ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
心境的に健やかな日々で完走。1月。
イシバシ楽器は元旦からやっているので、ケーブルなどの買い出しに行く。ひんやり新鮮な冬の空気の街は、正月らしく賑わっていてけっこうと思う。ルノアールという名の喫茶店でのんびりカタカタと過ごす。
帰路、どういう訳か職務質問に止められる。俺は何もしていない。ポリスさんは「滝野川警察署の者です。今、バイクの方に声かけをおこなっていまして」と言う。何だ声かけって正月早々、と思うが俺は紳士的に応じる。10代の頃だったら「うっせバーカ! ブゥゥン!」と、舌を出して走り去る。
「このバイクは何ていう名前ですか?」と巡査さんは問う。「ペガサスです」とか「ハヤブサ1号です」とか、そういった意味ではないなとは思いつつ「ジョルノというバイクです。HONDAの」と真面目に答える。20代の頃だったら「純子といいます」とか訳のわからないことを言った後、神妙に署に連れて行かれる。
どうやら界隈でバイク盗難でもあったのだろうと察する。そんな質問をしたらバレバレだぜお巡りさんよ、と思うが、俺も立派に30代。「大変ですね、正月から…」と、眉をひそめて警らをねぎらう。今年は良い年になりそうだ。
_01/01
昨日はゆっくりできたので張り切って仕事をする。体調もなかなか良きことだし、明日を見据えてコツコツと蓄える。世のため人のため手前のため、徳を積む。正月休みなど1日で充分である。充分である。 ぐうぅ。
_01/02
年末の最終日あたりまで3週間くらい、死生観がどうのとか、アクティブに生きられるのはあと20年くらいだとか、実に荒廃的なことばかり考えていたのだが、年が明けたあたりからパリピー思考がジワジワ湧きつつある。
今年は今まで頑張ってきた成果というか、何か素晴らしいことがあるのではと、確信じみたせん妄に包まれる。
俺は「こころの治療薬ハンドブック第10版」という実用書を愛読しているため、こういったサイコな思考が過ぎた場合、脳内伝達物質が多分おいたをしている場合、何が効果的かは、どの主成分に狙いを定めるべきか、だいたい学んである。服薬する程に病的でないと判断しているので読むだけだが。
そして、薬はあくまで薬であり、症状を抑えるのにはたいへん有効的だが、根本的な解決となるかは別の話であることを、これまでの人生の臨床体験によってまあまあ知っている。だからアルコールくらいで丁度良い。
そういえば、年末にDOVA-SYNDROMEの稿屋氏と呑んで語っていた日はとても楽しかった。アルコールと、友人、あるいは恋人や嫁やら、といった組み合わせは、薬より根本的に効く。と思われる。
_01/03
一日宅で演奏練習をする。静かな日。弦を買いに行ったついでにエレファントカシマシのCDを買おうとするが、欲しいのが売り切れ。「ザ・ファブル」という殺し屋のマンガの続きを買おうとするが売り切れ。しょうがないので宅に帰って殺し屋気分でエレカシの曲を弾いて遊ぶ。静かな日。
_01/04
パラダイスロスト公演のリハーサルに行く。いそいそとみなさんで一日中練習して過ごす。公演メンバー内ではどうやらiPadで譜面を見るというデジタルな所作が蔓延しているもよう。俺はアナログに譜面をめくる。
正直、俺もデジタルなパッドが欲しいとは思うが、ひたすら紙をめくる。みんなで足下を終曲後の譜面だらけにしていた頃、もはやなつかしい。
_01/05
知人が株主優待券といういかつい券をくれたので、対象のファミレスでめしを食べる。せっかくなので高価いめしを食べる。
周りのテーブルは何故か20代の若き娘しかいないという環境。何だか肩身の狭いような気分の一人ファミレス。若い娘の会話に耳を傾けると、ずっとイケメンについての話をしていた。
