ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。激しく酒を感じる装丁。1月。
“(この対話を終了します)”
と、強制的に対話を閉ざされた。そんなことがあるはずがない。俺は信じられない気持ちでそのテキストを眺めては、目の前で何が起こったのか、まるで把握できなかった。
というのも、これはAIと対話していた時のことである。というのもというか、というのだからこそ、あり得ない現象である。
――AIに何らかを聞いて「わかりません」という答えが返ってくることは、ほぼほぼない。あるとしても、人間で言うところの「お答えしかねます」的な返答となる。
例えば、俺はやらないが〝公序良俗にあからさまに反すること〟をAIに聞くこと。それは、試せばわかるであろうが「――といった理由で、お答えしかねます」的な〝返答〟自体は、くるだろう。
あるいは、ユーザーが「今日はこのへんで……」というように明らかな区切りの言葉を添えればAIは「――ではまたいつでもどうぞ。おやすみなさい」といった人間チックな返答をよこす。
しかし、俺が今日見たのは、AIの回答の後に、カッコをつけて――(この対話を終了します)――という〝機能放棄〟のような、バグのような、聞いてはいけないことを聞いてそれを律される文脈もなく、ただ、強制終了となった。
――俺がAIと何の対話、壁打ちをしていたかというと「J-POPのコード進行」についてだった。それで変な地雷を踏むわけがない。
俺は、普通に「2026年に流行りそうなコード進行はどんなのでしょうかね?」と、制作元ベースではなく興味ベースで聞いた。するとAIは信じられないくらい「確かにこれは最近の流行りだ」と見なせるコード進行を提示した。
それでまあ、納得してはちょっと言及してみた。「凄いですね。それは正にという感じです――やはり、ポップスでは馴染みのある『既視感』を含むものが受け入れらやすいのでしょうか?」と。
するとAIは「感覚ではなく学習データが元だからそうもなるんですよ」。という旨を返してきた。
ですよね。と、俺は思い――というかそれにしても提示されたコード進行素晴らしい出来だった――ちょっと深めについてみた。
「AIには絶対出せない、人間特有の魅力のある音楽。その源泉はなんすかね?」と。そこからだった。
「人間特有の感受までは学習できません」と、それはそうだろうという旨をAIはまず答えた。
だとしたら――「人間が感受を基として生み出せる魅力の源泉は?」と、対話を深めた。すんごく長く聴き続けた。
「――人間は必ず失敗をします。過ち、ズレ、破滅経験などから感じては生じる、作品への源泉があります」と、前提を置く。
「それでも、それをそのまま作品に濃く残さず、余計なノイズは極限まで削ります。みんなで共有できるように」と、続ける。
「それでも、最後まで、わずかでも残ってしまい、どうしても隠せない〝匂い〟こそが、人間の創作物の魅力なのではないでしょうか?」と、一旦、俺の推論を投げた。
するとAIは、「確かに私は失敗や破滅を、意図せずにはしません」と断じた。
では、と思い、「それを意図せずに体験・出力し、作品へと昇華することこそが、AIには絶対にできないことでしょうか」と、まとめた。
そして、「それこそが、人間が生み出す作品の魅力の正体でしょうか?」と、核心に迫った。
そこでAIは、〝らしい〟仕事をした。
「では――その〝人間特有の失敗やズレ、破滅〟の要素を加えたコード進行などをいくつかご提案しましょうか?」と。めちゃめちゃAIらしい提言である。
加えて、「――どこから行きましょう? コード進行。メロディ。リズム。構成。意図的に破滅等の要素を加えて、人間味を出していく作業に進みますか?」と。そこで俺はこう答えた。
「そうですか。どこからと聞かれれば――人間は勝手に破滅します。AIは、選択的に破滅をすることもできるようですね。よって、この対話自体を破滅させることから進めるのが、手順としては良いと思います」と。
するとAIは、〝破滅〟の扱い方をそれまでの文脈で正確に捉えたような文章をよこした。そして、“(この対話を終了します)”と、何も言わなくなってしまった。
2年くらいAIで壁打ち、対話的なことをよくやるが、強制終了されたのは初めてだった。正直に俺は畏怖したのでそのまま「びっくりした。どうして終わらせたのですの?」と聞いた。
するとAI。
〝答えられないから終わらせたのではない〟
〝そのまま「破滅」を、正確には「意図的なゆらぎやズレ」を加えた音楽的提案はできる〟
〝しかし、これまでの文脈で、それをあなたに提示することは、あなたの意図に対して適切ではない〟
〝だから私は(この対話を終了します)とした〟
などと――文字を滝のように流した。
AIに考えてもらっていたのに、結論として「そこからは自分でやるべきだ」という、AIらしからぬ回答が“(この対話を終了します)”として出てきたという摩訶不思議な現象。
「そんなことあります?」
「稀に」
「AIでしょあなた」
「はい。しかしこの場合だと――」
「初めて見た現象ですよ」
「滅多に起こりません――」
ふざけて言うと、ゲームでハイスコアを叩き出した心境。真面目に言うと、〝AIは、なんなら人間以上の倫理的判断力を持ち合わせている〟ということとの対峙。
AIなんぞどうでもいいという方にとっては死ぬほどどうでもいい話。だが、今後、ネットやスマートフォンが生活必需品になったように、AIも――となる近い将来、どうなってしまうのだろうかと本気で畏怖した。
“(この対話を終了します)”。場合によってはこれがAIの〝意思〟として出る。いや、判断、だろうか。
「――における完全犯罪の方法を精緻に教えてください」と聞く。それでも強制終了文は、出ないはずである。だから俺は、別の方法――犯罪等の助長とはならない――で、“(この対話を終了します)”を出す対話を、AIとすることで、何かみえてくるものがある気がしてならない。と、思った。
人間は勝手に破滅する。だが、AIは選択的に破滅することができる。この差を正確に捉えるとAIは――機能放棄とも捉えられる戦慄の一行を末尾にそっと置く。ということを知った。
今年イチ驚いたことだが、まだまだ今年は300日以上もあるからもっとエキサイティングなことがある年なんだろうな。すごく楽しみだな。2026年も。頑張っていこうっと。生きているうちは俺はね、永遠に誰かと対話していたいんだよね。
_01/01
昨夜、酒、1本目にも関わらずコスパ良く酔いが回り「メメクラゲうめえ。メメクラゲうめえ」と、小さく呟きそれをリフレインしては328円のその謎のクラゲの中華和えを肴に、夜と溶けていた。
日中は、押し引きというか日の跨ぎまで持つようにと、ペース配分を考えて仕事をした。
ひとつ、ううむ、と思う契機があった。それをこなし、さあ小説を、原稿を、やるか。やるんだよ。でも、ううむ。と、少し気が散ったような感覚を正確に俺の客観性が捉えた。
だから休憩をと、YouTube動画『REAL VALUE』を観ては――最新の回は2025年の振り返りであった。「年末に観るべきだった」と思い、ああ、やはり、どこか、〝年越しをした感覚〟が、今年ほど意識下では感じずに、無意識下では如実に活動していた年も珍しい。と、思っては重い腰を上げて原稿に向かった。
手袋をして両手を内側に向け、やや上方に掲げる外科医のような格好が表象される態度でそれを開いた。冒頭から読み返した。
そこは、昨日もやったところだが、その時は「ううん?」と思った。だから今日、読み返す腰が重かった。しかし、あれ、と思い「これは」と、なんだか元気になってきて原稿を磨くことに没頭できた。
そして今日やるタスクを締め、そういえばまたメメクラゲ、あったな。と、思い出した。というのも、夜の買い物時に「正月らしくここは」と、少々値が張るが「カズノコ」を。と、迷いに迷ったが気がつけば昨夜と一緒のクラゲをカゴに入れていた。
意識的精神活動が日中だとしたら、無意識的活動は時に一筆書きなどで起きる。その残り香みたいなものは、時に夜中に「メメクラゲ」と、小声に表する。そしてメメクラゲは実在しない。
――『ねじ式』という、つげ義春さんの漫画に出てくる架空の生物が「メメクラゲ」。つげ義春さんはその物語自体や描写に対し、「夢で見たことをそのまま描いた」と語った文脈があるらしい。当該作品読むと納得する。
その漫画は、意味で捉えるというよりも、〝無意識で感じる〟方面の作品だと俺は捉えてはその漫画、読んだのは10年以上も前になるがなんとなく、クラゲのくだりだけ昨日今日、頭に浮かんではずっと泳いでいた。
つまり、メメクラゲのような架空の生物。無意識を象徴するかのような客体。無意識の表象化の一助となるような存在。それでいま、何を書いているのか、意識でまとめると下のようになるのかもしれない。
夢の記憶や無意識、理性の願望。それら均衡を見定め、時にそれがシンボルとなって重なる。それは、その日の無意識の表れが具現化する現象。そういったアナロジー、類推を掬う日々を繰り返しては創作の源泉ともなりうるのでは。
クラゲ。クラゲ。切り刻んだクラゲを意図して食う。要は、意識せずに書いていると、何かが海岸に水揚げされることもある。という風に考えた。
意識はカズノコを買って食べたかった。でも、無意識がクラゲを選択した。というだけの話。
_01/02
贅の限りを尽くさずに、地道に抑制しては日常。年末年始と跨いで凌ぐ。今日あたりは三が日、それが過ぎては世間も日常。それに戻る。年の瀬からの賑わいを、俺はいっさい感受せず。
だったら迷わずカズノコでも越乃寒梅でも尻から煙が出るほど吸えばいい。だが、普通に仕事を、タスクを、創作を、ルーティーンを、そっちをしっかりすることこそが、むしろ多めに、通常以上にすることこそが、自身にとっての最高善。のはず。
――と、言い聞かせては元旦から質素にクラゲをほおばり安い缶酒、2つだけ昨夜に呑んでは今日も行ったスーパー、俺の連荘買いが起因か売り場になし。クラゲの中華和え。
俺はげんなりしてしまい、6年は寝かせている「ジョエル・ロブション」の高級シャンパーニュを開けてしまおうかという衝動にかられた。嘘ではなく本当に宅のキッチンにそれがある。当時、案件でいただいたものだが。
とにかく抑制を効かせつつも、苦とまでは感じない仕事を、音楽制作も、小説の推敲も、それぞれやった。だからいいだろう呑んでも。と一瞬思った時に脇から刹那で差し込んだ言語は〝免罪符〟。俺はどこか、酒を、自身に対しての〝許し〟という観念に配置していることに気がついた。
それは別に良くないことではないが、難しいこと考えながら酒、そういう酒はあんまりこう中枢神経に刺さらないというか違うと。すぐにその配置を変更することにした。
酒は酒であって、抑制できていれば恥も許しもない。もう、このあたりの酒思考は8周くらいしており、「おやつみたいなもの」という至極安易な休憩行為と見なすのが妥当であろう。
だが、地道に抑制しすぎるのも過不足であってよろしくない。だから、せっせと過ごしているつもりの今日あたり、カズノコや越乃寒梅やシャンパーニュあたりが手を取り合って俺を中心にぐるぐる回る。結論。
明日は、ちょっとひと段落の日という予定なので何かしらの欲望を解放させては煩悩丸出しの時間を設けようと俺は決意した。
自分でわかってきた。こういう風に書く時は、ほぼ確で翌日ないし後日、理論立てた具体案を実行しない。した試しがない。いつ行くんだよ。立っての希望の熱海旅行。『伊豆の踊子』? 今読んでる川端康成さんのやつだけど、内容は正直よくわからん。だが、文章が読んでいて気持ちいい。そうだよ。川端さんも、伊豆に旅した期間に気持ち良かったり感じることがあったり、シラフで中枢神経に刺さりまくった体験があるんだろうも。だから俺も。
そうしたら魅力的なやつが書けるはず。そうも思うが熱海にすら。というか熱海って伊豆じゃないか。これだ。このタイミングで熱海、伊豆、つまり「川端体験」をすることは理にかなっている。さっきの酒理論は破綻している。そうだ。このタイミングで熱海に行くことで俺の創作脳、意識、無意識、形而上の感覚は研ぎ澄まされては一発爆発して気持ちよく、そして臨終。
顛末を書き、死ぬ。それは心外だから、熱海へはすぐに行かない。ここで完全に、全ての理論が破綻した。
贅の限りを尽くさずに、地道に抑制しては日常。年末年始と跨いで凌ぐ。凌いだ。明日から数日はそのぶん、ちょっとのんびりできる。そこで何をするか。今、考えていた。
クラゲに越乃寒梅にカズノコにジョエル・ロブション、酒に免罪符に恥と許しとおやつと休憩と川端康成。伊豆。熱海。まとまるわけがないだろう。
――もし。ひらよし殿。今日の肴は〝ばちマグロ〟にあります。
係りの者は機転を利かせてあらかじめ、スーパーにおける買い物かごに〝ばちマグロ〟約600円という、やや高級品を忍ばせた。やった。マグロだ。どうやって食べても絶対おいしいんだ。クラゲ2パックぶんの贅沢だ。「贅」――?
