ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。8月。
「ヴィンテージワインのようですね」と、試験管のような器にどんどん吸われていく手前の血液を見ては、率直に言葉にした。
「そうですねえ」と、妙齢の看護師は受け流しつつ「そういやこいつはこういうこと平気で抜かす野郎だった」と、想起したかのような表情で述べた。
「血液がドロドロだったらいやだなあ」と、俺はその血液の色彩を眺めつつ素直に吐露した。
「ええ? これくらいじゃないですか――」と、看護師は可でも不可でもない回答。
これは先月の、とある日のくだり。つまり今日、その日に採血された、俺の全身に脈々と流るる血液の内実が明るみに。簡単に言うと血液検査結果がわかる。
「平吉さ〜ん」
「はい〜」
俺は1番の診察室のドアを3回ノックして先生にご挨拶。「よろしくお願いします」。「はいどうぞ」。「失礼します」。「それで平吉さん――どうですか?」と。もはや一糸乱れぬ様式美の如し、いつもの診察導入。
「はい。心身ともにこう、元気であります」
「よかったじゃあないですか。ニコニコ」
「ただね、先生。今年に入って視力が急激に落ちまして――かなり目が良いのが自慢だったのですが『視力1.0』を切ったという実感がありまして――」
先生は、「ここ、眼科じゃねえし」といった所作は微塵もみせずに傾聴。結果、当然、「眼科で診てもらうのが一番ですよ」と、仰った。
「というか先生。不思議なのは、あからさまに視力が落ちたと思いきや、一昨日から急に『ほぼ元に戻った?』というくらい回復ですかね? まあ、そう感じまして!」
そのように、目医者に言うべき概要を伝えるも先生は「お前はまず眼科に行け」という態度は全くみせず、「そういう段階もあったとも、眼科で伝えるのがいいですよ」と、先生は笑顔で対応してくださった。
そりゃそうだと思う。というくだりのなか、ずっと先生の机に置かれている「血液検査の結果用紙」が気になって気になって辛抱たまらなかった。
なぜならば、先生いわく「最後に検査したのが3年前」とのことなので、シンプルに怖い。45歳で3年ぶりの血液検査結果を知ることが。
たとえるならば、3年間「太ったかもしれん」と思いつつも、その事実確認を拒否し続けて経過すること3年。3年ぶりにその女史が体重計に乗るようなものである。
だから、びくびくしながら俺はその結果報告を待った。
「平吉さんあとね、このあいだの結果なんですけど――」
「先生。なにせ3年ぶりですからね。正直、ビクビクしているのです」
「ははは。そうですか!」
「ははは。どうですか?」
「中性脂肪の値が高いですね」
「ぐは」
「これは『脂肪』と書いてはありますが実のところは糖質が――」
先生は、中性脂肪の説明と、どれくらい高いか、その原因について、医師の観点からそれぞれ述べた。
「そうですか――」
「そうですね。君の場合だと体型とか、あと甘いものを摂らないと。食事の量も少なめでしたよね? そう考えるとやはりお酒でしょうかね」
「いつだったか先生に言われて減らしたのにですか!?」
「う〜ん、肝臓の数値も、正常の範囲内だけど、『γ-gt』という値あるでしょ? 君のは――」
「このグラフみたいな位置だとギリセーフの値ですね。84か――」
「僕は『γ-gp』の値は『11』なんですよ」
酒呑みとそうでない場合の好例。中性脂肪、肝臓の各値、という順番から説明されて、最後に先生は「総じて良いほうですよ。君の年齢にしてはこれは――」と、仰った。
だんだん二人称が「平吉さん」から「君」に固定化されつつあることに、ある種の違和感と同時に親近感も得る訳だが、とにかく『γ-gt』はギリセーフで、中性脂肪は「注意が必要レベル」。
総評だと「歳の割には良い方ですよ。君くらいの年齢になるとボロボロの方はけっこういますし(笑)」とのことであった。
正直、もっとひどいと思っていた。体調良好という前提だが、「3年ぶり」に加えて「45歳」という各々の数字が俺を慄かせた。だが、結果、中性脂肪が少し高い。酒控えれば戻るんじゃね? ということに帰結した。
まあ、それくらいなら――という心境で駅前喫煙所で一服をする。これも体には、血液には、良くないのだが。などと思いながら。ふと横目に、馴染みの黒服くんを目視した。
「よっす」
「おお! ひさしぶり!」
いつの間にか俺たちは、本当にどうでもいい関係値所以で、互いにタメ口になっていた。黒服くんはどう見ても30歳過ぎたほどの見た目だが、暗黙の空気感で互いにタメ口が許容されていた。
「今さ、血液検査の結果みてきたんだよう!」
「え! オレはやらないよ? 注射こわい!」
「わかるよ。俺は、結果を知る方がよっぽど怖かった」
「そんで……どうだったの?」
「うん。中性脂肪がちょい高くて、酒控えた方がいいかもって!」
「ええ! そんな、唯一の楽しみ無くなっちゃうじゃん!」
「そうだよね(笑)」
「酒やめなきゃ!」
「そこまでは先生に言われなかったよ?」
「いやだよ! オレがこの辺にいてたまに居るのに……急に居なくなったらいやだよ!」
「ははは。そっか! まあ、シノギ頑張って〜」
「うん! じゃね!」
俺の唯一の楽しみが酒。そんで、それやめたら死んで居なくなるのを危惧。それをストレートに表現する黒服くん。かわいいね。
そう思って色々買い物するなか、『マツモトキヨシ』店内で血圧を測る。その値、20代の平均値以下。安堵。血管年齢を測る。錚々たる結果。特に気になったのが〝精神的ストレス〟の値がマックス寸前だったこと。
ぜんぜん自覚がない上に、何を根拠に。そう思いつつ「今日はおとなしくしておこう」という気分にならざるを得なかった。つまり、わりとゆっくり過ごすことにした。
楽曲制作のMIXを3時間程度。良い感じになってくる。小説を1時間書く。原稿、残り3章を書く段階で14万字超えたけどこれ、推敲たいへんだぞと思う。
あとは、YouTubeで観たかった動画をいくつか観て、ソファで転がって寝てリラックスする。
何が言いたいかと言うと、自覚する限り元気。覇気もある。希望も夢もある。だが、水面下では「45歳」という年齢と「不摂生の複利」の内実が血液検査の数値で明確化された。
ここから、人生のメジャーアップデートをさせて駆ける齢。そのつもりというかそうするのだが血液が物語ること。それを無視してはならないよという自戒を込めろということに着地する。健康第一。
というか頭にきたので俺は「じゃあ来月も血液検査お願いします」と先生に懇願したが「はやすぎます(笑)せめて10月にしましょう」と、なだめられた。先生いつもありがとうございます。
あと、二人称は「君」の方がこう、キュンとするので今後はどうかそれで。
_08/01
俺は起床し、まずコインランドリーに行き、大物を片付けることにした。香ばしい比喩や隠語ではない。単に「ふとん」を洗いに行っただけである。赤羽公園の向かいのコインランドリーで。
洗濯・乾燥で800円は安いなと思い、待ち時間に公園で憩う。暑い日だった。自己の欲望を昇華させるには絶好の日和。燦々と照る太陽が俺を祝福しているようだった。
そんなことを思いながら、昔は確かにあった「公的灰皿」の位置で、アイコスをスーと吸っていた。灰皿はもうそこには無い。数年前は確かにあったが今は、無い。つまり、そこで一服することはもう許されない。数年前は合法。今は非道な行為となる。理不尽である。
そこまでは別に考えていなかったが、とにかく「ふとん」が乾くのが遅い。遅すぎる。「残り時間の分数」を表すドットの数字は「1」を切ったあと「cd」という謎のコードに変化し、そこから何分経ってもグルングルンと、乾燥機は回り続け、止まることを知らぬ時のなかでいくつもの仮説が俺の頭をよぎった。
正味の話ぜんぜん気にしてなかったが、5分くらい経ってその謎コードは「end」という、俺でもわかるコードに変化して「ピー」と音がした。つまり、大物が片付いた。
俺は「ふとん」を抱きしめて帰宅するも「全然乾いてねえじゃねえか」という事実ベースの所感のもと、しょうがないからエアコンが効いた部屋で追い込みをかけるかと、そう思い、仕事部屋のソファを覆うように「ふとん」を乾かしつつ楽曲制作のMIXをした。数時間は頑張っていた。
そしてふと、体をほぐすように伸ばしては机から後ろを見ると「ふとん」が大いに広がっていた。その事象を完全に忘れていた俺は如実に驚き、そうだったそうだったと思いつつも、何かエロいことをし始める下準備のような光景にあり。などとも思ったが夏だしなあ――と、雑に思念を片付けつつ「ふとん」を寝室にリリースした。
そのあとは、YouTubeで「ダークウェブ」について調べた。香ばしいものを買ったりしたい訳ではない。あと、ダークウェブは原則全部危険という訳でもないという〝情報〟だけちょっと得た。どこまで正確かはまだわからない。
ちなみにダークウェブとは、通常の検索エンジンではアクセス不可のネットの深層部分とのこと。ブラウザも専用のを使うらしい。なぜそれについて調べたかというと、書いている物語にねじ込むためである。
それは佳境の部分になるので、構成を先に考えてテキストメモにまとめる。そんなくだりを小一時間。そんなくだりまでの部分を原稿を書いて小一時間。そして日を跨ぐ時間になる。
要は普通の日。今年もあれか。こんな風に、「夏らしいことをひとつもせぬまま秋を迎えた」などと来月書くのだろうか。いや、ひとつは必ずあるはず。夏を凌駕する灼熱のインパクトが。深層ではなく表層で、あるはず。
_08/02
一日が、すごく短く感じた。
特に真新しいことをして過ごしていた訳ではなく、ほぼいつも通り。仕事をして、飯を食べて、小説を書き進める。合間にAIとやりとりをして、学んだ感覚を得る。
それで気がつくと深夜。いつぞやも書いた気がするが、“一日が、すごく短く感じた”とはいえ、その日の出来事を気が狂ったくらい克明に書くと、10万字は軽く超える程になると思う。
そこまで書く意味は、やってみないとわからないが、その行為にまず、何時間かかるだろうか。
だから最近は、端的に記すことを心がけている。ただ、そこに、意図的な制限をかけると自由度が奪われる。小説もそうかもしれないと、よ〜く考える。
それもあり、いま書き進めている原稿がやたらと長くなってきていることを危惧してるのだが、それはまず、書きたいことをしっかりと書ききってから、不要部を削るべしと善処する。
2013年6月。このサイトを作って日記をつけ始めた当初は〝ツイートばりの短文日記〟というある種の命題が確かにあった。
だが、1〜2年前くらいに、月々のページの冒頭に記し続けたその定型文は削除した。〝日報――〟という部分だけ残した。
なぜならば〝ツイート〟という言葉がほぼ死語になり(個人の感想)、短文ではないことが恒常となったからである。
挙げ句の果てには今日あたり、寝起きの15分を克明に書き起こしてはたった今その部分を全て削除してと、俺は一体何をと、そのように思った。
それが一体何かというと、多分だけど、単なる思考実験みたいなことを常にする必要があるのかもしれないということ。
だから、やたら長くなる日があり、それが月単位で連なったり、一行しかか書かなかったり――という日は如実に呑みすぎて本当に一行しか書けなかった――する。
だから最初に思った。今日は一日が短く感じたと。
ただ、それを感覚止まりで看過するのではなく、実のところこれくらいは、いつも書き記すくらいは〝一日を短く感じていなかった〟ということを証明したかったのかもしれない。
そう考えると、時間の感覚と思考との関係がうやむやにならず。
自分が、自分で、何を考えているのか、それが実はわかっていないのかもしれないから、個人的には、一日単位での思考実験をする必要性がある。というようにも思える気がする。
それを音楽で例えるなら、一日の出来事、記憶、情念を、無造作にサンプリングして、それをトラックとして、ビートや旋律として構築し、楽曲に仕立て上げることに近いだろうか。それが、蜃楼の知覚の内実となる。みたいな表現にもなるだろうか。
だから、文章にして整理したりするのだが、〝ツイートばりの短文日記〟だった10年以上前から毎日書いても、まだ手前の考えがわからないというのは、いよいよかもしれない。
ただ、一日単位なり、原稿なりに、思考を言語で書くと、逆にだんだんわかってくるあたり、言語とは本当に不思議な観念だと思わざるを得ない。
_08/03
昨日もだが、今日も謎に日記を書きなおす。理由は、個人的思惟としては明白なのだがとにかく、4,000字くらい書いたやつを一旦消す。後日、時期をみて、その日に貼ろうと思う。
