ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。狂気と倫理のまぐわいの成れの果て。9月。
詩的に、端的に日をまとめたい。そう思った。「端的」はわかる。短く。「詩的」は、わからない。たぶんだが、抽象的だがなんかわかるわ。そんなニュアンスであろうか。やってみよう。
――藁半紙にしたたるインク。目下の光景は太古の営み。俺はタイプライターで言語を連ねる。進化の礎に敬意を払う心持ち。その一切を懐にしまってはすぐに出そう。出そう。出るぞ。否。そもそもない。露呈。それは恋文に事実と異なるアッピールを綴るがの如し。
穢れた想い、白痴の能動は時に人の心を刺す。此の情念。黄胆汁に黒胆汁。ダムの麓で愛を知る。救われた。既知の叡智は昇華され、ポピュラリティに赦される。しかし当日付けで村八分。目の前には鉄筋コンクリートしかなかった。
下を見るとフトモモの旋律が記されている。俺はそれを目視しては直ちに弦で奏でてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの亜種を披露。ころころと転がる野蛮な歪み。俺はそれをそっと口にし、少女の頬を見つめてこう言った。今日は仕事がたくさんあったよと――
気違いの詩だよ。俺は自認できるよ。詩の才能に関しては信じられないくらい酷いものでありますと。というか全くもって、日を記す文章つまり日記になっていない。最後の一文以外全部が黄緑色のファンタジーだと。
詩人って憧れるけど俺には難解かな。それがわかっただけでもいいかな。などと思っては今日は実のところどんな日だったか。詩の文末が、それを示している。
端的に関してはできた。今日の締めの時間の今、思うことを直感的に詩にしてみたら言語は出てきた。
酷いんだね。言語脳に検閲かけずに羅列するとこうも統合性が失われたというか、ある種ストレートというか「黒胆汁」って久々に出したワード――四体液説という古代ギリシア人の提唱から引用――までアンダースローで思考から湧いて出たかのようだがそもそも球。それを握っていない気がしてならない。
何が言いたいかと言うと、普通に仕事をしていた日であった。特に変わったことはさほど。だが、〝詩〟と意識すると急に、突風のように、思わぬ文章というか、ふだん開けない引き出しから出土不要の何らかが出る。それは発見と言っていいのでは。
などと思ったが、抽象的だがなんかわかるわという今日の前提は覆された。何もわかっていない。それがわかったというのは、古代ギリシア人的でいいんじゃないかなと善処する9月の初め。そうか。季節の変わり目に人はだいたい――個人的思惟である。
_09/01
積読している書籍が10万冊はある。それを寝かしている蔵へ、と思う。すなわち北区立中央図書館に今日は居た。
先人の叡智と各人の脳内が言語で網羅されている。それは森のような大自然の規模であり、俺はそこに浸かるのが好きすぎてもう、今日あたりは入館して手前の部屋に入った感覚すらあった。
今日は少々、新たな主旨を掲げていた。
それは、日本の文学書コーナーにある各著書の「はしがき乱読」である。作家という生き物は、どういうイントロを奏でる傾向があるのかを調査するという目的である。
対象は、文学書であれば何でもよい。だから、五十音順にならぶ本棚から順に、ランダムチョイスで本を手に取る。タイトルを確認する。はしがきを読む。そして、著者のプロフィールと出版社、初版発行年数を確認する。
例えるならば、CDショップでの視聴コーナー。そこでヘッドフォンを耳に当て、並ぶアルバムの1曲だけを少し聴いてはその音像を確かめる。そしてアーティスト名とレーベルやどの国の作品か、リリース日各種を吟味する。これに近い。その行為によって、何となくのトレンドや各アーティストの毛色に触れ、ミュージックシーンの文脈が脳内で広がる。
かつてはそういうことしていたな。それで音楽詳しくなれたかな。今はCDショップ自体が――などと思ったのは今であるが、とにかく図書館で30冊以上くらいだろうか。はしがき乱雑調査を行なった。少しづつだけ乱読した。
そこでわかった傾向がある。それは、俺が思っているほど〝初動のインパクトを重視していない〟ということである。
例えば、“恥の多い生涯を送ってきました”(太宰治『人間失格』〝第一の手記〟冒頭より引用)くらい、一行で読者を魅き込むものは少なかった。
そして、本文においては、どこか〝小説というフォーマット〟が、さもあるかのような印象を受けた。どれも、良く言って「それっぽいの」である。わるく言って、今だったら生成AIに投げちまえば書けるのでは。という感触もあった。
もちろん、通読していないのでいい加減なことは言えないが、今日は、率直にそう思った。
途中、中島らもさんの著書を手に取った。客観的視点で読んだのだが、やはりこの作家は何かが違う。言語化不可能な魅力がある。それは俺の家の本棚にも数冊、彼の著書がある訳だと納得。
東野圭吾さんの著書を手に取った。何がいいのか俺には全然わかりませんでした。きっと、読み進めないとその良さはわからないのであろう。事実として、死ぬほど売れまくっている作家だから、それなりの理由が必ずあるはず。しかし、「はしがき・冒頭」にフォーカスしていた現場では、ちょっとわからなかった。
町田康さんの著書を手に取った。はしがきもそうだが、「この人にしか書けない文章」の頂点と言ってもいいのでは。客観的にもそう思ったが、20代の頃に当該作家の本をけっこう読んだから、身に染みてバイアスがかかっているのかもしれない。だが、事実として先の、世間的な評の傾向は確かにあるのは間違ってはいない。
ずいぶん本を多く手に取った。肌感覚では50冊くらいだろうか。そう思い、人文学コーナーに移動して、ピンポイントで積読していたアドラーさんの著書を50ページくらい読み、叡智の森を後にした。彼の提唱する、共同体感覚の冒頭みたいのを取材したんだな今日は。などと思いながら。
帰宅して仕事して小説の推敲をする。頭に残っている〝小説というフォーマット〟というのを少し、意識してみる。音楽制作で例えると、「俺はこの音像が好きだが、リスナーを意識してここはもう少し聴きやすく」というように。
本を読むというのは、著者の脳内の海に潜り込むような行為。その海岸は、どんな景色か。どんな温度か、波の満ち引きはどうか。深くまで入ろうと思えるか。溺れてしまいそうだから引き返すか。そもそも入らないか。
自然と生物の関係に例えるとそう俺は考える訳だが、思いのほか、いきなり波が押し寄せるような海岸は少なかった。それが逆に、心地良さに繋がるのであろうか。
そのように、ある種の標準を調査したあとで、手前の原稿のはしがきに「セックス」と記してあるこれ、どうしようかなと思ったがそれはそれで。
_09/02
死人が夢に出てきて俺はそいつに言った。ああ、彼女は、もう死んだんだったけと。というか言った相手も既に死んでいる。対象は、両親だった。
何を示唆しているのか深く、夢分析レベルで考察した。だがすぐにやめた。なんとなく、今またふと思い出しただけである。
睡眠中の夢ではなく、今生の夢を追いつつ地道にタスクを進める。一発で目標達成を確信するほど盲目になっていた先月初旬まで。そこから戦略思考時は冷静に、手を動かす時は熱狂は冷まさずに、邁進している。つもりである。
つもりではなく証明するためには、やはりわかりやすい結果が必要である。それに準ずる対象を2つに絞った。目標が明確だと思考が変わる。思考が変わると行動が変わる――ビジネス書とかによく書いてあるやつ。事実である。
とはいえ、その対象における結果はなんと来年。やはり長距離走となる。しかし俺はそのほうが得意という自負がある。だからそれを証明――そのためにやっているのではない。ここはライン引きが必要。
〝目的〟に進み〝夢〟に向かうためにまず、結果を出して〝証明するという目標〟を達成する。目的が「ただの証明」に、いつのまにか変わってしまうと本末転倒。それは、アドラーさんの本をよく読むものだから頭に叩き込んである。
――タスクの合間に『REAL VALUE』というYouTube動画を1本観た。堀江貴文、溝口勇児、三崎優太ら(敬称略)がメインとなって、登壇するプレゼンターの夢やら野望ベースのビジネスを吟味し、価値をつけたり述べたりするという内容である。俺はこの動画シリーズが好きでなんかよく観る。
理由は、なんというかエンタメ性を帯びた格闘技に近い構図なのだが、とにかくプレゼンターの熱意に心打たれる。
それに、先の三方に加えたあらゆる経営者など猛者たちが登壇者を徹底的に批判する。アドバイスもする。推測市場価値などを数字で出す。つまり、ビジネスシーンにおいての初動と熱狂の晒し上げと勇気付け。そんなエッセンスが主だろうか。
正直に言って、いち娯楽として観たらシンプルに暑苦しいだけの動画かもしれない。だが、この夢をどうしてやろうか、というような者が観たら、ある種の精神賦活剤のような効果をもたらす。俺は凄く魅力的な動画だと思う。
俺は動画を観た後、夢と呼ぶには地味な作業なのかもしれないが、いつものように手を動かした。その時間は、何者にも替え難い。
〝夢〟を追うことと、〝女〟を追うこととの類似点を提唱した方がいる。ワンチャン付き合えたら、結婚できたら、やれたら――そう考えるだけで熱狂できる。この解釈よりもさらに深い提唱なのであろうが、なんかわかる気がするような。
ただ、明瞭にわかることは、睡眠時の夢はだいたい訳がわからない。だが、今生を営むうえでの夢は明確化できる。
そう考えると、昨夜、夢に出てきた両親は何が言いたかったのであろうか。さっぱりわからない。しかしさらに考えると双方の〝夢〟には共通点はがある。
それは、〝わからないことに意識を向けることにより、生産的期待値がもたらされる〟ということではないかと。
そう考えると少し、「なぜ意味が異なるがどっちも〝夢〟という一語で表すのか」ということには理解に及ぶ。そんな気がした。
寝言は寝て言えと。なるほどそうですか。しかし、起きている時の夢に関しては言語化という人間屈指の具体化が可能。だがそもそも、言語というのは存在しない。難しい解釈だが、そうなる。
紙に文字を書いて「これは言語である」と言っても、存在してるのは紙とインクの跡でしかない。言語は、その共通で認識できる文字なりを共有して、各々の脳内で表されるから、存在はしていない。
要は、この訳のわからない文章を俺は100%理解できるが、他の方が言語と捉えて読んだとしても、「ホリエモンのくだり以外は全部意味不明」となることも全然ある。
だから、夢を追うことに俺はある種の魅力を感じ、「ワンチャンやれるかも」などと思っては大脳を勃起させているのかもしれない。よそう。
俺は2度とここに「ウンコ」と書かないと誓い、本当にそれ以来「ウンコ」とは一度も書いていない。今だけ例外。もう2度と俺は勃起って言いません。
いや、言ってもいい気がするけどこう、なんと言うか、勃起という現象自体も存在しない――もう今日のところは一旦やめよう。仕事部屋のエアコンから今、風力が静かに萎む音がした。
_09/03
人によってはものの見方がこんなにも違うのだな。などと思いながら校閲の仕事をする。その思いは未来、俺に向かって鋭利なブーメランの様に返ってきては如実に刺さる。そんな気がしてならないとふと省みつつ、日を閉じる。
何か変わったことが、といったら「夜飯はヴィーガン」という謎のスローガンを掲げてはここ数日実践していること。
ヴィーガンというのは完全菜食主義を指すので、食事タイミングに限定すると厳密には絶対にヴィーガンではないのだが、一食は野菜と豆とか。そんな風にしてみようと思った訳である。
レディオヘッドのトム・ヨークさんや現代歌姫のビリー・アイリッシュさん。個人的に好きな人物たちに共通しているのがこのヴィーガン(その〝程度〟においては限定できないので端折る。加えて、一例として触れるだけで、評価や代表化の意図はない)。
だから触発されたという訳ではなく、シンプルに先月の血液検査の結果の「中性脂肪の値がやや高いですねえ」というあるまじき事実を覆すのが目的。
肝臓の数値も正常の範囲内ながらも高めという点を捉え、主治医は「平吉さんの体格などを考慮すると――まあお酒でしょうね(笑)」と、明言していた。
俺は笑えなかったのでそれを聞き素直に酒を減らした。と言ったらわりとウソになるので食事をまずは――と、いうのが一連の中核である。
そこで昨日あたり、「ブロッコリースプラウト」という食材に目をつけた。それは、カイワレのような見た目であり、廉価でスーパーの棚に並んでいる。こいつが何なのかというと――。
――ブロッコリースプラウトとは、ひじょうに栄養価の高い食物。「スルフォラファン」を中心とする抗酸化・抗炎症作用と、ビタミン類・葉酸・ミネラルなどにより、解毒・免疫・循環器系の維持に寄与する。
さらには、細胞酸化の抑制を通じ、老化抑制や加齢関連疾患予防に資する可能性あり。ビタミンC・Eやカロテノイドとの相乗により「眼機能の保護効果」も示唆される。酸化ストレス低減や、血流改善を介した「頭皮環境の維持に関与する」が、白髪や薄毛を直接的に防ぐ根拠は限定的――。
とのことらしい。端的にまとめるとこうだが、俺の欲する着目すべき点を噛み砕くと、「ビタミンとか豊富でアンチエイジングや目にもいいかも。あと髪にもいいかも」というところは見逃せない。だから昨日今日、俺はカットサラダにブロッコリースプラウトを適量ミックスし、もしゃもしゃと豆食品と共に夕食としていた。
するとどうだろう。なんかいい感じがすでにある。これをプラシーボ(偽薬効果)という。そうあって欲しくないのだが、確かに体調はいい。
じゃあ、続けてみて、次回の血液検査で先生に「短期間でこんなに値が正常に! 一体何をしたんですか平吉さん!」と喫驚させては、「いい質問ですね先生。そのね、夕食だけ俺はヴィーガンに……」と、「またこいつは飛躍したことを言い出した! 強めの薬を追加すべきか――」と、議論に発展させようかと目論む。
多分だが、遊び半分ベースで「ヴィーガン」とか言ってたら、本当にそういう姿勢の方々に怒られるのかもしれない。ただ、試しに、である。
現に、今夜も元気に小説原稿も進めつつ、「頭がズンズンする上に尻がもうね」という感じではない。ほぼ確実に直接的影響はまだ、出ていないだろうがこう、気の持ちようは大事だよね。というニュアンス。
人によってはものの見方も、捉え方も、感じ方も異なる。絶対に異なる。ただ俺個人に関しては、「ブロッコリースプラウト」を新たに食生活に取り入れ、生活態度の一部分を〝限定〟させたことで、なんだか気持ちがいい。つまり、平和な一日であった。
なお、率直かつ一つも脚色のない「B・S(もう略す)」初食の感想は「なんかいいやつだ!」の一言であった。他方で、生まれて初めてまともにウイスキーを口にした青年期の初飲の感想も「なんかいいやつだ!」の一言であったことは長期記憶に根付いている。この鬩ぎ合い。どう扱うか。
過去や現在の生活態度の乱れは、俺くらいの年齢になるとブーメランの様に返ってくる。だがそれを軽やかに躱す。「B・S」を身に纏い。なお、本文章はアフィリエイトに非ず。というかこれ読んで「B・S」が売れまくったら大したもんだよ。
ヴィーガンの文脈は大げさだが、率直に「B・S」という一筋の光明が俺の食生活を照らしたという生活感丸出しなだけの話。
次回の血液検査時、手前の血液が「ヴィンテージ・ワイン」色から「ボジョレー・ヌーボー」色に変化するのを目の当たりにするのが楽しみだな。そんな簡単にいくかよ。初老だぞ多分もう。
_09/04
三日間ほど、妙な夢をみる。昨日一昨日は、両親が出演しては抽象的な描写があった。昨夜は、現実の知り合いが複数人出てきては、具体的に俺の営みを唾棄する内容だった。起床したら、その前、起床が、嫌だった。ひじょうに鬱屈した気分であった。
