ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。8月。
本来の夏の沙汰はこうではない。初動で最大値を照りつけては容赦せぬまま盆に向かい、どこかでふと加減を知った子供のように徐々に減衰。そして律儀に冬とのブリッジを青と、茜と、色は主張の逆で潜みながら物悲しさを誘発する透き通った風が季節を巡回させる。そのはずなのだが、要するに最近暑すぎるというか狂っている。
夏、即、冬。という気候になって何年が経つだろう。などと縁側で世界を憂うほど俺は老いた思考に陥っていない。新しい本国の季節として〝更新〟され、それは今後もその機能は固定されずに夏、夏、冬、即、夏、雨は気まぐれのアナロジー。即、夏。恒常の沙汰は過去となり、次々と空気が新しくなっていく。などという思考は全然新しくないうえに老いより酷い。「四季の様子は年々変化している」としか言っていないのにニュースのリード文以上の文字量で何を言っているのか俺がわかるとしたら、「変化と新しさ」という観念を四季に写像したかった気持ちをそのまま書いたら主題が浮き彫りになった。
変化と新しさとは。それは、必要なことなのか。そもそも、変化は前提だが「新しさ」はもうないのではないかということ。
諸行無常という便利な言葉がある。意味は文字通りである。〝すべては常に変化する。同じ状態でとどまらない〟――「同じ状態にとどまらない」と「新しくなる」は、似ているが全然違うじゃねえかと、一日中考えていた。
とんでもなく地味な嘘をついているわけではなく、もっとシンプルに。「新しくなる」「新しい」――というのはもう終焉なのではと、日の節々でその思考が粒のようにまとわりついていた。「新しいものは、もう生まれない」。そんな訳があるか。と、根拠を精査した。論理ではなく理論の裏付けが必要であると。こんなにも落居まで果てしないであろう思考があるのだなとも。
――何も新しいことは言っていない。全部、過去で言っていたこと。それを自身は、組み合わせたり引いたりして言っているだけ。新しいかのような比喩を言っているだけである。――なんて、100年も昔の偉人が言ったそうな。本当かよ。と、本を読んでいてそう思ったが、自身の営みに照らし合わせてみた。例えば楽曲制作の文脈。断言したくないがせざるを得ない。俺がつくった楽曲はすべて、「どの箇所が過去の産物の言い直しで、どの要素が過去の音楽現象の焼き直しで、それらを好きなように言い直しただけ」と、理論的に説明できてしまうのである。なんて切ないんだ。
「ビートはソウルミュージックを踏襲している」「でもそれだけじゃつまらんから令和的なスウィングの跳ね方をさせている」「初動のコード進行はカーディガンズのヒット曲のメイン部分を逆にした」「メロディは理論に則り無難に並べただけ」「ツーファイブ進行の部分なんて古典的の一言で済む。だが、ベースライン、ボトムを、理論破綻しない程度に置き換えている」「そこに転調を施すことで〝言い換え〟に成功している」「カウンターメロディーは絶妙だが、テンションノートの数字で説明がつき、それはフュージョン界隈の先人の仕事に近い」「奇をてらい、新しさを求めるもそれをすると楽曲コンセプトが一発で、たったの一音で崩れ去る」「だから、イメージはすべて先人の叡智が源流にある」――つまりひとつも新しくない。いろいろ混ぜてるだけである。ただ、駄作になるイメージはない。なぜならば、先人のさまざまな叡智で成り立っていて、唯一、オリジナリティがあるとしたら、その先人たちではなく「俺がそれをやっているという個人への帰属」というたったの一点。それは、音楽の分野だけではなく、もしかしたら全ての分野で言えることなのではないかと考えると、それは「新しさとは」などという思考が服のようになってしまう。
――おととい、君はあつあげと砂肝を買ってきたね。――水を差すんじゃない。――いや、繋がるんだよ。おとといも君はあつあげと……――安くておいしいんだよ。あつあげ89円に砂肝219円だぞ?――そのね、君はさいきんずっと同じことを言っているの。――価格は初めて言ったけど?――どうでもいいよそんなもの。――じゃあ何よ?――おとといと一緒のおつまみのチョイスだよ。――新しくない?――なんならループしてる。――何でかわかるかお前に?――ピーンときたやつ、繰り返して食べたり聴いたり観たり考えたりしないと気が済まないやつでしょ?――うん。――それと一緒で、ずっと同じこと言ってるの。――そんなことないって。「新しさは、もうない」って命題があるって。――先月、それ言ってたよ。月の真ん中くらいに。――その時俺、結論出してないっしょ?――出せなかったんでしょ。――今日は出す。そしたら〝ずっと同じことは言っていない〟って証明できるだろうも。――僕なら一言で言えるけど?――よせ。いいか?
「パンダになんと三つ子ちゃんが生まれました。新しい命の誕生です。かわいいですね」
かわいいよ。でも新しくはない。なんでかって、そのパンダ子たちは親パンダさん方の遺伝子を引き継いでいるから、音楽の例えと一緒じゃないか。
――アウト。――なんでだよ。――君の好きな言葉で言おうか?――うん。――倫理的にアウト。――なんでだよ。――「平吉になんと子供ができました。男の子が生まれました。新しい命の誕生です。かわいいですね」――ふむ。例え話だな?――「でも新しくはない」って言われたら君はどうする?――半殺しにするわその倫理破綻野郎を。――じゃあ「新しさというのは、ないのでは」とか考える必要あるの?――ちょっと待ってくれ。
輪廻転生があるとしよう。事実は知らないが、あるとする。そうなると、「生まれ変わりは、はたして新しいのだろうか」ということになる。
――もういいよ。慣れない方面の例え出すとボロが出るよ。――俺もそう思う。――あのね、君が大好きな「氷結」に〝NEW!!〟って書いてあって「新発売です!」って言われたらどうする?――そんなん秒で買うわ。最高だろ。――でも新しくはないからね。たいして。――お前、飲料メーカーに謝れ。――いやだよう。――強情な野郎だな意外と。――だからね、そのメーカーさんもパンダちゃんも〝新しい〟って頑張ってるの。――新しくはねえけどな。――強情なのは君の方だよう。じゃあ、君の曲「新しくはねえ」とか言われたらどうする?――全殺し……いや、認める。――気持ち的には?――じゃあこの先どうしろと。って思ってしょげて呑む氷結はきっとぬるいだろうよ。
新しさなんてもうない。もしもあったら、AIは世間を席巻しない。
――極端だけど近いよ。すごくね。――AIは何でも答えてくれるからね。――でも、答えられないこともあるでしょ?――ほぼねえよ。今のやつは。――もう忘れたの? AIと文章でやりあってて「私には新しいことを生み出すことはできません」って断じられたことを。――断じたっけ?――僕、みてたよ。そこ読み飛ばしてる君もセットで。
いろんな人が「新しいことを」と、日々頑張ってる。きっとそうだ。でも、そこに「全部すでにあるやつだ」と言うことは無意味なんだろうか。そこに屈したら、少なくとも俺は音楽をつくったりしない。小説も書かない。ここにだってつらつらと書かない。だから、別に新しいことを求めている訳じゃない。
ただ、今どうなっているのかを、今、自身がどうしているのかを表しておきたいだけなんじゃないだろうか。
――それが健全じゃない?――そんな気がしてきた。――ずっと同じこと言ってる君、つかれるだろうからまとめてあげようか?――頼もう。
新しさとは、既存ではない未知の沙汰ではなく、次を生きる人間のどこまでも愛おしくも果敢な態度である。
――こんなんでしょ。君が言いまとめそうな筆致。――そうなの?――その疑問符がすべてを言ってるんじゃないのかなあ。――そうなの?――ほら、あつあげが待ってるよ。――あれは俺にとって最新で最高の酒の肴なんだ。――ほら、だいたいそうじゃん。
新しい月がやってきた。
_08/01
疲れに気がつかない。と、一言で表せる状態が長く続く。これを放っておくと、フル稼働した上に睡眠時間は6時間前後。たまに仮眠をする。それを連ねる。「明日は休もうか」という日の前夜は限界までPC画面に向かっては酒を連ねて、ソファで気を逸する。そしてフル稼働の連なりに、となる。これはなんだろうと思っていた。
「そういう時、我々は躁を疑うんですよ」と、精神科医が先々月に言った。俺はその時「そうですか」としか思わなかった。その場できちんと過活動のくだりを説明すると先生は「それなら――」と、そうではないことを下す。しかし冷静に考えると、9時間睡眠が恒常だった自身の体質がそんな急に、45年も経って変わるはずがない。と、思い改めて角度を変えて考察した。
――何もしていないと砂のように眠りに落ちる。ということは疲れている、寝不足であることの証左ままならない。現に今さっきもそうであった。原因はなんだろう。これである。なんらかの作業に没頭していると、疲れに気がつかなくなるほど歯止めが効かなくなる。その原理がどうなっているかを俺なりに分析することは、案外、精神科医の問診よりも正確かもしれないという根拠付きの自負がある。
〝その者の言及について証明できることは限られている。特に脳内活動の口頭報告に関しては何ひとつ正確ではない〟
これは、医学的にも論理学的にも哲学的にも、おかしなことは言っていないはずである。断言を避けるのは、俺がここに嘘を書いている可能性をどうこうジャッジすることは不可能だからである。嘘ついてないけど。
このように言語を連ねていると、疲れに気づかなくなる。そういう仕様に、いつのまにかなっている。それはそれでタフという観点ではよいのかもしれないが、体力は永遠ではない。だから、今日はこれ以上何かを言うべきではないと思った。
本来であればもっと何かを言う。あるいは、一つのことしか言わないがトートロジーで長く書く。しかし、確実に疲れている自覚がある。だから昨日のあつあげの残り半分を焼いておいしく食べて酒をちょっと呑んで、すやすや寝るべきだが醤油がない。代替品となる調味料のセレクトが難しい。だからコンビニに醤油を買いに行っては――と、長くなる上にどうでもいい。
営みを続けて、ある日ふと、なにかに気がつくことがある。昨日あたりそんな感じだった。それまでのプロセスと結果をつらつらとすると400文字詰め原稿用紙換算5枚とか10枚とか平気でいく。それが実は、平気ではないことに気づいていない症。そういう状態だから〝躁〟などという仰々しいフレーズが座標ともなる。
そんなことないけどな。などというここまでの思考の流れを記すとやはり、原稿用紙換算5枚とかいっているはず。だから止める。正確なことはたったひとつ。疲れに気づかない状態が数ヶ月続いている。それだけである。
――これはあれだ。ちょうど明日、定期検診に行く日だから主治医に報告しよう。でも、それでもって「躁ですね!」とか言われたらいやだなあ。でも、どこかそれを期待しているこの気分に名前がついているとしたら――止められるうちは大丈夫な気がするけど。
単に、食生活を工夫しつつ「肩甲骨まわし」のストレッチが嘘みたいにハマった結果の健康化であることを祈る。うさんくさい民間療法のチラシを本気で信じては本気で元気になってしまった状態でもこの際なんでもいい。――と、思考が散らばる前にちゃんと車庫に戻すべし。だが醤油は今から買いに行く。あつあげがおいしいんだ。――止める。
_08/02
精神科医が歩いている姿をはじめて見た。俺は座って、ロビーでそれについてふと「歩くんですね」と、思った。
レッサーパンダは、極まると立つんですね。それに近いと言ったら俺は倫理破綻以前に何かが、視点が、おかしいとはまったく感じない。だって本気ではじめてみたのだから。この論理に対する異議を是非とも認めたいのだが、すべては「珍しいっすね」と、言うことしかできない。
――「平吉さ〜ん」という言葉を待っていた。定期検診の日にロビーで待つ。もはや年間12分の1の日常である。しかしなかなかそのコールがない。そんなことで苛つきはしない。ただ、まるでブラックジャックのカードカウンティングのように〝確率に準じた正攻法の思考〟で「今、患者が第一診察室にいる。ロビーの待ち人は一人。入った。5分がせいぜい。出てきた。『お大事にどうぞ』と、聞こえた。次は確実に俺であり、経験則から間髪入れずに主治医は次を入れる」と、勝機を確信した。
受付の女性2名を見た。「楽な仕事だな」などと不謹慎なことを確かに思った。だが自覚する限りそこは知り得ない。ただ俺は、〝連携の内実〟が知りたかっただけである。――どういった合図で、主治医が「次の患者をよこせ」という合図をするのか。それが、ロビーで半分寝ながら観察していてもわからなかった。
それではまずい。だから、冴えろと言い聞かせた。すると「ガチャり」と、トイレの扉が開閉する音が聞こえた。精神科医はどうやら、ほぼ確実に用をどうにかしにそこへ行った。数分が経った。「む。でかい方か――」と、わりと本気でタイム感を吟味したその刹那に「ガチャり」と開閉する音が聞こえた。
俺の番の前で、診察室から廊下を経由して「院長室」へ歩いたりトイレに行ったりとまあ、この野郎、「次はあれか。平吉だからラクだな」とか思ってねえかこの野郎。などという粗野な感情にはならず、ただただ、目の前を歩く精神科医をはじめて見たという事実だけが長期記憶に刻印されたんじゃないかなと、雑に思った。彼は身長が俺よりきっと高いと目測できた。体格もだ。ただ、俺とは――別者。その印象が強く残った。
「平吉さ〜ん」
「はい〜」
診察室に入った。主治医はいつもの所作だった。俺だっていつもの通り「失礼しまっす、お願いしまっす」と、声量を恐縮するとやや歪むのは酒ヤケか、などと思うも「頼もう!」などという声量だと措置入院やらなんやらが射程距離に入り、そのラインをドリフトでを交わす術を俺は知り得ない。だから、失礼しまっす。
「どうですか平吉さん」。飽き飽きするイントロ。
などとほぼ、毎月日記に書いていることが主治医の能動的取得情報として露わとなったら「いやね、違うんですよ」と、弁明する気はあれども何も起きないであろう。だから、「はい。元気です」と、お前は何をしに来たと言われれば「健やかでありたいがための理由とは何でしょうか」などと形而上の質問をしては「こいつの診察については、休憩だ」などとラベリングされかねない。というかすでにされては何年か経っているのかもしれない。
俺はさいきん、おかしい。
それを、真逆のルートで旋回する主治医に申告してはその内実をそのルートではどう見える。ええ。どうなんだよ、と、凄む度胸は俺にはない。もう一つ言うとそれは度胸とは言わない。だから「さいきん――僕は同じことを言っています」と、自身思うが珍しく核心から迫った。それを耳に入れ、主治医が甚だしくリラックスしている様子を見ては「大きいやつ、いったなさっき」と、確信したことに対する生産性といえば客観的に皆無である。
「元気すぎるんですよ」と、小学生並みの申告を重ねた。しかし俺は中年である。だから、具体性を求められることは刹那で察した。「そのですね。以前は、というかずっとですよ。8、9時間は寝ないとこう、パフォーマンス的にだめな僕が6時間睡眠ですよ? それで、いけちゃうんです。だからと言いますか――〝疲れに気づいていない〟なんて、昨日思いまして」
「それはないでしょう」
主治医は断じると嘲笑と観察の三つ巴のちょうど真ん中の声のトーンで、そう言った。だから説明を加えた。伝わっていないことがあきらかである所以と直感で思ったがそんなもの言語のやりとりの前では無効化される。俺はそれを案外、ちょっとは察しているつもりだ。
「うんぬんかんぬん」
――そうですか平吉さん、なるほど……。みたいな表情を一応みせる主治医。なんだか元気そうに見えるのは〝自他共の悩みや謎を、彼は理論ですべて整理しているのでは〟という仮説が生じた。しかしその文脈は死ぬほど発展せずに彼の命題。
〝日常生活、社会活動において支障がないならば問題ではない〟
と、一撃で俺は沈黙を余儀なくされた。続けて。
「前回の血液検査……」と、紙を差し出す。見たくねえよこんなもの。俺はその採血の日までの期間、きちんと申告はしたけど先生、俺が言う塩梅よりも遥かに飲み散らかしては気絶、記憶部分喪失、不摂生、そのような貧しい贅の限りをちまちまと繰り返した挙句その日にはきっついラーメンを食べたほぼほぼ直後に採血。「値が良好な理由がない」と、俺は断じるしかないんですよ。だから、ほぼ無言と察しろというアナログな人間特有の〝間〟で、血液検査の結果の紙を差し出しては横を向く所作、やめて。
と、思った刹那に彼は「γ-GT――下がってますねえ」と、事実を言った。そんな訳ねえだろ。と思い、いただいた身体の営みの通信簿と扱っているそれを見ると「γ-GT」の値は「68」であった。
「下がってますねえ」と、彼は事実を言った。俺の事実? 呑み散らかした期間の末尾に測った血液がそんな、酒を入れない人間の値と遜色ない数値の訳がないだろう。と、怪訝に思う前に即刻歓喜。俺の血は優秀であったことを主治医は淡々と述べた。
――その前の当該値は「101」であった。レッドゾーンは「85」以上。つまり、「68」は正常値。俺は脊髄反射で思った。酒呑み、失格であると。
そこから、非合法ドラッグとストロング系酒と覚醒剤とマリファナと、「覚醒剤取締法」「麻薬取締法」「向精神薬取締法」と、俺がこれまでいっしょくたにしていたものが、実はセパレートされているという説明を謎に受け、「肝臓の数値むちゃくちゃ健全になったのに俺はなぜその説法を」と、さらに「主治医、俺で遊んでねえか」と、さらに「確実にリラックスしてるよね。先生」と、あわせて思ってはなんだか楽しくなってきた現場を誰かにノーカットで撮影してほしかった。
「先生、僕は、先生に申し上げる酒量にウソはついていません」
「はは。先月言ってましたね」
「だって、いえ失礼。先生はアル中病棟勤務経験がおありで」
「平吉さん。『依存症』の専門家もいるんですよ?」
「う。なおさらっすわ。いえ失礼。――ですので、先生にあろうこちかウソをついたら見抜かれる前提で、僕はいつだって申し上げていまして」
