09/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。9


詩的に、端的に日をまとめたい。そう思った。「端的」はわかる。短く。「詩的」は、わからない。たぶんだが、抽象的だがなんかわかるわ。そんなニュアンスであろうか。やってみよう。

――藁半紙にしたたるインク。目下の光景は太古の営み。俺はタイプライターで言語を連ねる。進化の礎に敬意を払う心持ち。その一切を懐にしまってはすぐに出そう。出そう。出るぞ。否。そもそもない。露呈。それは恋文に事実と異なるアッピールを綴るがの如し。

穢れた想い、白痴の能動は時に人の心を刺す。此の情念。黄胆汁に黒胆汁。ダムの麓で愛を知る。救われた。既知の叡智は昇華され、ポピュラリティに赦される。しかし当日付けで村八分。目の前には鉄筋コンクリートしかなかった。

下を見るとフトモモの旋律が記されている。俺はそれを目視しては直ちに弦で奏でてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの亜種を披露。ころころと転がる野蛮な歪み。俺はそれをそっと口にし、少女の頬を見つめてこう言った。今日は仕事がたくさんあったよと――

気違いの詩だよ。俺は自認できるよ。詩の才能に関しては信じられないくらい酷いものでありますと。というか全くもって、日を記す文章つまり日記になっていない。最後の一文以外全部が黄緑色のファンタジーだと。

詩人って憧れるけど俺には難解かな。それがわかっただけでもいいかな。などと思っては今日は実のところどんな日だったか。詩の文末が、それを示している。

端的に関してはできた。今日の締めの時間の今、思うことを直感的に詩にしてみたら言語は出てきた。

酷いんだね。言語脳に検閲かけずに羅列するとこうも統合性が失われたというか、ある種ストレートというか「黒胆汁」って久々に出したワード――四体液説という古代ギリシア人の提唱から引用――までアンダースローで思考から湧いて出たかのようだがそもそも球。それを握っていない気がしてならない。

何が言いたいかと言うと、普通に仕事をしていた日であった。特に変わったことはさほど。だが、〝詩〟と意識すると急に、突風のように、思わぬ文章というか、ふだん開けない引き出しから出土不要の何らかが出る。それは発見と言っていいのでは。

などと思ったが、抽象的だがなんかわかるわという今日の前提は覆された。何もわかっていない。それがわかったというのは、古代ギリシア人的でいいんじゃないかなと善処する9月の初め。そうか。季節の変わり目に人はだいたい――個人的思惟である。
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積読している書籍が10万冊はある。それを寝かしている蔵へ、と思う。すなわち北区立中央図書館に今日は居た。

先人の叡智と各人の脳内が言語で網羅されている。それは森のような大自然の規模であり、俺はそこに浸かるのが好きすぎてもう、今日あたりは入館して手前の部屋に入った感覚すらあった。

今日は少々、新たな主旨を掲げていた。

それは、日本の文学書コーナーにある各著書の「はしがき乱読」である。作家という生き物は、どういうイントロを奏でる傾向があるのかを調査するという目的である。

対象は、文学書であれば何でもよい。だから、五十音順にならぶ本棚から順に、ランダムチョイスで本を手に取る。タイトルを確認する。はしがきを読む。そして、著者のプロフィールと出版社、初版発行年数を確認する。

例えるならば、CDショップでの視聴コーナー。そこでヘッドフォンを耳に当て、並ぶアルバムの1曲だけを少し聴いてはその音像を確かめる。そしてアーティスト名とレーベルやどの国の作品か、リリース日各種を吟味する。これに近い。その行為によって、何となくのトレンドや各アーティストの毛色に触れ、ミュージックシーンの文脈が脳内で広がる。

かつてはそういうことしていたな。それで音楽詳しくなれたかな。今はCDショップ自体が――などと思ったのは今であるが、とにかく図書館で30冊以上くらいだろうか。はしがき乱雑調査を行なった。少しづつだけ乱読した。

そこでわかった傾向がある。それは、俺が思っているほど〝初動のインパクトを重視していない〟ということである。

例えば、“恥の多い生涯を送ってきました”(太宰治『人間失格』〝第一の手記〟冒頭より引用)くらい、一行で読者を魅き込むものは少なかった。

そして、本文においては、どこか〝小説というフォーマット〟が、さもあるかのような印象を受けた。どれも、良く言って「それっぽいの」である。わるく言って、今だったら生成AIに投げちまえば書けるのでは。という感触もあった。

もちろん、通読していないのでいい加減なことは言えないが、今日は、率直にそう思った。

途中、中島らもさんの著書を手に取った。客観的視点で読んだのだが、やはりこの作家は何かが違う。言語化不可能な魅力がある。それは俺の家の本棚にも数冊、彼の著書がある訳だと納得。

東野圭吾さんの著書を手に取った。何がいいのか俺には全然わかりませんでした。きっと、読み進めないとその良さはわからないのであろう。事実として、死ぬほど売れまくっている作家だから、それなりの理由が必ずあるはず。しかし、「はしがき・冒頭」にフォーカスしていた現場では、ちょっとわからなかった。

町田康さんの著書を手に取った。はしがきもそうだが、「この人にしか書けない文章」の頂点と言ってもいいのでは。客観的にもそう思ったが、20代の頃に当該作家の本をけっこう読んだから、身に染みてバイアスがかかっているのかもしれない。だが、事実として先の、世間的な評の傾向は確かにあるのは間違ってはいない。

ずいぶん本を多く手に取った。肌感覚では50冊くらいだろうか。そう思い、人文学コーナーに移動して、ピンポイントで積読していたアドラーさんの著書を50ページくらい読み、叡智の森を後にした。彼の提唱する、共同体感覚の冒頭みたいのを取材したんだな今日は。などと思いながら。

帰宅して仕事して小説の推敲をする。頭に残っている〝小説というフォーマット〟というのを少し、意識してみる。音楽制作で例えると、「俺はこの音像が好きだが、リスナーを意識してここはもう少し聴きやすく」というように。

本を読むというのは、著者の脳内の海に潜り込むような行為。その海岸は、どんな景色か。どんな温度か、波の満ち引きはどうか。深くまで入ろうと思えるか。溺れてしまいそうだから引き返すか。そもそも入らないか。

自然と生物の関係に例えるとそう俺は考える訳だが、思いのほか、いきなり波が押し寄せるような海岸は少なかった。それが逆に、心地良さに繋がるのであろうか。

そのように、ある種の標準を調査したあとで、手前の原稿のはしがきに「セックス」と記してあるこれ、どうしようかなと思ったがそれはそれで。
_09/02

 

 

 

 


死人が夢に出てきて俺はそいつに言った。ああ、彼女は、もう死んだんだったけと。というか言った相手も既に死んでいる。対象は、両親だった。

何を示唆しているのか深く、夢分析レベルで考察した。だがすぐにやめた。なんとなく、今またふと思い出しただけである。

睡眠中の夢ではなく、今生の夢を追いつつ地道にタスクを進める。一発で目標達成を確信するほど盲目になっていた先月初旬まで。そこから戦略思考時は冷静に、手を動かす時は熱狂は冷まさずに、邁進している。つもりである。

つもりではなく証明するためには、やはりわかりやすい結果が必要である。それに準ずる対象を2つに絞った。目標が明確だと思考が変わる。思考が変わると行動が変わる――ビジネス書とかによく書いてあるやつ。事実である。

とはいえ、その対象における結果はなんと来年。やはり長距離走となる。しかし俺はそのほうが得意という自負がある。だからそれを証明――そのためにやっているのではない。ここはライン引きが必要。

〝目的〟に進み〝夢〟に向かうためにまず、結果を出して〝証明するという目標〟を達成する。目的が「ただの証明」に、いつのまにか変わってしまうと本末転倒。それは、アドラーさんの本をよく読むものだから頭に叩き込んである。

――タスクの合間に『REAL VALUE』というYouTube動画を1本観た。堀江貴文、溝口勇児、三崎優太ら(敬称略)がメインとなって、登壇するプレゼンターの夢やら野望ベースのビジネスを吟味し、価値をつけたり述べたりするという内容である。俺はこの動画シリーズが好きでなんかよく観る。

理由は、なんというかエンタメ性を帯びた格闘技に近い構図なのだが、とにかくプレゼンターの熱意に心打たれる。

それに、先の三方に加えたあらゆる経営者など猛者たちが登壇者を徹底的に批判する。アドバイスもする。推測市場価値などを数字で出す。つまり、ビジネスシーンにおいての初動と熱狂の晒し上げと勇気付け。そんなエッセンスが主だろうか。

