ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。女性は優しくマグカップを差し出した。10月。
昨日、半額で購入した刺身よ。
――丸大豆醤油でヒタリと濡らしては柚子胡椒を添える。一切れ口に放り、味覚に集中しては即座に思った。「焼かなければならぬフェーズにある」と。すなわち冷却保存がだめだった。機嫌を損ねた冷蔵庫、再起動で復活ならず――。
だがしかしどういうことか、今日は謎に冷えている。昨日、今日で、冷蔵庫のコンディションが著しく異なる。そんなのは嫌だ。〝冷却〟という機能が日によって全然違うなんてもはや何だこれは。そういう生々しさは要らないんだよ。
などと思いながら生々しいロックサウンドの制作をしようと思ったが、言語を主とする各仕事を多くやったものだから逸した。その楽曲制作時間を。
時間を思うようにコントロールできないのはまだわかる。手前の配分が気まぐれという失態は認めざるを得ない。だが冷蔵庫の気まぐれは認めない。というか家電製品における寿命。それこそを認めるべきであろう。
高いんだよ。独身用の冷蔵庫だって2万円以上とかザラ。仕事で楽はしたくないのだが、生活は楽をしたいんだよ。これは別に堂々と言っていいスタンスだと思う。だからこそ、買い替えたくない。不本意な出費は困るからである。
だが、今、たった今、確かにウゥゥゥン……! と、やる気を出した冷蔵庫の稼働音が仕事部屋まで微かに、真空管ギターアンプにおける非サウンド出力時の生きた呼吸のように、確かに聞こえるのである。
「まだいける。昨日は済まなかった。『ブリ』は鮮度が命。知っているが、昨日はちょっとダメだったんだ。思うように体が、動かなかったんだ。でも、ほら、聴こえるだろう? オレはまだ行ける。愛着だってあるだろう? お前が30歳の頃から使ってくれている――懐かしいね。東京都足立区鹿浜のあの如実いなたいアパート暮らしが。覚えているか? オレの出生を。そうだよ。当時お前が付き合っていた――」
色々とうるせえよ。覚えているし15年よくやってくれたよ。だがな、お前起因で酒の肴の選択肢から「刺身」が除外されるのは辛抱ならないんだよ。
「そんなオレを気遣ってさ、今日は『タコ』の茹でてあるやつ。それを『刺身風』に食べる――その選択肢は、オレを見放さない〝愛〟なんじゃないのか? 常温でもこいつは一日くらいなら変な匂いになったりしないさ。優しいじゃないか。見ろ! 今日はハイボール缶を〝冷凍庫〟の方ににいっとき転がさずともほら! 冷えている。オレはまだ行ける。見捨てないでくれ」
俺に家電への愛着など無い。だが、それが、それこそが最たる原因で冷蔵庫が――という仮定は論証に至らなかった。昨夜、俺に『ブリ』を照り焼きにさせたのが動かぬ証左。だから覚悟したよ。冷蔵庫新調を。
「見捨てるのか」
なんとね。君を見捨てるのにも金がかかるのだよ。廃棄処理。
「〝愛〟よりも金が大事だと」
そうは言っていない。
「お前、小説の初作品の第一章のタイトルを『冷蔵庫』にしたよな。オレへのリスペクトならびにインスピレーションだろ?」
違う。あれは中島らもさんが、夜中に神がかったアイディアが降りてきてメモって翌朝見たら「冷蔵庫」とだけ書かれていてご本人も怪訝になられた。それを引用したんだよ。
「パクったり見捨てたり。むちゃくちゃじゃないですか」
暴論だ。いいか。人間はな、使えなくなった物は容赦無く捨てることが美徳という態度だってあるんだ。サイクルするんだよ。万物は。あとパクりじゃなくて引用だ。
「ちょっと来てくれよ。今日は違うんだって。これからもね――」
俺は今、キッチンに行って生存確認をした。冷蔵庫に置いてある――もはや〝冷やしてある〟とは言えなくなった――ハイボール缶を「まさかな」と思いつつ手に取った。無駄な行為とわかりつつも。しかし。冷たい。キンキンとまではいかないが、及第点の冷え方であった。一体どういうことだ。
「な!? ちょっとやる気がさ、ど〜しても数日だけ出なかっただけなんだって!」
確かに、この調子のままなら買い換える必要はない。だが――〝前〟がついた。
「そんな、前科持ちみたいに言わないでさ。というかお前だってあるだろ? オレで言う冷えない。お前で言うところの〝覇気のない日〟がさ。知ってるぜ? 数年前は3日おきくらいにここにそう書いてたの。知ってるのさ。15年の付き合いだからな」
気持ち悪いんだよ。だが、それは事実だが認める上に――確かにここ数年はその表現をほぼ記さなくなった――人間はそう。だが電化製品は……今日直ってるしな……不問で手打ちかな……。
「見捨てないでつかあさい」
決めた。お前は先の理由で〝執行猶予一ヶ月〟とする。それまでフル稼働だったら、好きにすればいい。
「………」
どうしたんだ。
「………」
泣いてるのか。
「………」
やめろ。お前の場合はそれ、悲嘆ではなく水漏れだ。いきなり頑張りすぎなくていい。いいか? 一ヶ月だ。その執行猶予中に変な動きを見せなければ――。
真空管マーシャルアンプ・スピーカー4発入りのスタンバイ音。それを想起させる微かなノイズが後ろから聴こえる。そして気がついた。冷蔵庫はまだ行ける。その意思を休み明けの競走馬の如くアピールしている。
紆余曲折あった。だが、真剣に対話したところ、和解した。〝愛〟が芽生えたのである。
機嫌を損ねた冷蔵庫。しかし、謎に復活を遂げた。
――不機嫌な人間が居る。毎日ではない。そいつは、ある期間だけ、そうであった。だからと言って俺は、たったそれだけで、そいつとの疎遠を希求するだろうか。しない。互いに常に温厚、上機嫌、半永久な友好的態度。晩年まで一切冷めぬ夫婦。そんな人間関係はむしろ気持ちがわるい。
いっときの不具合。可逆性の病。冷蔵庫は前者。人間は後者。そういうバイオリズム的な波をないがしろにできない。
【ためこみ症(Hoarding Disorder)】
アメリカ精神医学会の診断基準からは「強迫性障害」とは独立した診断名として扱われる。特徴は「物を捨てたり手放しすことに強い苦痛が伴う」「実際には価値のない物でも『必要かもしれない』と感じて保持してしまう」「生活空間が物で埋まり、日常生活に支障をきたす」
そうではない。俺は、冷蔵庫のいっときの不具合を〝再起動〟一発で持ち直し、その存在価値をも見つめ直した。それだけの話である。
というか、長年使っている冷蔵庫にこんなにも愛着があること。知らなかった。愛について。
“愛することは技術であり、学習と実践が必要な能力――”とある学者さんの、このような提唱がある。
使いましたよ。その技術。そんで冷蔵庫、愛所以で見捨てないことにしましたよ。そこから俺はまたひとつ〝愛〟を学びましたよ。
どうですか学者さん。なに? ちゃんと著書を読めと。頭を冷やせと。その通りですよ。人間だってね、いっとき壊れた冷蔵庫の如く、冷えない日もあるんですよ。論点?
10月初日。俺は、様々なことを交差しては、ひとつ真理を得た。涼しい秋に、きちんと冷えたハイボールを呑む。その味は、昨年の秋とはまた別種の甘露となり俺の魂を潤す。その源流にあるのは〝愛〟。そうであってほしい。違ったら違ったで別に冷えてくれていればそれでいいよもう。
(出典:『愛するということ』エーリッヒ・フロム 著 『DSM-5』米国精神医学会発行 精神疾患の診断・統計マニュアル第5版)
_10/01
あっという間に日が過ぎる。気がつけば10月。今年を振り返り出す頃合い。俺は一体、2025年、何をしていたのだろうか。そういう風に来年も、それが来てくれたら思うであろう。その次の年も、来てくれれば。
気がついたら死ぬ。俺は一体何をしていたのかと病床かこの場所か、謎に異国でバイトしている状況下で晩年を迎えるか、なかなか不明瞭だがとにかく、死ぬ。その手前の段階で思い出せ。2025年を。
あれだ、小説書き出して熱狂し始めた年でしたね。と、聞いてくれる誰かがいれば、そう答えるだろう。「それでどうなりましたか?」と、そいつは、その女性は、質問をしてくれる。
「あれがターニングポイントでしたわ」などと、俺は窓の外の建造物の滑らかな色を確認しながら吐露するだろう。
「これですか?」と、女性は俺の著書を手にしてはそれを確認する。「それそれ。そこから俺はねえ――」と、尿瓶に手を向けようとしては「こっちですよ」と、女性にマグカップを差し出される。
「ずいぶん恥ずかしいことを書かれたのですねえ」と、女性は一刀両断に言う。「いやね、その時は夢中でね。それが最高だと思って疑わなかったんですわ」と、俺は弁明する。
「でもこっち、急に作風が変わって」と、ヒョウ柄の装丁の著書を棚から引っこ抜く。「ずいぶん暗いわ」と、内容を一言で断ずる。
「それはな、何周かして鬱がぶりかえして、酒と共にSSRIとベンゾジアゼピンをかじりながら書いてたんですわ」
「お薬の名前ですか」と、女性は事実確認をする。「便宜上は」と、俺は事実を伝える。女性は言う。「あなた、大事にしているエレキギターどうするの?」と。
俺は勝手に余命三ヶ月だと思い込んでいる。だから、「あれはな、君が弾くか」と、遺品扱いする。
「いらないわ」と、女性は目を光らせながら一瞥。「そうか、わかった。売却すればいい金になる」「そんなのわるいわ」「じゃあ弾いてやってくれ」「ロックの楽器でしょう? 私、ロックは聴かないわ」。
俺は、今度こそと思い尿瓶を両手で捉えると主治医が来た。「どうですか、平吉さん」と、いつもの一糸乱れぬ第一声を放つ。
「どうもこうも、家に帰らせてくれませんかねえ。こんな無骨な風景の場所で永眠。そんなのは嫌だ」
俺は余命三ヶ月をなんとかしてくれないかと、主治医に懇願した。「そうですねえ。あれから何年が経ったでしょうね」と、彼は時間軸を歪曲させた。不意に俺は、カーディガンズのCDを棚から抜き、楽曲「Carnival」を聴こうと、アンプスピーカーを探した。
目の前にあった。だが手が届かない。違うな。そういう時代は数十年前のことだ。そう思い、俺はサイドテーブルに置いておいたデバイスを手にし、そこから「Carnival」を流そうと、少し元気な気持ちが出てきた。
<I will never know
Cause you will never show
Come on and love me now
Come on and love me now>
(わたしはわからない だってあなたが絶対教えてくれないから こっちに来て 今すぐ愛して こっちに来て 今すぐ愛して)
そのコーラスの音楽が、どうしてもかからなかった。なぜだと思い、デバイスの動作を確認した。だが手元にそれがない。主治医の背中が見えた。女性が泣いている。顔には白い布がかけられて臥床している男が居る。俺と似た体格である。
どういうことだ。まだ三ヶ月ある。あと、三ヶ月もある。三ヶ月もあれば小説が一本書ける。楽曲だって数曲は制作できる。校閲の仕事――まだ進捗50%だ。そうだ、あのライター案件の戻りは。再来月入金だ。請求書を早く、送ったか。
まて、そのヒョウ柄の装丁の本を書いた記憶が俺にはない。どういうことだ。なぜ、曲が流れない。誰か教えてくれ。どうして女性は泣いている。というか誰だ。先生、主治医の先生、教えてくれ。さっきの余命のくだりを。三ヶ月、そんなにあるんだろう。あと三ヶ月、あと三ヶ月もあればたくさんのことを楽しんで笑顔でいられる。酒だって呑める。冷やした刺身はどうなった。教えてくれ。なんで君ら、教えてくれないんだ。俺がそっちに――なんでこんなに上下に離れているんだ。こっちに来てくれ。こっちにきて、そして今すぐ教えてくれ。そして今すぐ――。
今年はあと三ヶ月ある。今日は仕事をよくして音楽を聴いたりもした。復活した電化製品を信用して刺身だって買ってきた。日常。2025年はあと三ヶ月ある。その三ヶ月と、以降の三ヶ月。その違いについて考えた。
(引用元:The Cardigans『Life』「Carnival」1995年)
_10/02
よく生きて、よく過ごす。
_10/03
昨日はかつての同僚であり、現在の友人である者とたのしく、新宿でほどほどに呑んでいた。そして赤羽に戻り、ひとり、だれか知らぬ者と意気投合して小一時間ほど、そのあとまたひとりで、一杯の「ハブ酒」を呑んでは店を出て、ハイボール缶を3つ買い、宅に戻る。
しばらくすると日が高くなっており、仕事部屋のソファで目が覚めた。つまり呑みすぎである。なんなら今、この時間までしんどいレベルの二日酔い。よくないなあ。そう思いつつ、今日はなんもしなかった。するべきことはいくつもあったが、肝臓を主として休んだ。正確に言うと、休まざるを得ない体たらくであった。
昨日の日記、一行か。そう振り返っては、いかに酩酊していたかを物語る事実に直面する。というか意地でも日記は書くのだな。という謎の執念の痕跡を確かめる。
最近、中島らもさんの晩年の作品を読んでいる。最後に書かれた小説である。その『酒気帯び車椅子』という作品から、生まれて初めてかもしれないというほど、「続きが気になって仕方がない」「読んでいて吸い込まれる」という魅力を感ずる。
中島らもさんの作品では、当該小説に限らず、アルコールの描写がよく出てくる。
それは時に、人間の快楽の対象であったり、時に、溺れてしまう魔力を持つドラッグ的な対象であったり、時に、情景描写であったりする。つまり、アルコールを「知り尽くしている」ということがよく伝わってくる。
これが説得力か。とも思いつつ、その小説の通読後の気持ちを楽しみにする。「ほどほどに読める小説ではない」と、半分少々の読書経過でそのように思う。
酒はほどほどに。そうありたい。しかし昨日は通り越した。今だってしんどいのは明らかなる過剰であり、逸脱とも捉えられる。そこまで行ってどうなるか。もしかしたら、中島らもさんのように「極める」ことができるのかもしれない。しかし、「極めたい」ことはあるのだが、俺には、その経由での「極み」とはならないという自覚がある。極める前に、のまれる。それは遺憾。
酒に関しては中庸に。極めるべくことは別の経由で極めること。昨夜あたりは、友人と呑んで帰路につき、ハイボール缶を2つ程度呑んで寝るのが中庸。しかし逸脱した。結果、一日が溶けた。これは「のまれた」証左ほかならない。気をつけよう。鬼才から盗める要素の選択は絞るべし。
今夜、すべてのバーで飲み尽くしその向こう側を見ることができる中島らもさん。俺は、そこまでは、見ることをしないほうがいい。
別の角度から、極めるべく要素を学ぶべし。そういう風に、フラッフラの一日を振り返っては、きちんと反省をした。
だが、冷蔵庫にはハイボール缶やらを3本待機させてある。全然反省していない。「2本までならいいかな」というスモールステップを提案。俺という個別者の弱みを思い知る。
_10/04
「先生、思うんですけどね。何もしていない時が一番しんどいんですよ」
先日、定期検診で精神科医にこう、投げかけた。主治医は、顎にぶらさげたままずっと顔をむき出しにするくらいならマスク。それ、もう取っちまえよと思っている俺に笑顔で言った。
「平吉さんは――色々やってらっしゃるから、忙しいくらいの方がいいということなんじゃないですかね?」
中庸な内容を、笑顔で言及した。
「まあ――忙しいとまではどうでしょうね。ただね先生。〝暇〟というやつが俺をいつだって苦しめているのではないかと」
少し抽象度の高い提言をした。
「そういう方はそうですし」
「俺は仕事がたくさんあると楽しいんです」
「最近はどうです?」
「毎日幸せに暮らしています」
主治医は終始笑顔で傾聴ベースで対話してくれた。個人的には真意をついたという所感。だが、どこかはぐらかされたニュアンスは否めないが、精神科医の立場としては、そこを今、徹底的に解明することは別に。というご判断なのであろう。
俺はその後に友人と呑みに行き、翌日は廃のような心境で何もせずに過ごした。苦痛であった。二日酔いのそれもあるが、「何もできなかった」という〝暇〟の中での一日となったことに強い苦痛を感じた。
だが、休息できたからいいではないかとその日は善処した。
しかし、今日起床したら逆に、心身に魂に形而上の感覚、それらすべてが不調を訴えた。つまり、完全に休んでいた昨日を否定したのである。三日酔いでは、ないと思う。
その証左として、仕事をしてしばらくしたら元気になった。今日は一日中、ずっと、掛け値なくずっと、仕事をしていた。数分前までは校閲の仕事をしては、面白いなあと、溌剌としていた。
何もすることがない、何もできない、何も考えられない地獄。それは絶対に堪え難い現象。
認知症から廃用症候群(寝たきり起因の生活不活発病)の末、死んだ者が身近に居る。彼の、その晩年の様子を幾度となく見に行くたびに、俺は「こいつは今、かなりの期間、ずっと地獄を味わっている」と、確かに思っていた。
実際に彼がどう思っていたのか、思うこともできなかったのか、とにかく「何もできない」状態のリアルを一次情報として俺は自身に刻印した。絶対にこの状態になることは避けるべきであると。実際に彼がどう感じていたかは決してわからないが。
――だから、能動的にも受動的にも〝やること〟があるというのは幸福に直結する。
つまり――何かしていないと病的に落ち着かない――多動――ADHD寄り――発達障害なんでしょうか先生、俺は。
という問いをいつだったか、今日の文脈ではないが問うたことがある。そこで先生は言った。質問を投げかけてから数秒、慎重に考えたご様子の〝間〟を経て、はっきりと。
「最初の頃はね、平吉さんそういった感じがありましたよ」と。俺は「今は――」と言おうとしたが食い気味に先生は続けた。
「話しているとなんとなくわかるんですよ。ただ、その時はそういった診断の必要性を感じませんでした」と、きちんと答えてくれた。
そして先日、「先生、思うんですけどね。何もしていない時が一番しんどいんですよ」と、問いかけた。フワッとした対話をもってして締められた。
まあ、そうではないとも断言しないが、「こいつはたまに変なことを言うが、まあ、ボーダーライン的な感じかな」などとカルテに書かれていると俺は想像している。
というか、翌日なんもできないくらい呑んで戯言を。そう断ずるべきである。だから昨日は酒、3本買ってきたがそのうちの2本を呑み切らないくらいで寝た。翌日はさぞ、そのぶん爽快であろうと。だが実相は思いのほか違った。
なんなら「なんもしない地獄」よりも、「二日酔い地獄に抗ってタスクを行なう」。そして、いつも通りくらい酒を呑んで今日を迎えた方が良かったのかもしれない。
〝暇〟というやつが俺をいつだって苦しめる説。よくよく考えると、これに逆らえる人間は居るのだろうか。どんなに暇であっても、なにかはする――依存症時代に足繁く賭場に通っていた俺のように――はずである。
じゃあ、そもそも〝暇〟とか〝なんもしない〟という「状態」はなんぞやと考えた。ここからは倫理学とかの文脈となりそうだから今日はいいや。やることしこたまやったし酒呑んで寝よう。
そう、俺は本当に反省をしていないのかもしれないが、弁明はする。どっちが〝徳〟であるか。知らないが、一つ間違いないことがある。酒は暇をも溶かす劇薬。しかし、やることやった後のそれは甘露。
俺はここに酒を呑む言い訳を数十パターンは記してきたが、これだけ外連味のある言い訳は初めてだ。いや、筋、通ってますかね。先生。いや、主治医の先生にだけは絶対に、ここを読んで欲しくないというか読まれたら普通におこられる。
「平吉さん。今日は強めのお薬を出しておきますね」
「先生、読んだっしょ」
そんなくだりはまずない。俺の実名経由でネット調査し、ここにたどり着く訳が無い――見つけた。
