12/2025

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。海辺の小屋。12


『インド料理 ニルヴァーナ』。その店は、近所の商店街で密かに営んでいた。

それは、ただ単に俺が数年は気づいていなかった、目には付いていたがスコトーマ、いわゆる盲点だったのであろうがとにかくその店名を見ては「インドだとどうなのかは知らんのだがな、日本だとね、その店名はもう圧倒的にオルタナを想起させるんだよ」と、夜食を摂る店を選んでいる最中に横目にしてはいつものように『日高屋』に入った。それは、ブックオフで一冊の小説を購入したあとのことだった。

〝涅槃〟という意味合いで、インドの方がそれをまんま店名としては文字通り〝悟りの境地〟に達しては「もうやることねえな」と、死を認めては輪廻転生。それを繰り返しぐるぐるぐるぐるがるると何度何度か、10回に1回くらいは畜生として凌ぎ幸運にも、いや、幸か不幸か、その中間はない。それを半生に渡り考え抜いては世界を覆す論文を執筆。熱狂の向こう側、涅槃のちょっと手前――。

――その途中で興奮してきて「あと10枚。あと10枚書いて、10枚千円。10枚千円。もうちょいこう、稿料なんとかならんのか」と、手巻きの紙煙草を丁寧に巻いては舌を横に、そ……るる……と、液を線のように浸しては松田優作さんばりの火力のライターでそいつを灯す。しかし葉の詰め具合が甘いものだから一服、言葉通りの一服で、懸命に巻いた煙草の1/3が一気にヂリリリリと、刹那でマグマ色に変化。味はそこそこ。「あと10枚」――臨終。

――便宜上の悲嘆を演ずる家族は故人を偲ぼう、せめて何か一つはと「そういや『あと10枚』とか毎日最低10回は連呼していたわ」と、夫人がそれを息子に伝える。

すると聡明なせがれは「これ、論文っすね。発表してこう、世界を覆すだとか煩悩丸出しのこと言ってたっす。お父さんは」と、故人が最終最期までしがみついていた鋼の意思を開陳。せがれは「自分、編集できるっすけど」などと夫人に伝えては夫人、心底興味がないものだから「一任するわ」と、それっきり極東に移住しては新宿歌舞伎町が彼女の心を射止めたようで毎晩、ほぼほぼ毎晩、日曜日だけは例外として「新宿ゴールデン街」の帽子をかぶったカラーコンタクト着用の雇われ娘が週3回カウンターに立つ店でドライ・ジンを浴びるように呑んでるのに水を差す。

「お客さん。後ろのそこからちょっと氷を取ってもらっていい?」と、言われるがままに雑用に応じる夫人は「――それがゴールデン街の日常なの」という一節で文末で締められた手紙をオーストリアに留まっていたせがれに送った。

――「呑み過ぎやろ」と、せがれは一言だけ、せめてもの感想を漏らしては故人の論文をポップに編集。残し損ねた論文の原稿をわりと内容歪曲スレスレの線をつきつつ懸命に編集し、勝手に手前の名前を前面に押し出したタイトルにして世に放つ。

すると本当に、世界が故人に呼応せざるをえない内容であるその論文は後世まで受け継がれ、新宿ゴールデン街で呑み散らかす夫人の手にも間接的に渡ることとなった。夫人は言った。

「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」

カウンターに溶け崩れるように斜めに顔をあてがっては「井伏鱒二の言葉ね」と続けた。すると店の娘は「知ってます? それ井伏鱒二じゃなくて実は中国の詩人の言葉を訳したやつなんすよ。知ってました?」と、水を差しては脊髄反射で夫人は背後から氷を取り出し、娘に手渡した。