正直に言って、いち娯楽として観たらシンプルに暑苦しいだけの動画かもしれない。だが、この夢をどうしてやろうか、というような者が観たら、ある種の精神賦活剤のような効果をもたらす。俺は凄く魅力的な動画だと思う。

俺は動画を観た後、夢と呼ぶには地味な作業なのかもしれないが、いつものように手を動かした。その時間は、何者にも替え難い。

〝夢〟を追うことと、〝女〟を追うこととの類似点を提唱した方がいる。ワンチャン付き合えたら、結婚できたら、やれたら――そう考えるだけで熱狂できる。この解釈よりもさらに深い提唱なのであろうが、なんかわかる気がするような。

ただ、明瞭にわかることは、睡眠時の夢はだいたい訳がわからない。だが、今生を営むうえでの夢は明確化できる。

そう考えると、昨夜、夢に出てきた両親は何が言いたかったのであろうか。さっぱりわからない。しかしさらに考えると双方の〝夢〟には共通点はがある。

それは、〝わからないことに意識を向けることにより、生産的期待値がもたらされる〟ということではないかと。

そう考えると少し、「なぜ意味が異なるがどっちも〝夢〟という一語で表すのか」ということには理解に及ぶ。そんな気がした。

寝言は寝て言えと。なるほどそうですか。しかし、起きている時の夢に関しては言語化という人間屈指の具体化が可能。だがそもそも、言語というのは存在しない。難しい解釈だが、そうなる。

紙に文字を書いて「これは言語である」と言っても、存在してるのは紙とインクの跡でしかない。言語は、その共通で認識できる文字なりを共有して、各々の脳内で表されるから、存在はしていない。

要は、この訳のわからない文章を俺は100%理解できるが、他の方が言語と捉えて読んだとしても、「ホリエモンのくだり以外は全部意味不明」となることも全然ある。

だから、夢を追うことに俺はある種の魅力を感じ、「ワンチャンやれるかも」などと思っては大脳を勃起させているのかもしれない。よそう。

俺は2度とここに「ウンコ」と書かないと誓い、本当にそれ以来「ウンコ」とは一度も書いていない。今だけ例外。もう2度と俺は勃起って言いません。

いや、言ってもいい気がするけどこう、なんと言うか、勃起という現象自体も存在しない――もう今日のところは一旦やめよう。仕事部屋のエアコンから今、風力が静かに萎む音がした。
_09/03

 

 

 

 


人によってはものの見方がこんなにも違うのだな。などと思いながら校閲の仕事をする。その思いは未来、俺に向かって鋭利なブーメランの様に返ってきては如実に刺さる。そんな気がしてならないとふと省みつつ、日を閉じる。

何か変わったことが、といったら「夜飯はヴィーガン」という謎のスローガンを掲げてはここ数日実践していること。

ヴィーガンというのは完全菜食主義を指すので、食事タイミングに限定すると厳密には絶対にヴィーガンではないのだが、一食は野菜と豆とか。そんな風にしてみようと思った訳である。

レディオヘッドのトム・ヨークさんや現代歌姫のビリー・アイリッシュさん。個人的に好きな人物たちに共通しているのがこのヴィーガン(その〝程度〟においては限定できないので端折る。加えて、一例として触れるだけで、評価や代表化の意図はない)。

だから触発されたという訳ではなく、シンプルに先月の血液検査の結果の「中性脂肪の値がやや高いですねえ」というあるまじき事実を覆すのが目的。

肝臓の数値も正常の範囲内ながらも高めという点を捉え、主治医は「平吉さんの体格などを考慮すると――まあお酒でしょうね(笑)」と、明言していた。

俺は笑えなかったのでそれを聞き素直に酒を減らした。と言ったらわりとウソになるので食事をまずは――と、いうのが一連の中核である。

そこで昨日あたり、「ブロッコリースプラウト」という食材に目をつけた。それは、カイワレのような見た目であり、廉価でスーパーの棚に並んでいる。こいつが何なのかというと――。

――ブロッコリースプラウトとは、ひじょうに栄養価の高い食物。「スルフォラファン」を中心とする抗酸化・抗炎症作用と、ビタミン類・葉酸・ミネラルなどにより、解毒・免疫・循環器系の維持に寄与する。

さらには、細胞酸化の抑制を通じ、老化抑制や加齢関連疾患予防に資する可能性あり。ビタミンC・Eやカロテノイドとの相乗により「眼機能の保護効果」も示唆される。酸化ストレス低減や、血流改善を介した「頭皮環境の維持に関与する」が、白髪や薄毛を直接的に防ぐ根拠は限定的――。

とのことらしい。端的にまとめるとこうだが、俺の欲する着目すべき点を噛み砕くと、「ビタミンとか豊富でアンチエイジングや目にもいいかも。あと髪にもいいかも」というところは見逃せない。だから昨日今日、俺はカットサラダにブロッコリースプラウトを適量ミックスし、もしゃもしゃと豆食品と共に夕食としていた。

するとどうだろう。なんかいい感じがすでにある。これをプラシーボ(偽薬効果)という。そうあって欲しくないのだが、確かに体調はいい。

じゃあ、続けてみて、次回の血液検査で先生に「短期間でこんなに値が正常に! 一体何をしたんですか平吉さん!」と喫驚させては、「いい質問ですね先生。そのね、夕食だけ俺はヴィーガンに……」と、「またこいつは飛躍したことを言い出した! 強めの薬を追加すべきか――」と、議論に発展させようかと目論む。

多分だが、遊び半分ベースで「ヴィーガン」とか言ってたら、本当にそういう姿勢の方々に怒られるのかもしれない。ただ、試しに、である。

現に、今夜も元気に小説原稿も進めつつ、「頭がズンズンする上に尻がもうね」という感じではない。ほぼ確実に直接的影響はまだ、出ていないだろうがこう、気の持ちようは大事だよね。というニュアンス。

人によってはものの見方も、捉え方も、感じ方も異なる。絶対に異なる。ただ俺個人に関しては、「ブロッコリースプラウト」を新たに食生活に取り入れ、生活態度の一部分を〝限定〟させたことで、なんだか気持ちがいい。つまり、平和な一日であった。

なお、率直かつ一つも脚色のない「B・S(もう略す)」初食の感想は「なんかいいやつだ!」の一言であった。他方で、生まれて初めてまともにウイスキーを口にした青年期の初飲の感想も「なんかいいやつだ!」の一言であったことは長期記憶に根付いている。この鬩ぎ合い。どう扱うか。

過去や現在の生活態度の乱れは、俺くらいの年齢になるとブーメランの様に返ってくる。だがそれを軽やかに躱す。「B・S」を身に纏い。なお、本文章はアフィリエイトに非ず。というかこれ読んで「B・S」が売れまくったら大したもんだよ。

ヴィーガンの文脈は大げさだが、率直に「B・S」という一筋の光明が俺の食生活を照らしたという生活感丸出しなだけの話。

次回の血液検査時、手前の血液が「ヴィンテージ・ワイン」色から「ボジョレー・ヌーボー」色に変化するのを目の当たりにするのが楽しみだな。そんな簡単にいくかよ。初老だぞ多分もう。
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三日間ほど、妙な夢をみる。昨日一昨日は、両親が出演しては抽象的な描写があった。昨夜は、現実の知り合いが複数人出てきては、具体的に俺の営みを唾棄する内容だった。起床したら、その前、起床が、嫌だった。ひじょうに鬱屈した気分であった。

今日は定期検診で心療内科に行く日である。

俺は時間まで宅で仕事をし、言語と向き合っていた。正しく書いたつもりでも、人によっては誤読、誤解されることを一切消すことは不可能に近いのだな。などと思いながら。

夕方、いつものクリニックに行った。ロビーで待機中の患者は一人も居なかった。みんな健やか。そうなのかもしれない。俺は暗に、心細くなった。

「平吉さ〜ん」

「はい〜」

1番の診察室に入った。

「どうですか平吉さん」

いつも通りの導入である。主治医は――白髪染めをしているのであろうか、微妙な線だが、若々しい艶のある黒髪を横に分けて、ブレないメンタルでそこにただ、居た。彼は俺の3つほど歳上の精神科医。

