03/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。引き続き何でかな。みんなテーマ同じ。3


如実に入れ替わる季節を感ずる。辺り一辺からの堪らない匂いを受ける。ただただ歩いているだけなのに死にたくはない鬱状態のような気分になる。春が来る。そう察知しては無目的にただただ歩く。無職ではない。

帰宅して月初の収益チェックをする。伸びてるか引っ込んでいるかと慄きつつ、楽曲の放送使用料の反映額を見たら全部ゼロになっていたからびっくりしたよ俺。何があったかとほんとにそのままソファに倒れた。

どう考えてもそれはあり得ないと、とりあえず手前のアカウントは健全に営んでいるか確かめる。何もわるさはしていない。ここは問題なし。じゃあなんでゼロ。

四半期ごとに必ず月初1日に反映される。なのに何で全曲ゼロ円。100曲以上あるんだぞ。絶対にそんな訳が無い。だって当該期間で確かに、俺の曲がラジオとかで流れてるのリアルに確認した。「ひと月CMでこの曲使いまっせ」と企業からメールを頂いたこともあった。他にも――だからこの時点で既にゼロはあり得ない。調べた。

ネット検索。ChatGPT。そのへんで調べた。運営に聞けば最も早いのだが、何か俺が実は知らない不文律があり、そのためだろということで恥をかきたくないのでまず調べる。結果。

収益発生期間において計上する日が土日祝日。その場合は、JASRACなどの機関のデータ反映は翌営業日に持ち越されるという業界あるあるがある。あると、そういった情報を得た。これかと思った。

それでもって今月の値が計上される日は1月。すなわち正月。そうなると、休日の関係でちょっと遅れてるだけという可能性が高い。そこで心が落ち着いた。

この源泉。けっこう頼りにしてるのでゼロは本当に困る。しかしゼロだった。だが、それは先の理由によってまだデータ反映されていないことが起因。そう捉えるしかない。

というわけでいっとき精神的ショックを確実に得たが、正月休みならびに直後に連なる土日を鑑みると、今週末あたりか来週明けに反映。いくらかな。ということに落ち着いてほしい。というかそうでなければあり得ない事象である。

そんな感じて月初めちゃめちゃ驚いたという一日。タスクは原稿を進めて楽曲制作でシンセサイザーのパートをねじ込む。この二つ。

それにしてもゼロは本当に驚いた。何らかの別の理由で今後その源泉が得られないという恐怖感が一日を貫いた。計上額反映の流れをただ知らなかっただけという杞憂であることを祈る。想像以上の春を祈る。
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チャクラが開いた。ふざけてません。本当にそういう実感がある。さっき少し横になって、水とかっぱえびせんを買いに行った。その道中でそのように感じた。つまり、小説を書き上げた。

原稿用紙314枚ぶん。文字数10万とんで5千文字。書いた期間、1月15日から今日まで毎日。1日だけ書かない日があった。そんでもって1ヶ月半。要は約45日。早いのか遅いのかは知らない。だって小説に関しては初心者だからである。それはいい。

とにかく、書いている日々、その最中が最高に楽しかった。没入の上、いってた。それで最後の一節、けっこう最初の段階から決めていたラストを書き終えた時。ビビビビビという抽象的な生理現象が起きた。そんでものすごいリラックスして横になった。

達成感といえばそうかもしれないがちとニュアンスに差異がある。言語化できない。

とかいってまだ発表もしていないのでただの個人の悦びでしかない。そうなのかもしれない。

だが、これを書き上げるのと、頓挫してやめちまうのとでは雲泥の差がある。タワマンと俺の実家(もうそこに住んでいるのは他人)くらいの振り幅がある。

明日から推敲する。過度にやらないと決めている。何故ならば、例えるならば即興演奏の波で書き続けたような水流があり、それをわざわざ良かれと思い丁寧に整えたら本流が破綻しかねないからである。

だから、あからさまな誤字脱字と意味同一単語表記の統一、非効果的な文章の重複の精査――これくらい。あと絶対に必要と断じられる加筆。それ以外はしないことに決めた。

個人的に設けた締め切りは44歳最後の日。つまり7月20日。そう考えると思いのほか早かったからびっくりしたというか、ペース配分。これが功を成した気がしてならない。8時間も書き続けた日などない。

毎日1〜3時間程度。これを維持した。だから続いたのかもしれないというか、楽しすぎて「止まる」という選択肢が見当たらなかった。展開に悩むこともなかった。だから即興演奏。小説でそれやっていいのかと思うけど、今しか、きっとそれはできないのかもしれない。そういった側面もある。

あとは、推敲を長くても1ヶ月以内に収め、長すぎだろそれ。まあそれはいいとして、極めて重要な段階に視点を定める。それは、どうやってこれを「書籍」として「出版」して「世に出す」かという第二段階。

編集者に吟味していただく。なんかの賞に応募する。自費出版する。プラットフォームで公開する。後者2つは避けたいというか選択肢に無いに等しい。

まずは、しっかりとした評が得られるプロにみていただく。これしかない。というか俺はまだそのへん、信じられないくらい調べていない。それくらい、まずは書き上げるという第一段階が重要だということが言いたいんです。

それが今日できた。やっとできた。ものすごい楽しかった。これ、この情念を、読み手にも味わって頂き貢献したい。そんでもってそれが今後、常にできるという立ち位置に行きたい。もっと書き続けていいよ、いや、早く次を書けよ、という生業の幅を広げたい。それもめちゃくちゃ広く。

チャクラが開いた。比喩であり実感。具体的に言おう。生まれて初めてだが、小説をしっかりした分量で書き上げた。なんなら多すぎた。まあいいよそれは。それが嬉しい。

次の世界に進むべく起爆装置が出来た。それがたまらない。推敲、さっさとやれ。明日からやります。現時刻ジャスト0時。何かを示唆していてほしい。
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カツオのタタキに「藁焼き」と銘打たれている。パックの表示シールにそれが足されているか否かでこうも触手が動きが違うのかと、買う。酒も買う。準備できたので作業する。

ここのところほとんど記載しなかったが、ライター業とか、ちゃんとやっている。今日も一件新規受注。よしよしと対応する。小説原稿も書く。推敲する。あまりイジらない姿勢だが、明らかに時間軸感覚が短すぎる箇所――そういえばAIにも指摘されたが別にいいだろと無視した箇所――を、加筆調整する。鋭いなAIと反省する。

楽曲制作をする。ものすごくダークというか良く言って荘厳。蠢く何らかを確かに感ずるオルタナティブロックにシンセパートを入れる。ただ音の厚みを担うのではなく、アンサンブルとして作用させるのがひじょうに難しい。

何故ならば各和音にいちいちテンションノートが乗っており複雑(要は音数が多い)なので難航する。しかし、完成形が明瞭に想像できるので時間をかければ確実に仕上がる。とかやってたら0時過ぎていたのでハイボールでも呑む。

今日は雪が降っていた。目で追った。雪と認識するそれらはすぐに地で溶ける。また上から降りてくる。すぐ地で溶ける。時間の尺度の表れのように思えた。

同様に人間も生まれて気がつけば死ぬ。また生まれて死ぬ。次々に生まれては等しく死ぬ。それらを目で追う者も居れば、誰にも目視されず溶ける者も居る。

そう考えると、とても幸せなほうなのだな手前はと、雪見てわりと、本気にそう感ず。
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本を買う。実用書である。久々に本を買ったというのには訳があり、それは、ここのところずっと小説を書いていてその最中、新たな余計なる文体的影響を受けたくなかったからという、なんか偉そうで叩きたくなる理由である。

だから、最中は同じ本を繰り返し読んで今日2回目を読み終えた。とてもいい本だった。

今日買ったのは『作家とお金』というえげつないタイトル。言葉ヅラ通り、こと、文章を書く上での作家とマネタイズや様々な執筆スタイルなどが紹介されている。今読むべきはこれだなと、即決で会計を済ませた。まだ読んでないが。

今日あたりは昨日の案件打診を正式に受注し、着手する。小説原稿の推敲をする。書いている時は真逆のテンションで行うものだから、なんか最中に書いていたここの文とあからさまに筆致の圧みたいのが異なる気がしてならない。

DAWを開いて鍵盤パートを2つレコーディングする。滲むように雰囲気が出てきてたいへん嬉しむ。どう考えてもニーズの少なそうな曲調だが、その時に浮き出る心情やらに従うのはひじょうに大切だという自覚がある。そして、それに対する個人的な矜持みたいなのものも確かにある。

粛々と過ごす降雪の日。消費税の確定申告もする予定だったが、申告方法がえらく複雑なことになっていたので後日、王子税務署にカチ込んで直接係の方にご教授頂きつつ済ませる予定として後回す。それより先に本を読み進めたい。

『作家とお金』という書籍を実用的に。そのような流れで必然的に進んで欲しい。というかそうする前提だが、ここからはマーケティングやプロモーション、ビジネス的な知識と行動と選択が物を言う。どうなるか、大勝負の第二段階。日の目を見たい。でかいやつ。
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とても冷静に各タスクを行う。昨日、いいのが録音できたのが効いたのか、たいへん体調がよろしい。しかし記憶おぼろげだが寝る寸前に「辛ラーメン」のちっさいやつ食べたからちょっと顔、むくんでいる。

しかし、食べなさすぎより、よろしいと、善処する。

本を読む。机に向かう。案件を進める。原稿を推敲する。ひじょうにフラットな精神状態で過ごす。そうなってくると、本当にただ在ったことを書き連ねるだけになる。それが日記。

鋭利に思ったこと。暗に怪訝になったこと。衝撃的だったこと。それらは特にはない日だってある。

父親が夢に出てきてたちまち横長シェイプのネコに化け、そのあと巻物に変化し俺は謎の言語を目視。最終的に奴は初見の未確認物質に変容したがその一連の現象は幸福を示唆していた。起きがけ、そのように率直に感受した。ふつうのことである。

だから、今もふつうに湯を浴槽に溜め、寝っ転がる時間を惜しんだぶん、身体と脳と精神とあと何らかをきちんと癒すべく準備をしている。なにぶん、色々と着々と進めているつもりである。

それがどうなるか、その辺は今年初月の中旬から変わらぬ心境。それが、今日あたりはゆったりと動いていたというだけのところで、ふわりと日が閉じる。

しかしやはりケツが痛い。尺度。きちんと以上にやることやった日はケツも痛くなる。だから、これでいいと思える。

繰り返しになるが俺は痔主ではない。いや正直に言う。20代後半から30歳中盤あたりまで俺はまあまあの規模の痔主だった。だが、もう手放した。あれ本当に痛いから今後は御免被る。座って声出るってよっぽどだよ。
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昨夜寝る。ソファで寝る。ふと覚醒。6時である。

おかしいだろと怪訝に思うも昨晩のサウナ式入浴これ、効果あったと原因をタバコ吸いながら善処する。朝日だ。

そして二度寝してちゃんとまだ午前。そのへんで起床す手前を、胎児を愛でるように褒めてやりたい。快適。意気揚々と日常をやる。

何をってそれはもう最近、全部一緒。1月中旬から一貫。各タスクに加えて「処女作」とか言うらしいですよ。俺はその言い方ダサいと思うよ。

まあそれは好み。処女に対する好み――「110」とダイヤルすると警察にアクセスできます――。

俺は世間に於いて個別者として在りたい。その前提で、原稿。その推敲もやるというか一気に今の今まで今日あたり面白くなってさ。原稿用紙100ページくらいやってなんか悦に浸ってもう一回ソファというか、この目の前にあるMacに顔、沈みそう。

それはスティーブ・ジョブズさんの望むところ。そのように善処。つまり、もうちょいバランス良く生きようぜ。

「またしてもくだらないことやってるな〜」

と彼に言われれば好機。

訳するに:「くだらない」=「私には、今の所わからないが、いいかもしれない――だから君。説明してくれるかい?」

つまり。ジョブズ氏にアピールするべきところであり、ネガティブに言葉通り捉えるのはセンスどこいったという話かな。そんな感じのが書いてあったよ。ジョブズ氏の自伝に。

いやまあ、くだらねえとつぶやきつつも冷めてはおらずというか、ジャパンってクールですよね? 知ってます? 〝切腹〟って?