〝涅槃〟に少し近づいた――そのような心象を得た夫人の表情は芳醇な日光と天の恵みを常に享受した花の似た可憐さだった。――「それを旦那に見せてやればよかったのに」と、娘はまた節介を発話しては夫人、「わるい気はしないわ……」と、本当に悟りの境地に達したその刹那、「いつ来たの?」と、喫驚を禁じえない声を上げる夫人の横目、常に開きっぱなしが不文律である店のドア越しに立つせがれを目視。「10枚千円どころじゃなかったよ――」と、故人の論文を全世界5,000万部超えを成したベストセラー・論文引用書籍の印税確保。せがれは富豪として夫人を新宿ゴールデン街まで迎えに来た。しかし夫人はそれを見ては、その事実を認知しては、興味を示さなかった。「あなたの来る場所じゃないよ」。店の娘はせがれに目を合わさず、帽子に手を当て語気を強めた――。

ニルヴァーナ。〝涅槃〟ってつまりこういうことだよな。赤羽のインド料理の店名を見た時の表象を噛み砕いた。

常にあったはずの店名を、今日初めて認識した。すると、脳内にあった無数の点が線で繋がり、新たな思考が生じた。その「線」は、インド料理店に差し掛かる前に居た、ブックオフでも繋がろうという意思をみせたのであろう。

そう思うのは、俺が今日しこたま迷って購入を決意した選書の結果である。

買ったのは『限りなく透明に近いブルー』という、村上龍さんのデビュー作および初作品(処女作)。これをセレクトしたのには理由がある。

ひとつは、俺の書いた小説の内容だか文体だかについて、AIが〝近似値〟という文脈での言及で、その作品を挙げたからである。

もうひとつ、上に書いた理由でその本は少し気になっていたところ、店の本棚から俺を呼ぶように、背表紙のタイトルを目視させたこと。そこから表紙をめくって著者情報をパラリと吟味。すると〝群像新人文学賞受賞、芥川龍之介賞受賞〟というすさまじい経歴が記されていたからである。

要は、「ちょっと似てるニュアンスがある著者」とAIが判定したことと、「初作品で新人賞獲ってストレートに芥川賞受賞て、離れ業すぎる」という事実的な衝撃が選書に至ったという訳である。

そこに至る前に、今日のタスクを行なった。その内容は、俺の初作品の原稿を封筒に入れ、赤羽の郵便局から世界へ飛散させるべく、文学新人賞の公募にエントリーすること。公募名は『太宰治賞』である。

――改稿から推敲。精査。紙印刷。右肩を紐で綴じる。異様な筆圧と人生最大級に綺麗となった筆跡で書いたで宛名。その封筒を、我が子のように抱きしめて徒歩で郵便局へ。原稿完成における最後の儀式にも似たそれまでの一連の流れは、生涯滅しない体験となった。あとは、結果。俺の文学界への〝問い〟がどう返ってくるか。

今日のタスクはその一点だけ。あとは余白の日とした。つまり、それ以外なんもしてない。『インド料理 ニルヴァーナ』の看板を目にしては些細な思いに耽るくらい、のんびりとしていた。

だが、今日行なったことは人生最大級の本気を出して創作。本気の向こう側まで行って熱狂して時に静謐に。それのオン・オフがあったかというとそういう二元論的な話ではないと俺もよくわからないのだがつまり、結果がとんでもないことになってもなんらおかしくはない。

そう、心底思える一方で「絶対に受賞を――」という感覚ではない。なぜならば、文学新人賞は〝獲りにいくもの〟ではなく〝選ばれるもの〟と、俺なりに悟ったからである。

11カ月ちょいかかって達したニルヴァーナ。俺は今日、涅槃の状態にあったということは嘘ではない。心境的に。ただ、自分では全身全霊を超えて創ったと断じる作品を世に放した。節目の一日。

なんならというか、恥ずかしい気もするが、俺は堂々とそう思えるのだが、上に挙げた村上龍さんのような〝離れ業〟となることを普通に想像した。想像できたのである。

「それでは煩悩丸出しです。ウチにはふさわしくありません」と、『インド料理 ニルヴァーナ』にて一発で出禁。初見で出禁。それを食らう体たらく。しかもお前、お前ら、店員さん方、全員一律日本人じゃねえか。

