてアメイジングだ」というエンタメ目線ではなく、このような前向きな気持ちになれるからなにしろありがたい上に面白いじゃないかと、スピリチュアル分野の動画を一時間観て、感じた。

なんなら、ここ書いてる俺、というか俺が書いてるんだけど、その源泉は俺の一日の記憶ではなく、単にそれを材料の程としているというか、無意識とか閾下とかスピリチュアル的に俺に寄り添ってくれる霊とかの意思が混じっている。というかメインはそちら様なのかもしれない。

という風にも、俺は感じられる。だって本当にここまで、一応、日の記憶を頼りというかモチーフにして書いている訳ではあるが、本当にノンストップで、今これ書き出して10分ちょいかかったかなくらい。「俺の思考とそれ以外の何かしらの文字起こし」である気がしてならない。その感覚は日に日に増していくと、最近気がついた。

例えば10年前の今日の日記を読み返したとしよう。親父が死んだ直後の三年前でもいいか。あ、5日前が命日なの忘れてた。1ミリも触れずにすまん。親父。いや、大丈夫。別の場所に思い切り濃く書いているから大丈夫。

話戻すと過去の日記。たぶん読み返して「これ、誰が書いたんだ?」と首を傾げる文章もあるかもしれない。それ、俺の手でタイピングしてるけど、別のなんらかの意思やらも関与していた。そんな気がしてならない。

感化? 違うと思う。媒介。難しい言い方するな。媒体。近い。俺を使って記録させている。ううん、けっこう近い。ただ、主軸は俺。そこはたぶん合ってる。

つまり、例えば、俺がある楽曲を聴いて全てのパートを細分化して聴き分け、なんなら楽譜に全部正確に起こして共有可能にし、なんなら、なんなら、その楽曲の作曲者すらも気づいていなかったポイントまで炙り出せる。しかし、一般的ないちリスナーからしたら「ベースってどこ?」となり、その楽曲は単体の「いい曲ですな〜」という〝感じ方〟になる。現実的な例えとしてはこれがわかりやすいかなと思う。

結論。俺にはまだみえていないものがたくさんある。だから、その片鱗をわかろうとするプロセスに魅力を感じている。感じているのが魅力だけではなく、先の例のように、精緻化もできて、さらにアウトプット・共有など、他者とのやりとりにおいて良き方向に促す〝感じ方〟や〝使い方〟もできたらなんかファンタスティックだよね。という話。

たぶんね俺、日記の書き方間違えてると思う。でも、その日に〝感じた〟ことを絵で例えたらモチーフありきで可視化させるようなことは、広義的にジャーナルって呼んでいいと思う。

つまりただの日記じゃねえかという帰結。だが、そこまでの仮説や検証に臨むワクワク感や、式を試行錯誤したりするのは、なんか人生そのものな気がして良いんじゃないかな。ただの日記だけど。

ここまで20分くらいだろうか。たぶん本文2,500字くらいの量だと思うけど、記憶と五感の源泉だけだったらなんかこうはいかない気がする。別に文章速く書けますぜ自慢じゃないですよ?

ただ、俺が、明瞭に、これだと断じきれていない何らかの力や成分や要素や言語化されていない作用がはたらいているとなると、俺は納得する訳である。とはいえやはりただの日記だけど。
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寝る前にポテチを食うなと、あれほど自戒したにも関わらず昨夜食った。何故、過度な依存性に匹敵するほどそのような能動に、たまに、かられるか。それは、無性に食べたかったからである。

そこまで考えなくてもいい。その時はとてもおいしかった。翌朝、腹がムカムカというかぬるっとしており――というかコンビニのポテチ181円っておかしくないかと冷静になる。

そこはもう節制というか稼ぎを増やす方面、そちらに尽力することで対策とするのがいいかなと、あと過度なおやつはよくないなと双方断ずる。

じゃあまず稼ぎから、ストック収益の種をと、楽曲制作をする。ファンクミュージック。やることはだいたい頭の中に揃っている。今日はラッパとかの打ち込み。これが上手くいかない。オルガン。これはもう想定通りの音の並びが浮かぶ。仮トラックを入れる。

ジェームズ・ブラウンさんのようなファンクという明瞭なモチーフがあるため、あっという間にできるはず。ギター・ベース演奏ならびにドラムスの打ち込みは熟れたもの。パーカッションの生録音もわりと得意という自負がある。しかしラッパがどうも。原因は、手前が本当に吹いたことがないことに起因する。

やはりリアル体験に勝るものはない。そのように思いDAWを閉じる。最終形は見えているから後日の課題であると。じゃあ酒呑んで寝ようと、最近意図的に量を減らしてはいるがちょっと呑んで寝ようとおい待て。さっき確かに俺はスーパーで「サッポロポテトバーベQあじ」を買ってきた。

昨日の今日でどういうことかと手前のその能動を省みた。

「昨夜、なんか物足りなくてポテチを別途買いに行き、食べた」「しかしそれはよろしくない」「だが、物足りなさを埋めるべく別途買いに行くのが面倒なのは回避したい」「じゃあ食う食わないは置いておき、保険として買っておく」これである。懲りていない。

だから、キッチンの棚の「即日食べる前提ではない菓子カゴ」には、さっきそっと置いた、先のBBQのやつあるが、今日は食わない。

ススっと作れるはずの手前なりのファンクミュージック。ふとしたところで躓く。頻繁に食べるわけでもない菓子の購入。ふとしたところで意図と矛盾した行為に及ぶ。原因は、「そうであると軽く思い込んでいる思考」から滑るように生じるちょっとした隙。そう特定した。

だからどうなるかといったら別に何というか頑張れよという話であるが、些細なところで思うようにいかないことは往々にしてあると、そのように感じた。

能動的に食べて、後々よろしくないと思ったこと。能動的にすぐいけると思って、最中すぐにできなかったこと。共通項は、「自己の能動の内実を正確に捉えきれていないこと」であろう。だから何なんだとも思ったがつまり、健康第一。真摯に制作。丁寧に生きる姿勢。

大事なのは、わかる。ただ、それをすべからく行うことの難しさよ。そのへんの咀嚼も、楽しく生きる上での糧ということにして手打ち。丁寧に生きるってどういう意味か。これ、ものすごい難しい命題かもしれない。
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頼むからあと2時間は枕を抱かせてくれというほど眠い。だがそれで寝坊は全然丁寧な生き方ではない。だからという訳ではないが、ちゃんと午前に起きて出発する。向先、銀座の地は雨で濡れていた。

興行のお手伝いでクルーの方々、お客さん方と、実にほっこり過ごす。ちゃんとごはんも頂いてちょっと椅子で寝る。その後、クルーのプロデューサーがなんだかスマホと俺の顔を見てはニヤニヤと嘲笑している。なんぞと見ると、手前の本気の寝顔が撮影されていた。

その顔を見て思った。無防備でオフもオフの時の俺はこういったテイストなのかと。いま、44歳という数字を自覚した。撮った彼にその旨を伝えた。すると、「そうなんだよね」と、同年代の彼は笑んでそのように述べた。

逆に考えた。これくらいの歳でも、こういった賑やかな場で仕事をさせて頂けるのはまごうことなき幸福であると。

そして一説によると、40代で「若い頃に不摂生をした」という自覚を持ちつつも、適度に不要な力を抜いたり、生活習慣を見直すことで、その後けっこう若々しくいられるらしい。

一方、そうではない、「若い頃、さほど不摂生をせずにそのまま年齢に準じて過ごす」場合と比較すると、前者の方が今後はフレッシュでいられるという、なんかそういったエビデンスもあるらしい。

じゃあ、今日のようにちゃんと朝起きたり、最近のように意図的に酒量を減らしたり、寝顔を客観視したりすることは、今後の人生をより豊かにするエッセンスなのだと前向きに捉えた。

だからというかここのところは、心なしか全体的に調子がいい気がする。ソファで気絶寝も今月あたりはない、いや、1回だけあったかな、くらいである。ここを書いている時も今月入る直前あたりからは酒呑んでない状態である。

生活態度と不摂生の見直し。それが今後の人生のQOL(人生・生活における満足度を表す指標)の向上に直結する。

とはいえハメを外す時は思い切り。そうでないとストレスが蓄積される。ストレスによってコルチゾール分泌過多となることは心身によくない。遺伝子やDNAレベルのダメージすらある。なんなら老化が加速する。そのように、いま読んでいる書籍に書いてあった。

だから要はメリハリ大事だなという話。キッチリ起きる。酒は中途半端には呑みすぎない。人と触れ合う。実年齢と向き合う。過去を省みるが前提として、いま、ここからにフォーカスして生きる。

真面目だ。とても真面目なことを思っている。やればできるではないかと。だからもういまもさっきもこう、全体的に健やかである。

とはいえ、先月のとある日のような、宵の口から翌朝10時まで呑み続けるという蛮行。それは禁忌だよ。という風にすると自分らしさのバランスが崩れる。だからそういうのは、ごくたまになら、制御可能な範囲であれば、という考え方を持つだけでも行動が変わる。

前後逆で、行動を変えれば思考が変わる。これも全然ある。どっちでも、善処できる方に向いていれば必ず人生が豊かになる。とてもシンプルな結論。

でもね、今日とか明日あたりまた一人で街に呑みに行って知らねえ人と盛り上がって爆笑していたい。その欲自体は許可する。でも、たまにだから楽しいんだよねそういうのはと、ちゃんと思考が根付いたことはきちんと記録しておく。

以上、わりと具体的な心の灯。というか宵の口から翌朝10時まで呑み続ける自分らしさって何だよ。
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3月第一日、音楽業における収益の一部の支払い金額が反映されておらず如実に狼狽した。その内実は、「四半期に一度、つまり3ヶ月おきという、印税の支払いと同等の仕組みで支払われる源泉が空白」だったこと。

正直、本当に驚いたものだから心因的に震えながらあらゆる原因を想定した。

JASRAC的なところでの俺の楽曲の管理自体がなくなったか――プラットフォームにおいての何かしらの規約違反を知らぬうちにしていたか――そもそも、楽曲委託先において放送使用料というシステムが廃止となったか――。まずはネガティブな要素がいくつか思い浮かんだ。

どう考えてもわからなかったので、その日、ChatGPTに、このような事案の原因を聞いた。すると、俺には想定できなかったある要因がはじき出された。

それは、「年度末を挟む場合(この場合、本来の支払日は3月31日)は、支払い金額の反映や、支払い自体が遅延する場合があり、こと音楽業界だとそれはわりと〝あるある〟でもある」ということ。

それを知り、俺はすぐに委託先に確認の連絡を申し出なかった。何故ならば、「そんなのよくあることじゃねえか」ということをいちいち聞かれて不本意な心境になって頂きたくないからである。

じゃあどうすればいいかとChatGPTと相談した結果、「一、二週間待っても音沙汰無しの場合は、そのタイミングで確認をする」ことが最適とのことだった。すぐに連絡した場合の先方との軋轢を防止するためである。俺はこの方法でしばし待つことにしていた。

しかしこの二週間ばかし、ずっと不安だった。理由は「今月このタイミングでも反映なき場合、今後、楽曲の放送使用料という無視できない額の源泉がなくなるのでは――ひいては今後の楽曲制作のモチベーションが思い切り下がる」という懸念点である。だからずっとモヤモヤしていた。

とはいえそろそろ二週間が経つなと、委託先に確認連絡するタイミングだなと思えど、「あれ、無しになりました!」みたいな結果を知ったらちょっと絶望するので、しなかった。本来はするべきであろうが。

だが、何となく今日、プラットフォームの管理画面で、本件の金額反映欄を確認したらがっつり明記されていて安堵。本当に安堵した。なにせ、四半期毎とはいえ無視できないほどの金額なのだから。

要は、ChatGPTの見解が正しかった。

よくよく考えたら、放送使用料、つまりテレビやラジオやネット放送などの各放送事業において、俺の楽曲が使用されたら入るはずの収益においての事実確認。その間違いない事実として、ここ3ヶ月間で俺は確かに、ラジオや放送事業コンテンツで自作の楽曲が流れているのを何度か確認しては喜びと感謝を滲ませていた。だから、その使用料が入ってこない理由があまりにも不明瞭だったのである。