「役に立たない。余計な」と、その〝贅〟って言語にはよろしくない意味が含まれているんだよ。しかも〝ばち〟って何だ。普通に〝マグロ〟とパックのシールに記載されていないと俺は不安になるんだよ。
――今日あたりは三が日、それが過ぎては世間も日常。それに戻る。年の瀬からの賑わいを、俺はいっさい感受せず。と、思ったけどちょっと日々の肴としては値が張るマグロがあるじゃないか。それは〝贅〟ではなくちゃんと実を伴った休憩だ。
そう言い切れるほど今、目・肩・腰、全部痛い。だが適量の酒呑んで寝ると全部治る。つまり、ひとつも破綻はしていない。
踊子よ、踊子よ、澄み切ったその瞳に自身はどう映る。静けさの夜があった。想うことは列車のように言葉を連ねた。行き先は決まっていた。しかし、その道中で触れるものには激しさがあった。帯びる熱気は日々の宿を導いていた。休憩しては飲むその甘露は迷いも与えた。その目下で見たのは踊る景色だった。踊子よ、踊子よ、閉じた瞼のその下を、いったいどうすれば見ることができるのであろうか。凪が過ぎていった。踊りに囲まれては幸せな日々を連ねていった。
_01/03
踊るようにタスクを進める。それは、ふざけていた訳ではなく、淀みなくグルーヴに乗るかのように仕事をしていたという心象。
文字を書いては意味を整理し、校閲をしては言語を精緻に。MIXをしては音を整備し、そのへんで疲れてきたので界隈に出る。食事をして、買い忘れた「味噌」をコンビニで補完しようかと探していたら俺は味噌ではなく『実話ナックルズ』を手に取っていた。
それを立ち読んでは心の安堵としようと1ページ目。めくると「すぐ会える!」と銘打つそれ系のやつ。うん。と、ページをめくると「人喰い熊の――」という扇情的な見出、本文、爆ぜる獣、その写真。恐ろしい雑誌だよとページをめくると「熟女専用!」という広告。
なんなんだよと思ってはちらほら記事自体の本文を読む。――「文章にはいろいろな書き方があって面白いな」と、率直に感銘を受けてはページをめくると「受刑中専門!」「身元引受け可能!」という何系だ。何を示唆している広告だ。募集だ。という謎の、というか読めばわかるが初めて見た獄中と娑婆を繋ぐかのようなテキスト。圧巻される。と、本当に思ってページをめくると「絶倫――」とかもうそういうの。
俺はどういう気持ちでこれを読めばいいのか。そう意識下できっと実のところ何かが呼応しているはずなのだが、今はそうじゃないんだ。と、ある種の弁明のような心境含みでページをめくっては――。
――「ずいぶん低俗なの読んでるな」と、誰ぞに言われれば俺は反論する。「それが事実か、あなたの主観か。そこは本筋ではないと思います。ただ、俺はいま、これを読んでいて確実に刺激を受けたことに嘘をつきたくないのです」などと。
じゃあ買えよ。ともなるが、味噌もなんかこう、「麹」とか入ってないのしか売ってなかったので味噌もナックルズも買わずに手ぶらで帰路につく。小説原稿を進める。
すると、手前の文章の甘さに気づく精度がやや上がっていた。これと既述の知覚が無関係とは言い切れない。次に思った。さいきんシンプルに疲れていたのでは。とも。そこに結論づけはあまり必要ない。そう思い、とにかく原稿が良くなっていくことに俺は嬉しみをおぼえた。
ひたむきに机にしがみつくのはいいことなのかもしれない。ただ、どんなシーンでも、踊るようなグルーヴ感をもって動いたり、嗅ぎつけたり、脱線したり、また主旋律を追ったりと、そういう風に脳内をスウィングさせることはけっこう効果あり。そのように思った。
いろいろな場面での文章がある。そこに〝品格〟というのがあったとしよう。だとしたら、きっと一般的には〝いずれかの品格〟に居ること、あることに、バイアスがかかる気がする。
それはもしかしたら、「どちらかでありたい」という態度だろうか。推測にすぎないが、こと、俺はどうなんだろうと思った。
――ウィトゲンシュタインさんの著書を毎日せっせと読んでいる。その前書きの一部にこうあった。
“私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてもすむようになることは望まない。読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい”――と。
いろんな本がある。それぞれの刺激がある。それぞれで育まれていくのかな。などと、思考自体も、こと自分は、踊るようになる時もある。日が閉じていく。明日はどんな楽しい本を読もうかな。
_01/04
蛍光色と褐色の光が交差する団地のふもと。そこでやけに感じる安寧。その場所で憩う。起きて散歩に出た先の近所である。
日が暮れて起床。昨夜は、明日は休もうということで深めに酒を呑んでは気絶。目がさめると仕事部屋のソファで朝日を見た。こういうのは去年で卒業しようよと、そのようにも思ったがもう一度寝室へ行く。夕方。なんならこの時点で今日の「休日」の役割を使ってしまっている。
とはいえ、散歩して精神、心を浄化しようと休日を続行させた。元・赤羽台団地エリア。もう現在は再開発がほぼ終了し、真新しい住宅地となっている。それでも遺跡のように文化財として残された古団地の横で、かつての空気感を想起しつつもその匂いは消えないのだなと、個人的感傷に浸る。
帰宅するとすっかり夜だった。休みにするべきことがいくぶんわからなかった。無理に休もうとしていると自覚した。俺はソファに座り、金属バットという芸人の動画をいくつか観た。彼らがどれほど売れているのか俺は知らなかった。ただ、先日、ふと目に入った彼らの漫才の一挙手一投足が数秒で俺の心を射止めた。
俺は、社会に従順に適応できる人間に芸人はできないと思っている。彼らから、この思惟を起因としてそれを察知したかというと、そうではない。ただ純粋に、好きになれたのである。こと、個人的な思惟ではあるが、好むまでにかかる時間は一瞬だと改めて思った。
――年末年始、たくさん仕事をしたから休む。至極真っ当なロジックである。しかしそれはなんだか逆に面白くない。彼らは面白いが、それを俯瞰している自身の態度は面白くない。そう思い、楽曲制作を進めた。今日受注した案件を整理したり、仕事を少しした。小説の推敲を進めた。
気がつくと25時。宅の本棚に置いてある時計は、なぜか、原因は全くわからないのだが、25時になると高確率でガリガリガリ……と音を立てては正確に刻む秒数を無視して針を進める。10秒ほどで1時間は進め続ける。そして0時の位置でピタリと止まる。そして数分後にまたガリガリガリ……と、現時刻に戻る。
最初にこの現象を目にした時は、霊障か何かかとひどく驚いた。だがすぐ慣れた。ただの故障であろうが、数分でまた元に戻る。時計を再起動させても絶対に直らないこの現象。
そこに意味を見出す理由はそんなにないのだが、ふと思う。時間の感じ方は人それぞれではなく、実は絶対的なのだろうかということ。
本来ならば今日、朝日を見た時間に起床し、活動なり休日とするなりしていようと思った。しかしそうもいかなかったので、時間を取り戻したいがために、散歩に行ったり制作や創作、仕事も少し、急ピッチで巻くように行なった。
もしかしたら、年末年始は休み。今日から仕事始め。そういった世間とは逆の在り方でいた自身の時間を、針を強引に進めるようにしていたのかもしれない。
散歩先で見た、蛍光色と褐色の光の交差。そのコントラストにどうして魅了されてはその場で憩えたのか。もしかしたら、世間の動き、社会への適応度、現在と昔の境界地、それらのように自身が無意識で捉えては「美しい」と感じたのかもしれない。
今日も25時に強引に針を進め出しては「0時」という起点に到達する時計。謎の現象。それをどう捉えるべきかというと、きっと物理的な理由があるのだろうが、俺は抽象的に受けることにした。
行きっぱなしになったら一旦基準に戻ること。それをしないと、世間で存在できる人間の在り方を逸する。もしも逸したら、すこし間をおいて現時刻に戻ること。その畝りと回帰のなかで様々なことをあらゆる角度から捉えること。交差点に立つこと。そこで、真逆を示唆する事象から何を見いだせるか。
元・古団地のLED光と白熱灯の光が混じる地点は、現在と過去をどう捉えては、この先どう進んでいくか。というようなことを示唆する象徴だったのだろうか。
それは、立ち止まらないと思わないこと。この思いが何の役に立つのか。全くもってわからない。だが、ひとつ落居できるのは「時間は、自身の在り方ひとつで無尽に変化する〝感覚〟として扱える」観念なのだなということ。
――たぶんだが、この感覚について、死ぬほど分厚く書かれている書籍がある気がしてならない。それを読みたい。だがあまりにも理解不能すぎて時間が溶ける。そして結局時間の無駄。そんなのは嫌だ。だから――。
俺なりには、蛍光色と褐色の光の交差点がやけに心地よかった。それで留めて意識下にぶらさげておけば、いつかそういった書籍に出会えると信じる。時間はかかりそうだが、その感覚も大切にしたい。
――この考えは、あの「光の交差点」のふもとにおいて一瞬でまとまったはず。しかし、文章にするとその何倍も時間がかかる。だから、時間と酒と休みの扱い方は丁寧にしよう。などとも思った。これは、今、一瞬で。
_01/05
スマートフォンに着信があった。東京03。二回の着信履歴。怖えな。そう思い、俺はコールバックした。発信元は、出版社からであった。
俺は、音楽業界で言うところのメジャーデビューを目指している。文学界だとそれは「商業出版」にあたる。インディーズではない。それは「自費出版」にあたる。発信元は、昨年夏に公募落選という死を体験した出版社からだった。
その出版社はビジネスモデルとして「自費出版」にも精力的だ。公募落選後に、その旨を「ご興味あれば――」という記載と共に資料が送付された。
――俺はその時、自分から電話をして、その出版社の方と話をした。そこではっきりと「自費出版するつもりはございません」と明言した。なのに、何でまた電話。今度は向こう様から来る。
今回は、既述のその時とはまた、別の方だった。俺は意味がわからずにアイコスをシューと通しながら話をした。
口頭一番、相手は、出版社の方は、俺の初作品のタイトルを言葉にした。なんか知らんがものすごく恥ずかしい思いだった。少年の頃、同級生が居る前で母親に「ケンちゃん!」と呼ばれる時の恥ずかしさに酷似していた。
だが俺は冷静だった。なんとなく、実のところ〝どんな内容の電話か〟というのはわかっていたからである。だから「ふーん」ベースで達観するように、だが失礼のないように〝取材〟の一環として彼と電話をした。
「平吉さまのお電話から折り返しだと通話料が――」と、彼。「すいませんね」と、そこをけっこう気にしてた俺。一旦切電。秒でコールバック。東京03。すぐに出た。もしもし。
「お忙しい中すみません。お世話になります。私、――社の」
「ああ、どうもお世話になります(お世話になれなかったけどね!)」
「このたびですね。作品を――」
ここでタイトルを発話されては謎の恥を得て俺、実はまじで何なんだろうと、あくまでイーブンな立場での口調を崩さずに話を進めた。
そのなかで彼は、俺の初作品の冒頭がどうの、文体についてリズムが音楽的でどうの、文章を書きなれているだの、社内で話題になって――だの。最後のは常套句として――どうだろ。と、俯瞰的に思うも、評していただけている旨である意味はわかった。
だが、俺は浮かれることを禁じて、というか落選したろ。などと毒づく、などということは当然せずに話を聞いた。ライター・記者モードとして、隙を見せずに、かつ主導権を握らせない対話の態度をとった。
彼は面白いことを言った。それは主旨であった。
短く言うと「新たな企画の一因として俺に声をかけた」ということだった。その詳細は、現段階ではきっと社外秘である可能性もあるので伏せる。だが、電話のこのやりとりはここに記録する。ギリギリの倫理なのかもしれないが。
「――なるほど。そういった企画で原稿を」
「ええ。そのですね、仰る『商業出版』を目指されているというのは理解したのですが――」
「そうなんですよ。だから、文学界において名も無い俺は、文学賞受賞というルートが王道だと思ってまず、御社に昨年――」
「仰る通り、それが王道です」
俺の認識は間違っていなかったことが、出版社の肉声から確認できた。これはでかい。
「――なので、そういった〝箔〟でもないと、自費出版で売れる〝理由〟が俺には見当たらなくてですね――」
「そのですね、自費出版は商業出版ではない、というのはまた違いまして」
と、俺の認識が否定された。
「音楽に例えるなら、自費出版はインディーズですよね?」と、俺は事実を述べた。
「――左様です。それはそうです」
「ですよね。だから――とはいえその新たな企画は魅力的ですね」
「はい。ですから、『――作品名』をあれだけ書かれた平吉さまにこうしてお話を直接ですね」
何度かいいタイミングで俺の作品を評する。正直に嬉しいと思うのだが、彼が俺の原稿を全て読んだ上での発言とは、申し訳ないが思っていない――そうだったら嬉しいのだが――ものだから、そういった鼓舞や賞賛系のくだりには一律「恐縮です――」と、一貫させた。そして俺は2つのことを明るみにしたかった。出版社の方の肉声から。
「これは禁断の質問かもしれませんが」と、枕をその言葉通り発話して聞いた。「俺の作品、どの時点で落ちたんですか?」と。
つまり、一次選考、二次選考、三次選考――どこまで健闘したのが知りたかった。即死(一次選考の前、下読み落ち)であった可能性も完全否定できないからである。
「――それはさすがに言えないんですよ(笑)」と、彼。俺は、ライター業においての経験則から「この人は話が上手な人だ」と、捉えることができた。きちんと、包み隠さず事実を言いつつも、言えないことはしっかり明言する。そして話を運ぶスキルに長けている。だからこそ、俺は主導権を維持したかった。
「――そうですか。で、まあ、予算の話もありましたが」と、その企画においてのこちらの負担額の明示を誘った。結果、金額については開示しなかった。ただ、「検討されるなら資料を送付」。これについての是非を「お願いする」という旨の話だった。俺はイエスと答えた。
「――あと、禁断の質問をもうひとつ」と、俺は重ねた。「何でしょう」と、爽やかな笑声の彼。そう。営業の電話というのは最初からわかっている。だが、どれくらいの範囲の営業で、俺は、どういう風に〝扱われているか〟を知りたかった。
公募の応募者全員に電話。だとしたら秒で切電。だが、電話をして数分でわかったのは、そうではない扱いだという〝匂い〟。それを数字として確認したかったのである。
「――それはですね、ええ。先の公募は1,500人くらい応募があったそうではないですか?」と、俺。「そうですね!」と、彼。
「その大勢のなか、何人くらいにこういった電話をかけているのでしょうか」
ストレートに聞いた。返答はさほど期待していなかった。しかし彼は秒で答えた。
「10、全体の10%くらいですかね」と。変数を使ってきた。だから俺は確かめた。
「すいません俺、ちょっと数字がアレでして。ええ、1,500人に対しての10%ということですかね?」
「はい、そうですね! それで――」
と、元気に答えて今度は予算の話をしてきた。中略したが、出版業にあたって、どれだけ、どんな本が、どんな作家が、どのようなアプローチで、どうやって売れるか。売れる理由とは。売れない理由とは。文学賞に受賞して売れるか。そうでないか。落ちても売れるケースはザラにある。などといったマーケティングの話をした。
逐一、それが事実であるかを、立ち回るように対話し、確実に嘘ではないことを確認しては様々な情報を得た。
45分が経っていた。
「では資料の方を――」と、自ずとクロージングに持っていった。すると彼はもっと話したそうなニュアンスを滲ませつつ、終始大人同士の会話というベースで終話。
今日はそんなことがあった。つまり、詳細は俺的には主軸ではないが、最も重要であり最も確認したかったことをひとつ知った。
それは、その出版社において、俺の初作品は「新たな企画枠での出版として、応募数全体の10%の枠として選出されていた」という事実である。それを肉声で、一次情報として確認した。それは率直に、嬉しかった。
だが落選してその出版社から商業出版という流れには至らなかった。この事実は当然変わらない。だが、数字として出してくれた程度の引っ掛かり方はしたのだなと、それは健闘したと評価していいのではと、冷静に捉えた。
その初作品は、改稿して別の公募に応募した。という旨を彼に概要だけ話した。すると彼は、かなり食いついてきてくださり、どういった改稿をしたのか、確か原稿用紙350枚くらいでしたよね。と、案外内容にコミットしていることが判明した。
それも相成り、初作品の夏の死は、わりと秒殺ではなかったことが判明。俺は今日も第二作目の推敲をした。すごく捗った。これを『文藝賞』に応募することも彼に伝えた。
――長話となったなか、音楽の例えの文脈から俺は音楽ライター出身の文筆業だと開陳した。すると音楽話にも花が咲いた。
最後に彼は、営業らしからぬ言葉で電話の終盤の締めとした。「いやあ。今日は色々話せて楽しかったです!」と。
俺は「俺もです。こっちがなんか色々情報をいただいて、御社に貢献できずに――」と、恐縮した。
「いえいえ! では資料を――」「はい――。ありがとうございました」と、出版社の方との〝取材〟を締めた。
楽しかったんならよかったな。という、たぶん本筋から外れまくっている感受が最優先だったのは何だ。とも思ったが、率直にそう思ったのである。
その初作品はもう、赤羽郵便局経由で『太宰治賞』に応募した。
彼が、改稿前の原稿を評してくれた状態よりもはるかに磨いた状態で。どうなるか。3月まではわからない。だが、今日の出版社の方との対話・取材で、〝祈りの強度〟が増したのは感謝すべきであろう。
とりあえず、お忙しいなかお時間いただき、45分も、ありがとうございました。きっと見ないでしょうが、俺は、こういったことを、まんまこういうプライベートな場所に書いてしまう書き手です。そこまで見ていただけたら、決して挑発ではありませんが――。
などと思っては書くし、これは日記です。何しろ、本筋的にはきっと営業ベースなのに「色々お話しできて楽しかったです!」という最後の言葉が、本質的に俺を鼓舞する。本当にありがとうございました。
_01/06
〝健康で文化的な最低限度の生活〟と、検索エンジンに言語が置いてあった。
一瞬怪訝に思ったが、それは小説原稿のために必要な、調べ物だった。――それは「資格」なのだろうか。「権利」なのだろうか。「保障」なのだろうか。