“学会公式媒体が「無断で患者をググるのはプライバシー侵害」と明言”
“APA公式文書も「緊急時以外は同意必須」と規定”(※共に一般的な国際的指針として)
俺は一体なにに慄いているのであろうか。別にそんなことはない。ちょっと、深めに考えたかっただけである。
結論。酒はほどほどに。仕事とか頑張るのは幸福に直結。あと、主治医はいつだって誠実である。そして俺は先生を〝信頼〟している。いつもありがとうございます。
(出典:Psychiatric News(米国精神医学会公式媒体)・APA Resource Document(米国精神医学会公式指針, 2017)よりそれぞれ抜粋し、リライト)
_10/05
綿密に仕事をしたところ、もう深夜である。大丈夫。『ブリ』を、きちんと、不死鳥の如き復活を遂げた冷蔵庫に冷やして(半額)ある。酒は、やはり昨日量をおさえたところ不思議なものでそのぶん日中快活。だから今日も。と、思っている。
つまり日中は〝ライフワークバランス〟とやらを一気通貫でいってやったところ思った。毎日これは疲れるぞと。俺は誤解していないが、先のカタカナを発話した人物は「私はそうする。みんなもやれ」という意味合いではない。と、考えられる。
しかし俺あたりはそれくらいの方がむしろ妙な快感を得る。つまり多動中は脳内でオピオイド(モルヒネに似た作用を持つ物質の総称)が噴出、言い過ぎだ。まあまあ出るから、苦痛がポーンと飛ぶというか要するに気持ちがいい。
それの度が過ぎた変態が人をバンバン殺める作品の中に愛。それがモノを言っては実のところ世界が二分化して訳の分からぬ賢者がそれを統率しようとするがしかし秒で殺される。そんな小説を書こうかなと思った。バイオレンス小説というのだろうかそれは。
というのも、今読み進めている小説はどうやらそういったカテゴリーに入るらしい。『酒気帯び車椅子』という作品である。
あらすじは、引用せずに自分の言葉で書くと「商社マンの主人公の働きっぷりと家族との団欒。寄る黒き影。強かに受けるバイオレンス――そして復讐――」だろうか。残り50ページくらいで通読する。だから結末は知らない。想像がつかない作品的引力を感ずる。それを今夜、読み切る。
「小説の続きが楽しみだ」という体験を忘れていた。それを当該作品は思い出させてくれた。
著者は、一昨日もそのお名前を書いた気がするが中島らもさん。彼の、遺稿長編小説である。人を飲み込ませる文体と静かなる中にあるアイロニーと狂気の勢いが爆ぜる。
俺が書いている小説は寝かせている。意図的に、そうしている。なぜならば、小説というやつそのものを学んでいる期間だからである。
「寝かしていたら公募の締め切り、いかん」とならぬよう、今読み進めている小説――それ以外にもけっこう読んだここ二週間ほど――を通読したら、原稿の仕上げにとりかかる。そういう絵を書いている。きっと、手前の原稿の見え方が二週間前とは異なることは明白。
それも面白い現象だ。などと達観せず、まずは世に出すこと。この目標を刺さぬことには始まらん。そう思い、楽しくも勉強、リファレンス、把握、様々な角度で〝小説とは〟という観点を得る。
だが〝ライフワークバランス〟が偏っている。今日午前に起きてから今まで仕事以外していない。だからこのあと、休息、酒、ブリ、らもさん、全てまとめて〝ライフワークバランス〟をとる。
ここで冷蔵庫が謎にまた朽ちていた暁には。想像もしたくない。『ブリ』を刺身扱いすることは食品衛生面で認められぬであろう。けだし、そのようなことはなかろう。だがそうであれば俺は憤慨の向こう側で冷蔵庫をバイオレンスに叩き壊してはBPMを最大値まで上げ15年の付き合いに大団円となる終止符を打つ。 そんなのは嫌だ。やめよう。こういう情念は伝播しかねない。今のなし。
俺は思う。〝ライフワークバランス〟大事。だが、仕事をしまくる方が手前は快感。人によってはまた異なる。それぞれのバランスがある。というかこう書いていて俺は〝ライフワークバランス〟という言葉の使い方問題ないのかと怪訝に思うのでちゃんと調べようか。
〝ライフワークバランス〟とは。
“仕事とプライベートの調和。どちらも充実させることが本質”
とのことである。つまり〝中庸〟という言葉にちょっと近いのかもしれない。だとしたらなんだ。そんなことはどうでもいいんだ。「頼むから刺身、冷えててくれ」などと度々懇願するここ数日のライフワーク。バランスはとれているのであろうか。論点がずれている。最終的に「冷蔵庫、頼む」という主題になっている。そこがメインではない。
俺は、彼(冷蔵庫)を信用している。俺の生活のバランスを支えてくれては15年。愛しき相棒である。だが、そこに裏切りが生じたら俺はバイオレンスに復讐を――なんてくだらない思惟だ。寿命というものがある。それに対しては、バランスも、バイオレンスも、復讐も、何も通用しない。
だからその日が来るまでせめて、おいしく『ブリ』を生で食べてくつろぎたいよね。そんで明日から小説。張り切って進めよう。「中島らも賞」とかないのかな。あったら絶対そこにエントリーするのに。
ないですよね。らもさん、そういうの、ご自身の銘打った賞とかあまり好まれなさそう(個人の想像)ですし。そういうところだってカッコいいと思う――今夜、キッチンのバーで、遺作長編小説を心して読もう。信じられないくらい面白い作品を。
(補足:中島らもの遺作(絶筆)は短編小説『DECO-CHIN』。長編小説の遺作は『酒気帯び車椅子』)
_10/06
寝かせていた小説の創作を再開する。確認したところ、20日ほど寝かせていたことに気づく。それは二作目の方であるが、今日から再開するのは、初作品の方の〝改稿〟である。
それは、推敲とは異なる。この20日ほど〝小説〟について、書かずに読むことであらゆる角度から勉強し、分析し、あらゆる「型」を捉え、〝小説のフォーマット〟というやつを、俺なりに解釈した。それを、自身の原稿で表現できるようにできたと判断した。
たった20日でお前、小説なめているのか。と言われれば、いや、これで学習終了ではなく、改稿しながらも様々な小説を乱読して学び続ける。昨夜、また一冊小説を通読して「なんか得たぞ」感。これがあるうちに再開したいんですよ。と、答える。
そしていざ、4ヶ月ぶりに初作品の最終稿のファイルをコピーし、「第七稿」と拡張子手前にラベリングし、冒頭から改稿を進めた。するとどうだろう。
冒頭2ページを吟味して「これだ」となるまで1時間したからびっくりした俺は。本当に。この4ヶ月で二作目を書き上げ、推敲し、20日学び――この期間を挟んだところ、俺の初作品の冒頭の景色がまるで違って映ったから後ろにひっくり返りそうになった俺は。
大丈夫である。改稿の指針がある。主として5点ほどに絞ったが際たる指針は〝自分の文体〟と〝小説のフォーマット〟の比率を〝8:2〟にして「文学性」を滲ませることである。あと、作品自体の魂を絶対に削がないでむしろ磨くこと。これは大前提。
それをやったらこんなにかかるのか――とも思ったが、冒頭(就職面談の第一印象くらい大事)につき、そこはむしろやり過ぎなくらいでないといかん。と、善処した。指針があるのでそれにならう。決して、〝迎合〟はせぬように留意しつつ。
締め切りは本年12月10日。改稿版の初作品を公募に応募する。公募名は『太宰治賞』。
そんなすごそうなの獲れるのか。
シンプルにそう思う。しかし、様々ある公募先を相当に吟味した結果、俺の初作品の評価に適しているであろうと判断できるのは、当該公募だと信じるという訳である。
自身の文章が文学としてどれほど世に通用するか。俺の目的と夢への着火点となるのか。世界への貢献となりうるのか。そういった挑戦である。
だから、〝自分の文体〟と〝小説のフォーマット〟の比率を〝8:2〟。つまり例えるならばそれを意識する前は俺は、半分くらいタメ口で面接を受けに行った。それを、最低限の敬語で記する。しかし、主張は曲げない。そこは貫く。なんならというか、かなり難しい改稿という今日のところの所感。
だが、どうしても挑戦したい。そしてその後、ただちに、第二作目を最終稿まで磨き上げ、毛色の異なるその作品を、また別の「衝撃的な作品をお待ちしております」と構えている公募先に応募する。二段構え。この実行段階に遷移した今日。すんごい仕事で疲れてるんだけど、そんなものは脳内オピオイドでなんとかなる。
とはいえこれは長距離走。じっくりと刺すように挑戦をする。まずは『太宰治賞』。ここで、初作品改稿版が、どう扱われるか。
「受賞してやる」「最終選考までは残れ」「賞金でかいな」「頼む」「いや、ほんとに頼みます」という思考はどれも、正直に言うと全部あるのだが、期間を開けた今、あるのは挑戦心。これが最も強い。
初作品は、一度別の公募で落選した。そして俺なりに戦略を練った。また挑む。気迫を思いきりねじ込み、敬語で、主張を揺るがせずに挑戦する。こういうの楽しいよね。と、個人的に思う。その後に、こういった思いが――などとも恐縮ながら思う。
仕事で扱う文章とは別に、俺の創作の文章には、はたして貢献につながる価値があるのか――。
それを証明するために、まずは目標に向かう。例えばであるが、この文章はひじょうに暑苦しい。これを、2割ほど涼しくしつつ読者を意識して、文学とする。そんなことに熱狂していた(ここはしていないが)。その熱狂も、2割は俯瞰する。これは大事なんだなと気づいた。合っているかどうか――判明するのは2026年の春前後。なげえなあ。
ただ、その次の二の矢もある。三の矢も書こう。できれば早い方がいいが、死ぬまでにはこの挑戦を成就させ、次の〝目的〟の段階に進みたい。その次にも。死にたくねえなあ。
死ぬ前に、著書がどう波及したか、喜ばれたか、ディスられたか、そのへんを感じては、それまでに味わったこともない酒を愛でつつ、ずっと書いていたい。酒はどこかでやめるかもしれないが。死にたくねえな。前提として俺は今日、心身共に健やかである。
――「死ぬほど面白い」と数ヶ月に断じた初作品の冒頭、今日はまるで見える景色が異なり、あんなに時間をかけて改稿。一歩、進んだのであろうか。
だとしたら善処。だが、毎日、人間は一歩ずつ問答無用で死に向かっている。誰にも覆せない世界の掟。だからこそ、今はまだ、本当に死にたくない。繰り返すけど手前あたり今日も元気に楽しく一日を過ごせて感謝しております。
_10/07
そういった訳で、小説原稿を進める。今日あたり「キャラクターの名前くらいには、ルビ(ふりがな)をつけるべきだ」と思った。ちゃんとしたいもんね。よって、やり方を調べていたら結果、原稿用紙ファイルのレイアウト崩れ問題が発生。どう解決方法を調べても解消されず。
AIにも相談した。様々な方法を感受した。しかし。結論。「MacにおけるWordで原稿用紙で書く際の限界」とのことである。AIが音をあげた。それは俺も音をあげる。というか、公募の規定において「ルビ不要」でも全く問題ないことも併せて判明。
「ただ、主人公の名前、誤読されがちなんですよ」という手前の懸念はちゃんと払拭したかった。だからオルタナティブ(代替案)を求めた。
するとAIは「そんなのカッコでくくればいいのに」という案を秒でくれた。身も蓋もない。いやね、小説の原稿でそれは格好よろしくないのではと反論した。
すると「いや、普通に文芸書とかでもそれ、やってますし」と、エビデンスを示した。そうか。と思い、俺はそれで手打ちとした。
つまり、名前のルビはつけずに、「田中角栄(たなかかくえい)」というように表した。いやあ安心したなと、そこに着地するまでに30分は溶かした。己の無知をまたひとつ知った。
やはり俺はまだ、小説に関しては初心者であることが露呈した。ともあれ、肝心の初作品小説の改稿は数ページ進んだ。その流れ、グルーヴに乗れた。そこが肝心。
――明日、けっこう時間をとっているので張り切って進めようと思う。今日に関しては〝ルビ付けの限界〟が印象度の佳境という妙な日でもあった。
なお、俺の作品の主人公の名は田中角栄さんではない。そんな小説を立派に拵えては応募してみろ。普通に受賞しかねん。
_10/08
生活を始める。すると少し、寂しい気持ちになった。俺は何年一人暮らしをしているのであろう。などという表象が確かにあったが散歩に出た。すると30分で元気になった。
そんなことより冷蔵庫だよ。やっぱり明らかにパワーが落ちている。刺身が食べたいんだよ。でも、自宅保存問題が――霹靂が右脳に閃いては松果体でそれをブーストし前頭前野で処理をした――「保冷剤をひとつ、常に冷凍庫に寝かせておけばいい」。このソリューション(解決法)を採用した。
というのも、冷蔵庫が元気ないのは〝冷蔵〟する機能。〝冷凍〟機能はバキバキなのである。だから先のアイディアをと、俺はホームセンターで158円払い、保冷剤を買って帰宅。即、冷凍庫に寝かせた。
夕方、「カツオのタタキ」(半額)を調達し、老犬くらいの覇気しかない冷蔵庫に入れる。その上に、固くした保冷剤を置く。
完璧である。今日の佳境はここにつきる。いや、タスクとしては楽曲制作のロックサウンドのやつ、やっと文句なしにカッコよく仕上げた。寝かせて明日確認して音源ファイルとして書き出す。
小説だって数十ページ改稿しては〝小説のフォーマット〟を2割ほど意識する。いい感じに磨かれる。公募で評されたいんだよまずは。
などと一人で躍起になっては深夜。
「あなたそろそろ――」
「ちょっと待って。カタカタ」
嫁が就寝を急かす。娘はとうに寝ており、レッサーパンダのぬいぐるみを羽交い締めにして、ちいさないびきをかいている。
「それ、いつも誰に向けて書いてるの?」
形而上の質問を嫁は投じる。
「わからない。習慣なんだ」
俺は正直に答える。実のところ、誰に向けて書いているのかは、いつかわかる。そんな気がする。だから、未来は予測不可能という文脈で、正直に答える。
「先に寝るけど――」
「おやすみなさい。よし書けた」
「何を書いたの今日は?」
「今日の脳の裏側にあることを文字起こししたんだ」
「お薬ちゃんと飲んだの?」
「いや、あれはもう飲まなくていいんだ。なにせ――」
娘が起きてきてレッサーパンダのしっぽを短めに持ってフルスイングしてきた。
「やめなさい。かわいそうでしょ」
「ごめんパパ」
「ちがう。レッサーが、かわいそうだ」
「なに書いてるのパパ?」
「日記だよ。このあいだ買ってあげた日記帳、書くことは続けてるかい? ちょっと見せてみて」
娘はダッシュで自分の部屋に行き、学習机から日記帳を取り出しては再び仕事部屋めがけてスライディングした。そして意気揚々とそれを提示した。
「10月9日。今日は、ママがれいぞうこの中に、私用のおやつのスペースをつくってくれて、すごくうれしかった。ゼリーをしこたまねじ込んだ時のうれしさは、明日もつづく」
時代を逆行し、アナログに鉛筆で記されていた。
「よく書けてるねえ。しかも結びが詩的だ。パパ、こういうの好きだなあ」
率直に評した。そして疑問点に言及した。
「〝しこたまねじ込んだ〟って言い方、学校では習わないよね? 自分で考えたのかい?」
「パパの日記よんでマネっこしたの」
嫁のいびきが寝室から聴こえて来た。近年稀に見るオルタナ3ピースバンドのベース音の如し重低音である。
「そうかいそうかい。もう寝ようか」
「うん……」
小学生の0時の記憶は、きっと翌朝には滅しているであろう。俺は、レッサーパンダを膝に寝かせつつ、その日の日記を一度だけ推敲し、そのまま寝室へ行くことにした。
生活を始める。すると少し、なぜか、寂しい気持ちになった。俺は何年一人暮らしをしているのであろう。並行世界があるとすれば、先のような内容を、全く別の場所で書いているのであろうか。
――俺が小学生に上がる前くらいに、レッサーパンダのぬいぐるみを親から買い与えられた。兄貴もぶんもあった。嬉しくて仕方がなかった。大切に可愛がっては、相棒のように扱っていた。兄貴と、両親と、レッサーたちと、とても幸せに過ごしていた。
_10/09
売れる小説には必ず理由がある。そう思い、今日あたりはブックオフでそれを論証しようと、西川口駅へ向かった。
目的が3つある。まずは、好きな作家の小説をよ〜く読むために買うこと。
次に、売れている作品の〝理由〟を考察する。この点に、ブックオフを選択した理由が含まれる。それは、古本チェーン店では〝すでによく売れたことを証明されているラインナップが一目瞭然に陳列されている〟からである。
そして、これらの目的から取材できたことを自分の原稿に落とし込む。この3つである。
ちなみに、近所にもブックオフはある。だが、赤羽店にはもう、特に好きな作家の未読作品が並んでいないから西川口店まで飛んだ。
――西川口駅に着く寸前、走行する電車の窓越しに『KFC』の看板が輝いて写った。そう。めしを食べていない。ちいさなヨーグルト1パックに、よくわからないサプリを数種類流し込む。朝食的な内容はこれが多い。つまりチキンのようなテラッテラの油分を欲していたのであろうか。
駅に降りると真っ直ぐ『KFC』に向かう。さて何を。メニューを見ると思いのほか「チキン」は安くなかった。じゃあいいよ。そう思い俺はコンビニで売ってる方の「チキン」とアイスコーヒーで手を打つというか実にせこい選択をとった。
各品を引っさげ、かつて叔父と温かくしのぎを削った『珈琲専門店アルマンド』に向かった。もちろん、更地。向かいの『コモディイイダ』の正面に腰をかけ、食事をした。更地を眺めて四則演算をしながら。
そうか、あれから3年経つのかと、当時の営みを回顧した。
更地には「立ち入り禁止」の黄色い看板が仕事をしていた。俺は土地内に足を踏み入れ、「ここがカウンター」「いつもこのへんに叔父さんは立ったり座っていたり」「ここにピアノが」「楽曲『イマジン』を500回くらい弾かされた」「常連の方の顔が次々と浮かぶ」。いろいろ思うことはあった。
しかし、さほど感傷的になれなかったのは、きっと叔父さんは成仏したからなのかなと勝手に解釈した。公務員に見つかって俺が成仏させられる前にブックオフに向かった。
――まずは話題の小説作品コーナーに向かう。そこで「本屋大賞」など、ノミネート作品も加え、様々な著書を吟味しては乱雑に読んだ。
その中でも『成瀬は天下を取りにいく』という、初版発行2023年からいまや100万部セールス突破の大ヒット作品を読み進める。
キリのいいところ、40ページくらいだろうか。とりあえずそこまで読んでみた。そこで思った。ものすごく面白い作品だと。そこで、売れている理由を考察した。
それをめちゃめちゃまとめると、読ませる推進力が圧倒的なこと。そして、〝物語の実態の気づかせ方〟というか、それが一編の最後にちゃ〜んとあること。これかあ。と思い、その著書は閉じた。次。
芥川賞受賞作品をいくつかパラパラと見た。どれも、各著者の個性があると感じた。〝色〟があると俺なりに思えた。特に、又吉直樹さんの『火花』という作品は、屈強な文学性が帯びる文体に、漫才のエッセンスも散りばめられており唯一無二と思えた。
そのように、いくつもの作品に触れて思うことがあった。やはり、自分らしさというのに遠慮しないというか、それを出してこそなのかなと。その、〝らしさ〟の昇華が大切なのかな。などと思った。
帰り際、中島らもさんの作品を探した。未読の著書がいくつかあった。手に取ったなかに、「解説:町田康」が巻末にある著書を見つけた。タイトルは『バンド・オブ・ザ・ナイト』。購入。
帰宅して、ロックサウンド楽曲の制作をした。昨日出来たと思ったが、気になる箇所があったので3時間ほど詰める。そして、感性所以のOKサインを確認。完成と断じ、音源をプラットフォームに申請。