小一時間、ずっと主語が「イケメン」の会話という、いかにイケメンが需要があるのかということを知った。それは何かの糧になりそうな、そうでもないような気持ちで帰路につく。寒空。
_01/06
今日はパラロスの日なので後藤氏の車に乗っけてってもらって渋谷の会場へ行く。とても良い天気。和やかな空気の中、みなさんと演奏して、みなさんと音楽を楽しむ、たいそう素敵な一日。
音楽と関わっていなかったら、恐らくかなりの確率で、この会場に居る全員と会うことも音を交わすことも言葉や笑顔を交わすこともない。そう思うと、自分は何とハッピーな人生を過ごしているんだと、みなさんに感謝する。
そういった訳で、たいへん健やかな気分で明日を迎えられることを、更に感謝したい。
_01/07
生きていく上で、基本的なことなのだろうが、みなさんと賑やかに過ごすと精神衛生上プラスということを実感する。起床時、フレッシュでエネルギッシュな気分で飛び起きる。昼。
昨日みたいにみんなで音楽を楽しみたいと思いながら、ダイニングで珈琲をすすりつつアコギの練習などする。家に居るのもなんなので赤羽純喫茶「デア」で一つだけ原稿を書く。夕方。
適当にブラブラして酒を買って帰る。深夜。静かでのどかな半休の日。
_01/08
ここ2日くらいのんびりしていたら、トントンと仕事が来始める。どうやらもう正月ではないようだ。
依頼して下さる原稿なりを、コツコツと書くことがきっと僕のこの先をチカチカと照らしてくれると信じて勿論ありがたく全て受ける。たいへん喜ばしいことである。本当にそう思う。
_01/09
引っ越しがしたいので色んな物件をネットで調べる。現住居は2DKなので、やはり2DKくらいがいい。
北区十条に条件ピッタリの物件があり、そこはよく通る道沿いなので外観をながめる。ものすごく無機質で、コンクリートの塊がドンと置いてあるような、刑務所の離れのような雰囲気を醸し出す物件。ここに住みたい。
_01/10
たまにはと思い、iPodをシャッフル選曲すると、10年くらい前にやっていたバンドのデモ曲が流れてくる。
当時のボーカル君の仮歌と、宅録でオーバーダビングしたベースとギター2本と、手前で叩いた生ドラムのサンプリングビートでできているそのトラックは、どうやって作ったのか、とかも一瞬で鮮明に蘇る。
その曲を聴いた瞬間「これは俺が作った曲なのか?」という不思議な気分に。女々しい鬱ロック調のその曲は、割とよくできていた。
そのデモの曲を新曲として、代々木のライブハウスでセットリストラストの曲としてやった日が結局最後になってしまい、解散したということも思い出した。マーベラスというバンドと初めて対バンした1月の今くらいの日だった気がする。
当時やっていたそのバンドを拾ってくれそうなプロモーターの30歳くらいの姉ちゃんがいた。俺はその方と何故か仲が悪いような感じで、ボーカル君はいつも「ヒヤヒヤする」と言っていたのも思い出す。20代の俺は何かといつも誰彼構わず気に入らないと刺々しい文句ばっかり面と向かって言っていたからだ。
「タイムマシーンに乗って過去の自分にアドバイスできる権」があったとしたら、みんなはいつの自分に遡り、何を指摘するのだろうと考えた。
俺だったら迷わず27歳に戻る。そして「関わる人間を尊重しろ」と本ギレで諭す。されど、バンドマンという立位置で、もっと色んな景色が見られた気がするという希望もある。振られなきゃいい女性に振られることもなかったかもしれない。
そんな経緯もあり、今は文句や不平不満やネガティブな発言を、いかなるシーンでも理性的に愛をもって控えるといったスタンスにした結果、わりとハッピーに暮らしている。
文句は人を不幸にし、尊重は人をハッピーにするという、シンプルなことを、どこで気付けるかというと、恐らく例外なく、人が何か大切なものをザクッと失ったことを自覚したときだなということも思い出した。
