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アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。10


昨日、半額で購入した刺身よ。

――丸大豆醤油でヒタリと濡らしては柚子胡椒を添える。一切れ口に放り、味覚に集中しては即座に思った。「焼かなければならぬフェーズにある」と。すなわち冷却保存がだめだった。機嫌を損ねた冷蔵庫、再起動で復活ならず――。

だがしかしどういうことか、今日は謎に冷えている。昨日、今日で、冷蔵庫のコンディションが著しく異なる。そんなのは嫌だ。〝冷却〟という機能が日によって全然違うなんてもはや何だこれは。そういう生々しさは要らないんだよ。

などと思いながら生々しいロックサウンドの制作をしようと思ったが、言語を主とする各仕事を多くやったものだから逸した。その楽曲制作時間を。

時間を思うようにコントロールできないのはまだわかる。手前の配分が気まぐれという失態は認めざるを得ない。だが冷蔵庫の気まぐれは認めない。というか家電製品における寿命。それこそを認めるべきであろう。

高いんだよ。独身用の冷蔵庫だって2万円以上とかザラ。仕事で楽はしたくないのだが、生活は楽をしたいんだよ。これは別に堂々と言っていいスタンスだと思う。だからこそ、買い替えたくない。不本意な出費は困るからである。

だが、今、たった今、確かにウゥゥゥン……! と、やる気を出した冷蔵庫の稼働音が仕事部屋まで微かに、真空管ギターアンプにおける非サウンド出力時の生きた呼吸のように、確かに聞こえるのである。

「まだいける。昨日は済まなかった。『ブリ』は鮮度が命。知っているが、昨日はちょっとダメだったんだ。思うように体が、動かなかったんだ。でも、ほら、聴こえるだろう? オレはまだ行ける。愛着だってあるだろう? お前が30歳の頃から使ってくれている――懐かしいね。東京都足立区鹿浜のあの如実いなたいアパート暮らしが。覚えているか? オレの出生を。そうだよ。当時お前が付き合っていた――」

色々とうるせえよ。覚えているし15年よくやってくれたよ。だがな、お前起因で酒の肴の選択肢から「刺身」が除外されるのは辛抱ならないんだよ。

「そんなオレを気遣ってさ、今日は『タコ』の茹でてあるやつ。それを『刺身風』に食べる――その選択肢は、オレを見放さない〝愛〟なんじゃないのか? 常温でもこいつは一日くらいなら変な匂いになったりしないさ。優しいじゃないか。見ろ! 今日はハイボール缶を〝冷凍庫〟の方ににいっとき転がさずともほら! 冷えている。オレはまだ行ける。見捨てないでくれ」

俺に家電への愛着など無い。だが、それが、それこそが最たる原因で冷蔵庫が――という仮定は論証に至らなかった。昨夜、俺に『ブリ』を照り焼きにさせたのが動かぬ証左。だから覚悟したよ。冷蔵庫新調を。

「見捨てるのか」

なんとね。君を見捨てるのにも金がかかるのだよ。廃棄処理。

「〝愛〟よりも金が大事だと」

そうは言っていない。

「お前、小説の初作品の第一章のタイトルを『冷蔵庫』にしたよな。オレへのリスペクトならびにインスピレーションだろ?」

違う。あれは中島らもさんが、夜中に神がかったアイディアが降りてきてメモって翌朝見たら「冷蔵庫」とだけ書かれていてご本人も怪訝になられた。それを引用したんだよ。

「パクったり見捨てたり。むちゃくちゃじゃないですか」

暴論だ。いいか。人間はな、使えなくなった物は容赦無く捨てることが美徳という態度だってあるんだ。サイクルするんだよ。万物は。あとパクりじゃなくて引用だ。

「ちょっと来てくれよ。今日は違うんだって。これからもね――」

俺は今、キッチンに行って生存確認をした。冷蔵庫に置いてある――もはや〝冷やしてある〟とは言えなくなった――ハイボール缶を「まさかな」と思いつつ手に取った。無駄な行為とわかりつつも。しかし。冷たい。キンキンとまではいかないが、及第点の冷え方であった。一体どういうことだ。

「な!? ちょっとやる気がさ、ど〜しても数日だけ出なかっただけなんだって!」

確かに、この調子のままなら買い換える必要はない。だが――〝前〟がついた。

「そんな、前科持ちみたいに言わないでさ。というかお前だってあるだろ? オレで言う冷えない。お前で言うところの〝覇気のない日〟がさ。知ってるぜ? 数年前は3日おきくらいにここにそう書いてたの。知ってるのさ。15年の付き合いだからな」

気持ち悪いんだよ。だが、それは事実だが認める上に――確かにここ数年はその表現をほぼ記さなくなった――人間はそう。だが電化製品は……今日直ってるしな……不問で手打ちかな……。

「見捨てないでつかあさい」

決めた。お前は先の理由で〝執行猶予一ヶ月〟とする。それまでフル稼働だったら、好きにすればいい。

「………」

どうしたんだ。

「………」

泣いてるのか。

「………」

やめろ。お前の場合はそれ、悲嘆ではなく水漏れだ。いきなり頑張りすぎなくていい。いいか? 一ヶ月だ。その執行猶予中に変な動きを見せなければ――。

真空管マーシャルアンプ・スピーカー4発入りのスタンバイ音。それを想起させる微かなノイズが後ろから聴こえる。そして気がついた。冷蔵庫はまだ行ける。その意思を休み明けの競走馬の如くアピールしている。

紆余曲折あった。だが、真剣に対話したところ、和解した。〝愛〟が芽生えたのである。

機嫌を損ねた冷蔵庫。しかし、謎に復活を遂げた。

――不機嫌な人間が居る。毎日ではない。そいつは、ある期間だけ、そうであった。だからと言って俺は、たったそれだけで、そいつとの疎遠を希求するだろうか。しない。互いに常に温厚、上機嫌、半永久な友好的態度。晩年まで一切冷めぬ夫婦。そんな人間関係はむしろ気持ちがわるい。

いっときの不具合。可逆性の病。冷蔵庫は前者。人間は後者。そういうバイオリズム的な波をないがしろにできない。

【ためこみ症(Hoarding Disorder)】
アメリカ精神医学会の診断基準からは「強迫性障害」とは独立した診断名として扱われる。特徴は「物を捨てたり手放しすことに強い苦痛が伴う」「実際には価値のない物でも『必要かもしれない』と感じて保持してしまう」「生活空間が物で埋まり、日常生活に支障をきたす」

そうではない。俺は、冷蔵庫のいっときの不具合を〝再起動〟一発で持ち直し、その存在価値をも見つめ直した。それだけの話である。

というか、長年使っている冷蔵庫にこんなにも愛着があること。知らなかった。愛について。

“愛することは技術であり、学習と実践が必要な能力――”とある学者さんの、このような提唱がある。

使いましたよ。その技術。そんで冷蔵庫、愛所以で見捨てないことにしましたよ。そこから俺はまたひとつ〝愛〟を学びましたよ。

どうですか学者さん。なに? ちゃんと著書を読めと。頭を冷やせと。その通りですよ。人間だってね、いっとき壊れた冷蔵庫の如く、冷えない日もあるんですよ。論点?

10月初日。俺は、様々なことを交差しては、ひとつ真理を得た。涼しい秋に、きちんと冷えたハイボールを呑む。その味は、昨年の秋とはまた別種の甘露となり俺の魂を潤す。その源流にあるのは〝愛〟。そうであってほしい。違ったら違ったで別に冷えてくれていればそれでいいよもう。

(出典:『愛するということ』エーリッヒ・フロム 著 『DSM-5』米国精神医学会発行 精神疾患の診断・統計マニュアル第5版)
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あっという間に日が過ぎる。気がつけば10月。今年を振り返り出す頃合い。俺は一体、2025年、何をしていたのだろうか。そういう風に来年も、それが来てくれたら思うであろう。その次の年も、来てくれれば。

気がついたら死ぬ。俺は一体何をしていたのかと病床かこの場所か、謎に異国でバイトしている状況下で晩年を迎えるか、なかなか不明瞭だがとにかく、死ぬ。その手前の段階で思い出せ。2025年を。

あれだ、小説書き出して熱狂し始めた年でしたね。と、聞いてくれる誰かがいれば、そう答えるだろう。「それでどうなりましたか?」と、そいつは、その女性は、質問をしてくれる。