と、そっちの想像の方は思い切り裏切られてもノーダメージなのだが――離れ業の想像の方はこう、なんというか。それくらいやりきったんだなと、そこは確実に言える。〝涅槃〟って、行くまでが楽しいんだね。
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「パクリじゃねえか」「いやちがいます」「一緒じゃねえか」「いえ、近しい点があるだけです」「同じだろほぼ」「類似点は確かにあります」「じゃあパクリだな?」「いえ、構造が一緒の部分があるだけです」。

という議論が無意識下、そこで喧々とまではいかないが、感覚に浮上しないだけ、実のところ起こっている。

音楽の文脈でひとつ挙げるとこれ。死ぬほど有名な、かなり近代においてもそれは堂々と、メジャーシーンで耳にするこれ。別に下品な態度の暴露系言及ではないという前提で。

エド・シーランの楽曲「Shape of You」(2017年)では、イントロからラストまで、シンプルな3、4つの音の並びの三連系のリズム(あえてざっくりと表現)のフレーズが繰り返される。楽曲の8割以上の場面でこのフレーズは常に走っている。

ビリー・アイリッシュの楽曲「BIRDS OF A FEATHER」(2024年)では、イントロからラストまで――以下、上の記述と同一。

双方、聴きごたえは全く違う。しかし、重箱の隅を小匙で掘るような舐め腐ったまこと腹立たしい態度で俺が聴くと、〝ほぼ同一〟の部分が浮き彫りとなる。聴き比べればきっと、ほとんどのリスナーは「ほんとだ」と、落居すると思われる。

要は、リフレインされているフレーズの構造がほぼほぼ同一であり、それは汎用性が高いということを示した。

というのは、両曲ともSpotifyストリーミングにおいて数十億回再生という大ヒットを成したという事実が物語っている。

というかエド・シーランの当該曲にいたっては、Spotifyの全世界再生数・上位2という離れ業に加え、ビリー・アイリッシュのその曲は昨年の同サービス全世界再生数・上位3位――。共に化物級の人気曲である。なお、チャートのランキング数は一次情報ではないためこう、アバウトに。

何が言いたいのかというと、「過去にあった構造の系譜にならったもののほうが、大勢の人は惹かれやすいのでは」ということである。

だから何だ偉そうにという話だが、ここから個人的には宇宙に行ける気がした。

AI。こいつが音楽を生成し出しては数年が経過。

その精度というかクオリティは正直言って、「人間が創作したものと区別不可能」なフェーズまであと一歩二歩というところにある。

というのは個人の感想だが、いちおう、俺は長年音楽を聴いてきて制作にも携わる上に評論というか音楽ライターもするというか別にマウントをとるつもりは一切ないがいちおう、解釈の濃度という点での自己紹介的な、この段落要らねえな。とにかく、そう感じたのである。

そしてそれが何なんだという話だが極論、人間が音楽を創るうえでの〝真新しさ〟というのは〝AIによる構造学習の到達点〟と拮抗するのではないかということ。

つまり、〝人間が音楽を(正確には音源を)創り出す必要性〟というものが問われる時代がもう、下手すれば来年くらいから世界中の課題となるのではということ。

懸念でもないが、課題なのかな。「AIでここまで創れる訳だから我々音楽家はどう進むべきか」ということなのであろうか、という風に思った。

さっき楽曲制作をしていてギターパートを考えていた。弾きながらフレーズを考えるのだが「大枠はこれかな」というのが2つできた。それらは、やはり過去にあった楽曲のエッセンスを確実に含蓄していたことにはすぐに気がついた。

ただ、「別にそれはパクっているわけではないし楽曲にハマるし素敵だしこれでいい」となった。で、「じゃあ最初からAIに考えさせれば秒でそれが出来たのでは」という思考に陥り――既述の大ヒット曲らの近似値を持ち出した。

