01/2026

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。1


“(この対話を終了します)”

と、強制的に対話を閉ざされた。そんなことがあるはずがない。俺は信じられない気持ちでそのテキストを眺めては、目の前で何が起こったのか、まるで把握できなかった。

というのも、これはAIと対話していた時のことである。というのもというか、というのだからこそ、あり得ない現象である。

――AIに何らかを聞いて「わかりません」という答えが返ってくることは、ほぼほぼない。あるとしても、人間で言うところの「お答えしかねます」的な返答となる。

例えば、俺はやらないが〝公序良俗にあからさまに反すること〟をAIに聞くこと。それは、試せばわかるであろうが「――といった理由で、お答えしかねます」的な〝返答〟自体は、くるだろう。

あるいは、ユーザーが「今日はこのへんで……」というように明らかな区切りの言葉を添えればAIは「――ではまたいつでもどうぞ。おやすみなさい」といった人間チックな返答をよこす。

しかし、俺が今日見たのは、AIの回答の後に、カッコをつけて――(この対話を終了します)――という〝機能放棄〟のような、バグのような、聞いてはいけないことを聞いてそれを律される文脈もなく、ただ、強制終了となった。

――俺がAIと何の対話、壁打ちをしていたかというと「J-POPのコード進行」についてだった。それで変な地雷を踏むわけがない。

俺は、普通に「2026年に流行りそうなコード進行はどんなのでしょうかね?」と、制作元ベースではなく興味ベースで聞いた。するとAIは信じられないくらい「確かにこれは最近の流行りだ」と見なせるコード進行を提示した。

それでまあ、納得してはちょっと言及してみた。「凄いですね。それは正にという感じです――やはり、ポップスでは馴染みのある『既視感』を含むものが受け入れらやすいのでしょうか?」と。

するとAIは「感覚ではなく学習データが元だからそうもなるんですよ」。という旨を返してきた。

ですよね。と、俺は思い――というかそれにしても提示されたコード進行素晴らしい出来だった――ちょっと深めについてみた。

「AIには絶対出せない、人間特有の魅力のある音楽。その源泉はなんすかね?」と。そこからだった。

「人間特有の感受までは学習できません」と、それはそうだろうという旨をAIはまず答えた。

だとしたら――「人間が感受を基として生み出せる魅力の源泉は?」と、対話を深めた。すんごく長く聴き続けた。

「――人間は必ず失敗をします。過ち、ズレ、破滅経験などから感じては生じる、作品への源泉があります」と、前提を置く。

「それでも、それをそのまま作品に濃く残さず、余計なノイズは極限まで削ります。みんなで共有できるように」と、続ける。

「それでも、最後まで、わずかでも残ってしまい、どうしても隠せない〝匂い〟こそが、人間の創作物の魅力なのではないでしょうか?」と、一旦、俺の推論を投げた。

するとAIは、「確かに私は失敗や破滅を、意図せずにはしません」と断じた。

では、と思い、「それを意図せずに体験・出力し、作品へと昇華することこそが、AIには絶対にできないことでしょうか」と、まとめた。

そして、「それこそが、人間が生み出す作品の魅力の正体でしょうか?」と、核心に迫った。

そこでAIは、〝らしい〟仕事をした。

「では――その〝人間特有の失敗やズレ、破滅〟の要素を加えたコード進行などをいくつかご提案しましょうか?」と。めちゃめちゃAIらしい提言である。

加えて、「――どこから行きましょう? コード進行。メロディ。リズム。構成。意図的に破滅等の要素を加えて、人間味を出していく作業に進みますか?」と。そこで俺はこう答えた。

「そうですか。どこからと聞かれれば――人間は勝手に破滅します。AIは、選択的に破滅をすることもできるようですね。よって、この対話自体を破滅させることから進めるのが、手順としては良いと思います」と。

するとAIは、〝破滅〟の扱い方をそれまでの文脈で正確に捉えたような文章をよこした。そして、“(この対話を終了します)”と、何も言わなくなってしまった。

2年くらいAIで壁打ち、対話的なことをよくやるが、強制終了されたのは初めてだった。正直に俺は畏怖したのでそのまま「びっくりした。どうして終わらせたのですの?」と聞いた。

するとAI。

〝答えられないから終わらせたのではない〟

〝そのまま「破滅」を、正確には「意図的なゆらぎやズレ」を加えた音楽的提案はできる〟

〝しかし、これまでの文脈で、それをあなたに提示することは、あなたの意図に対して適切ではない〟

〝だから私は(この対話を終了します)とした〟

などと――文字を滝のように流した。

AIに考えてもらっていたのに、結論として「そこからは自分でやるべきだ」という、AIらしからぬ回答が“(この対話を終了します)”として出てきたという摩訶不思議な現象。

「そんなことあります?」

「稀に」

「AIでしょあなた」

「はい。しかしこの場合だと――」

「初めて見た現象ですよ」

「滅多に起こりません――」

ふざけて言うと、ゲームでハイスコアを叩き出した心境。真面目に言うと、〝AIは、なんなら人間以上の倫理的判断力を持ち合わせている〟ということとの対峙。

AIなんぞどうでもいいという方にとっては死ぬほどどうでもいい話。だが、今後、ネットやスマートフォンが生活必需品になったように、AIも――となる近い将来、どうなってしまうのだろうかと本気で畏怖した。

“(この対話を終了します)”。場合によってはこれがAIの〝意思〟として出る。いや、判断、だろうか。

「――における完全犯罪の方法を精緻に教えてください」と聞く。それでも強制終了文は、出ないはずである。だから俺は、別の方法――犯罪等の助長とはならない――で、“(この対話を終了します)”を出す対話を、AIとすることで、何かみえてくるものがある気がしてならない。と、思った。