「あれがターニングポイントでしたわ」などと、俺は窓の外の建造物の滑らかな色を確認しながら吐露するだろう。

「これですか?」と、女性は俺の著書を手にしてはそれを確認する。「それそれ。そこから俺はねえ――」と、尿瓶に手を向けようとしては「こっちですよ」と、女性にマグカップを差し出される。

「ずいぶん恥ずかしいことを書かれたのですねえ」と、女性は一刀両断に言う。「いやね、その時は夢中でね。それが最高だと思って疑わなかったんですわ」と、俺は弁明する。

「でもこっち、急に作風が変わって」と、ヒョウ柄の装丁の著書を棚から引っこ抜く。「ずいぶん暗いわ」と、内容を一言で断ずる。

「それはな、何周かして鬱がぶりかえして、酒と共にSSRIとベンゾジアゼピンをかじりながら書いてたんですわ」

「お薬の名前ですか」と、女性は事実確認をする。「便宜上は」と、俺は事実を伝える。女性は言う。「あなた、大事にしているエレキギターどうするの?」と。

俺は勝手に余命三ヶ月だと思い込んでいる。だから、「あれはな、君が弾くか」と、遺品扱いする。

「いらないわ」と、女性は目を光らせながら一瞥。「そうか、わかった。売却すればいい金になる」「そんなのわるいわ」「じゃあ弾いてやってくれ」「ロックの楽器でしょう? 私、ロックは聴かないわ」。

俺は、今度こそと思い尿瓶を両手で捉えると主治医が来た。「どうですか、平吉さん」と、いつもの一糸乱れぬ第一声を放つ。

「どうもこうも、家に帰らせてくれませんかねえ。こんな無骨な風景の場所で永眠。そんなのは嫌だ」

俺は余命三ヶ月をなんとかしてくれないかと、主治医に懇願した。「そうですねえ。あれから何年が経ったでしょうね」と、彼は時間軸を歪曲させた。不意に俺は、カーディガンズのCDを棚から抜き、楽曲「Carnival」を聴こうと、アンプスピーカーを探した。

目の前にあった。だが手が届かない。違うな。そういう時代は数十年前のことだ。そう思い、俺はサイドテーブルに置いておいたデバイスを手にし、そこから「Carnival」を流そうと、少し元気な気持ちが出てきた。

<I will never know

Cause you will never show

Come on and love me now

Come on and love me now>

(わたしはわからない だってあなたが絶対教えてくれないから こっちに来て 今すぐ愛して こっちに来て 今すぐ愛して)

そのコーラスの音楽が、どうしてもかからなかった。なぜだと思い、デバイスの動作を確認した。だが手元にそれがない。主治医の背中が見えた。女性が泣いている。顔には白い布がかけられて臥床している男が居る。俺と似た体格である。

どういうことだ。まだ三ヶ月ある。あと、三ヶ月もある。三ヶ月もあれば小説が一本書ける。楽曲だって数曲は制作できる。校閲の仕事――まだ進捗50%だ。そうだ、あのライター案件の戻りは。再来月入金だ。請求書を早く、送ったか。

まて、そのヒョウ柄の装丁の本を書いた記憶が俺にはない。どういうことだ。なぜ、曲が流れない。誰か教えてくれ。どうして女性は泣いている。というか誰だ。先生、主治医の先生、教えてくれ。さっきの余命のくだりを。三ヶ月、そんなにあるんだろう。あと三ヶ月、あと三ヶ月もあればたくさんのことを楽しんで笑顔でいられる。酒だって呑める。冷やした刺身はどうなった。教えてくれ。なんで君ら、教えてくれないんだ。俺がそっちに――なんでこんなに上下に離れているんだ。こっちに来てくれ。こっちにきて、そして今すぐ教えてくれ。そして今すぐ――。

今年はあと三ヶ月ある。今日は仕事をよくして音楽を聴いたりもした。復活した電化製品を信用して刺身だって買ってきた。日常。2025年はあと三ヶ月ある。その三ヶ月と、以降の三ヶ月。その違いについて考えた。

(引用元:The Cardigans『Life』「Carnival」1995年)
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よく生きて、よく過ごす。
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昨日はかつての同僚であり、現在の友人である者とたのしく、新宿でほどほどに呑んでいた。そして赤羽に戻り、ひとり、だれか知らぬ者と意気投合して小一時間ほど、そのあとまたひとりで、一杯の「ハブ酒」を呑んでは店を出て、ハイボール缶を3つ買い、宅に戻る。

しばらくすると日が高くなっており、仕事部屋のソファで目が覚めた。つまり呑みすぎである。なんなら今、この時間までしんどいレベルの二日酔い。よくないなあ。そう思いつつ、今日はなんもしなかった。するべきことはいくつもあったが、肝臓を主として休んだ。正確に言うと、休まざるを得ない体たらくであった。

昨日の日記、一行か。そう振り返っては、いかに酩酊していたかを物語る事実に直面する。というか意地でも日記は書くのだな。という謎の執念の痕跡を確かめる。

最近、中島らもさんの晩年の作品を読んでいる。最後に書かれた小説である。その『酒気帯び車椅子』という作品から、生まれて初めてかもしれないというほど、「続きが気になって仕方がない」「読んでいて吸い込まれる」という魅力を感ずる。

中島らもさんの作品では、当該小説に限らず、アルコールの描写がよく出てくる。

それは時に、人間の快楽の対象であったり、時に、溺れてしまう魔力を持つドラッグ的な対象であったり、時に、情景描写であったりする。つまり、アルコールを「知り尽くしている」ということがよく伝わってくる。

これが説得力か。とも思いつつ、その小説の通読後の気持ちを楽しみにする。「ほどほどに読める小説ではない」と、半分少々の読書経過でそのように思う。

酒はほどほどに。そうありたい。しかし昨日は通り越した。今だってしんどいのは明らかなる過剰であり、逸脱とも捉えられる。そこまで行ってどうなるか。もしかしたら、中島らもさんのように「極める」ことができるのかもしれない。しかし、「極めたい」ことはあるのだが、俺には、その経由での「極み」とはならないという自覚がある。極める前に、のまれる。それは遺憾。

酒に関しては中庸に。極めるべくことは別の経由で極めること。昨夜あたりは、友人と呑んで帰路につき、ハイボール缶を2つ程度呑んで寝るのが中庸。しかし逸脱した。結果、一日が溶けた。これは「のまれた」証左ほかならない。気をつけよう。鬼才から盗める要素の選択は絞るべし。

今夜、すべてのバーで飲み尽くしその向こう側を見ることができる中島らもさん。俺は、そこまでは、見ることをしないほうがいい。

別の角度から、極めるべく要素を学ぶべし。そういう風に、フラッフラの一日を振り返っては、きちんと反省をした。

だが、冷蔵庫にはハイボール缶やらを3本待機させてある。全然反省していない。「2本までならいいかな」というスモールステップを提案。俺という個別者の弱みを思い知る。
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「先生、思うんですけどね。何もしていない時が一番しんどいんですよ」

先日、定期検診で精神科医にこう、投げかけた。主治医は、顎にぶらさげたままずっと顔をむき出しにするくらいならマスク。それ、もう取っちまえよと思っている俺に笑顔で言った。

「平吉さんは――色々やってらっしゃるから、忙しいくらいの方がいいということなんじゃないですかね?」

中庸な内容を、笑顔で言及した。

「まあ――忙しいとまではどうでしょうね。ただね先生。〝暇〟というやつが俺をいつだって苦しめているのではないかと」

少し抽象度の高い提言をした。

「そういう方はそうですし」

「俺は仕事がたくさんあると楽しいんです」

「最近はどうです?」

「毎日幸せに暮らしています」

主治医は終始笑顔で傾聴ベースで対話してくれた。個人的には真意をついたという所感。だが、どこかはぐらかされたニュアンスは否めないが、精神科医の立場としては、そこを今、徹底的に解明することは別に。というご判断なのであろう。

俺はその後に友人と呑みに行き、翌日は廃のような心境で何もせずに過ごした。苦痛であった。二日酔いのそれもあるが、「何もできなかった」という〝暇〟の中での一日となったことに強い苦痛を感じた。

だが、休息できたからいいではないかとその日は善処した。

しかし、今日起床したら逆に、心身に魂に形而上の感覚、それらすべてが不調を訴えた。つまり、完全に休んでいた昨日を否定したのである。三日酔いでは、ないと思う。

その証左として、仕事をしてしばらくしたら元気になった。今日は一日中、ずっと、掛け値なくずっと、仕事をしていた。数分前までは校閲の仕事をしては、面白いなあと、溌剌としていた。