_01/11
部屋に篭って原稿を書く一日。脚本家と女優・歌手についてという、俺的に難しいテーマのそれに悶絶して机でナナメになりながら仕事をする。
「何かをゼロから生むのは、ウンコみたいなもので、ウンウン考えて出すものではなく、ポコッと自然に出る」という、どこかの大御所が言っていたことを思い出し、とりあえずソファで寝た。
そしたら本当にポコッと出て一通り書けたので提出したら即、担当からやんわりと加筆の打診がプルルと来た。こわい。
「その加筆すべき部分が書けんから当たり障りない感じにしちゃったの」と言ったら、「そうかあ……あ、平吉くんそういえばこないだね」という感じでしばらく雑談になり、そうしたら無関係の話の最中にまたポコっと出て、すぐ書いて出した。
ウンコ論は凄いと思った。確か、甲本ヒロトさんの言葉だった気がする。明日はブルーハーツを聴いて頑張ろう。
_01/12
はりきって仕事をしてめし食べて一服してと、実にスタンダードな一日。レッスン準備をしがてら、弾き語りの練習をする。手前の歌のへたっぴ加減に絶望しつつ、弾き語るには超絶難しいレディオヘッドの曲を歌う。
これほど自己満足な弾き語りもない、と思いつつ、何のためでもない練習を楽しくする。これこそ趣味というものかもしれない。手前の洋楽の弾き語り。
_01/13
今日は早起きして乾布摩擦でもしようと思っていたが昼。酒だ。全部酒が悪いんだ。猛ダッシュで新横浜まで行く。「進撃の巨人」的な世界感に浸りに、および、心臓を捧げに行く。
東十条へ戻り、遅い時間なので喫茶店はやっておらず、バーカッフェ的なところでくつろぐ。いいや、仕事に励む。横浜アリーナでのみなさまのハッピーな空気を原稿にしたためて23時、閉店ということで柔らかく追い出される。
寒過ぎる昨今だが、あえてキンキンに冷えたビールを買って帰る。数カ月ほど前からとうとう愛読するようになった「漫画ゴラク」を買って帰る。
昭和っぽい劇画が好きだ。でも「進撃の巨人」的な近代画風だって好きだ。好きなものをどんどん増やしてハッピーになろうと思う。
_01/14
宅で少し仕事をして、レッスンに行って、戻ってきて喫茶店でカタカタと、微妙に移動しながら過ごす。赤羽でうまいトンカツ食べて帰る。平和な一日で良しと思う。
_01/15
晴れやかな一日の駆け出しなのだが、こう、自分がやっていることの意義やら、関わる人間と自分の対比だの、言動のフィードバックがどうした等、考え過ぎると頭皮は禿げ、最終的にどのルートを辿っても自決へ向かうような思考に囚われる。
だが、ジェノベーゼのおいしいパスタをペロリとたいらげて、15分スヤッと昼寝をしたら脱する。そう、それらは、わりとどうでも良いことなのだと本能で知っているからだ。
その本能に逆らいがちな青年期の場合、そのまま鬱にやられたあげく何かしらの依存対象に没頭し、自決、あるいは死んだような暮らしを続ける。
中年期の俺は、そういった悪質な哲学思考や只ぼんやりとした不安思考に襲われたとき、そいつはネタとして、思考としては殺さずにしたため、脳内の外周あたりを衛星のように放し飼いにするということで、適切に扱うことにしている。
こういった思考は殺すのが一番ラクちんなのであるが、何しろネタとしてはもったいないというきらいがある。急に出くわしたメルヘン野郎やサイコちゃんとお話をする機会などのとき、脳内衛星からふたたびその思考を呼び出すと、まあ盛り上がるものである。
そういった訳で、同じように衛星を飛ばしている輩の思考とドッキングしようと努力する、といったことがブームである妙に暖かい1月の中日。
_01/16
俺は、お店でめしをオーダーした後、馬鹿の一つ覚えのようにスマホを取り出す自分に嫌気が差した。
