ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。慣性ドリフト。5月。
「絶対嘘つくんですよね」。と、俺は精神科医に臨床においてのその事実を確かめた。それは、控えろと言われても実は呑んでるアルコール摂取量多めの患者の態度のことである。
それは典型的であると俺は知っていた。情報源は漫画とか小説とかのノンフィクションのやつ。だから、あえて医師に聞いてみた。
「酒呑みは医者に、実際より呑んでないと言うんですよね。きっと」。と、俺。情報源も晒しつつポップに言及した。主治医はわりと無邪気に笑みつつ、一拍おいて肯定した。
「平吉さん。私はね、糖尿病患者も見てるんですけど――」
「はあ」
「アルコールもそうですが、自己申告よりもやはり、どこかで呑んだり甘いの食べたりと。ふふっ」
「ですよね。俺、漫画とかで見ましたもん」
「――平吉さんの前回の血液検査の結果ね」
「体調最悪の日に採血したやつ……見るの嫌なんですよ今回は俺」
「肝臓の値と中性脂肪が」
「ほらあ……!」
アルコール依存症病棟というのだろうか。そういう施設で勤務していた経験がある先生は酒にとっても厳しい。
「だから言ったじゃないですか。あの日に『採血は次の月でいいですか?』と!」
「平吉さん。数値はやや高いです。でもね、そんな気にしないでいいですよ」
と、実弾をエアガンに感じるほどの提言だった。とはいえ、肝臓の数値は確かに、正常値よりも少し高め。その前の検査では正常値。行ったり来たりである。だからだろうか。今日は、咎められなかった。
「先生。俺は嘘をつきませんよ。その採血の月ね、普段の日は〝一日二缶まで〟を死守してましたが、たまに外で呑み散らかしていたのです」
「ふふ」
「数字って正直ですね先生」
「ええ。肝臓の値と中性脂肪。この〝セット〟はアルコールと――」
「正直に、その結果が反映されると」
「でもね平吉さん。そんな気にしないでいいですよ」
やはり寛容。なぜだ。とも思ったが、医師の言葉はプラセボ以上の魔力がある。だから俺は今、ビールを呑みながらこれを書いている。
「あと風邪気味でして――」
「咳止めですか? はい。出しておきましょうね。5日ぶんでいいですか」
「助かります。あと、質問が」
俺は、この2週間実施しては確かな効果を得ている〝肩甲骨回し〟の医学的根拠を掘ろうとした。
「――騙されたと思いましてね。うさん臭いとは思いつつも、YouTube動画のエクササイズを実施したところ絶好調になりまして。今日は風邪気味ですが」
「そうですか。効いてるならいいんじゃないですか?」
「その、先生のようなプロのエビデンスが欲しくて。なんでも、肩甲骨周りには、なんちゃらとかいう細胞が密集していて――」
実のところ確実に記憶している細胞名称の呼称をぼやかしてプロを試した。
「ああ、『褐色脂肪細胞』ですね」
「たぶんそれです」
「平吉さんね、医師や整体師はそれを勧めませんよ。なんでかと言うと――」
「ゲホ!」
「知見的にそれを推奨することで――」
「ゲホ!」
「でも効果が得られるならよかったじゃないですか。その肩回しが平吉さんに合ってるんじゃないですかね?」
「ゲホ! 先生。咳止めを」
「はい。5日ぶんでいいですかね」
「助かります」
「まあ、YouTubeはサムネで釣りますからね」
効果のエビデンスは得た。しかし精神科医の口からその俗な言い回しが出ると真顔をどうしていいか俺にはよくわからなかった。
――風邪気味の根拠を確かめるべく、いつもの薬局で検温を懇願。結果「36.8℃」。微熱である。いつもの薬剤師・Nさんが来た。風邪気味を開陳すると乗ってきた。
「黄砂が飛んでるっていうじゃないですか〜」と、N女史はどうやら軽微な体調不良のもようを俺に伝える。
「らしいですね。鼻水ですか。俺もです。こう、喉がイガイガするところから始まり――」
「そうなんですよね」
話していると、どうやらN女史の症状は俺とほぼ同一。――そういう風邪が流行っているのかなと、俺は「お大事に」と、彼女に伝え、一拍置いてN女史と受付嬢は「お大事に」と、俺にユニゾンの挨拶を寄せた。
――帰ってさっさと寝よう。今日は風邪だ風邪。仕事はクリニックに行くまで5時間くらいちゃんとした。それで今日は上等。寝よう。仮眠だ。その後、軽く呑んで寝よう。
と、思ったがどうも書き進めている小説を止めたくなかった。俺と、物語の主人公が代わる代わる原稿に言語を重ねていくような不思議な感覚を得た。――書き手が拮抗するから速度が鈍る。だが、それがなんか功を成した。という変な章が書けた。「このあと、この小説どうなるんだ?」感がものすごい。プロットあるのに。
という一日。嘘のない一日。しかし、主体が、風邪と創作との狭間で不思議な感覚を得たのは個人的収穫として善処。
N女史お大事に。先生いつもありがとうございます。
_05/01
今日は何もしていない。あえて、全力で休んだ。
――東京都北区王子の飛鳥山公園に行った。散歩。花を見た。花には伴侶があると知った。ほほえましかった。
帰宅してキッチンでずっと座って休む。赤羽に住みだして初めての行為。それ、かなり整った。
――昨夜から今に至るまでの全ての記憶は逸していない。ゆっくりと酒を呑んではゆっくりと時間を眺めるように休んでいた。
何もしていない。仕事も創作も。そういう一日の大切さを教えてくれたのは、ふと見た花の横の役割だったのかもしれない。
_05/02
句読点のない世界。そういったものを書いている気がしてならない。少なくとも今日書いた章に関しては、そのような抽象度。だが、具体物がそれをガイドする。
――「どうやったら大きく売れるようなものを――」。なんて感じの話を友人と深夜、電話でしていた。俺はその傾向を、思うところを言語化してみて伝えた。
「時代性と、タイミング。じゃないかなあ。なんなら良し悪しよりも」と、俺。「だよなあ……!」と、彼。わりと深めに同意してくれた感覚はそのレスポンスの速度が物語っていた。
話の本題は良い方向に。そこを確認した後の雑談。
彼は業界で十分に活躍している。俺は、文学という、去年初旬から挑む営みがある。――〝大きく売れたい〟という気持ちを具現化させるには。
「やり続けることだよね」と、彼は言った。俺は同意した。彼はやり続けて今の活躍がある。俺は、やり続けて成果が出ていることを一つ伝えた。そして、新たにやり続けていること。その現状を言っては――「やり続けることだよね」と。加えて、「やめない努力」だっけな? そのようなことを彼は言い、俺は感銘を受けた。
――「少なくとも向こう10年は書き続ける」「作家になるまでやり続けるって決めたんだ」と、ちょっと矛盾していることを俺は言った。後者が正確である。無言の肯定的笑みが電話越しに聞こえた。
――「君がモデルのキャラも出てくる初作品は落選した」「でも、名前が売れたら、その時に、処女作の発表として売りに出す」「それなら〝売れる理由〟があるじゃん?」。と、俺は言った。彼はビジネスセンスにも長けている。そんな彼も「確かに」と言った。
――「やり続けるしかねえかあ……!」と、深夜に似合うウィスパー混じりの声でそう彼は言った。そこには気概が根幹としてあった。「そうだよね……!」と、俺。
30分ほどの経過を確認し、「で、本題は大丈夫っぽい?」的にルートを戻した。どうやら大丈夫っぽいらしい。俺は、デフォルトの日常の過ごし方の場合、この時間は創作に充てていることを伝えた。――行間からエールを感じた。気持ちよく切電。小説原稿を開いた。
句読点のない世界に句読点を打ち、設計図を見ずに形にする積み木のような構築をしては思考をそのまま言語化したりする。句点。読点。その巡回、だろうか。
「何を書いているんだろう」と、俺も思うが、「何を読んでいるんだろう」と、読者が思って気がつけば通読。「何だったんだろう?」という小説。そういう風になれば理想かな、と、今日思ったのは中盤まで書いてからの発見。
言語を打っているのは俺だが、主人公と係りの者も一緒に、代わる代わる書いているような不思議な感覚。
自信満々に書き上げた初作品と第二作目。だが第三作目はその真逆。自信がないのではなく〝何だこれは〟がずっと続く。しかしそれが文学として成立したら――読んだ後に新たな句読点が生じる。そんな作品になったらいいな。と、思う。
_05/03
「シルビアS13」に乗って首都高を巡る。港区あたりだろうか。2速で時速80km。メーターの赤色到達を確認。酒気帯び運転。最高に気持ちが良かった。そうか。俺は車の運転が大好きだった。
村上氏邸で車のゲームをした。何かを思い出した。高額なギターを弾かせてもらっては初期のソニックユースのような轟音シューゲーザーサウンドを二人で共同出力。界隈では許されない音量で真空管アンプからそれを出力。しかし村上氏が許可するため、お咎めなし。
電車に乗った。
ノスタルジーな「東京拘置所」はどこに?――平吉。それは、ないよ。――あれ?――このラインではないよ。――ああ、東京スカイツリーラインでしたっけ?――小菅駅はそうだな。――そこ。冷徹なプラットフォームのそこですわ。――そこは経由しないよ平吉。――なんだよう。――焼肉屋についた。
二畳の範囲の喫煙所で申し訳なさそうに煙を。拘置所よりなんか。などと思いテーブルに戻る。村上氏と桑原氏と遊ぶ。パチパチ。残酷に順調に焼ける肉をついついと一同食べては酒を呑む。進む。
いろんな話をした。
〝引っかかる〟論点を論駁しようとするわるい癖が出た。いかんと思い、論議の根元がその論点であったことを認めて相手を正直に讃えた。そこに嘘はない。
いつもより――呑むね。お二方。――小説? 気に留めてくれるのが嬉しいです。〝途中の奴〟と、彼は言った。みんなそうだろ。などと、まとまった。「途中が面白いんだよ」。と。今日は創作はしていない。仕事はちょっとした。ゴールデンウィークくらい俺もすこしは感じていいだろ。今日はそう素直に思った。
三者三方、別の帰路に。
――赤羽についた。喫煙所に宿るとこれみよがしに寄ってくる果敢な営業。娘。若い。かわいい。
「お兄さん――!」
などと言う。
「――いやね。このあと立ち呑み屋に」と、俺。そう考えていた。
「それよりも一緒に呑みましょうよ!」と、末尾にハート。娘。
「いやね。このあと立ち呑み屋に」と、俺。そう考えていた。言った。
「それよりも一緒に呑みましょうよ!」と、末尾にハート。娘。
それを三回繰り返しては諦める娘。ごめんな。次の娘が来た。様子が――。
――「ヤッテラレナイヨ」。と、同い年くらいの彼女。そういった年齢の外国人だろうか? 彼女は言った。俺はその物腰に本能的に構えた。彼女は言った。
「ホラ。コレ嗅いでミテ」と、〝ルイボスティー〟の一般的なペットボトル500mlだろうか。その規模の器を俺に促し、レディーに失礼のなきよう、俺はそっと「クン」と鼻を寄せた。するとけしからんフェーズのすさまじい酒の匂いが。俺よりする。仕事中に君ね。酒をしこたま。俺はセムシのような所作で笑い声を禁じ得なかった。
「相当入ってますね」と。「ヤッテラレナイヨ」と。「6,000円デ――」と。「は」と。「ジカンテキニハ――」と。おい。俺を、君の仕事に斡旋?