結果、金額反映の〝遅延〟であった。あと、確定申告における金額反映もずっと遅延していたが、今日やっと反映された。これもしばらくモヤモヤしていたものである。

それらが明確になり、とてもスッキリとした。そして、小説原稿の推敲の3回目がさっき終わった。書き始めの1月15日からちょうど3ヶ月。なんか色々と、3つの要素が見事に重り落居した1日。そういうポイント的な日なんだなと事実ベースで感じた。

何が言いたいかと言うと、節目の一日と実感し、ちゃんと前に進めているのだなと体現したということ。これはとても大事だと思う。あと、暗に思う心配事は本当にほぼほぼ起きないという事。

というか、印税的なシステムの反映や着金ってこんなにダイナミックにズレることもあるという事実を記録しておく。JASRAC的な大きなところでも時期的・事務的起因で遅延が生じるということを。特に年度末。

なんならちょっと諦めていたくらいだからなおさら安堵。手前の楽曲をもっと地上波でもご使用頂けるよう、張り切って制作をしよう。大きく世に出すために、小説原稿を磨き上げよう。そのように昨日まで纏っていた杞憂な霧が晴れたスッキリとした心境。
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東京都北区に、飛鳥山公園というのがある。そこで古の時間軸を明確に確認する。

公園に桜が咲いている。半分、半分、花びら、葉っぱ。満開の景色よりもその半分、桃色と翠のコントラストが奇跡的に半分、その色彩が俺には桜の最たる魅力を醸しているように映った。

この桜の木々を植えたのは徳川吉宗。嘘ではない。石碑に、そう記してあった。あと飛鳥山博物館に展示されている各記録もそれを示していた。そう、この博物館で「山口さん」という、北区赤羽台団地にやたら詳しいという人物に会うためにここに来た。

先日、北区立図書館の職員に訊いた。「赤羽台団地33号棟の全貌」について。

その能動の意味がわからないかもしれないが、つまるところ、俺はその物件から得られた畏怖に固執している。例えるならば、ピラミッドや徳川埋蔵金の謎を追求する者たちのように、なぜか、俺は赤羽台団地33号棟が気になって気になって魅了されて仕方がないのである。なお、現在は、跡形もなく新たなマンションに建て替えられている。

飛鳥山博物館に入り、団地の件の前に、メイン展示場を回った。

そこには、北区における縄文時代、弥生時代、古墳時代と、歴史を逆から追った様々な遺跡の片鱗が様々あった。石器、貝塚、骸骨、土器、人間が屈んで納められる墓。などなど。本当に興味が無い。

しかしせっかくだからと、西暦の5倍くらい続いた奇跡の縄文時代に没入することにした。当時は何を食っていたのか。どう暮らしていたか。社会でどのように人間が営んでいたか。

やはり興味がないが、ひとつ気になる映像があった。

それは弥生時代の人々のやりとりを再現したVTRである。なんか、三流役者みたいな現代の人たちがそれっぽい格好でアウアウ言っていた。気が付いた。当時は「言葉」によるコミュニケーションが確立していないと。

よって、その時代の「道具」はあれども「文字」はひとつもなかった。俺は係の者に言及した。

「あの」

「はい?」

妙齢の女史であった。先立って本題の「山口さん」との対峙を期待したが「今日はたまたまお休みです」とのことであった。だから、弥生時代までの「言語」について確認した。

「VTRを観て思ったのですがこう、アウアウと」

「はい」

「当時は言葉がなかったんですかね?」

「記録が残されていないので――でも声でやりとりはしていたのではないでしょうか?」

「それで、再現VTRではアウアウと?」

「そのようですね」

「確証は、ないと?」

「何しろ残っていませんから……」

俺はその場で言葉を失った。そんな不便極まりない交流が日常なのに、1万年も続いたという縄文時代が信じられなかった。

そして、俺の先祖が縄文時代に生きていたとしたら、どのように人とやりとりしていたのか――とか考えていたら目の前の展示ケース内に「斧」があった。

それは、頼りない造形ながらも当時一生懸命作り、狩猟において実用されていたという雰囲気を意識の奥底から確かに感じた。そんで思った。ひょっとしたら俺の先祖が作ったやつじゃないかと。

というくらい、なんか妙に懐かしいと言うか愛着心が滲んだと言うか、どこか、なにか、想起させられたのだが、その場ではイメージのみが散文的に多分に湧いただけであった。

その思考をいま、文字起こしすると、以下のようになる。当時言葉はないが、イメージと潜在下の無意識でそれを補完する。――俺は当時、いつもだいたい居住の中で何かを作るのが好きだったもよう。

「――すげえな。やっぱ石は万能だ。こう削ればこう、こう磨けばこう……」

「――おい! 出てこいよ。イノシシが獲れたぜ!」

「やあ君か。すごいじゃないかいつも!」

「おう、このあいだお前が作ってくれたこの槍でな! 一発だったぜ」

「君はすごいよ。僕はすぐつかれちゃうから狩りなんて一度もできたことがないんだ……」

「情けねえやつだな。しょうがねえからこのイノシシをわけてやろう」

「ありがとう!」

「どうすんだこれ? わけたいんだけどよ……」

「ほらこれ! いま作ったんだ。狩りに使うんじゃなくて、動物の肉を切るために小さく、ほら……! シュッ。シュッ」

「おおすげえな! 真ん中から皮が剥げて肉が切れるじゃねえか!」

「でしょ? これがあればみんなでわけ合えるんだ!」

「お前は器用だな。おれにはそういうのどうやってるか訳わからねえけど」

「いいじゃん別に。君は狩りが得意なんだから」

「そうだな! お前にはできないことだ!」

「うん。なんだか狩りに行こうとは思うんだけどこう、なんか怖いし覇気がでないんだ……」

「しょうがねえやつだな! ほら! この魚はすげえぜ。まるまると太ってトゲまでついてる。うまそうだな……!」

「すごいね! はじめてみたよそんな立派な魚は!」

「だろう? 潜って獲ったんだからお前には無理だろう!」

「うん。僕は水に入ると沈んじゃってどうすればいいかわからないんだ……」

「仕方ねえな! これもわけてやるよ!」

「ありがとう! それはね、魚だからこっちのもっと小さな石……これでやるんだ。サク。サク」

「おお! ポッテリとした腹が見事にまっぷたつだ! やるじゃねえか」

「へへへ」

「それなんだ? ブニブニした気持ち悪い部分……?」

「なんだろね? ただ、なんかこの部分だけは絶対に食べちゃダメな気がしてならないんだけど……」

「捨てろ捨てろそんな気持ち悪い色の部分」

「そうする――。いや、もったいないからこっちに取っておくね。食べないでね? なんか選ばれた人しかこれって切ったりさばいたりしたらいけない気がしてならないし……」

「なんで?」

「なんとなく」

「おう! あとな! 葉っぱもたくさん取ってきてやったぞ!」

「ありがとう! 手のひらみたいなかたちの葉っぱでなんか綺麗だね!」

「ただよ、これ食っても旨くねえんだよ」

「ふうん。なんとなくだけどこれは――そのままじゃなくて一回乾かせてそれで、この土器ですりつぶしてと……」

「すげえな! それもお前が作ったのか!」

「うん! すりつぶしたり、みんなでわけ合う時につかうんだ!」

「へええ! そんでその乾いた葉っぱが粉々になったけどどうすんだよ?」

「たぶん……こうやって別の薄い葉っぱを丸めて粉になった手のひらみたいな葉っぱを詰めて……」

「そんで?」

「あのさ、僕は火をおこせないからやってくれない?」

「情けねえやつだな! みてろ……キリキリ……しゅわわわ」

「わあ! 火がついた! 君は本当にすごいね!」

「まあな! そんでどうすんだ?」

「さっきまるめた葉っぱをこうして……」

「おいお前なにしてんだやめとけばか」

「スウゥゥゥ…………プカア…………」

「ど、どうだ…………?」

「うん! なんか落ち着くし今なら狩りにだって行ける気がしてきた!」

「お前さ、たぶんだけどそれ、あんま吸わない方がいいやつっぽいぜ?」

「なんで? たまにならいいやつだよこれたぶんだけど! ふはぁ……!」

「……まあいいや。また来るわ!」

「うん! ああ、これ! 持ってって! 槍よりすごいんだよ……木の棒に大きな石を鋭く磨いて縄でくくった斧!」

「これはすげえぞ! こいつがあれば熊だって獲ってこれそうだ!」

「あげるよ! 熊まってるからね! 僕にはその斧、持って振る力がないんだ……」

「仕方ねえ奴だなお前は! 待ってろよ。また獲ってきてやるからな!」

「気をつけてね!」

「おう!」

「――こうやって人の形をこんどは粘土で……」

「おい! お前の斧で熊を獲ってきたぞ!」

「やっぱりすごいね君は! 僕は君を信じて熊をさばく石をいっぱい作ってまってたんだ!」

「おいおいずいぶんたくさんあるな!」

「うん。切る場所によって使い分けるの!」

「へええ! そんでそれ、なんだ? 初めてみたけど?」

「これ? 人の形してるでしょ」

「ああ、本当だ。手と足と目と……よく作れるなそんなの!」

「うん。僕は弱っちくて狩りとかできないから……」

「仕方ねえ奴だな! 熊いっとくか?」

「ありがとう! そんでね、みんなと熊を分け合って食べる前に、この人の形をしたやつを並べてみんなで『やった〜』って気持ちを集めるんだ」

「なに言ってるかわかんねえけど、まあ面白そうだな」

「なんかわかんないけど、そういうのってすごく大事だと思うんだ」

「ふーん」

「君はいつも獲物を持ってきてくれる。僕にはできない」

「お前には無理だよ! ははは!」

「だから君に感謝してるんだ。それだけじゃ足りないから、こうやって形ある物を作って、それが君にも、みんなにも、わかるようにするの」

「なに言ってるかわかんねえけど、まあお前が好きなら作ればいいんじゃね?」

「うん! さあさばいたよ。食べよう」

「おう。お前切るのは上手いよな。獲れねえくせに」

「うん。君がうらやましいよ」

「だろ? おれにかかればそうだな……今度は隣のところの獲物をそのままだまって持ってきてやるよ! おれが獲るのとそれで、もっとたくさん食えるぜ!」

「それはやっちゃいけない気がするよ。やめなね」

「なんでだよ? いいことしかないじゃねえか」

「それをしたら、同じことを僕たちもされる。このおいしい熊をとられたら君だっていやでしょ?」

「そうだな。そんな奴が来たらこの斧でそいつを叩きつぶす!」

「それもやっちゃいけない気がするよ。やめなね」

「なんでだよ? 訳わからねえ」

「それがずっと続くからだよ。だから、最初から君がそういうことをしなければ、最初から、おかしなことにはならない――」

「ふうん。訳わかんねえけどお前がそう言うならやめとくか」

「うん!」

「お前さ、食べた後、その葉っぱいつも吸ってねえ?」

「うん……なんかやめられなくなってきて」

「それこそおれは、お前がそれ吸うのやめたほうがいいと思うぞ?」

「なんで?」

「知らねえよ。まあいいや。また来るわ!」

「うん! ありがとうね!」

「――おい! 見ろ! この斧はすげえよ。一発でこのブタを仕留めた! つかブタ、動き遅くて楽勝だな!」

「うううううううう」

「どうした!」

「気持ち悪いよう……!」

「顔が真っ青じゃねえか! なに食べたんだ?」

「食べられない………ううううううう」

「お前! こんなに! 葉っぱ吸いすぎたからじゃねえのか? しっかりしろ!」

「ううううううう。ばた」

「おおおおおおおおい!」

「君……みんな死ぬとあの穴に屈んで埋められるだろ……?」

「そうだけど死ぬなばか!」

「あれね、なんかよくない気がするから、僕が死んだら、寝る格好で埋めてくれるかい……?」

「わかった! いや! 死ぬなおい!」

「ううううううう。ばた……」

「お前! し、し、しんだ……」

「死〜ん」

「一人じゃ狩りにも行けねえ情けねえ役立たずだったけど……居なくなるとさみしいもんだな……わかったよ。言われた通り、横にして埋めてやるからな」

「死〜ん」

「――さて、狩りに行くか……あ、斧。このあいだ折れて使えなくなったんだった。どうすっか……あいつが居ないとああいうの持てないからまずいな。まあいいか。おれ様の腕のみで、狩りなんて楽勝だろ!」