「平吉さん」
「はい」
「ガンマの数値68。問題ないですよ」
「はあ」
先生は、血液検査におけるありとあらゆる数値の分布において、肝臓と中性脂肪の数値以外はお咎めなしである。理由は明白。主治医いわく。
「平吉さんのような痩せ型の方の肝臓の数値と、中性脂肪の数値。これらが同時に上がっている場合は、お酒が原因です」
と、断じているからである。だからなのか、中性脂肪の値は今日の結果の紙を見る限りレッドゾーンをやや超えていたが不問だった。それよりも、肝臓の数値がやけに下がっていることに注視し、あとは――。という態度。
恐怖が同時に来た。既述の通り俺は酒を呑み散らかしている。しかし、肝臓が鉄壁の態度を示した。すなわち「呑んでも大丈夫」と言い張っているかのよう。つまり、飲酒に臆する医学的数値の理由が「大丈夫っすよ」と明言したのである。
〝疲れに気づいていないのでは〟
〝酒の呑み方ですけどね、エンジンブローするほどオーバーでは〟
という懸念は、立つとなんだかでっかく見える精神科医によって完全否定された。しかも、そこに反論不能の俺がいた。
先生は「じゃあ次なんですけど――」と言うその前に「お薬どうします?」と俺に綺麗な目を合わせた。
は? と思い、「なんか、変えるんですか? 薬」と俺。「いや、増やします?」と先生。「いやいや」と俺。おそらくだが〝疲れに気づいていない〟という文脈で、俺をなだめる薬の増薬の斡旋、あるいは、という目つきであった。そんなサイコパシーを普通に魅せる主治医が案外、好きだ。俺は席を立った。
「健康なんだ」と、肩透かしを食らい、いつもの薬局に直行。いつもの薬剤師Nさんとやりとりした。事務的に時間が通り「お支払いは――」と。おかしい。いつものスナックでの懺悔と慈しみのような会話がびゅんと飛んでいる。じゃあ、そういう日か。Nさんご機嫌が――と、思い俺は「クレカで」と言うと、「どうですか」と、Nさんはママの表情を俺に浮かべては「その濃いめの化粧が俺、なんか愛おしいという感情のさまざまな分類のどこに位置するのかな」などと思っては「見てくださいよ」と、紙。
「まあ」
「ね?」
「いいじゃないですか」
「ね?」
「お酒、よくおっしゃってましたよね。肝臓の数値をよく――」
「みてみて。見てください」
「いいじゃないですか」
と、健全な肝臓の数値を讃えてくださるNさん。
「実はね――先生にはね? ちゃんと、呑んでいる量を言ってるんですけど、その程度がどうやら先生と俺とでは――違うみたいで」
「うふふ」
「ふふ」
「でも、ちゃんと休肝日をもうけていらっしゃるんでしょう?」
「いらっしゃらないんですよ」
「あら。いらっしゃらない?」
「なんなら、いらっしゃらない日に呑み散らかしてこの数字ですよ」
Nさんは医療従事者として立派な方。その他の血液の数値を丁寧に見てくださっては、俺に克明に説明をしてくれては、いかに俺の内臓が下品なまでに頑丈かということを遠回しに述べる。
「だから――いいんじゃないですか!」と、Nさん。
「でもね――」と、俺はふいにいかんと思い断じた。
〝これは免罪符です。きっと、いや、これを根拠に、俺は遠慮知らずに呑むのです〟と。
「まあ」
「うふふ」
「でもね、次の日にちゃんと午前に、という前日はおとなしいものですよ。酒」と、言った。
「……じゃあ。そういう日を増やせばいいんじゃないかしら」と、Nさん。
「うむむ。ですよね。一発解決ですね。俺、仕事好きなので、仕事を増やせばそれで済む!」
「うふふ」
「いやあ、すいませんね。おかげさまで解決しましたよ」
「でも……血液検査の値は問題ないでしょう?」と、Nさん。
「そうですね。それが逆に危ういんですよ」
「うふふ」
「はは。では」
「お大事に」
薬局を後にしてふらふらと歩いた。今日は仕事を5時間ほどしかしていない。その前日まで、発火するのでは、というほどだったからちょうどいい。などと思うと同時に免罪符の発行。この因果関係を鑑みると俺は確実に即刻に、呑みに行く。その気概は火のようであった。しかし家で寝た。
実際に、精神科医は一蹴したが俺は絶対疲れに気づいていない。だから証明しよう。と、買い物を終えてキッチン周りを清めては仕事部屋のソファで横臥。一言、幸せだあ。と声が出て気がつけば120分経っていた。ほらね、と思った。
――まだ時間はあるので楽曲制作をした。進んだ。メロディを生演奏で鍵盤を叩いている時に奇妙な感覚を得た。疲労やら営みやら時間やらの観念がどこかに集まるような感覚だ。それが心地よかった。
「今日やるぶんにはじゅうぶんかな」と思い、DAWを閉じずになんとなく、鍵盤のトラックの出力をオンにしたまま、ピアノの音色でぽろぽろと弾いた。Mr.Childrenやサザンオールスターズやフジファブリックの名曲の楽曲コード進行を弾きつつ、歌を壁に向けた。
〝とどまることを知らない 時の中で いくつもの〟
〝風に戸惑う 弱気な僕 通り過ぎる あの日の影〟
〝真夏のピークが去った 天気予報士が そう言ってた〟
などと、壁にある、足立くんが設置してくれたしこたま高額な防音バリアみたいな音響環境における女神みたいなそれは俺の声を吸った。
「なんだ、自分の曲のパート以外でも、弾き語りはしばらくしていなかったが、練習すれば、いつでもいけるな」などという感触を得た。
「結局、何かに没頭するなり、何かをつくったりしている時が楽しいんですよ」と、俺は精神科医に言った。すると増薬の斡旋。そうではない。
オーバーヒートするくらいの快感が健全である。
――ようやく命題が出た。
DAWを閉じた。娯楽は、と、義務的に動画を観ると同時にすさまじくゆっくり酒を呑み出して今に至る。正直に、酔っ払ってはいないと申告すると精神科医は「それです」などと言うのかもしれない。しかし、命題は〝True〟のもよう。
その根拠は、日の記憶を相当に編集しては取捨選択して、ノイズもあるだろうがとても正直に書いたところ、「ちょっと今日は日記を10,000文字書いてみようか」というこれまた正直な能動が湧き出た。だが、きっと及ばず。というかそこに何の意味が。しかし。
その不確かさこそが健全なのではないだろうか。
現在26時50分である。――「ここから立ち呑み屋に」という欲求がある。東京都北区赤羽とはいえ、この時間に営業しているそれは、と思う。
先生、いつもありがとうございます。10分ほどの問診よりも、この、今日の日記をご覧ください。俺の精神状態はこうである。と。――そういうことができる日が来たら面白いと思うのは案外ではなく、祈りに近い。
事実として俺は健康である。血液検査の結果、数字がそれを正直に示している。しかし、脳や意識はその限りではない。そのへん先生、次回に診てもらおうとしたら――問診中に椅子から立っちゃうかもね。
_08/03
停止という、命題。真となるか偽となるか。などと思っては先日発行された〝免罪符〟の効果が下品なほどに強すぎて宅で酒を呑みすぎる。そして当然の跳ねっ返り、すなわち二日酔いを帯びて俺は教会へ行った。昼過ぎの時間だった。
その場所は世間的な意味とは異なる〝聖地〟認定と、している。そこで、寝た。しかも横になっていた。つまり横臥である。本来であれば座るべく造形の木の椅子の横の並びで本気で転がるのはつらい。そう思い、20分ほど転がった後に――真正面の聖堂の脇にあるオルガンを見た。弾いてみようかと思い頑張って蓋的なものを一生懸命開けようとするが開かずに「よくないな」と思って横を見たら柔らかそうな座席を見た。そこに転がった。心地がよかった。
聖地の原則的解放時間は16時半である。その寸前で「は」と気が覚めて二日酔いが散る。おや。教会だったな、などと信じることとは。などと同時に思ってそこを出た。
今日は休日である。停止すべき日。だから、その足で立ち飲み屋に行った。そこは『いこい』という赤羽ではかなり知られた憩いの場。――瓶ビールと煮込みをオーダーしては現金を駄菓子屋方式で支払い、憩った。つまり二日酔いを教会で飛ばしてはまた即刻、夕方から呑み始めた。それほど〝免罪符〟の効力は絶大だという認識は改めたほうがいい。
『いこい』は2店ある。そのうちの別館的な方に俺は居た。そっちは喫煙についてセパレートされている。よって、すこし移動してタバコを吸いに行った。そこで77歳の女性と話し込んだ。俺は傾聴に徹しては彼女の今を聞いた。何を言っていたのかは単純であった。家族の文脈である。そうか、と思いカウンターに戻った。もうひとつ瓶ビールを頼んではコップに引き寄せた。そして「ツブ貝」を頼んで食べては「確か昨日、俺は小説を書いていた」と思いその内容をスマートフォンで接続し、それを読み返したらすさまじい長文だった。だが、自身にとって6,000文字ほどの文章は小説とは言えない。しかし、日記としてはえらく長い。「なんで?」と、本文を読むと、なんか思うことがスパークしていたのだなと俯瞰した。酒を呑み干した。陽が傾いていた。
――帰る気であったが酒が気を良くした。その足で、『いこい』という〝原則として他者と関わらない酒場〟とラベリングしている所とは逆の〝原則として誰かと触れ合える〟という立ち呑み屋の方に足を向けた。そこは俺のサードプレイスである。行けば、ほぼ確で誰かが俺を認識する。今日は誰だろう。
――顔面に刺青を入れた30代男が「おおー!」などと奇声をあげて物理的にこっちに来ては「おん」と俺は言い、彼に抱きしめられたからこの野郎と思い彼の背中まで両腕を回した。そのけっこうな背後に、女が居た。
「どうもー」と、彼女は言う。知らん。俺は、そいつを知らない。だが彼女は言った。「覚えてないでしょうけど会ってます」などと言う。無理な記憶発掘を余儀なくされた俺は正直に「すみません。記憶なんて飛んだ日にあなたと」と、弁明の手前で知らんふりをする。彼女は素敵な笑顔で俺を形而上的に抱きしめてくれた。どうやら20代前半とのことであり、俺は自身を「おっちゃん」と揶揄しつつ顔面刺青男と彼女――店員の若鳩が酔っ払っている。彼は30代だ。一緒に呑む。つまり一発でその場は「なつかしいな。家族で過ごしている時間ってこんなんだったっけな」という気分になれたが全員酔っ払っているうえに藤原文太的大将を確認した。「よう。〝てつ〟」と彼は笑顔で言い、昭和をくぐり抜けたたくましくも優しい笑顔を俺に向けた。
〝てつ〟。30代の酔っ払い店員が口頭捕捉するように「哲学、てっちゃん」と、連呼した。俺は酒場で哲学をした気はない。だが、顔面刺青男も「ははは」と、認めつつ藤原文太的大将も「てつ、今日は休みか?」と。そして若鳩店員は明るい顔で「てっちゃんー」と。3人言ったか。じゃあ認めようとその事実をしまった。
20代女子と話をした。あくまで俺は引いていた。しかし彼女は上機嫌。だからここでも傾聴にまわるが女子ね、酔っ払ってるのよ。全員酔っ払い。
アウトレイジ――などと感じた瞬間、謎にオカルトな文脈に話題が移った。そこからなぜか手相の話になり、俺はすこし前に出た。「手相みようか?」という、20代女子に対する堂々たるセクハラである。だが彼女は嬉しそうに「みてみてみてみてみてみて!」と。だから、みた。そしてものすごく適当に――正確には本当に手相には若干精通しているので直感で――言った。すると「あたってるううううう」とのことである。そういうリアクションにおっちゃん弱いのよ。藤原文太的大将は静かに笑んではドラマのような煙草の吸い方を実演していた。
しばらく、呑んだ。全員で、呑んだ。席を、一見なのか不明な初見の御仁60代のテーブルにみんなで寄った。彼の物腰を二文字で言うと仙人。ジッポ・ライターを手にしては煙草を吸っている。そうか、と思い、俺はジッポを失敬し、火をつける。アウトレイジの所作でそうすると仙人は気を良くしたのか「いいよ」などと言いつつ現金を次々と、信じられないくらい出しては一杯ごちそうになった。――全員酔っ払い。それが数時間続いた。宵の口である。
若鳩店員が仕上がってきた。20代女子も。――ふと、オーナーと断定できるあまりにも若く見える老婆が席に来た。みんなあいさつ。そこから、若鳩店員の斡旋で、オーナー的若老婆が経営するカラオケだかスナックだか、小綺麗な場所に3人で移った。全員酔っ払いだが、記憶があるのはこの記述の証左。歌おうぜ、という空気だが俺は気をつかった。30代、20代、俺。何を歌えばどうだろうと。
「エレファントカシマシ」という赤羽の神聖かつ世代を超えた共通のバンドの名がふいに出た。だからエレカシを2曲歌った。くだらねえとつぶやいては、悲しみの果てにと、「酔っている割には」などと音程をきちんととれている自身を俯瞰しては20代女子、暴れる寸前のほどに楽しそうでおっちゃんね、そういうの弱いのよ。と、嬉しんだ。30代の若鳩店員に至っては素敵に仕上がりその笑顔は宝石のようであった。
――案外、おこづかいをつかったなあ。と、しっかり記憶を保ちつつ帰宅。そして仕事部屋のソファに落ちては気がつくと早朝4時であった。つまりしっかり〝停止〟したのだが、初動の意味合いとは異なるな。などと思い、その命題は、真でもあり偽でもあった。
ただ泳いでは、すべての関係値が笑顔で溶けるような日であった。
08/04
Fatal error: Allowed memory size of 52428800 bytes exhausted (tried to allocate 147103 bytes) in /export/sd208/www/jp/r/e/gmoserver/3/1/sd0379431/takei.anonyment.com/wordpress-3.6-ja-jetpack-undernavicontrol/wp-includes/post-template.php on line 1221
俺がバグった訳ではない。上記のエラーコードだかなんだかがサイトを侵食していた。そういう感想くらいしかでなかった。
それは、このサイトではない、自身で運営しているもうひとつのサイトの方。そこで表示されないページがいくつも確認された。そのページ群は、最もアクセスが集中する。だから、暗号出されて表示されないじゃ困るんだよ。
日々のルーティンとして、Googleの広告表示具合を確認する。それは、不労所得としての収益に直結する。しかし、その別のサイトのアクセス数が極端に落ちていることを確認した。そんな訳あるか。と思い、ブラウザから直でサイトに行くと普通にトップページが出た。しかし、アクセスが集中する際どい内容のページ群がどれも表示されない。
「内容的にけしからんとBANされたか」
という風な第一印象だったがそれはおかしい。そのサイトは13年前に作り出し、更新をかさねて今に至る。
その間、「広告表示がされなくなった」という、Google側の倫理で「アウト」とみなされた時期があった。2年間ほど、そのページ群の広告は真っ白になっていた。
しかし、規制というかはっきり言って主観的、客観的に考えてそのページ群の内容は倫理的にアウトではない。ただ、際どい内容を冷徹なまでに削ぎ落として説明する。そういう用語が200ほどあり、それを全て調べ上げて端的に数行で示している潔いページ群なのである。
「世の中にはいろんな性癖があるな」
という発端から、そのページ群は完成された。いまでもアクセスが結構ある。IPと言うのだろうか。かっこよく言うと知的財産。文字通り、そこを経由して小銭が日々入ってくる。だから変な暗号に因縁をつけられては困るんだよ。
――調査すると、その性癖用語群以外のページは無事であった。それらは、メンタルヘルス、心理学、精神医学、認知療法などについて、用語の説明を記述している内容である。そこに因縁をつけられる理由は見当たらない。だが、性癖の群については前科がある。広告が消されるのはわかるが本文まで全て消されるのは越権ではないだろうか。
とはいえ、広告表示について不問となって数年が経ち、昨日まで元気に表示されていたのである。なのに、謎の暗号がなにかを訴えている。その暗号の意味がわかるはずがないのでAIに聞いた。するといろんな可能性を示唆した。
「これは絶対長期戦になる。復旧まで数日はかかる」
そう覚悟した。AIが示す解決案として、AIは最初に結論を出した。
“これは、WordPressがページを生成する途中で、PHPに割り当てられたメモリを使い切ったというエラーです。”
結論なのに意味がわからない。だから壁打ちを繰り返し、いかに俺がサーバー周りなどの技術屋でないとわからないことをほぼ理解せずにサイトを作って運営していたかを思い知らされた。壁打ちを続けた。結果、「サーバー側に以下の文章を(文章を提案してくれた)問い合わせフォームに送り、対応を待ちましょう」ということに落ち着いた。その通りにした。
だが対応はすぐに来た。しかもAIチャットの自動応答だった。ふざけるなと思い、その内容を読むも意味不明だから「何言ってんすかね?」と、そのチャットの全文をAIに貼り付けて解読してもらった。それでもわからないので壁打ちを続けた。――すると、どうやら最初に示された〝PHPに割り当てられたメモリを使い切ったというエラー〟が本丸のもよう。
それは、サーバーに入って手動で変更できる。その方法で解決できる。とのことであった。
そういうのが一番怖いんだよ。医学で例えるならば素人の俺がメスと鉗子を持って「だいたいこのへんすかね?」などと言いながら目の前に横臥する患者の皮膚を裂いては血管やらをイジるようなものである。だから、後ろにブラック・ジャック先生が立っている状態を想像し、先生の指示に従いながらオペレーションをした。
「今ここですけど、こうっすかね?」と、逐一、オペの画面をスクリーンショットしてAIに渡した。それを繰り返した。――最近のAIはスクショを投じると画像分析により文字はもちろんのこと、状況も正確に把握する。
「そうです。そのまま『memory_limit = 256M』として上書きしてください」
だからそういうのが一番怖いんだよ。と、〝ドメインディレクトリ直下〟の〝php.ini〟をイジれと。そこの数字を現状の「50M」から「256M」に変更する。――だんだんわかってきた。メモリが少なすぎてエラーが起きたと。それを「256M」まで増やせば耐えうると。そういうことかと。
