07/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。7


落雷を察知した。音が入り込んではたまらんと、そう思ったが、天候の荒れはいっときのものだった。だから俺はそのままコンデンサーマイクに向かい、アコースティックギターを演奏し、録音した。

いつもとは異なる、初めて使用するコンデンサーマイクの性能は優秀で、俺はたいへん興奮した。アコギを録り、次。本来はスネアドラムの音価の役割を担うパート。これをそのまま打ち込みないしサンプリングのスネアで施すのは凡庸。そう思い、ハンドクラップをマイクで録音し、それを潰した。

潰すとはこの場合、手拍子の音を歪ませて意図的にトリッキーな効果を得るというもの。この着想はオリジナルではなく、ビリー・アイリッシュさんの3rdアルバムのとある曲からヒントを得た。

そのまま別のトラックもマイク録音し、すこし、各パートのバランスを調整する。すると、ひじょうに魅力的だと判断できた。あとはエレクトリックギターを後日入れようかなと、3時間ほどしていた楽曲制作を一旦〆て食事に行く。

帰宅してすこし、事務的なタスクをする。続けて小説原稿を開いて書き進める。説明的になりすぎず、読み手の想像力をかき立て、しかし油断していると笑う。

そのような、おそらく、とても難しいセクションのくだりを淡々と書いては手前が笑っていたからこれは善処できる。そのように率直に思った。とはいえ側から見たら気色が――ということは考えないようにする。

7月が始まった。つまり、半年が過ぎた。その180日間少々、俺は何していたかと、少々立ち止まって考えた。それは一節で振り返れる。

だいたいは今日のような営み。そして別のタスクをしたり散歩したり図書館行ったり。夜はほぼ毎日小説を書く。

これを半年続けた。するとどうなったか。というか、どうなるか、どうするか、どのように進むか、という前提で、これを半年続けたというのが正確なところ。

少なくとも年内はこれを絶対に続ける。つまり、その〝少なくとも〟の半分を抜けたところでの心象。それがどうだったかというと、とても冷静な文調で書いているつもりだが、ずっと熱狂している長距離走。そういった表現が的確だと誠に思う。

その、走った距離を確かめつつ、ゴールに達してそこからスタートするというプロジェクト。確かに、1月にそう表現した。その、最低限度の寸法の半分なんだなと、そういうのは昨日書けよとも思うが、今日ふと気がついたので記録する。

今日、初めて使用したコンデンサーマイクは、秀逸に音を収めた。今年、初めて営むプロジェクトは、人生においての飛躍的な現象とする。このように結ぶと、今年も半分が経過。俺はやっているのか。やれているのか、いつ、結果として飛散して現象となるのか。

日中はそのようなことは考えずに、やるべきことに集中していた。そこから0時がすぎ、日単位で立ち止まって考えると、そう思っていたのだなと、いま気がついた。

結論。今年が半分過ぎ、あと半分の今年。このように、エキサイティングに熱狂し続けては、いまはまだ見ぬ多くの人たちと出会いたい。希求、求愛、ラブレター。いつから俺の日記はこうなったのだろうか。それはいい。とにかく、広大無辺に求めているのであろう。

求めるためには先に与える。世界一売れた書籍――聖書――にも近いことが書かれている気がするが、俺なりにも「やはり、そうなのですね」と、本当に思えるあたり、こと個人的には、そういった思惟を抱えては、楽しく生きることを大切に肚におく。
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気がつくと0時が過ぎていることが多い。それは、没頭のあまり、時間を気にしていないからであろうか。

というと、まあスリムというか根が良い格好付け性分(ええカッコしい)だから、というかいつからこうなったのかな。それはいいのだが、とにかく原稿に向き合うと「だめだ書けんよう!」とは、不思議とならない。何故かと理由を5つ考えた。

1つ。楽しいから。真っ先にはこれ。俺自身が、今書いている小説の完成形を読みたい。読みたくて仕方がない、ナルシシズムの亜種のようなこれ。この心象にもっと正確な命名が必要とも思うが、とにかく楽しいから。

2つ。書きたいから。それは根幹にある。何故ならば、言いたいことや、伝えたいことがたくさんあるんだろうね。しかし、それを誰かとリアルタイムで一対一でいちいち言う。すると俺は村八分。「なんという面倒くさい男であろうか」などと、虫を払うかのような扱いを受けては隅っこで死ぬ。だから、言いたいことや伝えたいことを書きたいから。