「聞こうか」

「はい」

「〝SEPPUKU〟? What do you mean?」

「つまり〝けじめ〟です」

「またしてもくだらない。お前はクビだ」

「それが切腹です」

「ようこそ。君の新しい職場はここだ――」

そんな構造だって。それって、アメイジング通り越してめちゃめちゃ面白いしムチャクチャ伝わってる。

現実歪曲フィールドはこのような実相。俺はそのフィールドで作られて出荷されたMacでこれ、今、書いてる。

そんでもって腹を切ることに関連性を持たせようとして失敗してるけどそれ、源流。何のかっていったらそれが未来なのではないでしょうか。

そのへんが考えに及ぶ、及ぶかな〜、くらいのところで俺は腹を切らないよ。そうじゃない方法で腹の中をこう、出荷したいよね。

文章には構造がある。その整合性が破綻すると、いかんともしがたいオルタナティブともない三次元以上に発展ないし、次元の観念が崩壊ないしそもそも次元とは。なお、俺今、別に酔っ払ってはおりません。

言いたいことは、「ようこそ」を、自家発電起因で発したい。あ、明日はメンタルクリニックの定期検診日だった。先生元気かなっと。
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先生お元気。すぐわかるよ俺には。長い付き合いだからね。数年も長い付き合い相手が精神科医。大丈夫かな俺。

第一診察室に入って主治医の表情を確認する。刹那で判別した概要はというと、「ああこいつか。ちょっと楽できるな。どうせまたしょうもない雑談を深く掘り下げたいやつだろ」という表情が、マスクの鼻から上にかけておもむろに滲み出いた。間違いないと思ったね。

「平吉さん――ああ、1ヶ月ですかもう……どうですか?」

もう先生ね、月単位の尺度として捉えてるのよ。俺を。どの角度から察しても先生、俺を認識した瞬間、臨床とかじゃなくて休憩モードじゃないですかと静かにそう思案した。

「はい。健やかに楽しく過ごしております」

「よかったじゃあないですか。それで今日の〝問い〟は――? ニヤニヤ…」

「は。〝問い〟は絶えないのであります」

ほんと先生ね、俺のこと患者じゃなくて軽度メンヘラ質問野郎って分別してる訳。だって先月も導入一緒。「“ああ、1ヶ月ですかもう”」ってとこ、一緒。

「そういったわけでこう、健やかなのであります」

「へええ。(カタカタ、タン!)……」

「先月、先生に肯定的に聞いてくださり嬉しかったのですが、小説――」

「ああ、仰ってましたね」

「書けました」

「へえ! すごいじゃないですか!」

「そうなんですかね。自分では面白いと思えるやつをこう、小説の本一冊ぶんの文字量――10万字ちょい、書籍にすると200ページくらいにしまして――」

「いや、すごいですよそれ……!」

先月俺は、小説を書き出してそれに没頭しており、その行為がたいへんメンタルヘルスに良き作用を及ぼしていることを伝えた。

先生は、精神状態よりも「こいつ、小説書くんだ」といった少々の驚きと、意外なくらいのエールをよこしてくれたから何だか嬉しかったのである。だから律儀に経過を申し上げた。

「まあ、ここからでありまして。どうやって本にするか、どうやって売るか、どうやって書き続ける環境を新たにつくるかと――」

「いいと思いますよ……とにかく書いたのが凄いですよ」

「そうですかね。ウェブライターやってますけど、小説に関しては初心者なので。あとですね、書いてて最初の段階で思ったんですけど、これはプロジェクトなんだなって」

「新たな仕事として、という風な?」

「さようです。だからこう、没頭しながらとても興奮して、ポジティブな道筋しか浮かばないんです」

「いいと思いますよ……」

「それで先生、〝問い〟があるのですが」

「はい(笑)」

「先生は、本を書こうとか思ったりしないんですか?」

主治医は「今日は意外な〝問い〟だな」という表情を見せた。

何故ならば、いつも俺が投じるあまりにも抽象的――先生いわく哲学的すぎてすぐに答えられない時もあるとのこと――ではなく、イエス・ノーで答えられるシンプルな〝問い〟だったからであろうか。

「本の執筆ねえ……私には向いてませんよ。無理ですよ」

「(ずいぶん消極的だな)でもね、先生。精神科医が書く本って面白いんですよ?」

「まあ、その人にもよりますが私には――」

「学術的な知識というか専門なわけですからこう――」

「テーマがなかなか――」

「色々ありますよ――」

「平吉さん、その、夏目漱石のね、最後の三部作とかすごいんですよ」

「それらは僕は存じ上げませんが、抽象的なんですか? テーマ……」

「友情と愛とか、ああ……うまく言葉にできないんですけどね。あと川端康成もすごいし、芥川龍之介に関しては、死を扱ってますよね」

案外読書家じゃないかと率直に思った。なんなら小説に関して俺より詳しそうである。

「先生、芥川龍之介や太宰治ならわかります。確かに死の匂いがしますね」

「そうですね。だから彼らが扱うテーマのように、まずそういうのを言葉にすることからして私には……」

「太宰治だったら〝恥〟とかでいいんじゃないですか? そんで最後自ら死ぬし」

「死……芥川もそうですね。なるほど。〝恥〟ですか……」

夏目漱石の「な」を発声したあたりから先生はマスクを外してた。

精神科医としてプロフェッショナルな先生。一方で、どうやら専門外のことを言語化すること――こと、今回は文学の中核に迫ろうとする話――は得意ではないというか苦手。そのようなニュアンスを行間から明瞭に汲み取れた。だから最初に“無理”と断じたのであろう。

もしかしたらそういうこともあり、俺が小説を書くだの、書けただの、診察には甚だ無関係な話題に対し、肯定的かつ、なんなら少々の羨望までも混じるように俺が感じられるのだろうか。

いずれにせよ、俺が小説を書いて、そこから壮大なビジョンがあるということは、積極的には直接人に話していない。先生と、あと2人だけである。

さらに言うと、能動的にそれを手前から報告したのは先生だけである。他は、文脈的にそう聞かれたので普通に話した。

どれも共通しているのは、「やめとけ」だの「無理っしょ」といった、いわゆるドリームキラー的なアプローチとは真逆の反応。それは凄く嬉しいし予兆すら感じるよ俺は。

「先生、まあそういった訳でして、新しいアクションをプロジェクトとして進行しているこの1ヶ月2ヶ月、健やかなのであります」

「わかりました。いいと思いますよ」

「ありがとうございます」

「じゃあ平吉さん、また1ヶ月後にしますか?」

「はい。定期的にというのが大切だと思っています」

この野郎は定期的に〝問い〟というか質問しに来るのが好きなんだろうも。そのようなことを考ている顔にも見えたが、正直その通りなのである種伝わっているなと逆に嬉しかった。なにせ今日は口頭一番「今日の〝問い〟は?」と、笑んでいたのだから。

何が言いたいかと言うと、超絶全力でやっていることに、肯定なり応援なりの感情を向けられると奮い立つ。

そういった、人間として至極当然の情念であるものがリアルタイムで感じられるこの時期が楽しくて仕方がない。これに尽きる。先生いつもありがとうございます。

あと、パニック障害みたいのもう治ったっぽいので「アルプラゾラム」の処方はもういいんですけど、というかその薬、お守り代わりに持ってるだけでほぼ飲んでないんですけど、そのへんの主題的な部分確認しないあたり、凄いですよね。

そのへんすっ飛ばして、「今日は小説の話の方が肝心」と思ってくれたのだとしたら、俺はこの先生大好きである。何故ならば、治療そのものよりも〝今、ここで〟要となる対話を重んじているのだから。
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実用書ってすぐに読み切ってしまうからコスパが。とか電車内で思えど、それは、目的が実用であればコスパ良し。しかし読書そのものとしてはコスパが。

だったら同じ文字量の哲学書とか現象学の本とか買えばいい。読むのにえらい時間かかるから得ではないか。そう思えど、それらは何が書いているのかよくわかないことがめちゃめちゃ多い。

じゃあどうすればいいかというと、わからなかった本を再読するべし。それがいいんだけど何度読んでもわからない重厚な内容の本ってある。

そうではなく、内容がよくわかる本を続けて2冊読んだ。しかしもう読み切るので新しい本を買おう。そうしよう。いやコスパが。そのように思いの先に戻る。

だからなんのために本を読むかと考えた。というのも、去年から急に、人生最多だろうという読書量となった。急に。

なんでだったっけかと思い返すとそうだ『嫌われる勇気』だ。その本が面白すぎて、その源流のアドラー心理学。これも面白すぎてそこからまた源流いって哲学とか形而上学とか認知療法とか、倫理学? 志向性? このへんから訳わからなくなったからスピリチュアルいった。

ほかのも色々読んだ。環世界(色んな生き物それぞれの知覚の物差しの違い。的な)の本はすんごい面白かった。愛についての本は、ちょっとよくわからなかった。

それで、気がついたら、原因と結果の法則とか、もう法則だからわかるけど、それを操作できれば苦はなかろうとか思っているうちに手前でも書き出した。本というか小説を。そこにつながる。

こうして書かないと本気で思い出せないことがあるから不思議である。そうだ。『嫌われる勇気』がきっかけだった。この本に関しては4回読み返した。そういう風に、刺さったやつ、刺さってるけど、どこに刺さってるのかというやつを読み返す。これが一番コスパよく、かつ、身になる。

じゃあ「アート脳」という書籍が実に面白かったから読み返そう。「暇と退屈の倫理学」も面白かったから再読しよう。という風に思える。

何が言いたいかと言うと、「実用書」というのは一度読んで納得すると、実用しない限り、再読の必要性を俺はあんまし感じない。だからコスパという命題に色々かかる訳だがつまり。

そういうこと考えずに手にとってピンと感じたやつ全部買って本棚の壁みたいにして床が抜けちまう。そのような危惧と対峙するような生活に憧れる。すっと買おうよ。欲しい本くらい。
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銀座の興行スタッフ案件でみなさまと楽しく過ごす。これより冗長に綴るは野暮。そう断じる。それほどほっこり。二行が適切。

そのあと赤羽に戻り、最近、疲れてる気がするからさ、ここは入れとこうよ。ガソリン。とか、昭和の発想で呑み屋街をブラブラするも早いんだよ。日曜日の赤羽の夜は。いつもの立ち呑み屋も閉まってる。