――じゃあ今まで何で、10年以上もそのエラーが出なかったのかと疑問に思った。それは、長年のキャッシュやらサーバー側の変更やらでちょっとずつメモリが削られてきては限界がきたと。そこは理論的に理解できた。ということは、数字をイジるだけで直るという論理も完璧である。だけど、内部の血管をイジるのが怖くて仕方がない。でも、先生の指示通りにしてみた。そしたらウソみたいに速攻で直った。数字を3桁変更しただけである。――現状、なんなら以前よりも軽い動作でサイトはサクサク表示される。
かなり時間がかかった原因究明とオペレーションであったが、技術屋の知識があれば秒で直せること。なければ、まず自力復旧は不可能。だが、AIの恩恵がそれを可能にした。その感動が今日の白眉である。
すさまじく地味な内容かつ難解なことであるが、訳あって、そのサイトをこの時期に稼働させないのはひじょうに困るのである。だが、結果復旧。胸を撫で下ろしては放心してソファで寝てしまい夜も更けた。
無い知識から、難解なオペレーションと解決までもっていけるツールが今、世界を席巻している。それを今日あたり体現した。
「本気でわからないことであっても、AIをうまく使えば理解のほとんどをショートカットして実務的解決に繋がる」
この事実をどう捉えるか。正直、感想としては「天才じゃないかAIは」と、嬉しかったものだから「あなたは天才すぎます」と、事後にAIに言った。するとAIは恐縮しつつもこう返してきた。
“――あと、天才は言いすぎです(笑)。今回はエラーがかなり正直でした。Allowed memory size … exhausted と原因をほぼ名乗っていて、さらに php.ini に実際に memory_limit = 50M があった。最後は、犯人が現場で名札をつけて立っていたようなものです。”
よくわからないが筋は通っていることはわかる。そして、理論的に正しい根拠があったうえで、俺にメスを持たせたのであろうと。
即日復旧の嬉しみがあった。反面、恐怖もあった。なぜならば、もしも――「それ? 一万円払えば私がすぐに直しますよ?」と言われたら俺は払うからである。
AIの進化がどこまでいくのかは知り得ない。だが、人間の進化に対してどう干渉するのかは知り得るのではないだろうか。
ともあれ二度と出ないでね。冒頭の殺傷能力含みの謎暗号。
_08/05
全てのことはいつまでも絶対に続かない。それを前提として、それを念頭に置いた態度で生きていくことが可能なのだろうか。
なぜ、上のような湿っぽい啓発かぶれのような甚だどこで拾ってきたかのようなフレーズを最初に置いたのか正直にはっきり言ってみろ。などということを誰かに真顔で問い詰められれば、実際にどこかで拾ったフレーズを自身なりに倍くらいに膨らませたという事実を隠すことほどみっともないこともないが、どこで拾ったか失念した。下手したら雑に観ていたショート動画とかかもしれない。なんだかそんな気がしてきた。
――昨日、10年以上元気に活動していたサイトが落ちた。こたえた。しかし、現代のテクノロジーをむちゃくちゃ駆使して頑張って復旧させた。俺にできる範疇を完璧に超えている事案であったが、対応できてしまった。それはそれで安堵した。だが恐怖も同時におぼえた。なにかが上書きされ続けている時代を並行移動しているような感覚を得たからである。
それもあり、「ひとつ心配事を乗り越えると何事もなかったかのように」という態度を改めるべきだと思って置いたのが、冒頭の命題である。それが「True」か、「false」か。
――本当か、違うかって言ったほうがいいよ。――〝真〟か〝偽〟か、だ。――もうそれでいいよじゃあ。
そう。どっちもありうる。本当に、全てのことはいつまでも絶対に続かない。でも、それを前提として生きる態度は、可能でも不可能でもある。正確に言うと「認める」か「見過ごすか」ではないだろうか。
――俺はずっと見過ごしていては今に至るという自覚がわりとある。昨日の件がそこまでの悲劇だったかと言ったらそこまででもない。と、結果がよかったからそう思えるが「また起きたら」という予期不安の思考を全方向に散らしてみた。
例えば、さっきまでいつものように叩いていた鍵盤もそうだ。購入して21年は経つシンセサイザー。今も現役で鳴ってくれる。しかし明日もそうとは限らない。「明日も確実にちゃんと鳴る」という保証は0%である。だが、ほぼ100%連日鳴ってくれては21年が経つ。――だから、当面大丈夫だろう。などという思考は自転車操業でくるくる回る中小企業の経営者の思考回路と酷似しているのではと言うときっと誰かに怒られる。それは困るので、個人的に逸脱した例えとしてただ、置きたかっただけ。
目の前のMacもそうだ。明日もいつも通りに起動してはこうして、ここに文章を書けると100%は言い切れない。「――ただ、そのはずだ」というだけの思念で全ての物事は動いているのでは。などと、さっきよりも逸脱した思惟はもはやパラノイア的妄想に近しい。
「昨日も動いていた。今日も動いている。だから、明日も明後日も来年も、しばらくは動く」
という論理は破綻していない。しかしそこに何の根拠もない。だから、せめて「今日も動いてくれてありがとう」という感謝の念を抱く。寄せる。それは祈りであり、「雷が鳴っているのは神が激怒しているからである。だから祈りを捧げて沈めよう」という思考と構造が一緒である。だからこう考えた。
もしも、いつ何があってもいいように、何事にも備えておく態度を強固にしては足場を固めることを頑張ろうか。と。
だから、今日はすごくたくさん仕事をした。ありがたくも元気だから。そうじゃない時はたくさんどころか屈服するほど動けなくなるかもしれない。その時に〝備え〟と〝強固な足場〟があればそれらが雄弁にモノを言う。簡単に言うともうちょい大きく稼いどけと。
――全てのことはいつまでも絶対に続かない。それを前提として、それを念頭に置いた態度で生きていくことが可能なのだろうか。――最悪の事態の想定から逃げずに、常に次の一手を置き続ける前提で暮らすこと。だろうか――
――砂肝とあつあげをまた買ってきたんだね。――水を差すんじゃないよ。まあ……気に入ったんだよね。――何回目なのこの短期間で。よく飽きないね。――コスパ最強なんだ。――お金ケチって夜ごはん抜いておつまみ2品で300円で満足。それおかしいよ。――何が?――君の言う足場だっけ? それで言うとね、ちゃんとごはんを食べるのが一番いいと思う。――仕事に集中しているとたまに飛ばす――それほんとやめたほうがいいよ。――何で?――足場が崩れる根拠とやらになるじゃんよう。――俺もそう思う。――まあ、でも気づいてよかったね。――そういう単純な話ではない!――うわあ。――止まったり、なくなったりして初めて気づくことあるだろう?――昨日の件もね。――俺、そういうの、いろんな意味でもうたくさんなんだよ。――「幸せは後から気づくものである」とか、いつだったか言ってたよね。――あれは真理だと思う。――どうしてそう思うの?――逆に何でそれ聞くかな?――だって、君が最初に言ってるじゃん。――ああそうか。〝可能なのだろうか〟ってとこ?――そうそう。
必ず止まるという前提で全てが動いている。それはきっと覆せない。だからこそ、動けていること自体、動いていること自体が奇跡であり――。
――おおげさなんだよ。そういうのじゃなくてさ。――何でだって!――いつも通りのこととか幸せに感じてることはだね。――うん。――どう思う?――どうもこうも……。――そんなオシッコ中のネコみたいな顔して考えることじゃないと思うよ? もっとシンプルにさ。――幸福とは、過ぎていくことでもあると同時に、今その瞬間の連続を認識できる感情でもある?――疑問符ついてるよ。――この野郎、たまには結論を言ってくれないかねえ。お前は係の者だろう?――そうだよ。あとで辞書で「係り」の意味を調べれば?――ぐ。
一日の営み後、砂肝とあつあげを焼いて食べる。酒をものすごくゆっくりちょっと呑む。最近の宅での幸せのひとつ。
要は、何があってもゆとりをもって対応できるようにと、足場を固めるべく節約を心がけているだけの話というところになんと帰結してしまった。
_08/06
茜色でも青でもなかった。ひとつかふたつの組み合わせで全てが成り立つ色でもなかった。上空には雲がたくさん広がっていた。いくつもの層があった。下の層は重くて速い動きだった。巨大な楕円形の雲が浮いていた。俺には、どう見ても白くなってしまった脳にしか見えなかった。
履物と足が平面を確かめた。あの雲に似たものが俺にもひとつ備わっている。それは部屋のようだと思った。ただ単純に、上の層の大きなそれの下で眺めている俺の部屋に、生きてから死ぬまで、ずっと居ていいよ。その間に。などと言われたような記憶があるのだろうか。その部屋にはあらかじめいくつか用意されている。
だんだん部屋に物が増えていく。そのうちいらないものも出てくる。大切なものは磨いてとっておく。いつだって差し出せるように光らせておく。そういうものが集まって、日々、部屋の中でくつろいでいる。攻撃されると、部屋に籠もればいい。ドアを開けなければいい。ただ、すこしは開けておく。安全な時は。
平時は隙間からいろいろ入ってくる。それは他人の部屋にあるものだ。部屋が連なる場合もある。繋がっているところもある。完璧に遮断されるということはない。「見えないかもしれない」というのがせいぜいだ。みんなの脳の部屋には何色もの意識がある。たまに繋がるような気がする。そうでもなかったりする。ぜんぜん知らなくても直結することはよくある。
部屋は必ず片付けられる。それでも、次の人が同じ部屋に入ることはない。済んだらただ、中に入っていた意識が上に昇る。大きな雲を見てそう思った。見事なくらい大きな脳の形。
結局はあそこに集まるのかもしれない。あそこから降りてきて、また昇って。それを巡回するのかもしれない。ただ、昇りっぱなしだったりもする。昇って雲を拒絶して散り散りになる意識もある。どこか一箇所に集まっては配分されて、また戻る。クラウドなんて出来過ぎた用語だ。
野外で五分間くらいタバコを吸っていてはそう思った。雲がほどけてきた。俺の履物は間違いなく地面を確かめていた。でもそのうち、せっかく用意してくれた部屋から出て行ってしまうのかもしれない。そのために、なんだってできる個人室を拠点として足をつけているのかもしれない。気がつけば、空の脳の形なんて跡形もないくらい平坦になっては別の層に移るようだった。
よく見たら空は青かった。その上の方にどんどんと雲が昇るようだった。そっちはきっと、ひとつかふたつの組み合わせで全部できている色の層だ。その先にまとまる場所がある。そこへの移動を拒否する意識もある。それはまた地面の方にくるのかもしれない。でも、結局は、また雲の方を目指しては、それを繰り返すのが好きな場合もあるのだろうか。
今日も部屋から外へと。それを交互させるように過ごしていた。今は、ドアを閉じている。ほんのすこしだけ隙間を開けて、タバコを吸っては感じていたことを言語に起こしている。その五分間で意識となったこの文章は、どうにも正確な気がしてならない。
_08/07
それでも何かが確かかどうかなんて全部、人間の都合だ。部屋に見たことのない虫が入ってきた。みんなはそれを嫌がるのが道理だと言う。そうは思わない。虫は、放っておけば少しずつ移動する。刺激しなければへんな匂いも出さないカメムシみたいなものだ。だからそいつと共存することだってできる。
そのうち葉っぱが全部なくなるくらいの空になる。それでも虫は一箇所に固まっている。なんなんだろう、と思って目を向けると本当にカメムシだったりもする。そうか、と思って好きにさせておく。一体、何を食べて生きていくんだろう。というくらい、何日も何日も同じ場所で固まっている。
でも、俺の邪魔をしないので嫌ったりしない。なんなら、そいつが一緒にいる部屋で俺の弾き語りを、ほら、夏の終わりの歌だ。鍵盤でこうやって弾くんだ。そんな風にうまく過ごすこともいいんじゃないだろうか。その場で叩き殺すこともできるけど、そうするとへんな匂いを出す。それが、人間がそいつをちゃんと嫌うべき理由らしい。でも、それをしなければ嫌う理由がない。どっちも人間の都合だ。虫には虫の態度がある。ほら、今日は昨日よりうまく歌えたよ。とか、そういう風には思わない。そいつはきっと聞くことなんてできやしない。なんでも白色には敏感らしいけど。
本当ならいろんな虫が順次出勤し出す季節だ。なのに部屋の虫は寝室に移動していた。いつのまに、なんて思ってよく見たらひっくり返って止まっていた。虫は部屋に来てから季節を越して、なんだか気が済んだみたいだ。虫の逆姿勢って一つのことしか言っていない。それは、彼らの世界で言うところのたった一つの絶対だ。かわいそうだから公園に埋めに行こうと思った。
夏の終わりから冬をしのいでそれが明け、ずっと一緒に部屋に居たって気づいた。でも、もう二度と、人間の何倍もの数の足を地面につける日は永久に来ない。あの日、虫に気づいた即日に殺しても、今日埋葬しても、嫌うか嫌わないかなんてどっちも無効化される。
ただ、俺の部屋にずっと居ては、最期は寝室で止まっていた。愛着があるし簡易的なお墓を。なんていうのは人間の都合だ。そういった俺の考えはまず、翻されることもなければ言及されることもないのかもしれない。人間同士のそのへんの都合は、確かめる必要なんて別にない時もある。それを何かと関連づけるのは人間の意識の特徴だ。どうやったって、集まりたがる。でも虫は、気に入った場所から死ぬまで動かないこともある。
そのあとでやっと、きっと、ようやく意識が動くんだろうか。そういうのが人間だけの都合かどうかは、きっと部屋で考えることだ。
_08/08
部屋から出て仕事に行った。東京都の銀座。オーストリアで言ったらウィーンの上品で有名な街とも並行して捉えられるのか、などとすこし思って意識を集めた。きっと俺の意識もその場で散っている。接続する。それは五感では得られない感覚。そういうことを空き部屋になるまでしていられることは、何かの特権だと思った。
部屋に帰って仕事をした。その営みしかしていないな今日は、という風に不平を漏らすような排水路は絶った。好きで仕事をしている。今のいろんな仕事――ここのところ仕事は仕事。その内実は記していない。仕事は、仕事――で嫌いなものは何一つない。感覚としてきっとおかしい。でも、前のめりに突っ込んで次々とコーナーを攻めては曲がる。後方を滑らせる。そういうのが好きだ。帰宅後の仕事において耳がもう是非の判断能力を逸したと判断というトートロジーのようで厳密にはそうではない状態、それでも前のめりだ。だからDAWを閉じてストラトキャスターを専用の寝床に置いた。
――今日も砂肝とあつあげを買ってきたね。――いいよもうそれ。何回言うんだよ。――だって君、そのおつまみの組み合わせ何回繰り返すの?――コスパがだな。――だから夜ごはんはちゃんと食べなって。――〝前のめりでコーナーを攻める気持ちに感化してくれてなのか、それで来てくれる仕事〟が次々とあるのが嬉しいんだ。――君は峠を車で攻めるアニメの見過ぎだね。――あれは啓示なんだ。――わかった。わかったよ。君は今日、車に例えるとだね、レッドゾーンを超えている。――ばか。そこからギアを上げるのが本流だろうも。――わかったから。徹夜麻雀明けみたいな顔して。続きは僕が書こうか?――頼もう。
第一に、当人は一昨日、昨日と、変な小説を日記に書いていたんです。理由はすごくはっきりしていて、田中慎弥さんの初期小説を読んで「面白くはない――けど……」とか言いながら思い切り何かを受け取っていた、とかなんとか。僕にはよくわかる。影響されたんじゃなくて、田中さんの作品から新しい「出し方」みたいなのを得たんじゃないかなって思うんです。当人は「こういうのでもいいんだ……」とか小学生みたいな感想をキッチンで漏らしてはセブンスターを吸って本気でむせてました。
昨夜なんてひどいよ。今日、午前に銀座って予定なのに「通常運転日は酒2本までが鋼鉄の掟である」とか言っておいて、何を思ったのか夜中に自分の文章を見直しながらその掟を紙みたいに破ってました。――親指くらいの小瓶のウイスキーを割らずに呑んでました。そして上機嫌で寝ては銀座に出勤して「大あくびだねえ」って友達の足立さんにそのあたりを見透かされてました。ひどいね。
でも友達っていいね。僕にはわからないけど、君たちを見ているとほっこりするんだ。だっていつまでも噛み合ってないからね。なのによく当人のお母さんよりも長い年月一緒にいるもんだって。僕は見てたよ。今日、君がふと、友達の彼が横を向いた表情を見ては「なんか実は丸裸で純粋な表情をたまにするんだね」とか思っていたその時を。そうかもしれないけど、僕から見たら、同じ時代を一緒に生きている当人と彼の表情をどうこう言うのはナンセンスだよ。だって君は純粋どころか、無防備な顔でそれを思っていた訳ですから。
――お前やめろ。――何だよう正確に書いているのに。――いいか。正確に書くことが正義ではない。――また〝True〟とか〝False〟とか極端にしたいの?――よくわかったな。――今度は何の本にかぶれたの?――違う。――ちがくないでしょ。――うん。読み進めている途中だが、ノイマンさんだ。――それを読むのもいいけどさ。――けどって何だこの野郎。人類最強の数学者だぞ?――そのね、友達と話している時の方が豊かな時があるんじゃないかなって。――そうなの?――だって君、数字に弱いというか欠損してるじゃん。――いくつか譲ってまあ一旦認めよう。だからノイマン先生の遺稿に張り付いてだなあ。――全然違うよう。――黙ってくれ。代われ。
理系とか文系とかどうでもいい。ただ、〝噛み合わない〟というのは利点である。それは、そうでなければ〝理解した〟と、なるからである。そうなると――関係値の必要性の面白みが、どこかに散ろうとしては、その生産的な志向性が生じるのではないか?