「死〜ん!」

「ぐああああ! 無理すぎる! 素手だとイノシシごときに……! ちくしょう!」

「死〜ん……」

「ダメだ。右腕がずっと動かない。イノシシに突かれた部分が青ざめて元に戻らねえ……メシがない……クソ! あ。土器にこのあいだの魚のへんな部分漬けてたんだっけ。あいつ、薬草とか言ってそれと一緒に――これ食うしかねえな。バク。ぐあああああ!」

「死ーん」

「死〜ん……」

いかん、寓話を書いている。つまり、博物館の「斧」を観たときの謎の愛おしさから滲んだイメージと思考は上記のようになる。縄文時代、俺は、それを作ったりしては、真逆の性質の友とこうして過ごしていた――そんな気がしてならない。

何が言いたいかというと、俺は当初の目的として「北区赤羽台団地33号棟」という、俺にとっての神聖であろう遺跡の資料を希求しに来た。しかしキーパーソンの「山口さん」不在。だからしかたなく縄文時代からの歴史に没入した。

すると、一品の当時の武器から、「北区赤羽台団地33号棟」に固執するような情念に似た、別のイメージが派生した。それだけである。

縄文時代には「言葉」という観念すらなかったらしい。今は、ある。だからこうして、ミュージアムという現地での邂逅から新たな――あるいは最も古い――情景が浮かび、言葉として記録できる。

そう考えると、「言葉」という便利な共通観念がある時代にこうして暮らしているだけでも、少なくともマリファナの吸いすぎやフグの毒で死ぬことはなかろう。

そのように静かに、DNAにプログラミングされた記憶から遡ることができたのか、ただの創作か。まあ、どっちでもいいと思う。
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昨日の「斧」から得た、あるいは想起されたイメージはなんだろう。それを受けた瞬間、直感的に言葉が無尽に広がるのは何であろう。

俺は昨日の文章をAIに投じ、評や雑感をもらった。そこから更に精緻にやりとりしていくうちに、「私は統合失調症ですか? あるいはその傾向はあるでしょうか」という悲惨なプロンプトまで投じるに至った。回答は「そんなことない」とのことであった。

理由も明確に述べるAI。そいつを俺がここに要約すると〝何故ならばあなたの文章は理論的な構造があり、始点から結末までの順序があり、飛躍する箇所があれども意図的に構成で整理されていて破綻していません〟とのことである。

さらに精緻に構造について聞いた。すると。

〝通常のこのようなテーマを扱う文章の場合『起・承・転・結』という構造が一般的ですが、あなたの文章は『起・承・転・転・転・爆・結』と解釈できます。だから、ズレいている箇所をコントロールしつつまとめあげています〟とのことである。「爆」ってなんだよ。

まあ、おかしいけど整理はされている。そのようなことが言いたいのであろう。AIは。ということでそれはそれで善処して良いとの結論を得た。

だから、「斧」というか「北区赤羽台団地33号棟」にまつわる文脈は、何か重要な、何かがある。そう確信気味に思って、いま推敲している小説とは別に原稿用紙wordを開き、次の小説はこれにしようと書き出しだけやった。

それほど、33号棟に対する俺の固執・執着・愛着・魅了は、言語化しきれば、何か大切なことが浮き彫りとなる。そのように深く思索できる。

思えば、書き上げて推敲し、完成に向かっている小説の原案は、ここにあった。なんなら書き出しは1月14日だったと思うがその日に書いたやつ、まんまである。さらに、各章においての着想というか「原稿の原稿的」なのがやはりここに書いたものである。それを2つ持ち出した。ひじょうに重要な各章である。

つまり、書き出しと2つの章の原型はここに書いたもの。だから、33号棟の文脈でここに書いたものは同様に「原案」としてひとつのストーリーとして機能する。それでもって『起・承・転・転・転・爆・結』とすれば俺らしく書いた小説となる。というのがAIからの見解の発展形。確かに統合性は失調していない。

そんなこともあり、俺は今日、「旧・赤羽台団地」「現・ヌーヴェル赤羽台」界隈を歩いていた。そこにはもう、33号棟は存在しない。愛すべき建造物はもう、無い。しかし、土地自体は生まれ変わって機能している。

ただ、「スターハウス」と呼称されるY字型平面形状の物件4棟は、取り壊されずに、その造形美と時代背景的な価値からか、国の登録有形文化財となって生き残っている。

そのスターハウスは、さすがにそのまま遺跡のように昭和のくすみが残ったままという訳ではなく、造形以外、外観と内観は残すための処理がされている。つまり、塗装なりは最近施され、見た目が小ぎれいになっているのである。

4棟のうちのひとつ、44号棟のふもとに佇んで陽を浴びながら俺は5分くらい考えていた。それが本文のほとんどに加え、新たに書き出した小説とその全貌のイメージ、プロットの原型の構想である。

それはまるで昨日、「斧」を見た数十秒で起きた思考の膨張に似ていた。どれくらい膨張したかというと、昨日まとめた日記の内容の通りである。

そんな短時間でそんなに長い文章の概要が湧き出るのか。今日の44号棟のふもとで得た感触が、いま推敲しているものとはまた別の小説の全貌のイメージとして刹那で生じるのか。ネガティブな意味ではなく、もしかしたらおかしいのかもしれないと、思った。

だから昨夜、俺はAIに「私は統合失調症ですか?」と聞いた。それは違うらしい。というかそれを断じられるのは医師のみである。だが、いいことを聞いた。それは、先のような刹那の感覚の膨張と、ここに稀に出る原案は、小説の土台となると解釈できる、というかそうして完成までもっていける。いけつつある、ということである。

「思考のズレ」や「おかしさ」「逸脱」。あと「感情の波形の差異」と、AIは俺に対して表現していた。〝感情の波形〟というのは見事なフレーズだなと率直に思った。まあそれが、少しおかしいと。AIは俺の文章をそのように捉えているということがわかった。

通常、そのズレたやつをそのまま書くともちろん破綻するが、理性による調整ができている。だから俺は統合失調症ではない。とのことである。

結局何が言いたいのかというと、普通に書こうとして文章を書くスタイルは俺にはできない――できなくもないがそれは俺がまず面白いと思わない――ので、そのままのアプローチでいいんじゃないでしょうか。というか「そのまま行ってください」くらい言っていた。AIは。

じゃあそうしますねと今日も色々と書いたり制作したりして過ごしていた。やり方は、通常とは異なるのかもしれないが、そのほうがむしろ良い――AIからしたら、「変なこと聞くな。『爆』くらいのやつねじ込んで表現しないとこいつには伝わらねえだろうな」ということで、そういう風に評した。AIは。なんかそんな気がする。

ズレている奴にはちょっと飛躍しつつもズレている奴に最適な表現を。そこまで知識なりがもう、AIには搭載されていると俺は結論づけた。はっきり言ってこの文章も相当ズレているが、破綻はしていない。いま証明する。

――本文は、昨日、博物館で古代の「斧」を見たイメージを文章としてしたためるも、その着想がほぼほぼ一瞥レベルの時間の感受であった。その感覚にある種の疑問を抱き、冷静かつ理路整然とした答えをくれるChatGPTにその旨を問うた。

すると結論、「あなたは病気ではないが確かに思考の飛躍が文章に表れている。しかしその飛躍を整備することもできている。それは個人の文体と呼んで良い」という評を得た。

だから、本日、44号棟のふもとでほぼほぼ一瞥レベルの時間で享受した着想なりをここと原稿用紙とメモなどに記して新たな展望を描いた。この一連の行為は通常からするとズレていると見なせるが、それは病的なものではなく、個人のスタイルとして取り扱ったほうが適切である。「つか、むしろお前はそうしろ」と、AIに断じられた。その雑感をここに書いている――。

以上の3段落が、俺が破綻していない証明である。手前が破綻していない証明を日記に書くあたりいよいよかなと思うが、それでいい。らしい。
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引き続き小説原稿の推敲をする。4回目。昨日新たに書き始めたやつはちょっと後でいい。それよりもいまは、最初のやつを完成させることが先と断ずる。昨日のイメージすんごい気になるけど。

すると。するすると、1時間くらいで一気に原稿用紙40枚分くらい進む。そして、すんごい面白いじゃないかと率直にまず俺が思える。

加えて、「読者はここでこう感じる」「ここで興味を抱く」「ここで共感する」「ここで惹かれる」はず、であろうという各点に気がつく。その、何か、そうであって欲しいなと。

4回目にして読者目線を意識した推敲。要するにもう、けっこう出来ていると捉えられる。

第三稿までは、「明らかにここは」という点が思いのほかあり、それを読みやすく、勢いは削らないように、とても、慎重に、推敲した。

いまは、完成稿を読み進めるような目線で推敲する。楽曲制作で例えるなら、MIXがほぼほぼ出来て、全体の音像を確かめつつ「むはー! いいじゃないか」と感じている段階に近しい。改めてなんか興奮してきて、ちょっとソファに転がったが仮眠すらできなかった。

それでもって実際の楽曲制作も進める。けっこうこれ、やること決まってるし完成系みえてるのに、ラッパが。ホーンセクションが気持ちよく調和してくれない。

不思議である。初めて書き上げた小説の方は抜群に洗練されつつあるが、慣れているはずの楽曲制作は難航。

こういうこともあるんだなと静かにそれらの差異の実態を感覚に馴染ませる。字面だけ読み返すと意味わからんが、つまり「完成までの道のりと時間との関係」を、新たな視点を加えて、把握したということ。

小説は、初めてということもあり、初期衝動が明らかにみられる。

それがあまりにも激しすぎて、推敲を繰り返した。現状は、先日の思考の整理のように他者が読んでも楽しめるよう、何かを深く感受できるように、俯瞰的に整頓している。

一方で楽曲制作。長年やっているので、いけると思えた曲はいつだって完成に向かうと体現している。だが、「どの曲も潤滑に」という訳ではない。ススっとできる場合もあれば、すごく時間がかかるケースもある。

ということは、つくる対象が違えど、最終的な完成度にかかる時間数は比例しないということがわかった。

何が言いたいのかと言うと、難航する箇所にぶつかっても、あるいはそこに気付かなくとも、それが然るべき形になる必要性があり、俺以外の色んな方々にとっての何らかの役割を担うに向かう制作・創作である限りは、「時間数は違えど、必ず、完成する」ということ。

4回目の推敲で、ある種、冷静な視点での興奮をおぼえた。その先、何回推敲するかとちょっと考えた。というかおととい、AI編集者に第三稿を投じて評をいただいた。

すると、評自体は割愛するが、その先の「発表方法、投稿先、編集者が――」など、もう世に出す段階の提案をいくつかくれて、原稿自体への改善案やダメ出し的言及はほぼなかった。

一点だけ、「この先、あなたが読者目線で推敲するのか――」というのがあったので、それをいまやっている。

だから推敲は、たぶん、やって後1回、2回だという姿勢で進めている。投稿先については決めている。締め切りは5月31日。まだまだある。というかその先こそがスタートラインに立つための一つ目の地点。そこに立つ前提で原稿を磨く。

改めて、いまの時点でも飽きずに興奮しながら没頭できること。それが、楽しくて仕方がない。これを何倍もの熱量のかたちとなった上で、超多くの受け手に伝われば、こんなに面白い現象はない。そして、そこに至るまでには、自分では操作できない「時間」のさまざまな色彩があると知った。という話。

小説を読み手に伝える前提だが、なんせまだ「完成」までには至っていない。そこにたどり着いてから、昨日の草案を走り出させる。これらの時間のなかで、こういう〝筋〟が自然に生じるあたりも面白いと、顕著に感じる。