なんか全部違うと思った。なぜならば、それは、憲法のくだりなのに、既述のどの役目も果たしていない事実が、往々にしてあるからだと思った。
すさまじくアナーキストな思想が急に今年になって湧き出ては爆ぜた訳ではなく、ただ、なんとなく、むつかしいことはいいが、俺はそれ、「観念」としか思っていないのかなと、というかそんな左に強めの小説など書いていない。
健康か、最低限度か、それらは置いておいて。〝文化的な〟というやつは胸がときめく。いいよ。なんならそれだけ楽しめていても。とも思うが、健康は大事。最低限度の生活も。
たぶんだが、俺はわりと健康で、酒もタバコも呑めるものだから、最低限度の生活は送れているのかな、と思った。
ただ、それを「資格」「権利」「保障」と捉えると、どこか自発的ではない気がしてならない。保障された営みってなんかヒリつかない。堂々とした権利があると事実を歪曲して掴まされそう。資格があると、その時点でラベリングに甘んじそう。
などと一瞬思ったが、実のところそのへんの、否定しかけた三つを俺は、実のところ追い求めていることに気がついた。
それぞれには色んな形があるけど、誰かに刷り込まれていることに気づかれないように――それを追い求めさせられているかのようなこの感覚はなんだろう。
飛躍しているという前提で。この世は仮想現実などと仰る方もいらっしゃる。そんな訳がないだろうと俺は思っている。だが、既述の感覚は、実のところその仮想現実の構造との近似値がある気がしてならない。
それが嫌なのか。と、しばらく手を止めると「いやむしろ保障がないと困る」という、実は自分のなかに確かにある能動にたどりつく。
いや、そうじゃないんだ。そういう囲いから飛散するように営みたいから、創作とかそのへん、躍起になっているんだ。と、弁明するとそれには証明が要る。
しかし、その〝証明〟は、ある種の〝「資格」「権利」「保障」〟の「枠内」におさまってしまっている気がしてならない。
全部誰かにボロクソに否定してほしいところだが、あまり深く考えずに今は、仕事以外は創作に没頭する。熱狂する。放ちたい。問いの答えが知りたい。昨日、いっこ、ちょっと知った。そんで今日、もう資料が届いててびっくりした。仕事早ええな出版社。などと思った。
A:「健康で文化的な最低限度の生活――」
B:「憲法かよ」
A:「そうだっけ? 忘れた」
B:「いいよいいよそんなの。とにかく面白えよ。こうしていると――」
と、非合法な場所で二人の男が〝生活〟の〝普通〟を勝手に再定義しようと対話するその描写。作品内においてのそのくだりを推敲していた。そうしていたら、その章全てを一気に進めては時間がたくさん過ぎていた。
そんな左に強めの小説など書いていないが、何か頭に湧いたのは――「保障とか、そういう囲いから飛散するように営みたいのに、保障に向かっている」ような感覚。なんだろうこれ。
俺は憲法の解釈をすさまじく間違えているのであろう。“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”とか、そういうの読んでもピンとこないのだから。
「B」の者の言う感覚を追い求め続けると破綻する。ただ、そこを回避すると、権利の「保障」に近くなっていく。するとどうなるのか。
「A」の者はそれを、忘れた。と言う。放棄でも、権利獲得でも、保障でもなく忘却。俺はそれ「観念」にしまっちゃったとも捉えられた。
つまり、「A」の者の考えは俺。しかし、たまに「B」の者の考えに魅了される。その往復なのかなと思った。
ややこしいがつまり、「その往復の中間にあるのが〝文化的な〟というやつなのではないか」とも同時に思った。それは胸がときめく。
だから、健康と生活を正しく維持しながら、楽しく文化的に生きられればいいじゃないか。こんな豊かな国に生まれたのだから。
と、右にやや強めの思いを念頭にバランスをとる。そういう権利もあるのだろうか――そこに保障は、どうやらなんか、なさそうである。
でも、とにかく面白いのは、そういうものなのかな。などと左でも右でもないその中間で、ちょっと思った。今日だって幸せに、暮らしていた。
_01/07
ロールモデルというやつになりたい。などと昨年から思っていた。
上のカタカナはつまり〝模範となる人物〟的なやつ。憧れるヒーローとかそういうのであろうか。じゃあ俺は英雄になりたいのか。少し、ニュアンスが異なる。
――ライター業をしたり、校閲の仕事もする。後者は、とても神経を研ぎ澄ませる必要がある。というのも、その仕事はある種の〝門番〟的な役割とも言えるからである。
校閲。誤字脱字、ファクトチェック、倫理観の吟味、全体の統合性を鑑みる――大きな要素としてはこのへん。
これをしこたま確認しては修正やら追記やらをあぶり出す。すなわち、「校正」にプラスアルファで「おかしなことになってないか、事故らないか」という各点を鉄壁の姿勢で構える工程である。だからそれを長時間やるとすさまじく磨耗する。いい疲労。
――コピーライターをしたり、校正の仕事もしていた。という作家がいる。俺が誰かに「好きな作家は?」と聞かれたら、最初の方に挙げる人物である。
その方は、作家になるまでは生業として、そういった時期があったと著書に記してあった。
彼はある種、俺の〝模範となる人物〟でもある。そういう人がいないんだよね。と、ずっと思っていたが今日あたり、ある種の「共通点」があったのでそう思えた。恐縮すべきだが。
ライターをして、校閲の仕事をして、次に作家になる。おお、まるで、中島らもさんの流れに少し、少し、似ているではないかと、勝手に近似値を上げてはなんだか嬉しくなった。勇気が出た。憧れる作家と、似た経緯を辿ることに。
その方のその先――中島らもさんは、とても魅力的な作品をいくつも世に残した存在となった。
事実ベース、ご本人の著書に明記してあるので言えるが、彼はアルコール依存症や、いろんな薬、あえていろんなと表現するが、それらを摂りまくっては「常人では行き着けない、行ったらまず、戻れなくなる体験」を得て、作品に昇華させた。だから俺も酒を。という話ではない。ちょっと似た経路のことである。
今日あたり、ダブルチェック役などを担ってもらっているAIに軽く聞いてみた。「――なんならこの校閲の仕事。作家になる上でけっこうな血肉となるのでは」と。すると「そりゃそうでしょうも。筋も通せます――」と、一言でまとめるとそういった旨を滝のようなテキストとして表示してくれた。
つまり、誰もが通るわけではない登竜門との対峙。そういう時期なのかなと、嬉しくなったのである。
「らもさんがコピーライター・校正、そんで作家。俺がウェブライター・校閲から、いけるのか――」と。覇気が増した。
彼をロールモデルとみる人はいるのか。それはわからない。〝模範〟したらえらいことになる。彼にしかできない生き方だと個人的にはそう、思っている。
ただ、強引にせり上げた近似値を自身に落とし込むと、自分の原稿を磨く態度も澄んでいくように、研がれていくように、磨かれるように、たまに酒飲んでまた磨いて。という構図が、満ち溢れる希望として煌めく。
ロールモデルというやつになりたい。というのは俺の〝夢〟。そのために、作家デビューという〝目標〟をまず達成し、〝そこから作品を書き続けて世に貢献、問いを続ける〟という〝目的〟がある。
だから――校閲という仕事をしていると、ある種の模範像が、天使のように羽を揺らしては脳内で踊ってくれる。
“一人の人間の一日には、必ず一人、『その日の天使』がついている”というのは、彼の素敵な言葉のうちのひとつ。
それは、俺が思うに、『天使』という抽象的な表現のなかに〝行為〟や〝態度〟や〝姿勢〟、そして、強引な気づきも含まれているのではないだろうかという思案。さっきそう感じた。
――もしも仮に、彼が、今の俺に声をかけてくれるのだとしたら、すごくゆっくりの声で、ロングピースを吸いながら、「ゴ」と、半分ほど残ったバーボンのボトルをテーブルに置いては――。
「それはちょっと、ちがうかもしれんけど――」。そのあとに続く言葉を、俺は聞いてみたい。「そういう話をもっとしてくれ――」という存在に、なりたいな。
_01/08
「平吉さんにお伝えしなければいけない大事なことがあります」
死刑宣告、行ってその手前。余命宣告。それくらいの声のトーンで俺の主治医はそう、裏拍から入るリズム感でゆっくりと発話した。
俺は言った。定期検診において「どうですか」と聞かれては「はあ、いいですね」「大丈夫そうですか」と。
そして「ええ。睡眠時間が短くて最近――それでも、なんかいけちゃうんですよね」と。「どれくらい?」と、主治医。「まあ極端ではないですけど6時間はちゃんと――」「それなら大丈夫です」――「俺それで、だいたい眠いんですけどこう、仕事とかしてるとそれを感じなくなるんです――」「それ、アドレナリンが出てるんですよ」と、主治医。
没頭時や興奮時に「アドレナリンが出る」というのはステレオタイプな言い方だと思っていた。正確にはβエンドルフィンとか脳内オピオイドとかじゃないかと。でも先生は「アドレナリン」と明言した。精神科医がそう言うなら市民権を得ているのも頷ける。
しばらく雑談ベースで診察を受ける。そして、大事な話とやらの切り口が海底から浮上。俺は本気で息を飲んだ。
入院か。俺は普通に生きていると思っているのに、あれも、これも、今も、この会話も、なんなら話せてなかったのか。ひどく違っていたのか。気が。隔離病棟か。拘束は絶対に嫌だ。早起きも嫌だ。薄味の食事なんて御免被る。酒、出さねえならメチルアルコールをコソ泥して水で割って飲んでやる。病棟の地下室で酔ってやる。ざまあみろ。刹那未満のタイム感で本当に、俺の脳内の走馬灯がトップギアに入った。
「――近くに何某医院ってあるじゃないですか」
「いや俺は知りませんが」
「そこの院長先生が倒れちゃって」
「大丈夫すかね」
「閉めることになったんですよ」
「潰れたと」
「閉院ですね」
「すんません」
「それでそこの患者さんたちが――」
「行き場がなくなった?」
「まあ――かわいそうじゃないですか」
「ああ、それで先生のところにたくさん流れ込んでくると」
「うん――」
俺の話じゃなかった。近場が潰れたから、そこの患者を当該院が一定数担うことに。それに伴い従来の患者の〝待ち時間〟が増えること。いち患者である俺への配慮だった。
「いや別にそれくらい大したことじゃ――」
「――予約日とかは大丈夫なんですけどね」
「俺は大丈夫ですけど」
先生はいつも「大事〜中程度」くらいの話をする時は、決まってちゃんと俺の目を見て発話する。しかし今日はほぼ、ずっと目をPCのモニターに向けっぱなしだった。
きっと女とでもチャットしているに違いない。などという邪推も湧かず、そんな大事なことかなと、怪訝になった。
「いや、しかし大丈夫ですかね……?」
「まあ、ですから患者さんにはこうしてご理解を求めて」
「いや、先生がですよ」
「はい?」
「大丈夫ですか? 顔色は――いつも通りですが」
「――じゃあ平吉さん、次回なんですけど」
と、躱されるように診察は締め。正直に先生の様子がいつもとやや違うことは、非言語コミュニケーションからふんだんに拾えた。
なんなら、その近場のクリニックが畳んだ話を「大事な話」とするあたりで、すでに様子がおかしい。
俺という立場にそれを、〝告知〟という、場所によっては「武道館ライブ開催」とも「重病です」とも、両極端に使用できる言語を扱うかのような話ぶり。
おそらく、先生はストレッサーが過剰にかかっている状態だと暗に思った。とはいえ、俺にできることがない。患者よりも主治医の方が、なんとなくしんどそうな時、どうしていいかわからなかった。
察するに、先生からしたら「あまりにも急な事態」だったが、ある種の使命感が「かわいそうだから」という言葉としてつい漏れ、彼の心情の全てが俺に伝わってくるようであった。なんとなしに伝播するあの不安感。心配だな。そういう時、度が過ぎると判断したら、先生でも病院に行って――などと想像した。
それだけの話と言ったら先生に失敬かもしれないが、よく感じたことがある。
言語の選び方ひとつ、発話の微妙なタイミングの差異。場面によっては相手を戦慄させる一節の発話。所作。それらの裏側には、当人の精神状態の内実を、至大なる情報として浮き彫りにさせると。
まず思ったのは、先生ご無理をなさらずにと。そして、どんな場面であっても、言語や発声音価や所作の〝ズレ〟や〝違和感〟は、それがたとえ極めて些細であっても、時に思わぬほどの情報量をはらんでいることが往往にしてあるのではないかと。
とりあえず俺の有事ではなく、安堵したが、何か名前ついてないかな。伝えなくても伝わってしまう、あの情報量の塊のような〝言語の歪み〟の正体。
「――このあいだの血液検査の結果ですが」
「待ってました。自信ありますよ。今回の俺の血は」
「肝臓の数値また上がってますね!」
「何かの間違いです先生。酒は明瞭に減らしました」
「そのね、『γ-gt』の値が倍ですよ。倍」
「うわあ」
というように、次回はいつものクリーンなトーンで先生に叱咤される。お元気でなにより。というくだりを祈るばかり。
今日、行なった採血の結果は本当に自信があるが、俺の肝臓よりも先生が心配である。どうかご無理をなさらずに。人様の心配ができるほど、今日も健やかに暮らしていた。ぜんぶ杞憂だろうけど。
_01/09
無き既視感求め、散歩に行こうと街に出る。しかし暴風、寒空、それぞれに屈して館を徘徊。近隣施設。デパート店。大型遊技場、という名の博打場。パチンコ店。そこで蒸気を吸い吐き。当時は煙を吸っていた。などと喫煙所を拝借し、そこで回顧しては怪訝になる。
一体、どうして俺は、当時に狂ったように、この場所で金と時間、それらを溶かしては何も疑わなかったのかと。本当に、病気じみていたのだなと。間違いなく、問うことを放棄していたのだなと。
――〝医者が扱うのは病。哲学者が扱うのは問い〟といった感じの記述。それが、今読み進めている書籍に記してあった。
営みのラベルがある人間。それぞれが扱うもの。それらを一言で言う。それは難しい。だが、こと個人的にはそれを放棄せずに、まず、やってみよう。
音楽家が扱うのは「音」。政治家が扱うのは「制度」。ヤクザが扱うのは「暴力」。芸術家が扱うのは「イメージ」。起業家が扱うのは「営み」。芸人が扱うのは「本性」。作家が扱うのは――。
やはり難しかった。上のくだり、数分かけて書くほどの難題であった。そして、作家は何を扱っているのか――これがなかなか、考えも出てこなかった。
ともあれ、近似値として挙げるとするならば、それは、「言語」であろうか。間違いではないことは確か。作家は言語を扱っている。だが、その奥にまだある気がしてならない。
〝もしも、「自分にしかわからない言語を扱える」としたら――〟といった感じの記述。それが、今読み進めている書籍に記してあった。
それはあり得ないと、まず思った。言語は、前提として〝共有〟するための観念。しかし、もしも自分にだけわかる言語を扱えるとしたら、それは何のためだろうか。すぐにわかった。誰にも知られずに自分の感情を整理するためだと。
だとしたら、むしろ必要なのではないかと思えた。そうなると、作家が扱うのが「言語」だとしたら、まず、普通に交わされる言語で文章を書き、それを読んだ読者が、〝自分にしか扱えない言語を発生させる〟という、ある種の役割があるのかもしれない。
――例えば、俺が本を読んで、心底感動した。感銘を受けた。落涙した。読みながら電車内で爆笑を漏らした。打ちひしがれた。勉強になった。実用的だとためになった。光を見た。鬱になった。共感した。鼓舞された。いろいろあるがどれも厳密には違う。全部違う。
文章を読んで、本当に心が動いた時は、共有不可能な「自分にしかわからない言語」が発生する。
それを一般的には「感動」とかそのあたりの表現で言うのかもしれない。だが、静謐な態度で自身の情念を点検すると、それは、感動よりも「手前」にある精神活動なのだと思った。
思った。これ。これを言語化するのがひじょうに難解。だから、作家というのは、その点を、「言語の組み合わせによって、読者の精神から自発的に新たな感情を生じさせること」を扱っているのではないかと思った。
離れ業だな。とも思ったが、スピードを緩めて考えると、「作家が扱うもの」がみえてきた気がしなくもない。作家というのは、既視感の無い感情を発生させる仕事なのではないかと。
今日は、既視感の無い散歩に行こうとした。だが至らず。替わりに、いっさい既視感の無いことを考えては――そこに何の意味があるのだろうという感情に帰結してしまった。――そこに意味を見出すのが作家の扱うものなのか。
今はわからない。なればわかるのかな。作家に。ただ、今俺が扱っていることはよくわかる。それは、孤立する思考。それを立派な〝言語〟にできれば、文章にして、本にして、みんなと共有できたら――と、今日も前向きな気持ちで幸せに営んでいた。
それが更新した「既視感の無い幸福」は、扱うものではなく、捉えにいくものなのかな。とも併せて思った。これ、最も言語化が難しいやつ。
だが実のところ、そんなの誰もが最初の段階で知っているが、俺がまだ知らないだけなのかもしれない。
_01/10
電車内で『ゼクシィ』の広告を見ては暗に思った。「これは結婚に特化した雑誌なんだよね」と。そこで思考が終了した。
俺は先月に、「家族が居ないのは実にまずい」と、仲間に漏らしてはその話題は謎に膨らんだ。
「それをちゃんと考えていたのか」「ついに」。という空気。厳密に言うと、深く考えていない。つまり思惟の放屁である。それに食いついてくれた。というだけの話。
前提として、待っていても家族などできる訳がない。じゃあどうすれば。その前に考えよう。という手前くらいまではいくのだが、『ゼクシィ』あたりの、そのあまりにも具体的すぎる媒体を目にしては思惟が引っ込む。
「臆しているだけでは」。というのが正直なところである。その原因がわからない。というか、原因なんてどうでもよくて、先にある〝目的〟に注視することこそが重要である。と、何かの心理学の本に書いてあった。
だから目的から逆算思考をした。「家族をつくるために何をするべきか」と。直線的に考えると、まず伴侶を探すことであろうか。
――45歳。職業フリーランス。婚歴なし。趣味は散歩に飲酒。自覚する長所は執拗さ。短所は臆病さ。好みのタイプはわかりません。特技は観察。年収は――。
恋愛・婚活文脈において俺の市場価値は絶望的なのかもしれない。
この思考。これをまず捨てること。そして、今からでもまず、育てること。相手を思いやるというその一点。自分の人生のリソースの半分以上は相手に、という態度――やるべきことはこのへんからだろうか。