「聞いてください先生。ここ三日ほど、変な夢をみては――調子も、『生活に支障のない』という前提ですが、鬱っぽい。言ってしまうとそういう感じです」

俺は素直に言った。

「そうですか。というか平吉さん、よくそんなに細かく覚えていますね?」

「はあ、そういう性格の癖と言いますか」

「もっと長期目線で考えていいんですよ? 数日で捉えるのは――」

先生は俺の尺度に言及した。

「そうなんすか?」

「二週間です。そういう状態が二週間以上続く場合は、そのように捉え、私たちも治療の方針を考えるんです」

「明確な線引きがあるんですか? 期間に……」

「そうです」

明言した先生は、机に置いてあった各書籍のうちひとつ、青い装丁の医学書を手に取った。そして、パラパラと「このへんだったかな……?」と、記憶を頼りに該当部を探す所作を見せつつこう言った。

「基準があるんですよ。鬱病の場合はどれくらいの期間、そういった症状が続くかと――」

書籍の背表紙を目視すると、「DSM-5」という語から始まるタイトルだった。それが何の本なのか、俺は知っている。

というか、同じ書籍ではないが、『精神疾患診断のエッセンス DSM-5の上手な使い方』という書籍が俺の宅の本棚にある。通読もした。

先生は、俺に説明したい概念が記されたページにたどり着いた様子で、読み上げた。「下記の――」と、原文を朗読した。

「そうなんですね先生。二週間と、明記されているのですか?」

「そうです。明記されています。だから、三日で判断するのは早いです」

存じ上げている。DSM-5とは、精神障害の診断と統計マニュアル第5版。アメリカ精神医学会が発行する分類・診断ツールである精神障害の診断と統計マニュアルのことである。なお、とても分厚い医学書であり、価格は2万円くらい。

それにまつわる手引書などが各種あり、一般的なビジネス書サイズのそれを、先生は手に取っていた。俺の本棚にある、先のDSM-5関連の内容とほぼ同一の書籍と推測して的外れではないであろう。

だから、先生が言いたいことも、その本がなんなのかも俺にはわかる。さらに、俺の本棚にあるDSM-5関連書籍の訳者の一人は、主治医である目の前のあなたのお師匠さまである、大野裕さん(有名な精神科医)。そこまで知っている。

だが、一般的なメンタルヘルスの知識しか知らぬ「程」で、俺は敢えて言葉を控えた。

「そうなんですか……じゃあ気にしすぎですかね?」

「はい。少なくとも、二週間症状が続いたら、です」

「なるほど。あとですね、やはり鬱っぽくなる時には『明確な理由があるか』で、僕は判断しているのです」

「ほほう……」

「最近、細々と、小さな程度ではありますが、『うまくいかねえな〜』という出来事がいくつかありまして」

「ふうむ」

先生は傾聴モードに入った。

「例えばですけど、女にフラれたとかだったら当然落ち込むじゃないですか?」

「まあ、そうですね」

先生は目を合わせずとも確かに笑んでいた。

「そこまでではないですけどこう、期待していた収入源が思いのほか少なかったり、ほかにもこう、細々と――そうだ、先生。聞いてください」

俺は聞いて欲しかった。

「今年初めから小説を書き出した話、覚えていてくれると嬉しいのですが」

「言ってましたね」

「結果が出まして」

「どうでした?」

「落選しました。ただ、そのショックに関しては一日で立ち直りました。それで思ったんですよ。ちょっと考えが甘かったというか熱くなりすぎていたというか」

「ふんふむ」

「だから、数年、少なくとも2、3年は要する長期戦になるなと。それで頑張っていこうかなと」

「できますかね? 平吉さんそれ」

正直言って失礼な返しである。だが別に腹は立たなかった。俺は即答した。

「できますよ。僕、長距離走得意なので。長期間で取り組むのが好きというか得意なんです」

「平吉さんは書き物の仕事が多いんでしたっけ?」

「はい。あとは音楽系――そうですね、例えば楽曲を作って無料ダウンロードで配布してそこから……端的に言うと、インターネット上での印税方式での収入があったり」

「へええ」

「それが、四半期であるんですけど今期のが思いのほか少なくて……それもありますけど、『なんだよ〜』くらいにしか思っていません」

「そうでしたか。でも凄いですよ平吉さん。それでちゃんとお金入ってくるのは」

あまりにも長年続けている長距離走につき、凄いと言われてもさほどピンとは来ないが、率直に嬉しい言葉である。

「そうですか。だから、それもやりつつ作家業もしたいと。だから小説をと。しかし、一発ではだめだったと。それで長距離と言いました」

「なるほど。じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」

この先も聞いて欲しかったが、先生は俺の母ちゃんではない。鬱のくだりはしっかり解明しつつ説明してくれて、俺のその他の営みについての傾聴では、カルテに何も入力していなかったことを確認している。

まあ、そういうものかなと、ちょっと今日はノリがアレだったな先生。などと極めて個人的思惟を抱えつつ界隈をウロウロと。書店に行って乱読したり、ストリート・ピアノを本気で適当に弾いていたこと以外は明瞭に覚えていない。

気分もフラットになってきたので帰宅して、Macのストレージ整理をする。AIに最適な方法をいくつか聞き、採用した手段をいくつか実践し、けっこう軽くする。もちろん、人間の記憶などもこれくらいササと軽くなればななどというファンタジー思考に少し触れる。

ふと、鏡を見たら、徹夜麻雀明けのような目元になっていたので仮眠する。疲れていたのか鬱なのか、正直どっちでもいい。なお、俺個人に関しては、抑鬱状態の時、顔色は別に変化はない。むしろ逆にキリッとしている印象。

だから疲労と見なして小一時間寝た。起きた。小説の推敲をけっこうやった。面白かった。心理戦のくだりの章。実体験ベースの章。物語内においての雀荘での相手として、実在するモデルのS藤さん、元気かな。超絶イケメンでタトゥーバキバキの見た目おっかない同い年のS藤さん。

原稿用紙を目の前にしては、脳内に具体的なイメージが湧く。読者もそうあって欲しいなと、想いを込めて推敲する。他方で、一日単位でこれを捉えると、全てが抽象的に表象される。

二週間。こんな日が続いたら俺は目を輝かせ、キリッとした表情で先生に報告するであろう。「先生! 二週間続きました!」と。その時に主治医がどんな顔をするか。カルテに、おぼつかないタイピングで何を記すか。

俺は是非、それを見てみたい。されどきっと、新たな小説がもう1つ以上書ける贅沢な材料となるであろう。金を出してでも、それが欲しい。そうだな。二万円まで出す。廉価な取材費。
_09/05

 

 

 

 

 


気がつけば24時。というか起床が24時。ふざけるな。まあ、そんな日もあるんだ。本気でびっくりした今日あたり。すこし、酔っ払っているなか、率直にびっくりした。

だって今日が解けたのだから。もうちょい呑んで、寝ては、恒常。とりもどせるかな。知らねえけど本当に何もしなかった稀有な日に乾杯。呑むな。
_09/06

 

 

 

 

 

 


溶けた昨日が謎すぎた。だが、台所の脇の空き缶をいくつか確認し「なるほどね」と、落居する。今日は甚だしく体調が優れなかったが、がんばって仕事をした。

一昨日、半年以上放置していた「note」というプラットフォームに、記事2,000文字ほど(本記事の倍くらいの文字量)書いてを投稿した。タイトルは『小説初心者が小説を13万字書いて公募に出した結果』である。内容は、端的に「落選」に至った経緯と俺の心情を語ったものである。

こんなもん誰が読むかな。などと思っていたが、昨日今日でけっこうアクセスがあって、「いいね」的なボタンは30発押されていて、フォロワーが5人増えた。

そんなに人の「落選」が面白えのかよ。とも少しだけ、正直少しだけ思案したが別にいいかと。初戦の敗北を記しつつ、今後の邁進の気持ちで綴じる。いや、当該記事をお読み頂いた方々には心底感謝しております。

そこで思ったのが――「note」に小説を貼り付けて発表すればいいのではという案。ネット上で目につく分、公募結果を待つよりも生産的な気がしてきた。だが直ちに棄却した。

なぜならば、「公募で受賞」という〝目標〟を達成させないことにはその後の〝目的・夢〟に向かえない。うまくやればできるのかもしれないが、「誰でもわかる『金看板』がまず必要」という理念がある。

よく小説は――書籍というのは――「何が書いてあるか」よりも「誰が書いたか」という点の比重が高いと聞く。

だから、「わかりやすい誰か」にまずはなるために、当初の目標を今のところ変えない。よりよい案が出たら行動するが、やはり「文学賞受賞」というのは、ひじょうにわかりやすくも広く広がるデビューの在り方。これが要る。