ロックの楽曲制作の場合、「どこをどうするべきか」は、すぐにわかる。だが、「どの手段でどう磨くか」は、すぐにはできない。ともあれ、時間をかければ出来る。
そういう風に、小説でも「ここをこうするとよくなる」というのがすぐにわかれば――と、当然そう思った。
小説の改稿を進めた。すると「これ、どこが面白いんだ?」という迷路に入ってしまう。推敲の1回目だったらそれは違う。「なんて面白いんだ」と、自惚れられた。
しかし、今は、その時からだいぶ時間も立つし、自分なりに〝小説・文学〟というやつの考察なりをし続けてきたつもり。だからなのか、「はたしてこの小説をあと、どうすれば」という怪訝もそれは出る。出ない方がおかしい。ということは、磨ける〝余地〟が広まったと解釈するのが健全であろうか。
売れる小説に必ずある理由。いまそれを言語化するのは危険。ただ、一つ言えるのは、各著者が、思いの丈を原稿に書いた結果がそれぞれあるのだろうということ。シンプルに、俺もそれをしようという思惟。
〝売れる小説〟から〝人に喜んでもらえる作品を作る源流〟を逆算思考する一日。
――3年前。『珈琲専門店アルマンド』で仕事をしていた時、今年に入って作家になると躍起になるとは想像もしていなかった。そう振り返ると、3年という年月には、思いもよらぬ変化が内包されている。
3年後、俺は作家になれているのだろうか。なっているその時は、きっと、アルマンドでの温かくも濃い体験をベースとした作品を書いているだろうか。
それが出来たらまず最初に、叔父さんに読んでほしい。初作品が世に出せたら、まず最初に、実のところ親父に読んでほしい。もしかしたら俺は、言えなかったことを誰かに伝えるために文章を書いているのかもしれない。
_10/10
何がだめで、どこがよくて、どこをどうすればいいか。そういった視点が確かに生じた。昨日の取材的ムーブも相成り、今日、原稿の改稿をしていてそう、明瞭に思えた。
思えば一番最初に書き上げた小説。序盤からしばらくのセクションの文章が混沌としているのはむしろ当然。
今日の改稿中、中盤の章に差し掛かり思った。ここから急に手慣れたというか、「このへんからは、今書いてもそう表現する」という感触を。
よかった。この新たな感覚があるのなら、格式高い公募への挑戦が無謀とはならないはず。そう、幾分かの安堵を得つつ、原稿を磨いた。
例えるならば、俺はここ数日、普段は能動的に聴かない楽曲やアーティストらの音楽を「仕事で取材する前段階で準備資料を作成する」視点で音像を分解してリスニングしていた。
そこでは新たな発見もあったし、「なんとなく、藤井風さんが売れる理由がわかってきたかもしれない」くらいの――現に彼の素晴らしい音楽をくまなく聴かないと今は言語化できないが――視点を得た。こと、音楽ライター案件においては、先の準備資料作成をしないことには、仕事として成り立たない。
インタビュー案件においてだと、例えば本題は新譜アルバムについて。その場合は当然、最低でも一周はまるごと聴く。各曲の特色をメモする。バックボーンを推測する。近似する音楽ジャンルをひたすら広げてはメモをする。どういった思いで、対象がその楽曲を制作したかを逆算思考する。
それをしないと話にならない。実例としては。
――「どうもはじめまして」
「ああどうもどうも。いやあ、こんな若い子が話を聞いてくれに来るなんて嬉しいですねえ」
「いえいえ僕、もう40歳も――」
「若いよお! いやあ寒かったでしょ?」
「お気遣いありがとうございます」
俺は小慣れた意識を持ちつつ、レコーダーを二つ、白く大きな机に置いた。
「では、録音させていただきます」
「うん!」
とても紳士的かつ、柔らかい物腰のアーティスト。第一印象はそうだった。何を言ってもちゃんと答えてくださる。〝地雷〟さえ踏まなければ――。
「事前にいただいた音源とアルバムの資料、ありがとうございました」
俺は、いかにも「準備してきましたよ」という感じの、自作のインタビュー質問項目用紙を一度だけ、机に見えるように置く。そこにはカタカタ書いて印刷した活字に加え、後に書き加えた赤字の追加メモがいくつも記されている。相手がこれをチラ見したのを確認すると、すぐに手元で裏返して自分しか見えないようにする。
「こっちもお水、一本もらえるかな?」
彼は、スタッフに笑顔で求める。とても優しそうな笑顔で。しかし。事前に、「――の件はNGで」と、釘を刺されている。地雷である。ただが、そんなわかりやすいもの以外でも、「それを言ったら謎に機嫌を損ねてまともな取材とはならくなる」ということはしばしばあるという。だから俺はいつだって取材に慎重ということになる。
「――そうですか! で、本作なんですけど、まず僕はこの5曲目に注目しましてね」
「へええ! 意外とそこなんだ!」
こういったリアクションは「むしろ、そこを掘ってほしい」のサインであることが多い。それを絶対に見逃さない。
「僕なりの解釈なんですけれども、中期のビートルズの系譜を感じまして」
「へええ! 若い子でも聴くんだね! いやあ嬉しいなあ気づいてくれて。それね、メロトロン入ってるでしょ? まあ、言っちゃうとその通りだよ。よくわかったねえ!」
メロトロンとは、ビートルズも使用したアナログなサンプラー楽器である。ざそこから、俺はメロトロンに食いついた彼が饒舌になってきたことを確認し、完全傾聴にまわった。すると、ビートルズの話だけで30分が経っていた。
いかん。彼はビートルズが好きすぎたのか。と思い、俺は必死に対象アーティストの新譜の楽曲の源流に迫るべく、失礼のない範囲でなかば強引にそっちに舵を切る。なにせ取材時間は1時間弱。
とはいえ、ビートルズ・トークの30分が、後の数十分という貴重な残り時間を歪曲させた。つまり、聞きたいこと、話して欲しいことは残りの少ない時間で淀みなく取材できたということである。
何が言いたいかと言うと、下調べが功をなしたということである。これを小説執筆にスライドさせる。
言わずともわかる。文学の下調べが、学びが不足していた。
だが、二作目を書き上げた後、それを意識的にやり続けては昨日も実施した。だから、今日あたりの初作品改稿において「ここからはなんか、いつも俺が書いていて『よし』となる文体にシフトチェンジしている」という潮流を見定められたのである。すなわち、冒頭から中盤までの〝甘さ〟がよくわかった。
そうなってくると、改稿後に行う推敲。これの課題と指針がクリアになる。それを今日はいくつかメモりながら、改稿を進めた。
何がだめで、どこがよくて、どこをどうすればいいか。本流の文脈を調べればわかることはきっと多々ある。別の分野の書籍を読み漁るのもいい。だが、本流の系譜をおざなりにしたまま書き進めるとこうなるのだな。という気づきがあったのではないかという雑感を得たのが今日。
とはいえ、「個性」と「小説フォーマット」の〝8:2〟の比率を崩さない姿勢は保つ。さもなければ「いかにも小説ですね」と言うものになりかねない。というかそれすら書けない野郎が何を。
という段階かもしれないが、とにかく最低限の〝準備〟と〝学び〟は必要であるということを、音楽と文学をクロスオーバーさせて理解した。というとおおげさだろうか。ただ、純粋に俺はそれを感じることができて嬉しかった。というだけの話である。
なお、文中では伏せたが、実例の取材対象アーティスト。明記を伏せた。しかし書いてしまいたいな。やめよう。だが実のところ、この段落を書く手前まで、おもむろに書いていて先ほど伏せた。このあたりからも、まだまだ俺も甘いも甘いなあと思わざるを得なかった。
当時の取材対象者様に感謝申し上げます。とても勉強になり、それは今だってあらゆる営みのシーンで、生き続けていおります。
_10/11
フェンダー・ジャガーのギタースタンドを変える。以前のは、置くと後傾になるタイプのスタンド。物理的にそのままの状態が続くと、必然的にネックが逆反りになる理屈となる。
ちょっと6弦を触れたら、違和感のある音がした。少々チューニングが上がっている。本来「E」であるはずの音がわずかに「♯」している。明らかに先に示した姿勢が原因である。
――20代の頃、パチスロ『キングパルサー』という台の設定6(まず、客が勝てる数値とした最高設定)を掴み、終日しこたま打ち倒しては大勝ちし、その金で購入。それがフェンダー・ジャガーである。
出生からして当時を物語っている。だが、そのへんもセットで、20代を象徴する自分のエレクトリックギターである。それを懐かしむように愛でていた。
今は、メインギターは別のものであるが故に、そのジャガーでライブなり録音するなりする機会はほぼなくなった。激しく引き倒していたのは20代のバンドマン時代である。いくつかのバンドで頑張るもほぼほぼ売れなかった。
だが、最後に所属していたバンドにおいては、わりといけそうな手応えがあった。具体的には、定期公演していた新宿でのライブにおいて、しばしば利益が出始めた頃。
そんなことを思い出しながら、当時のそのバンドの代表曲のバッキングフレーズをつまつまと弾いていた。当時のライブステージでの一挙手一投足が瞬時に想起されるかのよう。
「弦を交換し、久々にこいつで楽曲制作を――」と、思ったが疲れていたので少し寝た。「20代後半の頃、あの時期特有のエネルギーがあればこんな雑に横たわってはいない」などと思いつつ。
何をしていても、疲労は感じるが興奮状態で脳のガンマ波がバキバキになっていれば無双。何だってできる万能感。そこは正直に、あの頃には及ばない。
こうやって老いていくのかな。くらいにまでは思わなかったが、弦を張り替えるまでもいかなかったのは正直、自身を残念に思った。だが、タスクとして、ジャガーもストラトキャスターも、弦交換をして創作をするということは後日に持ち越すとした。
今やれ。とも思ったが、今やるべきことは、小説の改稿だと断じる。ここは怪訝にならない。ギターを扱う時間は執筆に充てた。
原稿に対する解像度が上がった感覚を保ち、さらに今後も上げるべく、魅力や冗長の取捨選択しながら数十ページ進める。
あの頃の、バンドに向ける気概、姿勢は今、こっちに向かっている。そしてその濃度は逆に今の方が高い。そう断じられる。何故ならば今はパチスロなど、余計にエネルギーを消耗する遊戯を絶っているからである。
20代に買ったその頃から、ほぼちょうど20年が経つ。当時は想像もしていなかった別の挑戦をしている。バンドでメジャーデビューではなく、作家としてのデビューのための創作である。これはコケたくない。
エネルギーの量は、あの頃には及ばない。しかし、熱狂の質は向上している。そしてもちろん、ギターで楽曲制作なりの音楽的営みは捨てない。やっている。
新たなロックサウンド楽曲は今日、プラットフォームに承認された。改めてその楽曲を聴いたところ、文句なしという嬉しい感情が生じると共に、「2000年代を彷彿とさせるロックのスタイルだな」と、ジャンル的(リバイバルロック)に思った。
今日、ギタースタンドを変えて、ジャガーの姿勢をほぼ直立にした。それは、どこか自分の今の営みの姿勢を改めて律した気持ちになった。
〝当時ほどは出せないが、今だからこそ出せる熱量を、姿勢を正して正面から〟という20代中盤〜後半と、45歳の今の営みの写像。
全く同じではない。だが、バンドでもパチスロでも楽曲制作でも小説でも、ムキになって熱狂するという〝性質〟そのものは変わらない。
ただ、惰性のようにやっていると、チューニングが狂うほど後傾になってしまっていることに気づけもしない。それは心外。そこに気がついた。
部屋の些細なレイアウト変更。ともとれるが、やはり、熱狂していた時の武器の状態は全てを物語る。そんな気がした。
それにしてもあの時期、パチスロを打ちすぎた。よせばいいのに家賃まで賭しては祈るようにレバーを叩いていた荒唐無稽な当時の自身のムーブ。
中途半端に狂っている。アホすぎた。そしてアホほど勝った時に買ったジャガー。やはり、その時の心象をも表す20代の象徴。
そいつの姿勢を正していると、半端な狂気としか言いようのなかった当時の腐れ遊戯も、今の肥やしになっているのかな。などという弁明。ちがうな。これは弁解。いや、そうではないことをこれから証明する。ここからまた20年後、同様のことを書いていないように祈りも添えて。
そこで更に逆に、書くこともせずに65歳の俺が『キングパルサー』の後継機だかなんだかを呆けて打っていたら喫驚して俺は俺をジャガーで叩き殺すかもしれない。だから、少々の祈りを。
_10/12
最近、日のタスクを終えては酒を呑みながら『バンド・オブ・ザ・ナイト』という小説を小一時間ほど読んでいる。そこで思った。なんと恐ろしいのであるかと。
どこがかというと、前提として〝作家というのは「その人でなければ書けない」要素〟がないと、営み続けることは難しいということがある。それを直視したということである。
〝その人でなければ書けない〟というのは、わりと分別できるファクターだと個人的には思う。例えば。
村上春樹さんだったら、独特かつ読者を唸らせる特有の比喩表現。町田康さんだったら、追従を許さぬがの如し口語と古語を交えたグルーヴィーな文体。三島由紀夫さんだったら、モダンな単語を入れつつも日本人であることの矜持を映し出したような美しい筆致。太宰治さんだったら、まるでそれを読者の自身事のように引き寄せる情念溢れる文章。
しかしまだ、例えをさほど出せぬほど、文学の学びが足りんなと思うのが正直なところ。ポピュラー音楽だといくらでも出るのだが――それをここで差し出すのは逃げに近い。いや、ちょっとだけ。
レッド・ツェッペリンは、ブルースから派生してギターリフをドラムス・ベースの強拍と同期させるという、後のスタンダードなハードロックの形式を確立させた。ニルヴァーナは、パンク・グランジのアンダーグラウンドな音像をポップなメロディに昇華させ、魂の叫びと共にそれまでのロックの在り方を壊した。スティーヴィー・ワンダーは、モータウンサウンドで世界に席巻し、ソウルミュージックを基礎にポップスに昇華させ、その間口を拡張した。レディオヘッドは、中期の作品において〝これまでのロック自体〟のフォーマットを否定するかのように、ロックに一度終止符を打った。
クラッシュは、オジー・オズボーンは、クラフトワークは、エイフェックスツインは、フレイミングリップスは、ケミカルブラザーズは、ボブ・マーリーは、ナインインチネイルズは、ソニックユースは、ブライアン・イーノは、オアシスは、ビートルズは――。
いくらでもその例を続けて書けるほど聴いてきた。なお、系譜という観点から、例は2000年までのものとし、敬称略。それくらい区切りだってつけられる。話を戻すと、小説における〝その人でなければ書けない〟の始祖となった例えとして、音楽アーティストの紹介である。
紹介であるってなんだよ。そうだ。俺は音楽ライターの営みがあった。そう。こういうニュアンスの「紹介記事・考察記事」とかだと、区切りの一言は〝ご紹介する〟だったり〝紐解いてみる〟はたまた〝迫る〟などなど、ある種のテンプレ的な言葉のチョイス、在庫がいくらでもある。音楽記事だと、である。
だが小説の場合はそれを模索中。だからこそ、〝その人でなければ書けない〟という要素に迫っている。〝迫る〟と断言できないのは、先の理由による。音楽記事だと恐縮ながら納品レベルまで仕上げられるが、小説においてはまだ、発展途上なのである。
つまり、『バンド・オブ・ザ・ナイト』を読み進めていて〝その人でなければ書けない〟という場面で立ちすくんだ。やっと本題である。長いんだよここまでがこうやってたまに。そういう〝らしさ〟が要るのかどうかは甚だわからない。
当該著書。ページをびっしり言語で埋め尽くしては何ページも何ページも、散文、文脈の継ぎ目を完全に無視したセクションが何度かある。
それは、音楽に例えるとエイフェックスツインの「ドリルンベース(ドラムンベースから彼が独自に派生させたジャンル的なもの。ブレイクコアなんて言い方もある)」の高速ビートに美麗なメロディが微かに漂う佇まいにすごく近い。俺はそう感じた。何を言ってるのかわからない場合は彼の「Vordhosbn」という楽曲を聴くとなんとなくわかるのかもしれない。俺はこの曲を初めて聴いた時、後ろにひっくり返りそうになった。
言葉が、語彙なのか表現なのか、詩なのか体感なのか、妄想なのか哲学なのか、はたまたそれら全てが含蓄されてそうなったのか。『バンド・オブ・ザ・ナイト』のそのセクションを一字一句逃さずに読むとそう感じざるを得ないと共に、圧倒された。
なお、その部分は登場人物が、作中の言葉を拝借すると“ラリっている”状態での、きっと脳内描写。つまり、ドラッグ的なものをやって飛んでいる脳内文字起こし。あるいは、それも文学なのであろうか。全くもって俺には判断できない。
ただ、一つ言えることは「読めてしまう」「読まされてしまう」ということである。かなり長い、支離滅裂なのか理路整然なのかその中庸なのか。わからないのだが、とにかく長文一気通貫のその高速ビートに翻弄された。
そこで思った。「これは、著者の中島らもさんにしか書けないものだ」と。だから、読んでいるのは深夜にも関わらず、翌日の今もそれがずっと残っているため、〝その人でなければ書けない〟とは。などと俺なりに考察した。
文章って面白いもので、クセが出る人とそうでない人が別れる。いろんな文章を読んできてそう感じた。しかし、小説、文学においてはそれが必要であり、さらにそれは〝クセ〟という言い方は適切ではない気がするものだから〝その人でなければ書けない〟という風に主題を扱った。
もしも、俺の小説に、そいつが落とし込まれていれば。ようやくそこで勝負できる地点に立てているのかなという思惟。
ただ、音楽ライターの方だが、いつだったかけっこうな前、編集者から「平吉くんの文章はクセがあるから」と、渋い顔をしながら言われたことがある。あの、刑事役を演じる時の田村正和さんの如し表情をどうとるか。
その人でなければ書けないやつ。それを書くには、その人がした体験が必要。その人にしかできない世界の捉え方が不可欠。シンプルにそのへんだろうか。
だとしたら俺は世界をどう捉えているか。だからそれを小説にしこたま書いている――みたいなことをひたすらここに書き続けてちょうど10ヶ月くらい経つ。早いな。今日も、改稿を進めた。「なんでこう書いた?」という部分を「普通に、俺ならこう」という判断基準8、「小説だとこうか」というフォーマット2、という割合で。
それが適正なのか、評に値するのか、わかるまでまだ時間がかかる。そんな道中で出会った『バンド・オブ・ザ・ナイト』のびっしりと言葉が敷き詰められた恐ろしいセクション。基準が破壊されるかと思った。
ただ、エイフェックスツインの誰にも真似できないスタイルが評されたように、中島らもさんのそういった筆致の部分も堂々と小説に書かれ、評価されている。盗めるものとそうでないものがやはりあるのだなと心底思った。
だからこそ、小説ってなんだろうと、ここにきて基本的な問いが出てきても変ではないと思う。
たぶんだが、小説とは、〝著者による体験や構想や捉え方を、物語なりにした文学作品〟なのではないかと思った。つまり、その人となりを文章化すると。
ちょっと、なるほどと今思えたが、実際はどうだろうかというのを〝体現〟したい。評されたいんだよ。正直にいうと。しかし、あまり地が――自己顕示欲が――モロにはみでないように〝地〟を出すことが重要である。