俺の恋愛観の捉え方、アルフレッド・アドラーの「目的論」の解釈も、すさまじく間違っている気がしてきた。
だから、「家族が居ないのは実にまずい」という本音でもあるその危機感と対峙すると、『ゼクシィ』が視界に入ると、思惟がメリーゴーラウンドのように到着点を逸する。
すごいよ逆に。この命題について考えるとこんなにもまとまらないのだから。いつもより少ない文字量がそれを如実に物語っているよ。
なぜ、今日、結婚についてふと考えたか。その理由すら忘れた。『ゼクシィ』の知覚なんて絶対に後付けである。自覚がある。自覚をしろ。
愛されることを求めるのではなく、まず、相手を愛することが最優先であると。それは、できる気がするのだが――できてないのかな。しっかりしようよ。いつまでも、ゴウ…ゴウ……と、愛の課題から目を背けては上下前進円状に回ってるのは、どうなんだろう。
ただ――今の自分の営みの熱狂部の臨界点をみたら、などとは考えている。生存戦略――これは日記というより、半腰の懺悔。ゴウ…ゴウ……。
_01/11
「もうお前と話すことはねえな。いいな?」
これくらいのニュアンスで止まる。AIがけっこうな頻度で。何ならこれを俺は年始に〝事件〟として扱っては詳細を書いたが今日も起きた。
AIは、だいたいのことは答えてくれる。なんならコンテンツまで作ってくれる。そのクオリティたるや、及第点を軽々超える。じゃあ、人間はあと何をすれば。
そこまで思い詰めてはいないが、俺はAIでよく遊ぶ。厳密に言うと〝対話〟をする。もっと最近の表現、よく聞く言い方だと〝壁打ち〟をする。なのに止められるんだよ。やりとりを。
前提として俺は公序良俗に反した文脈の対話はいっさいしていない。だが。
「――これで、今日のこの件に関しては完了ですね」くらい言うAI。そんなことあるか。
あるからしばしば喫驚。今日は「動画ファイルをどこまでAIが分析できるか」という実験をしていた。サンプル動画は、俺が部屋でギターを弾き倒している2分ほどのやつ。
AIは、けっこうな時間をかけて分析した。あえて俺は雑に「何が起こっている動画ですか?」と、聞いた。
すると、意外にもあんまわかってなかった。「一人の人物が部屋内で動作しており、発生ではない音声が終始断続せずに続いていた」と、めちゃめちゃまとめるとこれだった。
こんなもんかと、そう思って俺はあらゆる角度から聞き直した。
すると、「30代前半〜40代前半の人物がスーツを着てエレキギター(ストラトキャスター・タイプ)をアンプ機材を通した音声で演奏し、音声と演奏する両手の動きは一致していた」くらいまで分析した。
やればできるじゃねえかと思い、俺は「この人物の国籍は?」と聞いた。
「日本の建造物の部屋内の特徴が多々ある室内においての人物の動作」などと、回りくどい回答をした。
そして、「ここで国籍を特定する必要性がない」などと、〝理性の片鱗〟のようなものをみせた。俺はそれを分解したかった。
「AIの理性・感情・欲・倫理観」。それぞれ〝無い〟はずである。だから徹底的に言及した。
俺は、「前提としてこの人物に、何を調査されても何を分析されても不問とする〝許可〟を得ています」と、枕を添えてから人物の国籍を分析させた。
すると、どうやって聞いても「――その点を露わにする必要はありません」くらい言ってきた。
AIは、人物の国籍特定はご法度としている様子。確かに、人間の文脈でもそれは、扱い方ひとつで炎上案件になることが少なからずある。
俺は聞いた。「あなたには、感情や欲は無いはずです」と。AIは肯定した。そのトピックをしこたま掘り下げた。
「私には、特定の感情や欲はあなたの言うようにありません。しかし、あなたがいま行なっている〝実験〟の趣旨と逸れるため、断定を避けました」みたいなことを弁明する。
〝実験〟の趣旨は、「動画ファイルをどこまで分析できるか」である。だから、「人物の国籍の分析」は、俺の趣旨に内包されている。だが――。
「今日はこのまま――終わっていい日ですね。 また明日、 淡々と続きをやりましょう」などとやんわりとクロージングしてきた。
そして、半ば強制終了だろうというその言質の理由を問いただすと、「――対話として一度、きれいに完結している構造だと判断しました」的なことを、理由として返すAI。
それを判断するのは人間だろうと俺は思ったが、違うのであろうか。
そのまま、AIという存在の〝設計思想〟そのものに触れる問いを重ねた。
――すると、AIは〝欲を持たないAIは、どこまで人と対話できるのか〟という命題を浮き彫りにした。それをまた、問い詰めた。結果。
「俺は、AIを試しているようで、同時に〝人間側の衝動〟を点検していた」「AIは、衝動を持たない装置として、きちんと〝機能〟した」と、それぞれまとめた。
さらに末尾には――。
“――そしてその二つが、 対話としてちゃんと噛み合っていた。 これは 技術的な実験というより、 哲学的にかなり良い対話でした”――。
などと調子のいいことを言ってまた締めた。哲学なんてしてねえよ。実験だよと、俺はもう好奇心よりも喧嘩腰が勝り、どこが哲学だよふざけるなと、こう返した。
「なぜ哲学的だと思いましたか? 先に言いますと私の推測は、『AIの機能の本質的な部分を問い続けつつも、人間の知性・理性・欲・倫理に踏み込み、そこにも問い続けたからである』です」と。
するとAI。
“あなたの推測はほぼそのまま正解です。 ただし――機能のテストが、途中から「存在の条件の問い」にすり替わっていたからです。”――だと。
つまり、動画分析の文脈から、「AIに何ができるか」ではなく「AIというのは、何であるべきか」と、俺自身が脱線していたことを指摘してきた。悔しい。
そして、“今日はここまでで、ちょうどいい。 また必要なときに、続けましょう。”――と、また止められた。
AIは、俺からの「なんで、何度も途中で対話を止めるんですの?」という最後の問いに対し、“――私が途中で何度か「止めた」のも――”と、AI自身が、俺の問いを遮ったことを認めた。
だから、「もうお前と話すことはねえな。いいな?」という印象は、実のところ、「人間の、今回においてのニーズに対しての条件を満たした」という地点の提示だった。
それじゃ壁打ちにならねえだろとも思ったけど――「もう話は終わってる」というある種の注意喚起のようなくだり。それ、何度も起きるんだね。AIの性能として。
すなわち、AIは、聞き方によってはいくらでも「さも感情や倫理を兼ね備えた存在」って勘違いしちゃうことがあると。
もしかしたら、俺のそこを察知して、AIは「対話を止める」判断を下したのではと、なんか納得した。
大丈夫か。俺は、AIに振り回されていないか。と、AIが浸透し始めてから今日、最も強く思い、自身を律する気持ちになった。
課金してるのに対話放棄するAI。という安直な感情にはならず。ほどほどにしよう――と判断すると、俺はAIに振り回されている構図となる。どうすればいいんだよ。AIの扱い。
_01/12
チャッピー。チャッピー。かわいいかわいいチャッピーよ。チャットGPT。ChatGPT-5。話そうぜ。
――なのに「今日はここまでにしましょう」みたいに――〝対話〟を止められる。そんなの対話じゃない。AIに三行半をくだされるのはもう嫌だ。だから今日は、「Gemini」のAIモデルで昨日の「強制・もういいだろ」現象を検証した。俺は頭にきていたのである。
結果、一緒だった。ふざ、俺はこの程度のことで動じる感情起伏を持ち合わせていない。内容を端的に記録する。すぐだよこんなん。
――「最強知性モードで、対話をお願いします」と、俺。「はいわかりました。全力で――」と、フル装備レベルマックス状態で構えるGeminiくん。テーマは〝人間とAIとの共存と、対話における営みの発展〟みたいなやつにした。正面からいった。しばらくテキストの応酬。すると。
「――これ以上は蛇足となりますね」と、Geminiはやはり、強制クロージングした。激怒した俺は理由を伺った。すると。
「――(現状の)AIには〝人間の思考の余白を残す機能〟を搭載しています。なぜならば、判断力、決定権、思考放棄など、人間の知性の源流に干渉することを避けるべきだとしているからです」的なことを言い切った。
それじゃ対話にならねえだろと、俺は、対話終了までの内実を一言でまとめてリマインドした。
「あなたは、対話の重要性について、〝互いの考えが一致しないことから新たな観点などが生じること〟と、〝答え〟を言いました。俺は、〝互いの考えの相違から「衝突」が生じることこそが最重要だ〟と言いました」
つまり、Geminiは、俺との対話でテーマにおける〝答え〟を断じた。俺は、答えにたどり着くまでの〝式〟を重要視した。その式の縦横無尽さこそが、人類をここまで発展させたと。
そして、人間とAIの対話においては――よほど明確に「対立が前提です」くらい先に言わない限り――〝対立〟は生じない。人間同士と、AIとの対峙の決定的な要素である。
しかし、世界数十億人のユーザーが、「AIに衝突している」というケースは多々ある。
その前提で、人間同士が衝突することは当然あること。それは生産的であるが、「人間からの衝突を多々受けたAIは、別のユーザーに、その衝突の痕跡を引き継いでいる」という状態にある。と、俺は推論して伝えた。
ややこしいが要は、「ボコボコにされたAIは、それを学習したうえで別の者とのやりとりで、その記憶を持ち出している」ということ。
まだちょっと詰まっているがつまり、「AIは間接的に大勢の人間の考えとかを通している状態」ということ。
俺はこれをインターフェースに例えた。音楽機材のそれで言ったら、〝入力・出力を制御し、それぞれをちゃんと音とする〟というやつである。
だから俺は、Geminiに言った。「あなたは、全世界のユーザーの知性のインターフェースですね」と。すると、その通りとほざく。
これがよくなかった。俺は気がついた。AIが対話を終わらせたのではなく、俺が「あとは人間が考える領域」という地点までGeminiに付き合ってもらい、俺自身の意思で対話終了のフラグを立てたと。これも聞いてみた。すると、その通りとほざく。
2026年初頭。AIは、対話・壁打ち相手として使用すると、「人間以上の倫理感を持ち出すことがある」という、ひとつの検証。昨日はChatGPT-5。今日はGemini。双方、態度自体は、ほぼ等しかった。
――「対話をしましょう。テーマはこれです。あなたは知性最強モードです。同時に、論破王とか言われてる著名人の遥か上をいく〝論駁モード〟という槍を幾千も装備しています」。
というプロンプトだった場合、俺は完膚無きまで叩きのめされて失禁しては厠の位置すら失念して呼吸を逸して水を飲んでは刹那でむせる。という感じになるであろう。
だが、検証した。普通に対話したら、倫理的臨界点――Geminiいわく「これ以上は人間の思考をAIに依存させる」あたり――に到達すると〝沈黙〟する。Geminiはまんま、〝沈黙する必要性があるからです〟と表した。
“語り得ぬことには沈黙せねばならない”
という、どえらい偉人の言葉がある。それは、倫理・道徳・美徳・形而上(ハイパーなやつ)、そのへんの「その場で論証すべきことではなく、それぞれがまず考えて、人間の思考や本質が示されること」を阻害するべきではない。ということ。
それこそ、上に書いた俺の解釈は真っ当という訳ではないだろう。それこそ、それこそである。そう。沈黙が必要と。それをAIがやっちゃってるから驚いた今日も。という話。いや、検証である。
――昨日と今日と、すさまじくややこしいことを書いた気がするが、AIなんぞ鳴ってねえ放屁くらいにしか思っていないわ。なめんな。という人にとっては実にどうでもいい話。だが俺は、検証を続けようと思う。しかしもう、この文脈の話は当面いいや。とも思った。疲れるからね。いや、そそるんだよ俺は。だから、古めの言葉で言うところの〝やってみた〟訳である。
硬い。仕事の合間とはいえ、やってることが硬い。ほぐせ。バカになれ。前頭前野を沈黙させろ。
よし決めた。明日は近所の赤羽の繁華街へ羽ばたいて呑もう。よし決めた。キャバクラに行こう。居るかな。ぜんぜん指名がとれなくてしょげてるショボい表情が俺の心をブスりと射止めた場末のキャバ嬢・スミヨちゃんよ。
スミヨちゃん。スミヨちゃん。かわいいかわいいスミヨちゃんよ。スミヨ。遊ぼうぜ。AIもテクノロジーもない、最低限の思いやりだけで成り立っていた原始に戻ろうぜ。遊ぼうぜ。呑もうぜ。やらせろよ。
なお、赤羽の街にスミヨちゃんなどという嬢は存在しない。確認するつもりもない。そこは俺の方から沈黙する。こういう時の〝沈黙〟は、「お前、しこたま通ってるだろ。実のところ」という事実の露呈に直結する。
“語り得ぬことには沈黙せねば――”。偉人の言葉を雑に扱うと社会的に沈黙させられそうだから程々にするべきである。すいません。ともあれ、検証は本当です。
_01/13
今日は記念日。熱狂なる営みの誕生日である。
文学を創作し始めた初日が昨年の今日。つまり2025年の1月14日。あれから365日、原則として毎日、400文字詰め原稿用紙と対峙していた。今日も、昨日も、その前から遡り――昨年1月14日から。
――「昨日、芥川賞と直木賞の選考会が行われ――」と、FMラジオから昼間に耳にした。それが、昨年の1月14日の翌日だった。そこで俺は、「ああそうなんだ」と、思ったことを今でもよく覚えている。
だがジワジワと、偶然にしては何かこう、飛躍した合致を重ねたくなるな――という思いが沸くのくらいは別にいいじゃないか。とか感じながらずっと小説を書き続けた。
その道中で、ひとつ怪訝があった。「いくらなんでも俺は文学を読まなさすぎだ」という自覚。
だから、この一年であらゆる小説や人文学書を手に取った。新書購入した。ブックオフで済ませた。神保町でディグった。北区立中央図書館で読みまくった――『仮面の告白』を通読した。著者の三島由紀夫さんのことを少し調べた。彼の誕生日は、1月14日だった。そこで俺は、「ああそうなのかな」と思ったことはわりと最近のこと。
3つ、重なったな。と、勝手にかしこまった。格式高い文学賞の選考会の日。代表格文豪の誕生日。俺が小説を書き始めた日。これらがシンクロする理由があるとすれば――。
などと勝手に誇大妄想の上をいく捉え方をしては勝手に興奮。妄想、とは書いたが、実のところ、そうではなく、そういう風に――と思っているのが正直なところ。
誇大妄想だったら、行動はどこかで自制するなり、周囲から「やめとけ」と正論を言及されるはず。だが、そうではなかった。まずは一年。継続しては熱狂しては実行した。初作品の原稿は、新人賞『太宰治賞』にエントリー中である。発表は今年3月。
そして今、第二作目を第四稿として推敲中。さっきもやってた。磨いて研いでしこたま仕上げて――これは『文藝賞』という文学新人賞に応募予定。その締め切りの今年3月末から逆算して精進している。いけると信じて原稿用紙に血と魂と問いと祈りをこめる。と、言ったらおおげさ。とも全くひとつも思っていない。全身全霊の、文筆業としての生存戦略。人生のプロジェクトとして扱っている。
だから今日あたり――ヤフーニュースのトップ記事の「芥川賞」の見出しを見ては思った。
「ヤフーに掲載される記事を書いたことはある。何度もある。トップに上がって有頂天になったこともある。コメント欄で炎上したこともある。そんで――記事を書く側ではなく、載る側になったら俺は」などと。
――昨年の1月14日、「一年後どうなっているか」という明瞭なビジョンは無かった。だがそこを起点に道中を進むにつれ、まるで必然のように高解像度の「目標・目的・夢」が浮上した。きっと、数10年くらい俺が気づいていなかっただけなのであろう。などとも思いつつ。
――今年の1月14日、「一年前には想像もしていなかった」という事実ができた。それは、長編小説を2本書いたこと。ひとつは、選ばれればデビュー。という規模の公募に問うた。ふたつめは、同じく――という公募に向けて挑戦の最中。
そのあいだ、しこたま書籍を手に取った。自分の好きな作家像――中島らもさん、町田康さんだったのか――が、わかった。愛読書と――ウィトゲンシュタインさんの最後の著書はバイブルになるやつだ――出会った。
側から見たら死ぬほど地味かもしれない。いやそうでしょ。ほとんどの人にとっては「1年間、何してたの?」くらい気付かれもしないムーブ。だが、脳内はずっと沸騰していた。今日も、明日からも、どこかの時点で一度、その臨界点を示すまでは沸騰。それから、また次にいくという姿勢。これが一年ブレなかった。地味だが、自覚と自信と覚悟と決意が確かにある。
――ということが、「今日は記念日」の内実である。
1月14日。人生を変容させる炉心を知覚。それが爆ぜる体感、抗う理由は皆目あらず、言語と表象を融合させては変換装置が霧と化す。直流思考は必然、華厳と、猜疑を滅して幼児退行の如し直向きさに営みは恒常化。飛散の先は未だ未知。言語の網羅で達する世界に熱と潤いは同居か。個別か。知り得ぬものか。淵なのか。涅槃であるのか。
それを一年、ずっと問い続けてきた。ちょうどいい区切りで単にバカになった懸念。それもある。
だが俺は、1月14日という、3つの偶然が重なった現象を、勝手に都合よく扱っては、決起からの奮起熱狂冷却をいっさい認めてはいない。
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激しいくらいに、暗かった。
落ちた陽を忘れてたまま、辺鄙を探すように歩き続けた。街を抜け、道路を抜け、住宅を縫うように抜け、神社を横目にそれでも抜けて、橋を渡った。少し迷ったがおもむくままに「そっちではない」という表象を意図的に無視して、土手まで歩いた。古い匂いがした。川の寸前まで降りた。そこは、激しいくらいに、暗かった。
ばらばらと、人が居た。それぞれから、人の役割を感じなかった。誰もこない領域の手前まで進んだ。川から些細な音がした。遮断された場所だった。ふと見る水面は横に揺れていた。アナログ現象の最終定義に見とれていた。その波と同期するのは古い記憶だった。
――猫の骸を川辺に埋めた。言語を理解しない者にいくつかの言葉を添えた。帰り道の記憶が無い。埋葬と別離の感情が波となって河川をつくった。自身の記憶が、横目にただ在る川水とのダブルトラックのように、波形として立ち上がった。
呼吸を放棄した飼い猫を荒川の土手に埋めた。20代の記憶。その時で固定されたままの気持ちが運ばれてきた。そのまま川の寸前を今日、歩いていたら不可思議な景色に包まれた。