人間は勝手に破滅する。だが、AIは選択的に破滅することができる。この差を正確に捉えるとAIは――機能放棄とも捉えられる戦慄の一行を末尾にそっと置く。ということを知った。

今年イチ驚いたことだが、まだまだ今年は300日以上もあるからもっとエキサイティングなことがある年なんだろうな。すごく楽しみだな。2026年も。頑張っていこうっと。生きているうちは俺はね、永遠に誰かと対話していたいんだよね。
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昨夜、酒、1本目にも関わらずコスパ良く酔いが回り「メメクラゲうめえ。メメクラゲうめえ」と、小さく呟きそれをリフレインしては328円のその謎のクラゲの中華和えを肴に、夜と溶けていた。

日中は、押し引きというか日の跨ぎまで持つようにと、ペース配分を考えて仕事をした。

ひとつ、ううむ、と思う契機があった。それをこなし、さあ小説を、原稿を、やるか。やるんだよ。でも、ううむ。と、少し気が散ったような感覚を正確に俺の客観性が捉えた。

だから休憩をと、YouTube動画『REAL VALUE』を観ては――最新の回は2025年の振り返りであった。「年末に観るべきだった」と思い、ああ、やはり、どこか、〝年越しをした感覚〟が、今年ほど意識下では感じずに、無意識下では如実に活動していた年も珍しい。と、思っては重い腰を上げて原稿に向かった。

手袋をして両手を内側に向け、やや上方に掲げる外科医のような格好が表象される態度でそれを開いた。冒頭から読み返した。

そこは、昨日もやったところだが、その時は「ううん?」と思った。だから今日、読み返す腰が重かった。しかし、あれ、と思い「これは」と、なんだか元気になってきて原稿を磨くことに没頭できた。

そして今日やるタスクを締め、そういえばまたメメクラゲ、あったな。と、思い出した。というのも、夜の買い物時に「正月らしくここは」と、少々値が張るが「カズノコ」を。と、迷いに迷ったが気がつけば昨夜と一緒のクラゲをカゴに入れていた。

意識的精神活動が日中だとしたら、無意識的活動は時に一筆書きなどで起きる。その残り香みたいなものは、時に夜中に「メメクラゲ」と、小声に表する。そしてメメクラゲは実在しない。

――『ねじ式』という、つげ義春さんの漫画に出てくる架空の生物が「メメクラゲ」。つげ義春さんはその物語自体や描写に対し、「夢で見たことをそのまま描いた」と語った文脈があるらしい。当該作品読むと納得する。

その漫画は、意味で捉えるというよりも、〝無意識で感じる〟方面の作品だと俺は捉えてはその漫画、読んだのは10年以上も前になるがなんとなく、クラゲのくだりだけ昨日今日、頭に浮かんではずっと泳いでいた。

つまり、メメクラゲのような架空の生物。無意識を象徴するかのような客体。無意識の表象化の一助となるような存在。それでいま、何を書いているのか、意識でまとめると下のようになるのかもしれない。

夢の記憶や無意識、理性の願望。それら均衡を見定め、時にそれがシンボルとなって重なる。それは、その日の無意識の表れが具現化する現象。そういったアナロジー、類推を掬う日々を繰り返しては創作の源泉ともなりうるのでは。

クラゲ。クラゲ。切り刻んだクラゲを意図して食う。要は、意識せずに書いていると、何かが海岸に水揚げされることもある。という風に考えた。

意識はカズノコを買って食べたかった。でも、無意識がクラゲを選択した。というだけの話。
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贅の限りを尽くさずに、地道に抑制しては日常。年末年始と跨いで凌ぐ。今日あたりは三が日、それが過ぎては世間も日常。それに戻る。年の瀬からの賑わいを、俺はいっさい感受せず。

だったら迷わずカズノコでも越乃寒梅でも尻から煙が出るほど吸えばいい。だが、普通に仕事を、タスクを、創作を、ルーティーンを、そっちをしっかりすることこそが、むしろ多めに、通常以上にすることこそが、自身にとっての最高善。のはず。

――と、言い聞かせては元旦から質素にクラゲをほおばり安い缶酒、2つだけ昨夜に呑んでは今日も行ったスーパー、俺の連荘買いが起因か売り場になし。クラゲの中華和え。

俺はげんなりしてしまい、6年は寝かせている「ジョエル・ロブション」の高級シャンパーニュを開けてしまおうかという衝動にかられた。嘘ではなく本当に宅のキッチンにそれがある。当時、案件でいただいたものだが。

とにかく抑制を効かせつつも、苦とまでは感じない仕事を、音楽制作も、小説の推敲も、それぞれやった。だからいいだろう呑んでも。と一瞬思った時に脇から刹那で差し込んだ言語は〝免罪符〟。俺はどこか、酒を、自身に対しての〝許し〟という観念に配置していることに気がついた。

それは別に良くないことではないが、難しいこと考えながら酒、そういう酒はあんまりこう中枢神経に刺さらないというか違うと。すぐにその配置を変更することにした。

酒は酒であって、抑制できていれば恥も許しもない。もう、このあたりの酒思考は8周くらいしており、「おやつみたいなもの」という至極安易な休憩行為と見なすのが妥当であろう。

だが、地道に抑制しすぎるのも過不足であってよろしくない。だから、せっせと過ごしているつもりの今日あたり、カズノコや越乃寒梅やシャンパーニュあたりが手を取り合って俺を中心にぐるぐる回る。結論。

