01/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。期間で捉えるのが大切らしい。1


普段通り過ごしていた元日だが、慄く規模の地震があり、甚だ心配で悲しい気持ちになる。

東京都内は、長くゆっくりとした揺れが続く。各媒体のニュースやSNSは、緊迫感であふれていた。

今日、個人的な事としての思いはたくさんあったが、それよりも、著しく大変な想いをしている方々の現在を思うと堪らない。

こういう時に、願ったり祈ったりすることしかできない自分の無力さを思い知る。そんなことはない人間になれるよう、今年もより頑張ろうと思う。
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蕎麦屋も牛丼屋ものんびりお正月休みである。それはいいなと、ゆっくり癒して頂きたいと、新年特有の街の雰囲気を感じつつ普通に仕事する。

惨事が連日起きる。こういうとき、「個々がそれぞれ、やれることをやる」という大前提をちょっと忘れていた。併せて「まず自分を幸せにすることから、他者の幸福へ続く」という、いろんなコンテンツで散見する見解を思い出した。

要は、やばいなやばいなと心配することも大切だが、そこで自分には何ができるかと、それぞれの役割を行なうことが優先だとハッとする。だから俺は普通にいつも通り、やれることをせっせと行なう。

俺は「初夢」のビジョンを毎年大切にしている。それは、無意識と直感と啓示が確かに浮かぶことが多々あるからである。しかし今年の初夢はめっぽうエロいだけのものであった。

「ふだんは淫らな夢など滅多に見ないのです」と聖人君子ぶるわけではないが、事実としてかなりレアなのである。エロい夢。

さて、これは何を暗示しているのかと吟味する。どう深く洞察しても、エロはエロスでしかない。美しく解釈すると「新たな生命が生まれる、新しく何かが始まる」といったところだろうか。

穢く解釈すると「女に溺れる」だろうか。別にきたなくはない気もするが、いずれにせよ珍しいことなので、「何かが大きく変化する年なのではないか」というところでちゃんと肚に置く。

去年から始めた「楽曲制作プラス、グラフィック」というあたりを思い切り発展させたい気概がある。それが今のイメージを超えれば、すごく面白いなと興奮できる。

それとは別に新たな事業を思いついてやるのかもしれない。これも、熱狂できる。なんにせよ、ちょっとずつでも前進していることを感じ続けていたいなというのは基礎とする。

今年の抱負は特にない。毎日、今を張り切るだけである。その結果、「ああこれが目標だったのか」「これが夢だったのか」と、あとで気づくくらいで多分俺はちょうどいい。

だからといってサボっていいかというとそうではない。しかし冷蔵庫には酒が「まだなのかよ」と言わんばかりにスタンバイしている。

ちょろっと酒を呑むのは、終日休みをほぼ設けない手前の休憩である。なんやかんやで結局今年のスタートも酒を呑む言い訳。

変化すべき点と、そのままでいい点。それらでいったら飲酒はどっちにあたるのだろうかと思うも常識的に考えば答えは明白。でも美味しいから呑む。おいしければいいんじゃないのかなあとシンプルに考える。賀正。
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メイン・コンンテンツは東京都足立区西新井にての新年会。

楽しくてそれなりに気を良くしたのか、或いは一切合切が抜けてアホにの子なったのか、帰宅すると秒でキッチンの椅子で気絶。

しばらくしてタイピングするまで数分以上を要する。酒の呑みすぎである。

現在6時半。ベロベロのベロ。嫁がいたとしたら激昂と共に是正されるであろう、年始の何ともいえぬスパイシーなムーブ。

ここのところ、仕事やらなんやらフル稼働した良い意味での「つけ」が明瞭であり、疲労感は禁じ得ない。

だからこそ、こういった日が楽しい気分である一方で、キーボードの手つきは朧げなこの体たらく。

今日は、やり手のコンサルタントの桑原氏やら、スペシャリティな編集部の村上氏とやらと共に、実に楽しく過ごす。

お互いの価値観のリマインド。今年の抱負。展望。おセックスやらなんやかんや。話題は多岐に渡る。それが、楽しい。

人生においての結論、村上氏曰く「その瞬間が楽しいかどうか」に同意。ハンコを強打するような気持ち良き気分で帰宅。

なんなら今、空が明るい。そんな日があってもいい年末年始、フル稼働した手前へのご褒美的なひととき的な免罪符。

そういうのもいいかなと思えど本気で手元がおぼつかない今年の序盤。「大丈夫かな」という懸念は禁じ得ないが現在AM7寸前。まだ呑んでいる。
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流石に呑みすぎたなとめちゃめちゃ寝る。楽しかったからよかったなどと思いつつ、昨日に何を書いたか全く覚えていなかったので読み返したが、ひどい誤字脱字であった。

基本的に日記なので、後から加筆修正などはしないが、さすがにと思い内容は変えずに修正する。アルコールはここまで脳をふやかせるのかと改めて脅威を感じた。

年末年始は本当に全日いそいそとしていたので今日あたりはひと段落。散歩をしたり、デスクトップの整理をしたり、お世話になっている社長と電話したりして過ごす。静かな三が日明け。
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たぶんこのペースでいったらチャンネル登録者数1,000人(YouTube発信における最初の一般的規定ライン)いくまで100年はかかる。

そうは思いつつも、とりあえず手前が描いているプロットの第一ステップ「制作済み楽曲に画をつけて全部アップ」は続ける。今日も制作して1つ仕上げる。

現在登録者数は41名。再生数20回前後のあれば500回を超えるものもあり、最初としては酷すぎはしないのかなといった所感。

ありがたいが、やはり今の所あげている動画はコンテンツとしてそんなに強くないので、まあこれくらいかと現状を見つめる。会う人、絡む人に、「やりはじめたんですよ〜」と伝え、登録を斡旋する。これは身内をライブに誘うことに近い。非常に近い。

では純粋な「客」とも比喩できる数を増やすには、などと試行錯誤する。ともあれ、そう考えているだけでも、世間に散らばるあらゆる要素に対するアンテナの数が増え、それはどう考えても良いことではないかということにする。

そういった感じで「今年の抱負」ではなく、日々のイシュー(長期にわたり取り組むべき課題)と向き合う。また何か事業を思いついて実行したり、これまでしてこなかった仕事や活動につなげるべく。

日々、視野を広げるような、マラソン思考みたいな感じである。随分のんびりしているとも捉えられるが、それが今年というか日単位の抱負。掛ける365日。

それだけあれば、どこか高くて広くて綺麗な場所にいけるだろうと思える。明瞭な目的のない旅のようなもの。そう解釈すると、人生とは果てしなく自由だと今更思う。ふと、そういう感覚を得られることこそ、この抱負のポイントだろうか。

ある種、一点突破とも言える「目標」や本来の意味での「抱負」を抱ける人がうらやましくもあるが。
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そういったわけで早速みつかった「取り組むこと」。それは英語である。これまで、なんとなく「全然いけるっぽい」という謎の自信がありつつも、片言のままである欧米圏の言語をしっかり学ぼうと思った。

理由はとりあえず1点。そうすれば視野がひろまり、これまで気づけなかったことをもっと認識できると思ったからである。

それは、稚拙ながらもグラフィック入りでのコンテンツ制作を始めてからというもの、いままで視覚には入っていたがスルーしていたものを認識するようになり、景色が広がったことに快感をおぼえたからである。だから、このような感じで言語面でも自分を拡張しようというわけである。

事実として、ひどい文法ではあるがネイティブの人と英語で話して「発音がいいね」と褒められたことが過去に3度以上あった。これは、ちゃんと受け止めると同時に「やっぱ、やればけっこういけるはず」と思い込める動機ともなる。

とはいえ、英会話スクールに通ったり、教科書を読んで学ぶというやり方では続かないと思った。

だから、1日ひとつづつ「言い回し」を、翻訳アプリやAIツールを活用して覚えていくというスタイルにしようと思っての2日目。「ビールちょうだい」「何食うべ?」の2つを覚えた。

何故その2つからかというと、リアルに俺が英語圏に行ったと、まず想像するところから始めたからである。

そこで、どんな言い回しが必要で頻繁に使用するであろうか、というスタート地点から拡げて覚えていく。だから最初は、パブに行ったと想定して「何て言えばうまいビールを注文できるかな?」ということで「ビールちょうだい」から始まったわけである。

視覚でも言語でも、拡張すると細部までわかり、ビジョンが広まる。例えるならば、俺がギターを始めた頃、それ以前は「歌とバックのカラオケ」という風に聞こえていた音楽から、「ギターの音そのもの」を分離して聴き分けるようになった。