はあ、存じ上げておりますと、尻尾をぶら下げてコンビニに。ハイボールをひとつ、183円出して〝聖地〟へ向かう。

聖地ってのは俺の個人的フィーリングにおける赤羽の各スポットで色々あります。端折るけど、今日は「夜限定。大木が素敵に生い茂る小さな暗い公園」に行く。

そこは、昼間に行くと別になんともない。だが、夜に行くとどうしてか、存ぜぬが、セープポイントとして作用する。

その公園のちいさな木製の椅子に座る。

酒を開ける。

JR京浜東北線の軋音とシルルルルルッルと綺麗に響くフィールドサウンド。目の前にはいくつかの大木。彼らは、俺よりも何十年も先に生きている大先輩。

左に適度に雑な街灯。もうちょい右に桜。桜、ちょっと咲いていた。寒いけど3月もけっこうねじ込んできてる。そのような人間特有の察知を促して頂いた。

ここに夜、酒をひとつだけ擁て居ると、色々と閾下で整理される。だから聖地。セーブポイント。これを誰か様が体験せずと、俺が今、本当に何を言っているか意図不明なのは明白も明白。だが、ここのこの時間とアイテム持参前提となると、ひじょうに整うのである。

いつだったかは、その大木に耳をあてた。愛を感じた。だが、俺はその愛を感ずるもその内実がわからなかった。人間の愛。これもよくわからない。だが、大木から感じるそれ。何だろう。とにかく、それに関しては俺はシーンと感ずる。

やはり意味がわからないが確かな癒しを受け帰宅。おいおい、軽く呑んでる場合ではないだろと、インターネットを通じて各種対応をする。改めて、仕事があることはありがたい。

一通り対応し、原稿の推敲をする。もうちょい。もうちょいというところで時間も時間。いま、俺はスーツにネクタイ姿のまま、これ書いている。自慢にもならないが事実。こういうタイミングで襟をスッと上にちょい、ほぐすように上げると気持ちいい。

今日感じたことは、関わって頂ける方々はとても隆盛。俺は、それに伴いというか、主軸として手前なりに旺盛に行こうかという心境。

大木は独立している。しかし、そのものだけでは決して成り立たない。

環境が必要。隣に在る木々や、立ち位置の土も、水も、誰かの情念も不可欠。なんかそんなふうに、不審者のように深夜の小さな公園で憩うては大木を眺めて思ったよ俺。
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懇意の蕎麦屋。2軒とも店休。そんなことあるかとあきらめ、しかし蕎麦自体は譲らず、富士そばへ。「もり」、しれっと10円値上がりしてた気がするがそっとしておく。

なぜならば、世の増税や高騰やらにいちいち反応していたら俺は、決起して自衛隊駐屯地で演説をする欲求を禁じ得なくなるからである。

それやったらクーデター。内乱罪。つまりほぼ死刑。やった人、いらっしゃった。正確には罪に問われる前に自決。三島由紀夫さんである。

彼のような文豪のバックボーンを一冊にまとめた書籍があった。まとめられた方からしたらたまったものではない。いや、光栄に思うのだろうか。わからない。とにかく、芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫に森鴎外などなどもう面倒くせえから敬称略。敬意ある前提で。

そうか。坂口安吾は「ヒロポン」を食みながら4日も徹夜して原稿を――そんでもって興奮して眠れないから睡眠薬も――ってムチャクチャじゃねえかと俺は感銘を受けた。体張ってるからである。

現在ではそのような〝無頼派〟とも呼称されるスタイルの人、いるのかなと考えた。わりと近代では、中島らもさんがそれにあたるであろう。

だってアル中になって入院したエピソードを面白がって小説にしたって。そんで賞獲ったって。ムチャクチャじゃねえかと俺は素敵にしか映らない。だって逆境を芸術にしちゃうんだし。

一連。俺が完全に憧れているという訳ではない。ただ、その本とか他にも色々と、店員に半殺しにされても弁明できぬほど立ち読みしまくったその時間が楽しかっただけである。

なお、ちゃんと一冊買った。思想書と哲学書の中間くらいの古典である。こういうのは読むのに時間がかかるのでコスパがいい。この間買った書籍『作家とお金』に関しては、隙間時間にじっくり読んでは一週間。「次の本はと」という風になった。だから今回はコスパ重視した。

そのような込み入った理由も相成り、気が済んだので書店を後にして帰宅。色々チェックする。

最近あんま記してなかったが、コンサル案件を連日で2つ頂いたので対応する。手前の原稿を推敲する。もうちょい。あとは寝転がる。楽曲制作もしたかったが休息を優先する日と起きた瞬間に決めたから則る。

つまり全然〝無頼派〟ではない。だが、酒くらいは呑む。要するにね、昨日一人でけっこう呑みすぎたのよ。だからゆっくりしていたという訳。

あと、反俗無頼という感じではないけど、その言葉の内実にある〝新たなスタイルを作ろうとする姿勢〟みたいなのはあるつもりである。だから楽曲にも小説にも、「従来ではこう」というところには逆らいたい。生産的に。

でもね、三島由紀夫さんくらいまで振り切れはしないあたり。それを女々しいとは俺は捉えない。そこを、その心情をまた作品に落とし込めばライブ感があっていいじゃないか、そういう中核が肚に在る限りは、続けていける。って俺、思います。
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昨日と真逆。たぶん12時間くらい実務してたけど元気ってこう、疲労がポーンと取れたからである。所以は昨晩の入浴である。コツがある。

それは、熱湯に近しい湯に浸り暫くして冷水手前の温度のシャワーを浴びる。また熱湯に入る。冷水。この地獄のような入浴妙技はサウナからヒントを得た。その効果たるや、先のようになる。

案件の頻度としては決して高く無いコンサル。これ、2つやってた。面白いねといい仕事だねと気を良くする。あとはもう文字をひたすら書く。小説の推敲をする。いつまでやってんだと思えど、読み返すと手前が面白いからそれは速度も下がるわと善処する。自惚れ。だけはないことをどう証明するか。

それは次のフェーズ。ピョピョピョときちんと「出版」という新たなアプローチに対してのリサーチも続けている。

要はどのようにして小説を「書籍として」世に放つか、である。そのあとのこと。めちゃめちゃ前向きに想像してはそれを現実とせよと、思考を経験とさせるために、とにかくイメージしてはちょっと笑ってる。

そういうの良いと思う。そうでもなければ、人様に口出し――提案の取捨選択方式――というコンサルで金、入ってはこないよ。良質な仕事だよこれ。

ひと段落してエレクトリックギターを真空管アンプ直結で鳴らす。すごくいい。やっぱこのギター、だだものでは無い。いいよ。などと思いながら漢のストラトキャスターをどんどん手前の魂に馴染ませる。すごくいいよ。

それでもやはり0時前後にここに書いてると疲労に気がつく。とれては付く。疲労。

それがいい。それだけやってないとこう、酒が美味く感じない。だからこれくらい、いやそれ以上がいい。手が止まる。あからさまに疲れている。

あれだ、だからもうさっさと酒呑んで健やかに、健やかか? そこさ、俺的の尺度というものがあるんだよ。だったらさっさと呑んでさっさと寝ろ。だがしかし雑に呑むべからず。命の駆動の潤滑剤。酒。
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出版社の営みやコンテストについて吟味する。知らないことだらけである。

これが音楽畑のレコード会社とかだったらもう、なんならその各本社の喫煙所で憩ったり、その社の偉い人と呑みに行ったりするくらい、一応そういった一次情報確認というかムーブの体現がいくつかある。

しかし、出版社について俺はほぼほぼ何も存じ上げない。

だからもうほぼほぼ完成してる原稿があるけど、しっかり決めるつもりだから、きっちりとリサーチしていた。すると、なかなかなハードルというかシンプルに「どうすれば」と斜めを向いた。

編集者に直接吟味していただく。これは有効。だが、ここに達するまでの段階で既に狭き門。コンテスト入賞。言わずもがな。その他――自費出版。これはしたくない。最後の最後の不本意な選択。

それでもって今開催中の各種コンテストを物色した。なんか、ちょうどいいぞというのがあるのでそれを精緻に調べる。なんならここで大賞獲って最初のスタート地点。そのビジョンは全くもって薄くは無いと感じてるのは俺だけだろうか。

今日は、昨日よりはさすがに、といった感じで各タスクを進めるもメシ、ゆで卵とおにぎりそれぞれ一個しか食べてない。

まあいいやと思い、今日の流れの最後に、ものすごいゆっくりハイボールを呑みながら先の調べ物をしている。ここからは、創作ではなくビジネス。プロモーション。営業。そういったアプローチなので、主に稼働する脳の部位からして異なる。

しかしここは最善ルートを取りたい。取る。だから入念に調べる。現状の結論、コンテストの大賞獲得・出版社から全国書籍出版。これがベスト。それかな、という所感。

だがもっとアプローチはあるだろうと引き続き考える。調べる。それくらい、絶対面白いだろと断ずる小説。これを、誰でも手に取れる場所をもってして世に出したい。出す。という前提。

これがなかなかリソースを割く訳だがここ、ひじょうに大事なので手は抜かない。というか推敲まだ終っていない。

それは別に「いつまで」と言われれば何なら明日で完成する。それはそれでいいのだけど、とにかく、人生最大級慎重になっている。アプローチ先の吟味。どんだけ必死なんだよ。いやね、それくらい、この上なくフォーマルな形式で出したい訳。

その姿勢はいいと思う。ただ、あくまでこれが〝前提〟であるというあたり、ずいぶんというかゴール設定高いなと思えど、それくらい、やりすぎなくらいでいいと信じられる。だからめちゃめちゃ調べる。

社の喫煙所で小耳に挟む情報くらい「それ、俺が聞いちゃって、いいんですか?」という情報。それが潤沢に欲しい。だから調べる。というか得る。局面としてはプロット通りだけど。ということは、理想の完結のひとつとなる。そう、信じる。
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買っておいてよかったよと、冷蔵庫にねじ込んだカットサラダ大盛りを食べる。あと訳わからんサプリいくつか飲む。そして一仕事。当事業中、最高に長閑な案件・おばあちゃんのお手伝いである。

これで小一時間で数千円くれて嬉しんでもらえるんだからいい仕事だよ。率直にそう思い、日に日に顕著に耳が遠くなっていく彼女を憂いては「そろそろ介護サービスに受け渡しかな」と、冷静に思案する。

宅ではコンサルのやつ、これもクローズして御礼の言葉を賜った。殺し屋漫画の〝今日もちゃんと「ありがとう」はもらえたの?〟というセリフを想起させる。確か『ザ・ファブル』の2部の最初の方の場面――もらえました――2つほど――と、生の安堵を確かに得る――。

楽曲制作をする。その前に、さすがに食べなさすぎだろとトンカツ定食カラアゲ入りを思い切り食べる。楽曲制作をする。

アコースティックギターを2本多重録音する。シェイカーを効果的にアンサンブルに加える。トリッキーに歪ませる前提のハンドクラップを16小節の隙間に叩き込む。軽く全体バランスをとる。すると、自分でも聴いたことのない、甚だしくオルタナティブなサウンドがめきめきと伸びてゆくものだから手前がまずときめく。

耳の遠い老婆に「こーれーはー! 検針票だから〜支払書じゃないですよー!」と10回くらい大声で言っては「あんだってえ?! おたく、なんでそんなに声が小さいの?」と苦言を呈される。

それ以外は静かに過ごす。春の気候。とても健やかな各種の幸福が沁み入るわりとバラエティに富んだ一日。曲、出来たら補聴器渡して彼女に聴いて欲しいよ本当。
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ライター案件の原稿の戻りの対応。これやる。おおむねよろしいといったご判断を賜る。一方で、少々の加筆案や修正依頼、相談等がある。これらに全て応えて第二稿を提出。