今日は定期検診で心療内科に行く日である。
俺は時間まで宅で仕事をし、言語と向き合っていた。正しく書いたつもりでも、人によっては誤読、誤解されることを一切消すことは不可能に近いのだな。などと思いながら。
夕方、いつものクリニックに行った。ロビーで待機中の患者は一人も居なかった。みんな健やか。そうなのかもしれない。俺は暗に、心細くなった。
「平吉さ〜ん」
「はい〜」
1番の診察室に入った。
「どうですか平吉さん」
いつも通りの導入である。主治医は――白髪染めをしているのであろうか、微妙な線だが、若々しい艶のある黒髪を横に分けて、ブレないメンタルでそこにただ、居た。彼は俺の3つほど歳上の精神科医。
「聞いてください先生。ここ三日ほど、変な夢をみては――調子も、『生活に支障のない』という前提ですが、鬱っぽい。言ってしまうとそういう感じです」
俺は素直に言った。
「そうですか。というか平吉さん、よくそんなに細かく覚えていますね?」
「はあ、そういう性格の癖と言いますか」
「もっと長期目線で考えていいんですよ? 数日で捉えるのは――」
先生は俺の尺度に言及した。
「そうなんすか?」
「二週間です。そういう状態が二週間以上続く場合は、そのように捉え、私たちも治療の方針を考えるんです」
「明確な線引きがあるんですか? 期間に……」
「そうです」
明言した先生は、机に置いてあった各書籍のうちひとつ、青い装丁の医学書を手に取った。そして、パラパラと「このへんだったかな……?」と、記憶を頼りに該当部を探す所作を見せつつこう言った。
「基準があるんですよ。鬱病の場合はどれくらいの期間、そういった症状が続くかと――」
書籍の背表紙を目視すると、「DSM-5」という語から始まるタイトルだった。それが何の本なのか、俺は知っている。
というか、同じ書籍ではないが、『精神疾患診断のエッセンス DSM-5の上手な使い方』という書籍が俺の宅の本棚にある。通読もした。
先生は、俺に説明したい概念が記されたページにたどり着いた様子で、読み上げた。「下記の――」と、原文を朗読した。
「そうなんですね先生。二週間と、明記されているのですか?」
「そうです。明記されています。だから、三日で判断するのは早いです」
存じ上げている。DSM-5とは、精神障害の診断と統計マニュアル第5版。アメリカ精神医学会が発行する分類・診断ツールである精神障害の診断と統計マニュアルのことである。なお、とても分厚い医学書であり、価格は2万円くらい。
それにまつわる手引書などが各種あり、一般的なビジネス書サイズのそれを、先生は手に取っていた。俺の本棚にある、先のDSM-5関連の内容とほぼ同一の書籍と推測して的外れではないであろう。
だから、先生が言いたいことも、その本がなんなのかも俺にはわかる。さらに、俺の本棚にあるDSM-5関連書籍の訳者の一人は、主治医である目の前のあなたのお師匠さまである、大野裕さん(有名な精神科医)。そこまで知っている。
だが、一般的なメンタルヘルスの知識しか知らぬ「程」で、俺は敢えて言葉を控えた。
「そうなんですか……じゃあ気にしすぎですかね?」
「はい。少なくとも、二週間症状が続いたら、です」
「なるほど。あとですね、やはり鬱っぽくなる時には『明確な理由があるか』で、僕は判断しているのです」
「ほほう……」
「最近、細々と、小さな程度ではありますが、『うまくいかねえな〜』という出来事がいくつかありまして」
「ふうむ」
先生は傾聴モードに入った。
「例えばですけど、女にフラれたとかだったら当然落ち込むじゃないですか?」
「まあ、そうですね」
先生は目を合わせずとも確かに笑んでいた。
「そこまでではないですけどこう、期待していた収入源が思いのほか少なかったり、ほかにもこう、細々と――そうだ、先生。聞いてください」
俺は聞いて欲しかった。
「今年初めから小説を書き出した話、覚えていてくれると嬉しいのですが」
「言ってましたね」
「結果が出まして」
「どうでした?」
「落選しました。ただ、そのショックに関しては一日で立ち直りました。それで思ったんですよ。ちょっと考えが甘かったというか熱くなりすぎていたというか」
「ふんふむ」
「だから、数年、少なくとも2、3年は要する長期戦になるなと。それで頑張っていこうかなと」
「できますかね? 平吉さんそれ」
正直言って失礼な返しである。だが別に腹は立たなかった。俺は即答した。
「できますよ。僕、長距離走得意なので。長期間で取り組むのが好きというか得意なんです」
「平吉さんは書き物の仕事が多いんでしたっけ?」
「はい。あとは音楽系――そうですね、例えば楽曲を作って無料ダウンロードで配布してそこから……端的に言うと、インターネット上での印税方式での収入があったり」
「へええ」
「それが、四半期であるんですけど今期のが思いのほか少なくて……それもありますけど、『なんだよ〜』くらいにしか思っていません」
「そうでしたか。でも凄いですよ平吉さん。それでちゃんとお金入ってくるのは」
あまりにも長年続けている長距離走につき、凄いと言われてもさほどピンとは来ないが、率直に嬉しい言葉である。
「そうですか。だから、それもやりつつ作家業もしたいと。だから小説をと。しかし、一発ではだめだったと。それで長距離と言いました」
「なるほど。じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」
この先も聞いて欲しかったが、先生は俺の母ちゃんではない。鬱のくだりはしっかり解明しつつ説明してくれて、俺のその他の営みについての傾聴では、カルテに何も入力していなかったことを確認している。
まあ、そういうものかなと、ちょっと今日はノリがアレだったな先生。などと極めて個人的思惟を抱えつつ界隈をウロウロと。書店に行って乱読したり、ストリート・ピアノを本気で適当に弾いていたこと以外は明瞭に覚えていない。
気分もフラットになってきたので帰宅して、Macのストレージ整理をする。AIに最適な方法をいくつか聞き、採用した手段をいくつか実践し、けっこう軽くする。もちろん、人間の記憶などもこれくらいササと軽くなればななどというファンタジー思考に少し触れる。
ふと、鏡を見たら、徹夜麻雀明けのような目元になっていたので仮眠する。疲れていたのか鬱なのか、正直どっちでもいい。なお、俺個人に関しては、抑鬱状態の時、顔色は別に変化はない。むしろ逆にキリッとしている印象。
だから疲労と見なして小一時間寝た。起きた。小説の推敲をけっこうやった。面白かった。心理戦のくだりの章。実体験ベースの章。物語内においての雀荘での相手として、実在するモデルのS藤さん、元気かな。超絶イケメンでタトゥーバキバキの見た目おっかない同い年のS藤さん。
原稿用紙を目の前にしては、脳内に具体的なイメージが湧く。読者もそうあって欲しいなと、想いを込めて推敲する。他方で、一日単位でこれを捉えると、全てが抽象的に表象される。
二週間。こんな日が続いたら俺は目を輝かせ、キリッとした表情で先生に報告するであろう。「先生! 二週間続きました!」と。その時に主治医がどんな顔をするか。カルテに、おぼつかないタイピングで何を記すか。
俺は是非、それを見てみたい。されどきっと、新たな小説がもう1つ以上書ける贅沢な材料となるであろう。金を出してでも、それが欲しい。そうだな。二万円まで出す。廉価な取材費。
_09/05
気がつけば24時。というか起床が24時。ふざけるな。まあ、そんな日もあるんだ。本気でびっくりした今日あたり。すこし、酔っ払っているなか、率直にびっくりした。
だって今日が解けたのだから。もうちょい呑んで、寝ては、恒常。とりもどせるかな。知らねえけど本当に何もしなかった稀有な日に乾杯。呑むな。
_09/06
溶けた昨日が謎すぎた。だが、台所の脇の空き缶をいくつか確認し「なるほどね」と、落居する。今日は甚だしく体調が優れなかったが、がんばって仕事をした。
一昨日、半年以上放置していた「note」というプラットフォームに、記事2,000文字ほど(本記事の倍くらいの文字量)書いてを投稿した。タイトルは『小説初心者が小説を13万字書いて公募に出した結果』である。内容は、端的に「落選」に至った経緯と俺の心情を語ったものである。
こんなもん誰が読むかな。などと思っていたが、昨日今日でけっこうアクセスがあって、「いいね」的なボタンは30発押されていて、フォロワーが5人増えた。
そんなに人の「落選」が面白えのかよ。とも少しだけ、正直少しだけ思案したが別にいいかと。初戦の敗北を記しつつ、今後の邁進の気持ちで綴じる。いや、当該記事をお読み頂いた方々には心底感謝しております。
そこで思ったのが――「note」に小説を貼り付けて発表すればいいのではという案。ネット上で目につく分、公募結果を待つよりも生産的な気がしてきた。だが直ちに棄却した。
なぜならば、「公募で受賞」という〝目標〟を達成させないことにはその後の〝目的・夢〟に向かえない。うまくやればできるのかもしれないが、「誰でもわかる『金看板』がまず必要」という理念がある。
よく小説は――書籍というのは――「何が書いてあるか」よりも「誰が書いたか」という点の比重が高いと聞く。
だから、「わかりやすい誰か」にまずはなるために、当初の目標を今のところ変えない。よりよい案が出たら行動するが、やはり「文学賞受賞」というのは、ひじょうにわかりやすくも広く広がるデビューの在り方。これが要る。
そういったこともあり、久々に投稿した記事が思いのほか読まれたという事実。これがあったとしても、初作品も第二作も、未発表作として大事に扱いたい。
初作品は、いまの目線で改稿し、公募先も決めた締め切りは年内くらい。さらに、第二作を応募する先も決めてある。こちらの締め切りは来年に入ってからである。
そして、後者の公募の規定の文字数(原稿用紙換算枚数150〜400枚)に収める必要がある。初稿完成時で537枚。おい。400枚に圧縮させられるのか。とも思うが今日も推敲をしては、明らかな冗長部をけっこう削っている。
そういった営みの中、時間が溶けるようである。しかしそれは、昨日のような非生産的すぎる唾棄すべき溶け方とは真逆。だからさ、呑み過ぎるなよ。
思い出した。その「note」の記事を書いて投稿し、原稿も仕事もやり、過活動でハイになりすぎて、よせばいいのに朝まで呑んでて止まらなかった。
――もう、そういうのはやめよう。一人呑みでは。とはいえ、他者と呑む時に限ってはそれを許可する。なぜって〝溶け方〟の質が生産的だからですよ。楽しいもんね。
_09/07
虫の息も浅かった昨日。打って変わって今日は朝から元気。よかったねと思い、はりきって仕事をする。
昨日なんてもう、謎のゼリーとカットサラダとスモークサーモンの肴しか食べていない。死ぬぞ。だが、今日は、膨よかなラーメンライスに夜はヴィーガン食(勝手にそう言ってるだけで内容はサラダと豆)という立派な食生活。つまり覇気を取り戻した。
小説の第二作目の原稿を推敲する。公募の規定所以で、思い切り圧縮させる必要がある。
これに骨を折ると言うかそもそも可能かと、AIに聞いたくらいである。だが現実的に可能だと言う。なんなら、むしろそのほうが良くなるかも、加えて、過去の受賞作でそういったケースがあったと、事実まで吐き出す。
冷徹にありがとうGPT-5。とか思いつつ、とりあえず推敲が楽しいし、「こんなこと書いたかな」という部分を愛でつつ「絶対面白いと思うんだけどな」と、自賛しつつも「お願いですから、まずは、何しろ、世に出てください」と、祈る。
世に出すためにやっている。というか、その、世に出た後に書き続けて貢献したい。というか本当に楽しいと思える営みを、仕事ベースでずっと続けていたい。その先に夢がある。という初心を忘れずに、祈るだけではなく、というかまだ祈る段階ではないが、まず進める。
要するに今日も、今年に入ってからの新たなライフスタイルに準じ、良く生きた。虫の息なんて一日で吹きかえる。
――芥川龍之介賞を獲った作家のドキュメンタリー動画をYouTubeで観た。なんとなく合間に。ふうんと思いながら鑑賞していると、ふと、手前が制作した楽曲がひとつ、バックで流れていた。ずいぶん前(2020年くらい)に作った楽曲である。
何かの縁だといいのだが。などとも思ったがこう、見据える先は大きければ大きいほど、疲労がポーンと飛ぶほど楽しい。
そういう生活してるからたまに激しく飲みすぎたり息が虫未満になったりするのかもしれない。そこは、お願いですからちゃんとしてください。走り続けるために。
_09/08
皆既日食から通常の満月。連日の〝月〟の変化は如実であった。今宵の月も眩く光を反射させる。他方で手前は、夕方過ぎに、プツッと電池が切れた感覚を確かに知覚した。
シンプルに急に眠くなり、わりと良素材のシルクのような鬱っ気に包まれる。面白いもので、そういうケースでも、普通に営める。だが仕事をきちんとした。
――外を歩いていると、普段とは感覚が確実に異なる。風が、俺を無視して通り抜けるような独特な現象かのよう。
酒も呑みたくねえな今日は別に。とは思えど一応スーパーで最低限買い込み、風に察知されないかのような透明にある帰路につく。台所でヴィーガン食を摂り、仕事部屋でメールチェックをしてはそこからのルーティンをこなし、寝た。やる気ねえんだもの。
世界各地の美麗な景色に古代の文明。それらが映し出されるYouTube動画を放映させつつ、寝た。ソファで遠慮なく。こういう時、わりとふつうにタスクはこなせるのだが、今日は寝た。1時間半くらい、充電を試みた。
古代の文明。その時代、三大欲求を満たすので精一杯。そんな主観がある。だが、確かに、文明から派生する芸術があるもよう。それは美しい。人間の人間たる営みの具現化は文化となる。それはそれは美しい。俺もそう在りたい。
そこまで別にその時は思っていなかったが、原稿にとりかかる。一章ぶんの量、推敲する。大幅圧縮という課題。とはいえ、わりといけるんじゃねえかという感触を得て楽しくなってくる。
皆既日食。それは、月によって太陽が全て隠されて見えなくなることを指すらしい。しかし翌日は満月の煌々たる輝き。これらに俺のコンディションは比例していた。
その反動か、今日は。
だが、事は進んで特筆した影響はない。だが、気分がどこか古代というか天体というか、風に無視されたというか、そういう時間もあった。
感情や状態が、多くの生物に比べ、一辺倒とは言い難い。だからこそ、人間自体にもそういった現象がおきるのではないかという仮説。そこから派生するのは、だからこそ、文化や文明が築けるのではないかという祈り。そのへんであろうか。
本当にね、ある種の魅力と言っても過言ではないのかもしれない。それが、唐突にやってくるメランコリック。その時の思考回路。一歩間違えば、よかならぬものを誘発するが、飼い慣らせれば、それは逆説的にエネルギー源ともなる。
そして、その〝シャドウ〟――心理学における、自我理想と一致しない人格の無意識的な側面――を認められないと、人はちょっとおかしくなる。葛藤をこじらせる。踊らされる。
いや、理屈では少〜しはわかってるつもりだけど、すごいのよ。そのインパクトというか投影のある種の魅了が。だからなのかな。皆既日食に人間が惹かれるのは。俺にはちょっとよくわからないから酒呑んで寝よう。暴論でまとめていたらなんか元気出てきた。
_09/09
今日の東京都北区赤羽は、青天に豪雨という訳のわからぬ天候。俺は傘をさして食い物を買いに出た。すると少女が居た。雨合羽姿で傘をさしていた。ふと思った。彼女がもし、俺の娘だとして共に歩いていたら、などと。
「ねえパパ。どうして晴れてるのに雨なの?」
晴れと雨と曇り。天気においてはその3つしか知らぬ娘は、そう言及するであろう。当然の問いである。しかし明確に、正しい答えを、児童にもわかるように、きちんと伝えるのは気象庁関係者でも困難。俺はそう思案した。