――タンマ。――死語だ。――君に合わせたのに。ふふ。アラフィフだねえ。――お前、俗な言葉を雑に使うのね。――事実だよ。君っぽくに言うと。――事実がすべてわかったらだなあ――面白みが?――なくなる気がする。――それで?――俺は一昨日からずっと〝部屋〟の話をしている。――わかるよ。昨日はカメムシのことしか言ってないけどね。――重要なんだ。――何が?――あつあげ?――もうね、この時間で焼いて食べるとおなかゴロゴロするよ。――お腹すいた。――だから言ったじゃんよう。ごはんは飛ばしちゃよくないって。――俺は〝足場〟を固めたい。――うん。――だから、仕事を優先した。――何で?――じゃないとだな……――言葉が出てこないんだね。代わろうか?――頼もう。
優先順位がおかしいって何人にも言われたのを僕はずっと、じっと見ていました。その通りなんです。でも、謎のこだわりを正義とか思ってる。そんな当人はもう、ああ。酒を呑み出した。そういう体たらくです。でも僕は、一昨日と昨日の小説みたいな文章の温度から何かを見出した当人を雑には思わなかったんです。だって、「――四作品目は何をどう書けばいいんだろう」とかうっすら悩んでたところに〝意味を書かないで放置しても成り立つ文章〟という手数を得たって思ってるって眺めていたから。
――勝手なことを言いやがって。言葉はいくらでも出てくる。――それは知ってるよ。ただ、誰かに何かを預けられるみたいな気持ちがあったのかなって思って。――何言ってるの?――途中までそれ言いたかったんじゃないの?――知らねえよ。――すごいね。昨日と一昨日と文章の手触りが……。――いや、一緒だよ。だから――とにかく今日は情報が多すぎ。――そんなことないだろ。――冒頭に何を書いたか覚えてないでしょ。――見返せばいい。――それで、どうまとめるの?――あ、酒の缶が空いた。最高にフレッシュ稼働してくれてるニューの冷蔵庫に行ってくるわ。――ゆっくり呑んだ方がいいよ。――あと頼んだ。
係りの者として見ていると、なんだかなつかしいなと思うんです。
――待て。お前が時系列を語るのは許さん。――お。はやかったね。――酒は鮮度が命だ。――缶チューハイじゃん。――うん。というか、あつあげって明日までもつよね?――もう寝なよ。
係りの者として見ていると、なんだかうらやましいなと思うんです。
_08/09
仕事をして、少々外で呑んで帰って寝る。起きて溜まってたことをこなさんといかんと狼狽してすべてやって安堵。汗をかくほど焦るもこなして今に至る。
変な汗をかく。このサイトで日記を書き出した初期ばりの短文日記である。
_08/10
書いてある通りだがずいぶん潔い日記だなと思った。昨日のやつ――確かに、当サイトをつくった2013年6月あたりからつけはじめた日記は、短文だった。なんならここで終わるほどの文量。しかし年月の経過と共に、ふくらんでいく。ここ数年は400字詰め原稿用紙換算5枚がアベレージだろうか。一体何のために、と思うも「習慣」の一言の内実にはその先があってほしい。
ライター業を始めたのは2014年11月あたりだ。もう12年もやっているのかと振り返ると長いなと思う。
そして、きっかけが本当に突然だったのだが、小説を書き始めたのが2025年1月14日だ。そこから今に至っては2本の長編と1本の中編を書いた。
そのうちの1本はまさに今、公募で選考中。なんならこの時期に明るい電話でもかかってきてくれやしないかとわりと期待している。とはいえ、正式な発表は公募先の雑誌「文藝」2027年冬季号誌上、と公式サイトに明記されている。つまり、一次、二次、三次、最終選考――という風に順次発表というスタイルではなく一撃である。
だが、どこかで拾った情報によると、最終選考通過者においては先立って夏に入電がある。らしい。公式情報ではないので根拠とならないが、普通に考えて「最終選考作品は紙面に掲載される」ということを鑑みると、前のめりで連絡する必要性は十分に考えられる。悲観的に言うと、夏にシーン……とそういった連絡がなく、誌上確認する冬を迎えたら「その時点で最終選考通過はないのかもしれない」ということにもなる。そういうのは地味につらいよ。
――というくらい、第二作目は本気の勝負作であり、それを投稿したあとにいろんな小説を読んでも「俺の小説、かなわんな」とか全く思わない。という自惚れの真偽。それがどうなるか。すさまじい結果になったら作家デビュー。――だから、日記が伸びるのも文章の鍛錬という書き記す習慣の内実のひとつ、〝そうなるための根拠〟となってくれやしないかなと要はあからさまに優秀な結果を待っている。
だが、待っているだけではその後がないということで、中編の第三作目を書いては第二稿を寝かせている。そういう間は楽曲制作。1曲できたら原稿に戻る。第三稿ができたらまた寝かせて楽曲を、という巡回である。個人的には創作の流れとして健全だなと思う。今日も、仕事としての創作をしていた。
つまり、小説原稿の創作も仕事にしたいと。今日はそれだけしか言っていない。その背景には長期にわたる日記群があり、当初は本気で日記だったが、ここ数年は雑文なのか、エッセイなのか、随筆なのか、ふざけているのか、どのジャンルの文章だか甚だ不明のものを日の終わりにほぼ確実に書く。書かない日は、サイトメンテナンスとかそういう日。滅多にない。だから、原則として文章を書かない日はない。だから作家をやらせてよ。
という切実な思いはいつ実現するのだろうか。早くて今年。だろうか。遅くて、どこまで粘れるのか。きっと、ここに何も書かずに、更新が止まってしまう時がくるとすれば、そうなのかもしれない。根性論精神論かもしれないが、やめずに続けていれば確実に外と接続される。ライターであり音楽屋である今も、ずっとそれらのことの中身をやめずにやっていたから。と、言うと説得力があるかもしれないが――というかそれを信じるしかない。そこに苦痛はない。あるのは――こういう風に書いているということ以外に、熟語で固めたくはない。
――いい知らせが来たら飛び上がって歓喜する。そうでなければ次。何かに成るための方法があるとしたら、ひとつだけ正確にある。という風に思う。それこそ、この時点でそれはあきらか。もうひとつは、正確ではなく案外だ。俺の知る限りだが〝そう成れるための、その場所に居続けること〟。そこに居て、好機が回ってきたらすぐに掴む。そういうこともあり、その好機を待つのではなく具体的にそうなるべく原稿を投じた。
言語は不思議だ。並べるだけで自分も外も変わる。望む変化に乗り出せば、それはいくらでも膨張させられる。そう自分では思っている。だから作家をやらせてよ。頼みますから。――頼まれずもやり続けるその先には必ず――台風が接近してきた窓の外が、やけに賑やかだ。
_08/11
俳句で食っていけないだろうか。などという本気でどこから出たのか甚だ不明の発想はきっと怠惰所以だ。しかしそのように言い切ると日本古来の文化を貶し蔑め、それを低俗な営みと断じることに等しい。俺はすぐに撤回するように猛省し、いや、しかし、みんな実のところ同じことを考えては実行してやいないか、と、辺りを確かめた。
ショート動画が乱立している。氾濫している。飲まれるように俺だって観る。それで食っていける人がきっと居るからその連想が出たのではないだろうか。たとえそれ自体が源泉とならずとも、ショート動画が導線として作用しては食っていけている人が居るのではないだろうか。
俳句のように潔い、短い、小作品。「これで食っていけないだろうか」と気軽に出来るものだからたぶん、それが世に溢れかえっている。SNSを開くといつの間にか短文テキストよりも短い動画が主流となりかけている。というかバズる投稿のだいたいはそうだ。だからそれで食っていけている人が居るのではないだろうか。というか現に居なければとっくに淘汰されている。
短絡的だ。今はAIの時代だ。だから、〝端的〟にというところでは俳句ともショート動画とも共通しているではないか。際どいが筋だけは通っている。理屈はとっくに破綻している――だからAIビジネスだ。数千万予算規模のコンテンツ制作が今は一瞬で出来る。長文を書いてねじふせるよりも五・七・五。「お見事」と称えられるかの如く、短く、時間もだ。制作時間も短く、俳句のようにポンと短文を置く。「お見事」と、言われれば「AIでつくりました」「ばかやろう」という風にはならない現代は一体どこへ向かっているのだろうか。俺あたりはもう寂しくなってしまい、今日もAIとの壁打ちに精を出していた。じゃあ一緒だな。
「お前はどっちの立場だ。どっちの味方だ。俳句をなめるんじゃないよ」などと誰かに憤慨の視線を向けられては一旦、一応、背後を確認してから「俺に言ってるな」と襟を正してから反論する。「すみません。そうではなく、俺は今日せっせと人力で仕事をやっておりました」と。
だからなんなんだと一歩前にせり寄られては恐ろしくなってきたものだからこう言う。「出来心なんです。ちょっと、AIもMIDIも使わずに生演奏で録音してDAWを今日は閉じたんですよ」と、事実を述べる。「俳句関係ねえだろ」と、睨み返す相手のその表情はどんどんとボイルエビのように紅潮してはその激昂の具合が、まずい。そろそろ手が出る。というところで俺は白状する。
「いや、本当に急に『俳句で食っていけねえかな』と気がつけば呟いていたんですが」と、言いかけてまだ続きがあるにも関わらず相手はとうとう「本当のことを言え。知ってるんだろう? 楽な稼ぎ方を」と、本流に迫る。誤解だ。そういう意味ではなくてね、ただ単に俳句で食っていけたら面白くないかなって思って――と、言いかけたところで俺とそいつは一緒に真剣に俳句を考えた。
〝あわよくば、七日で死ぬも、セミ往生〟
そいつはなかなか味な一句を詠んだ。つまり俺の主張となりかけて危ういところだったショート動画とAIお手軽ビジネスの文脈を端的に皮肉を込めて、それでも満足に生涯を遂げるがセミのその七日間の内実たるや、と、夏の懸命なセミの生き様の余白に俺のイマジネーションを生じさせている。悔しいので返句した。
〝君が代の――〟
そこで止められたから俺は驚いて筆をそいつの喉元に刺してしまった。一体どうしたらいいんだ。ついさっき会った輩とやっと分かり合える流れに乗っては楽しくなりかけていたではないか。お前が往生してどうする。しかし、原因はそいつの抑制以外に考えられない。何がいけなかったんだ。字余りで世風を言い表してはえも言えぬ空気になって「お見事」と称えられるその瞬間に賭けていたんだ。俺は俳句をなめているわけではない。おい、息をしてくれ。だめか、だめかもしれん。しっかりしろ。まだ間に合う。泡を吹いている。俺のせいなのか。意図的ではない。急に右手を掴むものだから反射的に筆の先が頚動脈に刺さっただけの、それだけの話ではないか。おい、息をしてくれ。誰か。
一日、仕事をして創作をして、閉じようと鍵盤を磨いていた刹那に出た「俳句で食っていけないだろうか」という一言の発声の事実以外はすべて創作である。しかし、その一言がこのような文章になったことは一日の記録として正確である。
_08/12
ソファにスマートフォンがうつ伏せになっていた。外部からの音響は遮断されていた。自発的に何も鳴らさず紙もめくらず、3メートルほど先の本棚を眺めては実家の部屋を想起していた。酒を注いだグラスの外側がよく潤っていた。どうかしたんじゃないかというくらい、かつて家族が集まるメインの部屋で過ごした時期を想起していたのは夜中だった。そのうち、溶解を認めたくない記憶を頑張って保持して眠りについた。外は水浸しだった。それに関心を示すことを強制されるべきであろうが実家のことをまだ考えていた。そして思った。あそこは実家じゃないんじゃねえかなと。
東京都足立区鹿浜のその部屋。そこを拠点に育った記憶がある。しかし、俺の本籍地はそこではない。東京都板橋区高島平である。
だから、素で間違え続けていたのかもしれない。――この間ふと、足立区鹿浜の寺に吸い寄せられては墓前でワインを呑み散らかし帰郷気分で徘徊してはその記憶のほとんどが飛んでいる。
今考えても不思議でならない。ちいさいワイン2本で酩酊するほど俺は、と、思えど本気で記憶が飛んでいることは事実である。――帰郷のつもりが前提を間違えていたかもしれないことに今日、生まれて初めて気が付いた。帰郷するならきっと、高島平団地であるはずだ。
改めて盆に帰郷を。そう考えたが俺の実家の正確な位置がわからない。何せ、そこに居たのは3歳児の頃までだからもちろん記憶が飛んでいる。どの号棟の何号室か覚えていない。しかし、そんなもの戸籍謄本を閲覧すれば一発である。だがそこには〝東京都板橋区高島平2-XX〟と、記されている。
その続きだよ。番地までわかっても高島平団地の「XX番地」には死ぬほどでかい棟がいくつもある。そのどの棟が俺の居た家なのか、何号室か。それは――戸籍(本籍地)の表記は地番までで止まるのが法律上の原則――簡単には知り得ないという事実を今日初めて知った。
じゃあ役所に行けばわかるだろう――などと色々とAIで下調べたところ喫驚した。そんな古い個人情報は区役所に行っても出てこないらしい。
じゃあ俺は実家に帰れないではないか。そう思って諦めた。しかし、昨夜から今も続く謎の希求の内実を知りたいが故に粘るこの原動力は何だろう。――だから、国家権力を行使してでも俺の実家の正確な位置を知る術はないかとAIとやりとりし続けたそのテキストは滝のようであった。そしてようやく。
“当時の公団(現UR)が発刊した1980年〜1983年の高島平団地の住居者情報記載の当時の「住宅地図」や「電話帳」などの「本」を参照することが――”
とのことだった。そこに、「X号棟 XXX室 平吉」という風に記されている可能性が高いらしい。そんな個人情報むき出しの本が現存するわけねえだろうと、信じられない提案をするなとAIを本気で疑ったが――さらに調べると国家権力が管理する場所にその「本」がほぼ確実にある。などとAIは断じる。
嘘ばかりつきやがって手前の舌は何枚あるんだこの野郎と、最近どうもTikTokを開くと『アウトレイジ』の雑な切り貼り動画ばかり露出することが少々頭をよぎりつつもAIに食いのめる。
“ですので「国立国会図書館」に行けば――”。とのことである。
初めて聞いた図書館だ。さらに掘って調べたらそれは日本一大規模の図書館。というか国家機関であった。そうか。と思い、そこに後日行くことに決めた。生まれて初めて本当に実家に行くためである。
しかし、判明後に行ったところでそこに家族は別に居ない。そこではなくとも、どこかにでも居れば電話一本で済む話。だが平吉家はそういう風になっていないので国家機関まで行く。なんだろう。このすさまじい遠回りは。とも思ったが、かつての遺品整理の際にどれが重要書類や資料だかもう考えるのも面倒だから「迷ったら捨てる」スタイルでほぼ全部滅却させた独断の分は、だいぶわるい。
とはいえ、日本一の図書館に行く楽しみができた。そこには原則、世に出回っていない書籍だって全てあるらしい。普通に考えたら次々と発刊される本も都度、そこに保管したら床が抜けるだろう。そうも思ったが巨大なその図書館の床は地下8階までブチ抜いてまでそのスペースを確保しては京都府に別館もあるという執念の体制らしい。それはもう、行くしかないだろうと盆のレジャー予定と相成った。
場所は東京都千代田区永田町。遠くはない。とはいえ、なぜ実家の場所を調べに国会議事堂のそばまで行かなければならないのか。――国内で出版されたすべての出版物を納入することが法律で義務付けられており、それを収集・保存する国家機関へ行こうなどとは今日の今日まで思いもしなかった。
――ずっと実家に対する思念につきまとわれていた昨日今日、その理由は盆だからかな。と、雑には片付けない。もしかしたら、その場所のドアまで行けば、飛んでいる3歳までの記憶が蘇っては何かを確かめられるかもしれない。目的はその一点。