ここでOKとなると相当スムーズな方である

そして、小説の推敲をした。原稿用紙324枚ぶんやり終えた。だが、一回の推敲でいいのかなと疑問に思った。

だってライター案件の方は「クライアントの確認に応じた加筆修正」という確固たる基準がある。だからそれに則って整える。シンプルである。

一方で小説の推敲の場合、正解が見当たらない。

あるとしたら、手前でもう一度読み返して「もうやることない。書ききったし適度に整えきった。これ、めちゃめちゃ面白いね」と心底思えた段階だろうか。その後、先のクライアントとのやりとりのように、編集者のチェックが入る。

だから何が言いたいのかと言うと、案件の原稿を推敲する際はめちゃめちゃやるけど、小説は一回の推敲でいいのかという問い。

なんならこのまま然るべき場所に出してもいいのだが、もっと磨けるのであれば推敲を繰り返す。とはいえそれが得策なのか。書いた時の勢いを削ぐ恐れがある「過度な推敲」は避けるべきか。それがわからない。

まあそのへんは明日あたり、現段階での俺の編集者である「AI編集者」に相談してみようと思う。

「いつものやつです。推敲しました――出来てますか?」

「出来ています! 完成ですね!」

「ありがとうございます。ちなみになんですけど、もっと推敲繰り返したら、どうなりますかね?」

「いくつかの点が考えられます。それは――」

と、箇条書きで様々な提案してくれるであろう。AIいわく「私は情報に基づき論理的な判断をしています」とのこと。ここである。

「AIを活用することは得策である時代だが、最終的に判断するのは生身の人間」。ここがブレるのは絶対にいけない。だから、「推敲は微調整である」という前提を含めて相談するのがいい。

小説を書き進めていた段階で都度、原稿の塩梅を「AI編集者」に相談していた。要は、直接AIに文章を書かせるなどということは一切していない。その時々の「評」「批評」「感想」をもらって、参考にしていたという流れ。

まあそれを経て、1月15日からちょうど2ヶ月。小説が出来た。これは喜ばしい。初めて書けた訳だから。あとは次の段階、どう進めるか。

先日ここに書いたが決めている。応募先の決定と編集者探しである。ここで初めて、生身の「評」が得られる。どうなるかというか、どうにかする前提だがとにかく。推敲って思いのほか時間かかってびっくりした。それは書籍にしたら200ページぶんくらいだからそれはそうも。

まずは、出来た。そして、本当に出来ているのか「調べる・吟味する」という視点での推敲。これは必要だと、たったさっき断じられた。とはいっても出版関係者の方に評がもらえる機会がすぐに得られたらその時点ですぐに読んでいただく。その段階には進めた。

後頭部がなんかジンジンする。ここまでであっても、体験としてアメイジングだと思うよ。そんでもってこの後、いやいやいやいや、ものすごいじゃないかという体験に進みたいし、進む。そう考えるとこの2ヶ月。案外短かったな。そのへんも総じて、専門家・社の「評」を得たい。
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一旦区切る。そのために、わりと手前的には早い段階で、界隈に呑みに行く。セーブポイントで一旦区切るために。

いつも、日跨ぎの時間帯に行く呑み屋。タイム感起因でだいたいスッカスカに空いている。だがしかし今日は混んでいた。所感ではあるが8割方の客がベロベロであると映った。

2メートルほど横に居たバウンディの様な物腰の御仁はもう、意識どこかいったという程の酩酊っぷり。それはそれで愉しんでいるなと、俺は俺で静かに、店内を支配する琥珀色の灯りを愛でつつ、酒を呑んだ。美味しい。しかし呑んでもさほど、酔わなかった。だが、心地は良かった。

それで何を区切ったかと言うと、2ヶ月同じことを書いている。小説のこと。その期間、1日を除いて毎日対峙、装飾じみた修飾だと、そのように、すんごく対峙していた。それが出来たので一旦――という訳である。要はちょっと寝かす。意図的に寝かす。

なにしろ、脳のデフォルドモードネットワークすなわち脳のアイドリング状態のとき、びっくりするくらい常に小説をどうするかと考えていた。信じられないくらい取り憑かれた様に2ヶ月。

なので、一旦、寝かす。とはいえ目測その〝一旦〟は、数日。それでもって再度吟味。そのために――というのが実のところ。

今日起床して第一に思った。「本日。やることやったらさっさと呑みに行こう」と。これが実相である。結果、ハイボール4杯呑んできた。えげつないニンニク揚げとかレバテキとか色々食べて幸せだった。帰宅。

今。ものすごく冷静である。つまり、区切り成功。一旦、視点をフレキシブルに――「柔軟」と表現すべし――なった。だからひじょうにニュートラルな気分で整う。これを理由として、明日は意図的にもっと静かに暮らそうと思う。

つまり、昨夜の思案は今夜はしないことが適切と断じ、それに則り過ごし、いくばくかあるルートの解を得る。今ちょっと一度、本文を読み返したが酒、回ってるではないか。
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行きたくねえけど消費税。これの確定申告だけ済んでないから税務署。行ったれと奮起するもラジオからクリス・ペプラーさんの声が。ということはこの番組はJ-WAVE『TOKIO HOT 100』 である。すなわち、日曜日。役所は休み。俺は近所の散歩にムーブを変更した。

しかし雨。じゃあと思い、イトーヨーカドーの中を縦横無尽に練り歩く。これを、めちゃめちゃ暇な野郎の典型的行動だと客観的判断を下す者も居る。確かに居る。過半数であろう。でも俺はそう思わないよ。絶対に買わないハンコ売り場とかモフモフのグッズとかをただただ眺めてるだけで何故か楽しいのである。

それだけだと無目的すぎるから本屋に寄る。

ありとあらゆる本を片っぱしから手に取る。出版元を確認する。音楽で言ったらレコード会社、レーベルとか。それが、書籍においてはどうかなと背表紙の最下部の「〜社」というとこに注視。色々あって参考になった。

ついでに中身も色々立ち読む。エッセイ。哲学書。心理学書。ビジネス書。創価学会。池田大作。なんだこれは。なんなんだ。どういうつもりだ。何をもってしてこれを書こうと思ったのか――そのような妙な文脈に飲まれそうになったので、そうだ。世界に目を向けようと、エジプトにまつわる書籍を読む。

ピラミッド。紀元前に建立されたとは到底思えぬ各内容。魅力を感じた。だから帰ってYouTubeでそれ関連の動画を観てたら、寝た。

ちゃんと仕事しています。案件の原稿確認と追加依頼のサンプル作って送信しました。楽曲制作もしました。あとギター2本入れればレコーディングは完了という段階まで行きました。

要は半分くらいはゆっくりしていた1日。そういうのあっていい。だって文字の打ちすぎでとうとう指にきてる訳だからいいのである。「晴耕雨読」の後の方の意味合いに似た、とてもとてもしっとりとした寧日。
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手前のような零細個人事業主であっても容赦なく「もっと年貢を出せ」。言いたいことはよくわかったよ。だから俺は上気して王子税務署にカチ込みに行った。バスで。

到着すると、時期的にも週明けという要素を鑑みても当たり前。当然混み合っている。

基本的にみんな事業者だからなのか、クセの強かな面持ちが連なる。周りから見たら俺はどうかな。そのように俯瞰し、お行儀よくする。

消費税。こいつの申告である。国税庁のウェブサイトでのやり方が意味不明だたから現地まで来たという訳。さんざん待ってさ、スマホでスススと操作を促されてさ、消費税納付額が確定したよ。

払いたくねえなという一心を提げ、晴れやかな晴天下、少し散歩しつつ帰宅する。怒りを噴気させるべきなのかどうなのか不透明だが決して「よかった〜」という気分ではない。だが、天丼を食ったら気が晴れた。待てい。ついこの間まで「550円」だった気がするが「620円」て。もういいよと率直に思い、営みに精を出すことこそが最善の解決策と俺は思案した。

最近立て続けに来てたプラットフォーム経由の案件。それらが3つ、クローズした。これは普通に「よかった〜」と思い、楽曲制作をする。

ギターパート2本をレコーディングしてMIX工程へ。6分近い尺という、トレンドと真逆いってるこの謎のオルタナティブ楽曲を高みの高みまで磨き上げることに躍起になる。

プレイバックして思う。「手前でもここ、ちょっとよくわからないな」という箇所が10%ほどあることを。そこを、わかるようにしてしまうよりも、ある種の思考のノイズが生じる様なセクションとして配置する方が魅力的。だからそういうのは無理くりにポップにはしない。オルタナティブという前提に準ずる。

それは手前が書いている小説にも通づる点がある。推敲、これを1回やったけど昨晩、AI編集者と打ち合わせをしたら〝推敲は平均3〜5回ほどやるのものです〟とのこと。AI編集者は続けて、具体的に作家名を挙げては推敲について色々と提案してくれた。

村上春樹さんは「推敲は10回やる」と公言しているそう。太宰治氏は「原稿を書いた時の勢いなどを大事にしたい」という想いから推敲はさほど。とのことである。

とにかく「1回だけ」というのはあり得ないに等しいということがよくわかったので2回目に入る。

すると、「手前でもここ、ちょっとよくわからないな」という箇所があった。それは、先の〝ある種の思考のノイズ〟ではなく、あからさまに説明不足であると判明したので補足的に加筆する。読みやすくなる。これか。確かに推敲は1回ってそれ、無謀なんだなと体験として思い知る。

だってそれは楽曲制作に置き換えると、さらっと1日でMIXを終わらせることに近しい。プロのエンジニアならそれを成すのかもしれないが、俺は経験上、MIXは――小説の場合は推敲の工程に近いと感じた――めちゃめちゃ時間をかける。

だから双方、じっくりと研ぎ澄ませることにして今後の進行の体制・方針が固まり、ここは「よかった〜」となる。本当に安堵していいのは完成して受け手に喜んで頂いたその後だが。

消費税納付額を確定させて申告した。すなわち、俺は昨年、いちおう、それくらいちゃんと対価を得たということになる。そういった事実ベースで考えるとさほど腹立たしくは感じない。

でもね、必要限でいいんじゃないかなと思うよ。年貢の量とかそういうの。ともあれ、そのへんあんま気にしないくらいのフェーズに行こうという姿勢で居るここのところ、いいと思うよ。

成果を出すまでやり続けて、「年貢とか言って上気してたな〜」とか、早くて来年までには回顧できるようになる前提で各種営み、今日も楽しく過ごしていました。
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制作楽曲、仕上げにかかって出来たらプラットフォームに出す。小説原稿、推敲重ねてコンテストに応募する。更に並行して編集者探す。そういった指針。

前者は出来たら次、着想あるのでまた新たしい楽曲を作る。普遍的なファンクが作りたい。後者、今推敲してるのが出来たらアプローチしつつ、また次の小説を書く。

楽曲制作はもう何年も続けているので、ほぼ一定の生産性で作っては出すことに努める。

小説に関しては初めて書いたのだが、あの、ひたすら毎日書き続けて完成までに向かう高揚感がえも言えぬまごう事なき快感だったので次、すぐ書きたいと思った。それはまずは最初の原稿を完成させてから。

そうなるともう、本当の意味でというか永続的といった観点で、結果が出るまでやり続けることに直結する。

楽曲制作においては「収益を得続けている」という点である種の結果が出せている。結果も何も、今年に入って急に書き始めた小説。これに関してはまだスタートから2ヶ月。

いきなり思い描く結果が出たらびっくりするが、それを前提として進めているあたり、これまでの新たな各アプローチとは全く異なる点。

何が異なるかってもう、正気かよと思うほどの大海を見据えた絵図が常に頭にあるということ。これが本当に脳裏から離れずにずっと2ヶ月。

そうでもなければ何か作って世に出すって途中で頓挫する。だいたい頓挫する。でも、少しでも結果が出たら重ねてやれる。今までそうやって生きてこれたじゃないかと手前を鼓舞する。