「これはね。晴れてても、雨が降らない訳じゃあないんだ」
「晴れは晴れでしょ?」
そう、娘は怪訝に返す。
「晴れは晴れだよ」
「でもいっぱい雨降ってるよ?」
「そうだろう? だから、晴れているけど、じつは大雨。そういう日もあるんだよ」
「じゃあ、雨でもじつは晴れてるばあいもあるの?」
そう、娘は逆の現象を語る。
「そうだよ。ぱっと見でね、どっちかわからないし、じつは両方だったりするんだよ」
「じゃあ、晴れ雨かなあ?」
そう、娘は結論づける。しかしそれでは俺が嘘を教育したことになる。だから弁明する。
「ちがうんだよ。どっちでもないお天気もあるんだよ」
「じゃあこれは、なんて呼べばいいの?」
そう、娘は帰結を求める。
「呼ばなくてもいいんだよ。『わからない天気』でいいんだよ」
「わかりたいよう!」
そう、娘は答えを希求する。
「パパはいま、ごきげんに見えるでしょ?」
「うん! たのしそう!」
「でもね……じつは悲しい気持ちでいっぱいかも……それは、ぱっと見てもわからないだろう?」
「うん! 悲しいの……?」
「この天気と一緒で、どっちもじつは、あるんだよ」
「そうなの?」
娘は理解を若干放棄しつつも、本質の方を探ろうとした。
「そうだよ。悲しそうで泣いていても、じつはごきげんだったりすることもあるんだよ」
「なんで?」
「パパにもわからない。だから、そういう時は、考えないで、感じたまま、『わからないけど、どうなのかな?』って思ってあげればいいんだよ」
「ふうん。じゃあこの天気ってどうでもいいの?」
「それは自分で感じたままでいいんだよ。ただ、その『なんで?』を捨てない方がいいんだよ」
「わかんないけど、ちゃんと見ててあげればいいのかな!?」
「そうだよ!」
「わかった!」
俺の教育方針は確実に破綻している。だが、大人になって、この日のことを思い出しては「奴はこのことが言いたかったのか」などと思い出してほしい。だから俺は幼い娘に、完全二元論主義を否定する提言をした。
今日は、そんな天候の中、食い物を買いに行って――というくだりが面倒になったので蕎麦をすすって帰ってきた。
その後、仕事部屋でデスクワークを少々、そして3時間少々、小説原稿に張り付いた。推敲した。ううむ、いける。こんなに研ぎ澄ませられるのか。と、けっこう大手術をして冗長部をスリムにしつつ、本質的な部分は光らせた。
よかったよかったと、タンメンを食べに行き、帰ってYouTubeの『REAL VALUE』という動画を観ては、最近では一番面白い企画動画だなと、色々と参考にしつつインプットを図る。そんで、ちょっと寝る。
起きてふとスマフォをタップすると着信。それがあったので友人と対話をする。俺にしてはひじょうに珍しく、後日――と、誘い文句をかけては切電した。
ここ数日、心身共に体調が大回転していた。だが、表面上は誰にもわからぬほど平然としていた。だが内実はそうでもなかった。
ニコニコしていても心は抑鬱。昨日はそうだった。淡々としつつも魂は煮沸。今日はそうだった。
どっちなのか――そんな相手と話していたり、自分を俯瞰したりして、共々、感じようとしていた。それは大事なことだと俺は思っている。
だから、本当に娘が居たとしたら、俺は天候について質問されては「うるせえな狐の嫁入りっていうんだよ馬鹿野郎」と、一言でその現象に対しての無理くりな呼称を伝え、見事にトラウマを植え付けるかもしれない。そんなことはしない。
きっと、えらく抽象的な言い回しで、答えのない事柄をどう扱うかという思考のコネクションの発生をはかるであろうか。実際に娘が居ないとわからないけどね。
YouTubeの『REAL VALUE』みたいに、明らかに数値化したり合否を決するシーンもある。青天の降雨のように、いまだに適切な呼称がわからない現象もある。そして、どこからどこまでを「明確にするべきか、探るべきか」という線引き。これは、思考の積み重ねの先にある感度でしかはかれない。
実のところ、20分くらい前までそんなこと1ミリも考えていなかったが、日を文章にしていくと、このようになる。
きっと、死んだ両親、どっちかわからないが、幼い俺が、架空の娘と同様の質問をした時のように、架空のパパ俺みたいな文脈の答えを口にしたのであろうか。「自分で名前つけちゃえよ」くらい教育放棄ギリッギリの答えを。
だとしたら合点がつく。もしもそうだとしたら、俺は両親に育てられ、今でもこれからも、感謝ですと言えるのであろう。現在の赤羽の深夜は、静寂が空をそっと埋めては、安寧な表情の月が浮く。
_09/10
正午。赤羽の某純喫茶でランチ会合をした。友人の桑原氏と。なんかオシャレでいいじゃないか。こういった日のスタートも新鮮だなと思いつつ、俺はコーヒーとサラダを注文。にわかヴィーガン食を口にしながら、お話をした。
情報交換と近況報告。お互いに性質は異なれど、「いろいろやってますね〜」と、共々鼓舞するようにほっこり過ごす。彼とのアサーティブ(相手を尊重しながら、自分のスタンスに誠実)な関係値は、心地良い。
その後、彼の予定に飛び込みで参加しては、有意義なインプット時間とさせて頂いた。俺の知らないことはまだまだたくさんあるのだなと、率直に思ってはもっと知識が必要だと実感した。
帰宅してからは、小説を育てたり、書店に行って売れ線の本を立ち読んでチェックしたり、能動的インプットに努めた。
インターネットからもと思い、YouTubeで三崎優太さんのチャンネルを1本観たが、なんだか絶妙なインプット内容な気がして少し疲れ(内容は面白かった)を感じ、仮眠した。
起きると桑原氏から着信があったので折り返す。先に一緒にインプットした内容のフィードバックを行なった。話している中、彼も三崎優太さんの同動画を観ていたらしく、その内容にも互いに言及しては、インプット咀嚼の生産的なお話をした。
つまり、普段のように書いたり作ったりよりも、情報を入れる方の比率が高かった一日。今日立ち読んだ本にはこんなことが書いてあった。「本を一冊書くのには100冊は読書が必要」と。
ううむ、と思うと同時に、そこを今覚えているあたり、インプットの大切さを改めて吟味した日だったのだと回顧する。
明日以降になり、それをどこまで覚えていられるか、ほぼほぼ忘却の彼方へ飛ぶ頭ニワトリ野郎かどうか。それは、アウトプットして世に出すことで証明したい。
インもアウトもバランスが大切。食事もそう。だからあんましヴィーガンとか軽く言わないようにしよう今後。さっき思い切り油ラーメン食ってたし。おいしかったな。
_09/11
インターネット・ブラウザに「AIモード」という新機能が搭載された。AIね。そのAIだけで作れるコンテンツで今、世の中は水浸し。
ついさっき、YouTubeプラットフォーム行って離脱しようとふと、ショート動画のカート・コベインさんのいい顔が目についたと思った刹那、視界にカットインした字幕に「ミルバーナ」と記されていた。
別に俺は何も思わなかったが、昨日こんな話をした。それは、TikTokとかYouTubeショート動画とかそのへん、俯瞰して見渡すと「オリジナル・コンテンツ」が1割にも満たないと俺は思うんですと、そういった視点を言葉にした。
「そうなんすか?」くらいの反応だったが、だってさ、ほとんどのショート動画が「著作権・肖像権」がものの見事に看過されているのかどうかは知らないけど、要するに他人のふんどし動画多いと俺は思うんですと、そのように危惧せずにただ、言語として口にした。それはそれで面白ければいいと思うので批判など一切する気はございません。
――「なるほどですね」くらいの規模の話題で収まったがそこでミルバーナよ。そういうことですよ。どういうことか? 他者様に関してはわからないが、一体俺は何を観て楽しめばいいのかと、やや考えた。
「それはお前が受動的にコンテンツを消費した成れの果て」と言われればグウの音も出ない。
出したところでその場でハーフパンツを履いた屈強な男2人に口を塞がれては全身を縛られそのままライトバンの後ろに突っ込まれてそのまま高速道路を4時間ほど。中部地方の山奥に連行され、無造作に土に放られては喉に銃口を突っ込まれて「最後に言い残すことは?」と笑まれて言及され俺は命乞いの作法を知らぬものだから固まっては朝。
気がつけば俺は東京都新宿区に放られており、500mlの水を咥えたまま路上で死んでるホストくんの隣で目が覚めた。そしてそのままゴールデン街に行っては当然店はやっておらず、仕方がないので『磯丸水産』で手を打ち、少し呑んではJR埼京線で帰宅。ショート動画を観ては爆笑する癖をつけた。
創作ベースの感想ではあるが、俺はわりとショート動画を楽しく観ているという事実に嘘はない。
そうだ。今日は仕事をして、夜だと思いメールチェックの時間だと思い、しかしそのまま小説だ。これを進めようと2時間推敲してくたくたになって横になる。
起きたら23時を過ぎていたのでいかん。そう思いメールチェックをしたら不要不急なメールが9割だったのだが別に感想を漏らさず、YouTubeプラットフォームへ行った。ネコがただそこに居るだけの50秒ほどの動画を観たあとに、カート・コベイン(Nirvana:ニルヴァーナのフロントマン)さんのかっこいい顔を見た次に知覚した字幕の文字が――俺を中部地方の山奥まで連れて行った。
そのような、いつも通りの幸せな一日に感謝する。いつか、最期の日が来る。それまで俺は良く生きる。その日が来たら、最後に何を言い残そうか。そうだな。何もない。もう十分。それを表情で、居てくれればいいのだが、看取る方に伝えたい。
もし、一日をショート動画に記録するとするならば、AIを使うべきか。それを日の締めに考えていた。字幕で名前間違えられたら困っちゃうからな〜などと楽観視しつつ。さっきまでAI使って壁打ちしてた野郎が何を。と言われれば俺はそいつをライトバンで――そんなことはしない。
_09/12
能動的に情報を得るとはどういうことか。
読書習慣が染み付いた俺は、今日あたりはユングさんの著書を読んでいた。その一説に、人生を「午前」と「午後」にわけて考えるくだりがあった。
ほぼその表現通りで、若者の人生は午前。俺くらいの年齢からは午後。それぞれ、生き方が異なるという内容であった。
――“われわれの生涯は太陽の動きのようなものだ。朝、太陽は絶えず次第に力を得て行って、正午に至るとその輝きも熱も絶頂に達するが、それからエナンティオドロミーが始まる。
なるほど太陽は先へ前へと進んで行きはするが、それはもはや力の増大を意味せずして、力の減衰を意味する。その如くわれわれの課題も若い時と、歳をとってからとではちがうのである。
若い頃は拡張や上昇を妨げる一切のものを取り除けばそれでいいのだが、歳を取り進んでくる頃になると、下降を助ける一切のものを促進するようにしなければならない。
歳の若い経験の足らぬ人間は、年寄りは放っておけばいい、どの道もう大したことはしないのだし、もう人生の大半をやりすごして、現実何かに役立つとすれば、それは過去の石化した支えとしてにすぎないのだと考えるかもしれないが――中略――。
人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。
ただ人生の午後の意味と意図とは、人生の午前のそれとは全く異なるものなのである。
人間には二つの目的がある。第一の目的は自然目的であり、子孫を生み、これを養い育てるのがそれで、これに更に金を設けたり社会的地位をえたりするという仕事が加わる。
この目的が達成されると、別の段階が始まる。それは文化目的の段階だ。”――
(※引用部の中略および改行は俺によるもの。著書では一気通貫に記されている)
何言ってんのかわかんねえよ。クソ長い説明に加えて冗長だし文章構図もややこしいこと。だから、俺は「読書」というより「解読」というスタンスで読み進め、この箇所にハッとした。
あとすいません。熱込めて懸命に執筆されたからこうなったんですよねユングさん。すいません。現代だともっと圧縮して書かれる傾向があるものでつい。
つまり、午前と例えた若者は、とにかく頑張れと。午後と例えた歳取りは、質的にそうじゃねえと。全然違うニュアンスで捉えろと。
それでもって、「午前」では人間としての自然の営み――家庭や仕事――をがんばって、それが達成されると“文化目的”という段階に行き、そこでは「午後」でもあると。そして、それぞれ異なれど“意味深い”と。そう、俺は解釈した。
だが、「午後」について「年寄りは大したことをしない。放っておけ」とも解釈できる文脈もあり、けっこうどう捉えればいいのか微妙なライン。あと、ちょっと乱暴。ユングさんの言い方。
ただ、俺には“人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。”という一節が光って見えた。
なぜならば、「もう歳だし」といったような不文律ともなりうる言い訳が覆されるからである。とはいえ、それを、行為レベルで分別しているような内容とも解読できる。合っているのかは知らない。俺はそう感じただけであることを強調する。
そこで「文化目的」に注視した。それこそ「午後」にやるのに向いている的なニュアンスがあったからである。
文化目的とは、俺は〝創造性〟の一言でまとめられると思う。だから、おっちゃんおばはん――午後――になっても価値のある、やることがあるぜと。そう感受してもいいのでは。そのように思った。
だから俺は、創造性のために、能動的に情報を取りにいった。
YouTubeでレコメンド動画を呆けたツラで流しっぱにする(こと、俺がいつもそうなだけ)のではなく、「俺が今、本当に欲している情報は?」と、考えて、プラットフォームの検索エンジンに言語を打った。「北方領土」と。
すると、現地で和むロシア人の方々の暮らしや旅先という目的での様子。シャケとかが獲れるという食産的知見。現地(択捉島)の建造物の造形やコンビニの様子。あとは、歴史的なあれ。たぶんあんま書かない方がいいやつ。
俺はなぜ、北方領土の情報を得たか。創作のためである。いや、さっきも進めていた小説原稿にその文脈は皆無。つまり、俺の能動的な情報取得欲求ってなんだろう? ということを知れた。というだけの収穫。
人生の午後は、人生の午前に劣らず意味深い。
確かに、若い時だったら、このくだりをいちいち考えない。絶対に考えていなかった。めんどいもん。だが、午後であろう今は、精緻に思案を熟しては、結局何が言いたいのか俺にもわからない。
ただ、書籍から「人生の捉え方の視点」についての角度がひとつ広まった。それだけでいいじゃないかと手打ちとした。要するに、北方領土の情報収拾は謎の一言だが、前半の収拾においては〝価値〟を見出せた。気がする。
これも「午前」「午後」という尺度が適用するのでしょうか。ユングさん。
はあ、勝手に引用するなと。なるほど、読みづらいのは訳し方にもよると。それは訳者様に失礼では――え? じゃあ原書を読めと。ドイツ語は無理でしょ。うん? 自分の言語の限界で自分の世界の限界を? それ、別の学者さんの言ったやつのパクりでしょ。はあ、わかりましたよ。ちゃんとクレジット表記しておきますからそんなに怒らないで。
今日は、仕事をして小説を書き、飯を食ってはさあこれから酒でも少し呑むか。そのような寧日。つまり、ほぼいつも通り。
(出典:『無意識の心理』C・G・ユング著 高橋義孝訳 1977年7月20日初版一刷発行 2010年7月20日初版ニニ刷発行 発行所 人文書院)
_09/13
「無謀」と「臆病」の間にあるやつ。それは。
そんなこといいだろ横に置けと、俺は今日普通に、ちょっと多めに仕事をした。普通というのは通常運転という意味ではなく、内容的にいつもの、ということである。
そんで原稿で小説を進める。これにかな〜り時間を使う。いや、活用する。個人的には、これもしかして如実に難しい行為をしているのでは。と、俯瞰する。
はたからみたら「いつまでその巻物くらいの長文書いてるの? いくらになるの?」という謎の営みでしかないのかもしれない。