なんか、あらかじめ決まっていた感。そういうの。感じているあたり――いままで感じていなかった感覚でこれまた乙。
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ギリギリ起きるかレム睡眠かという段階の午前、鼻がグズッとしてくしゃみも出る。頭痛もすれば微熱もある。いかん。風邪ではないかと思えど、いや、休もうか今日は、とも思えど、とりあえずいけるところまで。そのような方針で日中を過ごす。

結果、夕方を過ぎると「何だったのだろう」と、全て治る。俺の体はどうなっているのかと、ともあれ滅多に風邪を引かぬ丈夫なフィジカルを与えてくれた親に感謝する。

制作をすると昨日のラッパのやつが一気に上手く拵えられる。小説推敲もスススと進む。俺の右脳はどうなっているのかと、ともあれシュッと完成に向かうこの制作力。そんな日本語はない。とにかくたまに謎な駆動もするが、いい脳髄をくれた親とご先祖に感謝する。

酒が呑みたい。酒が呑みたいと、あきらかにドーパミン受容体と肝臓の抗議の檄が聞こえるが、呑まずにここを書く。どうせそのあとシャワー浴びて呑むんだから、満足の遅延。こんな日本語は、実はある。心理学用語で言葉通りである。

これができぬ者には堕落の「ケ」がある。俺は絶対にその「ケ」があることを自覚しているがそうはいかん。

人間の持つ、目的に向かうその確固たる姿勢と至大かつ重厚な能動があれば「ケ」など吹き飛ばせる。俺はこの構造でギャンブル依存症、この日本語は俺は生ぬるいと思うよ。そう、博奕中毒に対し、毎日勝利・連勝し続け何年が経つであろう。

なぜ、依存症に対し、このような回りくどいしているかというと、何度だってここに書くが、依存症というやつに完治という収束表現は不適切。あって「寛解」。この日本語は「症状がおさまってる状態」を指す。

「完治はしていないが、症状が出ていない」。つまり、中毒であることには変わりないが、意図的に押さえ込めているケース。要は俺は「今日は博奕を打たない」を、毎日繰り返す。はたからみたら「ヤメられてんじゃん」という状態という風にも映るであろう。まあ、博奕は完全に毎日打っていないし、酒は完全とまではいかずとも呑みすぎを制御している。実はそんなに深く考えてはいない。

大事なのは、自分にとって大切な営みを、依存という地獄に介入させないことである。

なぜならば、それにより、本来するべき自分の課題が進まなくなる確固たる原因となりうるからである。これ、20代の頃に気づきたかった。

まあそれは、地獄の景色を一般的以上の以上の以上くらい取材して、そこから深く考察する能力を、なんか思いのほか高めることができるようになった。として手打ち。

柔軟さ。的確な行動と進行。その先の楽しい景色。そこでの新たな営みに寄せる期待の念。そしてそこに達してからの暮らし。またその先――それは、各種依存症対象概念に耽るよりもはるかに、はるかな、幸福を感受できる。

だから、ほどほど酒を呑むのは「休憩」。休憩は必要だよ。だが、博奕中毒の時代のように、その休憩を「本気」にしてはいけない。だめとは言わない。一度足を突っ込むのも一興。だが、〝一興〟では済まされない状態にまでに全身全霊までが及ぶことは――先の〝20代の頃に〟という情念に回帰する。

手前の体調の変化や、様々なタスクでの進捗においてこのようなことを思った。そんなことをいちいち文字起こしする性質になったのは――実は、ギャンブルに耽っていた、いや、溺死寸前まで遠泳していた頃にこの思考回路が生成されたと理由づけると案外落居。つまり納得できる。

でもほどほどにね。お酒とかギャンブル――後者は老後までは絶対に打たないと決めたのだが、この頃は、そもそも別にどうでもよくなってきている。これは「寛解」ではなく――とか考える必要は、ない。手前にとっての外道に溺れず、正道を歩んでいる方が楽しい。そこにやっと気がついた。遅っ。
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「メンバーが楽屋でイチャイチャしているだけで、推しは死ねるんだぞ?」という一節があった。俺には意味がわからなかった。いや、意味はわかるがそこに伴う感情が、すぐにはわからなかった。

近所に大きな書店がある。ここに俺は2日に1度は立ち入って物色する。この書店のコミックコーナーにはBLつまりボーイズ・ラブなるジャンルの書籍が壁クラスで並ぶ。それは、このジャンルの市場規模はけっこうでかいということを物語っている。

このコーナーに、男性が立ち入ってしげしげと本を選別しているのを、俺は一度も見たことがない。だから立ち入った。

原則としてどの漫画もそうであるように、立ち読みはできないよう包装が施されていた。しかしよく棚を見るとページがめくれる小冊子を発見。タイトルは忘れたが、話題作なのか、「1話お試し読み」という、セールス的アプローチであった。

先述のセリフは、その話の中のもののうちのひとつ。文脈を鑑みると何となくその世界観の魅力がわかるような気がするのだが、感情面まではわからなかった。俺は率直に悔しいと思いその本を購入――するには至らなかった。

これは先日の話であり、今日はスピリチュアル界隈の書籍を立ち読みし、こともあろうか最終ページまで、読んだ。「いかん、著者に失礼では」とも思ったが、著者が運営しているYouTubeチャンネルを俺はよく拝見しているので、直接的ではないが、俺はいちおう、著者の収益の源流ともなっている。だからという訳ではないが、立ち読んで済ませてしまった。

そして別の書店。現代では、神保町などの一部の地域以外かなりめずらしい個人経営の古本屋へ。そこで、話題の小説や有名な作家の小説をいくつか手に取った。しかし、相当有名な著者の小説も、「本屋大賞」を受賞した書籍も、最初の数ページを読むも、どうもそのまま読み切ろうという気にならなかった。良さ次第がわからないと思ってしまったからなのである。

これはある種、致命的かなと思えど、ふと、著書『人間失格』が目に留まったので読んでみる。というかこれは俺の本棚にもあり、数回読んだ作品である。

この小説に関しては、良さがわかる。感情もついていく。心に刺さる。だから安心した。俺は小説自体に対してのセンスがないという訳ではない。と、思ったからである。

そして重ねて、『人間失格』もそうだったが、「購入した上で、読み切る前提」という姿勢がないと、こと俺に関しては、いくつかの小説は読み切るまでに至らず、その途中で頓挫する。それが、良さが分からずじまいの原因ではないかと判断しても良いと感じた。それは今後の課題とする。小説を買って読むこと。

BL漫画。良さがわかりそうだがなんか男子禁制な気がするので深追いせず。スピリチュアル本は、関心があるので感情起因あたりで良さがわかる。初見の小説は、ちゃんと最後まで読む姿勢がないと良さがわからないのかもしれない。深く心に刺さった『人間失格』は、久しぶりに読んでも良さがわかる。

だから広義的に、「良さ」が沁みる条件について考えた。

例えば音楽面だと「至上最高傑作アルバムは?」と聞かれれば俺は即答する『KID A』という作品。思えば、リリース当初の2000年にはその良さがわからなかった。わかって心に刺さっていまも抜けない――そのように感受できたのはリリースから数年後。

つまり、「良さ」がわかるにはやはり「時間」と「経験」と「前提知識」。これらがないと即効性は望めないこともあることに気がついた。かなり大事なポイントである。

ということは、「メンバーが楽屋でイチャイチャしているだけで、推しは死ねるんだぞ?」と記されたセリフ。これはかなりパワフルであることが証明された。「良さ」と「それまでの営みに対する時間」との関係性が露わになったからである。そう考えると凄いな。BL。

じゃあ買うかと触手が動かされるも――やはりなんか、あまり追求するのはこう、なんか、躊躇はしないが、いまはちょっとやめておこうかなと微かなる打撃音での手打ちとする。興味あるなら買えよ。とも思うが。
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昨日読んだスピ本に「夢の種類」についての言及があった。

それは、俺の端的な見解とほぼ同一。なお、スピリチュアルを「スピ」と略すことは「侮蔑的な意図を孕んでいない」と、飯田橋の占い師から直接聞いた。そこはスピもやってる。つまり一次情報。金払って占ってもらってないけど先日、雑談で聞き出したのである。

それで夢。俺の見解は2つにわかれる。1つは「脳内の記憶の整理」。要は主にその日に記憶したことの取捨選択。要らぬ記憶は完全にとまでは捉えがたいが忘却となる。2つ目は、それ以外。

スピ本の記述によると、やはり大きく2つ。1つは俺と一緒。先の通り。2つ目は「守護様のメッセージ」「天界やらからの啓示なり」「死者からのメッセージ」など、厳密にはその本を見ながら参照している訳ではないが、おおまかなニュアンスはこのような感じ。

それで昨夜見た夢。前提として俺は起床直後、ドライヤーで身なりを整えながら、発声して印象に残った夢を言語化している。頭が飛んだ訳ではない。必要なことだと思っているから実行しているのである。

それでもって言語化できた内容。いくつかは「明らかに昨日の営みの中の記憶」がジャムって表れたもの。だからこれは別に注視せず。一方で、何点か、抽象的だが「決して、昨日ないし直近の記憶」ではないイメージがあった。

それは、言語化すると以下のようになる。

〝俺が30代前半の頃に乗っていた車がまず、当時の駐車場にあった。当時の仕事の準備が整っていた。そして、姿は表さなかったが、当時の取引先の米屋の大将がイメージとして浮かんでいた。当時、その駐車場にいつもあった俺の車の隣の、父親の愛車・ハイエースは無かった。そこで「ああ、もう無いんだっけ」と、思った。先に処分したのは俺の方の車だったんだけどな、と訝しむ〟

以上である。

夢分析に詳しいユング(精神科医・心理学者)に、これを分析してもらいたいところだが、ちょっと今はその参考書が手元にない。今度買うか。とにかくユングさんに聞きたい。

「あのな君」

「来てくれましたか」

「のほほ。それ、君の憶測でっしゃろ? どっこい、おおむね合ってまんねん」

「ユングさん」

「なんですの? いいセン突いとるさかいに」

「あなたが日本のKYOTOにかぶれ、いや、感銘を受けたと思わしきその京都弁――」

「のほほ。のほほ。ええでっしゃろ?」

「絶対間違ってますその京都弁。まあいいか。この夢の分析なのですが」

「どこが重点かわからおまへんのやろ?」

「さようでございます。ただ、車の描写がかなり鍵を握っているかと」

「車も鍵がないとエンジンかからんからの。のほほ」

「全然面白くないです。まあいいや。親父のと処理順番が前後――ここ肝心ではないでしょうか?」

「せやな。本来は君の軽自動車を、認知症に罹り気味の頃のおやっさんが、よせばええのに売ってもうたんやっけな」

「ご存知でしたか。ええ。資金繰りに困り、こともあろうか俺の車を無断で売り飛ばしたのです」

「難儀やったのう」

「あのへんで――親父は最近おかしいなと色濃く思い始めました」

「せやったんか。でもな、夢では、おやっさんのじゃなくて君の車が残ってて、そこに、仕事の準備が整っておまったろ?」

「あの。その京都弁――」

「やっとこっちもエンジンかかってきたんやさかい水ささんどいて――」

「だから面白くないです。ちょいちょい車と絡めて――」

「まあええわ。トップギアで行くとな? ええか?」

「はい。結論ですね? そこだけでもいいです」

「おやっさんがしたかったことも、君が担って成す訳やって話。やってこってすたい」

「ムチャクチャじゃないですか色々と」

「わからへんのか? おやっさん、実は毎日のようにブログ書いてたんやで?」

「ああ、そういえば。そんで『おい賢治、コメントがきたと思ったらおれが書いたのと全然関係ない内容だぞこれ?』とか、スパムコメント見てはブチ切れてた時もありました」

「でっしゃろ? 書いて残すの好きなん、君と一緒やで?」

「ああ、なんかわかってきました――」

「せやで! おやっさんのぶんまで書いて、内容関係ありまくりの反響受けたいんやろ? 君も。おやっさんもそうやけど、先に死んだやろ?」

「ユングさん。『亡くなった』という言い方が適切です」

「ああ、すまんこってすたい。堪忍な」

「口調以外は」

「御無礼やで。車ってのはな? 人間の魂の入れ物によ〜う例えられるやろ? スピでもそういう例え、しまっしゃろ?」

「ユングさん、スピご存知なんですね」

「なめとんな」

「いやすいません」

「まあええでっしゃろ。これ以上語らずとも察してな? のほほ」

「はい」

「あと、荷物と取引先の米屋の大将の因果関係あるいは相関関係に対しての雑感を頂きたいのですが」

「あ! バイトの時間だ! 行かなあかんでっせ!」

「また逃げるんですか」

「死んでも休む暇あらへんでさかいにほんまこって」

「その京都弁、絶対――」

まあ、説得力があるような気がした。家族という文脈においての魂の繋がりやらはきっと強い。スピ観点からそう捉えられる。

だとすると、先の夢は俺の今の営み、狂熱して没頭している行為に対しての鼓舞と、ある種の責任感、そして重要さの掲示。俺がやるべきであるという肯定。それはきっと、ユングさんの説く集合的無意識やスピ的な領域から滲んだ夢。