何もすることがない、何もできない、何も考えられない地獄。それは絶対に堪え難い現象。

認知症から廃用症候群(寝たきり起因の生活不活発病)の末、死んだ者が身近に居る。彼の、その晩年の様子を幾度となく見に行くたびに、俺は「こいつは今、かなりの期間、ずっと地獄を味わっている」と、確かに思っていた。

実際に彼がどう思っていたのか、思うこともできなかったのか、とにかく「何もできない」状態のリアルを一次情報として俺は自身に刻印した。絶対にこの状態になることは避けるべきであると。実際に彼がどう感じていたかは決してわからないが。

――だから、能動的にも受動的にも〝やること〟があるというのは幸福に直結する。

つまり――何かしていないと病的に落ち着かない――多動――ADHD寄り――発達障害なんでしょうか先生、俺は。

という問いをいつだったか、今日の文脈ではないが問うたことがある。そこで先生は言った。質問を投げかけてから数秒、慎重に考えたご様子の〝間〟を経て、はっきりと。

「最初の頃はね、平吉さんそういった感じがありましたよ」と。俺は「今は――」と言おうとしたが食い気味に先生は続けた。

「話しているとなんとなくわかるんですよ。ただ、その時はそういった診断の必要性を感じませんでした」と、きちんと答えてくれた。

そして先日、「先生、思うんですけどね。何もしていない時が一番しんどいんですよ」と、問いかけた。フワッとした対話をもってして締められた。

まあ、そうではないとも断言しないが、「こいつはたまに変なことを言うが、まあ、ボーダーライン的な感じかな」などとカルテに書かれていると俺は想像している。

というか、翌日なんもできないくらい呑んで戯言を。そう断ずるべきである。だから昨日は酒、3本買ってきたがそのうちの2本を呑み切らないくらいで寝た。翌日はさぞ、そのぶん爽快であろうと。だが実相は思いのほか違った。

なんなら「なんもしない地獄」よりも、「二日酔い地獄に抗ってタスクを行なう」。そして、いつも通りくらい酒を呑んで今日を迎えた方が良かったのかもしれない。

〝暇〟というやつが俺をいつだって苦しめる説。よくよく考えると、これに逆らえる人間は居るのだろうか。どんなに暇であっても、なにかはする――依存症時代に足繁く賭場に通っていた俺のように――はずである。

じゃあ、そもそも〝暇〟とか〝なんもしない〟という「状態」はなんぞやと考えた。ここからは倫理学とかの文脈となりそうだから今日はいいや。やることしこたまやったし酒呑んで寝よう。

そう、俺は本当に反省をしていないのかもしれないが、弁明はする。どっちが〝徳〟であるか。知らないが、一つ間違いないことがある。酒は暇をも溶かす劇薬。しかし、やることやった後のそれは甘露。

俺はここに酒を呑む言い訳を数十パターンは記してきたが、これだけ外連味のある言い訳は初めてだ。いや、筋、通ってますかね。先生。いや、主治医の先生にだけは絶対に、ここを読んで欲しくないというか読まれたら普通におこられる。

「平吉さん。今日は強めのお薬を出しておきますね」

「先生、読んだっしょ」

そんなくだりはまずない。俺の実名経由でネット調査し、ここにたどり着く訳が無い――見つけた。

“学会公式媒体が「無断で患者をググるのはプライバシー侵害」と明言”

“APA公式文書も「緊急時以外は同意必須」と規定”(※共に一般的な国際的指針として)

俺は一体なにに慄いているのであろうか。別にそんなことはない。ちょっと、深めに考えたかっただけである。

結論。酒はほどほどに。仕事とか頑張るのは幸福に直結。あと、主治医はいつだって誠実である。そして俺は先生を〝信頼〟している。いつもありがとうございます。

(出典:Psychiatric News(米国精神医学会公式媒体)・APA Resource Document(米国精神医学会公式指針, 2017)よりそれぞれ抜粋し、リライト)
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綿密に仕事をしたところ、もう深夜である。大丈夫。『ブリ』を、きちんと、不死鳥の如き復活を遂げた冷蔵庫に冷やして(半額)ある。酒は、やはり昨日量をおさえたところ不思議なものでそのぶん日中快活。だから今日も。と、思っている。

つまり日中は〝ライフワークバランス〟とやらを一気通貫でいってやったところ思った。毎日これは疲れるぞと。俺は誤解していないが、先のカタカナを発話した人物は「私はそうする。みんなもやれ」という意味合いではない。と、考えられる。

しかし俺あたりはそれくらいの方がむしろ妙な快感を得る。つまり多動中は脳内でオピオイド(モルヒネに似た作用を持つ物質の総称)が噴出、言い過ぎだ。まあまあ出るから、苦痛がポーンと飛ぶというか要するに気持ちがいい。

それの度が過ぎた変態が人をバンバン殺める作品の中に愛。それがモノを言っては実のところ世界が二分化して訳の分からぬ賢者がそれを統率しようとするがしかし秒で殺される。そんな小説を書こうかなと思った。バイオレンス小説というのだろうかそれは。

というのも、今読み進めている小説はどうやらそういったカテゴリーに入るらしい。『酒気帯び車椅子』という作品である。

あらすじは、引用せずに自分の言葉で書くと「商社マンの主人公の働きっぷりと家族との団欒。寄る黒き影。強かに受けるバイオレンス――そして復讐――」だろうか。残り50ページくらいで通読する。だから結末は知らない。想像がつかない作品的引力を感ずる。それを今夜、読み切る。

「小説の続きが楽しみだ」という体験を忘れていた。それを当該作品は思い出させてくれた。

著者は、一昨日もそのお名前を書いた気がするが中島らもさん。彼の、遺稿長編小説である。人を飲み込ませる文体と静かなる中にあるアイロニーと狂気の勢いが爆ぜる。

俺が書いている小説は寝かせている。意図的に、そうしている。なぜならば、小説というやつそのものを学んでいる期間だからである。

「寝かしていたら公募の締め切り、いかん」とならぬよう、今読み進めている小説――それ以外にもけっこう読んだここ二週間ほど――を通読したら、原稿の仕上げにとりかかる。そういう絵を書いている。きっと、手前の原稿の見え方が二週間前とは異なることは明白。

それも面白い現象だ。などと達観せず、まずは世に出すこと。この目標を刺さぬことには始まらん。そう思い、楽しくも勉強、リファレンス、把握、様々な角度で〝小説とは〟という観点を得る。

だが〝ライフワークバランス〟が偏っている。今日午前に起きてから今まで仕事以外していない。だからこのあと、休息、酒、ブリ、らもさん、全てまとめて〝ライフワークバランス〟をとる。

ここで冷蔵庫が謎にまた朽ちていた暁には。想像もしたくない。『ブリ』を刺身扱いすることは食品衛生面で認められぬであろう。けだし、そのようなことはなかろう。だがそうであれば俺は憤慨の向こう側で冷蔵庫をバイオレンスに叩き壊してはBPMを最大値まで上げ15年の付き合いに大団円となる終止符を打つ。 そんなのは嫌だ。やめよう。こういう情念は伝播しかねない。今のなし。

俺は思う。〝ライフワークバランス〟大事。だが、仕事をしまくる方が手前は快感。人によってはまた異なる。それぞれのバランスがある。というかこう書いていて俺は〝ライフワークバランス〟という言葉の使い方問題ないのかと怪訝に思うのでちゃんと調べようか。

〝ライフワークバランス〟とは。

“仕事とプライベートの調和。どちらも充実させることが本質”

とのことである。つまり〝中庸〟という言葉にちょっと近いのかもしれない。だとしたらなんだ。そんなことはどうでもいいんだ。「頼むから刺身、冷えててくれ」などと度々懇願するここ数日のライフワーク。バランスはとれているのであろうか。論点がずれている。最終的に「冷蔵庫、頼む」という主題になっている。そこがメインではない。

俺は、彼(冷蔵庫)を信用している。俺の生活のバランスを支えてくれては15年。愛しき相棒である。だが、そこに裏切りが生じたら俺はバイオレンスに復讐を――なんてくだらない思惟だ。寿命というものがある。それに対しては、バランスも、バイオレンスも、復讐も、何も通用しない。

だからその日が来るまでせめて、おいしく『ブリ』を生で食べてくつろぎたいよね。そんで明日から小説。張り切って進めよう。「中島らも賞」とかないのかな。あったら絶対そこにエントリーするのに。

