12/2020

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
未曾有の2020年を強引に乗り切る。12月


師走第一日、案件で市ヶ谷へ。現地でカタカタと仕事をして夕方に赤羽へ戻る。駅東口構内の天丼チェーン店でめしとする。天丼に備え付けのタレをかけまくって食う。こんなに美味しいのが550円だなんて何だか申し訳ない。

天丼を食った直後に「申し訳ない。生きていて申し訳ない」「生まれてすみません」などと、メンヘラな気分になるはずもなく気持ちよく帰宅。溜まっていた疲労が漏れたのか、ソファに座ると睡眠へとなだれ込む。

先月は頭からケツまでいそいそとしていた気がする。おととい、今日あたりでその山場を超えたと判断し、それが自律神経にうまい具合に伝わったようで仕事場でグウグウ寝くさる。90分が経ち我に返り別件の原稿をやる。

やることやったので今日も酒はうまかろうと思う。12月に入った本日、今年を振り返ると「ステイホーム期間」という歴史的に見ても変な時期があったこともあり、酒の量が微増した気がする。本当に微々たる増え方だが。基本的には2杯である。

アルコール摂取量がやや増えたのではとはいえ、どういうわけかその期間の前よりも体調・覇気・精神状態と、これらの三つ巴は良好そのものである。

どうやら境地に達したのかもしれない。アルコールという成分が入る状態がデフォルト、すなわち“酒は魂の栄養”と、体が認識するところまでいったのかもしれない。捉え方によっては立派なアル中だが、普段は夜の2時間くらいしか呑んでないからそうでもないだろうと思う。

飲酒時はぜんぜん申し訳ない気分にはならない。もし、飲酒に対して申し訳ないだの罪悪感をおぼえるようになったら、それは本気でアルコール依存症の初期症状だということを肝に命じておこう。そういったわけで今日も適量、酒を肝に入れておこう。
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11時間は寝続ける。罪悪感は、ない。よっぽど疲れていたのだろうと判断し、昼過ぎにブロッコリー定食を作って食べて原稿を少しやる。そして夕方、案件で足立区へ。

原稿を書きまくって完了。舎人ライナーと京浜東北線で帰宅。この間のように、車両内でみんな何をしているのか観察していたが結果は同じ。スマホをいじるか寝てるか誰かと会話しているか、この3種類の人しかいなかった。手前はというと、只ぼうっと世間を眺めていた。

なんとなくの隙間時間になんもしないということは俺は重要だと思っている。しかし、世間の9割以上の人たちはなんとも忙しそうに、眠そうにしているのである。

ただ外を眺めて、「あの古い建物は味がある」とか「あのパチンコ屋、潰れたな」など、非常にどうでもいいことの発見から、生産的なアイディアなどが生まれることがある。そう信じている。余白は大事だと。

そういったわけで、色々とひと段落したので明日は余白である。完遂必須タスクは、ない。仕事がないというわけではなく、予定的に「明日やる必要が絶対にある」というものがないのである。すなわち、休んでもよい。むしろ休日とするべきかもしれない。

この“完遂必須”だの“するべき”とか、そういった思考がいつの世も人間を不自由にしてならない。だから明日は、「自由」という日にしようと思う。

前倒しでやれる案件もわりとある。それをやるもよし。制作をしてストック収益を伸ばすアクションに精を出す。それもよし。1日ブラブラとしてなんならたまには外で一人呑みしてドスケベな店に遊びに行ってもよし。ふざけた動画でも撮ってアップして遊ぶもよし。なんだって自由である。

すると、意外と「何をしていいのかわからない」となり、前倒しで仕事をする確率が極めて高い。

これは立派な行動ではあると思われるが、ある種どこか思考停止している気がしなくもない。

「とりあえずこれ」ということから人間の自由な発想が薄くなっていくという気もする。俺はそれを気づきたかったから電車内で怪しいカウントをしていたのかもしれない。フリーダムに生きて行きたいがなかなかむつかしい。

明日あたりは何もしないでまったりしているのが正解だろうが何を悩んでいるのだろう。こういった思考が行き過ぎると強迫性障害になる危険性もある。ちとおおげさ。
_12/02

 

 


今日は何をしても差し支えはないという日なのでとりあえず公園でパンを食う。意外と全然リフレッシュしないというか、そもそも寒いので帰宅。

一切デスクワークをしないというものなんなので、別に今日でなくともよい請求書作成を2点。手元にある、まだ読んでいない本でも開くかとも思ったが、DAWを開く。この間買ったプラグインでクランチサウンドの楽曲を作る。

合間に本屋で反社会的な漫画を買ってきて戻ってまた制作をする。結局のんびりしたようなしていないような感じで1日が閉じる。

とはいえ、明日も「自由」と設定している。二連自由。晩に上杉昇さんのライブを観に行くためである。案件とかではなく、チケット購入してのライブ参戦である。仲間に買ってもらってまだ金を払っていないが。

それにしてもまさか赤羽のライブハウスに来られるとは。1曲でいいから、WANDS時代の曲を生歌で聴きたい。「Flower」か「世界が終わるまでは…」あたりはやってくれそうな気がする。ひとつよろしくお願いします。
_12/03

 

 


昼間は制作をコツコツとおこない、夜は上杉昇さんのライブへいざ出陣。徒歩5分で着く赤羽のライブハウスで仲間と2人で観戦する。

WANDSによる1994年リリースのシングル「世界が終わるまでは…」をリアルタイムで購入し、「かっこいい。こういうの俺もやりたい」と、中学二年生の頃に思ったのが、手前が音楽をやることになったきっかけ。その契機をくれた当事者と言えよう方のライブを目の前で体験する。

完全にファン目線で観るが、客観的な視点でも、上杉昇さんは少なくとも日本屈指のボーカリストだと言い切れるステージングを魅せてくれた。漏れそうになる。

上杉昇さんに対し、「漢の中の漢。そして硬派」というイメージがずっとあったが、上杉昇さんのMCは想像よりもかなりポップというか、クールな物腰ながらもとてもお茶目で楽しい。デビュー29周年という節目である本日を引き合いに「トム・ヨークと同期なんだよね」というジョークを飛ばされた時、手前は会場で最も大きな声を発して笑ってしまった。

音楽的原体験とも言える方の生き様をライブで観るという素敵な想いをひっさげ、近場で仲間と軽く打ち上げをして帰宅。宝物のような1日。
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コンビニで認知症完全マニュアル的な本があったので立ち読む。一親等がアルツハイマー型認知症でカリッカリになっているのでその病については割と知っている方だとは思う。

読み進めると、知っていることばかりが書いてあってつまらんと思い、本を置き街をぶらぶらと散歩する。「他者が認知症に罹った場合、どうすればいいか」というのはだいたいわかっているのである。

しかし「手前が認知症になった場合」は、どうすればいいかわからない。第一に、助けてくれる家族がいない。嫁もいない。そう考えると今日の寒さと相成って震えてきた。

認知症は、初期段階では軽い検査くらいではわからない場合が多いという。もしかしたら、すでに罹っていて進行中という可能性もなくはない。認知症が恐ろしい。アルツハイマー型には根本的な治療法はない。進行を遅らせる薬があるくらいだ。

そうとなれば、MRIなりで手前の脳を視覚的にチェックすればいいのではという案が出た。毎年1回検査すれば「手遅れ」の手前よりもっともっと前の段階で対策がとれる。手前の脳の輪切りの写真が見たい。