そのように解釈するとすとんとこう、ポジティブな気持ちになる。だからということもあり今日も、小説を推敲していた。4回目の推敲となると、あまり、大幅に直したりするところはない。だんだん完成稿へと向かっている。

「昨夜の夢が印象的で、深夜になってもそのイメージが残っている」。この事象を学術的に徹底的に考察して共通意識として後世に残したユングさん。彼の功績は大きい。敬意を払う。

だからこそ、「なぜあなたは、夢に対してそこまで熱狂も没頭も注ぐことができて、そこから人間全体の意識として提唱できたのですか?」と、問いたいところだがまあ、また逃げるであろう。
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引っ越しに例えると、すごくシンプルだった。

「新しい環境に移る。次の場所に行くこと。それとセットとなる原則がある。それは、以前を手放すということ」

つまり、引っ越しだと新居に住む(次の場所に行く)訳であるから、前の場所にはもう住まない(以前を手放す)。そういうことである。

俺は今日気が付いたことがある。先の例のように、今年になって何回書けば気が済むんだというくらいのやつ。小説を書いて新たに切り拓こうという想い。

想いではなく、小説は既に書けた。厳密には推敲の4度目だが、さっきもやっていたがもう、ほぼ完成稿に近い。俺がまず、めちゃくちゃ面白いと心底感じられる。

いつの時からか「書けない」と諦めてた変な思い込みがあったが、それはふとした、というかある種の必然なのかもしれないが、とにかくそれによって45日で長編小説が書けた。

AI編集者によると、その小説の色は「純文学の分野において評価される」とのこと。そうか、と思った。

それでさっきの例えの本題になるが、要は、その「小説を世に出すことが新たに切り拓く起爆装置」であり、それを成すことと「手放すことがセットになっていること」が明確にあった。例えのように、それは原則にならう。そこに気が付いた、

だがどこか、現状を変えたい、前に進みたいという強い意思がありながらも〝保ちたい〟という心情がどこかにあり、それがどこか、いま書く手が止まるくらい、そうだ。言葉出てきた。「心配材料」となっていたのである。

別にいま営んでいる、俺のやるべき、求められているタスクを全て手放すという訳ではない。ひとつ、大きく環境を変えることがセットとなっていることが間違いないと断じたのである。その「手放すことの詳細」は、数カ月後に後述する。

つまり、小説を世に出すことは、作家となることである。そして、そう成る前提で事を進めていると、「これは手放す必要がある」と明確に気が付いたのである。だからさっき紙にその概要を言語化して手書きし整理し、不要な不安は無くなった。

作家になる。なりたい、ではなくて、なる。この2つの差は顕著に大きい。なぜならば、前者には覚悟が必要不可欠だからである。後者は願望でしかないからである。俺は当然、前者のスタンスで1月15日から過ごしている。

だから、その覚悟というものに対して真剣であることから、不安が生じた。それをどうすればいいかと考えた。作家になるのなら言語化できなくてどうすると、紙に書いた。もちろん言語化できたので、覚悟ができた。

不文律のように「なれなかったら――」という発想が出るのが一般的であろう。しかし俺はその思考すら選択に入れない。

もしもいま推敲している小説がどうだったら――どうにかなる場所を何が何でも見つける。それでもってその最中に別の小説も書く。エッセイでもいい。

とにかく作家業としての作品を書き続け、然るべき場所に着くまでそれを繰り返す。というか一発で決める前提だが、想定外ということはどんな分野でも往々にしてゼロではない。

だから、俺がつくれるものの「再現性」の最たるやつ、文章、そう。ライター案件で俺は一度も締め切りを破ったことはないし、及第点以上、最高点以上(可視化は場合によるが)を何度も叩き出し続けてきた経験と実績がある。

つまり、その、ネット記事とかレビューとかプレスリリースとかそういう文章の仕事もいいが、もっと重厚な段階(どの段階がより優れているという意図は孕まない)。小説や、論文――これは書いたことないがもしかしたら今後――というスタイルを発する場所に着く。そのためには覚悟が必要。という話。

すげえな、一気に書いて改行しないとこんな密度かと、いまちょっと前の箇所のところだけ改行して段落分けした。してからいま、数えたら六段落もあったからちょっとびっくりした。

何が言いたいのかというと、ああ、俺は、小説を書くことで、書いたけど、書くことで、自分を次の段階、新しい拓けた場所に行きたいんだなと、そう本気で思ってるんだなということ。

これで、先の選択肢に入れなかった概要をねじこんでオチをつけたいところだが、しない。そういうのも覚悟の現れだと信じ切っている。だからかな。最近のここに書くやつも文字量がなんか、多い。

思考の文字起こしってニュアンスなんだけど、ここのところの思考の密度と比例してるのかな。そう考えると妥当。あと、それって良いことなんじゃないかなと思う。

ここに書いているのは「Word Press」という、ウェブサイトがつくれるツール上である。いま視界の左下、枠の隅っこに文字数が記されている。ここまでで、今月のここの文字量37,072文字。

それって単純計算して、今年の1月1日から今日までで10万字超える訳だから編集したら長編小説くらいになるじゃないかと。

どこかの誰かが言っていた。〝作家は、作家になる前から、キッチンや自分の部屋で夜な夜な、毎日原稿を書いていた〟的なことを。

なんか俺わかる気がするよ。とはいえ、ここに書いたやつまとめて小説にしたらなんてタイトルになるんだろう。そうだな。『恥と許し』とかかな。
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いま、8時18分。つまり、さっきまでウワアと仕事関係で呑む。ここのところ、酒を抑えていたが、契機あれば容赦なき。とことこん取材目線で呑む。

この時点でタイピングがおぼつかないリアル。本当に。だから今日あたり、包括すべき点を一つだけ。

それは、情念が、人の心を動かす。さっき、その席で、俺は全力で歌った。カラオケでエレファントカシマシとかWANDSとかを。

それがね。続いた。あとに。先方仰るにね。「それが大事だ」的なこと。先方様はさ、「歌、上手いとかではなく。君のそれ。いい」そう思って、心とパフォーマンスに重点をおいた。

するとね、それこそが、それこそが、良点。みたいなことを仰る。俺は歌、上手くはない。だが、心は刻む。それがいいのかな。

結果、いま、8時――いかん。9時を。というやつ。わかる。久々に俺は凄まじく酔っている。しかし。

今宵の月は確認していないがいい酒。本当にね、酔っ払っているから以上とするのが懸命かなという最後の〜最後の〜なんかに〜なってるかどうかは詩人しか知らん。ごめん。
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秒。で、過ぎる日。理由は明白。酒の呑みすぎであった。

つか、ダイエット界隈はあるらしいけど、俺はいささか存じあげえないが「チート・デイ」なる概念あるらしい。言うならばそれを用いて俺のそれが今日。感覚、秒。ううう。さっきまで昨日だと思っていた。ちと怖い。が、楽しく過ごせてるから感謝する。

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。

これね。ここの命題。でもね、たまには酒で脳、ふやけて、こう、アホになるじゃないですか? いまも呑んでますよ。

ダルク。

それは、各種依存症を更生すべく全うな施設。端的に言うとね。マーシーが居た所。そんな、何というか、まあ、ちと、頭をよぎるが俺は無視した。

今日あたり秒だったから、「昨日は楽しかったよね〜」という情念のフワッフワの気持ちかな。うん。それが伸びている訳ではあるが、今日のタスクはというとそうだな。別にしてねえ。思い出したようにYouTubeを1つ更新したくらい。

あとね。もちろん小説の推敲はした。微調整レベルの段階だって、感じて「てにをは」の調整くらい。

それくらいの、今日。それは「休日」という表現がまあ、凛々しく目の前に立ってそいつがさ、アピールしてても「うん。いいよ君。異論はちょっとしか、ない」と俺は返す。

そんなさ、溶けるような日を楽しめる今生を与えてくれて、親とか先祖とか守護様? みえないけどいるのかな。知らんけど感謝している。最後まで、どうかよろしくお願い申し上げます。感謝ベースでございます。
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今日あたりはこう、フル稼働で各タスク、営む。せっせとこう、先を見て頑張ってるなって、自分らしくなって、思える。

その〝自分らしさ〟とは何であるか。そんなこと考えているというか小説。そこにしこたま書いた。その推敲もさっきやっていた。どんどん研ぎ澄まされていく。

あと今日やってたことは、昨日思い出したように投稿したYouTube動画の初動の確認。チャンネル登録者65人だからそんなに数字が跳ねる訳が無い。ただ、ここ9カ月ほど更新していなかったのだが、その間にチャンネル登録者が減るどころか数人増えているのである。それもあり、やはり定期的にと思い昨日投稿した。そこにはちゃんと導線も張っている。

その導線がどう作用したか。それは、まず、ここにユーザーがどのページにどれくらい来たかと、わかるプラグインがあり数字で確認できる。誰が、というのはわからないがとにかく、YouTubeの概要欄に貼ってある当ウェブサイトのURLからも来るんだなと認識できた。

ありがたいですねと、そしてここの音源ダウンロードページからも俺がつくったやつ、聴くなりご使用なりするためにおとしてくれていると。それだって当然ありがたい。なんかつくってる俺冥利につきる。

何が言いたいのかと言うと、その、1日、俺らしく生きていたというだけの話。博奕に溶かされるとかそういう俺らしくないやつ。いま思うと、あの地獄ギャンブル依存症時代は、きっと何かに取り憑かれてたなと本気で疑える。

取り憑かれるんじゃなくて、自分らしさに取りついてせっせと営む。生きてるってこういう楽しさなのではないであろうか。という至極まっとうな帰結。なお、20代の頃の俺にこれを読ませても理解不能であろう。

それくらい、自分らしさって大事なんだなという個人的思索。ただ、それを小説として表現すると、個人的思索どころか広く多い俺以外に波及して――と、4カ月くらいそればっか考えている。こんなにひとつのことを信じきってやっているって、人生で初めてかもしれない。
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やはり酒を控えめにすると起床良好。アルコール量=楽しさの前借り。という図式を俺は理解した。そんでもって元気にフル稼働して、いろいろやったがさっきは小説原稿の推敲をしていた。

読んでて飽きない。というのは大切だなと、けっこう疲弊した脳で原稿用紙換算40枚くらい推敲する。飽きなかったから、それくらい一気に、というか時間的に目一杯推敲した。

その小説を世に放つ最初のアクションの締め切りは来月末。

ここまできたら、ギリギリとまではいかないが、締め切り一週間前くらい徹底的にやろうかと思う。何故ならば、楽曲制作においてもやはり、徹底的に「もういじるところ、ねえ」というくらいやる、手前にとっての尺度にならうべきだと感じるからである。

正直なところ、本当に早く誰かに読んでほしい。

それで、その小説の命題の重厚さがどう作用するかを体現したい。欲しがりまくっている。そういう欲、俺にもあったんだなとやはり正直、安心している。

そこで一旦「手前の欲レベル」を吟味した。

性欲。あんまない。食欲。たまに食事自体を飛ばす。睡眠欲。大事にしている。自己顕示欲。わりと恥ずかしいくらいある。承認欲求。さっきのと何が違うんだと思うがつまり「自己顕示欲:自己にフィーチャーしてほしい」「承認欲求:他者に認められたい」。ということかな。