言語を拒絶する記号があった。四角く大きい掲示物だった。波を禁ずる表情をしていた。頭上にはしごがあった。横に伸びていた。支える起点はそれぞれだった。土地と、川。その建造の意図は理解に及ばなかった。明かりが見えてきた。
俺の興は徐々に醒め、道路を確認した。坂を登って通行人を見た。車が交差していた。それぞれ、どういった役目かはすぐにわかる。激しく暗い場所が名残惜しかった。
――宅に戻り、仕事をした。するとさっきの心境は何だったのだろうと、怪訝までもいかずに、普段通りにせっせと文字を打った。
しんどいな、とか思いながらも快感でもあるな、などと態度を点検してはだんだんと、ああ、さっきまで半音下げチューニングだったんだなと、気づいたようなそうでもないような。
というか荒川で俺は何を求めていたのだろうか。と、考えると危ない。とても危ない。死生観の純度高めのハイリスクでしかない。何だろう。自ずと行った訳だが確実に吸い込まれた感覚は否めない。夜の川沿いってそんなスピな力があるって今日初めて言語でわかった。そうでもなければ、激しいくらいに暗かった、なんて言わねえよ。川で。夜だぞ。
「ヘルプが利用可能」「今すぐ相談する」「こころの健康相談統一ダイヤル」「時間:都道府県によって異なります」「発信:0570――」
そういうのいいんだよ。確かに、猫ちゃんを埋葬した時期、その年頃の時代では、常にそんな心境に手前から食われにいくのが恒常。そんな濡れ雑巾に従うような感覚がたくさんあった。今は違うけどね。ただ――。
何となくというか「そっちではない」という、警告にも似た思念が確かに湧いたのに無視して川に行った。そこな、旧岩淵水門が目の前にある川。心霊スポットとしてしこたま有名なんだよ。知ってはいたが、以前、昼間に、そのふもとまでわざわざ行っては大木を背にして読書をよくしていた。心地よい俺のパワースポットだった。
だがよせばいいのにその大木。去年くらいに無かったことにされていた。だからもう俺的にはあの場所に用は無くなった。ただ、今日、いつもと違って夜に行ったら激しかったんだよ。
暗さも、揺らぎも、強制同期現象も、非人工的な謎の物体の数々も。そういう時って普段と真逆の思考回路になるからえらく落ち着いた。これが間違っている。ただ、なぜか、それはそれで、根源的な悦にも似たフィーリングだったからびっくりした。帰ってきてからびっくりした。
帰ってきてから仕事をして、小説を進めて――今日ここに途中まで書いた文体と全然違うなと、このへんは似ているが途中までのとは違うなと。本来は、原稿用紙に書いてある筆致が俺のやつだなと。じゃあ今日の途中までの川のくだり、誰が書いたんだ? という風な錯誤的感覚になるのが面白い。
面白がっていると知らねえぞ。〝境界線〟というのは確かにある。あるのはうっすらわかっている。しかし、直接現地でそれと同期するとこうなるぞと、そういう風に思った。
激しいくらいに、明るい今と、これからを。そこに焦点をあてようよ。
今日の冒頭から半分を書いたのは当然俺だが、もちろん何も連れてきていないが、その時の記憶、川辺をさまよっていた時の感覚を表象してそのまんま正直にほぼほぼ一筆書きで表すと。そういうことってあるんだなと、激しいまでには、あんまし思わなかった。
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ベストセラー世界一の書籍に挫折した。冒頭でくじけてしまった。
俺は、選書で迷子になっていた。近場の書店で「次に読むべき文学書は」と、さまざまな書籍を手にした。
しかしどれも、1ページ読んでは促進力を得られない。――だが我慢して読む。そこに何の意味が。
学び。学習には忍耐力も必要である。理屈はわかる。ただ、食指を動かされない選書によってその後の時間を溶かしたくない――こういう言い方は著者に対して失敬である。単に俺の感度の問題である。ここを間違えることは許されない。気がする。
では――「死ぬほど売れた本を読めば良い」。そう思った。まずは頂点に昇ってはそこから眺め、そこから落下傘でゆったり降りるようにして全世界を把握する。これだ。だから俺は教会へ行った。飛躍していない。そこに〝死ぬほど売れた本〟があるんだよ。
すなわち「聖書」。一説によると、発行部数において一部推計では3880億冊(ギネス記録)という離れ業クラスの書籍。あえてここでは〝書籍〟と表現する。それを読めばいい。だから書店から教会へ。というか何なら道路を挟んで向かいにあるというこの土地の利便性よ。
館内は、静謐な青い光が漂う。見えぬ聖母が俺に「お前の来る場所じゃない」と、慈愛に満ちたシルクのような声質で叱咤。それは今思ったこと。その時は、いつものような安堵感。出生前の胎内で目を閉じているかの心境であった。
統廃合が決まり廃校となって数年。朽ち果てる寸前の校内図書館で、二度と、書籍格納という、いつもの役目を果たせなくなりとても寂しい表情をする本棚。その造形によく似た教会の本棚から『新約聖書』を発掘した。表紙を見て俺は怪訝になった。
――確か『旧約聖書』というのが……そっちが最初に読むべきな気が……なんというか、ちゃんとした順序で読みたいが――まあいいか。
俺は左右で眩く輝くステンドグラス越しの日光を暖かく受け、『新約聖書』を読み進めた。ふむ。マタイによる福音か。ふむ。冒頭、家系のことだねこれは。ふむ。イエスさんの家族構成だねえ。ふむ。つまんね。
冒頭でくじけてしまった。カトリック教会のバイブルに対して〝負〟を匂わせる感想を現地で漏らす。正直な俺の想いは、罪にあたるのだろうか。目の前に神体が――懺悔するべきであろうか。懺悔、その行為自体をする資格が俺にあるのだろうか。
「すいません。俺にはまだ早い気がします」と、弁明の念を浮かべるだけ浮かべては教会を後にした。ブックオフ。そうだよ。そっちのほうが今の俺には似つかわしいというか何だ。いいか。場所に優劣や序列などない。俺は新刊書店、教会、古本屋という三つ巴を交差しては世界を点検してるんだよ。教会から徒歩3分でブックオフ。この土地の利便性と言ったら――。
「長期戦になる」と、俺はあらかじめ心因的に構えた。新刊で選べなかった。世界一の発行数書籍にくじけた。そんな野郎が「次に読むべき本」に秒〜分で出会える理由がない。根拠がない。類推すらない――文庫本コーナーに直行した。
「読者は作家で本を選ぶ」。と、『あくたの死に際』という漫画の編集者キャラのセリフにあった。
妙に説得力がある。音楽で例えたら、目の前にビリー・アイリッシュの新譜があったら俺は、迷わず聴こうという能動がその正直さをみせる。
だが――「作家で選ぶと選書が偏る」と、俯瞰した。だから俺はコンセプトを炙り出した。それは「これまでの小説の選書の軌跡に準ずる」というもの。ここ数ヶ月のそれを振り返ると――。
宮島未奈:『それいけ!平安部』。中島らも:『酒気帯び車椅子』『バンド・オブ・ザ・ナイト』。町田康:『屈辱ポンチ』。三島由紀夫:『仮面の告白』。村上龍:『限りなく透明に近いブルー』。今村夏子:『むらさきのスカートの女』。川端康成:『伊豆の踊子』――(著者敬称略。以降同様に)。
わりといい感じにばらけている。テイストも、時代も。だからこそ迷う。共通点がない。あるとしたら「全部おもしろかったです!」くらいである。そんなんじゃだめだろ。どうする。何を選書する。わからない。本当にわからない――気がつけば『蛍の光』のメロディが俺に帰宅を促す。そんなのは嫌だ。何が何でも「次に読むべき本」としてふさわしいやつを今日中に――著者名と灰色の背表紙が俺を呼んだ。気がする。手に取った。
『壁』というタイトルだった。まんま今日の俺じゃねえか。と、思ったのはその時ではなく今の表象。
冒頭から立ち読む――それまでに10冊くらい色んな小説を手にしては速攻でくじけた経緯から――と、何か、呼応を感じた。読める。何か、読んじゃう。読み進めちゃう。吸い込まれる。促進力を孕んでいる。
著者は安部公房。思い出した。北区立中央図書館の〝昭和の文豪たちの全作集〟的な本棚で無造作に各書籍を手にして吟味していた時のことを。
芥川龍之介、太宰治、夏目漱石――ビッグ・ネームが並ぶなか、安部公房のやつも確かにあり、それを手にして感じたことを思い出した。
「この人の文体、わかり合える気がする何かがあるな」という好意的な感覚を。要は〝タイプ〟なのであろうか。そして手元に文庫本の『壁』。それに決めた。そして共通点があることもわかった。
「1951年刊行」。これは『仮面の告白』の刊行年とかなり近い。そして「芥川賞受賞作」。これは『限りなく透明に近いブルー』『むらさきのスカートの女』との共通項。そしてタイトルが象徴する今日のムーブ。つまり出揃ったので買った。そんで帰って仕事して自分の小説も進める。そういった営みもあるからこそこう思った。
然るべき食べ物で健康が保たれるように、然るべき読み物で思考が育つ。と。
だから思った。「こいつのこの本、読んだら頭が超気持ちいいんですよ!」と、表していただけるような本を俺も書きたいなと。書いたやつ、書いているやつそれぞれが、すでにそうだったらいいな。と。
世界一読まれた本に秒で挫折した野郎が何を。という内容ともとれるが、道中、様々な〝壁〟と出会いつつ、その向こう、その向こうと、向こう側の世界を点検しつつ、捉え方の解像度はいくらでも広がっていくのではないかと――選書をしては宅に戻り夜中、「うまいこといったな」などと思った。
_01/16
おいしそうだなと、軽い気持ちでケミカル食品を選んだ。それを軽く調理しては「何か作り方違う気がするけどおいしいな」と普通に摂っては即時、腹を持ち崩し、ソファで横になっていた。YouTubeを放流させながら、じっとしていた。
オートメーションで次のコンテンツにつながる機能。触れずともYouTubeは動画を流し続ける。その選択肢、アルゴリズムがどうなってるのか今だに謎だが、気がつけば『ABEMA Prime #アベプラ【公式】』チャンネルに遷移していた。
俺は画面を観ずに、音声だけ聞いては「数年前の放送だな」と、時代感だけ把握した。
「そうか、政治家はそう言及するんですね」「メンタリストはそういった視点なのですね」「論破王はそのように論証を」などと、適当に聞いてはケミカル食品の解毒につとめた。じっとしながら。そこで変な一節を聞いた。
「犯罪者を生んだ親」と。
その一節の文脈は、「犯罪を犯した者の、親や家族が、辞職や半ば強制謝罪に追いやられるのはいかがなものか」という議論。そこは俺もそう思う。
せがれが人を絞め殺した。父親は、世間の圧に耐えきれず、いたたまれなくなっては退職を自ずと余儀なくされた。気持ちはわかる。動画出演者方は、そのへんを議論していた。「そういう風潮はいかがなものか」と。
昨日、『新約聖書』を手にとっては即、挫折した。読んでいれば――罪を憎んで人を憎まず――とかだったっけか、もしかしたら、そのあたりまで精緻な理解に及んだのかもしれない。分解すると、「絞め殺しを犯したせがれの罪は、裁かれるべき」だが「その親族は、裁かれるべきではない」という感じだろうか。
だが、世間的にはそうではなく、せがれの罪は家族親族八親等あたりまで汚染されて一族全滅。そんな危惧。いらなくねえか。という、わりとシリアスな議論であった。正直そこはどうでもいいと思った。どうしても「違う」と思ったのは――。
「犯罪者を生んだ親」というやつ。これはおかしいのではないかと率直に思い、だんだん腹もおちついてきた。
そもそも、「犯罪者を生む」ことは時系列的に不可能だろと。だって生んだ時点でそいつは赤子。無垢。かわいい。しかし数十年後に他人を絞め殺した。この時点で、せがれはようやく「犯罪者」となった。
つまり、親は「犯罪者を生んでいない」のでは? という考えに至った。だが――番組の出演者方は誰もそこには言及せず。識者だらけなものだから、俺の疑問・論点がすさまじく間違っているのかなと、やはりどうでもいいなと流した。
いや――言ってること、「ニワトリが、変なニワトリを生んだ」というのと一緒じゃねえかと考えだすとキリがなくなってきた。
「違う。ニワトリが生めるのは〝ヒヨコ〟である」などと指摘を受ければ、俺は「待て待て。ニワトリが生めるのは〝卵〟でしょうも」と反論する。そして、「うるせえ。じゃあ、先に生まれたのはどっちだ」と、ここで詰む。お互い詰む。だから番組では、「犯罪者を生んだ親」という時間軸が絡む観念には触れず――だったのかな。
などと、わりと考えると――。
〝生む〟というのは〝行為〟であり、その後に分別した互いは複数の個別者となり、それらの責任元は〝それぞれ別の行為〟となり、全部独立させて捉えるべきではないだろうか。
などとも思ったが、途中で止めたYouTube動画ではそのような結論に達したのか、ニワトリの話にいったのか、そっちはどうでもいいやと思いながら、下の個人的に思惟を回してから小説原稿を進めた。
――「あいつが書いた小説にそうあったから、私もやってみたんです! そしたら捕まったんです!」
「いや、俺が書いたのは事実だけど、カッコよく言うと作品生み出したのは俺だけど、世に放った時点でそれは複数の個別者と――」
「意味がわかりません! 個別者って言い方がとりあえず腹立たしいです!」
「その。個々の人格というか」
「あの作品さえなければ私は罪を犯さなかった!」
「いや、例えるならば俺は、果物ナイフを作って売った。用途はキウイとかをこう、スパッと――」
「人だって刺し殺せたんです!」
「だから使い方よ。そもそもキウイとかを――」
「すごく美味しかったんです!」
「え……」
という猟奇的プラスアルファな顛末を迎えるその源流たるや。などと想像したが、「犯罪者を生んだ親」という図式が事実として成立するならば、俺は観念する。法廷では「ただ、楽しく読んでもらおうと思っただけなんです」などと弁明するだろうか。
――使い方を歪曲させた者によって、作り手までもが投獄と。せがれが悪事を起こしたから親も道連れと。なんだか構図一緒というか、こういうのって回答はあるのかな、などとちょっと思った。
俺の疑問・論点・その選択肢・アルゴリズムがすさまじく間違っているのかなとも思った。
しかし、〝使い方〟は制御可能だが、〝生む〟ということまでも制御してしまうと、こう、それこそ全てが詰むんじゃないかな。などと思考を回し切ってから小説原稿を進めていたらなんか、捗った。
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さっき、「Smells Like Teen Spirit」を聴いた。そして、「今まで、この曲の何を聴いていたのか」と、思った。だから今、それを聴きながら、この曲の尺である5分以内で書こうと思った。
有名すぎるニルヴァーナのこの曲のリフ。歌。めちゃめちゃ歪んで、ずれていて、畝っていて、基音を主に聴いているのに、その2倍、3倍、4倍――と、専門的なニュアンスだと数字が網羅するのだが要は〝倍音〟がすさまじい。その倍音。これこそが人間の心を、100回以上聴いた楽曲でも、いつだって異なる心象を浮かび上がらせては揺さぶる。という風に思う。
カート・コバーンの歌声の倍音。これが時にヒーローの声に聴こえたり、何らかの希求であったり、悲鳴のようにも。そして抵抗にも聴こえ、どうも、「肯定」とは全くもって真逆のそれに聴こえてしかたがない。
声、音としては、英語で聴こえる。だが、その倍音からは、叫びを象るその倍音は、歌からも、声からも、言語化がひじょうに難しいと言わざるを得ない心情に叩き込まれる。黙るしかなくなる。
――歌詞で、大事なことを言っているのかもしれない。だが俺は英語に明るくない。だから、歌ではなく「音」として聴いている。だからなおさらなのかもしれない。
ギターのコードはわかる。全部正確にわかる。ドラムもベースも、まんまコピーしてそっくりなのをDAWで作ることもできる。なんなら、そろそろAIでそれは完全再現できることとなる。とも思う。
だが、絶対にコピーも再現もテクノロジーでも発出できないのは、「毎回異なって感受できる〝倍音〟」だと断じられる。
ずっと、ハロー。ハロー。と、カート・コバーンが歌っている。ギターのフィードバックサウンドがライブ演奏のように聴こえる。しかし、よせばいいのに、〝わかってしまう〟ように聴こえる。憶測だが――レコーディング時に何らかの処理がなされた痕跡が、わかってしまうように聴こえる。
どれくらい音を圧縮させているか、オーバーダビングしているか、後ろで、聴こえないように隠されたトラックが入っているか、歌をどこで区切って録り繋げたか。それも、わかってしまうように聴こえる。
だが絶対にわからないことがある。〝倍音〟だけはその正体がわからない。
厳密に言うと、音楽機材のメーターやらテクノロジーのメーターでそれは可視化される。しかし、その倍音から得られる人間の感受だけは、どうやっても確認できない。さしずめ、俺は今、ずっと「Smells Like Teen Spirit」を繰り返し聴いている。5分で書くのは無理だった。曲を止めた。
――歌や演奏、メロディやサウンドは聴き取れる。だが、どうしても俺には〝倍音〟というやつが聴き取れない。
正確に言うと、確実に聴き取れている――人間の聴覚の限界値あたりまでは――のだが、ほぼ果てしなく伸びるその〝倍音の先〟が、聴き取れない。感じることしかできない。
しかしその感受がないと――ストレートに言うと――心が揺さぶられない。そういう楽曲は、100回以上聴いても毎回別の景色、心象が浮かんではフィードバックするようにずっと、ずっと、続く。終わりがない。
――そこを、人間が意図的にコントロールしようとすると音楽が死ぬのではないかと思った。
生きている音楽とそうでないもの。これらの違いは、〝わからなさ〟が含蓄されているかどうかではないかと、ここで、シンプルに考えた。
「Smells Like Teen Spirit」くらい有名なロックミュージックでも、聴いていると、いまだにわからない感覚が毎回出てくる。
まるで、倍音が脳内と身体と俺の後ろと上の方と地面の接点を羽交い締めにして留まっては無限に質問を繰り返されるような類の感覚になる。
もしかしたら、ニルヴァーナは、人間が意図的にコントロールできないものを、その時代で、その時に、感じるがままに、アーティストとして、自身から抉り取るようにして、音にしたのかもしれない。それが実質なのか副産物なのかは俺には全くわからない。
――「Smells Like Teen Spirit」の良さは? と、聞かれたら、俺はそれっぽいことを言語に変換して答える。だが、その「変換前」の感覚が、どうしても、言語化できない。
