01/2021

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
頭が硬すぎと施術的に判明。1月


二日酔いスタートの2021年。ここ数年は毎年そうだという気もするが、これはもう儀式のようなものだともはや納得する。

今日は案件がないので、昨夜村上氏邸で深夜、高音質および30万円クラスのアコースティックギターで録音させてもらったトラックらをDAWに貼り、楽曲制作をする。

ウーリッツァーという「ポロロ〜ン」という感じの音色の鍵盤トラックも足し、いい感じになったので一気に仕上がる。元旦から1曲完成とは幸先がいいなと気分がほころぶ。

今年も、楽曲制作や音楽関連の仕事は昨年以上にもりもりと頑張りたい。ライター案件もゴリゴリとやりたい。今、全くやっていない新たなタスクにも取り組みたい。なんともモチベーションの高い人生41年目。今が一番具合がよい。20代の頃の方がよっぽど体調やらメンタルやら仕事やら、何事も調子はよろしくなかった。

名前の字画数で運命を読める、という方2人に見てもらったことがある。共通しているのは、「平吉賢治さんはこれからです。大器晩成型です」と、言われたこと。

俺はこれを本気で信じている。言われたポジティブなことは全て真に受けるようにしている。

確かに、パチンコやパチスロなどの「スランプグラフ」というデータ推移で言うところの“人生の波”は、20代あたりは右肩下がりで底の方をずっとウロウロしている波を描いていた気がする。

そして30代中盤手前あたりからその“ハマリ”を抜け、じわじわと右肩上がりになってきたという自覚がある。

そこから30代後半に会社を辞めてフリーとなったあたりから、さらに上昇の波が迫っていると感じる。

40歳、右肩上がりになったと実感すらあった。かなりトリッキーな出来事だらけだが、上の方に向かっていると肌で感じる。

晩成したい。今やってることをちゃんと続け、さらに新たなことへの取り組みに対し恐れず、よい変化を重ねればいける気がする。

年の初めの第一日。心情的な目線は定まったという日。あれほど隠キャだった手前がなぜにポジティブ寄りになれたのではないかという気がする理由は、一点だけはっきりしていることがある。それは、「人に言われて『痛い』と感じることをちゃんと聞く」ということである。

人間、直球で指摘されると怒りを伴う。しかし、イラッとするのはその一瞬だけなのだから、ちゃんと人のことを聞いてよろしくない点を直せば、人生のスランプグラフの波はどんどん右肩上がりになる。

これくらいの歳になると、指摘してくれる人は少なくなるものらしい。しかし、俺には何故か、「指摘」や「ダメ出し」そして「フィードバック」をしてくれる人達にたいへん恵まれている。“自分が知らない、自分のとある改善点”を、周りの方が教えてくれて明るい道を示してくれるのである。

だから、怒られたり指摘されたり嫌味を言われたりしても、それは、手前がさらに前進できるチャンスをもらったようなものと捉えている。この考え方が20代〜三十路ちょいあたりまではいっさいなかった。だから、何事も上手くいかなかった。

何が言いたいかと言うと、周りの人が言ってくれることをちゃんと聞いて、その内容を真剣に見極めて、いかに手前の糧として、きちんと相手にも還元するということが相当大切なのではないかということ。

年の初めから随分真面目なことを考えるようになった気もするが、それはやる気の表れと捉えたい。2021年、どんな年になるか全くもって予測不可能だが、根を張りつつ、みなさんの言うことをちゃんと聞いて、みんなと笑って面白おかしく幸せに過ごしたい。
_01/01

 

 


俺の1年の我慢の価値たるや。昨日、1年間毎日最低100円ずつ投入してきた“禁博奕貯金”をご開帳した。毎日、「俺はしばらくギャンブルはせん」と思念を浮かべ、手前を戒めながら、硬貨を入れたり紙幣に両替してはコツコツと蓄えていた我慢の象徴。

正月早々、夜な夜な酒をすすりながら、ごっそり縦に差し込まれた千円札をカウントした。総額77,900円也。けっこうな金額であった。

もし、定期的に博奕場に行くという悪しき習慣を帯びたまま1年を過ごした場合、まあ最低でも年に20〜30万はいかれているだろう。

理由は、各種博奕には必ず「テラ銭・場所代・還元率」というものがあり、長くやればやるほどプレイヤーは損する仕組みになっているからである。最終的に勝つのは店側、運営側、胴元、バンカー、ハウス側、いろんな言い方があるが要は博奕場を仕切っている者なのである。今の俺は、そもそもその場所に行かないのでそれがなく、むしろ浮いた現金が77,900円手元に残っている。この差はたいへん大きい。

77,900円という金額は家賃を払ってもおつりがくる。けっこうしっかりした機材がひとつ買える。表で10回以上は呑み散らかせる。わりといいスーツも買える。

しかし、この金額は、下手をすれば1日で博奕でスッてしまうこともできる金額である。かつて、俺が通っていたフリー雀荘のレートだと本当にいかれることもある。現に一度、一晩で7万ちょい負けた苦渋を今でも克明に覚えている。

何に使うかは置いておき、とりあえず5万円は口座へ入金し、残りは財布に入れてほっこりした。新年早々ふところが温かい。我慢というやつは極端に言えば金になる。

こうなってくると、脳に刻印されたギャンブル欲こそ決して消せないものの、「打ちに行こう」という行動予定は本当に無くなる。俺は博奕中毒を克服しかけているのかもしれない。そう思いながら、今日も100円を同じ箱に入れる。ギャラが入金した時はもっと多めに入れる。そしてまた、2022年1月1日にご開帳し、「俺は自分をコントロールできた」と、認識できる。

側から見たらずいぶんみみっちいことで感動している野郎だと思われるかもしれない。しかし、「毎日やる」ということの習慣性と自己暗示性と自己洗脳力は極めて強大なパワーを孕んでいる。

それを巷では「意思」と呼ぶのかもしれない。そうなってくると、意思というのものは工夫すれば毎日100円からでもどうにでもなる。今年もコツコツ蓄え、意思を育み、手前をコントロールしよう。これは、20代のうちに済ませておくべきことだったのかもしれないが。
_01/02

 

 


出向案件こそないものの、正月でも原稿を書く案件がいくつかあり幸先よい。元旦は丸一日溶けるように休んでいたからこれくらいで丁度いいなと思いつつ、原稿、制作に励む。目を血走らせながらWordの画面やDAWのメーターやらを見つめる1日。

昨日カウントした、貯まっていた金がもっさりある。これは何に使ってもよいというこづかいなのだから遊びに行けばよいとも思う。しかし、何に興じるかどうも思いつかないので日中は夜中まで真面目に作業をする。

これでは去年とほぼ一緒ではないかと思うが、むしろあと2年くらいはこれくらいやって根を張り、心情的にも財産的にもゆとりを持ちたい。よっぽどゆとりができようものなら、さすがに結婚相手なり伴侶なりを探すという行動に出るかもしれない。

初夢、そして昨夜も、家族と過ごすという夢を見た。俺は深層心理では明るく温かく楽しい家族がつくりたいのもかもしれない。なぜつくらんのか、昨年1年、定期的に考えていて判明した。それは、世間一般の同年代に比べると、あらゆる面でゆとりがあまりなく、実は手前に自信がないからではないかというまさかの情けない結論に落ち着いた。

「他人と比べることから不幸が始まる」とはよく言ったものだが、結局、手前もそれなりに周囲の人間とあらゆる面を比較している。しない主義だが、実はしていることに気がついた。

「なんで彼女とかつくらんの? 結婚しないの?」と、聞かれるとと「ちょっとそういった余裕がない気がするからです」というのが正直なところである。

金は、カツカツではないくらいである。貯金もある。しかし、ほぼ無金利とはいえ日本政策金融公庫からの借金も若干ある。仕事はというと、コロナ禍になってから超がつくほど不安定になった。しかし、なんとかやってきている。

すると、考え方ひとつで実は「わりとゆとりはある」とも捉えられる。ゆとりとはなんぞやと考える。すると、平均値やらとの比較が必要になってくる。されど、「やはりまだ…」となる。これは堂々巡りもいいところ。