ないですよね。らもさん、そういうの、ご自身の銘打った賞とかあまり好まれなさそう(個人の想像)ですし。そういうところだってカッコいいと思う――今夜、キッチンのバーで、遺作長編小説を心して読もう。信じられないくらい面白い作品を。

(補足:中島らもの遺作(絶筆)は短編小説『DECO-CHIN』。長編小説の遺作は『酒気帯び車椅子』)
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寝かせていた小説の創作を再開する。確認したところ、20日ほど寝かせていたことに気づく。それは二作目の方であるが、今日から再開するのは、初作品の方の〝改稿〟である。

それは、推敲とは異なる。この20日ほど〝小説〟について、書かずに読むことであらゆる角度から勉強し、分析し、あらゆる「型」を捉え、〝小説のフォーマット〟というやつを、俺なりに解釈した。それを、自身の原稿で表現できるようにできたと判断した。

たった20日でお前、小説なめているのか。と言われれば、いや、これで学習終了ではなく、改稿しながらも様々な小説を乱読して学び続ける。昨夜、また一冊小説を通読して「なんか得たぞ」感。これがあるうちに再開したいんですよ。と、答える。

そしていざ、4ヶ月ぶりに初作品の最終稿のファイルをコピーし、「第七稿」と拡張子手前にラベリングし、冒頭から改稿を進めた。するとどうだろう。

冒頭2ページを吟味して「これだ」となるまで1時間したからびっくりした俺は。本当に。この4ヶ月で二作目を書き上げ、推敲し、20日学び――この期間を挟んだところ、俺の初作品の冒頭の景色がまるで違って映ったから後ろにひっくり返りそうになった俺は。

大丈夫である。改稿の指針がある。主として5点ほどに絞ったが際たる指針は〝自分の文体〟と〝小説のフォーマット〟の比率を〝8:2〟にして「文学性」を滲ませることである。あと、作品自体の魂を絶対に削がないでむしろ磨くこと。これは大前提。

それをやったらこんなにかかるのか――とも思ったが、冒頭(就職面談の第一印象くらい大事)につき、そこはむしろやり過ぎなくらいでないといかん。と、善処した。指針があるのでそれにならう。決して、〝迎合〟はせぬように留意しつつ。

締め切りは本年12月10日。改稿版の初作品を公募に応募する。公募名は『太宰治賞』。

そんなすごそうなの獲れるのか。

シンプルにそう思う。しかし、様々ある公募先を相当に吟味した結果、俺の初作品の評価に適しているであろうと判断できるのは、当該公募だと信じるという訳である。

自身の文章が文学としてどれほど世に通用するか。俺の目的と夢への着火点となるのか。世界への貢献となりうるのか。そういった挑戦である。

だから、〝自分の文体〟と〝小説のフォーマット〟の比率を〝8:2〟。つまり例えるならばそれを意識する前は俺は、半分くらいタメ口で面接を受けに行った。それを、最低限の敬語で記する。しかし、主張は曲げない。そこは貫く。なんならというか、かなり難しい改稿という今日のところの所感。

だが、どうしても挑戦したい。そしてその後、ただちに、第二作目を最終稿まで磨き上げ、毛色の異なるその作品を、また別の「衝撃的な作品をお待ちしております」と構えている公募先に応募する。二段構え。この実行段階に遷移した今日。すんごい仕事で疲れてるんだけど、そんなものは脳内オピオイドでなんとかなる。

とはいえこれは長距離走。じっくりと刺すように挑戦をする。まずは『太宰治賞』。ここで、初作品改稿版が、どう扱われるか。

「受賞してやる」「最終選考までは残れ」「賞金でかいな」「頼む」「いや、ほんとに頼みます」という思考はどれも、正直に言うと全部あるのだが、期間を開けた今、あるのは挑戦心。これが最も強い。

初作品は、一度別の公募で落選した。そして俺なりに戦略を練った。また挑む。気迫を思いきりねじ込み、敬語で、主張を揺るがせずに挑戦する。こういうの楽しいよね。と、個人的に思う。その後に、こういった思いが――などとも恐縮ながら思う。

仕事で扱う文章とは別に、俺の創作の文章には、はたして貢献につながる価値があるのか――。

それを証明するために、まずは目標に向かう。例えばであるが、この文章はひじょうに暑苦しい。これを、2割ほど涼しくしつつ読者を意識して、文学とする。そんなことに熱狂していた(ここはしていないが)。その熱狂も、2割は俯瞰する。これは大事なんだなと気づいた。合っているかどうか――判明するのは2026年の春前後。なげえなあ。

ただ、その次の二の矢もある。三の矢も書こう。できれば早い方がいいが、死ぬまでにはこの挑戦を成就させ、次の〝目的〟の段階に進みたい。その次にも。死にたくねえなあ。

死ぬ前に、著書がどう波及したか、喜ばれたか、ディスられたか、そのへんを感じては、それまでに味わったこともない酒を愛でつつ、ずっと書いていたい。酒はどこかでやめるかもしれないが。死にたくねえな。前提として俺は今日、心身共に健やかである。

――「死ぬほど面白い」と数ヶ月に断じた初作品の冒頭、今日はまるで見える景色が異なり、あんなに時間をかけて改稿。一歩、進んだのであろうか。

だとしたら善処。だが、毎日、人間は一歩ずつ問答無用で死に向かっている。誰にも覆せない世界の掟。だからこそ、今はまだ、本当に死にたくない。繰り返すけど手前あたり今日も元気に楽しく一日を過ごせて感謝しております。
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そういった訳で、小説原稿を進める。今日あたり「キャラクターの名前くらいには、ルビ(ふりがな)をつけるべきだ」と思った。ちゃんとしたいもんね。よって、やり方を調べていたら結果、原稿用紙ファイルのレイアウト崩れ問題が発生。どう解決方法を調べても解消されず。

AIにも相談した。様々な方法を感受した。しかし。結論。「MacにおけるWordで原稿用紙で書く際の限界」とのことである。AIが音をあげた。それは俺も音をあげる。というか、公募の規定において「ルビ不要」でも全く問題ないことも併せて判明。

「ただ、主人公の名前、誤読されがちなんですよ」という手前の懸念はちゃんと払拭したかった。だからオルタナティブ(代替案)を求めた。

するとAIは「そんなのカッコでくくればいいのに」という案を秒でくれた。身も蓋もない。いやね、小説の原稿でそれは格好よろしくないのではと反論した。

すると「いや、普通に文芸書とかでもそれ、やってますし」と、エビデンスを示した。そうか。と思い、俺はそれで手打ちとした。

つまり、名前のルビはつけずに、「田中角栄(たなかかくえい)」というように表した。いやあ安心したなと、そこに着地するまでに30分は溶かした。己の無知をまたひとつ知った。

やはり俺はまだ、小説に関しては初心者であることが露呈した。ともあれ、肝心の初作品小説の改稿は数ページ進んだ。その流れ、グルーヴに乗れた。そこが肝心。

――明日、けっこう時間をとっているので張り切って進めようと思う。今日に関しては〝ルビ付けの限界〟が印象度の佳境という妙な日でもあった。

なお、俺の作品の主人公の名は田中角栄さんではない。そんな小説を立派に拵えては応募してみろ。普通に受賞しかねん。
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生活を始める。すると少し、寂しい気持ちになった。俺は何年一人暮らしをしているのであろう。などという表象が確かにあったが散歩に出た。すると30分で元気になった。

そんなことより冷蔵庫だよ。やっぱり明らかにパワーが落ちている。刺身が食べたいんだよ。でも、自宅保存問題が――霹靂が右脳に閃いては松果体でそれをブーストし前頭前野で処理をした――「保冷剤をひとつ、常に冷凍庫に寝かせておけばいい」。このソリューション(解決法)を採用した。

というのも、冷蔵庫が元気ないのは〝冷蔵〟する機能。〝冷凍〟機能はバキバキなのである。だから先のアイディアをと、俺はホームセンターで158円払い、保冷剤を買って帰宅。即、冷凍庫に寝かせた。

夕方、「カツオのタタキ」(半額)を調達し、老犬くらいの覇気しかない冷蔵庫に入れる。その上に、固くした保冷剤を置く。

完璧である。今日の佳境はここにつきる。いや、タスクとしては楽曲制作のロックサウンドのやつ、やっと文句なしにカッコよく仕上げた。寝かせて明日確認して音源ファイルとして書き出す。