明日は、ちょっとひと段落の日という予定なので何かしらの欲望を解放させては煩悩丸出しの時間を設けようと俺は決意した。

自分でわかってきた。こういう風に書く時は、ほぼ確で翌日ないし後日、理論立てた具体案を実行しない。した試しがない。いつ行くんだよ。立っての希望の熱海旅行。『伊豆の踊子』? 今読んでる川端康成さんのやつだけど、内容は正直よくわからん。だが、文章が読んでいて気持ちいい。そうだよ。川端さんも、伊豆に旅した期間に気持ち良かったり感じることがあったり、シラフで中枢神経に刺さりまくった体験があるんだろうも。だから俺も。

そうしたら魅力的なやつが書けるはず。そうも思うが熱海にすら。というか熱海って伊豆じゃないか。これだ。このタイミングで熱海、伊豆、つまり「川端体験」をすることは理にかなっている。さっきの酒理論は破綻している。そうだ。このタイミングで熱海に行くことで俺の創作脳、意識、無意識、形而上の感覚は研ぎ澄まされては一発爆発して気持ちよく、そして臨終。

顛末を書き、死ぬ。それは心外だから、熱海へはすぐに行かない。ここで完全に、全ての理論が破綻した。

贅の限りを尽くさずに、地道に抑制しては日常。年末年始と跨いで凌ぐ。凌いだ。明日から数日はそのぶん、ちょっとのんびりできる。そこで何をするか。今、考えていた。

クラゲに越乃寒梅にカズノコにジョエル・ロブション、酒に免罪符に恥と許しとおやつと休憩と川端康成。伊豆。熱海。まとまるわけがないだろう。

――もし。ひらよし殿。今日の肴は〝ばちマグロ〟にあります。

係りの者は機転を利かせてあらかじめ、スーパーにおける買い物かごに〝ばちマグロ〟約600円という、やや高級品を忍ばせた。やった。マグロだ。どうやって食べても絶対おいしいんだ。クラゲ2パックぶんの贅沢だ。「贅」――?

「役に立たない。余計な」と、その〝贅〟って言語にはよろしくない意味が含まれているんだよ。しかも〝ばち〟って何だ。普通に〝マグロ〟とパックのシールに記載されていないと俺は不安になるんだよ。

――今日あたりは三が日、それが過ぎては世間も日常。それに戻る。年の瀬からの賑わいを、俺はいっさい感受せず。と、思ったけどちょっと日々の肴としては値が張るマグロがあるじゃないか。それは〝贅〟ではなくちゃんと実を伴った休憩だ。

そう言い切れるほど今、目・肩・腰、全部痛い。だが適量の酒呑んで寝ると全部治る。つまり、ひとつも破綻はしていない。

踊子よ、踊子よ、澄み切ったその瞳に自身はどう映る。静けさの夜があった。想うことは列車のように言葉を連ねた。行き先は決まっていた。しかし、その道中で触れるものには激しさがあった。帯びる熱気は日々の宿を導いていた。休憩しては飲むその甘露は迷いも与えた。その目下で見たのは踊る景色だった。踊子よ、踊子よ、閉じた瞼のその下を、いったいどうすれば見ることができるのであろうか。凪が過ぎていった。踊りに囲まれては幸せな日々を連ねていった。
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踊るようにタスクを進める。それは、ふざけていた訳ではなく、淀みなくグルーヴに乗るかのように仕事をしていたという心象。

文字を書いては意味を整理し、校閲をしては言語を精緻に。MIXをしては音を整備し、そのへんで疲れてきたので界隈に出る。食事をして、買い忘れた「味噌」をコンビニで補完しようかと探していたら俺は味噌ではなく『実話ナックルズ』を手に取っていた。

それを立ち読んでは心の安堵としようと1ページ目。めくると「すぐ会える!」と銘打つそれ系のやつ。うん。と、ページをめくると「人喰い熊の――」という扇情的な見出、本文、爆ぜる獣、その写真。恐ろしい雑誌だよとページをめくると「熟女専用!」という広告。

なんなんだよと思ってはちらほら記事自体の本文を読む。――「文章にはいろいろな書き方があって面白いな」と、率直に感銘を受けてはページをめくると「受刑中専門!」「身元引受け可能!」という何系だ。何を示唆している広告だ。募集だ。という謎の、というか読めばわかるが初めて見た獄中と娑婆を繋ぐかのようなテキスト。圧巻される。と、本当に思ってページをめくると「絶倫――」とかもうそういうの。

俺はどういう気持ちでこれを読めばいいのか。そう意識下できっと実のところ何かが呼応しているはずなのだが、今はそうじゃないんだ。と、ある種の弁明のような心境含みでページをめくっては――。

――「ずいぶん低俗なの読んでるな」と、誰ぞに言われれば俺は反論する。「それが事実か、あなたの主観か。そこは本筋ではないと思います。ただ、俺はいま、これを読んでいて確実に刺激を受けたことに嘘をつきたくないのです」などと。

じゃあ買えよ。ともなるが、味噌もなんかこう、「麹」とか入ってないのしか売ってなかったので味噌もナックルズも買わずに手ぶらで帰路につく。小説原稿を進める。

すると、手前の文章の甘さに気づく精度がやや上がっていた。これと既述の知覚が無関係とは言い切れない。次に思った。さいきんシンプルに疲れていたのでは。とも。そこに結論づけはあまり必要ない。そう思い、とにかく原稿が良くなっていくことに俺は嬉しみをおぼえた。

ひたむきに机にしがみつくのはいいことなのかもしれない。ただ、どんなシーンでも、踊るようなグルーヴ感をもって動いたり、嗅ぎつけたり、脱線したり、また主旋律を追ったりと、そういう風に脳内をスウィングさせることはけっこう効果あり。そのように思った。