そういったこともあり、久々に投稿した記事が思いのほか読まれたという事実。これがあったとしても、初作品も第二作も、未発表作として大事に扱いたい。

初作品は、いまの目線で改稿し、公募先も決めた締め切りは年内くらい。さらに、第二作を応募する先も決めてある。こちらの締め切りは来年に入ってからである。

そして、後者の公募の規定の文字数(原稿用紙換算枚数150〜400枚)に収める必要がある。初稿完成時で537枚。おい。400枚に圧縮させられるのか。とも思うが今日も推敲をしては、明らかな冗長部をけっこう削っている。

そういった営みの中、時間が溶けるようである。しかしそれは、昨日のような非生産的すぎる唾棄すべき溶け方とは真逆。だからさ、呑み過ぎるなよ。

思い出した。その「note」の記事を書いて投稿し、原稿も仕事もやり、過活動でハイになりすぎて、よせばいいのに朝まで呑んでて止まらなかった。

――もう、そういうのはやめよう。一人呑みでは。とはいえ、他者と呑む時に限ってはそれを許可する。なぜって〝溶け方〟の質が生産的だからですよ。楽しいもんね。
_09/07

 

 

 

 


虫の息も浅かった昨日。打って変わって今日は朝から元気。よかったねと思い、はりきって仕事をする。

昨日なんてもう、謎のゼリーとカットサラダとスモークサーモンの肴しか食べていない。死ぬぞ。だが、今日は、膨よかなラーメンライスに夜はヴィーガン食(勝手にそう言ってるだけで内容はサラダと豆)という立派な食生活。つまり覇気を取り戻した。

小説の第二作目の原稿を推敲する。公募の規定所以で、思い切り圧縮させる必要がある。

これに骨を折ると言うかそもそも可能かと、AIに聞いたくらいである。だが現実的に可能だと言う。なんなら、むしろそのほうが良くなるかも、加えて、過去の受賞作でそういったケースがあったと、事実まで吐き出す。

冷徹にありがとうGPT-5。とか思いつつ、とりあえず推敲が楽しいし、「こんなこと書いたかな」という部分を愛でつつ「絶対面白いと思うんだけどな」と、自賛しつつも「お願いですから、まずは、何しろ、世に出てください」と、祈る。

世に出すためにやっている。というか、その、世に出た後に書き続けて貢献したい。というか本当に楽しいと思える営みを、仕事ベースでずっと続けていたい。その先に夢がある。という初心を忘れずに、祈るだけではなく、というかまだ祈る段階ではないが、まず進める。

要するに今日も、今年に入ってからの新たなライフスタイルに準じ、良く生きた。虫の息なんて一日で吹きかえる。

――芥川龍之介賞を獲った作家のドキュメンタリー動画をYouTubeで観た。なんとなく合間に。ふうんと思いながら鑑賞していると、ふと、手前が制作した楽曲がひとつ、バックで流れていた。ずいぶん前(2020年くらい)に作った楽曲である。

何かの縁だといいのだが。などとも思ったがこう、見据える先は大きければ大きいほど、疲労がポーンと飛ぶほど楽しい。

そういう生活してるからたまに激しく飲みすぎたり息が虫未満になったりするのかもしれない。そこは、お願いですからちゃんとしてください。走り続けるために。
_09/08

 

 

 

 

 


皆既日食から通常の満月。連日の〝月〟の変化は如実であった。今宵の月も眩く光を反射させる。他方で手前は、夕方過ぎに、プツッと電池が切れた感覚を確かに知覚した。

シンプルに急に眠くなり、わりと良素材のシルクのような鬱っ気に包まれる。面白いもので、そういうケースでも、普通に営める。だが仕事をきちんとした。

――外を歩いていると、普段とは感覚が確実に異なる。風が、俺を無視して通り抜けるような独特な現象かのよう。

酒も呑みたくねえな今日は別に。とは思えど一応スーパーで最低限買い込み、風に察知されないかのような透明にある帰路につく。台所でヴィーガン食を摂り、仕事部屋でメールチェックをしてはそこからのルーティンをこなし、寝た。やる気ねえんだもの。

世界各地の美麗な景色に古代の文明。それらが映し出されるYouTube動画を放映させつつ、寝た。ソファで遠慮なく。こういう時、わりとふつうにタスクはこなせるのだが、今日は寝た。1時間半くらい、充電を試みた。

古代の文明。その時代、三大欲求を満たすので精一杯。そんな主観がある。だが、確かに、文明から派生する芸術があるもよう。それは美しい。人間の人間たる営みの具現化は文化となる。それはそれは美しい。俺もそう在りたい。

そこまで別にその時は思っていなかったが、原稿にとりかかる。一章ぶんの量、推敲する。大幅圧縮という課題。とはいえ、わりといけるんじゃねえかという感触を得て楽しくなってくる。

皆既日食。それは、月によって太陽が全て隠されて見えなくなることを指すらしい。しかし翌日は満月の煌々たる輝き。これらに俺のコンディションは比例していた。

その反動か、今日は。

だが、事は進んで特筆した影響はない。だが、気分がどこか古代というか天体というか、風に無視されたというか、そういう時間もあった。

感情や状態が、多くの生物に比べ、一辺倒とは言い難い。だからこそ、人間自体にもそういった現象がおきるのではないかという仮説。そこから派生するのは、だからこそ、文化や文明が築けるのではないかという祈り。そのへんであろうか。

本当にね、ある種の魅力と言っても過言ではないのかもしれない。それが、唐突にやってくるメランコリック。その時の思考回路。一歩間違えば、よかならぬものを誘発するが、飼い慣らせれば、それは逆説的にエネルギー源ともなる。

そして、その〝シャドウ〟――心理学における、自我理想と一致しない人格の無意識的な側面――を認められないと、人はちょっとおかしくなる。葛藤をこじらせる。踊らされる。

いや、理屈では少〜しはわかってるつもりだけど、すごいのよ。そのインパクトというか投影のある種の魅了が。だからなのかな。皆既日食に人間が惹かれるのは。俺にはちょっとよくわからないから酒呑んで寝よう。暴論でまとめていたらなんか元気出てきた。
_09/09

 

 

 

 

 


今日の東京都北区赤羽は、青天に豪雨という訳のわからぬ天候。俺は傘をさして食い物を買いに出た。すると少女が居た。雨合羽姿で傘をさしていた。ふと思った。彼女がもし、俺の娘だとして共に歩いていたら、などと。

「ねえパパ。どうして晴れてるのに雨なの?」

晴れと雨と曇り。天気においてはその3つしか知らぬ娘は、そう言及するであろう。当然の問いである。しかし明確に、正しい答えを、児童にもわかるように、きちんと伝えるのは気象庁関係者でも困難。俺はそう思案した。

「これはね。晴れてても、雨が降らない訳じゃあないんだ」

「晴れは晴れでしょ?」

そう、娘は怪訝に返す。

「晴れは晴れだよ」

「でもいっぱい雨降ってるよ?」

「そうだろう? だから、晴れているけど、じつは大雨。そういう日もあるんだよ」

「じゃあ、雨でもじつは晴れてるばあいもあるの?」

そう、娘は逆の現象を語る。

「そうだよ。ぱっと見でね、どっちかわからないし、じつは両方だったりするんだよ」

「じゃあ、晴れ雨かなあ?」

そう、娘は結論づける。しかしそれでは俺が嘘を教育したことになる。だから弁明する。

「ちがうんだよ。どっちでもないお天気もあるんだよ」

「じゃあこれは、なんて呼べばいいの?」

そう、娘は帰結を求める。

「呼ばなくてもいいんだよ。『わからない天気』でいいんだよ」

「わかりたいよう!」

そう、娘は答えを希求する。

「パパはいま、ごきげんに見えるでしょ?」

「うん! たのしそう!」

「でもね……じつは悲しい気持ちでいっぱいかも……それは、ぱっと見てもわからないだろう?」

「うん! 悲しいの……?」

「この天気と一緒で、どっちもじつは、あるんだよ」

「そうなの?」

娘は理解を若干放棄しつつも、本質の方を探ろうとした。

「そうだよ。悲しそうで泣いていても、じつはごきげんだったりすることもあるんだよ」

「なんで?」

「パパにもわからない。だから、そういう時は、考えないで、感じたまま、『わからないけど、どうなのかな?』って思ってあげればいいんだよ」

「ふうん。じゃあこの天気ってどうでもいいの?」

「それは自分で感じたままでいいんだよ。ただ、その『なんで?』を捨てない方がいいんだよ」

「わかんないけど、ちゃんと見ててあげればいいのかな!?」

「そうだよ!」

「わかった!」

俺の教育方針は確実に破綻している。だが、大人になって、この日のことを思い出しては「奴はこのことが言いたかったのか」などと思い出してほしい。だから俺は幼い娘に、完全二元論主義を否定する提言をした。