自覚症状もないのに「ああ、もうスッカスカですねえ!」とか医師に言われたらもう腹をくくろうか。死んだ脳細胞は二度と戻ってこない。そうなった場合、どうにもならんと判断して自決、というのも不本意である。だから未然に防ぐ必要がある。

煙草と酒は控えめに、食事に気をはらい、まんべんなく脳を使い、人付き合いを怠らず、適度な運動をする。このあたりが本に書いてあった予防法だ。どれもぼちぼち鑑みて予防をしよう。だんだん日記の内容が支離滅裂になってきたら、その気配なのかもしれない。

そう思い、最近の日記を見返してみたら、支離滅裂ではなかったが内容が実になんというか、といった所感。今日読んだ本によると、日記を書くことや、誰かに見せる前提の文章を定期的に書くことは認知症予防にとても有効だという。

じゃあわりと大丈夫だろうということで手打ち。リアルに大病を恐れるような歳になったものなのかと宙を見つめる。
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わりと何事もスムーズに進む1日。案件で恵比寿へ行き、戻って宅仕事。合間にふとネットニュースで見た「B型男子の恋愛傾向」という内容の記事が興味深かった。

端的には、血液型B型の男性は、恋愛対象に「乗りのよさ」「自由を尊重し合える心」「刺激」を求めるという。もっと細かく書いてあったが、なんとなく手前の価値観と合致していて驚いた。そしてそれは恋愛のみならず、とのことだ。

血液型が人格や性格と関係する科学的根拠はないそうだが、肌感的には血液型と性格の関連性を軽く見ていない人の方が多い気がする。ことB型においては、自由奔放で気ままでこだわりとクセ強め、といった感じらしい。

たまに「血液型は何型?」という会話になることがある。「僕ですか? B型ですが」と答えると、遠回しな罵倒とも言える所感を言葉にされることが非常に多い。「だからか」とか、「どうりで」など、「B型だからそうなんだ。そりゃしょうがない」的なリアクションをされることがほとんどである。

要は、どういうわけか「B型」は評判がよろしくない。血液型を持ち出し人を区別するというけしからんハラスメントがあるそうだが、被害者は「B型」が多いのではないだろうかと思う。しかし、他の「B型」の方々もそうだと思うが、「B型」の人はそういうこと自体を別に気にしない。

B型でいて肯定的な意見を直接聞いた記憶は皆無に近い。そして社交辞令的に、ついでに相手の血液型を聞くが、「何型です」と、相手がどの種類であっても「そうですか」以外の感想がこちらにはない。

そして、これは経験上ほぼ100%なのだが、「B型」の人は自分から進んで血液型がどうのという話を持ち出さない。故に、「何型?」と聞いてきた時点で、その人は「A型」か「0型」である確率が超高い。

だから、今度から血液型を聞かれて「B型です」と答え、一通り罵詈雑言を受けた後、「じゃあ、あなたが何型か当てましょう。1万円賭けませんか?」というギャンブルに持ち込もうと考えた。

勝算は高い。日本人の血液型の割合は「A,  O, B,  AB」の順に「4割、3割、2割、1割」という統計がある。シンプルに4択の勝率25%ではない。そして、まず、血液型の話を聞かれた時点でその人は経験上まず「B型」ではない。さらに、「AB型」の人は絶対数が少ない。

すなわち、ほぼ「A型かO型」という過程で計算すると、5割強の確率で「A型」にベットすれば勝てる。ちなみに、これまで血液型を聞き返して多かったのは圧倒的に「A型」の方だ。

要は「A型」に賭ければだいたい勝てるだろうという理屈である。相手がさも「当たらないと思うよ?」みたいな所作をおもむろに見せたら大穴の「AB型」に賭けるのもうまいやり方だろう。

確かに変な理屈で刺激を求めるというあたり、世間的な「B型」の性質と合致しているなと気づいた。誰か血液型の話をしてこないかな。
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定期検診で血液検査の日。ついでにと思い、血液型を正式に調べてもらいたいので打診すると「別料金」と言われる。そんなことあるのだろうか。

確率的には相当低いが、手前のRh因子がプラスかマイナスか、というのも知りたい。母親が確か「AB型Rhマイナス」というかなり珍しい血液型だったので、B型の俺もRhマイナスである場合も考えられる。

待合室の側の廊下で待っていると、採血をしてくれる同い年くらいの女医が「480円ですって」と言うのでやってもらうことにする。

「平吉さん、Rhマイナスであってほしい感じあるでしょう?」

「はあ、確かに。レア感のある血液型だとなんか嬉しいかもしれません。輸血の時困りますけど」

「どうして血液型の確認を?」

「昨日『B型男子の恋愛観』だかなんだかいう記事を読んでいて、そういえばと思いまして。ちなみに、その記事の内容は自分の恋愛観やらと合致しておりまして」

「じゃあB型でよくないですか?」

「小さい頃にそう聞いているというだけで、実際どうか確認証みたいのを見たわけではなくて……」

いつもより多めに血を抜かれながらそう雑談していた時、チャンスだと思った。この女性の血液型を当ててみようと考えた。

「血液型と性格の関係がうんぬん、完全に信じているわけでもないのですが……」

「あら、私は関係あると思いますよ?」

「じゃあ、お姉さんの血液型当ててみましょうか?」

「うふふ。どうぞ」

どうでもいい話に対し、軽く乗って楽しげにしてくれる。そしてどこか物腰が陽気。おおらかで優しげ。あとは直感。当てにいった。

「A型ではないですね?」

「あら! 当たりです」

「じゃあ……B型ですね?」

「違います。AB型ですぅ!」

けっこう自信があったが外した。「うふふ。どうぞ」というセリフと所作が最大のヒントだったと後から気づいたが、まさか10%しかいない「AB型」とは。採血が終わり、腕の止血をしてくれつつ、女医さんはこう続けた。

「そうそう、面白いんですよ。精神医療に携わる先生や関係者は『B型』と『AB型』がすごく多いんです!」

「へええ! なんでですの?」

「ちょ、腕まだ動かさないで! わからないけど、血液型が性格と関係あるとしたら、B型とAB型の人って、どこか何事も受け入れるというか、変なこととかでも『変』って捉えなかったりするじゃないですか? とりあえず何でも受け入れるというか」

「言われてみれば……」

「だからかもしれませんよ」

“精神医療関係者は『B型』と『AB型』がやたら多い”という事実。医療現場の当事者が言うのだから信憑性は非常に高い。

何の役にも立たなそうだが、誰も知らなそうな統計を知ってわりとテンションが上がった。そして、「血液型と性格が関係あるか」ということに対し、今日をもって「相当信じる派」に相成った。

来週の採血の結果が楽しみである。「実は手前は『O型』だった」という結果だったら、昨日今日の思考は全てなかったことにしよう。
_12/07

 

 


心なしか、ではなく明らかに採血をされるとスッキリとし、肌艶までよくなる気がする。できれば毎日血を抜いてほしいというのが本音だが、そういったことに応じてくれる機関はないだろう。毎日献血をしている場に行くというのも現実的に難しい。

では手前で血を抜けばよいという発想の次に出てきたのが注射器の購入である。それで毎日抜けばいい。とはいえ、自宅に注射器があることを誰かに知られたらまっ先に違法薬物を注入していることを疑われるであろう。だからやめた。