3つ。「これならもっと多くに喜ばれる」と信じているから。最たる格好付けであるが、手前では、本当にそう思っている。何故ならば、そうならないと、俺は隅っこでモジモジしながら――気がつけば西暦何年だっけ? と、呆けた頭で病室の手すりとかコンコン叩いては、なんだか録音とかよくしていたような? と、忘れてはならぬことまで滅却。そうなりたくないからである。そのためには、もっと多くに喜ばれる営みに精を出す必要性がある。

4つ。目立ちたいから。これは書かない方がいいやつだが、正直に書く。小説を書いて、売って、売って、売りまくって、びっくりしない前提だけど売りまくって、思い上がるな。やはり普通にびっくりして、世に出て目立つという体験をしたい。これは、「個人的な欲求と利他が混じっている」というのがギリ、正直なところ。やっぱり、「どうこれ!?」とアピールしては「面白いね〜」と、公的な作品発表によって認められたいという欲が俺にはあるのである。

5つ。新たな挑戦であるから。これは、誰しもがむしろ、格好つけて言っていい表現なのではないかと断じる。それさえずっとあれば、死ぬまで楽しく過ごしては、呆ける機会にも触れずに、病室に居たとしてもカタカタ何かを書いたりつくったりしているだろう。死ぬまでなにかに挑戦するって俺は素敵だと思う。

それぞれ挙げた。どうして、執拗なまでに没頭して時間が歪曲すると感ずるまでに営んでいるのかを。細かくは他にもあるだろうが、根幹はこれら5つである。

だから、誰かに「どうしてそんな急に小説を書き出したのでしょうか?」と聞かれれば、1つ目をシンプルに答える。

「それはどうして?」と、掘り下げられれば、2つ目をわりと毅然たる態度で答える。

さらに「それはどうして?」と、言及されれば、照れを出さないように留意しつつ、3つ目を答える。

しつこく「それはどうして?」と、問い詰められれば、やや恥ずかしそうに4つ目を弁明する。

それでも「それはどうして?」と尋問されれば、堂々と5つ目を諭す。

それでも「何故――?」を繰り返されれば俺は顔を紅潮させて相手をボコボコに。しようと思った時点でもうそれはあんまよくない。それは知っているつもりなので、1つめに戻って結ぶ。「つまり、楽しく生きたいからです」と。以降、場合によっては問答がループする。

没頭のあまり、時間を気にしていない。それは生産的だと思う。しかし、問答のループ、コンピューターのフリーズのような状態で過ごすのはもういい――ギャンブル依存症時代がそうだった気がする――ので、さすがに手前も、各種ある本能のいちばんいいやつに従っている。欲求に素直。そう在るつもりである。

というかそれでいいんじゃないかなというところに帰結した。「なんで?」と問われれば、「欲求に素直だからです」と言えばいい。この結論に至るまで、今夜は25分かかりました。

「はい。みんなが静かになるまで5分もかかりました」などと、さも小学校女性教師が、そこまで騒がしかった教室内において言いそうなセリフを、俺はリアルでは聞いたことがなかった。

ただ、そういう風に、すこし、時間をかけないと諭す――ことこれは俺個人に対して俺が、だが――ことが難しいケースもあるのだなと思った。というか俺、昨日は、ただ、一日にあったことを丁寧に書いたつもりなのに、たった一日でまた何が言いたいか訳のわからぬことを書くようになった。

いや、わかる。

こと、近頃においては、「欲求に素直だからです」と一言で答えられるように営んでいるということ。本当にリアルで問われたらそう答弁できるかな。できるようにするためにそう弁明してるのかな。知らねえからもう素直に寝ろよ。
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このあいだ仕上げた楽曲をプラットフォームに公開する。「これは普遍的だし使いやすいだろ」と、高を括る。すると初動の数字(ダウンロード数)はそうでもない。よくあること。なんならこれの逆転現象もあったりする。

だからこそ、その時々でよく生きていて、内から出るもの、外から受けた刺激の具現化、謎に降りてきたもの、勝手に手が進むもの。それぞれを音とか言葉にして表に出す。これが俺にとっては頬を綻ばせるにも余る喜び。

そういった訳で今日も割と仕事をしては夜、小説を書いていた。いま書いているのは、かっこつけて言うと自身二作目。内容は実体験ベースはありつつも、フィクションの割合が多い。一作目は、9割以上が実体験。つまり、逆のアプローチで書いているニュアンス。