要は、手前が納得できる“ゆとり”をつくる努力をもっとすればいいのである。なんなら、努力をし続けている時点でもういいのではないかとも思う。そうやって時間を重ねていくうちに、あっという間に人間は死ぬ。なんなら明日死ぬ。30年後かもしれない。98歳まで生きるかもしれない。

そう考えると、三が日とはいえ、今日のような過ごし方は正解とも思える。明日も、原稿を書いて、今日進捗率98%までいった楽曲を完成させよう。元旦にMIXして完成させた曲とセットでアップロードしよう。時間があれば別件もやろう。

後悔のない生き方とは、明日死んだ時、「ああ、昨日とかあれをやればよかった」などと思わない過ごし方だろう。毎日来る昨日を後悔しないように、張り切って生きて行こう。そう思い、名曲「Yesterday」の歌詞を読んでみたが、ちょっと何を言っているのかわからなかった。
_01/03

 

 


三が日が明け、世間的にコロナ的にざわざわとし出したのでなかなか恐ろしい。

手前はというと、昨日と同じような時間軸で原稿、制作と過ごす。途中、先月の血液検査の結果を知りに病院へ行き、正式な血液型をやっと知る。「B型 Rh+」であった。Rh因子はマイナスではなく、ごく普通のB型。そして各数値はいたって正常。

変わったことがあるとすれば、血糖値がかなり低く、「ちゃんとご飯を食べてますか?」と、医者等によく言われることを聞かれたくらいである。

「たまに食いません」

「ちゃんと食べてください」

という、当然の問答。だから今日あたりは血糖値がガツンと上がりそうなカップヤキソバを食う。何かアクセントを、と思いチューブの生姜を入れたが絶望的に合わなかった。紅生姜はあんなにヤキソバに合うのに。

とりあえず血は概ね正常だが世間的にどうも正常とは捉えがたい。これからどうしていこうと考えたりもするが、そこは臨機応変に対応しつつ、根を張りつつ、張り切っていくしかない。

「来年には落ち着くだろう」という空気感だった昨年3月4月あたり。しかし、落ち着くどころか、といった空気感である。気軽に呑みにも行けない。元旦から誰とも会っていないことも相成り、切なめな気持ちになるがそこは騙し騙し、折れないように乗り切ろう。

暗いような、危機感をおぼえるようなニュースばかり目につく日。「パンダに三つ子ちゃんが産まれました!」というくらいハッピーな報せはないものだろうか。現にパンダに子供が産まれたらどうしよう。各子らの名前でも考えようか。リンリンとポンポンとパンパンとかでいいか。
_01/04

 

 


昨年の4月だか5月だかに「コロナ禍直撃売上10万円以下」という筆舌に尽くし難い記録的な月があった。そんな状況にまたなってしまうのだろうか。ふんわりロックダウンされれば再度それも視野に入るということで慄く。

もう知らん、個人ではどうにもならんとか思い、今日は丸一日DAWに張り付く。めしも食わずに制作をする。こうしてまた血糖値が下がっていくのだろう。

「今の状況、コロナ禍は戦時中に似ている」と、美輪明宏さんか誰かが言っていたそうだ。戦争は御免被るが、争い事は最終的に人間の意思で止めることができる。しかしウイルス感染拡大はどうなのだろう。とか考えていると将来のビジョンが霞む。

やはりもう知らんと思い、出来た楽曲をアップロードしてまた新しい曲を作る。世間的によかれと思われることで、この状況的に手前にできることは何かないのかと考えた。1日宅でじっとしていたのだからそれは悪くないと思いよしとする。寝よう。酒をほどほど流し込んで寝てしまおう。太宰治の小説でも読んで寝よう。ただ一さいは過ぎていくらしいし。
_01/05

 

 


今年に入ってから誰とも会っていないのだが大丈夫かと思う。孤独は一番身体によくないらしい。でもとても体調がよいのでいいかと思いながらポワポでなんやかんやと作る。

出向案件はないものの、なんやかんやで自宅でせっせと出来る仕事にありつけていていい感じなのかもしれないと粛々と過ごす。

あまりに刺激がない正月の週というのもまた一興。気軽に凧揚げにも行けないという特殊な特殊な時期。
_01/06

 

 


休日。案件が枯渇したから仕方なく、というわけではなく意図的な休日。仲間のコンサル業の方が仰っていたが、フリーで仕事をする人はちゃんと休む日を設けることが大切とのこと。確かにそうだなと思う。休日をちゃんととると翌日からのツヤがまるで違う。

とはいえ何か真面目なことをしてから遊びに行こうと思い、仕事部屋をしっかり掃除する。大掃除的なことを先月していなかったので適切な行動であろう。カーペットに落ちている白髪を見つけると切なくなる。

掃除をキッチリ仕上げ、以前勤めていた会社の元同僚方の定期的な遊び目的の集いに顔を出す。

こういった非常事態だから「集まるんじゃないよ」というのは正論だろう。しかし、今年に入り誰とも会っていないこともあり、シンプルに寂しかったので行った。この時期にこういった軽率ともとれる行動をする手前は非国民なのであろうか。

楽しく過ごして夜帰宅。ギターの練習を2時間くらいしていれば深夜。ゆったり楽しい日はあっという間に過ぎていく。そうでない日も、万人平等な時間配分で過ぎていく。死ぬまで過ぎていく。俺はあとどれくらい生きるのかなとか考えると鬱の鱗片が見えてきそうだが、最近あまりそういった気分に苛まれなくなった。

持病のメンヘラは寛解したのだろうか。わからないが、毎日無駄な不安と抑うつ気分にベッタリつきまとわれていた日々が懐かしくも思う。紐解き難きは人の気分のあらゆる波とダンジョンのような精神構造。
_01/07

 

 


案件で赤坂へ。今年初となる出向案件というのもありスーツを着る身も締まる想い。とあるミュージシャンお二方とお話をする。

一方の方は“蕎麦森”という愛称を持つほどの蕎麦愛好家と事前調べで判明。そして、それはわりと有名な話だというので蕎麦の話も振らせて頂いたところ相当の蕎麦熱が降りかかってきた。

この方は蕎麦好きがブーストしすぎて、自身の銘柄の蕎麦やつゆをプロデュースし、それはそれは相当売れているという。だから相談した。俺も相当の蕎麦フリーク、そして理想の蕎麦つゆに出会っておらず、探し疲れたのでスーパーで売っている定番のめんつゆで妥協してしまっているということを。

すると親身になって話を聞いてくれ、自身プロデュースの蕎麦とつゆを猛プッシュしてきた。

「それはもう、うちのつゆなら間違いないから!」

「はっ! では直ちに買います!」

ということで案件を終え、帰る準備をしていたらマネージャーの方が品入りの袋を差し出してくれた。

「おみやだよ!」と、蕎麦森さんが言うので開けてみるとそこには彼プロデュース蕎麦の乾麺の数々がズラリ。蕎麦セットのおみやであった。

二八蕎麦と十割蕎麦のみというこだわりのチョイス。さすが、わかっていらっしゃる。それぞれが各種類数袋ずつの豪華セットであった。俺は乱舞し、礼を言いまくって帰宅。新年早々の僥倖である。

つゆはなかったので、当然帰路にスマホで蕎麦森さんプロデュースのつゆの“甘口”と“辛口”の2種類を即発注する。“甘口”の方がおすすめとのことだった。

そのつゆが到着するまでは、この蕎麦を頂くわけにはいかない。こういったこだわりの一品をスーパーの普通のつゆですするなど失礼千万。

そういったわけで豪華蕎麦のおみやをもらったこともあり終日ハッピーな1日。今年はいよいよ「主食・蕎麦」という食生活に勢いが増すであろう。

何度でも言いたいが、蕎麦は栄養価が高く、ビタミンB群やルチンが豊富でとてもヘルシー。美容にもよし。老化防止に生活習慣病予防にもうってつけである。酒も煙草も飲む俺の血液の検査結果がいつだって良好なのは蕎麦ばかり食っているからなのかもしれない。早くこのおみやの蕎麦をすすりたい。つゆはまだかな。蕎麦森さん本当にありがとうございます。
_01/08