そうでなくとも、注射器を買おうかという発想そのものがどうかしているなと反省しながら埼京線に揺られ、案件で恵比寿に。

帰路、トンカツをたいらげて帰宅。制作をおこなう。とても素敵な曲ができたなと満足していたところ、手前にとっての真の満足とはなんぞやと考えた。

昔はシンプルだった。ギャンブルが打てればそれで満足だった。しかし今は打っていない。だいたい仕事をしている。それはそれでもちろん満足である。

エンドルフィンとアドレナリンが噴出するような体験、それは満足そのものである。「いい仕事したな」と思う時はそれなりに脳汁も出るが、もっと非合法的でアタッキーな満足、刺激、快感に飢えている気がする。

そんな奴が注射器なんて買ってみようものなら危険な行為に走りかねん。本気で買おうとは思っていないが。

手前にとっての真の満足とは。そういうことを考え出して結論が出ないと危ない思考ループに陥る。鬱の触手にからまれる。不安の種が脳内にばら撒かれる。

コツコツ毎日頑張っていることが、いつか弩級の快感となって満足に繋がるという考えを根っこにしていればおかしなことはしないだろう。

そう考えると、若人の時におかしなことばかりしていて逆によかったと思う。していなかったら、未体験の渇望した心境が爆裂し、暴徒中年となりかねん。「なんとなく刺激がほしい」という心境は騙し騙し、酒をほどほど呑んでスヤスヤ寝よう。
_12/08

 

 


案件で原宿へ。からの足立区へ。12時間くらい外で稼働してよく仕事したなという心境になる。

合間、「VR」という区分のゲーム機で遊ぶ体験をした。それは文字通り、ヴァーチャル・リアリティな視覚と聴覚で遊べるという未来のアイテムだった。

まず俺に渡されたのは、イニシエーション時にがっちりとおでこに付け、何か下手を打ったら頭に電流が直列で流し込まれそうな品のような形状の物。言い換えると、メットっぽいゴーグル。

それを装着し、両手にコントローラーのような物を持ち、いざVR空間へ。「音ゲー」的なやつは楽しかった。一方、ジェットコースター的な乗り物で遊ぶ種類のゲームは遊戯というより拷問だった。即効でVR酔い。本気でキモくなる。

「いかん、この程度は耐えねば解脱できん」と錯乱し、ゴーグルを再び装着して修行に、いや、ゲームにとりかかったがやはり即気分が悪くなる。三半規管からの猛抗議がすごい。

再び。という気にはならなかった。あれは俺には向いていない。第一、リアルのジェットコースターなども苦手極まりないのだから。解脱への道のりはまだ遠いのかもしれない。
_12/09

 

 


昨日、今日とやや寝が足りておらず眠気がしばしば誘ってくる。とはいえ案件で外苑前へ。

無事完了し、夜は渋谷に用があったので青山通りを表参道方面に歩くとふと蕎麦屋を見つける。

蕎麦フリークの嗅覚で「この店はできる」とビビッと直感が中枢神経に走ったので即決で入店。気つけにたまには高い昼めしといってやろうと「冷やし鴨せいろ」をオーダー。

ちょっと高価だが、たまには食券系蕎麦や宅蕎麦ではなく、日本食屈指の栄養素の宝庫であるガチ蕎麦をちゃんと食べておくべきであるという想いもある。720円という昼めしの値段は絶妙に悩む価格帯。いや、たまになら悩む値段ではない。

注文してから出てくるのがわりと遅い。俺の嗅覚は確信に迫った。本当に美味い蕎麦は、出てくるのがけっこう遅いのである――待ちわびて出てきた「冷やし鴨せいろ」のビジュアルはというと、小鉢にネギ・柚子胡椒・菜びたし、そして鴨肉が4切れ、濃厚かつ洗練された香りのつゆ、そして白寄りの色の蕎麦。

この蕎麦たるや、めっぽう旨い。ひと啜りしただけでちょっとケツが浮いた程である。鴨にいたっては高級フランス料理のメインディッシュに出てきてもおかしくないほどのプリプリとした仕事っぷり。いや、もはや刺身に近い。“アイガモ(合鴨)”ではなく、ピュアな鴨肉なのかもしれない。なお、アイガモとは野生のマガモとアヒルの合いの子。深く考えるとちょっと怖い。

まあよいと思い、おもむろに出てきたこの鴨肉をつゆに浸し、少しだけ温めて柚子胡椒を添付してかっ喰らう。絶叫モノの美味。脂身の付き加減、食感、ライトな味わいと、パーフェクトである。もちろん備え付けのネギと合わないはずがない。そして〆の蕎麦湯はというと、言わずもがなの甘露。とどのつまり至高の一品。究極の蕎麦屋を見つけたことに俺は気がついた。

案件で訪れる機会の多い外苑前駅と表参道駅の中間地点。その界隈にある青山通り沿いの蕎麦屋。店名は忘れたが、これは殿堂入りの店を発見したと歓喜。

ほかにも色々とあった1日だったが、この店の「冷やし鴨せいろ」のインパクトたるや弩級かつ上品であり、食後の腹の安定感といったら多幸感がいつまでも持続する。満点を突破した格の一品であった。次にこの地に案件で来た時は必ず寄ってまた同メニューをオーダーすることが確定。

最近YouTubeでアニメ『美味しんぼ』の見過ぎでグルメさんになってきた。でも、いつもより高価な昼めしを食べたから夕飯は意図的に抜いた。実にセコい。真の美食家への道のりはまだ遠いのかもしれない。
_12/10

 

 


昨晩は一人でホッピーを呑み過ぎたと頭を抱えつつ、案件で恵比寿へ。 スムーズに済み、帰りに天丼を食いたかったが昨日はやや贅沢な昼めしだったことを思い出し、牛丼並で手打ちとする。

帰宅して原稿をやってソファに横になったら寝る。一時間後に目が覚め、なんだかんだで師走もいそいそとしているなと実感する。

今日あたりはゆず湯にでも浸かって疲労を剥ぎ取ってしめやかに酒を呑んで寝よう。疲れがたまるという現象に対し、もしかしたら日々のアルコールの代謝にわりと体力を使っているのではと一応思うが、そこは気づいていないことにしようと思う。
_12/11

 

 


夕方にリモート案件がひとつ、それも含めて1日宅に籠る。最近例の感染者数が激しく増えてきているから年末年始にまた緊急事態宣言というのもなくはないなと考える。

忘年会も新年会もない年末年始。つまらなかろうと思い、ささやかな楽しみの一つでもこしらえようと考えた。

昆布とスルメと鷹の爪を買ってきて昔IKEAで買った透明なツボに漬ける。みりん、醤油、日本酒を入れてかき混ぜて寝かす。以後、日に2度くらいかき回す。すると、美味かつ珍味かつ酒呑みが不足しがちな栄養やミネラルをふんだんに含んだ抜群の肴が出来る。

なお、注入した日本酒は、夏あたりに買った茨城県産の日本酒。一度ふつうに呑んだが、どうもえも言えぬ味わいだったため、まずくはないのだが手前の口に合うとは判断し難かったので料理酒として扱っている。茨城県民にやや申し訳ない気持ちだが、昆布スルメ漬けの血流として見事に昇華させる。

そういったわけで、わりとやることがたくさんありつつも、のどかな1日。年末年始にまた国家から巣篭もり要請。予感が当たらぬことを祈るしかない。年末年始とも、仲間と酒を呑み散らかして未曾有の2020年を振り返りつつ、新年の光に標準を合わせて盃を酌み交わしたい。
_12/12

 

 


SSDという外付けのハードディスク的なものがどうかした。中のデータは無事なのだが、新たにデータを追加保存ができないし、Macとのやりとりもできないという謎の不具合。