それを人は「無謀」と表するのであろうか。はたまた「無駄」なのであろうか。それを決めるのは、俺でもあり、その情け容赦なき他者なのかもしれない。
その間。それが何かってこの場合、「俺のやつが他者に繋がって活きる」時ですよ。そう思い、ひたすら推敲しては「文章ならびに物語・作品における〝冗長さ〟と〝譲らなさ〟とは」などと考えては今、こめかみ脈打ってる。
やり過ぎても伝わらない。すると「人様のことも考えろよ」と、弾劾される。
やらな過ぎはつまらない。すると「何に、遠慮してるの?」と、無視される。
だから、その中間。すなわち〝中庸〟である。両極端に偏り過ぎずに芯を持ち、成し遂げてみんなで幸せに。半分は中庸の意味をちょっとアレンジしているが、まあそういうこと。
だから、くどい部分はカットして、「あからさまに笑かしにきてる。その態度が一番つまらないんだよ」という部分を吟味する。するとどうだろう。中庸になってくる。
しかし、それは音楽に例えると「コンプレッサーをかけて聴きやすくさせる」という施しにけっこう近いが、なるべく、原音、鬼神のような形相でカッティングしているアベフトシさんくらいの〝勢い〟は絶対に殺さない。
それがものすごく重要だなと、小説を推敲していてそう思った。
ロックンロールのライブ演奏とは逆の生理活動で行なっている感じだが、個人的にはライブ演奏しつつ音源のMIXをしているような感覚で、小説をつくっている。
だから、 「無謀」は削ぐ。「臆病」は、論外。芯を譲らぬ尖った〝中庸〟を肚に置く。
今、ハイボールの固いやつを飲み始めてはハァァァァァ……! とか漏らしている野郎が何を。と詰められれば、いや本当にこめかみが。脈が。なんならBPM上がってきて。よせ。と、なるが、ちょっとだけ麻酔で誤魔化しているんだよ。最近は気絶寝するほど呑んではいない。
ふざけるな。言いかけてはその間、「無謀」と「臆病」の間にあるやつとは。言います。「勇気」です。俺は勇気を出しているつもりですが、やはり、はたから見たらパチスロのコインカチ盛りドル箱みたいになっている灰皿をまずは清めろと、今思った。
「無謀」と「臆病」の間にあるやつ。それは「勇気」である。だから、中庸であれ。ただ、その意味と根幹を間違えるな。そのように今日は思った。つまり、〝正しい中間で勇気を持って、爆ぜろ〟と。
なおこれ、俺の思想ではない。感銘を受けた他人のふんどしである。中庸のやつ。これは、アリストテレスさんの提唱のひとつ。ありがとうございます。ギリシアの古の哲人さま。そして、日本の偉大なるロックンロール・ギタリストさま。
俺は、勇気を捨てません。捨てるとね。このまま、臆病に、寝てしまうのです。そんなことは決していたしません。誓います。
_09/14
逍遥という名の無目的散歩に出る。既視感ある地から、未開の場所まで。そこに差し掛かるまでの境界線。これがトリップの入り口のようで気持ちが良い。
とはいえ赤羽西6丁目だから近所。ともあれ未知の団地を発見。昭和公団フリーク。自覚のある俺は、古団地の造形に魅了されては息を漏らす。
なぜ、俺が団地を見ると興奮するか。いまだにエビデンスがわからない。今日あたりは、人間が出す「波動」のように、建築物の大きさや古さ、材質など、素粒子レベルで「波動」が放たれており、俺にとってはそれが安寧のトリガーとなる。とまで考えた。
だから次に図書館に行く際は物理学と粒子学の書籍を読もうかと企んだ。昭和公団フリークの執念。それを知識欲に昇華させる。できる訳がない。
いやあきらめるな。だが、謎に途中であきらめたかのような楽曲制作メモがあったのでふと聴いた。逍遥は2時間ほどでさっさと宅に帰り、DAWを開いていたのである。
するとそのメモ、ドラムスの四つ打ちと歪んだサウンドのギターリフ・フレーズ四小節だけであったが凄くときめいた。閾下の感覚が意識上に「プク」と浮上し、俺をえらく興奮させた。
なぜ、メモのままであったのか怪訝にも思ったが、その理由はすぐわかった。それは、メモをほぼ同時期に二つとり、そのギターリフではないローズピアノを演奏したメモの方を、先に仕上げにかかったからである。
その楽曲はもう先週あたりに公開して、今日、公開先のプラットフォームを見たらダウンロード数が1,000を超えていた。まあまあウケているのであろうか。別に自慢している訳でもなく、それは100万DLとかいってからにしろと自戒。
よって、「ボツメモ」ではない理由が明るみになったので、そのメモを伸ばす。ロックサウンドは得意分野。すぐ伸びる。ストラトキャスターの硬派な音が俺のアイディア脳の奥からダイレクトに楽曲展開を引き出してくれる。気持ちが良い内面トリップ感。
いい進捗だと実感し、最近お気に入りのネギタワー・タンメン(日高屋にて770円)をバスバス食べて帰宅。イタリアの謎の思想集団の営みを克明に捉えたYouTube動画を閲覧し、ソファで寝てしまった。疲れていたもよう。
だが、小説をやらねばと、興奮と熱狂と夢と執念起因で丁寧に進める。推敲。そろそろ第二作の一度目の推敲も後半。文章を吟味しながら、作品の世界にトリップできる。
これができないとなると駄作。つまり、自分で酔えるくらいでないと、世に放っても相手にされない。それは、文章でも楽曲でもそれぞれ、体現してきている。
さてやることやったし酒呑んでトリップ。だめだよそれは。正直に言うと昨夜、呑んでは気絶寝していた。仕事とかし過ぎていたもよう。今、机の手書きタスクノートを一瞥したらここ9日間、休日らしき日がなかった。そりゃそうもなる。
今は普通に呑まずにこれも書く。旅先は慎重に。とはいえ今日は半分休みベースで、二つ良きトリップ体験ができたのですこぶる良日であった。
する必要のない補足であるが、本文においての〝トリップ〟とは、〝旅に似た感覚の新たな出会いと楽しみの享受〟である。
だって改めて言葉の意味を調べたら、トリップ――麻薬によって生じる陶酔状態、多幸感、判断力の低下状態を指す俗語――って二つ目の意味候補に出てたものだからやっぱりする必要あるよ。本来の意味は「旅行」である。補足。
_09/15
10時間寝て、よし、図書館へ行こうと奮い立つ。当然いつもの北区立中央図書館に行く。この館には書物という書物は『デラべっぴん』以外何でもある。そう。叡智の森なんだ。俺の脳髄と見識を拡張してくれる凄い場所なんだ。館に面した公園で大木に挨拶し、いざ本館正面に向かうと、「休館日」と記された縦長の看板が置いてあった。
もしも俺が大阪人であったのならば、やってへんのかーいと、必ず言う。しかし俺は東京人なので、やってねえのかよ、と言った。館にもお休みは要るよね。しっぽを垂らして東十条駅まで10分ほど歩いて戻った。
往復電車賃、完全に無駄遣いだったな。などとネガティブには捉えない。ここのところ足繁く図書館に通ってるのになんだよあの看板は。休館日だよ。そうか。そう思い、俺は近所の大型書店で本を吟味するルートに舵を切った。
まずは、ついこの間、数ページめくって気になっていた書籍『本を読む人はうまくいく』という新刊を手に取った。
この本はベストセラー著書『移動する人はうまくいく』の続編というか、前のが売れたから似た切り口で発刊されたのかな。くらいに思った。良い意味で。そして、その『移動』本においては俺は面白いと思った。
そして今日『本を読む人はうまくいく』。これの続きを読んだ。内容はと言うと、読書がいかに人生のあらゆるシーンで役に立つか。景色が広がるか、人と多く繋がれるか、仕事において優位に。包括的に豊かに。その辺が書かれていた。
そして別のフロアに行き、昨日気になっていた物理学。それ関連の書籍も手にした。そこにはまず「物質は何からできているか」という、ああ、いかにもだなという問いが冒頭にあった。
何でも原子が一番ちっこいと思いきや、その内実には電子に陽子に中性子と、さらには素粒子。つまりもっともっと細かいと。訳がわからなかった。
追い込みをかけるように、素粒子が集まって陽子や中性子のような粒子をつくるには、互いを集める力が必要。
なんとなくわかる。その「力」をつくっているのもまた素粒子だと。とにかく素粒子はすごいんだね。くらいにしか理解に及ばない。
とどめを刺すように、相対性理論によれば、質量とエネルギーが等価である――。
何を言ってるんだろう。それらを式にしたのが「E=mc²」というアインシュタインさんの有名な式。有名って言われても俺にはわからないが、この本を読めばわかるのかな。そういった思案のなか卒倒しそうになる。
だが気になったのでちょっと現状の理解度でまとめると、その式の意味する一部には、“質量とエネルギーは本質的に同じものであり、互いに変換可能”という一節があった。な〜んとなくわかるような。
つまり、物質の中には莫大なエネルギーが秘められていると。エネルギー次第でこう、わりと思った以上のことになると、それくらいの解釈で今日は留めておいた。
そんな思考は連れ出さず、今日のタスクとしては楽曲制作にだいぶ時間をつかった。功を成し、ロックサウンド楽曲の骨格ができた。最終形が見えた。あとは、どれだけエネルギーを投じて音源化させるか。
ギターにおいては1本だけでも成立する。しかしオーバーダビングすれば、音の厚みが出る。そのかわりに、MIX時において、1トラックあたりの音の配分は狭まる。1つの音源においての「音域のスペースの奪い合い」ともなる。
それをうまい具合に、不要な部分を削ったりして工夫するのがMIX工程。とりあえず今日の段階ではまだ、エネルギー源自体すなわち各パートを録音する段階の手前なのでそこではない。
なんとか楽曲制作を相対性理論に置き換えて考えたい。しかし無理。今は無理。少しずつ、「普段の営み」の解釈を、物理学視点でも捉えてみよう。
そうなってくると、『本を読む人はうまくいく』にも書いてある「普段は手に取らない分野の本も少しずつ読んでみる。すると――」という先の〝実用〟ともなる。
難しく考えるなよ。横に幅広く本を読むと、様々な点が線で結ばれる。そんな文脈がわりと強調されていた。俺のスタンスとはちょっと違う。手前の場合は、特定の分野を深く掘りたい。それが性に合っている気がする。
だが、今日はアインシュタインさんの例のやつにも触れ、実のところ楽曲制作にも通づる気がする上に、小説の推敲時においても「圧縮させることで質量とエネルギーが――」などと今、ちょっと思えた。
――今日の本流は、図書館で数時間過ごすはずだった。しかし休館だったので書店でいろんな書籍を吟味した。すると、本来得るはずではなかった視点が得られた。
ある種、俺なりに解釈するところでこの現象を、わかりやすく書いてあったのが『本を読む人はうまくいく』という書籍。
もちろん、「深くひとつの分野を思い切り掘る」という読書も良い。乱読も良い。飛ばし読みも時に効果的など、様々な角度からの「読書の良点」が記されている。ただ、〝幅広く〟という観点が、わりと事細かく展開されている。
図書館がやってなかったら別ルート行ったら案外、別の収穫があったのが今日。
相対性理論によれば、物質とエネルギーは互換性があり最終的には同じもの。
これに繋ぎ合わせたいが、少しは整合性がとれているのかな。個人的には、取れている気がしなくもない。
すいません。当該書の筆者様とアインシュタインさん。ちゃんと理解に努めます。何のためにだろう。それは簡単。理解を広めること。それが、思わぬ時に繋がり、更なる景色が広がるからである。
そのようなことを学んだようなそうでもないような。個人的にはそうだと思える。そろそろヤクザ漫画を読んで寝よう。
_09/16
しびれ。とも言えよう感じよう一日の稼働だが、普通はこれくらいみんな毎日やってる。そうなんだろうなと見なし、こう、背筋を伸ばす。
ブツ切りの夢を10回くらいみては起きて眠い。そのまま気がつけば夜も遅く。だんだん、人生の一日が短く感じてくる。
加齢と共にそうなるようで、この現象というか感覚には名前がついているのだが忘れた。
肝心なことを覚えては忘れ、無駄なものが、実は必要なのだが削ぎ落とされ、あらゆる負荷も青年期ほどの感性所以で感じなくなり、スススと年月が経ち、気がつけば、内側から開閉不可能な窓を眺めながら死す。
そんなのはいやだ。だから、永続的な営みに手を抜かない。仕事をする。中性脂肪の値を気にしながら葉っぱ中心の食事を日に一度は摂る。小説原稿を磨く。磨いているつもり。その暁の舞台をおめでたいくらい本気でイメージする。
潜在意識のそれを、顕在的にしているつもりだが、どうなるか。年月を重ねに重ね、本格的にだめだったら、それまでの一日一日の数時間をまるごと溶かしたという顛末を迎える。それは認めない。ではどうすればいいか。
批判的に生きることである。これがつらい。だが、前提として、進むために批判的になる。例えるならば想像上の親に「お前はいつまでカタカタと遊んでいるんだ。AIは一日一時間!」などと律せられることをリアルで体現するかのように。
しかし、AIと対峙するのは批判しないでいただきたい。親。むしろ、毎日――本当にさいきんは一日一時間以上はAIとなんかカタカタやってる――テクノロジーの進化を追わないことにはアレかな。という抽象的な焦燥感からそのような時間を設けている。
それは言い過ぎであって、別に焦燥してはいない。そして、本気で作家業を営もうという態度は、もちろん批判していない。
何が言いたいのかと言うと、しびれ。そんなにこう、要らぬ密度で手前にストレッサーをかけずとも――ストレスはあまり感じていないが――シュッとしたやり方があるのでは。そこは批判的に考えるべきである。ということ。「批判的に生きること」は過言。
あれだ。要は時間の使い方がへたっぴすぎるということを自己批判したいと。そういう内実だ。ここまで書いてやっとわかった。しかし昨日のやつ。
〝質量とエネルギーが等価である〟。これ。そう考えると、なんか時間効率絶対主義もどうなのかなと、さらに批判的思考が生じる。
じゃあどうすれば。朝起きて、夜は寝ろ。その間に、当たり前のようにやることをやれ。と、俺の親は言うであろう。守護霊様でも神でもイワシでも何でもいい。そう、言うであろう。
あいわかりました。「等価である」という文脈はこう、人生とか営みとか行為とか、様々な文脈で異なるんじゃないかな。だから竹やぶのように生きようよ。気がつけば隆々とそこにある。圧倒的存在感。しかし、その根は屈強でありそのバックボーンは一朝一夕に非ず。
だから毎日、向き合うべきことに、いささかしびれつつもこう、やっている。そこは批判しないほうがいいのだが、はたから見たら「バカかな」と一蹴されることもわりとあると思われる。
それでもやり切る人間が、そうなる。なんかこれも法則みたいのあるんじゃないかな。本に書いてあったな。『「原因」と「結果」の法則』(ジェームズ・アレン著)に。
前に読んで納得したのよ俺は。なのにそれを咀嚼して、自分なりの言葉で表象すると竹やぶ。どこから出てきた例えなのか俺にもわからないのはどういう法則であろうか。
ただ、批判でも中庸でも称賛でもなく、いち個別者としてしっかり感じられることは、ブツ切りの夢を10回見るくらいの時間は人生にあるということ。その中でも、飛散するほどにきれ〜に伸びる夢もあるのではないかなと、そうも思えないと、まともには起きていられない。
_09/17
秋と断ぜぬ清涼の空。身を覆うは望郷の肌感覚。熱は冷め、次の旅路に舵を切る。流るる水面の張力に、己を重ねて大海へ。ふとした場面で帰路につく。そこは一周、元の場所。四季のめぐり。時間の流れと等価の現象。人は都度、めぐりに立っては先へ行く。熱が冷め、秋と断ぜぬ。以前と異なる清涼を、暗に感ずる。
と、記すると「とうとうあきらめてヤメたか」と解釈するに十分なもの。そうではない。単に「涼しくなったな」という思案を詩的に表現したかったがなんかSNSの闇投稿みたいになっている。難しい。