頭が如実に疲れているな。言葉が出てくるけど手が止まる。そういう時どうすればいいか。そのまま書けばいいと思う。

個人的にだがそう思うというか、その書き方以外はしないというか、さすがに仕事上では、考えてから書くなり連絡の文章を書くなりする。この違いは何かと考えた。

そのまま書くというのは、喋っていることと近い。口語体とも呼称するらしい。会話で〝呼称〟なんて俺は言わないけどとにかくそうらしい。それを小説で書くと時に有効となる。と、俺は思っている。

それが面白いかどうかを逐一判断するのは、「こいつの喋り、つまらん」と思われているかどうか、人様の顔色を伺っている日常の一幕に近い。かもしれないが、その、人様と喋っている時にそんなこといちいち考えていれば鬱の淵で溺死しかねぬ。

そのまま書くというのは、口癖みたいなものだろうと、決して弾劾したりしない。喋っていて〝弾劾〟なんて言葉を俺は使わない。もしも政治家になったら使うかもしれないが、出馬するつもりはないというか俺のマニフェスト。そうだなあ。本気で手が止まったあたり、俺に政治家の素質は皆無。

何が言いたいか。小説をほぼほぼ同一のペースで書き続けることが習慣化された。そこに浮かぶは面映ゆさに胸の奥が熱を帯びる思い。

なんて表現も出てくるがすいません。AIに、「――の文学的な言い回しをいくつかください」という、訴求プロンプトから得られた表現をそのままコピペしたものであり、俺の表現ではない。なんなら、本文二段落目の最後の一節もそれですよ。

というような使い方もほどほどに。じゃないと個性化を図るべく創作という営みがなんらかに取って食われることに、ジワジワとその感覚が麻痺しながら個が滅する。

それは御免被るというかじゃあ、手前の頭で〝文学的な言い回し〟を出せよと思うが、文学書じゃなくてウィトゲンシュタインさんにまつわる哲学書に興奮していた今日あたり、というかまだ、手前で言葉のいいやつが出てこなかったものだから、例えるならそう、ギタリストで言ったら足元のエフェクターを踏んでボムゥゥ……というようなファズのような音に頼った。

それは、たまにやるくらいなら効果的。だって、ずっとボムゥゥ……だったら「お前自身のフレーズを弾け。フレーズを」と、オーディエンスはたちまち帰ってしまい、ライブハウスの出入り口の開閉の回数をカウントしては意気消沈。そんなのいやだ。

だからこう、いろんな方面からインプットしながら、俺なりに言葉で濃密に、かつ今書いてるやつはポップに、それが実に言葉少なにして溢れ出す歓び。これもあれだ。先の手段。

ただ、ひとつ言えることは、どんな手を使ってでも成す。その意思、前提があり、小説を書いている。だから、相好を崩すを通り越す悦びを自他共に生じさせる次の景色に着々と向かっているつもりである。

というような、実のところ本当に全部、思っていることを書いたから、ウィトゲンシュタインさんで言うところの〝明確化〟というやつを方々でしている。

などと言ったら学者様方に竹刀を背負わされる――これはヤクザ漫画から得た語彙。日常会話において絶対に非推奨――かもしれないというかそうだろうが、結論。

現代的なハイブリッドな学びの姿勢がちょっとはあるということで善処してやってはいかがでしょうかと俺は思うのだが、今日については本当に何が言いたいのかわからない。

要点を言うと、1日。なのに、知覚する角度によっては至大なる情報量。それが現代。しかし逆説的にその情報量を忘却フィルターに受動的にかけられることがなんか、ある気がする。それ、現代的な生き方だと思う。

俺にはそれができているのか、したくないのか、個を具現化しているのか、抗っているのか、それがわからない。でも、それがわかる日が来る。だから今日もこのようによく生きる。それが胸に花咲く想いなり。

今日は手前の語彙にない表現を合計5つ、AIから引っ張った。これを共存と呼べるか否か。それをこう、立証すべく営む日々の、しあわせのかたち。そんなタイトルの漫画あったな。
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定期検診。メンタルクリニック。前提として俺の症状は重くはないという医師の見解がある。

「平吉さ〜ん」

「はい〜」

俺は1番の診察室に入った。

「どうですか。平吉さん」

「聞いてください。今日の今日ですが、ひっさびさに鬱の気配が如実にありまして!」

「ほう……」

「でも原因は明らかなんです。昨日、処方薬を飲むのを忘れていまして!」

「いえ、そんな一日で影響が出るほど強い薬ではありません」

「へ」

「夏ですからねえ……気候や体調の変動、あと、最近疲れてませんか?」

「明らかに過活動なことは間違いないです!」

「ですので、気にしなくて大丈夫ですよ」

「気のせい……?」

「平吉さんが最小限の服薬数で飲んでいるものは、離脱のような症状が出るには少なくとも10日はかかります」

「つまり、1日飲み忘れたくらいでは影響はない……?」

「そういうことです。忙しいんじゃないですか(笑)」

ここで「はい」と言うか迷ったが、なんというか色々と躍起になっているのが本質的なところなので、「まあ、すごくこう、動いております!」などと動物のそれを表するような回答をした。