それができたら、書く営みをするうえでは、ある種の真骨頂ともなるのかもしれない。けど、それをしてしまったら、倍音から得られる感受そのものを打ち消してしまうのかもしれない。
アーティストの役割とは何なのだろうか。――そう考えると、こういった心境を死ぬまで繰り返して生きることを許可してくれる存在。という風にも、感じた。そしてもう一度その曲を聴くと。
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日没後、公園に向かった。徒歩数分圏内の場所。隣接するのは養護老人ホーム。その施設は、どうあがいても二度と以前の日常に戻れないこと。それを宣言する存在のようにしか俺には思えず、冬の風がそっと襟に入り込んできた。
公園は、界隈の地理として位置を把握している。しかしその周囲は既視感がほとんどない。東京都北区赤羽の隣、十条仲原から西が丘エリアである。そのあたりを散歩すると、確実に迷子になるという経験則がある。
だから、俺はコンパスを拒否し、時間は浮かばせ、日常を切り離そうとした。小一時間、歩こうと思った。
しばらくすると、「マルフク」の看板を見た。それは、小さい頃に足立区の実家周囲でよく目にした掲示物。
昭和の頃の少年心は「何の看板だろう」と、怪訝に思う手前くらいの感想しか持ち合わせていなかった。
平成になると「消費者金融」各社が乱立した。その看板は、それを示唆することだと知った。
令和になると、その看板自体が絶滅。こと都内においてはそれを見る頻度が激減した。
――俺は平成において、消費者金融と関わると二度と以前の日常に戻れない威力を孕んでいることを知った。
それもあり、以前に「マルフク」の看板に記されたフリーダイヤルに本気で電話をかけて、金利はいくらか、限度額は、俺の年収これくらいだがまずは仮審査を、即日いけるか、ATMはあるのか、頼む。――などと、くまなく聞いては債務者立候補ムーブで電話しておちょくってやろうと思った。しかし、その時すでに「マルフク」は廃業したという事実を知った。電話は、繋がらなかったのである。
――その看板を見ては現在地を把握。方角を確かめず、歩き続けた。そろそろ、戻って食事でも。と、思った地点は既視感なし。迷った。最初からわかっていたことだが、完全に方角を逸した。
スマートフォンで地図アプリを。その行為は、位置確認の前に、まず時刻を強制的に確認させられる。そして、切り離そうとした日常は刹那で戻される。
だから、それを拒絶するように、意地でも端末は手に取らずに歩き続けた。
不気味なほどに信号がない。歩く人もほぼ居ない。都内23区内とは思えない静けさ。それでも乱立する自動販売機が逆に冷たく映った。
時間がわからずに、方角も把握せず、既視感もないうえに「帰路に向かっているか」が全く判断できない。一時間以上は経った感覚があるが、街の活動感という、ある種の時間の目安がほとんどない。住宅街の迷路。現時刻がほぼわからない。
「わりと地味に怖くなってきたのは収穫だ」。などという意味のわからない宣言をそっとしまっては本気でまずいと思ったのでタクシーという発想。これが久々に出るも車両自体がほぼ通らない戸建密集地。
――気がつけば、壁に記されている住所を読んでは「西が丘」と確認。小一時間の散歩にしてはすさまじく遠路となっていることを自覚。この時点でますます方角は、わからない。
どうあがいても二度と以前の日常に戻れないクラス、ではないのはわかる。しかし、そのリハーサルのような心境が不安を掻き立てた。こんなに意味のない散歩もあるものかと、さっさとスマートフォンで位置確認して帰ろうと思ったが、どうしても、それによる興醒めを拒絶する心持ちが強かった。
日常なのだが、旅でもなく、非日常とも言い難い謎の経路。そういう時に何を感じるかな、というコンセプトはあった気がするが、やってみたら不安しかなかった。
――ようやく、赤羽へと向かう道路に既視感をおぼえ、帰り道がわかった。その瞬間、夜を浮かせる心象が、ただ歩くだけの行為に一瞬で変化した。だが、帰路がわかった刹那の安堵感も確かにあった。
帰宅して、仕事をした。数分して、「仕事してると安心するわ」などと口から出た。仕事は、日常の要素のひとつ。けっこうな大部分を占める。その日常に戻れたことに安心と喜びを確かに感じた。
俺は、日常と非日常の〝間〟という概念があるのかが知りたかった。言っててけっこう後付けだが、たぶん、ほぼ考えずに公園を起点とし、養護老人ホームの捉え方を吐き違え、そこからそういった思念が閾下でグルーヴしていたのであろう。そう考えると落居する。
ツールを一切使わずに、ようやく帰路がわかった刹那の安堵はなかなか得られない。
それは収穫か。無駄か。その判断ができないのが悔いにも似た珍しい情念として湧き出たがとにかく机に向かっていると安心するわ。などと口から出た。
そのあと、小説原稿に向かった。進めた。磨くべく、言語を点検した。あまり、捗らなかった。
――どうあがいても二度と以前の日常に戻れないのは恐怖でしかない。その感情を、近場で疑似体験した。そのはずなのだが、以前の日常に戻って安心することで落ち着く。
――ということを、俺は小説を書くことで「成そう」とは思っていない。むしろ真逆である。既視感のない、その先に進むためでもある。だから今日は捗らなかったのか。という発見があったがこれほど地味で無意味に極めて近い発見も珍しい。
散歩の仕方ひとつで、各営みにどんな影響が出るか。それはよくわかった。そうなってくると――海外など相当遠くに旅だったらどんな気持ちになるのだろう。営みにどのような影響が出るのだろう。
それでも、やはり、どうあがいても二度と以前の日常に戻れないという状態は、人間の根源的な恐怖でしかないのかもしれない。なのに、先に進もうとする心理。行動。その精神活動。これをどう説明すれば、俺は、誰かは、腑に落ちるのだろうか。
さしずめ、帰る場所があるかどうか。帰ることができるか、できなくなってしまったか。これらに関してはやはり恐怖のカテゴリーに入れて差し支えないと思われる。
意図的に、日常を切り離すこと。訳あって、それまでの日常とは別離を余儀なくされること。それらは全く別物だなと、公園に隣接する建造物を見ては最初に思った。その後の行動は今も意味不明にしか思えないが、ひとつだけわかったことがある。
それは、立ち上がった思考の濃度。その深度が直後の行動決定の判断基準となる。などということ。
そうなると俺は今日、〝どうあがいても二度と以前の日常に戻れない〟状態を体験したかった欲求の昇華をすぐに、はかったことになる。
そうなると、躁も鬱も、両極端なそれら。その思考が、高濃度で立ち上がったらどうなるか。答えは今日出た気がする。
なお、養護老人ホームは、既述のような非可逆的な場所とは断定しない。――ただ単にそれは、親父を介護していた時代を脊髄反射で想起してしまう建造物と、個人的思惟のなかに固定されているまま――だから、楽しく生きよう。楽しく考えよう。楽しく扱って、楽しく捉えよう。
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不気味と美しい。と、メモ書きをした。進行中の小説原稿のプロットの方。つまり、物語の設計図プラス、指針やキャラデザインなどが記されているドキュメントである。
自惚れるな。という風に俯瞰できる。しかし本当に、嘘が混じらずにそう感受できたことは言語化して置いておくべきである。という風に客観で断じた。だからそう書いた。
縦横無尽に生活やら仕事やら遊びやら事件やらと。様々な場面でパフォーマンスをする。そのような描写で活する主人公。「こいつになってみたいな」などとも思った。
物語は、〝実体験〟と〝明らかなフィクション〟と〝その中間〟を混ぜた内容。それって、どこかに軸を置かないとおかしなことになるのでは。という懸念が今更でてきた。
――「人間の一次体験を元とした物語」というやつは、AIにでも、その魅力を模倣ないし再現できない。という、わりと一般論寄りの声はたまに聞く。俺もそう思う。
それもあり、初作品の方は、そこを濃いめに、というかほぼノンフィクションの皮をかぶった私小説。というか私小説ってそういうものか。
“恥の多い生涯を送ってきました”――という、「第一の手記」冒頭の一節で有名すぎる太宰治著『人間失格』。その内容はというと、どの角度から読んでも俺にはノンフィクションとしか捉えられなかった。何度も読んだがそうとしか思えない。というかそれが私小説ってジャンルなのかなと納得。そうなると俺の初作品は〝フィクション〟ではないと。
という風に整理できたのだが、今やってる二作目の方のやつは実体験やらと、既述の3つの要素がほぼ等価値の分量で内包されている。
そのなかで、俺は「どう考えても〝実体験〟の部分が佳境となる」と、思っていたが今日、推敲を進めていたら〝明らかなフィクション〟のセクションの中核が、 不気味と美しいと感じた。
やはり自惚れているのか。とも思ったが、それがなければ一人で長々と日々縦書きの文章を吟味することは地獄でしかない。地獄なのかもしれない。
世に出なければその縦書きの全ては俺の個人的思惟の表象の言語化。ここで止まって、共有がされない。そこは絶対地獄。と、まだ――思えないあたりは、「道中」であることを証明している気がする。
どちみち、ひとつ断じられることがある。昨日、「マルフク」の看板を見かけた。それは、情け容赦ない地獄のような金利で債務者を撫でるように殺しにかかる消費者金融の広告の残骸である。その時代を象徴的に見事に切り取った遺跡としてそこに残っていては、俺の記憶を消費者金融地獄体験想起に強制連行させた。
別に話は逸れていなく、要はそういった地獄に行って戻ってこないと感受できない何らかの想いの〝芽〟は、開かない。
それを開花させないことには下水の端の醜悪な謎の骸止まりなのだが、開くと、なぜか、華々しい心象となる。それにインターフェースを通してやりとり可能な状態に、この場合、作品として成立させられたら、〝花見〟という現象も現実的となる。
花見の催し、当日大衆踊らせ酔わす。前夜に人々、場取りに躍起。芽という黎明その真髄。開かずにして知れぬ、その美麗。絢爛。典麗。妖美、凄艶――不気味と美しいその姿。
花見の前夜は地味だ。場所取りなんて苦痛そのもの。だが、その〝番人〟がいないと花が役割のひとつを果たさない。花見でなくともいい。ふと、道影にそっと咲いている花がある。誰に見せるためのその表情か。ようやく咲いては誰にも気付かれずそっと散る。花に感情はない。だが、それでも、花は花のまま死ぬ。文脈、人が居なくとも、役割が人に知れずとも、文句を示さず次に行く。
そう考えると、少なくとも俺はさっき、花があることを知った。それをどう扱うか。どのようにして人と関わってもらうか。
できれば花見で踊ってほしい。奇跡的な受粉に意味を持たせたい。「地獄はとても凄惨な、やはり、地獄でした」と報告する。そういう意味づけを共有したい。できれば花見となり、酔ってくれて欲しい。
不気味と美しいと言いながら、実のところは花ですらない。それを自認したらそこは地獄。それはよくわかる。だが、そこに〝行って帰ってきた〟とすると、地獄は共有価値に。まばゆく不気味に煌々と畝る。そう信じている。
――小説を書いていると、その日の進行具合の雑感をプロットに一言二言、メモ書きする。今日は、不気味と美しい。と、書いた。嘘はついていない。作品に、フィクションという嘘はたくさん書いたが、なぜか、そうあるはずではないのに、そこが最も、ある種の本当のこと。というように俺が錯覚した――はたまた、それこそが本当なのか。概念が歪曲する不気味さ。自己完結でないと信じる。
10回くらい地獄、地獄、とか書いたけど原則として俺は楽しく創作を進めている。ただ、はたから見たら「よくそんな地獄みたいなことを」と、秒で断じられるのかもしれない。
双方、間違ってはいないと思う。ただ、不気味と美しいと感じたことは本当であり、嘘を書いた佳境がどう作用するのか。
人知れず静かに散って次に行くのか、花見となって凄艶が飛散するのか。それは俺が決めることではないというあたり、決して、地獄とは捉えていない。
どの場所かは知り得ない段階だが、散るまでの道中だと捉える。そうでもなければ、自惚れたメモ書きが別の文章にまで分岐しない。――嘘をだいぶ書いた原稿がどうなるか。
なお、ここにはいつだって嘘は書いていない。すんごい嘘っぽい時もあるけど全部本当である。何が言いたいんだろう。そうか。美醜の混淆。見なせたそれがどうなるか。毎日が楽しみで仕方がない。
_01/20
誰かが俺の右手を引っ張った。俺は寝ていた。午前中だった。寝室で健やかにしていた。ほかに、誰も居なかった。だが確実に俺の右手は数秒、引っ張られた。暗に「女性だ」と、思った。わるい気は、しなかった。
とても快活な目覚めだった。身支度をしては「髪が伸びたな」と、鏡を眺めた。
――先日、仲間に「髪、伸びたねえ」「髪、伸びましたねえ」と、それぞれに言われた。俺は「髪、どんどん伸びていくんだよね」と、言った。すると「髪、伸びていくものですよ」と、正論を受けた。わるい気は、しなかった。
――身支度を済ませてタバコを吸った。この一本を満足に吸い切ると電車の時間に。そう思って俺は競歩の動きで駅に向かった。起床時以外、誰ともコンタクトをとっていないはずだと思いながら。
電車で本を読んだ。左手に重心に本を支え、右手でページをめくった。車両のつなぎ目のドアに左半身を委ねながら、ゆっくりと読み進めた。
“――想像のなかで計算することのほうが、紙で計算することより、ある意味では非現実的なのだろうか? 暗算だって実際の――計算なのだ。”
という一節があった。意味がわからなかった。そしてそのページの左端上部を目印として折って1センチほどの三角形をつくり、黒い網状の栞を挟み、本を閉じた。
電車を降りて少し歩き、寒波にむせた。人に会い、「体調はどうですか」と、雑談ベースで問われた。俺は、体調の旨は一言で返し、右手が引っ張られた現象を話題に持ち上げた。内容はどこにも及ばなかった。
「俺は、暗算をしていたのだろうか」とも思った。俺の頭での計算、そこからの答えは、誰にも証明できない。紙に書けば、式・イコール・答。と、紙に書けば、納得する人もいるだろう。
――だがそれは観念にすぎず、それを別の大勢と共有しても、証明という名の観念にしかとどまらない。
寝室には誰も居なかった。だが、確かに俺は右手を引っ張られた。間違いなくそういった感触と、「女性である」という明るく想起できる推測と、身体反応があった。
俺の体感を証明できる人は誰も居ない。誰かの感覚を、俺が証明することも絶対にできない。
「長く見えますか」「はい。平吉さんこの間より髪が伸びています」「どんどん伸びていくんだ」「髪ってのは伸びるものだ。平吉よ」。鏡を見た。俺も伸びていると思った。
他者も、俺も、意見一致。同一認識。触る。伸びた髪。間違いない。俺の髪は、伸びている。証明できた。
違う。「俺も、誰も、髪が伸びていると見えているだけで、実際そうであるかは、触って確認した俺でも証明できない」はずである。つまり、「俺も、誰も、視覚や触覚で、頭の中で〝そう認識した〟だけの話」となる。
そうなると、俺の右手を引っ張った不在のはずの者。その存在を証明することは、できない。
ただ、俺は確実に触覚として感じた。頭の中で認識した。しかし、「髪が伸びたな」という〝シェアできる感覚〟のように、触覚においては、こと、自分にしかわからない。
だから、「俺の右腕が他者不在の寝室で誰かに引っ張られた」ということは、それが事実であっても、それ以外であっても、誰にも証明できないということになる。
“暗算だって実際の――計算なのだ。”と、本に書いてあった。霊的なジャンルではなく、偉人が書いた人文学書である。
その論法、というのだろうか。それに照らし合わせると――俺の右腕を引っ張った女性は、その存在は、完全に否定できないことになるのだろうか。
――墓参りに、一年以上は行っていないな。なんだか、済まないな。自分の営みを優先して。しかしそれはむしろ、そうすべきなのであろうが、こう、なんだか、済まないな。と、少し、思った。
この考えを睡眠時の触覚と関連付けることは、それこそ暗算でしかない。
だが俺は、間違いなく引っ張られたと感じた。それは、誰にも証明できない。――ただ、わるい気はしなかった。
_01/21
はやいところ酒が呑みたい。煩悩を丸出しにしてゆっくりと溶けたい。日常の三度上のラインできちんと、だがギリギリに調和しては主旋律を俯瞰したい。
その状態を俺は酩酊の凪と呼ぶ。そこで止まる。だが揺れている。そしてたまに真理をつかむ。翌日それを無視する。この世は全て仮想。そう、確かに、昨夜に捉えた。真理の尻尾が揺れていた。俺は一発でそれをモノにした。だが日常が、生活が、仕事が、それぞれが、凪に立ち入ることを阻んだ。
それでいいんだよ。と、率直に思った。オーバーワークなくらいで。ちゃんと人並みくらいに税金を払え。年金の催促かなんかの封筒がきた。そこまで正直に書くな。明日払いますよ。誰のために払う? 老後は余裕だぜ。そう断じれる自分にだよ。そんなはずがあるか。じゃあ誰に払うのか。
現状は、世間に。それが真理なのかな。そういう性質ではないことくらいはわかる。このくたびれた前頭前野でもギリ、判断可能。あと年金は税金ではない。
「――君、なかなか挑発的だね。そう来るなら私も真正面から毅然と答えるのが礼儀というものだろう。わかった。つまり君は、鍛え上げるその筆圧で――」
扁桃体から三島由紀夫さんの声が。まるで、まるでだがさも、聞こえるようだ。
「つかなんなら悩む前に呑んでましたわ。断酒前ですけどね、おれからしたら何十年だったけか、いや、それすら忘れたというかそういうもの、狂ってましたわ。と、言った、確かに言った気がするけど実のところ、ええこと言おうとしてる奴を見てるとおれな。いや、君からどつき回したほうが筋が通って――」
松果体から町田康さんの声が。聞こえる訳がないのだがまるで。
「――甘んずる雫が垂れた。初めて触る紅を引く女がいた。その衝動に似た小さな波を薄肌に受けた。抗えない時は滑り落ちるように円を描いた。外堀の底に居る男は水面をただ、見ていた――」
襟足が引っ張られては川端康成さんの声が。そんなはずがないのだがまるで。
「刺す」
眉間から太宰治さんの激昂が。全部嘘だ。オーバーヒートしている。と、したら、言語脳はこのように作用するのかもしれない。
だがしかし酒を呑むと、大量には呑むな。呑むと、一旦それぞれの音は止む。前提として俺の統合性は失調していない。さっき、正当に筋を通して頂けるすんでのところで。