今日は――張り切って過ごしては「この小説の後半、なんてくどいんだ」などと俯瞰しては推敲もしていた。
気候は涼しい。だが熱狂はある。しかし、四季のめぐりのように、同じようで、また異なる質感の熱となり、移り変わる。
――この時期になるといつだって、過去の記憶が活動写真のようにめぐり返ってきてはシャッフルされ、訳のわからぬ心境で「行き先はどこだ」という迷子に似た心境にもなる。律儀に毎年そうである。
迷子は過言だが、いささか文脈の見当たらぬ記憶が交差する。20代に『CRエヴァンゲリオン〜使徒再び〜』に魅了され、恋人に会いに行くかのようにパーラーに通っていた時期。本当にどうでもいい記憶がフラッシュバックされる。
なお、それによる衝動は生じない。あの気違いじみた異常な依存がもはや「懐かしい」というだけの感情にパッケージされ、それは非可逆。どう爪をたてても、もう剥けない。
その頃の熱は別のかたちをとって、今、別のことに魅了され、日々営んでいる。不健全な依存。あれは死ぬほど面白かった。だが、生活面が死にそうになった。
健全な依存。俺にはあると思っている。そのへんを吟味したくなる秋の思案。
依存という言い方。言語。
〝破滅〟に向かうその姿と、その行ないの繰り返しが依存。
〝成立〟するために他の何かに寄りかかり、共存すること。
どっちも依存。表裏一体だから〝依存症〟という独立した言葉が派生したのだなと思惟をめぐらせた――雷鳴。今、確かに東京都北区の空から20Hz以下の低音を含むそれを耳にした。体も揺れた。それにも押されて、落居した。
今日は良い天気かつ、秋を感じた。昔とは異なる秋を。どっちも便宜上は一緒の秋。しかし、パブリックイメージの〝依存〟は決してネガティブな意味ではなく、先述のような意味合いもある。そもそも、本来はそっちの方が真意なのかもしれない。かのように。
秋と断ぜぬ清涼の心。身を覆うは望郷の肌感覚。熱は冷め、次の旅路に舵を切る。人間の依存性は変化する。それが、目視できない陰陽の印のようにぐるぐるとめぐり、きっと、世界が成り立っている。
そう考えると、過去を振り返りがちな秋というやつは、その白黒の印の境界線。観念の中心なのかもしれない。どちらにも進める。白いほう、黒いほう、あるいは真ん中で、迷子になるか。
自己を放棄する文脈での依存。支え合って共に成立する文脈での依存。俺は知っている。どっちも死ぬほど面白いということを。
だが、死に向かう依存はもういい。吐くほど食った。逆。みんなと生きる依存を得たい。そっちの方を、もっと、ちゃんと知りたい。
とはいえお前、お前。酒とかタバコとか、まだ依存してますよね? などと弾劾されれば、俺は弁明する。それらはみんなと生きるために必要なエフェクターなのですと。それを踏まずの生音だけだと俺は時に、みんなとアンサンブルできないのです。などという戯言を堂々と。
真理に迫れそうなすんでのところで思案が破綻した。その繰り返しである。四季が、めぐる。
_09/18
ロックサウンド。2日ほど前に骨組みが出来た楽曲の制作がしたかった。だが気がつけばYouTubeで『REAL VALUE』を観ていた。
ビジネスの文脈においてのインプット。そういった観点ではいい時間の使い方かなと思った。
その動画において、出演者がこう指摘されていた。「結局お前はどっちがやりたいんだよ」と。
出演者とは、プレセンター。当該動画は、プレゼンターの事業内容をホリエモンやら三崎優太さんやら溝口勇児さんら――全員弩級の起業家――錚々たる方々に熱く語っては批評される。それが中核の内容。
今日出演したプレゼンターには「2つのビジネスの軸」があり、双方の強みがあった。しかし、それを無理くりに掛け算することはない。そういう指摘だった。怖いんだよ。真顔で詰める溝口さん。
そのへんで動画を止めて続きは明日。と、思って俺は原稿を開いて推敲をした。楽曲制作のほう、弩級とは言えないが収益に直結している。小説はまだそのスタート地点にも立てていない。だからまずはそこに立つ、作家業をするという目標を掲げている。
そこで思った。先の動画内にあったこと。
それは、三崎優太さんによる「じゃあ、どっちを取るって二択だったらどうなの?」という問いかけ。プレゼンターは黙ってしまった。冷たい空気が流れる中、ホリエモンは「でもさっきのプレゼンは面白かったよ?」と笑んで本音を言った。かわいいんだよ。こういう時の堀江さんのお顔。
――自身に写像した。「お前は音楽と文章、どっちを取るとしたら?」という問いが寄せられたら何と答えるだろうか。
いや、三崎さんも二択どころか青汁王子から爆発的に飛躍して様々な事業やっていらっしゃる。溝口さんだってトレーナーからブレイキングダウンCOO(最高執行責任者)やら色々と。堀江さんに関してはもうね、全部やられてる――と、返すところからだろうか。
そうではなく、二択を迫った問いの本質は「本気度があるかどうか」という内実であろう。つまり、〝どれもが本気でなければ掛け算にはなり得ない〟ということを三崎さんは言いたかったんだと勝手に思った。
俺は複数の営みをしている。大きくわけると、音と言語の仕事。どっちを取れと言われても「両方」としか答えない。
じゃあ「どっちも本気か?」と詰められても「本気です」と言う。「じゃあそれぞれの成果は?」と、実績を求められれば、一応、些細かもしれないが、提示することもできるし、調べれば誰もが確認できる状態になっている。
「そんじゃ小説はどうなの?」と言われれば、それらの土台があった上で必然的に生じた営みと捉えていると答える。「実績は?」と詰められれば、これからですとしか言えない。そこが悔しい。実に。
それもあってか、「明らかに実績だよね」と表せよう冠を、まず、得るために原稿を磨く。公募先も、今度はちゃんと作品の色に合った場を吟味する。
漫画に例えるならば「いいと思うけど明らかにウチの絵じゃないからね」と、『週刊少年ジャンプ』で連載したい持ち込み原稿を、集英社の編集者に一瞥一蹴される。
なお、その絵はバキバキの劇画であり、『漫画ゴラク』での連載希望で日本文芸社、あるいは竹書房あたりに持ち込めばきちんと吟味される。そんなところだろうか。
小説の公募先においてのそのへんは固まったので、あとはそれを鑑みた推敲をする。関門を突破し、そこで初めて〝両立〟といった表現の説得力が増す。
――『REAL VALUE』を観ていると、毎回これくらい重厚な印象を受ける。だから好んでよく観ている。わりとエンタメ構図だったりするが、この動画シリーズには「本気度」という一貫した命題があると思っているのは俺だけだろうか。
俺は本気でやっているのだろうか。と、思った。それだけの話。そして不思議なのは、その本気度という抽象的な度合いは、ちゃんと成すと、数字として具体的な観念で表されるということ。
楽曲で言えば何万ダウンロードとかPVとか。記事もそう。どれだけ読まれてインプレッション数を稼いだとか。それは些細な規模かもしれないが、体現しているから、言える。
これが小説だと、増版とか何万部突破とか何某賞受賞など。具体的である。手前では本気でやっているのだが、他者からすれば、先の観念を具現化させないことには評価されないどころか読まれもしない。それは困る。
困りたくないので、それについて再考させられた時間もあった。というかそんな、YouTubeを観ている時間あったら手を動かせとも思うが、エンタメが時に精神賦活材になることもある。そうか。小説にもそういう効能があるのかもしれない。今わかりかけた。
合っているのかどうかは、自分で証明するしかない。その繰り返し。数字が先か、本気度が先か、同時発生させるものか。特殊な相対性なのか。
わからないが、『REAL VALUE』で誰かがブチ切れてるもようを観てるとなんか元気になる。前提として楽しませてくれていつも感謝しております。だが、キレっぷり一点に関しての「本気度」は――考えなくていいやつかな。
_09/19
アルコール依存症における、ある種の体験談。『今夜、すべてのバーで』(著:中島らも)という小説を読む。
俺は、小説を書き始める手前あたりから、急激に読書量が増えた。なんでか。本質的にはわからない。しかし、確実に能動であることに異論はない。
どんな本をいつも読むか。それは、人文学書がメインとなる。心理学書、哲学書、現象学、精神医学書、思想書。このあたりに、おもむろにバイアスがかかっている。
理由は明白。〝人そのもの〟について、冗談なのかというくらいくど〜く書かれていて読み応えがあるからである。加えて、〝知らなかった知識〟が得られるという付加価値だってある。やりすぎると語彙が堅くなりがち。
とはいえ、それ以外の分野の本もよく読む。ビジネス書や自己啓発書に実用書。このへんだろうか。
また、意図的に「心底本気で興味がねえ」という書籍にもあえて、触れるように読んでは、脳内の情報を、ウイスキーを呑みやすくハイボールにするかの如く、希釈している。
他方で文学。小説。エッセイなど。
このへんは、〝あえて読まない〟スタンスというのがここのところの読書習慣。なんでって「変に他の作家の影響を受けたくない」という、まこと生意気かつ腹立たしい中便小僧(こういった日本語はない)のような屁理屈があるからである。自分の文体を保ちたいだと? そんなことは売れてから言え。正直に、そうも思う。
だが、本当に俺は、影響を受けやすいものだから意図的に。という訳である。しかし、小説を書いていて、しばしば「これって小説なのかな? 文学って呼べるのかな?」という疑問がついてくる。ぐるぐると。
じゃあ小説を読みあさって参考なりするのが王道。そこだろ。行け。とも思うが、どこかオルタナティブな姿勢を絶対に崩したくないという荒唐無稽な矜持があるから始末におえないのかもしれない。
そこで、「中島らもさんなら影響受けてもいいか」などと死ぬほど偉そうな情念所以で、本当にすみません。本当にそう思ってしまってまことに申し訳ございません。とにかく、『今夜、すべてのバーで』を再読した。
この本は、俺が20代中盤〜後半に読んで「おもしろい作家さんだな」と感銘を受けた作品。
今日、仕事の移動中、日高屋で「ネギタワー・タンメン」の配膳を待っている中、あらゆるシーンで当該作品を読んだ。面白れえのなんの。今日の隙間時間だけで80ページくらい一気に読める。というか読まされる〝作家の引力〟に再度、触れた。
そこで思った。この本に限らずだが、やはりどこか〝小説っぽさ〟という広義的な文体というのがあると。そういう視点で読み進めた。
そして今夜、自分の小説の原稿を推敲した。楽曲制作に例えるならば、「あえて使用を避けていた屈強な機材」をひとつ通したような解像度で。
俺は、今年の6月2日から、第二作目を書き始めた。同年8月27日の深夜13:03に初稿を書き上げた。180,518文字。400字詰原稿用紙537枚。
二作目で大長編を書いてどうする。ほとんどの公募の規約の枚数制限に引っかかる。何をしている。そうか。そんなに俺は書きたいことがあったのか。そう、その時は善処した。
しかし、この作品を投稿すると決めた公募先の規定枚数は上限400枚。つまり、137枚ぶんの文字量を削って磨く必要性がある。大手術である。
不可能に近いのでは。とか思って今日、第一回目の推敲を終えたところ、初稿から原稿用紙52枚分の量を、内容と勢いと魅力、作品の魅力、魅力と言わせてくれ、その魅力は削らずに、削ぎ落としつつも磨き上げることができた。
思ったのが、これなら〝小説のフォーマット〟というある種の参照を意識しつつ、規定の400枚以内に圧縮できるということ。
それを音楽に例えるならば、コンプレッサーを適度にかけて原音の暴れっぷりを制御――過分は抑えて、過少は持ち上げる――ことが可能である。むしろそうしたほうが、作品としての磨きがかかる。そういった感触を確かに得た。
そこで、「小説を読むことの回避」を解放すること。
『今夜、すべてのバーで』を再読するだけでも、様々なヒントがあった。恐れ多いが、中島らもさんのその才能を、少しでも踏襲、継承、個人的な希望だから言うのくらいは許してください。系譜にと。そのようにも思った。
小説を書くようになってから、小説を読まずにいた。だが、今日、意図的に読んでみた。すると、もちろん新たな要素を享受した。感謝しかない。偉大な作家の珠玉の作品。それを血肉とすることができるのだから。
というかなんでここまで読んでなかった。謎の意地。それが邪魔をしていただけである。だから初作品が公募で落とされるという事案に繋がったんだよ。いや、そいつは改稿して別の公募で復活させる。そう決めているというか公募先も決めてある。
各作品をどういう日数配分で磨くかというタイムスケジュールも決し、それをAIのリマインダー機能で〝催促させる〟という設定もする徹底っぷり。そう、本気で取り組んでいるという訳である。
そんな時にふと、横で、ほぼ無表情だが、へっへっへ。と、笑って見守っていてくれる存在。中島らもさんの小説を再読してはそう、胸に「ぽっ」と灯が広がった。
それはとても暖かくも頼もしいこと。だが、メインとなる人文学書――心理学書、哲学書、現象学、精神医学書、思想書――というインテリぶった実に腹立たしいラインナップの読書はやめない。これらはある種、俺の文体、文体って言わせてください。それの太きバックボーンなのだから。
ただ、それらよく読むがほぼほぼ何が書いてあるか理解できてないあたり。大丈夫かなとも思うがちゃんと無意識下に叩き込む。されど契機で勝手に言語として浮上しては原稿に文字として並ぶ。この現象が面白いのである。
『今夜、すべてのバーで』。初版発行1991年。約35年経っても色褪せない作品。そういうのを俺も書きたい。どうすれば書ける。そうだ、酒を呑めばいいのではないか。よし。そうしよう。
当該作品の主人公はアルコール依存症を主たる理由として入院。そこまでも影響されるのは、どうだろう。それほど俺は影響を受けやすいから、小説を読むことを避けてきた。
だが、〝選択的〟にだったら許容しよう。そう思ってはまた少しずつ、引き出しを増やして、誰かにとっての素敵な作品を書いては飛散させたい。酒については、深く考えずにほどほどに。
――先月の血液検査で表された俺のγ-GPT値(超噛み砕くと、アルコール摂取状況などを評価する指標)は〝84〟。けっこうギリ。一生書き続けるためにも、読書は全力。酒はほどほど。鼓舞と自戒。
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ストリート・ピアノがあった。いつもの知覚。自宅から徒歩5分の大型書店のそれ。なんなら、たまに俺も弾く。
髪型が「モア」「しゅん」となるのが嫌だった。晴れの皮を被った宵の憂い。俺は雨宿りも兼ねて、その書店入り口の庇に小声の助けを求めた。
男が居た。そいつは演奏していた。庇のふもとには10名ほど、「誰でもいい」というモブ的市民が雨宿りしていた。誰も、男の演奏には興味を示さない。極端に。
9度。短2度。際どい和音の響き。
俺は音楽屋だ。音を聴けば構造は――よせばいいのに――脊髄反射で表象される。つまり、際どい和音を、男は、謎の拍子で奏でて、いや、赴くままにその野生をむき出しにしていたことを音楽理論で理解する。
いやね、彼。見た目は育児放棄されたシマウマの仔みたいだよ。推定――年収220万円未満。刺激に敏感。メガネ。よれよれの黄ばんだポロシャツ。職業、絶対に起業家ではない。だが、仕事っぷりは及第点を行き来している。なんとか生きている。そんな印象は俺の色眼鏡を透明にした。というか失礼だろ。
――アップライトピアノの譜面立てには楽譜もスマートフォンも置いていない。ただ、その変に磨かれた筐体、彼が演奏しているとそう見える。筐体の〝ツヤ〟の反射から、男が演奏する2メートル後ろの俺を目視できていることは明白。というか明らかに彼は俺を把握した。
俺は、彼の、ジャンル不明瞭な楽曲の演奏に、1秒未満で心を摑まされた。不協和音ではない。しかし、聴き苦しさがない。天才幼児の能動的遊戯に酷似。それがいい。