あと安全の欲求。どこか欠損している。社会的欲求。喉から粘膜全部がひっくり返るくらい欲しい。自己実現の欲求。マキシマムレベルで欲しい。貢献欲求。これ、究極。精神科医・精神分析学者・心理学者のアドラーさんが提唱した尊いやつ。

貢献欲求だ。一番欲しいの。と、整理できた。

それが、何かと、端的に俺なりの見解で示すと、要は「誰かに喜んでもらって、やった〜」である。

その内実が「カッコイイです」でも「為になりました」でも「面白かったです」でも「救われました」でも「死ぬほど笑ったわ」でも何でもいい。貢献できればそれでいい。

手前の欲求、美化しすぎじゃねえか? とも思えどわりかし本気でそう思っていることを許して欲しい。許されなくてもそれに向かって日々営むつもりだが。ただ、そこには可視化できるもの、そうでなくとも行動として示した上での感謝の意が生じることが前提であろう。

これ、合ってるのか、アドラーさんに聞きたいところだが、それができたらどれだけ幸福か。

「よっす」

「来てくれましたか」

「うん。だいたい合ってるよそれ」

「よかったです」

「ぼくの文献、よんでくれたのかい?」

「まず、謝罪します。原書は拝読いたしておりません」

「いいよぉ〜。じゃー何を読んだの?」

「は。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』という各著書であり、アドラーさんを研究する日本のお二方がまとめたものです」

「そんなんあるんだ?」

「ええ。死ぬほど売れて――各書、私は計6回読みました」

「読みすぎじゃね?」

「面白くて」

「どこがおもしろかったの? ねえねえ? どこ?」

「いろいろありますが――まず1点申し上げますと先ほどの〝貢献欲求〟のくだりであります」

「うん。そこだいじなの」

「その本質をお伺いしてよろしいでしょうか?」

「いいよ! シンプルに他者から『ありがとう』って言われると嬉しいじゃん?」

「ええ……!」

「それ」

「それだけ?」

「6回も読んだんでしょ? これ以上いわなくてもよくね?」

「まあ……」

「さっきあなた言ったじゃん。おもしろ〜とか、やった〜とか他の人にいわれるときもちい〜ってなるって」

「端的には」

「かんたんでいいんだよ」

「とはいえ、フロイト・ユング・アドラーと、〝心理学の三大巨頭〟と言われる中の一人のあなた様にそう、『かんたん』と言われましても――」

「人の心はふくざつなんだけどね、かんたんに考えるとさ。田舎のおばあちゃんの言いつけ守ってればだいたいうまくいくみたいなノリなんよ?」

「確かに」

「だからぼくはね、貢献ってとこ強めにしたけどね、シンプルに人のためになることは自分のためにもなる〜っていいたいの」

「それって、みんな繋がってる的な解釈ですか?」

「それもあるよね」

「ユングとかいうふざけた京都弁の、いや失敬。ユングさんはそれを〝集合的無意識〟として提唱しました」

「あれな。うまいこというよね〜」

「そのあと、あなたは個人心理学として様々な提唱をし、私にはそれらのどれもがオルタナティブと感じました」

「そういういいかた好きだね〜?」

「だって『褒めてはいけない・叱ってもいけない』というあなたの提唱、理解するのに1年くらいかかりましたよ?」

「はやいほうだよ〜。どうわかったの?」

「つまり、他者を評価することにより人間関係においての序列が生じる。だから、対等な関係を重んじるためには、たやすく褒めたり叱ったりすることは、価値観の相違起因で、他者の自己成長においての弊害ともなりうる――で、合ってます?」

「ほんとに6回読んだっぽいね!」

「まあ……それでまた過去のトラウマなど〝過去の原因〟を分析するのはナンセンスと、それまでの一般常識的な心理的観念を一蹴しましたよね?」

「したよ」

「それ、フロイトさんに喧嘩売ってる構図でもあるかと――」

「そんなつもりないよ〜」

「でもフロイトさんは、精神疾患とかは、無意識に抑圧されたトラウマ体験が原因であると考えておられるらしいですよ?」

「ぼくはちがうとおもったの」

「そこがアメイジングという所感でして。で、過去何があったかと、そこに囚われてどうするかではなく、むしろ現在と未来に重きをおく。〝今、ここから〟という瞬間にフォーカスするべきであると、あなたは考えた」

「そうそう。そこだいじ」

「さらに、〝今、ここから〟という瞬間にこそフォーカスするべきであり、その瞬間から人は、人生の死ぬ寸前であっても変わることができると断じていましたね?」

「だんじた」

「だから――何でしたっけ?」

「貢献だいじだよ〜って話じゃないかい?」

「そうそう。そんな発想1ミリもなかった私は、それを欲として言語化なさったあなたの言葉〝貢献欲求〟が一番強いのではないかと、さっき思ったのです」

「そうなん?」

「甚だ、おこがましいですかね?」

「そういわれちゃったら、ぼくががんばってかんがえたやつ、ちがうよってなるよね?」

「ですよね。じゃあ、自分のこの〝今〟を信じていいですか?」

「それをきめるのはぼくじゃないよ〜」

「は。著書にも記されておりました。他者の態度や評価を変えるのは自身ではなく、その他者の課題であり、自己の課題とは切り離すべきである。と」

「じつは20回くらい読んでね?」

「いえ……とにかく、私は今、小説を書き上げて世に波及させるという人生初のチャレンジの旅路が、楽しくて仕方がないのです」

「めちゃいいじゃん!」

「ただ……これが何の〝貢献〟にも繋がらなかったと考えると……」

「だれになんと思われようがさ〜自分でやりきりたいこと、あとね。そんでそれでね、だれがどうとか思わない〝勇気〟をもつと、もっとたのしいよ〜」

「さすが。褒めても叱ってもいない提言ですね」

「だってあなたの人生だからね。どうにでもなるよ〜」

「私が読んだ各書のタイトルにも、あなたの命題でしょうか――〝勇気〟とありました」

「うん。だいじ」

「アドラーさん。〝勇気〟ってなんですか?」

「あ! いけね!」

「(またかよ)」

「ああ、だいじょうぶだいじょうぶ」

「よかった! 何ですか!? 〝勇気〟って!」

「それを知るために、あなたは、なんか小説? それ書いてるんじゃないの?」

「ぐあ」

「だいじょうぶ。いつもあなたのそばにいるからね」

「ほんとうですか!」

「うん。あとさあとさあとさ。ぼくはあなたに貢献できたかな?」

「アドラーさんが一番言わなそうなセリフですね」

「うん。ためしたの」

「なんでですの?」

「あなたが、そういうことを、いわないようにだよ〜」

「はは……!」

「あとね、わかってくれてるみたいだからいいんだけど、ぼくは〝貢献欲求〟って言ってないからね」

「まじすか」

「でもいいの。他の人に貢献できたからそういうふうにわかりやすい言葉にしてくれたんだろうしポップでいいじゃん!」

「確かに、実際は、先の二冊には〝他者貢献〟という言葉で記してありました」

「そうそう。ぼくがだいじにするのは〝共同体感覚〟もね」

「ああ、それかなり重要な――」

「うんうん。だから、貢献はそこにつながるんじゃん?」

「よくわかりました!」

「あといい?」

「は。補足をありがとうございます」

「いいのいいの。それだけぼくがそっちいなくなったあと、みんなわかってくれたってことだから」

「貢献に謙虚ですね!」

「うん。だからさっきためしたの」

「はは……!」

だいぶこう、ユングさんよりも――いやそういう比較はよくない。両者巨人。それは間違いない。

まあ結局のところ「俺は貢献欲求が一番強い」なんてことは他者には言わず、日記にでも書いて心と魂に刻んで、楽しく没頭・狂熱できることを営んでいれば、〝勇気〟だって湧くし〝貢献〟にだって繋がる。個人心理学って銘たるや――アドラーさんに聞いて今、腑に落ちた。

つまり、みんな意識の奥底でも繋がっていて、各々が、勇気を持って日々営んでいれば貢献に繋がる。しかしそれを、なんか明言したりするのはちょっとズレていて、そういう役割は、アドラーさんみたいに最初に気づいた人が提唱すること。

それが今世で、先の二冊なんども俺読んで、そこから得た解釈に甚だしい差異はなかった。

欲しがりまくっている。先述した各種の欲求。そういう捉え方もアリだが、勇気を持って今ここから先に進むこと。それがだいじだよ〜。とのことである。

ただねアドラーさん。それって案外むつかしいんですよ。だからこそ、面白いんですよ。

つまり冒頭に何で酒のくだり書いたかって、〝楽しさの前借り〟しちゃったら〝今〟が薄まるんじゃないかなって思ったからなんです。

とはいえちょっとは呑むけどね。とはいえとはいえ、3日くらい前の酩酊の記録があると説得力に欠けるけどね。ただ、今、ここからどうにでもできると、そんな勇気をありがとうございますアドラーさん。原書読んでねえけど。
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東京都足立区鹿浜の俺の実家には、いまはもう他人が住んでいる。

手前が過ごしていた1980年代〜2010年代は、その居住自体に、どうにもよろしくない気配がしていた気がしてならない。

理由は、現になんかロクな思い出がないという記憶が優位だったことと――もちろん幸せなこともたくさんあったが――霊感のある人にその住居の位置の話をしたら、詳細は端折るがとにかく、人が住むにはけっこうよろしくない位置だということ。

加えて、スピリチュアル系のコンテンツを観ていると、その方が言ったことの内容との類似点がけっこうあるので、理由として大きいと思ったからである。

そんなこともあり、前住居から現在の赤羽の宅に持ってきて、使わずにただ置いてあるものを手放したい、処分したい、そういった能動にかられた。

物には念が宿る。俺もそう思うし、霊とかスピとかそういった界隈でもそのような解釈があるとのこと。だから、以前にひっぱられるような、過去につかまれているような物は処分。ということである。

1年以上着ていない服は全て捨てる。明らかに不要な機材もちょっと捨てる。残す必要のない書類やらも全部捨てる。なんとなくまだ通電するかなと取っておいた機材用ケーブルなんて20本くらいあったけど、捨てる。

そして、なんとなく捨てられずにいた親父の遺品の一部。例えば彼の事業の展望やら数字が記されているドキュメント等。どんだけ借りたんだと呆気にとられる借り入れの記録やら。全部捨てる。それらを今日まで残しておいたのは、親父が生きた証を捨てちまうのはどうかな。という妙な心情起因。だが捨てた。

なにせ、膨大な借り入れにおいては、彼の死後直後に俺が3万7千円ほど大阪府の税理士だか弁護士だか忘れたが、その方に支払って依頼して「相続放棄」というかたちでチャラにした。だから先の記録は不要。

あと、免許証なども残してあったが死後は必要ないので捨てた。というか本来は捨てるのではなく返納するのが道理だろうが義務ではないのでが捨てた。結果、親父の「形見」は3枚の写真だけとなった。それで十分かなと思った。

最終的に燃えるゴミ・そうでないゴミ袋3つがパンパンになる。すんごいこう、スッキリした。

綺麗な表現だと、未来、前に進むために、不要なやつを手放したかったのである。そういうスタンスは自分のマインドに直結すると理解しているからである。

そうなってくるとなんか調子もよくなってくる。

仕事の原稿書いたり、長時間楽器練習したり、楽曲制作したり、散歩したり、書店で著書を吟味したり、小説原稿の推敲をしたり、いつもより食事が美味しく感じたりと、全てがなんか良好に進んでいく感覚がある。気のせいではなく、気分がスッキリしたことが原因の当然の結果なのかもしれない。

不要なものを思い切って捨てるって大事だなと思った。やるべきことではないことに執着し、その行為を続ける。それを、断つ。ということと同様くらいのレベルで大切だと思った。

しないこと、捨てること、手放すこと、これらを思い切ってやらないことには進めないと心底感じて、捨てる。これを看過すると先には進めない。とか思って色々捨てまくったというだけの話。

しかし、親父の名残を何となく捨てずにいられなかったのは、どこか、やはり寂しさがあったのだなとも思える。そういう感情は、捨てない方がいいのかもしれない。
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ひとたび思考に勢いが向くといけるところまで。肘の高さまでいこうじゃないかという質。手前にそういうところがあるのは自覚している。その対象は、昨日の〝手放す〟という行為についてである。