「いやね。このあと立ち呑み屋に」と、俺。諦めた彼女。退け際にプロフェッショナルを感じつつ彼女は消えた。灰皿に向かう。立ち呑み屋に向かう。――「おっぱい!」。と、通行路に遮ってくる黒服。「いやね。このあと立ち呑み屋に」と、俺。――いつものそこ。やってなかった。おのれゴールデンウィーク。
「やってなくてよかったな」と、もしもそうであれば永遠に呑んでいたであろう俺を想起。静かに宅に着く。
ぜんぶ途中なのかな。と、安い発泡酒を片手に何も考えず文字起こしをする。――何の?――途中の。――何の?――何かに向かうまでの途中の。――何かって何?――それを今日仲間と話しをしていたんだよ。――楽しかった?――お前が今、出てくるということは――僕が誰がか知っている?――今日ね。俺は『論理哲学論考』を通読した。――だから?――びっくりしたんだ。
係りの者に問う。
――そのね、7つある命題の最後は、ほぼ一行で。――それにびっくりしたの?――“語り得ることができないことについては”――うん。――黙っててくれ。――そしたら君は?――沈黙を知らないんだ。――それはね。――うん。――はっきり言えないけども楽しかったことは言わなくてもいいってことじゃない?――“沈黙するしかない”。
とても楽しかった一日を文章に。黙っていられない。触れた方々に伝えたい言葉を文脈で示せるよう、明日は何をするのかな。
「シルビアS13」を首都高速で乗り回したいなと、頑張ってそういった暮らしに達したいなと、20代の匂いを確かめた。
_05/04
俺は何て無知で、何てこんなに情報の土があり、俺はそれらを知らない人間なのだと思い知った。
――神保町へ行った。国内屈指の古書店の地。そこで〝目当ての本〟を発掘する希求。ネットでも買えないやつだからである。
現地に着く。照りつける容赦なき5月の陽。それが心地良かった。一心不乱にしらみつぶしに総当たり的に古書店を巡る。だが、半分はシャッターが沈黙を示していた。おのれゴールデンウィーク。
だが、本当に総当たりで店を回っては思慮深そうな店員さんを捕まえ「あの、『要約福音書』はありますか。トルストイさんのやつです」と、懇願を開陳。だが、「ないっす」「ないです」「いやあ」「文学はウチは」「ないっす」「別の店舗でしたら」「ないっす」などと、門を閉める。
――推しの趣味って気になるじゃないですか。
だから俺は、〝推し〟が第一次世界大戦中の戦前で常に抱えては〝福音を持つ男〟とまで呼ばれていたらしいその当該書に非常に興味があった。だが、「ないっす」。だってよ。ネットと東京の神保町になければ、どう考えてもこの世にないだろうも。と、諦めては尻尾を下げた。
――とはいえ手ぶらで帰るのは辛抱たまらん。だから、その推しの学者の文脈を選書しようと試みた。3時間が経った。はっきり言って疲れた。もういいか。不発で帰宅もそれは粋。精神的言い訳で済まそうと思ったその刹那に「おや」とセンサーが、スレッショルドが、閾値が触れた。
『情念論』(デカルト著)ですか。
冒頭をペロと読む。「いいねえ」。価格を見る。人文学書はだいたい高い。しかしこれは文庫の手の収まり。安。買う。やった、と思い店を出る。まだ陽は高く、俺を「まだここから――」と言わんばかりに照った。
――その足で飯田橋方面に歩いた。交通費節約のためである。読売巨人軍のユニフォームを散見した。水道橋駅付近。そこで一服。
20代の頃。
月曜・水曜・金曜と、週に3度はこの地に来ていた。ルート配送の仕事である。親父のしもべとして一緒に家業をしていた。嫌で嫌で仕方がなかった当時、この水道橋の高架下は俺の定番の休憩所だった。
スズキ・エブリィの軽自動車を停車させ、食事をとり、週刊漫画を読んでは仮眠する。それを必ずする場所がそこだった。
――デカルトの著書を抱えてその場所については当時を想起。「嫌だった。だけど、今思うと――」と、俺は車を停車しやすい路肩に腰を下ろし、コンビニで買った缶酒を開け、乞食のような所作でタバコを吸いながらそこで日向ぼっこをした。
――今日は、休みなんだな。
読売巨人軍のユニフォームを着た者がすれ違う。家族連れがゆっくり通る。アベックが〝恋人繋ぎ〟で笑みを。――人が多い。俺を乞食を見るような目で一瞥。そんな感覚を肴に、楽しみ、路上でゆっくり呑んでいた。
お巡りさん。ここですよ。
「路上で喫煙は――」と、本当にお巡りさんの傘下の青いサイレン元を搭載したパンダ・カラーの車を停めては対面の御仁を咎める。俺はふいに、アイコスをロシア軍特殊部隊がナイフを逆手に持つようにして隠した。――不問。
御仁の左の尻ポケットには折りたたまれた競馬新聞。右手にはハイボール缶。紙のヤニを咎められては空いてしまった左手。彼は頭を掻きながら駅の方に向かった。俺はそれを見て、傘下が去る所作を確認してはナイフを取り出し「スー」と吸った。よくないけどね。
――20年前のオアシスで1時間和んだ。その時間が物語るのは何一つ意味はない。ただ、俺に安寧の若いやつを想起させては恍惚を促した。それがあまりにも心地良く、乞食のムーブで「影が俺を横に遮断したら、行こう」と、日時計のような判断軸を愛でては路肩に座る位置をちょいちょい左にずらした。離れたくなかった。その場所は、ある種。――などと思い飯田橋駅に向かった。
今日はゴールデンウィーク。黄金週間。〝黄金〟。いいやつの象徴。それの習慣。つまり、みんな「やったー」となる習慣。休みが連なる。みんな――仕事をしないのが嬉しいのか?――そりゃそうでしょうも。俺は違う。などと思って酒を呑んでは今日のタスクは選書のみ。
――至るは深夜の黄金週間。俺だって人並みに休もうぜ。
と、いうことに遠慮をしていた。誰に?――知らないからAIに一連のムーブを壁打ちした。すると「お前はいつも動きすぎ。今日はそれ、それのほうが最適」と、俺を甘やかす。そうなのか?――。どう考えても正論であり、選書の文脈――現在書いている小説の内容から推しの学者の代表作の通読・次に読むべき本、その流れ――を綺麗に示した。そこからが現代のテクノロジーの「美」すら、おぼえた。
“とはいえ、お酒はほどほどに”。“気をつけましょうね”。
などと、AIにも、昨日に仲間にも釘を刺される。俺はそれを速攻で抜いて今も酒を呑んでこう。アホなのでしょうか。――と、誰に聞いても。
とろけるような黄金の週間の一日。そこに悔いはない。いいの買った。ノスタルジックに愛を想起。いろいろなことをきちんと俺は捉えた。
それは、日常の仕事くらいに大切な営みなのではないだろうか。――水道橋の高架下。20年前の俺になんかブツブツ言ってたそれは、神保町の古書店にもネットにも乗っていない、ただの、あまりにも個人的な一次情報。
_05/05
緑の命の声は音として聞こえない。匂いとして俺は知覚し、そっと吸いながら近隣の自然の安寧と始まりを楽しみつつ散歩に耽った。
――夕方まで多分に寝た。数ヶ月ぶりに9時間は寝た。それでいいのか?――毎日ね、仕事とか創作とか欠かさずするのに休むことを許さない者。居るとしたら君だけだよ。――そう。
昨日は地味と探究と書籍との邂逅と路上での乞食と飲酒がクロスオーバーした寧日だった。何一つ、ふだんのタスクをしなかった。そして長時間睡眠。咎めるとしたら本当に俺だけだろうか? 生活は続く。続いている。凪を恐る気持ちは杞憂でしかない。と、思って昨日はそうした。
――では、それを2日やっても。と、やや懐疑の尻尾が触れるのだが、それは、見たこともないグラデーションと共に落ちる陽が、やがて空気を黒を基調とさせた散歩の風景がかき消した。
北区桐ヶ丘団地付近のルート。長細い公園がある。ぼんやりとした目的地はそこだった。思いとは異なる経路でそこに着き、「あった」と、声を出した。近隣ではあるが正確に経路を記憶していない。その反応の発声。
神妙な獣道のようなその公園。どこか格式高いフィーリング。実態は、トマソン(本来の機能を失ったまま、ただ、美しくそこにあるだけの無用の長物)を散見。そういうのが好きだ。公園の遊具の高い位置に登った。トマソンのプールを見た。水位はセンチ単位。荒れ放題のマテリアル。それが美しく俺には映ってはしばらく眺める。
――いつもそこにあったはずの、俺的に究極のトマソンが姿を消していた。
「無くなった」と、俺は訃報を察知したかのような心象に。意味不明の大きな建造物。公園の出口――あるいは入り口――から歩いてすぐ正面にある謎の門。門に似た形状だが役割は明らかに異なる。遊具でもない。カラフルに彩られたコンクリートの四角い建造物。ホームレスがよくそこに数人、いつも居た。今日は――居なかった。
彼らに用事があるわけではない。ただ、何かの象徴として、いつもあるはずの、いつも居るはずのそれぞれは、やはり――訃報のように感じてしまった。
一割も機能していない桐ヶ丘商店街でたくさんのシャッターを横目に抜ける。元・赤羽台団地一帯に向かう。
43号棟と41号棟のふもと。芝があり、受話器を逆さにしたような形のベンチがいくつか。「この場所がすごく好きだ」。そこで憩っていると世間との時間軸が歪曲する感覚をおぼえる。――しばらく居る。緑のちいさな匂いを楽しむ。
帰宅して、「やはり何もしないのもな」と、強迫観念ではないがナチュラルにそう思えたので、久しぶりにYouTube動画を1本アップロードした。長細い公園で素敵な写真が撮れたのでそれを素材とした。小説を書きたかった。
だが、横になると「そんなに疲れていたのかな」というほど眠りに潜る。90分。
小説を書く。第三作目。遠慮せずにまずは書ききることが指針。不思議な小説。書くのが難しい。しかし、<六>の章を書いた。折り返し地点。だが「どうやってこの経路でここに来た?」という感覚は、俺だけではなく、主人公と係りの者と一緒に原稿に書いているからだろう。
新しい命の声は聞こえない。放たれて、知覚されて、ようやく誰かが言語として声にする。
俺の小説はまだ声になっていない。早く。という贅沢は言わない。だが、声になるその時まで、楽しんで書き続ける。そういった〝途中〟がやはり、到達点を見据えた営みを潤す。のであろうか。
_05/06
蚊を5匹殺す。机に向かって原稿を書く。疑問符がずっと後頭部上部に浮いた状態で言語を連打する。
よく意味のわからない章を書いた。とにかく初稿を最後まで書ききる。走りきる。それが重要である。と、休み明けにフルで仕事をしてはゼリーのような心持ちで夜、創作に精を出していた。つもりである。
〝理解できる部分が7割。よくわからない部分が3割。その比率は、ある種黄金的であり、その「わからなさ」こそが、読み手の触手を揺さぶり続ける〟
――的なことを『あくたの死に際』という漫画の記述で読んで、共感する部分があった。なお、完全引用は〝7対3〟の概念だけであり、上の段落のあとの文章は俺の勝手な解釈である。
――その〝3割〟の部分の高濃度の部分を書いていれば、それは疑問符も浮いたままになる。蚊に殺気も向ける上気。それは抑制できない。
言語の連打というストローク中にしか出てこない節がある。セクションがある。観念がある。しつこさもある。そういう風に書いては並べる文章の羅列を果たして小説と呼べるのだろうか? 文学として成立するのだろうか。そもそも、その境界線とは誰が決めるのか? と、疑問符がファズギターサウンドのフィードバック音のようにまだ肌を揺らがせては蚊、まだ居るけどどうでもいい。
主体を10並べる。境界線を10敷く。ブリッジを10架ける。それらを3人で代わる代わる書く。そんなの作品として誰が?
――僕も書いているからね。――そこも難しいのですよ。――なんなら書かせているのは僕かもね。――俺はお前のしもべにでもなったと?――違うよう。――じゃあやっぱ俺の仮説、合ってるよね。――何だっけ?――お前は俺のインターフェースでしかない。――全然違うよう。
主人公に俺を重ねる。自然なことだと思う。しかしだんだん主人公が客体となっていく。それだと乖離する。ゼリーでくっつける。――溶けちゃうよ。――溶かさないように、赤子の頬を触れるように書いてるんだよ。――さっき連打って言ったじゃん。――あれは俺じゃなくて主人公が書いていた。――は?――とにかくまずは後ろを見ずに書ききることが重要である。――その小説、出来たらどうするの?――まだ決めてない。――逆走してるの?――それすらわからない。――何してるの?――今書かないと一生その原稿に触れなくなってしまうことを今、今しかできない、今やるべきであると断じて具現化しているんだ。――そこに何の意味が?
7匹目の蚊を殺した。季節は新緑から雫の時期に。陽が主に真上になる月が続く。その頃には、開花の季節に応募した最初の結果がわかる。それがどうであろうと、机に向かって原稿を書くこと。それを続けること。〝途中の奴〟が引き返さないこと。そのそぶりを一ミリでも見せたら7回は殺されること。
そんな激しい顔して書いてないけどね。文章を書くのが好きすぎるだけの楽しい営み。そういう日々ばかりは、〝今しかできない〟に留まることではないことを祈りつつ。
_05/07
蚊がひとつたりとも顔を出さない。外野が居ない。では捗る。だが、仕事を思い切りやって疲弊。「今日は、あらかじめ決めているくだりだけ書いて、入浴して清め温め微睡むべし」と、決意した。
だが、難所しかない進行中の原稿を10枚ぶん書いた。文学って何だ?「わからない」。じゃあ、純文学って何だ?「何が起きている、よりも〝起きていることを作者の文体でそこに置く〟」。と、考え調べ考え唸りAIと壁打ちした結果そこに着地した。
結論が出ているスタイルで書く。それは、あらかじめ「アシッドジャズの楽曲を作ろう」「ドラムスとベースと歪んだエレクトリックギターの〝純ロック〟を」「アンビエントを」「売れ線の楽曲を分析して間口の広い音楽にしよう」というくらい、なんというか。だから、着地はまだ。
書き進めている第三作目の正体がよくわからないまま言語を重ねる。そこに痕跡はある。確実にある。だがあまりにも散らかっている。
例えるならばミスチルみたいな楽曲を作ろうとしているのに、桜井和寿さんの下の音域のハモりパートがない。しかし、あの独特な、エルヴィス・コステロ直結のような――個人の感想だが――、人の心にダイレクトに触れる歌い回しはある。
だから、その重要な痕跡はそのまま迷わず書く。しかし、ミスチルにあるまじき、くどすぎるギターのオーバーダビングパートも書いている。それらをどう、推敲で配置するか。削るか、むしろ和声をどう調和させるか。だが整えすぎると、今しか書けない本来の軸をそこに置けない。だから、遠慮なく書くことが指針としてあり、それを第八の章でも書いていたら何かが繋がり、書けた。
――書くのが難しい上に「俺は何を書いているんだろう」という感覚に不安をおぼえる。とはいえ、さっきふと、厠で水を流しながら一瞬で頭をよぎったのは「それが没作でも、そのままいける作品でも、他者の意見によるテコ入れで化ける作品だとしても、いずれにせよ」ということ。秒でイメージが浮かんだ。
――どうすかね。手持ちの作品として、こういうのがありまして。「没」か「編集込みでいけるか」で、言ったらどっちですか。前者なら即、そう言ってください。時間がもったいないですので。「拝見します。うん――」と。
結果的に世に出ないものを書いて「あああ」などとなっても、命までとられる訳ではない。と、厠の扉を開いてそう思った。
そこまでおおげさなな心境で書いている訳ではないけど、難しい上によくわからん。というものを書いている時の特有の楽しさというのもあるのだなと今夜、連夜、更新するように、改めて思っては「後で気付くことがいくらでもあり、現状で杭を打つべきではない」。などと思った。
虫がそっとしていてくれた湿度高まる一夜。自分のやっていることの意味を再考させられるような窓の外の静けさ。自分をそこに置くような営み。
――文学って何だ?「わからない」。――けど、〝置く〟というキーワードは川端康成の文体のように俺にヒントをくれたのだろうか。
痕跡を形にして、置きたい。という根源的な何らかは、ある種の原料なのだろうか。――それを仕上げて、置いて、はじめて、後から気付く。そうであることを信じることに意味があるのだろうか。後から、気付くと信じるのが吉だろうか。
_05/08
欲しいものに猪突猛進。好きなだけやりたいことを実施する。好きな異性に直球で求める。金はあるにこしたことはない。そういった当たり前の思考。
俺がどうとか、そういうのはいいか。などと思い小説を書く。小説にしようとして書くというかは、書かないと欲しいものが本気でわからなくなり、生きる意味が飛散。それを拾う気力と努力と再起動の原料が漏れてしまう。
そこまで考えて書いてはいないが、原稿を一旦閉じて今手を動かすと、グリーンランドで恒常的にゆっくりと漏れ流れる溶岩のように言語が連なる。そこの正確性に関しては俺も何を言っているのかわからないことが多々ある。だが、最近、ここ数年、いや、ここ1、2年に関してはその頻度は減っているが溶岩は常に流れる。
すさまじい時間だなとMacの画面の右上の数字を確認。急いで急いで今日を書く。そこに何の意味が? と、書くことがよくある。意味を知りたいのではなく、今日まであった営みの後にある今、何が起きているのかを知りたくて、今、後ろにあったことが何だったのかを気づきたくてそうしている。という風に考えると北欧からこっちに一旦、戻ってこれる。
――今日は疲れたね。――そうね。――いっぱい原稿に書いてたね。――そうね。――今書いてるのは「中編」だからわりと早く初稿が書けるんじゃない?――係りの者よ。――なんだい?――お前の正体がわかる。今書いている三作目の最終稿がどこかで発表できたらお前の正体がわかる。――こわいこわい。
白い蒸気の煙がMacの画面をすこし、霞ませる。マグマのような熱が起因ではない。何かを掘り起こしている感覚。「これは何だ」「何で俺はこれを書いている」と、その源泉にはいくらでも溶融体が。それが欲の原料なのだろうか。
欲のない男が欲を出せた。それだけのことを、実生活で、原稿に、それぞれ漏らす。どうやら、欲というのはまず思考して言語化させないことには具現化しない。――それは違うよ。
――何が違うんだ。
――もっと奥のレイヤーだよ。
――層?