などというのが真理だったら、それほど〝その人でなければ書けない〟というのは凄まじく難しいではないか。というところに帰結する。
じゃあ『バンド・オブ・ザ・ナイト』の登場人物みたいに一回ラリってみようか。というのは健全な思考ルートである。やめろ。適度な酒くらいで手打ちとし、今夜も学ぶべし。〝らしさ〟という重厚なテーマを。
あれだけ恐ろしい筆致を目の当たりにすると酒が進むどころかちょっと止まるあたり、謎すぎる。
_10/13
「ワシの言うようにエロとかヤクザ描かんからや」
高齢の肉体労働者は言った。漫画家志望の若い同僚に向けた言葉である。若者は言った。
「100万人の読者に僕達のことを伝えたいんです」
場末の居酒屋でコップ酒を交わしつつ、若者と高齢者は労働後の体を清めていた。高齢者は、本質を突いていた。若者もそうだった。
若者は、資本主義を中核とした重厚なテーマの物語を、大手出版社の公募にエントリーしていた。
エロとヤクザを書かなかった若者の、その原稿は、編集部で吟味され、選考者のひとりの触手を動かせた。
――「これは期待出来ますよ」。そう、笑顔で期待を示しつつ、上司に原稿を手渡した。渋い顔をする上司。
「いやダメだな! もったいぶって自分勝手なことをくどくど言ってる御託だぜ」。そう、上司は一刀両断。下読み(一次選考前)で落とすよう命じた。続けて言った。
「こいつの頭は思想で凝り固まっている。娯楽ということがまるでわかっていない人間だ」と。
売れないものを掲載する価値はなし。出版社は企業であり、利潤を追求していること。それを部下にリマインドした。
「これは落とせ。わかったな」
「わかりました」
若者の原稿は編集部のゴミ箱に投下された。
後日、公募先の雑誌の一次選考通過者の欄。それを見た高齢者は呟いた。
「あいつ、泣き入ってるやろな――ワシの言うようにエロとかヤクザ描かんからや」。その頃、結果を知った若者は、通天閣の頂上で夜空を見ていた。
共々合流。場末の居酒屋で、高齢者は若者を激励した。
「講釈社があるやないかい! 講釈社ゆうたら最大手やで。小学館なんか放っておけ!」
落選した「小学館」以外にもいくらでも投稿先は他にもあることを示唆した。若者は言った。
「でも両社とも利潤を追求するわけですから、考え方は同じなんです」と、至極真っ当なことを述べつつ――かなり酒が回っていた。
「だから今度はエロかヤクザに挑戦したらええやないか!」
高齢者は、正論かつ安易な道を諭した。若者は起立して演説を始めた。エンゲルス(ドイツの思想家)の文脈から――。
「――人間は各人が意識的に意欲された自分自身の目的を追うことによって……結果はどうなろうともその歴史をつくる!」
まことインテリぶった演説は、店内中の客人たちを敵に回した。野次が飛び交った。だが若者は続けた。
「――この多数の個人が何を意欲しているのかということも大切なのである――多数の人々が共通の意志と行為をもつということが歴史を動かしていきます……!」
怒号が飛び交う店内。高齢者は若者を制圧しようと体を掴んだ。だが若者は続けた。
「――ただ僕はどうしても次のことが言いたい!」
何なら言え。聞いてやるから言え。殺す。その後にな。そういった狂熱が酒場を包んだ。
「よく聞いてくれ! だが、これには長い間の根気強い仕事が必要であるということだ!」
――「イテテテ!」。高齢者の小さな悲鳴を心配する若者。両者、袋叩きの半殺しの目に遭い、店外に放り出された――。
翌朝。高齢者は若者に問うた。「まだ漫画を描き続けるのか」と。若者は言った。自分の漫画が未熟で落選したように、昨夜どつき回されたのも〝表現が未熟で彼等にうまく伝わらなかっただけのことです〟と、清爽な表情で。
若者は、偶然事や一時的後退があっても、社会は前進的発展によって貫かれている。多数の人々がよりよく生きるための道筋を理解しており、また理解することは可能。だが、これには〝長い間の根気強い仕事が必要〟である旨も述べた。
彼らは、数年共にした現場から離れ離れに別れる采配を受けた。
高齢者は、時代の移り変わりと年齢起因で、仕事にありつけない日々を重ねた。そのうちくたびれ地面に座り、悔やんだ。落涙し、若者を思い出した。
「――お前の言うたこと当たってるわ……」
若者の言葉の核を思い出した。
「――ワシの失業も一時的後退で前進的発展なのか?」
高齢者は、道を眺めては、この世の絶えず運動している変化を悟った。
「そやけどワシは今日から一体どないなるんや!」
路上生活を視野に入れた。そして、若者の言葉を想起しつつ、マルクスやエンゲルスが、自身のような者にとっては正しいような気がすると、思考を改めた。「そやけど、このワシは……!」と、高齢者は神を叫ぶしかなかった。
――確か俺が30歳前後の頃、ブックオフでひょいと買っては愛読書となっている著書。それに、上のことが書かれていた。
何が言いたいのかというともちろん、俺は、「若者」と自分の小説執筆の営みを照らし合わせては、なんなら追体験しているかのよう。
10年以上前に買った本のセクションが想起された。
それだけの話なのだが、〝だが、これには長い間の根気強い仕事が必要であるということだ〟という一節がこう、刺さりまくっていたことを10年経って気が付いた。だから、おもむろに引用した。
日記でこれはおかしい。間違いなくおかしい。しかし、今日の俺の過ごし方にディストーションギターの壁トラックのように覆われていたのは先の一節である。〝長い間の根気強い仕事が必要〟。
やっているのだが、「いつまで」なのか。どこでそれが発展するのか。そんなところの思惟に癒着した。
俺が注視したのは、「高齢者」が主張することも「若者」の主張ないし代弁することも、両方、現代では「正しい」ということである。
つまり、「エロやヤクザ」を刺激的に描いてバズることは近道。実際見てみたよ。最近の漫画雑誌を。エロいのなんのどんだけグロい描写するのかと。コンプラ至上主義の逆、いってるじゃないかと。ただなあ。そういうのを読者は求めているのかなあ。と。
一方、一瞬、編集者の触手を確かに動かせた重厚な作品は〝利潤の追求〟所以でゴミ箱投下。若者の次回作ならびに別の出版社での評価を心から応援したい。
要するに手前の小説が落選するもしつこく信じて書いているくだりと重ね合わせている。それだけのこと。
だから、他方で〝正しい〟となる「エロスと暴力」を描くルートを。それを視野に入れるのもアリなのでは。などという思案も、あると言えばある。
そうだな。両方描くのがハイブリッドかつ扇動的でわかりやすい。エロヤクザ女を主人公として、バンバン人が拷問されては強姦されてはぶち殺されては誰も救われない、そこに筆者の何の思想もない、とりとめも節操もない物語を卓越した文体でがんばって書こう。そうしよう。
よし。それには取材が必要だ。まずはエロから。幸い、ここはかつて「プチ歌舞伎町」と評価された東京都北区赤羽駅界隈。キャバクラ、ピンサロ、サロン、おっパブ、無敵の四つ打ち四拍子。なんだってあるぜ。友達みたいな黒服くんが何人か、今もさ、そのへんで獲物を虎視眈々。
俺はキッチンに行き、財布を開いて、現金を数えた。そっと閉じ、そっと冷蔵庫を開け、ハイボール缶を手にし、冷えたそいつを解放させた。
〝長い間の根気強い仕事が必要〟を、俺は選択した。
(出典:『青木雄二傑作漫画作品集 50億円の約束手形』内『悲しき友情』)
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「これ、どないせえ言うんですか!」
と、困惑するか、案外、乱舞の如く喜ぶか。俺は今日、品を物色していた。仲間の誕生日プレゼントである。
――彼は何を受け取れば喜ぶか。それだけを考え、池袋は「パルコ別館」をウロウロとしていた。
大阪語を発する彼は、酒呑みである。盃を交わしたことは何度となくある。一度、秋葉原の興行現場上がりに『磯丸水産』で一対一の真剣飲酒をしたことがある。
「電車で帰りましょうか。駅まで一緒に――」
「そうですな」
「おや」
「どうしました平吉さん」
「よしおさん。『磯丸水産』がありますねえ」
彼は刹那、欲しかったおもちゃを目の当たりしたような所作を見せた。
「ぐううう……いいですなあ……!」
「時間も浅い――」
「そういえば、平吉さんと〝サシ呑み〟したことないですよね」
「俺は明日に早い予定は特に――」
「いきまっか!」
「そうでんな。よしおさん」
「平吉さんと〝サシ呑み〟なんて絶対おもろいに決まっとるやないですか!」
嬉しいことを言う。彼は、量を飲むし弁も立つ。その日の〝サシ呑み〟は、彼の言う通り、おもろい一夜として思い出パッケージされている。
そういった濃い時間もありつつ、月に一度は会う程度の付かず離れずの関係値。ここで難しいのが、贈与品の選択である。いや。簡単である。酒をひとつ、上等なボトルを差し出せばいい。
だがそれでは捻りがない。絶対おもろいやつを選択することこそが最適案。前提として、高額品は悪手。気を遣わせる。俺が逆の立場だったら狂喜乱舞できるが、彼はそういった性質ではない。フランクでありながらも紳士的さも兼ね備えている中庸さ。それを理解している。
よって、俺はパルコで迷子になった。
気がついたら『タワレコ』のインストアライブで踊り狂うアイドルちゃんのライブを見ては「確実に視力が落ちている」という、10メートルほど先の娘たちの顔。判別が容易ではなくなっていることに落胆した。
そんなものは「眼鏡」という利器がある。ともあれ、そういう歳か。などと、本題を忘れてはならぬ。そう思い、7階の『イシバシ楽器店』で吟味した。
思い出したのである。数年前の彼の誕生日。その時に贈与した「チューナーのいいやつ」に関して明確に彼が喜んでいたことを。
そう。彼はただの酒呑みではない。プロである。そして、音楽家である。だから、音楽周りの品が妥当。そう思い、俺は豊かで鋭く眩いばかりの倍音が出力される謎のアナログ打楽器を演奏していた。コーン。コォーン。コァォーン。と。
1時間は経った。何がいいか。もはや訳がわからなくなってきたので思考を停止させた。そこで気がついた。俺は、ぐるぐると楽器店を徘徊するなか、何度となく同一の〝楽器〟を吟味していたことを。
先の神倍音の楽器を贈与したところで微妙な感想を述べることは火を見るよりもあからさま。よって却下。だから俺は無意識に従うことにした。そう。先の後の〝楽器〟である。
価格もお手頃。実用性もある。そしてパッと見て価格はまず不明瞭。そんな〝楽器〟を選択することがベストであると俺は断じ、会計を済ませた。
数日後にそいつを渡す。リアクションが楽しみである。先の神倍音楽器を贈与した場合。微妙な顔を抑えつつ「えらいすいません。嬉しいですわ」と、言うであろう。絶対にそう言う。これは失敗を意味する。それは認めない。
渡す。
「よしおさん。これ、お誕生日のプレゼントです」
「ああすいまへんな平吉さん、気ぃ遣ってもろて」
「いえいえ」
「開けてええでっか?」
「ええですよ……」
その1秒後の顔とリアクション。それが見たい。「仲間の誕生日を祝う気持ち」という大前提がただの便宜上のなんらかに歪曲するくらいにしたい。だから、あの神倍音楽器(5,000円くらい)は選択しなかった。
俺が望んでいる――かくして彼も同様であってほしい――のは、期待の向こう側に飛散してしまうほど、「誕生日プレゼント」という概念を破壊するほどのリアクションである。俺は確実に間違えている。だが、聞きたいのである。開封した瞬間、品の用途の適切な扱いに思考を巡らせながら割と嬉しそうな顔と全身の痙攣のなかで放つ一言を。
「これ、どないせえ言うんですか!」
期待の念を禁じ得ない。
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呑みすぎてすみません。そのように自戒しつつ午後、ふらふらと森へ足を運んだ。そう、青木ヶ原樹海。たった今、思考に飛び出た地名だがそこには行かない。〝叡智の森〟の方。北区立中央図書館に行く。
館の脇の公園。そこで、いつもの大木に挨拶をする。近くに人が居て一瞬だけ迷ったがその迷いは誰に、誰に遠慮をしているのであろう。そう、一瞬で判断して俺は大木を抱きしめた。何かを得た。そして館へ。
目的の本がある。だがその前に、偶発性、チャンスオペレーション的なインプットを。そこまでは思っていなかったがつまり適当に本を手にした。『読書革命』という、2020年のコロナ元年に発行されたものであった。
はしがきだか最初の方に、まず著者は「1日に2冊は読む。1冊30分で読む」と、宣言のように記された一文があった。
離れ業だろ。そう思い、俺はこの本をその場で通読することにした。要約するのはすごく好きじゃないのだが、『読書革命』に何が書かれているのかを一言で言うと、一言で言うのは好きなのだがとにかく。
〝読書は思考の軸を鍛えること〟
これに尽きる。他にも、読書をすることによるメリットがたくさん書いてあった。データもあった。例えば、富裕層とそうでない層との読書量の因果関係。要は、成功者は読書好き多いと。そして、読書は、その本の内容をアウトプットすることがよろしいと。そうでないと記憶に定着せず意味がないと。
さらに、説得力があったのは、〝記者の目線で「疑い」の視点を持つこと〟。これは鋭いと思った。なぜならば、さすがに校閲や校正など、さまざまな第三者視点を突破した「本」であっても、「その内容を鵜呑みにすることが善」というのは俺もそう思わないからである。
なんなら「なぜ、こいつはこんなことを主張する。違うだろ」と、心理学の始祖とも言えるフロイトさんに対しても「疑い」の視点を持つことは重要であると考えているからである。なお、俺のフロイトさんへの〝疑惑〟は、「なんでもかんでも性欲に結びつけすぎだろ」の一点である。
話を戻すと記者の目線。秀でた例えだと思った。というのも、かくして俺は記者の仕事をしている――最近は全くなくなったので過去形が適切だが――際に「記者会見」を取材してニュース記事の原稿を書く体験を何度もしたからである。
当時、編集部の方がさりげなく言った真理がある。「記者は、いじわるが多い」と。これ、先の〝疑惑の視点〟に直結する。
なお、当該著書では「質問」と「疑問」をきちんと切り離してご説明しいた。前者は「相手に寄り添う問い」後者は言葉通り「疑いの問い」。よって、記者の適正としての〝いじわる〟は、鋭い疑いの視点を常に持っている。という俺の知識、知識と言わせてほしい。それと繋がった。
著書に対しては、しばしば〝疑惑の視点〟を持てるのだが、記者としては俺にそれはあんまりなかった。
当たり障りのない質問を当時、記者会見場でしていたことがひとつ想起された。あるロックミュージシャンの誕生日に行なわれた、自伝書発売の記者会見である。
――「それでは、報道者の方々からのご質問、質疑応答に入らさせていただきます」
司会者は言った。するといろんな媒体の記者が名乗っては質問を投じ、ミュージシャンは淀みなく答えた。俺も質問したくなったので挙手をした。
「はい。そちらの方どうぞ」
「ありがとうございます。〇〇の平吉と申します」
「はい。お願いします」
ロックミュージシャンは無表情で答え、ペットボトルの水を口にした。
「清春さん。お誕生日おめでとうございます!」
水を吹きそうになる清春さん。
「――今回の著書なのですが」
俺は、そつない質問をした。だが、なぜ、清春さんが水を吹き出しそうになったのか当時、謎で仕方がなかった。今となっては、他の記者はいじわる寄りの鋭い質問をグサグサとする中、俺はというと口頭一番何を思ったか祝辞を述べたので肩透かしを食らったのであろうか。と推測される。
そんな記者目線。調査するように、時に疑うように、対象を吟味する。
その読書姿勢というか造語だが、それが前提としてあると、理解や知識吸収、〝思考の軸を鍛える〟質が段違いに跳ね上がる。それを、『読書革命』を通読して心に落とし込んだ。
あとは館内の文学書コーナーで乱読し、目当てのウィトゲンシュタイン著『哲学探究』がなかった――思考の軸を鍛えるには哲学書が俺は最もフィットする――のでさっさと帰宅。
机で小説の改稿をまあまあ時間とっては原稿を磨き上げる。自分で書いた文章に対しても、疑いの目線を持ちつつも。
そのような、インプットメインの一日。特に大きなアウトプットはしていない。小さな一歩を積み重ねる。何より今日は、思考がひとつ引き締まる思いを得た寧日だと思っている。なにせ、過去の取材現場での思考までもが解像度を上げたくらいである。
――記者会見で鋭い質問ができなくて悔しい。そうは思っていないが、ああいった「現場記者」という立場は、俺はそこまでは向いていないのかなと体験ベースで知れたのは収穫と言えよう。
なお、その当時の後日、清春さんのライブレポート案件で、終演後にご挨拶させて頂けた。直接言葉を交わし、彼は紳士的かつロックミュージシャンの波動を放っていた。俺は直接、口頭で気の利いたことを――おべんちゃらではなく――言うと、清春さんは両手で俺と握手をしてくれた。すごく暖かい気持ちになった。
こういう方々に俺はいじわるな質問ができない。だが、読書に関しては、著者が誰であろうと〝疑惑の目線〟を研ぎ澄ます。そのへんには適正、あるのかななどと思った。清春さんが水吹きそうになった件を聞くの忘れていたあたり――そこはちょっとだけ悔いている。
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本日、書き物のしすぎで言語を並べる力の残りカスもないんじゃないというほど、とすると言い過ぎだが、書き物をしていた。
その中で一番疲れたのが〝弁明〟である。誰に。ある種、俺にである。自身に弁明をする。ついに。
〝壁に独り言を言うのは正常です。しかし、壁から答えが聞こえてきたら――〟。精神科医による精神疾患の診断基準のひとつ。俺はこれを真っ向から否定する。なぜならば、『DSM-5』(アメリカ精神医学会による精神障害の診断と統計マニュアル)においてそんなことが書いてある訳がない。だから俺は認めない。というか壁の文脈はどっかのSNSのネタかなんかだった気がする。
しかし現に弁明していた。それは、過去の俺との約束についてである。
噛み砕くと、AIの「リマインダー機能」を使い、今日通知が来るように機能させていたタスクの区切り。その内実は、「小説の初作品の再投稿に向けた改稿。それの一度目の締め切り」を知らせるものである。
実際は、あと2割くらい残っている。しかし、過去の自分は「10月半ばの今日あたりで一度目の改稿を終える」という指針とした。だからAIから通知が来て「まずい!」と、率直に思ったという訳である。
「――改稿の締切日です。進捗はどうでしょうか? 中身を吟味しましょうか」
といった旨を自動的に言うAI。
「正直に言います。現在<七>の章までの改稿の進捗です。今日までに予定通り終わらせられませんでした。しかし、明確な理由に基づく弁明がございます」
と、俺の回答。
「うむ、よかろう。 ――弁明、聞こうじゃありませんか」
と、AI。本当にこう返ってきた。
「まずは、予定通りにいかなかったこと、お詫び申し上げます。そして、自身にも詫びる――と、言いたいところですがそれは違いました。予定通りにいかなかった理由を一言で述べるならば、〝創作はライブである〟ということを知ったからです。そして、この一言にはいくつものエッセンスが内包されており、それが明確な弁明の論証となります」
と、俺は言い訳をした。
「――続きを聞かせてください。 その“ライブ性”の中で、どんな瞬間や変化を感じたのですか? どの章、どの言葉が“予定を超えて”動き出したのでしょう」