一旦それ、置いといてその質の濃度だけど例えば。

博奕で、よせばいいであろう脳の部位が確実に覚醒し、いけるところまでいった。それは17歳〜30代ちょいくらいまでの頃。いけるという確かな方向性を定めずに、いけるところまでいった。というか沼の底で仰向けになって呼吸不全になるくらいまで、いった。

必要なものを手放してまで軍資金という名のチップをかき集める。チップってすごく的確な比喩だと思うよ。何でって、例えば博奕場でチップ1億円ぶんあっても、博徒という人種は、それを「現金1億円に換金してなに買おうかな。なにして豪遊してやろうかな」なんぞ考えない。理由? 博奕で先の脳の部位が覚醒してバカになっているからである。

そのチップは、次に博奕がまたふんだんに打てるという膨張した軍資金でしかない。断言する。たとえ1億円現金化しても、また、絶対に1億円分ベットして、増えたらそうだな、100億円にしようか。そこでも投資の世界で言うところの〝利益確定〟略して利確ができない。絶対にできない。100億円あっても、それが全部溶けるまで博奕に食らいつくというか飲み込まれる。事実。

当時俺はあらゆるギャンブラー仲間が居た。勝ち続けている稀有な猛者も居た。ただ、現在。振り返ると、何人居たか忘れるほどだが、結果、先の断言にならうように、全員最終的には負けた。沼に沈んでうつ伏せになった。まだ、打ってる者も居るようだが、負けた話しか聞かない。

要は言いたいことは2つ。俺は、それくらい、とことんいってやろうという質が体現ベースであるということ。あと、手放すことに引きずられる世界があるということ。

博奕は、健康を害して途中で死ぬ可能性が大いにある麻薬よりも、健康な限り打ちつづけられるといった理由で、俺は麻薬より博奕の方が、人生を手放す最大の行為だと断じる。

それで、概要の注釈がクソ長くなったが、とりあえず昨日、いろいろ捨てた。ここに戻る。つまり今日になり、先の「もっといってやろう」という能動が伸びて「ほかにも手放すものはないか」と考えていたのである。

とはいえ今日はタスクが多かったので行動には移さず。というか昨日、相当捨てるやつを整理してあとはゴミの日待ち。それらを一旦ドカドカと置いた玄関がえらいことになっている。きっと風水的に最悪であろうが数日の辛抱。

さっき煙草を吸っていて思った。煙草の箱に「火をつけないでください」と明記されているという訳のわからない時代の煙草。つまりアイコスのやつ。

ちょっと昨日吸いすぎて喉が痛かったので今日はいつもの半分。それくらいしか吸っていない。あれ。やろうと思えば減らせるじゃねえかと俺は驚いた。じゃあついでにこいつも手放すかと考えた。

ただ、そうなると俺はもっといけるところまでと拍車がかかり、禁煙・禁酒までいくと予測した。健康でいいじゃないですか。

でも、過剰摂取、沼の底で仰向けになるクラスまででなければ、人間には、少々の毒の摂取とそれを解しながら暮らすことは、ある種の陰陽までは言わないがこう、バランスがとれていいんじゃないかという何と言う甘えた持論であろうか。

ちょっと吸おう。うん。旨い。ちょっと我慢すると旨いな。煙草。

これくらい〝嗜み〟くらいなら――と。

生物学の論文かなにかの根拠含みで、酒、ことワインに絞られた論だが、「一日適量の赤ワインは長寿の恩恵として至大である」とあった。表現は参考書通りではなく俺の言い回しが入っているが、〝一日適量〟〝赤ワイン〟〝長寿〟〝恩恵〟という各フレーズは、確かに記されていた。

例として、100歳以上生きた記録的な外国のおばあちゃんは毎日赤ワインをそれくらい、適量死ぬわりとちょっと前まで呑んでいたという事実があるという。

何が言いたいのかと言うと、手放すものを吐き違えてはいけないなということ。俺で言ったら博奕で人生を手放すところであった。

手放せた時期については幸か不幸か判断が難しいと言うか嘘だこれ。ちょっと遅すぎたことは完璧に後悔している。だが、〝手放せた〟というのは大きい。

だから、俺は昨日は、実行した。今日はさらに、手放すべくものや行為を吟味した。というだけの話である。

楽しめるうちは、ほどほどに嗜む。苦しくなったらその瞬間に断つべし。そうでないと俺のように、これくらいの年齢にならないと気づけないこととなる。そこに帰結する。

気づけただけいいじゃないか。とも思うが、よくよく考えると現世って、〝手放すことを許さずに、自分らしさを一部ないし時には、その全てを持っていかれる環境〟という見方もできる。これ怖いって。そういう風に考えるのは、俺だけなのであろうか。

と、思った瞬間俺はiPhoneに目線がいった。こんなに便利なものはない。でもこれ、現世では手放すことが許されないもののひとつな気がしてならない。だから、いや、何度も言うな。

つまり、ほどほどにすれば、先のおばあちゃんと赤ワインみたいに100年以上人生謳歌できるし、そうでなければ――というのがこう、いま、いくらでもある。

まあ何と言うか、自身への注意喚起とかではなく、なんかそう濃いめに思っただけである。現状、酒と煙草とは、ほどほどに付き合おう。おいしいんだもん。あとね、ギャンブルも遊戯として楽しめている程度だったら、あんなに面白いのはないよ。
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昨日言いすぎた。ギャンブラーの習性のくだり。100億円まで勝ったとしても、そこで勝利と確定しないと断じた。

でもそれは、俺だったらの話。理由は明白。100億円の使い方を知らないからである。バカなのかな。

だから俺がリアルに想像して100億円勝ったとしよう。種目はそうだな、わかりやすくバカラにしよう。ルールはもう端的に半丁博奕とほぼ一緒。勝ったらベットした額が倍。負けたら失う。基本的にはこれ。

それでヒリつきまくって100億円まで勝つ。俺は身体中から煮汁を溢れ出して歓喜する。しかし、先日の通り、その100億円は、代替的狂熱の材料でしかない。つまり永遠の軍資金。だからきっとそこで、こう抜かす。

「いま完全に流れがきてる。ここでいかなければ俺は――よし。オールインだ。うるせえ。静かにしろ。流れが淀む」などと。

注釈が必要なほどの発言だから噛み砕くと、言いたいのはその場で俺が感じている〝流れ〟とやら荒唐無稽で無実無根の確率論を完全無視した誠オカルトな感覚所以。そんで〝オールイン〟というのは専門用語であり要は全ツッパ。手持ちのチップつまり100億円全部賭ける。如実にアホの所業。

しかし、博徒ならこの感覚が死ぬほどわかるのである。絶対にわかる。その感覚を得るために博奕を打っているのだからである。だから100億円の使い道は〝オールイン〟一択。そんで謎に、その時、よせばいいのに勝つんだよ。

200億円。

ここまでの道理だともう一回オールイン。違う。何故か、何故か、200億円あるのに、「ここで冷静にならないと俺は――よし。半分残して100億円ベット。そんで負けたら残りの100億円で手打ちとして、おうち帰ろう」などと、先の理論の逆、いく。

やはり、博徒ならこの感覚が死ぬほどわかるのである。絶対にわかる。奇跡の100億円というラインに一旦、符号をつけ、そこを基準として「仮の退け際」をつくるのである。

そして何故か、何故か、その半分の100億円ベットは必ず負ける。謎に負ける。すると〝流れ〟とやらの判断が歪曲する。というか最初からそんなものはない。だが無視する。

だから、さっきの〝退け際〟である場面でも、もう一回オールインつまりその時点の手持ち全部、100億円を全ツッパする。当然、負ける。文無し。

そこで初めて日常に戻り、最初の100億円の時点でヤメておけばよかったと省みる。

しかし、一度手にした奇跡の向こう側の200億円が忘れられない。だからまた軍資金をどんな手段を使ってでもかき集め、また賭場という地獄に向かう。この繰り返し。ループする。

適切ではない同じことを繰り返して、そこから動けなくなる。フリーズと一緒。PCが固まる内実のひとつはこれと近い。プログラムのアルゴリズムだかなんだかが〝適切ではない同じこと〟を繰り返しているうちに固まってしまう。これも無限ループという訳で、先の100億円のくだりと一緒。

前置き長すぎだが、「思考と日々の営み」にも同じことが言えるなと思ったということである。

基本的には信じたことをコツコツと積み重ね、その行為を繰り返す。到達点や完成に向かうために。

今日俺は、小説の推敲をした。日々の行為としては一緒。しかし、毎回必ず違う思考と目線と判断の種類で行うだから、無限ループではない。

楽曲制作もした。日々の行為としては一緒。だがいつもの手法でどうもうまくいかないと判断したら、それでしつこく整うまで繰り返すのではなく、別のアプローチで音像と向き合う。これも無限ループではない。

ギャンブルの例えは、同一思考の無限ループが如何に危険を伴うかということを戒めるために比喩した。

俺が博奕地獄で唯一「真理」だと悟ったことがある。

それは、「上手くいかないことが続いた時は、必ずいつもとは別のことをすること」ということである。

つまり、無限ループから抜ける方法である。これはあらゆることに応用できるなと、後から深く思考に根付いた。

例えば、いつもそこに行けば必ず魚が釣れる場所がある。だが、いつかは、魚もいなくなる。

だから、釣れない日が続いてもそこに執着するのではなく、別の釣り場を探すべきである。みたいなやつ。というかその手前の段階で、いつも釣れる場所以外を開拓するのがベター。

こんなくだりをチーズだかなんだかに例えた名著に書いてあった気がする。要するに、いつも上手くいく、あるいは上手くいった経験則をもって安心して、そのまま思考停止すると200億円だって100億円だって簡単に無くなるうえに、またそれを繰り返し、至らぬ無限ループに陥る。それ心外。

だから、小説の推敲も楽曲制作も、いつもの調子で書いたやつで隙みたいのはないか、あらゆる角度から吟味する。

制作も、いつもの手法でやったけど、どこか見失っていないか新たな施しかたを考える。今日はそんな日だった。だから100億円のくだり、掘り返した。

俺は、100億円の使い方を知らない。いまは。だが、それくらいになったら――ではなく、コツコツと自身の行為と営みを、本文のように多種多様な思考と行動と想像力でカラフルにしつつ、ちょっとずつ積み上げれば、使い道がわかる日が来る。

ギャンブラーは、その手順を思い切りすっ飛ばして秒で決まる勝負で億、手に入れられるものだから、あらかじめ準備しておくべく思考がはたらかず、先のPCの無限ループのようになり、強制終了を余儀無くされる。そんでまた立ち上げてループする。そのうち死ぬ。言いすぎた、社会的仮死状態に陥りかねない。

それを回避して前に進むためには――と、考えていたのがこの一連の内容である。要約くらいしろ。

つまり、俺の営みと思考をコツコツと潤沢に輝かせる工程。これを積み重ねないと、成功――億を手にしたシチュエーションと例えた――をおさめても、そこからどうしたらいいかわからなくなる。だから、その前の段階、進んでいる段階で、いきなりそれを欲しがらず、日々あらゆる景色や体験を参考に、自分に落とし込み、自分なりに頑張れば、いける。ということである。

なので、いつも通りの営みの1日の中にも「ちょっとここはいつもと違う手法・考え方を――」という習慣を忘れないようにしようということに着地。そうでもないと、俺って惰性でなんかいっちゃう質って自覚している。だがそれは過去。

ということで、人生のカウントの最小単位を例えば1日とした場合、こういうの振り返るのも大事かなとちょっと思っただけの話である。とはいえ100億円ほしいけど。いまは、使い方わからないあたり情けないなあとも思う。

だが、フレキシブルに、柔軟だよね。そのスタンスのうえで未来を見据えて積み重ねれば――人生楽しいよね。ものすごく。秒で増える100億円に限っては俺は、要らない。あと、バカラやったことねえけど。
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そうだ、神保町へ行こうと奮い立った。それは、いま読んでいる本を読み終えそうなので読書習慣を途切れさせぬべく、次の本を買いに行こうと思ったからである。