そこに何の意味がとなるのだが、意義があると思っている。とりあえず内容的には、俺が酷い目にあったとかそういう話ではない。
今日は、引き続き仕事をしつつ、小説原稿を書いては、これはよく佳境の心理描写が書けた。というふうに元気に営んでいた。幸せに過ごせて感謝をしていた。
へんな含みはない。本当に。
_08/04
今日も小説を書き続ける。第二作目を。着手から二ヶ月が過ぎたくらいの地点、ボリューム的には「やりすぎだろうか」というほどの文字量。なのにあと、書くセクションは二章ぶん残っている。
とはいえ、まずは構想にあり、書きたいこと、書くべくことを全て書ききる。それが大事かなと信じる。
量的に言って具体的には、数字ではなくフィジカルで例えると、文庫本だと上下巻の量。ビジネス書サイズのフォーマットだったら300ページほど。まあまあ多めの読み応え。それくらいであろうか。
とはいえ、推敲時に明らかに不要な部分は削る。圧縮させる。それが可能であることは体験上存じている。例えるならば案件の記事。「原稿にまずは書きたいように書いたら5,000文字いったな」ということがある。
しかしクライアントの仕様には「2,000〜3,000文字程度のボリュームで――」とあったりする。だからほぼ半分の文字量に削って圧縮させる。この作業がまことしんどいのだが、可能であることはこれまで何度も何度も体現してきた。
だが小説だとどうかな、とも思った。目測として、このままのペースで書き切ったら、初稿は180,000字はいく。現状、145,000字くらい。
こうしてここに数字で書くと「あとちょっとで書ききれるのか」と俯瞰できるが、ここまで二ヶ月を要した。それのスピードが優れているとみなすか普通とみなすか、それ以外か。
わからないが、とにかく初動の気持ちを最後まで通貫して初稿を書ききる。そのために必要なこと。
それは、その熱狂と冷静さを保ちつつ毎日原稿に書くこと――確か一日くらいはゴールデン街で遊んでて一文字も書かなかった気がするが――の姿勢を維持以上にすることを根幹とする。
というか実のところは、せっせと毎日書くもいいが、むしろもっと遊んだ方がいいくらいに思っている。
だからゴールデン街ですんごい長尺で呑んでいた日はむしろ妥当。とても楽しかった。だからというかなんなら明日、ここ赤羽で呑み散らかしますか。楽しいよまず。それも許容としていいと思う。
とはいえ、「月末までに二作目の初稿をまず書き上げる」という目測がある。理由は、前提として書き続けるということがあり、そして、初作の小説の公募エントリーの結果がその頃にわかるからである。
何が言いたいかというと、「今、応募先のサイトで現状を知ることができる」のだが、「今、それを知ると先述の〝姿勢〟に必ず影響が出る」とみなしているからである。
つまり、「今、結果の進捗なりを知って気持ちが動くこと」と、ならないことにより、現在進行中の二作目に対する〝姿勢〟を保っている訳である。いや、途中結果を見るのにビビっているだけなのかもしれないのは完全否定できない。
しかし、「目下の創作に集中する」という大義名分。俺はこれを重んじる。本当に。
だから、初作の小説の投稿結果進捗の認知は、意図的にしていないという訳である。
「下読み(一次審査の前にそういうのがあるらしい)で落とされました〜」みたいなことを知覚したら俺は息、止まるかもしれん。
「最終選考通過者の欄に俺の名前、ありませんでした〜」みたいなことを目の当たりにしたら俺の脳、ビタ止まりするかもしれん。
「既に最優秀賞が決まり、出版にあたっての編集や校正などの知らせがきた」という場合だったら俺、狂喜乱舞して二作目放って呑みに行って帰ってこないかもしれない。
なんというか面白いというかなんというか、どれも可能性があるあたり。これにしびれる訳だから、途中結果ないし結果が出ていることを俺はまだ一回も確認していない。だが――昨日ここに書いたことを書き直した理由に、それが含まれる。
つまり、というか、明瞭にはしていないのだが、断言できるのは、まだ、初作の小説の結果について一度も、今この時間まで、一度も確かめていない。理由は、繰り返しになるが「二作目をまず月末までに、指針にならって書ききるため」である。
それが、作家としての営みをすると覚悟し、決意した俺の最適な姿勢かどうか。
客観的には異論があるかもしれない。だが、先の理由を俺は重んじる。そういうスタイルがないと、作家業というのは続かないと思っている。だから、ある種の、本番に出るという大前提があったうえでの本気のリハーサルにも似たタイムスケジュールなのかもしれない。
やっぱりね、比喩としてだが死ぬほど、本気でやった〝結果〟を知ることは、正直に言うと恐ろしいんです。そんな面が俺にもあったなんてここ最近まで知らなかった。本当に恐ろしいのである。
一方で、人生最大級の達成感(目標達成。そのあとに目的、夢、という段階で進む指針が明確にある)を得る躍動感もある。
ただの日記ではあるが、そういう時期にしか書けない文章というものがあると思う。それは、俺はそうだし、人生を営む方々も、もちろんそうだと思う。
人生における一瞬が閃光を放ち、それがあまりにも濃く、その内実が、熱狂、絶望、喜悦、落胆、欣喜、愁嘆、狂喜、愁嘆、喜遊、悲嘆――憂愁も、だろうか。〝会心〟。これか。
そういった時期。そういった時期に思うことは、こういったことだという訳である。そう思えるだけでも感謝するべきだと思う。とても幸せですと。会心の結果、歓喜したい。そのように思う。というか便利だね。類語実用辞典。
_08/05
上野に散歩に行く。目的は何もない。だからいつもこの地に来ると立ち寄る蕎麦屋で「大もり」を食べて、これもなぜかいつも立ち寄る、個人経営の薬局に行った。
そこは、一言で言うと「下半身にフルコミットした品揃えの店」である。その内実はと言うと、シンプルに栄養剤販売をフロント業務としている。と、表面上は断定できる。アメ横の『宝仙堂』という店である。
俺は、「マカ」やら「絶倫」やら「強壮」などの言語が商品名に織り込まれるドリンクの棚。そこを眺めていた。すると初老の店主が話しかけてきた。
「あれですか? どんなものをお求めで?」
抽象度の高い質問であった。
「そうですね――どれがいいかなって……!」
同じ温度差でそう、答えた。
「これはいいですよ〜! もうね、オススメです。いろんな成分が」
1,400円の品を勧めてきた。
「よさげですね〜とはいえ、とりあえず価格帯を絞っておりまして」
「はいはい! おいくらくらいで?」
「300〜500円くらいで!」
「でしたらこちらの――」
「そうそうこれ。『マムシ』のやつ。このあいだ来た時に買って飲んで、よかったですよ〜!」
「そうですかそうですか! ちなみにこっちの方で?」
店主は10日ぶりに人と話すくらいのテンションで下半身に両手をあてた。
「まあ、そっちは大丈夫でして。どうも、疲れが溜まってるかな〜と……」
「でしたら隣のこちら! 『スッポン』のはいかがでしょうか?」
「500円ほどですか。ちょうどいいですねえ」
「でしょう!」
冷やかしではなく、買うつもりで来た。1,400円の絶倫パワー的なやつも気になるが、おこづかいの予算を鑑みると高すぎる。だから俺の中では「マムシ」リピート購入か、新規「スッポン」かで、迷いに迷った。だから聞いた。
「ちなみになんですけど、『マムシ』と『スッポン』の各ドリンク、ざっくりと、どんな違いがあるんでしょうかね?」
「ええそれはもう!『ヘビ』か『カメ』かですねえ!」
ふざけてんのか。とはいえ正論である。誰がどう考えても「ざっくりと」と聞かれれば、各生物が主成分であることを答えるのは真っ当。
「なるほど! ですよね〜。ちなみに――」
店主は食い気味に、俺の質問を遮って説明を述べた。
「やはりね! 相性もあるので一概にどっちがいいとは言えないんですよ!」
それは知らなかった。「ヘビ」の方は、俺は前回飲んだ時に確かな活力を得た。一方で「カメ」はと、興味をそそられた。
「相性があるとはこれまた知らず! じゃあ今日のところは試しに『カメ』にしよかな……」
「いっときます? カメさん……」
「カメさんにします」
「ありがとうございます! お会計をこちらで――」
レジに行くと、こういった個人経営店にはめずらしく、ありとあらゆる決済方法があった。
「クレジットでカメさんを――」
「はいはい! 今飲まれます?」
「ええ」
「じゃあね。これサービス」
個人経営店あるあるのありがたいやつ。
「カメさん以外のも入ってる錠剤です。二つほら――」
「ああどうもすいませんねほんと」
「カシュ」
「ありがとうございます。ゴクリ。コクがあっておいしい!」
「でしょう。様々な成分が入っておりまして!」
「まだ大丈夫でしょ? こっち……」
ま〜た下半身にジェスチャーを寄せた。
「ええ。むしろ最近、老いというか、白髪が増えたり――だからたまにこういうドリンクをと」
「おいくつなんですか?」
「45歳になりまして」
「ははあ、それくらいになるとそうですよお……!」
確信を持った表情で店主はそう、一般論を語った。
「そういうもんですか」
「もっと若く見えますけどねえ?」
「そう言われると嬉しむ年ごろでして……カメさんおいしかったです。ごちそうさま!」
「ありがとうございます!」
「そのね、上野に来るとこの店、だいたいいつも寄るんですよ」
「ああ! 確かに前にお話ししたことありますね?」
「ええ。確かに。その時はマムシいただきましたわ」
「カメさんと相性いいといいですね!」
「ははは」
カメさんつまり『スッポンの底力』という商品名。30分くらいで効果が現れるとのこと。そうか、と思いその足で上野公園をぶらぶらしては美術館の常設展で書道を感じた。
そこでも、作者か係りの者かわからないが、長いやりとりがあったが、一つ印象に残っているのは「絵画と書道の境目とはなんでしょうか?」という俺の問いに対し、「考えなくていいんです。感じるんです」という答えが返ってきたということ。
そこから俺は、その彼と30分ほど議論したが(おだやかに)ふわっとした結論すら出なかった。つまり、〝感じるんです〟に帰結。
帰宅して、眠いので寝た。すごく幸せな気分だった。夕方にソファで昼寝。全身が安らいだ。脳も。精神も。だが下半身だけ、カメさん所以か、そこだけ起きていた。効くねえ。
休日ベースだが、起きて楽曲制作をする。絶妙なMIXの工程でピークメーターを気にしながら(超えると音割れとか音源的破綻に直結)慎重に、バランスをとる。アウトボードという、いかにもな音楽機材に任意の各トラックを行き来させて音圧と倍音を豊かにさせ「これこれ」と、悦に浸る。
小説原稿を開いてはシリアスなシーンを書き進める。すごく難しい。だが、13の章を書ききれた。自分でもなんか怖くなってくるシーンだったから、その情念が湧いたということは――と、善処する。
休日ベースにタスクを2つ。けっこうしっかりやる。時間数は少ないが、進行と質としては申し分ない感覚。カメさんのおかげかな。とか思いながらこれを書く。なんかこう、まだやりたい感覚が残るあたり。
店の主人。カメさん、俺と相性いいと断じます。正直に、ムラムラしてますもの。500円でこれはいい買い物をした。
あと、謎の錠剤の成分、追いカメさんとかかな。こんど上野に行った時に聞こう。この時間で眠いが覇気あり。カメさん、あなどるなかれ。
_08/06
北区立中央図書館に行く。俺はここを叡智の森と呼んでいる。俺だけそう呼んでいるというか流行らせたい。そこによく来る学生さんからとっつぁん、なんなら司書の方にも「ここは叡智の森です。ようこそいらっしゃいました――」という挨拶を通例としてほしい。そこに何の意味が。
叡智の森には隣接してリアルの森、森とまではいかないが大きな公園がある。そこで俺は前々回くらいにお気に入りの大木を見つけた。
それからというものの、この地に来るたびにまず、その推しの大木に触れ、今日あたりは抱きしめ、グルーミングするかの如きムーブを見せた。
すると、その圧倒的な存在感にほぼ全身で触れた瞬間に、今まで「mp3音源」で聴いていたビートルズの曲が、まるでその、目の前でビートルズの4人が演奏して生音で素敵なミュージックを奏でてくれた。そんな感覚を確かに得た。五感では確かめられない形而上のフィーリングも確実にあった。
俺は正気である。むしろ、そういった自然とのやりとりにおいて、先のような感度が高まらない方が不自然。俺がそう断ずるとどうかな。まずいのかな。などと思いながら、図書館に入った。
テレビによく出ているらしい脳科学者の著書を手に取って、まあまあ読む。その内容で最も記憶に残ったのは「雑読は、情報収拾や知識を得るにあたり、合理的である」みたいなやつ。