――そう。
――どこの層?
――そこを書けば見つかるよ。
――欲って、見つけるものなの?
――それも違うよ。
――じゃあどうしろと?
正体がわかればそれが理解できる。欲を昇華できる。その先にあるのは、涅槃なのだろうか。わからないから書くしか俺には方法がいっさい思いつかない。今のところ。――後から気付くんだろうけどね。
_05/09
爪が伸びるのが速い。急がないと。のんびり研いだりでき続けるとは限らない。連想で生きると、爪の速度なんて思いもよらぬ日に。
SNSを見た。みんな急いでいるように思えた。どうしてだろうと考える時間もないと暗に。余計な節介は自分に跳ね返ってきた。目に見えるものは全て鏡だろうか。俺は鏡を見ることが日に日に減ってきた。その理由は速度である。
おかしな小説を書いている。急げ。誰に銃口を下唇に置かれては眉間に相手の焦点をあてられている。そんな風に書くのも、そんな分かりづらい比喩も、気がつけばずっと後ろに即座につく。
おかしな小説を書き続けては連休を抜けた。俺は連休してはいない。一日だけ、乞食ごっこして最高の時間を過ごした。それが安寧だった。その現場において時間に関心がなかった。しかし爪はどんどん伸びていく。
おかしな小説を一日、一章づつ、律儀に書いては「むつかしいなあ」と、どうして躓かないのかと訝しみつつ、気づけば最終章。それを今日書いては初稿を仕上げる水際まで。
何を急いでいるのかと思えど「10年後に発表の機会にありつけたら、なんならその時でいい」と、はっきり感じた。急いで、俺なりに頑張って仕上げて最終形を公募に出しても即死99%なのはわかっている原稿に疑いの気持ちが全くない。
頭と体は分離している。それじゃ死ぬだろ。大丈夫。松果腺がなんとかしてくれる。何言ってるんだ? という内容の本を読んでいる。世間の連休中に俺も。と、乗っかっては神保町で抱えた書籍にそう書かれている。誤読だったらごめん。デカルトさん。あなたが何者か、音楽で言ったらジャズの人か売れ線の人かパンクスか評論家かビートルズの系譜なのかもっと手前なのか俺は前情報としてあまり知りません。あなたの顔すらわかりませんし、調べるより読む。急がないと、わからないまま死んで後悔とか成就とか涅槃とか、どこに居れば俺は今生の――とか考える時間は実のところ環境音にかき消される。
――明日、何をするか決めていない。そうしているうちにどんどん伸びていく。伸びることが、カウントダウン。と知る。こわいこわい。
――今日、何をするか決めていた。そうしているうちにどんどん――と思っていた何かが着地点を炙り出した。でもそれは、水先案内人となるのかどうかが、よくわからない。
伸びることは数値化できる。だから、「よくわからない」では通用しない。
ただ、「よくわからない」は実のところ言語化できる。と、爪が伸びるあいだに何とかしたいのは、業と傲慢と貢献の三つ巴の涅槃の果て。はたまた入り口。
防波堤を観測していたような日があっても許してくれるだろうか。爪は。
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すさまじくなにもしていない。「マツキヨ」で血管年齢と血圧を測った。共に、健全値。安心して界隈の日光を浴びる。
しかし「過ごす方としては今日のディレクションは――」違うと思い、酒を買って宅で籠る。カーテンを閉めたまま。仕事部屋のソファに座る。これだ、と思い、飲んだり寝たり何もしなかったり――23時。ほんとうに何もしていない。
そういう日を求めていたか。血圧の安心な正常値がそれを物語ったか。と、善処する。ハイボール缶酒をまたひとつ開ける。
「今日、なんもしてないっすね」。――うん。いきつけの立ち呑み屋でいつもの若い店員のI氏と、ゴールデンウィーク明けのやや閑散をカウンターで共に愛でつつ、一緒に――「ジムビールハイボールください」――「ニキのいつものね!」――「うん」――「おいしょ!」――「ありがとう。しかし濃いねえ」――「哲学ニキのいつのもっしょ!」――「うふふ。いくつだっけ? Iさんは?」――「まあまあ」――「30歳くらいかな。うふふ」――「何でもできる年齢だねえ。時間軸の起点として――」。「哲学、てっちゃん。はは」――「なんだよう」――「いらっしゃいませ!」――「ふふ。頑張ってるね」。
そういう日。あとは寝室ではなく、仕事部屋で適当にすさまじくなにもせず、寝たり呑んだりソファで脚を伸ばしたり引っ込めたり「キュウウ………」と、肩甲骨をケアしたりと、休息の日。それが正当に、心地よかった。
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断続的に酒を呑んではアンビエント音楽をずっと聴いていた。生産的なことをしたい気持ちはあった気がしたが、そういった気持ちは沈んでいた。珍しいな。と、思って横になっていた。
おととい、「普段の幸福が急に、許されなくなった」というイメージが湧いた。俺が、ではなく、親しい人間がそういった状況に追いやられるイメージ。自分でも何を言っているのかわからないが、すごくそれが悲しいイメージだった。
昨日、休みだと思い、酒場などをふらついては楽しく過ごしていた。陽も浴びた。人と触れた。楽しかった。だが、そのまた翌日になっては今日。正当な気持ちにはなく、ほとんどの時間横たわっていた。気持ちが優れなかった。
――今、ようやく正当な気持ちにターンする感覚を覚えてタイピングしてはまともに言語が書けている。ほぼ何もしていないことについての罪悪感にも似た心境は、こうも筆致まで変容させるのだろうか。救いの言語がいくつかある。それを末尾に置くべきである。絶望的な気持ちという訳ではない。
_05/12
ある種、ずっと冷静に書いていた。俺と、あと2人居て、彼らと3人で書く感覚のスタイル。初めて中編小説を書いた。初稿が完成した。
これまで、2本の長編を書いた。共に――熱狂しては言語を連打しながら大量のページを重ねては、後に削る。削ぐ。透き通らせる。という順序で進めた。そのやり方しかできない、音楽的比喩だと「そのコード進行においてのそのキー1発でしか演奏できない」という風にも思っていた。でも違った。
――成立なんて無茶だろ。というコンセプトとアイディアで書き進めた。あまりにも難しくて「俺は何を書いているんだろう」と、毎日のように思っていたが成立、するんだなと案外冷静に、最後までその態度だった。中身はあんまし冷静ではない。螺旋がなんとか統合して最後に退く。そんなタイプなのだろうか。
――出来たなら早速推敲をして磨いて公募に出そう!――係りの者よ。――はやくはやく!――これはちょい、寝かせる。――何してるんだよう。二作目の方を応募した『文藝賞』の結果発表までまだだいぶ日数があるよ!――その結果を知ってからでもいい。それで、その間にまた次の作品も書く。――ネタあるの?――現状考えていない。――じゃあその中編の初稿をはやく!――まだ早い。――はやくはやく!――いや俺もね、何が書いてある小説なのかまだよくわからんのよ。――は?――ただ、何かがある。それがものすごく大事で、それが初稿にあり、成立している。――君が何を言っているのか僕にはわからないけど?――俺もなんだ。
自信満々に完成させてアウトプットしてスベる。よくあること。制作楽曲でも仕事で書いた記事や文章もそうだし、小説の初作品がそうだった。二作目は――結果待ち。頼む。としか言語化できない。
よくわからないけど完成したから出したら謎にウケる。それもあること。その時に思うことは言葉にならない。だが、三作目の初稿をラストまで書いた今なら言語化できる。それは、〝自分の意識の動きを、複数の人称の目線で捉えていたことを形にした〟ということ。
――どういう意味?――だから、自分の意識はずっと動いていてね。――うん。それを、たくさんの時間軸から色んな視点で捕まえて、捉えてね。――うん。――それを作品として落とし込むってこと。――また変な本でも読んで感化されてるの?――俺は変な本にはかぶれないよ。――つまり何?――俺が書いたけど、その内容がなんかいいんだけどね。――じゃあいいじゃん。――ただ、その意識の意味が、今の時間軸だと、まだわからないってこと。――そしたらなおさらさっさと出すべきじゃない。そうすればすぐにわかるよ。――まだ早い。――はやくはやく!――意識の変化の捕獲って、意図的にできる時と、〝待つ〟ことで後に一瞬で捉えられる場合がある。――ふうん。――意味わかった?――わかったよ。――じゃあ、まとめてみ?――疲れてるだけでしょ。
意識の移動。作品にはそれを書いたはず。だが、すぐにそれをジャッジすると死ぬ。それを本能的に察知している。
俺が今日ここに書いたことは、たった半分にも満たない気づきみたいなものかもしれない。でも、作家になって再考した時、きっと全てに満ちる理解に意識が移動する気がしてならない。そういう妙な祈りもあると、不思議で変な中編だって、ラストまで書けるんだな。よかった。
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意味がわからない、ということと、なかなか理解ができない、ということにはそれぞれの大切さがあるなと感じた。
正午から仕事をした。陽が落ちるまでした。その意味はよくわかる。そのあと、食事をしてキッチンで紙煙草をゆっくりと吸った。――何となくハバナの葉巻のことを調べていた流れで「たまにはアイコスじゃなくて」などと、触発された能動を解消した。それはアメリカン・スピリットの煙を眺めて考えなくても理解できる。
――煙経由で懐かしい安堵を得て、楽曲制作をしようと思った。次はそうだなあ。ロックサウンドを作ろうか。と、思ってストラトキャスターの弦交換をしようとした。しかし、その前に楽曲のコンセプトを考えてからにしてみよう。たまには。と、プロットを書くように考えた。
「そういう作り方はほぼしないな」と、やはり音を浴びてからにしようとSpotifyを開いた。何となく、ピンク・フロイドの1970年のアルバムを聴いた。
俺はCDセールス全盛期からiPodが普及した時代に、大量の音楽を聴いた。ちゃんと聴いていた。受けるように、読み取るように、時には分析しながらコピー演奏したりしながら、学ぶように、基本的には楽しんで聴いていた。
――それからしばらくして音楽ライターをやりだした。〝楽しまずに聴く〟ということを身に付けた。好みなど完全に捨てて聴くという態度を知った。それはそれでネガティブな意味合いではなく、仕事に必要なスキルなのだと捉えた。
――今日、ピンク・フロイドを聴いた。「牛」の全身が牧草と青空の間に位置しているジャケット。プログレッシブ・ロックにおいてとっても有名な盤。
冒頭の表題曲は「23:41」というすさまじい長尺。聴いていて意味がわからなかった。理解もできなかった。
しかし確実に感じられたのは、どれだけぶりかに、音楽を、映画を鑑賞するかのように、享受しているものが何かはわからないがずっとそこに居てしまうような散歩時の凪の時間のように受けられたこと。目を瞑り、たまにジャケットの「牛」の臀部を眺め、また音に集中した。椅子に座ってスピーカーの真っ直ぐ前で、ずっと聴いていた。
――そこから、〝情報〟としての音楽は聴こえなかった。自身、メロディや展開やコード進行を探るような脳の部位は作用しなかった。ただ聴いていて、時代に固定された意味のような何かをただ、聴覚と松果体あたりのみで感じていた。それが、適度にざらつく煙に包まれるような心地良さだった。
――いつの時期からか、少なくとも俺は、音楽をひとつの志向性で聴くことがなくなった。純粋に楽しんで聴いていた感覚は、気づかないうちにどこかに消えていたことに気が付いていなかった。
俺は、特筆してピンク・フロイドが好きという訳ではない。20代の頃に「重要なバンドらしいじゃないか!」と、探究心所以で何枚かのアルバムを聴いては「へええ」と、楽しんでいたくらいである。「牛」のジャケットの盤はその頃聴いたことがなかった。今日初めて聴いた。――しかし気がつけばその頃の感覚に浸っていた。
――現代の音楽は素晴らしいなあと思う。数え切れないほどの系譜から分岐してはそれぞれが縦横無尽に、各ミュージシャンがその恩恵を受けて、自身の才能を発揮し、感性を爆発させ、スピーディーに情報をまとめ、とても綺麗な音楽を世に放つ。今日も、ラジオから20代前半の気鋭のアーティストの楽曲を聴いては感服していた。その、あまりの綺麗さと情報量の多さに。嫌味を言っている訳ではないことを強調しないと。
現代のポピュラー音楽。情報量で言うと、正直、90年代あたりのブレイクコアやドリルンベースという、すさまじい音数とサウンドの意識の推移が著しい音楽ジャンルと比較すると、少ない。そこはベクトルが異なると個人的には解釈している。
しかし、そういったジャンルの音楽でも――さまざまな質の各楽曲があるみたいだけど――無心で楽しめる楽曲は多々ある。エイフェックス・ツインやオウテカなどはその代表格だと勝手に思っている。
そういった思考が言語としてではなく、感覚で出てきたのが、ピンク・フロイドのアルバムを通して聴いていた今さっきの時間。脳波が確実に20代の頃の水位で泳いでいた。
――では楽曲制作を。という気にはならず、ピンク・フロイドの「牛」のジャケットの盤を聴いては、意味がわからない。理解ができない。だが心地は良い。と。
「音楽を楽しむこととはどういうことか」と考えることは、「食事を美味しく食べることとはどういうことか」と考えるくらいナンセンスなことだと、こと個人的に思った。
何かに対して、意味づけることや意識を近づけては理解した気になることに、どこか常に執着している自分の態度に気が付いた。
それは良くないことではないと、こと個人的には思う。理解に努めることはむしろ善だと捉えている。ただ、「何でかはわからないことを感じるままにすること」も大切だなと、音楽を楽しんでいては、何らかの芯に触れた気がする。ただ、わからないことに執着する癖はもう不可逆なのかもしれない。
でも、ピンク・フロイドの意味不明なアルバムはそれを引き戻してくれた。情報を遮断し、聴覚と脳の奥の方だけ反応させ、小一時間過ごした。
――最近読んでいる本。今日、読み進めていたページにこんなことが書いてあって、しばらく次のページがめくれなかった。
“執着は不安の一部である。”
“希望は、極度に大きいと性質を変えて、安心または確信とよばれる。”
“反対に、極度の不安は絶望となる。”
引用部を分けて並べたが、書籍では一文としてこれらは書かれていた。人間の情念について書かれている17世紀、近代の幕開けとなった頃の一冊。日本で言ったら江戸時代。