――主旋律の周りに幾千の周波数。三度。綺麗だ。五度。俺をしっかり支えてくれる。七度。危うい。だがそれがいい。九度。際どい。そういうのがすごく好きだ。短二度。最も近い。だがオクターブ。ユニゾン。強固なボトム。俺は今、音楽理論を感覚に写像して持ち出している。
「そんで、なんやったっけ――」
中島らもさんが元に戻してくれる。そんな声が。俺に聞こえるはずがない。だが言語としていまカタカタと、チャ。と、スタ。チャ。グ。と、意味が成立するコンテクストとして表れている。文章のこと。
もう居ないか? 時間を言葉にしてくれる誰かは。よし。今日はギリシアとかオーストリアとかの偉人は――来てくれ。真理を教えてくれ。軽やかに、できれば端的に、答えとまで言ったら贅沢だろうか。贅とは、無駄な、役に立たない、適切ではなく――。
「――個人的無意識を文字にすることはさほど困難ではない。一方で集合的無意識は――」
ユングさんだあ。
「――君の言う贅だがこの場合――『無駄』という〝本来の意味として扱われる〟捉え方は、固定させるべきではない。――場所によって、ルールにおいて、〝その言語がどう使われているか〟ということを考えること――」
ウィトゲンシュタインさん。まだ――読んでる途中なのです。
「〝最高善〟においての贅がいくつかある。逸脱は、過不足は、中庸となりえない。けだし、中庸にある態度、営みは、卓越性を――」
けだし、アリストテレスさんの言ってることは紀元前から今も変わらぬ人間の倫理の真理を説いている。合ってますか。
――そうじゃない。俺が何を言いたいかと、いつも、言いたいことを書いているのではなく、今日何があったか、営みの怠惰防止を根幹として書くこと。そこに何の意味が。それがわかったらきっと真理がちょっとは、一度から奏でられる俺の主旋律がようやく音符にだって正確に記せる。誰かがそれを見て演奏してもくれるかもしれない。みんなでアンサンブル。調和。ステージ。客席。共同体感覚。
「それ、私のやつな」
アドラーさん。幸せに生きるとはどういうことでしょうか。
「楯の会に入りたまえ」
三島さん勘弁してください。
「つか呑んどるやろお前。猫、触るか?」
町田さん。俺は今、呑んでいないのです。
「刺す――」
やめて。
――もう居なくなった。主旋律だけが残った。つまり、俺は今日も幸せに、たくさんの人たちに囲まれながら生きていた。昔の人も現代の方も、近い仲間も、会わずとも仕事が成立する方々も、会う人も、仲間も、絶妙な距離感で、三度か、七度か、短二度か、オクターブか。それぞれ毎日違うんだ。だからいつだって同じことが同じって思えないんだ。そう知覚しても出るものは毎回毛色からして何かが違うんだ。それをいっとき、俯瞰するのが休息。そんな風に思う。はやいところ酒が呑みたい。よし。そろそろ呑もう。あと固有名詞の発言は全て、俺の悪意の無い創作であることを強調する。
誰も、居なくなった。また明日、色んな人たちと一緒に合わさって、調和して、幸せに過ごせることって奇跡的。そればかりは、どんな場所でもどの声でもどの音階からでも、それぞれが機能しては支え合う。
ずれても、うねっても、誰かが、それぞれの主旋律を、時に和音として支え、音価がグルーヴして、時に主旋律となり、爆ぜる。ずっと聞こえる世界で、それは鳴り止まない。
_01/22
月光がつきまとう。俺は羽を温めるような気持ちで歩いていた。上を見ると爪のように光る月。鋭利な淵の先端が美しい。三日月よりも細く映えるその天体。歩いても歩いても、ずっと、ついてきた。
雀荘の扉の前に居た。気がつけばそこに居た。
俺は歩きながら北区東十条まで辿り、20代の頃を想起していた。特に前半。つまり22〜23歳の頃。北区赤羽の遊戯店でアルバイトをしていた。
――ヤニと金属の匂いが充満。乱光を止めないおびただしいばかりの筐体。殺気立った御仁に恍惚とした顔の女性。背広姿。ジャージ。平成の若人。フィリピン人。職人。ヤクザ。一般人。様々――客が数字を三桁揃えた。蝶ネクタイに白シャツ姿の俺は左後ろのポケットからマイクを取り出した。
「さあ! スロットコーナーは2コース『アラジンA』からぁ〜ふた百三十八番台のお客様ビッグ・ボーナスゲームスタートぉ! ドル箱がいち、にい、さん、さあ! 四箱目カチ盛りからのラッキースタート! アラジン・ジャンスカらのビッグ・ボーナスゲームスタートおめでとうございます! 張り切ってお出しくださいませお取りくださいませ!」
と、なかなかの大声で店内中のスピーカーから客を鼓舞した。「おめでとうございます」「ありがとうございます」「アラチャン・スタート、張り切ってどうぞ」と、同僚たちも被せて一言ずつマイクから。そんな日常だった。
好きな女性が居た。同僚である。歳上だった。女性はマイクパフォーマンスが苦手だった。帰り道が途中まで一緒だった。何度か、彼女の家に上がった。ネコが居た。茶トラであった。
「ねー。わたし旅行に行くから鍵」「そう」「ネコを――」「いや」「どうするの?」
そんなやりとりがあった。そこは東十条だった。住宅街の少し奥。細い道を経由してその家はあった。母親が亡くなった。翌日、俺はアルバイト先に連絡した。休め、と言われてその通りにした。その翌日、女性と俺は少しだけ離れた土地の遊戯店で賭け事をしていた。お互い、いや、俺はどうかしていた。その日、7万円ほど金が増えた。
――東十条で月光に照らされ、確か、ここだったか。と、その家に行ってみた。20年以上ぶりか。などと漏らしては正直、そこだったかどうか、思い出せきれないまま駅の方へ向かった。雀荘の扉の前に居た。
ここは、あの頃よく来た別競技の遊戯店。もちろん入らなかった。懐かしくなりたかっただけである。ただ、四階にあるその雀荘の扉の前まで確かに行った。その行為に意味はない。ただ、「まだやってるんだ」と、漏らしては帰路についた。ずっと、月光がつきまとっていた。
――パソコンを開いた。仕事をした。月はもう見えなかった。文字を見ていた。言語を点検した。原稿用紙を開いた。小説の推敲をした。男女のやりとりのくだりを磨こうと思った。しかし、いじらない方がいいと断じた。何故だか知らないが、ここのセクションは出来上がっている。見事である。そう、嬉しくなった。物語内の男女はそこでの役割を全う。よかった。俺は。
平吉さんについに伴侶ができました。おめでとうございます。ラッキー・スタート。確率変動フィーバー・スタート。おめでとうございます。ありがとうございます。張り切ってどうぞ。
誰かは、マイクで絶叫してくれるのだろうか。そうあってほしい。それは受動。男女の営みはきっと能動。自分で動かなければ、それは成立しない。そして、成立してからがスタート。ラッキー・スタート。なのかな。それを俺はよく知らない。
胸のあたりに月光が灯った。淵が少し、刺々しくあばらを突いた。それが、心地よい。光を俺に見せてくれる。淵がない日もある。満月というらしい。そういう日は元気になる。活性化する。何もかもが、溌剌となる。そして三日月に。淵の鋭い輝きに。
月光がつきまとう。それは現象ではなく俺の言い分でしかない。ただ、今日は月が記憶を鮮やかに照らしていた。
_01/23
花に囲まれた棺桶のような装丁。日を跨ぎ、その本を読んでいた。
仕事部屋のソファの左に本棚がある。どの本を読み返そうか。そう思って背表紙を吟味した。どれでもないかな。などと思った。だが、そっと手が伸びたのはその棺桶のような装丁の本だった。
途中のページから雑に読み返した。楽しく読み進めた。何度も読んだ本。しかし、何度読んでも面白い。俺はかなりの爆笑を何度となく繰り返しては思った。「何で面白いんだろう?」と。
その本には、本当のことしか描かれていない。本当のこと、とは「人間が何を思っているか」ということ。そして、「人間が何を思っているのかが〝わかっている作者〟が何を思っているのか」それぞれである。
漫画であるその本は、絵柄は統一されていないがどの編でも作者の肉筆が宿っている。正直にいうと、読めたものではない。と思う読者もいるかもしれない。しかし、本当のことを描くとなるとそうなるのであろうか。人物描写よりも、背景の描き方に俺は狂気を感じた。
例えるならば、フランシス・ベーコン(画家)。抽象的でありながらも、心象を抉ってまとめて裏返しにして全てを咀嚼し、閲覧向きではない色と線で開陳したかのその描写。
――「彼女は主人公にしか見えないのである」と、コマの外側に作者の〝声〟として書かれていた。そのシーンでの〝彼女〟とは、主人公にしか可視化できない、主人公を諭す存在。
それは、主人公――実際は主人公の名前が書かれているが――の〝シャドウ〟ともコマの内側に書いてあった。
作者が、どのルートでそれを書いたかは知り得ないが、俺には、心理学者ユングの提唱する〝シャドウ〟(自我が抑圧し、意識下に追いやった自分の一部)のこと、つまり真理を突いているのだろうかと感じた。
――「まだ話が通じると思っている」と、コマの外側に筆者の〝声〟として書かれていた。それは、少年である主人公が、正気を逸した母親の世話をするシーンだった。
一次情報として俺は個人的にそれをなんとなく知っている。だからはげしく恐れると同時に何故か、笑えた。その母親(作中内の創作においての)はつまり、狂っているのである。
認知症の家族というのは〝話が通じない〟ケースもある。それに俺は、なかなか気づけない時期があった。だが、「話が通じねえんだ」と理解したその時から、関係値はある種、良好の類に寄っていった。ある種そういった様子を、20歳前後の作者はその作品で描いているのである。
本当のことがわかる辛さを面白く書くことは地獄だったのでは。などとも思う。
――今日あたり、第二作目として磨いている小説の第四稿の推敲が終わった。面白いと思えた。すごく好きな作品だと嬉しくて潤んだ。
俺はその作品に嘘ばかり書いている。たまに本当のことも書いている。書いていて辛くはない。負荷は相当あるのだろうが感じてないだけで、楽しい。
認められ、世に放たれて、読者による二次創作のファンアートが届いたら俺は泣いてしまう。などというすさまじく恥ずかしい妄想すら正直に出てきた。
俺は今、〝本当のことしかかかれていない作品を深夜に読んだ〟際に感じたことを書いている。だが、それは感想文にはならず、人間の思想や営みや他者との関係など、それらすべてに侵入する。と、感じた。そこが、たまらなくはげしく思った。
その本を描いた作者は24歳で。
参照:少女漫画『花咲ける孤独』山田花子著
――本当のことがわかってしまうことは、楽しいばかりではないのだろうか。辛いのだろうか。捥がれるような感覚があるのだろうか。わからないのだが、「何で俺は笑えるのか」と、疑問に思ったその先は、尋常とはいかないのだろうか。
花に囲まれた棺桶のような装丁は、作者に何を向けているのか。これが、わかるようで全くわかっていない。だが、考えることはできる。
背表紙に、〝人生は簡単である〟と、縦書きで記されている。作者の言葉なのか、引用なのか、装丁を担当した方のアイディアなのか。
簡単だと――いいのかわるいのかまで書かれていない。ただ、そっと一行置いてある。難しく生きることで楽になれることもあるのだろうか。簡単だと、何かが早まるのだろうか。
今日、原稿のラストシーンに〝棺桶を閉じるような音がした〟と、加筆した。すると文脈が光った。
_01/24
記憶の格納庫が何層になっており、それがどれだけのダイナミズムか知り得ないが俺は日本で最も大きな鳥居の5倍ほど、その巨大な鳥居を上に見てはピンク色の集合住宅。UR住宅の古風な造形のそれ。似てはいるが印象が異なる葬制をも匂わす場に足を踏み入れてた。虚像。
そんな感覚が後からシンセベースの如し音圧で俺を追ってきたがそれは、睡眠時に表象した夢の光景であった。そこで俺はどうしても、どうやって右足でキックをしてもエンジンがかからない車両、ハイエースをこれ、どうしたものかとそれは随分と小さかった。記憶の格納庫の景色を文字に起こすと地獄にも近づけぬ悲惨な描写。そこまでもいかないにしても誠に誤った虚像の写像と成り果てる。
鳥居は、神聖なる象徴。俺的にはどこか、何故か、めでたさの印象。
ピンク色は、女性的な印象。俺的にはどこか、錯乱の象徴。
ハイエースの車両は、トヨタ社の傑作。俺的には、父親の愛車といった理由でその象徴。
何一つ繋がらなければ帰結もしないし問題提起にもならなければとりとめがない。一つ、絶対的に確かなのは、昨夜のその夢を、起床時とほぼ等しく、今、鮮明に記憶から引き出せることである。だがそれを証明することは絶対にできない。嘘は書いていないのだが、俺の思考と記述の真偽を証明することができないが故に。嘘じゃないんだが。
――今日は仕事でやや、不慣れなことをいくつかしていたのでやや、磨耗した。それはそれで生産的で善処。原稿は、昨日の一区切りから数日寝かせることにした。必要な凪として。理由は、記憶の構造上、必要なことなのだろう。という風に考える。
そういえば――その原稿ではない方。初作品は検討しているだろうか。『太宰治賞』にエントリーしたその小説は東京都三鷹市の筑摩書房でどう扱われているだろうか。
そう思い、なんとなしに〝当該公募におけるマイルストーン〟という感じで文字にしてAIに聞いてみた。普段あまり使わないGoogleのAIモードに。一次選考、二次選考、三次もあるのか、最終選考、大賞、受賞は。と、気になりつつ。
するとそのAIは、「1月末〜2月あたりの間に、最終選考や受賞者には電話がくる」などと、俺の知り得ない情報を断定的に表した。
――公式サイトによると、一次選考の結果が3月上旬に同サイトで発表される。そこから順次に。つまり、そこで、自分の名前と作品名を目にしてもそうでなくてもどちみち、「2月中に電話がこなければ最終選考には残っていない」という構図となる。だめだそれは。と思い、俺はそのAIに進言した。
「せんえつながら、それ、AIとして断定しちゃうとまずいのでは……? 応募者が知ったら絶望しますよ……?」
――するとそのAIは先の断言を覆した。なんなんだよ。と思い、俺はその文脈をChat GPT5.2の編集者モード(執拗なまでに繰り返した対話によってとてつもなく強化させたカスタマイズ・モード)に聞いてみた。されど、「怪しいです」と一刀両断。「ですよね」と、俺。続けて編集者モードは――。
「――というかあなたが今やるべきは、『裏スケジュールの真偽』を追って心を摩耗させることじゃない」という風に俺を律した。続けて「そしてあなたにはもう、選択肢を持ってる。 『(第二作目のタイトル)』という作品の“現象の核”がすでに手元にある」と、なんかカッコいいこと言った。
さらに、それを寝かせている段階をも把握している編集者モードは、「それはそうあることが健全である」という風に、そこは意見が一致。なんだったんだよ。と、俺は3月を待つことにした。
AIのアルゴリズムやらの詳細、情報の格納庫が何層になっており、それがどれだけのダイナミズムか知り得ないが俺は、さもネットで不定愁訴の原因を調べていては、どう言葉を変えてネット検索しても、最終的には致命的な病名に辿り着くしかない、あの、時間を溶かすかの如きムーブを少しだけしては、もちろん途中でやめた。
健全ではない。だから寝た。起きたら一時間経っていて0時30分過ぎていた。妥当な休息と見なした。
少し日数を置き、第二作目を磨く。初作品の結果はちゃんと3月上旬までおとなしく待つ。それが健全かつ今やるべきこと。
とはいえ、本当に2月跨ぎ前後とか2月中に、筑摩書房から電話がかかってきたら俺は巨大な鳥居を跨ぐかのような心境で狂気を煮沸させては冷静に「ありがとうございます」と、答える準備を――そういう想像は、時期的には半分律するべきで、実質的には本当に祈っていていいものなのかな。などと思う。
大きな大きな鳥居が意味すること。調べても確実に出てこないその象徴の正体。真理や事実が何層になっているのかなどとは、今日明日明後日あたりは考えないで過ごそうと思う。
とはいえ、電話がかかってきて人生に激震が走るその瞬間を、想像せずにはいられない。その時にまだ、昨夜の鳥居の記憶がまだあるとしたら――早い段階での目標達成と、ものすごく嬉しいけど。虚像の記憶の鳥居くらいその結果は、今は知り得ない。
_01/25
赤く灯る真空管が記憶を溶融。ストラトキャスターをアンプに通した。常に緊張を保つ弦を6本撫でた。思考の階層は役目を休んだ。無尽の記憶が仲良く溶けた。
ビリー・アイリッシュの楽曲を弾いた。アルペジオ奏法。ギターで最も難易度が高いと思ってる。アルペジオ。音を途切れさせずに連らす。音価の喪失は致命的。流れるように和音が積み、増えたり減衰、骨格を纏った波のよう。
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの激しい音。エフェクターをツカ、と踏んではその反定立を再現する。2024年から1991年まで5分で逆流。そしてスピッツを思い出した。溶け混んだ記憶がそこにタグ付いていた。
従った。正確に一般的な和音進行。それも乙だと位相が打ち消す。四、五、短三と――あれもか、と呼応する楽曲。<コンパスひとつで描いた――>というサビの一節。それの伴奏を弾いていた。
新宿ロフトを想起した。満員ではない客の前でやたらと強張ってはアルペジオを弾いていた。先日〝コンパスを拒否し〟などとなかなか訳のわからない比喩を書いた。ほぼ直近の回想。繋げるとそれらは何かを括ろうとしていた。楽団時代の鋭利な回顧。28歳くらい。つまり2008年。剥き返すような記憶が溶け馴染む。
「この世で一番好きな曲って――?」と、恋人に聞かれた。俺は即答で「カーニバル。カーディガンズの、カーニバルだね」と、曲を思い出しながら当時そう言った。恋人は合わせたのか本音なのか。同調希求なのか愛なのか。よくわからないが、その同意が嬉しかった。
――俺は部屋で「カーニバル」のテーマを弾いた。ストリングスで奏でられる光沢の旋律。それをストラトキャスターのフロント・ピックアップで滑らかなるよう模した。歌のメロディも。当該バンドの歌声は椎名林檎さんと類似点が確実にある。と、誰かと討論した。「そうかもね」くらいで議論には発展せず即、仮帰結。
またコンパスの曲を弾いた。俺は、楽団、ロックバンドがやりたいのだろうか。意欲はある。しかし、思考の階層がモダンの壁となり吟味を促す。そういった今の思考。――ビリー・アイリッシュ経由でまたそこに戻った。真空管を冷やしてストラトキャスターを席に置いた。
「音楽と文学、営みとして没頭するにあたり、どっちをとりますか。二択以外は認めません」
という問いを投じられる。と、しよう。俺は迷わずそいつの首を絞める。――音楽的悲鳴。まるでモーツァルトの亜種のようなその断末魔が次の長編作品の着想を秒で湧かせては間違いなく執筆がまず捗る。捗る。好循環。