 

 


最近1カ月くらいで「ヘッドスパへ行きたい欲」がなぜか凄い勢いで出てきた。喩えるなら10代の頃の性欲くらいの熱量。それは抑えろという方がしんどい話である。

原稿を書く。8割できたのでPCをスリープにし、赤羽駅界隈の「ヘッドスパ対応店」を回る。

ネットで事前に調べればどこが安いとか予約とかわかりそうなものだが、その調査をおざなりにしてまで、まず体から動くというほどの欲求。これは我ながらめずらしいと思いながら2店回る。料金は平均で5,000円ちょいくらいであった。ちと高価い。

短時間でいいからまず試してみたいだけなのである。故に、数十分で2,000〜3,000円が望ましい。3店目のマッサージ屋に行くと「15分で約2,000円」と説明を賜る。即決で頭を揉んでもらうことに。

流れ的には、着替えて、個室で施術を受け、帰る。といった感じ。店内の薄暗くもリラックスを促すエアー感を言い表すと、喩えるならピンクな風俗店。正直、これ以外喩えようがない手前の語彙力と品性を悔やみつつ、いざヘッドスパ・デビュー。

20代後半くらいの女性の“セラピスト”という言い方が適切だろうか、彼女に言われるがままの格好および姿勢となり、頭を揉んで頂く。

「どういったきっかけでこちらにいらしたのでしょう?」

「はあ、年齢的にこう、アンチエイジングと言いますか、頭を揉んでもらいたいと言いますか、ハゲやしないか、事前に対策をとりたいだの、まあ色々ありまして」

「ハゲ……フサフサでございますが?」

「はあ、しかし油断してるとツルっといくのではと不安でして」

「いえ、大丈夫かと? 強さはどうですか?」

「ちょうどいいです。頭皮、硬いですかね?」

「硬いです!!」

「びっくりした。よっぽどですか?」

「これは……特に側頭部と頭頂部が硬いですね。眼精疲労と自律神経がどうのこうの……」

俺の頭皮は相当硬いということが判明した。それだけでも今日、仕事を中断してまでここに来てよかった。

「普通が『0』、マックス硬い頭皮が『10』だとすると僕はいくつでしょう?」

「8、9くらいです!」

「よっぽどですね」

「定期的に来た方がよろしいかと! グッ、グッ、グリグリ………」

「ちょっと怒ってません?」

「これは硬いですよぉ! グッ、グッ……!」

彼女の判断と口上は、新規顧客をリピートさせるために盛り気味に言っているわけではないのは口調とリアクションでなんとなく伝わってきた。要は、手前の頭皮はガチで硬いらしい。

「なんで硬いんですかね?」

「ストレスや疲労が主な原因です」

「僕は最近あまりストレスは感じないし、疲れもさほど……」

「気づいていないという方はいっぱいいらっしゃるんです。この硬さは絶対疲れていますよ!」

「はあ、あまり休日をとらなかったり、仕事はたまに休憩もとらずにぶっ続け、めしも飛ばすということがあるのですが、良くないですかね?」

「その全部が原因です!」

ヘッドスパは、一言で言うと爽快な体験だった。そして、手前の頭皮の硬さたるや重症であり、「疲労に気づくべし」という戒めも頂いた。施術中、リンパがどうのという話を仕向けたら、それも頭皮の硬さと関連性があるとのことで、料金外の時間なのに施術後にリンパの流し方を教えて頂いた。ここはきっといい店だと判断。

頭が物理的に柔らかく、そして体も温かくなった。これはまた来ようかと思う。その旨を伝えて店を後にした。

帰宅して原稿を仕上げて、もう一つ、戻ってきた原稿を確認して共に提出、そして制作でDAW作業や録音をする。振り返ってみれば5時間ほどぶっ続けでやる。苦痛は感じないが、これが原因らしい。

しかし、集中力の持続の関係で、作業ペースは崩したくない。そこでヘッドスパである。とても良いものがあることを知った。手前にうってつけではないか。

俺はセラピストさんに「硬さレベルが8、9から2くらいまで行きましたね!」と言わせたい。現在、頭がなんかズンズンフワフワした感じがするのは揉み返しなのか疲労なのか。わからんが、その旨も引っさげてまたヘッドスパに行こう。趣味的なことが一つ見つかってわりと嬉しい。
_01/09

 

 


21時くらいまでなかなかやる気がでないという日。鬱のような種類のやる気のなさではなく、覇気がなくもなく、ただ、やる気スイッチが異常に硬いという日。だったらと、なんなら予定タスクをしなくとも別に明日やって差し支えはないし、叱る人もいない。

しかし予定を進行させないと気持ちがよろしくなくなるのは明白なので、ぼちぼちやりつつ夜、激辛ラーメン定食を作って食うと21時にやる気が出る。そのまま一気にやるべきタスクを全てこなす。

しかし、ツケは当然まわってくる。1日が後ろ倒しになり、現在26時半である。俺はこれを人生にスライドさせた。

「しかるべきタイミングでやっておけば」ということを気分所以で後回しにするとどんどん歳をとる。そして、「あの歳頃でやっておけば…」と、後悔するだろう。

いや、すでに少しだけ後悔しているのかもしれない。今の俺の暮らし方は30代前半くらいにしておき、現在ではいわゆる次のステップ的なところに行きたかった気がせんでもない。しかしそれはパラレルワールドというもの。

だから悔やんでも仕方ないので、とりあえずそこに気づいて今日1日やることやったからよしとする。今をちゃんとやっていれば悔いという感情とは縁遠くなるだろう。時間の経過というのはまこと残酷。
_01/10

 

 


二発目の緊急事態宣言が出たので現実を見に繁華街へパトロールしに行く。「あの店、営業してけつかる。通報しよ」という目的は毛頭ない。

飲食店に対し「20時まで時短営業」という、正直わけのわからないコンセプト含みの要請が出されたからである。実際、現場はどうなっているのか。

「赤羽一番街」「一番街シルクロード」など、世間のイメージ通りの赤羽の呑み屋が連なる地区へ行く。「とはいえ、わりと営業しているお店の方が多いだろう」と思っていた。

20時過ぎ、界隈を一通り歩くと、閉ざされたシャッターが非常に目立つ。しかし帰路、タレコミのようになるのが嫌なので詳細は伏せるが、報道と実態とではけっこうな差があったことも実際にいくつも確かめた。少なくともこの界隈では。

「きっと、お上もお店もお客さんも、みんな正解がわからないんだろう」と、思いながら帰宅。俺にもわからない。

もう誰もが何を信じていいのかわからない状態なのではないかと思った。少なくとも手前はそうである。ニュースや報道をそのまま受け止めることに、どこかもどかしさをおぼえているので、実際にこの目で確かめないことにはという理由で、パトロールという不要不急の行動に出た。きっとこの行為すら「バカじゃねえのか?」と思う人もいると思われる。

ウイルス感染症拡大を防ぐ行動や判断をするのは正しいのだろうが、その行動や判断を、「正直わかっていない」という何者かに委ねて大丈夫なものなのだろうか。

だからといって身勝手な行動はよろしくないのだろう。「この時期の身勝手な行動」というライン引きがもう、とても難しい。

こういう時は黙って世間の動きに合わせるのがいいのだろうか。わからない。とりあえず、呑み屋街や飲食店に携わる方々の辛さをお察しする。医療現場の大変さを想像する。この時期の、みんなで力を合わせるということの難しさたるや。
01/11

 

 


今月に入り、出向案件が少なくほぼ宅に居る。案件はある、しかしこれが予定通り今日済んだら、来週まで案件がない。これはどうしたものか。とか思っていたら案件受注の連絡を受け一安心。

それにしても今年に入り、まともに対面で人とコミュニケーションをとっておらん日が多すぎる。寂しい。とか思っていたら足立くんがやってくる。服とか靴とか色々くれてとても嬉しい。