そんな頃にすさまじいところ付いてるよね。と、率直に思った。特に――“執着は不安の一部である。”。思い当たるフシがある。だから、止まったのであろう。
俺はいろんなことに執着しているのかもしれない。昨日書き上げた小説もそうだし、その前に書いた一編ずつもそう。楽曲制作もそう。
それが“不安の一部である。”と、その書籍の筆者は断じる。心と体は切り離されているとも断じる。だが、それだと意識はどのようにして運動して、心の発端が体の動作などにどう経由して繋がる? ということに悩んでいるような文脈も、その公言が仮説であるようにも、少なくとも俺には、そう読み取れた。
「著者自身もまた、執着を不安の一部として感じていたんじゃないかな?」と、考えると同時に、そこに何か意味があるかなとも思った。
熱狂している行為が執着に変容すると不安がついてまわる。何でかって、それが成し遂げられなかった刹那に絶望するからだろうか。
などと感じつつも、今日、ピンク・フロイドを聴いている時間は、そのいっさいの感覚は無く、ただ、音楽に浸かるようなあの懐かしい、懐かしくなって欲しくないのだが、そういう感覚で楽しめていた。
人間は、思い出すことで執着から解放され、心と体とその繋ぎ目すらも解ける生き物なのだろうか。
それとも、極度に大きな希望を抱えて未来に向かう時にしか、執着からは逃れられないのだろうか。
意味がわからない、ということと、なかなか理解ができない、ということに、向き合うことって、意味を介さない大切さがあるのかな。などとも思った。
(出典:『情念論』デカルト著 ピンク・フロイド『Atom Heart Mother』)
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温度と摩擦が無いと音楽はつくれないだろう。と、経験則で個人的にそう思った。しかし十分仕事をして疲れていた。だから素直に、横たわると脚が収まりきらないソファに付いた。
サイレンの音ではなかった。耳のあたりを旋回する虫の声だった。手で振りきっても根本的には消滅せずにまた鳴り続ける。原則として知っていた。だが根を摘む精気が無かった。半時間した。
真空管を温めた。右までツマミを回しきれば緊急車両の音量を軽く超える。それを、少しだけ回した。温度のノイズが空気に触れた。ストラトキャスターに管を通してネックに触れるとノイズは軽微に。6本の弦を摩擦した。
――世界で一番売れた音楽アルバムは?――マイケル・ジャクソンのやつだよ。――じゃあ、二番目に売れたアルバムは?――AC/DCの「Back In Black」のギターリフを弾いた。
ロックサウンドをつくろうと摩擦しながらオリジナルを探った。今日は届かないという時間帯。軽く弾いて寝ようと思っていた。でも、指が喜ぶ感覚に届いた。しかしそれはどこかで聴いたことがあるギターリフの芽だった。俺が数年前につくったフレーズだ。少し、いや、もっと工夫しよう。そうだ。ミッシェルガンエレファントのあのすさまじい摩擦のカッティング・アプローチの系譜を辿ろう。足そう。
それっぽくなった。それっぽい。とりあえず、アンプから出力する音をアイフォーンの録音アプリでメモをとった。プレイバックしたら端末が時間を数秒ほど戻した。じっと聴くと、「これを根幹に曲が出来る」と判断の腺が触れた。それっぽい。いかにもロックサウンドの〝顔〟となるギターリフだ。でも、それっぽい。それっぽいだけだと面白くない。根本的に何かを変容させたい。
あまり考えずに工夫を重ねたかった。と、腕を組んだら直線的に左手が反応してストラトキャスターのヘッドに触れた。ペグを全部時計回りに一回転ずつ捻った。普段はあまりしないが、チューニングを全部下げた。半音下げチューニング。
――1980年代に流行った手口だよね。――うん。チューニングを半音下げるだけで謎に悪〜い響きになる。――ハードロックやメタル界隈で多用されたね。――そう。最近の子はほとんどやらないよね。――もっと昔、そうだね。1960年代あたりにも実は――ジミ・ヘンドリックスも半音下げチューニングでよく弾いていたと。――そっちの〝色〟のアプローチなら好きでしょ?――好きだねえ。
半音下げて同じフレーズを弾いた。違和感があった。アウトサイドといった意味合いでの悪い響きがした。だが、フレーズを手に馴染ませるべく弾き続けていたらノーマルチューニングの時よりも明らなる温度があった。弾き続けていたくなるフレーズ。感性を判定させる腺が断じた。でも一応と、下げた状態のフレーズもアイフォーンにメモした。聴き比べた。サイレンの音を一瞬で察知するかのようなタイム感。これだなあと、楽曲の種が、温度と摩擦に任せた意識から出てきた。
昨日は楽曲のネタすら出てくる気がしなかった。だから受けるように音楽を聴いていた。出来ない時は何時間唸っても出来ない。出来る時は、固定させない意識から漏れ出る。
――昨日今日と、DAWは開いていない。もし開いたとしても、その画面の前で座り、ギターを構えて考えていてもDAWには波形ひとつ保存されなかったと思う。でも、温度とか摩擦とか真空管とかサイレンとか虫とか疲労とか、そのへんを意識の外に投げ出してからギターにストラップを付けては立って弦を触るとすぐに出た。不思議だなあと思った。
インターネットやクラウドという現代の形而上に意識を半分以上置く日常。そこから離れると、その上か下からかふっと出てくることがある。それは原始的であり現代で生きるにはあまりにも非効率的なのだろうか。
感性を判定させる腺が断じる瞬間はそういう時に多い。他の人がどうかはよく知り得ない。
温度と摩擦は意識と繋がっている。だけど、いつでもそこに置かれてる外部のいろんな意識にまみれると、繋がっている腺が反応しなくなる。というような気がするけど、それこそチューニングの変容一発で解像度が確定する。意識とチューニングは親戚なのだろうか。
――そんなもんよくわからないけど、ゼロがイチになった瞬間のあの感覚は、いつまで経っても20代の頃の視座。
真空管アンプの温度と弦の摩擦にだけ意識を置くと、いつだってその頃に居られる。それが、いつになってもすごく嬉しい。
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資本主義において、搾取される。得るものに限界値が設けられる地獄。気づきづらい地獄。それを〝日常の一般〟と捉えさせる。麻痺させられる。
――搾取する側。毎日何だって食えるぜ。呑めるし。おや。すんごい女が居るね。こっちにおいで。それを維持する。そのためには毎日数字を、「1」でも、死ぬまで更新し続ける必要がある。資本者も地獄。どっちも似たり寄ったり。
絶対理解できなさそうな『資本論』というマルクスさんの有名な書籍に興味を持った。
俺はそれを読みもせず、上のようなことを――「きっと、そこにはそういうことが書いてあるのかな」などと思索を巡らせては、当該書籍の購買意欲も見せずに空を眺めて思った。
どっちも地獄なら、今世は仮想の遊戯だと見なして、割り切り、両者いってこいの騙し合い。狂犬がどっちかは実は互いに気づかない。そんな世界が資本主義。かな。などと煙を吐いた。
俺は、芳醇な資本を手にして、それを維持しながら、「1」を数字として積み上げる。――そういう鬼ごっこは向いてないな。と思った。だから、鬼が散っている場所にそっと置き、それに触れては幸せそうに笑顔で生産的に爆死してくれるような何らかに執念を注ぐ方が面白いな。と、思った。
報酬欠乏症候群。
何のことかというと、カタカナを連打すれば正確に説明がつく「症」。とはいえ端折ると要は「いつも足りない感」。だから劇薬を求める。
す〜ぐキャバクラへ行く。過度に酒を酸素のように取り込む。ギャンブルを親の躾の如く信じる。リストカットの古傷が肩から順に肘を経由して手首まで。若い傷がある。相手のそこに接吻しては喜ばれると思っている愚人が居る。遊郭で加工された写真を剪定してはベストな姫を求めて帰りに金額欄無記入の領収書をそっとしまう。
そういうのは全部楽しい。でも乾く。その湿度を適切にする方法は二択なのだろうか。奪われるか、奪うか。それは違うかなと考えた。
過不足でも逸脱でもない。中庸。そこが唯一の天国なのかなとイメージした。だが報酬欠乏症候群。
――〝生まれつきそうである〟という人もいる。らしい。エビデンスは無いから経験則で事実を。
三つ上に羅列した島々。俺はギャンブルだった。信じていた。だが、それはただの執着であり不安が根幹だった。
〝博奕のスリルをダウンヒルでドリフトして味わいたい〟という興奮の希求は自分を騙す簡単な理由。一次感情は不安。それを黒色に近い雲泥と捉えて小さなブラシで時間を贅沢に溶かしながら塗る。誤魔化しとも言うだろうか。
そういうのはもういいや。と、禁忌とした。やることが真面目になってきた。しかしその真面目の成果は資本者に搾取されてしまうのだろうか?――という思考は今生では何色にもならないと思った。だから、『資本論』を読む意欲は湧かなかった。
そんなことより、と、ギターを構えた。筆を取るように言語を連打して小説を書いた。そっちは今、寝かせる期間。じゃあ、と、ギターを構えた。昨日に色が見えたものを具現化したい。そこでFR車のケツを滑らせたい。
――まだ何色かわからないから今日はDAWを開いた。様々な管を通して、インターフェースを通して、機材を通して、半音下げチューニングで演奏してはDAWに波形を示した。
トイレに行くのを我慢してずっとギターを弾いた。昨日のメモをスケッチにしたかった。出来た。スケッチだけど――DAWを閉じる寸前に打ち込んだレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのような色をしたドラムスと、ギタートラック1本の音の波形。それをプレイバックしては「これは出来る」と、薄気味わるい方向に口角が上がった。
――欠乏した報酬のかけらは操作できる。それをどうすれば、というと、疲弊しながら作業しては、やっと出てきてくれる合法ナチュラル・ハード・フィジカル・ドラッグを脳内に巡らせる以外に――。カタカナを使おう。
ドーパミン。エンドルフィン。オピオイド。どうも危ない語感だが、ぜんぶ脳内で自家発電できる。
――そっちの方が健全だよ。――健全だって?――うん。――それは搾取されないのか?――そのへんどうでもいいと思うでしょ?――だからギターを弾いたと思うけど。――そうなの? 疑問符が付くくらいなら『資本論』ちゃんと読んだ方がいいかもよ?――いいよそれは。その本、冒頭の俺の想像が締めくくりな気がしてならないんだ。――偉人に失礼でしょそれは。――想像することも許されないの?――それを決めるのはどっちでもない。――どっちがどっち?――最初に君が書いていたじゃん。
得るものに限界値があるとすれば、もしもみんながそれをあらかじめ知っているとしたら、明日起きる気力は失せるのだろうか。
こと、俺はわからないから、明日も元気に起きては――資本の資本を得ようと、とても楽しい気持ちで図書館にでも行くのだろうか。その場所には、答えがいくらでもある。でも、式は、残酷なくらいに人を選ぶ。
それを、どう楽しむかということにはとても興味がある。だから、今日も幸せに一日を過ごしては――何でだろうか、最近ずっと20代の頃に和んでいた河川敷の匂いが脳を突く。とてもいい匂い。
_05/16
9時を指すアナログ時計を見ては寝室、翌日の夜だと思っていたら扉の向こうが明るいので驚く。呑み過ぎて時間感覚が12時間ずれていた。
よくないなあ、と安堵もあるが反省もする。そこまで呑んでなかった気もするけど――と、昨晩、謎に赤羽に居たよしお氏との邂逅を想起する。楽しく呑んでいた。
振り返ると、飲酒以外特に何もしていなかったなと朝9時に記す。活動日と休日の差がはげしい。もう少し寝て、前向きに過ごそう。短いな。
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陽の高さが嬉しかった。あと何時間もそのはずだ。五月の夏日の恩恵を優しく享受。その思いをぶらさげて、小さなバッグを左肩にかけ、歩きに出る。
京浜東北線の先頭車両に乗車。前には線路が伸びる。運転席をしげしげと見る。こんなに大きな車両を制御。車掌さんはさぞかし忙しく、手足を動かし目線を標準に合わせ、きっと大変なんだ。そのはずだ。ふと、帽子をかぶった後ろ向きの車掌さんを見たら何もしてないように見えた。いや、それほど運転機能が発達しているのであり、何もしていないなどというのは俺の誤認に違いない。
――JR東十条駅で下車し、叡智の森に直進した。そこには見識の芽がたくさんある。数万年も先輩の大木だってある。そこに行けばいつだって俺は今生の営みを噛みしめられる。今日だってそうに違いない。緑が生い茂る公園を抜け、図書館に向かうと、透明な扉の向こうでは「本日休館日」という看板が仕事をしていた。
読みたい本がたくさんあった。めぼしをいくつか付けていた。しかし。と、思い――近隣にある謎の文化会館に探求へ行くことにした。精気の羅針盤は文句ひとつ言わずに俺の舵に優しく触れた。
大きな公園があった。螺旋ルートで通行しては緑の呼吸を四方から受けた。水の無い川があった。人工的な川だった。乾いた路を歩いては子供のような歩幅になった。水が流れていたらもっと楽しいのだろうか。いや、この本来の姿ではない状態を楽しむのが乙なんだ。両方の位相でそれぞれ考えた。
文化会館の背中についた。静かに佇むその未開の場所には、これまで一度も入ったことがなかった。謎の文化会館が静かにそこに、とても静かに、静かすぎるな。俺は薄々察しつつも正面入り口にまわり、「本日休館日」を示す何本もの棒が横に、シャッターの役割を確認した。
激怒が妥当なはずはない。大人の俺は入り口付近の日時計に意識を向けた。何十年もそこにあることは、その古びた姿が物語っていた。「古代のようなその造形で時間を示せるはずがない」。そう思って、日時計の前に立つ、直線ではない不思議な形で短くそびえ立つ棒を見た。それを経由する影を見た。周りには数字が12個、丸いフォントで並んでいる。影は、その数字の「4」を少し過ぎた位置に落ちていた。現時刻を示していた。
感心した俺は、館の外にも文化があるのだなと納得し、その場から離れた。ばらばらといくつもある団地群を横目に歩き続けた。古い団地が多かった。その造形に見惚れていた。なぜ古い集合住宅に惹かれるのか、いまだに自分でその感覚を言語化できない。しなくてもいいのかもしれない。ただ、愛でるように、無骨なコンクリートの集合体に眼福をおぼえた。