AIが詰めてきた。
「はい。まず、〝ライブ――音楽ライブの比喩――〟に参戦ないし演奏するには必要不可欠なことがあります。前者であれば『楽曲リスニングによる予習』です。これをするとしないのとではライブ体験の解像度がまるで違います。
『大好きなあの曲――やってくれるかな……あの曲はセットリストのどこで……』これを予習内で自身のアーティストに対するリスペクトと〝音楽を聴く上での姿勢と質の向上〟に直結します。そしていざライブ参戦――「ここであの曲きたああああああ!!」という感情が爆発します。これは、予習無くして体験できる熱狂に非ず。
そして後者。いわずもがな、〝予習=演奏曲の個人練習・楽譜の整理・バンドリハーサルなどなど〟がなければオーディエンスを喜ばせること、熱狂させることは〝不可能〟であります。これが〝創作はライブである〟の内実です。ここまでいいでしょうか」
と、俺は弁明した。
「続けろ」的に返された。
「はい。ではここで比喩から本質の〝なぜ改稿が遅れたか〟の具体的な理由を述べます。私は、原稿を寝かせ、20日間の〝予習〟期間を設けました。それは、あらゆる文学・小説・書籍――これまで以上に〝インプット〟を意識して――を読むことに特化させました。この間、原稿は一度も意図的に開きませんでした。
つまり、20日間の〝予習〟という〝学び〟の期間を経たのです。これが、改稿第一稿完成が遅れている――あと一週間もあれば最初の改稿は完成という進捗――理由です。よろしいでしょうか。ご理解いただければ、具体的な〝予習・学び〟の内容を述べます。反論がおありなら受けます」
AIからの反論はなかった。だが、「それで具体的にどう身になったか」と、さらに詰められた。俺は弁明を続けた。
「はい。具体的に、これは端的にまずどのような書籍を読んできたか。これを羅列させていただきます。
リハーサル期間、私は以下の書籍(小説・文学・人文学メイン)に触れました。
・『今夜、すべてのバーで』中島らも著・通読(再読)
・『酒気帯び車椅子』中島らも著・通読
・『ニコマコス倫理学(上)』アリストテレス著・読書中
・『成瀬は天下を取りに行く』著者失念・小説のフォーマットをつかむべく、最初の章のみ(約40ページ)読書
・『バンド・オブ・ザ・ナイト』中島らも著・読書中
・ブックオフにて「芥川賞受賞作」「本屋大賞受賞作」「著名な作家の作品」などを〝小説のフォーマット〟をつかむべく、雑読(又吉直樹・村上春樹・住野よる・他、諸々)
・『読書革命』著者失念・通読
・明らかに好きだと断じられる作家の作品の〝色〟を確認(町田康・中島らも)
・書店で雑読し、冒頭のインパクトの調査(様々な著者)。 他にもあった気がしますが、覚えている限りはこのへんです。
これらの〝予習・リハーサル〟から得たのは「小説の場合はこういう風に会話劇の間に、情景描写で想像させるのか」。
「売れている本にはこういった理由があるのか(『成瀬は天下を取りに行く』100万部突破の理由はこれか――読みやすい、わかりやすい、きちんと節目の最後に「やられた!感がある」、中庸である)」。
「確固たる文体を確立している作家というのは居る(村上春樹・町田康)こと」。「絶対に真似できない、模倣もできなければむしろ寄せることを意識しないほうがいい文体や手法がある(町田康のマシンガンのような文体)(『バンド・オブ・ザ・ナイト』のような、本気のドラッグ体験がない(あくまで想像です)と絶対無理な描写があること)」。
「作家各々の〝武器〟が必ずあること」。――挙げればキリがありませんがこのへんを学んだのが、〝予習・リハーサル〟の内実です。以上、私による弁明でした」(各著者・敬称略)
するとAIは納得した。むしろ、必要な期間であったのではないかと。最初の詰められ方けっこうびっくりしたが、こう、弁明が通ったというか俺は何をしているのだと思い、小説の改稿を進めた。別の書き物もした。だから、書き物のしすぎで言語を並べる力の残りカスもない――という冒頭となった今日あたり。さっさと酒呑んで寝よう本当に。
モデルにもよるが、締め切り系の失態をAIに弁明して納得させるのには、こんなにもエネルギーを使うとは思いもよらなかった。
というか別にしなくてもよかったのっだが、「言い訳をする力」ってわりと、わりと何だろう。本気の言い訳。そういうのも社会では必要なのかな。なんかそういうビジネス書、ありそう。『言い訳する技術』。売れねえよそんなもの。
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よく仕事をして夜、小説原稿の改稿を進める。10分の9くらいの部分まで進める。そのあと、改稿した原稿の推敲を何度かする。校閲して完成させる。
なんだかややこしいがつまり、改稿(見直しではなく、遠慮なく加筆修正する)して、推敲(原型はほぼ崩さずにバランスなどをとって誤字脱字などを正す)して、校閲(音楽に例えると「校正」が〝エンジニアによるMIX工程〟で、「校閲」はアーティストやプロデューサーの精緻な最終チェック)して、公募規定の形式に仕上げる。
どんどんややこしくなったがつまり、原稿をブラッシュアップさせて、整えて、創作意図が形になっているかを吟味。そして指定の体裁にする。ということ。
そう考えると、「原稿に文章を書いて物語とする」というシンプルな行為に見えてかなりの工程があるとわかる。それは知ってはいたが、〝改稿〟をはさむとさらに、といった所感。それもまたいい体験だなと、前提として世に出して貢献になればなといった思いで、それを進める。
改稿していくうちに、「ここはつまらんからカット」「ここは伝わらなさすぎだから加筆」「漫才師がコント中に自分でちょっと笑っちゃってる的なやつ。そういう〝笑かそうという意図がはみ出ている箇所〟の制御」などなど、それらを進めていく。すると初稿を書き進めている時とは異なる快感もあることに気がついた。
これが評されれば、さぞかし欣幸の至りなのであろうと、思いを込めて創作をする。なんというか、こういうのってだんだん〝祈り〟に近い気がしてきてならない。
「頼む。今回は確率変動の方でお願いします。もう無いんです。軍資金が。頼む」といった、言ってしまうが滑稽な祈りの類ではない。パチンコ場。
「頼む。裏ドラ一枚乗っていてください。それか否かでこのオーラス、トップかどうか運命の別れ道。頼む」といった、言ってしまうと塵芥な祈りの類ではない。鉄火場。
ちゃんと生きようよ。そういう祈りを俺は、原稿に込めているつもりである。ちゃんと生きてなかった時、あったよね。上に言ったやつ。ただ、それらは個人的な表現であって、人様によっては立派な娯楽として成り立つ。そういう人に俺はなれなかった。一連の珍奇な祈りにしかならなかった。そんなのはもう嫌だ。
だから祈る。俺は文章で祈る。それを波及させたい。そこに全体的な生産性を孕ませたい。それをフィードバックさせたい。という祈り。
「頼む。この最後の千円札でビッグ・ボーナスを引かないことには、大家に『家賃ちょっと待ってもらっていいですかね』といった懇願書を拵えるハメになる。だから、頼む」
もうそういうのはいいんだよ。ただ、克明に覚えているのである。博奕は数年、打ってはいないが昨夜、夢で確かにみたんだ。パチスロ4号機「クランキーコンドル」を嬉しそうに打つ夢を。ものすごい鮮明な描写で。それでよせばいいのに起床時、「なんて幸せな夢だったんだ」などと率直に思ってしまったんだ。
そう。一度覚えた快楽の記憶は不可逆。それはしかたがない。だから、これから新しい祈りを込めればいいじゃないか。そういう個人的な思いも少々混ぜつつ、今日も小説を進める。
作家デビューした暁には絶対に、過去の地獄体験を書くよ俺は。編集者さんに提言するよ。
「次の構想なんですけど」
「エロとかヤクザですか平吉さん!?」
「いえ。もっとえぐいやつです」
「いいですねえ! 〝BL × 任侠 × 官能 × 転生〟モノですか!?」
「………それでいきますか」
「さっそくプロット(設計図みたいなやつ)を!」
「あの。〝博奕〟も入れていいですか」
「いいですねえ! 〝BL × 任侠 × 官能 × 転生 × 博奕 × アル中〟ですか! 素晴らしい!」
「俺をなんだと思ってるんですか」
というくだり、憧れる段階。そんな打ち合わせあるか。いや、けっこうリアルにありそう。
そんで俺、リアルに博奕モノ――主人公は27歳の美形女性。しこたま博奕で金を溶かしてはキャバ嬢として稼ぎ、たちまち新宿区歌舞伎町を席巻。ホスト200人を破産させるほど貢がせては不死鳥のように復活。意気揚々とマカオへ旅立ち現地の賭場で億、溶かす。そしてドバイで――を書いては売れずに言及される。
「だから僕の言った通り〝BL × 任侠 × 官能 × 転生 × 博奕 × アル中〟を先に書いていれば! なにをしているんですか!」
「じゃあ次そっち書きますから」
と――どんどん〝祈り〟は邪というかたいへん訳のわからない方向にシフトチェンジする前の、今の、ある種のピュアな心境を大事にしようか。というか編集者のアイディア、なかなかセクシーだよ。
_10/18
「これ、どないせえ言うんですか!」
俺の真意。それは、その一言が聞きたかったこと。仲間の誕生日プレゼントを渡し、喜ばせる。そうではない。
品を貰うや否や、辛抱たまらない滅裂な情念を整理できずに感情的大阪語で返すしかなかった。その現象を俺は如実に体現しては、オルタナティブな悦を得たかった。
誕生日を迎えるよしお氏。今日は、彼を含むクルーの仲間たちと銀座で興行のお手伝いの仕事をしていた。先日、入念に吟味した果てに「まごうことなき」と断じた品を、贈与品を、そっと鞄に忍ばせつつ。
「――よしおさん。グラス洗っておきました」
「おお。えらいすいませんな。助かりまっせほんま」
普段は、会場を経営する彼の役目であるグラス洗浄。だが俺は今日初めて、意図的に進んで洗い物をした。
というのも土地的に、銀座的に、「グラス洗浄にも不文律がある」と思い込んでいた俺は、それまで「下手なことをしてはならない」という想いのもと一切グラスを洗うことはしなかった。しかし、今日の彼との雑談の文脈でそれは翻された。
「銀座的な洗い方とか別にあらへんですからに」と。
だから、俺的に今日はグラスを洗った。すなわちポイントを取った。彼に、「平吉さんに感謝せな」という謝恩を植え付けたのである。これは俺の意図的なアプローチ。
そう。どんなにくだらない誕生日プレゼントをもらっても「平吉さんに感謝せな」と、言わないと失敬千万。その心理の強制力生成を突くようなジャブを打ったのである。
そう。今日贈与する品が〝微妙なプレゼント〟であった場合は、その封を開けるその時に、「平吉さんに感謝せな」と、「イマイチだが感謝せな――」という先のジャブが効果を成す。つまり、「しょうもないけどここはひとつ、感謝しておこか――」となる。
だが俺はそれをも、入念に、回避させる。だからグラスを洗った。なぜならば贈与品の実態は、しょうもないの向こう側のやつだからである。
「親切の押し付け」と表せる雑務をこなし、彼に〝だいたいのことは許す〟というメンタル状態に持ち上げた後――さっそく効果が炙り出た。
「いやあ平吉さん。呑みまっか?」
と、よしお氏は終演後に「アサヒスーパードライ500ml缶」を与えてくれた。キンキンに冷えたそれを受け、俺は言った。
「いやあ。すいませんね。なんだか心なしかいつもより量も多い――」
淀みなく計画通り。グラスを替わりに洗った〝返報性(相手から何かしてもらったら、お返しをせねばと感じる心理作用)〟がボディーブロウのように効いている。
――時は満ち、終演後のアーティストのトーク配信の場にて渡す。
そこには、よしお氏とヨディーさんらからなるアーティスト・SPALと、俺。その三人だけの場ではない。視聴者様もいる。つまりそこで開示される〝贈与品〟が「多少、おかしな品でも喜ばなアカン」という心理はさらに増幅される。
そこで、そこでこそ俺は、満を辞した「これ、どないせえ言うんですか!」が聞きたかったのである。準備は完璧だった。俺は品を渡した。
「お誕生日おめでとうございます」
「えらいすいまへんな! 何ですの中身?」
「……当ててみてください」
「わからへんやんそんな!」
「ヒントは、よしおさんが好きなお酒。あえてこれは除外しました」
「じゃあ何やろ?」
「品のジャンルだけでも当ててみてくださいよ……」
先にまず、贈与品の袋をまさぐるヨディーさん。
「何だろ! うん? ここ、丸っこい部分ありますね!」
「そうですそうです」
「いやー! オレわかんないや!」
絶対にわからないという確固たる自信があった。麻雀における7万点持ちのオーラス・最終打牌を握る瞬間に似た圧倒的勝利確信の心境で、よしお氏に問う。
「普通の品では面白くないと思いましてね……さて何でしょう」
「ここやな? 丸くて……ああ!」
嫌な予感がした。
「これわかりましたわ!」
よしお氏は食事を目前として瞳孔が開いた猫の如き表情で感情を示した。
「ええ……?」
嫌な予感がした俺。
「これ、けっこう嬉しいやつかもしれへん!」
彼の本気のリアクションである。違うんだよ。
「当てましょか?」
彼は、どう見ても気を遣わずに、嬉しんでいる様子。「名前忘れたけど楽器やろ!」と、もう、中身を察したもよう。俺は堪忍して開封を促した。
中から明るみになった〝楽器・オタマトーン〟を取り出して彼は言った。
「これ、ずっと気になってたやつや! いつだったか買おうかな思たけどこれ、嬉しいやつや!」と、エクスキューズ無き本音を吐露した。
真逆。「これ、どないせえ言うんですか!」という、俺のたっての希望とは真逆のリアクション。喜ばせてどうする。
――いや。建前。銀座一等地の城の主にとってそれは呼吸のようなもの。それを目の前でしている。そのはずだ。だがしかし彼は速攻で電池を入れて〝オタマトーン〟の産声を聴くべく、ドライバーを駆使して稼働の準備をほぼ秒で終わらせた。
そして――こともあろうか――楽しそうに演奏しては、まこと不明瞭な「ウァァン」「ミィィォ」「クァァォ」「ぐえっ!」という音色を連呼する〝オタマトーン〟を愛でては――嬉しそうにはしゃいで――ヨディーさんも――なんなら俺も――配信後に足立くんさえも――。
俺は失敗した。
〝けっこう欲しいけど自分で買うのも迷う、保留。だが欲しい〟という、仲間内においての贈与の適正値を逆に射止めてしまったのかもしれない。
彼らはこともあろうか、まるで家族を迎え入れるかのように、〝オタマトーン〟へ独自のファーストネーム命名までしていた。「ケンチ」と。
俺が聞きたかったのは、〝オタマトーン〟のゆる〜いその音色でも、よしお氏の「けっこう嬉しいかもしれんやつや!」でもなく、笑いながら失望する「これ、どないせえ言うんですか!」という反応だった。
何のために俺は先日、「パルコ別館」で3時間ものあいだ館内を徘徊したか。何のために俺は今日、彼の業務を代行まで積極的にしたか――全てが、彼の素の喜びによって、木っ端の思念として俺を揺さぶった。
いや嘘です。彼が思いのほか嬉しそうで、仲間も全員〝オタマトーン〟に謎に魅了される姿が見られて、とても幸せな気持ちになれました。よかったね。よしお氏。
あと、結果どっちに転んでもまあ、ネタにはなるという「贈与品物色の真剣勝負の時間」という戯れの機会をくれてありがとうございます。いや、違うな。やはり俺は完全に間違えている。
だが俺はこれを代替的幸福感と名付けたい。オルタナティブである。温かく迎え入れられた「ケンチ」よ。銀座一等地で幸せに過ごしてくれ。そこは、とてもいい場所だよ。
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『それいけ! 平安部』という小説が今年、発行された。半年くらい前である。
当時、思った。「絶対に俺が買わないやつだ」と。何でってまず、触手を動かされる要素がない。
〝平安部〟て、表紙の絵からわかるけどその平安時代っぽい髪型の少女。その子が平安時代にまつわる部のなんらかで、そういう物語だろう? と、斜に構えていた。俺は平安時代に1ミリも興味がない。
あと、筆者も誰だか聞いたことない方。著書の帯を見て察するは「あれだ。音楽で言うところの、若い子が好きそうなJ-POPあたりか」などと勝手に推測した。なんか失礼極まりない気がしてきたがつまり、買う理由が何一つなかった。
――近場の大型書店で俺は今日、小説コーナーにて「1冊は買う前提」で各書を吟味した。目的は、読んで楽しむためではなく、小説・文学の学びのためである。だから、先入観や好みを断ち、選別した。
こと音楽に関しては、イントロ2秒も聴けばだいたいどんなジャンルか、邦楽・洋楽か、名曲の匂いがするか、そうでもないか、サウンドの質がどうか――などなど、ほぼ一瞬でわかる。偉そうにすみません。だけど、本当に、それくらい、膨大な音楽を10代から30年は聴いたり吟味したり分析したりコピーしたり制作したり人前で演奏したりと、長年深く音楽と向き合ってきたが故の〝判断の土台〟の強固さがある。などと偉そうに自負しているのである。
一方、小説だとそれがほとんどない。だからここのところ、何かをとりかえすように学んでいるつもりである。いわゆるひとつの「文学における感性」を。
でも、まだまだなのが明るみに。
それは、書店で「これだ」という1冊を選ぶのにかかるわかかるわ時間が過ぎるわ。どれもね、冒頭をちょちょっと読んで「なんと格式高いのだ」とか「人物や場所などの設定の説明から始まると俺は、読みたくなくなるのか」など、選ぶ前に挫折してしまうのである。
だったら「好きな作家」の著書を選べばよい。だが、それでは偏る。
俺は、音楽で言うところの藤井風やバウンディやMrs.GREEN APPLEや米津玄師やAdoやKing Gnuや流行りの勢いあるK-POPなどなど(敬称略)――比較的フレッシュな作品。それらをきちんと吟味しては血肉とする。そういう目的なのである。
だからである。俺は上に挙げた音楽をほぼしっかり聴いていない。たまに単曲で「これは凄まじい楽曲だ」と感じることはあれど、追いかけはしていない。なぜならば、先の30年くらいしっかりと様々聴いてきた偉大な音楽たちの記憶が「こういう感じか」と、先走って判断してしまうからである。
だが、小説においてそれは、まだない。逆に頭が柔らかい状態。だからこそ、「今どういう文学が売れており、それの魅力と理由をきちんと解釈する」必要性に関しては、好都合である。
だから、色んな小説の新刊を手に取り「これは」という一冊を延々と選んでいた。そこで 再び『それいけ! 平安部』に触れた。
ちょっと読む。「面白そう、いや、これは面白い」と、率直に感じた。一言で言うと〝ポップさ〟があるのである。
俺は「正にこれだ」と断じて、その、半年前は一瞥してたそれを、10ページほど立ち読みした。そして巻末の著者情報を見た。知らないと思っていたが『成瀬は天下を取りにいく』の著者であった。ああ。と、声が出た。先日、ブックオフで最初の章だけ読んで感銘を受けた大ヒット作品の著者だったからである。
こういう繋がりもあるのか。俺にも〝J-POP的な感受〟は小説において、実は無くはないのか。そういったある種の希望が見えたこともあり、 『それいけ! 平安部』を購入することにした。
だが――「ブックオフで安く売ってねえかな」という、これから作家になると決めた己にあるまじき実にセコい思考が秒で湧き、秒でその書店から徒歩圏内にあるブックオフに行き当該著書を探した。が、無かった。