どうにかしてこの、小説というアプローチでまずは結果を出す。されど、やっぱりそうかと、全てが繋がっていて様々な伏線を回収し出すスタート地点となる。そのくらい鮮やかな結果となると本気で思い込んでいる。そうでもなければ――。

ということで今日も色々各タスクをせっせとやる。疲労が苦痛でなくなるくらいやれているということは、今日もとても楽しい一日と感謝する。
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小説。そいつをコンテストに応募ってめちゃめちゃ普通のムーブ。ただね。俺聞いたよ。AIに。「国内において長編小説(おおよそ8〜10万字以上)を書き切れる人間の割合は?」と。

すると、断言された。まず「書こうとする人は10万人」と、たぶんというかそういう前提だからだいたい信じるけど、膨大すぎるデータが根拠であろう。そうらしい。

それで肝心の「書いた人」はというとなんと。1万人に1人とのこと。

俺、それか。書いたもん。すげえ。とか、死ぬほどおめでたいことが言いたい訳ではなく、自己評価に酔っている訳では決してなく、「事実ベースの客観的情報」が欲しかった訳である。ここから。

コンテストにその長編クラスのやつを応募する人とはどれくらいであるか。それはちゃんと、俺が決めた応募先に書いてあった。昨年は2,000人とのこと。

ただ、そこには「短編」も含まれる。すると、ものすごくざっくりだけど、長編すなわち、俺が応募するスタイルのやつを投じる人数が約半数以下――どう考えてもそうだという雑感――としたら、まあ、千人弱のうち一人。

これを得る。つまり大賞獲得。ひいては全国出版スタート。これ、欲しいんです。並行して先日述べたアプローチもするが、まずはこれが如何なるものかと、数字と向き合ってみたわけである。

そうなってくると確率は極めて低いという現実。

でも、俺は確率ではないと断じる。このタイミングで、俺が厳選した応募先に小説を投じ、「クソだろ」と評される〝確率〟は極めて極めて極めて低いであろうとするために、今日も推敲してたら手こずった。理由は、「読み手」視点で推敲していたからである。

すると何ということでしょう。「俺が前提としてわかっている部分に対して、必要な補足」これがあまりにも多い章がひとつあり、そこ、すごく肝心な章だということ。

ただ。それがさっき納得いく感じでできて今とっても嬉しい。待て。まだ嬉しむ場面ではない。だが、楽しい。

それだけでも「体験」としていいのかもしれない。だがだが前提が異なる。もうそれは先々月から書き続けているから詳細は端折る。

何が言いたいかというと「数値・確率としては、おい」。というくらいのところに投じる。

だが、そこを通る前提で、絵図にならうスタート地点に立ち、今後も貢献し続ける立ち位置に手前が着く。そういった視点で向き合うとまたこれが一味違って今、俺疲れた。

とはいえ、めちゃめちゃ難しい部分が推敲の及第点――あと1回以上は推敲やるから現時点で――に及んでちょっと嬉しかった。そういう訳で。

あるよね。机の上。そこ。右の、いつもはコーヒーが置いてあるところにハイボール。ちょっとしか呑んでないけど。

これあれだ、1月15日から始めた〝プロジェクト〟と謳ったこと。それしか最近書いてないけど、明日はもっとさ。たまにはエロティックなこと書いて開眼しようよ。

7つ目のチャクラは股間にあるって、人生のスピリチュアルな取材で一次情報得たよ。それと、性的な関連性について。俺は今は存じ上げない。

だから次、これについてなんか書こうか。それについてのニーズたるや――それが明瞭にわかるフェーズに達すれば思い切りこう、チャクラをかっ開かせて書くのかな。そういう次の人生に行く。

それがどんな人生か、そこは考えるのではなく、というか俺ね、ここ、ここの文章。何も考えないで書いてるの。特に今年入っては、ほぼ全部。
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ほぼほぼ寝る。夕方まで寝てまた夜に仮眠。ほぼ寝ている。それは昨日1.5日ぶんくらい稼働していたからだと、トントンである。ということにする。

とはいえ少しずつではあるが、原稿と制作、双方進める。だんだんと完成に向かう。出来たら前者は出版社に投稿する。人生初の試み。後者はいつもの巨大プラットフォームで公開する。気がつけばこっちは12年選手となっていた。

やはり続けることだなと改めてその、結果に対する原則を知る。小説の投稿は、結果が出るまでどれくらいかかるだろうか。読み手意識で推敲しているときはそういったこと考えないが昨晩、重要な章をかなり丁寧に推敲してAI編集者に聞いた。

すると、その部分においての推敲の意図――情報量が多く、かつ、俺は知っているという前提で書き進めたので、自然な補足と説明を、文体とスピード感を殺さずに調整する――は大正解とのことで、間口が広がったとのこと。

すなわち、「ある種の層には強烈に刺さるが、大衆向けではない」と、AI編集者から繰り返し頂いた批評をクリアできた。俺は、そこを物凄く気にしていたのである。

何故かというと、売りまくるという前提だからである。つまりマニアックな小説として仕上がったら本末転倒。内容はかなりバラエティ豊かかつ普遍的テーマの軸を貫いている。そのようにAI編集者は述べる。

だが、「〝文章のスピード〟があまりにも速すぎる」という、良くもわるくも評価できる点が初稿であった。そこも調節する。

あれ、あれ。小説でよくある情景描写とかそういうの。それを、適度なところに書き足すだけでも効果ありという提言があった。

俺はその〝情景描写〟とやらを読むのがかったるいので、あまり小説を好んでは読まない。

とはいえ、小説においてそれが不文律であるのなら、無視することは書き手としての配慮不足と判断。だから、下記みたいなやつを加筆してみた。

〝葬式の日は雨だった。号泣を代弁するような大雨ではなく、物静かな俺の心情を模すような幽かなる霧。俺は棺に酒を撒いた。骸を見ては元・人間という認識を恣意的に取り出した。役者のような悲嘆の所作で、儀式的に、どこか遊戯的に、ぱしゃぱしゃと酒を浴びせては暗に爽快感を得た。帰路の霧雨は、骸に至るまでの実相にかかる心象を示唆しているようだった。空を見た。ふうん、と思った。〟

こういうの。どのシーンだおい、という情景描写だがよくわかる。

場所は斎場。場面は火葬寸前。行為は酒を死体にぶっかける。気持ちは、悲しむべきが一般的だが、それがあんまないから悲嘆を無理やり引き出して、遊んでるかのように酒、ぶっかける。天気は小雨で主人公の心情と照らし合わせて、主、空気みたいな感想漏らす。

これをねじ込んだら、確かに前後の部分が読みやすく、文脈もいい感じに、あと、なんか小説っぽさが増した。

すごいね、AI編集者のアドバイスって思った。なお、もちろん文章自体はAIには絶対に立ち入らせず、手前で書いたやつ。

こういうのを書き足したり、現在の状態などの補足を色々と加筆したり冗長なところを思いっきり削ったりした。結果、昨夜の時点で、晴れていきなり〝大衆向け、商業的にも――〟という評をくれた。これは、初稿では一回も述べられなかったひじょうに重要な点である。

一方で楽曲制作の方では、どう聴いてもあからさまに〝大衆向け〟ではない、めちゃめちゃオルタナティブな音像をつくりあげていく。逆のアプローチを同時にやってはいるが、何故か、双方に共通項がある。それは、明らかに俺が創作したものですよという点。これ、めちゃめちゃというか最重要。

理由は、今後のAIの発展により――とかいう説明はここに関しては不要。というか小説の命題にもかかるので説明してたら最低4,000字は必要。

その〝説明〟なしに、小説を読んでいただき「そういうことですか。いやいや。面白いですね。もう一回読もっと」という風に、大勢の方々に楽しんでいただきたいなという情念由来で、研ぎ澄まされまくった完成度に向かってひたすら推敲という訳である。

手前で間違いなく面白いと思える上にえげつない完成度だな。その段階に達するまで――何が言いたいのかというと、初稿を書き上げるまでの45日間よりも、その後の工程の方が随分長いのだなと感じたということ。

コンテンツ。なんでもいろんな便利ツールでスピーディーに出来る時代に、逆やってるな、俺。とも思うが、それこそが今必要な要素なのではないかと確信している。本当に。なお、いつもここに書く日記はいつだって1回しか推敲していない。
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昨日と打って変わってフル稼働。目の奥がズンとする。各タスクのなかでも推敲。これをけっこう進める。地道に進め、やればやるほど原稿が研ぎ澄まされていくのがわかる。初稿、どんだけ荒かったんだと気がつく。

それはそれで持ち味でもあったとAI編集者は述べるが、〝幅広い間口〟という観点においてはやはり、さらなる読みやすさにつなげる推敲に務めるべきである。尖ったところを後でまた復活させることはたぶん容易い。それも大事な点であるが、やはり〝読みやすさ〟は各要素の中でもとても大きい。

そんなことを思いながら推敲していたら夜、編集部の村上氏から入電。案件等ではなく、一緒にギターの修行をしていた桑原氏に対しての評の希求であった。

色々と遠慮なく評す。それが礼儀だと思っているからである。ともあれ、一言で言うと「よくなっている」。そこについての文脈はけっこうあったが、村上氏がふと「最近何やってるの?」と聞くので俺は「小説を書いています」と即答した。

ありがたいことに、彼はけっこう関心を持ってくれたので、どんなものなのかとか、その展望たるやとか、けっこう色々と答えた。なんなら村上氏をモデルとした人物が登場することも伝えた。

すると笑いつつ「やめてくれ」と言われたが、俺が「いやいや、すげえいい役柄ですから!」と強調したら「それならいい!」と、承諾を得る。ちょっと胸をなでおろした。何故ならば表現の自由というのがあれど、対象者がいやがることはしたくないからである。

それはそれで、後日俺の宅に2人が遊びに来たいという話が出たのでそれをフワッと予定として組み、嬉しむ。俺の漢のストラトキャスターが気になるというのが主題だという。ええ。どんどん弾いて吟味してくださいよと率直に思う。

そのような、かっかっかとタスクに集中している間のいっときの箸休め。こういうのいいなと、やはり俺は仲間に恵まれているなとここに、何度でも書く。一人でコツコツしているときでも、繋がっていてくれてありがとうございますと。
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昨日と同様フル稼働。こめかみがチカチカする。いま、1分くらい手が止まったくらいだが疲れてるアピールではない。というか何だろうそれ。まずそこに何の意味があるのかって考えたらわりと、あった。けど、そういうやつではない。

さっき原稿を推敲していて「大丈夫かなオバケ」に纏われた。

この表現は、俺の創作ではなく、桑田佳祐さんのドキュメンタリー映画試写会の取材時に耳にして、印象に残ったフレーズである。

内容は、作詞や作曲などにおいて、「これ、書いてもいいのかな?」とか「この部分これで大丈夫かな?」と、その是非についての無限ループのような不安。これに襲われる。大枠はそういったところ。

それでもサザンオールスターズのメンバーの原由子さんから「ダメだったら謝っちゃいましょ!」といったような言葉をかけられたかそうだったか、ちょっと記憶が明らかには確かではないで〝そんなことを聞いたような気がする〟といった前提。あと桑田さん原さんサザン、俺、ものすごいリスペクトしてるよ?