調べた結果、故障なのか設定がおかしいのかすらわからないので、明日カスタマーセンターに電話して聞こうと思う。

そういうことがあったと、世話になっている人に仕事の電話のついでに愚痴をたれた。そんな愚痴もちゃんと聞いてくれる優しい人である。

このSSDには、5年以上分の俺の仕事や作業のバックアップデータが詰まっている。中身は、制作した音源のマスターファイルや各種写真、納品データや原稿、過去の音声ファイルからクライアントの情報や、あらゆる仕事のやりとりを記録したファイル、動画ファイル、DAWのソフトウェアやウェブサイトに関するバックアップ、5万字を超える親父の介護記録など、PC上でおこなうことに関するデータはほぼ全て入っている。

予備としてもうひとつSSDを買ってきたので、念のためそっちにもコピーしておこうと思う。ということを話したら、「手前が死んだ時はそのSSDの中から写真を選んで遺影にしてください」と冗談が出てきた。

すると、相手はわりと真に受け、「確かにそう考えると大事なデータだな。そうだ、もし俺が死んだらウチの音楽機材は全部お前にやるよ」と仰った。

嬉しいような切ないような、リアクションに困る関係性でもないから笑ってやりとりしたが、確かに考えておくべきだなとも思った。「まだ死ぬことを考える年齢でもない手前が、いきなり死んだら遺品をどうするか問題」である。

平吉家という家族は俺以外まともに機能していないし、嫁も彼女もいないものだから、恐らく俺が急死したら発見に最低でも2、3日はかかるかもしれない。そして、誰が葬式をあげるのか、どうやって墓に納骨するのか、機材やらの遺品はどうするのか、何も決めていない。

「しかし、アラフォーで終活をするなんて…」と言うと、「いや、考えておいたほうがいいかもしれないね」と、わりと真剣に考える方向に。

「じゃあ、俺が死んだら機材全部あげます」

「いや、欲しいのあるかな(笑)」

確かに、高級な機材はそんなに持っていない。しかし、フェンダーのストラトキャスターや、もはやビンテージと言ってもいいんじゃないかというくらい使っているフェンダー・ジャガー、メルカリでも出品されていないスーパーレアなエフェクターの数々、今年買った高価なスピーカーと、わりと音楽に携わる者なら欲しがりそうな物もいくつかある。

ということで、俺が死んだら、周囲のお世話になった音楽関係者の方々で、それぞれ要る物をわけて貰ってやってほしい、ということで手打ちとなった。

こういったことは、全て家族が引き継ぐのが通例だが、手前の場合はその通例がままならん。

結論、俺はまともに家族をつくるということが実は優先事項のトップクラスにあることに気がついた。気がついてはいたが、気づかないフリをしていることにも気づいた。

そして、「どう死ぬか」ということを1ミリも考えずに暮らしていると、きっと親父の現状と同じような感じになるだろう。それは歓迎できん。今のうち遺書でも書いておくべきかとも考えたが、さすがにそれはまだいいかと神妙な気持ちになる。第一、少なくとも自決しようとは思わない。

しかし、昨日まで普通に機能していたSSDがいきなりどうかしてしまうように、明日何がどうなるかは誰にも予想できない。

とりあえず、生きているうちに記録して、発信して、その繰り返しが絶たぬように、いつかは絶えるだろうが、できるだけ「もういいや」と言える状態であの世なりに移行したい。

一方、死後、他者に見られたらこっ恥ずかしくてめっぽう困るエロ・コンテンツフォルダも今のうち消去しておこうという発想はあったが、そのファイル自体がなかった。

そう、俺に足りていないのはエロパワーだ。そこにも改めて気づいた。エロパワーは「家族構築」という行為のある種の源流と言っても過言ではないのだと。

「ちゃんと死ぬためにエロくあるべし」というシンプルな結論も出たが、「死ぬために、生きる上での根源的欲求のエロスをがんばれ」というのは一体どういう解釈なのかと、傾げた首がどうも元に戻らない。
_12/13

 

 


部屋でマフラーを巻くほど寒い1日。宅で仕事を半分くらい済ませ、なぜかいきなり使えなくなった外付けハードディスク的デバイス「SSD」の件でメーカーに問い合わせる。

結論、「わかりかねます」とのことなので、appleさんカスタマーセンターに電話する。オペレーターの兄ちゃんは熟れた口調で俺のPCとリモートデスクトップ共有し、向こうさんが指すポインターと指示に従い、何かを色々クリアしたりするうちに、あれよという間にすっかり直る。

「もしかして、SSDの不具合ではなかったので新しいのを買う必要ないんですの?」と問うと、「そのようですね」とのことだ。事前に1万円くらいするやつをもう一つ買ってあったのだが。

しかし、バックアップはあるにこしたことはないので、1台は稼働しつつのSSD、もう一台はデータ倉庫という鉄壁の体制にすることにした。安心感がまるで違う。

あとは残りの仕事をし、アコギを演奏するための練習をしたり、フレーミング・リップスの新しいアルバムをサブスクで聴いたりと、わりと時間があった1日。SSDの件で3時間ほど時間をとっていたためである。実際は1時間で済んだから気分がとてもいい。時間があると心が落ち着く。

明日は半休という予定なので、病院に面会へ行こうと思う。「危篤手前の段階から快方へ向かった」という連絡から1カ月は音沙汰なしなので静かにしているであろう。家族のバックアップばかりは替えがきかないそうな。
_12/14

 

 


板橋区の病院へ面会に行く。しかし、コロナの影響で面会は制限され、できず。緊急事態宣言が発令された時期よりもガードが厳しくなっているもよう。

わざわざ非常に面倒な定期的行動なのだが、実際会えないとなると不思議と寂しさが湧いてくる。これがストックホルム症候群というやつだろうか。

とりあえず、医療費をフロントで支払うと「医師との面談は希望か」と聞かれる。病状は落ち着いたというのは聞いていたが、一応担当医とお話をする。

担当のサイコパス女医はおだやかな口調で「山は越え、よくなった」という旨をにこやかに話してくれた。

「先生、この時期、医療機関は非常に大変でしょう。ありがとうございます」

「いいえ、そんなことないわよ。ただ、あの時のお父様は左の肺が真っ白でね、『これはもう…』と思ってご連絡したんです」

「そうでしたか、あの時の電話の先生の声のトーンは非常に察しやすかったと言いますか。すぐに葬式の手配の調査や家族の宗派などを調べたくらいでして」

「確か、『心の準備を』と、お伝えしましたものね。大変でしたね」

「でも先生、快方に向かったとはいえ、治る病でもないですし、心情的にどう構えればよいものやら……」

「そうですよね。でも、生きているだけでもいいじゃないですか」

「ここに来るまでのありとあらゆるどの病院でも、担当の先生には自分の心情として、『早く死ね』と『治らないのは承知だが、どうにかならないか』という気持ちが同居していることをお伝えしているんです」

「でもね、きちんと社会的な対応をこれまでずっとしていて偉いと思います。親子の関係値があまりよくないと仰っていましたが、今日もちゃんとこうして……」

どういうわけかサイコパス女医は、今日はやたらと俺を褒め、励ましてくれる。

「家族って大変ですよ。どんなことがあっても切れない縁、例えば10年関わりがなくても大変なことになったら家族は対応しなきゃいけないんですから。だいたいは『なにを今更……!』ってなりますよ。それをちゃんとやってるんだから……」

「はあ、心が救われるような気持ちです。ありがとうございます」

サイコパス女医の左手薬指には指輪が。年齢は、60歳くらいだろうか。きっと臨床以外でも様々なご経験をなさってきたという肌感。一言一言に重みがある。三白眼の仏像のような目つきで、先生は俺に優しく諭すように励ましてくれた。