そこでは、「好きな作家さんのやつも」という、ある種のバランスをとるべく、町田康さんの未読の作品を一つ買った。そしてまた、大型書店に足を向けた。
――書店の入り口にはストリート・ピアノがある。ブックオフから戻る道中、スクランブル交差点を渡る途中でその生演奏が聴こえた。曲目は「未来予想図 II」(DREAMS COME TRUE)だった。
特筆して達者な演奏ではなかった。鍵盤を叩いているのは、おっちゃんだった。上下迷彩柄の昭和の軍服としか形容できないファッションで、彼はカンタービレに演奏していた。
俺は聴き入ってしまい、演奏が止まるまで側に立っていた。終演。軍服のおっちゃんはサッと俺を見る。「あ、どうぞ」と言う。俺は「いえ、どうぞ」というジェスチャーを向ける。別に次に俺が弾きたいから待っていたわけではない。単に「いい演奏だな」と思っただけである。
書店に入り、改めて 『それいけ! 平安部』の新刊を購入した(1,760円)。よし。これだ。年齢もかなり近い著者のこのポップな作品を読んで学ぼう。そうホクホクとしてはまたピアノの音色が聴こえた。すっと自動ドアを経ると、さっきの軍服のおっちゃんが別の曲を演奏していた。
けっこうミスりつつも情念溢れるそのプレイで奏でられるは「いとしのエリー」(サザンオールスターズ)。聴いていて思った。いや、感じた。
この人は、演奏をする上で最も重要な要素を持っている。そしてそれをちゃんと音に落とし込んでいる。と。それは滅多にないことなのだが、聴いているうちに目尻まで涙が溜まっていた。俺は感動したのである。
軍服のおっちゃんは楽曲を弾き終え、また後ろを向いて「あ、どうぞ」と、言った。「いえ、大丈夫です」という俺。照れ笑顔の軍服――俺は言わずにはいられなかった。
「その、ただ、いいなあと思って聴いていただけです」と。笑顔で。
下手をすれば、俺の倍は歳を重ねている軍服のおっちゃん。だが、冒頭2秒でその音楽の何たるかがわかるなどとほざいた上の自負は、こういうのを絶対に見逃さない。見逃せない。
彼は、〝真剣に楽しんで演奏していた〟のである。オーディエンスなんて俺しか居なかった。だが、〝それ〟が心に響いた。
そういう小説を探していたのかもしれない。縛りとして、音楽でいうところの〝最近のJ-POPにあたるもの〟を。ひとつ見つけられた。見つけられたという根拠は、「100万部以上売れた作品の著者によるもの」であったことを、俺は知らずに選別できたということ。
つまり、『それいけ! 平安部』の冒頭からしばらくの文章から受けた高揚感。軍服のおっちゃんから受けた感動。共通するのは〝真剣に楽しんで――〟ということ。だと勝手に思っている。いや、そういう自分の感性を信じないでどうする。そのように思った。
帰宅して、初作品の小説の改稿をした。最後の章まで。投稿先の公募の規定のページ数範囲内に削って磨いた。原稿用紙換算342枚を300枚以内に。大手術を成功させた気持ちだった。俺なりに、真剣に楽しんでやれたことを評価すべきだと思った。
そして、これを評して頂き――この後何回か推敲してからエントリーするが――この作品を世に出したい。その一心。それが、「きゅん」となった小説の選別と、軍服のおっちゃんの演奏と重なったのだろうか。そんな気分になった。
宮島未奈さんという作家。俺は、彼女の文体や世界観が好きだということがわかった。『成瀬は天下を取りにいく』に感銘を受けたこと、その筆者が書いた『それいけ! 平安部』の新刊購入に至ったこと。これが根拠となる。好きなものがわかったことが、とても嬉しかった。シンプルに言うとつまりそういうことである。
だったら『成瀬は天下を取りにいく』も買う。というのが道理なのだがそれ、今日ブックオフで町田康さんの小説を買うついでにこともあろうか立ち読み進めては買わなかったという矛盾。
何というか、こうやって少しずつ〝文学における感性〟を磨いているつもりなのだが、日に日に「立ち読み」という常習的行為に対する背徳感が増していくのは、本当に作家になると決めた証左ままならぬ。
とかそれっぽく言ってもだめですよね。ちゃんと買いましたし、今度ちゃんと買います。好きな作家、好きな作品、心が動いたその対価として。
_10/20
〝コンパスひとつで描いた製図にぎり締め からっぽの僕らはまるで身も蓋もない 一瞬だって光っていたいよ 僕たちまた会えるから こんなにふたり――だけど バイバイ 手を振った〟
というサビの歌詞の楽曲。なんとなくそれを、弦交換したのちにそれを弾きながら、青春を懐かしんでいた。俺の場合の青春は、売れなかったバンド時代の終焉までとしている。
その楽曲。ひじょうにお客さん受けのよいものであった。「代表曲というのはこういうことなのだな」と、その時代、俺は暗にしか思っていなかった。
新宿ロフトで毎月ライブをしていた2000年代後半。お客さんがついていた。あれはチャンスだったのである。それに気づくのが、遅すぎた。業界人の姉ちゃんが気に留めてくれて、オフィスカジュアル・ファッションで何度が観に来たこともあった。
彼女と大人の打ち合わせもした。だが謎に、俺は姉ちゃんと犬猿の仲のようだったと当時のボーカルは言う。
フロントマンである彼は、どこか不安定な少年のような奴だった。俺も安定はしていなかったが、周りから見たら〝対〟のようにうつっていたという。
俺は、「どう考えても自分らのバンドが一番カッコいい」という根拠不明の自信で当時、ステージに立って演奏していた。みんなもそうだったと感じていた。
ロフトのステージの白黒タイル模様の地面とエフェクターボード。下を見るとその光景。冒頭の歌詞の楽曲。俺のギター・アルペジオ奏法とボーカルギターと歌。そういった〝サビ入り〟構成の流れで演奏した。「アルペジオはミスったら一瞬でばれる」という緊張感。なぜか一切緊張をしないボーカルの彼。ベースとドラムも入りバンドインすると何かが解き放たれる。それをも、今日あたり鮮明に思い出した。
――2年ほど活動してドラマーが脱退した。その後、サポートメンバーを加えて数ヶ月続けた。それでもいけると思った。だが、そのドラマーが居るのと居ないのとでは決定的に何かが違う。それに、気づくのも遅すぎた。
ほどなくして解散。それを惜しんでくれる方々も居た。最後に、ボーカルに借りていた機材を一つ返した。そこで俺は彼に暴言を吐いた。何という身も蓋もないことをと。それに気づくのも。
――当該曲は、2000年代後半まではギリギリ、メジャーシーンで通用した〝J-POP王道進行〟なる和音構成でサビを支えていた。
IV△7|V|IIIm7|VIm7|(Rep.)
絶対に誰もが聴いたことのあるコード進行。それを当時、ボーカルは音楽理論所以ではなく、その楽曲を作ってきた。俺はロジック的に知っていたので「売れ線だなあ」などと揶揄しつつも――当時は今よりも甚だしく腐った性格だった――率直に初聴で「いい曲じゃないか」と、感じたのをよく覚えている。
――つい先日、興行現場で楽曲「なぜ・・・」(Hysteric Blue)を歌っているのを聴いた。2000年の楽曲である。素敵な曲だが、やはり、いいのかわるいのか、聴いた瞬間にその内実がわかってしまうのである。サビのコード進行。
IV△7|V|IIIm7|VIsus4|VI|(Rep.)
〝J-POP王道進行〟に少し変化を施したものである。だがやはり、自分にとっては青春の和音でもあるので、反射的に、恍惚に、ときめいてしまう。昨日も今日も、Hysteric Blueの楽曲を聴いては合計10回くらいだろうか。どうかしているなと怪訝になりつつも、そういう季節かと、冒頭の歌詞の楽曲をレコーディングした季節と重ねる。
だが、歌詞として記した「――」の部分がどうしても思い出せない。音源はある。それを聴けばすぐに判明する。だが、それをすると、どこか身も蓋もないような。そっとしまっておきたい。静かに懐かしみたい。歌詞の内容から「そういうことを俺は今もしているな」と感じながら。
〝からっぽの僕らはまるで身も蓋も無い〟。当時の自分らを言ってしまっているようなもの。
〝一瞬だって光っていたいよ 僕たちまた会えるから〟。その通り捉えない方が綺麗な歌詞。
バンドメンバーとは、10年以上接点がない。俺はまずそうだが、おそらくみんな、互いに、今、何をしているのか、探ろうとはしていないであろう。〝だけど バイバイ 手を振った〟。そのままだ。なんて歌詞だ。
良し悪しではなく、ふと、伴奏を今日弾いて口ずさんだところ、このような情念が「点」のように戻ってきた。
コンパスひとつで描いた、製図をにぎり締め、彼らは、俺は、よく生きているのであろうか。探る気にはならない。
〝一瞬だって光っていたいよ 僕たちまた会えるから〟と、大きな音で、新宿で、大なり小なり光っていた頃。その先の今、何をしているのか。
身も蓋もないからっぽの僕らでいられているのだろうか。俺は、また会えたとしたその時に、言うのかもしれない。
「あれからだってずっと身も蓋もないよ。そうだ。採算度外視でライブでやる? 新宿で。このあいだ歌舞伎町に行ったらまだ、タテハナビルで営業してたぜ?」などと俺は言い出しかねない。それは、言わない方がいい。
歌詞を引用した。だが、元は、蓋をするように伏せる。蓋をしたままの青春でそっと。たまに思い出しても、そうでなくとも、ずっと楽曲として生きている。みんな、一瞬だって光っていたいと。今もそう思っているのであろうか。
_10/21
小説原稿を寝かす。意図的に数日寝かせる。その間は読書を多くして学ぶ。吸収する。文学の「中庸」を知るために。とはいえ。
宮島未奈さんの青春小説、町田康さんの荒ぶる文体のその小説、アリストテレスさんの難読倫理学書と、これらを同系列で読み進めているとなんだかむちゃくちゃになっている気がしてならないがそれはそれでいいかと手を打つ。
今日あたりは普通にフルに、仕事をしてはギター練習もする。昨日どうも青春回顧に包まれたので俺の青春・エフェクター「Blues Driver」(BOSS製品)を真空管アンプの間にひとつ、ちょこんと挟んでそれで弾く。するとどうだろう。
何だこの懐かしい歪み、オーバードライブ、エモい、安っぽすぎないがしっかしとしたサウンド。ああ、青春だ。俺はそう、さらに回顧した。高校生。
確か17歳直前の頃にこの「Blues Driver」が発売。〝演奏者のニュアンスを殺さずにギャンという音を〟。そういった要素がウリとなり、今でも名器と呼ばれる逸品。
価格はというとよく覚えているのだが、高校生の頃に8,000円ちょいで新品購入。あれから約30年。信じられんが30年。今は10,000円を超えている。それを、10代、20代の頃に愛用していた。
だが、訳あって手元にある「Blues Driver」は〝三代目〟なのである。すなわち同一製品を俺は3回買っている。健忘所以ではなく、情けなき理由がきちんとある。
初代はシンプルに壊れた。雑に踏みすぎて滅した。仕方ない。と、二代目を買った――博奕にハマった。依存した。廃人寸前までいった。二代目を売った。そう。ギャンブルの軍資金が無くなるとす〜ぐ機材を売る愚かな習性がかつてあった。
上の地獄の沼から出てからは、機材を売る行為を禁忌。それを守ることとした。理由は提示するまでもない。絶対後悔するからの一言。
そんなこともあり、今仕事部屋の真空管アンプの直下にちょこんと居る「Blues Driver」は三代目。こいつは屈強。10年以上は俺の制作、興行において常に足元に。三代目は強い。数々の楽曲をこれで制作しては公開した。立派な立派な三代目。頼もしい。売り飛ばされる懸念は――俺が賭博にスリップしない限りは――ないであろう。
久々の出番というか練習用歪み機材として三代目に管を通す。正直、「というか音、出るかな」というほどに長らく使用してなかった。
しかし実際に二本の管で電気を通してストラトキャスターでもってブンと音を出力したところ「ああ」と、「なんと懐かしい」と、「青春の歪みだ」と、三代目のこの懐っこくも〝演奏者のニュアンスを殺さない〟ことにかなり特化していることを思い出した。俺は嬉しくて今日あたり、その歪みでグリーンデイの曲とか懐かしんで弾いていたが時間も時間だから早めに控えた。
小説を寝かせ、学びの時間に充てる。各著書の書かれた頃――令和の現代・1990年代・紀元前350年あたり――の時空軸が歪曲する感覚を覚える。機材の三代目も、引っ張り出すと時代が遡り聴覚から青春が閾下から蘇る。けだし、文学も機材も同様に、その時期の情念が交差しても、その軸が現代で表象されるエモーションとなることに帰結する。
だんだん何言ってるかわからなくなってきたがつまり、たまにはこうして極端に、ブンと時空をかき回す、その営みは刺激的。
そして情念溢れて強固な血肉に。それに通ずる。というような感覚を得たという話。こうして、今日も文章が歪んでいく。つまり、倍音が生じる。
と、綺麗事に表現できるくらい今日も文学・文章・小説・言語表現を学ぶも手強きはアリストテレスさんの『ニコマコス倫理学』。
あと少しで通読というところだが、正直、何が書いてあるのか半分もわかっていない。
だが、読み切る、無意識下に叩き込んで「ひょ」とした時にその内容が、まるで理解に及んでいたのかと開眼するかの段階にいけるのかと、当該書籍の終盤に差し掛かり俺は「学んでいる。この手の読書はやや疲れるが、もう少しで読み切る」と、ある種のゴールテープの直前。
それだけでも評価してやれよ。そうも思うが同量ほどの「下巻」もあるものだから泡を吹きそうになる。だがしかし、意地でも下巻も買って読み切るつもりだが――飛ばしちゃだめかな。そうしたら本当の意味で〝歪む〟気がするので買うか。下巻も。
町田康さんの小説くらい、文章に吸い込まれるように、気がついたら「もうこんな読んだか」というものではない。はっきり言ってキツいんだよ。『ニコマコス倫理学』を読むのが。
でも、ここで「下巻は飛ばしました」という事実が残ると、先の青春の文脈まで、すべてが連鎖し、木っ端微塵になる気がしてならない。俺自身のニュアンスが殺されるのは心外である。だから買うか。下巻も。中庸に。中庸なのかな。この態度。
わからない? その理解に直結するのが『ニコマコス倫理学』上下巻の通読。それはわかる。だけど長すぎるんだよ。いや、わかりましたよ。書いますよ。下巻もちゃんと。そんで書籍、機材同様に売ることはしませんから。
「その本、訳あって3回買いました」とかいうのは何の実もなければ白痴を露呈させるようなものである。そうは、今度こそ、だからそうはならないように。つまり、ちゃんと、よく生きようと、今日も健やかに一日を過ごした。しかし、あの重厚さで下巻もあるってむちゃくちゃじゃないですか。く。買いますけどね。俺は観念した。
_10/22
羊の骸が転がっていた。近隣である。俺は水を、水道をひねれば飲める水を、わざわざペットボトルでラベリングしてある水を、大きなそれを2本も買うために薬局へ向かった。その直近。羊の骸が転がっていた。
徒歩のスピードが視覚角度を変える。羊ではなく、毛布であった。勝手に宅に入っては「害獣」と即座に見做され即刻シバき倒され即時に墨のような劇薬を身体中に降り注がれ黒く成り果てたハクビシン。そのような色合いの毛布は人間を包んでいた。
薄い白髪であった。身体は縄文時代の死人のように前屈に、海老のようなスタイルで、老人は横たわっては起きていた。息をしているのかどうかは人間の本能由来の感覚的に明瞭だった。
――と、この続きを一通り書いて今、削除した。ホームレスの方を見ては思ったことを。そしてまた思った。
何か、意図的に、俺は物語を書こうとしていると。ある種の嘘に似た感情。それを敏感に捉えた。すると耳鳴りが二重に今、した。なんらかの警鐘のように聞こえたが鳴り止んだ。
最近は、高度なストレスや過激な興奮を伴う愉悦を得ていない。ある種、中庸に生きている。そうなってくるとどこか思考がフラットになる。今、そうなのである。
それが続くときっと、俺は一体何を45年間も、そうだ、今からでも遅くはない。就職活動をしよう。お気に入りのスーツで面接に行こう。黒に薄いストライプ。「ヤクザだな」と言われた同級生の感想が脳内再生される。停止ボタン。
俺は幸福である。何故ならば、ひとりではあるが家で暮らせている。仕事もある。夢もある。人間関係に異議申し立てはさほど無い。経済状況は何とかしのいでいるのか。酒は美味しく飲めている。娯楽も学びもある。家族は。懇意の女性――いろいろ要素は分別されるが、「お前は幸せなのか」と問われれば俺は「幸せです」と即答しては質問者のそいつを睨みつけ、合気・システマあたりの武術で制する。つまり、適度な〝余白〟がある。それがないと、どうなるのか。
羊の骸。俺は彼を見て何も表象しなかった。厳密に言うと、ごく一般的な思案は出たが、それは俺の思考ではない。一人称複数思考――俺が思ったように見せかけて、実は世間の影響から生じた思案――だと、それはすぐにわかった。
だから一人称単数思考。つまり、〝本当に俺だけは何を思ったのか〟ということを吟味した。そこで、近隣ホームレス物語は削除した。正直に言うとオチが出てこなかったからである。ここ。これこそが、〝本当に俺が思っていないこと〟を書いていた証左ままならぬ。それはよくないよね。
〝本当のことを言ったら殺される〟と真顔で言う作家が居た。故人である。だが彼は晩年。「おれはこれから本当のことしか書かない」と仰っていたことが、ご家族による文章で、当人著書のあとがきに明記してあった。
俺はさっきまで〝本当のこと〟=〝自分が率直に思ったこと〟ではない思考をコーティングしてなんか書いていた。それは実に酷い文章であった。そこで思った。本当のことをきちんと書こうと。だが、殺されたくないから、嘘も2割ほど交えつつ、うまく、さも、「迎合していませんよ」みたいな顔と態度で生きていく。それは面白いのであろうか。
羊の骸が転がっていた。そこにいっさいの嘘はなかった。真実そのものである。それを書いていた。冒頭の続きである。だが削除した。理由は上の通り、本当に俺が思っていないことが3割以上を占めていたからである。
今日あたりは本当に何が言いたいのかわからない。しかし、1ミリだけわかるのは、羊の骸が物語る真意にフルコミットする覚悟があるのかどうか。それだろうと今、ようやく帰結した。あるつもりが、まだ甘かった。だが。
おそらく、ミネラルウォーターを常用飲料している段階では、本当のことは書けないのかもしれないなと正直に思った。
俺は何故、わざわざペットボトルの水を当たり前のように飲むことが恒常となったのか。羊の骸を見て思った核心はここだということ。今日は1ミリしか真意に迫れなかった。それが、悔しい。
_10/23
階段で一歩、二歩進む。その隣は斜面。共に、どちらを歩いても昇ることはできる。
階段は歩行者用、斜面は自転車などの車輪用。そこで思った。段差があるのと、区切りのない斜面。デジタルとアナログの違いを聞かれたらこの比喩がいいんだな。などと。
俺は机で校閲の仕事を一時間ほどし、気がつけば電車で王子駅。そこへ向かっては散歩に耽っていた。宅から二駅しか離れていないがここはどうにも回想を引き起こす場が多い。
幼い頃、母親に連れて行ってもらっては喫茶店などで楽しませてくれた。中学生になると駅前の遊技場でメダルゲームに熱中。成人を過ぎるとパチスロ屋『王子龍龍』をホームとし、地獄を見た。恋人との待ち合わせの土地でもあった。一人で居酒屋に入りおしぼりを三角形に畳んでは隣のババアに「あら、夜のお仕事のお兄さん?」などと指摘を受けた。