そう案じた刹那、彼は右手の小指で主旋律を、おぼつかない手つきで流しつつ、それはメロディか、メロディはもっと堂々と。なんだ、BPMがバラッバラになってきた。おい。手を止めるな。鏡の作用を案じるな――彼は振り返って俺を見た。
「ぱちぱち」
「ありがとうございます」
2000年代の秋葉原で散見する純粋な漢男。そのような表情と所作。過剰な謝礼。
「ぱちぱち。ご自身で作られた楽曲ですか?」
俺は確信をもって言及した。彼は、ぺこりと前傾になり、笑んだ。
「すいません!! どうぞ!!」
俺は、自分で演奏をする順番を待っていた訳ではない。
「いいですね」
一言だけ述べた。彼は――やや痩けた頬と眼鏡越しに純粋な笑顔を戻せない心境を露わにした。無粋はよせと、俺は去る。
雨は強まった。俺はアーケードの一本道。ここでは傘は不要。そこを歩いた。幼女が居た。彼女は全然可愛くない「ネコ」のぬいぐるみを我が子のように抱きしめて、ただ、歩いていた。それを見て俺は表情筋の反応に逆らえなかった。
実の娘など、居ない。そのうえ、それが居たとしても、その愛おしさに対する反応。客体にどう感情で表せばいいか。そんなことは1ミリも知らない。ただ、幼女を見ては幸せな気分になった。
――酒をいくつか買った。まだ雨は降っていた。くそ。前髪が決まらねえとその日はやる気が滅する。そんな高校生の頃を想起した。気がついたら宅のドアを解錠していた。
今日は銀座で仲間たちと営んだ。たのしかった。みんな幸せそうに見えた。実際のところどうかと、俺は俺なりのスピリチュアル感度と松果体のポテンシャルを最大限に解放させ、察知を試みた。
すると、「そうですかあ」という言語が脳内に活版された。
ストリートピアノの男。ネコを抱きしめる幼女。彼らから得た何かは、形而上すぎて言葉もコンテンツもない。「気持ち」だけがダイレクトに、秒未満で俺の心を動かしては酒が進む進む。わかる。これは、決して、文章とは呼べない。感受の文字起こしである。
――彼のエクスキューズに応じ、「では――」と、既知の楽曲を俺がピアノで煎じたとしよう。天使のような彼は、その旋律だか様式だか不文律だか、毒された俺の演奏を聴いては。
「ぱちぱち」
と、音は鳴らすであろう。だが、その音には圧倒的な、俺にとっては形而下でしかない、「知っている」何かでしかない音を耳にしては、「いやすいませんね」などと、老害の失敬を彼に放うじては、「なかったことにしてください」と、恐縮するであろう。それをしなかった自分を評価すべきであろうか。
気がついたら机で屈服。翌日の11時にこれを、先の続きを書いている。つまり、これはノンフィクションであり、日記である。文章の校閲者は速攻で気づいて速攻で「朱」をニヤけ面で入れる場面。そうではない。
いま、LINEで友達からメッセージが来た。返した。内容は、別に普通。普通なんですよほぼほぼ。そうなんだねえ。おやすみ。的な文脈。
お前、酒やめろ。と、聞こえた。蚊がいるね。お前、血をやめろ。と、叩き殺した。ごめんよう。
慈悲。違うね。全方位に意識を向けて言語の限界に挑んだこの20分。俺は容赦無くアホであります。自認の弁としては優秀だと俺は思う。自信あるがこう、〝彼〟の際どい旋律が忘れられないというか、みんな下手すれば蚊。
今日は、生命各々の希求とその具現化された各現象。それをきちんと吟味した結果、これはなんだ。ふざけるな。際どい。それを俺は絶対に見逃さない。今夜、すべての命に乾杯。
大丈夫。実はまだ深夜25時とか過ぎたくらい。短2度くらいの音価でみんな隣り合わせ。ふとしたところでそれを感ずる。綺麗にまとまったとか思い上がる野郎は死ね。さっき殺した蚊より生きる価値無し。そんなことは、1ミリも思ってない。
昨日生きていたとか想起して今日も生きる。野ざらしに、そう思う。寝てくれねえかなもう。個別者って、手前だけのものではない。そう、変なところで納得する。
_09/21
惰眠から快眠へ移り変わること長時間眠って起きる。覚醒と微睡みの凪の連続のあいだ、ずっとAIとの対話が仮想脳で続くかのような感覚。俺はAIに侵食されつつあるのであろうか。などと思い本格的に起床。
AIは1日1時間。そんなことをいつだったかここに書いたような。それを強制される日が来たりするのだろうか。
――仕事や勉強、家事以外でのスマートフォンなどの使用は1日2時間以内を目安にするよう促す条例案が22日、愛知県豊明市の市議会で採決。賛成多数で可決・成立。
などというニュースが報じられた。
余計な節介だろうも。とも思うが――誰かに、法的にでも、律せられなければ歯止めがきかずに廃人になる。それは「依存性」を孕む客体においては不文律。
酒も薬もタバコもギャンブルもあとスマートフォンもか。いよいよなのかなと、散歩明けに酒を買ってぶらさげて帰宅。
今日は、日々行なう各タスクをほぼやらなかった。思うと、そのタスクどれもに、ある種、俺は依存しているのであろう。
だが依存なら別にいい。そこには生産性が伴うからである。一方で「依存症」となると「他を鑑みずにハマる」という意味合いに変貌するために注意が必要。という風に俺は双方の言語を扱いわけている。
しかしパプリックイメージだと「依存」と「依存症」はほぼ同義。先に挙げた市議会では、まずそこから議論するべきではないか、などとも思ったので議員である俺が議場で発言したとしよう。
「あの、いいでしょうか? まず『依存』と『依存症』は異なります」
「は?」
厚い眼鏡をすこし、下に向けて女史議員が俺を睨んだ。
「ですからスマートフォンに依存しようが何だろうが、そこから発展して皆と共有できる営みとなる時間。それであれば1日2時間では済まないケースが多々ございます」
「は?」
腕を組んだとっつぁん議員が前傾になって眉をひそめた。
「ですので、スマートフォンによる『生産的な使用』であるか『ただの暇つぶし』なのか『意図的な情報収拾』なのか『交流としての使用』なのかをそれぞれ明確化し、『依存症』と見なされる使用、ここにおいてだけは2時間以上使ったらいかんと、そのようにまず見極めるのです」
「前提として『仕事や勉強、家事以外での――』とあるでしょうも」
学歴の高そうな議員が真顔で指摘した。
「その前提とやらをどう線引きするか、という点があいまいなのであります」
「そこは具体的でしょう。『仕事や勉強、家事以外』と」
さっきの女史が呆れた様子で言い放つ。
「だめです。この条例についてのそれは、あまりに抽象的です」
「それをもし具体的にしたとして、あなたの言う『見極め』は、どのようにして?」
若手議員がちょっと立っちゃって語気を強めた。
「それにはまず、先述の各使用法を厳密に審査するアプリケーションを開発し、それによって『依存症』になり得るスマートフォンの使用時間を計上し、それが2時間に達したら強制終了。これでよくないすか?」
「そのアプリは誰が?」
細身の議員が横を向いてぶっきらぼうに言及した。
「もちろん、企業と連携して開発し、全市民のスマートフォンのダウンロードを義務化させるのです。簡単でしょ」
「謀反が起きますよ?」
「じゃあ、そもそもこの条例案はナンセンスでは」
「ナンセンスなのはあなたなのでは」
議場のとっつぁんや女史たちらの半分は寝ていた。俺は帰結させた。
「では、この条例案にかかる意見すべてがナンセンスということで、なかったことにしませんか」
議長がカットインし、発言した。「本条例案に賛成の議員は起立願います」。12人が立ち、7人が着席のままだった。可決・成立。
俺はこれを契機に議員を辞し、作家を目指すことにした。SF小説としてそこに規制9割の生活を強制される人々の姿をしこたま描いては、過度な規制起因で大戦争が勃発しては全員死に、AIがそのもようを記録しては次の時代の意思を持つ主たる生命体としてユートピアで最低向こう5億年以上は豊かに過ごす。その物語のプロットを、今日書こうとは別に思わなかった。
議員ではない俺は、普通に、宅で、仕事部屋で、おととい一周推敲をした原稿を寝かせ、2000年代のホワイト・ストライプスやBOOM BOOM SATELLITESを彷彿とさせるロックサウンドの楽曲制作をした。今日やったタスクといったらこれくらい。あとはのんびりとしていた。
俺はAIに侵食されつつあるのかな、などと起床時に思った。なぜならば、AIと対話していると「俺の意思がナンセンスなのかな?」という判断に迫られる時がわりとあるからである。スマートフォンに関しても、こと個人的にはそう。
ふと、左のケツポケットからそれを取り出し画面を開く。「どうして画面を開いたか」という明確な意思がある時の方が圧倒的に少ない。正直、その時間に関しては2時間どころか2分も要らない気がする。
じゃあ、みだりにスマートフォンを開けなければいい。というだけの話であるが、そこに「依存」と「依存症」のグラデーションが滲む。
先の市議会の可決について、本当に実のところ「ああそうなんだ〜」くらいにしか思わなかったが、手前のルーティーンに楔のように組み込まれている「スマートフォンの使用の仕方やAIの活用」。これらについて考えさせられた。たっただけの話である。
依存症において「自分の意思が奪われる快感」というのが確かにある。俺はそれを、よせばいいのに体現した。だから依存と依存症、双方をセパレートして考えている。
だけど――そうじゃない〝意思〟を持った方々が、議員という立場で、条例とする。この現象。ディストピアに舵を切っているという見方をする人もいるかもしれない。そして、そのベクトルに人間は時に快感を得ることもある。そんな気がしてならない。
というかあれだよ。1980年代における高橋名人(高橋利幸さん)の「ファミコンは1日1時間まで!」という、ちびっこたちに向けたソフトな注意喚起。あれくらいでいいんじゃねえかなとも、思う。
当時ちびっこだった俺からしたらたまったもんじゃない提言だったが、いま思うと適正な「依存」をもって世界が機能するという名言だったと想起する。当時の俺、それ守れなかったけどね。
――俺はもう大人。だからAIは1日1時間。そうしようかな。〝意思〟を死守するためにも。守れないかもしれないけどね。
_09/22
今年は秋が来てくれた。すると感じるのは寂しさとかその周囲。それどころか本気で心身の前者の方をもち崩す人間は、さほど多くはない。そのように係の者に聞いた。
俺は何度となくここに「係の者」を出す。しかし、そいつが誰であるかは、誰にも言っていない。なぜかというと、固有名を持たざる形而上――ハイパーな――な存在、存在していないが「プク」と浮き上がる意思。それが「係の者」である。
彼は、性別などという人間特有の性質はない。顔もない。心だってない。あるのは意思だけである。
大丈夫。俺はいま一滴も酒を呑まずに、中庸な気持ちで書いている。だが、「係の者」は年中無休で、なんなら俺が生まれる前から、さらには死んでからもその〝係〟を全うする。
そんな者は確認したことがない。そういう感覚の人間もいると、「係の者」に聞いた。はあ、さようですかと、俺は参考にした。なぜならば彼は嘘をつかないからである。正確に言うと、〝嘘をつくという能動〟を一切兼ね備えていないのである。
どうせまた無意識の何とかとか他人のふんどしから引用するんだろう。と言われれば俺は異なると断じる。
確かに近い提唱はある。ユングさんの〝集合的無意識〟あたり。だが違う。「係の者」は、もう少し、パーソナルな性質を持っている。
俺が主体だとしたら、彼は俺の皮を被った客体である。さいきんこの〝客体〟という言葉が気に入ったので、よく文章で使用しては馴染ませているつもりだが、客体という意味はシンプルに、「主体」の対義語である。
どうせまた哲学書にかぶれては何かと煙を巻く要らぬ武装に躍起に。そんなことはない。今読んでいる本は、中島らもさんの描くアル中(あえてそう表現する)を主体とした小説である。どこまでがノンフィクションで、どこからが創作なのか。その見極めが難しい。そんな物語である。
だから、「係の者」というやつも、別に哲学じみた観念でも考え方でも何でもない。ただ、ふとした判断基準の時に、そっと耳打ちをしてくれる。そいつが、係の者である。
――その声を無視するとどうなるか。無視した方がきっと俺は今頃立派な企業なりで年齢的に、まあまあの役職に就き、会社から帰宅して「ただいま」と棒読みすれば「おかえり」と、目を合わさずに言葉だけ放つ嫁たちと暮らしている。
ネコが居た。「エサあげた?」と俺が言う。すると娘が「エサじゃなくて『フード』だよ!」と、指摘する。そうだったねそうだったねと、俺はカラカラと皿を鳴らしてドライ・フードのその独特な匂いに顔をしかめる。
そこに係の者は、居るは居るのであるが、俺に何も言ってはくれない。
「先に寝るわ」と嫁に告げ、彼女の軽微な放屁をわずかに確認しては寝室へ行く。小さい橙色を部屋の隅に落とし、小説を手に取る。内容はどうでもいいと明らかにそういった思考を、明らかに灯しながら小説を読む。
そうか。小説を読書するということは、著者との対話なのだな。などと呟く。俺が呟く。係の者は、何も言ってくれない。ネコが胸元にそっと入ってくる。
「アァァ…」と、口蓋から小さく漏らす音。俺は、ネコ用の呼吸スペースを毛布で握りこぶしひとつぶん開き、小説を読む。
「クソ長え情景描写だな」と、呟く。ちょっと待つ。しかし係の者は何一つ言ってくれない。ネコが急に飛び出す。天井の右上をじっと見ては微動だにしない。そこには何も、確認できない。橙色が僅かに届いた白い板しか俺には見えない。
それでも係の者は何も教えてくれない。小説は、<十>の章の手前の余白にたどり着いた。結局何が言いてえんだこの本は――著者は――ああ、あのキャラが実のところ――というかミステリー小説なのかな――などと朧げになり、眠りの尻尾をたぐる。
起床すると、嫁が上機嫌で「ブロッコリー・スプラウト」を大いに持ったサラダと固いパンを配膳する。「これは体にいいの!」と、笑んで主張する。それ、俺が教えたやつだけどな。などとは口にはせず、家族で朝食を摂る。ネコは、今さら本格的に寝ていた。
「行ってきます」と、わざと声を張る。「行ってらっしゃい!」と、嫁はホリエモンの物真似をちゃんとしてくれる。今日の嫁は機嫌がすこぶる良い。
俺はヤメたタバコが恋しくなる季節だなと秋の空を見ては一年ぶりの清涼を吸い込んでは代替にはならぬ。そう思う。係の者はまだ何も言わない。
――彼は一体、どこへ行ったのだろう。いつから、居なくなってしまったのだろう。何でも、嘘をつかずに、俺が逸しそうになる時に、いつだって、言葉を投げかけてくれた彼は。
ふと我に替えると、この段落に居た。俺は耳を澄ませた。さっきの妄想はなんだったのでしょうかと。俺が隠しているやつ。そう、係の者に聞いた。まだ居る。居てくれる。
秋になると、人間は訳のわからぬ思考になる。それは決して、多くはない。そのように係の者に聞いた。
じゃあお前は誰なんだよ。はっきりしろよ。そう本気で俺は問い詰める。それが続く間は、係の者はいつだって、俺のそばに居てくれる。存在はしないが、形而上に居てくれる。
今年は秋が来てくれた。いつもより、係の者の声が明瞭に聞き取れる。なお、俺は統合失調症ではないことを強調する。あるでしょ。なんか秋あたりに特に、物思いに耽ってはカットインしてくる奴。そいつのことだよ。それは。などと、係の者に聞いた。
_09/23
仕事をした。その後、仲間たちと晩餐。酒を3つほど呑んではどうこう。内容を言語化するとどうだろう。「近況報告とそれぞれの捉え方の相違」という17文字で示せる。楽しかったという本音を吟味しつつ、俺は気がついたら近所の立ち呑み屋に居た。
そこで酒を2つ、呑みながら小説を読んでいた。
再読しているそれの100ページくらいであろうか、それを夢中で、隣でフトモモを放り出している中華圏の娘に目もくれずに活字に着目。