「先生、彼はもう、やりたいことはないと以前言っていまして、じゃあなんで生きているんだと思ったのですが」

「うん、うん」

「生きて何か想うこと、スカスカの脳なりに何か、何か想うことがあれば、それだけでもいいんじゃないかという考え方になりまして」

「そうですね。お父様が生きているだけでもいいじゃないですか」

親父の介護保険の自己負担額は1割。すなわち、生きているだけで寝たきりで、何の生産性もなく暮らしていて月に数十万円を国や納税者が負担していることになる。それでもいいのかなとか考え出したが、それは正論でもあるが、自らと当事者を呵責する思考でもある。

この5年くらい、父親のように、要介護で寝たきりで、いるだけで国全体で捉えると元気に活動している人々の負担に繋がるという病人をたくさん直視してきた。

「高齢化社会で若者の負担が――」という感じの内訳のひとつである。

医療機関の方がその実態を知らないわけがない。その上で、「生きているだけでもいいじゃないですか」という言葉を放つ担当医は、もう悟っているとしか思えない。サイコパスというより仏の域。

「もう治るみこみがない高齢者」に対し、家族は、そして全く関係の無い人間は、どういう心境でいればいいのか。わからないが、一つ言えるのは、「生きているだけでもいいじゃないですか」と、相手に言うことができて、その言葉の裏に慈悲深い何かが備わっているという人間は、なかなかいない。

もし、介護疲れで発狂寸前の人間に「家族が生きているだけでもいいじゃないですか」と言ったら、その場で掴みかかられ爆発した怒りが暴力としてふりかかってもおかしくない。

でも、全てを知っているような、十分体験したような人間が放つ場合のその言葉は浄化作用すらある。おそらく、親父の最後の主治医となるであろう、不思議な不思議なサイコパス女医の温情。
_12/15

 

 


「お兄さん、マッサージどう? 気持ちイイよ」「お兄さん、飲み行かない?」と、近づいてくる20〜30代のアジア系外国人の女性。これは、JR赤羽駅の南口と北口東側付近で日常的に見かけるアプローチ。

つい3日くらい前から、この謎の呼び込みに対する注意喚起が駅構内の切符売り場に掲示されだした。

その内容は、「ついていくと泥酔クラスまで飲まされ、現金を抜かれたりカードの暗証番号を聞き出されてもっていかれるからご注意を」というもの。

俺は「そうだったのか」と思った。というのも、27歳くらいの頃、「お兄さん、飲み行かない?」という謎呼び込みに応じたことがあったのである。好奇心旺盛な年頃の至り。

結果、その時の外国人の女性は、本当にただ一緒に酒を呑むだけだった。雑居ビルの一室の指定のバー的な店に行って、雑談しながら酒をガバガバ呑み、5,000円を請求されて払ってそれで終いであった。どうやら、本線はその先にあったもよう。

その時、俺がベロベロになっていたら、ほぼ犯罪である行為をされる流れだということを、駅構内の貼り紙は示唆していた。

「そんなのに引っかかる間抜けも少なかろう」と、思っていた。しかし今日22時ごろ、山菜タマゴウドンを食った帰り、駅近くのコンビニで立ち読みしていたら店の角に設置されているATMからまあまあの大声が聞こえた。

「ちがうのかな! 暗証番号!」

と、初老のとっつぁんはごきげんで直近の女性に言っていた。

「チガウヨ、マズコッチ! コレ押シテカラダヨ……」

ベロベロのとっつぁんとアジア系外国人女性のATM前でのやりとり。本気かと目と耳を疑ったが、どう考えても、「アジア系外国人女性の呼び込みについていくとこうなる」という注意喚起の内容の最終段階一歩手前ではないか。

「サキ、サキニドウゾ。チョット長くナルカモダカラドウゾ」

と、女性は後ろにいた男性二人組に番を譲っていた。

「そうか、獲物は邪魔の入らないタイミングでじっくりと、か……」と、思って立ち読みする振りをしてずっと彼女らを見ていた。結果、俺の読みは99%以上の確率で「そうである」と判断できる。

「治安が悪いな」「本当に犯罪じゃねえか」「酷い輩がいたもんだ」とか、それらのことはあまり思わなかった。ただ、呑みすぎた、呑まされすぎたとっつぁんに隙があり、そこを狙われて獲物となっただけの話、いや、間近で見た現実かと、超高確率でそう思われる。

無事、女性がとっつぁんに暗証番号を打たせて、金をもっさり掴んだその手を掴み、「感心しませんね。それ、犯罪ですよ? お父さん、呑みすぎです。騙されていますよ」と、止めに入る正義感など1ミリもないのでほっといた。そのタイミングだったら、ポリスさんではない一般人でも“現行犯逮捕”というのが可能ということも知っていながら、放っておいた。

正直、そのタイミングが見たかったのでけっこう待っていたのだが、あまりにも長かったので途中で飽きて帰宅した。

駅構内に注意喚起の貼り紙が掲示されるくらいなのだから、被害が後を絶たないのであろう。夜の深い時間帯、赤羽で一人夜遊びをとお考えの方がいたらどうか気をつけてもらえればと、そう思った。27歳の時の俺、もうちょいで危なかった。とっつぁん、合掌。
_12/16

 

 


「年末年始コロナ特別警報」というふんわりしたものが都知事より発令。具体的にどうすればよいのかはわからない。大丈夫だろうかなとか思いつつ、宅で原稿をやる。アコースティックギターの練習をたくさんする。

どうやら、今年の大晦日は電車が深夜帯運行しなさそうな雲行きである。年末最終日はここ5年ほど毎年必ず案件にありつくのだが、こういった状況下により「お休み」という可能性も出てきた。

あらかじめ、よろしくない事態になることをわりと前のめりに予測して計画なり行動なりをすると、さほど右往左往しないようになるということを今年学んだ。大晦日、なんもないとなったらどう過ごすべきか。

これはもう開き直って、めでたくもないし「ここぞ」というタイミングでもないが、先月案件で頂いた超絶高価なシャンパンを開けて一人ハッピーニューイヤーとのんびり過ごせばいいのかもしれない。

なんとか今年という世紀の1年を乗り切ったということで、一人で打ち上げしていればいいのかもしれない。たまには生ハムやらオリーブのイタリア風漬物やら、高い肴を買ってきて1年を省みればいい。それはそれで、あまりない年末の過ごし方だが充実した年越しというもの。

なんなら、予定して頂いている来週の案件各種も正直どうなるかわからないと構えていた方がいいかもしれない。その時は、最近時間が割けなかった制作時間に充てればよかろうと思う。

このタイミングで、コロナ禍級のまた別の惨事がふりかかってきたら――不透明なリスクを考え出したらキリがない。「心配事の9割は起きない」とかよく言われるが、0.0001%くらいの確率の出来事が今年は起きた。

そういう時にどう立ち回るかで人の真価が問われる。「年末年始コロナ特別警報」くらいふんわりとだが、その時々で変化に対応する行動をとれば、なんとかなると思う。経験上はそうだ。何かいつもと違ったことが起きた時に、現状維持や「今まで通り」を望んだ行動をとると、何故かあまりよい結果にならない気がする。

とはいえ、年末年始はそこそこ忙しく、そこそこのんびりした時間、共に過ごしたいと思いつつ結局何に対して何を備えればよいかわからない。

一つ言えるのは、目の前にあることをちゃんとやりつつも、いきなり思い切り変化するということを恐れるなということだろうか。そういうことがよく、ベストセラーのビジネス書や自己啓発本によく書いてある。