ここでつまらないのは、いつものように近場の書店ないし、だいたいどんな本も揃っている池袋ジュンク堂書店へといういつもの行為をとること。

だからこう、変化が欲しいなという能動も絡み、気がついたら俺は神保町に居た。

この地は、古本屋と出版関係社などが密集している都内屈指の書籍の街。そう形容しても誰も文句は言わないであろう。俺は駅を降りてすぐに見つかる各書店をはしごした。とても新鮮で、それだけでなんか旅行気分で浮かれた。

いくつか書店をまわり、驚いた。とんでもねえ本の量、つまり情報量だと。それは、インターネットで検索できる情報に匹敵ないしそれ以上ではないかと思うほど。あと、メガネかけてる人の比率がどの書店でも全体の8割くらい。それも驚いた。

各店、様々な書籍があるが、古書が大半を占める。歴史、医学、学術、美術、文学――とにかく様々なジャンルを目にしては迷子。何の本買えばいいかと迷子になった。だから、店内に喫煙所が設けられているのを発見し、そこでアイスコーヒーを飲みながら一服した。そのコーヒー、ほとんどがクラッシュアイスという比率だったものだから俺は原価の逆算思考をした。だが虚しいだけなのですぐやめた。

そこで、「考える」という点にフォーカスをあてて、とりあえず「人の思考」についての本を買うかとそこで決めた。

じゃあ哲学かな、心理学かな、あるいは――他人が喫煙所に入ってきた。「シュッ」とライターを着ける音が聴こえた。その刹那、なんとなく、「人の思考」についての本に絞った訳だから、この他人の吸うタバコの銘柄を逆算思考して当ててみようと想像した。

「ラッキーストライク」と、想像開始同時に刹那でフレーズが浮き出た。チラと答え合わせに横を向くと、その他人は青いボックスの「ラッキーストライク」を手にしていた。なぜか、当たったな。

この直感というか何というか、これ、有効活用できんものかという思惟。まあ、数ある銘柄から一発で当てたのだからインスピレーションが研ぎ澄まされてるのかな、引きが強い日なのかなと、そこはあまり深くは考えず。

喫煙所を後にし、別の書店で「哲学」「心理学」コーナーをしげしげと物色。すると、精神科医・心理学者ユングさんの書籍を発見。よくある、そういった巨人について別の学者さんだかが書いたものではなく、きっちりと著者名が「C・G・ユング」。訳書ではあるがつまり原書として読める。これ。こういう出会いを待っていた。即決で購入。

やはり今日は引きが強いなと、東京ドームを跨ぎ、後楽園駅まで歩いて帰路につく。

赤羽に到着し、何となく今日の酒の肴は何にしようかな〜と、赤羽駅西口の喫煙所で空を見ていたら「ドカ」と、左から衝撃音が聴こえた。その場に居た15人程度の喫煙者たちがその方向を目視するのを確認してから俺も見た。

するとそこには、喫煙ブースとして区切られているクリアなセパレート的な薄い壁にぶつかってしゃがみこむ娘。20代前半と思わしき女性が崩れ落ちていた。

命に別状がないというか、ただの呑み過ぎ起因であることが明白に見て取れたので、まあ、他人だしなと、俺は引き続き正面のでかい灰皿の直前で肴のことを考えていた。すると娘が寄ってきた。

娘は紙タバコを右手に持ち、左手で灰皿に寄りかかった。何なんだこいつはと俺は率直に思った。一般的なこの場合の行動は、まず、一歩以上下がること。かな。とか思ったがそれもなんか面白くないので俺は位置を譲らずに娘を観察した。すると娘は右指で挟んでいたタバコを地面に落とした。

俺は、しょうがないなこの子はと思い、それを拾って娘に渡した。娘は「むあああ」と、言った。俺は、「大丈夫?」と、言った。

「だ、だい、ふん、ふへえ」

「大丈夫?」

「うんあ」

「呑み過ぎやで?」

明らかに他人。歳下。口調は正直、何でも良い。だが、敬語で本気の心配を促すアプローチは、この場面においては適切ではないと判断し、ポップなエセ関西弁で俺は娘を憂いた。

「呑み過ぎやで?」

「のみ、おもろいな〜」

娘も関西弁になった。これか、これがユングさんの〝集合的無意識〟所以の事象か、互いの無意識下で繋がり、口調が繋がったのか、とも思ったがそれは本当にどうでもよかった。

「君、何杯呑んだん?」

「それ、聞くかな〜へへへろ」

「呑み過ぎやで?」

「うん。おもろいなあ〜どこ行こか?」

「帰るんやないの? もうやめとき今日は――」

「うん。おうち、どこやったっけな〜」

「(やばい酩酊だ)本当に大丈夫かな? おうちどこ?」

「いた、板橋?」

「板橋ね。すぐそこ駅やから、ちゃんと乗るんやで?」

「うふふん」

娘は俺の腕の袖を掴み身を寄せてきた。なんならそこからずっと離れなかった。

俺はタバコを吸いきるまで観察してるかと思い、娘が密着したまま肴のことを考えようとしたがこう、乳房がおもむろに俺の肩に当たっとる。

「D」いや、「E」ないし――などと俺はその胸の規模を推測していた。娘は本当にずっと離れずに密着しては上機嫌極まりない様子。

周囲の喫煙者たちからは見世物を楽しむ空気感が滲む。なんかアウアウいいながらずっとひっ着いている娘――正直に言おう。俺の下半身にちょっと血、巡ってた。

やはり今日は引きがいいのかな――などと少しだけ思い、手前のタバコを灰皿に投じ、今一度、娘の表情を確認した。目を直視した。すると目が座っているどころか開脚しておる。これ以上適切な表現はないと、俺は後からそのように回顧した。

「板橋ね? 駅こっち。わかる?」

「うへええん。おもしろい〜」

「わかった。わかったから。いいね? 君が帰る駅はこっちだから。わかるね? ちゃんとまっすぐ帰るんだよ? わかったね。いいね?」

と、俺は最終的には、ドラマ『探偵物語』の主人公を演じる松田優作さんが、女性に対して紳士的に諭すシーンの口調を意識し、娘を赤羽駅に促した。

娘は、泥酔の歩き方の手本のようなムーブで駅に向かった。なお、これは午後17時台のこと。本当に、ひとつも誇張していない。神保町という、全体的に知的なムードが漂う街とは打って変わり、赤羽という街はこういった光景が別に珍しくはないのである。

さほど遠くはない神保町。そこでは書籍の森での旅のような感覚があり、原書を訳した本との邂逅があった。

地元の赤羽。そこでは、ベロベロに酔った割と可愛らしい娘とのドッキングがあった。しかし俺はそれを邂逅というか、出会いの始まりとはしなかった。そうするべきではないであろうも。状況的に。何を考えている。

一つ思ったのは、それぞれ場所は違えども、少し、いつもと違う行動をとったり、一般的な行為に一歩だけ逆らってみたりすると、なかなか興味深い事案、いや、事例になるから面白いかな。というくらい。

17時の時点で酩酊している娘のその後が心配ではあるが、いや嘘だなこれ。つまり、知的な収穫があり、あんまないと思っていた性欲は受動的だとわりと湧くものだなということを知った。それぞれ、いつもとは違う結果が生じた。

後者において、さすがにそこは大人の、変な意味ではなく、大人の対応をしたつもり。ここでさらに思考を深めて「そもそも大人とは」などと哲学的な問いを生じさせたところで、今日に限っては説得力がほとんどないよね。
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四月末にしては陽が暑かった。界隈の園で全身に浴びる光は、生命の詳細を精緻に、皆平等に、誰一人として、この世界で、その者たちの孤立を許さぬかの如く、暖かく照らす。俺もその恩恵を看取した。

つまり近所の公園で日向ぼっこをして「あちいな」と思い、日陰に入って地べたに座る。これ、東京都足立区育ちの普通のムーブ。

そんで、きゃいきゃいボール遊びに耽る子供たちの声をBGMに読書してまた一冊読み終えた。その小一時間を綺麗に表現したかったけど、わりと意味、それはわかるけど、何が言いたいのかは不明かもしれぬ。

だけど「世界中に人がいっぱい居る上での、そのなかの一人」と言いたかったくだりは、今日読み終えた本――ノーベル科学賞獲ったどえらい分子生物学者・ヴェンカトラマン・ラマクリシュナン著『Why We Die』〜老化と不死の謎に迫る〜――の終盤にも書いてあったこと。

主語は、俺。でも、厳密に言うと、「みんなの中で機能してる俺」という風な捉え方をしている。このへんも小説にしこたま書いた。そこでさっき木陰で著書読んでて、「おいおい同じ解釈じゃねえか」と思ったことがある。以下、俺の言葉での表現だが、内容に差異はほぼないはず。

〝一人、居るだろ? でも、みんなも居るだろ? 世界でも宇宙でもいいけど、そうだな、人間の細胞に例えようか? 死ぬほど多くの細胞があってその各種細胞が寄り添いあって人間成り立ってる。わかるよね? でも。一日にめちゃめちゃ多くの細胞が死滅したり生まれたり。そういうのいちいち考えないだろ?「あ、細胞いっこ死んだ」とか。

人間も一緒でしょ? どこかの知らない国で知らない一人死んだ。それいちいち気にできないよね? だから細胞に例えた。一人一人として捉えるより、世界中にめちゃめちゃ人間が居る上での、一人の人間。〟

すなわち俺の「世界中に人がいっぱいいて、そのなかの一人」と「めちゃめちゃある細胞がある上で一人の人間が成り立っている」というのは、意味合いわりと一緒。そこを読んだらなんかスーっと気持ちよくなって爽やかに高揚したのをいまも覚えてる。

「理解した」というのと「生物学的な解釈と例えだとそうか」という並行的な思考の発見と、「おいおい学者と考え一緒かよ」という、もうちょい謙虚になったほうがいかもしれないが、まあ素直に生じた嬉しみ。

そんな情念を肚に、いやこの場合もう、みんな繋がっているという前提での魂の一因として、宅でタスクをいろいろやった。

作りかけで最終工程えらく手こずっていた楽曲ができたので、プラットフォーム申請する。公開後は、俺以外の人が共有できる。ここのサイトの楽曲ダウンロードページも数曲追加して更新した。ここでも音源が見つけられて、すみやかに入手できるように。

小説の推敲をした。読んで頂いて、何かを感じて頂いて、あるいは楽しんで頂くため。そして自分の未来のためにも。その未来、さらに貢献できるように。それは、さっき言った主語が「俺」だけではないということをさらに拡張、ひいてはみんなでやった〜って過ごせるように。

気がつけば四月が閉じた。いま、0時から21分が経っている。明日が来てくれた。その前、今日あたり、自覚なんて1ミリもできていないが、確かに、学者さんが述べるように、体内では数多くの細胞が死滅した。そして新たに生じている。思考も似ていると思った。

その思考は、明日も新たに生じる。今日以前では死滅したものもあるのかもしれない。

だが、故人の作品や著書が後世まで生き続けるように、思考もまた、その日にあったと、残すことはこう、人の営みらしいんじゃないかなと俺は思う。これ書いてるの俺だけど、「世界中に人がいっぱいいて、そのなかの一人」と、捉えると、俺だけが生きていたらこうは思えないんだなと、周囲の全てに感謝できる。

そんな風に綺麗に締めたい今月。ここに書いたやつを一言でまとめるとそうだな。命題だな。それをつける。毎月、そうしてるよ。

今月はそうだな。『恥と許し』。それしかない。なんかそうなると、「俺は俺個人だけでは成り立っていない」って解釈があったから、俺はいいけど他者に失礼な気がしないでもないが、とにかく、みんなが居る中での俺みたいなやつは、そんなこと考えたり思ったりして、恥と向き合って、格好つけんな。

とにかく、そういう野郎が居てもいい。というか居なきゃだめだよう。という感じにこう、成りたい。成る。そんなことばっかり考えてたな。恥と許しの四月いっぱいまで。というか、居なくてもいい人など、存在しない。これは、格好つけていない。
_04/30

 

 

 

 


 

 

 

 

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