小説だって数十ページ改稿しては〝小説のフォーマット〟を2割ほど意識する。いい感じに磨かれる。公募で評されたいんだよまずは。

などと一人で躍起になっては深夜。

「あなたそろそろ――」

「ちょっと待って。カタカタ」

嫁が就寝を急かす。娘はとうに寝ており、レッサーパンダのぬいぐるみを羽交い締めにして、ちいさないびきをかいている。

「それ、いつも誰に向けて書いてるの?」

形而上の質問を嫁は投じる。

「わからない。習慣なんだ」

俺は正直に答える。実のところ、誰に向けて書いているのかは、いつかわかる。そんな気がする。だから、未来は予測不可能という文脈で、正直に答える。

「先に寝るけど――」

「おやすみなさい。よし書けた」

「何を書いたの今日は?」

「今日の脳の裏側にあることを文字起こししたんだ」

「お薬ちゃんと飲んだの?」

「いや、あれはもう飲まなくていいんだ。なにせ――」

娘が起きてきてレッサーパンダのしっぽを短めに持ってフルスイングしてきた。

「やめなさい。かわいそうでしょ」

「ごめんパパ」

「ちがう。レッサーが、かわいそうだ」

「なに書いてるのパパ?」

「日記だよ。このあいだ買ってあげた日記帳、書くことは続けてるかい? ちょっと見せてみて」

娘はダッシュで自分の部屋に行き、学習机から日記帳を取り出しては再び仕事部屋めがけてスライディングした。そして意気揚々とそれを提示した。

「10月9日。今日は、ママがれいぞうこの中に、私用のおやつのスペースをつくってくれて、すごくうれしかった。ゼリーをしこたまねじ込んだ時のうれしさは、明日もつづく」

時代を逆行し、アナログに鉛筆で記されていた。

「よく書けてるねえ。しかも結びが詩的だ。パパ、こういうの好きだなあ」

率直に評した。そして疑問点に言及した。

「〝しこたまねじ込んだ〟って言い方、学校では習わないよね? 自分で考えたのかい?」

「パパの日記よんでマネっこしたの」

嫁のいびきが寝室から聴こえて来た。近年稀に見るオルタナ3ピースバンドのベース音の如し重低音である。

「そうかいそうかい。もう寝ようか」

「うん……」

小学生の0時の記憶は、きっと翌朝には滅しているであろう。俺は、レッサーパンダを膝に寝かせつつ、その日の日記を一度だけ推敲し、そのまま寝室へ行くことにした。

生活を始める。すると少し、なぜか、寂しい気持ちになった。俺は何年一人暮らしをしているのであろう。並行世界があるとすれば、先のような内容を、全く別の場所で書いているのであろうか。

――俺が小学生に上がる前くらいに、レッサーパンダのぬいぐるみを親から買い与えられた。兄貴もぶんもあった。嬉しくて仕方がなかった。大切に可愛がっては、相棒のように扱っていた。兄貴と、両親と、レッサーたちと、とても幸せに過ごしていた。
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売れる小説には必ず理由がある。そう思い、今日あたりはブックオフでそれを論証しようと、西川口駅へ向かった。

目的が3つある。まずは、好きな作家の小説をよ〜く読むために買うこと。

次に、売れている作品の〝理由〟を考察する。この点に、ブックオフを選択した理由が含まれる。それは、古本チェーン店では〝すでによく売れたことを証明されているラインナップが一目瞭然に陳列されている〟からである。

そして、これらの目的から取材できたことを自分の原稿に落とし込む。この3つである。

ちなみに、近所にもブックオフはある。だが、赤羽店にはもう、特に好きな作家の未読作品が並んでいないから西川口店まで飛んだ。

――西川口駅に着く寸前、走行する電車の窓越しに『KFC』の看板が輝いて写った。そう。めしを食べていない。ちいさなヨーグルト1パックに、よくわからないサプリを数種類流し込む。朝食的な内容はこれが多い。つまりチキンのようなテラッテラの油分を欲していたのであろうか。

駅に降りると真っ直ぐ『KFC』に向かう。さて何を。メニューを見ると思いのほか「チキン」は安くなかった。じゃあいいよ。そう思い俺はコンビニで売ってる方の「チキン」とアイスコーヒーで手を打つというか実にせこい選択をとった。

各品を引っさげ、かつて叔父と温かくしのぎを削った『珈琲専門店アルマンド』に向かった。もちろん、更地。向かいの『コモディイイダ』の正面に腰をかけ、食事をした。更地を眺めて四則演算をしながら。

そうか、あれから3年経つのかと、当時の営みを回顧した。

更地には「立ち入り禁止」の黄色い看板が仕事をしていた。俺は土地内に足を踏み入れ、「ここがカウンター」「いつもこのへんに叔父さんは立ったり座っていたり」「ここにピアノが」「楽曲『イマジン』を500回くらい弾かされた」「常連の方の顔が次々と浮かぶ」。いろいろ思うことはあった。

しかし、さほど感傷的になれなかったのは、きっと叔父さんは成仏したからなのかなと勝手に解釈した。公務員に見つかって俺が成仏させられる前にブックオフに向かった。

――まずは話題の小説作品コーナーに向かう。そこで「本屋大賞」など、ノミネート作品も加え、様々な著書を吟味しては乱雑に読んだ。

その中でも『成瀬は天下を取りにいく』という、初版発行2023年からいまや100万部セールス突破の大ヒット作品を読み進める。

キリのいいところ、40ページくらいだろうか。とりあえずそこまで読んでみた。そこで思った。ものすごく面白い作品だと。そこで、売れている理由を考察した。

それをめちゃめちゃまとめると、読ませる推進力が圧倒的なこと。そして、〝物語の実態の気づかせ方〟というか、それが一編の最後にちゃ〜んとあること。これかあ。と思い、その著書は閉じた。次。

芥川賞受賞作品をいくつかパラパラと見た。どれも、各著者の個性があると感じた。〝色〟があると俺なりに思えた。特に、又吉直樹さんの『火花』という作品は、屈強な文学性が帯びる文体に、漫才のエッセンスも散りばめられており唯一無二と思えた。

そのように、いくつもの作品に触れて思うことがあった。やはり、自分らしさというのに遠慮しないというか、それを出してこそなのかなと。その、〝らしさ〟の昇華が大切なのかな。などと思った。

帰り際、中島らもさんの作品を探した。未読の著書がいくつかあった。手に取ったなかに、「解説:町田康」が巻末にある著書を見つけた。タイトルは『バンド・オブ・ザ・ナイト』。購入。

帰宅して、ロックサウンド楽曲の制作をした。昨日出来たと思ったが、気になる箇所があったので3時間ほど詰める。そして、感性所以のOKサインを確認。完成と断じ、音源をプラットフォームに申請。

ロックの楽曲制作の場合、「どこをどうするべきか」は、すぐにわかる。だが、「どの手段でどう磨くか」は、すぐにはできない。ともあれ、時間をかければ出来る。

そういう風に、小説でも「ここをこうするとよくなる」というのがすぐにわかれば――と、当然そう思った。

小説の改稿を進めた。すると「これ、どこが面白いんだ?」という迷路に入ってしまう。推敲の1回目だったらそれは違う。「なんて面白いんだ」と、自惚れられた。

しかし、今は、その時からだいぶ時間も立つし、自分なりに〝小説・文学〟というやつの考察なりをし続けてきたつもり。だからなのか、「はたしてこの小説をあと、どうすれば」という怪訝もそれは出る。出ない方がおかしい。ということは、磨ける〝余地〟が広まったと解釈するのが健全であろうか。

売れる小説に必ずある理由。いまそれを言語化するのは危険。ただ、一つ言えるのは、各著者が、思いの丈を原稿に書いた結果がそれぞれあるのだろうということ。シンプルに、俺もそれをしようという思惟。

〝売れる小説〟から〝人に喜んでもらえる作品を作る源流〟を逆算思考する一日。

――3年前。『珈琲専門店アルマンド』で仕事をしていた時、今年に入って作家になると躍起になるとは想像もしていなかった。そう振り返ると、3年という年月には、思いもよらぬ変化が内包されている。

3年後、俺は作家になれているのだろうか。なっているその時は、きっと、アルマンドでの温かくも濃い体験をベースとした作品を書いているだろうか。

それが出来たらまず最初に、叔父さんに読んでほしい。初作品が世に出せたら、まず最初に、実のところ親父に読んでほしい。もしかしたら俺は、言えなかったことを誰かに伝えるために文章を書いているのかもしれない。
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何がだめで、どこがよくて、どこをどうすればいいか。そういった視点が確かに生じた。昨日の取材的ムーブも相成り、今日、原稿の改稿をしていてそう、明瞭に思えた。