クリスマスも年末も正月も、それなりに違ったしあわせのかたちで皆が過ごせればいいなと思う。願う。
_12/17

 

 


最近寒いのでなんでもかんでも刻み生姜を入れて食う。これがわりと温まって捗る。エアコンの温度設定を1、2度上げるほどの効果がある。

興行案件に向けてアコースティックギターの練習をするのだが、一つ切ないことに気がついた。長時間練習しているとシンプルに手が疲れるのである。

10代、20代の頃は延々とギターの練習をしていてもそんなこと一度も感じたことがなかった。しかし、今はどうやら違うもよう。全力で3時間も練習していると翌日あたりは手首やらの関節が痛くてしんどくなる。手を痛めては元も子もない。

すなわち、より集中して適度な練習時間を、ということが必要となってきた。練習可能時間のリミットが昔とは違うのである。これは、どうやら何事もそうなのかもしれない。

「昔は1日何杯でも、8杯くらいまでは酒が呑めた」「1日1箱煙草を吸っていても普通の体調だった」「その気になれば11時間だって寝られた」「何文字打っても疲れなかった」

それらのことは、切ないことに年齢と共に制限されゆくものなのだと気がついてしまった。

「昔はよく呑んだけど、今はあまり呑んでいない」という話は、還暦前後のミュージシャンとお話しているとかなりの頻度で聞くことだ。

今できることの“限り”について考える。「永遠にできる」と思って日々やっている各種のことは、そのうち“限り”が見えてきてしまうと。

だから、例えば目の前の1曲を練習する時は、全集中力を込めてやることが大事なのだなと実感する年齢。

日々呑む酒も、そのうち「もういいかな」と体が判断する日が来てしまうと思い、大切に呑むべきだと、手拍子で煙草を吸わずに、本当に吸いたい時だけ吸うべきだと。文章はなるべく要約して書くべきだと。楽曲は「本当にこれが作りたい、きっとこれはみんなに喜ばれる」と思える制作をするべきだと。

極論、死を意識した。「いつまでも続くと思うな――」というのは、親と金だけではなく、全てのことに言えるのだなと。

とはいえ、楽器練習をこれまでよりも集中してやることを心がけるようになったのだからいいじゃないかと前向きに捉える。

しかし、何事にもリミットがあるというのは、深く考え出すと切なくなってくる。その一瞬一瞬の大切さが沁みる年の瀬のえもいえぬ気づき。たぶんみんな気づいていることなのだろうが、俺はさっきやっと気がついた。
_12/18

 

 


今度はエクセルが壊れた。 デスクトップのエクセルファイル、アプリケーション、共々を何度クリックしても「アプリケーション“Microsoft Excel”を開けません」とのことだ。ワードもパワポも使えるのにエクセルだけ使えなくなるというのはどういう了見であろう。

とりあえず、色々試してMac本体の不具合ではないことは確認したので、後日マイクロソフトさんのサポセンに電話して復活方法を聞こう。ネットで調べるのは疲れるし、どうも時間がかかって萎える。

それにしても今年は異常に持ち物がこわれる。「洗濯機」「スマートフォン」「アイコス」「ガスコンロ」「コンデンサーマイクスタンド」「コーヒーデキャンタ」などなど、振り返ると枚挙に遑がない。こんなに持ち物が壊れたのは生きていて今年が最多だろう。2020年という変革の年と何か関連している気がする。スピリチュアル的に。

しかし、「正負の法則」で言うところの“負”を先払いしていると考えれば、来年いいことがなだれこんでくると思える。

それに、物が壊れたりしても、替わりの品をくれる神のような友人や、直し方やらのアドバイスを親身に頂ける方々に俺はたいへん恵まれている。だからエクセルが壊れてもさほど腹はたたなかった。

昔は物が壊れる毎に頭にきては当たり散らしていた気がするが、今はそうではないのが幸い。昔は頭が壊れていたのだろう。そこは多分やっと治ってきた気がするのでよかったと思う。
_12/19

 

 


陽が昇ってきたから寝ようかと思う時刻は朝駆け。案件で東京都新宿区歌舞伎町にいたのは数時間前。その後、“打ち上げ”的なかたちで同都渋谷区恵比寿へ案内頂きたいそう呑ませてつかまつり、北区赤羽まで送迎までしてくださった就寝直前。

友達がやっているBARたるや、最初は正直「早く帰ろうか」と思っていたが気がつけば数時間、共に素敵な空間で有意義な時間を過ごす。

「ビール以外的な」「じゃあ、珍しき酒を」「ジンが入っている何かしらを」という不透明なオーダーに応じてくれる素晴らしき店。8杯くらいごちそうになりこの店は殿堂入り。

あともう一杯呑み散らかしてと思い1本の酒を買い帰宅、というのはもはや習性。今日はたのしい1日であったと回顧。

生で演奏させて頂ける喜びをひっげつつタイピングがおぼつかないままだが今日は寝よう。明日は、明後日は、そう思いながら希望、光明、なんでもいいが、接して頂きありがきという心境のままどうか健やかに手前もみなさまも眠れますように。
_12/20

 

 


休日。二日酔いなのでちょうどいいと思いつつ起床。昨日は何杯呑んだか、と思い返すと、公演中にホットワインが差し出されたのを皮切りに、その店で終演後にハイボールを1杯、その後にバーで8杯くらい。呑みすぎである。よっぽど楽しかったことを物語っている。

今日は丁度1時間だけ原稿を作成し提出、というのはあったがそれ以外はフワフワ過ごす。

最近アコースティックギターの弾きすぎでかなり左手に負担がかかっているので、楽器もほとんど触れずギター筋を休める。YouTubeを観たり本屋さんへ行ったりタンメンに酢とラー油をバカみたいにかけてオリジナル酸辣湯麺にして食ったりと、無目的な休日らしい日。

今日明日、なんらかの天体が数百年ぶりに超接近するらしい。その影響もあるのか、なにか大きな波動だかなんだかよくわからない力が働くのか、ある種の転換期となると聞いた。

そうなってくると2020年は転換しすぎだと思う。とはいえ、変化をないがしろにすると何事も捗らんというマインドのもと、そのためにも今日はしっかりと休む。とても穏やかでふっくらした1日。
_12/21

 

 


爽快に目覚め、1日休むとこれほど違うのかと実感する。安い惣菜パン2つと森のようなサラダを食って珈琲を淹れ、とりあえず今日はエクセル問題を解決させる。

いっさい開かなくなった宅のエクセルは、マイクロソフトさんのサポセンのお姉さんに従って再インストールをしたらあっさり直る。アコースティックギターのとある部分がややおかしい問題に取り組む。ちょっと工夫してセルフリペアしたら元気な状態に戻る。

なんだか流れがよいではないかと、上機嫌で興行のための練習をする。サクサクと進む。これは昨夜あたりの惑星の超接近により、大いなる波動が手前にはよき作用として好転、そう捉えておくのもあながち間違えではなかろうと思う。

年末年始は世間の風潮の影響をモロに受け暇なのでは問題はどうしよう。それはそれで秘蔵のシャンパンでも開けて一人で2020年を顧みるのも一興。

何年ぶりかの独りさみしい年越しかもしれないが、ある種、未曾有の時期となったこの1年にふさわしいかもしれない。「オンライン忘年会」だけは微妙すぎるので避けたいところ。
_12/22

 

 