今日は、そんな天候の中、食い物を買いに行って――というくだりが面倒になったので蕎麦をすすって帰ってきた。

その後、仕事部屋でデスクワークを少々、そして3時間少々、小説原稿に張り付いた。推敲した。ううむ、いける。こんなに研ぎ澄ませられるのか。と、けっこう大手術をして冗長部をスリムにしつつ、本質的な部分は光らせた。

よかったよかったと、タンメンを食べに行き、帰ってYouTubeの『REAL VALUE』という動画を観ては、最近では一番面白い企画動画だなと、色々と参考にしつつインプットを図る。そんで、ちょっと寝る。

起きてふとスマフォをタップすると着信。それがあったので友人と対話をする。俺にしてはひじょうに珍しく、後日――と、誘い文句をかけては切電した。

ここ数日、心身共に体調が大回転していた。だが、表面上は誰にもわからぬほど平然としていた。だが内実はそうでもなかった。

ニコニコしていても心は抑鬱。昨日はそうだった。淡々としつつも魂は煮沸。今日はそうだった。

どっちなのか――そんな相手と話していたり、自分を俯瞰したりして、共々、感じようとしていた。それは大事なことだと俺は思っている。

だから、本当に娘が居たとしたら、俺は天候について質問されては「うるせえな狐の嫁入りっていうんだよ馬鹿野郎」と、一言でその現象に対しての無理くりな呼称を伝え、見事にトラウマを植え付けるかもしれない。そんなことはしない。

きっと、えらく抽象的な言い回しで、答えのない事柄をどう扱うかという思考のコネクションの発生をはかるであろうか。実際に娘が居ないとわからないけどね。

YouTubeの『REAL VALUE』みたいに、明らかに数値化したり合否を決するシーンもある。青天の降雨のように、いまだに適切な呼称がわからない現象もある。そして、どこからどこまでを「明確にするべきか、探るべきか」という線引き。これは、思考の積み重ねの先にある感度でしかはかれない。

実のところ、20分くらい前までそんなこと1ミリも考えていなかったが、日を文章にしていくと、このようになる。

きっと、死んだ両親、どっちかわからないが、幼い俺が、架空の娘と同様の質問をした時のように、架空のパパ俺みたいな文脈の答えを口にしたのであろうか。「自分で名前つけちゃえよ」くらい教育放棄ギリッギリの答えを。

だとしたら合点がつく。もしもそうだとしたら、俺は両親に育てられ、今でもこれからも、感謝ですと言えるのであろう。現在の赤羽の深夜は、静寂が空をそっと埋めては、安寧な表情の月が浮く。
_09/10

 

 

 

 

 


正午。赤羽の某純喫茶でランチ会合をした。友人の桑原氏と。なんかオシャレでいいじゃないか。こういった日のスタートも新鮮だなと思いつつ、俺はコーヒーとサラダを注文。にわかヴィーガン食を口にしながら、お話をした。

情報交換と近況報告。お互いに性質は異なれど、「いろいろやってますね〜」と、共々鼓舞するようにほっこり過ごす。彼とのアサーティブ(相手を尊重しながら、自分のスタンスに誠実)な関係値は、心地良い。

その後、彼の予定に飛び込みで参加しては、有意義なインプット時間とさせて頂いた。俺の知らないことはまだまだたくさんあるのだなと、率直に思ってはもっと知識が必要だと実感した。

帰宅してからは、小説を育てたり、書店に行って売れ線の本を立ち読んでチェックしたり、能動的インプットに努めた。

インターネットからもと思い、YouTubeで三崎優太さんのチャンネルを1本観たが、なんだか絶妙なインプット内容な気がして少し疲れ(内容は面白かった)を感じ、仮眠した。

起きると桑原氏から着信があったので折り返す。先に一緒にインプットした内容のフィードバックを行なった。話している中、彼も三崎優太さんの同動画を観ていたらしく、その内容にも互いに言及しては、インプット咀嚼の生産的なお話をした。

つまり、普段のように書いたり作ったりよりも、情報を入れる方の比率が高かった一日。今日立ち読んだ本にはこんなことが書いてあった。「本を一冊書くのには100冊は読書が必要」と。

ううむ、と思うと同時に、そこを今覚えているあたり、インプットの大切さを改めて吟味した日だったのだと回顧する。

明日以降になり、それをどこまで覚えていられるか、ほぼほぼ忘却の彼方へ飛ぶ頭ニワトリ野郎かどうか。それは、アウトプットして世に出すことで証明したい。

インもアウトもバランスが大切。食事もそう。だからあんましヴィーガンとか軽く言わないようにしよう今後。さっき思い切り油ラーメン食ってたし。おいしかったな。
_09/11

 

 

 

 

 


インターネット・ブラウザに「AIモード」という新機能が搭載された。AIね。そのAIだけで作れるコンテンツで今、世の中は水浸し。

ついさっき、YouTubeプラットフォーム行って離脱しようとふと、ショート動画のカート・コベインさんのいい顔が目についたと思った刹那、視界にカットインした字幕に「ミルバーナ」と記されていた。

別に俺は何も思わなかったが、昨日こんな話をした。それは、TikTokとかYouTubeショート動画とかそのへん、俯瞰して見渡すと「オリジナル・コンテンツ」が1割にも満たないと俺は思うんですと、そういった視点を言葉にした。

「そうなんすか?」くらいの反応だったが、だってさ、ほとんどのショート動画が「著作権・肖像権」がものの見事に看過されているのかどうかは知らないけど、要するに他人のふんどし動画多いと俺は思うんですと、そのように危惧せずにただ、言語として口にした。それはそれで面白ければいいと思うので批判など一切する気はございません。

――「なるほどですね」くらいの規模の話題で収まったがそこでミルバーナよ。そういうことですよ。どういうことか? 他者様に関してはわからないが、一体俺は何を観て楽しめばいいのかと、やや考えた。

「それはお前が受動的にコンテンツを消費した成れの果て」と言われればグウの音も出ない。

出したところでその場でハーフパンツを履いた屈強な男2人に口を塞がれては全身を縛られそのままライトバンの後ろに突っ込まれてそのまま高速道路を4時間ほど。中部地方の山奥に連行され、無造作に土に放られては喉に銃口を突っ込まれて「最後に言い残すことは?」と笑まれて言及され俺は命乞いの作法を知らぬものだから固まっては朝。

気がつけば俺は東京都新宿区に放られており、500mlの水を咥えたまま路上で死んでるホストくんの隣で目が覚めた。そしてそのままゴールデン街に行っては当然店はやっておらず、仕方がないので『磯丸水産』で手を打ち、少し呑んではJR埼京線で帰宅。ショート動画を観ては爆笑する癖をつけた。

創作ベースの感想ではあるが、俺はわりとショート動画を楽しく観ているという事実に嘘はない。

そうだ。今日は仕事をして、夜だと思いメールチェックの時間だと思い、しかしそのまま小説だ。これを進めようと2時間推敲してくたくたになって横になる。

起きたら23時を過ぎていたのでいかん。そう思いメールチェックをしたら不要不急なメールが9割だったのだが別に感想を漏らさず、YouTubeプラットフォームへ行った。ネコがただそこに居るだけの50秒ほどの動画を観たあとに、カート・コベイン(Nirvana:ニルヴァーナのフロントマン)さんのかっこいい顔を見た次に知覚した字幕の文字が――俺を中部地方の山奥まで連れて行った。

そのような、いつも通りの幸せな一日に感謝する。いつか、最期の日が来る。それまで俺は良く生きる。その日が来たら、最後に何を言い残そうか。そうだな。何もない。もう十分。それを表情で、居てくれればいいのだが、看取る方に伝えたい。

もし、一日をショート動画に記録するとするならば、AIを使うべきか。それを日の締めに考えていた。字幕で名前間違えられたら困っちゃうからな〜などと楽観視しつつ。さっきまでAI使って壁打ちしてた野郎が何を。と言われれば俺はそいつをライトバンで――そんなことはしない。
_09/12

 

 

 

 

 

 