目的が二つ飛んだ。などと悲嘆な気持ちとはならず、ただ、界隈を歩いては陽の高さを嬉しんだ。五月の夏日の恩恵を優しく享受した。それが目的だったではないかと、満足してはブックオフ十条店経由で帰宅した。何も買わずに、夜の肴だけ近所で買っては部屋に戻った。まだ陽は高かった。
することはあるが、高出力の日が並ぶと人は疲れるのだな。と、呑み散らかしてはその鋭気を養っていた昨夜を想起した。精神の洗濯。みたいな綺麗事ではない呑み方だったような――と、ついでではないが部屋中の掃除をした。だんだんと陽が落ちてきた。ふとソファに座ると、日時計の影のようにアナログに指し示す心身の状態に意識を向けた。意識を、柔らかいソファに落とした。140分が経った。
するとすさまじく良好なコンディションとなり、自分を制御する声に正直に従うことの大切さを体現した。ただ――今日は仕事やら何やらという日ではないとずっと思っていた。だから、そのまま近所に食事に行き、戻り、『頭文字D』のアニメをしばらく見ていた。
ハチロクとロードスターが峠をダウンヒルするだけの描写がどうしてこんなに面白いんだろう。と、ただ楽しんでいた。そういうものを俺も、つくりたいな。と、やはり、と思ってDAWを開いた。ギターを構えた。半音下げチューニングで演奏してはいくつも波形をDAWに走らせた。
ギターリフ以外思いつかない。展開の仕方が出てこない。じゃあ、リフ一発だけの15秒ジングルとしようか。などと妥協ベースでギターを弾きながら案じていたがそれはどうも許せない。という思念が展開を練り出した。ひとつも考えていなく、ただ、弾いていたら出てきた。そうなってくるとあとは話が早い。電車を半ばオートマティックに運転させるように、マニュアル車のミッションをせわしなく変えながら右足を横に向け、アクセル・ブレーキと独特な角度で踏んではFR車のケツを滑らせるように、楽曲サイズ確定まで制作が進んだ。
休んでいるよりこっちの方が。などと思い、さらに満足してDAWを閉じた。スケッチが出来た。とっくに陽は落ちていた。
日時計は夜に機能しない。翌朝までお休みである。自然を利用した文化の日常。俺もそうあるべきだろうか。と、今日は少し早めに寝ようかと一日を振り返った。
図書館に行きたかった。謎の文化会館で探究したかった。そしてそのあとは休んでいたかった。そう過ごすつもりでそれが楽しいはずだ。そうに違いない。
だが、そうはならなかった。だが、そうじゃない方で楽しめた。今生の営みを噛みしめた。
そこに影があるとしたら、12あるうちのどの数字に影を落としては何を示しているのだろうか。などと考えた。それは、見えない方が幸せなのかもしれない。などと思った。
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ジミ・ヘンドリックスの盤をアナログレコードで聴いた。何度もCDで聴いたアルバムなのだがレコードだと全然違った。
「どう?」と村上氏。俺は、ジミヘンのあまりの音圧に語彙が吹っ飛び「マーシャル・アンプがそこにあるっす」と、バカのような感想を目を丸くして言ったところ笑む村上氏。いつだったか、けっこう前に村上邸において体験したことである。
〝目の前に実物が〟という錯覚をリアルに表象させることは究極だなと、改めて感じた体験。
――夜、DAWでドラムスの打ち込みをしていた。曲調は、天然無添加ロックサウンド。目の前に実物が――そういうのが見えないと、ただの打ち込みになるのかな。
ともあれ、目の前に実物をあたかも知覚させるほどの打ち込みは魅力的。しかし、それを施すのはすさまじく難易度が高い。だが、長年の制作体験蓄積という中年の意地でドラムスの打ち込みを限界まで生演奏に近づけたかった。
「理想は、NIRVANAのデイヴ・グロールとLed Zeppelinのジョン・ボーナムの重厚かつ繊細な強弱も兼ね備えたグルーヴ。あのマッチョな感じ。Red Hot Chili Peppersのチャド・スミスの逞しくもどこか制御されたBPMのキープ感も重要だ」
と、まず無理であろう打ち込みを地味な姿勢で行う。テンポを正確に刻むクリックは鳴らさず、昨日スケッチしたギター1本のミスりまくってズレまくってる演奏を指揮者として、そこにドラムスの拍を合わせる。
ドラマーの〝タメ〟を再現するために卒倒するほどスネアを後ろにズラす。頭拍のキックとクラッシュシンバルの位置も思い切り後ろに。ニルヴァーナ的だろうか。しかしセクションがチェンジしたらほぼクリック通りの位置に戻す。レッチリ的だろうか。キックの細かい連打を裁縫をするかの如き精度で打ち込む。初期のツェッペリン的だろうか。ドラムスのサウンドスケッチもする。打楽器の空気感を滲み出すべくワイドに――広げて――コンプレッサーでもって――LRをやや拡張して――とかやっていたら「半裸のマッチョなドラマーがそこに居るっす」と、閾下の判断基準の物凄い正直な奴の声が聴こえたのでDAWを閉じた。
実に地味な作業だが、これを先にやっておくと本録音がとっても楽しくなる。と、経験則はそうなのだが一体そこまでやる必要がどこにあるのだろうか? 誰も気づかないかもしれないぞ? とも思うが、そんなことは――。
――制作をする前に『頭文字D』のアニメを観ていた。峠をダウンヒルするだけの描写が8割くらいなのだが面白い。なぜだ。と思い、その視点で観る。
――大昔、本当に大昔、今は疎遠の友達と埠頭にドリフトをしこたまするだけの危ない連中の見学に行ったことがある。
アスファルトとタイヤが擦れて発する匂いを今も覚えている。ギャラリー達の何ともいえない雰囲気の喧騒が記憶に残っている。耳をつんざめくヒステリックな摩擦音が辺りに広がっていた。際どすぎる運転でコーナーを滑り倒す光景は恐怖でしかなかった。だが、妙な興奮があった。――大昔にそういうことがあったというだけの話である。
――『頭文字D』のアニメでは、俺が実際に観た、ギャラリー視点でのカット割りまでが克明に描かれていた。観ている者達の声も、感想の声も、なんならあの焦げ臭い匂いまで感じ取れそうなリアルな描写。ディティールのこだわりをそこから感じ取れた。そういうのを観ていると、元気が出てくる。
だからFR車のケツを俺も滑らせたい。という訳ではなく、キックやスネアやシンバルの音を、音楽的体験を頼りにズラしていた。するとライブ中の演奏によって発せられる、ミュージシャンのあの特有のエンドルフィンの匂いまで感じられた。と、表したら言い過ぎだが「ドラマーがそこに居る」。やっと見えた。と、声が出た。
でもそこに数時間もかけるのはあまりにも非効率。今だったらきっとAIで出来るかも――とも思うが俺はまだまだ出来ないと祈りベースで信じてはちまちまと。
語彙が吹っ飛び「マーシャルアンプがそこにあるっす」という正直な音楽視聴体験。現場での生ドラムの圧倒的音圧とレンジの広さ。実際に叩くあの感動と昂り。
それが原料となり、興奮の匂いを手繰り寄せる。効率が良くないとは思えど、それがとても楽しい。
音源を聴いているのに顔面の前にマーシャルアンプが見えるかの感覚を引き起こすべく作業を、どうしても捨てられない。煙の匂いもアンプの生出力もドラムスの音圧も。それが今だに、判断基準なのだろうか。
〝目の前に実物が〟ということは現代的ではないのかもしれない。でも、最終的には、そこに戻ってくる気がしてならない。とか思った。
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見方、捉え方、受け方。文脈によって、他にも意味が微妙に動く〝アスペクト〟という言葉。それについてずっと調べてずっと考えてけっこう延々とAIと対話していた。仕事をしながら。人それぞれ感じ方がアナログに変化したり、比率などの数字のように固定されたりもする。アスペクト。
ひと通り仕事をしては陽が落ちた。休憩をした。描写のほとんどが夜の峠のアニメを観た。何がどう面白いんだろう、と見方を変えた。昨日とはまた異なる角度でそれを捉えようと、画面から放射線のようにいくつも表される線の一つか二つを捕まえては手繰る。――何かに似ていると感じ取れた瞬間があった。
一話観て、ある山場があった。それは誰もが思いつかないような描写だった。そこ以外は、淡々とはげしくも、筋を通り抜けるように最低限の説明が機能する場面の走り方だった。平坦と感じることもあり、冗長とも思える部分も多々あった。
しかし、短い尺の山場があることによって、その一話すべての場面が然るべく機能していることに気がついては「物語を受ける醍醐味」を新たに得た。そう捉えられた。それは、何かに似ていると感じ取れた。
――ずいぶんつまらない情景描写が続く。だが緊張感を保っている。たまにズラす。正道に戻る。意表を突かれる。山場がくる。その意味に気づいては全体が機能していることに畏怖する。――面白いと感じる文学に似ていると思った。
――ただ峠を2台の車が走るだけ。それがメインのアニメにはそのようなアスペクトがあるのだなと、今日改めて感じられた。昨日までは、表面上の描写の格好良さやディティールの細かさに感心していた。でも今日は、「構成と各場面の機能美」という点にアスペクトが動いた。
別の分野も全部そうじゃないか。と、思った。
文学の例もそう。他に例えは――漫才。ずっと爆笑しっぱなしのネタはそれはそれで快感を得られるが、「その一言」の位置に属した爆笑を引き出す場面のたった数秒のために、尺すべてが別の機能を――笑うところではなかったり――していたら、爆発力がまるで違う。ある種の、純度の高いカタルシスを得られるのはこっちのほうであろう。
音楽ライブもそうだと思う。ベスト盤みたいなセットリストだとそれはそれで楽しいが、「はやく終わらねえかな」という曲目がいくつか散りばめられ、ここぞという位置で待ってましたの曲目のイントロが流れると会場は割れんばかりの悲鳴が飛び交う。――そういうのを、仕事でも、そうでない場合のライブでも、何度も体験した。
人生順風満帆大成功の野郎が居るとする。その輩の文脈を話で聞くとする。誰もが一緒のアスペクトであり、付け入る隙もなければ余白もない。「すげえっす!」とか単細胞みたいな感想しか、誰しもができない。別に成功者をひがんではいない。
他方で、恐ろしく地味な期間があったり、死にかけた体験を笑い飛ばし、しかし、些細かもしれないが――と、他者からしたらすさまじい功績をそっと数秒でそこに言葉として、山場として置くとする。すると、その話を聞く誰もが別々の捉え方でそのドラマティックな人生を讃えるだろうかと思える。
そういう風に思った。重大なヒントを得た気がした。
ほぼ、峠を車が2台走るだけのアニメを見続けては数日目。その要素と機能美とアスペクトが〝切り替わる瞬間〟を創作に活用すれば、もう一段も五段も質が上がるのでは。などと思い楽曲制作をした。小説は、着手中の楽曲が完成するまで寝かせることにしている。
その間に、ただの休憩中の思いもよらぬ場面で思いもよらぬアスペクトが生じる。そういうこともあるのだな。と、きっと無意識下で感じていたからその言葉の意味を徹底的に調べていたのかもしれない。
――それを経てからギターサウンドを詰めると、昨日とは機材のセッティングをかなり変えることで「これだ」というサウンドに辿り着く。不思議だなと思った。昨日の時点で「ギターの音はこれでよし」と思っていたがアスペクトが「こっちもあるよ」と、レイヤーをズイと差し出してきてはそっちかと。コンパクトエフェクターとラックのコンプレッサーのツマミをずいぶん捻り変えた。すると「これこれこれこれこれ」と。
見方、捉え方が変わると世界の受け方まで変容する。と言うと胡散くさい自己啓発本みたいな表現なのでそっとしまう。
アスペクトの動きを疑うことでその動きがすべてを光らせる。と言うと格好つけすぎなのでもみ消す。
〝アスペクト〟という言葉の意味を執拗に探求することで、すべての動きに敏感になれることもあるよね。――くらいでいいでしょもう。――俺もそう思う。
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「目を覚ませ」と言われると、自身の意思と行動が夢物語であることを鋭利に突かれる。「じゃあ、君は目を覚ましているのかい?」。と反論すると、粘土のような表情で一言くらいの正論が返されるだろうか。
誰かが「目を覚ませ」と言う。それは大勢。思いのほか大多数。
目を覚まして過ごすと、あんなにたくさんあったルートがひとつにしか見えない。そこを大勢と進む。
でも、そこは完全な「円」のどこかの各位置でしかなく、黙ってとどまる〝場所〟のようなところ。動いているのは円。個々は別に動いていないけど、大勢と一体となった自分が一緒に動く。それこそが正しいのかもしれない。
――目を覚ます前は、意識が動いていた。透明な能動が何かを動かそうと、何かに触れようと、楽しくあったりそうでなかったり、どうにもできなかったりと、いろんな見方を切り替えてはあちこちに行った。どうにか進んでいる気がしたりする。
でもその先には円がある。その場所は自分の意識では動けない。ただ、円の、決められた位置でほとんど黙っている。動く意識は〝自分の所有〟ではなくなるのだろうか。
目を覚ますと死ぬ。どこかで、わかっている。でも理解の方向に行くと自分の意識が動きが鈍くなる。だから、抵抗するように、意識を自在に動かせる場所にこだわることがある。
基準として死がある。それでも生きて営む。けれども物語に終わりがあるように、そこに向かって進む意識だけが動く。
その動きの中で何を得るのだろう。わからないまま目を覚ますと、円に乗っかって意識が眠る。でも、そういった円はそもそも存在しない。
――わかってしまうと目が覚めてしまう。だから、「今のうちに」という精気が踊るリズムから外れないうちに、黙るまでは何かに、自分に、目が覚めない間だけ信じられる祈りを続ける。
目が覚めると、届いたのか得られたのかが、わかってしまう。その理解がグラデーションとなっている長い間が、今という感覚なのだろうか。
他者と自分が存在していると意識できる今という時間だけが延々と連なる。けれども、どこかで、存在しない円に乗る期限に達する。
――目を覚ますということは、本性を適正に覚醒させること。となると、すべてがひっくり返る。
――と、〝目を覚ます〟ということは、呼吸ができる間にのみ許された自発的なきっかけであって欲しいなと思いながら、今日も健やかに過ごした。
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正午前後から仕事をして陽が沈むと峠を車で走る描写のアニメを観る。少し仮眠をして深夜にDAWを開いて半音下げチューニングで自作のフレーズを突き詰める。――という配列の営みを連ねるところ、4日間だろうか。どこか無意識に、規則だったタイムラインで過ごしていた。