近場に一緒にラーメンを食べに行き(奢ってもらう)、帰宅してコーヒーを飲みながら音のミックス・テクニックを教えてもらったりする。9割出来ていた着手中の楽曲のサウンドがさらにカッコよろしくなる。

「そう! こういう感じにしたかったんよ!」

「ね? こうすると生っぽくなるでしょ? この部分、ニルヴァーナみたいだな(笑)」

「確かに、着想としてはウィーザーとかフー・ファイターズ的な生っぽい2000年代USギターロックサウンドを意識した曲でな!」

特にドラムパート。ガチのドラマーでもある彼は「本物のドラムの音」をよく知っているということもあり、「ドラムの呼吸」とも言える倍音や、部屋鳴りなど、そういった非常に細かいが重要な部分すら音として具現化するテクニックを教えてくれる。とても嬉しい。

今日を総括すると、原稿やって制作をして、というよくある1日なのだが、直接各人が関わるだけでこうも潤いが違うのかと改めて思う。

そこで俺は考えた。近所の孤独死しそうな高齢者をコミュニケーションで癒すというビジネスはどうだろうかと。アラフォーの俺ですら孤独な日が連なると「あな寂しや」という気持ちになるのだから、一人暮らしの老人などさらに倍プッシュクラスであろう。

数人に「出資しようか?」と、何故か喜んで資金を出してくれる話を持ちかけてくれるという夢を昨夜見た。

そういうことなのだろうか、とも思った。手前は人一倍、寝てみる夢の内容をアナライズして、それに意識として応じることを大切にしている。

「これからの自分の行動を示唆する内容」や「予知夢」的な夢をまあまあたまに見る。2019年の初夢は、会社を辞めてフリーになることをサイケデリックな描写で表した内容だった。

確かその年の元旦明けの1月2日の日記に記した気がするので見返してみると、「年の初めの無意識の宣言、あるいは神の啓示すら含んでいる神聖なスタートアップ現象」などとほざいてあった。

しかし、それは本当に、その年を象徴する夢の内容だった。現に、同年春に思い切った行動に、側から見たら自殺行為にも近い行動に出て、今のところ「本当に正解だった」と、言える。

今年の初夢はというと、「家族」にまつわるハートウォーミングな内容だった。さらに、その類の夢を4日連続で見て「これは精神が逝ったもよう」とも思った。いいや、“神の啓示すら含んでいる神聖なスタートアップ現象”だろうか。何がスタートアップだ。とも思うが、「人との関わりをより大切に思う今日この頃を鑑みるとあながち」と、捉えられる。

なんにせよ、今日の新たなことをする行動や発想、そして新たな手法を教えていただくという体験などは、前に進んでいる感覚があってとても嬉しい。そしてその感覚は、人との関わり所以。「人と関わりたくない」とか思いながらパチスロばかり打っていた20代の頃が懐かしくも、当時の手前を素手で引っ叩いてやりたい。
_01/12

 

 


若いインド人の兄ちゃんとランニングをしながら延々とマントラを唱えるという地獄絵図のような夢を見る。さすがに何を示唆しているのかさっぱりわからん。というかこの夢をアナライズする気にもならなかったので起床。昼過ぎという体たらく。

今日はコラム原稿を書く。いつもは2、3時間というのが平均的なのだがなぜか手こずり4時間以上かかる。

これは疲れか、また頭皮がカチカチに硬くなってきたが所以か、それともあれか、休んでキャッキャと遊ばないから脳とアウトプットの連携がおかしくなってきたか、諸説思い浮かんだが、どれもあるなと思う。

原稿を提出し、アコースティックギターの練習をする。アコギの練習は延々とマントラを唱えるクラスの修行的なテイストもあり、好きである。

興行予定の案件の曲の練習をちゃんとやり、なんとなく他のJ-POPでも弾いてみるかなという気分になる。

秒で思い浮かんだ楽曲は「POISON ~言いたい事も言えないこんな世の中は~」であった。アラフォーならきっとほとんどの人が知っている反町隆史さん with 何故かリッチー・サンボラ(ボンジョヴィのギタリスト)の名曲である。

歌い出しにはこうある。

<いつまでも信じていたい 最後まで思い続けたい 自分は生きる意味があるはずだ>と。

いいこと言うじゃないかと、作詞者を調べると反町隆史さんであった。

「反町さん、いいじゃないか……!」と思い、さらに読み進めるとサビには伝家の宝刀――。

<言いたい事も言えないこんな世の中じゃ POISON>とある。

「本当、それだよな」と思い、全部読んでみる。

<ちいさな夢も見れないこんな世の中じゃ POISON>
<汚い嘘や言葉で操られたくない POISON>

と、ある。「最高じゃないか、反町さん」と思い、〆を読む。

<まっすぐ向き合う現実(いま)に 誇りを持つために 戦うことも必要なのさ>

と、締めくくられていた。俺の中で反町さんの株は爆上がりした。この歌詞こそ、現代にふさわしい。大声で、あの低音のお声で、あの時代のヘアスタイルで、今、歌ってくれ。そう心底思った。なお、コード進行はめちゃめちゃシンプルであった。それがまたいい。

“――こんな世の中じゃ”という体言止めで、“POISON”という粋な終止符を打つ。このセンスは反町さん、唯一無二じゃないかと感銘を受ける。

歌詞の内容をアナライズするのは野暮かなと思うのが正直なところだが、この“ POISON”の使い方だけは見逃せない。

当時はなんとなくこの“POISON”という部分を「ポイズンッ!」という感じで、若干笑いのネタにしている風潮があったのは、リリース時の1998年を思い返すと否定できない。

今読むと、当然笑うところではない。泣くところである。奮い立つ場面である。そう言い切りたい。今、地上波で流しまくるべきこそはこの楽曲なのではと、俺は声を大にして言いたい。

しかし、きっとみんな共感してくれないかもしれない。そもそもこの楽曲がラジオやTVで真面目に流れるタイミングかと言ったら非現実的かもしれない。

手前の脳内反町さんはこう言う。

「そういう気持ちの時こそ堪えるべきじゃないのさ POISON」と。

「そうですよね! ところで、“POISON”という部分は、『それじゃ体に毒だぜ?』という解釈で合っておりますか?」

と、問う。すると――。

「言いたい事も言えないこんな世の中じゃ POISON」

と、力で押してくる。そう、この一節に全てが込められている。さらに、その文脈まで汲むと、このフレーズのパワーはいくらでもブーストされる。

<冷めた目で笑いかけてる 魂を侵された奴 涙を流す痛みはあるのかい?>

という節もある。もう、歌詞として完璧である。俺はこれから迷いが生じた時、マントラの如くこの歌を唱えたい。

そして、マーシャルのキャビネットを30台くらい重ねたトレーラーで国会議事堂正面に行き、この楽曲のあの素晴らしいイントロのギターリフをストラトキャスターで爆音で弾き、拡声器2台持ちでこの楽曲の各フレーズを唱えたい。

その不要不急の行為に何の意味があるのか。それは、やらないとわからないだろう。やらなくてもわかることは、実行したら高確率で即現行犯逮捕、情状酌量の余地無し、前科もないのに実刑を食らう。そして反町さんのお顔に泥を塗ってしまう、ということくらいだろうか。こんな素晴らしい歌詞を書く方に迷惑をかけるわけにはいかない。

23年前のこの楽曲に何故たどり着いたかというと、夢の中のあのインド人の兄ちゃんのみぞ知る領域。関連性は、多分ないのかもしれないが――あまり深く考えると、POISON。
_01/13

 

 


「ファイナンシャルプランナー」が色々と相談に乗ってくるという予約の日だったので池袋へ。

手前はとにかく資金運用やらなんやらという点に関してとんと疎いので、「無料相談」というのをしてくれるというのを昨年秋あたりに何かのついでで店頭で申し込んだ気がする。