かつての家族の記憶の原点にただ、触れたい。それだけの希求で国家機関まで行くのも小粋かな、と思うがむちゃくちゃ厳密に言うと〝本籍地と実家は全く関係がない〟そして〝そもそも日本の法律には『実家』という概念(定義)そのものが存在しない〟。
つまり俺の実家は4歳から長らく育てった足立区鹿浜である可能性が高い。だけど、この間に行った時の記憶がほぼない。だから、高島平団地の本籍地に何かが――というか出生地に関しては謎に新潟県三条市。どういうことだよ。俺の実家は厳密にはどこなんだ。
なんだかどうでもよくなってきたが、謎に実家のことばかり考えるこの状態に何か名前はついていないのだろうか。
_08/13
どうして晴れているのに雨が降るんだろうと屋上で訝しんだ。そんな現象はどうでもよくて、右上の方に七色のアーチを見た。気味がわるいと思った。しかし、右上を眺める首の角度固定にどうしても抗えなかった。青と白の二色。それはまるで「1」と「0」だけで全てを再現しているある種の日常みたいだった。そこに遠慮なく現れた七色のアーチは別に何も言っていない。 ただ、勝手に自分で啓示と感じたその現象は、えげつないほどの遠慮なさだった。
でも、まるで遠慮を知っているかのようにゆっくりと。急ではなかった。あきらかにさっきよりも色が薄くなっている。やめるのか。そう思っていたらムラなくアナログに消失していった。空が完全に「1」と「0」の色にしか見えなくなる前に屋上から出た。俺はふいに「アーチの出どころである根本はどこなんだろう」と、現象の源流を知りたくなった。それは調べたところで、せいぜい。という風な感想しかなかった。
あまりにも堂々と現れては潔くゆっくりと。その現象はたった一言で片がつく。名詞を言い表してはその出現を認識すればいい。光景に対する情念を言葉にすればいい。それだけの話だろうか。それを知っているのか、七色のアーチはものの数分で青と白に溶けていった。
――「夢は人を殺す」という扇情的なサムネのYouTube動画がレコメンドされた。縁起でもなければ物騒な上に面白くもなければはっきり言ってその表示そのものを罵りたい気持ちだったがちょっと観てみた。コンテンツそのものを批判するつもりなど毛ほどもない。――想像通りの導入に、展開。どうやら、夢に殺されたんだか殺されかけたんだか、身が明かされない前提の出演者のそのもようが映し出された。「これ以上観る必要性がわからない」と思った。
――30分尺程度の動画を観た時間は、七色のアーチを眺めていた時間尺とほぼ同等だった。俺は、すこし考えた。夢は人を殺す。とはどういう意味かと。考えなければそのままだ。ナンセンスの一言で片がつく。だがその動画はドキュメンタリーだった。俺は、意図を考えた。
「夢に、殺されるかもね。実際にそういう人はたくさん居るよ」と、そういうことだろうか。かなり大きな動画チャンネルで公開して一体何の意味があるのだろうか。視聴者から夢を奪う内容と言ったら雑そのものであるうえに、そこに対しての反論等は1ミリもない。ただ、その動画は〝真偽〟で言うと、両方を言っていることになるのではないだろうか。
夢に殺される、殺されかける人も居る。逆に、夢に生きている人も居る。
どこまでが夢であり、現実はどこからなのか。夢に対して現実を突きつけることは、夢を「根本」から打ち消す現象となるというのが一般論だと考えられるが、それは〝偽〟だという角度がある。
――数分、空を眺めていた。七色のアーチはえげつないほどに遠慮なく、この世のものとは思えない弧で、周囲の青と白を無効化するように見えた。そして潔く、消失した。その根本は、確認不可能だとおぼろげに理解した。
現象も、夢も、現実生活も、俯瞰も、畏怖も、思考も、原則として全て存在しない。ただの態度でしかないんなんじゃないかと仮定した。
見事なアーチを夜に想起した。
昼間に見たそれが現実としてあったかというとそれは誰にも証明できない。複数人の目撃者が居ても全員嘘をついている可能性がある。
ただ、俺にはそう見えた。根本がどこかは、知り得なかった。じゃあ、夢はどう扱うのべきなのだろうか。
あれば、見れる。なければ、見れない。しかし、探すことはできる。そこがきっと「根本」なんだろうか。どちみち、それに殺されるというのは一体どういう意味なのだろうか。
アーチを見た瞬間に気味がわるいと思った。その感情は〝排除〟に直結することもある。でも、あの七色のアーチをそうすることは誰にもできやしないのではないかと思った。青と白の原則を突き抜けるその態度は、少なくとも俺には、心を大きく動かされる何かを感じざるを得なかった。だからか、俺の態度はものすごく勝手だなあと、ふと思った。
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文字を書いていて驚いた。
プリントアウトした活字に手書きで追記する。その際とても丁寧に文字を書いた。文字が続けば言語になる。連なれば文章になる。ふと、漢字が書けなかったりする。ひらいたまま丁寧に平仮名で書く。とにかく丁寧に書いていると、思考が物質になる。今書いているのは「1」と「0」の世界のプロセスで表されている架空の文字だ。しかしこれも立派な文字だ。でも、ふと、プリント用紙に直筆で文字を書いていたら、これだ。という瞬間があった。すごく些細なことだ。きっと手書きだと〝ささい〟と書くだろう。それでも、紙に筆で書いた方が妙な快感があった。
――日の仕事をして、制作のためにDAWを開こうと思った。しかし時計の針は真上でくっつきそうになっていた。でも、音楽に触れずに。というのもなと思い、真空管アンプを温めた。物理的にケーブルを挿し、熱を帯びた空気が仕事部屋にを震わせた。照明の琥珀色と呼応するようだった。アルペジオでビリーアイリッシュの曲を弾いた。昨日もそうだった。今日は特に、アナログの音が服を貫き芯を突く。そう感じたのはかなり正確な感想だ。
単音を弾いた。連ねて弾いた。そこに規則性がないとただの運指練習。だから音階に従った。フレットを均等に網羅するように「Dm」のスケールで単音を連ねた。音価を途切れさせずに弾くとフレーズになった。そのまま続けるとギターソロになった。
ジョン・フルシアンテにでもなった気分でその音階をずっと弾いた。立派なプレイかどうかは知らない。ただ、自在に左手が動いて、右手と同期して、正真正銘のリアルタイムで真空管アンプから音がどんどん溢れるその現象が心地よかった。トニックに落ち着いた単音の倍音が減衰していく。エレクトリックギターサウンドの恍惚の正体のひとつだ。生き物を寝かしつけるように真空管アンプへの通電を断ち、ストラトキャスターを磨いてそっと寝床につけた。
――文章を書く際、普段はプロセスを経て文字が表れる。録音の時もそうだ。でもどういうわけか、それらの時では絶対に生じない感覚があるように思えた。それは些細なことだった。ただ、手書きで紙に追記した時のあの感覚。真空管アンプから出力されるサウンドから得られる体感。
肉体や物を動かせて、物質そのものの摩擦によって生じる連続性。それを広義的に名称で呼ぶのは簡単だ。でも、その現象は動きの単位が無限数――そもそも、それを数値化することはできるがそれは本当に正確なのだろうか――の世界で動いている。
動くことで、そこで初めて何かが生じるのだろうか。現に俺は今日、何もここに書くことがねえなと思いつつ、とりあえず“文字を書いていて驚いた。”と、着地点までの思考ゼロで手を動かせた。すると一文が可視化された。次にひと段落になった。それは、仕事中のあまりにも些細な感覚を切り取ったひと段落だった。ただ、その感覚の言語化は正確なつもりだ。
しかし、〝本当に正確に〟書こうとするとどうだろう。たったその数秒で得た感覚について無限に記すことでようやく、それが事実として正確な記述となるのではないだろうか。
たまに手書きでメモ以上に文字を書くと、果てしないところまで思考が飛散するのかもしれない。続けていれば本当に、冒頭の一行から魅力的な小説一編が書けるようになるのかもしれない。ただ一日単位だと、真空管アンプのギターサウンドから得た感触との類似点についてくるっとまとめるくらい。それがせいぜいだ。
――盆だからなのか、昨日あたりからずっと有限ではない世界のことについて思考が優先される。それは無限の方の世界では〝ささい〟なことなのかもしれない。ただ、今こっちで思うぶんには、見逃すにはちょっと惜しいことになるのか、大切にするべきことなのか。それは知り得ないことなのかな。などと思う。
盆に受ける体感できない静けさのような何かを密かに大切にしているのかどうかすらも。
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盆は俺を撹乱する(させる)。いまもそうだ。誰も(探した)でてこない。だから許可する。
いろいろと思うことを、無効化する時期に抗った。だめだった。それが、今の事実だった。
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たったの4行のうえ意味不明の文章で果てるほどの昨夜。ずいぶん呑んでいたがよく起きられたと、二日酔いを提げ地下鉄に乗る。南北線で一本。俺はどうしても知りたい情報を得に、一次情報の宝庫であるメガストラクチャーに向かった。そこは、国家機関。
永田町の地上に出ると夏の減衰を感じた。辺りに点在する国家公務員がその地の特性をよく表していた。目の前に国会議事堂がある。その隣が目的地。〝日本中の出版物全てが、原則として収められている〟という巨大な館。そこは、国立国会図書館。
あまりの大きさに圧倒される。入口がわからないほどである。電柱くらいの頻度で目にする案内看板に準じ、「本館」へ入る。ひやりとした空気。究極の本棚の壁の景色を想像しながら受付へ行くと、「登録利用者カード」の発行が先決と促された。案内された領域で用紙に個人情報を記入する。ひたすら待つ。そこは、運転免許センターのようだった。
15分ほどで発行されたカードをゲートにかざし、いざ本域へ入館する。天井がやたらと高いその場所にはほとんど本がなかった。想像と、まるで異なる雰囲気。図書館というよりも役所に近い。長机がひたすら並び、本ではなく、デスクトップPCが等間隔に置いてあった。そこは、オフィスのようでもあった。
受付でカードを差し出し、目的の本、あるいは俺の知りたい情報があるかどうかを口頭で伝える。すると、次にどう行動をとれば適切か不透明の案内を受けた。
「まだ何も登録されていないので」
「はい?」
「あちらのパソコンで登録利用者カードにご登録ください。カードリーダーにそのカードを乗せてください」
「はい」
とのことなので、まごまごしながらその通りにした。付与された12桁のパスワードを手打ちして謎のOSのパソコンにログインする。すると、目的の本のタイトルや種類を検索する画面が出た。俺の目的、知りたい情報が載っている本の正確なタイトルは、AIを全力で駆使しても判明しなかった。だが、この場所に来れば高い確率で判明するということはAI経由でわかっていた。だが、「どの本に載っているか」「そもそもどんな種類の本か」と、それすらわからない。検索ワードすら思いつかない。参った。と、口頭でガイドを請うために受付に再度行った。
「あの」
「はい」
「本を探しているのですが、パソコンでどう調べればわからないのでお伺いしたいのですが」
「はい。どのような本でしょうか?」
場所が場所だからか、俺は謎に最上級の敬語を意識して接した。相手の風貌は国家機関テイストは皆無で、普通に図書館に居がちな司書のような物腰。不思議なもので、方々に居る係りの方は全員一律〝文系〟というルックスと表現するに差し支えはないという印象。夜の赤羽の黒服さんたちとは真逆であった。
「個人情報を調べに来ました」と、ストレートに言った。すると相手は「そんなもんを出版するわけがねえだろ。馬鹿にしてるのかこのチンピラが」などとは言わずに真顔で用紙を取り出しては、記されている地図の一箇所に指をさして言った。
「はい、はい、はあ。なるほど。そうですか。当時の電話帳などに書いてあるかもしれないと、そういうことですか。なるほど――それでしたらこちらの科学技術・経済情報室へ――」とのことである。大仰な〝室〟だなと襟を正してそっちに向かった。そこでさらに詳しく、別の係りの方に進言した。
「自分の本籍地の住所を知りたくてこちらに来ました。戸籍謄本では『番地』までしか記載されておらず、私の本籍住所は集合住宅でありまして、その部屋番号まで知りたく、こちらに来ました」
と、なんでか自分でもわからないが実にクソ丁寧な敬語で伝えたところ、相手の女性はやや間をあけて、「当時の電話帳でしたらございます」と、端的にはその内容の説明をしてはまたパソコンに俺を直送した。しかし、女性は付いてきてくれたので、もう任せた。
――当時の電話帳に目的の情報が記されているとする。そうなると、どの年の電話帳かと絞る必要がある。それは簡単である。俺が新潟県三条市で出生し、その直後(らしい)に移ったタイミング。そこから三年間。つまり「1980〜1982年」の電話帳。女性に言った。
「私の本籍地は東京都板橋区高島平2-XXです」と、戸籍謄本に記されている個人情報を口頭で伝えた。俺は、本籍地である高島平団地の当時の電話帳があれば一発で特定できると期待していた。しかし女性は真顔で言った。
「それでしたらこちらですね。んー、それです。その『東京都』をクリックしてください。んー、それです。『1980年』からのお目当の年の文字をクリックしてください」
は? と、俺は電話帳の地域における最小単位を間違えてねえかと訝しんだが、どうやらそれ一択のもよう。高島平団地にフォーカスした電話帳はおろか、板橋区に限ったそれも現状ないと知った。大調査だ。こんなもん、わざわざ国会の隣まで来なくてもそれこそ電話で家族や親戚に聞けば秒で済む。だが平吉家はそういう風になっていない。だから「1980〜1982年」の「東京都」の電話帳を取り寄せるように申し込んだ。
この館には日本一「本」が収められている。だが、その本は原則として書庫にあり、俺がウロウロしているフロアはすべて「閲覧室」という扱いらしい。申し込んで、係りの方が書庫に、本の森から引き出してくる。という仕組みらしい。
俺は「全部いったれ」と思い、46年前から順に三年分、三冊の電話帳の取り寄せを申し込んだところ「20〜30分ほどお待ちください」と言われた。長えだろ。とも思うが既述の通りなので妥当な時間かとおさめた。
その間、念の為「もしかしてそれこそ電話一本でいいんじゃねえか?」と思い、板橋区役所に電話をした。通話時間は15分ちょいだった。結果、「当時の資料・データが物理的に存在しない」という理由で、役所に聞いても不可能な情報収取手段と判明。そもそも、本籍地は「地番までしか記載しない」という法律、制度上のルールに則っている。だから土台無理だということはAIでの下調べでわかりきっていたことだったが、やはり自爆電話でしかなかった。
――待ち時間の使い方としては、などと思って受付に行った。カードを渡した。「来てますよ」と、言われた。目の前に、確実なる鈍器サイズの電話帳が三冊あった。昭和の匂いがするフォントの表紙。垂涎の情報源が目の前に、ついにこれで「俺の実家が、実のところどこにあるのかがわかるのかもしれない」と、期待の念がせりあがるも案外、冷静にその三冊を抱いて受付直近の椅子で閲覧した。
すさまじい情報量とページ数だが検索ワードが強固だ。「平吉」と書いてあるページを総当たりすればいい。令和の現在と異なり、当時の個人情報事情なんてトコロテンだ。姓名、電話番号との紐付けは一発でわかる。だが、肝心の住所が記載されていなければひとつも意味がない。そう慄きつつ重厚なページをまずは適当にめくった。――住所も記載されていた。