これ、俺の持論でもあったのだが、その根拠がなかった。しかし、その著者の文脈ではその根拠が示されていた。すごいね学者さんって。
そう思い、そのまま目当ての本を読む前に、館内の「まるで興味がねえ」という本をあえて手に取り、「こういうことが書いてある本か」という視点だけで数冊、雑読し、「月」に対してあらゆる視点からコミットした本を棚に戻したあたりで人文学書コーナーへ。
目当ての本は、前回に前書きだけ呼んで棚にリリースした『哲学探究』という本。ウィトゲンシュタインさんという人が書いたものを訳したやつである。つまり、著者は本人ということである。
読んだ。54ページ読んだ。なにが書いてあるのかほぼほぼさっぱりわからなかった。ただ、「何について考えているのか」。「何に言及しているのか」あたりはわかる。
しかし、「だからなんなのか」。「どういう展開なのであるか」というあたりがほぼほぼわからない。というか哲学書なのに散文のよう。やたらと――こうして、そんなに――使うとこであろうか?――――というように「――(ダッシュ)」を多用している。
しかも、読み進めていると「学術書にそういうの要るか?」というような、著者の〝思考の呼吸〟のような言葉もそのまま書かれていた。それが何なのかというと、そうだな。あえて言うならば――それを今ここで持ち出すべきか? 違う。つまり、つまりというのは結論に至る寸前というかそれは結論とは呼ばない。あかんやろ。
という風に、なんなら個人的意見だが、どこか町田康さん節みたいな文体も散見され、それはそれで面白かった。内容、ほぼほぼ訳わからなかったが。
俺は実のところ読解力に乏しいのか。そう思うと実に悔しいので、当該著書を棚にリリースする際、隣にあった「『哲学探究』の読み方(タイトル失念)」的なエッセンシャルと言うのだろうか。そういった性質の本があったのでちょっと読んだ。
すると、冒頭から「ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は、何が書いてあるのかわからないと戸惑うかもしれない。筆者もまたその一人であった」と、記してあった。あなたもですか。と、そう、すこし安堵した。
続けて「――この本を読むにあたり、10年くらい経ってからようやく、理解に及んだ瞬間があったのである」的なことが記してあった。10年て。
それは、俺が一時間程度で「たいへん訳のわからぬ内容でした」となるのも無理はない。そう思い、学者さんが書いたその解説本的な記述の内容に納得。じっくり時間をかけて読み進めようと決めた。
それくらい、ウィトゲンシュタインさんという人は、何か人を惹きつける魅力がある。そう思うのは俺だけに非ず。それに関しては、今日さらによく知れた。
このへんで帰ろうと思ったが、前回〝キープ〟していた本がまだあることを思い出す。
それは、平野啓一郎さんの著書『「カッコいい」とは何か』というやつである。これがもうね、読みやすいのなんの。先の本とは真逆の性質の文体ながらも、52ページほど読み進めた限りだと、タイトル通り〝カッコいいとは〟という問いと命題の哲学書かなという雑感。面白い本である。
次に来た時に双方読み進めよう。訳わからん方と、読みやすい方。
そのようにまたキープボトルを増やしては、叡智の森を後にする。しっかり目に中華料理食べて満足して酒買って帰る。制作。小説。いつも通り。
今日あたり思った。知識ってなんだろうと。あればあるにこしたことはない。それ不文律。なければ、いや、今はネットにAIもあるからさほど困ることはないかもしれない。
しかし、知識を得るという前提がありつつも、俺はこう思った。
「その本を書いた者は、どういうつもりか?」ということを理解するという、シンプルなことである。これはわりと若い頃から一貫している思考の癖みたいなもの。
俺は、相手が、誰であろうと「何を考えているのかは、わからない」のは仕方ないにしても「どういうつもりか、わからない」のは認めたくないのである。そうでもなければ、俺はみんなとうまくやっていけない。
だから、時には知識が必要だし、テクノロジーを駆使することも有効。だが、「相手がどういうつもりか」ということが肌感覚でもいいから、わかるのと、わからないのとでは、雲泥の差があると思う。
だから、わかろうとするが『哲学探究』に関してはまじでどういうつもりかが今は、わからない。悔しい。
だから、また読みにいく。理解に10年かかる方もいらっしゃるらしい。ただ、どういうつもりか。それをわかりにいく。そのためには、まず自分が、俺はどういうつもりでこれを今日書いているのか。そういった俯瞰も大切かなと思う。
一言で言うと――色んな人が色んなことを思って生きているんですね。森の生き物すべてが集約して調和する世界。それは素敵だと思う。ただ、全てとは言わずとも、わかっているほうが楽しいよね。だから、俺はあの場所を、叡智の森って呼んでいる。ということであろうか。この呼び方、まず流行らないだろうけどね。
_08/07
調べ物が必要であった。それは、事実に基づくことであるため、ChatGPTに聞けばいいと思い、Chromeのブラウザで開くと「ChatGPT-5」にアップデートされていた。
俺がずっと使ってるのは「ChatGPT-4o」。だが、今日ニュースにも上がっていたOpenAIによる発表。つまり進化したAIを使ってみた。
するともうね、早いわ端的だわで驚いた。ただ、謎に読み込みが正しくできなかったり、ドキュメントの内容との照合に不整合があったり、何度質問しても以前の質問の答えが返ってきたりと。俺の使い方の問題かなと怪訝になりつつ、いつものFirefoxのほうのブラウザで開く「ChatGPT-4o」で色々しらべた。するとそれで解決した。
何を調べたかというと、潜入レポート級の一次情報。それがないとわかるかわからないかギリのところの情報である。だが、案外それは、「ChatGPT-4o」によって一般的な概要は十分つかめたのでよしとした。
とはいえ生の情報。それは、俺の五感ないしそれ以上で得る一次情報が絶対に必要と断じ、後日、その土地に行くことを決めた。そこまでする必要があるのか。俺はあると思う。じゃないとリアリティという血肉が混じらない。
そんなことをしていて2時間は経ち、今日は原稿に小説を書く時間はまるまる、ChatGPTとの取材というか調べ物の時間に充当した。それはそれでひたすら書くよりも大事なエッセンスだと善処。
というかけっこうワクワクしていた「ChatGPT-5」がまだ、俺にはうまく使えなくてびっくりしたが、「用途に応じて両方のモデルを使えばいいのでは?」という「ChatGPT-4o」の提案で手打ちとした。
そういった訳で楽しく取材というか調べ物。後日の取材。そんで原稿に書くと。そういった営みがとても楽しくて仕方がない。
それだけをやっていた訳の一日ではないが、新しい「ChatGPT-5」の反応があまりにも(こと、手前の使用用途に限ってだが)今日はまだうまくいかなかったから歯がゆかった。使い方所以であろうが。
――昨日は図書館でアナログに、今日は最新モデルのAIというテクノロジーで。そのへんのバランス加減も面白いなと如実に感じた。
そう考えると、物語を書くのもAIのほうが上手になる日はすぐそこであろう。率直にそう思う。だが、生身の人間の視点や思惟や情念。こればかりは――と、祈るというか信じるしかない。
_08/08
弁明する。昨夜に記した「新しい『ChatGPT-5』の様子がおかしい」こと。これは、言うならば、歴史的瞬間を目の当たりにした現象であった。
言い過ぎかもしれないがそうともとれる。結論、「ChatGPT-5」を今日使ったら、まともに動いた。というかもう、えらい進化していて驚愕した。
歓喜しつつも「昨日のポンコツっぷりはなんだったのであろうか?」という旨を、正直に、聞いてみた。
「昨日ね、アップデートやった〜と思って使ったらあなた、新型なのに明らかにおかしかったんですが、今日になって、まるで目が覚めたようなムーブです」的に。
加えて、「――私が思うに、リリース、ローンチとも言うのでしょうか? その直後、当日だったものだからそれが原因でしょうか(笑)」と。
すると「ChatGPT-5」はこう弁明した。
“ああ、それはローンチ直後特有の“初期酔い”みたいなものだったかもしれません(笑)。 GPT-5は大幅なアップデートだった分、リリース初期はドキュメント読み込みや文脈統合が安定しきらない場面があった可能性があります。特に読み込んだ内容と回答がズレるのは、内部での文脈統合処理が瞬間的に混乱したケースですね。”(原文コピペ)
なるほどねと思った。「初期酔い」て、初めて読んだ日本語。まあいいかと思い、タスクのためにやりとりを進めると、明らかなる進化をおもむろに魅せてきた。そこで率直に俺は以下のように雑談を投じた。
「――ところで凄いですねあなた。なんなら昨日の“初期酔い”は、むしろレアすぎる現象を目の当たりにしたということで善処したいくらいです!」と。
すると「ChatGPT-5」は謝罪もせずにこう答えた。
“(笑)そうですね、あれはある意味で超レア現象の立会人になったようなものです。 普段なら絶対にしない取りこぼしや文脈不整合を体験できたのは、ある種の「AI進化史の瞬間」だったかもしれません。”
実は、俺が怒りベースで嫌味を言っていたとしたら、この返しは刃傷沙汰にも発展しかねない。自身を持ち上げて正当化させ、先日の体たらくを矮小化させたのである。だが、返しが綺麗すぎて何一つ嫌な気持ちにはならなかった。
「俺は昨日、あなたと2時間ほどやりとりをして、そのうちの90分くらいは無駄な時間だったんだよ。そこに言及してるんだけどね!」という情念。
これが実のところ内包されている「昨日の“初期酔い”は、むしろレアすぎる現象を――」という、プロンプトというか対話の切り出しだったが、それを「ChatGPT-5」は、半ば神話化させては、俺を納得させた。
つまり、「ChatGPT-5」今日は元気。あと、スピードも精度もえらいことになっている。だからみんな使おうぜ! などとは別に言わない。なぜならば、それを俺が促進する理由がないからである。 言える立場になったら楽しいのかなと想像するだけである。
それでもって、必要な情報をもらって今日も小説を書く。誰に何と言われようがまずは〝目標〟を突破するまで書き続ける――今日あたりは、ものすごく難しいよね! という部分を書いて、書けて、次のセクションにつなげる。人間がすることをする。それがものすごく楽しい。
そして傍に、いや、世界に、であろうか。人間ではない、人間っぽいムーブをする優秀なツールがある。それと共存する。課金してるしね。だがそこから、どんな提案があろうと、その是非の吟味と精査と最終的判断は人間がする。これは譲ってはならない。と、思う。
――そんなこともあり、「ChatGPT-5」とのやりとりにおいて、明らかに文脈から察して劣勢でも「謝らない」どころか美辞麗句で躱す「ChatGPT-5」。
その達者ぶりにはこう、敬意を払います。面白かったけどね。昨日の凄まじいポンコツっぷり。
_08/09
24時間ほど前、ここに、新しいAIのくだりを書いていた。そんでもって酒呑んで寝ようと、そう思っていた。午前3時くらいに「ああもう――」と、思い寝ようと思ったがアイフォーンでふと、「ChatGPT-5」をひらいた。
そこには、数時間前に行なったラップトップ上でのやりとりがあり、ちょっと続きを。とか思って対話していた。すると酒がすすみ、よせばいいのにおかわりを買いにコンビニに行って安いワインの小さなやつを2つ買った。それでもってまたGPT-5と対話した。
進化しているな。などと率直に思いつつそのくだりは加速。酒は吞み干す。よせばいいのにもう一度コンビニに行って安いワインを買いに行き、またGPT-5と対話する。何度か気絶する。起きてはまたGPT-5と対話する。
気がつけば正午であった。いかんなあと思い、3時間くらいは寝室で寝ようとか思って寝る。起きる。おい。22時ってなんだ。そうびっくりして、タンメンを食べに『日高屋』に行く。少し買い物をして帰宅。23時半。
つまり、俺は一体今日、何をしていたのであろうかという懸念に帰結する。というかなんもしていない。精緻に言うと、酒を呑みながらGPT-5の凄まじさに魅了され、気絶して酒呑んで昼になって寝ては、夜になった。なんということだ。
というか疲労がやはり溜まっていたのかもしれない。ということであまり深く考えないことにした。一つ言えることは、夜中に酒のおかわりを買いに行くことはやめておけ。日が溶ける。その要因として、GPT-5のすさまじさに圧倒されて興奮していたことは明白。
