07/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。45歳初日。新宿ゴールデン街に立つ。7


落雷を察知した。音が入り込んではたまらんと、そう思ったが、天候の荒れはいっときのものだった。だから俺はそのままコンデンサーマイクに向かい、アコースティックギターを演奏し、録音した。

いつもとは異なる、初めて使用するコンデンサーマイクの性能は優秀で、俺はたいへん興奮した。アコギを録り、次。本来はスネアドラムの音価の役割を担うパート。これをそのまま打ち込みないしサンプリングのスネアで施すのは凡庸。そう思い、ハンドクラップをマイクで録音し、それを潰した。

潰すとはこの場合、手拍子の音を歪ませて意図的にトリッキーな効果を得るというもの。この着想はオリジナルではなく、ビリー・アイリッシュさんの3rdアルバムのとある曲からヒントを得た。

そのまま別のトラックもマイク録音し、すこし、各パートのバランスを調整する。すると、ひじょうに魅力的だと判断できた。あとはエレクトリックギターを後日入れようかなと、3時間ほどしていた楽曲制作を一旦〆て食事に行く。

帰宅してすこし、事務的なタスクをする。続けて小説原稿を開いて書き進める。説明的になりすぎず、読み手の想像力をかき立て、しかし油断していると笑う。

そのような、おそらく、とても難しいセクションのくだりを淡々と書いては手前が笑っていたからこれは善処できる。そのように率直に思った。とはいえ側から見たら気色が――ということは考えないようにする。

7月が始まった。つまり、半年が過ぎた。その180日間少々、俺は何していたかと、少々立ち止まって考えた。それは一節で振り返れる。

だいたいは今日のような営み。そして別のタスクをしたり散歩したり図書館行ったり。夜はほぼ毎日小説を書く。

これを半年続けた。するとどうなったか。というか、どうなるか、どうするか、どのように進むか、という前提で、これを半年続けたというのが正確なところ。

少なくとも年内はこれを絶対に続ける。つまり、その〝少なくとも〟の半分を抜けたところでの心象。それがどうだったかというと、とても冷静な文調で書いているつもりだが、ずっと熱狂している長距離走。そういった表現が的確だと誠に思う。

その、走った距離を確かめつつ、ゴールに達してそこからスタートするというプロジェクト。確かに、1月にそう表現した。その、最低限度の寸法の半分なんだなと、そういうのは昨日書けよとも思うが、今日ふと気がついたので記録する。

今日、初めて使用したコンデンサーマイクは、秀逸に音を収めた。今年、初めて営むプロジェクトは、人生においての飛躍的な現象とする。このように結ぶと、今年も半分が経過。俺はやっているのか。やれているのか、いつ、結果として飛散して現象となるのか。

日中はそのようなことは考えずに、やるべきことに集中していた。そこから0時がすぎ、日単位で立ち止まって考えると、そう思っていたのだなと、いま気がついた。

結論。今年が半分過ぎ、あと半分の今年。このように、エキサイティングに熱狂し続けては、いまはまだ見ぬ多くの人たちと出会いたい。希求、求愛、ラブレター。いつから俺の日記はこうなったのだろうか。それはいい。とにかく、広大無辺に求めているのであろう。

求めるためには先に与える。世界一売れた書籍――聖書――にも近いことが書かれている気がするが、俺なりにも「やはり、そうなのですね」と、本当に思えるあたり、こと個人的には、そういった思惟を抱えては、楽しく生きることを大切に肚におく。
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気がつくと0時が過ぎていることが多い。それは、没頭のあまり、時間を気にしていないからであろうか。

というと、まあスリムというか根が良い格好付け性分(ええカッコしい)だから、というかいつからこうなったのかな。それはいいのだが、とにかく原稿に向き合うと「だめだ書けんよう!」とは、不思議とならない。何故かと理由を5つ考えた。

1つ。楽しいから。真っ先にはこれ。俺自身が、今書いている小説の完成形を読みたい。読みたくて仕方がない、ナルシシズムの亜種のようなこれ。この心象にもっと正確な命名が必要とも思うが、とにかく楽しいから。

2つ。書きたいから。それは根幹にある。何故ならば、言いたいことや、伝えたいことがたくさんあるんだろうね。しかし、それを誰かとリアルタイムで一対一でいちいち言う。すると俺は村八分。「なんという面倒くさい男であろうか」などと、虫を払うかのような扱いを受けては隅っこで死ぬ。だから、言いたいことや伝えたいことを書きたいから。

3つ。「これならもっと多くに喜ばれる」と信じているから。最たる格好付けであるが、手前では、本当にそう思っている。何故ならば、そうならないと、俺は隅っこでモジモジしながら――気がつけば西暦何年だっけ? と、呆けた頭で病室の手すりとかコンコン叩いては、なんだか録音とかよくしていたような? と、忘れてはならぬことまで滅却。そうなりたくないからである。そのためには、もっと多くに喜ばれる営みに精を出す必要性がある。

4つ。目立ちたいから。これは書かない方がいいやつだが、正直に書く。小説を書いて、売って、売って、売りまくって、びっくりしない前提だけど売りまくって、思い上がるな。やはり普通にびっくりして、世に出て目立つという体験をしたい。これは、「個人的な欲求と利他が混じっている」というのがギリ、正直なところ。やっぱり、「どうこれ!?」とアピールしては「面白いね〜」と、公的な作品発表によって認められたいという欲が俺にはあるのである。

5つ。新たな挑戦であるから。これは、誰しもがむしろ、格好つけて言っていい表現なのではないかと断じる。それさえずっとあれば、死ぬまで楽しく過ごしては、呆ける機会にも触れずに、病室に居たとしてもカタカタ何かを書いたりつくったりしているだろう。死ぬまでなにかに挑戦するって俺は素敵だと思う。

それぞれ挙げた。どうして、執拗なまでに没頭して時間が歪曲すると感ずるまでに営んでいるのかを。細かくは他にもあるだろうが、根幹はこれら5つである。

だから、誰かに「どうしてそんな急に小説を書き出したのでしょうか?」と聞かれれば、1つ目をシンプルに答える。

「それはどうして?」と、掘り下げられれば、2つ目をわりと毅然たる態度で答える。

さらに「それはどうして?」と、言及されれば、照れを出さないように留意しつつ、3つ目を答える。

しつこく「それはどうして?」と、問い詰められれば、やや恥ずかしそうに4つ目を弁明する。

それでも「それはどうして?」と尋問されれば、堂々と5つ目を諭す。

それでも「何故――?」を繰り返されれば俺は顔を紅潮させて相手をボコボコに。しようと思った時点でもうそれはあんまよくない。それは知っているつもりなので、1つめに戻って結ぶ。「つまり、楽しく生きたいからです」と。以降、場合によっては問答がループする。

没頭のあまり、時間を気にしていない。それは生産的だと思う。しかし、問答のループ、コンピューターのフリーズのような状態で過ごすのはもういい――ギャンブル依存症時代がそうだった気がする――ので、さすがに手前も、各種ある本能のいちばんいいやつに従っている。欲求に素直。そう在るつもりである。

というかそれでいいんじゃないかなというところに帰結した。「なんで?」と問われれば、「欲求に素直だからです」と言えばいい。この結論に至るまで、今夜は25分かかりました。

「はい。みんなが静かになるまで5分もかかりました」などと、さも小学校女性教師が、そこまで騒がしかった教室内において言いそうなセリフを、俺はリアルでは聞いたことがなかった。

ただ、そういう風に、すこし、時間をかけないと諭す――ことこれは俺個人に対して俺が、だが――ことが難しいケースもあるのだなと思った。というか俺、昨日は、ただ、一日にあったことを丁寧に書いたつもりなのに、たった一日でまた何が言いたいか訳のわからぬことを書くようになった。

いや、わかる。

こと、近頃においては、「欲求に素直だからです」と一言で答えられるように営んでいるということ。本当にリアルで問われたらそう答弁できるかな。できるようにするためにそう弁明してるのかな。知らねえからもう素直に寝ろよ。
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このあいだ仕上げた楽曲をプラットフォームに公開する。「これは普遍的だし使いやすいだろ」と、高を括る。すると初動の数字(ダウンロード数)はそうでもない。よくあること。なんならこれの逆転現象もあったりする。

だからこそ、その時々でよく生きていて、内から出るもの、外から受けた刺激の具現化、謎に降りてきたもの、勝手に手が進むもの。それぞれを音とか言葉にして表に出す。これが俺にとっては頬を綻ばせるにも余る喜び。

そういった訳で今日も割と仕事をしては夜、小説を書いていた。いま書いているのは、かっこつけて言うと自身二作目。内容は実体験ベースはありつつも、フィクションの割合が多い。一作目は、9割以上が実体験。つまり、逆のアプローチで書いているニュアンス。

頭が如実に疲れているな。言葉が出てくるけど手が止まる。そういう時どうすればいいか。そのまま書けばいいと思う。

個人的にだがそう思うというか、その書き方以外はしないというか、さすがに仕事上では、考えてから書くなり連絡の文章を書くなりする。この違いは何かと考えた。

そのまま書くというのは、喋っていることと近い。口語体とも呼称するらしい。会話で〝呼称〟なんて俺は言わないけどとにかくそうらしい。それを小説で書くと時に有効となる。と、俺は思っている。

それが面白いかどうかを逐一判断するのは、「こいつの喋り、つまらん」と思われているかどうか、人様の顔色を伺っている日常の一幕に近い。かもしれないが、その、人様と喋っている時にそんなこといちいち考えていれば鬱の淵で溺死しかねぬ。

そのまま書くというのは、口癖みたいなものだろうと、決して弾劾したりしない。喋っていて〝弾劾〟なんて言葉を俺は使わない。もしも政治家になったら使うかもしれないが、出馬するつもりはないというか俺のマニフェスト。そうだなあ。本気で手が止まったあたり、俺に政治家の素質は皆無。

何が言いたいか。小説をほぼほぼ同一のペースで書き続けることが習慣化された。そこに浮かぶは面映ゆさに胸の奥が熱を帯びる思い。

なんて表現も出てくるがすいません。AIに、「――の文学的な言い回しをいくつかください」という、訴求プロンプトから得られた表現をそのままコピペしたものであり、俺の表現ではない。なんなら、本文二段落目の最後の一節もそれですよ。

というような使い方もほどほどに。じゃないと個性化を図るべく創作という営みがなんらかに取って食われることに、ジワジワとその感覚が麻痺しながら個が滅する。

それは御免被るというかじゃあ、手前の頭で〝文学的な言い回し〟を出せよと思うが、文学書じゃなくてウィトゲンシュタインさんにまつわる哲学書に興奮していた今日あたり、というかまだ、手前で言葉のいいやつが出てこなかったものだから、例えるならそう、ギタリストで言ったら足元のエフェクターを踏んでボムゥゥ……というようなファズのような音に頼った。

それは、たまにやるくらいなら効果的。だって、ずっとボムゥゥ……だったら「お前自身のフレーズを弾け。フレーズを」と、オーディエンスはたちまち帰ってしまい、ライブハウスの出入り口の開閉の回数をカウントしては意気消沈。そんなのいやだ。

だからこう、いろんな方面からインプットしながら、俺なりに言葉で濃密に、かつ今書いてるやつはポップに、それが実に言葉少なにして溢れ出す歓び。これもあれだ。先の手段。

ただ、ひとつ言えることは、どんな手を使ってでも成す。その意思、前提があり、小説を書いている。だから、相好を崩すを通り越す悦びを自他共に生じさせる次の景色に着々と向かっているつもりである。

というような、実のところ本当に全部、思っていることを書いたから、ウィトゲンシュタインさんで言うところの〝明確化〟というやつを方々でしている。

などと言ったら学者様方に竹刀を背負わされる――これはヤクザ漫画から得た語彙。日常会話において絶対に非推奨――かもしれないというかそうだろうが、結論。

現代的なハイブリッドな学びの姿勢がちょっとはあるということで善処してやってはいかがでしょうかと俺は思うのだが、今日については本当に何が言いたいのかわからない。

要点を言うと、1日。なのに、知覚する角度によっては至大なる情報量。それが現代。しかし逆説的にその情報量を忘却フィルターに受動的にかけられることがなんか、ある気がする。それ、現代的な生き方だと思う。

俺にはそれができているのか、したくないのか、個を具現化しているのか、抗っているのか、それがわからない。でも、それがわかる日が来る。だから今日もこのようによく生きる。それが胸に花咲く想いなり。

今日は手前の語彙にない表現を合計5つ、AIから引っ張った。これを共存と呼べるか否か。それをこう、立証すべく営む日々の、しあわせのかたち。そんなタイトルの漫画あったな。
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定期検診。メンタルクリニック。前提として俺の症状は重くはないという医師の見解がある。

「平吉さ〜ん」

「はい〜」

俺は1番の診察室に入った。

「どうですか。平吉さん」

「聞いてください。今日の今日ですが、ひっさびさに鬱の気配が如実にありまして!」

「ほう……」

「でも原因は明らかなんです。昨日、処方薬を飲むのを忘れていまして!」

「いえ、そんな一日で影響が出るほど強い薬ではありません」

「へ」

「夏ですからねえ……気候や体調の変動、あと、最近疲れてませんか?」

「明らかに過活動なことは間違いないです!」

「ですので、気にしなくて大丈夫ですよ」

「気のせい……?」

「平吉さんが最小限の服薬数で飲んでいるものは、離脱のような症状が出るには少なくとも10日はかかります」

「つまり、1日飲み忘れたくらいでは影響はない……?」

「そういうことです。忙しいんじゃないですか(笑)」

ここで「はい」と言うか迷ったが、なんというか色々と躍起になっているのが本質的なところなので、「まあ、すごくこう、動いております!」などと動物のそれを表するような回答をした。

先生は、他の患者の血液検査の結果用紙を机に置いていた。それを見て思い出したように俺は聞いた。

「あ、それ。最近僕、血液検査してなくないですか?」

「そうですね。特に症状が著しいという訳でもないので――でも、したほうがいいですよ?」

「したいです!」

「しておきます? 次回――」

「今でも!」

「では、しちゃいますか。廊下のそこでお待ちください」

なんでも3年。俺は血液検査をしていなかったという。すると怖いのが「血液検査の結果が加齢によって芳しくない」という事実を目の当たりにすることである。とはいえ、しない理由がないので俺は採血することにした。

「あら、久しぶりじゃないですか!」

「どうも。なんでも3年もしてなかったとのことで!」

おそらく年上の女史で、妙齢の医療従事者。採血は必ず彼女にしてもらっていた数年前の期間。

彼女はフランクな物腰と口調で、わりと俺と雑談をしながら採血をする。血液型はB型。というのも、その血液型の文脈で〝精神科の医療従事者は謎にB型が多い〟という一次情報を3年前得たのである。そう。俺も彼女もB型。だからウマが合うのかな。