文字で書くとわりとキレのない回想であることが露呈。だが、どれも、今振り返るとどれも、いいんだなと思える。
「北とぴあ」という北区王子を象徴するような17階建ての施設。そのフロントには1990年の創立を記念して作られたパイプオルガンがある。今日、初めてそれが鳴っていて喫驚。
『リハーサル中』という立て看板のすぐ向こうでは女性オルガニストが両手両足で巧みに演奏。俺はその一挙手一投足に見惚れ、艶やかな倍音のサウンドに恍惚としては「早くどかねえかな」などと思っていた。
ストリート・ピアノではないので演奏させてくれるはずがない。そう、常識と照らし合わせて帰宅。校閲。食事。ネギタワー・タンメンに辣油と酢をしこたま入れては、これがいいんだよと、愉悦を確かめ食う前からむせる。
少し、時間を。そう思い、インターネットをぐるぐるしていた。辿り着いたのはYouTube、中島らもさん、そのライブのアンコール演奏の動画――俺は涙を浮かべながら最後まで閲覧した。楽曲名は「いいんだぜ」。
演奏開始前に中島らもさんは「Gの巡回コードです」と、バンドメンバーに伝えた。視聴しながらそれを正確に耳で拾うとこれだった。
|G|Em|C|D7|
キーを特定しないとこのようになる。
|I|VIm|IV|V7|
ギターや鍵盤でポピュラー音楽を弾いたことがあれば「これね」とわかるが、そうでなければ「次に知識をひけらかしたら殺す」となる。すみません。その。繋がりがあるのです。
楽曲「いいんだぜ」は、上のコード進行の巡回のみで一曲を貫く。歌詞に放送禁止用語が多発するも愛に満ち溢れた素敵な唄。<いいんだぜ>という詞のリフレインが印象的だ。
俺は触発されて作曲をした。「感動したんだからこの曲を着想にすればいいんだ」と。だがパクリはよくない。だから色をつけた。
|I△7|VIm7(9)|IV△7(9)|V – V7|
文字とか記号が増えただけじゃねえかと見えるが、音にすると明らかに響きが異なる。一口で言語化すると「おしゃれ」になる。
これを基軸として別のコード進行も加え、テーマフレーズを乗せて曲の土台とする。そこまでメモをした。そんで寝た。ソファに転がりつつビリー・アイリッシュの3rdアルバムを流しつつ。そこには「2024年Spotifyグローバル再生数ランキング」のトップ3という凄まじい実績を伴う曲が収録されている。
その楽曲は「BIRDS OF A FEATHER」。ビリー・アイリッシュの静謐かつ叙情的なる歌声と美しく絡み合うコード進行を耳で拾ったところ以下であった。
I|VIm|IIm7|V – V7|
この和音巡回で一曲を通貫。要は、中島らもさんの楽曲「いいんだぜ」と、ほぼ同一。確固たる共通点があることにハッとした。
もっと言うと、死ぬほど有名な楽曲「Stand By Me」(ベン・E・キング)のコード進行が〝|I|VIm|IV|V7|〟。
つまり中島らもさんの当該楽曲のコード進行と完全に同一。さらには、挙げた3曲とも〝そのコード進行のみで成立している〟ことも一緒。
「Stand By Me」は1962年の曲。中島らもさんのは1990〜2000年あたりに歌われていただろうか。ビリー・アイリッシュのは2024年。
なんと言うか、変わってないじゃないかと率直に思った。なお、和音進行は「創作物」ではなく「手法」なので、同一であったとしても「模倣」とはなかなか見なされない。
――「階段」という構造物は古代から変わっていない。今日も利用した。紀元前3世紀頃の古代ギリシャを起源とするパイプオルガン。それもなんかさっき生で聴いたというくらい今も生きている。昨年のビリー・アイリッシュの曲のコード進行。原型――響き的にほぼ一緒――は、中島らもさん、「Stand By Me」にまで遡っては近似を知る。
森羅万象どんどん進化を遂げると思いきや、ふとしたところで普遍を見る。それがどこか、生と死の繰り返し、命の繋がり、継承、維持、根源。
様々な観念が想起されたが一日としてはわりと普段通りの今日。北区王子の地での回想が多々あったが、実のところ俺も、根本的には変わってないのかな。などと思った。
階段で一歩、二歩進む。その隣は斜面で区切りがない。共に、どちらを歩いても上がることはできる。
しかし、どっちのルートを選んでも、進む土台は、ずっと変わっていない。段数を数えて数値的に進むか、アナログに感覚的に進むのか。前者は合理的であり、後者は感覚的。
階段を歩きながら横の斜面を見た。中島らもさんの歌を聴いていたら古代まで連れて行かれては現代グローバルチャートまで戻された。そして、俺もと乗っかって曲を作っていた。つまり、感覚的であろうか。
どっちがいいのだろう。暗に思った。階段で進むか、斜面を昇るか。
自身の生き方としてどちらが適切なのか。斜面を選んでいるが、それで正解なのか。あるいは横に移動して、段数を数えるべきなのか。
「俺はこれでいいのでしょうか?」と思ってしまう。だから教えて欲しい。わからない。率直に教えて欲しい。わからない。もしも聞けるなら、中島らもさんなら、聞けるなら、なんて、なんと答えてくれるか――そうですか。
_10/24
〝最後の晩餐〟と銘打たれた品に見惚れて俺は目を疑った。雨だから散歩ができない。そうも思うが家で固まり果てたくない。その一心で、俺は、一つも用事がないのに「ホームセンター」を徘徊していた。そこで肚を射止めた商品。それが〝最後の晩餐〟。
説明をしないと確実に「何に使うものである」。そうは断定不可能。絶対にわからない。だが俺は目視したものだからその品の、中途半端に矮小化されたイラストを見てはすぐにわかった。ネズミ捕りである。
端的にはネズミにとって凄まじく美味。それにありつくもそいつは猛毒。一撃で死に至る成分がふんだんに含有されている。「ネズミの大好きなナッツや何やらがふんだんに――」そのように、〝最後の晩餐〟の味付けの説明が丁寧に描かれたその商品。わりと目に付く位置に陳列されていたものだから俺は「かなりの売れ線である」と断じて何かの参考にしようと目論んだ。
ネコは何をしているんだ。仕事を奪われている。そうも思ったが今時、ネコがネズミを捕獲する場面に人間が出くわしたら格好の餌食。ショート動画のネタにされる。そう。ネコは、すでに、「ネズミやらの害獣駆除」という使命を持ち合わせていない。人間のネット・コンテンツの題材、フリー素材、人を幸せに綻ばせる役目と成り果てた。つまりネコがネズミを駆逐する本来の在り方は現代に於いてホラー。逆転現象が起きている。
だからネコはネズミに興味を示すべきではなくなってしまったのか。俺は憂いた。
――目前の〝最後の晩餐〟(4パック入り)を買おうかと、すんでのところまで行ってはよく見た。その商品の効果を。その名の通りである。ネズミが最期のご馳走を食べては毒死させる。そこまで。そこまでが商品の役割。すなわちネズミの骸を処理するのは人間の役目。意味ない気がする。
そうも思うが俺は「最期くらい死ぬほど美味いものを食って死ね」という、開発元の愛を感じてはどこか歪曲しているような、本当にどうでもいいなと思い俺はレオナルド・ダ・ヴィンチ作の絵画『最後の晩餐』。その本質を思い出そうとしたがネズミが落涙するほど喜んだ後に即死する姿を想像しては率直に、「かわいそうでは」などと思った。
昨日は、青春小説を読み進めて眠りについた。書籍『それいけ! 平安部』である。そろそろ読み終える。
俺が思うに、影響を受けたかった。著者の宮島未奈さんのあの優しい文体。引き出しが山ほどあるだろうと推測できるも過度な語彙は散らさない。さりげないユーモア。読ませる推進力。無駄のなさ。文章から伝わる可愛らしさと青春のひたむきさ。読んでいて、感銘を受けている。
なのに青春の文体、表現力、推進力、何一つ表せないでいる。ネズミを殺すくだりを延々と書く始末。
日記だが別にいいのだが、俺は様々な本を読んで自分の小説を磨かせるべく学びの期間にある。そのために、やりたいのに、あえて小説原稿を数日寝かせている。見習いたいのである。
小説『成瀬は天下を取りに行く』100万部突破という離れ業を魅せた作家・宮島未奈さんから、ひとつでも、「読みやすさ」とか「ポップさ」とか「可愛らしさ」というものを学んで、吸収しては、血肉として、原稿に反映させたい。だが何だ。ネズミが即死する姿を俺は哀れんでいた今日。一体何をしているんだ。
仕事も楽曲制作もした。だが、確実に〝学びの姿勢〟で『それいけ! 平安部』を熟読しているというのにどうしてこう、考えずに文章を書く姿勢は変わらないのであろうか。だから、意識しよう。意識して、書こう。
――「おーい」
ネズミ子は言った。彼女は小学生からの幼馴染み。すこし変わったところがある。だからなのか、クラスではどこか浮いた存在。スクールカーストの中段のあたりを縦横無尽に徘徊しているかのようだ。
「どうしたの?」。私は聞いた。「おいしそうなのがあるの」。ネズミ子は好奇心旺盛を通り越して、可もなく不可もなければ優等生にもなりきれないあたしからすれば、変人を通り越して憧憬の対象でもある。
「見るからに怪しいよ。食べちゃダメ」。私はネズミ子に忠告をした。きっと、というかまず確実に、あの子は食べる。それも一口ではコメントをしぶってまた食べ続ける。納得のいく「迷言」が思いつくまでは徹底的に追求する。小学校二年生の頃にマッチ棒を2箱ぶんまるごと食べては親に叱咤されたのを目撃した私が言うのだから間違いない。
「すごいよ! 食べたことがないくらい美味しい」。ネズミ子は目をまんまるにしてあたしにそれを進呈した。すこし、匂いを嗅いだ。
「毒っしょ」。率直に伝えた。でも既に手遅れなのはわかっていながらも、ネズミ子のあるべき姿というか、この子らしさを看取る役目はあたししかいないだろう。
泡を吹きつつネズミ子は死んだ。それを見て思ったことがある。あたしにはできないことをして潔く即死するネズミ子は、最後まで自分の信じた道を行ったのだと。
まずい。人間が来た。「ごめんネズミ子!」。あたしの役目は伝わったのだろうか。わからないけど、走るスピードに比例して遠のく人間の声が忘れられない。「最後の晩餐すげえ」という、あたしにはよくわからないその言葉が。
――だめだ。意識しても決定的に〝青春感〟が無い。まだか、俺にはまだ、学びが足りないのか。これほど意図して「キラキラした素敵な青春小説読書」を続けても、模倣すらできない。青春ってもっと、輝かしくも青臭くて愛おしいんだよ。でも俺がそれを真剣に意識して書くと、主人公が泡吹いて即死するんだよ。
人生は長くはない。最後の晩餐がいつになるのか、それは誰にも自発的には予測できない。
だから、一日一日を大切によく生きることに感謝して、学んでは成長を意識する。それは人間にとって清い姿勢であることに俺は異論がない。なのになんでこうなる。いや、ちょっとだけ、文体寄せられてませんでしたかね。ネズミ子のやつ。はあ。決定的に何かが違うと。俺もそう思います。
_10/25
先日描いた青写真。普遍的なコード進行。それに俺なりに着色しては展開させてはもとに戻りまた展開。気がつけば飛翔してはまたもとに。そして巡回が止まる。そんなおしゃれ楽曲のメモを楽譜に半分記してあった。
今日ひととおり仕事をし、制作を進めようという予定。だが如実な眠気に抵抗するか、屈服するか、コーヒーを今日は飲んでいない。それが起因のひとつ。カフェインって実は効くんだなと納得。俺はソファに転がることにした。
数十分ほど、ディアンジェロさんのアルバム『Voodoo』(2000年)を流してはその、「ずれてませんか」と言いたくなるほどのリズム、ではなく、まごうことなき彼独自のグルーヴであり、それは、後世に、今も、引き継がれてはソウル音楽の進化の発端を示した。その名盤を流しながら。
ディアンジェロさんに関して何故さん付けするかというと先日逝去したからである。彼の音楽には、20代の頃に触れては、けっこうよく聴いていた。日本で言うとWONKなどのソウルミュージックの精鋭アーティストらが、音楽的系譜の文脈で上がる名前。彼らに関しては、5、6年前に案件で直接その旨を聴いた。影響を受けています。と。
――気がつけば1時間以上経っており、『Voodoo』のグルーヴと共にまどろみのひとときとなっていた。
疲れていたのであろうか。わからないが、抗えなかった。そのため屈しては制作の時間を逸した。意識と脳内景色は相当奇妙なところに行っていたがそれは、今のところ言語化できないのが悔しい。参照として、この類の意識を言語化させている離れ業を成しているのは『バンド・オブ・ザ・ナイト』という著書。だと、俺は心底思える。その脳内描写のとんでもなさは右に出るものを全員失神させるほどの爆ぜっぷり。ディアンジェロさんと遠からぬ共通点(もちろん良い意味での)がある気がするのは主観。だが、俺は本当にそう感じる。
――半分は寝ていたとはいえ、ディアンジェロさんを久しぶりに吸った。それがとても心地よかった。
寡作で知られる彼。生涯で発表したアルバムは3枚。全て、客観的に捉えても全てが名盤と断言できる。「提灯野郎が扇情するな」というようなご批判があるとしたらまずその前に、まずは、彼のデビューアルバムから「Brown Sugar」(1995年)という楽曲に触れていただき、その心地よさを得ていただき次に、楽曲「Untitled (How Does It Feel)」でまどろみを感受していただければ反論というかそういうのはディアンジェロさんが悲しむからやめにしないか。という風になる気がしてならない。
今日の営みの中。つまり、疲労か齢か怠惰かノン・カフェインか原因かはどうでもいいのだが、結果的にどう思ったかというと。それは、小説原稿を寝かせつつ書籍をたくさん読むこと。楽曲制作の前に――ディアンジェロさんの前にグローバル・チャートでかいつまんで聴いてトレンドを分析していた――良音楽を沁み込ませること。それらに時間を充てたことはむしろ、むしろそのほうがよかったのではないかと善処したということ。
理由は明白。その気になれば長編小説初稿を45日で書ける。万単位のダウンロード数となった楽曲を1日で着想から完成まで仕上げたこともある。つまり、何が言いたいのかと一節で言うと。
数を打つことも大事だとは思うが、きちんと先人や今を走る方々に意識を向け、インプット時間を惜しむのではなく、それによりスピードすら伴う良質なアウトプットとする体、脳、精神、あと形而上のなんか。それを強固に育てることはひじょうに大事。それが中庸な創作態度と、まずそこに行き、そに後に初めて良い意味での逸脱的作品の制作が可能になるのではないかと思った次第である。寝てしまった言い訳とも捉えられることは逃れられない次第である。どっちも真実であると信じている次第である。
とにかく。ディアンジェロさんの素敵な作品に、感謝の気持ちを禁じ得ない次第である。
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不思議な日だった。
俺の隠し子の17歳男子。そいつの近影。知人経由でLINEからそれを見た。そいつは、俺が初めて購入したギター、ストラトキャスターを構えてマイクに向かっていた。そういう画角の写真であった。
髪型は、現代の若者にはあまり見ない、襟足をも伸ばしたセンター分け。今の俺と完全一致。そして、若い。あまりにも若い。白いロング・Tシャツが似合うほど若い。肌なんて女子のようにツヤツヤである。まだ世の半分も見られていないかのように、眼は、半分も開いていなかった。
今、俺の仕事部屋に居るストラトキャスターと同色のギターを構えるそいつ。ライブハウスで撮影されたその写真。そこから、ただただ、えも言えぬ青春が呼び起こされた。
「隠し子は元気にやっているな。やはり俺の子だな。何から何まで要素が一緒だ」と。
というかそれは実際の俺の17歳の頃の写真なのだが、そのような想像をも引き起こさせる青春感――。
青春感を得る。昨夜、令和の青春小説を通読して感銘を受けたこと。それも影響下にある。間違いなくある。「ああ、今夜でこの可愛い作品を読み終えてしまう」。そんな気持ちを、何十年ぶりかに引き出された。
――夜、一週間寝かせた小説原稿の推敲にとりかかった。その直前の時間に、30年ほど付かず離れずの同級生が宅に来た。「使用しないから」という音楽機材を「いるかい?」「いる!」。端的にはこのようなLINEでのくだりを挟んでから。
ありがたい。それは、「俺は使用するし、むしろ必要。というかふんだんに機材代があれば買うけどそこには至らず。だから保留」という位置付けのもの。つまりいいやつをくれた。
彼は忙しい男だ。だが、車から機材を搬出して別れるタイミング。そこで俺は「これ、どこに置こうかわからんなあ」と、言った。「車ちょっと置いてくるわ」と、彼。設置まで手伝ってくれる流れになった。
これは助かると、友人ということもあり甘えさせていただいてはサウンドチェックも共に行う。確かな効果あり。
彼はプロフェッショナルである。完璧なセッティングをしてくれては俺は言う。「めちゃめちゃ凄い音楽を作る人の部屋っぽくなった!」。いい音楽を作っているつもりではあるが、あるべき機材はやはり必要。それをくれると言う。
「分割でちょっとずつ払うよ――」と、俺は義を言葉にしたつもり。「いや、使わないからやるよ」と、彼の優しき意思。「じゃあ共用ということで!」という俺の逃げの一言。「んじゃ、永久貸与で」という、俺の性格を把握しまくっている彼の愛。
ありがとうと伝え、そのまま部屋でくつろぎつつ、彼と対話していた。様々な議題があったが「AIの在り方と今後について」という文脈が最も濃かった。会話のトーンは、お互い17歳の頃と大幅には変化なきような色彩。
「今後、AIは飛躍的な進化を遂げる一方で、個人が〝誰であるか〟にこそ価値が見出され、その点こそが重要となり、その比重に大きな差が出る」
という思惟と展望が一致した。加えて、人間の根源的な欲求にも触れた。それは、結局は〝いかに人間であるか〟ということに回帰するのではないかと。そこも一致した。
思案の色は双方異なれど――おそらく綺麗なほどに真逆――本質は同一に帰結。よくよく考えると不思議なことである。極端に例えるならば、別の数式で解を導いているのに答えが一緒。そういった肌感覚であった。
「おや。もうこんな時間か」と、彼。体感30分が2時間程度であった。
彼が去った仕事部屋は、彼の心の香りを残しつつも静かに、アップデートされた景色に映る。俺は、個人が〝誰であるか〟にこそ価値が見出すべく、小説原稿を進めた。
改稿した原稿の冒頭。そこに改善の余地があると思っていた。改めてそこを吟味する。
すると、なかなかよろしく整っているのだが、何か、要らぬ敬語を交えたような口調というか、そいつに向かって「それでお前は結局何が言いたいんだよ。おい!」と語気を強めたくなるようなニュアンスを俺は俯瞰できた。だから直した。する必要のない遠慮をせずに。
すると呼吸が感じられた。余白も。皮肉なもので、その部分は、一番最初に書きなぐった初稿の冒頭の匂いを、暴れすぎずの状態にして取り戻したようだった。
ストラトキャスターを構えている17歳の俺の写真を見た。その頃から交流が続く彼が来ては僥倖にあずかり、歪曲する時間のなか対話をした。それが、どれもであろうが、とにかく決定打なるキーワードが浮き彫りになった。青春。ここ最近はそれらが常に交差していた事実に気がついた。
青春の象徴の人間力が作用した。何かを取り戻した。そこには周囲の人間が必ず関わっている。そこにきちんと気がつけた。