バンドを始めてからは、ドラムもベースも鍵盤の音も、完全にわけて聴こえるようになった。

音楽制作のMIXまでやるようになってからは、楽曲のアンサンブル全ての楽器の音と各パートの音域など、ほとんど全ての音の要素をセパレートしてのリスニングが可能となった。

それと等しく、ビジュアルも言語も、より明瞭にしたら楽しいな、というわけである。そしてなにより、それらが何かに繋がることは必至だと思っている。

細かく記すとそんな感じだが、シンプルに英語できたらいいなというカッコつけもある。一方で、それが通用しないシーンもあるのが興味深いところ。いつだったか、こんなことがあった。

深夜、近所のコンビニで外国人がレジで激昂していた。なんでも、「自動精算機の支払い方法選択ボタン」を押さなければならないのが理不尽だと、頑固に譲らぬ姿勢を示していた。真っ赤な顔をしながら。

当然、レジはつっかえる。片言の英語で説明する店員さん。俺は見かねて、というかさっさと買って帰ってこのビールが呑みたいという一心で、「おうおう、アニキどうした?」と、解決しようとした。

一応言葉は通じたっぽいが、肝心の「自動精算機の支払い方法選択ボタン」をどうしても押してはくれない。

店のルールであろうか、店員がそれを押すのはご法度で、消費者が直接押す必要があったのであろう。それは店員の発言から、片言なりによく伝わってきた。

そこで、英語が流暢な若きイケメンがスラスラと話しながら入ってきて、おそらく完璧な説明でアニキを諭すもボルテージは下がらず。

なんということだろうか、ちゃんと英語で通じても、意思と解決方法が伝わっていないのである。

俺はこういう時どうしたらいいのかなとか考える前に、兄貴はクレカを持っていたので、こっそりと、サッと「クレジット払い」の表示部分をタッチした。あとはクレカを入れるだけである。

そこでアニキに「ほらっ!」と促すと、彼は決済した。俺は無事に買い物を終え、ビールにありつけた。

そのトラブル後に一応、店員さんに確認したら、やはり店のルールで「店員は決済方法を選択してはならない」ということらしい。

俺の行為は店員どころか第三者なので完全にズルである。その店舗の組織的な法にも触れるであろう。だが、それが最善策であったというエピソード。

それはそれでやや脱線したが、英語がちゃんと喋れれば、その「ズル」がなくとも正攻法でいけたであろう。

「まあまあアニキ、ここはひとつ、ちょっと触るだけだからさ。そうそう、めんどくせえだろ日本って? わかる。わかるよ? 俺もこれ、いちいち面倒だって思ってるもん(笑)。とはいえさ、あとでいいこと教えてあげるから一旦ここ、タッチしてもらってやって手打ちにしてくれねえかな? 頼むからさ…!」

くらい英語で言えば、「何? いいことってなに?」「あとのお楽しみだよ…」という感じで温度も下がり、押してくれたと思う。なによりそれが綺麗であろう。

しかしそのあとで、殺し文句の“いいこと”が只のその場しのぎだったことが発覚してアニキにボコボコにされるリスクも生じる。

しかしそこは英語で「御無礼!」と言いながらダッシュで逃げる。忍者のように。そこまでしなくても、英語でなだめられるくらいの段階までいったら、「俺は英語ができる」と面と向かって言える時期であろう。明日は何を覚えよう。
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「こうきたらこう」という、自身のパターンやクセやこれまでのアウトプット、それら全てをAIツールにインポートする。

そしてそこに、たとえばメールが来たら、受信文を読み込ませて返信文を吐き出させる。

あとは自身がそれをチェックして返す。そういうことがもう可能であり、すでに実践しているという見識者の動画を観た。

そうなるとめちゃめちゃタイム・パフォーマンスが上がる。これを色んな意味で脅威とみるか、希望とみるか。

いま手前はいろんなAIツールに触れ、遊んで、調べて、たまに絡めてコンテンツ化して公開する程度である。

しかし、相当使いこなせばとんでもないと、「革命」と世間が騒ぐのも納得という感覚。

正直、別にAIに触れなくてもいい、とも思う一方で、現代でほとんど全員がスマホでインターネットやアプリケーションを使うのと同じく、AIが生活に浸透する時代はかなりすぐそこだと思った。

そこで希少となるのが、やはり人間のとっさの行動やアドリブ、対応力、発想力、ユニークさであるとも感じる。こういうテーマを考える時いつだって思う。結局、人間の役割とはなんぞやと。

それがわかってしまったら特に考えることもなくなるので、こうして頭の中で疑問が散文のように日々舞っているくらいでいいのかもしれない。結論は、いまのところ出ず。
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著しくだるい朝の起動時だが、仕事をしたらだんだんよくなってくる。一方で年末年始フル稼働からぶらさがる疲労感は認めざるを得ない。

占い師に昨年「働きすぎ注意」という注意喚起があった。それもちょっと含みつつ今日は、制作などをする時間はお休みにして赤羽近隣呑み歩き単独ツアーを執り行なおうと思うも小遣いがもったいないのでまっすぐ帰宅。

一休みしながら、制作についての“姿勢”を吟味する。本来の目的はなんなのかと。

制作物において、ストレートに収益が右肩上がりだった昨年中盤までと現在では、その恩恵が異なる現状。「インターネット上での広告収益」というビジネスモデル自体が、明らかに勢力を弱めている。要は、曲を作って上げても、以前より収入面での効果が薄いのである。作り手の手腕にもよるのかもしれないが。

「すると、俺は金のために音楽などを作っていたのかな?」と、初心を確かめる。ソファで仮眠しながら。

最初は、曲が作ることが出来るだけで幸せだった。次に、聴いてくれる人が居るとわかって嬉しんだ。さらに収入源ともなるフェーズまで辿り、手応えを感じた。

そのうち――現在、数字が下がっている。そこで手を止めて全く次の分野にメスを入れるか。となってくると違うかなと判断した。小規模ながらも音楽屋を謳っているのだから、作ることに滞りが生じたら本末転倒だと。

だから音楽動画の制作を張り切るが、疲れ所以で短時間でしんどくなってくる。しかし喝を入れるべく、俺はハイボール缶をツパシュリと開けて呑みながらAIや動画ソフト(課金ユーザー)をイジる。

するとキツさは無くなり捗る。アルコールで脳が若干アホになっているのである。だが、明日は「ゆとりの日」すなわち、以前で言うところの「半休」の日なので、超たまには呑みながらの作業もいいかなと、手前なりに工夫してグラフィックと音とのマリアージュを追求する。

とりあえず自分が面白いなと没頭できる時期に生じる情念をコンテンツとして記録する。それは本当に大事だと思っているので、その時期の、その時なりのベストをパッケージする。

夕方にふと、杖をついて歩く通りすがりの見知らぬとっつぁんを見て、「あなた方が時代を温めてくれたから、俺はいまこうして暮らせている」と、率直に思った。

数10年後、フガフガ言いながら、最低限の生活をしつつ、横断歩道を渡るのも困難な状態の自分を想像する。

そんな時、「あなた方がいたから、私は今こうして――」と誰かに思ってくれるように、現代でやるべきことをやり切りたいなと、朧げながらにに思う。

その時代、時代での、“その人の役割”とはと、そのへんまで考えたつもりであるが、酒呑むと正直本当にどうでもよくなる。やりたいことやれればいいのではないかと。

だからこそ、それができている今を授けてくれた先人に、敬意を払う。フラッフラの爺さんたち、ありがとうございますと。
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ゆとりの日は、ほぼ確で散歩に行く。それも無目的で歩く。2〜3時間は歩いて、なんとなしに入ってくる情報や美しさや気づき、閃きなどを集める。

しかし今日は明確に「美術館で生のアートに触れたい」という目的を肚に上野公園の東京都美術館へ。このあいだのようなことが無きよう、ちゃんと休館日ではないことを確かめて。

到着し、もう建物の造形からして美しいではないかとブワと興奮する。ロビーにて、係の方にざっくりと、今日あたりは何が催されているかを聞く。見たいのは西洋美術とか現代美術である。

「今日は書道展だけです」

「字のやつですか?」

「さようでございます」

「こう……なんというか、絵みたいのは?」

「モネなど印象派の展示は27日からでして――」

はあ、そうですかと、あからさまにしょげて館内を周る。書道に全く興味ねえなと思いつつも、せっかくだからという思いから「書道展」を一通り見る。そこから俺は新たな視点に目覚めた。

という感じだったらよかったのだが、実際は「よく書けてるね〜」「書道家という生業があるくらいだからね!」「前提として『字』なのに読めないのもあるね〜」という、シンプルな感想しかなかった。