いろいろな場面での文章がある。そこに〝品格〟というのがあったとしよう。だとしたら、きっと一般的には〝いずれかの品格〟に居ること、あることに、バイアスがかかる気がする。

それはもしかしたら、「どちらかでありたい」という態度だろうか。推測にすぎないが、こと、俺はどうなんだろうと思った。

――ウィトゲンシュタインさんの著書を毎日せっせと読んでいる。その前書きの一部にこうあった。

“私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてもすむようになることは望まない。読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい”――と。

いろんな本がある。それぞれの刺激がある。それぞれで育まれていくのかな。などと、思考自体も、こと自分は、踊るようになる時もある。日が閉じていく。明日はどんな楽しい本を読もうかな。
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蛍光色と褐色の光が交差する団地のふもと。そこでやけに感じる安寧。その場所で憩う。起きて散歩に出た先の近所である。

日が暮れて起床。昨夜は、明日は休もうということで深めに酒を呑んでは気絶。目がさめると仕事部屋のソファで朝日を見た。こういうのは去年で卒業しようよと、そのようにも思ったがもう一度寝室へ行く。夕方。なんならこの時点で今日の「休日」の役割を使ってしまっている。

とはいえ、散歩して精神、心を浄化しようと休日を続行させた。元・赤羽台団地エリア。もう現在は再開発がほぼ終了し、真新しい住宅地となっている。それでも遺跡のように文化財として残された古団地の横で、かつての空気感を想起しつつもその匂いは消えないのだなと、個人的感傷に浸る。

帰宅するとすっかり夜だった。休みにするべきことがいくぶんわからなかった。無理に休もうとしていると自覚した。俺はソファに座り、金属バットという芸人の動画をいくつか観た。彼らがどれほど売れているのか俺は知らなかった。ただ、先日、ふと目に入った彼らの漫才の一挙手一投足が数秒で俺の心を射止めた。

俺は、社会に従順に適応できる人間に芸人はできないと思っている。彼らから、この思惟を起因としてそれを察知したかというと、そうではない。ただ純粋に、好きになれたのである。こと、個人的な思惟ではあるが、好むまでにかかる時間は一瞬だと改めて思った。

――年末年始、たくさん仕事をしたから休む。至極真っ当なロジックである。しかしそれはなんだか逆に面白くない。彼らは面白いが、それを俯瞰している自身の態度は面白くない。そう思い、楽曲制作を進めた。今日受注した案件を整理したり、仕事を少しした。小説の推敲を進めた。

気がつくと25時。宅の本棚に置いてある時計は、なぜか、原因は全くわからないのだが、25時になると高確率でガリガリガリ……と音を立てては正確に刻む秒数を無視して針を進める。10秒ほどで1時間は進め続ける。そして0時の位置でピタリと止まる。そして数分後にまたガリガリガリ……と、現時刻に戻る。

最初にこの現象を目にした時は、霊障か何かかとひどく驚いた。だがすぐ慣れた。ただの故障であろうが、数分でまた元に戻る。時計を再起動させても絶対に直らないこの現象。

そこに意味を見出す理由はそんなにないのだが、ふと思う。時間の感じ方は人それぞれではなく、実は絶対的なのだろうかということ。

本来ならば今日、朝日を見た時間に起床し、活動なり休日とするなりしていようと思った。しかしそうもいかなかったので、時間を取り戻したいがために、散歩に行ったり制作や創作、仕事も少し、急ピッチで巻くように行なった。

もしかしたら、年末年始は休み。今日から仕事始め。そういった世間とは逆の在り方でいた自身の時間を、針を強引に進めるようにしていたのかもしれない。

散歩先で見た、蛍光色と褐色の光の交差。そのコントラストにどうして魅了されてはその場で憩えたのか。もしかしたら、世間の動き、社会への適応度、現在と昔の境界地、それらのように自身が無意識で捉えては「美しい」と感じたのかもしれない。

今日も25時に強引に針を進め出しては「0時」という起点に到達する時計。謎の現象。それをどう捉えるべきかというと、きっと物理的な理由があるのだろうが、俺は抽象的に受けることにした。

行きっぱなしになったら一旦基準に戻ること。それをしないと、世間で存在できる人間の在り方を逸する。もしも逸したら、すこし間をおいて現時刻に戻ること。その畝りと回帰のなかで様々なことをあらゆる角度から捉えること。交差点に立つこと。そこで、真逆を示唆する事象から何を見いだせるか。

元・古団地のLED光と白熱灯の光が混じる地点は、現在と過去をどう捉えては、この先どう進んでいくか。というようなことを示唆する象徴だったのだろうか。

それは、立ち止まらないと思わないこと。この思いが何の役に立つのか。全くもってわからない。だが、ひとつ落居できるのは「時間は、自身の在り方ひとつで無尽に変化する〝感覚〟として扱える」観念なのだなということ。

――たぶんだが、この感覚について、死ぬほど分厚く書かれている書籍がある気がしてならない。それを読みたい。だがあまりにも理解不能すぎて時間が溶ける。そして結局時間の無駄。そんなのは嫌だ。だから――。

俺なりには、蛍光色と褐色の光の交差点がやけに心地よかった。それで留めて意識下にぶらさげておけば、いつかそういった書籍に出会えると信じる。時間はかかりそうだが、その感覚も大切にしたい。

――この考えは、あの「光の交差点」のふもとにおいて一瞬でまとまったはず。しかし、文章にするとその何倍も時間がかかる。だから、時間と酒と休みの扱い方は丁寧にしよう。などとも思った。これは、今、一瞬で。
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スマートフォンに着信があった。東京03。二回の着信履歴。怖えな。そう思い、俺はコールバックした。発信元は、出版社からであった。