〝タイムループ?ってくらい同じ日々が続いてません?〟
高崎線直通湘南新宿ラインで移動中、上のような感じのキャッチコピーで掲げられる広告が視界に入った。俺は激怒した。しかし、冷静に分解して考えた。
車両移動時間には――9割の方々はスマートフォンを正面として首を斜めに傾かせている。読書をする者も居る。寝てる人も。疲れてるのかな。大変ですね。様々な過ごし方がある。――俺は、そのどの選択肢も摘まずに、目の前の広告を標的にした。黙っていられない心境に着火したのである。
2つ、論点がある。まず、〝タイムループ?ってくらい同じ日々が続いてません?〟。というのは、〝同じような毎日で退屈ではないですか?〟と、印象付ける狙いが見え見えである。なぜ、そこを突いて気を引こうとする。
次、〝同じような毎日〟。それを繰り返すことを非難するように捉える者が過半数で、それを対象としている意図が透けて見える。なぜ、それが〝善ではない〟などと認識させようとするのか。
――「特定の一日が何度も繰り返すこと」のような日常をあたかも非難するための武器として掲げることは扇情的であり挑発的。
車両内が揺れた。俺は思わず吊り革に右手を伸ばして広告全体を視界の中央に置いた。キャッチコピーの着地点は――。
「そんな日常にたまにはご褒美を」的な感じだったと思うが、テキストと共に冷たい菓子の商品が並ぶ描写。そういった広告であった。
――被害妄想だよ。――黙っててくれ。――いいじゃん怒らなくても。――怒っていない。これは憤慨というんだ。――他人も巻き込むの? その個人的な粗探しの末の猛抗議に。――抗議などではない。〝タイムループ〟の言語を日常の退屈さのようにも見せる、その使い方に異を唱えたいんだ。――メーカーさんにまじで怒られるよ?――黙っていてくれ。――知らんぞ知らんぞ。
何かを成し遂げるには。素敵な家族を築くには。追求の果てに涅槃をみるには。
必ず、〝繰り返しの営み〟が必要不可欠である。こと小規模かもしれないが、俺は今日あたりも楽曲に録音するためのギターパートを「それなりのかたちにはなる」というレイヤーの向こうの「弾き込んだ生々しさと熟練の味」を出すために、つくったパートを繰り返し練習しては「まだいける」と、最後のレイヤーまで達するべくストラトキャスターを弾き込んでいた。――時間も時間なのでギターを寝床にそっと置いた。
しかしあの広告が憤慨の火花を再び飛散させた。日々の繰り返しを指摘して人の目を引くだと? ナンセンスだ。古代からその繰り返しの日々から様々な発展を経て今がある。そこで〝タイムループ?ってくらい同じ日々が続いてません?〟と、きた。この野郎。なぜ、たったひとつのそのキャッチコピーで人生を非難されるような気持ちにならなければならない。おかしいだろそんなの。
――おかしいのは君だよ。――なんだと?――広告全部見たんでしょ?――乗車から降車までずっと見てたよ。許せん。――どう考えても君が裁くシーンじゃないでしょそもそも。あのね。――なんだよ。――非難じゃなくて、「毎日繰り返しの努力をお疲れ様。たまにはオヤツもね!」って捉えられないの?――いいや。あれは扇情的だ。極めて巧妙なセンセーショナルだ。――君は格好のターゲットだね。
ただなんとなくその広告を見た場合、俺は激昂しない。だがそうではなかったがために、〝タイムループ〟という言語の使い方が、その場面においてのその使用法に対し論議の業火を浴びせ叩きたい心境にと瞬間沸騰した。しかし――確かに真逆の心境で捉えることもできる。〝だまし絵〟を思い出した。
――見方や捉え方次第だよう。――アスペクトの転換のことか?――むちゃくちゃ考えてそれについて書いてたじゃん。こないだ。――書いた。――そうすると?――なんで俺は激怒していたのかな?――ひとりで過ごす時間が多いから誰かと議論したくなって頭に血がのぼったんじゃない?――なんだと?――ほら。
〝タイムループ〟とは、ある種の惰性とも、事実としての努力の積み重ねとも捉えられる――比喩として――。そこにグラデーションがある。使い勝手の良いフレーズ。
きっと、キャッチコピーを考えた方は、言語と向かい合う日々を繰り返し、現在の生業で今を営みその広告を打ち出した。最高に美しいじゃないか。だからあえて、表現としての意識をずらせるフレーズを選択した。すさまじく高度じゃないか。素晴らしい。広告は気を引くことが最重要。あとは意識に刻印させれば成功。それが商品の売れ行きに直結する。つまり、あの広告は確実に成功していると断じられる。
――それで怒りが冷めたと。――はじめから怒ってなんていない。――わかったわかった。あとね。――なんだよ。日常の繰り返し非難問題は本文中盤以降で否定した。――それだけ?――最初、非難から入りました。――それだけ?――野暮な指摘でした。――それだけ?――土下座したほうがいいかな?――大変なんだよ? 企業の看板背負って広告を出す側も。――申し訳ございませんでした。
明日も、今日と同一の時間軸で過ごす予定である。そのなかで、高崎線直通湘南新宿ラインの広告のそのフレーズを再び視覚として確認して、印象がどう変わっているかを確認せねばならんというよくわからないタスクができた。
いずれにせよ、あのキャッチコピーは日々の繰り返しを尊ぶ〝役割〟を担っていると見なすのが妥当。
案外、場面による言語の使い方にある種の〝遊び〟がある方が、実のところ正解に導かれるという現代の訴求スタイルにこう、恐れ入りました。あと本当にすみませんでした。
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数日重ねて同時系列。過ごし方がほぼ一緒。それを今日も重ねて積んでは前進と。なるはずなのだが進まない。ということ往々に。それを肌で感じて悶々と。なるはずなのだが吟味する。
仕事は普通に進む。そのぶん対価が積まれていく。それはいい。インプットを積極的に、というか単にハマッただけなのだが『頭文字D』をじっくり観る。あらゆる角度からコーナーをブレーキングで攻めるように様々な視点と捉え方が生じて創作の土壌が広がり深まり浸透。必要な吸収と見なせる。
楽曲制作を進めようとメインギターパートを録音。昨日しっかり練習した。でも今晩、渾身のワンテイクが弾けると思うも弾けなかった。明日、プレイバックしたら「出来てるじゃないか」というパターンはけっこうあるのだがわからない。ただ、弾いている最中に「間違いなくこれは聴き返すもなくこれだ」という感覚がなかった。地味に悔しみDAWを閉じる。
――〝走る〟という比喩がある。それは、演奏においてテンポよりも若干速いスピードになること。
「走ってる。平吉、また走ってる」と、バンドのドラマーによく言われたのは10代から20代の頃。「――いつもの突っ込み癖が」と、レコーディングエンジニアにも言われたことがある。それは若気特有のものだったのだろうか。最近それがまったくもって無い。
それはむしろいいことなのかもしれなが、こと、勢いが必要なロックサウンドにおいては、やや〝走っている〟くらいが素敵で輝かしくなることがある。それを、今日は狙って演奏した。歳か。と思った。狙わなくても指摘されるくらい走っていた頃と今の〝差〟を吟味してはそう判断できた。認めざるを得ない〝突っ込み癖〟の消失。目を細めて呼吸を浅くした。
すごくシンプルでスタンダード寄りのギターリフ。16ビートの畳み込みポイントが要のフレーズ。そこに必要なのは自然な体感の〝走り〟なのだが、それを意図しないとできなくなったなと、吐き出す煙がしぼんでいく。
とはいえ、練習をすればするほど、むしろ制御された突っ込みの16ビートの畳み込みとはなる。その感触が得られたのが今晩。だからもっと時間をかけて詰めたい。とはいえ、もう録音トラックは成立しているのだから次々と、急いで仕上げるべく、今日のを採用する。いや、それよりも――と思った。
「60%出来たらどんどん出すこと」の方が「徹底的に執拗に完璧を求めて出来たものしか出さない」の方よりもはるかに重要である。なんてことはビジネスの文脈でよく聞くこと。俺もそう思う。というか俺も仕事ではそうしている。しかし、創作物においては? ――と考えると一概には、とも思う。創作においてはどうしても後者になる。
そっちも若い頃の演奏のように走ればいいのに。とは思う。しかし、どうしても、創作ではそれができない。答えはすぐわかる。非常に個人的なこだわりの消失だけは歳を重ねても許可できないから。何でだろうと考えた。その答えはすぐにはわからない。
「躊躇せず一発で突っ込まないと命を落とす」というくらい、峠のコーナーをブレーキングで突っ込むくらいの集中力と気概と精神力。それと重ねるのはどうだろうとも思うが、本気でそう考えると、今日録音したトラックを採用したくない。もっといけることがわかっている状態をレコードしたくない。というのはけっこう贅沢な考え方だと思う。
ただ、そこを抜けて「これだこれ」という録音が出来た時は、出した後の結果がどうあろうと。と、心底思える。
――〝走り〟が足りない。その要素を昔とは異なるアプローチで工夫することが課題。と、はっきり認識できる。
ともあれ、その時期にしかできないことがあり、その時期になって成熟することがある。という風に捉えるのが健全なのだろうか。と、意識を動かしながらくるくると。
進まないのではなく、一本道からコーナーを何回も何回も攻めることの繰り返しなのだろうか。そもそも、考えることではないのだろうか。それも繰り返しなのだろうか。峠を回るような思考がくるくるくると。
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銀座へ行った。いつもの仲間たちとの興行におけるスタッフの仕事である。みなさまお元気そう。俺も体調が良い。あまり寝てないが良い。一週間くらいフル稼働の日を連ねるも良い。なんか若返った感覚がある。日々の営みに疑いがないからだろうか。そのへんはあまり、考えていなかった。気がつけば。
――上品な気配の夜道を歩いて現地から電車に乗る。ぼんやりと、車両内外を隔てる車窓に顔を向け、景色を捉えようとした。いや、20分ほどの乗車時間。読書に充てようと小さなバッグから、読む進めている古典を開いた。1600年代の書籍である。
東京駅を過ぎて上野駅。「発車します」というアナウンスが活字から意識を耳に。すぐさま意識を活字に。――「普遍的なことが書いてある」。そう思った。紙を右にめくった。止まった。びっしりした活字が俺を呼び止めた。だから止まった。上野駅。そこから数分。同じページを3度、繰り返して読んだ。次に進みたかった。しかし、そこで止まった理由を知りたかった。1600年代に書かれた情念がタイムリープして俺の襟を両手でそっと触り、軽く結んだペイズリー柄の俺のネクタイを整えてくれるような感覚だった。同じページを3度、繰り返して読んだ。
“一四八 徳の実行が情念に対する最上の治療法であること。”
命題からして訳わからん。しかし、その節を、同じページを3度、繰り返して読んだ。
“――つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。”
――うん。自分の軸がいつだってブレなきゃ大丈夫だぜ。野次とかはゴミだ。と、言いたいのだろうか。
“――むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役立つ。”
――うん。おかしなやつに、どんなに揺さぶられても「いける」って思えるから、そのノイズは栄養素にすらなる。と、言いたいのだろうか。
“――そして、わたしたちの精神がこのように満足するものを持つためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。”
――うん? ちと宗教っぽいな。別にいいけど……まあ、素直で。と、言いたいのだろうか。
“――というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのには、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある種の満足を感得する。”
――うん。読みづらい。でも、カッコのところでモロに筆者が顔面にせり出てきたな。まあ、自分の思うベストを尽くせば、ミスったりとかも〝自分が裁かない〟上に、なんなら気持ちいい。と、言いたいのだろうか。
“――この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。”
――うん。要は、素直に自分なりにベストを尽くすと、変なノイズなんて絶対気にならない。「ある種の満足」が幸せ。と、言いたいのだろうか。
「次は、赤羽。赤羽です」
ふと活字から目を離すと、目の前にいる乗客の外国人のスマートフォンの画面が視界に入った。ピントを合わせた。SNSの投稿のコメント欄を彼はスワイプして数秒、眺めていた。何語だかわからなかったが、ネガティブなポストの文脈であることは理解できるのが不思議だ。彼は、すこし、止まり、次のポストを閲覧しては同様のムーブを見せた――赤羽駅に着いた。
そんなもん見てても。と、思ったが、それは彼の領域であり俺は干渉など絶対にしない。だが――「“精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。”らしいよ?」と、俺が彼にとりあえず片言で英語で伝えたところ刺されるまである。
意味のわからない一節をループして読んでいた。要点を捉えることは野暮だろう。とはいえ、“ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。”。ですか。はあ。
――今日あたりで一週間くらい、フル稼働日を連ねる。そんなの当たり前だろう。と、思う。だから、当たり前に休もうと、酒をしこたま買って宅に向かった。帰宅して速攻でネクタイを外してバシュ…と、ハイボールを呑もうと企てていた。でも、なんかな。とか思ってDAWを開いた。
――いいと思うよ? 連日頑張ったじゃん。メールチェックとかだけして酒呑んで、のんびりしなよ。――ちょっと引っ込んでてくれ。――えええ。張り切り過ぎとベストは違うよう。――そうじゃない。――じゃあ何?――あのな。――うん。――当然俺は酒を速攻で呑みたい。でも、やり切ってないのに呑む酒なんて……――酒は酒。いつ呑んでも酒でしかないよ。――“自分が最善と判断したすべてを実行すること”。とやらが、きっと、刺さった。――また誤読?――引っ込んでてくれないかなあ。