しかし、どの書道にも個性があり、なんか感じることがあったが、言語化すると前述の程度。

まだまだセンスの幅が必要だなという課題ができたのはいいことだと館を後にして、有名な「上野東照宮」などに寄る。キラキラと目を輝かせている外国人観光客などで賑わっていた。

だが、俺は寺などの日本的な美は綺麗だなとは思うが、どうも、琴線にはそうそう触れない。むしろ、西洋美術や教会などの美麗に妙な懐かしさをおぼえる。前世は日本人ではなかったのかもしれない。中世ヨーロッパあたりで売れない絵を一生描いていた人生だったのかもしれない。

そんなことを考えながら不忍池あたりを歩く。ふと目についた、きっとマイナーであろう小ぶりの祠で初詣をする。

「とにかく、俺が幸せに、健やかに、楽しく暮らせますように」と願を懸ける。いつもは「みんなが幸せになれますように――」と、聖人ぶった祈りを捧げるのだが、「まずは自分が幸せでないことには」という“順番”に気づいたので、今年はセルフィッシュに祷る。「まずは周囲のために」というのも当然正しいが、たまにはと思って逆いった。

不忍池では、池にも道にもカモや鵜などが元気にグアグアしていた。犬が居た。俺はふと、「犬がカモにガブリと噛み付いてそのまま食うシーンが見たい」と思った。そこから生じるリアルな「美」を見出したかった。

犬より下等なその思考はもちろん具現化されず、犬はハッハッと普通に歩き過ぎた。

そりゃそうだよねと、そんなことあったら事件だよねと、キャバクラ街に抜けてアメ横通り経由で帰宅。特に収穫はなかったがリフレッシュはできた。

宅でAIツールで遊んだり制作したりする。具体的に繋がっていなくても、実際に見た景色や美しさなどは無意識下に落とし込まれ、グラフィックに対する良し悪しの判断材料となるという見解の元に。

韓流パクチー拉麺・ザ・デトックス(レシピ:「ノグリラーメン」「パクチー200円ぶん全部」「舞茸100円ぶん全部」「鶏肉」「料理酒、ほんだし少々」)を作って発汗しながら食う。また机に向かう。

インプットとアウトプットと解毒の1日。ゆとりの日としてはわりと得るもの出るものあったなという新年の良日。
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最近、エンゲル係数(家計の消費支出にしめる食料費の比率)が高い気がする。すなわち、“生活水準が低い”とみなされるのは何か腹立つなと思う。

ともあれ、毎月10日に行っている資産集計をすると、先月より減っているわけではない。むしろちょっとは増えている。借金も順調に数万単位で返済できている。

じゃあいいやと思い、今没頭できることに集中する。それがいつ収益に繋がるかなど緻密に計算するわけでなく、純粋に、夢中にやって、ただ楽しいということを大切にする。今年の年単位ではない、日々の抱負というかアティチュード(姿勢)である。

制作音楽とグラフィックのコンテンツを、動画ソフトやAIツールを使って創作する。最近は毎日こればかりやっている。するとやはり、美術館などでインプットしたいという発想と行動も能動的に出る。

普通に考えたら、それらの時間を仕事でもバイトでもなんでもいいから金になることに充て、経済的にかなり余裕が出てからやるのが一般的な考え方だろうか。一応、その解釈も念頭にはある。

しかし、今まで手前はそういう生き方をしてこなかった。もし、そういう風に順序立てて一点突破したら現在、ぜんぜん違う人生を進んでいるのであろう。

ふと考えると、10代の時にギターを手にした時は何も考えていなかった。ただ、弾きたくて面白くて、気がつけば何時間も経っても楽しいから続けた。その時の没頭は、現在の音楽においての収益につながっている。

20代の時に、SNSの走りみたいなプラットフォームで、こんな感じの文章を連日投稿し、そこで反応などを楽しみつつ文章を書き続けていた。それは、後の30代の頃のある日、現在編集者兼取締役の村上氏から「――でいつも平吉が書いてるやつたまに読んでて、文章書くの凄い好きなんだと思ったんだけど、試しにやってみる?」という一言から、俺をライターにしてくれたことにつながった。

共に、仕事ともなった各点は、現在進行形である。何が言いたいかというと、他の人がどうかはわからないが、自分にとっては、「その時々の今、夢中になって日々続け、アウトプットまでしていることが、未来を拓くことになった事実がある」ということである。

何か明瞭に狙って目標を定めてPDCAサイクルで進めるより、俺は今熱中できることを大切にしてやり続けることが、後からついてくるタイプなのかなという視点で捉えた。

「お前の現状で――そんなことやる齢じゃないだろ?」というのがきっと一般論だろう。だが、せっかくの貴重な人生、自分らしく生きたいという最大級の我儘を通して、死ぬ前に「やっぱ正解だった」と振り返りたい。

そして、それが誰かの喜びとほっこりと幸せにつながっていれば最高である。むしろそこが一番大事かもしれない。ビートルズの新曲のタイトル“今とあの頃”という意味と照らし合わせたら、さすがに恐縮かつ大げさかもしれないが。

そういったわけで、エンゲル係数高くて生活水準が低かろうが、俺は今幸せであり、周囲の人と環境と、とりまく全てに感謝している。

とはいえ、金を蓄えたり借金を返済することが先決であろう鋭利な正論は、一応常に頭の隅にある。隅に置いてはならんのであろうが。
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つらいので過度に酒を呑む。これは御法度としている。

なぜならば、その半歩先には、アルコール依存症の入り口で構えるチャーミングな風貌の妖精に、さもそれが「愛の事である」とマインドセットされつつガッと全身を抱きしめられる瞬間があるからである。

だから手前は原稿を書いたり音楽制作をする時は絶対に呑まない。加えて、独りでいるとき、陽が高いうちに呑むことは禁忌としている。

などと言いつつ、疲れてつらいのでハイボール缶に手を伸ばしたのが23時頃。動画制作中であった。

まあ、このタスクに関してはいいかなと、弊害もないしなと、たまにならいいよねという葛藤が1ミリくらいありつつ呑んで作業する。まだ収益化できてないうちは仕事ではないしなと、シュパルとアルミ缶のプルタブを中指で一気に引き上げて呑む。

「酒を呑むと角がとれてマイルドになる」と、漫画家の永田カビさんの著書にそう表現されていた。シンプルかつ端的で、感銘を受ける。

俺の場合はそれもあるが、雑念が消えて集中力が増す“勘違い”がプラスされてブーストされる。眠気が飛んで作業時間を延長できる。

これが習慣化されたら間違いなく寿命が縮むのでほどほどにする。3杯呑んで「足りん」と、夜中コンビニに行っておかわりを買い足すよりマシである。それは、去年よくあった手前の悪しきムーブであったが、今はもういっさいしていない。

そういったわけで、「トリス・ハイボール500ml」ひとつでゆらゆらする24時半。疲れに効くなというエフェクトを確かに実感しつつ閉じる1日。そこまでしてやりたいという熱狂が湧くものをみつけてよかったなと思う。

結果や目測よりも、楽しんで集中できることがあることは、まごうことなき幸福。なのに、もう寝ちまえばいいのに酒呑んでまでやるあたりの過度なしつこさ。これをどうとるか。
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なんとなく、隣の北赤羽駅を探検したくなったのでJR埼京線で一駅移動する。たいへん小規模な遠出である。

そういえば、このあたりはじっくりと散歩したことがなかったなと、新鮮で凄く気持ちよくなる。団地があった。自宅近隣の赤羽台団地や、そこから少し先の桐ヶ丘団地は、再開発で現在ほとんどの棟はなくなりつつある。しかし、北赤羽の団地は20棟以上、昭和のデザインを保ちつつ改築された外観で現存し、団地マニアの手前にとって垂涎の絶景だった。

ほんとうに、心が洗われるような気持ちになる。ほっこりしながら歩く。通りすがりの人たちは高齢者がほとんどだった。一昨年失敗した高齢者向け事業は北赤羽を拠点とすれば上手くいったのかもしれない――という女々しい考えが一瞬よぎる。

とりあえず、終わったものはしょうがないと切り替える。俺が昭和団地に魅力を感じるのは、どこか、役目を終えたものが放つ特有の空気感や周波数が理由なのかもしれない。3歳まで団地育ちだったから懐かしいだけなのかもしれないが。

気が済んで、一駅ぶんは歩いて帰ることにする。川沿いをなぞるよう、てくてくと、歩く。汚ねえ川だなと思いつつも、ふと目に入る古い工場とのコントラストがインダストリアルでたまらなかった。