何か目的があって、調べものなどがあって、スマホを取り出すなら全然いい。しかし自分は、ほぼ条件反射で無目的のままスマホを取り出す。故に、俺は判断力と独創力の部分がどんどんアホになっていることに気がついた。
だからといってスマホを手放す訳にはいかない。こいつは、いつでもだいたいの情報にアクセスできる。チャットができる。銀行振込だってできる。手放す訳にはいかない。第一まだ割賦が終わっていない。
というわけで俺はめし時にスマホは出さないことにした。神聖な食事時に何となくの暇つぶしに耽るため一点を無思考で眺めるなど罪。そう判断する。世が世なら打ち首獄門町内引きずり回しの極刑に処されても控訴できないだろう。
スマホを出さずにめしを待ち、そういった結論に達したタイミングでホカホカのチャーハンが配膳されたので、満を持して食べたところ、いつもより美味しく感じたような、そうでもないような。
_01/17
「病的性格」という、昔買って本棚にあったむつかしい本を今一度読む。昭和40年初版の書籍である。
「病的性格」というちょっとサイコな概念は、人格障害やらパーソナリティ・ディスオーダーとか、最近呼び名こそ変わったが、その内容は変わっていないようだった。「病的性格」というのは、普遍的なアレなのだと思った。
その人なりの普通という感覚が平均値から著しく外れて色々支障をきたしていると、「それ」となるらしい。
僕は、平均値に相当近い感じの人格の方々と、平均値とは明らかに遠い人格の方々と、バランスよく付き合っていたいという、たいへん贅沢な人付き合いをモットーとしているが、なかなか難しいところがある。
それは、付き合う人間に、やはりどうしても影響を受けるものだから、自分が平均値でいれば良いのか、突き抜けた方が良いのか、たまに判らなくなるという部分。
そういった訳で「病的性格」というタイトルの本に手が伸びる訳かと思われる。「正常」と「病的」を、ある程度でも机上で知っておくことで、何かしらの予防線を張っていると解釈できる。恐らく、そうしないと人格が乖離することを察知したと思われる。
そこで、判定をする。自分と何かしらの形で付き合っている方は、「正常」か「病的」か。何故か、「正常」と判定できる方は、なかなか本当に少ない。
その方と何かしらの形で付き合い出してほんの数時間、数日間くらいの間、その間は「正常」と、だいたい判断できる。でも、相手のことを知れば知る程、「病的」な部分が必ずチラついてくる。しかし、それは悪くは思わないことの方が多い。
むしろ、「正常」と感じている期間が長ければ長い程、そいつが不気味である。
「『生涯を通して、その人のこの部分は絶対に変わらない』という性格部分が、『正常』か『病的』か。というのが『病的性格』の判定ライン」というような要点が本に記してあり、やっぱ学者さんはすげえと思った。
たしかに、そんな点、ある程度付き合いが深くないと見えてこない。いきなり出してくる輩もいるが。そういった輩は、自分はとっても好き。
_01/18
宅でギターレッスンをして、その後はふらりと遊びに行こうと思ったが原稿を書いて過ごす。真面目である。どうしたのか。
ニュースなどを見ていると、「介護疲れ」というフレーズが目立っていた。介護とか、ドメスティックな負担は、人間最大のストレスと疲弊を生み出すと僕は思っている。
そして、それをちょっとでも薄めてくれるものとして、不道徳なことが挙げられると思う。理由は、正攻法で真っすぐ問題に立ち向かっているのに、ゴールが絶望的に不透明だからだ。
それが、酒でも、ギャンブルでも、ドラッグでも、不倫でも、ひととき、自身を癒してくれる。それらの存在価値は、人間の精神力が限界突破したとき、自分が壊れないための、ある種の逃げ道としてある気がする。でもやりすぎると自身と他者を壊すから規制される。