思えば一番最初に書き上げた小説。序盤からしばらくのセクションの文章が混沌としているのはむしろ当然。

今日の改稿中、中盤の章に差し掛かり思った。ここから急に手慣れたというか、「このへんからは、今書いてもそう表現する」という感触を。

よかった。この新たな感覚があるのなら、格式高い公募への挑戦が無謀とはならないはず。そう、幾分かの安堵を得つつ、原稿を磨いた。

例えるならば、俺はここ数日、普段は能動的に聴かない楽曲やアーティストらの音楽を「仕事で取材する前段階で準備資料を作成する」視点で音像を分解してリスニングしていた。

そこでは新たな発見もあったし、「なんとなく、藤井風さんが売れる理由がわかってきたかもしれない」くらいの――現に彼の素晴らしい音楽をくまなく聴かないと今は言語化できないが――視点を得た。こと、音楽ライター案件においては、先の準備資料作成をしないことには、仕事として成り立たない。

インタビュー案件においてだと、例えば本題は新譜アルバムについて。その場合は当然、最低でも一周はまるごと聴く。各曲の特色をメモする。バックボーンを推測する。近似する音楽ジャンルをひたすら広げてはメモをする。どういった思いで、対象がその楽曲を制作したかを逆算思考する。

それをしないと話にならない。実例としては。

――「どうもはじめまして」

「ああどうもどうも。いやあ、こんな若い子が話を聞いてくれに来るなんて嬉しいですねえ」

「いえいえ僕、もう40歳も――」

「若いよお! いやあ寒かったでしょ?」

「お気遣いありがとうございます」

俺は小慣れた意識を持ちつつ、レコーダーを二つ、白く大きな机に置いた。

「では、録音させていただきます」

「うん!」

とても紳士的かつ、柔らかい物腰のアーティスト。第一印象はそうだった。何を言ってもちゃんと答えてくださる。〝地雷〟さえ踏まなければ――。

「事前にいただいた音源とアルバムの資料、ありがとうございました」

俺は、いかにも「準備してきましたよ」という感じの、自作のインタビュー質問項目用紙を一度だけ、机に見えるように置く。そこにはカタカタ書いて印刷した活字に加え、後に書き加えた赤字の追加メモがいくつも記されている。相手がこれをチラ見したのを確認すると、すぐに手元で裏返して自分しか見えないようにする。

「こっちもお水、一本もらえるかな?」

彼は、スタッフに笑顔で求める。とても優しそうな笑顔で。しかし。事前に、「――の件はNGで」と、釘を刺されている。地雷である。ただが、そんなわかりやすいもの以外でも、「それを言ったら謎に機嫌を損ねてまともな取材とはならくなる」ということはしばしばあるという。だから俺はいつだって取材に慎重ということになる。

「――そうですか! で、本作なんですけど、まず僕はこの5曲目に注目しましてね」

「へええ! 意外とそこなんだ!」

こういったリアクションは「むしろ、そこを掘ってほしい」のサインであることが多い。それを絶対に見逃さない。

「僕なりの解釈なんですけれども、中期のビートルズの系譜を感じまして」

「へええ! 若い子でも聴くんだね! いやあ嬉しいなあ気づいてくれて。それね、メロトロン入ってるでしょ? まあ、言っちゃうとその通りだよ。よくわかったねえ!」

メロトロンとは、ビートルズも使用したアナログなサンプラー楽器である。ざそこから、俺はメロトロンに食いついた彼が饒舌になってきたことを確認し、完全傾聴にまわった。すると、ビートルズの話だけで30分が経っていた。

いかん。彼はビートルズが好きすぎたのか。と思い、俺は必死に対象アーティストの新譜の楽曲の源流に迫るべく、失礼のない範囲でなかば強引にそっちに舵を切る。なにせ取材時間は1時間弱。

とはいえ、ビートルズ・トークの30分が、後の数十分という貴重な残り時間を歪曲させた。つまり、聞きたいこと、話して欲しいことは残りの少ない時間で淀みなく取材できたということである。

何が言いたいかと言うと、下調べが功をなしたということである。これを小説執筆にスライドさせる。

言わずともわかる。文学の下調べが、学びが不足していた。

だが、二作目を書き上げた後、それを意識的にやり続けては昨日も実施した。だから、今日あたりの初作品改稿において「ここからはなんか、いつも俺が書いていて『よし』となる文体にシフトチェンジしている」という潮流を見定められたのである。すなわち、冒頭から中盤までの〝甘さ〟がよくわかった。

そうなってくると、改稿後に行う推敲。これの課題と指針がクリアになる。それを今日はいくつかメモりながら、改稿を進めた。

何がだめで、どこがよくて、どこをどうすればいいか。本流の文脈を調べればわかることはきっと多々ある。別の分野の書籍を読み漁るのもいい。だが、本流の系譜をおざなりにしたまま書き進めるとこうなるのだな。という気づきがあったのではないかという雑感を得たのが今日。

とはいえ、「個性」と「小説フォーマット」の〝8:2〟の比率を崩さない姿勢は保つ。さもなければ「いかにも小説ですね」と言うものになりかねない。というかそれすら書けない野郎が何を。

という段階かもしれないが、とにかく最低限の〝準備〟と〝学び〟は必要であるということを、音楽と文学をクロスオーバーさせて理解した。というとおおげさだろうか。ただ、純粋に俺はそれを感じることができて嬉しかった。というだけの話である。

なお、文中では伏せたが、実例の取材対象アーティスト。明記を伏せた。しかし書いてしまいたいな。やめよう。だが実のところ、この段落を書く手前まで、おもむろに書いていて先ほど伏せた。このあたりからも、まだまだ俺も甘いも甘いなあと思わざるを得なかった。

当時の取材対象者様に感謝申し上げます。とても勉強になり、それは今だってあらゆる営みのシーンで、生き続けていおります。
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フェンダー・ジャガーのギタースタンドを変える。以前のは、置くと後傾になるタイプのスタンド。物理的にそのままの状態が続くと、必然的にネックが逆反りになる理屈となる。

ちょっと6弦を触れたら、違和感のある音がした。少々チューニングが上がっている。本来「E」であるはずの音がわずかに「♯」している。明らかに先に示した姿勢が原因である。

――20代の頃、パチスロ『キングパルサー』という台の設定6(まず、客が勝てる数値とした最高設定)を掴み、終日しこたま打ち倒しては大勝ちし、その金で購入。それがフェンダー・ジャガーである。

出生からして当時を物語っている。だが、そのへんもセットで、20代を象徴する自分のエレクトリックギターである。それを懐かしむように愛でていた。

今は、メインギターは別のものであるが故に、そのジャガーでライブなり録音するなりする機会はほぼなくなった。激しく引き倒していたのは20代のバンドマン時代である。いくつかのバンドで頑張るもほぼほぼ売れなかった。

だが、最後に所属していたバンドにおいては、わりといけそうな手応えがあった。具体的には、定期公演していた新宿でのライブにおいて、しばしば利益が出始めた頃。

そんなことを思い出しながら、当時のそのバンドの代表曲のバッキングフレーズをつまつまと弾いていた。当時のライブステージでの一挙手一投足が瞬時に想起されるかのよう。

「弦を交換し、久々にこいつで楽曲制作を――」と、思ったが疲れていたので少し寝た。「20代後半の頃、あの時期特有のエネルギーがあればこんな雑に横たわってはいない」などと思いつつ。

何をしていても、疲労は感じるが興奮状態で脳のガンマ波がバキバキになっていれば無双。何だってできる万能感。そこは正直に、あの頃には及ばない。

こうやって老いていくのかな。くらいにまでは思わなかったが、弦を張り替えるまでもいかなかったのは正直、自身を残念に思った。だが、タスクとして、ジャガーもストラトキャスターも、弦交換をして創作をするということは後日に持ち越すとした。

今やれ。とも思ったが、今やるべきことは、小説の改稿だと断じる。ここは怪訝にならない。ギターを扱う時間は執筆に充てた。

原稿に対する解像度が上がった感覚を保ち、さらに今後も上げるべく、魅力や冗長の取捨選択しながら数十ページ進める。

あの頃の、バンドに向ける気概、姿勢は今、こっちに向かっている。そしてその濃度は逆に今の方が高い。そう断じられる。何故ならば今はパチスロなど、余計にエネルギーを消耗する遊戯を絶っているからである。