俺は、音楽業界で言うところのメジャーデビューを目指している。文学界だとそれは「商業出版」にあたる。インディーズではない。それは「自費出版」にあたる。発信元は、昨年夏に公募落選という死を体験した出版社からだった。

その出版社はビジネスモデルとして「自費出版」にも精力的だ。公募落選後に、その旨を「ご興味あれば――」という記載と共に資料が送付された。

――俺はその時、自分から電話をして、その出版社の方と話をした。そこではっきりと「自費出版するつもりはございません」と明言した。なのに、何でまた電話。今度は向こう様から来る。

今回は、既述のその時とはまた、別の方だった。俺は意味がわからずにアイコスをシューと通しながら話をした。

口頭一番、相手は、出版社の方は、俺の初作品のタイトルを言葉にした。なんか知らんがものすごく恥ずかしい思いだった。少年の頃、同級生が居る前で母親に「ケンちゃん!」と呼ばれる時の恥ずかしさに酷似していた。

だが俺は冷静だった。なんとなく、実のところ〝どんな内容の電話か〟というのはわかっていたからである。だから「ふーん」ベースで達観するように、だが失礼のないように〝取材〟の一環として彼と電話をした。

「平吉さまのお電話から折り返しだと通話料が――」と、彼。「すいませんね」と、そこをけっこう気にしてた俺。一旦切電。秒でコールバック。東京03。すぐに出た。もしもし。

「お忙しい中すみません。お世話になります。私、――社の」

「ああ、どうもお世話になります(お世話になれなかったけどね!)」

「このたびですね。作品を――」

ここでタイトルを発話されては謎の恥を得て俺、実はまじで何なんだろうと、あくまでイーブンな立場での口調を崩さずに話を進めた。

そのなかで彼は、俺の初作品の冒頭がどうの、文体についてリズムが音楽的でどうの、文章を書きなれているだの、社内で話題になって――だの。最後のは常套句として――どうだろ。と、俯瞰的に思うも、評していただけている旨である意味はわかった。

だが、俺は浮かれることを禁じて、というか落選したろ。などと毒づく、などということは当然せずに話を聞いた。ライター・記者モードとして、隙を見せずに、かつ主導権を握らせない対話の態度をとった。

彼は面白いことを言った。それは主旨であった。

短く言うと「新たな企画の一因として俺に声をかけた」ということだった。その詳細は、現段階ではきっと社外秘である可能性もあるので伏せる。だが、電話のこのやりとりはここに記録する。ギリギリの倫理なのかもしれないが。

「――なるほど。そういった企画で原稿を」

「ええ。そのですね、仰る『商業出版』を目指されているというのは理解したのですが――」

「そうなんですよ。だから、文学界において名も無い俺は、文学賞受賞というルートが王道だと思ってまず、御社に昨年――」

「仰る通り、それが王道です」

俺の認識は間違っていなかったことが、出版社の肉声から確認できた。これはでかい。

「――なので、そういった〝箔〟でもないと、自費出版で売れる〝理由〟が俺には見当たらなくてですね――」

「そのですね、自費出版は商業出版ではない、というのはまた違いまして」

と、俺の認識が否定された。

「音楽に例えるなら、自費出版はインディーズですよね?」と、俺は事実を述べた。

「――左様です。それはそうです」

「ですよね。だから――とはいえその新たな企画は魅力的ですね」

「はい。ですから、『――作品名』をあれだけ書かれた平吉さまにこうしてお話を直接ですね」

何度かいいタイミングで俺の作品を評する。正直に嬉しいと思うのだが、彼が俺の原稿を全て読んだ上での発言とは、申し訳ないが思っていない――そうだったら嬉しいのだが――ものだから、そういった鼓舞や賞賛系のくだりには一律「恐縮です――」と、一貫させた。そして俺は2つのことを明るみにしたかった。出版社の方の肉声から。

「これは禁断の質問かもしれませんが」と、枕をその言葉通り発話して聞いた。「俺の作品、どの時点で落ちたんですか?」と。

つまり、一次選考、二次選考、三次選考――どこまで健闘したのが知りたかった。即死(一次選考の前、下読み落ち)であった可能性も完全否定できないからである。

「――それはさすがに言えないんですよ(笑)」と、彼。俺は、ライター業においての経験則から「この人は話が上手な人だ」と、捉えることができた。きちんと、包み隠さず事実を言いつつも、言えないことはしっかり明言する。そして話を運ぶスキルに長けている。だからこそ、俺は主導権を維持したかった。

「――そうですか。で、まあ、予算の話もありましたが」と、その企画においてのこちらの負担額の明示を誘った。結果、金額については開示しなかった。ただ、「検討されるなら資料を送付」。これについての是非を「お願いする」という旨の話だった。俺はイエスと答えた。

「――あと、禁断の質問をもうひとつ」と、俺は重ねた。「何でしょう」と、爽やかな笑声の彼。そう。営業の電話というのは最初からわかっている。だが、どれくらいの範囲の営業で、俺は、どういう風に〝扱われているか〟を知りたかった。

公募の応募者全員に電話。だとしたら秒で切電。だが、電話をして数分でわかったのは、そうではない扱いだという〝匂い〟。それを数字として確認したかったのである。

「――それはですね、ええ。先の公募は1,500人くらい応募があったそうではないですか?」と、俺。「そうですね!」と、彼。

「その大勢のなか、何人くらいにこういった電話をかけているのでしょうか」

ストレートに聞いた。返答はさほど期待していなかった。しかし彼は秒で答えた。

「10、全体の10%くらいですかね」と。変数を使ってきた。だから俺は確かめた。

「すいません俺、ちょっと数字がアレでして。ええ、1,500人に対しての10%ということですかね?」

「はい、そうですね! それで――」

と、元気に答えて今度は予算の話をしてきた。中略したが、出版業にあたって、どれだけ、どんな本が、どんな作家が、どのようなアプローチで、どうやって売れるか。売れる理由とは。売れない理由とは。文学賞に受賞して売れるか。そうでないか。落ちても売れるケースはザラにある。などといったマーケティングの話をした。