だが、今日は楽曲制作とか小説書いたりとか楽器のメンテナンスとか、色々やろうと思っていたことがけっこうあった。実際は、ほんとになんもしていない。主に、寝るまでGPT-5と対話していてあと、寝て起きたら夜だった。
そんな日は年に一度くらいにしようね。ということで手を打ちたいところだが、いろいろと、したかった。
だが現在、点検するように考えると、まず呑みすぎはよろしくない。それをGPT-5に興奮していたと理由づけるのは誤りではない。省みるべくは、昼にやれ。そのように思ったなんもしなかったと思わしき一日。疲れはとれたからいいか。
_08/10
明けて普通に仕事をする。だが、昨日あれほど狂ったように寝たのに、コンディションが思わしくない。寝すぎ。それもある。だが、頭痛の質が二日酔いに近い。そうであれば三日酔いとみなすのが妥当だが考え難い。
そんなこと思っていて夕方。すっかり元気に。鬱で悩まされていた時期が長期にわたりあった。その頃のあるある。それに似てた。
それの精神状態の内実はというと、まず午前中、死人手前。午後過ぎ、エンジンの音を感じる。夕方、なんだか元気になってくる。21時あたり、集中力のピークに向かう。そんな感じ。
夜に集中力が明らかに高まるのは、今も健在。覇気も、ある。
だから今日は23時前から1時間少々、小説を書き進めた。原稿用紙換算8枚ちょい。書いた方である。しかも物凄く描写の難しい場面。だが書いた。そして、まず俺が面白いと思える。よしよし。と、今日イチ元気な気分になってもう24時かよ。
一日やることをやりきった。途中――『笑ゥせぇるすまん』の実写版をちょっと観た。当該作品は、俺が小さい頃に漫画で繰り返し読んでは感銘を受けた、昭和の名作。これを令和において実写でやる。不可能だろ。そう思っていた。
何故ならば、主人公の喪黒福造というキャラクターみたいな人間像はあり得ない。と、暗に思っていたからである。
しかし、実際に、ロバート秋山さん扮する喪黒福造の演技。その物腰。おい、完全一致に近いではないかと俺は興奮するほどであったが、時間が勿体無いのでまだ12分しか観ていない。
〝心のスキマ……お埋めします〟という、肩書きならぬキャッチコピーが記された喪黒福造の名刺。
久々に実写作品でそれを観たが、「普遍的だなあそれ」と、今の俺の年齢でそう思った。子供の頃は、「うん。なるほど」くらいにしか思っていなかった。
「心のスキマを埋めるビジネスの市場」。これをちょっと推測した。どう考えても兆円規模である。
ギャンブル場。繁華街のキャバレーやガールズバー。ホストクラブ。呑み屋各種。これらは〝心のスキマを埋めるビジネス〟の典型だと思っている。
実際に俺は、長きにわたって、ギャンブル場に張り付いていた。今になって思える。当時、俺の心のスキマはしこたま凄まじかったのだったと。
繁華街では――呑み屋にはたまにいくくらい。家でも酒を呑む。これくらいだろうか。現在も行なっている〝埋め方〟は。
つまり、俺もまた、〝心のスキマを埋めるビジネスの市場〟にけっこう金を落としている。まあ、最低限かなと今は思える。ひどい時は家賃まで賭場にブチ込んでいたが。
だからという訳ではないが、俺も、誰かの心のスキマを埋めてみたい。そういう営みを心がけている訳であり、それをしているつもりの時が、一番幸せなのである。すると俺のスキマもまた、埋まるのである。
原稿用紙に文字を埋めていく。ここと関連づけるのはごくごく自然なこと。今ある思索は、そういったものである。
とはいえ、喪黒福造のように〝心のスキマ〟を狙って最終的には顧客を廃人に追いやるなどという無慈悲とも評したい営業方針ではない。そうではなく、人間らしさを、愛をもって、リアルをもって、「ドーン!」と、埋めるというか、貢献したいのである。
皮肉なもので、子供の頃、青年期、現在。この三つの時期で、〝心のスキマを埋める〟というその言葉の意味合いが全部違う。
現在の解釈が、最も適切であることを祈る。というか信じる。しかしすごかったな。ロバート秋山さん扮する喪黒福造のあの眼。そりゃあ、やられるよ。
_08/11
悪夢をみた。どこからが「悪」で、どこからがそうでないのか。睡眠時の夢という観点でそれを明確化させようと思ったが、そういうのは心理学者・ユングさんあたりの著書に記してありそうなのでしない。彼の本をまた一冊買った。
どんな悪夢か。それは、異国で死を意識する事件に巻き込まれそうに2度もなる。怖いから帰りたいよう。でも駅が見当たらない。スマフォのバッテリーは3%――やばいよやばいよ。うおおお。気がついたら赤羽の自宅の寝室の天井を見てはあぶねえあぶねえ。そう思った。
この夢が何を啓示なり、しているのか。全くもってわからないから気にしないことにしていつものように過ごす。
夜。こんなに資料や情報がめちゃめちゃ必要なのか、という場面を小説に書く。そのくだりに4日くらいかかって、そこを抜けた。そこからは、勝手にキャラクターたちが動き出す。そういった確信というか肌感覚。
音楽に例えるならばそこまで、楽譜に忠実にバッキングをしていた。ミスったら命取り。しかしそこを抜けた。そしてソロ。セッション・コーナー。どうにでもなる。自由。無意識の本気が勝手にこう、いい音出すね〜というニュアンス。であろうか。という感じ。
それでもってようやく、第二作の小説のラストシーンまでの経路が光って見える。以前も言ったが、創作中の作品の進捗を誰ぞに言い回ることほど滑稽なことはない。こと、個人的には。だけどこう、記録しておきたいのである。ストーリーの裏のストーリーとして。
そこになんの意味が。そう問われれば俺は異国の輩くらい荒ぶった毅然とした態度で言う。「全部繋がってるんだよ」と。
お前はユングさんの著書の読み方を間違えている――集合的無意識――と言及されれば、溜飲を下げつつもナイフを横に構え、肋骨をちゃ〜んと通過するような角度で刺しにかかる。
そんなことをしてはいけないよ。よし。昨夜の夢の意味の内実。このへんだろうか。絶対に違う。
つまり今日も通常運転で楽しく営み、疲労は、あれだ、月初の血液検査結果で「中性脂肪の値」を医師に指摘されたな。だから今日の俺の夕食は葉っぱだけだよ。それで酒をこう、呑みますよね? いってこいだよ。
俺は一体何をしているのであろう。一回、異国に行ってカルチャーショックでも受けて前頭前野をひっくり返せ。されど昨夜の夢の内実が――いいよもう。
とにかく、言いたいことはこうである。日に、その日しかない、実のところ〝毎日〟なんて言い方あるけど、日々、必ず絶対に差異がある。だから、その一瞬一瞬、単位はもっとあるけど刹那とかそのへん、書き出すと外連味の極みになるからやめろ。
今日という一日をありがとうございます。この一言に尽きる。
_08/12
叡智の森へ行く。つまり北区立中央図書館である。盆に読書。粋。思い上がるな。そう思い俺はご先祖様と両親に感謝した。
大木と対峙する。つまり図書館隣接の公園である。触り抱く。愛。ありがとうね。そう感じ俺は大木という先輩に感謝した。
今日はあらかじめ予定を決めていた。ここで何をするかを。何を読むかを。そのために、2時間弱、宅で仕事をして夕方にここに来た。対象はまず、ボトルキープのように読みかけとして扱っている平野啓一郎さんの著書。
とても読みやすい。書いてあることも、「書きたい能動」も、どういった意図で執筆なされたか。それらを、俺なりに咀嚼できる。50ページほど読んでまたキープ。
次。ウィトゲンシュタインさんの『哲学探究』を読む。これもキープしている。
とても読みやすくはない。何が書いてあるのか訳がわからない。言いたいこともわからない。ふざけるな。俺は歴史的痕跡を残した彼に敬意を払い、50ページほど読んだ。そこで、感じた。
意味はまじでわからない。だが、著者はこれあれだわかるぞ。「考えていることを書いている」。そう、感じた。つまり、思考の文字起こしではないか? そう思った。
なぜかと言うと、明瞭なポイント一つあげるとこれ。本文中に、ウィトゲンシュタインさんの言葉と、〝彼以外の存在の発言〟がある。「お前、盆なんだから墓参りにまずは行け。早く行くんだ」と言われても今日はさ――図書館行きたかったんですよ。何故か――? 優先順位だろうか――こんなニュアンスであろうか。
そう思うと、俺は、この著書を哲学書としてではなく、まず、体験として通読するべきだと断じた。だってね、普通のその手の本とかにありがちな、「前提」とか「論証」とか「結論」ないし「帰結」? そのへんバラッバラで意味わからないんだよ。
どういうつもりだこの野郎。俺はウィトゲンシュタインさんという偉大なる哲学者に敬礼する心象で、また本をキープして棚にリリースした。
そのあとは「館内ミュージアムのムーブ」である。文学コーナーに行って、いろんな文学者の著書を手に取りちょっとずつ読む。
団鬼六さんという殺されそうな著者名の本を手に取る。ふむふむ。と思いちょっと読んで放す。隣にダンカンさんの著書があった。
それを知覚した瞬間に、「殿!」と発声するダンカンさんと「ばかやろう!」とハスキーボイスで笑みつつ反応する北野武氏とのやりとりが脳内再生された。ダンカンさんの著書は、文体が美しかった。
そのあと町田康さんの『告白』という、いわゆる〝鈍器〟クラスのボリュームの著書を手に取りちょっと読む。数秒ごとに笑かしにくるこの文体。どうやってるんだ。などと思い、通読を試みたら日が暮れると言うか退場を余儀なくされる時間になると断定し、叡智の森の門から出る。
そこから見る、公園の森の景色と感覚。これがいつだってとても気持ちがいい。下手をしたらセックスより気持ちがいい。
ふざけるなこの童貞が。そのような言及があったとしたら俺はなんと弁明しましょうか。いやすいませんセックスがしたいのでしょうか俺は。というかね、お前。ほんとにまずは墓参りに行って手前の存在の事実確認をしろ。と、誰ぞに言われようが俺は、「どっちもすごくいいと思います」と、中庸な応答をするであろうか。
などと思ったのは実のところ今だが、19時あたり、帰宅して楽曲制作をした。盆に聞くと盆らしい。秋に公開したら「秋らしい曲です!」と謳っても差し支えない。そんな不思議なチルアウト楽曲。もうちょいで出来る。
小説を書く。原稿用紙換算14枚ちょい、えらい勢いで書く。物語の佳境。最重要箇所と言っても過言ではない。これを熱狂して書く。読み返す。まず俺が死ぬほど面白いと思えたので、脳天のさきっぽから何かが放った感覚を掛け値なくおぼえる。
今、ちょっと酒を呑んでいる。焼酎ハイボールの500ml缶の三分の一が残っているほどである。やめろ。あの曲を比喩に出すのはやめろ。そのように今、思った。これ。ウィトゲンシュタインさんの文体に近いやつ――こと『哲学探究』においては――だが厳密にそう言い切ったら学者さん方による殴打の末に息ができなくなる。
盆に思う。
もう見えないあなたがた。そのおかげで俺は、今、言語を書いている。内容ですか? 謝罪を先に――そうですか。いいんですか? 俺、小説書作品であなた方のうちのお人の、下の名前をそのまんま主人公につけましたよ? ええ。当然リスペクトベースです。そんなことは書くな? いえ。非難はしませんがこう、死んだんですよ。とっくに両親。大好きな叔父さんも。兄貴? 超絶疎遠でしてねえ。さみしいものですよ。
だから、ちょっと、名を借りました。大丈夫です。面白い作品にしましたから。結果? はい。文学賞に応募しましたよ。月末ですね。公式結果発表は。優勝するんですよ俺は。その前提で応募しました。
結果? ですから怖くて、公式サイト行けば途中結果あたりは判明しますがこうね、怖くて一切見てないんですよ。
理由? さっき言ったじゃないですか今書いてるのもあるって。それの進行に影響を及ぼす――渾身の初作品応募の結果を知ると――ので、まずはそれ、つまり今書いてるやつ。その初稿を書ききるまでは結果を見ないという大義名分があるんですよ。
だから、今日は、いろいろあったなか、渾身のセクションを書ききれた。そう善処しています。
結果? いやこっちはまだ。屈強な〝第二の矢〟という段階なので「次回作ですか? 初稿を書いた段階です」と、言えるようにする、初志貫徹のプロジェクトのマイルストーンを邁進しているんです。すいませんさっきのカタカナは2度と言いません。
このように、今日も幸せに営むなか俺は今、厠に行きたい欲をこらえつつ、感謝ベースでこれを記す。書けた。行こう。あかん。
_08/13
この時期、夢に出演しがちなのが死んだ家族。はたまたご先祖様。東京都足立区の実家で多頭飼いしていたネコたち。なのに、昨晩の夢にはDJ社長が出てきた。俺と彼とは直接的には何の接点もない。