20代に買ったその頃から、ほぼちょうど20年が経つ。当時は想像もしていなかった別の挑戦をしている。バンドでメジャーデビューではなく、作家としてのデビューのための創作である。これはコケたくない。

エネルギーの量は、あの頃には及ばない。しかし、熱狂の質は向上している。そしてもちろん、ギターで楽曲制作なりの音楽的営みは捨てない。やっている。

新たなロックサウンド楽曲は今日、プラットフォームに承認された。改めてその楽曲を聴いたところ、文句なしという嬉しい感情が生じると共に、「2000年代を彷彿とさせるロックのスタイルだな」と、ジャンル的(リバイバルロック)に思った。

今日、ギタースタンドを変えて、ジャガーの姿勢をほぼ直立にした。それは、どこか自分の今の営みの姿勢を改めて律した気持ちになった。

〝当時ほどは出せないが、今だからこそ出せる熱量を、姿勢を正して正面から〟という20代中盤〜後半と、45歳の今の営みの写像。

全く同じではない。だが、バンドでもパチスロでも楽曲制作でも小説でも、ムキになって熱狂するという〝性質〟そのものは変わらない。

ただ、惰性のようにやっていると、チューニングが狂うほど後傾になってしまっていることに気づけもしない。それは心外。そこに気がついた。

部屋の些細なレイアウト変更。ともとれるが、やはり、熱狂していた時の武器の状態は全てを物語る。そんな気がした。

それにしてもあの時期、パチスロを打ちすぎた。よせばいいのに家賃まで賭しては祈るようにレバーを叩いていた荒唐無稽な当時の自身のムーブ。

中途半端に狂っている。アホすぎた。そしてアホほど勝った時に買ったジャガー。やはり、その時の心象をも表す20代の象徴。

そいつの姿勢を正していると、半端な狂気としか言いようのなかった当時の腐れ遊戯も、今の肥やしになっているのかな。などという弁明。ちがうな。これは弁解。いや、そうではないことをこれから証明する。ここからまた20年後、同様のことを書いていないように祈りも添えて。

そこで更に逆に、書くこともせずに65歳の俺が『キングパルサー』の後継機だかなんだかを呆けて打っていたら喫驚して俺は俺をジャガーで叩き殺すかもしれない。だから、少々の祈りを。
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最近、日のタスクを終えては酒を呑みながら『バンド・オブ・ザ・ナイト』という小説を小一時間ほど読んでいる。そこで思った。なんと恐ろしいのであるかと。

どこがかというと、前提として〝作家というのは「その人でなければ書けない」要素〟がないと、営み続けることは難しいということがある。それを直視したということである。

〝その人でなければ書けない〟というのは、わりと分別できるファクターだと個人的には思う。例えば。

村上春樹さんだったら、独特かつ読者を唸らせる特有の比喩表現。町田康さんだったら、追従を許さぬがの如し口語と古語を交えたグルーヴィーな文体。三島由紀夫さんだったら、モダンな単語を入れつつも日本人であることの矜持を映し出したような美しい筆致。太宰治さんだったら、まるでそれを読者の自身事のように引き寄せる情念溢れる文章。

しかしまだ、例えをさほど出せぬほど、文学の学びが足りんなと思うのが正直なところ。ポピュラー音楽だといくらでも出るのだが――それをここで差し出すのは逃げに近い。いや、ちょっとだけ。

レッド・ツェッペリンは、ブルースから派生してギターリフをドラムス・ベースの強拍と同期させるという、後のスタンダードなハードロックの形式を確立させた。ニルヴァーナは、パンク・グランジのアンダーグラウンドな音像をポップなメロディに昇華させ、魂の叫びと共にそれまでのロックの在り方を壊した。スティーヴィー・ワンダーは、モータウンサウンドで世界に席巻し、ソウルミュージックを基礎にポップスに昇華させ、その間口を拡張した。レディオヘッドは、中期の作品において〝これまでのロック自体〟のフォーマットを否定するかのように、ロックに一度終止符を打った。

クラッシュは、オジー・オズボーンは、クラフトワークは、エイフェックスツインは、フレイミングリップスは、ケミカルブラザーズは、ボブ・マーリーは、ナインインチネイルズは、ソニックユースは、ブライアン・イーノは、オアシスは、ビートルズは――。

いくらでもその例を続けて書けるほど聴いてきた。なお、系譜という観点から、例は2000年までのものとし、敬称略。それくらい区切りだってつけられる。話を戻すと、小説における〝その人でなければ書けない〟の始祖となった例えとして、音楽アーティストの紹介である。

紹介であるってなんだよ。そうだ。俺は音楽ライターの営みがあった。そう。こういうニュアンスの「紹介記事・考察記事」とかだと、区切りの一言は〝ご紹介する〟だったり〝紐解いてみる〟はたまた〝迫る〟などなど、ある種のテンプレ的な言葉のチョイス、在庫がいくらでもある。音楽記事だと、である。

だが小説の場合はそれを模索中。だからこそ、〝その人でなければ書けない〟という要素に迫っている。〝迫る〟と断言できないのは、先の理由による。音楽記事だと恐縮ながら納品レベルまで仕上げられるが、小説においてはまだ、発展途上なのである。

つまり、『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読み進めていて〝その人でなければ書けない〟という場面で立ちすくんだ。やっと本題である。長いんだよここまでがこうやってたまに。そういう〝らしさ〟が要るのかどうかは甚だわからない。

当該著書。ページをびっしり言語で埋め尽くしては何ページも何ページも、散文、文脈の継ぎ目を完全に無視したセクションが何度かある。

それは、音楽に例えるとエイフェックスツインの「ドリルンベース(ドラムンベースから彼が独自に派生させたジャンル的なもの。ブレイクコアなんて言い方もある)」の高速ビートに美麗なメロディが微かに漂う佇まいにすごく近い。俺はそう感じた。何を言ってるのかわからない場合は彼の「Vordhosbn」という楽曲を聴くとなんとなくわかるのかもしれない。俺はこの曲を初めて聴いた時、後ろにひっくり返りそうになった。

言葉が、語彙なのか表現なのか、詩なのか体感なのか、妄想なのか哲学なのか、はたまたそれら全てが含蓄されてそうなったのか。『バンド・オブ・ザ・ナイト』のそのセクションを一字一句逃さずに読むとそう感じざるを得ないと共に、圧倒された。

なお、その部分は登場人物が、作中の言葉を拝借すると“ラリっている”状態での、きっと脳内描写。つまり、ドラッグ的なものをやって飛んでいる脳内文字起こし。あるいは、それも文学なのであろうか。全くもって俺には判断できない。

ただ、一つ言えることは「読めてしまう」「読まされてしまう」ということである。かなり長い、支離滅裂なのか理路整然なのかその中庸なのか。わからないのだが、とにかく長文一気通貫のその高速ビートに翻弄された。

そこで思った。「これは、著者の中島らもさんにしか書けないものだ」と。だから、読んでいるのは深夜にも関わらず、翌日の今もそれがずっと残っているため、〝その人でなければ書けない〟とは。などと俺なりに考察した。

文章って面白いもので、クセが出る人とそうでない人が別れる。いろんな文章を読んできてそう感じた。しかし、小説、文学においてはそれが必要であり、さらにそれは〝クセ〟という言い方は適切ではない気がするものだから〝その人でなければ書けない〟という風に主題を扱った。

もしも、俺の小説に、そいつが落とし込まれていれば。ようやくそこで勝負できる地点に立てているのかなという思惟。

ただ、音楽ライターの方だが、いつだったかけっこうな前、編集者から「平吉くんの文章はクセがあるから」と、渋い顔をしながら言われたことがある。あの、刑事役を演じる時の田村正和さんの如し表情をどうとるか。

その人でなければ書けないやつ。それを書くには、その人がした体験が必要。その人にしかできない世界の捉え方が不可欠。シンプルにそのへんだろうか。

だとしたら俺は世界をどう捉えているか。だからそれを小説にしこたま書いている――みたいなことをひたすらここに書き続けてちょうど10ヶ月くらい経つ。早いな。今日も、改稿を進めた。「なんでこう書いた?」という部分を「普通に、俺ならこう」という判断基準8、「小説だとこうか」というフォーマット2、という割合で。

それが適正なのか、評に値するのか、わかるまでまだ時間がかかる。そんな道中で出会った『バンド・オブ・ザ・ナイト』のびっしりと言葉が敷き詰められた恐ろしいセクション。基準が破壊されるかと思った。