同年代くらいの女性のファイナンシャルプランナーの方は色々と「金にまつわること」を教えてくれた。

「今日はどういった内容がお知りになられたいのでしょうか?」

「はあ、とりあえず『手元にある金を銀行に入れておくだけなのはアホの子だ』的なことを知り合いに、もうちょい優しい言い方でのご指摘を賜りまして」

「合ってますよぉ……!」

「やはりそうなのですね。では、アホの子に知恵を頂けないでしょうか。たとえば、生活費等とは別に、例えば100万円の資金があったらどうしたら潤うでしょう?」

そこから「国債」やら「インフラ」だの「日経平均株価」や「ダウ」、「複利」そして「資金分散」など、果てはドルコスト平均法という聞いたことのないフレーズがバンバン出てくる。しかし、ファイナンシャルプランナーさんはそれら全てを説明してくれ、俺はちゃんとそれなりに理解した。

「僕は元・ギャンブラーで借金地獄を味わったことがあるので“複利”の破壊力は存じております!」

「まあ……!」

「要は、その複利的な仕組みをプラスの方向に持っていく方法があるのですね?」

「あります!」

そこからiDeCoだの投資だの株式だのと、アホの子にもわかる感じでよくご説明して頂いた。しかし、半分はもう忘れた。

一つわかったことは、俺は知らないだけでけっこう損をしているということ。ファイナンシャルプランナーさんが勧めてきたドルコストだかなんだかについてもうちょい調べてみようと思った。資産運用についての知識をもっとつけようという気になった。

帰宅し、ネットで“ドルコスト平均法”というワードで検索をする。ものの5分くらいで音を上げてめしの時間とする。蕎麦森さんがくれた蕎麦がやたらと美味しい。そして平均株価ではない方のダウ(DAW)を開いて制作をする。気がつけば深夜。

とはいえ、国債やらなんちゃらの各用語の概要をいくつも理解し、昨日までよりは相当基礎知識がついたので今は手打ちとする。

周囲にこういったことに関してやたら詳しい人を数人知っている。基礎知識を備えた上で今度色々聞いてみよう。いや、それは他力本願というものだろうか。

とにかく、資産運用関係の話は手前にとってはたいへんむつかしかった。とりあえずシンプルに稼ぐために頑張っていこう。「金が余って仕方ねえよ。これ、どうしたらいい?」というレベルに行くまで精を出していこう。きっと話はそこからであろうも。
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板橋区の病院へ行く。用事は父親の入院費の支払いである。振込手数料を加味すると直接行った方が損ではない、そして、医療機関が今どんな現状なのかを確かめるべく、そういった2つの理由があり、わざわざバスに乗って行く。

友達がくれた革ジャンを着てギターウルフな気分で出かける。とても温かい。「そういえば俺が小さい頃、親父も革ジャンをよく着ていたな」とか回顧しつつ、なんとなく手前の革ジャン姿を見てもらいたいという子供のような気持ちにもなるが、世間の状況的に今は面会謝絶である。

だから病院へ着いてもフロントで金を払い、それだけで用は済んだ。金払い関係の担当の方に「息子が来た、ということだけ伝えてやってもらえんでしょうか」と伝達し、帰る。その言葉を聞いて理解できる脳細胞が残っているかどうかは知らん。アルツハイマー型認知症を直す方法はいまだない。

直接病室のフロアには行けなかったが、ロビーはガラガラであった。そして、奥の医療従事者がたくさんいる部屋からはわりと和やかな空気が漏れていた。

どうも報道と様子が違うなと思った。医療崩壊寸前で大忙し、ロビーは人でごったがえしているかと想像していたが、真逆だったというのがリアルな光景。少なくとも、板橋区のこのわりとでかい病院は、なんというかいつも通りの空気が流れていた。

帰宅して延々と制作をする。生演奏系のダンスミュージックを作る。この、完成系が見えるまでの過程、コードや楽曲構成、リズムの組み立て、それらができて楽譜に起こし、あとは肉付けをしていく工程、そこまでたどり着くまでのなんともいえないエネルギーの摩耗感がとても好きだ。

革ジャンも着ているうちにいい具合に摩耗し、味が出てくる。時間の経過と共に、だんだんと仕上がっていい感じになっていく。音楽も、人間もそうなのだろうか。
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春先のような暖かさの日。しかし、明日は今日よりも10度も気温が下がると気象庁は言う。

1日で温度差10度以上。一番やめてほしいパターンである。なぜかというと、人によっては、俺もそうだが、日が変わって気温が一定以上の差が生じるだけでメンタル的なコンディションが崩れがちだからである。

一説によると、気温差と抑鬱の症状には関連性があるという。気温が急に変わっただけでヘコむ人もいる、ということである。「そこは頑張れよ」と言いたくなる人だって当然いるだろうが、鬱気のある人間に一番言ってはいけない類のセリフがそれである。

理由は諸説あるが、鬱な人間とそうでない人間の温度差が源流にあると俺は思う。「これ以上頑張れん」という暮らしをしていた結果、鬱になった人に「頑張れや」というのは、傷に粗塩をジリジリと奥底まで塗りこみ、そのまま縫合するようなものであろう。

少数かもしれないが、明日はきっといつもより元気がない人がまあまあいると思う。そういう人と接する時、どうすればいいか。温かい目でそっと見守るのがベストだろうか。

当人の言動や行動を肯定も否定もせず、ただ傾聴し、不安材料と感じていることに対しての歪んだ認識を「きっとそうじゃないから、たぶん大丈夫だよ」と、言ってあげるのがベストだろうか。

俺は精神科医ではないから正解はわからない。一つ言えることは、当人の領域を侵さない間合いで、「自分は君の味方である」ということをふんわりと伝えることだろうか。

対人関係において温度差を感じた場合、合わせるのも大事だろうが、その温度差を見極めるということも大切なのかなと思った。

天気予報みたいに、相手の温度が数値化され、可視化できれば、どれだけ人間関係がスムーズになるだろうと考えたが、ニコニコと対応してくれている人の感情温度が「マイナス30度」とか見えてしまったら、それはそれでなんか怖い。逆も怖い。人間の感情や精神状態の平熱たるや。
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言うほど気温も下がらなかったので元気に過ごす。デスクワークに制作と、ずっと宅でコツコツ暮らす。

合間に本屋へ行こうと街へ出ると、2回目の緊急事態宣言は空気みたいな扱いを感じるくらい普段通り人で賑わっている。さすがに立ち呑み屋のお客さんが少ないくらいである。

漫画を買って帰宅し、家でめしを食ってまた机で過ごす。今月に入ってこんなに出向する案件が少なくて大丈夫かと心配になる。

時間はあるのだからオンライン賭け麻雀にでも手を出そうかとふと頭をよぎったがそれはいかん。ここはどれだけコツコツと先々の所得のための作業がどれだけできるかが優先と判断し、蓄えのためのタスクをひたすらやる日々。
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高校生2年生の頃、ベッドから起きようとした時に、その頃ハマっていたこと全てに対する興味も意欲も一斉に波を引くように失せ、「この先なんのために生きれば」という気分に襲われたことがあった。

それは非常に新鮮な体験というか心情だった。だがしかし、学校へ行く必要があるのでチャリに乗り、途中で「やっぱ行きたくねえ」とか思って道中で微糖の缶コーヒーを自販機でガコンと買い、公園にチャリを止め、当時250円くらいだった「LARK」をモクモクと吸い吐きしては、「そろそろ行くか」と、少しだけ登校する気が起きた、ということを思い出した。

10時半あたりだっただろうか、3時間目くらいに登校して5分だか10分休みの頃合いに教室に行くと、クラスメートの近藤くんという坊主頭の野球部員に「こらっ! 平吉またお前!」と、笑顔で冷やかし交じりに叱られた。それがなんか嬉しかった。彼は、「遅刻はよくない」と、ちゃんとほどよい距離感で教えてくれるのであった。

どちらかというと明らかにクラスから浮いていた俺は、そんな風に自然にイジってくれる存在が1人いたということを認識するだけでとても嬉しかった。

客観的視点だが、高校時代の手前はというと、浮いているとはいえ、わかりやすいヤンキー(当時はチーマーとも呼称)や、いじめられっ子という感じの浮き方ではなく、ただシンプルに浮いていた。そんな奴が遅刻してしれっとしたツラで教室に入ってきても放っておけばいいのに挨拶してくれる近藤くんは今、何をしているだろう。