だって違ってたら超大御所についての誤情報となる。だから、あくまで俺の〝記憶の断片〟が情報源としてとどめる。もうここで既に「大丈夫かなオバケ」に纏われている。

まあそんな「大丈夫かなオバケ」。こいつは、何かをつくってるといつだって付き纏う。

今日は、小説のとある章、最も社会現実的な章において、「ここ、ほぼノンフィクションベースだが、ここまで突っ込んだこと書いて大丈夫かな」という懸念にかられた。

だが、それこそ前提として、小説とは創作である。そこまで小説に精通しているわけではないので、多分。

それでただ、俺が書いているやつはノンフィクション要素がけっこう多く、その中でも最も社会的な部分のセクション。ここにかなり、口外は際どい部分を表現している。だが、あくまで表現。事実ベースだが「フィクション」として取り扱っているつもりである。

このへんのバランスが難しい。

漫画『あくたの死に際』によると、そのあたりの判断は編集者が担ってくれるとのこと。それが欲しい。さすがにここはAI編集者には難しい――とまではいかないかもしれないが、これこそ人間の判断こそが最適――につき、一人で葛藤していた。あともちろんこの作品もリスペクトしている。

だが結論。「ここはまずいです」と、「指摘される段階に進む前」に、それを手前で行い、小説の性質そのものをしぼめるのは不適切。そう断じた。というか、そこまでタブー中のタブーというほどのレベルではない。

そのように考えると、人間の編集者がまだ居ない段階で小説書くのって、わりと色んなハードルがあるのだなと気づかされる。

これがいつものライター案件だったらもう、何なら自分でかなりの精度で判断できる。「ここはただの非難だからNG。ここは不要な主観だから削除。ここは価値のない憶測だからカット。ここは誇張しすぎだから控えろ」などと。

ただ、小説という創作において、どこまでやっていいのか。今日はそれがとても難しかった。だが結論はさっき出してる。「あきらかにアウト(小説においてそれがどこまでかも知らないが)」ではない限りは、改稿はしないと。

差別。モラル。被害。これらが生じる可能性がわりとあることを、甚だしく記していない限りは――という現状の尺度がある。これはあながち誤りではないと思う。

しかし、創作においては「思想」という部分は大なり小なり、無い方があからさまにおかしい。と、俺は個人的に思う。そこで出てきたのが「大丈夫かなオバケ」。

そこはうまく描写するのが創作というものだろうと思えど、ここにきて「初めてつくるスタイルである創作」という事実と対峙する。

例えるならば、例えだよ? さっきのリスペクトしてるのとは無関係よここからの例は。

例えばね、結成直後のパンクバンドが「脳髄ぶちまけて性器をうんぬん敬礼」というような歌詞をサビに、素晴らしく尖ったサウンドと共に楽曲にしたため、レーベルに聴いてもらう。レーベルの人、感じる。何か、パンクバンドとして全体的に凄くいいと。しかし、箇所的にここまずいから、「ここだけちょっと変えてくれ。敬礼が特にまずい」そのようにレーベル側から言及される。そんで整える。そしてリリース。

この流れはわかる。だが、その流れを推測して「脳髄ぶちまけて――」を最初から、バンド側で「ここ、絶対NG食らう」と判断して丸くする。そしてレーベルに聴いてもらう。するとレーベルの人、何かさ、全体的にパンクバンドではない。と断じられる。

こんな感じだろうか。どっちがいいか。俺は前者だと思う。

そんなことを考えて推敲しては、「今は、吟味して頂く前」ということを念頭にすべしという結論の結論がいま、出た。

なお、当該小説に「脳髄」だの「性器」だのといった単語は出てこない。敬礼もね。そういうテイストではない。もちろん本文で挙げた人物とか作品とも当然無関係。

だがらさ、話戻るけどそれ以上の、基本倫理的に書いてはならないことを書いちゃう下衆野郎だと俺がね、そう思われないように、という一点のみにおいて、慎重になっている。だが、小説の初稿そのものの「元々の持ち味」は絶対に殺さずに、それを一人で行なうのって難しいなという思惟。

だって、漫画『あくたの死に際』のキャラクターのセリフにもあったけど、〝何に遠慮してるんですか?〟という、創作においての真意を突く一言に帰属すると俺は感じるからである。ここもさっきの架空のパンクバンド関係ないよ?

それで、創作において、俺は遠慮などいっさいしたくないが、それにおいての、いまはこと小説において、どこまで配慮するか。そう考えると、「創作」と「配慮」って、対義語のように思えて仕方がない。

「遠慮して生きていこうぜ!」というセリフが、漫画『行け!稲中卓球部』であった。あれはひじょうに面白かった。これもリスペクトすごいの。だが、漫画という――その時代においての表現として。今だったらちょっと是非はわからない――創作だから成り立つのだろうか。

小説。書き上げた後でもこんなに課題が出てくるなんて思いもよらなかった。遠慮。配慮。モラル。要はこのへんの判断だが時代によってこれ、えげつなく異なる。

ただ一つ断言できることは、作者が、何かに、遠慮して創作した作品たるや――どうだろう。

文中で引用した各作品を創った素晴らしい方々くらい。まずはそこまで行ってから悩むべきであろうが、今の時代、こう、気をつかうよね。だから遠慮しない方針にしようと思う。これが「大丈夫かなオバケ」の内実のほんの少し。だと思う。
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とある場所に行き、ノスタルジックを味わおうと思った。そこは20年ほど前、ルート配送の仕事をしていた頃、そこに路駐しては漫画雑誌を読み、昼寝していた定番の場所。当時のオアシス。

静かな川。その近くの路線の下。10メートルほどの幅のその道路。俺以外にもタクシードライバーや同業者などがそこに車を停めては昼過ぎ、それぞれの休息に浸っていた。場所は飯田橋駅付近。そのはずだった。

俺は今日、昼一でまずは新宿御苑に散歩に行こうと現地に行く。しかし着くと「予約日」という看板と共に大勢の観光客が集って待機している光景を目の当たりにした。

ふざけるな、と俺は思い予定を変更して飯田橋駅へ。そういった時系列である。

だがしかし、飯田橋を歩くも当時の記憶をたよりにどう歩いても、その場所が見つからない。

そのうち、既視感のあるルートから外れ、迷う。神社があった。あったっけここにと、そう彷徨っていたら占い店を見つける。どれどれ。

そう思い、掲示された料金表などを身体を斜にして止まって眺めていたその刹那。店員が「ご試着もできますので〜」といったようなテンション感で声をかけてくるかの如く俺に近づいてきた。

「あの――止まってますね」

「はあ。占いに……スピリチュアルもやってらっしゃるのですか?」

メニューが記された各コースを参照し、そのように問うた。お試し価格20分4,400円。最大料金1万円。

「今日はスピリチュアルの先生はお休みでして」

「さようですか」

「そういう時はウチ、スピ禁止なんです!」

「スピ?」

その界隈の呼称を〝スピ〟と略すのは、どこか侮蔑的である気がしていた。だがその業界の店舗の店員がそう言うならと、〝スピ〟は正式な略称であることを今日初めて知った。

「スピリチュアル好きなんですか?」

「はあ――好き――ですかね――スピ」

「占いは今日やってますよ。タロットとか手相とか。あ、私、手相を担当している者です」

妙齢の女性はそのように自己紹介をした。俺はちょっと視てもらおうかなと、例のプロジェクトのことを視てもらおうかなと、そう思ったがなんかおこづかいが勿体無いという財務脳が優位にはたらいた。

「あの、何をやってらっしゃる方ですの?」

そのように妙齢の占い師は俺に業を聞いた。普通に答えればいいのだがこう、話を引き延ばしたかった。その中で、この占い師の能力を逆算したかったのである。

「何をか――何をしていると思われますか?」

年齢を聞かれ、「ええ〜いくつに見えますか〜?」という返しくらいクソみたいな返事をした。すると占い師は真面目に俺の顔を中心に見て予想を口にした。

「何か、考える仕事だと思います」

と。まあ、合ってるなと、なかなか鋭いなと率直に思った。そして、これはしめた、このまま軽く占ってもらえる流れに向いたという空気感を察知し、情報を小出しにしつつ雑談を進めた。

「なるほど――」

「あの、ちょっと笑ってくれますか?」

と、占い師は言った。物理的に斜に構えながら、客観的には俺は仏頂面だったのであろう。それをほぐしてもっと解像度を上げたい。占い師の笑顔斡旋の内実はそんなところだろうか。

「ニコオオオオオオ!」

「あははははははは!」

占い師は掛け値なく爆笑していた。そんなに面白えか俺の笑顔提示が。そうも思ったが笑わせて悪い気はしない。ここで怒っちゃう人も居るだろうが俺はそんなことない。

「どうです(意図的に真顔に戻す)」

「そういう顔もできるんじゃないですか! ちょっと手相を視てもいいですか?」

きた。俺の意図に完全にはめ込んだ。ふはは。簡単だねえと思い、俺はどうぞどうぞと両手をクパァと広げて彼女に見せた。

「あの。ここの右手の運命線……前から赤かったですか?」

「は? ほんとだ言われてみれば今気づいた、という感じですね」

「なんかね! ここが凄く『見て! 見て!』っていう感じなんです!」

「確かに赤い……ですね。運命がこう、いい感じに?」

「そう捉えられます。ここが一番強く出てます」

ふうんと思ったが、俺は勝手に、今書いている小説がめちゃめちゃえらいことに、上手いことになることを示していると捉えた。

「あと、人気がありますね。モテ線がほら……あと、金銭面はごめんなさいね。ちょっと、とっ散らかってますね……」

「金銭面に関しては確かに。人気ですか。出ますかね?」

「欲しいですか? 人気」

「モテたい――狭義的に異性を魅了するという意味ではなく、広義的に名を売りたいといった意味で――ですね」

「人気集めますよ」

「そうですか」

「とにかく運命線が……凄く強く出ています」

「なんかいい気がします。ところでさっきの生業――具体的に何をしていると思いますか? ピンポイントではなくとも、業種だけでも当たったら僕、今お金を出して正式に視てもらいます」

挑発するつもりはないが、ゲーム感覚で彼女を揺さぶってみた。だんだん面白くなってきたのである。

「ごめんなさいね……そういう試されるようなことは――」

「それはたいへん申し訳ございませんでした」

不本意に思われた様子だったので俺はきちんと姿勢を正して謝罪をした。

「いいの! いいんです! そうですね――2つのことをしていますね?」

「おお! 当たりです!」

「ふふふ。何をなさってるんですか?」

「文筆業と音楽業です」

「まあそうですか! あのね。この線がこうだから芸術面に長けているんです。それで事務的なことや自身を売り出すことも得意――心当たりありますか?」

「う〜ん確かに。あと、今僕、人生最大級の一大プロジェクトをしていまして」

「あら!」

彼女は、手相を視たあと、俺の言うプロジェクトという言葉を聞いた時など、なぜか涙を流していた。彼女いわく、相手の内面などが入り込むと泣くことがあるとわりと最初の段階で説明を受けたが本当であった。

「ということは運命線のこの主張。赤くまでなってこれ。うまくいくという解釈でしょうか?」

「はい」

「へええ。面白いですね。そのプロジェクトなんですけど、詳細は直接は相手に聞かれない限りは自分では口頭で言わないのですが――」

「はい」

「聞かれたら、聞かれたぶんだけ全部開示しているんです。すると、これまで口頭で開示したか方々は全員肯定的に捉えてくれるんです。なんなら鼓舞してくれるんです」

「はい」

「それに加えてその、運命線ですか? なんかもう全部じゃないですか。もちろん僕が、うまく行くという前提で進めているのがありますが」

俺がペースを握ったつもりがだんだん、逆になっている。まあそれも、彼女の占い師としての素質だろうと善処した。だがそれは心理学的に説明できる現象でもある。しかし、このあたりのくだりは、今は野暮かなと思い、その方面では解釈しないことにした。