――DAWの画面を見ながらギターを構えた。昨日の採用候補トラックはクソだった。なんならBPMの見直しまで視界が広がった。だがそれはミスではない。必要な要素だ。と、しばらく弦の摩擦と波形記録と消去と演奏と。ある種の満足を感得する日は、まだ、今日じゃないと断じられたので逆に嬉しんでDAWを閉じた。
――今日は銀座で、仲間たちと一緒に過ごした。
足立くんは、なんか顔がスッキリしていた。共に一服している数分の時間で俺は「あのさ、『頭文字D』みたいなスポーツカーに乗りたいんだよねえ」と言った。彼は、「ハチロクとかだっけ?」と、そのコンテンツの主軸を捉える言葉で俺に付き合ってくれた。
ヨディーさんに聞いた。「最近、何か面白い本読みました?」と。彼は言った。「伊能忠敬の――」と。そこから互いに懐の距離を縮めつつ、話は文学のエリアまで開花しては――「あ、すいません」と、彼は忙しそうに仕事に戻った。
よしお氏は先日の邂逅を述懐。と、思ったが、先週にたまたま一緒に呑んだ時間を楽しそうに話していた。ほっとした。
“自分が最善と判断したすべてを実行すること――補足略――において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある種の満足を感得する。”
――ですか。400年以上前にそれを記されてはたまりません。俺にはあなたが何を言っているのかよくわかりません。
だけど、きっと、満足の片鱗から中央でしょうか。そもそも〝位置〟なんていう観念ではないのでしょうか。ただ、車両内で活字を追っては今ね、あなたの書いたそれを分断的に文字起こしを――引用は分断したが、実際の著書の当該部は一気通貫に書かれている――しては思いました。
人間の情念というのは昔も今も箱のような入れ物の中でごそごそとやっているのかなと。それを解放させるべく、きっとあなたは書いたのかな。などと思った。
(出典:『情念論』デカルト著)
_05/24
東京都北区はなんだか暑い。しかし俺は今日なにもしていない。
昨晩、スパークを連ねた日々の後ろの頭でいろいろと考えていた。それがすべて消し飛んではペルーのアヤワスカに水を注いだ。というくらい、裏の生活をしていた。
それは特筆して検挙の対象ではない。単に、表が活動とラベリングするならば、裏はラーメンを食べて酒を少しずつ呑んでラーメンをまた食べて「目の前の銀色の器のトッピングを網羅」などとスープを澱ませては。というくらい、というくらいが必要ないくらい、どうでもいいなと、また酒を少しずつ呑んではスマートフォンとペアになる。
――ちゃんとしようよ。――したよ。――だらしないよ。――そんなことはない。現に、髪型はだな、20代前半を想起してはオールバックにした。――なんか、気に入ってたみたいだね。――うん。気合が入るんだ。ライトな整髪料で施すオールバック。――そのいでたちでもって、なにもしなかったの?――うん。
なにもしていない。厳密に言うと、25時にMacにログインしてテキストを。それ以外、なにもしていない。――どこかの店舗に呑みに行きたい欲求こそあれど、それすらしていない。キッチンに雑に置いてある昭和的フレイバーの椅子に腰を下ろし、「ケツ。硬い」などと感想をそっとしまい、スマートフォンを垂れ流しては時間を溶かした。さらに仕事部屋のソファで横臥しては睡眠と怠惰の間のなんらかに身を委ねて25時。なんもしていない。
――疲れてたんだね。――いや別に。――じゃあ、せめて創作をしようよ。――酒で繋いでチェーンのようにいたかったんだ。――自分が言っていることの意味がわかってるの?――わからない。――そう。きっと、チェーン……鎖……縛る比喩……その逆……――係りの者よ。――はい?――考えすぎだよ。――そっか。〝なにもしない〟って案外、鎖がハマるんだね。――手前が言っていることの意味がわかっているのか?――うん。今日の君そのものを的確に言ったよ。
今日はなにもしなかった。そこに特筆した感想はない。今。硬質な金属音をサラウンドに感じるも自由な時間に贅沢を感じる。確実に縛られている。しかし確実に自由。そして明日をまた選んでいる。自由とは。鎖とは。その往復の摩擦で生じる金属の音を無視した。ただそれだけの一日。
_05/25
隠者のように仕事部屋で座っていた。デスクではなくソファに座って朝方までゆっくり酒を呑んでいた。多いかな、などとは思えどゆっくりと金属缶を口に当てた。眠りについて起床したら何をしようかな、と微睡んだ。
意識が反転すると夕方だった。どこかに散歩に行きたかった。楽曲制作を進めたかった。思考が巡るも辺りは少し暗くなっていた。キッチンのラジオをつけてはどうしようかと。コンビニに行っては雑な食事を買い、食べる。こういうのはあまりよくないんだよ。とは思えど、どうにも何かをする気が湧かない。
ネガティブな気分という訳ではないが、なんとなく停止したかったので寝室へ行った。ベッドに横になり、睡眠と覚醒の中間のアイドリング状態で居た。寝室の時計は電池切れでまともに動作しない。寝室にいる限り時間がわからない。スマートフォンはデスクに置いたままだ。うっすら聞こえるラジオにだけ意識を向け、寝たり目を開けたりと、琥珀色の明かりのもとでただ横たわっていた。
――ビリー・アイリッシュの楽曲「BLUE」のアナログシンセサイザーのサウンドが耳を捉えた。すごく好きな楽曲だ。意識が反転して起床に向いた。何時か、なんとなくの感覚では「24時前くらいかな」と、廊下に行きネコの形の壁掛け時計を見た。24時前。今日も何もしていなかったことが確定した。
おとといまでの連日フル稼働の反動かな。と、正直に思った。あと酒かな。とも。丸二日間何もしないなんていつぶりだ。と、後悔が混じるはずだがそうでもなかった。二日、いっさいの活動をせずに休んだ。――という事実は、そのはずなのだがまだ眠い。酒と疲労がまだ残っているのだろうか。こうして文章は書けるからおかしな状態ではないと自覚する。ただ、隠者のようにほぼ全ての時間を宅で流した。
本当にひどい時はタバコを吸う気にもならない。そうではないようだ。ビリー・アイリッシュに起こされてから、言語を連ねながら今、3本目を吸っている。25時が過ぎた。だいたいの――いつもの日常の稼働のしっぽの時間帯。だが稼働はいっさいしていない。そういう日が続くと不安に襲われる。幸いにも明日は仕事をすることが決まっている。それが、連なる。だから、2日何もしなくても、ぬめるような不安とはならない。
ただ、隠者のように過ごしていた。きっと疲れはとれているのだろう。推敲していないが、ここまで誤字脱字は無いという感覚。――停止する前日までの文章は、驚くほど誤字脱字が多かった。そのへん、正直なんだなと思った。24時台にMacにログインし、テキストを書いただけの隠者のような過ごし方。連日フル稼働して2日何もしない。たまにはそういうのもわるくはないのかな、という風に思った。
_05/26
昨晩、酒一杯未満で就寝。明晰な眠りの深さ。正直にできているな身体は。と、元気に仕事をたくさんする。宵の口に峠を攻めるアニメを観る。仮眠はせずに楽曲制作をする。執拗にギターパートを録音し直し「そもそものフレーズが少し違う」と、細かく詰めたら形になってくる。とはいえ、それでいいのか判断できる感覚がどこかに行った。
そもそも、ツェッペリンの基礎とレイジの発展を土台にアベフトシさんの奏法をやや混ぜた系譜のロックサウンド制作など無理難題に近い。
だが、イメージは明瞭なので限界までいきたいよねと、しつこく弾く。そのうち、ストラトキャスターのボディの裏側上部が手前の腹の熱を2時間ほど吸いっぱなしだった為と思わしき原因で変色している。
1980年製のストラトの塗装はそういう作りなのかな――と、しばらく置いてボディを見たら、白く曇っていた当該部がいつものサンバーストカラーに戻っていた。生き物なんだなと改めて感じた。
後日にならないと今日のトラックが採用かどうか判断不能。という感覚を認めてDAWを閉じる。明日聴いて、即座に「ちがうなあ」と、録り直すであろう感覚でもある。不思議なのは、その判断は、一晩寝かせて、たった一度聴き直すだけで確実にわかるところ。
良し悪しと及第点と最高点の基準はどこにあるのだろうとたまに思う。
「良し」と判断できる場合は一瞬。悪いという判定は時間がかかる場合がある。及第点の時は持ち越されることが多い。最高点が出た時は声が出る。
――ということはきっと及第点なのだろうか。あんだけ弾いたのに。わりとギターを弾ける方だと思っていたけどしこたま時間がかかるのは何でだろうとよく思う。
そういった思考は寝て起きてリセットされてまた分岐する。判断基準が時間の経過と共に変化する。――過去に作った楽曲を聴き直すと、9割方「ここは今だったらもっとこうして改善できる」と感じる。なんなら10割かもしれない。
ということは、最高点なんてものはそもそもその時々にしか感じられないことで、及第点を突破すれば、あとは粗探しの迷宮に置かれるべきものなのかもしれない。
――昔聴いて「完璧だ」と、感動する作品や楽曲がある。今それを受けると、そうでもないことがある。しかし、ある種のバイアスが今の感覚を捻じ曲げて当時の感覚に戻す。その頃に感じた感動が蘇る。情念の不思議。あんまり冷静にならない方がいいこともあるのかもしれない。
でも、つくる時はその感覚だと妥協だらけのゴミコンテンツになるので排除すべき感覚。しかし、執拗になりすぎるといつまで経っても完成しない。「最高点だ」とかその時に思っても翌年には「ひでえMIXだ」と、感じる経験則。
さも、葛藤しているかのような言い訳じみた羅列だが、実態はただただ楽しくつくっている。しかしたまに、「思い通りにいった!」という渾身のテイクを聴いては「まだ先のレイヤーがみえる」と、及第点を更新させ続けるループに入る。そうなるとギターも変色する。「もういいよ今日は」と、楽器が眉をひそめているかのよう。
そういう時に、白く濁ったボディを急いで拭いてもすぐには改善されない。布で擦りすぎて傷が付くだけ。放っておいたらだんだんと光沢が戻る。楽器の方がよっぽど正直なのかもしれない。
_05/27
せっせと夜まで仕事をする。一休みして早く『頭文字D』が観たかった。そのあとに仮眠して楽曲制作を。と、思っていた。
だがどうも、峠をドリフトで果敢に攻める(現実の公道では危険行為)様に貼り付いてはやる気が漲ってくるという謎のスイッチが生じたので、アニメ閲覧休憩は30分ほどにしてすぐにDAWを開く。
昨日のギタートラックを吟味したい。実は最高のテイクなのか、及第点なのか。――後者だったので改めて演奏する。
何回弾けば気が済むのかと、声には出さずに半音下げチューニング特有のわる〜い感じの響きとストラトキャスターの金属音の如しブリリアンスな歪みサウンドで繰り返し弾く。
いいかげん肩が痛い。だが、何テイク目かに、演奏しながら表情筋がせり上がる。声が出る。プレイバックしなくてもわかる。採用テイクだと。やった、と発話を繰り返し、自分の演奏のグルーヴにドラムの音価を合わせる工程に。あまり一般的な手法ではないが俺はこれを重宝。生演奏の温度が掛け算になるという経験則があるため。だから、ビートの打ち込みを半裸のマッチョな外国人ドラマーのグルーヴに仕立てる。とても地味な工程。だが来た。かなりのウェイトの大男がゆっくりとガムを噛みながら近づいてきた。意味不明の言語が両腕にタトゥーでしこたま刻印されたスキンヘッドのタフガイがドラムセットに座った。漏らしそうな物腰だが目は優しい。彼は強かに両腕でクラッシュシンバルを2つ同時に叩き割れるほど強打。キックを強打。右足の振動がハイハットからタムのスタンドまで欧米テイストの震度で危うく揺れる。録音したギタートラックと生演奏している感覚が出た。
よかった。と、あとはもう全部設計図が見えているのでエレクトリック・ベースの録音セッティングをする。足元が機材とケーブルだらけで踏場が。訳のわからない作業体制のなか、ベースを仮で入れる。きた。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン的な、憤慨の融解と飛散とも感ずる殺気と気迫。それには及ばないのはわかってはいるが、近い温度が滲み出た。その時も、よかった。と、声が出た。
無事、納得いくメインギターを録音できてマッチョな架空ドラマーがDAW上に鎮座したと判断できた。あとはもう。――などとこれだけ言っておいて仕上がりが豆腐みたいなサウンドだったら目も当てられないが、そうはならないように、基礎的な部分を徹底的に。
そこに一週間ちょいもかけるなよ。とも思うが、そこに関しては、その工程に関しては、文章で言うところの〝必要な冗長〟のくだりがないと「その一行が示す根幹を言いたかったが為に、そこまでクソ長い情景描写があまりにもしつこく続いたんですね」という納得感を得られない。
楽曲制作も小説を書くこともそうだと、こと個人的に思うが、このペースでいつになったら〝その一行が示す根幹〟とやらに達するのかな。と、焦る心境が無いと言ったら嘘になる。
だが、なんとなくYouTube動画を垂れ流して観る時間を排し、名作アニメ閲覧にあてる時間で得られる充足感は、本質的なことをおざなりにせず、大事な何かを気づかせてくれようとしている気がする。とはいえ、タスクをこなした後にリラックスしてYouTubeやTikTokをなんとなしに眺めるひとときも好きな時間。
どこが冗長で、どこが根幹の一行だったのかと、死ぬまでにきちんと明瞭にすることは可能なのだろうか。そういう生き方をしている人間の方が多いのだろうか。俺は何に真剣になり、何に振り回されているのか。
そこまで考えさせる作品にハマッている時は、こと個人的には、大げさにもなる。でも、だからこそ、漲るスイッチも新たに生じるのであろうか。――普通に「観ると元気が出る」でいいんじゃない?――俺もそう思う。
_05/28
交通系カードの引き落とし額の通知がiPhoneに表示された。いつもより1万円多かった。そんな移動したかな先月。などと思えど、たったそれだけで少し、心に影が落ちる。
連鎖するように、いかん、年金を払ってなかった。払う。払えばいいんでしょと、引き落としではない支払い用紙を確認する。週明けに払う。――シナプスがそっちに拡張するように、いかん、所得税の請求がまだ来ていない。恐ろしい。だいたいはわかるがいくらだろう。来たら速攻で払わねば。と、足元に侵食する影が知らぬ間に葉を増やす植物のようにゆっくりと。