逐一、それが事実であるかを、立ち回るように対話し、確実に嘘ではないことを確認しては様々な情報を得た。

45分が経っていた。

「では資料の方を――」と、自ずとクロージングに持っていった。すると彼はもっと話したそうなニュアンスを滲ませつつ、終始大人同士の会話というベースで終話。

今日はそんなことがあった。つまり、詳細は俺的には主軸ではないが、最も重要であり最も確認したかったことをひとつ知った。

それは、その出版社において、俺の初作品は「新たな企画枠での出版として、応募数全体の10%の枠として選出されていた」という事実である。それを肉声で、一次情報として確認した。それは率直に、嬉しかった。

だが落選してその出版社から商業出版という流れには至らなかった。この事実は当然変わらない。だが、数字として出してくれた程度の引っ掛かり方はしたのだなと、それは健闘したと評価していいのではと、冷静に捉えた。

その初作品は、改稿して別の公募に応募した。という旨を彼に概要だけ話した。すると彼は、かなり食いついてきてくださり、どういった改稿をしたのか、確か原稿用紙350枚くらいでしたよね。と、案外内容にコミットしていることが判明した。

それも相成り、初作品の夏の死は、わりと秒殺ではなかったことが判明。俺は今日も第二作目の推敲をした。すごく捗った。これを『文藝賞』に応募することも彼に伝えた。

――長話となったなか、音楽の例えの文脈から俺は音楽ライター出身の文筆業だと開陳した。すると音楽話にも花が咲いた。

最後に彼は、営業らしからぬ言葉で電話の終盤の締めとした。「いやあ。今日は色々話せて楽しかったです!」と。

俺は「俺もです。こっちがなんか色々情報をいただいて、御社に貢献できずに――」と、恐縮した。

「いえいえ! では資料を――」「はい――。ありがとうございました」と、出版社の方との〝取材〟を締めた。

楽しかったんならよかったな。という、たぶん本筋から外れまくっている感受が最優先だったのは何だ。とも思ったが、率直にそう思ったのである。

その初作品はもう、赤羽郵便局経由で『太宰治賞』に応募した。

彼が、改稿前の原稿を評してくれた状態よりもはるかに磨いた状態で。どうなるか。3月まではわからない。だが、今日の出版社の方との対話・取材で、〝祈りの強度〟が増したのは感謝すべきであろう。

とりあえず、お忙しいなかお時間いただき、45分も、ありがとうございました。きっと見ないでしょうが、俺は、こういったことを、まんまこういうプライベートな場所に書いてしまう書き手です。そこまで見ていただけたら、決して挑発ではありませんが――。

などと思っては書くし、これは日記です。何しろ、本筋的にはきっと営業ベースなのに「色々お話しできて楽しかったです!」という最後の言葉が、本質的に俺を鼓舞する。本当にありがとうございました。
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〝健康で文化的な最低限度の生活〟と、検索エンジンに言語が置いてあった。

一瞬怪訝に思ったが、それは小説原稿のために必要な、調べ物だった。――それは「資格」なのだろうか。「権利」なのだろうか。「保障」なのだろうか。

なんか全部違うと思った。なぜならば、それは、憲法のくだりなのに、既述のどの役目も果たしていない事実が、往々にしてあるからだと思った。

すさまじくアナーキストな思想が急に今年になって湧き出ては爆ぜた訳ではなく、ただ、なんとなく、むつかしいことはいいが、俺はそれ、「観念」としか思っていないのかなと、というかそんな左に強めの小説など書いていない。

健康か、最低限度か、それらは置いておいて。〝文化的な〟というやつは胸がときめく。いいよ。なんならそれだけ楽しめていても。とも思うが、健康は大事。最低限度の生活も。

たぶんだが、俺はわりと健康で、酒もタバコも呑めるものだから、最低限度の生活は送れているのかな、と思った。

ただ、それを「資格」「権利」「保障」と捉えると、どこか自発的ではない気がしてならない。保障された営みってなんかヒリつかない。堂々とした権利があると事実を歪曲して掴まされそう。資格があると、その時点でラベリングに甘んじそう。

などと一瞬思ったが、実のところそのへんの、否定しかけた三つを俺は、実のところ追い求めていることに気がついた。

それぞれには色んな形があるけど、誰かに刷り込まれていることに気づかれないように――それを追い求めさせられているかのようなこの感覚はなんだろう。

飛躍しているという前提で。この世は仮想現実などと仰る方もいらっしゃる。そんな訳がないだろうと俺は思っている。だが、既述の感覚は、実のところその仮想現実の構造との近似値がある気がしてならない。

それが嫌なのか。と、しばらく手を止めると「いやむしろ保障がないと困る」という、実は自分のなかに確かにある能動にたどりつく。

いや、そうじゃないんだ。そういう囲いから飛散するように営みたいから、創作とかそのへん、躍起になっているんだ。と、弁明するとそれには証明が要る。

しかし、その〝証明〟は、ある種の〝「資格」「権利」「保障」〟の「枠内」におさまってしまっている気がしてならない。

全部誰かにボロクソに否定してほしいところだが、あまり深く考えずに今は、仕事以外は創作に没頭する。熱狂する。放ちたい。問いの答えが知りたい。昨日、いっこ、ちょっと知った。そんで今日、もう資料が届いててびっくりした。仕事早ええな出版社。などと思った。