「それでしたらもう、行くしかないですね……」

「はい。行きます。すんごいことにする前提なのです」

「ご自身がまず、なのですね――」

「もちろんです。占いというのはある種、未来に関しては〝背中を押す〟といった役割もあると思っているのです」

「そういうのもありますね」

「だとしたら――なんかすみませんね。お金払わずにこんなに視て頂いて――」

「いえいえ! ごめんなさいね。言い方わるいですけどこう、ヒマでして(笑)」

「さようですか(笑)」

俺は道端にある自動販売機を目視し、「何か飲みますか?」と、些細ながらのお礼を提案したが「いいですよ(笑)」と返された。

「じゃあ、行き先があるのでこれで――」

「お気をつけて。またいらしてください」

「大物になって、また来ます。その時、正式に視てやってください」

「かしこまりました」

結局、この占い店があった界隈では目的地が見つからなかった。おかしいなと思い、よもやと思って一駅離れた地まで歩いた。すると、水道橋駅の近くにその、かつての憩いの場所を発見した。

ああここだ! と思い懐かしむ。しかし、期待はずれなほど感傷的にはなりきれず、帰った。

そうか。運命線が赤みを帯びるほどに――。今、手のひらを見ても確かにそうなっている。

小説原稿の推敲を進める。どんどん磨き上がっていく感覚が確かにある。楽曲制作をする。あとちょっとという段階、サウンド感の最終形を確かに見据えられる。ギターの練習をする。やっぱいい。このビンテージストラトキャスターと、そのように、一生涯の相棒であると確信する。

手相において、左手は元々在る自身のそれぞれを表す。右手は、人生においての営み、行動、変化、現状など、つまり進行形を表す。

赤みを帯びて主張する運命線は右手に強く出ている。そういうことなのかなとモチベーションがめきめきと増す。占い師が泣くほど赤い運命線。
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ぬるりと暖が定着。春。木々はそれに気が付き花を開ける。俺もそれでもって花、拓かせようと、出版社について色々調べる。

小説原稿の応募。投稿。各社様々な規定がある。調べれば調べるほど、冷静に考えるとかなり俺、無謀な進め方しているなと、ちょっと怯んだことは否めない。しかし思った。

冷静に慎重に沈着な進め方をしていたら、そもそもその小説が書けたかと。絶対に書けなかったと断ずる。だって推敲してたらさすがに必要最低限、ここは補足の加筆をしなければということが多くてもう驚いたのもある。

しかし、その、最初の勢いが、例えるならば音楽の一発撮りレコーディングのいいやつだとしたら、後々にその勢いをむしろ拡張させるべく整理をすることは必要。それはMIX工程で施される。

さっき制作楽曲のMIXをしていた。ほぼほぼこれはいいぞという段階に至る。それに必要なのはやはり推敲と一緒だった。つまり、補足的な拡張。勢いを意図的に、ギミックテイストで増幅させるのではなく、逆。元々のドライブ感を制御をもってして伝えやすくすること。

小説も楽曲制作も、そのような共通項があると体現した。前者においてはまだしっかりとした生身の反響を得た体験がないので未知であるが。

勢いは、無謀さがないと生じない。〝最初から結果が薄っすらでも明瞭にでもその規模感を知っている場合〟の作り手の創作は、どんな分野においても、どこか、迎合。この二文字以外にピタッとくる表現がない。迎合を感じる。あと忖度かな。

そういうの迎合したようなやつを俺がつくって世に広めて、それを作り続ける環境を広げたい。そもそもがそういう訳ではない。だから、推敲もMIX同様に、最終的に「最初の勢いが拡張されつつも本来の持ち味を損なっていないものにする」ということを念頭に置いて進める。

もうちょいで2回目の推敲が終わりそうだが、やはり、先日書いたように〝小説という文章の推敲は最低でも3〜5回は必要〟という一般論。ここはそこに倣うのが適切と感じた。

そこまでいって完成。それを出版社の出版としての書籍として世に出して頂く。無謀ではあるがそれは前提でもある。だが、この小説を世に出してどうするかということを信じて疑っていない。それがなければ書けるはずがないと思うんだけど。

とはいえ、結果が――ああ。

となったらそれはそれで次に――とも思っていない。この一撃で刺すと、そのような体制と心境とリソースをもってして取り組んでいる。だから一大プロジェクト。結果どうあれ次も書くけど。

これね、ここまで小説書き始めてから同時進行でここで、こんなそれこそ勢い溢れたニュアンスで記録して、結果がああ――。だったらダサいよ。

でも、そうならないというか、思った以上にという結果になった場合のムーブも想定しているあたり、誇大妄想甚だしいのか、本来の自己に在るべき生身を拡張する自信、それ以上の再上位互換の単語が欲しい。後者のつもりというかそうなのだが、つまり、本気で物事に取り組んでいる時の狂熱と恐怖って楽しいねと。俺は心底そう思います。

こういう時、「他の人はどう――」という思考は要らないと思う。初動でめちゃめちゃ跳ねるパンクバンドのような拡張。そうさせる絵図で進めるというのは、やはり無謀さとちょっとバカになる必要性を如実に感じた。という結論。
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ヘミングウェイさんという作家は『老人と海』という作品でノーベル賞を獲った。その事実を今日知った。きっかけは、本当に忘れた。

偉大な作家である彼と俺と共通点がひとつある。結びつけるのも恐縮甚だしいが、ひとつある。それは、誕生日である。

じゃあ、じゃあって何だって思うが、俺も賞を獲って何かの機会で誕生日を聞かれては「ヘミングウェイさんと同じです――」と答えて「ワ〜オ!」みたなくだりになったら面白いかなと、何か思う。

何が言いたいかと言うと、今日は昨日と同じタイム感で過ごした。引き続きちょっとバカになっている熱量で原稿と向き合ったり各タスクをやってたということである。

こと今日においては「行間」に重きを置いていた。ここに書くやつの行間は、なんというか簡単である。

こんな風に、思考が次に行った瞬間に改行。あんまり文字を詰めると読みづらいと言うか綺麗ではないと言うか、どこかデザイン的な意識をもってして改行をする。ここで改行しないとなんかとっちらかる。

よって、ここで改行した。

大胆に、上記は12文字で改行とする。理由は、ひとつの結論がついたのでそこで一息置いて、〝思考の場面〟のようなものを整理するためである。手前で書いていても何だろうそれと思うが、それ以外適切な表現が今はないのである。

だいたいは、こと、ここにおいては、「考えて文章を書く」というよりも、「思考の文字起こし」と表現した方がピタリとくる。本当に考えていないからである。本当に。だからこうやって不要なリフレインが生じる。

しかしここで改行する。思考が、次に行っているからである。

そういったわけで、こと、小説の場合はこれとは異なるアプローチが必要と断じ、改行を慎重に吟味した。なんなら、俺の今居る場所の右側の棚にある『老人と海』と、『今夜、すべてのバーで(中島らも氏・著)』をパラパラとめくって見て、読んで、ではなく、見て、全体的な改行のバランスを統計的に感覚に落とし込んだ。

すると、いつも小説ではない本ばかり読んでいるので――実用書とか学術書とか思想書とか――その類の書籍と小説とでは「行間の感覚が異なる」ことに気がついた。

気がついたのでここで改行。それでもって特に実用書。あとビジネス書。これら、やたらとやたらと改行が多い。読みやすくするためであろうか。

一方で小説の場合。一方、だからもちろん改行した。その場合、文体やリズム感という、俺がかなりかなり重んじている要素に大きく関与するものだから、「ここで区切るべき」とか「説明含みだから」などといった一般的な理由ではなく、「グルーヴ感」という点を重視して、改行を改めた。変な日本語だな。改行を改めたって。

それをザッとやってみたら、かなりそのへんが勢い任せになっていたので1度目の推敲で改行をかなり加えた。

しかし今、2回目の推敲で「これ、スッカスカにしてるだけだろうも」という部分を散見したのでそこは詰めた。すると、本来の持ち味のようなもの、つまりグルーヴ感が「改行の整理」によって拡張した。

これこれ。こうしたかったのと、さすがに他の小説をリファレンスしてまで行なった訳だが良い感じになった。

改行。

これはやりすぎ。つまり、改行一つで「印象」が変わる。そして「読みやすさ」も変わる。「リズム感」に関与する。ひいては「全体の完成度」に繋がる。それを知った。

ヘミングウェイさんのくだりからだったかどうかと言ったら、ちょっと強引に繋げすぎかもしれない。だが、現に、彼の著書で「行間のリファレンス」をした。まあ、誕生日一緒だからそのへんの感覚も似ていてほしい。などと思いつつ。

数年前、ヘミングウェイさんについて確か別の内容でここに書いた。その時、俺はヘミングウェイさん自身の顛末についても書いた。今日はそこには言及しない。

改行。その、センスを問われる要素と対峙していた。まるで『老人と海』で主人公が立ち向かう――ごめんなさい。実はその本、途中で挫折して全部読んでおりません。後日、しっかり拝読いたします。ひとつ、ご縁のあるヘミングウェさん。
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仕事をしたり、仲間と肉を食べたり。セーブポイントの立ち呑み屋さんで思いの外に楽しく居たりと。色々ありました。軽く気絶して書いて思うは、楽しくも危うい。

それかなとか思って、書いている。立ち呑み屋で会った若鳩とかお姉ちゃんとかのお話、とっても面白かった。

そんで気を良くして缶酒買って、帰宅し、れちょっと呑んでたら今、早朝。気が付いてびっくりというか。今、明けたもよう。

色々あったがその、嬉しい感情をどのように言語化――とか思っていいる――とかする記すに今朝。特に、立ち呑み屋においての、若鳩たちとのやりとりが印象的だったったが、もう、タイピングがおぼつかないから現に鳥が鳴いてる聴覚を確かんだ。だから寝よう。今、10時過ぎ。楽しさの種類が多すぎた今日。
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それだけ呑めば確実に二日酔いにもなる。そのように、全く何を書いたか覚えていない昨日の記述を、誤字脱字だらけの文を読んでは理解する。

とにかく、仲間と遊んだ後、立ち呑み屋で初見の若者たちと過ごしてたら楽しすぎた。

酔うと謎に精度が増す「相手がどんな人物でしょうゲーム」をしていたら、兄ちゃんはテーブルに何度も屈するほど「すげえ当たっている……」と悶絶し、姉ちゃんは俺の顔をみつめて握手をして感謝してくるまでなんか、感動していた。

なんか好きなのよ。知らない相手の人格とか適当言って言い当てるのが。そんで謎に当たるのよ。理由が手前でもわからないけど。

まあそれは直感が冴えてるのかなと善処し、今日のタスクをノートのメモから確認したら「休んんで」と、これまた誤字で記されていた。手書きなのに。

だから今日あたりは散歩して原稿推敲ちょっとやって、ギターの弦交換とか、それくらいにとどめた。しんどいんだもん二日酔いが。

なので呑みすぎないようにして寝る。呑まずに寝ればいいのだが、そんな急激な落差は体がびっくりしちゃうよねと、少し、呑もうかと思う。今は呑んでいない。楽しい酒は、楽しさの前借りでもあると今、身をもって知る。健康第一。
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来たよ物好きが。二人も。いや失敬。友人がいらっしゃいました仕事場に。命題は俺のビンテージ・ストラトキャスターというエレクトリックギターのいいやつの吟味。