能動的に情報を得るとはどういうことか。

読書習慣が染み付いた俺は、今日あたりはユングさんの著書を読んでいた。その一説に、人生を「午前」と「午後」にわけて考えるくだりがあった。

ほぼその表現通りで、若者の人生は午前。俺くらいの年齢からは午後。それぞれ、生き方が異なるという内容であった。

――“われわれの生涯は太陽の動きのようなものだ。朝、太陽は絶えず次第に力を得て行って、正午に至るとその輝きも熱も絶頂に達するが、それからエナンティオドロミーが始まる。

なるほど太陽は先へ前へと進んで行きはするが、それはもはや力の増大を意味せずして、力の減衰を意味する。その如くわれわれの課題も若い時と、歳をとってからとではちがうのである。

若い頃は拡張や上昇を妨げる一切のものを取り除けばそれでいいのだが、歳を取り進んでくる頃になると、下降を助ける一切のものを促進するようにしなければならない。

歳の若い経験の足らぬ人間は、年寄りは放っておけばいい、どの道もう大したことはしないのだし、もう人生の大半をやりすごして、現実何かに役立つとすれば、それは過去の石化した支えとしてにすぎないのだと考えるかもしれないが――中略――。

人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。

ただ人生の午後の意味と意図とは、人生の午前のそれとは全く異なるものなのである。

人間には二つの目的がある。第一の目的は自然目的であり、子孫を生み、これを養い育てるのがそれで、これに更に金を設けたり社会的地位をえたりするという仕事が加わる。

この目的が達成されると、別の段階が始まる。それは文化目的の段階だ。”――

(※引用部の中略および改行は俺によるもの。著書では一気通貫に記されている)

何言ってんのかわかんねえよ。クソ長い説明に加えて冗長だし文章構図もややこしいこと。だから、俺は「読書」というより「解読」というスタンスで読み進め、この箇所にハッとした。

あとすいません。熱込めて懸命に執筆されたからこうなったんですよねユングさん。すいません。現代だともっと圧縮して書かれる傾向があるものでつい。

つまり、午前と例えた若者は、とにかく頑張れと。午後と例えた歳取りは、質的にそうじゃねえと。全然違うニュアンスで捉えろと。

それでもって、「午前」では人間としての自然の営み――家庭や仕事――をがんばって、それが達成されると“文化目的”という段階に行き、そこでは「午後」でもあると。そして、それぞれ異なれど“意味深い”と。そう、俺は解釈した。

だが、「午後」について「年寄りは大したことをしない。放っておけ」とも解釈できる文脈もあり、けっこうどう捉えればいいのか微妙なライン。あと、ちょっと乱暴。ユングさんの言い方。

ただ、俺には“人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。”という一節が光って見えた。

なぜならば、「もう歳だし」といったような不文律ともなりうる言い訳が覆されるからである。とはいえ、それを、行為レベルで分別しているような内容とも解読できる。合っているのかは知らない。俺はそう感じただけであることを強調する。

そこで「文化目的」に注視した。それこそ「午後」にやるのに向いている的なニュアンスがあったからである。

文化目的とは、俺は〝創造性〟の一言でまとめられると思う。だから、おっちゃんおばはん――午後――になっても価値のある、やることがあるぜと。そう感受してもいいのでは。そのように思った。

だから俺は、創造性のために、能動的に情報を取りにいった。

YouTubeでレコメンド動画を呆けたツラで流しっぱにする(こと、俺がいつもそうなだけ)のではなく、「俺が今、本当に欲している情報は?」と、考えて、プラットフォームの検索エンジンに言語を打った。「北方領土」と。

すると、現地で和むロシア人の方々の暮らしや旅先という目的での様子。シャケとかが獲れるという食産的知見。現地(択捉島)の建造物の造形やコンビニの様子。あとは、歴史的なあれ。たぶんあんま書かない方がいいやつ。

俺はなぜ、北方領土の情報を得たか。創作のためである。いや、さっきも進めていた小説原稿にその文脈は皆無。つまり、俺の能動的な情報取得欲求ってなんだろう? ということを知れた。というだけの収穫。

人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。

確かに、若い時だったら、このくだりをいちいち考えない。絶対に考えていなかった。めんどいもん。だが、午後であろう今は、精緻に思案を熟しては、結局何が言いたいのか俺にもわからない。

ただ、書籍から「人生の捉え方の視点」についての角度がひとつ広まった。それだけでいいじゃないかと手打ちとした。要するに、北方領土の情報収拾は謎の一言だが、前半の収拾においては〝価値〟を見出せた。気がする。

これも「午前」「午後」という尺度が適用するのでしょうか。ユングさん。

はあ、勝手に引用するなと。なるほど、読みづらいのは訳し方にもよると。それは訳者様に失礼では――え? じゃあ原書を読めと。ドイツ語は無理でしょ。うん? 自分の言語の限界で自分の世界の限界を? それ、別の学者さんの言ったやつのパクりでしょ。はあ、わかりましたよ。ちゃんとクレジット表記しておきますからそんなに怒らないで。

今日は、仕事をして小説を書き、飯を食ってはさあこれから酒でも少し呑むか。そのような寧日。つまり、ほぼいつも通り。

(出典:『無意識の心理』C・G・ユング著 高橋義孝訳 1977年7月20日初版一刷発行 2010年7月20日初版ニニ刷発行 発行所 人文書院)
_09/13

 

 

 

 

 

 


「無謀」と「臆病」の間にあるやつ。それは。

そんなこといいだろ横に置けと、俺は今日普通に、ちょっと多めに仕事をした。普通というのは通常運転という意味ではなく、内容的にいつもの、ということである。

そんで原稿で小説を進める。これにかな〜り時間を使う。いや、活用する。個人的には、これもしかして如実に難しい行為をしているのでは。と、俯瞰する。

はたからみたら「いつまでその巻物くらいの長文書いてるの? いくらになるの?」という謎の営みでしかないのかもしれない。

それを人は「無謀」と表するのであろうか。はたまた「無駄」なのであろうか。それを決めるのは、俺でもあり、その情け容赦なき他者なのかもしれない。

その間。それが何かってこの場合、「俺のやつが他者に繋がって活きる」時ですよ。そう思い、ひたすら推敲しては「文章ならびに物語・作品における〝冗長さ〟と〝譲らなさ〟とは」などと考えては今、こめかみ脈打ってる。

やり過ぎても伝わらない。すると「人様のことも考えろよ」と、弾劾される。

やらな過ぎはつまらない。すると「何に、遠慮してるの?」と、無視される。

だから、その中間。すなわち〝中庸〟である。両極端に偏り過ぎずに芯を持ち、成し遂げてみんなで幸せに。半分は中庸の意味をちょっとアレンジしているが、まあそういうこと。

だから、くどい部分はカットして、「あからさまに笑かしにきてる。その態度が一番つまらないんだよ」という部分を吟味する。するとどうだろう。中庸になってくる。

しかし、それは音楽に例えると「コンプレッサーをかけて聴きやすくさせる」という施しにけっこう近いが、なるべく、原音、鬼神のような形相でカッティングしているアベフトシさんくらいの〝勢い〟は絶対に殺さない。

それがものすごく重要だなと、小説を推敲していてそう思った。

ロックンロールのライブ演奏とは逆の生理活動で行なっている感じだが、個人的にはライブ演奏しつつ音源のMIXをしているような感覚で、小説をつくっている。

だから、 「無謀」は削ぐ。「臆病」は、論外。芯を譲らぬ尖った〝中庸〟を肚に置く。

今、ハイボールの固いやつを飲み始めてはハァァァァァ……! とか漏らしている野郎が何を。と詰められれば、いや本当にこめかみが。脈が。なんならBPM上がってきて。よせ。と、なるが、ちょっとだけ麻酔で誤魔化しているんだよ。最近は気絶寝するほど呑んではいない。

ふざけるな。言いかけてはその間、「無謀」と「臆病」の間にあるやつとは。言います。「勇気」です。俺は勇気を出しているつもりですが、やはり、はたから見たらパチスロのコインカチ盛りドル箱みたいになっている灰皿をまずは清めろと、今思った。

「無謀」と「臆病」の間にあるやつ。それは「勇気」である。だから、中庸であれ。ただ、その意味と根幹を間違えるな。そのように今日は思った。つまり、〝正しい中間で勇気を持って、爆ぜろ〟と。

なおこれ、俺の思想ではない。感銘を受けた他人のふんどしである。中庸のやつ。これは、アリストテレスさんの提唱のひとつ。ありがとうございます。ギリシアの古の哲人さま。そして、日本の偉大なるロックンロール・ギタリストさま。