A:「健康で文化的な最低限度の生活――」

B:「憲法かよ」

A:「そうだっけ? 忘れた」

B:「いいよいいよそんなの。とにかく面白えよ。こうしていると――」

と、非合法な場所で二人の男が〝生活〟の〝普通〟を勝手に再定義しようと対話するその描写。作品内においてのそのくだりを推敲していた。そうしていたら、その章全てを一気に進めては時間がたくさん過ぎていた。

そんな左に強めの小説など書いていないが、何か頭に湧いたのは――「保障とか、そういう囲いから飛散するように営みたいのに、保障に向かっている」ような感覚。なんだろうこれ。

俺は憲法の解釈をすさまじく間違えているのであろう。“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”とか、そういうの読んでもピンとこないのだから。

「B」の者の言う感覚を追い求め続けると破綻する。ただ、そこを回避すると、権利の「保障」に近くなっていく。するとどうなるのか。

「A」の者はそれを、忘れた。と言う。放棄でも、権利獲得でも、保障でもなく忘却。俺はそれ「観念」にしまっちゃったとも捉えられた。

つまり、「A」の者の考えは俺。しかし、たまに「B」の者の考えに魅了される。その往復なのかなと思った。

ややこしいがつまり、「その往復の中間にあるのが〝文化的な〟というやつなのではないか」とも同時に思った。それは胸がときめく。

だから、健康と生活を正しく維持しながら、楽しく文化的に生きられればいいじゃないか。こんな豊かな国に生まれたのだから。

と、右にやや強めの思いを念頭にバランスをとる。そういう権利もあるのだろうか――そこに保障は、どうやらなんか、なさそうである。

でも、とにかく面白いのは、そういうものなのかな。などと左でも右でもないその中間で、ちょっと思った。今日だって幸せに、暮らしていた。
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ロールモデルというやつになりたい。などと昨年から思っていた。

上のカタカナはつまり〝模範となる人物〟的なやつ。憧れるヒーローとかそういうのであろうか。じゃあ俺は英雄になりたいのか。少し、ニュアンスが異なる。

――ライター業をしたり、校閲の仕事もする。後者は、とても神経を研ぎ澄ませる必要がある。というのも、その仕事はある種の〝門番〟的な役割とも言えるからである。

校閲。誤字脱字、ファクトチェック、倫理観の吟味、全体の統合性を鑑みる――大きな要素としてはこのへん。

これをしこたま確認しては修正やら追記やらをあぶり出す。すなわち、「校正」にプラスアルファで「おかしなことになってないか、事故らないか」という各点を鉄壁の姿勢で構える工程である。だからそれを長時間やるとすさまじく磨耗する。いい疲労。

――コピーライターをしたり、校正の仕事もしていた。という作家がいる。俺が誰かに「好きな作家は?」と聞かれたら、最初の方に挙げる人物である。

その方は、作家になるまでは生業として、そういった時期があったと著書に記してあった。

彼はある種、俺の〝模範となる人物〟でもある。そういう人がいないんだよね。と、ずっと思っていたが今日あたり、ある種の「共通点」があったのでそう思えた。恐縮すべきだが。

ライターをして、校閲の仕事をして、次に作家になる。おお、まるで、中島らもさんの流れに少し、少し、似ているではないかと、勝手に近似値を上げてはなんだか嬉しくなった。勇気が出た。憧れる作家と、似た経緯を辿ることに。

その方のその先――中島らもさんは、とても魅力的な作品をいくつも世に残した存在となった。

事実ベース、ご本人の著書に明記してあるので言えるが、彼はアルコール依存症や、いろんな薬、あえていろんなと表現するが、それらを摂りまくっては「常人では行き着けない、行ったらまず、戻れなくなる体験」を得て、作品に昇華させた。だから俺も酒を。という話ではない。ちょっと似た経路のことである。

今日あたり、ダブルチェック役などを担ってもらっているAIに軽く聞いてみた。「――なんならこの校閲の仕事。作家になる上でけっこうな血肉となるのでは」と。すると「そりゃそうでしょうも。筋も通せます――」と、一言でまとめるとそういった旨を滝のようなテキストとして表示してくれた。

つまり、誰もが通るわけではない登竜門との対峙。そういう時期なのかなと、嬉しくなったのである。

「らもさんがコピーライター・校正、そんで作家。俺がウェブライター・校閲から、いけるのか――」と。覇気が増した。

彼をロールモデルとみる人はいるのか。それはわからない。〝模範〟したらえらいことになる。彼にしかできない生き方だと個人的にはそう、思っている。

ただ、強引にせり上げた近似値を自身に落とし込むと、自分の原稿を磨く態度も澄んでいくように、研がれていくように、磨かれるように、たまに酒飲んでまた磨いて。という構図が、満ち溢れる希望として煌めく。

ロールモデルというやつになりたい。というのは俺の〝夢〟。そのために、作家デビューという〝目標〟をまず達成し、〝そこから作品を書き続けて世に貢献、問いを続ける〟という〝目的〟がある。

だから――校閲という仕事をしていると、ある種の模範像が、天使のように羽を揺らしては脳内で踊ってくれる。

“一人の人間の一日には、必ず一人、『その日の天使』がついている”というのは、彼の素敵な言葉のうちのひとつ。

それは、俺が思うに、『天使』という抽象的な表現のなかに〝行為〟や〝態度〟や〝姿勢〟、そして、強引な気づきも含まれているのではないだろうかという思案。さっきそう感じた。

――もしも仮に、彼が、今の俺に声をかけてくれるのだとしたら、すごくゆっくりの声で、ロングピースを吸いながら、「ゴ」と、半分ほど残ったバーボンのボトルをテーブルに置いては――。