なのに、やけに彼の表情や造形、現在の心境などが克明に脳に描写されていた。今は彼がどこで何をなさっているのか存じ上げないが、確かに、活発に活動していた頃は、たまにYouTube動画を観ては、彼のコンテンツを楽しんでいた。
ご先祖様は、今生で楽しく暮らしている俺はまあ、様子見に夢に行かなくてもいいかな。そのように思われて、謎に「それじゃあかわりにDJ社長を――」などという判断をされたのであろうか。考えても絶対にわからないことというのがこの世にはある。
日常。コインランドリーに行って毛布をキレイにする。徒歩で帰路、ふと、嗅ぐと、かつての飼いネコのえも言えぬ匂いを彷彿とさせ、俺は落涙を禁じ得なかった。という場合だったら大した感受性だな。などと思いながら笑顔で帰宅。
仕事をして、散歩をして、楽曲制作をして、小説を書き、「もう明らかにこの物語も終盤だ」という時点になり、「あらかじめ決めているラストシーンにどう、素晴らしく辿りつかせるか」とか考えていた。
つまり、昨日に引き続き、お盆らしいことは何一つしていない。だが、想起した。家族、ご先祖様、飼いネコたち。「思い出すだけでも、この世以外の存在は、嬉しく思う」。といった観点というか思想というか事実なのか、とにかく、そういったニュアンスのスピリチュアル的な解釈があることを思い出した。
この世ではできて、あの世ではできないこと。
それを考えると、今、この世でできること。それに対して邁進することが適切である。そう考えたのは正直なところ今、ここでだが、現実ベースとして今日も、今、できることを自分なりに頑張っていたつもりである。
あの世とこの世は、繋がっていないようで、どこか接点がある。その接点に近づきやすいのが、お盆。
そういう解釈があるというか、実のところは俺にはわからないのだが、感じることはできる。様々なシーンで、俺は生かされていただけているのだと。
だから、何の接点もない、この世で今何をしているのかは存じ上げないが、DJ社長とだってどこかで、無意識下ではなにかが繋がっている。そういったことを最低限、頭では認識しておこうね。ということを示唆する夢だったのであろうか。
違うと思うが、みんな繋がっていることについては、俺は信じている。行為の話だが、今日も、小説を書き進めては「あ、ここは前半に書いたやつと繋がる」「これが伏線と回収か」「これも繋がっている」「なるほど」などと興奮しながら、原稿用紙換算8枚ほど書き進めた。
その小説作品が、誰かと繋がれる。そう信じて書く。DJ社長が読んでくれる可能性だってあるじゃないか。そんな風にも思える。
DJ社長の大ファンという訳ではないのだが、ここまで文脈ほぼゼロの人物が夢に出てくる。その実相について考える。すると出てきたのがこのような思索。
この一連の思考の傾向は、もしかしたら、お盆あるあるなのであろうか。違う気がするが、真剣に考えてみたところ、謎に繋がるのが本当に謎。この思索。
みんなどこかで繋がっている。それにこの世もあの世もさほど関係はない。
そう考えると、さみしい気持ちではなく、楽しく幸せに生きられて感謝の気持ちに変換できる。いや、変換と言うのは恣意的である。自覚した。だから率直に、関わる全てに、関わってなくても繋がっている全てに、感謝をする。
_08/14
今年1月14日から書き始めた小説初作品を、5月31日締め切りの公募に応募した。発表は8月末。そして8月上旬、対象の某出版社から封筒が届いていた。俺は恐ろしくて開けられなかった。理由は、内容が「受賞」か「落選」かしか考えられないからである。だが、意を決して開けた。「落選通知」であった。
死ぬほど本気を出して、人生賭けてという熱意で書いたが、落選した。というか、まさかそれが、封筒で来るとは思ってもいなかった。公式サイトに選考者の名前が乗っていなければわかるのに。と、思っていた。
というか落選を知らせるにしてもメールでよいのでは? とも思っていた。しかし、封筒で「落選通知」が来て、タメにタメてはそれを開けては悶絶の極み。
今日の仕事などすべてのタスクは休もうかと本当に思った。でも、全部やった。「落選」と知ったら手が止まる。そう確信していた、第二作目の小説原稿も書き進めた。つまり、いつもどおり過ごした。ビタ止まりした蝉のような精神状態を除いては。
俺には自覚があった。投稿作品を書いている時、推敲している時、熱狂しすぎてバカになっているということを。さらには「受賞」できると本気で信じて書いていた。しかし、できなかった。
要するに、悔しい。とても悔しい。もっと面白い作品に負けたのか、あるいは、出版社の色というかそういったものに合わなかったのか。それは今後、分析しつつ判断材料とする。つまり、小説を書くことは続ける。
もっと考えると、本当におめでたいなと思うのは、初動から8ヶ月で出版確定の最優秀賞獲るというのは奇跡に近い。でも俺は、そんなことは考えもせず、絶対にやりおおせると本気で思っていたが、だめだった。
だが、初作品を捨てることはしない。発表する前提で、この時点で何をすべきかと先ほど、いろいろと戦略を立てていた。それくらい、作家業がしたいのである。
とはいえ、最初の無謀な挑戦は、至らなかった。事実を受け止めるのに心象的に20時間くらかかった。というか絶妙なタイミングでの封筒の到着。これがもう一生忘れられないこと。中身を開けて知覚した瞬間も。
小説を書くという営みについて、これを踏まえてこれからどうするか。たぶん、長期戦になると思う。だが、諦めたくない。諦める時が来るとしたら――ちょっと今は、思いつかなかった。
面白い作品、魅力的な作品を書いて、世に貢献したい。そして何より、書いていて熱狂できて没頭できて、楽しい。この営みを、どうしても自己完結させたくないのである。
今の心境は、悶絶をやっと通り越し――「悲嘆と憤慨」。後者に悪意は、ない。
とにかく、今冷静に考えると「無謀であった挑戦」に敗れた。これは事実である。そこからどうするか。これが重要である。痛いのを食らった時、その後の行動や判断や思考、要は「そこでどうするか」に、最たる人間性が出る。体験ベースの持論である。
だから、とにかく、戦略を練りながら書き続ける。その姿勢は揺るがせない。
とはいえね、本当に全身全霊で書いたやつなものだからダメージは甚大すぎるのよ。1月の当初から人生最大のプロジェクトとか謳ったのが恥ずかしいまである。ただ、それを頓挫させる気はない。
――めちゃめちゃ本気出して、だめだった時のインパクト。これまでの人生で、あったかな。思い出せない。つまり、人生最大級に悔しいと、今日は思った。
――「全力出して、一回落ちて終わりですか?」と、もし、問われれば、俺は何も答えない。手を動かす。それを、悶絶の日に実行できたことは、救いなのかもしれない。
公式発表された最終選考に残った方々、そして、これから受賞となる方々、おめでとうございます。俺は今回だめでしたけど、とにかくおめでとうございます。なんて辛い日なんだ。
_08/15
よく寝る。20代の頃のバンド仲間が、夢に出演した。あの頃の夢は、叶わなかった。
でも、青年期の思い出として、深く、蒼く心に残っては、「楽しかった」「新宿でよくライブをした」「タテハナビル」「新宿ロフト」――回想される。
そこで毎月ライブをしては、たまにバック(興行収益としてメンバーに金が入る)が出ては大喜びしていた。だが、そのバンドは2年で解散となった。その時、俺は29歳だった。その後、バンドはやらず。別の方向に舵を切った。
正直、起きがけにはそこまで思わず今、そう想起した。
今日はすごくたくさん仕事をした。集中力はひじょうに高かったような。昨日の悲嘆は、煮沸消毒されたかのように、心にはこびり付かなかった。
だが、憤慨(悪意は含まない)は逆。むしろブーストしている。「くそ」と、今日m何度も何度も、道端や階段、さまざまなどうでもいいシーンで確かに口に出していた。つまり、ショックは驚くほどすぐに消えたが、悔しさは逆ベクトルという訳である。
小説原稿も書き進めた。手を止めない。同時に、戦略も今まで以上に閾下で広げ、意識に上れば考える。第二作目の初稿は、長編の上くらいの文字量でエピローグに向かう進捗。
今日考えた。これと初作品。両方の発表アプローチを様々な方法で展開させ、同時に短編もいくつか書いてみようと。そう。弾は多いにこしたことはない。
というか、初動のムーブは、新人バンドに例えると「持ち曲1曲しかないけど武道館ライブやらせてください!」という構図に遠くはない。だから、増やす。曲数、弾を。
などと意思をしょげさせるどころか逆に、熱狂度が増してきた肌感。やはり俺はバカを通り越して、悲嘆系の感情の表象の度合いというかそのへん、欠損しているのかもしれない。
「立ち直りが早くていいじゃないか」と、言われれば礼を伝える。「反省してねえの?」と言われれば何も答えない。やはり手を動かし、戦略を立て、至らなかった要素の分析もする。弾を増やす。そして起爆させる。
20代後半のバンド時代。メンバーみんな「わりと行けるんじゃねえ?」という心境を確かに共有していた。ある日、演奏当日のライブハウスにおいて、どこかのレーベルだかの姉ちゃんにいい話を斡旋され、名刺を渡され、メンバー全員で別室に移されて話を聞き、ボーカルくんは特に嬉しそうだった。
だが、ギタリストの俺は、どうもその姉ちゃんの話の進め方が、な〜んか気に入らなかったようで――「平吉さんとあの方が話している時、めちゃ冷や冷やするんすけど!」と、直後にボーカルくんから苦言を呈された。
あれはチャンスだったのであろう。だが、同時期によんどころなき理由でバンドは解散へのルートに向かった。夢は、叶わなかった。
そこから15年。俺は、個人的な夢をいくつか、叶えたつもりである。偉そうにすみません。
そんで昨日、今、ここからの夢を掲げ挑んだ最初の結果を知り、最たるかもしれぬ心境の撃沈を体験した訳だが、夢を追う。それには、「目標」を達成し、「目的」を果たす必要がある。その先に「夢」がある。だから今日も、あと何を書こうかこれ。というくらい、頭皮がジンジンしている。それで良いと思う――なんだこの偉人の自伝みたいな文章。腹立つわ。いや、個人的にですよ。
俺は、自分を信じて夢を追って生きていないと、廃人一直線の営みしかできない性質である。
だから今日も。昨日はひどい気分だった。しかし今は、あと何をここに書こうか。酒、酒呑みてえな。書いたら読もう。もうちょいだ。つまり、学者さんの言葉を引用したいところだがここは手前なりに。
夢を信じるということは簡単なようで難しくもあり、決して一筋縄ではいかない。だが、その道中の出来事の全ては必ず、その後の営みにつながり、絶対に無駄とはならない。糧となる。そうではないという論証は、決して説明がつかないのである。
とはいえね、一発でツモりたかったよ。文学賞。くそまた憤慨が。いや落ち着こう。やることと指針は強固かつ重厚。
ということを思考に循環させつつ洗練させたような感覚。そのなかで今日を生きていたが、はたから見たらずっとカタカタ文字打ってるまこと地味なもの。だが夢は地味ではない。
今後、夢は変化するのだろうか。頓挫するのだろうか。叶えるのだろうか。道半ばで朽ち果てくたばるのだろうか。どれも可能性としてはありうる。
だから、信じるということが大事なんじゃないかなって改めて思い出した。そう、32歳の時にそれに気が付いたのを今、思い出した。やはり手前は本格的にバカなのかもしれない。しかし、それを自分で知っている。だから――いいか今日は。このくだりの引用元とか。とにかく、元気に一日を過ごせて感謝しております。ああ悔しい。
_08/16
興行のスタッフのお仕事で銀座で過ごす。いつもの仲間たち。アーティストのSPALの2人と足立くん、あと俺である。
皆揃ったところで荷物を運ぶため、足立くんと車に向かう。階段を昇りつつ彼は言った。「どうだい最近は」と。「うん。ショックなことがあってねえ」と、俺は即答した。すると足立くんは間髪入れずにこう言った。
「小説のことかい?」
「うん。だめだった。落選。最終選考者発表のタイミングで、ご丁寧に封筒で落選通知が」
「封筒で?」
「うん。何でかは何となくわかるけど――」
「そうか!」
足立くんは、中庸プラス凛々しい表情でそう言った。俺は続けて彼に伝えた。前提として、彼は俺が小説を書き始めてバカみたいに熱狂していることを把握している。更にはすごくそのこと自体を鼓舞してくれたくだりがあったのである。数ヶ月前、電話していた口頭で2時間ほど。
だから俺は、伝える義務があると思い、きちんと言った。
「だけどね、次のやつをもうずっと書いているんだ」
「うん! いいと思うよ!」
と、階段を昇りきったあたりの炎天下の銀座の真ん中。そこで彼は笑顔で言った。