俺は、勇気を捨てません。捨てるとね。このまま、臆病に、寝てしまうのです。そんなことは決していたしません。誓います。
_09/14

 

 

 

 

 


逍遥という名の無目的散歩に出る。既視感ある地から、未開の場所まで。そこに差し掛かるまでの境界線。これがトリップの入り口のようで気持ちが良い。

とはいえ赤羽西6丁目だから近所。ともあれ未知の団地を発見。昭和公団フリーク。自覚のある俺は、古団地の造形に魅了されては息を漏らす。

なぜ、俺が団地を見ると興奮するか。いまだにエビデンスがわからない。今日あたりは、人間が出す「波動」のように、建築物の大きさや古さ、材質など、素粒子レベルで「波動」が放たれており、俺にとってはそれが安寧のトリガーとなる。とまで考えた。

だから次に図書館に行く際は物理学と粒子学の書籍を読もうかと企んだ。昭和公団フリークの執念。それを知識欲に昇華させる。できる訳がない。

いやあきらめるな。だが、謎に途中であきらめたかのような楽曲制作メモがあったのでふと聴いた。逍遥は2時間ほどでさっさと宅に帰り、DAWを開いていたのである。

するとそのメモ、ドラムスの四つ打ちと歪んだサウンドのギターリフ・フレーズ四小節だけであったが凄くときめいた。閾下の感覚が意識上に「プク」と浮上し、俺をえらく興奮させた。

なぜ、メモのままであったのか怪訝にも思ったが、その理由はすぐわかった。それは、メモをほぼ同時期に二つとり、そのギターリフではないローズピアノを演奏したメモの方を、先に仕上げにかかったからである。

その楽曲はもう先週あたりに公開して、今日、公開先のプラットフォームを見たらダウンロード数が1,000を超えていた。まあまあウケているのであろうか。別に自慢している訳でもなく、それは100万DLとかいってからにしろと自戒。

よって、「ボツメモ」ではない理由が明るみになったので、そのメモを伸ばす。ロックサウンドは得意分野。すぐ伸びる。ストラトキャスターの硬派な音が俺のアイディア脳の奥からダイレクトに楽曲展開を引き出してくれる。気持ちが良い内面トリップ感。

いい進捗だと実感し、最近お気に入りのネギタワー・タンメン(日高屋にて770円)をバスバス食べて帰宅。イタリアの謎の思想集団の営みを克明に捉えたYouTube動画を閲覧し、ソファで寝てしまった。疲れていたもよう。

だが、小説をやらねばと、興奮と熱狂と夢と執念起因で丁寧に進める。推敲。そろそろ第二作の一度目の推敲も後半。文章を吟味しながら、作品の世界にトリップできる。

これができないとなると駄作。つまり、自分で酔えるくらいでないと、世に放っても相手にされない。それは、文章でも楽曲でもそれぞれ、体現してきている。

さてやることやったし酒呑んでトリップ。だめだよそれは。正直に言うと昨夜、呑んでは気絶寝していた。仕事とかし過ぎていたもよう。今、机の手書きタスクノートを一瞥したらここ9日間、休日らしき日がなかった。そりゃそうもなる。

今は普通に呑まずにこれも書く。旅先は慎重に。とはいえ今日は半分休みベースで、二つ良きトリップ体験ができたのですこぶる良日であった。

する必要のない補足であるが、本文においての〝トリップ〟とは、〝旅に似た感覚の新たな出会いと楽しみの享受〟である。

だって改めて言葉の意味を調べたら、トリップ――麻薬によって生じる陶酔状態、多幸感、判断力の低下状態を指す俗語――って二つ目の意味候補に出てたものだからやっぱりする必要あるよ。本来の意味は「旅行」である。補足。
_09/15

 

 

 

 


10時間寝て、よし、図書館へ行こうと奮い立つ。当然いつもの北区立中央図書館に行く。この館には書物という書物は『デラべっぴん』以外何でもある。そう。叡智の森なんだ。俺の脳髄と見識を拡張してくれる凄い場所なんだ。館に面した公園で大木に挨拶し、いざ本館正面に向かうと、「休館日」と記された縦長の看板が置いてあった。

もしも俺が大阪人であったのならば、やってへんのかーいと、必ず言う。しかし俺は東京人なので、やってねえのかよ、と言った。館にもお休みは要るよね。しっぽを垂らして東十条駅まで10分ほど歩いて戻った。

往復電車賃、完全に無駄遣いだったな。などとネガティブには捉えない。ここのところ足繁く図書館に通ってるのになんだよあの看板は。休館日だよ。そうか。そう思い、俺は近所の大型書店で本を吟味するルートに舵を切った。

まずは、ついこの間、数ページめくって気になっていた書籍『本を読む人はうまくいく』という新刊を手に取った。

この本はベストセラー著書『移動する人はうまくいく』の続編というか、前のが売れたから似た切り口で発刊されたのかな。くらいに思った。良い意味で。そして、その『移動』本においては俺は面白いと思った。

そして今日『本を読む人はうまくいく』。これの続きを読んだ。内容はと言うと、読書がいかに人生のあらゆるシーンで役に立つか。景色が広がるか、人と多く繋がれるか、仕事において優位に。包括的に豊かに。その辺が書かれていた。

そして別のフロアに行き、昨日気になっていた物理学。それ関連の書籍も手にした。そこにはまず「物質は何からできているか」という、ああ、いかにもだなという問いが冒頭にあった。

何でも原子が一番ちっこいと思いきや、その内実には電子に陽子に中性子と、さらには素粒子。つまりもっともっと細かいと。訳がわからなかった。

追い込みをかけるように、素粒子が集まって陽子や中性子のような粒子をつくるには、互いを集める力が必要。

なんとなくわかる。その「力」をつくっているのもまた素粒子だと。とにかく素粒子はすごいんだね。くらいにしか理解に及ばない。

とどめを刺すように、相対性理論によれば、質量とエネルギーが等価である――。

何を言ってるんだろう。それらを式にしたのが「E=mc²」というアインシュタインさんの有名な式。有名って言われても俺にはわからないが、この本を読めばわかるのかな。そういった思案のなか卒倒しそうになる。

だが気になったのでちょっと現状の理解度でまとめると、その式の意味する一部には、“質量とエネルギーは本質的に同じものであり、互いに変換可能”という一節があった。な〜んとなくわかるような。

つまり、物質の中には莫大なエネルギーが秘められていると。エネルギー次第でこう、わりと思った以上のことになると、それくらいの解釈で今日は留めておいた。

そんな思考は連れ出さず、今日のタスクとしては楽曲制作にだいぶ時間をつかった。功を成し、ロックサウンド楽曲の骨格ができた。最終形が見えた。あとは、どれだけエネルギーを投じて音源化させるか。

ギターにおいては1本だけでも成立する。しかしオーバーダビングすれば、音の厚みが出る。そのかわりに、MIX時において、1トラックあたりの音の配分は狭まる。1つの音源においての「音域のスペースの奪い合い」ともなる。

それをうまい具合に、不要な部分を削ったりして工夫するのがMIX工程。とりあえず今日の段階ではまだ、エネルギー源自体すなわち各パートを録音する段階の手前なのでそこではない。

なんとか楽曲制作を相対性理論に置き換えて考えたい。しかし無理。今は無理。少しずつ、「普段の営み」の解釈を、物理学視点でも捉えてみよう。

そうなってくると、『本を読む人はうまくいく』にも書いてある「普段は手に取らない分野の本も少しずつ読んでみる。すると――」という先の〝実用〟ともなる。

難しく考えるなよ。横に幅広く本を読むと、様々な点が線で結ばれる。そんな文脈がわりと強調されていた。俺のスタンスとはちょっと違う。手前の場合は、特定の分野を深く掘りたい。それが性に合っている気がする。

だが、今日はアインシュタインさんの例のやつにも触れ、実のところ楽曲制作にも通づる気がする上に、小説の推敲時においても「圧縮させることで質量とエネルギーが――」などと今、ちょっと思えた。

――今日の本流は、図書館で数時間過ごすはずだった。しかし休館だったので書店でいろんな書籍を吟味した。すると、本来得るはずではなかった視点が得られた。

ある種、俺なりに解釈するところでこの現象を、わかりやすく書いてあったのが『本を読む人はうまくいく』という書籍。

もちろん、「深くひとつの分野を思い切り掘る」という読書も良い。乱読も良い。飛ばし読みも時に効果的など、様々な角度からの「読書の良点」が記されている。ただ、〝幅広く〟という観点が、わりと事細かく展開されている。