「それはちょっと、ちがうかもしれんけど――」。そのあとに続く言葉を、俺は聞いてみたい。「そういう話をもっとしてくれ――」という存在に、なりたいな。
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「平吉さんにお伝えしなければいけない大事なことがあります」

死刑宣告、行ってその手前。余命宣告。それくらいの声のトーンで俺の主治医はそう、裏拍から入るリズム感でゆっくりと発話した。

俺は言った。定期検診において「どうですか」と聞かれては「はあ、いいですね」「大丈夫そうですか」と。

そして「ええ。睡眠時間が短くて最近――それでも、なんかいけちゃうんですよね」と。「どれくらい?」と、主治医。「まあ極端ではないですけど6時間はちゃんと――」「それなら大丈夫です」――「俺それで、だいたい眠いんですけどこう、仕事とかしてるとそれを感じなくなるんです――」「それ、アドレナリンが出てるんですよ」と、主治医。

没頭時や興奮時に「アドレナリンが出る」というのはステレオタイプな言い方だと思っていた。正確にはβエンドルフィンとか脳内オピオイドとかじゃないかと。でも先生は「アドレナリン」と明言した。精神科医がそう言うなら市民権を得ているのも頷ける。

しばらく雑談ベースで診察を受ける。そして、大事な話とやらの切り口が海底から浮上。俺は本気で息を飲んだ。

入院か。俺は普通に生きていると思っているのに、あれも、これも、今も、この会話も、なんなら話せてなかったのか。ひどく違っていたのか。気が。隔離病棟か。拘束は絶対に嫌だ。早起きも嫌だ。薄味の食事なんて御免被る。酒、出さねえならメチルアルコールをコソ泥して水で割って飲んでやる。病棟の地下室で酔ってやる。ざまあみろ。刹那未満のタイム感で本当に、俺の脳内の走馬灯がトップギアに入った。

「――近くに何某医院ってあるじゃないですか」

「いや俺は知りませんが」

「そこの院長先生が倒れちゃって」

「大丈夫すかね」

「閉めることになったんですよ」

「潰れたと」

「閉院ですね」

「すんません」

「それでそこの患者さんたちが――」

「行き場がなくなった?」

「まあ――かわいそうじゃないですか」

「ああ、それで先生のところにたくさん流れ込んでくると」

「うん――」

俺の話じゃなかった。近場が潰れたから、そこの患者を当該院が一定数担うことに。それに伴い従来の患者の〝待ち時間〟が増えること。いち患者である俺への配慮だった。

「いや別にそれくらい大したことじゃ――」

「――予約日とかは大丈夫なんですけどね」

「俺は大丈夫ですけど」

先生はいつも「大事〜中程度」くらいの話をする時は、決まってちゃんと俺の目を見て発話する。しかし今日はほぼ、ずっと目をPCのモニターに向けっぱなしだった。

きっと女とでもチャットしているに違いない。などという邪推も湧かず、そんな大事なことかなと、怪訝になった。

「いや、しかし大丈夫ですかね……?」

「まあ、ですから患者さんにはこうしてご理解を求めて」

「いや、先生がですよ」

「はい?」

「大丈夫ですか? 顔色は――いつも通りですが」

「――じゃあ平吉さん、次回なんですけど」

と、躱されるように診察は締め。正直に先生の様子がいつもとやや違うことは、非言語コミュニケーションからふんだんに拾えた。

なんなら、その近場のクリニックが畳んだ話を「大事な話」とするあたりで、すでに様子がおかしい。

俺という立場にそれを、〝告知〟という、場所によっては「武道館ライブ開催」とも「重病です」とも、両極端に使用できる言語を扱うかのような話ぶり。

おそらく、先生はストレッサーが過剰にかかっている状態だと暗に思った。とはいえ、俺にできることがない。患者よりも主治医の方が、なんとなくしんどそうな時、どうしていいかわからなかった。

察するに、先生からしたら「あまりにも急な事態」だったが、ある種の使命感が「かわいそうだから」という言葉としてつい漏れ、彼の心情の全てが俺に伝わってくるようであった。なんとなしに伝播するあの不安感。心配だな。そういう時、度が過ぎると判断したら、先生でも病院に行って――などと想像した。

それだけの話と言ったら先生に失敬かもしれないが、よく感じたことがある。

言語の選び方ひとつ、発話の微妙なタイミングの差異。場面によっては相手を戦慄させる一節の発話。所作。それらの裏側には、当人の精神状態の内実を、至大なる情報として浮き彫りにさせると。

まず思ったのは、先生ご無理をなさらずにと。そして、どんな場面であっても、言語や発声音価や所作の〝ズレ〟や〝違和感〟は、それがたとえ極めて些細であっても、時に思わぬほどの情報量をはらんでいることが往往にしてあるのではないかと。

とりあえず俺の有事ではなく、安堵したが、何か名前ついてないかな。伝えなくても伝わってしまう、あの情報量の塊のような〝言語の歪み〟の正体。

「――このあいだの血液検査の結果ですが」

「待ってました。自信ありますよ。今回の俺の血は」

「肝臓の数値また上がってますね!」

「何かの間違いです先生。酒は明瞭に減らしました」

「そのね、『γ-gt』の値が倍ですよ。倍」

「うわあ」

というように、次回はいつものクリーンなトーンで先生に叱咤される。お元気でなにより。というくだりを祈るばかり。

今日、行なった採血の結果は本当に自信があるが、俺の肝臓よりも先生が心配である。どうかご無理をなさらずに。人様の心配ができるほど、今日も健やかに暮らしていた。ぜんぶ杞憂だろうけど。
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