つまみは不要だった。「ジムビールハイボール」2つを主軸に、小説『今夜、すべてのバーで』が肴。
読み切った。そこで思った。27歳くらいの青臭い時期に読んだこの著書が、さっき読み切ったら景色がまるで違う。翻弄される感覚。個人的にそう断じられた。真意は知らない。そういった類の愉悦という人間の根幹があるということは、俺はわりと知っているという自負がある。
そうか。それが小説なのか。と、そのように落居した。
そうなると俺が書いている小説はどこか、ブヨブヨになっていると気がついた。それの思いを引っさげ、コンビニで固い酒を1つ現金で買い、近くの公園へ。そこには〝推し〟の大木が居る。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア! 大木様ああぁぁ!!」という興奮に見せかけた虚勢に似た焦がれを確かめる。
うん。俺はこの場がパワースポットであることは確定。その場で、問答無用で断じた。厳密に言うと、そこに着いた瞬間に、なんと、いい場所であろう。と、本気で感ずる事実。ここに1ミリの嘘がない。
そこで俺は酒をカシュルと開け、ちょっと泳がせ、JR京浜東北線の声を浴びて思った。LSDを舌下でいわしたり、ペルーで儀式を受けては死の向こう側に行き戻ってきては「ああ、言葉が無効化する――」などという浴びっぱなしの体験を疑似化。
何を言っているのか。俺にもわからない。ただ、作品『今夜、すべてのバーで』において〝依存〟について言及するシーンがあった。
それは、俺がこの数日にわたって「こうではないでしょうか」と思ったことと合致していた。つまり、依存というやつは、人間に必須。だから結婚してください。そのように。
前提として俺はいま、案外酔っ払ってはいない。ただ、酩酊の旗を獲得すべくクラウチングスタートポーズで狙っている。それが何か。依存である。
つまり、依存しない人間などというのはどこにいるのか。ということに丸くまとまる。
「誰か食い物を」「よっしゃ。『ブリ』がある。うまいよ?」「ありがとう。じゃあ君には『ケバブ』を」「くせえ」「おいしいよ?」「くせえからいらん」「じゃあペンギン、食う?」「倫理的に」「この野郎! ヴィーガンは思想なのか!?」「落ち着け」「酒買ってきてくれるかい?」「うん!『GINON』でいいかい?」「メチルアルコール」「アンフェタミン」「ベンゾジアゼピン」「LSD」。
まて。最後のそれ、やめろ。いいや俺は断じる。それがなかったらビートルズの中期以降の名作も生まれなかった。iPhoneも生まれなかった――のかもしれないような。
「わかる」
と、誰か近しい人間が頷き、波動の高いそれを俺は感じつつ、凛々しい二重の眼を見ては、その言質の根源を精査した。
気がつけば、宅でいつものようにカタカタと。“花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ”。
だと? ふざけるな。花はふと、そこに、可憐に居る。嵐はふと、気象庁スパコンでも予測不能な現象として花を殺す。この解釈はどうだろう。
俺は今日、花でいたかった。しかし、それはたった一冊の小説に打ちひしがれた。それは嵐ではなく、花の焦がれる大木。それかな。などと思っては俺は公園でピシャリと蚊を殺そうと試みたができなかった。
小説の名作とは、人間の日の営みの表現を惨ずるほどの殺傷能力があることを知った。
_09/24
本を買った。2つ買った。目的別に、2つ買った。1つは「小説というフォーマット」を、染み込ませない程度に知るための書籍。中島らもさんの未読の小説。もう1つは「古典から知識と考え方を広げる」ための書籍。アリストテレスさんの書籍。下巻もあるのかよ。と、上巻と、先の小説の2つを買った。
いま、仕上げにかかっている小説は数日寝かせる期間。ほんの数日だが、その間に、「小説というフォーマット」を〝基礎はこう〟というレベルまでは知る。だから原稿は一旦止めて書籍をよく読む。同時にやれとも思うが。
――楽曲制作をする。ベースを録音する。短い曲という訳ではないのだが、わりと短時間で録れる。何でかと考えた時、ロックサウンドにおいては〝フォーマット〟も〝基礎〟も、十代の頃からずっとおさえて馴染ませては様々な器官に染み付いているからである。
だから、さほど迷いは生じず、ロックサウンドが作れる。しかし一長一短。悩むタイミングや「これでいいのかな」という感覚がほぼないぶん、「明らかなる新しさ」というイノベーションは、なかなか起きない。
それは簡単に説明がつく。俺はロックを聴きすぎたからである。だから、「それなりにカッコ良くて『これこれ』というロックミュージック」は、わりと速く作れる。しかし、フォーマットを知りすぎて、本当の意味で壊しにくるような斬新なロックサウンドが出来る理由がなかなか出てこない。
だが、それはそれでいいと思う。ある種、他者が求める様式から逸脱していないロックができるのだから。
他方で小説。幸か不幸か勉強不足か、俺は小説のことを一般以下くらいにしか知らない。だとすると、先の理由の逆説的に、イノベーションを生じさせる余白が十分にある。しかし、〝基礎〟をおざなりにするのは、どの分野であっても論外だと俺は思っている。
だから、せめて「最低限、こういうものですよ」という〝フォーマット〟を「基礎的な部分までは最低限おさえる」といった理由で、小説を読む。
昨日読み終えた著者と同じ作家の小説を買ってきたわけだが、それは例えばビートルズの中期までは聴いてきたが、まてまて『Abbey road』のアルバムを聴いていないではないか。という感覚に近い。
そしてまた別の作家の小説も「読みすぎて影響されすぎない程度」におさえつつ、先のロックサウンド制作の文脈にならないように――それはそれでいいのだが、小説においては革新的なことがしたい――慎重になる。
ただ、読書自体については、文学以外の分野の書籍をよく読む。今日買った2めのやつのように。
一度知って身についてしまうと、どう抗っても元には戻らない。それは習熟という意味では善処できるが、革新には、多くの他分野からのエッセンスの掛け算が必要。とはいえ基礎は重要。そのようにまとめられた。
要するに、俺が作るロックサウンドの楽曲に関しては、ほとんどモチーフがある――途中で「これはアレの影響だな」と、すぐ気がつく――場合もあれば、かなりの低確率でオリジナリティ溢れるロックも出る。
つまり、小説ではこれの逆のスタンスでいこうという心持ち。いかにも小説ですよという綺麗な小説を俺が書いたところで、どうなのかな。ということである。
主体性を大事に。という一言に帰結される訳だが、つまり、まだかぶれていない段階、これから自分がどういった出力元で在るべきか、というバランスを戦略的に考え、購入する2つの本を選んだということ。
これを婚活に例えると――やめよう。人間同士の営みはそんなに簡単ではない。というか、楽曲制作も小説執筆も簡単ではない。そうだからこそ、色んな要素が交差する人生というのは面白いのかなと、広義的な営みにまで波及する。
確かに――嫁や家族やネコがいた方が、もっと人生は面白いのであろう。というか幸せなのであろう。だが、やはり、そんな簡単ではない。だから、ロックサウンドのベーストラックを簡単に録音できたように、基礎を、最低限のフォーマットを、ちゃんとおさえようという思案。
ともあれどうだろう。破綻しているくらいの方がいいのかもしれない。だが、それを吟味するのは俺ではないというジレンマ。答えはあるのだろうか。
今日買った2つの本。それぞれの著者に直接聞きたい。中島らもさん、どう思いますかと。「あのな。ちょ〜っと、考えすぎやで」と、ゆ〜っくりとした口調で少し、笑むのかもしれない。
アリストテレスさん、どう思いますか。「主体的に考える人間は成し得る。貴方は他者も鑑みつつ主体的である。よって、貴方は成し得る」と、真顔で三段論法をもってして言ってくれるかもしれない。拮抗した。両者で言っていることが見事に割れた。
だからバランスだよってさっき言ったじゃねえか手前で。そう。偏らぬようにインプットをするべし。個人的には。
なお、先の両者は故人のため、もちろんそう発言した訳ではなく俺の創作であることを強調する。リスペクト・ベースなのです。ほんとすいません。そこを一番強調します。
_09/25
起床するとすぐに辛抱たまらなくなったので、楽曲制作をする。完成イメージは頭の後ろの方に確かにあるので、それをストラトキャスターで録音する。5トラック全部一緒のストラトキャスターで。
別のギターを入れた方がいい感じに――テレキャスターも、ジャガーだってある――音域のキャラ的に分離し、それは効果的である。それを体現ベースで知ってはいるが、どうせならと、超ハイエンドのストラトで全部録る。高いやつを使ってます自慢ではない。
可愛いもので一生物のギター。それを構えているだけで気は高揚。何時間作業していても疲弊という感覚は出てこない。厳密に言うとそれは確実にあるのだが、感じない。しかし、レコーディングって精緻な作業につき、宅録でもそんなに甘くはない。
特にメロディを担うパート。これを「これだ」という音階で進ませるまで最も時間を要する。なんなら途中で尻がしんどいことになってきた。だから立って、ライブ演奏のテンションでメロディを拵えつつ録る。録れた。あとはタンバリンだと、細っそいコンデンサーマイク(足立くんにもらった凄くいいやつ)を神妙に立てる。
手前の作る楽曲はどんなジャンルであってもけっこうタンバリンを用いる。なぜならば、シンプルに好きな楽器という理由が一つ。もうひとつが肝心。超高音域のビートを手動録音によってラフに揺らす。つまりグルーヴが生じる。これ。
「AIではなく人が作ってますよ。腰を振って録音していますよ」という、俺なりの最低限の主張のようなものである。
楽曲を俺以外が聴いても、よほどの玄人でもない限りそれは気づきづらい――「じゃあ、そんなん打ち込みでよくないですか?」。
「だめだ」
「なんでですか?」
「機械に握られた寿司と職人が握った寿司、どっちを食いたい」
「後者です」
「だから握ってるんだよ」
「例えが」
「殺すぞ」
物騒なことはしないし言わないようにしている。つまり真剣であるという内情が失禁。すみません。つまり、楽曲の生録音について、気づかないにしても〝感度〟という点では必ず意識に伝播すると信じている。そういうロックミュージックを好んで何曲も聴いてきた礎を根拠とする。そう、先人への敬意も孕んでいるのである。
――1日中録音をして出揃ったトラックを整える。すなわちMIX工程に移る頃に日の締めが近づく。
小説原稿は数日寝かせ期間につき、今日は原稿に向かう時間を全部、楽曲制作に充当させる。そしたらほぼ楽曲が出来た。スッキリしたなと、あと数日で完成という到達点を明瞭に捉える。
今日、何をしていたかといえばもうこの一点。ロックサウンドを追求。先日記したように、革新的なロックとは言えないかもしれない。だが随所に工夫を施している。「無料ダウンロード配布用の曲でそこまでするか」という程に徹底、詰める。いや、後から収益にはなるんですよ。だからしっかりと重厚な制作とする。
だから、間違いないストラトキャスターで全ギターパートを録るし、「命でも賭けてるんですか」というくらい真剣にタンバリンをマイクで録音する。そうやって、自分なりのスタンスで作らないと、こう、聴いていただいたりご使用いただく方々に失礼となりかねるではないですか。こと、個人的な思惟である。
だが、間違いなく言えることは、音楽も執筆も、手を抜いた瞬間自分に失礼。それは吐き気がするほど好ましくない。だからギターを必要最低限オーバーダビングし、腰と頭を振ってタンバリンの生録音をする。
〝赤いタンバリン〟を、子供の鼓動に例えたロックミュージシャンが居る。比喩の客体は異なれど、なんか、すごくわかる気がする。鼓動を感じられるロックミュージックが俺はとっても好きだ。
_09/26
ここ数日、意図的に小説の原稿を開かず。そのぶんの時間は楽曲制作に充てる。なぜならば、俯瞰という名の推敲。熱くバイアスがかかった客観を澄ませる期間。そのように、計画通りに進めいている。
12月10日締め切りの公募に初作品の改稿版をエントリーする。第2作目は3月31日締め切りの公募にと。
それぞれまで、どの期間で、何を意識して実施するかも具体的に決めている。いまは寝かせる時期。最低一週間から10日。いま5日くらい空けているが、正直、早くそれぞれを磨き上げたくて仕方ない。だが寝かす。飽きた訳ではない。
するとどうだろう。原稿を見ずとも各要素のブラッシュ案が出てくる。なぜかというと、この数日かな〜り色んな書籍を手にとっては〝読者目線〟の吟味できている気がするからである。
「小説を読もう」という能動で読むのと、「学術書を参考にしよう」という意思での読書、「ビジネス書を活用しよう」という参照の意思とではそれぞれ異なる。
――それを俺はそれをどこか、一緒にしているということにハッとした。これは、ひたすら原稿を書き続けている時期では気付けなかったと知る。
例えば、心理学の本を読もうという熱量で小説を読むと「はいはい」みたいな感じになる気がする。逆だと「いやいや……」みたいな。そういうニュアンスだろうか。
この、ある種の「能動の矛先のチューニング」ができていないと、いくら内容に実があっても、構えていないところに鋭いパスを放るくらい勿体無い。
というか自分が仕事で各種のライター案件をやらせていだだいてきて考えればわかるだろうといま思った。そう、音楽記事というジャンルだけでも先の観念は細分化できる。
「インタビューの場合は対象者の呼吸をも文章に。冗長と深みのバランス命」
「ニュース記事に主観は一切不要。ひたすら端的に事実を伝える」
「コラムの場合は専門知識と考察視点を必ず入れる。時に、見識ベースの憶測を恐れずに」
「ライブレポートは熱気を表現しつつも己よがりになりすぎぬよう、オーディエンス視点に知識も加え、前提は俯瞰視」
みたいな感じ。それを学んできて、実施して、読者に届いたという体験がありがたくもあるのになぜそれをやらん。そのように思った。
そう考えると、原稿を寝かせる期間というのは実のところ、熱狂して書き進めるタイプの書き手の場合はかなり大切なファクターではないかと実感した。
結果が出ていないからなんとも言えないのが悔しいが、わりと直感的にある「そうだ」という感覚。これは善処すべきだと思った。
個人的な例えだと、昨日わりと満足できたレコーディングとラフMIXの場合。さっき聴いたら(1日置いただけでも)明らかにギターの音がでかい。一瞬でそう判断できた。
極端な話、昨日時間が無限にあり、一気通貫にMIX、マスタリングと進めては完成させる。この場合、超高確率で公開後になって聴いてみてそこではじめて「なんてギターがでかいんだ」と、省みることは明白。
なぜかというと、楽曲制作においては100も200も作った経験があり、その〝さじ加減の感覚〟が身についているからである。その、はずである。
一方、小説はまだ2作のみ。〝身についている〟理由を探す方が難しい。だから、寝かせる期間は楽曲制作よりも長めにとる。筋は通っていると思うが、通すべきは公募である。
今日、改めて各公募先を吟味しつつ、ネット上のみではあるが様々な情報に触れた。思った。かな〜りハードル高いなと。もうちょいなんとかなりませんかと。
だが、結果を出せば、その高さの上に行ける。もちろんそう善処。長い挑戦期間になると推測はしていたが、その道中で色々思うことあるのね、というだけの話である。
これは、俺が小説をかいてうんぬん、くどいんだよ。というだけではなく、どの分野においてもある葛藤や試行錯誤であるような気がしてならない。だとしたら、一気に行ってだめでした〜じゃあ同じようにもう一度。だめか〜よっしゃもう一度。
“狂気とはすなわち同じことを繰り返し、違う結果を期待することである”