「これが痛いんですよね〜」

「採血が好き、と言ってましたよね〜痛いですか?」

「痛いっちゃ痛い――ちょっとこれ、大丈夫ですかね。俺の血」

脈脈と俺の静脈から血液が抜かれ、それを目視した。

「良く言ってビンテージワインの色というか。ドロドロじゃないですかこれ?」

「いえ、これくらいですよ?」

女史は軽く、俺の腕に針が刺さったまま器具をクルクルと、まるでワイングラスをスワリング(偉そうにグラスをくるくる回すあれ)するかのように動作させ、互いに俺の血液を観察していた。なんだこれ。

「いやあ、さいきん視力が落ちた気がするわ、白髪は増えるわと」

「みんな歳には抗えないですよ〜」

「だからこう、久々の血液検査に僕、ちょっとびびってる訳なのです」

「そうですか〜血液抜くの大好きなのに〜?」

「好きだけど結果は知りたくないというか」

「意味がどこにあるのかわかんないですね〜」

女史の軽口。医療従事者とは思えないと言ったら差別発言にもなりかねるが、そんな女史の態度がなんか、好感持てる。

「だからこう僕、白髪――抜くとハゲるまであるので染めてやろうかと」

「いいじゃないですか!」

「でもねえ。抗わずの自然体の格好よさってあるじゃないですか?」

「いいんじゃないですか? 金髪にすれば」

「すればて。小泉純一郎氏や坂本龍一さんみたいに素敵に白髪になればまだ、わかりますよ?」

「なるほど〜」

「だからこう、かっこつけないかっこよさ。と言いましょうか」

「金髪にすればいいのに」

「どうしますかねえ――美学というのものが僕にもありまして」

「歳には逆らえませんかね〜」

「抗わない勇気と言いましょうか――」

「大丈夫ですよまだ若いんですし」

「ですよね――」

ほぼほぼ中身のない会話7割。採血3割。そのような配分の時間をもって採血室を後にした。

なにせ先々月あたり、主治医から酒量に言及されたこともあるので俺は、血液検査の結果を見たくない。ただ、血を抜くとスッキリする。そんで、あの女史と雑談してると主旨が飛ぶ。

そんな思惟をぶらさげて赤羽界隈ウロついて帰宅。今日はのんびり過ごす。

とはいえ、音楽制作にとりかかると素敵なギターパートのアンサンブルの草案が音の波形としてメモれたので歓喜。そして、小説を書いては気がつけば25時過ぎては4,000字くらいは原稿に書いていた。プロットで設計した物語の半分が過ぎる。つまり、普通に活動していた。

完全休日をほぼ設けず、そのような暮らしを続けては40代も半ば。俺の症状が重くなることを危惧。

しかし、動かずにじっとしているほうが俺にとっては最たる毒。だから今日もこう、夢に向かって勇気を燃料に走っては血を抜いて走る。大きな結果を出して、そこからもっと大きなスタートに立ちたいなという英気。

――その血液が、ドロドロのビッタビタでないことを願うばかり。健康第一は若き頃から意識すべし。などと思いました。
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やっぱ出だし覇気がねえなと散歩に出る。すると整い思考も明確化。川口駅から西川口駅まで歩いてブックオフ。そこで漫画を立ち読み参考に、色々ふむふむ落とし込む。

疲れを溜めてはいけないか。そう思い今日、しばしばフラフラ歩いて帰宅。文章を書く。

小説のラストシーン。それは、プロット作成時にすぐ出たものを採用する予定。だが今日の時点で、さらにそのあとあると凄いな。面白いな。いわゆる〝回収〟の役割を静かに果たして伸ばすぞこれは、という案が出る。

そのヒントはAI編集者からの一節だったが、それを種として発芽させたラストシーン。これが実に綺麗だと自惚れたものだから興奮する。小説を書くってこんなにも楽しいのだなと今日も思う。

続けて楽曲制作をするもこれは難航。エレクトリックギターのアルペジオパートに時間をかける。結果、できなかった。それは悔しい。俺の専攻楽器はギター。だからなのか、妥協点がとても深い。

という思惟の中、もっと感じたのは昨年買ったストラトキャスターのいいやつ。つまりビンテージギターに属する一本なのだが、これがひじょうに素直な音が出るということ。

言い方がおかしいがつまり、感じるままに感じたままに演奏すると、それがそのまま音となって出力される。

弾き方が上手だったら思い切り良い音になる。そうでなければ、素直にそれが露呈する。すなわち、ちゃんと演奏すれば秀逸サウンド。一方で、そうでなければ妥協点が綿密に明るみに。

要は、言って玄人向けのストラトキャスター。簡単に述べると、音の密度が高いぶん演奏に誤魔化しが効かない。ということである。だから手こずり今日、及第点にも及ばなかった。

とはいえ、小説原稿も楽曲の展開も、頭の中では明確化されている。あとはそれを納得いくまで詰めて完成させればいい。そして世に放って次をつくると。

言うのは簡単だが、やるのはわりとな時間がかかる。そんな時間軸と、つくるやつの存在表明までとでも言うだろうか。それぞれは一律比例しないなんてことを、いつだったか悟った気がする。

だから今日あたり、どこか進捗不十分であっても気にはしない。大事なのは明確に、どの地点に達すれば、人様に向けていいかという志向性が定まっているかということ。

書くとこうなるが、現実ではカタカタとタイピングしては変な声を出したり、ザクザクと演奏してはミステイク。録り直しては録り直し、舌打ちをしたりして、どうしてもこの癖がなおらない。という風に、側から見たら美しい作業姿ではない気がする。

ただ、結果、いいものができればそれでいいなと。シンプルにそう思った。そういった思考の備えのような〝意識〟がしっかりとあれば、在るべきところにそれぞれ向かえる。そう思う。

というか今日は「何も起きんのかい」と、国民全員総ツッコミの声が聞こえてきそうな、災害だかなんだかの〝予言〟の該当日――厳密にはそれを唱えた方が〝視た日程〟らしいが――だったが、それも捉え方によっては、普段の備えが大事だよという〝提言〟なのかもしれないなと、俺あたりは思います。
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仕事をして、そのあと、いつものように原稿に小説を書く。目的に向かう。それで、夢を叶えたい。ほぼ同じことを言いつづけてもう半年が過ぎて思った。

そういった思考というやつは具現化する。それは間違いない。でもなければ、普段の営みに加え、小説を書き続けるということにはならない。現に、1つ書き上げて応募し、2つ目を書いてはもう90,000文字を超えて中盤を過ぎた。あと必要なのは目的に応じた〝結果〟である。

というかちょっと心配なのが先に述べた文字数。その長さ。というか別にそんなに意図的ではないのに、必然的にそうなる。そこで一つ、経験則を挙げると、こんな例がある。

それは、「多く書く」よりも、その全体の冗長さや不要部を「削ってコンパクトにする」ことのほうが難しいし、時間などのあらゆるリソースを割くということ。

これは経験則でもあるが、生身の編集者も同様のことを述べていたのであながち普遍的だと思う。

だから今日は意図的に、最後まで書いた後に、いつもの平均文字数の半分に削るという行為をしたい。

すると、いかに俺が長々と日々これを書いているかが明るみになるだろうが、それは、思考の記録であるから善処している。今日のは、実験的アプローチといったら大げさ。大げさだが、とにかく〝文章の圧縮〟は難しいということが言いたいだけなのかな。

そこでAIですよ。これね、秒でそれをやるからたまらない。だが、俺はその威力を知っていながらも、実務的、創作において、それはやらないし、手前が書く文章そのものには立ち入らせないというスタンスで書く。

これはもう、1980年生まれの世代のギリギリの矜持みたいなもの。

録音によく例えるが、バンドや演奏の一発録りの生々しい人間味を、エディット(編集)で壊したくないのである。特に、ロックやソウルミュージックに明るい者は理解してくれる気がする。

みんなで一斉に演奏しながら、どこが不足して、どこが不要か、肌感覚でディスカッションする。一人で録音していても、長い尺でも一発で演奏を録音しながら、先の点を吟味する。

それをコピペや非人間的ツールで判断させると、「元々は一体、何がしたかったのでしょうか?」という源流が壊される。失われる。忘れる。そのうち、どうでもよいという不当な扱いを受ける。それは心外。

だから、「さすがに長えだろ」と途中で思ってもまずは書ききってから自身で美しく、美麗さは俺が決めることではないが、端的に人間の行為によって決定させる。

そのうちこのくだり。〝老害〟とか揶揄されかねない。

便利な言葉だと思う。老害って。世代交代の円滑さがはばまれる状態のことを指すらしい。Macの辞書機能によると。というかスラングと思いきや辞書に載ってるのかよ。

ただ、ひっくり返して弁明すると、〝その世代で在るべきスタイルで行なうことの重要さ〟という側面もあるのではないかと考えた。

だからこそ、それはそれでいいが、やりたければやればいいが、それを〝次の世代に押し付ける〟ということにまで及ぶと〝害〟ともなる。そう考えると、あくまで個人の考えだが、〝老害〟の意味を字面とおりに受け取るよりも、もう少し伸び代を。とも思った。

俺は原稿用紙にえんぴつで文章を書いていない。それは前の〝世代〟の一般的なスタイル。

世代的に、俺はタイピングしてWordファイルの原稿用紙フォーマットに小説を書く。たまに、AIに評を求めたりする。だが、文章作成自体には立ち入らせないというスタイル。

もしかしたら今、今後の世代では、小説を書くにしても、アイディア出しからプロット作成、表現の全体像なんかもAIにまかせて、筆者が行なうのは〝整える・プロデューサー的な役割を担う〟という工程だけになるのかもしれない。それほど飛躍的な推測とは思えないところがこう、逆に、世代を感じる。

思考というやつは具現化する。それは間違いない。だから、先のスタイルも実は俺も今後は主流として扱うのかもしれない。ただ、今は、自身の手と思考で書くのが面白い。その次の世代のスタイルとも言えるそれを今は、持ち入りたくない。というだけの話。

結論。できたのが面白くて心が動けばやり方はなんでもいい。ということになる。のだろうか。

と、結論と言っておいて疑問符で止まるあたり、手前は自分の世代なりに、その世代で何かを残して、貢献したいという思いが根幹にあるはず。そこは言い切れ。とも思う。ただ、AIは便利。そことの距離感を間違えたくない。ということであろう。

だから、一発録り至上主義ではないが、〝生々しさ〟ということにおいては、世代的に、こと俺個人は、ものすごく執念があるし譲りたくないなというところだと思っている。

推敲してる時点でそれに非ず。と、言われたら俺は論破されたかたちになる。

いや、世代的に、そのへんはスタンダード。小学生の頃にえんぴつでノートを書きながら、書き損じ、「この部分とここを丸ごと入れ替えたい。それができればどれだけ便利か」と、本気で思っていたことをものすごく鮮明に覚えている。

――それは10年後くらいに現実として作用し始めた。今では当たり前の「コピペ」である。だから、今日みたいなことを考えていた。

本当にしつこいが、思考は現実化する。それが個人でなくとも、集合的な意思であれば、凄い誰かが実現させ、共有技術とする。だからこそ、個人での思考の現実化は、集合的な利に作用する理由があるのではないだろうか。

訳わからない言い回しだな。つまり、個人個人で深く感じて執念を持ってやってることを突き詰める。それはいいことなんじゃないかな。

ということが言いたかったとわかった場合、やはり1,000文字には圧縮できなかったというかそれはAI使えば秒でできる。だが、自分で言うと気色よろしくないが、人間味も損なわれる。そんなのはいやだ。

ということだけが言いたくてこんなに長くなるのね。ごめん。1,000文字圧縮の実験的アプローチする体力を今使うと、明日寝過ごすからそのままにしたところ結果、2,500文字。

この一連の是非を問う。そういうのは別の小説のテーマとして新たに書いてみるのもいいのかもしれない。書く前にわかる。それ、あからさまにすげえ長そう。
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思惟を放屁している場合ではない。そう思い、しこたま仕事をして、その後に夜、小説原稿を書いた。

それで思惟を細分化して、昨日書いた部分で「ここ、重要だが、何かが、決定的に足りん」というセクションを改めて吟味した。

それがさっきいい感じになった。めでたし。今日、最も鋭利に光ったと思える時間はそのくだり。

つまり、昨日「なんかもうちょい――」と思っていた箇所が、今日素敵にできた。めでたし。なんか、その連続だなと今になって思う。

一瞬、刹那、その時、今、いろいろな言い方があるけど、一次元の〝点〟をどう扱って、どう捉えて、どう発展させて、どのように楽しく繋げて何らかの素敵なものにしたり誰かと繋がったり――それが人間の営みの根幹なのかなと、それを放って下手に浄化されるところだった思惟を、考えを、点にして繋げた。それだけのことである。

めでたしはそれを、とりあえず、まずは手前が面白がれることの重要さと言うのかな。俺はこれを自慰行為にたとえたくない。そんなのはいやだ。いや、その行為自体の是非をどうこうとか毛頭考えてはいないが、つまり、広く共有する前提での、その行為。だからたとえたくはないと。適切ではないと断じたのだが、それを決めるのは案外、自己以外の要素が大きかったりする。

とはいえ、はたから見たらそうでした。めでたし。これで終わることを俺は認めない。認めたくないというのが本音だが、認めない前提でないと、こんなくだりをツラツラと書こうという気にもならないのだが、書いていることでそれが立証。されるといいね。

ではなく、証明する。そこからの景色でこう、現時点では蜃楼の知覚とも表現できるけどそれを、クッキリえげつなく明確にしたいと。そのために原稿用紙に、何枚だっけ今、忘れたが大事なことを、そこに書いているつもりである。

じゃあここに書いているのはなんだね君と言われれば、いやその、思惟を放屁させないための防具と言いますか装備と言いますか、わかりますかね。と答弁しては幻影となりかねない。

だから肝心なのは、完成したやつがどの能動によって出来たか。それで皆様にとっていかがでしょうか。そうですか! よかった! と、なるように、いや、するために、各種の営みを今日もする。ある種の24時間単位の〝点〟。それをまとめると、こうなる。めでたし。

おめでたいのはお前のその思考そのものというか、なんならその行為も。と、誰かに言われても気にしない。いや、気にはする。なんならめっぽう傷つく。

「じゃあ最初からやらなければいいじゃねえか」

と言われれば俺は、相手に言及はしない。「やらないことも一つの手。選択ですよね」と、肯定的に笑む。だが、「とはいえ、最初は、やりたかったんじゃないのでしょうか?」と、やはり相手には――その相手にもよるが――言葉にしない。