そんなことを思い出すくらい、今日は起床時、覇気がなかった。昼一で出向案件がひとつ。道中で一服しながら遅刻、というわけにはいかない。「こらっ! 平吉またお前!」で済むとは思えない。だから普通に、むしろ早めに着くくらいの時間で向かい、その後もいつくか仕事をして1日が閉じた。

そういう過ごし方ができるようになったのは、高校生の頃わからなかった「この先なんのために生きれば」というのが、朧げにもわかってきたからかもしれない。「なんのために生きればいいか」という疑問の答えを、今、日々おこないながら過ごしているからなのかもしれない。

原稿を書いたり、音楽を作ったり、楽器を弾いたり、人と触れ合ったり、夜な夜なしみじみ一人で酒をすすったりと。「お前はこれらのために生きているのか?」と自問すると、答えはほぼイエス。そして、「もちろんほかにもある。それはこれからやっていくんだぜ!」というポジティブなものであった。

あの時期、近藤くんが、ああいった接し方をしてくれなければ、俺はこういった前向きな思考にたどりつけなかったかもしれない。と考えるとちとおおげさ。しかし、浮いているクラスメイトに笑顔で声をかけるという行為は、今考えるとたぶん人間愛所以。それにしても高校の同窓会のお誘いが一度たりとも来たことがないのは何故だろう。
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昼、原稿をやり、夕方はリモート案件がひとつ。夜めしに池森蕎麦を茹でて食べ、そのあとは興行の演奏練習したり制作したりという1日。

相当深夜まで行ったので今日は酒も呑まずにスヤスヤと寝ようと思う。朝日が照る前に寝ようと思う。

俺は夜明けのあのなんともいえない、なぜか絶望感を感じる時間帯が苦手で仕方ない。チュンチュン聞こえる前に寝よう。
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たいへん短時間睡眠で起床。ところが昨夜は酒を抜いたせいか、深夜まで仕事をしていた達成感が起因か、とても健やかな目覚め。そして心なしかツラもスッキリしている。

どうやら日々の飲酒の代謝にだいぶ肝臓と腎臓を働かせていたのかと、肚に向かって謝罪もしたくなる。しかし、どうもそこが原因とはあまり思わない。ただの気分の波のような気がしてならない。いずれにせよ、朝から整った気分を引っさげ、案件で外苑前へ。

帰宅していくつかタスクをスススと進める。体が軽い。最近どう考えても疲労が溜まっている、どうすればよいのかと思っていたが、多量とまではいかずとも酒の呑みすぎが原因説は否定できない。

しかし否定したいので酒を2杯ぶん買ってきて呑もう。買ってまだ読んでいなかった『善悪の屑』を読もう。そんなささやかな休憩があるだけでも日中はハリがあった。もうちょっとなんかあるだろうとも思うが。
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手前は善か悪か屑かどれかと考える。「善」は心がけているが、どうも心底「善」という気性でもない気がする。

「悪」かというと、確かに軽度のルール違反やらに関しては躊躇ないという悪いところがある自覚がある。しかし、決定的な悪、すなわち犯罪指定行為はしないようにしている。よって、「悪」とは言い切れない気がする。

では「屑」か。これまでの人生で「俺はなんて弱くて、なんというクズ野郎なのであろうか」と、自己否定ばかりしていた時期は確かにあった。けっこうあった。当然、今だって弱い部分はある。しかし、塵、芥、屑とまではいかない気がする。

すると「普通」だろうか。この「普通」というのがとても厄介だ。なぜかと言うと、時期や時代によってこの概念がコロコロ変わるからである。

ただ、「普通でいよう」とはあまり思わないきらいがある。しかし「エキセントリックに逸脱しよう」と、振り切ってもいない。要は、フワッとしている。

俺は、フワフワしている。と表すと、なんだか可愛げがあっていいじゃないかと思うがそれでいいのかとも思う。

「あいつ? ああ、フワフワした奴だよ」

などと他者に言い表せられたら、なんだか定職に就かないプータローを指しているようにも捉えられる気がするから如何なものか。

時にキリッと、たまにフワッと、キツい時は助けを乞い、にこやかに無償で与え、行く時はズドンと、という感じが人間味があって良いのだろうか。臨機応変かつ芯はどっしりした漢でいたいものである。
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めしを食っていて思った。無言で、ラジオを聴き、考え事をしながら、台所の直前でスタンディング・スタイルで食事を、というのがいつもの食事姿勢なのだが、座ってテレビでも観ながら食うというのもよいかもしれないと。

宅でテレビを観ない生活はかれこれ13年くらいになるだろうか。テレビを観ながらめしを食うというスタイルの最後の頃は、レイザーラモンHGさんが「セイッ!」などと言っては世間を楽しませてくれていた頃。『オーラの泉』が深夜枠で放送されていた頃。大昔であろうか。

テレビの影響力というのは凄まじい。苫米地英人さんだったか誰だったかは、「テレビは洗脳装置」と言い切っていた。ちょっとあると思う。

「全然、全然!」という言い回しをする人が最近多いなと思った。最初このフレーズを直接人から聞いた時は「この人の口癖だなこれは」と、思ったのだが、けっこう色んな人が謙虚になるようなシーンで「全然、全然!」と、よく言うので、これは個人の口癖ではなく、世間的に流行っている言い回しなのだなと思った。

その源流に対して意識していた。YouTubeで、最近放映されたテレビ番組の切り抜きチャンネル的なものを観ると、「全然、全然!」という言い回しが散見された。恐らくだが、テレビが源流ではないかと考えられる。

たぶん、誰かがテレビで最初に「全然、全然!」と、言い出し、使い回しが便利なこのフレーズは全国に広まったのだろう。という憶測。

俺も世間に馴染もうと思い、「全然、全然!」という言い回しを使おうと思ったが、どのタイミングで使えばいいかわからない。

たぶん、あからさまに褒められたり持ち上げたりされた時が最も有効なタイミングであろう。しかし、手前は、他者が何かを褒めてくれた場合、「全然、全然!」という感情にはならないので普通に感謝の意を伝える。「本当ですか! いやあ、嬉しいですねぇ!」と。

謙虚が美徳。「全然、全然!」という汎用性の高い美徳フレーズ。しかし、使うタイミングが難しい。そう思う手前――すなわち俺は謙虚ではないのだろうか。

と、台所で立ってめしを食いながら考えた。こういうややこしい思考が面倒だからテレビでも買ってそいつを観ながら食事をした方が健全であろうか。「全然、全然!」と、誰かに言ってほしい。その場合の「全然、全然!」は、ちょっと意図がよくわからないかもしれないが。
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新宿へ行く。とても寒い日。明日は都内でも降雪という報道。ということはもっと寒くなるのだろうか。

だいたい「都内近郊でも大雪の恐れ」というニュースがドンと出ると、翌日は実際そうでもない、なんなら小雨程度ということが多い気がしてならない。

お天道様の機嫌ばかりは人間には計り知れんと思うが、気象庁のスパコンが割り出す予報は、ほぼ確で的中する。

ということは明日は高確率で東京は雪。明日向かう先、新宿歌舞伎町も雪。正直、雪が降ったところでそこまで困らないが、シンプルに寒がりたくない。

とはいえ、降ったら降ったで新鮮さはあるので、いずれにせよ張り切って行こうと思う。雪が降ってハイテンションになった子供の頃の、あのピュアな心境を思い出した方がいいのかもしれない。しかし、雪が降ってハイになるアラフォーというのは、どうだろう。
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結局は粉雪すら降らずという天候の中、新宿歌舞伎町へ。アコースティックギターをたくさん弾いてみなさんと楽しく過ごす。

とても健やかで張りのある1日。うんうんと、何かが喉に引っかかったような思考を紐解こうというような心情にもならないスッキリした日。音楽は体と精神にとても良い作用をすることこの上ない。良日を取り込んで蓋をするように、ぐっすりと眠ろう。
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昨日までの9日間、わりといそいそとしていたが、今日あたりは時間軸的にはゆるりとした予定につき、まったりしたツラでコーヒーを淹れる。