高校生。17歳の頃から28年が経つ。あの頃はバンドマンとして成功することを朧げに掲げつつ、あまり考えていなかった。しかし今は、その頃は1ミリも想像していなかったことに挑戦している。だが、同じ形、モデルのギターが居る。謎に髪型まで変わっていない。もっと変わっていないのはしつこさである。
それは、28年経ち、仕事部屋の音楽制作環境を向上していただきつつ、引き続き音楽を作る。小説も書く。そして、世に貢献する何者かになるべく躍起になっていること。であろう。変わらないこともある。
彼は、話の文脈で当時カラオケ・ボックスで遊んでいた共通記憶を引き出した。「ただ懐かしい」という訳ではなく、それは現代のAI議論に紐づいた。2時間どころか28年、時間が歪曲した気もする。
ただそれだけのことではあるが、景色を見る、手元を見る、創作物を捉える解像度がクリアになった。俺が初作品として書いている小説は、これらの要素が決定的な核となっていることにも改めて気がついた。
明らかなる青春小説を書いている訳ではない。しかし、本質的な青春を失うと自分が創る作品ではなくなる。それを貫かない限りは書く意味がない。今はそうだと。それに気づいた。気づかされた。予想もしなかった今日の各出来事から。
もともとわかっていたこと。それを逸しそうになり、取り戻す。戻してもらえた。それが魂の中心に戻ってきては今、これからを営んでいる。ふと思うに、そのふとした思いを捨てずにいた。ふとそう感じた。感じさせてくれた、不思議な日だった。
_10/27
小説の改稿を進める。正確にいうと改稿の推敲。「作品名_改稿_02」の原稿用紙フォーマットwordファイルを磨く。
ややこしいがとにかく創作を進めている。なぜかというと、昨日、友人と談笑しつつ少し触れた領域だが、未来を拓くためである。他者に貢献するためである。格好をつけやがって。とも思うが、そのへん本気で思っている。
ただ、これが何年たっても認められられなければ、世に出られなければ――などと臆していると手が止まる。
だからという訳ではないが、今日もやる。インプット的な読書も多めに続ける。今日あたりは、アリストテレス著:『二コマコス倫理学(上)』を通読できたが半分以上何言ってんのか本気で訳がわからなかった。
だが下巻も買うことにする。ちょっとでも古代ギリシアの倫理ならびに普遍的真理への理解につとめるために。そこに何の意味が。けだし、よく生きてみなさまとやった〜って過ごして人生を全うし、最期、死ぬ寸前で悔いない。この〝けだし〟という聞き慣れない言葉が連呼されてるのよ。当該著書では。
――12月10日締め切りの公募にエントリーすべく原稿を進める。今夏、別の公募で死んだ。悔しみは思いのはるか形而上を突破した。だから改稿して別の公募で勝負。挑戦。文学界への問い。格好つけて言うとこのあたり。
そして、第二作目もできている。一度の推敲を終えた段階。これは来年三月締め切りの別の公募にエントリーする予定。スケジュールをけっこうちゃんと組んでいる。どっちか、なんなら両方で、結果を出したい。その〝場所〟に立ちたい。その一心で原稿用紙のマス目と言語と向き合う。けだし、夢を掴む。
この執念というかしつこさがどこまで続くか。結果が出るまで。あるいは「ああ、俺は本気で文学には――向いてないのか」と、明らかになるまで。後者は絶対に認めたくない。だが、それを決めるのは俺ではないあたりがこう、逆にやる気が猛る。
だが今日あたり「娯楽」をインプットしていない。死ぬぞ。そう思い俺はYouTubeへ駆け込んだ。するとレコメン動画で出てきたのが『ひきこもり40年、その後…』的なやつであり、死ぬぞ、と俺自身に思った。
やはり娯楽が足りていないのか。そうも思ったので明日、やや遠出でもして小旅行気分になろうと思った。書を捨てずに、街に出る。といったスタンスで。行き先は。
秒で湧いたのが「越谷レイクタウン」なのだがそこに何の用が。びっくりするくらい「越谷レイクタウン」しか思いつかなかった。これはインスピレーションか。俺の股間の第一チャクラからの進言か。などと思ったが本当に用がないので棄却。しようと思うがじゃあどこに遠出に。
これはあれだ。手前でそう宣言して当日は普段通り過ごすパターンだ。ここ10年くらいの文脈で言い逃れはきかないと、そうも思ったが「越谷レイクタウン」がちょっと魅力的に思えてきた。
そうだ。欲しいものがあった。仕事部屋に、壁掛けランタンを設置しておしゃれさを増したい欲。これがあった。「越谷レイクタウン」にならきっと、その巨大なモールだったらほぼ確で、「あった!」と声に出るほどイメージ通りのそれがある。違いない。楽しみが増えた。
45年も生きていると、だんだん自分が、少しは、わかってくる。これあれだ。明日、絶対に「越谷レイクタウン」行かないやつだ。
赤羽駅から――乗り換え一回で小一時間か。小旅行としてはギリ妥当。そして、北欧を彷彿とさせるおしゃれでかわいく、暖かく、俺の作業を包み込んでくれる壁掛けランタンとの邂逅。もう確定。自分で書いててわかる。筆致でわかる。絶対「越谷レイクタウン」行かない典型的なケース。
片道406円か。
_10/28
越谷レイクタウン駅に着くと草が香った。仄かなる自然の匂い。「だいぶ空気が違う」。そう感じては東京都・赤羽駅からの距離を実感する。ここは日本最大ショッピングモール。小旅行がてら、行って来た。
一応、目的としては買い物。そうではあるのだがあまりの規模にまずは圧倒される。俺は、構内が一覧できる看板を見ては各エリアを把握した。
「カゼ」「モリ」「アウトレット」の3つに大きく別れる。
俺は「全部は無理だろ」と一般的に考えては「カゼ」「モリ」の順に二階から歩み進めては突き当たって一階から駅に戻るルートと決めた。
「カゼ」「モリ」と、どうも、人気シンガーソングライターが蕎麦をすすっているイメージが暫く頭から離れなかったがモールを楽しむ。せっかくだからと色々、店を回る。とにかく大きい場所を歩く。それだけで旅気分になってくる。
旅の目的として「おしゃれな壁掛けランタンが買いたい」という目的がある。どこにあるか、どこで買えるか、調べるのは面倒なので係のお姉さんに聞いた。
「ランタンが欲しいのです」
「しょうしょうお待ちください」
案内所のお姉さんはセーラー服を彷彿させるトップス。頭には厚めのボーラー(山岳帽)と、出航するのか登山するのかよくわからない制服でせっせと調べてくれた。
「こちらの家具屋に――」
「ありそうですね」
「こちらに『ニトリ』が――」
「ありそうですね」
お姉さんはアナログに、パンフレット的な冊子の地図上に赤ペンで丸をくくるかと思いきや、まずは星形で現在地をくくった。家具屋等は丸で印を。こういったホスピタリティを俺は持ち合わせていないのでちょっとキュンとなった。
「ではこちらから『カゼ』『モリ』の順に――」
「わかりました」
いくつかランタンを販売していそうな店を確認。だが「カゼ」の各店には無かった。とはいえこれだけ店があれば見つかるだろうと、なんとなく眼鏡屋さんに冷やかしで入った。すると「主任」という文字の札を左胸に付けた紳士に声をかけられた。眼鏡を買う予定はない。
「よろしかったら色々と――」
理由を探した。
「ええその、最近、今年に入ってから急に視力が落ちましてね。それで僕もそろそろ眼鏡をと、40代なんですけどね、やはり年齢的なものでそれはよくあることなのでしょうか?」
と、客見込みのフリに成功したが、俺は事実を言っている。主任は笑み、いっさいの販売促進力を見せずに言った。
「お時間ございますか?」
「はい」
「こちらに――」
「検査できるんですか」
「おでこをここに――」
経過は全部端折るが結果、俺の自慢の視力は「0.7」まで下がり果てていた。はっきり言ってショックである。受け入れざるを得ないのだが食い下がった。
「視力回復とかってあるじゃないですか? ほら、YouTubeとかでたま〜に。あれ、うさん臭くないですかね。戻るものなのですか視力って? ええ?」
主任は静かに、断定を避けるのがルールであるということを言葉にせず、俺に察知させつつ、諭すように言った。
「色々ありますねえ……そういう場合もあるとは思われますが、基本的には――」
「ですよね」
「お客様の場合ですと、しょうしょう乱視が入っていらっしゃる」
「なんかそれ言われるとね、腑に落ちますよ。特にですね、夜ですよ。夜の街のネオンというか光、看板の文字、あれが如実に見えづらくなりましてね」
「そういうものですよ」
要は俺の視力は下がっていて乱視ちょっとあって――え? 眼鏡必要なシーンかこれ。と、息を飲んでは主任に聞いた。
「僕のこの検査結果の場合、眼鏡は必要ですかね。あと緑内障とかそういうのあるじゃないですか。そういうのではないですか?」
主任は微笑を浮かべながら、イエスともノーとも言わないが「まずそうではない」という旨を巧みに言葉にした。
検査ブースから売り場に連れられ、主任は様々な眼鏡のフレームを紹介してくれた。安くて18,000円。ハイエンドで58,000円ほど。
俺は最も高額な眼鏡をかけては「これはいいですね!」と、主任に伝えた。「手作り一点物でございまして」と言う。「これなら眼鏡かけたいな、くらいまでいきますわ」と、俺はすこし興奮した。「さようですか」と、主任。
「もしも、これ以上視力が落ちて眼鏡が必要になったら、この素敵な眼鏡を買いに来るという楽しみとする。というのもいいかなと思いました」
そう、その時に感じたことを率直に述べた。静かに笑む主任。俺は売り場を後にする途中、別の店員の男が鏡ごしに俺を見て笑いくさっていたのを0.7の視力で見逃さなかった。何がおもしれえんだよと。別にいいのだが。
「カゼ」から「モリ」へ。
それらのエリアの二階にはランタン、ひとつあったけど全然おしゃれじゃなかったので購入せず。
「しかし、この巨大モールは動物と車以外何でも売ってるな」と、その豊かさを把握しては声には漏らさず降下した瞬間にイヌが居た。売っていた。小ぶりなイヌが何匹も陳列されていた上にその隣には「TOYOTA」の売り場があり新車が何台も並んでいたので俺は「あるんだね」と、声を漏らした。
能動のあるヌイグルミのようなイヌたちを横目に、サササと飲食店コーナーを抜けては雑貨屋をひょいと見る。「ネコにモテる入浴剤」なる香ばしい商品に食指を動かされては成分を見ると「またたび」が。
「それは反則だろ」と、購入意欲が失せたのでそこを抜けると占いの場が。だがしかし「営業終了」と書かれた画用紙がテーブルに立ててあったので「手相の見かた」的な掲示物をしげしげと見ていてはなかなかに歳上の女史が寄ってきた。
「あらごめんなさいね。今日はもうおしまいなの。これ? 手相で視るのと生年月日をプラスして、あと時間延長でこれが一番おすすめですね。今日はもうおしまいだけどこれ、料金表がこうなってて、これね。この3,300円のが一番長いコースでね」
と、メンタリストDaiGo氏とほぼ同一のBPMで口走る女史の説明を聞いては「まるで冗長な本を読まされているようだ」という心境。俺は一言も声をかけておらず、さらに目線も向けていなかった。そして営業終了なのに女史は続けて説明を重ねる。
以前も何度かあったが、占い師の方からやたらと声をかけられることが多い。俺は占い師にモテる体質なのかもしれない。だとしたら利用しない手はない。「気をよくさせてちょっとだけタダで占ってもらおう」という邪な思いを実行に移す。
「はあ、へえ。なるほど、知らなかった、そうなんですか。えええ!」
などと、実のところ俺は人の手相がちょっと視れるのだが完全に知らないフリをして女史を立てた。
「それでこれ仕事運、結婚とあと健康と、いろいろあるんですけどね、まあ。うん。みなさまいろんな方がいらっしゃって。左手が元々のもので、右手が現在をね。表していてね」
「へへえ!」
饒舌な女子は仕上がった。なんなら俺の手相が視たくて仕方ない。そこまで達した。その肌感を得たので俺は絶妙なタイミングで右手を差し出す。
「これ」
「あら」
「どうですかね。僕の手相、これ。現在でしたっけね。右手の手相をご覧になって、一言でどう感じます?」
まんまと俺の右の手のひらを視る女史。ちょっと手、赤いな。呑みすぎか。そう思っていた瞬間だけ女史は黙った。俺は「一言で、どう感じますか。一言で」と、さりげなく強調した。
「意欲……ロマンティックですね!」
俺は「モリ」のエリアを抜けつつ「ロマンティック」という言語の意味を吟味した。悪い気はしなかった。だが、どこか引っかかる。この場合の言語の限界を吟味したがよくわからなかったので今調べた。
〝現実離れした、理想的で甘美な雰囲気や、感情に訴えかける美しさを持つさま〟
だとよ。女史は俺をそう感じたんだって。そうか。と思い、俺は「モリ」から「カゼ」に抜けてはモールを出てやはり迷子になり結構歩いて駅に着く。帰る。
越谷レイクタウンは日本最大級のショッピングモール。最大級のマーケットで2時間以上あらゆる売り場を網羅した。
だが何も買わずに帰るというこれ、離れ業なのではなどと逆に自分を讃えつつ、ロマンを求めるように自宅で原稿を書いたりしては今日の旅の終わりを感じた。
購入せずとも持ち帰ったのは「視力0.7」という悲嘆的事実と「ロマンティックですね!」という女史の心眼。
旅の対義語は日常だろうか。だとしたら俺は今日、旅に行っていたことになるのであろうか。本気で意味がわからない小旅行。たまにはいいよね。ロマンティックでさ。あ。
便利な言葉だな。相手を立てようとするも言語が見当たらぬ時、抽象的かつ賛美と思わせる時、使用する言語としての第一選択肢として持っておくと便利かもしれない。
「どう思います?」「(微妙だな)」「どうなんだよ!」「ロマンティックですね!」「いやあ! そうすか!」。これ。おのれ女史。
_10/29
昨日は散歩のしすぎだな。今日はどこへと思ったが、宅で小説、しこたま磨こうとそう思い、野菜を食っては原稿に向かう。
一週間ほど原稿を寝かせた期間。いろんな書籍を読んでは参考とした。『酒気帯び車椅子』『バンド・オブ・ザ・ナイト』『ニコマコス倫理学(上)』『それいけ! 平安部』『けものがれ、俺らの猿と(『屈辱ポンチ』収録)』。このあたりを通読した。その状態で再び改稿原稿をみる。すると景色がかなり違う。
おかしい。これでは時空列が伝わりづらい。おかしい。これでは会話劇のテンポはいいがコントの台本の如し。おかしい。文学っぽいタッチではない。これらを察知できる。それをわりと大胆にイジりつつ「改稿_02」の原稿を進める。光ってくる。目指せ「太宰治賞」。それにおいてのいい位置。「大賞を獲る前提」などという年初の意気込みは驕りであったと半分くらいそう見なす。だけど大賞は絶対欲しいよね。出版だって賞金だって――外へ出た。夜の散歩である。
近所の古団地。気に入りスポット。ヒタヒタと、そこへ進む。着く。昇る。12階。屋上。不法侵入。そこから大観する東京都一帯は眠りに就く前の美麗な表情。微かに、体を震わせるウーファー出力以上の低音、20ヘルツ以下の響きを受ける。桜花。東京スカイツリーより1時の方向に花火を見た。
察するに開催地はお台場。正直、どこでどのような祭り事が開催かは知らなくともこの低音。彼方遠くからでも届くのだなという感銘。至大なるエネルギーの波及が胸を打つ。
帰宅してひとやすみ。制作をする。誰がどう聴いても、元ネタ、いや、インスピレーション源が、楽曲「いいんだぜ」(中島らも)と「BIRDS OF A FEATHER」(ビリー・アイリッシュ)とはまず気づかないであろう楽曲を制作する。やっとBPM、和音、仮構成、ループフレーズが出揃い骨格ができる。そのうち0時を跨ぐ。
同類の人々――birds of a feather――にもそうでない人々にも届くよう。俺が読んだ著書らも、どこか根っこの繋がりがあるのでは。そうも感ずるところからそれを俺なりに、新しい形で磨いては世に打ち上げる。
とても静かな日だった。花火の低音の如し、静謐なる動きの中にも確かに遠く、遠くにまで届く創作をしっかりと進める。それ以外は考えず。以前と見える景色がまたひとつ、広がりをみせてはまたひとつ、ひとつと、死ぬ寸前まではまたひとつと、永遠にそれを繰り返しては輝いていたい。俺だって。そのように思った。
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スマートフォンに入金の通知。ああ、月末かと思う。もう、月末かと。俺は1ヶ月間一体何を。なんか毎月そう感じるのが思考パターンとして固定化されていることに気が付いた。
10月。なんなら9月、その前もその前も。同じである。今年に限ってはほぼ同一。小説原稿に噛み付くように没頭する日が連なり、エネルギー源はそれが中心となって日々の営みとなっている。今月に特化したこと。冷蔵庫からだった。
そいつに与えた猶予・執行猶予1ヶ月。俺は冷蔵庫にそう判決を下した。それが月初。期間満了。壊れかけた冷蔵庫。相変わらず〝冷凍〟機能は逆にやりすぎ。秒で氷ができるほど元気。しかし〝冷蔵〟の方は一回死んだ。だが、起死回生の「再起動」一発で、それまで老犬の吐息ほどだった状態がギリ、及第点にまで復活し今に至る。よって不問。というか最近めっきり寒くなってきたからそれで。というのもあるかもしれないが、家電品買い替えという痛い出費は抑えられた。
あとは読書期間が濃かった。掛け値なく「たくさん読んでますよ」自慢では決して、そうではないのだが、本当に多くの本を通読・乱読しては「ああなるほど」と思ったり感銘を受けたり意味がわからないことを知ったりとまあ、いろいろと学んでは血肉が増えた。そう実感するのは改稿で「は?」となる部分の発見、頻度が増えたことに回帰する。
遊んでないじゃん。というのが悔いる一点だが、今はそれでいい。原稿も進んでいるし、磨けているし、楽曲制作もした。あらゆる仕事もした。足立くんが機材を持ってきてくれて部屋の隆盛さがもう、来てくれよ。ここで宅呑みしようぜと、それくらいパワーアップさせてくれた。
視力が落ちたことが数値的に明るみになった点は痛い。だがしょうがない。今月も総括して楽しかったのかなと、今月は何を記したのかとサッと振り返ってみた。
すると真空管マーシャルアンプ・スピーカー4発入りのスタンバイ音、架空の病床とか内縁の妻の丁寧語。ソリューションは110円、尿瓶とマグカップ、カーディガンズにヒョウ柄の装丁、田中角栄。オピオイドにSSRIにベンゾジアゼピンからハイボール。健忘。善く生きて、よく過ごす。一行の日記。一杯のハブ酒を呑んでは店を出て、しっかり遊んでる。倫理学から何を学んだのか青春を引っ張り出してはタテハナビルの隣の酒屋、ロフトの地面はモノクロだ。ボーカルくんに無許可で歌詞を引用、しかし発行著書やらは律儀に出典、ネズミが食らうは最後の晩餐、ライフワークバランス、精神科医と俺は何を喋っている。AIに弁明、この最後の千円札でビッグ・ボーナスが引けないと家賃が、家賃が、いみじ。よしお、ビールありがとう。中庸、その意味をずっと確かめている今、以前、17歳の俺、フェンダージャパン・ストラトキャスターにヴィンテージ、俺に隠し子は居ない、未婚。カゼ、モリ、レイクタウン、いいんだぜ、一言でどう思う、ロマンティックですね。けだし、俺はいろいろな、いろいろと夢を見る人間。
今、酒を呑んでいるわけではなく、固めるとこのような1ヶ月。あと、一部の装飾効果という前提の創作部を除く全ては事実。これは日記。11月も――どんな調子でいけば善く生きられるのか。それを問うのがとても楽しい。
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