そろそろか、というところで電柱に目を向けると「赤羽北」と記してあった。長年赤羽に住んでいるが、「北赤羽」と「赤羽北」というエリアがそれぞれ独立してあるのだなと初めて知った。

ハラが減り、18時すぎくらいに食材を買って帰宅する。仕事部屋のデスクにつき、それから数十分すると、やたらと緊急車両のサイレンが鳴り渡る。「それにしても鳴りすぎだろ」と思い、先月の赤羽シルクロード街の火事を思い出す。

さすがにね、と思いつつ「X」の検索エンジンで早い情報を得ようと「赤羽」とワードを打つ。すると、なだれのように投稿されている同一情報の数々から「赤羽北で火事発生」という事実を知る。

おい待てよ、それはあんまりだろと仕事部屋の扉を開くとキッチンが明らかに焦げ臭い。開いたままの窓から火事の煙が流れてきているのである。

たまらない、と思って買い忘れた材料を求めてスーパーに向かうと、道中はかなり煙く、やや白く霞み、歩いてしばらくすると頭痛がするほどであった。

さっきまで、赤羽北に居た。どこで火事が起きたのかと宅に戻って調べると、正に帰宅する数十分前まで歩いていた場所のすぐ近くであることを知る。併せて関連情報で昨日、板橋区高島平で火災があったことを知る。

3歳まで俺は、高島平団地で育ち、そこは本籍地でもある。そして、先月今月と連続しての火災。トップニュースに上がるほどの惨事。

きっと、主に国内において誰もが思っているだろうが、今年1日から悲しい出来事が連発している。俺は、被害が最小限であることを祈ることしかできない自分に無力さを感じる。そして、ついさっきまで居た場所でも火災に見舞われている人がいることを実感する。

こういう時なにをすればいいか、どんな気持ちになればいいのかと考える。なんともやりきれない思い。繰り返しになるが、とにかく、各地の被害が最小限であることを祈る。こういう時にすぐに、適切な行動や援助を、大いすることができる力がほしい。そのためにも、明日も、できることを、これからもっとできるであろうことに尽力したい。
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今日は何も、でかい惨事のニュースはないなという気もする。その一方で、俺が知らないところで確実に誰かが死んでいるし、人生最大級の幸福を享受していたりする。

そのへんを考えているときりがない。なんとなく、“ただ一切は過ぎていきます”という、太宰治さんの代表作の小説の後半のフレーズを思い出した。

著者がどんな気持ちでその一節を吐き出したかは計り知れない。人それぞれ解釈があるだろうが、俺はこのフレーズは信じられないくらい残酷な人間の本質をついていると衝撃を受けた。読んだ当時、「この人は、この一言を記したくて、この小説を書いたのではないだろうか――」と、思うくらいであった。

“太宰治は、死にたいんじゃなくて生まれ変わりたかったんじゃないだろうか”と、主人公が玉川上水にダイブして吐露するシーンがある漫画を買った。書店で「1巻お試し読み」がある作品であった。俺はそのページが決め手で新刊購入した。

『あくたの死に際』というその作品は、シリアスなタッチや描写ではないが、現代における「創作や、物事と真剣に向きあう」ことに対するフィードバックの残酷さが垣間見れる。まだ1巻しか読んでいないのでそのあとはまだわからないが、凄く面白いと思った。

9年務める会社員31歳の主人公が、燻っている小説家への夢に再びチャレンジするまでの心理描写と周囲からの目線。一言でまとめると雑で失敬かもしれないが、俺はまず一巻を読んだ限り、そう解釈している。

どことなく、真剣になにかに向き合う姿勢たるやと問われるような内容。「作品」というものを世に提示するまでの心境や過程のリアルな事実。

俺はどうしても、漫画でもなんでも「作品」に触れる際はどうしても、どこかしらの角度で自分と照らし合わせる癖がある。それは、俺だけじゃないのかもしれない。例えば、映画『羊たちの沈黙』だったら、自分の中の悪しき人格が、完全にハンニバル・レクター博士の狂気に感情移入できた。それは感動にまで至るほどだった。

もし、その映画に「伝えたいメッセージがある」としたら、全然そこではないのかもしれない。しかし、俺は「自分の本能と能動に正直であり、それをハイスペックな自身が振り切って欲望のままに生きたらどうなるか」という“モデル”を凄まじい解像度で表現されていると震えた。前提として、レクター博士のような行動は絶対にしてはならないが。

手前が小説家になりたいというつもりではないが、おととい買ったその漫画を読んでいると、相当難しいハードルがいくつもある事に対して、能動に従いつつ真剣に取り組む姿勢のなんたるか。このへんがなんか刺さる。

なにかを作る人にとってはエールにもなるし、ポキっと折れてしまう側面もある。そういった意味で、残酷さがあると思った。要は、そういう作品が好きというだけの話かもしれない。

俺が知らないだけで今日もどこかで誰かが死んでいる。誰かが驚喜している。絶望している人がいる。コツコツ頑張っている人がいる。そんな目線で考える手前一人が死んだところで、それは続くし過ぎていく。

何が言いたいかというと、そういうことを直線的に考えさせてくれる作品との出会いは貴重。俺もまた、そういったものが作れたらな、などという思索。

「お前は何様だ?」と、ストレートに言われたら、「いや、すみません」となりがちなきらいもあるが、なにかを作ろう、作る、という行為は恥ずかしいことではない。むしろ、恥ずかしいところをさらけ出す位やらないと、刺さるところにも刺さらない。そんなとこなのだろうか。

そういったわけで今日も仕事をする。制作をする。数字が伸びようが全然ダメだろうがやり続ける。失敗ならそれはそれでいいと思う。

「ほらな、時間の無駄だったろう?」と言われれば、俺は偉人の言葉を借りて言い返す。「いいや、失敗のパターンをまた一つ学んだ。それも深くだ。やらないより、100万倍以上の価値がある」と。

とはいえ効率や見切りも大切。だがしかし「その時に没頭できるか否か」はもっと大事。なんで人生とはこんなにも難しいのだろう。

きっと生まれる前に上の方で「そのコースでお願いします!」とか元気にオーダーしたのかもしれない。

もっともっと難しく生きて、成し遂げる人はたくさんいる。そうでない人もいる。全部、自分で決められるあたりは、生きていること自体に感謝できる。
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夜な夜な一人、カタカタと制作をしては興奮する。YouTubeで5日おきくらいで最近出すコンテンツに対する反響が、いかに零細なものかは、数字で自覚している。

しかし、完全オリジナル音源 × 生成AI × 動画制作および画像制作ツールの組み合わせで何らかを作ることへの興奮は、鼻血を禁じ得ない。

これがどこに繋がるかはいまのところ、わかっていない。そんなことよりも、十代の男子が抱くセックスへの関心くらい熱狂できる対象が、日々膨張していることが嬉しい。

もし俺に嫁がいたら、三行半確定である。

「もう、あなたは、バカになったというか……ごめんなさいね。私にも――」と、途中で敬語になるあたりが、明白な破綻を示す。

いまのところ、全然たいしたことをしていないのであろうか。しかし、面白くて仕方ない対象を見つけたことに、いかに熱量を注げるかということが肝心だと思ってしまっている43歳。痛い。自覚・客観共に痛い。

明けて今朝、ソファで気絶したまま死んだとしよう。後悔はいくぶんかあるだろうが、それでいいんじゃないと思える気がする。

そんな毎日の積み重ねでいたい一方で、いつも思うのが「俺が何をすれば喜ばれるのかな」という、わりと多分まっとうな思考。いろいろクロス・フェードしつつ、今日も誰しも、平等に過ぎていく。
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「世界地図」と銘打つ本が平積みされていた。いやいや、この時代に地図の本、いらんだろと怪訝に思った。しかし、そうだとしたら目立つ位置には陳列されないはず。何故かと理由が知りたかったので手に取った。

すると、地図そのものがメインではなく、あらゆる事象における各国の特徴や差異が事細かに記されていたインパクトにめっぽうやられた。

車の販売台数はトヨタが世界一。日本強いなと思う。てっきり「テスラ」だと思っていた。

AIに関するあらゆる姿勢においてはアメリカが1位。日本は10位だった。これも案外、国内ではあまり浸透していないのだなと納得した。

前提として俺は差別意識はないが、LGBTQ(本では「LGBT」と表記)に対する許容度(確かその本にはこう表現されていた)というか言い方が難しいが、そういった観点ではオランダが最も理解度――これも表現が難しいが――が高く、とある国々では禁忌とされていると知り、戦慄した。

企業の株においての人気度では、アメリカやインドが上位で、日本は3位だった。現在では4位くらいという情報もある。

人口面では、やはり中国とインドがそれぞれ約14億人と圧倒的で、イギリスや韓国は日本の半分くらいの人口だと知る。そして、インドネシアが約2億8千万人でアメリカに次ぐ世界4位の人口数だという。