図書館がやってなかったら別ルート行ったら案外、別の収穫があったのが今日。

相対性理論によれば、物質とエネルギーは互換性があり最終的には同じもの。

これに繋ぎ合わせたいが、少しは整合性がとれているのかな。個人的には、取れている気がしなくもない。

すいません。当該書の筆者様とアインシュタインさん。ちゃんと理解に努めます。何のためにだろう。それは簡単。理解を広めること。それが、思わぬ時に繋がり、更なる景色が広がるからである。

そのようなことを学んだようなそうでもないような。個人的にはそうだと思える。そろそろヤクザ漫画を読んで寝よう。
_09/16

 

 

 

 

 


しびれ。とも言えよう感じよう一日の稼働だが、普通はこれくらいみんな毎日やってる。そうなんだろうなと見なし、こう、背筋を伸ばす。

ブツ切りの夢を10回くらいみては起きて眠い。そのまま気がつけば夜も遅く。だんだん、人生の一日が短く感じてくる。

加齢と共にそうなるようで、この現象というか感覚には名前がついているのだが忘れた。

肝心なことを覚えては忘れ、無駄なものが、実は必要なのだが削ぎ落とされ、あらゆる負荷も青年期ほどの感性所以で感じなくなり、スススと年月が経ち、気がつけば、内側から開閉不可能な窓を眺めながら死す。

そんなのはいやだ。だから、永続的な営みに手を抜かない。仕事をする。中性脂肪の値を気にしながら葉っぱ中心の食事を日に一度は摂る。小説原稿を磨く。磨いているつもり。その暁の舞台をおめでたいくらい本気でイメージする。

潜在意識のそれを、顕在的にしているつもりだが、どうなるか。年月を重ねに重ね、本格的にだめだったら、それまでの一日一日の数時間をまるごと溶かしたという顛末を迎える。それは認めない。ではどうすればいいか。

批判的に生きることである。これがつらい。だが、前提として、進むために批判的になる。例えるならば想像上の親に「お前はいつまでカタカタと遊んでいるんだ。AIは一日一時間!」などと律せられることをリアルで体現するかのように。

しかし、AIと対峙するのは批判しないでいただきたい。親。むしろ、毎日――本当にさいきんは一日一時間以上はAIとなんかカタカタやってる――テクノロジーの進化を追わないことにはアレかな。という抽象的な焦燥感からそのような時間を設けている。

それは言い過ぎであって、別に焦燥してはいない。そして、本気で作家業を営もうという態度は、もちろん批判していない。

何が言いたいのかと言うと、しびれ。そんなにこう、要らぬ密度で手前にストレッサーをかけずとも――ストレスはあまり感じていないが――シュッとしたやり方があるのでは。そこは批判的に考えるべきである。ということ。「批判的に生きること」は過言。

あれだ。要は時間の使い方がへたっぴすぎるということを自己批判したいと。そういう内実だ。ここまで書いてやっとわかった。しかし昨日のやつ。

〝質量とエネルギーが等価である〟。これ。そう考えると、なんか時間効率絶対主義もどうなのかなと、さらに批判的思考が生じる。

じゃあどうすれば。朝起きて、夜は寝ろ。その間に、当たり前のようにやることをやれ。と、俺の親は言うであろう。守護霊様でも神でもイワシでも何でもいい。そう、言うであろう。

あいわかりました。「等価である」という文脈はこう、人生とか営みとか行為とか、様々な文脈で異なるんじゃないかな。だから竹やぶのように生きようよ。気がつけば隆々とそこにある。圧倒的存在感。しかし、その根は屈強でありそのバックボーンは一朝一夕に非ず。

だから毎日、向き合うべきことに、いささかしびれつつもこう、やっている。そこは批判しないほうがいいのだが、はたから見たら「バカかな」と一蹴されることもわりとあると思われる。

それでもやり切る人間が、そうなる。なんかこれも法則みたいのあるんじゃないかな。本に書いてあったな。『「原因」と「結果」の法則』(ジェームズ・アレン著)に。

前に読んで納得したのよ俺は。なのにそれを咀嚼して、自分なりの言葉で表象すると竹やぶ。どこから出てきた例えなのか俺にもわからないのはどういう法則であろうか。

ただ、批判でも中庸でも称賛でもなく、いち個別者としてしっかり感じられることは、ブツ切りの夢を10回見るくらいの時間は人生にあるということ。その中でも、飛散するほどにきれ〜に伸びる夢もあるのではないかなと、そうも思えないと、まともには起きていられない。
_09/17

 

 

 

 


秋と断ぜぬ清涼の空。身を覆うは望郷の肌感覚。熱は冷め、次の旅路に舵を切る。流るる水面の張力に、己を重ねて大海へ。ふとした場面で帰路につく。そこは一周、元の場所。四季のめぐり。時間の流れと等価の現象。人は都度、めぐりに立っては先へ行く。熱が冷め、秋と断ぜぬ。以前と異なる清涼を、暗に感ずる。

と、記すると「とうとうあきらめてヤメたか」と解釈するに十分なもの。そうではない。単に「涼しくなったな」という思案を詩的に表現したかったがなんかSNSの闇投稿みたいになっている。難しい。

今日は――張り切って過ごしては「この小説の後半、なんてくどいんだ」などと俯瞰しては推敲もしていた。

気候は涼しい。だが熱狂はある。しかし、四季のめぐりのように、同じようで、また異なる質感の熱となり、移り変わる。

――この時期になるといつだって、過去の記憶が活動写真のようにめぐり返ってきてはシャッフルされ、訳のわからぬ心境で「行き先はどこだ」という迷子に似た心境にもなる。律儀に毎年そうである。

迷子は過言だが、いささか文脈の見当たらぬ記憶が交差する。20代に『CRエヴァンゲリオン〜使徒再び〜』に魅了され、恋人に会いに行くかのようにパーラーに通っていた時期。本当にどうでもいい記憶がフラッシュバックされる。

なお、それによる衝動は生じない。あの気違いじみた異常な依存がもはや「懐かしい」というだけの感情にパッケージされ、それは非可逆。どう爪をたてても、もう剥けない。

その頃の熱は別のかたちをとって、今、別のことに魅了され、日々営んでいる。不健全な依存。あれは死ぬほど面白かった。だが、生活面が死にそうになった。

健全な依存。俺にはあると思っている。そのへんを吟味したくなる秋の思案。

依存という言い方。言語。

〝破滅〟に向かうその姿と、その行ないの繰り返しが依存。

〝成立〟するために他の何かに寄りかかり、共存すること。

どっちも依存。表裏一体だから〝依存症〟という独立した言葉が派生したのだなと思惟をめぐらせた――雷鳴。今、確かに東京都北区の空から20Hz以下の低音を含むそれを耳にした。体も揺れた。それにも押されて、落居した。

今日は良い天気かつ、秋を感じた。昔とは異なる秋を。どっちも便宜上は一緒の秋。しかし、パブリックイメージの〝依存〟は決してネガティブな意味ではなく、先述のような意味合いもある。そもそも、本来はそっちの方が真意なのかもしれない。かのように。

秋と断ぜぬ清涼の心。身を覆うは望郷の肌感覚。熱は冷め、次の旅路に舵を切る。人間の依存性は変化する。それが、目視できない陰陽の印のようにぐるぐるとめぐり、きっと、世界が成り立っている。

そう考えると、過去を振り返りがちな秋というやつは、その白黒の印の境界線。観念の中心なのかもしれない。どちらにも進める。白いほう、黒いほう、あるいは真ん中で、迷子になるか。

自己を放棄する文脈での依存。支え合って共に成立する文脈での依存。俺は知っている。どっちも死ぬほど面白いということを。

だが、死に向かう依存はもういい。吐くほど食った。逆。みんなと生きる依存を得たい。そっちの方を、もっと、ちゃんと知りたい。

とはいえお前、お前。酒とかタバコとか、まだ依存してますよね? などと弾劾されれば、俺は弁明する。それらはみんなと生きるために必要なエフェクターなのですと。それを踏まずの生音だけだと俺は時に、みんなとアンサンブルできないのです。などという戯言を堂々と。

真理に迫れそうなすんでのところで思案が破綻した。その繰り返しである。四季が、めぐる。
_09/18

 

 

 

 

 


 

 

 

 

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