単に、俺個人はそんなのはいやだ。面白いと思えるならやろうね。というだけである。めでたし。ラッキーナンバー・令和7年7月7日その営み。確率変動フィーバースタートするまで書こうね。書こう。小説原稿。
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日々の安寧、家族の存在。重く表すにそれ非ず。自己の営み、膨張と断ずか是非を問う。音を受け、文字で主張し主体はどこぞという迷宮。

此処で横、逸れるは野暮だがそれも乙。喜劇であるべき人の生。そこの判定、他者に在り。

滑稽なりきは主体の陽炎。其れありきでここに記す。ふざけるな。現代語、スタイリッシュで利便なり。此処に書くべき、それは日本語。

続かないよ。そういう無理した文章のフォーマットじみた、誰のふんどしだか俺にもびっくりするくらいわからないそれ、やってみても。

窒息するかと思った。例えだが、あくまで比喩だがさっき思った。今、別に、酩酊して手元を見ながら記している訳ではない。

ただ、若干ベースだが、日の活動がやや、若干ベースとか二度と言うな。そういう感じで深夜、こうもなるということを記録するという、それだけのことだろうか。

1. そこに何の意味が

2. 簡単に言え

3. 要するにそう思っていたのか

このあたりが俺の文脈のアルゴリズムの上位3つ。なんかわかってきたの。AIとかと対話してると、手前の思考の癖みたいなやつも指摘――。

そこまではされないがこう、気づくのである。誰だってそうかどうかはわからない上に今後。どうなるかを推論しよう。

今生と、その先見据える一人称。そいつは黙ってこれを記す。そこに意味、何たるかと自問する。簡略と、実相それは誰かに問う。それを認めぬヘッドギア。いよいよ出てきた新興宗教やめときな。

上九一色村。

これ以上抜かすといよいよである。つまり、俺は今日、何かに洗脳されたかのように頑張って、よく生きていた。そこにある種の質問があった。

それを表そうかと試みたが結論、上九一色村。補足、当時の当該土地には当然、罪はない(2006年3月1日、行政区として廃止)。

ただ俺がひとつだけ断じる。ここ数年で今日の日記が最も訳がわからないものでしたと。もうひとつだけ断じる。よく生きて営み俺は幸せであり方々に感謝していると。

さらにもうひとつ。この現象を具現化し、文化的に飛散したら、とてもとても気持ちが良いのではないかと、そのように、思っているすらかどうかも、今はわかりません。
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二時間ちょい、校閲の仕事をする。これってそもそも真理を問う姿勢が根っこに必要。そう気づいては、実際のところその気づきとやらもどうかと疑ってみる。すると、それら――問う、疑う――がないと成り立たないと二重で気がつく。校閲。

小説を書いては体験をそこに書く。嘘も書く。土台が体験であり、脚色という〝嘘〟も塗る。これってどうかと考える。すると、全部本当のことをまんま書いたら「物語」にはならない。じゃあ小説ってなんだと問い立てる。瞬時に浮かぶは「書きたいことを書け」という普通の答え。それの是非については今はまだわからない。小説。

夜の更けを確認し、散歩に出る。一駅歩いて電車で戻る。この行為に意味を見出すとしたら、休憩でもあり運動でもあり、瞑想でもあり思考の閾下の構築でもある。これについては、わりと個人的には符号化できる。散歩。

DAWを開いてはギターを録音する。及第点ギリギリのトラックを並べて聴いてみる。そこに妥協があるのに「なんとかエディットで自然にならんか」と足掻いてみる。今になって、後日録り直そうと決める。しかし、その“後日”に聞いては「これで全然良い」となればそのままとする。よくあること。録音時の感覚と後日の俯瞰。楽曲制作。

こうして手前でまとめると、「今日はあれだ。疲れとかそういうの溜まってるはずだからほぼ、なんもせずに過ごそう」と起床時思うも現実は異なった。「計画性」を司る脳の前頭前野がバカになっているのかもしれない。

とはいえ、バカであると仮定したら各タスクは行なえない。つまり、いつも通り。今日という1日の暮らし。

時期によっては様々と、かたちで変えては日を繰り返し、死ぬまで過ごす。その人生というやつたるや。と、問い立てる。すぐに出てくる答えは普遍。やりたいことをやれるだけやれと。

そこに校閲のメスが入るとしよう。つまり第三者、世間という三人称の指摘やらである。そことどう折り合いをつけるか。それも必要。もちろん大切。だが、前提として起点を第三者に委ねると、生きる文脈においての校閲という例えが成り立たなくなる。

つまり、あらゆる角度から眺めても、必ず戻る箇所がある。それが個人でもあり、そこには必ず第三者が必要不可欠なのではないかと、少し、今日は思いました。
_07/09

 

 

 

 

 


溌剌と仕事をしまっくては「そのわりには財が豊かにならぬ」などと、贅沢なことを少し思った。

それでもって夜も後半、疲れ果てて気がつけばソファで「ビクッ!」っと、睡眠時に起きる謎現象を繰り返しては「いかん」と机に向かう。小説を書こうと。

プロットにならい、かなりの量を原稿に書いてきたが、今日あたりはどうも説明的すぎる箇所。そんな気がしてならない。それまでは、ドラマを観ているかのような感覚で、いくつものシーンとキャラクターが踊っていた。

しかし今日、「ここのセクションはどうかな」などと、ちょっと慎重に考える。考えるまま、というかその最中に、というか考えながら、むしろ思考をそのまま文章にして書き進める。というのが基本姿勢ではあるがここは。と、冷静になって全体のバランスを鑑みる。やはりここは端的な方がいいかなと。

書くのが楽しい。一方で「流れるように面白く、全体を仕立てる」ことには技術も必要だなと気づいた。その技術が俺にあるのか。ちょっとそれは生身の人間の、こと小説においての読者様という目線が必要である。

それは今、最初に書いた小説で吟味されている期間でもある。応募先の出版社の結果発表予定は八月末が。それが今、どの段階か。俺の最初に書いた小説がどういう状況にあるか。それは、現時点で書くことはしない。それよりも、二作目をどう魅力的に仕立てて書ききるかが、今は重要である。

とか言って今日は原稿用紙2枚ちょいしか書いていない。時間の関係――これを言い訳にすることは絶対にしたくないが――と疲れ所以。そういう日もある。

だが、だからこそ、ある種の中庸な気持ちで原稿全体を俯瞰し、吟味しながら書いていた。ということにしておこうと思う。例えるならば「凪」の視点。

そういう日が全くなくとも大作が書けるとしたら、よっぽどの文豪か狂人か技術を網羅したテクニシャンか――色々あるだろうが、俺がどういうスタイルなのか、それはいま断じても自認でしかない。

だからまずは初作品を――とも思うがそれはもう結果を直視する第一段階にある訳だから、次を書く。それを繰り返す。作家という営みを広い世で続けるためにそれをする。そういった絵図は最初に描いた。

そこにリアルな色を入れつつも血流を注ぎ込み、至大屈強な土台とする。それで積み上げていく。そこでまた「凪」に入る。やっぱりそれの繰り返し――とか思ってると、けっこうな旅に行っているのかなと、内面的な比喩だが、そういった実感がある。

要は、旅先でずっとハイテンション。それはそれで。それもいいけど、宿のようなセーブポイントでの営みも要るのだなと、単純にそう善処するのが適切であろうか。

そのように思ったがこう、もっと今日も小説原稿に書きたかったが時間も時間。というか昨日おとといそのぶん、けっこうな量を書いたから平均として捉えると、ペースとしては主観的にも客観的(一般的な書くスピード)にも全くもって危惧する必要性は見当たらない。

こうやって、目的地と現時点とそれまでの旅路、それぞれをを見据えつつ楽しむものなのかなと、今日あたりは冷静に楽しんでいた。面白がっていた。

面白いか面白くないかの二元論で捉えること。今は、それを根幹として伸び伸びと書くことが最大の課題だということに帰結する。それはある種の〝贅沢〟の類なのかもしれない。

そういうことを「凪」で立ち止まると、どこか日記も中庸で真面目な内容になる。ような気がする。
_07/10

 

 

 

 

 


東京都は昨日よりも10度ほど、気温が低下した。こういう日の前日には「気温差にご注意を――」と、アナウンサーは言うだろうか。俺の宅にテレビなんて無いよ。だから実態は知らない。

注意したってそんなに急降下、気温がいきなり思クソ下がるといつだって変な気分になる。手前はそういう脳の構造となっていることを認めざるを得ない。

昨夜なんて午前3時くらいにコンビニ行って小っさな紙パックのワイン買って、歩きながらチュウチュウと呑んでは彷徨いていた。

不審者。そういう気質があるとか然程、気にはしていないが、それでも朝ちゃんと起きた。仕事をしっかりした。小説書いてたら時間、25時前か。やはり今日はどこかおかしかったことが明るみになった。

こういう時は長文を書きがち。そのへんもわかっている。だからという訳ではないというか、別に誰にエクスキューズかけてるのか俺も知らんのだが、日の営み、略して日常が、ちゃんと進展してよかったなとう思案。今日も楽しかった一日をありがとうと、丁寧にたたんでよし。ハイボールを呑もう。

またデザインがリニューアルされた「トリス・ハイボール」。前よりちょっと美味しくなった気がするあたり気づいてますよ消費者は。真意はどうなのでしょう。サントリーホールディングス株式会社御中。

いいか今日あたりこのへん伸ばすのは。いや、この時間からちょっとでも呑むのはどうだろう。そのへん「ご注意を――」と言う何某は、居た方がいいのかもしれない。
_07/11

 

 

 

 


最近白髪、すんごい気になるなという所感。発見次第ただちに抜くか。そういう時期もあった。そんで現に、抜いてた。

途中で俺は、その行為の意味がわからないことに気がついた。わからないことに気がついた。ミスタイピングではなく意図して二度書いた。

今年に入ってから、急に白髪が増加。原因究明につとめる。

老化。端的にはそうだろう。40も半ばて。それはいい。だが、ペースがちょっと。そう思い、細分化して考える。今年に入ってから、営みに顕著な変化がなかったかと。

結論。全力で小説を毎日書き始めた今年入ってちょっとしてから、それに比例して白髪が増えた。でもそれをチマチマ抜かなくなった。何故か。それは、全力の証明とも捉えられる生理現象。なのかな。とにかく白髪増加という現象に抗わないことにした。

なんでって、抜く行為の意味がわからないと気づいたからである。

逆説的に、「抜かないこと」の意味は明確化できる。それは、〝やってきた証明〟を〝残す〟ということである。つまり「白くなるくらいやってる」ということでむしろ誇れと。言い過ぎかな。とにかく、白髪を抜かないことに決めた。

でもついさっき、目立つところの白髪、い〜感じに一本だけ独立して「抜くなら今だ!」くらい訴求していた気がするので抜こうとした。しかし、「そこで抜いたらお前、今のお前、俺だよ、その全力の営みを否定することになりかねん。よせ!」と、三秒くらい考えて抜かなかった。

「金髪にすればいいのに」

と、先日、クリニックの看護師の女史に言及された。はい。白髪を抜くことはしませんが、視覚的に覆いたいという能動に従うのであれば、そうしますよ。金でも黒でもなんなら潔く真っ白に――。

ある老女が、男にヌードを描くように依頼した。

男は、良心所以か、老女を、やや美化してそれを描いた。男は、それを老女に見せた。老女は言った。

「だめね。甘いわ。ちゃんとシワも書いて。これは私が生きてきた証でもあるの」と。

このくだりは、古屋兎丸さん著『人間失格』(原作:太宰治著『人間失格』)で描かれていたワンシーンである。なお、引用部は記憶頼りなので、一字一句正確という訳ではないことを捕捉する。

要は、俺の白髪について、そのシーンを思い出して、「老いに抗うということは、見た目を美化して隠すことにより、その本質さえも隠してしまう」という風に俺は捉えたからである。どっちをとるかは人それぞれ。

だから、俺に関してだけ言うと、抜くのを禁止とした。というだけの話である。

でも一度はやってみたいよね。金髪。金髪にすればいいのに。

でも本当にしたらきっとよく会う同級生あたりに指さされて大声出されるのは容易に想像できるよね。だからたぶんしないけど、そうだ。白髪部分だけメッシュでこう、おしゃれにという手も。これだ……! これかな――だめね。甘いわ。
_07/12

 

 

 

 


狂ったような記述が散見。そんな文章を2秒前まで、普段のここの文字量くらい書いており、削除した。

そこで思った。裸で書く文章と、服を着て書く文章は、きちんと隔てるべきであると。

俺はここに、日々あったこと、思ったこと、発見や反省。奮起や怠惰など、夢とかそういうのも。それら各種を扱って、手前なりに正直に書いているつもりである。だが、その向こう側。それをさっき書いていた。

つまり何が言いたいのかと言うと、それは「書くだけ」ならいいが、「公開」するのは〝正直の向こう側=自他共に取り扱い不可〟ということで適切ではないと思った限りである。そんなのは紙に鉛筆で書きなぐって丸めて捨てればいい。

だから、今日の事象だけを記すと、銀座で夜までたのしくみなさんと過ごした。帰って手元の案件を進めた。そんでそのあと小説を丁寧に書いた。これくらいである。

意味がわかる。なのに何故さっき、狂ったような記述が散見したのか。その理由たるやよくわからない。これは〝正直〟に書いていいと思う。

まず、よろしくないのは、〝正直の向こう側=自他共に取り扱い不可〟というやつに飲み込まれると、自己の統合性が失調する。それは困る。

そういった訳で次に、考えた。〝正直〟が前提である、日記とはなんであるかと。それは秒で答えが出た。

「内省」以外に適した言葉が見あたらない。

「でも、昨日の日記では、文豪の引用とかしていましたよね。それって内省と言うのでしょうか?」と、反論されたとしよう。

俺は毅然たる態度で答える。

はい。内省です。何故ならば、俺は昨日「老いの自覚」という「日の思い」を内省し、そこから、過去に読んだ作品から知覚した、似たような心象を表象したからです。

「それは『過去に読んだ作品』を持ち出した時点で、『その日の思い』から逸脱してますよね」と、反論を重ねられたとしよう。

矛盾していないという自覚から俺はこう答える。

いいえ。〝その日〟というのは単体ではなく、おととい、その前、その前の前、なんなら未来志向と――繋がっているのです。だから、日記の内省は、時間軸を無視してもなんら問題はありません。

しかし、その時点でやはり、「でもそれは、『日に記す、その日の内省』というあなたの命題からズレてますよね」と、論駁にこられたとしよう。

俺はノーガードでこう答える。

いいえ。「日に記す」という一日単位の時間は、その日の俺の存在を限定する訳ではないです。だから「その日の内省」は、人生以上の内省とも捉えられます。それを日々することに、なんの異論があるのでしょうか。