最近は「アメリカン」のコーヒー粉を濃い目に淹れるとなんともハイレベルな美味さになるということに気がついた。どんなに冷めても、どんなに時間をおいても、美味しいままなのである。理由はちょっとわからないしさほど興味もない。偶発的に見つけた奇跡ということにしている。

宅でいくつかやることをやり、20時前にはやりおおし、チャンスと思い外にめしを食いに行く。緊急事態宣言により、最近はしばらく夜めしは自炊もしくはスーパーの安い弁当だったので外食の味に飢えていた。

日高屋という中華チェーン店へ行きニラレバ定食をたいらげる。バカみたいに胡椒を散布し、辛がりながらワシワシとたいらげる。

書店で最近の注目書籍でもチェックしようと思ったが、飲食店でもないのに20 時に閉店しておる。仕方ないと思いブックオフ的な書店へ行き、シリアスで若干の劇画タッチで俺好みの画風の『BABEL』という漫画を1冊立ち読み、2巻以降がなかったのでこれは買わず、『ハンチョウ』と『働かないふたり』というゆる目のやつを1冊づつ購入。

なんとゆとりのある時間だと思いつつ、とはいえ真面目なことがしたくなったので帰宅してDAWを開き作業する。今作りかけの曲は、「スティーヴィー・ワンダーさんを彷彿とさせるようなグルーヴィーなソウル系ダンスミュージック」というモチーフだったのだが、どんどんジャミロクワイみたいになってくる。

“ファッキン・スティーヴィー・ワンダー”と、呼ばれただか、自称したか、揶揄されたか、いずれかなのかは忘れたが、1990年代に読んだ音楽誌のジャミロクワイのジェイケイさんのインタビューか、もしくはCDのライナーノーツにそう書いてあったことを思い出した。

そう、スティーヴィー・ワンダーさんをリスペクトした感じの和音構成、アレンジに、速めの4つ打ちビートを走らせると、どういうわけかジャミロクワイ的になる。もっと言うとアシッド・ジャズ的になる。J-POP界で言うと――ネタばらしみたいになるからやめておこう。

そういったことは知識としては知っていたが、実際作ってみると非常に楽しい。ほぼ生音生演奏でこういったダンスミュージックを作っていると、近年のダンスミュージックとしては逆に新鮮だなとか思いながら、裏でリズムをとりつつシェイカーを振って録音しているうちに1日が閉じる。

明日も今日のような時間軸の予定なので、そして最近よく稼働していたので、ゆるい漫画とグルーヴ感のある酒を呑んでラリって寝くさろう。
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やや暖かい気候。あと3カ月もすればすっかり春になり、虫たちは冬眠から目覚め、草たちは土から新緑をせり上げ、花たちはここぞとばかりに咲き乱れる。

それは、冬に冬らしく冬にすべきことをしてじっと過ごし、せっせと力を蓄え、ここぞというタイミングで世に向かうのであろう。

きっと、今の時期に就活などをしているフレッシュな若人たちもそうだろう。みんなせっせと冬に頑張っては、春に芽生え、社会の理不尽な荒波に揉まれつつ、人によっては鍛えられ、成長し、のし上がっていく。人によってはメンタルがやられて、さっさと社会的に死ぬ。時には、現に死ぬ。

そんなことを考えながら手前もせっせと蓄えのため、生きて活動するため仕事やらに精を出す。不本意に死なないように、生きて何かしらをし続ける。

こういった愚にもつかない死生観のようなことを綴る心境の時は、決まって遊びが足りていないことが起因というのがだんだんわかってきた。

だから、バカ丸出しの遊びがしたい。これがなかなか難しい。これくらいの年齢になってくると、バカ的な行為に対しては理性が能動的衝動に勝ってしまう。それでいいのだが、それができないようになってしまったということを自覚すると、どこか侘しい。

土から出たばかりの虫のように、咲きたての花のように、完全フリーダムな気持ちで精神を大開放オープンスタートさせたい。そう、頭で考えている時点で、心が凝り固まっている。酒で溶かそう。酒もいいのだが、もうちょい他の方法はないものだろうか。精神の解放、確率変動スタートのフラグ。
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最近5日ほど、7時間半くらいとほぼ同一の睡眠時間で過ごす。俺の満足睡眠時間はインド人の平均睡眠時間と同じくらいの9時間半なのだが、どういうわけか寝不足とも感じず健やか。これは確率変動の類かもしれない。

睡眠に確変もクソもねえもんだと思いながら仕事をする。陽が高いうちは原稿をやって制作をする。夜は村上氏がおこなうギターレッスンの見学に誘われたので冷やかしに行く。

とはいえ、生徒さんは以前よりも上達しているという所感だったので2時間くらい過ごしてさっさと帰宅する。

帰りのバスで「今年は、この先どうなるものやら」と、着座して腕を組んで考える。鹿浜橋から見える豊島五丁目団地が絶景。

「現状維持」「変化」「アイデンティティ・クライシス(自己同一性の喪失)」「野心」「家族」などなどをテーマに色々考えるうちに眠くなってきたので寝る。

起きると宅付近のバス停。起きて思ったのが、寝ているうちに考えが整ったのだろうか、結論は「今、やるべきだと思うことを地道にやろう」という、至極シンプルなものであった。

常にやるべきことをやって発信なりしていれば、「ああ、彼はこういうことをしてるのね」「彼はこういうのはこれくらい出来るわけね」と、認識してもらえ、人間関係も仕事関係もきっと広がる。基本的に、ベースはここなのだろうと改めて思った。

だからさっさと、いま手前がやるべきことをやろうと思い、コンビニの立ち読みを我慢して、帰ってデスクワークをする。

「変に真面目な奴やのう。さっさと〆にしてガブガブ酒呑もうぜ」

という声が聞こえる。「あとでね」と、答える。

「雀荘いこうぜ。もうそろそろ解禁しましょう。我慢は毒です」

という声が聞こえる。「あとでね。それは老後の楽しみな」と、答える。

「だったら酒呑むひとときも作業時間に充てなさいや。生産性が上がるし健康にもよろしいわよ」

という声が聞こえる。「それは譲れん」と、答える。そういったわけで今日もやることやったので酒買いに行こう。

たまには聞いたことのない品種のブドウのワインでも呑んでやろうか。「ネッビオーロ」という人をおちょくるような語感のブドウ品種のワインはまだ呑んだことがない。西友に売っているだろうか。
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2012年1月中旬、友達に「BGMを作る仕事があるから、とりあえずハウスっぽいの3曲作ってくんない!?」と、言われた。ハウスとは広義的に4つ打ちのダンスミュージックを指すジャンル名。

俺はその頃、バンドをすっかり諦めて、ギターを弾く頻度の替わりにDTMでエレクトロミュージックをよく作っていた。エイフェックス・ツインやオウテカなど、主にWarpレコードというレーベルのえぐいエレクトロにハマっていた時期。

それもあり、音楽に対するリソースは、作曲や編曲、ミックスなどに大きく割いていた。あの頃はWindowsのOSで、CubaseというDAWを使っていた気がする。今は両方とも全く違うのを使っているが。

指定の3曲は1週間で完成した。そのうちの1曲「After Midnight」という楽曲はおしゃれな3コード循環のシンプルなピアノメインの曲。作っている最中、当時交際していた若い娘に「ねえこれ聴いて。あと何を足せばいいと思う?」と聞き、「いや、もう出来てるじゃん?」と、言われ、そうなのかと納得してファイナライズしたことをよく覚えている。

そして3曲完成し、「出来たよ」と報告したら、「ごめんケンちゃん! 企画ごとポシャッちゃったみたい!」と言われ、「わお!」ということで、しばらく寝かせていた。

そして翌年、フリーBGMという用途のもとで楽曲をインターネット上のプラットフォームに委託し、金を得るという方法を知った。生き場所を逸した「After Midnight」はそこに置いてある。