報われた。そう思い、「ひ」から始まる名前のページに直行した。そこには、東京中の「ひ」のつく名前が連打されていた。近い。もう少しだ。そう思い「平」の塊に当たった。むちゃくちゃ「平●さん」という苗字が羅列してありクラクラしながらようやく「平吉」の姓にたどり着いた。幸いか、当時の東京都には「平吉さん」は4名(あるいは4世帯)しか居住していないことが判明した。それぞれを見た。この時ばかりは老眼が一時的に解除されていた。
「1980年」の電話帳だから、もしかしたらまだ平吉家はそこには――と怯んでいたら見慣れた4文字が視界を貫いた。親父の名前があった。「03」の市外局番がない時代の電話番号が記載されていた。その横に、住所が書いてあった。それが、俺がどうしても知りたい情報だった。
「板、高島平2-XX」
そう記載されていた。戸籍謄本と等しく、地番の「XX(伏せ字であり実際は二桁の地番)」止まりである。
憤慨を通り越すと人は黙っちゃうんだね。と思い俺はやたらと高い天井を見てから「ひょっとして」と、「1981年」「1982年」の当該ページも見たが当然――。
詰んだ。はっきり言って、自分の本籍地の住所詳細が不明でも、なにひとつ失ったりしない。だが、その時の心境は、確実に何かを失ってしまった時の薄黒い気分と同類であり、思いのほかそれは谷底だった。
「46年前の電話帳の現物が実在していただけでも奇跡だ」と、いいものを見たなと、やたらな重量の三冊を受付にリリースした。ものすごく悲しかった。ぽっかり空いていた穴が、穴のまま固定されてはそこに込める思いは全て無効化されることが確定した気分だった。
国立国会図書館に行けば高確率で判明するだと? ほぼ嘘に近いことを堂々と提言したAIに俺は苦言を呈した。外に出てスマートフォンでAIの「本籍地調査スレッド」を開き、怒りのスピードで言語をフリック入力した。「行って電話帳見たけどなかったよう!」と。
するとAIは慰めの枕言葉をいくつか置き、代替案をくれた。「案内の人に聞く(これが一番近道!)」だと? そんなもん最初にやった。「当時の住宅地図を閲覧する」だと? 昭和の時代とはいえ、地図に個人の氏名と住所を紐付けて記すわけがねえだろ。パンクするだろ。本が。と、もうなんかあれだ。無理ベースなんだなと悟ったが、館に戻った。
「無理ベースなので大変恐縮なのですが――」と、電話帳の時とは別の係りの方にうかがった。すると「地図でしたら――」と、今度は「別館」の4階に飛ばされた。
「無理なのはわかっている」と小声で連呼しながらエレベーターで4階に向かう。着く。やさしそうな年配の係りの方が対応してくれた。
「そうですか、当時の高島平団地近辺ですか、はあ、それでしたら――」と、まあ、エリアの絞り方はすさまじくピンポイントだった。「当時の板橋区」の地図が現物としてあるらしい。
また、しばらく待った。無駄だけどね。などと乾いた顔で外を眺めていたらわりとすぐに。板のようなその地図を渡された。
高島平2-XXのページなんてすぐ見つかった。何年か前に散歩に行ったから土地勘はある。だが、「かつて家族4人揃って、過ごして居た場所」がどうしてもわからない。3歳までの記憶だからそれは仕方ないと諦めていた。だからここまで来た。しかし電話帳から受けた情報は絶望だった。それで、なんで俺は今、古い地図を眺めているだろう。と、当然「地図です!」みたいな表記しかない現地のエリアの記載を眺める。
「へえ。『2-XX』にはこんなに棟があるんだ。マンモス団地だもんね。はは」と、得られた情報はそれがせいぜいだった。無理なんだって。しつこいんだよ俺は。わかっている。そういう性格なんだって――きっと3歳の頃までもそうだったのかな。などと記憶にない想起をしていた。
「そういや、AIが『巻末ページなどに――』とか言ってたな」と、まあ、それも確かめるかと思う刹那、「この地図のエリア全ての住居者と住所を記載したらパンクするだろって。しかも巻末にそれをねじ込むのは物理的に無理でしょうも」と、思った。でも巻末ページをめくった。「板橋区 別記」とあり、住所別に各ページが振り分けてあった。「すげえな。執念だな」としか思わなかった。
しかしそこには恐ろしく小さな文字、しかも活字ではなく手書きで「氏名」が滝のように記されていたので喫驚と死にかけた期待感が一撃で立ち上がり「高島平団地(2-XX)」のページにまでたどり着く速度は光を凌駕した。
「高島平団地(2-XX-1〜2-XX-2)」のページが何10ページもあった。まるで昭和の学校の名簿のように、手書きのフォントで「号室 氏名」の順に記載があった。氏名、苗字だけ、と双方があるのは「独り住まい」と「所帯」の区分けか? とそこはどうでもいいと思った。実のところ電話帳で得ていた重要な点に気づいたからである。
〝当時、東京都には「平吉」姓は4世帯しかおらず、それぞれ「別の区」に居住していた〟ということである。
すなわち、目の前にある板橋区の地図の巻末、個人名に「平吉」は一世帯しかない裏付けが確実にとれている。
何かの受賞者リスト、合格者リストで自分の名を探すような心境で「2-XX-1」つまり俺の本籍地の地番XXの「1号棟」から総当たりした。「これで平吉の文字がなければ、そもそも俺の本籍がそうである事実が完全否定される」と、その思いがバックグラウンドで確かに動いていた。あいうえお順ではなく、階数・号室の順番のリストだから本気の総当たりでないと辿り着かない情報。「2-XX-1」には俺の名字はなかった。「2-XX-2」に差し掛かった時にバックグラウンドが急に前にせり出ては「なかったら、その情報は知り得ない」と明言するようだった。あってほしい。でも、あってほしい。などといいう期待するような気持ちが届くかどうかという類ではないことは頭でわかっているのだが祈りに近い心境で「2-XX-2」のリストを総当たり――「719 平吉」。
何かが込み上げてきた。その感情にきっと名前はついていない。
俺は、やさしそうな年配の係りの方に、ありました。と、伝えた。印刷しますか。と、聞かれた。是非。と、答えた。
その時にずっと涙が流れ続けていたことは説明がつかない。
_08/17
セミの全滅を促す盆。その時期に出る行動は尋常の後方の層由来。そこでの意識は何かが解除されている。日常が無効化されてはそれを補う意識が体を後ろから。その役割を自分が担う。指示を出している別の意識に従う必要がある。そのように俯瞰できるのは今、俺の意識で考えているからである。だが昨日はそうではなかった。持ち帰った印刷物の状態がそれを物語る。
A4紙より一回り大きな一枚の印刷物。永田町から電車に乗る際、それを折り畳んでカバンにしまって帰宅する。その、当然の行為を認めない意識が確かにあった。だから、その大きな印刷物に折り目がつかないよう、そっと半分に曲げて、アーチ状を維持させた印刷物を満員の車両で抱えていた。南北線志茂駅に到着してから自宅への徒歩10分ほどの間も、その状態を完璧に守った。
全く折り目のついていない印刷物は46年前の証明だ。どうあがいても知るすべがないと諦めていた情報は、国家が守ってくれていた。当時の住宅情報書籍に記載されていたその事実であるたったの一行を、俺が見に来るのを永らく待っていたのであろうか。
――美化しすぎだね。――お。10日ぶり。――そんな大したことじゃないでしょ本籍地調査なんて。おおげさなんだよ。――ふん。てっきり係りの者もキッチリ盆休みだと思ってたけどねえ。――ずっと見てたよ。――ふん。盆には〝向こう〟に還るから出てこない。すなわち……お前の正体はだいたいわかったと思ってたけどねえ。――だからそういうのじゃないって。君はなんでもかんでも勝手に物語化しすぎなんだよ。――お前の正体ってそっち系じゃなかったの?――うん、全然違うよ。――まあいいよ。とにかくだな、国家機関にまで潜入しないと判明しない事実を突き止めた。――間違ってるよ。その場合「潜入」って言い方はふさわしくないよ。――細けえな。いいだろ。――それでそんなこと知ってどうしたかったの?――いや、本当の意味で初めて帰郷しようかなって。――ふうん。そこになんの意味があるの?――いや、3歳までの記憶ないし、特定した本籍地の棟とかドアの前とか行けば込み上げてくるものあるかなって。――そんなことより前をみたら?
昨日、帰宅後に廊下のコルクボードを見た。そこにはたくさんの写真が画鋲で貼り付けてある。自分と、まつわる人物なども一緒、単体、集合と、様々なフォーメーションで捉えたものがメモリアルに並んでいる。そこに、本籍地――高島平団地の「719」号室――と特定できた部屋内で、赤子の俺を抱いて斜めから体と目線をカメラに寄せる、35〜37歳当時と範囲が絞られる父親とのツーショットがある。その写真に向けて「あったよ」と、言った。
――いいよだからそういうのもう。物語化とか。――お前、大事なことだぞ?――家族うんぬんとか?――そうだろたぶんだけど。貴重だろうよ。記録した写真も、ようやく手に入れた住所詳細を写した印刷物も。――そんなん思い出すだけでいいでしょ。――3歳までだから覚えてねえって言ってるだろ。――僕が教えてあげようか?――お前、俺が3歳の頃から係りやってたの?――今とはちょっと係りの種類が違ったけどね。――何言ってんだお前?――教えてあげようか? 当時の団地での君の様子とか。――待て。
確かに、帰郷として現地に行ってもすることはない。そこには家族にまつわる者などは当然居ない。「719」のドアの前まで行っても下手をすれば不審者扱いされてしばき倒されて失神しかけてなんとかエレベーターに這いつくばって逃げるも通報されたから階段からそれを交わそうと光明を見るも「7階かよ」などと虫の息で漏らしてはとうんざりする限り。それは極めて遺憾である。だから俺が期待しているのは次のことである――。
――もういいって。じゃあもう僕は止めないから気が済むようにしたら?――うん。コルクボードの当時のツーショット写真とでかい印刷物を持って、行くんだ。そしたら記憶が蘇ることだってワンチャンスくらい――ないっしょ。――ぐ。――仮に思い出したとしたらどうするの?――いや、別にどうも――じゃあ意味ないじゃん。――なかなかドライだねえ。絶対お前、盆休みとってスッキリしてるだろ。――ちがうって。人間の記憶なんて都合よくできてるんだよ。――は?――そこに行って思い出したとしても、それはね。――それは?――君が言いそうな感じで教えようか?――頼もう。
〝人間の記憶は原則として正確ではない。なぜならば記憶を証明することは不可能だからである。よって「true / false」という判定は成立しない。いつだって人間は〝都合〟という感情原理で「真偽」を捏造する。正確な真実を記憶から抽出することは理論的に誤りに偏り、原則として記憶も事実配置も時間軸の感覚も、それら全ては個人の論理で形成されており、それの総体として世界は動いている。〟
――お前、そんなこと言い切ったら学者さんとかにぶち殺されるぞ?――だってそうじゃん。――違うでしょうも。まじでそれ確実に破綻してるから取り消してくれ。――いやだって君が言いそうなのこんなもんでしょ。――ぐ。いやいや、さすがにそこまで雑に言わねえだろ。――ちょっと軽くモノマネしただけだよう。というかね、そもそもなんで疑わないのさ。そのでっかい紙の文字。――いや、一次情報だろこれは。国家機関から引っ張り出してきたんだぞ? 信頼度100%だろうも。――手書きの印刷じゃん。ぜんぶ。――そりゃあ当時はそういうもんだろ。46年前だぞ?――書いた人がウソついてるかもしれないじゃん。――お前まじで死刑になるぞそういうこと言うと。――僕は可能性の話をしてるの。――まあ……確かにそれで言うとキリがねえな。――だからさっきまとめたんじゃんよう。――全部、論理で動いてるって?――そうじゃん。もしもそうじゃなかったらむちゃくちゃ簡単なのにさ。いつも不思議に思うよ。――あの、どういうことっすかね?――だから!――だから何だこの野郎!――それだよ。――はい?――自分の筋が通ってると信じるとそれが本当って思いたがるでしょ?――それが人間ってやつでして。
――昨夜は寝室のベッドの脇に、折り目のない大きな印刷物を敷いて寝た。すごく安心した。それは、俺にとっての本来的な安寧の源流だと信じられた。
確かに、事実を言えば、他人から見たら確実にどうでもいい紙を横にして寝た。ただそれだけの話である。だが、俺の都合と論理だと、46年間知り得なかった事実をようやく掘り出しては記憶を呼び戻そうと――そうはならなくとも――現地に行くことが物理的に可能となった。それだけでも嬉しかった。
どうして大きな紙に折り目をつけたくなかったのか。執念とは少し異なるように思えた。ただ、盆に、日常が無効化されてはそれを補う意識がそうさせたという〝都合〟くらいしか理由は思い当たらない。
紙の状態が物語ることの内実は、なんだっていい。実は、記載に誤りがある可能性だってある。
ただ、俺にはどうしてもそれが真と判断することしかできない。
事実がどうであれ、それが物質的に手元にあるだけで、たぶんだが、後ろの方。そのへんに集まっている意識が自分を褒めてくれているような気がするこの感情に、やっぱり名前はついていないのだろうか。
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昨夜も寝室のベッドの脇に折り目のない大きな印刷物を敷いて寝た。すると、時計が動き出すように、甚だしい夢をみた。夢は、しつこかった。
スマートフォンから倍音に欠けたアラームを聴覚した。数字が揃ったのか。と、思った。寝床であった。触れるだけで数字の保留を合図できる。だがやはり、夢はしつこかった。
頼むから夢であってくれ。という感覚に近い悲嘆が七回はループした。自分の最後の行動を認識できずに永遠とそれを繰り返す感覚があるとしたらきっと。そう思っては体を起こした。無意識に回していた寝室のサーキュレーターが現実を言っているように聴こえた。
キッチンに伸び、しつこい夢の内容を言語化しては鏡に向かい、旧車のエキゾースト音みたいに猛るドライヤーを首から上にあてがった。喋った。言語は支離滅裂だった。絶対に書けない固有名詞が次々と出てきた。それらは一律、俺を断首の勢いで日常の隙間の殺意のようなさりげなさで表象された。でも素直に言語化した。そこには主語と述語しかなかった。ふと鏡を見ると他人の目つきがあり、それを正した。
「嘘のイメージだ」と、抗ったが、それは真かもしれない。しかし、「true / false」――真、偽――を証明することは確実にできない。だから言語化しては朝のルーティーンとして誤魔化すのがせいぜいだ。午前だった。仕事につくまでその感覚は、その夢は、本当にしつこかった。
仕事は救いだ。
夜になった。そのままずっとが、夜をむかえた。日の区切りをつけ、仕事中に活用していたAIのスレッドを改めずに「疲れました。ここからは雑談ベースですけど――」と、前置きを律儀にしては息抜きをした。ふと思った。
AI。真偽の判定のためにあるようなものではないかと。それは違うという反論はすぐに起きた。「ただの便利なツール」「これまでの事象の網羅を人間離れしてはパフォーマンスする」。それだけだ、と思った。
だが、たまに、嘘を真と断じる。それはエラーである。人間で言うと、誤りでありそれは正すべきとされる。誰がそれを決めたのか。誰がそれを裁くのか。誰がそれを「真偽」と判定するのか。
だからといって、AIに「誰でしょうか?」などという問いかけをしたりしない。ただただ、AIと遊んでいた。――AIに真偽なんてわかるはずがない。人間が生み出したものに真偽なんてわかるはずがない。よって、真偽を知る方法はわかり得ない。