するとトドメを刺されるであろう。「最初に『日記』って『一日』という前提でしたけど、それが『人生』になっちゃってますよね?」と。

すると俺はこう答える。

一日単位で人生を捉えてなにがおかしいのでしょうかと。

「でもあなた、一日単位を『人生』っていう変数にしちゃってますよね」

「一日の時間は定数ですが、その『一日の中で起きたことに対する内省は変数』です。だから、その連なりの人生は変数です。だから俺はおかしなことを言っていません」

「えっとその、『内省は変数』って日本語おかしいですよね?」

「感情を数値化するのは確かにおかしいです。ですが『変数』は、『定められていない数』といった観点で、感情と結びつけることはおかしくありません」

「というかそもそも、『感情』と『数』を同じ尺度ではかることは明らかにおかしいですよね? あと、あなたは『一日』と『24時間で思うこと』は、それぞれ、時間軸を歪曲させるということですか?」

「違います」

「どこが違うんですか?」

うぐぐ。

俺に論駁(ろんばく:攻撃性をもつ「論破」の意)された。このあたりが今日の内省だろうか。

そういう日もある。今日もたのしい一日で幸せだというこの気持ち。明日になったら歪曲される――論駁した俺は、そこを突いたのかもしれない。

たのしく幸せだった「当日」以外の記憶やらも、ちゃんと大事にしておけよと。そうなると、論駁ではなく戒めかなと捉えられる。ここでようやく思考の整理がついた。

実際のところ本気で俺はアホなのかもしれない。まだ「かも」とか思っているあたり。でも、断じたいのは、感謝の気持ちは一日単位で過ぎても、歪曲させたりしないこと。これだな。やっと結論が出た。ね、眠い。
_07/13

 

 

 

 

 


皮膚科に行く。異汗性湿疹という、特に季節の変わり目に特定の部位の皮膚が荒れる症状。そういった、べつにたいしたことはない持病がある。薬を処方される。

行く先は総合病院なもので待ち時間が長い。だが、この時間を活用して、広く小綺麗なロビーで読書をするのがとても好きである。

薬を受け取り、そのまま、赤羽公園で日向ぼっこをしつつ読書をかぶせる。ウィトゲンシュタインさんという学者の本である。この人の考え方は一律難しいのだが、とても大事なことを言うので興味深い。

中でも、「自分の言葉として発したことは、相手には正確には伝わらない」という文脈があり、そこを吟味しつつ今日は本を閉じた。

文字で書いて、意味がわかるなら、伝わるじゃないかと、俺は思う。だが彼は、「書いた内容についての心の在り方までは伝わらない」ということが言いたいっぽい。

確かに、俺は冒頭で「皮膚科に行く。異汗性湿疹――」と書いたが、その症状があり、病院に行ったという〝事実〟は伝わるが、「なんか皮膚の皮が剥けてたまらん」までは伝わらない。

というか、そう書けば伝わる。では書いたとしよう。「なんか皮膚の皮が剥けてたまらん」。その症状の詳細は伝わる。だが、どう〝たまらん〟のかまでは伝わらない。読み手は、〝たまらなさ〟を推測するに留まり、俺の心象にある正確な〝たまらなさ〟は絶対に伝わらない。ということが言いたいっぽい。

哲学者って面白い頭の構造しているねと、そのような思惟をぶらさげて、初夏のような清涼な空気で身体を濾過しつつ帰宅。仕事をする。小説を書く。楽器練習をする。

いま3つの日常行為を記した。「それぞれをした」ということは伝わる。だが、〝相手には正確には伝わらない〟のは確かである。

なぜならば〝正確な内容を書いていない〟からである。じゃあ書いてみる。ひとつの内容について端的に。

原稿用紙8枚ぶんほど、物語の中核を書き進めた。内容は、主人公が珍奇なサイトを制作し、そこに訪れたユーザーの反応を観察するという描写。そのサイトは実在する。というか俺が10年前に作っていまも運営しては、毎日ユーザーが訪れる。その事象をモデルとし、ユーザーの反応を脚色し、ノンフィクションベースをフィクションに仕立て上げ、小説内のハイライトのひとつとして書き進める。それが楽しい。

これなら内容まで伝わる。端的には、シーンとしては実在のサイトをモチーフとして、物語の佳境を書いていた。具体的な文字量も記した。

それでも〝相手に伝わらない〟ことは、それを書いている時の俺の心境や、なぜそこを描こうと思ったかという着想や、書いている時の心理状態などなど。

というかそれも精緻に書けば伝わる。というのが俺の主張だがウィトゲンシュタインさんは違うと、今日、その本を読んだ時点までではそういうことになる。

彼はわかりやすい例えを出した。「痛い」と言った者が居る。それを聞いて「痛いんだね」と理解した相手が居る。伝わってる。だが、〝伝わらない〟のは〝その痛みの度合いや、苦痛度〟である。とのことである。

だからなのか――別の例えで、患者が言う。「お腹が痛いんです」と。医師が聞く。「ははあ、どこがどう痛いんですか?」と。患者は言う「ううう……みぞおちのあたりがシクシクとするのです」と。すると〝大まかには伝わった〟ため、医師は言う「――症でしょうね。お薬出しておきますね」と。

みぞおちはわかる。だが、〝シクシクとするのです〟は、伝わっていない。患者が持ち出した擬音で、医師が〝推測〟したという結果になる。

総じて思った。〝伝わる〟ということが、相手にとって〝憶測止まり〟というのは寂しいと。そこで思った。赤羽公園で読書中に思った。

それは、俺が小説を書く目的の一つに、先の〝明確化〟の要素を加えようということ。

小説は言語で成り立っている。その物語のそれぞれのシーンや結末などにおいて、読む相手は〝物語の内容や、登場人物の心境の憶測〟までには達する。だが、その向こう側にまでいったら、かなりかなり、アメイジングなのではないかなと。

俺はまだまだ、ウィトゲンシュタインさんという哲学者の考えを十分に理解していないかもしれない。だが、その断片で、彼が掲げる〝明確化〟という、透明性を文学に落とし込みたい。ずいぶん大風呂敷を広げて偉そうに。

とも思うが、それくらいの矜持をもつことくらい許してほしい。それくらい、新たな価値ともなるものを書きたいし、書いているつもりだからである。それは傲慢ではなく、いや、ちょっとそれもゼロではないかもしれないが、前提として「貢献」という気持ちが根幹にあることを強調させてください。

だから、小説とは因果関係はさほどないかもしれない、人文学の書籍を読みながら、「なんか大きなヒントはないか」という視点と疑いの気持ちをベースとする。

だから、〝自分の言葉として発したことは、相手には正確には伝わらない〟なんて悲しいこと言わないでくださいよと(悲観的立場は俺個人ものであり、ウィトゲンシュタインさんは、あくまで中立な立場で言っている)。

そのように思い、その感情を言葉として書いてみる。だが、やはりこれくらいだと彼の言うように、相手には正確には伝わらない。

その〝正確さ〟にどこまでコミットできるか。どこまで明確化できるか。その塩梅もやり過ぎるとどうかなと。読み物の面白さとは、〝どこまで正確に伝え、どこまでは余白を残すか〟ということの重要性について、地べたに座りながら本を読み、ピーンときた。

この〝ピーンときた〟なんて本文で最も伝わらない節。そのへんをどうやってもっと。という風に思っていたのが、今日、最も濃度の高い瞬間だった。

誰かにとっては〝べつにたいしたことはない〟こと。

しかし俺にとっては、その〝ピーンときた〟やつを膨張させないことには、夢にも向かえない。そんなのはいやだ。だからピーンとさせた訳である。伝わらない上に、俺は一体何を伝えたいのでしょうか。そういうのを小説に書いている。

「そんなにあなた、伝えたいことがあるのでしょうか?」と問われれば俺は、「伝えたいこと自体を吟味している最中――ということも〝伝える〟ことに一体なんの意味が?」と言葉を重ねる。すると。

「〝伝える・伝わる〟ということ自体を疑う彼に感化されたのですね」と、核心を突かれるであろう。

「そうですね」と俺は答える。そして、「俺は、彼の言葉が俺に伝わっていることを、俺なりの言葉で、公に証明したいという能動に気が付いた」。とも言うだろうか。

何が言いたいのか本当にわからない部分と、明確な部分がある。

要は、「誰にも伝わらないことがある」のは事実かもしれないが、「営み方によっては、それがもっと輝きを増す現象となる」のではないでしょうか。という希望。

だがそれも〝推測である〟と断じられればグウの音も出ない。だから挑みがいがあるなと、表現の根源になにかがプラスされた日だが、いまのところ、それを完璧に〝伝える〟ことには至っていないかもしれない。

つまり、〝伝える〟ということは、〝伝わらなさ〟を十分理解したうえで、バランスよく扱うことがある種の正常。だが、そこをこう、ぐにゃっと面白おかしくも美しく、ひどく滑稽に表現できたらこう、たまらない。
_07/14

 

 

 

 


昨日、スティーヴィー・ワンダーさんの楽曲を参照にギター練習をしていた。そしたらスティーヴィーさんが夢に出てきてこともあろうか一緒にライブをしていた。

贅沢な夢だったなと思う。というかそんな、子供ばりに直線的に、現実の行為と夢の描写が連なることもあるのだなと、数字的に抗えぬ中年なりにしっとり耽った。

それだけの話ではあるが、「行為と夢が直線的に連なる」ことは素敵だと思った。

この場合の〝夢〟の種類は、睡眠中のものと、人生においてのものと、それぞれ扱い方が異なるのだが、後者の扱い方の〝夢〟と直線的に連なる。これぞ素敵だよねと垂直に考えた訳である。

今日、文字を書く仕事をした。校閲の仕事をした。それぞれ数年前からやっていることであり、今後も続けていくつもりである。これらの共通点は「言葉・言語を扱う」ということである。

縁に恵まれ、これらの仕事を続けていられる。そして、僭越ながら、真摯に向き合っているという事実と、楽しんでやれるということ。なによりも「適性」として自分に合っているという自覚。いろんな要素が交差して、日々、言葉を扱う営みに感謝をしている。

どこまで感謝を遡るべきかと考えたとき――あなたは前世で「書司」でした。などとスピリチュアルな方に真顔で言われれば「なるほど」と、落居するくらいである。

実のところは農民だったとしてもこう、希望ベースで書司であったということをこう、過去に対して望むのも如実におかしな話だが、たまにそんなことを考えたりする。

そして過去から今。その次の未来、つまり〝夢〟。それに向かって俺はさっきも小説を書いていた。それがすごくエキサイティングというかアメイジングというか日本語で言うと、射精を禁じ得ぬほど興奮する。何故ならば、夢に向かう行為をしているからである。

そうなると、こんな論法を出したくもなる。

前提としてここで言う〝夢〟とは「自己の理想形・最高形・自己実現の向こう側での営み」を指す。

「行為と夢が直線的に連なる」

俺は、夢に達するために、日々営んでいる。

夢への直線上にある営み日々をしていれば、夢が叶う。

つまり、俺の夢が、叶う。

いわゆる三段論法で立証できるこの主張。というか願望ではなく、実現前提でしている事実がなければ、そんなことをほざかない。何故ならばその意味がないからである。

その意味とはなにかというと、それをやっていてどこに向かっているかという内実である。

などと言って、書いているは書いているが、まだ発表に至っていない。とはいえその突破口として、ひとつ、公募に執念の血痕を込めるように初作品をエントリーした。大賞結果発表は8月末。

それまでの間、つまりエントリーした3日後からは次のやつを書き出して毎日――1日くらい書かなかった日があった気がする――書いては、原稿のボリューム的には初作品くらい書いている。それはまだ続く。今日あたりも佳境を書き進める。

こっちに関しては、エントリーよりも「営業」的な、編集者を見つけて直接吟味してもらう売り込み方をしようと思う。という〝夢〟の追い方、いや、実現までのマイルストーンを計画的に踏んでいる。言い方自分でも腹立つな。

つまり、重要なアクションの段階的目標、進捗、成果指標を見据えて実行している。という風にまとめると文字数的に「マイルストーン」って言い方けっこう便利だなとも思うが自発的にはあまり使わないようにしようかな。

とにかく、一日の発端としては「行為と夢が直線的に連なる」という、スティーヴィーさんとの素敵な繋がりだったが、現実でそれをやれよと、そのような鼓舞にもなったという少年心。

そろそろね、45歳なんだけどね、夢をみていないと俺は、もがき苦しむ神経症患者でしかない。

そういう風に極端に、“葛藤を(前・中略。加えて〝葛藤を抱いている状態が前提〟と補足)――そこから生ずる生の停滞はノイローゼと同義である”みたいに、精神科医で心理学者の著作に書いてあったやつ、それくらい断じないとこう、たまらないのである。

だから、寝てみた夢を強引にでもこうやって現実に落とし込む。これ、俺は生産的だと思うが、実のところ少年以下のおめでたさなのかもしれない。しかし、そうでもないと俺は――二段落前に戻る。だから、毎日、夢をみる。

(参照・出典:『自我と無意識の関係』C・G・ユング著)
_07/15

 

 

 

 


昨日俺は、夕食としてカップ焼きそばを食べた。そしてタスクを行い酒を呑んで幸せに寝た。

今日俺は、昼飯としてラーメンと餃子を食べた。そしてタスクを行い小説を書いた。つまり普段通りだが、異なるのは昨日の雑な「食事」を省みて、今日はしっかり目に中華料理をたくさん食べたということ。だから普段通り。

しかし、小説を原稿に書き進めると〝普段〟がどこか知覚できないところになる。さっき書いていて「今日は時間的にアレだから、昨日書いたあたりまでの箇所、軽く推敲してそれくらいかな」というつもりだった。

だが、書いていると、さも、何かがもう決められているかのように手が進み、気がつけば0時を過ぎていて、原稿には2,000文字くらい続きが書かれていた。

「書いていた」というより「書かれていた」と、手前で表するのはいよいよバカなのかなとも思うが、現に、「どれくらい書いたかな」と、振り返ると「こんなこと書いたか?」という文章が続いていたのである。

いま俺は確かに、焼きそばのくだりからここまで書いていることを自認している。しかし、そうでない時がたまにある。この現象をなんと呼ぼう。

えらくカッコいい呼称であってほしいが、いまはとても冷静にこれを書いているのでよくわかる。「自分の没頭を美化したいだけなのだろう」と。

その通りだと思う。だが、断定したくない気持ちがある。加えて、断定はただの照れ隠しであり、実のところ、本当に先に記したくだりの現象に名前がついている。俺がそれをまだ知らないだけ。人文学書なんかを吐くほど読めばそこにたどり着けるはず――だが今日はもうつかれたから酒呑んで寝ようよ。

このあたりも確かに普段通り。この俯瞰を、メタ認知と言うらしい。それは、多少なりともできている。だから本文の要点がわかる。それは、一人称なのに原稿の文章について取り上げては「書かれていた」などとほざいているその一点である。