深夜酔っ払いながらYouTubeを観ているとちょいちょいねじ込まれてくるウェブCM。昨夜そこで「After Midnight」を耳にした。「ああ、俺の曲だな」という感想くらいだが、よくよく考えると9年も昔に作った曲が今こうして呼吸しているのだなと捉えると、楽曲が生きているように感じた。

そんなことを考えながら、今日も楽曲を作っていた。イメージを音楽にして、プラットフォームに委託し、誰かがダウンロードなり購入なり定額使用なりして、どこかで人様の耳に届く。手前に金も入ってくる。「こういう曲が作れる人なのね」という認識のもと、ご連絡や制作案件を頂いたりもする。知人に言わせると、俺の制作というタスクは、収益と営業を兼ねている行為だそうだ。

「ここで使いました。ありがとうございます」的な使用報告メールを受けると、シンプルに幸せな気持ちになる。たまに具体的な感想や応援の言葉などが添えてある時があり、それはそれは抱きしめたくなる。

そういったわけで、昔作った曲も、今作っている曲も、いつか、あるいはリアルタイム気味に、どこかで元気に流れてくれる。

なお、「After Midnight」という2012年に作った楽曲のタイトルはエリック・クラプトンの同名曲から丸パクリした。曲調は全く異なるが、もうそういう行為はやめとこうと思う。

とはいえ、ついこのあいだ上げた「Star Guitars」というオルタナ楽曲の曲名は、ケミカル・ブラザーズの「Star Guitar」からとった。もちろん曲調は全然違うが。タイトル名をつけるときのラフさだけは9年経っても進歩していないような。
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去年あたりからやろうとは思っていたが、なかなかやらずにいたウェブサイト更新をする。当サイトで定期的に更新している所といったらこの雑文コーナーくらいである。

基本的にこのサイトはネット上の店舗というか受付というか生業の紹介というか、基本的にウェブ上の本拠地的な感じなので、最新の音源等を更新しないのはいかがなものか。そう思いつつ約1年は経っていた。

フリー楽曲は他の大手プラットフォーム2箇所に委託しているので、このサイトにアップロードしなくとも大した影響はない。

しかし、最近作った曲が本拠地に並んでいないのはいかがなものかと思い、2020年から今月に至るまでに作った楽曲でいい感じのやつを20曲強「FREE MUSIC」のコーナーに追加アップロードした。

意外と時間がかかるなとか思いつつ3時間くらい作業。「俺にプログラミングの技術があれば、この作業は自動化できるはずだ」という発想はあるが、このサイトを構築する「PHP」というプログラミング言語については滅茶苦茶ほんの少しの知識しかない。そして「HTML」すら怪しい。

俺は教育としてプログラムを学びたかった。今は確か、義務教育でプログラミングの授業があるだかこれからそうなるだか、そんな話を聞いたことがある。

義務として学ぶのではなく、手前で自主的に今からでも学べばよいと思うが、どうも腰が重い。プログラムをイチから学ぶ時間があるのなら、そのリソースは楽曲制作や楽器練習、音楽の勉強に充てたい。言い訳ではなく本当にそう思う。

そんな輩向けに、この「WordPress」というようなソフトウェアがあるのだろう。こういった便利なものがなければ俺なんぞにホームページは作れない。

とか考えながらちゃんと当サイトの音楽的なコーナーを更新し、トップページやらも少し新しくして、すっきりとした気分で制作をする。そして1日は閉じた。

2013年6月にこのウェブサイトを作ってからもう7年近く経つ。初期衝動は確か、「自分が作った曲が誰でも聴ける場所を作りたい。手前の音源を撒きたい」というシンプルなものだった。

それから今日まで、よく育ったものだなと思う。初期の当サイトの狂気に満ちたサイケデリックなデザインが懐かしい。あの時は精神が本格的にどうかしていた。
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原稿を書いたり楽器の練習をしたり、不穏なオルタナティブロックを作ったりして過ごす。90年代は不穏なオルタナが普通に流行っていたが、どうも今はあまり世間的には人気がなさげである。

90年代という時代背景を鑑みると、どこかしら不穏や怒りといった空気感がけっこう風潮として滲んでいたからオルタナ的な音楽とマッチしていた気がする。故に流行っていたのだろうか。

しかし現代では不穏を通り越して行き先不透明すぎる不安感が起因なのか、不穏な音楽など聴きたくないというのが巷の気分なのだろうか。それは流行りもしないだろう。

俺はどんな時代でも、どんな風潮でも、どんな気分であっても、「不穏な音楽」が好きで仕方がない。ブリストルあたりのロックやダークアンビエント、ノイズ・シューゲイザーあたりのギターロックや、ナチュラルに精神に異常をきたした輩が作るエレクトロミュージックなど、いまだに好んで聴いている。

こう、手前の精神状態と波長が合うというか、そういう加減の好みだろうか。逆に言ったらパリピなやかましいEDMや常夏じみたトロピカルハウスなどは波長がどうも合わない。それらはそれで素敵な音楽なのだが。

好みの音楽で性格や人間性がある程度わかると何かで聞いた。確かにそうだと思う。理由としては、音楽には必ず好みがあり、どんなに素晴らしい曲でも「好みか否か」で判断される。それは、聴く者自身の波長と関連性があると考える。

現に、手前が好きなレディオ・ヘッドやエイフェックス・ツインやポーティス・ヘッドなどが好きな人物とは超高確率で仲良しになれる。そもそも波長が合っているから、ということだろうか。

「マッチングアプリ」というのがあるらしい。詳細はよく知らんが、要は男女を組み合わせるために色々と趣味嗜好や相手に求める希望条件などを提示し、合う者同士をくっつける。そんなところだろうか。

趣味嗜好に「好きな音楽、アーティストを具体的に3つ挙げる」という条件だけで、かなりの確率でマッチング成立すると思った。それくらい、音楽の好みと人間の相性には深い関連性があるという仮説。

だったら俺はレディオ・ヘッドとエイフェックス・ツインとポーティス・ヘッドが大好きな不穏な女子を探せばよいと相成る。これがなかなかいない。こういう偏った思考はもうやめたほうがいい。
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「これだけは他者に知られたくない」という、個人の秘密や隠し事。そういったものがあるかないかでだいぶ人としての艶が違うなと考えた。

その内容は、ドロドロのグチョグチョなほどよいと思われる。「理解し合える人」のみにしか開示しないような内容、例えば変態を通り越して病理と捉えられるほどの異常性癖の持ち主だったり、一般的には理解しがたい趣味に死ぬほど大金をつぎ込んだ挙句の借金まみれだったりと。

それらは、他者に喜ばれるものではないかもしれないが、そういったことなどは、どこか人間性の旨み成分のような部分がひっくり返った結晶とも捉えられる気がする。

手前にそういった面があるかなと考えた。「実は自分では普通だと思っている」ということが、相手によっては思い切り引かれるということはありがち。

古谷実さんの著書に、「ほらぁ! カラスの頭がこんなにいっぱい!」と、どうだと言わんばかりに無邪気な笑顔で、引き出しの中に1ダースほど並んだカラスの頭を他人に見せるというシーンがあった。ああいうのである。

現にそういった人間がいたらそれはサイコ野郎の一言で済むわけであるが、その妙な癖(ヘキ)があるか否か。ない人の方が多いと思われる。

手前はどうだったか、今どうかと、改めて考えた。あるような、ないような、自覚していないような、なかったら自分というのはたいへんつまらない人間なのではないかと、「これでいいのだろうか」という気分になってきた。

まだ自身で気づいていない特殊なヘキがあったとして、明日、それに気づいたとしよう。されど生きるエネルギーが増幅することは明らかである。「そうか、俺の本性はこれだ!」というクラスかもしれない。

何が言いたいかというと、満たされているといえば、そういった暮らしをしている気もするが、実は自身の核となる、開けてはいけない危険な箱の存在に気づいていない人というのは一定数いるのではないかということ。

手前の、ドロドロのグチョグチョな部分は、どこなのだろう。ないはずは、ない。一つあったが、封印してしまっている。他にもないものかという妙な欲求。
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