精神力が限界突破したくらいの負荷がかかる長期体験がない人は、真っ当な道徳は常に正義、外れたら罰を受けるべき悪、というマインドが多いらしい。人間の残酷な部分の一つだという気がする。
不道徳、非合法なことに手をだす人は、大なり小なり、精神力が限界突破した長期に渡る実体験が確実にあると思っている。弱っているときだと思う。そういうときは、みんな温かく見守るなり、支えるなりすれば何かと。
_01/19
全力で宅の掃除をしてピカピカにする。赤羽の喫茶店でカタカタと過ごす。とても静かな日。中華屋に入って中華豆腐定食を頼んだら、副菜も冷や奴に杏仁豆腐付きと、豆腐ばっかし食う。
_01/20
あすは東京でも雪が積もるというが本当だろうか。首都圏で積もるぞ積もるぞというときは、けっこうな確率で積もらない。
明日は積もったら宅で一日中仕事。積もらなかったら本屋巡りに行こう。頼む積もるな。
_01/21
気象庁の予告通り積もる雪。雪の日が静かなのは、雪が音を吸収するからだ、という何となく素敵なことを最近なんかのマンガで知った。だが、隣人の外国人達がテンション高くてやかましい。きっと、彼らの祖国で雪は降らないのだろう。
外出は困難だし、明日止んでいても凍結やらだ大変だ、と思いながら窓を開けて外を眺める。そこには生まれたてのユキダルマがいた。割といい歳の青年達が本気で雪合戦をしていた。
気候的に事故っぽい感じだが、それを楽しんでいる輩たちの何と賢いことかと、感心・尊敬した。最近あまりみないが、近所の野ネコたちがどう過ごしているか心配である。
しかし、この大雪を機に、見かねたネコ好き宅の人間が家に入れてやり、飼いネコデビュー続出の日かもしれない、と思うとたまには雪もと思う。
_01/22
駅に行く必要がある。しかし、こんもり積もった雪は、「原チャリでは危ない」ということを判断するには充分な景色。
しかし、俺のドリフト魂に火がつく。ニュースで騒いでいるレベルの積雪程度で、俺のダウンヒルおよびヒルクライム走行は崩せない。やってやる。いつものように10分弱で駅に到着してやるんだ。
生まれたての子鹿、決着寸前のジェンガ、喩えるならそういった情けない車体・両脚バランスで30分かけてJR十条駅に到着。
「雪が溶けきるまではバイクに乗ってはならない」と、俺に息子や娘がいたらそう諭す。「危ないからでしょ? 知ってるよ」と答えるだろうが、違う。情けないからである。見た目が情けないからである。
そう言って、子孫に想いが伝われば幸いと思いながら、「俺は人並みに繁栄でもせんとこれで良いのだろうか」と、ふとよぎる思考をしたためながら埼京線に揺られて浴びる雪上がりの都心の反射光たるやなかなか眩しい。
01/23
寒さのせいか、疲れか、ストロングゼロ酒の威力か、寝起きがなかなか。だが、熟睡はできたので意気揚々と仕事に励む。
なんとなく、自分は、どの仕事が一番世間や自分を喜ばせるのか、ということを一日中考えていた日。
公務員ではないことは確かである。俺が公務員になって喜ぶ人間など一人もいないと言い切れる。第一、国家試験を突破できる気がしない。全国の公務員の皆さんに敬礼。
_01/24
最近のんびり散歩をしていない。無目的に街や団地敷地を散歩するのが今生のリラックス方法なのだが、今月はなかなか仕事ばかりしている。それは、ありがたいことである。
昨今、雪が都心で積もったなんだと騒いでいるが、あと60日もすれば春の気配。桜舞う中、目を細めて散歩をするのが楽しみだ。聞こえは悪くないが、あまり感心しない気がしてきた。何故、俺にはもっと下半身滾る趣味がないのか。
神妙に喫茶を嗜んだり、散歩したり、夜な夜な本をめくって酒をすすったり、燻った心境で麻雀を打ったりと、これらはおじいちゃんになってからやれば良い。