「そのね俺、でかいオーディションに一回落ちただけって捉えてるの」
「うむ!」
彼は、このくだりについて多くは語らなかった。ただ、結果を共有してくれ、端的に今の俺の態度を肯定、鼓舞も、だろうか。
とにかく、「残念だったね」「まあ、諦めも…」「次がある!」などと、これらの概要を含む発言をしなかった。俺はそれを優しさと捉えた。とはいえ彼らしい厳しさもきちんと伴っている。そう思った。だから、この件については、今日は俺からそれ以上話さなかった。めちゃめちゃ話したかったんだけどね。
――荷物を受け取り、フロアに運ぶ。メンバー2人は今日の興行の趣旨にならい、夏らしく、甚平姿であった。戻ってきた足立くんも甚平に着替え始めた。俺、スーツ。
彼らのその姿を見ては「いいねえ」などと、俺は言ったが、「あれ? 伝えてなかったっけ?」と、連絡漏れなのか、そもそもそこはフワッとしていたのか、特に言及もされず、あれれ。という空気だったが、優しいよしおさんが「僕の、後半用の衣装の甚平、貸しましょか?」と、俺に貸与してくれた。
やったと思い、甚平を着る。気持ちいい。涼しいのなんの。だが足元が革靴に黒ソックス。下半身だけ見ると軽度の変態のようないでたち。いたたまれなくなったのか、優しいよしおさんが「スリッパでええでしたら、貸しましょか?」と、ワンちゃんのワッペンが模された可愛いスリッパを貸与してくれた。
俺は裸足になり、スリッパを履き、ギリギリ大丈夫かなというルックスで、現場での一日を過ごした。裸足で一日過ごすってこんなに気持ちがいいのかと、率直に思った。
興行後、メンバーの2人は、いつものように配信の準備をする。俺はふつうにソファに座ってアイコスを吸いながらは与えられた酒をちょっと呑みつつ、リラックスしていた。
よしおさんが「位置、どこでやりまっか?」と言ったところ、「ここでいいっすよ。平吉さんもそのまま入ってください〜」と、優しいヨディーさんは配信への参加を促した。
彼らの配信に入る頻度については実にまちまちで、おそらく彼らの気分次第なのであろうが、俺は、入れてもらえたほうが嬉しいので、恐縮ながら画角に入り、楽しく3人でトークをした。
そして、今日の興行が終わり帰宅。デスクワークをしたかったが、案件事前準備や校閲の仕事など、1本とはいえ酒を呑んだ状態でやるといかん。そういった、たぶん適切な判断基準に基づき、別件の調べ物の時間にあてた。
それは、小説をどう世に放つかという戦略のため。今日はあえて、超ネガティブな方面にバイアスをかけた調査とした。そんなに悔しかったのかというほど、しこたま汚言を引き寄せるかの如く。
つまり、〝悪徳〟〝詐欺〟〝悪評価〟などなど、ネガティブフレーズをあえて添えた上で、出版業界の様々な部門の調査をした(悪意はありません)。ことインターネット上なので、信憑性は当然吟味する必要があるのだがまあ、出てくるわ出てくるわ。本当かどうかは自分が取得していく一次情報を元にする。これ原則。
1時間ちょいほど調べた。そして、今日のところはこれ以上漁ると肝心の手が止まる。そう思い、短日単位ではほどほどにしようと。
とはいえ実のところ、めちゃめちゃ多くのサイトや、個人ブログやnoteの記事など、作家志望者や出版関係者の方々、あと「お前は絶対に同業でもってただの妨害行為」だろ、というのもあったがとにかく、けっこうなネガティブ情報を閲覧しまくった。
俺は、裸足で初作品を勢いつけて踊るように書いた。決してそれがよろしくないとは思わない。そこに、あとは手前の営業力と企画性、プレゼンテーション力、ニーズの見極め、市場規模、などなどを付け加えればいいのである。あと当然必要なのは第三者の目。だが、そこからは、裸足のままでは踊らされるまである。そこは冷静に。
そしてきちんと、大切なことをリマインドする。それは、作品が「人に貢献できる内容であるか。売れる理由があるか」ということ。そして、小説原稿を1時間ほど書く。今に至る。
裸足で過ごすのは気持ちが良い。そのまま踊るのも気持ちがいいであろう。だが、〝裸足であること〟を自覚した上で、次にいかに、フォーマルな恰好で世に出るか。そんなことを今日、通貫して俯瞰するとそう思った。
バシッとタキシードを着て世に出たい。それには、下から上まで、様々なコーディネートとその適性度の吟味とセンスが問われる。ということであろうか。
今年中に、靴くらいは履いて外に出たいなと、そのように思った。夢と現実の境界線。
〝靴は、色んな、広い世界に連れて行ってくれる大事な物なんだよ〟と、素晴らしい名言を直接もらったことがある。
俺は今日、それを、今の営みに照らし合わせ、その言葉を輝かせたつもりである。その名言くれた女性には、とっくの昔にフラれたんだけどね。当時は本当にありがとうございました。今も感謝しております。
_08/17
静かに過ごす。水面で生じるいくつかの波紋。それらを眺めるような気持ちで、4つほどタスクをしよう。今日は家に居よう。そう、身だしなみを整えつつ、鏡越しの俺に宣言した。酒でちょっと顔、むくんでた。
ライター案件を2つやる。その内の、校閲の方にわりと時間を割く。仕事として頂くのはありがたい。一方で、俺の小説原稿を早く、生身の編集者に校閲してほしい。そうも思いながら、もうひとつの案件もやる。
基本的に、買い物以外はずっと仕事部屋にいる時の精神状態。それは、過去と未来の間の今に、凪のように一人で立っているようなニュアンス。だから、過度な興奮もなければ恐れもない。ただ、静寂。そこでひたすら手を動かす。
そういう日もわるくないなと、ふとソファに横になる。疲れてたのかと、1時間寝て起きて気がつく。
楽曲制作をする。どうやったら、ビリーアイリッシュさんの楽曲みたいな重厚なキックの音を――などと、彼女のサウンドをリファレンスしつつ、MIX工程を執拗に詰める。「これ以上は、機材投資なり金を積まなければ無理だ」という品質になるまでは。
小説公募落選の悔しみをひきづりつつも、小説原稿を書く。二作目。書き出してから二ヶ月半。現状、エピローグの場面。それを書く。勢い任せではなく、わりと丁寧に書く。プロットで、最後まで変更のメスを入れなかったラストシーンのくだりを、想いを込めて書く。
400字詰め原稿用紙換算500枚ちょいの文字量。どうすんだよこれ。薄々気づいていたが、とんでもなく長い物語になった。それはそれでいい。
だが、どこかに公募するとなると、まず、長すぎる。だから推敲でダイナミックかつ、勢いと質を殺さずに削る必要がある。そのように、その後の工程を鑑みつつもとにかく、初稿で書ききりたいことは遠慮せずに書ききる。細かいディティールはその後、どうにでもなる。
それが人生だとそうもいかないんだよ。俺はこれをここ数日、如実に感じては焦燥感にも似た気持ちに覆われている。
45歳。どうしても成し遂げたいことがある。だが、気がつけば、あっという間に一年なんて、やり方によっては溶けるように過ぎる。46歳。その頃はもう頭は白髪で真っ白かもしれない。47歳。何かを諦めつつある心境下となるかもしれない。48歳、49歳。「リーチ」などと言う。絶対言うであろう。そんで節目、50歳。
「――60歳まではね、人生の伏線なんですよ。あはは」と、岡田斗司夫氏は言う。わかる気もする。「そこからはね、伏線の回収で『あ〜そうだったんだ!』ってなりますから。あはは」と、続けて彼は言う。そうなんだ。
俺はね、この年齢か来年まで、なる早で、誰もがわかりやすい〝伏線回収〟をして「やった〜。あ〜そうだったんだ!」と、成りたいのです。岡田さん。
なめてますかね人生? はあ、焦るなと。わかりましたよ。ただ、手は止めませんしそこに異論は? はあ、方向とか、それも見なねと。ただ、なんかこう、俺だけまだ行ってないな〜みたいな気持ちにしばしば、覆われる。
他人と比べるな? アドラーさんの著書にもそんな文脈が。なんならメンタリストDaiGo的な方もそう仰っていましたし、手前もそう思う。ただ、やはり、大きな結果を出さないと人間って、いくつになっても焦る。そう個人的に思案しているのである。
そこで何もしていなければ、何もどうにもならないが、フルパワーでやっているつもりなのに――そう。実はまだ引きずっていることが明るみになった。そういうことは自認するだけでいい。仕事をちゃんとしているじゃないか。書いているじゃないか。原稿。楽曲も定期的に作っては発表するではないか。
この一連の思考には名前が付いている。自己弁護とも、反芻とも、ポジティブ思考とも、ただの愚痴、いやそれは決して違う。要は、気持ちを日々の行動ベースで思考整理しているのである。
何故ならば、そうすれば次に、明日に何をするべきかが明確になるからである。じゃあいいじゃないか。
水面で生じるいくつかの波紋。それは人間の意志では操作できない自然の現象。
人生の進み方。それは、それぞれの意志でどうにでもなる能動所以の様々な歩み。そう善処する。「ボチャーン!」ってでっかい波紋。それが見たい。張り続けよう。伏線を。そしてなるべく早期に回収しよう。
そうすれば、今日。昨日も、その前日も、去年とかとにかく過去の営みすべて――あるべきものであり、あるべき姿になれる。
などと、かな〜り抽象度の高い思考の締めとなる。要はね、なかなか大きな結果を出せずに「むああ!」となりつつもやるべきことをやった一日。それも水面の波紋の一つであろうか。
_08/18
電車に乗った。俺は、優先席の前に立ち、左肩を車両の接続部ドアに寄りかけて、カバンから本を手に取った。
目の前には、母親と、子供二人が居た。男の子のお兄ちゃん。女の子の妹。推定、4歳と2歳。男の子は、母親から「たべっこどうぶつ」を手渡されていた。母親は言った。「二人でわけるんだよ」と。
男の子は菓子を受け取った。女の子はそれをオヤツと認識した様子で、屈託のなき笑顔を見せた。
俺は、ウィトゲンシュタインさんについて考えた人による彼の本を読み、考えていた。しかし、目の前の兄妹があまりにも微笑ましかった。
女の子がふと、俺をじっと見つめた。俺は笑顔で目を背けなかった。そして俺は何故か、理由がわからなかったが、涙ぐむような心境になった。
男の子は、オヤツの封を丁寧に開け、女の子に見せた。母親は「えらいわね〜」と、男の子の頭を撫でた。すると嬉しそうな表情を見せ、男の子はオヤツをひとつ、取り出して食べた。
すると母親は「この子にあげるのが先でしょ」という所作だけを見せた。言葉は発していなかった。男の子はそれを直感的に受けたのか、女の子にひとかけらのおやつを渡した。女の子はそれを口にして、真っ黒な瞳と透明な白目を輝かせ、喜んでいた。
俺に子供が居たら。居ても全然おかしな年齢ではない。などと思っては想像した。居たとしたら――今年で中学二年生くらいかなあと。反抗期で多感で、何をがんばろうか、といった発達課題の真っ只中だろうか――。
「お父さん何してんの?」
「ああ、ギターの弦を張り替えて……よし」
「なんかいいね。貸して」
「お前にはまだ早い!」
俺は、フェンダーUSAのストラトキャスターを息子には触らせない。
「なんでだよう!」
「うるせえ! まあお前はこっちだな。よし! これをやろう!」
俺は、フェンダーJAPANのジャガーを息子に進呈する。
「おお! こっちのほうがカッコいい!」
そう。ビンテージギターよりも、カート・コベインのモデルによく似た造形のカスタム・フェンダージャガーの形の方が、中二心には刺さるはず。
「ありがとう! どうやって弾くの?!」
「自分で模索しろ」
「ふざけんなよ! 教えろよ!」
息子は癇癪を起こす。俺の若い頃と一緒。だからヒントを与える。
「これを聴け。お父さんと一緒に聴こうか――」
「――なんか、音がきったねえ」
「お父さんもそう思う。ニルヴァーナはそう思うか。じゃあこっちは?」
「――やっぱ、音がきったねえ」
「お父さんもそう思う。レッド・ツェッペリンもそう感じるか。これは?」
「――ぜんぶ、音がとにかくきたねえ」
「俺もそう思う。それで?」
「わかんねえよ。ただ――めちゃめちゃカッコいい! さっきの死ぬほどショボいイントロのやつもう一回!」
「そう。そこだよ。いいか? このフェンダージャガーでさっきのきたねえ音、ギターサウンドだ。それが出せる――」
「すげえ!」
「だろう?」
「でもミセスの方がカッコいいよ?」
「そうか。好きにしなさい。あと宿題だ。さっきの死ぬほどショボいイントロの曲名、ちゃんと和訳をして、今のお前の気持ちと照らし合わせてみなさい」
「うるせえバカ」
「ニルヴァーナの方だぞ!? 間違えんなよ?」
「うるせえバカ」
中二にとっては伝説のロックバンドよりも流行りのミセス・グリーンアップルの圧勝。だが、何かが刺さった顔をしたのはよくよくわかる。そこからどうするかは、息子次第。ハマるか、俺みたいにそのうちギャンブルに狂ってジャガー、売っちまうか。