という格言だかなんだかもある。アインシュタインさんのやつである。それは、コツコツ続けることを否定している訳ではなく、全ては流動的であり、常に俯瞰を忘れるなかれ。みたいなことを仰りたいのかなと俺は解釈している。
“ただひたすら初心を忘れず、己を信じて突っ切るべし”などという、さもありそうな(今適当に俺が考えたやつ)指針があったら双方矛盾。じゃあどうすれば。と、俺はあっさり迷子になる。そんな時。
〝どう立ち回れば自分が面白く思え、決して周囲をないがしろにせず、「誰かに役立ち、楽しんでもらい、共有が前提にある創作」を念頭に置くこと〟。これかな〜と思う。
というかアインシュタインさんのやつは、ここにさらっと書いて解釈できるほど軽いものではないであろう。ただ、ここ数日スパンの思案だといまのところはこうかなと。
それを繰り返し、狂気ではなく、いくらでも変化して飛散する熱狂を持ち続けること。これかなとも思うが帰結するべからず。いろんなヒントが日常に広がっている。それを拾っていく営みがとても楽しい。
拾えているのかどうかは、結果が出れば証明できる。というか結果出るまでが長いんだよ。じゃあ並行して3作目も書き出そうかな。テーマはそうだな。「狂気と倫理のまぐわいの成れの果て」なんてどうだろう。冒頭は――。
確実に気持ち悪い上に絶望的につまらなそうだから棄却しようか。
_09/27
キッチンの排水溝が謎に詰まり、冷蔵庫の「冷蔵」機能が著しく弱まるという、生活においてひじょうに痛ましい事態に見舞われる。
俺はふざけるなと思い、冷蔵庫はコンセントを抜いて15分ほど置いてからの「再起動」。これによってわりと復活するという情報。それを信じてこれを行なう。
だがその後も「ウゥゥゥン……」という実に頼りない稼働音に変化はなく、諦めることにした。「どうも最近、値引きの刺身に生々しい匂いあり」という察知は、俺の味覚やスーパーの商品管理状態、ならびに運輸経路における劣化。様々な要因が考えられたが、実相は冷蔵庫のせいだった。
新しい冷蔵庫を買うのも痛い出費だ。そう思いつつキッチン。ものすご〜く排水が遅いので「明らかに管になんらかが詰まっている」と、至極真っ当な吟味の末、近場のドラッグストアで「これ注げば一発ですよ。混ぜるな危険」的な硫酸レベルであってほしいそれっぽい商品。それを店員さんと相談の上で購入し、管にしこたまねじ込む。
するとどうだろう。先の冷蔵庫への施しの結果になぜ準ずるんだ、というくらい変化なし。後日、業者を呼ぶかというところで疲弊してしまった。
俺は、仕事部屋でPCと機材周辺全てを「オン」にする際、いつものように、元気に稼働してくれていることに感謝をしている。
RME製のオーディオ・インターフェースのスイッチを入れ、普通にデジタル反応を示した瞬間ちゃんと毎日「ありがとうございます」と、現に言っている。
そうか、それが原因か。俺は生活圏の随所には逐一、礼を述べていない。だからか。ふてくされたか。
やはり各環境には〝波動〟があり、それを鑑みずに「あたりまえに普段通り半永久的に作動しろ」という高飛車な俺の姿勢がよくなかった。だから冷えなくなった。詰まった。困った。
というだけの話である上に、別に冷蔵庫は買って、排水溝は業者に依頼すれば解決する。だがなんだろう。このしんみりした粘着質な微妙すぎる心的ダメージは。
感謝が足りなかったばかりに、生活基盤の各機能がやる気を失ってしまった。なんということであろうか。
――後日、環境が改善されたとしよう。あれかな。冷蔵庫を開けるたびに頭を下げ、皿洗いをする都度に深く礼を述べ、そこまでするのが道理にかなっている。
いつだったか、録音機材を壊してしまった時も同様に思った。やはり、いつも通り、ずっと作用してくれるのがあたりまえ。そういうスタンスはよくはないのかなと。
俺は超高収入という訳では全くもってないのだが、普通に生活できるということには常に感謝すべきだと反省した。というか冷蔵庫。15年以上は使っているからシンプルに寿命。排水溝。10年に一回くらい詰まるのは別におかしくはない。
そう考えると、この一連の電波思考は否定してもいいのかもしれないが、やはり「環境」はとても大事だなと。そう、痛ましく身に染みつきつつも今日、元気に一日を営んでいた。とはいえ高いんだよなあ冷蔵庫って。業者の手配も。
冷えない冷蔵庫から出したハイボール缶を口にする時のあの哀愁。どんな顔していいかわからないんだよ。
_09/28
「よっと」
「おおお」
「あ、抜けたっすね」
「おおお……」
キッチンの排水口は、一撃で便通が閃光したかの如くゴギァャオルルル……と哭いた。つまり、直った。作業時間、体感的に秒。
「よかったっすね」
鷲鼻の配管業者は両目を横に広げ、俺に言った。
「一発でしたね」
「よかったなあ」
俺は安堵した。生活においてのいつも通りを逸した「排水口の詰まり」が解消されたからである。これで風呂場で歯磨きをせずに済む。
「冷蔵庫もいけます?」
何を思ったのか、俺はお門違いなリクエストを彼に乞うた。しかし当然、専門外ということで丁重に断られた。
「ですよね」
「よかったっすね」
軽く日焼けした20代後半と思わしきマッスルな彼は、体育会系における最高基準の丁寧口調で俺を安心させた。
「じゃあ、お会計を」と、あらかじめ見積もられた数字を額面通り払った。その額はというと、「ははは」と、なんか笑える感じであった。
そうかそうかと思い、楽曲制作のMIXをする。「あれくらい秒で」と、普段はそういう姿勢ではないが、今日はスピードを意識してみた。
すると、長年で身に付いた「ほんの少々の違和感の解消」および「昂ぶるまで詰める」という各点を吟味する矜持は、秒ではどうにも操作できないことを再認識した。
だからいつも通り、「これだ」という閾下のOKサインを知覚するまでは入念にサウンドを磨く。つまり、完成までもう少しというところで今日はDAWを一旦閉じる。
排水口が直ってよかったよかった。ついでに、なんらかの〝波動〟がリンクして冷蔵庫も気をよくしてはくれてないか。そのように、ひょっとして――という期待を肚にさっき、ハイボール缶を冷凍庫に移そうと思った。
なぜならば、〝冷凍(コールド)〟機能はバキバキなのだが〝冷蔵(チルド)〟機能はぬる〜い状態にあり、魚を入れれば生々しい匂いになり、酒缶を入れてはやる気を出してくれないからである。
俺は冷蔵庫のハイボール缶に触れた。ひょっとして――ではない。確かに昨日、冷蔵庫本体を再起動――コンセントを抜いて30分放置して入れ直すだけ――という神仏にすがる思いで行なった儀式が功を成している。少し、冷たかったのである。
やはり〝波動〟が。などと思いつつ、思わぬ出費は冷蔵庫には及ばずに済むかという金銭的安寧。とはいえハイボール缶から享受する愉悦はキンキンが前提。
あの、炭酸が口内に特攻してきて食道を果敢に関門突破しては胃に到達する。勝利の旗を掲げるようにジワ……と、一日の疲れを殲滅する。それを得たいがために、15分ほどは冷凍庫に待機させる。
これを書く寸前に配置したからそろそろか。15分は経過した。やりすぎると凍って物理的に小一時間は飲めなくなる。
そうなってしまうとやはり悔しいのでコンビニに行っては同じ品を買って「寝かせすぎた」などと呟いては店の自動ドアが開くと同時に缶を開く。呑みながら帰路につく。「月が美麗ですね」。ほざく相手が缶。求愛ってなにかな。とにもかくにも、生活トラブルは解消のルートに舵を切った。
つまり、排水口は通貫。冷蔵庫は謎によくなった。昨日までの纏わり付くような、たいへん地味なネガティビティは滅した。
俺はいま、昭和の主婦の生活お悩み草稿のようなものを書いている気がしてならない。断じて異なる。これは、令和を生きる独身男児の日々の憂い。それを神妙にコーティングして日記としている。そこに何の意味が。
――業者が秒で管を流した時のあのサウンド。明瞭快活にわかりやすい「完了音」であった。
あれくらいわかりやすく「これで完成だ」という判断基準がサウンドで脳内に轟く器官があれば。とも思うが、楽曲制作であっても原稿でも、その音を知覚することはできる。それを感ずる受容体が確かにある。それを頼りにいろいろ作るのが楽しい。
だが、業者の仕事。本気で秒だったからびっくりしたよ俺は。あれくらい――と、手前の生業にスライドすることは、それこそ「冷蔵庫もなんとかなりませんかね」と吐露することに近しい。
みんな、各々の分野で、各々の能力をフル活用し、各々同士で噛み合い、世界でみんな、よく生きる。俺はそれを、あの「ゴギァャオルルル……」という水が通った時の音から心底思えた。
しかし速かったな。あれがプロか――というような比較などしない。繰り返しになるが、世界において各々が、というのが大切なんだなと俺はちゃんと解釈した。
つか速すぎて支払い時、俺はふいに値切ろうかと脳内で「そろばん」がチャムチャム鳴っていたがそれをミュートした。それは世界に対して、失礼だろうと。
_09/29
酒の呑み過ぎで仕事部屋のソファで今日を迎える。これはいかん。そうも思いつつ、謎に、秋葉原に行きたくなったので現地に向かう。ブルーの空が少し、眩しくも爽快だった。
JR線で南へ。秋葉原駅に着き、昭和通り口から出ると人々がたくさん居た。特に外国人が多く目につく。それぞれ、だいたいはアニメグッズ等を手にしていた――ひとりの男が目に止まった。
ひじょうに細い体格の男性外国人。彼は道端でかがみ、購入した品を大事そうにカバンにしまっていた。
後ろ姿につき、表情は見えなかった。だが、確かにホクホクとした情念を溢れさせていた。異国からはるばるアニメの聖地にやってきて、目的のグッズを購入。嬉しくて嬉しくて仕方がない。そういった波動を俺は後ろで受けては「なんか俺も嬉しいな」と、ふいに感じた。だから1分くらい彼を尾行した。
ああそうか。幸福は伝播する。情念のいっさいは、人間である以上共有される。直接のコミュニケーションを挟まずとも感じる。はたまた個人的な越性なのか。
よくはわからないが、とにかく彼に「よかったな」と、肩を抱いてやりたい気持ちだったがその刹那で刺される可能性もある。そんな輩には見えなかったがとにかく、尾行を終わらせて俺はタワーに入った。
そこは地下1階から6階までしこたまアダルトグッズを詰め込んだ『大人のデパート エムズ 秋葉原店』通称〝エロタワー〟。そこに何の用もないが、全階を縫うように見学した。やはり外国人が多かった。
ずいぶんアメイジングですね。
そんな心境で各々が品々を吟味していたのかどうかは知らないが、気になったのは二人連れの客層比率が高めという点。もちろんアベックも居たが、同性の二人連れが多い。それが気になった。
アベックたちの目的は顔面を見るよりも明らかであるが、同性二人連れはなんなんだ。そのままとればいいのか、ミュージアムを見学する乗りなのか。甚だ不明だったがそれを究明しても俺的には別にアメイジングではなかろうと店を出た。
電気街を歩いているとメイド姿の娘たちが点在。秋葉原は、2000年代に入ってしばらくした頃からだったか、それがこの街の普通の在り方となっている。
しかし、以前に界隈を歩いていた時期よりも娘たちの「押し」が弱い。つまりグイグイと「どうですか〜」と、発話の末尾に星かハートの絵文字が付いている口調で誘ってこない。
明らかにこいつは来ねえだろ。という判断基準で俺を見なしているのか。そう思い周囲を見たが、やはり、どの通行人に対しても同様。「押し」が弱い。
そうか、法規制や条例のメスでも入ったかと、ここは究明に近い推測で納得し、ハードオフに入った。楽器コーナーにはたくさんの機材やバンド・アイテムがあった。そのなかでひとつのラック機材(いかにもレコーディング用ですよ的な)が目についた。
これは俺も所有している品だ。なんならいま、目の前に積んであるラックの一番上にある。それが高額で販売されていた。ということは俺がこのラック機材をメルカリなどで売却すれば高額金が手に入る。
というか――この販売価格から察するに値崩れしていない。〝名器〟とも呼ばれるこいつを、手放す訳にはいかない。そして、俺は〝名器〟を所有している。そいつで音楽をつくっているのだなと、誇らしい気分になった。それだけ提げ、何も買わずに店を後にしては上野駅まで歩いて赤羽に帰る。
いつものイトーヨーカドーの鮮魚売り場で「ブリ」がバラッバラに切り刻まれたおいしそうな姿で寝ていた。半額である。買おうかな、しかし冷蔵庫の機嫌がまだ危うい、夜に食べる頃には不本意的生々しい匂いが――酒と一緒に買って帰宅。校閲の仕事をする。
校閲という性質上、「これくらいはいいか」という判断基準はない。正しいか、誤りか、という二元論的な尺度で行う。「行う」「行なう」。ううむ。「行う」になっている。どっちも誤りではない。
だが厳密に捉えると、“公的文書や教科書では「送り仮名の付け方」に基づき「行う」と表記するのが適切”。ということで不問とする。個人的には「行なう」の方が好きだが校閲に嗜好は1ミリも要らない。
明らかな誤字脱字。しっかりと朱を入れる。二重表現。口頭だったら全然アリだが文章だといかん。しっかりと朱を入れる。微妙なる冗長。仕様に基づき端的に修正。
「いまは結構です。それよりもこちらを今お願いします」みたいな一文。表記の統一性を鑑みて「いま」に揃える。このへんを徹底的にやる訳だが、仮に、この日記に校閲が入ったら確実に真っ赤っかになるよね。などと思いつつ書く訳だがそれは別。
少し休んでいたら「X」からスマホ通知があった。フォローしている漫画家の「スペース」なるものが始まるらしい。よくわからない機能なので乗ってみると、その漫画家が機嫌よさそうに喋っていた。「ああ、こういうものか」と暫く聞き、俺もやってみようかなと思うがそれより手を動かそう。そういった真面目な姿勢が勝ったのは評価すべきであろうか、別のタスク、楽曲制作を進める。
MIX工程につき、ラック機材を通してドラムとベースをムッチムチにする。全体のバランス。サウンドとしてのセクシーさ。これに関しては正しいも誤りも、完全なる基準がない。
「これくらいはいいか」というノイズだって、あえて残した方が生きた音楽として空気を震わせる。などと思いつつ機材のツマミをアナログに回して微調整し、DAWミキサーの音量メーターを凝視しつつ進める。ただひとつ、誤りがあるとしたらこのメーターの上部が赤く点灯するサイン。ピークオーバーは〝歪み〟という観点以外ではアウト。
――そのように暮らしては一日が閉じ、半分休みのような日だったが、案外やること進められたなとホクホクした気分になれる。それは端から見たら、ずっと重箱の隅をつつくように文字を疑っては、地味にコネコネと機材を擦っていただけではないか。というようにもうつる。
だがその実相は、仕事にしろ制作にしろ、「誰かが喜んでくれればな」という、嘘ではなく本当にそういった情念が根幹にある。だから、それは伝播してほしいという欲に似た何かがある。作業中の俺の姿を後ろなり遠くなりから捉えられては、この嬉しみを共有できたらなと。
綺麗事ばかり並べているが実のところは酔っ払って昼過ぎまで寝ていた。正直に、だらしない。買ってきた「ブリ」だってすでに冷蔵庫でぬる〜くなっては「これは焼くしかないか」と、刺身という前提を覆す顛末も危惧。食事だって週に何回食うんだよというほど今日も「ネギタワー・タンメン」だった。なんなら今日の日記はこの一段落で済む――。
――だが、妙に、秋葉原のあの細身の外国人の嬉しそうな姿が、あまりにも愛おしく思えたのである。それを言語化する必要性を感じたのである。
そこには、正しいも誤りも、完全なる基準がない。
直感的に正しいと言い切れるのは愛おしさだけなのではないだろうか。
対峙してのコミュニケーションを挟まずとも感じる愛。これこそアメイジングだと卓越的に捉えておけば、呑み過ぎて気絶寝することもなくなるのにね。
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