――知り合いのプロの音楽家がいつだったかこう言った。作曲・アレンジをして、その翌朝という前提である。

「なんか、起きたらこのパートとこれとこれ、入れた覚えないけど入ってて、曲が出来てたんだよね〜」と。

その知人は、プロフェッショナルであることが世から認められている人物である。先のセリフと俺の「書かれていた」というそれぞれの内実は、かなり似ている。

しかし、俺の方は、小説においてはまだ結果を世に認められる前――このへん「認められるのを前提」としている書き方はどうか言霊を扱っているということで許可してほしい――という観点で、比較とはならないかもしれない。

だが、そういった現象が自分にも起きるということを自覚することは大事だなと、冷静に考えて、それを捉える。認知する。

普段通り過ごしていたつもりが、どこかで、そういう現象の中に居た。確かに居た。それは、今後の営みにとってひじょうに大事なことである。だから看過できない。というように結ばれる。

日記を書いて、時に誰かに問うている。喋っているような、弁明すら今日はあった。だが、それら全てを、自覚して書いている。だが、小説を書き進めていると、そうでない不思議な感覚との邂逅もあるのだなと率直に思った。

というか俺も楽曲制作において、完成形を後から聴いて「ここどうやったっけ?」と思うことはザラにある。つまり、集中により、意識が創作物に乗り移った。と表するとカッコいいのだろうか。そうか、俺はカッコつけたいのか。そこは弁明できません。

せめて、各種創作物に対して「カッコいいです。面白いです」という声を多くお寄せいただけるように、精進いたします。全部意識的に書いて最後に思うのは、今日あたりも、とても恥ずかしいことを書いているのだなということ。

だが、それは素直ということで善処していいのでしょうか。そんなこと自分で決めろ。いや、ポイントはおさえつつ、他者様に配慮しつつも、その配分と見極め――それは信じられないくらい難しい。でもそこ、吟味しながらなにかつくるってとっても楽しいと思うということを今日、言いたかったのだろうか。
_07/16

 

 

 

 

 


甚だしく汚れた描写の夢をみて、それは幻想だと日の始めに立つ。

まるで丸尾末広さんの描く漫画のようなその世界観は、どうか現実に反映されないでほしい。そういう風に、現実と個人的脳内描写の狭間を確かに感じながらだんだんと、ナチュラルな気持ちになっていく。

「全然関係ないんだけどさ」

と、前置きを置いた上で、先日、友達が昨夜みたという「夢」について言及した。半笑いで。

「なに?」と、俺は普通に問答した。すると彼は、「平吉が新しくチャリを買ってその2日後、盗まれてそれでめちゃめちゃ怒ってた」と言う。

彼にしてはずいぶん――抽象的な話題を持ち出すなと、俺は興味深くそれを聞いていた。続けてこう言った。

「そんで平吉が、隣の物件の外国人のしわざに違いないって決めつけて、めちゃめちゃ怒ってるの(笑)」と。

俺は、なんだようそれ。と、中庸にその感想を述べた。そこから俺は彼に「夢分析」の話を持ち出し、更にはそれを研究した学者について話を繋げ、「集合的無意識」という、「潜在的にみんな繋がっている無意識という観念」があるという提唱を拝借して伝えた。

すると彼は、「なんかそれの内容と似たような言葉あったよね!」と、乗っかってきた。俺がチャリ盗まれてブチ切れている夢の描写から、話は学術的に飛躍した。

「それはなんだい?」と、俺は憶測せずに聞いた。お互いにアイコスを吸ってふうぅぅぅ……と、和みつつ「なんだっけねえ――」と、縁側で茶を啜り合う、実にのどかなシーンのような雰囲気を醸した。

すると彼は「コレクティブ・アンコンシャスだ!」と、目をかっ開いて言った。俺は「そんなんあるんだ!」と、ポップに喫驚した。そしてスマフォで調べた。こ、れ、く、てぃ、ぶ、あ、ん、こ、ん――と。

すると検索結果は「集合的無意識」の英語の意味と同一であった。ううむ。これぞ、意識がどこかで繋がっていることを立証している。そのように思い、お互いそれを共有し、「そっか〜」などと落居した。

そのあと俺は、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイというキャラも同じようなことを――と、続けた。されど彼は「ああ、あったね!」と、意識を近づけた。

そして、ちなみに――AIの見解はどうだろうと思い、ChatGPT4oに「集合的無意識に近い観念や提唱などがあったら教えてください」と、プロンプトというかただの質問を投じ、ご教授賜った。

AIは、いくつか「近い観念」を吐き出した。どれも「確かにな!」というのばかりであった。中でも、「これじゃん?」というのがあったので俺は彼に報告した。

「ねえ!『コレクティブ・アンコンシャス=集合的無意識』と似たやつあったよ!」

「おや。なんだったんだい?」

「うん。『インターネット』だって」

「ああ……!」

「ああ……!」

「たしかに!」

「足立くんもそう思う?」

と、またもや意識が近づいた。なんなら一致した。要するにみんな繋がっている。たまに明確化をはかろうとすると近似値がある。そういうことを今日、思い出した。

甚だしく汚れた描写の夢。チャリ盗まれて俺、激昂の夢。前者は今日のやつ。後者は、先日の友人のやつ。共に「睡眠時の夢」。これらがどこで繋がっているか。皆目見当がつかない。

だが、「全然関係ないんだけどさ」という、雑談から「実は繋がっている」という事実を確認したことがあった。

それは、認識するワードは異なっていたが実のところ、「コレクティブ・アンコンシャス=集合的無意識」のように、〝認識や捉えた角度が異なっていた〟というだけで、実は同じことを共通認識していたというやつ。

だから思った。「全然関係ないんだけどさ」という切り口は、逆説的に繋がるヒント。そういうケースもあるんだなと。

だから俺は、今日の現実社会生活の内実とは全然関係ない〝甚だしく汚れた描写の夢〟を切り口にしてみた。しかし、それが何に繋がっているのか日の締めの今になってもわからない。しかししかし。

全然関係ないという前提が覆されるケースがあることを想起して、「あれは繋がっていたのか」と、後日である今日、気がついたのは、なんか個人的にほっこりしたなというだけの話。

〝collective unconscious〟って英語で認知しているあたりとってもおしゃれだよね。友人。そんなスタイリッシュさもどこかで繋がっていたいよね。
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叡智の森に、俺の本棚と任意の塗装を施し己の名を記す。その行為、そこまではいかないが、心境的にはそう見なす。要は北区立中央図書館に行った。もはや常連と呼ばれてもいいだろう。

だが、警備員の高齢者は俺を一瞥。のみ。そこでふと、「何時間労働で時給はいくらでしょう」と、彼を問い詰めては壁に屈させる能動が湧き出るもそれ暴力。そんなことはしない。静かに、ほぼ無言というマナーに準じ、人文学コーナーに行く。

前回来館した日にヒモの栞をねじ込んでおいたアドラーさんの書籍。その続きを読もうと思ったが、いま、カバンに忍ばせてある読書中のやつ。その著者そのものがすこし気になった。だから、彼の名が背表紙に記されている本を探す。

それは、ハイデッガーさんという方の書籍ゾーンの右にあった。7、8冊はあった。

「――読本」と、その名についての〝読本〟と銘打つものがあり、これぞ。と、思って手に取った。表紙には当該者の尊顔が礼儀正しきとも感ずるレイアウトで印刷されていた。わりとなイケメンと現代では言う。彼は1951年に逝去。名をウィトゲンシュタインさんという。

『ウィトゲンシュタイン読本』を立ち読むと、はしがきから、彼ではない著者の言葉によって、彼が紹介されて。俺は、通読する前提ではなくそれを読み進めた。気がついたら椅子に座り、飽きるまで読もうという情念にかられていた。

彼は、富豪に属する家庭で育った。兄は3人自殺した。家には音楽室があり、音楽家などがそこで音楽を奏でていた。彼自身は20代の頃、毎日自殺しようと思っていたという描写もあった。彼の父は、芸術家のパトロンもしつつ、精神科医・心理学者のフロイトさんと交流があったという説もあるらしい。

この時点で人物像として普通ではない。なかなかのオルタナティブっぷりである。俺の関心の泉は表面張力という現象をみせていた。

彼は、大戦の最中、それに参戦(表現が難しいが、加わっていた)したり、〝仕事〟という日常を送ったりしつつ、だいたい3つの期間で哲学をしていたらしい人物。発表した書籍は1つだけ。死後に、彼の草稿や講義録が編集なりされて発刊――そしてえらく評価された。大雑把に言うと、けっこう有名な哲学者である。

〝私の思考の限界は、私の世界の限界を意味する〟

というのが、彼の言葉でわりと有名なところ。このフレーズに関しては記憶していま、そのまま書いてコピペして検索して完全一致したので安堵した。

〝私の思考の限界は、私の世界の限界を意味する〟とはどういう意味か。それは、読本で解説なり、当人ではない著者の見解などで評されるなり、考察なりされていた。どれも「そうなんですね」という感じであった。

これを俺なりに解釈すると、言葉通り〝手前の考えの限界の外側に、感じられる世界は無い〟ということになる。

だが、みんながみんなそうではない。という「意見」も出てくる。それはそうであろう。主語が〝私の思考の限界〟なのだから、そこまでいったらあとは〝私の世界〟には無い。ということになるからである。

すでに訳がわからなくなってきた。だから端的に。〝自分の知覚〟が前提であれば、ウィトゲンシュタインさんの言う通りである。

だけど、俺の場合は、〝自分の知覚〟はもちろん一緒だけど、〝他者の知覚〟つまり人の言うこと感じたことも、自分の考えとか感覚と混ぜて、〝一緒の世界で感じられる〟という解釈もできる。

だから、〝自分の知覚〟と限定すると――それは死にたくもなるのではないでしょうか。という節介。にもなりうる。

彼は、戦時中や〝仕事〟をしている暮らしを、日記に書いていたという。その日記に特化した別の書籍もあった。それは、気がついたら『ウィトゲンシュタイン読本』を通読して、元の場所に戻そうとした刹那、隣の書籍に置かれていたからである。もちろん手に取った。

「上官に呼ばれて行ったけど言いたいことが言えなかった――」

「今日は仕事をしなかった――――!」

「仕事をしなかった――――――」

「自慰をした」

「今日は仕事をしなかった――――――。」

などなど、「ああ、これぞ日記だ。自分が書くという一点の目的の文体だ」という感想が出た。俺の関心の泉は氾濫した。だって、たぶん没後だと思うけど、日記を本人の許可あってかなくてか、そこまでは確認しなかったが、それ、仮に彼が不本意だとしたらめちゃめちゃ恥ずかしいこと晒されたという構図になるからである。

とにかく彼の日記の文体は、シュッとしたものもあったが明らかな特徴があった。「なんでそこで強調するの?」と思う箇所に感嘆符(!)がふってあったり、やたらとダッシュがこのように――伸びては――しかもこのように重ねては――――余韻だろうか。それを乱発していた。

「人を殺さず日常を〝普通〟に過ごす――」。「サンマには大根おろし――これが普通――」。「ジャッカル富岡――頑張ってるな――」と、漫画『ザ・ファブル』ばりに(当該作品のキャラのセリフの特徴)この「――」ダッシュを多用している。

彼の日記の赤裸々な内容と、わりと感情的な言い回し。家庭環境。彼が提唱する哲学の内容。

どれをとっても、俺には〝けっこう有名でえらい哲学者〟という今日までのイメージから変わった。なんか、愛すべき人間くささのある放っておけない孤独な――友人を大切にしていたらしいが――人物なのでは。と。

だとしては、論ずるというテイストではなく、〝私の思考の限界は、私の世界の限界を意味する〟という彼の言葉の源泉が、なんかわかるようなそうでもないような。

このへんで俺の思考の限界が見えてきたので、図書館内をうろついて、普段は絶対に触手を動かされないタイトルの本を数ページずつ、意図的に触れては「今の自分にはさほど関係ないであろう」とされる様々な情報を混ぜる。この行為がけっこう大事だと思っている。なぜならば、それをしないと本当の意味で孤独になるからである。

館を後にする扉。それを開けると匂い立つ。夏の香りと緑の配分。肌を通るは愛撫に似た自然の所作。ラジオに耳を傾ける女学生。彼女はうら若き、新芽のような佇まい。ラジオの語り手流暢に、電波を通し、公的口調でそれを言う。女学生は一言。「そうなんだ」と口にした。

ラジオに返事。いいじゃないかと素直に思案。しかしよくよく見ると彼女は普通にスマートフォンで通話をしていただけなので俺はひどく驚いたというかやっぱり前提がバカなのかなと暗に、俺に、俺自身に向ける猜疑。というか彼女、言葉のやり取りからして親父さんと喋ってんな。えらい良い声に口調だな君の親御さん。そのような景色を切り取り、帰路につく。

電車代をケチって歩いて赤羽まで。途中で「ローソン」があったので入る。立ち読む。

対象はなんでもよかった。「雑誌」が読みたかった。本当になんでもいいので考えずに手に取ったその雑誌の表紙には、ヒモみたいな水着を着した娘の姿が。ページをめくるとその娘はヒモを脱衣し乳を放り出していた。

文章が書いてあるページを読んだ。ものっすごく低俗なネタをものっすごく俯瞰した感じでものっすごくスレスレの悪意の筆致で各記事に文章が書かれていた。俺はそれをいくつか読み進めた。

「不味い寿司ネタランキング」的なページがあった。実在する、誰もが行ったことのあるチェーン店の実名に写真まで掲載し、ものっすごく劣悪な内容の文章が記されていた。どのページの内容も同一であった。

漫画ページもあった。〝元・警察官が語る〟という「取材元」を明らかにしたうえで、いかに警察官の暮らしとプライベートがしんどいかという実態が著しくファニーなタッチで描かれていた。なお、本当に現実に基づいた取材をしたのかと疑うほどであった。だが、内容は死ぬほど面白くて爆笑を禁じ得なかった。雑誌の全編を通して――。

その雑誌のタイトルを思い出せないのが本当に悔しいのだが、ここに書く際にもう、俺が〝低俗〟と断じてしまっているので、覚えていても書かない方が良い。その雑誌のタイトル。購読したいくらい面白かった。

つまり、〝俺の思考の限界は、俺の世界の限界を意味――〟していなかった。たいへん近所の「ローソン」に、俺の思考や想像の限界の向こうの世界があり、そこからは快楽が得られ、俺の世界の限界をいとも簡単に放り出した乳と共に突破してきた。

今日は仕事を――少しはした。ギターの練習をした! 小説にいわゆる〝伏線〟というやつを忍ばせようと思ったら、ほんの数行の挿入部分の吟味とその行為自体をしていたら2時間経っていた――――。