ただ、エイフェックスツインの誰にも真似できないスタイルが評されたように、中島らもさんのそういった筆致の部分も堂々と小説に書かれ、評価されている。盗めるものとそうでないものがやはりあるのだなと心底思った。

だからこそ、小説ってなんだろうと、ここにきて基本的な問いが出てきても変ではないと思う。

たぶんだが、小説とは、〝著者による体験や構想や捉え方を、物語なりにした文学作品〟なのではないかと思った。つまり、その人となりを文章化すると。

ちょっと、なるほどと今思えたが、実際はどうだろうかというのを〝体現〟したい。評されたいんだよ。正直にいうと。しかし、あまり地が――自己顕示欲が――モロにはみでないように〝地〟を出すことが重要である。

などというのが真理だったら、それほど〝その人でなければ書けない〟というのは凄まじく難しいではないか。というところに帰結する。

じゃあ『バンド・オブ・ザ・ナイト』の登場人物みたいに一回ラリってみようか。というのは健全な思考ルートである。やめろ。適度な酒くらいで手打ちとし、今夜も学ぶべし。〝らしさ〟という重厚なテーマを。

あれだけ恐ろしい筆致を目の当たりにすると酒が進むどころかちょっと止まるあたり、謎すぎる。
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「ワシの言うようにエロとかヤクザ描かんからや」

高齢の肉体労働者は言った。漫画家志望の若い同僚に向けた言葉である。若者は言った。

「100万人の読者に僕達のことを伝えたいんです」

場末の居酒屋でコップ酒を交わしつつ、若者と高齢者は労働後の体を清めていた。高齢者は、本質を突いていた。若者もそうだった。

若者は、資本主義を中核とした重厚なテーマの物語を、大手出版社の公募にエントリーしていた。

エロとヤクザを書かなかった若者の、その原稿は、編集部で吟味され、選考者のひとりの触手を動かせた。

――「これは期待出来ますよ」。そう、笑顔で期待を示しつつ、上司に原稿を手渡した。渋い顔をする上司。

「いやダメだな! もったいぶって自分勝手なことをくどくど言ってる御託だぜ」。そう、上司は一刀両断。下読み(一次選考前)で落とすよう命じた。続けて言った。

「こいつの頭は思想で凝り固まっている。娯楽ということがまるでわかっていない人間だ」と。

売れないものを掲載する価値はなし。出版社は企業であり、利潤を追求していること。それを部下にリマインドした。

「これは落とせ。わかったな」

「わかりました」

若者の原稿は編集部のゴミ箱に投下された。

後日、公募先の雑誌の一次選考通過者の欄。それを見た高齢者は呟いた。

「あいつ、泣き入ってるやろな――ワシの言うようにエロとかヤクザ描かんからや」。その頃、結果を知った若者は、通天閣の頂上で夜空を見ていた。

共々合流。場末の居酒屋で、高齢者は若者を激励した。

「講釈社があるやないかい! 講釈社ゆうたら最大手やで。小学館なんか放っておけ!」

落選した「小学館」以外にもいくらでも投稿先は他にもあることを示唆した。若者は言った。

「でも両社とも利潤を追求するわけですから、考え方は同じなんです」と、至極真っ当なことを述べつつ――かなり酒が回っていた。

「だから今度はエロかヤクザに挑戦したらええやないか!」

高齢者は、正論かつ安易な道を諭した。若者は起立して演説を始めた。エンゲルス(ドイツの思想家)の文脈から――。

「――人間は各人が意識的に意欲された自分自身の目的を追うことによって……結果はどうなろうともその歴史をつくる!」

まことインテリぶった演説は、店内中の客人たちを敵に回した。野次が飛び交った。だが若者は続けた。

「――この多数の個人が何を意欲しているのかということも大切なのである――多数の人々が共通の意志と行為をもつということが歴史を動かしていきます……!」

怒号が飛び交う店内。高齢者は若者を制圧しようと体を掴んだ。だが若者は続けた。

「――ただ僕はどうしても次のことが言いたい!」

何なら言え。聞いてやるから言え。殺す。その後にな。そういった狂熱が酒場を包んだ。

「よく聞いてくれ! だが、これには長い間の根気強い仕事が必要であるということだ!」

――「イテテテ!」。高齢者の小さな悲鳴を心配する若者。両者、袋叩きの半殺しの目に遭い、店外に放り出された――。

翌朝。高齢者は若者に問うた。「まだ漫画を描き続けるのか」と。若者は言った。自分の漫画が未熟で落選したように、昨夜どつき回されたのも〝表現が未熟で彼等にうまく伝わらなかっただけのことです〟と、清爽な表情で。

若者は、偶然事や一時的後退があっても、社会は前進的発展によって貫かれている。多数の人々がよりよく生きるための道筋を理解しており、また理解することは可能。だが、これには〝長い間の根気強い仕事が必要〟である旨も述べた。

彼らは、数年共にした現場から離れ離れに別れる采配を受けた。

高齢者は、時代の移り変わりと年齢起因で、仕事にありつけない日々を重ねた。そのうちくたびれ地面に座り、悔やんだ。落涙し、若者を思い出した。

「――お前の言うたこと当たってるわ……」

若者の言葉の核を思い出した。

「――ワシの失業も一時的後退で前進的発展なのか?」

高齢者は、道を眺めては、この世の絶えず運動している変化を悟った。

「そやけどワシは今日から一体どないなるんや!」

路上生活を視野に入れた。そして、若者の言葉を想起しつつ、マルクスやエンゲルスが、自身のような者にとっては正しいような気がすると、思考を改めた。「そやけど、このワシは……!」と、高齢者は神を叫ぶしかなかった。

――確か俺が30歳前後の頃、ブックオフでひょいと買っては愛読書となっている著書。それに、上のことが書かれていた。

何が言いたいのかというともちろん、俺は、「若者」と自分の小説執筆の営みを照らし合わせては、なんなら追体験しているかのよう。

10年以上前に買った本のセクションが想起された。

それだけの話なのだが、〝だが、これには長い間の根気強い仕事が必要であるということだ〟という一節がこう、刺さりまくっていたことを10年経って気が付いた。だから、おもむろに引用した。

日記でこれはおかしい。間違いなくおかしい。しかし、今日の俺の過ごし方にディストーションギターの壁トラックのように覆われていたのは先の一節である。〝長い間の根気強い仕事が必要〟。

やっているのだが、「いつまで」なのか。どこでそれが発展するのか。そんなところの思惟に癒着した。

俺が注視したのは、「高齢者」が主張することも「若者」の主張ないし代弁することも、両方、現代では「正しい」ということである。

つまり、「エロやヤクザ」を刺激的に描いてバズることは近道。実際見てみたよ。最近の漫画雑誌を。エロいのなんのどんだけグロい描写するのかと。コンプラ至上主義の逆、いってるじゃないかと。ただなあ。そういうのを読者は求めているのかなあ。と。

一方、一瞬、編集者の触手を確かに動かせた重厚な作品は〝利潤の追求〟所以でゴミ箱投下。若者の次回作ならびに別の出版社での評価を心から応援したい。

要するに手前の小説が落選するもしつこく信じて書いているくだりと重ね合わせている。それだけのこと。

だから、他方で〝正しい〟となる「エロスと暴力」を描くルートを。それを視野に入れるのもアリなのでは。などという思案も、あると言えばある。

そうだな。両方描くのがハイブリッドかつ扇動的でわかりやすい。エロヤクザ女を主人公として、バンバン人が拷問されては強姦されてはぶち殺されては誰も救われない、そこに筆者の何の思想もない、とりとめも節操もない物語を卓越した文体でがんばって書こう。そうしよう。

よし。それには取材が必要だ。まずはエロから。幸い、ここはかつて「プチ歌舞伎町」と評価された東京都北区赤羽駅界隈。キャバクラ、ピンサロ、サロン、おっパブ、無敵の四つ打ち四拍子。なんだってあるぜ。友達みたいな黒服くんが何人か、今もさ、そのへんで獲物を虎視眈々。

俺はキッチンに行き、財布を開いて、現金を数えた。そっと閉じ、そっと冷蔵庫を開け、ハイボール缶を手にし、冷えたそいつを解放させた。

〝長い間の根気強い仕事が必要〟を、俺は選択した。

(出典:『青木雄二傑作漫画作品集 50億円の約束手形』内『悲しき友情』)
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