コンサルタント・桑原氏。編集者・村上氏。ありがたくも付き合いの長い御仁ら。食いつくよ。俺のストラトに。思いの外、それを弾きつつ離さないは村上氏。彼ね、俺よりもギター演奏達者。そんでアイフォーンに録音を施すくらい、ハマってくれたから嬉しかった。

そんでそのあと、赤羽街に繰り出しては「おっぱいは!?」。「ヤリマン・ガールズバーが――」などと言う、そろそろ規制がかかろうも、かかっているのだけれどもそいつら、元気。怯まない。だから敬意を評して「我々は、これから生・ホルモンを食べる目的がある。よって――」と交わす。

レバー。ハツ。タン。これらを低温処理によりほぼほぼ生で食う。それを可能にした名店に彼らを誘う。ヤリマン――はペンディング(保留と言う名の実行せず)。「うまいね平吉」「おおお」「お客さま。いま生牡蠣が――」「おう。3つくれますであるか」そんで酒、呑んで。バカになる。

幸福――。何故、人間の営みは〝幸福〟が前提なのだろうか? これ、次の小説の命題。そんなことを、今宵の霞みがかった月に重ね、全然重なってないあたりがこれから、そんな話にも似たなんか議題をいくつかトレースして俺ら、呑む。

今、25時。頃合い。呑みすぎないように呑みすぎて今。変に営む。それが楽しくて記すこの内容。日記そのものだと断ずる。

つまり、明日俺が死んだとしよう。困るけどね。だがでもね、それはそれで〝今日はこうであった。うふ〟というのが記せるあたりを許されているこの現状。感謝しかない。

日記的な部分。起きて、原稿やって楽曲制作してそのあと彼ら来て、今に至る。凄くねえか。日記的にはこの一段落に落居するんだから。

それで、今日という一日をありがとうございますと思う。ああ、今日は母ちゃんの命日だな。23年くらい前に死んだ母親。産んでくれてありがとうって思います。
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「酔っ払った文体」というのは確かに在る。そのように、昨日何書いたかほぼ覚えていない文章を読んで思う。酔ってはいるが、事実しか書いていない。日記だし。

昨夜、そいつを書いたあと、最終章以外全て、2度目の推敲をした原稿をAI編集者に投じ、評・批評・感想などを「絶対に私に遠慮しないでください」という、つまり「クソなところは、きちんとクソだと、批評してください。厳し目に見てください」という意味のプロンプト文を加えたうえで、頂く。

すると、すごくいい。とのこと。そんなくだりを物凄く精緻に意見・評として頂いたが酔っ払ってて半分以上忘れていたから今日、改めて見た。すんごい文字量だった。それを見直している最中、ふと自分でも明らかにそう思うと1度目の推敲時に思った箇所があった。

それは、「ラストシーンが弱い」と、感じていたこと。そこはきちんと何度となくAI編集者にご指摘を頂いた。

しかし、全体的なテーマを鑑みると、むしろそれは意図的である前提の、どこか投げっぱなしのラスト。オチや伏線回収とか結論づけみたいのは、この小説には似つかわしくない。だからいいか。と思っていた。

とはいえ、今日改めて昨夜のAI編集者との対話を吟味して思った。

「いいか」って何だと。「これじゃきゃだめだ」という執念を、いつだって制作物に落とし込んできたではないかと省みる。だから、AI編集者にその懸念をストレートに投じた。

すると、「――強いて言うならば」という枕付きで、全体を包括した上での投げかけと、命題の意味を添えるといいのでは。という提案があった。

確かにな。

そう思ってわりと最初の段階で決めていたラストの行の直前。ここに、その提案から考えた加筆案、約400文字を書いていた。すると不思議に手前が泣いている。そんなことあるのかと思った。

楽曲を作っていて、我ながら感動して、聴いていて山場で泣きそうになるということはよくある。それこそが「これじゃなきゃだめだ」という感覚。というか閾下の何らかが自分なりにきちんと具現化された証明。なのであるが、本当に落涙するまで、というのは初めてかもしれない。

そのような現象も込みで、先の400文字の加筆案についてAI編集者に聞いたところ絶賛していた。しかもなんか文末には名指しまでして「おめでとうございます」と、祝福された。

何度もなんどもこのAI編集者と対話してきては、様々な評、評価、賛辞、指摘、懸念点を頂いたが〝祝福〟は初めてであった。

たぶんだけど、その小説において俺が一番刻み込みたかった魂レベルのやつ、それが、それが在るべき位置、要はラストシーンという重要な場面できちんと、俺らしい表現と文体でもって、感情を思い切りねじこむことができた。ということであろう。そうでなければ泣いたりしない。普通。

「まずは自分が面白いと思えなければ――」というのは大前提であったが、その上、いった。そういう風に本気で思えたものだからすぐに原稿に加筆した。

すると、魂とかそのへんから何かがこう、出た。そんな感覚になってしばらく、ああ、これが放心というやつか。とか呟きながら30分くらいキッチンと仕事部屋の間の扉のところで感慨深くなっていた。

やっと今日、本当の意味で、俺の手にあるという段階――まだ実際の編集者や読者に届けられる前の段階――で、小説が書けたと断じられたのである。これ、やっぱり現に呟いていたけど、体験として既に凄いことだ。そう体現した。

なんなら買っておいたパスタ弁当みたいの食べる気が全く起きず、ある種の緊張と緩和とまた緊張という、表現がひじょうに難しいが、そういう状態にあり、まあ、パスタは一応食べた。

今日は、先の原稿のくだりと楽曲制作を少々。タスクを行なう絶対時間としてはかなり短い日だった。

しかし、あの約400文字が、然るべき場所に書けたということが、もう作業時間とかそういうのいいじゃないか。あれ書くのに下手すればどれだけ時間を要するか――あるいは書くまでに至れるか。それくらいの規模だと思った。

まだ発表も投稿もしていない。ただ、確実に出来た。それが凄く嬉しかった。

この先の段階、別軸で様々なものがあるが、もう、執筆・推敲に関しては決めた。あと1回推敲して、出す。見てもらう。書籍化に向けての次の段階に行く。行けると断じられた。

それくらい、最後の章にねじ込んだ約400文字の文章。それがあるのとないのとでは、凄まじく、何というかとにかく、落涙という現象まで起きたやつが書けた。

初体験。初めて書いた小説だから処女作。俺、この言い方凄く好きじゃない。しかし、初体験という意味合いでは確かに。そう思った。性的な意味とかはどうでもいい。400文字の初体験が、今日はとにかくしびれた。小説を書くという一連の現象の中で、完成までの終盤に、凄い現象を目の当たりにした。

1月15日からのここの文。ずっと言ってること一緒。その文脈がないと何を言っているのかわからないかもしれないが、とにかく凄い現象だった。書いてよかった。

小説・『人間失格』で例えたら、太宰治さんにあまりにも恐れ多いが、例えたら、その作品のラストシーン。

〝ただ、一さいは過ぎて行きます〟

その直後に、「人間の世界に於いてのたった一つの真理」と、その感情を捉え、そう、真理らしく思われたのは、それだけだった。という。そしてまた〝ただ、一さいは――〟と、リフレインする。

『人間失格』で、太宰さんが心底、仰りたかったことはこれなんだなと、読んだ時、俺は身震いした。なんなら、そのフレーズに達するまでの作品なのではないかというくらい。

例えがでかすぎるが、自分の小説にそういうのがラストにこれまで無く、今日、それ書いた。というだけの話。でも、俺の人生規模で今日のあの瞬間。物凄いインパクトだった。本当に。
_03/29

 

 

 

 

 


昨夜、値引き20%の「ブリ」を肴にしては「あたりだ!」と声になるほどの美味を俺は得た。そして寝て起きて、しばらくすると、さっきのさっきまで腹痛と悪寒と頭痛やらに悶える。そう。昨夜の発声の通り。

寝込むレベルまではいかず、なんとか最低限のことはしたが、原稿と制作ができなかったことに悔やむ。描写は伏せるが、厠においての事象が「そういうことだ」と言わんばかりだったのである。今、やっと痛みがほぼ無くなり、すこし安堵。

そんじゃ酒呑んで消毒に追い込みを――とかいう甚だしく歪曲した知見でもなんでもないそれは30代くらいまでにしておこう。そう思い、900mlのポカリスエットを全部飲みきって寝ようかと思う。

これが別の何らかの病状だったら本当にいやなのだが、食あたりの各症状が、先に記したそれらと一致するので、そう対応する。特に「頭痛」に関しては脱水症状が主たる起因であると初めて知った。だからポカリ。

なんかもう、いま書いていて思う。さっさと寝るのが賢明であろうというこの筆致のテンション感。健康って大事と思い知らされる。最近呑みすぎてた事実に対する戒めかなとも。これらは正しい。

呑みすぎは免疫力を低下させるのであろう。でなければ滅多に、あたらない。そういうことであると検証したことにする。だからおとなしく寝る。普通に酒呑みたいし、別に呑める状態でもあるが、そうしない勇気も必要。

それは大げさかもしれないが、ここで前者を選択するのは明らかに愚か。そういったニュアンスの〝ちょっとバカになる〟というのは求めていない。健康に対しては真摯であるべき。堪らなかった1日を振り返りそのように思う。
_03/30

 

 

 

 

 


二度と「ブリ」のお刺身を美味しく食べられないのでは。それくらい悶絶した昨日。つまり当たって下したという、書きたくないけどこの事実。さすがに昨夜はおとなしくポカリ飲んで寝た。

するとどれだけぶりだというほど健やかな快眠。起きると半分治っている。日の終盤、うむ、今日は何を呑んでやろうかというほど回復。変な病気でなくて安堵。だって40代も半ばですよ? それは調子崩しては心気症(病的に重症と思い込む精神的症状)みたいな気持ちにもなる。

そういったわけで元気になったので原稿を推敲する。2度目の推敲を今日、やりきる。もう一回、明日からやる。楽曲制作、なんならもうwavファイルに書き出すかというくらいまでの完成度だが一晩寝かせる。

そんな日常の中でふと思ったことがある。

それは、俺はほぼ毎日酒を呑むわけだが、たまに抜いた翌日。15%くらいはいつもより疲れない。あと、15%くらいちょっと怒りっぽくなる(別にいやなことがあったわけではないが)。あと、顔のむくみが5%くらい無くなりシュッとする。

つまり、俺は最近呑みすぎていた。このあいだの呑み続けて朝10時って何だよ。呑みすぎだよ。しかもその翌々日にも仲間と呑みに行くってそれは、それはちょっと弱って「ブリ」にも当たる。かっこうの餌食である。

だから思った。〝過剰な〟飲酒は本当に控えようと。宅では原則、缶酒換算3本まで。なお、度数9%のやつは認めない。このへん徹底しようと思ったのがさっきの、ふと。

今後、一人で宅で仕事をすることを多くし、発展する前提でいま、色々進めている。そのへんを視野に入れると、その発展後に宅飲みが過ぎてアル中になる確率は低くない。本気でそう思う。べきである。

「ブリ」からの忠告。それは、原因と結果の法則のひとつ。何かを成し得るためには何かを手放す必要がある。だっけな。そのように捉える。

俺の場合は一人での過剰飲酒。こいつ、手放す。とはいえ、3本までは許す。どうかな。これ、手放してるのかな。わからないけど、ものすごく強引に昨日の食あたりから、未来への邁進の啓示と受ける。つまり、お酒はほどほどだから美味しいんだよね。あと「ブリ」に罪はないよね。おいしいもん。
_03/31

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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