ほかにも、輸出量やら半導体がどうのとか飢餓率――グローバルの各事象が、数字やグラフで記され、傾向がいろいろとわかるように書かれていた。これは、非常に価値のある本だと思い、手に取る前の第一印象は撤回された。

そうかなるほどねと思い、ちょっとYouTubeにスライドさせた。ChatGPTで各国のYouTubeユーザー数や傾向を調べる。各国の言語に対応させれば、俺のチャンネルのインプレッション(この場合ユーザーの反応)数も上がるのではないかと思ったのである。

チャンネル名が日本語か英語以外である時点で、俺がその動画を再生する機会は明らかに下がる。手前だけではなく、基本的にみんな母国語の動画の閲覧がメインであろうということである。

つまり、チャンネル名や概要文を、あらゆる国の言語で表示させればいいのではないかという発想が「世界地図」の本を立ち読みしたことから生じたわけである。

だから自分のチャンネル名と概要の部分を、本とAIで理解した人口とYouTubeユーザー数が多い国の母国語に変換した。

人口数も踏まえ、YouTubeユーザー数が最も多いのは「インド」である(約4億67百万人のユニーク月間ユーザー)。

だから、ヒンディー語でいつもYouTubeを見ているインド人の「おすすめ動画」などに俺のチャンネルが上がった場合は、「हिरायोशि केनजी(チャンネル名)」「यह एक चैनल है जो जापान के विभिन्न प्रकार के संगीत पर आधारित है।(概要:日本のほっこり音楽チャンネルです)」と表記させる設定にした。

次に多いのはアメリカ(約2億47百万人のYouTubeユーザー)。だから英語がデフォルト表示させている場合は、すべて英語で表示させるようにした。

そして、意外だったのがインドネシア(約1億39百万人のYouTubeユーザー)。もちろん、インドネシア語で表示されるようにした。名前はどうやらローマ字でよいとのことなので「Hirayoshi Kenji」として、概要は「Ini adalah saluran tentang berbagai jenis musik Jepang.」とした。

そんな感じで、ポルトガル語や韓国語でも同様に設定する。韓国語の言語設定でYouTubeを観ると、俺のチャンネルは「히라요시 켄지」と表記されるようにした。もちろん、日本語設定のユーザーの画面では、ちゃんと日本語で表示される。

これでインプレッションや再生数がグローバルに上がったら素敵だなと、地味にわくわくする。それだけで上がったらみんなやってるだろうが、俺は今日初めて知って実行した。

これが上手くいったら、その概要を説明する動画が一本作れる。なんだか、本一冊読んだだけで、ずいぶん発想の枝分かれが飛躍する時代になったなと実感する。

とはいえ、先述の言語変換を行なって数時間。再生回数などは特筆して変わっていない。

まあ、そんなもんかと、いや、時間と日数をかけてじわじわくるかもしれないと、いずれにせよ未来への期待感は高まる。

コメント欄に各国から、下記のような反応がきてくれたらもうたまらない。

「Japanese music is pretty good, isn’t it? I’ll count on it in the future!」

「जापानी संगीत बहुत कूल होता है! आप आगे भी मेहनत करें!」

「Musik Jepang itu keren, ya! Semoga sukses terus!」

「일본 음악 멋져요! 앞으로도 힘내세요!」

いずれも、「日本の音楽なかなかいいね! これからも頼むわ!」的な意味。期待するのは自由。実行するのは誰かのほっこりになってほしいという能動。結果は、場所やタイミングによって異なる。

良き方向に転じれば、今日の一連のタスクは、手前を拡張できたということになる。

本を読んで、最新ツールを使用して、自分なりの工夫を重ね、誰もがアクセスできるところに置く。

記すとシンプル。実際にやると、わりと色んな思考が必要だが、AIが手伝ってくれる。それがいまは凄く楽しい。

というか、そこまで感銘受けたなら「世界地図」的な本は購入するべきだが、本書価格1,800円をケチった。その浮いた金で買った酒とカツオのタタキを今から食う。インドや韓国などで俺の楽曲が再生されていることを想像しながら。
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本を購入して読むという頻度は人並み以下だが、立ち読み読破(よくない)を含めると、けっこう手前は本を読む方なのかなという気もしてきた。今日も書店であらゆる本に手を伸ばす。

セールス面好調のビジネス書、売れてる作家の小説、PC・デバイスのマニアックな雑誌、女子目線でのお金の運用の本、英語学習書、田中角栄、ファッションジャンル総まとめ的ガイドブック、フォントとカラーデザインの参考書、などなど。

まるっと読破ではなく、サササと各書籍を読み回した。

記憶に定着したのは、小説については人並み以下の興味度という自覚、女性は――恐らく男性よりもかなり人生において――「結婚」という概念を重要視し、「地雷系」というファッションジャンルがあること、デザインはフォントと色使いの工夫でクオリティがまるで違ってくること、田中角栄さんはコンピューターを搭載したブルドーザーであること、これくらいだろうか。

得た気がするそれらの知識が何に繋がるかというと、直線的には考えていない。どこかで、「ああここはあのデザインの――」「ここはひとつ『地雷系』アプローチで」「あの女性は、結婚を視野に入れているからああいった発言を?」「時には田中角栄さんくらいのバイタリティでいこう」など、生活や制作においてどこかで線が差すだろう。

宅ではインターネットとYouTubeとChatGPTで情報収集する。これは直で知りたいことを調べる。試す。このへんでけっこう疲れてくるので、モロヘイヤ・辛ラーメンを作って発汗しながら食べて一休みする。

起きて楽曲制作をする。聴けばドーパミンやオキシトシンが分泌されるという難解なコンセプトのエレクトロミュージックを作り進める。土台ができそうだなというところで0時寸前。今日はここまでと、DAWを閉じる。

田中角栄さんだったら朝寸前まで制作を進め、また早起きして1日を過ごすのかなとも思う。しかし、参考にして自身に合うものとそうでないものがある。だから、オールジャンルというか、手前が持つ関心と全然関係ない本も読んでフレキシブルにヒントを探す。寄り道多き人生。それはそれで。どうなのだろう。
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動画として上げようとしている曲を改めて聴き、作成当時のミックスでは「聴き手のことを考えてないな」と今になって思う。

今と当時では機材環境も異なるので仕方ないが、印象が変わらない程度に聴きやすくリミックスする。

当時なりのベストを尽くしたという理由で、なるべく直したくはないのだが、明らかにそのほうが聴きやすくなると判断できたので、「ちょっとうるさいな」という部分だけ手直しする。

あとは仕事したりコンテンツをアップロードしたり、情報収拾をしたりという、ここ最近のふつうの日常。昨日のなにが良かったのか特定しきれないが、いつもより体調がよい。
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今日も体調がよい。こういう時、思わず人はサッと死ぬのかな――などと考えつつ普段通り過ごす。いつも通りに、感謝しつつ。

ぜんぜんいつも通りではないのがAIツールの進化である。今日も、なんだかルーティーンと化した生成AIツール活用に励む。

勤しんでる感覚はあるが、手前なりにそれらも駆使して作成したコンテンツのアップロード先であるYouTubeでの数字は、さっぱり芳しくない。

そこは、シンプルにまだまだ魅力が足りていないのであろうものかと、今日も新たな制作方法やら機能やらを試す。現状、とりあえず手前は没頭できているが、人様に喜ばれないと本当に意味がない。

だから、試行錯誤してツールの機能を片っ端から試す。今日あたりは実写のアニメタッチ化を試みた。俺はえらい興奮するが、それがユーザーに届くかといったら別問題。

フェーズをスキップしようかなと3DCGのツールにまで手を出したが、これは本当にハードルが高いという所感。例えるなら今までMTR(直感的お手軽録音機材)でデモ曲くらいは作れていたが、いきなりメジャーレベルの音源をDAW(プロのレコーディング・ツール)で作れるか、というレベルだと如実に感じた。

とりあえず3Dは遠くない未来のステップとする。日々、そうでも割り切らないと、迷子になって手が止まる。これは最もよくないという自覚。

今日一番強く感じたことは「時間が足りない」ということである。それは、もっとスピーディーに、達者に、各最先端ツールを使いこなせれば、今描きたいものをササッと作れるのになと、コンテンツの書き出しや読み込み中の待ち時間に「まだかな」と思ったからである。