外出案件がないのをいいことに限界まで寝る。12時間は寝る。まだ寝られたが、それはどうかと思い昼過ぎに覚醒し、昨日と同じく、パン2つと森サラダを食ってアメリカン珈琲を300mlほど淹れ机に着席。

デスクわまりの不具合は全て解消させ、仕事はスムーズに進み、調子を崩したギターも直したのでビンビンに鳴るため練習もサクサク進行。今日とて平和な1日。

年末年始暇すぎなのでは問題は、大晦日と正月明けに1件づつ案件を頂いたのでやや解消。むしろ、三が日明けあたりまではこれくらいだけでもいいのかもしれない。

今年もあと1週間。春前あたりはコロナ禍起因で「詰んだ」と思ったが、12月末になってみれば、周囲のあらゆる方々のおかげさまで、手前も予想していなかったようなかたち含みで健やかに暮らせている。来年はどうなるだろう。

コロナ禍は収まるのだろうか。誰もわからない。個人的には、また、よい方かそうでない方かわからないが、更に誰も予想していなかったような1年になるという気がしないでもない。どんな環境下においてもたくましくわんぱくに過ごすため、今年の経験を活かしつつ、必要な変化には対応しつつフレッシュな気持ちで40代を過ごそう。
_12/23

 

 


年末が近いからか、ここ最近意味深な夢ばかり見るなと思いつつ起床。毎年のように思うのだが、年末というのは何かしらの淵からの何かしらの力が強めに働いている気がしてならない。

とはいえ現実を頑張ろうと案件で原宿へ。クリスマスキャロルもぼちぼち流れる中、ほぼいつも通り過ごす。クリスマスに特化した何かを個人的にやろうかという発想はあったが完全に通常運転。つまらん、せめてケーキとチキンでも買おうかとスーパーに行って出たら買い物袋には缶酒2本とチャーシュー。

子供の時はクリスマスなんて特別なイベントだった。学校はそれっぽい雰囲気に満ち、終業日で冬休みとなる節目の日であり、ちびっこの頃は両親というサンタさんがおもちゃをくれた。

交際する恋人なりがいる時期は、前倒しでプレゼントを吟味して買い、互いに交換してなんやかんやとやっさるハートフルな日。パートナーがいる時のクリスマスの何が楽しいかというと、愛をもって相手に進呈するプレゼントを真剣に選んでいる時である。

しかし今やどうだろう。酒2本とチャーシューをぶらさげて帰宅して原稿書いて制作だと。それはそれで決して悪くないし、むしろ勤勉でよろしいと判断してよかろうが、こう、色気がない。

「お前、うわついた話の一つでもないのかよ」

「はあ、皆無ですね」

という会話を今年、あらゆる知人と何度もやりとりした。色事、情事、濡れごと、それらのことに対し、手前はもっと積極的になるべきなのかもしれない。努力すべきだろうか。奮い立つべきだろうか。下半身起因で決起すべきだろうか。聖なる夜に考えることでもないのだろうか。

「人を愛するということ」という重要性に気が付いたいつかのメリークリスマスと言いたいところだが、だんだん眠くなってきたのでチャーシュー食って寝よう。
_12/24

 

 


案件で足立区へ。半日、原稿を書きまくる日。やりおおして帰路、スーパーに寄る。

クリスマスも明けた直後、チキンやらがかわいそうなくらい安くなって陳列棚にあふれているだろうと思った。今日の肴はクリスマス・チキンにしようと決めていた。しかし、棚には、ほぼいっさいの惣菜品がソールドアウトとなっており気がついた。最近の感染者数推移から、みんな宅でクリスマスを過ごすのであろうということを。

当然かと思い別のフロアで別の肴を物色していたら、昨日までクリスマス一色だった売り場が一変、完全に正月モードである。太いエビやら数の子など、そういった贅の限りを尽くした“新年系”の品々と紅白の装いで売り場は満たされていた。

昨日までクリスマス推しだったのにこの変化たるや、掌返しのような移り変わりたるや、どこか薄情さすら感じた。えもいえぬ心境でハンペンとポテチと酒を買って帰宅。

明日からは年跨ぎに向けての空気感。張り切って行こうと思う。宅のキッチンの棚に鎮座しているクリスマス的な雰囲気もある高価なシャンパンは正月休みに明け、鋭気を養おう。今日あたりはまだハンペンが妥当ということにしよう。こういった安い肴だって、海苔で巻いて胡麻油と醤油で食うとけっこう美味しいわけだし。
_12/25

 

 


案件で新宿へ。帰路、ラーメンに生姜と豆板醤をモリモリ入れて食って満足して帰宅。

年末にもうひとつ案件を頂く。今年の年末年始はどうなることか、スッカスカなのではという危惧は、どうやらそんなことはなく全然暇ではない、のんびり一人シャンパンとかそんな感じでもなさそうなので安堵。

とはいえ、ちょっと数日のびっとしたい欲はあった。それは、年始の七草粥までの日あたりまで工夫すれば確保できる時間と相成りそうでそちらも安堵。

未曾有の2020年もあと5日。カウントダウン的なイベントや案件はないが、個人的に色々とカウントしつつ年越しを迎えよう。

昨年も実施していたことなのだが、今年1年も「禁博奕」という戒めのもと、毎日最低100円づつストックしてきた「禁博奕貯金箱」という名の箱がある。その中身を年跨ぎにカウントするという超個人的な儀式がある。

いくら貯まっているだろう。毎日100円づつ、そしてギャラの入金があった時などは500円とか1,000円入れたりした。とりあえず最低でも36,500円である。手前の悪癖の辛抱の結晶たるや何円か。“1年の我慢の価値”というわかりやすい箱の中身。カウントが楽しみである。
_12/26

 

 


今日も新宿へ。一緒に興行案件の仕事をさせて頂いた方々と夜は韓流めしを食い、別場所で呑んで帰りは送迎までして頂く。

にぎやかな日々がひと段落し、明日明後日はぽっかりと宅作業の予定。テンション的な落差がなかなかあるが今年もあと4日、しめやかに過ごそうと思う。

今日は朝から深夜まで稼働し、なかなか疲れはしたが爽やかな心境が背を押してくれるような、年末にふさわしいような1日。あっという間に時間と日が過ぎていく師走らしい時期。あっという間に過ぎていく。
12/27

 

 


90年代のシューゲーザーを現代に再生させたい、というコンセプトのもとの楽曲を制作する。こういった種類の音楽が好きなのはどちらかというと少数で、あんまり受けないということはわかっているが、たまには手前の趣味全開の制作も大事といえば大事な気がするので張り切る。そもそも今日は休日の予定。

とはいえ、手元に案件が残っているとスッキリしないので昼間は原稿をやって過ごす。夕方は御茶ノ水に行ってギターの具合を見てもらう。プロのリペアマン曰く「微調整の余地がある」とのことなので入院させた。

その後、夜に制作。一人シューゲーザーサウンドメイク。「シューゲーザー」とは、足元のエフェクターを見つめ、鬱屈した物腰でノイジーな轟音やら、リバーブやディレイなどの空間を揺らす系の音を操りつつ独特でコアなオルタナティブサウンドを出力するバンドスタイルのことである。

有名どころでは、ニルヴァーナやソニック・ユース、初期のレディオヘッドあたりがこのスタイルにあたる。俺はこのスタイルが20代の頃、大好きだった。

何が好きかというと、「キッチリ演奏」というよりかは「直感で音のイメージを吐き出す」という感覚が肝という部分。

この感覚が活きるのは、正直バンドでやるシーンなのだが、一人でもなんとかならんかとファズやディレイを足元で調整しながら一人シューゲーザーをやる。20代の頃の、オルタナティブロックバンドで成功したかった欲が叶わなかった思念を昇華させるという個人的な想いもあってのこと。