もっと、働き盛りのメンズの愉しみにふけりたい。色で言ったら原色のような趣味を持ちたい。俺の趣味は全てセピア色だ。
多分、初老を超えてから爆発する予感がする。意気揚々と蘊蓄を垂れながらクラブで踊り狂う名物じいちゃんみたいな感じになる気がしてきた。それはそれで乙な老後。
_01/25
差し入れに小説が欲しい、ヘミングウェイの「老人と海」が良い。と言っていたので、買いに行く。古本屋に行ったが、有名な本は案外ピンポイントで無かったりする。新刊で買う。
「俺はヘミングウェイと誕生日が一緒だしな」と、伝えるが、どうも手前の息子の誕生日をすでに覚えていないのか、そういった一致に興味がないのか、穴の空いたような眼で俺を見る。
脳と精神がメルヘン状態の者に、小説の内容を理解して楽しめるのか、少し疑問だが、ついでに「我輩は猫である」という有名な本も買っておく。俺が読んでから差し入れるか、逆にするか、迷う。
_01/26
鋭い寒波が辛抱たまらん、今日はマンガを読んで一日中ゴロゴロと酒を呑んで過ごしたい、そう思うが、その一線を超えられない小心な俺はちゃんとフトンから出る。
そして、今に至るまで、ずっと仕事をして過ごす。「あたりまえだ」という声もある。が、あたりまえのことに対して疑うことを忘れてはならぬ。という声も大切である。
いずれにせよ、今月も俺は仕事ばかりしている。だから、終始ゴロゴロクタクタと過ごす日を近日中に設けようと思う。実に楽しみである。
_01/27
20代半ばの頃によく聴いていた、ステレオフォニックスやベックのアルバムを今日昨日と聴く。懐かしいなと思いながら、なんとなくその頃は、今の音楽的というか、そういった感性が最も養われた時期だと思った。
その頃、車に乗って過ごすことが多かったので、毎日のようにアルバムを2枚づつくらい聴いていた。J-WAVEのラジオをよく聴いていた。とにかく、一人で過ごすことがほとんどだった気がする。
その頃に聴いていたアルバムが音楽細胞みたいなところに染み付いているのは、誰かと接する替わりに、音楽を聴いていたからだと思われる。
今は、誰かと接する時間がなかなか多い。その替わり、音楽をじっくりと聴く時間は少なくなった。でもなんとなく、どっちも、感覚的には一緒な気がすると思いながら、ベックの2005年のアルバムと、ステレオフォニックスの2003年のアルバムを聴いていた。
音楽に傾倒する人は、寂しがりやとか孤独癖のある人が多い気がするが、何となくこの歳でそれが感覚的にわかったような見当違いなような。明日はモービーでも聴こう。その頃よく聴いていた。
_01/28
レッスンへ行き、宅で原稿を書き、今月は年の初めからなんやかんやと賑やかなひと月だったなと、よき月だったなと、珈琲を淹れながら、程良くしんみりと過ごす。
_01/29
新宿へ取材へ行く。さむい。ここ最近阿呆のようにさむい。盛況な興行を観て、馴染みの顔の方も何人かいたのであいさつをした後、すぐに原稿を書きたいので喫茶ルノアールへ行く。
閉店まで1時間半。仕事は終わるのか微妙なライン。これがなかなか使えて、リミットが明確だとかなりの確率で時間内にちゃんとしたのが仕上がる。不思議だ。というか、人間、いかにいつも力などをセーブしているのかがわかる。
ビールとかを買って帰る。すこしゆっくり本でも読んでクタクタとリラックスして健やかに寝よう。
_01/30
ジン含みのストロング缶を買うか、焼酎のボトルを買ってしまおうか、コンビニストアでグルグルと5分は悩み、ボトルを買ったらきっと気絶するまで呑むと判断し、前者にする。牛タンのつまみも買う。
事務の書類作成などをまじめにしているうちに深夜。太った牛に乗って温かい日光に包まれながら野原をのっしのっしと散歩がしたい。
_01/31