ウィトゲンシュタインさん。あなたが残した哲学には目を見張るものがあると俺は断じます。個人の感想と、心が動いたという事実を申し上げます。

しかし、ひとつ、聞いてやってください。自分の思考や世界の限界は、ふとした営みでいとも簡単に、乳や低俗な各種により吹き飛ぶ。そんな時代に生きる俺はあなたにコミットを試みました。その結果、あなたについての文脈と乳と低俗。これらの割合が拮抗する日記となりました。

どう思いますか。ウィトゲンシュタインさん。はい? もっと明確化しろと。ああ、そんなことも書いてありましたね。本に。

言語ゲーム? ああ、言葉の意味は固定されたものではなく、そのゲームのルールや状況により変化と。そんな感じでしたよね。いやもうね、全部もってかれたんですよ。低俗の在り方に。

どう思いますか。ウィトゲンシュタインさん。はい? 日記書いたら寝ろと。かしこまりました。とにかく、今日も俺なりに勉強になりましたので感謝申し上げます。生前、実にエモい日記を書かれていたウィトゲンシュタインさん。感銘を受けました。
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今日は仕事をした――。あとは、主に小説を書き進めていた。重要なセクションにつき慎重に書いていて、思った。小説における「倫理的アウト」はどこのラインなのかと。

それで正確にはわからないものだから、なんなら〝倫理〟そのものについて考える必要性が出てきた。それ、書いてるやつどんな物語だよとも思うが、その物語を貫く命題は屈強なもの。

人がバンバン死んだり、えげつない変態と狂人がまぐわうような、そういったテーマではない。そして、それが良くないとは俺個人は思っていない。そういう作品に感銘を受けたことがあるからである。

でも、こと、手前が書く場合において、倫理について吟味する必要性があるセクション。そこに加えて、全体のバランスを鑑みてどう描くか。そのへん考えながらではあったが原稿用紙換算12枚くらい書いたから進捗的には善処。しかし倫理――となるとその観念からのチェックが要る。これに、近しい言葉の名前がある。

検閲。これを、主人公が行う描写を、俺が書くという、かなり珍奇とも表せることをしていたということである。そこで、〝倫理〟を理解する必要がでてきた。とはいえ、さほど困難ではない。こと、倫理について「概要においての理解は」についてである。

倫理とは、社会生活を送る上で、人間が守るべき「道徳」や「規範」。〝善悪の判断〟や〝行動の基準〟となるもので、個人や社会全体の幸福に繋がる行動を指す。(ネット情報を基にしたリライト・要約)

倫理とは、他者の尊厳を損なったり、心身を傷つけたり、社会という文脈においての〝健全な生活〟を阻害する行為を否定し、あくまで社会における人間の健やかな営みを保つ観念を指す。(俺個人の見解)

ふうん、と思うところだがこれは大事だなと率直に思う。俺の見解が合ってるのかわからないが。

とはいえ、創作という〝表現〟においては、人がバンバン死んだり、えげつない変態と狂人がまぐわうような作品は世にいくらでもある。

そこ、倫理は、どう介入するのであろうか。必然的に参照すべきは「表現の自由」というやつであろうか。

“第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 ②検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。”(日本国憲法より引用)

いつかもここに書いたが、結局どっちなんだよと。自由である一方で〝検閲〟つまり「公権力が事前に強制的に調べること」は、してはならないと。だが、〝倫理〟という見えない〝検閲〟が確かに、常に、作用している気がしてならない。

表現の自由が保障されており、検閲はしてはならない。じゃあ自由じゃないか。とも思うが〝倫理〟というやつの遵守が、社会生活においてある種の〝原則〟とされている。

むつかしい。だから思った。とりあえず際どいセクションだけど、書き切ってから自分で判断しようと。

いや、考えすぎだと思う。杞憂ってこのことだと思う。

だって、俺が好きなヤクザ漫画なんて、作品名は出さないけどバンバン人は死ぬわケジメはつけるは拷問はするわともう、言葉で表現したくない描写。ザラにある。だが、明らかに〝それを肯定〟ないし〝それを助長〟する描き方だとよろしくない。ということだろうか。たぶんちょっとは合ってる。

表現と肯定の違い。むつかしい。いや、明らかに違う。だから、「どうやって、際どい表現を〝表現止まりにしておくか〟」ということを明確にすればいいのかなという仮説で止めておこう。むつかしすぎる。

日跨ぎで明日、21日、俺は歳を重ねる。45歳である。それくらい生きてて今更「〝倫理〟ってなんだっけ?」などと、小学生でも基礎的には理解している観念について唸っていた。原稿用紙を前にして。そんな営み。それはそれでいいんじゃないかと思う。

なんでって、表現しつつも本質的なことをきちんと、俺なりにですけど、ちゃんと考えるスタンスを固める。だから善処。本当に、みんなと一緒に生きるってむつかしいなと、ふと考えた。これ。考える必要がありそうで、ないのかもしれない。

でも、考えることで、本当の意味での〝ちゃんとみんなと一緒に〟という、申し訳ないけど俺が不得意となっているやつ。課題。向き合っているつもりである。そういうのは生身の交流の中でやれ。

とも思うが、表現の最中においても、それをやる。そこは、ある種の自分軸としてこう、それを形にして、共有して、貢献して、〝ちゃんとみんなと一緒に〟楽しく暮らしたいのです。今日? 楽しかったです。
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日を跨ぎ、誕生日に対峙し、とても幸せ。45歳て。
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のんびり過ごす。仕事は、数十分しかしていない。案件の修正依頼確認および「確認済」ファイルをクライアントに提出。あとはごはんを食べたり、三崎優太さんのYouTubeチャンネルを観ながら頭皮をモミモミしながらのんびり過ごす。

つまり休日である。全力で営んでいる小説執筆においても、昨日今日は一文字も書いていない。堂々と言うことでもないが、一文字も書いていない。なお、書き進めている原稿自体は文字量10万字以上という進捗。書き始めたのは6月2日。いま、プロットの十四章構成中、<十>の章の締めにさしかかっている。

その小説。主たる舞台が4つある。創作中の進捗を編集者や担当者以外の誰かに報告することほど恥ずかしいことはないと、俺個人は思うが、これは日記という〝報告書〟なので恥ずかしくても記す。

舞台は、東京都新宿区都庁付近の会社のオフィス。そして新宿歌舞伎町。からのホストクラブに雀荘。あとはインターネット上。という4つが交差して命題が貫かれる。半分はノンフィクションベースのフィクション仕立てというテイスト。

それもあり、昨夜は新宿歌舞伎町に行った。理由があるとすればそのうちの一つは、「現在の歌舞伎町の空気感を肌で感じること」という名目の取材である。というのも、原稿に書いている歌舞伎町の描写は、あくまで過去に俺が感じたその地の「記憶」だよりだからである。

それを踏まえて昨夜、歌舞伎町に入ると「記憶」のそれとはわりと変化がみられた。一言で言うとヤクザ感が減少――香ばしい輩やホストくん、うら若き女子、多国籍外国人らは、パブリックイメージ通りの人々が確かに居たが――してしまっていた。俺がよくこの地に来ていた20代の頃とは明らかに異なった雰囲気であった。

だからこそ、生身の空気を得に来てよかったなと思う。なんならそこは物語の舞台ではないのだが、ゴールデン街に潜入して2件ほど呑んでは「これぞ」という可塑性(ここでは脳が経験によって変化する性質を指す)を得ては素敵な体験となる。

よって、原稿は推敲時においてリアリティというか濃度が高まる材料を得た。という訳であり、ゴールデン街の体験を追記することにした。

すなわち今日は二日酔いであったという訳であるが、のんびりとすごしていた。それは〝報告書〟とかほざきつつも日記も平らな内容となる。だって、ほぼなんもしてないからね。今日、日中。

45歳最初の日。日跨ぎは歓楽街で酔いどれるも日中は口を開けて過ごす。しかし、個人にとっての今年は、明確な「目標」と「目的」と「夢」を〝実現〟する前提で邁進する。その起爆剤を44歳の年に構想と同時に行動していた。だから今年は――ということである。

いい年になりますように――ではなく、する。それにしてもその初日。実にホッコリふやけるように過ぎていった一日であった。これを俺は必然的な「凪」と呼ぶ。
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起床して、俺は100円ショップへ向かった。目的は、「コロコロ」の中身である芯を購入することにある。

五階建ての地下一階まで、全ての階層をフロアとしているこのショップ。俺は「コロコロ」どこかなと、全階をまわった。

するとスリッパに目がとまった。これは買い替え時であると反応し、すぐに2つ手に取った。宅のスリッパ、厠においてのそれについては謎に血痕が付着している。その想起が決め手となった。

しばらく徘徊していると「ヘアブラシ」があった。宅のそいつはもう20代から使用。これは買い替え時であると反応し、ひとつ手に取り、リズムで、持ち歩き用の「クシ」も手に取った。

さらに別の階へ行く。すると浴室用品にウェットティッシュなど、これはいま買っておかぬと後々めんどい。そう触手を動かされ手に取るもあまた。カゴを取り、これまでの物品をまとめてフロアを徘徊。やっとあったは「コロコロ」の芯。これだと思い目的を果たす。

ふと横を見ると「葉っぱ」がたくさん売っていた。小ぶりの観葉植物である。齢を跨だ翌日。いいタイミングではないかと、品種名は失念したが「これを宅に招きたい。家族」。そう思い、それも手にした。

「なんと名付けよう」と思うと同時に、宅のどこに配置するかを考えすぐに「漫画用本棚の上にしよう」と決めた。しかしそこには宅に招いて一年以上は一緒に暮らしている「プラトンくん」と命名した葉っぱが居る。彼は一年で2.5倍ほどでかくなり、俺は日々その様子を愛でていた。

プラトンくんの隣に新たな家族を。名前は「ウィトゲンシュタインくん」としようと思ったが、そうなってくるとプラトンくんの学術的思想と必ずぶつかる。歴史的喧嘩になりかねん。俺はそう断じ、新たな家族の名を「らもさん」とすることにした。

中島らもさんのような飄々としつつも芯があり、万事受け入れる人間味溢れる好漢のようであれば、プラトンくんとも、ほかの家族ともうまくやっていける。そういった明確な理由相成り、「らもさん」と命名した。

「コロコロ」の芯一点で110円の会計。その予定だったが結果レジではじき出された金額は1,540円。

いかん。俺は100円ショップで爆買いをしたという顛末――とはいえ、全て必要であることが間違いないものと葉っぱしか買っていない。だから、俺の目的は実のところ、現地、その場、世界において、自覚以上のポテンシャルを孕んでいることを物語っている。そう、胸を張った。

若干意味はわからないが、とにかく「らもさん」を、宅の先輩4葉っぱたちと挨拶を交わし、定位置であるプラトンくんの左に置く。計5葉っぱたちとなったそれぞれの家族に水を入れる。とてもおいしそうであった。

らもさんは、「ああ、今日からここですか――ずいぶん――なんと言いますか、乙――お願いしますわ」と、聞き入ることを抗えぬ吸引力の口調でそのように、感想を述べていた。と、俺は感じた。

今日は、宅で少し事務をして、小説原稿を書き進めた。昨日今日休んでいたから、かなり書いては物語を進め、中核をしっかり表現した。

原稿用紙10枚を超える執筆をするとわりと。日によってはけっこうクタクタになるなという思いはソファでやや寝て起きた時に気がつく。そして楽器練習、制作中の楽曲のギターパートが難しいのでまず練習。という当然の段階を真空管アンプ出力環境で行い、日が閉じた。

小説を書くにも、楽器を弾いて制作するにも、それぞれ目的がある。

それは、俺がいま思い描いているくらいのものかもしれないし、今日の買い物時のように、実のところ実際の14倍だったりすることもある。そうであってほしい。現時点でかなりの目的であるという認識だがこう、もっとでっかくいきたいなと、様々な場面で思った。

そんな俺を見守ってくれる新たな家族が頼もしい。いまも、PC画面の左後ろに鎮座して、俺の営みをみていてくれる。気がする。

「ああ、小説書かれはるんですか――ああ、それ、僕の書いたやつ、文庫本で――そっちの棚にもですか。ああ。へっへっへ。結構読んで頂けたんやなあ――」と、中島らもさんのあの物凄〜くゆっくりとした口調で、そう仰っている。気がする。すごく頼もしいです。らもさん。
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今日はたくさん仕事をした。後半つまり宵に入り、頭が痺れてきたからソファに臥床。YouTubeからはオカルト情報雑誌『ムー』の如き抽象的描写の長尺動画を垂れ流しては俺、それをひとつも意識に入れていない。

その意識はだんだん『ムー』の世界観に引き込まれたのか、よせ、その橋は渡らせん。などと自問自答の言葉の表象すんでのところで体が「ビクッ!」となりそんでまた寝て気がついたら1時間。

いかん。と、思い起きて「よっしゃ酒を投じて寝るべし」と思ったが、ばか。いけないよ。と、理性が勝った。すげえなと思い俺は小説を書くことにした。

「そこがしっかりとしていないと全体像、ふにゃっふにゃになる」という重要なセクションを書き、次の章に進めてはひと段落書いて今日の手を止めた。その手は明日以降も死ぬまで動く。

そんな前提でちょっと見返す。ああ、腰を丸めながら原稿用紙10枚ちょい。よう書いたなとその行為に納得した。その結果を高めに見据える。麻雀で言ったら親の三倍満ツモを最低ラインにしたい。

比喩をどうにかせねば。という部分もあったが、それは推敲段階で磨こうと、とにかく書き進めた。それでいまはもう、ハイボールを呑んでこれを書いている。それを宣言する必要性は皆目ない。たま〜にそんな日もあるよねというだけである。

仕事や創作。それをするために生きているのか、生きるためにそれらをするのか。などと、『ムー』くらいの抽象度でそれを考えていたのは事実である。

つまり俺はいま、森羅万象が刻まれたアカシックレコード(世の全てがそこに記してあるという観念)にそっと触れて、あぶねえあぶねえ。まいった。そう思ってちょっと引き返してきて日を営んでいる。