5時間くらいゴウゴウと鳴らしていたらなんともイメージ通りの録音ができて満足する。明日はこいつをMIXして完成させたい。

こういった、手前の趣味嗜好性癖モロ出しのコンテンツは、いかなるジャンルでもなかなかユーザーには受け入れられ難い。わかってはいる。だから、制作する数曲おきに「個人的には好みではないけど、みんなはこういうポップなのがきっと好きだ」という楽曲の制作もする。

むしろ、そういう制作方向1本に絞っていった方が収益は伸びる。でも、やはり手前の趣味嗜好を相当抑えながらの制作ばかりしていたら、きっとへこたれてしまうだろう。だから、休みでいいという日は趣味寄りの制作をする。モチベーションがなくなってしまったら元も子もない。というか、最も恐れているのはそこだったりする。

好きだけど、もうやりたくなくなるという感覚。これが一番恐ろしい。

小さい女の子がいて、目の前に大好きなごちそうとおやつが用意されている。しかし、その女の子は何らかの精神的ショックが原因で、食べることができなくなってしまった。本当は食べたいし、以前は大好物だったけど食べられなくなってしまい、パパとママが用意してくれた大好きなごちそうを目の前にしてもどうしても食べられず、うつむいて泣いてしまう。

このイメージがなぜか定期的に頭をよぎる。正直、手前でも理由がわからないが、このイメージが湧いては物凄く切ない気分になるのである。

「好きで、夢中になれるときにやれるだけやっておけ」という深層心理がそういったイメージを浮き出させているのだろうか。前世の記憶なのだろうか。わからないが、今日あたりもこのイメージが明瞭に脳内再生した。

昨日まで、数件の興行案件の関係で2カ月くらいほぼ毎日アコースティックギターの練習をしていた。毎日指と手首が痛かったが、それでも嫌にはならなかった。今日あたりは弾く必要もないけど、制作のためにエレキギターを本気で演奏して録音していた。

この欲求、モチベーションが消えてしまうのが恐ろしくて仕方がない。目の前に美味しいと認識しているごちそうとおやつがあるのに、心因性の契機で欲求がロックされてしまい、食べられなくなるような、「いや、いい」となるような、そんな感じに恐怖をおぼえる。

その恐怖を払拭してくれるのは、演奏をして拍手を頂いたり、演者通しで「最後のテイク俺ら神がかってたね!」「そうだね、映画のワンシーンみたいだったよね!」というやりとりや、頭の中にあるイメージが形となって制作が出来て、スピーカーからアンサンブルが光を放ちながら出力された時である。

ユーザーがDMをくれたり、「購入されました」という運営からのメールが来たり、アドセンス収益が上がったりするのを数字で確認したり、そういう時である。

シューゲーザーみたいなバンド、まではいかないが、20代にやっていた最後のバンドが解散した後、確か俺は数年間くらい、ギターを週に1回弾くか弾かないかくらいだった。

本当は好きなのに、もう食えなくなるところだった。しかし、気がつけばこの歳になっても食っている。理由を考えたら、「受け手がいる」からである。「受け手がいる場や機会などを提供してくれる仲間がいる」からである。

そこに対しての感謝さえ忘れなければ、まず大丈夫と捉えよう。大好きなものが食いたくなくなる、食えなくなる、これは人生で最もキツいことの一つなのかもしれない。だからどんどん食おう。
_12/28

 

 


この間の血液検査の結果を聞こうとクリニックへ電話するも休診。もう世間は仕事は締めて年末だというムーディーを味わう。

等しく、仕事納め済みの友人が宅に来たのでコーヒーでもてなす。備え付けの砂糖はというと、先月三つ星レストランでの案件時に食後に出されたコーヒーの砂糖。それはそれは高価そうな砂糖なので、角砂糖サイズのものが2つ入りで梱包してあるそいつを5、6個ほど鷲掴みにしてポッケに入れておいたのである。セコ過ぎるを通り越して失礼にすらあたる。

お客さんが来たこと以外は実に普通の1日。原稿やって制作。俺は宅にいる時はこれ以外やることがないのかというくらい頻度の高いタスクを粛々と。

今日あたりは、昨日ゴールが明確に見えた進捗率85%のシューゲーザーサウンドの曲のミックスを後回しにして、もうひとつ新規でオルタナティブロックを作る。

どこかで聞いたことあるな、WeezerとかBlurあたりでこんな曲あったような、と思ったが、そこは上手く躱してオリジナリティを出そうと躍起になる。全体構成が出来たので今日のところは満足してDAWを閉じる。

こう、作りかけかつ、ゴールが見えている途中の段階のものがいくつかあると大変わくわくとする。まだ誰も聴いたことのない音楽が「だいたい出来ている」という状態で手元にあるという嬉しみ。喩えるなら、「締め切り3日」と上司に言われて制作着手した資料が半日で8割方出来て、余裕を醸しながら喫煙室で一服している感じだろうか。いや、何かちょっと違う。

2020年もあと2日。明日と明後日はライター案件で半日づつ過ごさせて頂く予定である。大晦日の深夜は、恐らく一人で過ごすだろう。年跨ぎの時間寸前に一緒にいる方もおられるが、たぶん忘年会自粛なムーディーを察して互いにおとなしく帰宅するであろう。

むしろ、たまには一人で過ごす年跨ぎを満喫しよう。そして新年会に期待を寄せる。贅の限りを尽くした新年会を。
_12/29

 

 


昼間はMIX作業をし、夕方から案件で足立区へ。今日明日はこの時間軸で過ごす予定であり、今日は滞りなくという感じであったが終電時間の見極め誤りタクシーで赤羽へ。地味に手痛い出費。

酒と安いマグロの刺身を買って帰宅。今年は実に色々なことがあったなと回顧する。1月では想像もつかない状態で年越しを迎える。世間的にはたいへんな年であったが、個人的にはよい意味での変化があまりにも多かった年。

来年はこう、シュッと右肩上がりに駆けたいなという想いのもと、正月数日は具体的な計画を練る作戦会議をひとり執り行なおうと思う。

たぶん、今年と同じような進め方よりは、地固めをしつつ何かしらのフレッシュなアクションを恐れずに行動するのがよかれとなんとなしに感じる。具体的には正月に考える。たまには酒を抜いてクリアな脳で熟考するのもいいかもしれないがこれが最も難しい。歴史的な年となった2020年もあと23時間。噛みしめるように過ごそう。
_12/30

 

 


年跨ぎは案件最中、だがせっかくなので出先で遊びながら年を越す。

今年は世間的によろしくない、あなた、個人的には如何か。などという問答をしながら過ごす。

手前はというと、個人的にはよろしかった。何故かというと、変化に富んだ所以。

現状維持、変化、それ以外、何だろう。とにかく2020年は革命的な年。これをどう捉えるか。俺は、とにかく予測無しのことがゴロゴロと転がり相成った年。

もう、ゴロゴロ転がっていればよろしいと悟った年でもあった。語弊があるのかもしれないが、転がっていればだいたいなんとかなる気がする。それでいいかなと締めくくる雑さは仕事納めで酒の呑み過ぎ由来かなと思うが、これこそ今年の何かしらを総括。

誰が手前とどう関わろうが追求すべきかわからんが、みなさま、ありがとうございました。本当に、ありがとうございます。
_12/31

 

 

 


 

 

 

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