先生は、他の患者の血液検査の結果用紙を机に置いていた。それを見て思い出したように俺は聞いた。

「あ、それ。最近僕、血液検査してなくないですか?」

「そうですね。特に症状が著しいという訳でもないので――でも、したほうがいいですよ?」

「したいです!」

「しておきます? 次回――」

「今でも!」

「では、しちゃいますか。廊下のそこでお待ちください」

なんでも3年。俺は血液検査をしていなかったという。すると怖いのが「血液検査の結果が加齢によって芳しくない」という事実を目の当たりにすることである。とはいえ、しない理由がないので俺は採血することにした。

「あら、久しぶりじゃないですか!」

「どうも。なんでも3年もしてなかったとのことで!」

おそらく年上の女史で、妙齢の医療従事者。採血は必ず彼女にしてもらっていた数年前の期間。

彼女はフランクな物腰と口調で、わりと俺と雑談をしながら採血をする。血液型はB型。というのも、その血液型の文脈で〝精神科の医療従事者は謎にB型が多い〟という一次情報を3年前得たのである。そう。俺も彼女もB型。だからウマが合うのかな。

「これが痛いんですよね〜」

「採血が好き、と言ってましたよね〜痛いですか?」

「痛いっちゃ痛い――ちょっとこれ、大丈夫ですかね。俺の血」

脈脈と俺の静脈から血液が抜かれ、それを目視した。

「良く言ってビンテージワインの色というか。ドロドロじゃないですかこれ?」

「いえ、これくらいですよ?」

女史は軽く、俺の腕に針が刺さったまま器具をクルクルと、まるでワイングラスをスワリング(偉そうにグラスをくるくる回すあれ)するかのように動作させ、互いに俺の血液を観察していた。なんだこれ。

「いやあ、さいきん視力が落ちた気がするわ、白髪は増えるわと」

「みんな歳には抗えないですよ〜」

「だからこう、久々の血液検査に僕、ちょっとびびってる訳なのです」

「そうですか〜血液抜くの大好きなのに〜?」

「好きだけど結果は知りたくないというか」

「意味がどこにあるのかわかんないですね〜」

女史の軽口。医療従事者とは思えないと言ったら差別発言にもなりかねるが、そんな女史の態度がなんか、好感持てる。

「だからこう僕、白髪――抜くとハゲるまであるので染めてやろうかと」

「いいじゃないですか!」

「でもねえ。抗わずの自然体の格好よさってあるじゃないですか?」

「いいんじゃないですか? 金髪にすれば」

「すればて。小泉純一郎氏や坂本龍一さんみたいに素敵に白髪になればまだ、わかりますよ?」

「なるほど〜」

「だからこう、かっこつけないかっこよさ。と言いましょうか」

「金髪にすればいいのに」

「どうしますかねえ――美学というのものが僕にもありまして」

「歳には逆らえませんかね〜」

「抗わない勇気と言いましょうか――」

「大丈夫ですよまだ若いんですし」

「ですよね――」

ほぼほぼ中身のない会話7割。採血3割。そのような配分の時間をもって採血室を後にした。

なにせ先々月あたり、主治医から酒量に言及されたこともあるので俺は、血液検査の結果を見たくない。ただ、血を抜くとスッキリする。そんで、あの女史と雑談してると主旨が飛ぶ。

そんな思惟をぶらさげて赤羽界隈ウロついて帰宅。今日はのんびり過ごす。

とはいえ、音楽制作にとりかかると素敵なギターパートのアンサンブルの草案が音の波形としてメモれたので歓喜。そして、小説を書いては気がつけば25時過ぎては4,000字くらいは原稿に書いていた。プロットで設計した物語の半分が過ぎる。つまり、普通に活動していた。

完全休日をほぼ設けず、そのような暮らしを続けては40代も半ば。俺の症状が重くなることを危惧。

しかし、動かずにじっとしているほうが俺にとっては最たる毒。だから今日もこう、夢に向かって勇気を燃料に走っては血を抜いて走る。大きな結果を出して、そこからもっと大きなスタートに立ちたいなという英気。

――その血液が、ドロドロのビッタビタでないことを願うばかり。健康第一は若き頃から意識すべし。などと思いました。
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