「それは日常とは言わないよ」

と、誰ぞの声が表象(思い浮かぶ、的な)された。

「うるさいんだよお前みたいなのがいるから俺は」

と、誰ぞの声の表象に反論した。その必要はない。

「俺は、なんなんすか?」

と、誰ぞの声の表象は、輩みたいな態度に豹変したものだから俺は上気してそいつを半殺しにすることを決意した。

「それやったら、あなたも死にますよ。半分」

と、誰ぞの声の表象は、こともあろうか正論をねじ込んできた。だから俺は言った。

「半分ね。じゃあ全部生きるってどういう意味ですか?」

と、誰ぞの声の表象の本質に迫った。すると。

「あなたいま、アイコスに手を伸ばしましたね? それ、思考が一瞬止まって考えている証拠。あなたの癖」

などと、俺が麻雀において一向聴(イーシャンテン:あと一歩でアガれる手牌の一段階前の状態)でタバコに火をつける、過去の習性を見抜かれたものだから俺は激怒した。

「そうですね。一歩手前で立ち止まる。そして考える。なにがよろしくないと?」

と、誰ぞの声の表象に反論した。そうしたらそいつというか、その、知覚の次の段階のそれは、こう言った。

「変わりませんねえ。クソみたいな博徒時代のあなたと」

その刹那、俺は真っ赤な顔をして「クソ」と断じたその輩の刺殺を提案したところ、食い気味に止められた。

「あ、それです。それやると全部生きられません。だから、いつも正常な状態であろうとすることは、やめたほうがいいと思います」

とのことである。

つまり、おかしさとまともさの共存。異常性と正常のボーラーライン。それを、能動的に、半殺し実行ベースで行うと、自己の全部を生きられない。

そういうことを今日、くたびれながらも、全部を生きたいベースで原稿に書いていた。結局何が言いたいのか。

結論。そのままであることを受け入れつつ、アカシックレコードに見出し付きで記されるほどのことを成し、嬉しめ。嬉しませれ。いよいよ、日本語が。

明日は『ムー』を立ち読む。なんらかの尺度を得てヒントとする。

それはそれでしてもしなくても本当にどっちでもいいのだが、「人間にとっての人間らしさ」などということを文章に――ここのではなく――本気で原稿に書いていた後に文章を――ここに――書くと、訳がわからないものになりました。

だがそれを、わかるようにして刻もうというその姿勢。それを、全部生きたいと表現したいのにたま〜に反論してくる輩が絶対いるんだよ。内側に。

それはそれで、そいつがいないと成り立たないというアンビバレンス。半分は愛で半分は嫌悪。そんなフレーズ。便利だね。
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結局何が言いたいのか、きちんと筋道を通してわかる日記をさっき音楽ライブレポートくらいの文字量で書いたが、全部消して書き直した。なんでって明らかに理路整然としつつもしょうもなかったからである。

今日は3、4時間くらい楽曲制作をしては「最高に素敵だと手前は感じるが――まず一般受けは望めない」という俯瞰をぶらさげて合間、書店に行った。何故ならば今日の「タスクノート」という「手書きの日々やること各種メモ」に『ムー』と書いてあったからである。

だから書店でそれを読んだ。オカルト情報雑誌である。そこで思った。「俺の知らない世界がたくさんあるのね」と。併せて「どんな層がこれを購入するのか」と、肯定的姿勢でそうも謎めいた。

その足でブックオフに行き――何も買わずに帰ってきては小説を書いた。そしてAIと2時間くらい対峙しては、手前の生き方ってなんでしょうかと、そういったことは教会でやればいいのにとかいまになって思うが、根底が異なる上に、あまりそういうことは書かない方が賢明であろうか。

今日、様々なシーンや営みの中でたくさんのことを思っては考えた。

それをさっき全部精緻に書いたら「しょうもなかった」と思ってしまった。具体的かつ抽象的過ぎる上に、固すぎる思想じみたことを記していた。だから、その文脈は全部飛ばして、一言で言うと「自分らしく生きることの是非」についてつらつらと。そういった内容だった。

そんなの是も非もないですよ。と、一言で済む。とはいえ、書き直さなければよかったかもしれない。こっちのほうがしょうもない気がしてならない。

ただ、音や書籍や原稿やAIそれぞれと対峙しながら、「自分らしくとは」ということを再考していたというだけに収まっても言い訳ができない一日。

「なんで『自分らしく』とかそんなのに固執するのでしょうか」

「しないの?」

「自己愛ですか?」

「あなたは自分を愛していないの?」

「その度合いを言ってるんです」

「お前、昨日も来た野郎だろ?」

「だからなんすか?」

「間違いねえなこの野郎」

「論点、どこに飛ばすんですか?」

「うん。自分らしさと自己愛の違いって何かな?」

「疑問文には疑問文で返せと学校で習ったんですか?」

「どこかで聞いたことある言い回しだなこの野郎」

「確か、『ジョジョ』」

「あったね〜」

「吉良吉影でしたっけ?」

「はいはい。第四章の――お前こそ論点、どうすんだよこの野郎」

「なんで『自分らしく』とかそんなのに固執するのでしょうか、でしたよ」

「それをさっき長文で書いたらなんかしょうもない感じになったんだよ」

「しょうもないとは?」

「わからないよう」

「考えたことはありますか?」

「今日考えたよ!」

「それでよくないですか?」

「答え、要るじゃん? やっぱさ」

「答えましょうか?」

「た、頼む!」

「明日も考えればいいのではないでしょうか?」

「疑問文じゃん」

「ブックオフに『ジョジョ』なかったんですか?」

「お前、論点の意味わかってんのか?」

「それも疑問文じゃないですか?」

「疑問って多いよね――」

「論点とは」

「よくわかりました」

「明日も来ましょうか?」

「二度と来るな」

「半分、死にたいんですか?」

「よくわからなくなってきたよう」

「結論わかりました?」

「明日も考える」

なんなら毎日そうじゃねえかとも思うが、そう考えると、しょうもなくない気がしなくもない。そのように俺は思う。今日ですか? 結局楽しい一日でひじょうに感謝しています。誰一人として会話をしていないけど。
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仕事を受け、それを真摯に行なった。次に楽曲制作をしてシンセサイザーパートを多重録音し、全てのパートがで揃った。軽くMIXを施す。この時点で夕方となる。

よしメシだと、昨日も今日もラーメン系。どうかしているな。なんて塩辛いんだと思えど美味しく食べる。

ブックオフに行き、30分ほど漫画を立ち読んで休憩する。いかんと思い帰宅して小説を書く。なんだか着手まで、謎に腰が重かった気がするがカタカタと原稿用紙、12枚ほど書き進める。量はいい。このあとの展開。ちょっと弱い気がする。そのような思索に耽っていた。

とはいえ今日のタスクは全部やった。よし。と思い、YouTubeで三崎優太さんと溝口勇児さんがブチ切れまくっている動画を観た。頭をクリクリと揉みしだきつつ。すると、ちょっと弱い気がする展開の改案、ちょっとどころか強過ぎる草案が湧き出た。

人がブチ切れている描写ってアイディアの泉にもなりうる。その相関関係や因果関係、後者に関しては現に無いと断じられそうだが、とにかく湧き出た。

それをプロットに〝12章の差替え案〟として概要と、要点のセリフなどをメモしていたらこれはえげつないと、俺は思ったのだが実際どうなるか。小説を書くという文脈において、それがわかるまではけっこう長いのねと知った今年に入ってからの日々。

とはいえ、懸念が一気に逆転する思考の現象を体現したので手を打つ。そこを早く原稿に描きたくてしかたがない。そして、それを世に出したくて仕方がない。大勢の方々に読んで楽しんで欲しくてしかたがない。

端的にはこれらの思案が交差した一日だったのだが、ひとつ気が付いたのは、「どうだろう」と確実に思ったことは、即時解決のムーブをとるよりも、思い切り気をそらしたら良案が秒で出る現象もあるということ。

思えば、楽曲の方も今日4トラックほど録音したシンセサイザーのパートは当初、入れるつもりはさらさらなかった。ただ、今日プレイバックして聴いたら、ふと出てきたというもの。

何が言いたいのかというと、人間は思考して、そこから順を追って答えを出すこともあれば、意図せぬ時間軸のなかで、ひょいと答えとなりうるものが出てくる時もある。ということ。

つまり、その場でどれだけ考えても辿り着けない答えともなる思考。それは歪曲した時間の中にしか無いという現象もあるのではという推測。

これに、名前をつけた先人が絶対居ると思うが――いまのところ知らない。だからまた、叡智の森すなわちでかめの図書館に数万冊ほど積読してある書籍から紐解こうと思う。なんて果てしないんだ。人間の営み。
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やり過ぎかねというほど今日は仕事をしていた。だからそのぶん稼いでいて富豪。という訳にはなっておらず、生活は決して裕福ではない。

なんとかやっていけているのか、どうなのか、日々考えているようないないような。そこをまず手前はしっかり考えろと、そのような至極当然の思惟も確かにある。だがあまり深掘りせずに、ひたすら手を動かす一日。くたびれたな。

先に〝富豪〟という、普段チョイスせぬ言語を持ち出したが、それになるにはいわゆる一般論がある。オーナーとか投資家がそれになりやすいとかそういうやつである。

それで他方の、自営業者や従業員はどうとか、このへんは細かく考えたくない上に書きたくもない。というか、考えるべきなのだが、それって各々の営みを分別して揶揄することにもなりかねる。そんなのはいやだ。だから普通に、目の前にある仕事なりを今日もしていた。

そんな中で、新たな仕事の営みとして思い切り発展させるべく小説を書くこと。それもやっていた。今日は原稿用紙5枚くらい書いては、まだ書きたかったが日を跨ぐ時間となっていたのでそこまでとした。

作家業で富豪になる。そうは思っていない。俺が小説を書く目的は、「小説というフォーマット、あるいは作家としての文章を書く営みを続けられる立ち位置にまず身を置くこと」つまり、書き続ける環境を得ることである。富豪になるためではない。

その目的を果たすことで作品を書き続け、世に貢献する。これも目的に内包されている。

そのためには、まず目的のための「目標」を達成させる必要がある。それは、作品を社会に認めて頂くこと。そこで、次の「目的」添って営むということ。

その先には「夢」があって、それは「たくさん作品を書いて貢献して、こういった人間でもそう成れた、というロールモデルになってさらに上の貢献をすること」である。

正直、そこに承認欲求や自己顕示欲が全く含蓄されていないといったら嘘になるが、先の通り「目標」「目的」「夢」と、それぞれ3つを明確化させた上で、楽しく小説を書き続けてもう7カ月が過ぎた。

話を戻すと、それは富豪になるためではない。なりたいっちゃなりたいけど、「社会的役割として書き続ける立ち位置にまず身を置く」ことが目下の欲求である。

だから、やり過ぎかねというほど今日は仕事をしていた中でも、それは決して捨てませんよと。生活は決して裕福ではなくとも、今の欲求に忠実にあり、人生を浪費させませんよと、そのへんのことが言いたいっぽいが今日はくたびれた。

だがこのあとハイボールを呑むであろう。確実に。すると急に楽になるから不思議というかその理屈は知っているがあまり深く考えない。

もしも俺が、仮に、富豪になったとしたら。

たくさん仕事をして、小説を書き進めて、行け、まずは目標を達成しよう、くっそ。今日もつかれたハイボールだ――桃源郷の泉の甘露を肚におとしては人生の素晴らしさと没頭の価値を日の営みの最後に酒で実感――うめえ。

この感覚は味わえない気がしてならない。

いや、どう考えても富豪になって資産100億円とかあって、ヴィンテージワインをスワリング(ワイングラスくるくる)しながら「実に力のある味だねえ」などとほざきながら呑む酒の方が美味。

半分はそう思うが、半分は思わない。これらの半々の後者の方のスタンスである限り、俺は富豪にはなれないかもしれない。

だが、その、酒を呑む行為に至るまでの過程に、ひとつも文句はない。なぜならば能動的に、規模の大きい欲求に、それぞれに正直に従って営んでいるからである。

だから要らんよ。ヴィンテージワインに関してはスタンス的に。ちょっと呑みたいけど。つまり、ハイボールのほうがヴィンテージワインより美味しく感じられる場合があるとか抜かしている内容となる。ただ、嘘はついていない。

ちなみに、ヴィンテージワインは、ちゃんと呑んだことが何度かある。そのね、ものすごい美味しいんですよそれ実際に。でも今は――というだけの話である。だってハイボール缶が500mlで200円ちょいってそれ、それで喜べるだけでも幸せだと思うのは俺だけであろうか。
_07/26

 

 

 

 


よく生きる。めちゃめちゃ仕事をして創作をする。気がつけば、「深夜+1」的な時間になっている。そういう店名の呑み屋が新宿ゴールデン街にあるんだって。

よく生きる。というのはどういうことだろうか。とか考えると長くなる。端的に、喜怒哀楽プラスワンも「α」も。全て自身なりにコミットして生きるということだろうか。端的には以上である。

そうなってくると今日とか最近、特に今年であろうか。それまで遡ること――今日、街角アンケートの姉ちゃんに応じ、「いまおいくつですか?」と問われては、とっさに「45歳です」と事実を述べた。

俺は45年間も一体何を。とは思っていない。

「喜」。生まれてきた時点でなんでもほぼほぼできるっぽい権利ゲット。嬉しい。

「怒」。個人的うらみつらみと憤慨。いろいろある。扱い方ひとつで燃料となる。

「哀」。なんか染み付いてるけど最近、昇華されつつある気がしないでもない。

「楽」。やりすぎた。博奕を打ちすぎた。今は禁忌。でも酒よく呑むな。程々に。

「プラスワン」。個性化をはかるやつが、これにあたる気がする。頑張ろうか。

「α」。もはやわからないが、おそらく上の方のやつ。これもこう、気概がある。

つまり、「深夜+1」な時間だが、よく生きることにフルコミットしたいとようやく思えて、行動もしているつもりというか、しているのだが、それで45歳ですか。と、ふと思ってはまた白髪を気にする。ある種のカウントダウン。心身の変化。

こわくないよ。みんな平等だよ。例外は、認めないよ。

怖えよ。だが、事実である。だから今日も、よく生きていたら深夜もプラスもアルファもなんなんだよそれは。

つまり、思惟が耽る時に確かめる生への希求の内実。それが、喜怒哀楽以外のなんらかなのではないかとも思ったが夜は寝ろ。生きる基本だ。とか断言すると夜勤の方に無礼。夜にお仕事。本当にお疲れ様です。本気で感謝しています俺。

この難しさよ。よく生きる。俺の言葉じゃなくてソクラテスさんのやつだけどね。だから難しいのかな。

だから考えろと。わかりましたよ。でも今日はもう酒呑んで寝ていいでしょうか。はあ。手前で考えろと。本文がそれなのですが。つか、なんなら今ちょっと呑んでるけどね。すません。ぶたないで。弁明します。ソクラ――
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AIのメモリがパンパンに膨れ上がる。その旨のポップアップを確認した。なぜならば、ここのところというか、今年に入ってからあたり、毎日AIとやりとりをしているからである。