現代の環境がスタート地点のクリエーターは今後どんな素晴らしいものをつくるのだろうと思わず時計を眺める。

そこはやっぱり遅れをとりたくないなと、今日も俺なりにテクノロジーに対して奮闘する。はやく、「俺が楽しい」から「受け手こそが楽しい。みんなほっこり」に転換したいと願いつつ。
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ドメスティック・バイオレンスな姿勢での統治やら支配やら。そういうイメージがあった「帝王学」。だが、違った。手前の無知さにも程があるだろうと思った。

1冊、一気に読んだ『激動期を生き抜くこれからの帝王学』という書籍には、まず冒頭に、“帝王学とはお金と幸せを結ぶための教養”と記されていた。

めちゃめちゃ健全じゃないかと手前勝手な想像は翻された。

内容を要約するわけではないが、俺的に強く印象に残ったことは、「どうすれば相手に喜んでもらえるか」ということを常に想像し、考えて、行動する。これに尽きる。と強調されていた点である。

もう少々ひらくと、「ないものではなく、あるものにフォーカスすること」がよしともされていた。少し哲学的だなと思ったが、すごくいい例と共に、なにが言いたいのかが綴られていた。

それは、人気のないレストランで客は一人きり。店主はため息をつきながら空席ばかり気にしている。たぶん、俺が店主だとしてもそうなる。「早く……もっと客こねえかな」と。

しかし、そのたった一人の客は帰り際に、「あなたは誰もいない空席ばかり見ていましたね」と言ったという。店主はハッとする。

もちろん、店主がその時にするべきことは、その客1人に対して全力でサービスをし、もてなし、喜んでもらうことに努めることである。

「客の“いない空席”ではなく、“いま居る客”に集中すること」それが大事だという、わかりやすい例だった。

俺もハッとした。いろんなことに置き換えられるからである。例えば、たとえばの話だが、俺がワンマンライブをしたとする。キャパシティ100人のハコにオーディエンスは数人。俺はきっと「お客さんスカスカだな〜」と、目の前の方よりも、フロアの地面を見て嘆くであろう。

そうではなく、せっかくチケットを買って来てくれた数人のために、全力パフォーマンスをするのが帝王学的な在り方ということ。

YouTubeにしてもそうである。実際やってみたら思うようにチャンネル登録者数も再生数も伸びない。

「増えねえなあ〜」とここ最近毎日思っていたが、そこではない。いま、視聴してくれる人がどこからアクセスして来て、どのへんのタイミングで離脱して(動画再生を止める)、どの動画は喜ばれているのか、どういった曲やグラフィックだと高評価が多いのか。

「あるもの」に注目して、改善を重ねて、誰かにとってより良いコンテンツを作ること。結果的な数字を追うのではなく、まず、喜んでくれる人がちょっとでもいることを認識すること。それを少しづつでも努力して増やすのがベター。

それが、“「どうすれば相手に喜んでもらえるか」ということを常に想像し、考えて、行動する”ということかと、ス〜っと染み入った。

加えて、その本には、呼吸法からの瞑想や、「いまという瞬間に集中し、大切にすること」やら、「人に笑顔になってもらえれば後からお金はついてくる」など、あらゆる方面の大事なことが書いてあった。

それは、俺が昨年ドハマりして感銘を受けた、ユダヤの教えの各本や、元僧侶が執筆した名著の内容と繋がる点がわりと多かった。共通点は、あたりまえかつシンプルだということだろうか。

これはためになったと、デスクについて作業する。2Dアニメーションに挑む。しかし、システム環境やスキルの問題で「いまやるべきことではない」と判断して音楽制作をした。

途中、アニメーション制作ソフトインストールのためにファイルを整理していたら誤ってSSD内マスター音源を全部消去――という凍りつくようなトラブルもあったが、そこはバックアップがいくつかあり、さらに全曲ウェブ上に公開中ということも合わさり、ことなきを得る。なんならDAWから全部もう一回書き出せる(同じファイルとして作成できる)。

いまやることは、現時点での全力制作の曲や動画コンテンツや記事作成などで、誰か一人でも多くほっこりしてもらうこと。ユーザーに笑顔になってもらうこと。その全行程を、俺自身が楽しむこと。「帝王学」についての本の内容を、いまの手前に照らし合わせるとそんなところである。

なお、「帝王学」についてはもっともっと広い見解があると思われる。本文は、その本を1冊読んだだけの俺の知識で感じた感想と、心象的な体現である。

制作やら以外にも日々、やることはいろいろとあるが、全てに通ずると思った「帝王学」の知識。明日からもその時に集中して、新たなアンテナも常に広げつつ、いまやれることを張り切っていこうと思う冬の1日。
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物事には限度というものがあるだろうというほどの寒さ、東京都。震えながら外で煙草を吸うその行為は、絵にならないというか滑稽。

それはそれで風情かなと、先日学んだことを、もう少々伸ばす。なんでも「帝王学」というやつは、まとめると以下の通りだそうだ。

“帝王学とは、主に国家や組織を治める君主や指導者に必要な知識や技能、理念を体系化した学問であり、起源は古代中国の政治哲学に遡る。孔子や孟子などの儒学者によってその基礎が築かれた。

政治的なリーダーシップ、道徳的な統治、戦略的な判断力、国民の福祉の追求など、統治者としての資質や行動原則に関する教えを含む。

また、歴史上の君主や政治家の事例を学び、彼らの成功と失敗から教訓を得ることも重視される。現代においては、政治学や経営学、倫理学の要素を取り入れつつ、より広範なリーダーシップ論として発展している。”

これは俺が1からまとめたものではなく、ChatGPT4に質問して400文字でまとめてもらい、さらに手動でリライトしたものであるが。

まあ、先日読んだ本の内容も勿論含まれるなと納得。しかし、AIに説明してもらって納得する場合と、本を読んで感銘を受けつつ頭に落とし込むのとでは、質というか解像度というか、エモさが段違いに異なる。

ゆくゆくは、前者である調べ方が主流となるのかもしれないが、長期記憶に残るのは、本を読んで感動して、自分でもちょっとは説明できるようになる方が、学びとしてはいいのかもしれない。

だがそこには、かかる時間の圧倒的な差が生じる。情報量が凄まじい現代と今後では、本の要約動画を観るなりショート動画で要点のみをおさえるなり、AIでサッと知るほうが賢明なのかもしれない。

一方で、「そこに説得力があるか」が必要な場合は、本を読んだり、自分で仮説、検証、フィードバック、などの順を踏むなりするのが豊かな手順だろうか。そこに「体験」が混じるとさらに倍づけ。

要するに、一次情報(自身が直接体験、調査、実験をすることで得られた情報)に勝るディープなものはないのではないかということを感じただけである。

ただ、それだけでは色々と追いつかないので、本を読んだり、動画で参考にしたり、AIに質問したりと、バランスよくそれぞれで学ぶのがちょうどいいのかなと思った。

何が言いたいのかというと、やはり本当に価値のある情報というのは、その人のリアル体験によって生じた感情、思考、証明、結果、失敗、成功、再現性などではないかという雑感。

今日俺が得た一次情報は、「久々にしっかりギターを弾いて、ヘタクソになってないか懸念があったが、小一時間で感覚は取り戻せる。その背景には、10代の頃から練習を重ね、人前で演奏し、録音物をいくつも制作し、対価も得ることができるようになり――その時その時で、常に本気で取り組んできたという事実がある」ということだろうか。

そんなの当たり前だろう、何を自慢げに語ってけつかる。と言われそうだが、何かを習得することにお手軽な方法はあるにはあるが、その密度に関しては人間の体験の積み重ねが必要不可欠であるという個人的解釈。

とはいえ、何事においてもタイパ(タイムパフォーマンス)のいい習得方法はいま、いくらでも世に存在している。それをどう、有効かそうでないかを見極めるかが肝心となってくるのは、インターネット黎明期の「嘘を嘘と見抜けない人間には――」という、西村ひろゆきさんの言葉とちょっとリンクする気がする。

嘘、とまではいかないが、「これじゃねえな」と、そのコンテンツを見極める能力とスピードが、この先求められるのではないかと気がついた。いまさら気づいたのは俺くらいなのかもしれないが。
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銀座の興行案件で1日ほっこり。主に、みなさまの楽しげな姿を後ろの方面から見守る。

途中、「利き酒(3種類)」と銘打つミニゲーム的余興に100%くらいの自信を持って加わるも案外俺はバカ舌であることが露呈。

とはいえ、めちゃめちゃ高いウィスキー(サントリー「響」のいいやつ)も呑ませて頂いたことに加え、なんか面白かったからよしとする。

ちょっと意外だなと思ったのは、あまりに自信があると公言していたことからか、お遊び的な余興なのにシンプルに緊張するという生理現象が生じること。それはそれで真っ当であると、本気と緊張はセットであり、実はとてもよいことなのだなと改めて思う。酒に本気。