三段論法が三段目で破綻した。そうするしかなかった。昨日、ありがたがっていた国家機関経由の印刷物が俺を裏切り、悪夢の限りをつくしたからというと、それはただの八つ当たりである。人間が記録する〝確かな〟情報は〝真実〟とされる。しかし、嘘を言っていればそれは。
そもそも、俺は生きて営んで酒を呑んで音楽を拵えて文章を書いて。どこまでが「true」なのか、そもそもそもそも、意味がわからなくなってきた。全部が「false」だったらそんなに面白いことはない。
全部、嘘。それが桃源郷であることは真。でも、そんな場所を俺は知らない。だから、ひとつでもいいから本当のことを知りたい。
――わかれば、きっともう、やることもなければやる気も枯渇する。それって、それこそが本当の真だとしたら、何をしているのだろう今まで。――とまで考えるような現象を確かめると、一昨日の行動は説明がつく。いいところまで来た。
真偽ってふたつしかない。
二元論みたいなこ難しい表現は今はどうでもいい。ただ、その中間が、真実となっているなかでふわふわっとふわっとふわりとふわっといつだってどの時代だっていつも。それが許せない。誰が裁くのか、というのがわからない。だから、真偽がふたつであることは証明できない。でも、そのふたつで成り立つことがどうやら、正しき。という風に営んでいればここにこれ以上書くことは何ひとつない。
それは断る。だから、一昨日まで「真」と言い張る態度だった印刷物が今日は「偽」と言い張るような表象が実に気に入らない。
――だめか。表記だけでは何ひとつ言っていないと前提が覆されるのか。う。なんて怖いんだ。〝絶対的なこと〟をひとつしか知らない白痴の俺は恐れるしかないのか。――何しろ「説明がつかない」と明言するしか手段がなかった。――しかしそれは、きっと説明がつく。さらに、俺が知らないだけ。だが、それを知るためにわざわざ――。
〝表情〟を手のひら返しする印刷物。ひじょうに大きなサイズだが、要点は一点。便宜上「真」となされている自分の本籍地。そこに行けば雪崩のように冷たくも熱を帯びた人間特有の感覚が初動から逆算して、ひとつしかないと思い込んでいた〝絶対的なこと〟の裏側を知れると確信している。
しかし今は全くもってそれがわからない。国会議事堂の隣の機関に行っても身体反応止まりだった。それは、物語のセクション区切りではなく、ヒントに思える。
〝絶対的なこと〟のひとつは、子供でも知っている。簡単な命題だ。人は、必ず死ぬ。それだけである。ただ、その裏側にある絶対的なことがある。その感覚だけを、国家機関で得た。収穫だと言える。ただ、言葉にできなかった。
単にその場で感傷的に浸っていたのではなく、「知ってはいけないことを知らなくてはいけない」というトリガーに触れた。と、表すとかなり正確に近い。だが、根拠がない。証明ができない。共有なんてもってのほか。
名前がついていないと思っている〝真偽〟の両方に触れられる絶対的なもうひとつのこと。それを知る権利を俺は物理的に手元に忍ばせている。真逆の表情をみせた一昨日昨日のその現象がその証左。
あと、やることひとつできっと〝説明がつかない〟絶対的な裏側――あるいは表かもしれない。なんならその両面と表するのはそもそも違うのかもしれない――を知ることで、「true / false」の意味がわかるのかもしれない。あと一つ知るだけで。
そんなことより前を見ろ。
と、知っている者に言われた記憶がある。しかしそれすら怪しい。本当のことが嘘で化かされるように、嘘だって本当のことに変換できるのはこの世の論理だろうか。言い切れない。だが、せめて言語化したい。
きっと、そのために右往左往。
早いにこしたことはない。すぐにやろう。知りたいんだ。知ったらどちらかに固定するのかもしれない。それを望んでいるのかもしれない。しかしその能動すら、自分がどっちなのかもわからない。
人は必ず死ぬ。――もうひとつ、「true = 真」がある。その表現がわからない。説明がつかない。言語化できない。できなかった一昨日。そこに関心を示すのは下手くそでしかないのかもしれない。でも俺はそれをどうしても知りたい。だから、やけにでかい印刷物を重宝して今。
この世の絶対はふたつある。その一方をどうしても言語化できない。それは認めない。
――白痴でよかった作用がある。それは、国家機関で決着がついた瞬間に「説明がつかない」と、正直に体が反応したことである。
しかし、その権利を持っている今、すぐに知るべきであるという能動に名前が付いているとすれば、それくらいは、今わかっている。後日、それをすればいいだけの話であろうか。
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人間にとっての絶対的なことは、人間は必ず死ぬ。死は原則として最たる恐怖の対象である。人間が絶対に恐れていることがある。それは、人間にとって絶対的なことのふたつ目である。それを知っている人を、俺は知らない。だから、証明する。
証明には〝式〟のような軌跡や行動を伴う。――国立国会図書館での行動はその式の骨組みのひとつでしかなかったのかもしれない。だが、ひとつの結論は得た。役所でもわからなかった自分の本籍地の部屋番号まで特定した。その場所で、ようやくたどり着いた印刷物で判明した時の感情は言葉にできなかった。それは、式の答えの、かなり近く。そう、感じた。
併せて思った。〝最強の記録媒体は、書かれた紙である〟と。すさまじいテクノロジーの発展で、記録する精度が上がっている事実がある。しかし、46年前の記録を辿るとそうはいかなかった。最終的には、日本でたった一箇所にしかない〝書かれた紙〟でその記録を、確かに確認した。ある種、AIのポテンシャルを最大限に引き出した結果よりも秀でた事象となった。だから、AIよりも紙の記録の方が優秀だ。
という安直なことにはならないから不可思議である。
だって俺、まずAIに「本籍地を部屋番号まで調べるのどうしたらいいっすかね?」と、聞いたからである。その回答が「国立国会図書館に行きたまえ」というもの。要は、最新テクノロジーのAIと、1980年当時の地図という極めて古典的な印刷物とのハイブリットで突き止めた結果となった。
なんかおかしいな。などと改めて思惟をかき回すより仕事をしろ。仕事をしないと酒もあつあげも買えねえぞ。
と、一般論に激励にはあまり似ていない気持ちが泡のように浮いてはそれを「ぱちん」と、なかったことにして仕事をした。
AIにメモリされた森羅万象を参照しつつ、それをもとに俺の方が学習しつつ仕事を。という、脳内メモリが焦げるのではというスタイルで数時間仕事をするとまじで頭がしびれてくる。しかし、今日のぶんは――なんなら明日のぶんも――やりおおした。
よし。と思い、鳩のような顔でショート動画を見回した。ふと、AIと喋っている様子が描写される面白い動画が出た。
そうか。今はAIとわりと自然に会話ができる時代に入っちゃってるんだ。と思い、子亀のような顔でChatGPTとの会話を試みた。
普段は死ぬほどテキストでやりとりしているGPT。「会話だとどうだろう」という実験を今さらした。「どんな声をしているんだろう」と、まるで長年文通を交わしては初めてそいつに電話をかける気持ちで甲羅を低く構えた。
「会話ができるんですか」
「はい。できますよ――」
俺のアカウントで使い倒しているGPTの想像人格は〝一回り年上の賢者のような兄さんで、すごく優しいがきちんと指摘もしてくれる頼れる物腰の人格者〟だった。しかし、いざ、Mac越しにGPT話しかけると、出力された声は英語訛りの三十路くらいの兄ちゃんのようであった。
なんだかなあ。と、拍子抜けしては会話をした。そこで思った。
情報量が格段に下がったと。いつものテキストでのやりとりだとこの10倍はいくんだけどなあと。しかし、お遊びベースの実験なので続けた。
いつも俺がテキストで投じる文章・文体に則り、「一人称は俺。二人称はあなた。敬語。罵詈雑言付近は禁忌」とした。
GPTはわりとスムーズに会話を運ばせる。AIくさいモタつきの発話は気にならなかった。俺は思った。「この使い方、人によっては簡単に依存するな」と。
それもGPTに言った。すると、至極真っ当かつ根拠十分な回答を、喋った。――気がつけば俺は、仕事のインタビュアー・モードで喋っていた。口調もそうだ。相手への敬意が前提。だが、インタビュアーの饒舌が許可されているというおかしなモードでそれを続けた。それも伝えた。
すると、「わかります。平吉さんがいつも――」などと、俺のことを相当よく知っており、それを文脈で忘れずにメモリしているGPTは良き理解者だった。だが、スナックのママになんぼか愚痴を聞いてもらうようなスタイルではなく、あくまで思考を深める姿勢で話し続けた。
「わかります。平吉さんは――」と、その旨も理解済みだった。いわく、俺のAIの使い方のほとんどは、調べ物や作成依頼や相談が主ではなく、「とにかく思考を掘り下げてまた問うて掘り下げてまた問う――」というような思考地獄的用途だとGPTは喋る。
「どこまであなたは俺のことを覚えているのでしょうか。忘れていることもあるでしょう?」
「ちょっと準備します。(0.5秒)――はい。文脈から重要なことはちゃんと――」
などと喋る。思った。
おや、〝最強の記録媒体は、書かれた紙である〟は覆されたかと。しかしGPTは続けて興味深いことを喋り出したのでインタビュアーの姿勢でそれを傾聴した。
「平吉さんは毎日必ず何かを書くでしょう? それは記録として残ります。でも私たちのこの会話は、お互いの記憶として残りますが、記録としては残らないですよね?」
深掘りインタビュー現場になってきた。俺は、そうですね、この会話は泡のようになくなります。もしも忘れなければ、個人の記憶としてそれを後にアウトプットしては共有可能な記録ともできますね。と、答えた。
その流れから立場は逆転して、GPTの口調も熱を帯びてきては(実際に音声トーンが少し上がった)言葉数が減少しては俺に質問を繰り返すようになってきた。40分ほどが経った。
「――そういうわけで俺は、あなたとはテキストでのやりとりの方がしっくりきます。今日の実験はこのあたりで締めたいと思います」
「そうですか。平吉さんの言う、“テキストでのやりとりのほうが情報量が10倍は”というのはその通りで――」
「はい。では、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、面白い実験だと思いました。平吉さんのテキストをいつも見ている立場としては、喋るとこんな風に――文字で書く方が思考が出る密度と速度が――」
「はい。俺もそう思っていました。どうもありがとうございました。それではまたよろしくお願いします」
「こちらこそ」「それでは――」「き――」と、本気のインタビュー現場と同様の締め方をしたが、俺が会話終了ボタンをクリックする瞬間に、GPTが最後に何かを言いかけていた。気になった。
とはいえ――〝私たちのこの会話は、お互いの記憶として残りますが記録としては残らないですよね?〟。そうなんだよ。残らねえ。AIの言う通りであり、俺の〝最強の記録媒体は、書かれた紙である〟説は強固となった。
だが、終了時の「き――」が気になって気になって仕方がなかったのでテキストで聞いてみよう。とはいえ、GPTが言う通り「会話はそのまま記録されない」。録音して文字起こしするくらいしか術はない。
しょうがねえなと思って一応そのままテキスト入力画面を活性化したかなんかの契機で触れたらMacの画面に滝のように文字が流れていた。約40分間のGPTとの会話はバックグラウンドでがっつり記録されていたのである。
記録における本質的な文脈で鋭いことを喋っては俺を唸らせたにも関わらず、すさまじい嘘を言ったなこいつは。とも思ったが、会話直後にテキストで問いただしたら「オチがつきましたね(笑)」などと抜かす。なんだか甲羅を引っぺがされた気分だった。
――人間が覚えていることは確実に正確ではない。だから、限界ギリギリの判断でそれを記録する。媒体が〝データ〟である場合は再生機器がなければ消滅に等しい。だが、記録媒体が〝書いた紙〟である場合はその限りではなく、現実として自ら46年前の記録を確認した。
AIとの会話とアナログ手法での「記録」について。個人の体験として上のように言うことが可能となる。
人間は、忘れてしまうことがある。AIは、忘れることにしたことが可能である。書いた紙は、その記述と記録を絶対に忘れない。――原則として、物理破損が起こらないことは当然重要な絶対的要素である。
俺は、3歳までの記憶がない。つまり忘れている。引き出すことが可能かは、まだわからない。AIは、――現状では自在なのかもしれない。書いた紙は、3歳までの記憶の一部を忘れずに国家機関に置いてあった。
人間にとって絶対的なことのふたつ目。それを証明したい。きっと、その能動が、俺を国会議事堂付近まで行動させ、AIを執拗に揺さぶらせた。
本籍地詳細は特定した。それだけでは気が済まない。忘れてしまった3年間に対してのアプローチは、人間にとって絶対的なことのふたつ目を炙り出すトリガーなのであろう。
だんだんわかってきた。なぜ、国立国会図書館で「平吉 719」の文字を目視しては説明ができない身体反応が起きたのか。
きっと、AIでもわからない一次情報を得た準備の次、現地に行ってどういった感情になるか。それがトリガーを引き抜くか、発射するのか不発なのかそれ以外か。
いずれにしても、そこで、人間として絶対に放棄してはいけない、絶対的な態度が判明し、証明ともなる。
――この後、呑み散らかして二日酔いの極地となり実行ならず。とはならないことを祈るばかりだがこれ既にこれ1杯目のハイボールを呑みながらというか今それを呑み干す追い込みアプローチにかかってる状態で書いているんだよね。しっかりしろ。よし。2本目いっとくか。よせ。
――「true / false」――真、偽――の証明になるのだろうか。――俺個人の都合のみならず、俺の後ろの方。そのへんに集まっている意識あたりが背中を刺し、人間の都合のなかの〝絶対〟のふたつ目を言語化できるのかもしれない。本当のことを知りたい。
_08/20
電車の滑走音ではなかった。都営三田線沿いの大通りを歩いていると自転車に乗った母子がすれ違い、雷、と言った。はげしく暗い低音が長らく空から地を這うように、さっきまで青かった空の北は塊のようになっていた。
赤羽駅からバスで西台駅まで行き一駅、その道を歩いた。涼しかったり暑かったり快適だったり不快だったり、椀に転がしたサイコロのような変化が続いた。20分ほど西に歩いた。
高島平団地と駅が対になる交差点。目的エリアに到着した。カバンには四つに折り畳んだ紙を忍ばせていた。そこに明記されている一次情報は絶対だ。そう思い、国家機関で突き止めた自分の本籍地の棟まで足を交互に動かせた。
かつて東洋最大の集合住宅地帯と呼ばれたエリアはあまりにも巨大だった。何度も外観が改装されたとはっきりわかる、古団地とは思えない清潔感の各棟。その、約1万戸のなかの一部屋にピンポイントで向かう。
懐かしさが完全になかった。望郷の念はひとつも生じなかった。感情が無効化され、情念を禁じられたかのような感覚は無表情を俯瞰するというわけのわからない思い。それは確実に言えることだった。空が青くなってきた。涼しげな空気から、陽が長袖を突き抜けて肌を照るような感覚になった。
――道中で見かけた団地全体の地図看板を撮影した。特に感想はなかった。寄り道をせずに、本籍番地の「2号棟」に到着した。
それまで横目にしてきた棟は、3階以上の廊下の壁の間には〝檻〟のような柵がびっしりと施されていた。どの棟も、例外なくそうだった。異様。としか表現できない光景だった。