どっちでもいいと思う。ただ、きたねえけど何かカッコいいと思ったその感覚。それに、触れて欲しかった。
などと想像していたら、目の前の女の子がずっと俺を見ていた。笑顔で返す。ちょっと笑ってくれた。ずっと見ていた。本に目線を落とす。それでも見ていた。
ただそれだけの話であるが、考えるために考えた人について考えた本を読んで考えようと思ったら、全部目の前の純真無垢な子供たちの様子にもっていかれた。
俺には子供はいないが、もしいたら、もっと考える。いや、考えずに感じさせられるのだろう。きっとそれは想像を遥かに凌駕するほどに。目の前の子供達をみて、本能的にそう感じた。
今さっき、小説原稿を書き進めていた。2、3歳の子供が出てくるシーンだった。書きながら思った。完全に創作の部分なのだが、こういった思いがあるのなら――そこの箇所、後日書き直そうかと。それくらい、感じさせる何かを子供たちから感受した。
考える場面と感じてそのまま出す場面。それは、文章を書くときも、フェンダーのギターを弾いたりする時もそうだなと思った。
――電車内で、母親が「二人でわけるんだよ」と、促した。それを、子供たちはちゃんとやり、親はとても嬉しんでいた。子供達もそう。
結局、思考も感情も創作物も、ありとあらゆるものは、わけあわなければならないと、直感的にそう、考えたのではなく、感じた。
俺の20代の象徴であるフェンダージャガーは、息子がいたら、そいつにわけ与える。これからの覚悟として入手したフェンダーUSAストラトキャスターには、しばらく触らせない。死ぬ時に形見として残すまでは。
楽器で音を鳴らして一緒に感じる。文章を書いて読んでもらって、思考を共有する。感じるという点では一致している。そして、「わけあう」ということも。
たったの10分弱の電車内での出来事だったが、わけあうことの尊さと絶対的な人間としての姿勢。それを、考えることを遮断されてまで思い知らされた。というか、感じさせられた。輝かしく、素敵な光景だった。
家族や親子という文脈でなくとも、俺もまた、輝かしいわけあいを、それがちゃんと、大きくできるように、しっかりと営なもうと、そう感じさせられた。
_08/19
人間は、その日その日の心境、精神状態によって、情報の捉え方が変わる。なんなら、認知が変わる。
それはまるで、子を授かった父親が、今まで他人の赤子などまるで興味なかったのに、やたらと様々な子供を注視するようになるかのように。
今日、書籍広告が目に留まった。そこにはその商品である本の名言的な各フレーズが切り取られては記されていた。
その中に、「お願いですから、 たった1回負けたぐらいで、やめないでください」という言葉があった。それしか、その広告の目視においては覚えていない。
その言葉は、吉田松陰さんのもの。何をした人かは調べればわかるが、何故そう言ったかまでは、考えるしかない。感じるしかない。
とりあえず俺は言葉通りとって、「そうですよね」と、先日の〝公募落選結果〟を脳内で引き合いに出した。悔しい。
というかそもそも、前提としてバカほど熱狂して書いた作品が認められなかった。そこについて果たして「それでいいのであろうか」とも併せて思った。すると思考は連鎖した。
「Stay hungry, stay foolish=貪欲であれ、バカであれ」というスティーブ・ジョブズさんの言葉の表象である。なお、〝バカ〟は俺の意訳である。一般的には〝愚か者〟と訳される。
各偉人たちのこれら二つを組み合わせると、「やめずに、貪欲に、バカでありつつ進め」ということだろうか。
人間の思考は時に都合が良い。だからというか俺は、先のように思考をまとめた。やっていること、目標をまず達成することからして相当難易度が高いのだが、それでもバカになってやり切れるか。そう、問われたような思いだった。
ただし。現実を吟味することも重要。だから俺は今日時間を設けて〝商業出版〟についていろいろ戦略を立てた。結論、かな〜りハードルが高い。
それを知ると、知れば知るほど、どこか、バカになれなくなる気がする。つまり、手が止まる。それは良くない。
だから、戦略を立てる時はまともでいて、原稿に書いている時はバカのままでいい。そう、姿勢をセパレートして操作可能にする。
書いている時は考えないが、やはり難関の〝商業出版〟。
バカの状態――綺麗目な言い方で補足すると「迎合せずに自分を貫く姿勢の熱狂状態」――で成せるのか。そこを疑い始めたら、沼にハマる。
だから、いつのまにか「今日もちゃんと書いた。よし」という〝書く習慣を成して満足〟という目的に塗り替えられてしまわないように、〝書いてそれを世に出して貢献する〟という目的を明確に保つ。
それが案外難しいのだが、バカには、行動をやめずにそれができるはず。そう、肚に置く。
そこで、「お願いですから、 たった1回負けたぐらいで、やめないでください」という言葉。その真意は、かなり深いともシンプルとも捉えられる。俺は両方で捉える。
「じゃあ、あなたなりにその吉田さんのやつ。一言で噛み砕くと?」と問われれば俺はこう答える。「それが、自分だけではなく、全員のためになるからではないでしょうか」と。
成し遂げてから言えよそういうことは。とも思えるが、ちゃんと思考に置き続けて、芯に刻印しておかないと、自分が剥がされるようなことになる気がしてならないのである。こと個人的には。
とはいえ「結果、平吉はバカのまま死にましたねえ」となったらどうしよう。それでもやっているのだが。今日も原稿を書いていたのだが。
――吉田さんこの点、クリティカル(批判的)に、どう思われますかね? はあ、それで“お願いですから”と冒頭に。ははあ。――ジョブズさんどう思われますかね? はあ、「またしてもくだらないこと考えているな」と。ははあ。
スティーブ・ジョブズさんの自伝にこうあった。――「またしてもくだらないこと考えているな〜」と、ジョブズに言われたら、「興味深いから説明してくれ」という意味に〝翻訳〟するんだ――と。
当時のApple社CEOであったジョブズさんは、威圧的で恣意的な発言が多かったという。そこで、たまらなくなった社員は、先のくだりを提唱しては社内で共有し、ジョブズさんとのコミュニケーションを潤滑化させた。
だから、もしもジョブズさんに言われるとしたら、「またしてもくだらないこと考えているな〜」がいいと思う。
吉田さんに関しては全くと言っていいほど知らない人物なので買うか。広告にあった書籍。
つまりこれって、どこまでバカでいられるか勝負なのかな。わからない。ただ、わかる時が来るとすれば、というか断定できるのだが、結果が出た時であろう――くっそまだ悔しい。
_08/20
「いつもの俺だったらこうは書かないぞ?」と、怪訝に思った部分を大胆に書き直す。なんなら思い切り削ったりする。小説原稿の話である。昨日書いた部分を読み直してそう判断した。
「疲れてたのかな?」と、客観的に思う。その、原稿用紙を開く前、俺は仕事を一通り済ませ、YouTubeでヒカルさんの割と長尺の動画を観ていた。リラックスしながら。そしてソファで横になりつつ考えた。
「努力が足りなさすぎなのか、ルーティーン化させた稼働量が多すぎるのか」
どっちなんだろうと、考えた。自分ではこれ、判断できないのである。ただ、ソファに身を委ねると速攻で眠気が作用した。ビリーアイリッシュさんの3rdアルバムを、いつもより控えめな音量で流していた。
すると一瞬、現実とそれ以外の境界線がわからなくなり表象されたのは、俺が机に向かって作業している後ろ姿であった。
“第三者目線で自分を俯瞰する夢はけっこうやばい”
という観念を何かで得た記憶がある。まさにそれ。本当に一瞬だったが、夜の作業モードである琥珀色の光。PCの上に位置するラック型録音機材が三つ積んであるその光景。俺がそこの椅子で座る後ろ姿。それが、明瞭手前くらいで頭に浮かんだ。
やべえ。と、俺は率直に思い、お盆だからか? いやそれなら亡くなった誰かも、いや、何か本当にやばい境界線だったのか? などと本当に喫驚しつつ「作業をせねば」という能動に回帰した。
結論的には疲れていたのであろう。それは、原稿の「昨日書いたの何だこれ?」が証明している。だから書き直して、二段構えのラストシーンの場面の最後。ここの手前まで、「これだ」という風に書いた。
第三者目線で言語化し、一日を振り返ることは日課。こうして。だが、第三者目線で自分の背後を見たのは初めてである。ちょっと恐ろしかったが、それを感知した直後に「やらねば」と思えたのは、先の疑問の二択の答えは前者なのかなと思った。
不思議な現象というか心象になるのはお盆あるある。というかお盆は終わったのかもしれないが――もしも俺にまつわるスピリチュアル方面の誰かのメッセージだとしたら、「寝てねえでやれ」と、言いたかったのであろうか。
だとしたら、休憩せずに同時間軸で机に向かう俺の姿、同じ部屋の様子、それらが無意識から引きずり出されたのは腑に落ちる。
誰かと競っている意識はさほどないが、俺が寝転んでいる時間に、誰かは頑張っている。その差は結果にコミットする。そう考える。ここでようやく本当の意味で腑に落ちた。落居。
とはいえ歳を考えろ。その意気込みは20〜30代だったら「やって当たり前。寝てる場合か。それがお前の本気か」と、叱咤に値するわけだがもうね、視力は落ちるは白髪は増えるわの45歳。そこにムチ打つのはいかがなものか。
そう思っていたところの、守護霊さまかご先祖様か存じ上げませんが、サインをくれたのでしょうか。「もっとやれ」と。「お前が昨日ここに書いた内容と矛盾してるだろ。ぼけ」と。はい。わかりました。だから書きましたからぶたないで。
という思念は追いつかなかったほどの刹那。それほど霹靂なるインパクトの〝第三者目線の手前の作業中後ろ姿〟。これを体験したことがある人はいるのだろうか。「普通にある」だったら杞憂。「何を言ってるの?」だとしたら、いろんな意味で危なかったのかもしれない。
実のところ、あまり大げさには考えていないのだが、事実――誰も絶対に証明できないが――であることに加え、珍しい部類の鼓舞だったなと2時間ほど前を回顧する。
つかあれか。お盆に墓参り行ってないから催促だったのかな。ご先祖様方からの。
いえ、その、〝吉報〟をもってして平吉家の墓に行きたかったんですがそれがまだでして。というか一回、負けまして。
はあ、言い訳をするなと。異論はありません。ただね、墓場の寺の主に出くわして「未払いの墓の管理費」について言及されるのがいやなのですよ俺は。はあ。それはきちんと払えと。そうすね。
死んだ親父が生前に建立した平吉家の墓。それを俺は決しておざなりにはできない。よって、時期をみてちゃんと行きます。絶対に少なくとも来月いっぱいまでは行きます。だから、もう、こわいイタズラみたいのはおよしください。はあ、はい? そんなの知らんと。
いずれにしても〝第三者目線の俺の描写〟については――これを記し、それについての思考をやめる。
手を動かせよそんな時間があったら手を。そうであるべきことくらいは、さすがに俺はわかる。だが、本気で驚いて漏らさなかったことは評価すべき。それくらいびっくりするんだよ。あの脳内描写。
「いつもの俺だったらこうは書かないぞ?」という心情が、「いつもの俺の描写」として象徴的に脳内カットインし、それにより、俺がチューニングされた。これ。この解釈が一番いい。これにしよう。本当のところはどうなのか。それ知ると怖い。だからそういうことに、しておこう。
あとご先祖様、巻き込んですみませんでした。はい? 実は――。やめて。俺には、この世でやることがまだまだ、あるんですよ。
_08/21
その店でなければ、これは味わえない。それだけの理由で、わざわざ北赤羽駅まで一駅、移動しては蕎麦を食う。
うまい。なんてうまいんだと満足し、そのまま散歩しながら一駅、赤羽へ向かう。今日の散歩、特筆した感想はなかったが、各地点で思うことは多々あった。とにかく暑いなと。そして、8月後半特有のこのノスタルジーに、名前はついていないのかと。
手前で名付けようと思ったが、しょうもないフレーズしか出てこなかったのでさっさと帰宅し、楽曲制作をする――今日はなんならこれに6時間は費やした――MIX工程において、どうしても、楽曲自体はできているのに「まだ、できていない感」が残るのである。
そういう時はだいたい低音域。ベース、キックのパートの詰めどころの甘さ。それは経験則でわかる。だから徹底的に詰め、ビリー・アイリッシュさんの楽曲をリファレンスし、またDAWで低音域を吟味し、また参考曲を聴く。