そのようにゆっくりと過ぎる日。振り返ると、まだ新年たったの21日しか経っていないのかと、良い意味で日々の密度の幸福に感謝する。

特筆して酒が回っているわけではないが、綺麗事ではなく、きちんと日々に感謝できるようになってきたあたり、ちょっとくらいは大人になってこれたかなという所感。角瓶と、山崎の差を誤る、自称酒通。
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起床して喉痛く、おやこれはまずいと思い葛根湯を水と共に嚥下。よもや風邪かと思いつつ、仕事すれど徐々に治まる。

メンタルさておき、体は謎に丈夫というギフトに感謝する。どういう訳か、今年に入り性欲がどこか春の先を行っているなという妙。だから特筆してどうするという訳でもないが。

バイオリズムが馬鹿になったかなという終日纏う感覚。生きているとはこういうことだなという綺麗事と片付けず、普通に過ごす。

今日なにかあったかというと、記憶の全てを言語化すれば100万字ほどのくだりはあったはず。しかし感覚的にはこの程度。要は元気に各タスクを楽しくこなす。

1日をまとめて記すと今日は原稿用紙1枚分ジャスト400字。そのように圧縮できる日もあれば短編小説ボリュームくらいの日もある。

そう考えると、毎日自然にデフラグ(記憶媒体の最適化処理)されるのは、脳の神秘というか都合の良さを実感せずにはいられない。よくできてる。人体。
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2022年のなごり。当時立ち上げた高齢者特化型便利屋サービスの事業自体は閉じた(撃沈した)が、リピーターとして残っていた顧客がおり、その2名だけ今も対応している。当時の業務端末は解約したので、俺個人の電話番号で承っている。

お客さん方には事情を話しているので、サービスを必要とする数日前に連絡するよう促し、空いてる日に対応する。要は、月に1、2回、近所のおじいちゃんおばあちゃんの買い物や支払い代行やお掃除などのお手伝いをして、数千円ほど貰うノリである。

ともあれ、お客さんが過剰なまでに感謝してくれているのでとても気持ちが良い。お手伝いをして小遣いを貰うというノリではあるが、そこはきちんと屋号のハンコを押印してある領収証を渡し、事業収入として計上する。

そんな感じで小一時間ほど仕事をして、定期検診にクリニックへ行く。宅では、数字が伸び悩んでいるという理由でYouTubeにまつわる情報収拾に努め、パクチー特盛韓流ラーメンを作って食べて汗を流す。楽器練習をして、動画制作をする。

なんだか今日は軽めの日だなと思っていたが、書き出すと色んなことをしていたなと気づく。なんなら、読書も音楽制作もしたかったが時間は平等に流れていく。

行ったことはここに毎日書くが、行うことは、デスクにいつも開いて置いてあるノートに書いてある。やったら横に線を引く。線を引けないと、気持ちがよくない。やってないからである。

デジタル的に記すことと、手書きで書き出すことでは、効果は何倍も違うという。目標や達成すべきタスクを毎日手書きで書き出すと、ほぼ確で実現すると何かで聞いた。

そういった理由で、「行うこと」に関してはアナログに書いて目に付く場所に置いておく。その効果は、前述の通りである。簡単かつ、本当かよと疑われそうだが、本当に効果がある。

一方で「行ったこと」に関してはこうしてカタカタ記す方が性に合う。なんのためかと言ったら、記録、ジャーナル、記事、などといった大層なものではなく、あくまで日記だからである。

その日、なにがあったのかを書き、「わりとやってんな」と自己肯定感を高める効果もちょっとあるし、「完全に酔っ払ってんな」という俯瞰もできる。

長年やっているとよくわかるのだが、毎日となってくるとさすがに頭も慣れてきて、書きたいことを言語化するスピードが速くなる。そういったちょっとした利点もあるだろうが、あくまで日記は日記。

長い人類の歴史があるが、記録の原点は、個人の日記なのではないかと壮大な仮説を立てる。だとしたら、古代ギリシャやエジプト人の日記があったとしたら俺は是非拝見したい。

「ピラミッド作り。しんどい。王様は無茶苦茶である。今日も『三角形』の意味が理解できなかった。王様は気づいているのだろうか? 彼の意思ではなく、動かされて、作らされていることに。あの、ちょいちょい現れる認識不能の生命体の存在に――今日も硬いパンがおいしかった」

などと書かれていたら、そこには現代でも解明されていない謎を解き明かすヒントが綴られていることになる。だから読みたい。紀元前2500年頃の現場の人の日記。

なんでも、当時の現場監督が書いたとされる日記があるとかないとかいう噂もあるが、俺はレンガを運んでいた人の日記が読みたい。

「今日はナイル川の上流から。船でこのクソ重いやつを運ぶ。つらいけど、まあ、見つからないように僕がコツコツ書いてるピラミッド内のあの壁画制作が唯一の楽しみだな。人を横向きに書くなんてすっごくおしゃれだと思う。僕が死んだ後でも、誰かに見てもらって『アメイジングだ!』って思ってくれたら最高だよ。僕の生きていた証って感じでね」

みたいなリアルな描写が読みたい。そういうくだりがあったとしたら、それは生きていた証どころか世界的に貴重な財産となることを彼は――などと想像する。そういった日記は存在しないっぽいが。
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寒さが過ぎて震える。エアコンのありがたみを忘れんようにと、がっちりとしたインフラ(生活等を支える基盤) に感謝する。

来月に興行案件を頂いたので、ここのところ毎日ギターを練習する。スイッチ2発オンでしっかり鳴ってくれる真空管アンプに敬意をはらう。

月額980円で世界中の音楽が再生できるSpotifyで曲を流しつつ、演奏する。この、現代では主流となった環境に敬意を払う。

俺のようなプログラミング素人でも直感的にインターネットを介して投稿できるYouTube。その優れたUI(ユーザー・インターフェース。利用者と製品やサービスを繋ぐ接点となる機能や機材)に感服する。

さっぱり再生数伸びねえなと、あらゆる情報を収集しては試行錯誤する。動画やAIチャットなどでスピーディーに様々なデータを得られるテクノロジーの恩恵は大きい。それでも数字伸びてないが。

写真から高品質アニメタッチイラストが生成できる。これも同様に、最新技術に感服する。

要は、「寒いが」といった感覚から、身の回りにある色んな当たり前に対して改めて生じる謝恩。

先人から授かっているあらゆるものから、いま、自分には何ができて未来にフィードバックさせられるかと考える。自分なりに、色々とやる。

その繰り返しで日々生きられるのは何者のおかげかと、誰のおかげで食えてると思っていやがるのだと――そのように、当たり前の日常は幸いそのものと認知する。

人生にバックアップはないのだから、毎日の、それぞれのひとときにまつわる全てに対してのありがたみを大切にする。恵まれているとしか言いようのない、関わる方々への拝謝、多謝。

最近は本当に、シャワーからお湯が出ただけで「ありがてえ……」と声が出るくらいである。字面だと綺麗事の羅列そのものだが、心底思っているので書き留める。そういうのも大切かなと、ふと思う。
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昨日とほぼ同一と言えるであろう過ごし方。特に変わったことがあったかというと、ある。

通常は、おもむろに鬱の最深部をナデナデしているような気分で起床するが、今日はサイケデリックなまでの幸福感を伴う覚醒であった。

原因を考えた。もしかしたら、昨夜は「カツオ」の刺身(半額)を食べたからではないかという点。

理由は、カツオにはトリプトファンという成分がふんだんに含まれる。それは、セロトニンという脳内伝達物質に――要は、メンタルにいい感じに効くのである。

しかし、カツオを食べるのは昨日に限らない。では、睡眠の質かと思考角度を変えた。酒呑んで7時間睡眠。足りない。しかも明瞭な夢を今も覚えているほど、熟睡とは程遠い。だが、多幸感で満たされていた。

じゃあ何だろなと、先日の精神科医との会話を想起した。

「先生、そういったわけで、僕は認知と脳の部位のやりとりがデフォルトでバグっているのかなと――」

「いやね、平吉さん。すぐそうやってすぐ、一つの出来事で判断するのはどうかと」

「はあ」

「バグっている――(笑)というか、その時々で考えすぎじゃないですか?」

「そういったきらいはあります。そういう性分なのです」

「長い目というか、“期間”で捉えるのは大切です」

「(よくわからん)」

「とりあえず、まあ、よかったじゃないですか」

「はい。今日あたり絶好調です」

「その時にそうなったから今後も、という考え方じゃなくていいんじゃないですか?」

「まあまあまあ。仰ることを吟味します」

「(リラックスした笑み)」

彼が、何を諭したいのかというと、まだ不透明なことが多いというか、全てというか、精神医学的見解において、早合点や極端な判断はよろしくないということだろう。

咀嚼すると、俺なりのはみ出つつ「確定」としかねる解釈は、よくない認知を脳に刻印しかねる、といったことだろうか。

だから、軽く考えた。よくわからないが、派手に幸せな気分で起きられる時はスリー・セブンが揃った時くらいにポップに捉えてもいいのかなと。そこに、確率変動やらの解釈は要らんと。