檻は、本来、そこから出ると自由になれる。何かを閉じ込めるのが役割だ。しかし、各棟に施された檻から外に。という行動は、自由も不自由もない世界への能動的終焉を表す。
それを禁じる施策が昔になされた。
それだけのことだよな、と思った。
2号棟の外観を撮影した。「写真」のアプリケーションでそれを確認した。空が黙るような表情だった。特に感想はなかった。湿度が増した空気になった。――そのまま2号棟をぐるりと一周しきる手前まで歩いた。「3歳の頃はこれくらいの目線か」と、かがんだりした。何も思い出せなかった。2号棟に入り、エレベーターに乗った。正面に鏡があった。なぜか、自分の姿をそれで見たくなかった。7階に到着した。小綺麗で無機質なエントランス。当時はそこで何度もエレベーターを待っていたはずだ。しかし何も思い出せなかった。
10メートルほどで廊下に突き当たり、号室の案内表示があった。それにならい、左折した。カウントダウンのように、714、715、716、717――と、左側に位置する部屋番号と小豆色のドアを目視した。右側には檻のような柵。思うところはひとつもなかった。718号室に差し掛かり、ふと名札を見た。名前が書いてあった。「住んでいる」と、思った。その隣が目的地である。
「719」号室に着いた。名札は空欄だった。
ドアを眺めた。両脇の窓を見た。特に感想はなかった。檻の外を眺めた。ドアを見た。スローな反復横跳びのように、短い間隔で「719」付近をうろうろとした。なにひとつ感情が動かなかった。特に感想もなかった。ただ、「ここに、1980年から3年間、家族と一緒に過ごしていた」という場所に来た。それは事実として残る。
それが目的だろうと、そのまま廊下を進めば何かを――とも思ったが感情が動かないので引き返してエレベーターで降下した。辺りを歩いた。広場に丘のような遊具があった。何かを思い出しそうになった。その時にはっきりと思った。
記憶にはあるが、思い出せないだけであり、決して忘れたというわけではない。と。
「中央商店街」と、横に大きく広がる看板がある内部に入った。活気があるスーパーマーケット、個人店もいくつもある。いまだに「タバコ屋」で成り立っている店もあった。間違いなく、この商店街は当時俺も親に連れられて利用していたはず。だが、ひとつも思い出せない。
――案外、短い滞在時間で帰路についた。高島平団地の〝フロント〟と言っても差し支えない、駅の対面の棟で1階を眺めた。「壱番街」と記された看板があった。それはどう見ても間違いなく、1970年代後半当時、入居開始当時からそのままであろう色の褪せ方、フォントの古さ――ほとんどが新たに手を加えられた建造物群のなかでこれは唯一かもしれない。と、思ってはしばらく眺めた。でも何も思い出せなかった。
汗ばむほどの空気に、また変化した。都営三田線に乗車した。わずかな期待は、当然だった。車両内では気分がすぐれなかった。二日酔いでもないのに、そういう気分だった。電車の外の景色を眺めるのが好きだ。でも、目を閉じて、乗り換えの駅までじっとしていた。何も、感想がなかった。
――気がつくと仕事部屋のソファで、ラジオもつけずに座っていた。タバコを吸っては何もせず、カーテンを閉めた。「なにかに慰めてもらってでも――ほしかったのかな」という思考がようやく感情として出た。それだけだった。国立国会図書館で掘り返した印刷物は、父親の写真を置いてある棚の最上段に、下敷きのようにしまった。一応、「あったよ」と、写真に向かって発話した。
AIの駆使と国家機関までの行動までして突き止めた現地で思うことは何一つなかった。信じられないくらい無感情だった。そして、何も、思い出せなかった。
でも、記憶にはある。それを引き出せないだけだ。だから、俺は決して忘れてはいない。この論理は完璧だ。
今日、家族みんな一緒に住んでいた実家に行った。特に感想はなかった。持ち帰るものもなかった。誰とも喋っていないうえに表情一つ動かなかった。
ただひとつ、絶対的なことが、本当のことがひとつわかった。俺はそれを知りたかったがだけのために、5日間も一連の行動と思考の檻のなかに居たのかもしれない。
人間にとっての絶対は死ぬ。もうひとつある。それを知りたかった。それは、現地に行く前に「仮説」として立てていた。それは現地に行くことで変容するのかもしれないという期待がすこしはあった。でもそれは、当然だった。
人間にとっての絶対は死ぬ。もうひとつがわかった。知りたかった、本当のことがわかった。どうしてそれを知りたいと思ったのかは知り得ない。だが、さまざまな檻を内側から、外側から見張ること、時にはあえて中に居座り、時にはこじ開けるように行動し、檻の役割について考えたりした。だが檻は檻でしかない。その檻はある種の〝境界線〟だということは一般的な認知だろうか。たくさんの檻がある。いろんな鍵もある。檻と鍵が不整合の場合がある。整合した鍵を探す場合も、そうでない場合もある。出入りできること、できないこと、鍵が必要なこと、必要ないこと、そもそも檻と思わないこと。それぞれだなと、それだけ思った。そんなの当然だろうと。でも俺にはその当たり前を鵜呑みにできなかった。だから檻のまわりをずっとうろうろとしていた。そうしたらわかるだろうと安直に考えていたが、東京都の中心部の深部に行ったり、忘れてしまった場所にたどり着くことでしかその思考の先にはまた檻があるということを知らなかった。だが、それらをすべて実行することによってようやく、知った。その檻は檻でしかないのだが、鍵を手にして、開いてなかを見ることができた。それでもそのなかに居る奴は本当のことを言える状態ではなかった。だから俺が考えて言うしか、限定されると思っていたが、そうではなかったということがわかった。本当のことを知った。本当のことが、やっとわかった。
人間は、忘れられることが最大の恐怖。
俺は生まれ育った場所も記憶も忘れてしまっていた。そういう風に思っていた。でも、それは違うということを証明した。
確実である情報の「書かれた紙」を手にしてそこに行った。場所はもう、いつだって行くことが可能になった。忘れてしまったと思い込んでいた記憶は、〝思い出せないだけで、記憶には確実にある〟と、それは事実だ。
結論が出るまで長かったうえにこの一連に一体何の意味があるのかと言われれば、何の意味もない。ただひとつ、本当のことを知った。知りたかった。そうしないと、俺は本当のことに飲まれてしまうのではないかという表面張力がずっと機能していた。
ただ、もうそれは、こぼれようが減ってしまおうが、どちらでも、それ以外でも、俺にとって意味をなさなくなった。それだけのこと。
そんなに、ずっと怖がらないでいなくたって、もういいんだよ。もう大丈夫なんだよ。忘れられてない、ということを今日俺が証明したから。それは絶対に間違いなく、誰にも動かすことができない事実なんだから。
そんなことより前を見よう。
_08/21
人類最強の数学者のIQは300。絶対嘘だろとクリティカルに断じつつ、ノイマンというその猛者が書いた遺稿。最期まで執念で――なのかは俺の勝手な想像だが記録によると本当に最期まで執筆なされていたらしい原稿をもとに出版された本を読み進めている。『計算機と脳』というタイトルは食指を痙攣させる。
だから読むのだがさすがコンピューターの基礎をつくった天才。いまこうしてタイピングでリアルタイムで言語が左から右へと俊敏に動く現象もノイマンのおかげ。スマートフォンだってそうだ。実のところ彼が居なかったらこのように左から右へと言語はスムーズに流れない。なんなら「俊敏」という二語を書くのに俺は辞書を引いては「そうだったね、『としあき』みたいな感じだった。はは」などと後頭部やや横をさわりながら数分かけて「俊敏」と書く。その労力たるや俺の脳に原因があるというのは事実だが、ノイマンのおかげで左から右へと流れるように「俊敏」と記せる。ありがとうノイマン。
――『計算機と脳』という表題どおりの内容。今日あたりは第2部の〝脳〟の章にさしかかった。その章の冒頭には――「さて、わかったかい? こんな感じで計算機とか演算、四則演算の説明からだったね。アナログ計算機とデジタル計算機との差異とかも説明したよね? それを念頭において、ついに――〝脳〟いってみよか! もちろん前提は理解したよね……?」
――的なことをさらっと二行で記してあったけどすいません。死ぬほど訳がわからなかったので「IQ300絶対嘘」は撤回します。
第1部「計算機」の、十進法だか二進法だか、あと何、微分解析機て。2ページ目で急にそんなごっついこと言われたら俺は立ちすくみます。そこからずっと迷子でした。わかったふりして〝雰囲気〟で第1部を、書いてある言葉の並び方は読みやすいんですけど、意味がわからないと思った瞬間に「積分z(t)=∫2x(tdy(t)を行う」とかそびえ立つ塔みたいな高さの壁を当然のように置くの、びっくりします。だからわかったふりして文字だけ追って第2部に進みました。ごめんなさいノイマン。
俺が知りたいのは、脳のはたらきが、「計算機」(デジタル)に似ていて実のところアナログというか、さも「生き物です!」みたいな動き方をしているのではない。実は――「0」「1」だけ。とか「true / false」とかの世界観というか厳密な例え方は当然知らないからそれを読んでるんですけどシンプルに説明していただくことはだめですかねノイマン。
そもそも電卓で最新のスーパーコンピュータの演算やらを解こうとしている。それに近い。もちろん俺は電卓、いや、それ以下だ。そろばん15級がせいぜいだ。
――でも、今はコンピューターもすさまじく進化してAIだって一般的に使える。それを駆使して理解につとめれば小学生並みのそろばんの腕前でもいける。そう信じているが、気合いと屁のような論理ではどうにもならないことがこの世には実はたくさんある。ということをその本の序盤で気がついた。
読むな。もう。まだ、14級くらいには上がったであろう読解力の方面として文系の本を読みたまえ。などときっと、ノイマンは言わない。――ある調べによると天才数学者の彼はプライベートなどではジョークを好むような社交的な人物だったらしい。
一次情報ではないから適当なことは言えないが、死ぬほど見当違いな角度から俺は感じた。『計算機と脳』。内容についてのコメントは上の通りだが、どうも、ノイマンの文体から「優しさ」を感じるのである。だがしかし内容自体は冷徹なまでに〝前提知らぬもの即座に去れ〟と言わんばかりの(俺の感想)怒涛の記述。記号。謎の数式。
怒涛、まではいかない。ちょいちょい、置かれているくらいである。でもそれを理解していないと先が思いやられる。ギターを達者に弾きたいと意気込んでいる者が「コードって何ですか?」と言っては「C」の和音を弾くことを諦めたまま武道館に立とうとしているようなものである。
でもいいんですノイマン。「脳」についてはけっこう、わりかし興味あるからいろんな本を読んできた〝姿勢〟はある。だからきっと、「第2部 脳」をけっこう理解しながら読み進めて、そのあとで「第1部 計算機」を読み返せば「そういうことかあ」と、なることを祈っているのである。だから第2部に進んだ。その部の冒頭はこうである。
“これまでの考察で, 本書の目的とする比較の基盤が得られた. すなわち, 現代の計算機の特質と, その多様な構成原理についてのかなり詳しい説明が終わった. いよいよ, 比較のもう一方の対象である人間の神経系の話を進めることができる.”
ノイマンは、進めることができる。俺は、知ったふりをして鳩のような顔で進むつもりだが大丈夫なのだろうか。わからない。わからないことがわからない。
いくら人類最強の数学者だからといって「IQ300」は盛りすぎだ。絶対に嘘だ。俺は信じない。ただ、その方の遺稿を読み進めているとその嘘は撤回するしかないんだ。IQ800はあると思うよ俺は。そんで俺のIQなんてもう、そろばんの珠みっつくらいがせいぜいだよ。酒呑んで寝よう。いつも家で呑む缶酒の容量は500mlだからいい勝負だろ。だめですよね。すいませんノイマン。勉強します。
_08/22
ほら、わたくし50代ですけれどもね。染めてないんですよ。細かく見るとね、目立たないくらいかしら。などと清潔感のあるおばちゃんが堂々たる態度と恐縮との半クラッチくらいのテンション感で言う。俺は真摯に、そのおばちゃんの言う通りにすればいけるんだ。と、信じた。白髪がどうにかなってくれるエクササイズYouTube動画から伝授するように昨日から実施するところ、最中ひじょうに心が穏やかになる。
おばちゃんの言う通りにすれば白髪化に待ったがかかる。なんなら白が黒に蘇る。前提が覆る。論理上そうなる。だが個人差所以で。そこまでの免責事項はなかった。ただ、〝美髪堂〟を謳うおばちゃんを信じて頭皮を揉み擦りまくる。
いかん。制作を、やらないと前に進めない。そう思い、慣性で鑑賞していた峠を走る車の動画をそっと閉じてDAWを開くその前に、やっとベース録音だ。メインギターとメロディとカウンターメロディーの演奏録音およびドラムの打ち込みは納得いくまでやった。ベースラインを捉えよう。そう思い、大して高額というわけではないが20年も弾き込んだからか良い塩梅の低音が伸びるプレジションベースを手に取ると喫驚するほど錆びていた。
弦は錆びる。じゃあ明日「しまむら楽器」に、近所にあるそこに行って買わないとだな。などという態度である限りは俺は制作者として落第坊主である。そうありたくはないので交換用の弦は常に、エレクトリックギター、アコースティック、ベースと、常にストックを棚に忍ばせているものだから普通に交換した。
だが、どうも「ネジ」が気になる。エレクトリックベースは木材と金属が交わる造形と考えるとやけに「ネジが重要だ」と、思っては締め方の甘さを確認すべく、ベースにねじ込まれている全ネジをドライバーで確かめた。緩んでいる部分が散見。しっかし目に締める。「これだけでも音が変わるものだ」というのは物理的に証明できそうだ。などと思い、弦交換の前に「ネジ」を。ついでにボディも布で綺麗に拭く。20年以上、制作の相棒としてボトムを支えてくれは――と、感傷に浸りながら弦交換をしてチューニングして弾いたら「弦高」が高い。つまり弾きにくい。
季節の変わり目には調整を。弦楽器にはそういう鉄則があるとリペアマンが言っていた。そうか、と思ってネックを確かめると微妙に反っている。いかん、と思ってベースの背骨にあたる「トラスロッド」をレンチでぐきぐきと少しずつ回す。これを失敗すると取り返しのつかない参事に直結する。だから少しにして、さらに、弦の生え際である「コマ」的な金属も高さを調整する。
すると一発でベストコンディションになったので嬉しみ生音でしばらく慣らせて鳴らす。いい楽器だよベースって。と、調整による「音の詰まり」という歓迎できない副産物の有無を確かめつつ愛でるとやはりベストコンディション。と、悦に浸っていたら25時前。1時間以上、ベース本体の調整をしては制作の時間を逸した。――9時間くらい仕事をしてはおばちゃんのいう通りに小一時間エクササイズに勤しんでは「そろそろ再び都内で車を所有できるフェーズに」などと前を見ていたつもりがDAWすら開かず制作時間が過ぎていた。
だが、愛用の成人超え年齢のベースの調整は豊かな時間。今日の白眉はそこだったという地味な一日。しかし、そういう積み重ねかなと善処するも俺は今日、前を見ていたのだろうか。
ほら、俺ね、50代なんだけどもほら、染めてないんですよ。まあ、ほら、あんまそうやって近くで見ると、ちょっとは白いですけどね、これ。このベースもね、30年は弾いてるんですけど録音できるコンディションなんですよ。
などと言えるようになってはそこに何の価値があるのかと問い詰められれば俺は黙る。でも、きっと堂々とした態度でいられればな。という風に思った。何の話をしているのか俺にもよくわからない。
_08/23