金のことを考えたくない。金の心配の度がすぎると知能指数が本当に下がるという研究結果があるらしい。だからという訳ではないが、金のことなど考えたくない。
しかし金、金、資本、金は、生活において飲料水くらい必要不可欠な観念。金、金なんて観念にすぎない。などという達観した思考を世間は決して許さない。
急に金の心配に取り憑かれた。それは、まったく気にもとめていなかった背中の皮膚が知らぬ間にそっと焼け焦がれては不健全な鉛色となり、それを目視しては絶句する口蓋の乾きにせめてもと舌を当てて潤そう、そっとだ、少しずつじゃないと、そのまま刹那で張り付いて粘膜が役割を果たさぬ状態に陥り暫くの機能停止を余儀なくされるような無音の情念。
そんなのは嫌だ。だが一度その心配に――あまりにも過度に――意識が動くとなかなか定位が戻らない。健全な活動状態の逆位相。正面を向いているようで微妙に抜けない。
金、数字の四則演算ばかりが脳内を巡る。そんな足掻きでどうにかなるものではない。アスペクトを反転させたい。捉え方を戻したい。きっかけは、ただ、1万円いつもより引き落とし額が多かっただけのささいな出来事ではないか。そう自身に言い聞かせるも一度傾いた車輪は物理法則により即座に元には戻らない。
今日だってたくさん仕事をしたのになぜ、金の心配をしなければならない。と、車輪を脳のステアリング操作で切り返してDAWを開いた。昨日の仮録音のベースパートを加えたロックサウンドを聴き返した。
「このままでもいいんじゃないか――」と、嬉しい気持ちになってそのパートをなぞるように、丁寧に、音程と音価を追い、はげしい気持ちでドラムスとギターにプレジション・ベースを人差し指、中指と、交互に弦をやや叩くニュアンスで弾いては気迫の精気の低音域を地鳴りのざらつきのように潜り込ませる。
「この3つのパートでもう、楽曲が成立している」と、残りのギターパートのオーバーダビングを表象しながら軽く全体のバランスをとる。手こずったメインギターの録音までの杞憂は払拭された。もう、迷うことなく、考えることなく、あとは――と、気づけば金のことなどひとつも考えない制作時間が過ぎ、DAWを閉じた。
これも収益に直結するタスクだ。と、ふいに広がった不安は軽減。――ふいに広がる金の心配は、「実のところ金に執着しているのであろうか」という自認を確かめるに至った。
執着は不安の一種である。と、近頃読み進めている書籍に記してあった。膝を叩いた一節の一言。
――正直、金の無い世界に行きたい。支払いをしたくないという意味ではなく、本来の人間の営みに対して時に、あるいは常につきまとう執着の根を不安として発芽させたくない。だが今日は、少し広がってしまった。
払うものは払う。原則。必要な分は稼ぐ。原則。そこに過不足があれば不安にコーティングされ身動きがとれなくなりかねない。そこに逸脱した欲が燃えさかれば本来の徳に向かう高邁を獲得できなくなりかねない。
そういうことをいちいち考えたくない。だが――時に囚われては向かうべき道に濁り湿った霞が生じる。だが、創作をしている時にはそれを凌駕する土壌にしか五感、それ以上の感覚は決して向かない。「それが救いである」。という単純に綺麗なことではなく、ただ、本来の自身がすると決めたことの前では傾いた車輪は物理法則を無視して即座に立ち上がる。
――払うものはちゃんと払う。必要な分はきちんと稼ぐ。それ以上もそれ以下も、考えたくない。金に執着したくない。外道の餓鬼以下に執着しては思考放棄していたことにも気づけなかった至極あさましい時期の教訓は殺すべきではない。
だからこそ、仕事をして創作をしてという幸福な日に、歪曲した金銭思考はノイズと見なすべきであろうか。と、そこはきちんと考えた。
だが、極めて細く見逃してしまいそうな細い糸にも執着してすがるようには、金については考えたくない。――週明けは四半期おきの収入源の収益額が確定する日だ。いくらかな。楽しみだな。これがえらく少なかったり思いのほか多かったりするからわくわくするよね。
――金に執着……。――みなまで言わないでくれ。――金について考えたくないって君、〝金〟って今日20回くらい書いて……。――貢献できたと世間が判断する分はもらってもいいだろ。――何が言いたかったの君は……?――金が、どっちから来るものなのかということだよ。――君におすすめの本があるよ。――何?――マルクスさんのやつ……。――『資本論』は図書館で読む。
金のために稼いで幸せに過ごすのか、他者と自身のために営んで金が回ってくるのか。
そういう抽象的な思索をズタズタにされそうだからまだ読んでいないその本。――若い頃に読んでたら人生変わってたかもよ?――俺はね。――何?――どの方向から考えても日々、幸せなんだよ。
資本家=労働者=国家=資本の奴隷
という式には確実にならないであろうが、〝階級〟みたいなことはあまり考えたくない。
それぞれ、何かにすがり、何かに囚われているというようには考えたくない。平等な構造ではないことはうっすらとはわかる。
ただ、執着ではなく、執念の対象がいくつかある。そこに根を張っては発芽する先の綺麗な花を俺だって見たい。そういうことを思い描いて日々過ごすことはいいよねと、そこは考えられる。
_05/29
ひたすら言語を連打して仕事。暗くなれば『頭文字D』に没入。これを観ると仮眠をする気が失せる。そのままDAWを開いてギターを構える。あと2本のトラックで、ユニゾン、音価の隙間、ハーモニーの領域、そこを攻め入る。ズラしまくった人力グルーヴの溝の上を滑らせる。ねじ込んで調和させるも金属音がスキール音のように適度に、つんざく。そういう日々を繰り返す。
――伴侶と喋って肌を重ねて旅行に行きたい。もっぱら目を合わせてはその奥で揺れ動く発話寸前の言語になりかけの意識を言い当てようとしては生理的所以でいささか気色が悪いと嫌がられる。そういう日々だって重ねたい。
諸行を高邁と信じていてもそうでなくても、上から二段目の希求は必要。きっと必要なんだ。と、ふとその絵。車窓から差す陽のもとで健全なコミュニケーションにいそしむイメージがぽっと出る。
そのような暮らしの巡回。福利厚生あやかり安定。黒い日と赤い日の切り替え整然。健康で文化的な最低限度の生活。憲法に則る。――そうだね、熱海の次はオーストリアにでも行こうか。飛行機? もう怖くないよ。大丈夫。だからヨーロッパに行こう。え? イタリアでジェラートが食べたい? いいと思うよ。ベスパの原チャリを二人乗りして『ローマの休日』ごっこをしようか。そうだね。あの映画の主人公の仕事は記者。俺もそこは似たようなものだね。そして君はお姫様。ははは。姫って。はは。と、情念反射に抗わず彼女の顔面に指をさしては前髪を掴まれて首を真下に捻られ制される。
じゃあ一人でオーストリアに行って、ウィトゲンシュタインの銅像かなんか――あると思うんだきっと。それを拝みに行こうかと思う。え? あらかじめ調べてから行けと。もっともだ。でも、知らずに行って「本当にあった」という感動を事前調査で殺すのはいかがなものか……。え? その態度が生活にも露呈しているって? そんな行き当たりばったりではない。ここのところ銃口を突きつけられているかの如く同じタイム感で暮らしている。その銃を持っている者が誰かって? 俺は知っている。
――うん。知ってるなら言いなよ。――あれ? お前はそれが誰か、知らないの?――うん。君は知ってるんでしょ?――知ってるよ。――じゃあ言ってみ。――言うと消されるんだ……。――やばい。いよいよだよその口ぶりは。――あれ。係りの者なら知ってて当然でしょ?――まあね。――じゃあ答え合わせをしようか。――言語化すると一瞬で醒めることってあるよね。――俺もそう思う。
社会で暮らすことはとても楽しい。規律やルールがあるからだと思う。相手が必ず存在するからだと思う。それを意識しないと人は何もせずとも何に疑問を抱かず、考える意味すら無くなってしまう。想像する必要性すら無くなってしまう。
実際はそうではない。相手が必ず存在する社会。調和や対立や摩擦が生じる。そこで言語が役に立つ。言語はルールを設けてくれる。規律が周知される。
ほどほどの〝遊び〟の余白を保ちつつ、本流は何だ。探そう。行なおう。考えよう。いや、そういうのはいいか。日々平和ならそれでいいか。だが、食傷気味になる時もある。じゃあ、旅行に行こうか。各々が暮らしの基盤を調整しながら、よく生きるべく営みを続ける。規律の最終審判の日まで。
それが明後日だとしても、明日、俺は今日と同様に過ごす。その後日どうなるかは、一人で決めない方がいいのかもしれない。――そうなると思考や想像がその本来の役割を逸してしまう。だから、常に相手が居るという前提で全ての行為に努めるのが吉。
――長いにもほどがあるけど。――え?――銃口の人、抽象的に言うとそうなるの?――いや。――僕は違うと思うよ。――なんだと。じゃあ言ってみなさいよ。銃口を突きつける人の正体を。――だから言語化するとってさっき……。――いいから、俺にだけ教えてくれよ。知ってるつもりだったけど違うって断じるんだろお前は。ええ?――じゃあ言うよ。――ひと言で頼む。――うん。――それはね。――それは?――今、君がちらっと確認した数字だよ。――具体的に言えこの野郎。――だから言ったら一瞬で醒めるんだって。――おや。もうこんな時間かあ。――酒呑んで寝なよ。――ここのところちびっとしか呑んでないんだよね。――そういう日々を繰り返しておこづかい貯めて旅行に行ったら?――うん。――ひとりで行くの?――誰かと行きたい。――そのために明日も張り切っていくのがいいんじゃない?――俺もそう思う。
良かれと思い積み重ねる日々は唐突に審判を言い渡されることもある。だから、いつもの日常に、どうにかして意味づけをしたい。
その意味は、今すぐにわからなくてもいい。人とのユニゾン、距離の隙間、調和の領域。そこにちゃんと、かかってさえすれば。
_05/30
17世紀の古典を読む。デカルト『情念論』。1971年の文学を読む。古井由吉『杳子』。1990年代のアニメを観る。 『頭文字D』。過去の系譜を視覚聴覚で取り入れては脳内運動を現在から切り離す。切り替える。
波打ち際から足元の温度差を明瞭に知覚して、その差異をゆっくりと、時間を打ち消すように水の違和感を尋常となるまでゆっくりと、少しずつ、水位を肩まで上げる。呼吸を止めるのが恒常となると当時の温度に肌が馴染む。逆算思考でその意図を手繰り寄せると現在の視座はグラデーションを獲得する。
現在、過去の作品を入力し、過去の景色を現在の思考で出力する。すると、色々なことがわかってくる。
――人間の基礎的な意識の動きは何世紀も前に体系化されている。異物を静かに紐解く視点は昭和の時代で表現されている。ニッチな題材を王道進行で走らせる手法は30年も前に確立されている。
それらの〝構造〟を、味わい噛みしめるように脳内フォルダに入力しては百花繚乱のファイルをどう組み立てるか。現代の作品のほとんどは、過去の手法に則り、掻き混ぜ、整合し、成立している。――という風に断じるのは乱暴だが、水中の視座で分解思考をはたらかせると、そのような演算に似た分別としてマトリックスが広がる。
過去の様々な〝位置〟で多種多様の意識が動いては言語、音、映像が、その時代の象徴や基礎や花形を想起させる。時代に刻印された作品は動かない。水中でそれを受けると、さも現在の出来事のように鮮やかに。
しかし、「今だったら」という過去軸が縦に走り、水位を下げると横軸に想像と記憶が渾然一体となってその境界線を溶かす。――海底に足が着く。事実を溶かす。没入を促してはどんどん溶ける。ゼリーを表面からスプーンで乱暴に突き回すかのような音が聴こえる。
――17世紀。1971年。前提として俺は生まれていない。もっとも記憶は無い。1990年代。――みんなと同じ服を着ていた。緑色のブレザーだ。白い襟付きシャツにストライプ柄のネクタイ。ほとんど毎日、校舎に通う。教室ではほとんどの時間、机に屈服する態度。イヤホンからは流行りの小室哲哉サウンドは鳴っていない。レッド・ツェッペリンの音像に、大人びた気持ちで浸っていた。屋上に行った。
左耳にピアスをしている男が居た。俺よりも少し、身長は高く、髪も長かった。男と共に弁当を広げては青空のもとでしゃがんで食べた。互いに口数は少なかった。だが〝音〟が好きという共通点が徐々に互いの心を叩き合う。
「――くんはキーボードをやるんだね」
「うん。平吉くんはギターを弾くんだ?」
母親がつくってくれた海苔弁当の中央に乗る自家製の梅干しが塩辛かった。惣菜、煮物が多く入っていた。彼の食事とは毛色が異なる。
「軽音楽部に入るんだ」と、それぞれ。別々のクラスだがクラスメイトよりも会う機会が多くなった。教室では相変わらず屈服して人と喋らなかった。部活では思いのままに、透き通る宝石ほどに純度の高い音を重ねていた。別の日、屋上に行った。
ショートヘアーで一重まぶた、ルーズソックスがよく似合う女が居た。二人きりだった。事前に指定の時間にそこに来るよう丁寧に促されていた。――漫画の展開のような要件だった。
締結を蹴る愚行。後悔のない音の交流。勇気がなかった教室での営み。そのすべてに付随する記憶が掻き回されては、スプーンを回される動作を手動で止めてゼリーを置き直した。1990年代の作品を観ると、30年前のあらゆる情念が直交座標を塗りつぶした。
時代で固定された作品には引力がある。どれだけ脳内運動を現在から切り離そうとしても、自在に行き来できると信じているグラデーションを、いとも簡単に浸食する。抗う気持ちさえ快楽に変容させる。歪曲された恒常から、また新しい情念が生じる。それが、いつの時代であっても創作の原動力となるのだろうか。普遍が革新を促す対立した構図。
――今日も仕事の疲れを打ち消すべく、過去作品閲覧で快活を得て、創作に励んだ。「こういうの、既に1990年代までにやり尽くされてるんだけどな」と、自覚はあれども普遍の水中から海岸に戻ってくるまでの時間でシャッフルされた何らかの芽を大切に扱いつつ、分布に昇華させようとあらゆる念を広げて集めて躍起に。
古典を読むと、基礎の吟味に没入できる。出生の少し前の文学を浴びると、当時の刻印の深さ、片鱗が見えてくる。1990年代の作品を観ると、――どうしても青春時代の記憶が全色で表象される。
校舎特有の体験が様々あった。ブレザー姿で最上階に。そこでの出来事や、今とは見え方がまるで違う青空のもとの屋上は、水中で広がる情念の動きと根源的に似ている。
――などと、時代に刻印された引力に意識を委ねては30年という時代の切り替えを今日、海底に着けた足元から鮮やかに感じずにはいられなかった。
_05/31