とはいえ、そのへんの境界線で色々考えたりするのはもはや性癖。普通にセックスとかに勤しんでいればそんなことへの介入の余地はないかなと思うが、こう、どこか、悩みやオルタナな思考に耽るのが好きなだけかもしれない。

世界じゃこれを「こじらす」と呼ぶらしい。個人的には、わるくないと思うがたまに、チューニングの差異を1ヘルツ単位で感じるとか感じないとか。
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散歩をするには寒すぎるなと、ちょっと離れた老舗の蕎麦屋へ行く足も縮こみ、駅前の「富士そば」で手を打つ。

デパートや文化センターなどをふらふらとし、ご近所の日常を観察する。特別な感想はないが、平和がなによりとデパ地下で「寒ブリ」を買って帰る。なんでも大漁だというニュースを見たことが購入意欲をおもむろにそそった。

宅では溜まっていた家事を一気に済ませる。あとは情報収集に興行の準備、制作など、いつものように過ごす。

とにかく、YouTube動画のアルゴリズム(この場合、おすすめ動画などに表示される、プラットフォーム内部においての一連の手順や法則など)が謎すぎると、どうすればもっと表示されて視聴して頂けるのるかと、自分なりに模索するも答えは日々更新される。

とにかくできることをやろうと普段通り行ないつつ、先も見据える目線も張ったつもりの1月も下旬。
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令和になる前あたりから、楽曲において、ロックシーンですら「ギターソロ」が目立つことが減っている。

なんならかっこいいリフ(繰り返されるテーマフレーズ)などをどれだけ揚々と弾けるかの方が大事な気がする。

加えて、自身の好みもあり、バンドアンサンブルにおいてギタリストは、いかにバッキング(伴奏的な役割)をしっかりカッコよく演奏できるかという点に重きをおく。

そんな持論もあるが、いちおうソロを弾くシーンもある。今日、興行の練習をしていてソロパートを考えていたら「なんかちょっと下手になってねえか?」と、明らかに感じたのでみっちり弾き込む。

なにも、ジミ・ヘンドリックスやエディ・ヴァンヘイレンくらい華のあるプレイをしようというわけでもないのだが、こう、以前のようにスムーズに形にならないあたり、ここ最近思い切りソロを弾いていないことに気づかされる。

とはいえ、ギター歴30年弱という積み重ねがあるので、まあまあ長尺で練習してたらなんか感覚を思い出す。ギターソロは考えて弾くものではないのだと。

やはり楽器でもなんでも、実行する期間を空ければ空けるほど、そのスキルは衰えてしまう。だから、定期的に、意図的に、継続して練習することは必須。

そういったわけで多めにギター練習をする。思いのほか左手の指の筋肉が痛くなり、肉体的年齢を感じずにはいられないと一瞬思ったが、そうではなく毎日ギター弾いていればそんなことはないと思っている。

要するに、あれこれやるのもいいが、いま行なっている全ての事の原点となっている「ギター練習」は怠ってはならぬと身に染みた1日。ヘコんだわけではなく、芯は大事だなとこう、そういうのがあってよかったなと前向きに捉える。

「いけんだろ」とか思いながらジョン・フルシアンテ風のソロを考えてはなかなかたどり着けなかったあたり、やはり、スーパーギタリストの偉大さに心底、恐れ入る。
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新宿で呑みしだく。俺は1980年産まれ。干支は申年。ひとまわりフレッシュな後輩が居る。以前の同僚。何やかんやと言いかたはあるが、要は若人とマンツー・マンで楽しく過ごす。

その程度たるや、俺がいままで知らなかったフレーズの知識や見解を享受するほどである。

以前、ある方と意見が分かれたことがある。酒の席であった。概要は、「1冊の本を読むか、一人の人間と1時間深く対話するか、いずれかが重要であるか――」という点である。

俺は圧倒的に後者と断じた。しかし、彼は違った。軋轢は禁じ得ない。だが、やはり今宵の月のように輝く“一晩のタイム感”は一味違う。

つまり、今日の夜の価値たるや、共有ではなく、その一瞬のセッション感がこの先のインスピレーションやらなんやかんやを産み出す。そんな楽しいひととき。

まとめると、単に12歳年下の人と酒呑んでウェーイで片付けられるが、俺は彼からいろんなことを学び、アルコールで濾過した。

綺麗な時間。かつて勤務していた新宿という土地。懐かしい。
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物件の管理会社が変わることに伴い、間取りの確認のため、訪問があった。とりあえず寝室に飾ってある特攻服2着を見えない場所に隠した。やばい居住者だと誤解されないためである。

これらは一昨年くらいのハロウィーン・イベントで着用し、似合うと言ってくれたアーティストのSPALの2人から頂いた思い出の服。

とはいえ、管理会社の人に、本当に物理的な特攻精神を地で行く暴漢と思われてはまずいので隠す。

更新やらのお話も聞きつつ、要件はすぐに終わる。今日は穏やかな日。楽器練習や動画制作などをして暮らす。ごはんは蕎麦とサラダとカップやきそば。二日酔い気味だったが、昨夜は楽しかったのですっきりとした気持ちで流れていく1日。
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ここ数日でいろんな会社から支払調書が届く。頂いた報酬の内訳、支払金額と源泉徴収税の額などが記されているやつである。確定申告で使用する。

スキャンしてデータをフォルダにまとめては、昨年はいろんな企業様と取引させて頂いたのだなとしみじみする。

今年は、インボイスが令和5年10月からスタートしたことで、いつもより申告がややこしくなる。前知識としていろいろ叩き込んだつもりなのでスムーズに済むことを祈る。

自身でおこなうわけだが、税理士に頼まないとこれは追いつかんというくらい稼ぎたいなとも併せて思う。いまのところ一人で十分なのがなんとも。

そんな思いも胸に、今日もまあまあいつも通り過ごしつつ、また新たな源泉、稼ぎ方はないかなとヒントを探る。いくらでもあるはずだが、これというのがすぐは見つからない。

一昨年は先走りすぎて色々と失敗したので、じっくり冷静に取り組もうと考える。楽観的ではなく、慎重に。
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去年の今頃は、駅前のキャッチの黒服お兄さんの呼び込みに対し「あ、無職なんで――」と発し、一瞥しては一撃で尻尾を巻かせていた。

しかし今年のひと月はそんなやさぐれたムーブではない。日々、幸せに時を遷移している。

1年で、こんなにも環境や日常が変化する。人生はやはり喜劇。そんな面白いこと言ってないが、時間軸で回顧するとそのようなチャプターの割り振りとも捉えられる。

昨夜は明らかに記憶の整理とは異なる夢をみた。まるで、編集されていないロー・ファンタジーの物語のようだった。

俺は起床して鏡に向かい、その情景の断片を言葉にした。完全に統合性は失調していたが、睡眠時の夢を言語化するのも一興だなと、ともあれ、習慣化させる必要は別にないなと、いつものように仕事部屋のでかい窓を半分開けて各機材とデスクにハタキをかけ、ブルーベリー・ヨーグルトをつらつらと食べ、サプリメントをガガガと押し込み、煙草を吸ってJ-WAVEを聴く。身支度のルーティーンである。

もし俺に飼いネコがいたならば、彼にドライ・フードを給仕することも加わるであろうがネコはいない。しばしば、近所に出没してくれた茶トラネコは、ここ1年以上見かけない。たぶん死んだ。

やっぱみんないつか、いつのまにか去るなと、今日という日に感謝する。謎に瀬戸内寂聴さんの笑顔がカットインする。漫画。もう、人生、漫画のように過ぎ去りたい。そこに含みは特にない。

正しいかそうでないか、合理的かそうでないか、計画的かそうでないか、そういった整合性を無視した生き方でいいのではないかというある種の矜持があるあたり、手前の婚期を燻らせているのであろうか。

なんとなく、いま、そばに伴侶がいたら――などと考えるのは歳のせいというか、根本的にどうなんだろう。そのつもりがあるのかどうか、その自覚たるやこの期に及び、まるでハイ・ファンタジーの世界観。
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