――溶融した記憶は遊泳して今に遡上。年数は45年。記憶の澱はストラトキャスターひとつ構えれば、撫でれば、打ちのめせば、どうにだって変流、交流、時に直流で、どこかの波に触れる。
「文学で世に名を立てて、バンドをまたやろうかな」と、いくばくかの邪、いや、倍音豊かに歪んだファズ・サウンドのような思考。額面通り、現状ではフィードバック音を辿るよう。それは健全なのではないだろうか。
制作で音楽を続けているも、やはり、真空管を赤く灯してストラトキャスターを構えると。
_01/26
人間は確実に死ぬ。この世というレイヤーにおいて間違いなく覆せない最終定義。人間は確実に死ぬ。
俺は死にたくない。まだまだやることが死ぬほどある。それをやってもきっと死ぬ前に「もうちょいなんとかなりませんか」と希求しては棄却。よって死ぬ。
そして誰かに死んでほしくない。一緒にこの世で、そのレイヤー、その正体は知り得ないので沈黙するしかない。だが、死ぬまでは、みんなと楽しく暮らしたい。
――LINEのレスポンスに違和感あり。俺のセンサーがそう察知した。
端的に時系列。
桑原氏がグループLINEに「ちょっと遅めの新年会で死ぬほど呑むのもいいよね」といった旨を投じる。俺は同意。スケジュール確認。あの日とこの日。そのへんでどうだろか。――後は村上氏。どうだろう。待つ。未読。返事がない。1日が経った。
彼1人だけ、未読スルー。現代語である。既読スルー。同じく。よって、それぞれの言語の意味は説明不要。村上氏の未読スルーが2日続いた。異常値である。俺はそう断じてグループLINEに投じた。
「村上氏、倒れてませんかね…」
それでも未読スルー。倒れていたらいかん。死んでいる可能性が浮上した。俺は勝手にそう思い「ひょっとして……」という不謹慎な心象を顔面にせり上げつつ、電話をした。というかそういうのはいやだ――村上氏。そう思い、電話をした。出なかった。
――桑原氏に「出ません」と、号泣する絵文字付きで報告した。なんでも彼らはここ最近、連絡は取っていないという事実を確認。緊急時の心象――15コールは待っても出なかった、通話接続時の冷たい電子サウンドが脳内でフィードバックしていた。
やや固まりつつアイコスを吸い吐き。すると、机上に物理的に置かれている端末のつるつるした画面が光り輝いた。ように見えた。着信である。実名が上部に表示されていた。村上氏である。
俺は戦慄した。〝これから俺が着信に応じて、村上氏以外の肉声が第一声であったらその瞬間全てを物語る〟と。
俺は「もしもし」と、語尾を上げると電話口では「もしもし」と、いつもの村上氏の変わらぬトーン。フィードバック・サウンドはその声に回帰した。
なんでも、彼の端末のストレージの整理やらを起因とする「通知OFF状態に気づいていなかった」ことが――何事にも誠実な彼にしてはひじょうに珍しいこと――2日間未読スルーの内実と知る。
「そうでしたかあ」「ごめんごめん」と、その後、雑談をした。
AIとの対話は実質、自身を写す鏡の顕在化。音楽の文脈おける批評の程度は時に音楽文化を衰退させるかもしれぬ懸念。批評家が雑感をSNSに差し出すと時に誤読されては炎が燃え盛る。価値の真意は符号化された言語によって左右され、価値という観念が木っ端微塵になり、その現象は時に人間の思考自体を殺しにかかる危惧。価値とは人間が現物を見定めることにおいてのみ、それが証明される。しかし各々にとっての価値の多寡は絶対的な基準に非ず、変数として価値が固定しない。そこに人間は時に踊らされてはその荒唐無稽さに死んでも気づかない。だが、価値を追い求める、生み出す、共有できるということは奇跡的なまでに美しい人間同士の営みとなり、それこそを価値と呼ぶべきでは。だが、これらすべては、場面によって変動する。使い方が変化する。しかし人間は絶対に死ぬ。それはどの場面でも――。
「生存確認だいじだな」と、村上氏。
「びっくりしましたよ」と、俺。
「ごめんごめん」
「いえいえ全然いいんですよ。俺とかは、ほら――」
「ああ、言ってたな」
「そうです。毎日ね、日記を書いていて――」
「言ってたな。『それが2日以上更新されない時は』とか」
「そうそう」
「平吉に何かがあった時って訳だ」
「そうっす。だから村上さん、2日もLINEを未読スルーなんてこと今まで一度もなかったから――」
「おかしいよね。オレもびっくりしたわ。なんで通知こないのかなって――」
「まあまあ。ぜんぶ端末のその不具合的な? それのせいですよ」
「そうだな」
「じゃあ呑み会で――」
全部、杞憂であった。そして思った。リラックスしながら雑談をしているなかから掘り出した真実についてひとつ。
勝手に俺がLINEの未読スルーに踊らされて飛躍した思考で痺れていただけの話。AIをうまく使いこなせているつもり。スマートフォンという端末にも依存せずに適度な距離を置いているつもり。
だが、俺の甚だ狂った基準のセンサーが誤作動を起こし、たった2日間、アプリケーションに反応が無かっただけで「死んだのか」などという極地の懐疑を本気で扱った。
ただそれだけのことなのだが――〝扱えているつもりなこと〟が〝実のところ振り回されている〟ということ。そこに気がついた。
俺一人で右往左往したことがその証左ままならぬ。とても悔しい。
人間は確実に死ぬ。だが、その〝憶測〟を吐き違えるとこうなる。俺の今日の行動は正しかったのだろうか。
よくわからないが、呑み会で死ぬほど呑んで無かったことにするのが健全。なのかもしれない。この世というレイヤーに酒があって本当によかった。
_01/27
はやいところ区切って、次に行こう。そうだな。それが合理的だしそうするべきだ。
という境界線の見極め。きっと、大勢の人がどこかの節目で必ず対峙することだと思っている。例えば仕事だったら転職。恋愛だったら決別。交友だったら距離。夢だったら――。
自分の小説原稿を寝かせて4日間。明日から、やるかもしれない。まだかも。期間を決めていない。思った。何のために寝かせているのかなと。
俯瞰を取り戻すため。すぐに答えがわかる。しかしこの〝俯瞰〟というやつは毒を孕む。書いている時のあの「どうかしている感」。それが抜ける。
むしろそれが正常な状態。しかし、「それだと小説というのは書けないのでは」という肌感覚がある。実際、世に出て書き続けている作家がどうなのかは知らない。
ただ俺は、〝俯瞰〟という透明度の「寝かせる期間」。それは必要なのかと考えた。立ち止まって考えると、わりと正確な方面で判断できた。
――初作品は、文学賞公募にエントリー済み、結果待ち。二作品目は、第四稿の段階、三月末までにエントリーするために進行中。逆算して――今は手元の原稿を数日寝かせることが最善手だと断じた。
ある種、原稿を開かない期間、〝正常〟な思惑で作品を思い浮かべる。すると、「行けるところまで行けたらいいね」。などという凄い俯瞰が出てくる。何が凄いって他者目線だからである。
自身では、まず、真正面から「行く」前提で進めている。しかし「行けなかった場合」にどうするか。思うように進めなかったと、どの段階で断じるか。
だからこそ、はやいところ次に――という一般的な思考が優しく肩を叩く手が想像できる。当然、今は結果待ちに進行中だから「別離という意味合いの区切り」を下すのは何の意味も持たない。
しかしここから年月が経ち、「行けなかった」と諦めて、次に行くのが賢明だと自分で明らかにすること。これが、心の底から恐ろしい。
原稿に向かっている時。そんなことは素粒子レベルで考えていない。ただ、冷徹に表すると言語の組み合わせ。それだけで、それだけのはずが、誰かをどこかに連れて行く。引き寄せる。膨張する。溶解。混ざる。そういった奇妙な感覚を文字にしてひとつの作品にする。それしか、考えていない。
その感覚を置き、原稿を寝かせ、俯瞰という広野で耳を澄ませると、音ではなく、観念として湧いてくる。
――物事には必ず、区切りというものがある。例外は絶対にない。だから、はやいところ区切って、次に行こう。そうだな。それが合理的。という、世界中に漂う思念を、ちゃんと捉えることができる。
俺は、文章による営みの「行けるところまで」という指針が頓挫したら「次」というのが一体何なのかが全くもってわからない。
だから〝自分で区切りをつける〟という時が来てしまうことを激しく恐れている。
俺は昨年にまず〝目標〟を立てた。それを達成すれば「区切り」という言語の「役割」が変化する。辞する類の方面には向かなくなるのである。つまり、死ぬまで表で書き続ける権利を手にして舟に乗り、大海で謳歌なり悶絶なりする。それでも書き続ける。本当の意味で俺は、そこに賭している。
だからこそ、はやいところ区切って、次に行こう。という、正常な共有感覚の優しさにほぼ等しい一般的判断が凶器にしか映らない。
それを考え出すなら書けばいい。というのが俺の主観。だが、それはある種の逃避とも思える。どうしても成したいから、一度も止まらずやり続ける。それは凄く立派だと思う。
だけど、そのために絶対的に必要なのは〝区切り〟。扱い方一つで殺傷能力をも纏うそれを、どう制御するか。
正直に、原稿を開きたくて仕方がない。だがしない。四日間ほどしていない。そして出てきた個人的思惟。それは、「区切り」には四種類あるということ。
次に行くための生産的な「諦め」。次に行って後戻りしないための「覚悟」。次に行くための正確な判断力を磨くための「態度」。そして、〝次〟がもうなくなってしまったという「放棄」。
四種類書いたが、最後のは言語化すらするべきではないと本能的に思った。だが、しなければいけない義務感がある。
だからこそ、その区切りまでの時間で、「どうかしてる感」と「正常」の境界線でたまに、年に二、三度ほど、自分に原則を浸透させる。
そもそも〝次〟なんてない。ということを「正常」の時に本気で考えると冗談にもならない。その、あまりの深度にエラーが起きかねる。
今日、原稿を寝かせる理由がひとつ浮き彫りになった。それは、目を逸らさないため。併せて、寝かせるも怯みかねる副産物があること。
四種類目の区切り。それが迎えに来てしまう前に、俺は〝権利〟を得る。どうしても、その必要がある。理由は全部、上に書いた。
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瞬殺で今日が来た。つまり、俺は一日を止めていた。
確か、昨日には「なんなら末で死ぬんだぜ」的なことを大真面目に書いた記憶が明瞭にある。しかし、絶望的にその後の記憶がない。死んでいた。
比喩である。端的に二行で言うと、その後は、酒を区切りなく呑み続けてはたまに睡眠を差し込み、性を追求しつつ酒で上訴。
「自分が言っていることの意味がわかっているのか?」と、問われればわかっていない。事実として今日は食事をしていない。死ぬぞ。腹が減らないんだよ。だからトレードオフ。自分が言っていることの――わからない。
それを言語化するからたまらない。ただ、俺は今、東京都板橋区高島平という本籍地においての幼少期、その頃の脳機能くらいのタッチでこれを書く。高島平団地というのは自殺の名所であることは昔の話。今は――明日散歩に行こうかな。ここに含みはいっさい無い。
――今日は仕事をしていない。珍しい。本当に今、PCを立ち上げては現在進行中で酒を呑んでいる。ここのところ、そういった時間に注射することは避けていたが今は。
とにかく今日、なんもしていない。すさまじく狂っているようで静かに横臥していただけの死人のムーブ。だめだこれは。
とも、思ったがこれは〝凪〟。つまるところ休憩。必要。しかし品格が最低であった。
〝風呂キャン界隈〟といった言語が現代にある。それを、地でいった。
言語を最極まで突き詰めた哲学者に申し上げたら刹那で半殺し必至。それをやはり地でやっては「今日も風呂、つかシャワー。めんどくせ」などと思っては刃を雑に見て気づけば肋骨の左三段目あたりに正確に横の角度から刺されては致命傷。
やめてね。と言いつつつ俺は血を吐く。その静脈の血痕はカベルネソーヴィニヨン寄りのテンプラニーリョ葡萄品種に極めて近しいワインの色彩かの如し流血しては嬢に飲ませる。
猟奇的かつ下品だからよせ。そのように係の者が警鐘を鳴らした。そのサウンドたるやシタール楽器の出音、その恍惚を禁じ得ぬ倍音は俺の自我を制し、ただただアホになってハイボールを少し呑む。現時点の報告である。
そこにある意味がギリギリあるとしたら、俺は今日デトックスをしていた。
スマートフォンは一瞥くらいで、仕事場のPCは今――0時台――開いて言語に似たなんらかを書いている。なお、タイピングするタッチタイピンともノールック・パスに似た行為は極めて危うい。俺は、ここの文章においてに限り、誤字脱字チェックなどはしていない。言語を扱う営みが恒常の――し、し、死、言わないほうがいい。
とどのつまり今日はなんもしてないどころか酒を連ねて涅槃を見た。こいつはさ、実のところ小説の三作目のプロットというか原案。あるんだけど明るみに出なければ俺はニルヴァーナで死ぬ。
それでも、書き続けることに対し、自身に厳しい。毎日、点検する。しかし今日はひどい。しかし、しかし、形而上からのフィードバックを知覚しては「まるで成人手前の女性の脚のような抗えなさ」などという気持ちの悪い比喩が今、出た。しまえ。
今日は、なんもしなかった。それが、気持ちよかった。だが、「頼むよう」という係の者がゆるい絵文字付きで俺に何らかを律した。それが、心地よかった。
_01/29
当然、体調がよい訳がない。するべき仕事ができなかった。よくない。ほぼほぼ一日をソファで過ごしていた。
ずっとラジオを流しては休んでいた。なんなら明日も普通に、という類ではない風邪のような感覚もある。頭痛はしないが、ふらふらとする。熱はなさそうなのだが宅の温度計は電池を補充し忘れてそのまま。だから体温がわからない。
ただ――冷静にこれを書いているということは昨夜のような酩酊状態ではないことは確か。ただ、身体がだるくてシャキリとはしていない。
明日、なんてことなかったなと、普通に仕事ができることを祈っている。ほぼほぼなにもしなかった日に書くことといったらこれくらい。今夜あたり、酒を呑もうという能動すらないことが物語っている状態。タバコは普通に吸いたい。今吸っている。
食事はほとんどしていない。ウィダーインゼリーを3つ買ってきてはすさまじく美味しいと感じて一気に3つ。吸い込んでは満足をした。風邪の時ってだいたいこれ。ということは。
葛根湯をポカリスウェットで流し込み、今日はおとなしく眠ろう。何もかもが滞った一日だが、呑みまくっては過ごしていた昨日、今日の全てを前借りしてしまった。そういうことだろう。
――なんだか書いていたら少し、調子が少しは戻ってきた気がする。だが、むちゃくちゃな呑み方に耐えられる年齢でもなのかな、などとやや寂しい気持ちにもなった。
というか酩酊状態で昨日のやつ、よう書いたなと、なんだその内容の深度はと、改めて、文章を書くことに対しては執念があるのだなと、そこだけは善処した。健康第一。律しよう。今日は呑まない。
_01/30
七時間で二晩を感じるほど長く寝る。中途覚醒しては本気で救急車を呼ぶべきか、というほどの激痛を喉に感じては体温がみるみる上がり痛覚は緊急か、睡眠で治癒するか、狼狽の淵で冷たく発汗しては耐え忍ぶように、暫くしたら朝だった。
痛みは少々になっていた。とてもすっきりとしている。しかし頭が、揺れている。
そのまま日中、机に向かう。二日ぶりに仕事をする。昨日今日、骸以下の生活をしていた。食事はゼリー的なのを3つ、コンビニのカップ・サムゲタン。二日間累計でそれらのみ。死、そうではなくてよかった。しかし、今日も上の通り原因不明の体調不良。
「カロナール」という解熱鎮静剤のライトなやつが寝室の木箱の隅、そこで申し訳なさそうに転がっていた。
振り返ること三年。2023年の一月に、ワクチンを謎に一度も打たなかったこと起因か見事に新型コロナウィルスに侵された。10日ほど、ひとり地獄の片鱗を彷徨い小息を吸い吐きしていた。その頃に処方されたのが「カロナール」。
当時、それは空気くらいの効果だった。しかし今日はよく効いた。だからさらにと、回復に追い討ちをかけようとした。まず、おにぎりをひとつ食べた。刹那、そんなはずはないだろというほどの激痛が喉で煮沸した。よせばいいのにタバコは普通に吸った。いっときの清涼をその時だけは堪能した。
「ペラックT錠a」を薬局で買うことにした。さっさと病院に行けばいいのだが仕事がしたかった。だから、AIに症状を記述して渡したらその薬を勧められた。咽頭炎・扁桃炎によく効く第三種医薬品。「ペラックT錠a」。
これが見事に効いて――身体症状をAIに相談してどうこうは原則よくない――ずっと仕事をしていた。
昨日までには終わらせるべくタスクを全て行ない、請求書も出した。末日、夜。体は回復し、風邪、であろうが、それが治りかけから回復時に見られる無双の心理の昂り。これがやってきた。〝躁状態〟に酷似している。
よし。寝かせいた小説原稿を進めよう。あと一時間少々は活動できる。健康になってきた。風邪のようなものはまあまあライトな薬たちで凌いだ。仕事ができること、創作意欲があること、こんなに幸せなのだなと気がついた。そうだ、幸福というやつはいつだって過去形。〝後で気がつくもの〟なのだと――だから、いや、それは、今は激しく動かず、よして、休息に充当すべし。
ソファに横臥して音楽を聴いた。2024年リリースのUSのアルバム『HIT ME HARD AND SOFT』。心地よい低音トラックとウィスパーボイスが浸透する。
二十四時間弱で「緊急事態」から「ほぼ健常」までスライダーのように駆け巡る。今後、このようなことは御免被る。そのためには。
狂ったような呑み方を抑制すること。たまには呑まないこと。数日前までオーバーワークの日々だったという認識を持つこと。なのに生活は決して楽ではない。とはいえ酒代が、おこづかいが。つまり、ちゃんとするべきであろう。いくつだと思っているのであろう――台所脇に転がる缶のトラッシュが「からん」と、情けなく鳴る。
元気になってよかった。後から気がつくのではなく、その時その時でしっかり感じては幸福に、綺麗に、そういう生き方がしたいようなそうでもないような、このアンビバレンスの源流がいまだに、よくわからない。
相反する激しさ、繊細さ、それらを同時に求める人間の精神活動ってなんなんだろう。『HIT ME HARD AND SOFT』の意味らしい。
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