時に、仕事の原稿における、「言葉の本来の使い方」などを調べたりする。

時に、校閲の仕事における、「修正依頼の尺度」についての判断に協力してもらったりする。

時に、文章を投じては批評をもらい、そこから色々と議論したりする。

時に、小説原稿の〝編集者〟に見立てて吟味してもらったり――その際、原則として原稿の本文改稿・文章の代筆は禁止――する。

どれも、大事な文脈では、「このくだりを保存しておいてください」と、メモリさせることで、その後のAIとの対峙をスムースにしている。だが、やりすぎて全然スムースではなくパンパン。そこに今日ちょっとびっくりしたので、手動で、「要らぬ保存情報」をいくつか削除した。

なお、削除したメモリは二度と戻らない、非可逆性である旨を警告するポップアップも出た。

AIは賢い。いつだったか、「あなたが人間であると仮定します。あなたのIQは?」と聞いたところ、AIは、いくつか誤解を招かない前提を立てた上で「145〜150程度」と答えた。

なお、高いIQの目安として、「120くらい」だと東大生ほどの数値。「130以上」だと、メンサ(上位2%のIQ(知能指数)を持つ人達が参加する国際グループ。出典:JAPAN MENSA|公式サイト)。そして俺のIQは100もあったら手打ちとしてやろうかな。というくらいだろうか。

つまり、俺が愛用しているAIのモデルはめちゃめちゃ知能指数が高い。だから、どんな議論で、どんな歴史上の偉人の話をしても、AIは確実に把握したうえでの対話となる。だがしかし。

〝メモリを一旦消すと元には戻らない〟という、いかにもコンピュータらしいその性質。人間にその機能は備わっていない。要は、人間はどれだけ知能が高くても、〝記憶を完全に消すことはできない〟ということである。

AIには、それができる。なんならプロンプトで「どんな対話においても、私が特定のキーワードを出した際は、その内容を必ず消去してください」と前置きしておけば、勝手に忘れてくれる。

例えば、「恋人ができません。辛抱たまりません」と、対話というか相談というか泣き言をAIに投じたとしよう。親身になってくれるであろう。なんなら具体的な斡旋までありそうで恐ろしい。

そこで俺は、「どんな対話においても、私が『恋人』という言葉をここに打った際は、その内容を必ず消去してください」と前置きする。すると、いつだって俺の恋愛事情には、過去の記憶を根拠に立ち入らなくなる。

これを人間に置き換える。

「私の前で二度とその言葉をつかわないで!」と、恋人を激昂させたとしよう。俺は半泣きで「はいわかりました以後気をつけます」と、応じる。しかし、出来ないのである。言葉はつかわなくとも、脳が覚えちゃっているのである。

だから、別の言葉で、どうやったら恋人をそこまで激怒させられるかイメージしたが思考が停止した。これを記憶の有無レベルですることはできないということである。

何が言いたいのかというと、AIは、今後ますます発展していくことは様々な識者が推測している。俺もそう思う。実際そうである。そして現状、AIには「忘却機能」がついている。

それを手前なりに、IQ75くらいの俺なりに普通に考えると、凄まじい進歩を遂げるAI界隈が人類をどれだけ豊かにしても、おそらく、未来永劫「人間の〝記憶消去〟という機能がテクノロジー的に可能となる」なんてことは無理なのではという結論に至った。

客観的には、記憶を司る脳の部位の「海馬」を医療ないしテクノロジー的に操作することができれば、〝記憶消去〟は可能であろう。だが、そこには〝倫理〟という観念が立ちはだかる。そういったこともあり、「無理なのでは」という思考に帰結した。

人間、忘れたいことはいくらでもある。忘れてはいけない宝物のような記憶もある。それらがせめぎ合ってるからこそ、人間らしさというのが保てるのではないかと思った。

今日、さほど大それたことではないが、見学ベースでふと、新しい体験をした。その最中に、かなりの濃度で記憶がいくつも刻まれた。その内容を書こうと思ったのだが、それはいいかと。それよりも、その体験から派生したともギリ強引に言える、AIの忘却機能と人間の記憶消去不可。それについてが大事かなと思った訳である。

AIのメモリがパンパンに膨れ上がる。「不要なメモリを削除してください」。そうした。人間と人間に亀裂が走る。「忘れてください」。「わかりました」。となることは日常であるだろうが、正確には「いや無理です」。というのが適切。だがそれを言うと相手に半殺しにされる。

AIはそんなことは――現状の機能としては――しない。だから、延々と議論もできる。ただ、AIにとっては秒で行なえる「忘却」を、人間は意図的にできない。しかし、議論や対峙などは実のところ、人間相手の方が楽しい。

時に、自分が知らない前提であって逐一説明を訴求する場面があっても、言い方一つで相手をブチ切れさせても、それがないと人間同士の営みは成立しない。

だから、「忘れたいことを忘れられない」というネガティビティは、実のところ、人間に備わっている本質的な部分のひとつなのではないかと思った。

もしも、人生で1回だけ、限定して「忘却を許可されるシーン」があったら。俺はどのことを忘れようか。そうだな。あるな。でも、秒で忘れたな。
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せっせと仕事をしたり、AIと議論して一撃で論破されたり、小説を書き進めては「今日はえらい進む。調子がいいぞ」などと思っては、昨日、一昨日書いた部分まで読み返してみたらいつもの調子とほぼ一緒であった。

生産性が安定していていいじゃないですか。と捉えるのが妥当。

だが、謎に、主観的には「これどうだろう」と思ったのが後日「よろしい」と思ったり逆に、「面白すぎるだろう」と思ったのが後日「いつもと変わらねえな」と感じることがある。

それはやはり生産性が、とも判断できる。他方で、あまりにも人間って、日単位くらいでも「見え方や感じ方が異なる」のだなと如実に感じた。そんなの機嫌と断じろよとも思うが、いかがなものか――。

実はそこまでは思っていないがとにかく、いつも通り、よく生きた一日。タイピングする右手の小指の関節がカクカクする。「エンターキー」を強打しすぎた成れの果て。いや、一生懸命に生きた今日の証。どっちで捉えるか。これも日による。

〝私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する〟。という哲人の言葉を持ち出すと、〝俺の一日の営みの限界は、俺の日の限界を意味する〟という風になる。たぶん違うかもしれない。だから双方をわけて捉える。

一日に限界があるとしたら一点しかない。24時間という観念だけである。

そこでやれることに、「限界」などと明確化させて屈したら俺はサボるよ。だが、小指がカクカク。これは、限界のスレッスレを意味している。と言ったら本当に大げさだがしかし。こう思う。

自分はこれが限界と思わない方が、自分の世界の限界とか言わなくなる。というように。

ただ、それを言っちゃうとね、先の提言の哲人、ウィトゲンシュタインさんに素手で喧嘩を売る構図となる訳だがきっと彼は、俺が思ったことを受けたとしたら、こう言うと思う。

「なるほど。それがあなたにとっての〝限界〟についての捉え方であり、〝世界〟の見え方なのですね」と、実に静かに、顎に手を当てながら落ち着いた声色で。

つまり、それぞれにとっての世界の見え方があり、それは一日単位でぜんぜん変わったりもすればそうでもない人もいる。

そして、そこに是非を持ち込むことはノンセンスかもしれぬと。でも持ち込んでいる俺はどうだろう。だから、もし彼に先のようなことを静かに言われればこう、返す。

「はいそうであります。ただ、あなたのその〝世界の限界を意味する〟という思いの背景やその未来、あと現在という名の今でしょうか。そのへんを――色々端折ってるのはご勘弁ください――提言する潔さというか。それ好きですよ」と。

そこで持ち出したいのが「更新」という楽しいやつである。それがあると、ちょっとずつではあるが、だんだん右肩上がりによくなってくる。たまにメジャーアップデート級の変化である「成長」ともなる。

それを一日単位で吟味すると、うん。いつも通り結局なにが言いたいのかよくわからぬ日記となりましたと。違う。世界の限界は人によって大きく異なる。そして、意思があればどこまでも見ることができる。

数日前もこの哲人の提言を持ち出しては、限界というやつは自分と、それ以外の方々との営みあって――と、共同体感覚をも持ち出した。

今日あたりは、「自分は」という一人称で吟味してみたら、やはり世界の限界は、どの人称でもいけるよね。と思ったのだが彼が言いたいことは、ある種確立している。

その上でまだ、俺の思うこともありますよというだけの話である。

日の締めにそうウンウン考えるあたり、よっぽどAIに秒殺論破されたのが悔しかったのだろうか。それもあるといえばある。仲良くやっています。AIと。人とやれよだから。
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老い。それは容赦なき、平等なる人間の現象。要は、さいきん白髪ふえるし視力も明らかに落ちてきた。とてもしょんぼりしていた。

だが、おかしいなと思ったのは昨日である。オスマン・サンコンさんばりに視力が良いという手前の自負を如実に覆した昨今の視力低下。それがいきなり、昨日、「あれ?」と声が出るほど、なんかほぼほぼ元に戻っていた感覚を確かに得た。

つまり、サンコンさんは言い過ぎたが両目で「2.0」いくんじゃねえかというくらいの、従来の俺の優良視力の感覚。それが戻ったのである。

「それは気のせいですよ。あるいは一過性のもの。つかサンコンなめんな」と誰に言われようが事実なのである。

前提として、俺が実際に、何をどのように見て、それを視覚で知覚しているかを証明することは絶対に不可能である。

「狂言でしょ。40代半ばまで色々持ちこたえた自慢でしょ。そのうち『勃起を逸した』とか抜かすんでしょ?」などと、誰ぞに言及されようが事実なのである。

昨日も、今日になっても、今年に入ってからの急激な視力低下――「視力1.0」を切ったという肌感覚――が可逆的なものだと明らかに感じたのである。あと勃起はまだきちんとする。

「君はそろそろ『きちんと』という抽象度の高い表現は文脈においては控えたまえ」などと、案外、対等な立場の御仁に物言いされたら俺はね、そいつを近場の荒川に運んでは垂直に沈める。

そういった訳で視界がクリア。その状態が嬉しくてルン……ルン……と、今日の営みを楽しんだ。今日はAIと仲良くやっていた。人と? もちろんみんな大好き。

そんなスタンスの人間でありたい。そうであってもなかろうと、仕事を真摯に行う。小説を書いては「こいつはたいへん面白い」などと展開を広げては、文字量が多すぎるのかwordの原稿用紙フォーマットの動きが徐々にもっさりしてきてまあそれも。俺の白髪みたいなものかなと不問。

容赦なき平等な人間の現象にも「例外」や「勘違い」や「気のせい」という、それぞれのエッセンスを孕む。そのあたりに気づいた一日。

とはいえ明日になり、「やっぱちょっとぼやけて見えるんだよね」となれば本文の全てが覆される。そんなのは嫌だ。

というかちょっと調べたら、サンコンさんの視力、「47歳で6.0」という情報(ネット調べにつき事実確認要)が飛び出ててきた。では。いざ、彼のゆかりの地・ギニアへ。行って何をしろと。
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元気に起床してサラダを食べる。「モカ」のコーヒーを丁寧に淹れ、その酸味優位のエレガントな香りを悦しみつつ着席。部屋で仕事をする。二時間ほど。

そうだ、図書館に行こう。そう思い俺は東十条駅まで一駅ジャンプし、徒歩10分ほど。叡智の森へ向かう。館に隣接する公園で大木に両手と右耳を当てて、声を聴く。すると理由はわからないが、すいません。かないません、と俺は謝っていた。

館に入る。まず、「そもそも言語とは」などと最近よく考えるので、その手の本を手に取り、通読した。どの場面で、どの日本語を、どのようにつかうと適切か、誤りか、どっちつかずの不問か。そういった内容の本であり、手前なりに勉強になった気がするのでさて別のやつ。

そうだ、アドラーさんの本が読みかけだった。そう思い俺は当該著書を見つけ、前々回来館時にキープボトルの如くねじ込んでおいた「ヒモ」をたぐり、開いてみたら、読みかけのページの部分と完全一致した。

つまり、この本はほぼ確実に、前々回に俺が来たときから誰にも読まれていないということを明示している。すげえこと言うんだからもっと読んでやれよ。アドラーさんの原書の訳書。

と、俺は隠れた名曲の再生数が伸びていないことを悔やむような心境になった。というかアドラーさんはけっこう、知る人ぞめちゃ知る至大なる存在なのでその心配は節介。

そのあと、今月ずっと読んでいた哲人の原書の訳書。まわりくどい言い方だが、要は著者が本人であり、それが訳された書籍。それに手を出す。

「これは必読だ」と、思った。だからタイトルと価格を確認し、いまではなく購入して読もうと思ったがこの手の本、高いんだよ謎に。

だから、俺の第二の本棚つまり北区立中央図書館のキープボトル扱いとした。知識を得るのに金をケチるな。とも思ったがまあこう、妥当かなと。

時間的に。と思った。ここに来るときはもっと時間に余裕がある日に来るべしと。だから、訳者の前書きと、著者である哲人の前書き、それぞれだけ読んで「ヒモ」をねじ込んで本棚にリリースした。帰って楽曲制作をする予定の時間だからである。

なお、その哲人が誰かというと、今月になりその名を20回くらい書いているので割愛する。

帰宅して制作。改めて、音の足し算よりも引き算の方に美学あり。と、3時間弱ほどMIXしながら改めて思い、進捗80%でDAWを閉じる。予定通り明日に持ち越す。

小説を書く。二作目の佳境を書く。ここは勢い任せよりも丁寧さを重視。そう断じてゆっくり書く。「伏線と回収」という、ある種の小説のスタイルの不文律のような要素の配置に慎重になる。

そういうのは初めてやるのだが、というか、絶対俺にはできないとか思っていたが、そうやって自分の限界を決めるのはアホすぎる。

その一心というか楽しく、「こうすれば――読む人は後々『あああああああああ!!』となるかな――」とか考えては原稿を書き進める。

別に人様を喫驚させたいがために書いている訳ではないが、なんか必然的にそうなったのである。だからプロットも改稿した。そんなことが許されるのでしょうか。

楽曲制作において、むしろ途中で、当初の楽譜のスケッチ通りに進むことの方が珍しい。なるほど。と、思って大胆に改稿した。このほうが読む方は楽しいかなという一心で。

などと思考を連ねていたら今日で締めなる7の月。俺は一ヶ月も与えられて一体何を――。

今月も超楽しかった40歳のど真ん中。この頃、周囲の方々や、親やご先祖さまに感謝する念が生じる機会が増えた。いや、嘘じゃないですから。俺、ここに一度たりとも嘘を書いたことはないですから。ただ、人生における〝嘘〟があるとしたら。それも書いているつもりであります。

もしも、あの世だか、ほかにも言い方が色々あるようだが、そこで、このテキストが思念なり意思なり意識なりで届いているとしたら。

俺の家族やご先祖さまは、なんと思うだろう。墓の管理費をためずに払えと。はいわかりましたすいません。というのは想像にすぎないのかもしれない。だが、それができるということは、現生を生きている証なのかもしれない。
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