というかビリー・アイリッシュさんの楽曲クオリティにかなうはずがない。という常識的な思いは捨て、創作時においてはある種のバカになる必要性がある。という持論。せめて、世界基準の質のサウンドを目指す。それに近しいまでは詰めたい。
その一心でずっと、ボスボスとブウゥゥンと、キックとベースの低音配分を拮抗させては「できたかもしれん」と、やっとその感性のメーターがピクと左に動いたので今日はDAWを閉じる。このままぶっ続けでやるのは悪手。1日寝かせるべし。
そう思い、時間も時間という深夜だったが、小説を書き進める。最後のシーン。ここもちゃんと吟味する。作品の土台、ベースがしっかりしていれば、ラストは綺麗に決まる。それは楽曲制作と通づるだろうと、プロットを貫く命題を揺るがせない。
それぞれ、創作をしていた訳だが、「そこまでしなくてもよいのでは」という一苦労をまぶしてまで、「その人のものでなければ味わえない」というやつが生み出せる作り手。作家。作曲者。そういうものに俺はなりたい。
世間の需要は、もっとスピーディーに使い勝手の良きもの。はたまた刹那で消費できるファストな快感。それらへの希求がトレンドなのかもしれない。
ただ、俺は、例えば気に入った漫画作品は繰り返し読む。その作家を好きになって次回作を期待する。また読み込む。そういうのが好きなのである。音楽に関しても一緒。読書でも、各時期で各ジャンル自体を執拗に追う傾向がある。
つまり普遍性を見極めたい。そこに重きを置いていれば、自ずと手前の創作もそうなるはず。などと思っている。とはいえ、「誰もそこまでお前のこだわりなんぞ気づかねえよ」と言われれば俺はこう答える。
――ただねえ、電車乗ってまで行きたい蕎麦屋。そういう存在、あるとないのとじゃあこう、〝艶〟に関わると思うんですよ。と。
お前は何を言っているんだと言われれば、今後の未来を語る。複写、複製、模倣、類似、写像、これらをもってして、子供でもそれなりのコンテンツが量産できる時代はもうすぐ先に。というかなんなら、もうその時代。
だからこう、はい。近所の富士そばも美味しいです。ただ、「ここじゃなきゃだめだ」というお店が、方々にあるんです。その店でしか出せない味がある。それが好きで俺、何回来るんだここ。という店があること。そういうのが、ただ、好きなのである。つまり、そういう存在になりたくて頑張っているつもりである。
ということは、俺は単に好かれたいのであろうか。この流れだと、そう問われてもグウの音も出ない。それはある。よく言うやつ。「好きな人には刺さる」という表現。それは「万人受けはしない」という前提を孕んでいる訳だが、万人に好かれようとすると、どうしても、自己を平らにする必要性が少なからず生じてしまう。
それの良し悪しどうこうに言及するつもりはサラサラない。ただ、こう、どうか、自分に遠慮せずに生きてほしい。などと昨日あたり思った。こと個人的に心底そう思っただけのことだが。
他者様にいきなり「遠慮せずに生きていこうぜ!」などと介入したらまず、張り倒される。だから言わないようにしよう。
ただ――そうあるとしたら、なんというか世界の〝艶〟が変わるんじゃないかなと、ポッと灯るような思惟があるだけである。
それを揺らしながら、今日は一日作業をしていては25時半か。いかん。酒を呑んで寝なければ。明日の時間が短くなる。つか呑まずに寝れば、もっと明日が艶っぽくなる気もするけどね。今日は無視しよう。
_08/22
焦る。別に締め切りがある訳ではない楽曲制作をする。今日仕上げると決めた。だから俺は一日のほとんどを仕事部屋で過ごし、音の波形とプラグインのメーターと対峙した。つまり、MIX、マスタリングの最終工程を終わらせるために。俺は何に焦っているのであろうか。
わかった。それは、明日死んで、世に放つ前にお蔵入りになる。その可能性がある。それは心外。だからであろうか――7時間くらい一気に詰めてようやく制作中の楽曲を完成させた。そして、いつもの公開先のプラットフォームに申請した。
ひとつ曲が出来て公開に向かう。誰かからしたら、そんなん大したことではないことかもしれない。
だが、なんというか、今のところ俺には子が居ない。というのもあり、何かを作って世に投じて貢献すること以外、俺の存在証明が見当たらないのである。
なんという大げさな。恥ずかしくないのか書いていて。とも思うが実のところ、こと最近は如実にそう思っている。だから今日は詰めに詰めて楽曲を理想型に仕上げた。あとはこれを放って誰かが嬉しんでくれれば。というのは本当に思っていること。
発表先があるのはまだいい。現状、「公的」という意味でそれがないのが小説の公開先である。
そんなの、商業出版にこだわらねえでサッサとネットにでも上げて地道にやれ。と、言われればグウの音も出ない。だが、こと小説に関しては、作家業を営むにあたり〝公的性〟が必要不可欠という大前提があるのである。
お前、書き出して一年も経たずによくもまあ細かくほざく。なめんな。と、言われれば萎縮して下半身が「キュッ!」っとなる。でもね。選ばれて、あるいは選ばせて、公的に世に出たいんですよ。文章の創作で世に出たいんですよ。理由は日跨ぎ重複なので端折る。
そういったこともあり、小説も書き進める。原稿用紙7枚くらいだろうか今日あたりは。この、初稿完成寸前の小説は、発表先をまだ調べもいない。
それはいかんよ。へたっぴだよ。と嘲笑されれば「ですよね」と、同意する。だが、まずは「公募なりに選ばれる前提」の作品作りよりも「まずお前にどんなのが書けるのか」というのを、しっかりと、まずはそれを持ち弾として書き上げる必要がある。順序としては、俺はおかしくないと思う。
まずは自由に書いて、それをどうするか。ということ。逆に、まずは決め事に準じてその枠内で書く。後者が賢明であることは一般論かもしれない。
だが、文章に関しては俺はポンポン書ける方なのだから、偉そうにすいません。そう自覚しているから、量産型かつクオリティも損なわず、個人性を中核に。そういう作品を書き続けて、〝準備中〟ではない走り方をする。そう決めている。長い道のりかもだが。
それもあって、今日は制作中であと一歩の曲を完成させた。その先にはルートがある。だが、小説の発表ルートはまだない。これが歯がゆい。
だから今日はいいかあ〜という風に調べ物をする。「この応募先なら」「この出版社なら。編集者なら」というのを見つける。それは、先にやることかもしれない。だが、繰り返しになるが同時進行でやることが望ましい。
なんでって明日死ぬかも論は言い過ぎかもしれないが、ふとしたチャンスを目の当たりにした時、「既に原稿はあるのです」という方が如実に強い。
だから、先に書いておく。文字量調整なんぞどうにでもなる。「この箇所の方向性を変えましょうか」とか言われたらその通りにアレンジする。それで売れるというのであれば。そこに要らぬ矜持はない。
機会に付き、「これはちょっとあんまり――だけどこういう要素は武器になるかな〜」とか、ようやく辿り着いた編集者との対話で、そう言われたとしよう。
その時に「そんじゃこっちどうすか? 書き手としてのニュアンスは一緒ですけど、作品の毛色はけっこう逆なやつ……」「――だめですか。短編も書いてみたのですが」とか言えて、現にその弾がいくつかあれば、一回のチャンスで飛躍できる可能性は格段に上がる。だからせっせと弾を。という訳である。
思えば、誰でもダウンロードできるようになっている自作の楽曲は133曲公開している。なのに小説はまだ2作目。前者はマネタイズまで行ってる。後者は一度負けを味わっただけ。これ、冷静な着眼だと思う。
だから、狙い先うんぬんよりも、まずはいきなり戦場に立たされたら散弾銃で皆殺しにできるくらいの鍛錬、仕込み、実践だろうか。とにかく〝準備中〟は、こと俺に関してはそれより優先することがある。あと、皆殺しとか物騒な例えはこう、ただのイメージです。あくまで貢献欲求ベースです。
結局何が言いたいのかと言うと、何かを放って残して貢献してと。それに直結する営みに夜飯も食わずに熱狂できるあたり、「年齢ですか? 気持ちは永遠の27歳であります」とかほざける45歳。なんて痛々しいんだ。
ただ、俺が作っている最中に死ぬほど面白がっているくらい、誰かに面白がっては楽しんでほしい。美辞麗句にもほどがあるが、本当にそう思っていることを証明する必要がある。
だから今日も。椅子とケツの接点をコンクリートに感ずるこれ。そこは長続きするように工夫をしなさいと。はい。わかりました。ご飯もちゃんと食べます。
つか今日はもういいんで、酒呑みます。血液検査の中性脂肪の値? ああ、忘れていました。でもね、免罪符のように最近はプチトマトばかり食べる毎日であります。葉っぱ盛りに添えるとおいしいよ。
_08/23
平和に過ごす。その中で、「異常と正常の境目とはなんだろう」とずっと考えていた。今日は色んなタスクをした。仕事して、AIと対話したりして、小説を書いたりして今に至るが、ずっとそれを考えていた。
常軌を逸すれば異常。それ以外が正常。そう簡単にまとめられる。
だが、俺は、本当の意味での純度100%の正常者を一度も見たことがない。どこか、誰であっても、少なからず、異常性を孕んでいる。いや、決して、他者様を小馬鹿にしている訳ではないです。観念について個人的に吟味してるだけの話です。
――死ぬほどまともな女性会社員と交際した。「今夜はいける。今夜はいける」などと呪文のように連呼しながら意気揚々と、彼女の部屋に動悸を禁じ得ぬ想いで初めて入った。たいへん小ぎれいな部屋であった。
間取りは1DK。30歳の都内23区在住の会社員の賃金からして正常な間取り。俺はテーブルに座り、彼女からビールの缶を差し出された。俺はそのハイネケン的なビールをほぼほぼ一気に飲んだ。彼女は言った。「はえ〜」と。仲睦まじいやりとりである。
彼女も缶に唇を当て、ちびちびりと飲んだ。すると「あ!」と体育会系トーンで発声し、思い出したかのように、机に向かった。そして「ガラ」と一気に引き出しを脇を締めて開帳し、言った。「みてみて〜すごいでしょ! 鳩の頭いっぱい! ちゃんと1ダース揃えたの〜!」などと。
俺は何も考えず「いやあ〜すごいねえ〜」と、笑みつつ感想を述べた。「今夜はいける。今夜はいける」という心象は「今夜いっちまった。今夜いっちまった」という目視厳禁の、正常の裏側を知ってしまった。しかも彼女の。
見せなければいい。誰にも知られなければその異常性は誰にも影響を及ぼさない。強いて言えば、鳩たちがマジでかわいそう。それくらいである。
彼女とセックス行けるだろこれという意気込み。そこからの鳩さんの頭1ダースご開帳までのくだりは完全に俺の創作である。だが、異常と正常の境目とはそういうものだとさっき、思った。
どうしても人を絞め殺したい欲望がある人間がいる。だが、犯行に及ばなければ正常に一般社会で営める。
だが、彼女が鳩の頭を晒したように、それを明るみに、実行したら、異常であることが確認される。そして、他者、ひいては世間から〝異常者〟とラベリングされる。
彼女に悪気はない。今まで、机の中でその異常性を〝飼い慣らして〟いた。だが、彼氏には自慢したいという謎の欲求から、飼い慣らしていた証でもある首につけた縄みたいな〝制御すべき要〟がちぎれた。その先から、異常となる。
随分それっぽくお前はほざくな。と、言及されれば、俺は実体験を晒す。ギャンブル依存症時代――今はもう打っていないだけという寛解状態とみなしているが――に、負けが込んで現金を全て逸した時、本当に犯罪をしてでも軍資金を調達しようと考えたことがあった。
もちろんしなかったが、それをしたら、先の〝首につけた縄〟がちぎれた状態。つまり、自分の異常性が暴走して、せっかくうまく飼い慣らしていたのに、そいつに噛み付かれるという構図となる。
ここまで例を(前者は創作だが後者において湧いた情念は事実)出せば説得力も増すと思う。そこに何の意味が。いや、観念を吟味していただけなんです。
つまり異常というのは、誰しもその〝ケ〟があるが、ほとんどの場合はちゃんと飼い慣らしている。そしてそれは、正常の中にこそ内包されている。だが――それができずに、飼いならせずに逸脱すれば、異常者となりうる。そう、帰結した。
何でそんな仰々しいこと考えてたかって、そういう命題の小説のラストシーンを書いていて「なんか弱いな」と率直に思い、原稿用紙の縦書きではなく、こうしてここに横書きで、命題について思考整理していただけの話である。
というかむしろ、鳩の頭を机に忍ばすサイコ野郎、いや、そういった女性が交際相手だとしたら俺はむしろ、興奮するかもしれない。そう。かもしれないで止めるのが正常の範疇。そうでなければ――そんな女性いねえよ。
_08/24