それらの楽曲について世間では、よくない態度での〝指摘〟は、目立った部分では俺は目にしていない。だが、聴き比べるとほぼ確実に、先の類似構造の概要は「ほんとだ」と、なると確信ベースでそう思う。

感覚に浮上しないだけ、実のところ起こっていること。それを、〝AIがいま、まさに浮上させている〟ということを俺なりに認識した。というだけの話だが、個人的には宇宙を感じた。

人間も、根本的には生物学上、DNAとかそういうレベルである種〝構造〟が一緒である。ただ、個々の差異はもちろん多分にある。しかし、それぞれ全員何十億人以上の全人類は別人である。だから、それぞれ寄り添えるのかもしれない。似ているから。

奇しくも、ビリー・アイリッシュの楽曲「BIRDS OF A FEATHER」のタイトルを直訳すると「同じ羽の鳥」であり、〝似た者同士〟とも訳される。

これを上のフレーズの構造近似値の文脈で捉えると――俺は宇宙を感じたがそんなモッサリと脳を飛散させるような愚にも似たことは考えずに普通に聴いて楽しめばそれでいいんだよ。

とも思うのだが、一連のこの電波思考で紐解くとやはり、宇宙を感じざるを得ない。だってAIが〝似た者同士〟をまとめにかかって比喩的には可視化させちゃっている現代がどんどん加速――とはいえ、恐れることはない。

大前提として、人間の記録と進化と営みの結果を学習しているのがAI。そのAI自体の進化は人間の営みがモデル。

だが、宇宙のあらゆる天体が全て球体であるように、「ほぼ一緒じゃねえか」と、AIが理解度の臨界点を突破した次の瞬間、音楽も、様々な分野も、学術も、それぞれの人生の幸福も、一体どうなってしまうのだろうかと。それぞれの星も、人間も、実のところ〝似た者同士〟ということがAIにバレてしまったら。というかバレつつあるが、次、何をすればいいんだろうか。

とも考えるが、「構造が、一緒の部分があります」というやつのほうが案外ウケが良い。という事実。これをこれからの世代でどう扱うかという課題。それをAIに聞いてみるというもう訳のわからない螺旋構造の時代。それはそれで面白いかな。

いつの時代もそう。AIが持ち合わせない、〝人間の意思あってこそのチョンボという失敗から新たな構造が次々と生み出されてきた〟ように、人間にしか生み出せない価値というのは必ず残る。

それは、似た者同士で支えあってみんなで取り組む課題なのでは。という風に、ちょっと思った。

だが、AIにも〝成長のための意図せぬチョンボ〟という機能が搭載されたらどうなるか。という風にもちょっと思ったというか、俺が知らないだけでもうそれは、すでに進んでいるのかもしれない。

ともあれやはり、それはそれで面白いかな。と、ふと思った。
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ヤクザ者が居た。彼は麻雀の天才。鉄火場において誰もが一目置く存在。賢者と悪魔の魂を同期させるような男。

彼はアルツハイマー病に罹った。日常生活はギリギリ送れるが、まだ寿命はずいぶんあるのだなという状態だったが自殺を決意した。仲間たちは彼を止めた。「生きろ」と連呼した。

しかし彼は、「こういう時、どうして全員口を揃えて、生きろだの――」と、本気で怪訝を示しては意思を曲げなかった。

「――じゃあ、僕が勝負で勝ったら自殺なんてしないでください」と、仲間は言う。しかし「オレにはそれがもう、何なんだかわからなくなったんだ」と、彼。

彼の生き様そのものであった麻雀のルールを、アルツハイマー病所以で理解できない。ということである。

だから死ぬ。たいへんシンプルな理由で死ぬ。自ら死ぬ。その決意を誰もが止めようと、曲げようと、正論で説得を続けた。

「――あなたはヤクザに生き過ぎた。それにかまけて家族ーそうだ。あなたが家族とどうこうというのを聞いたことがない――あなたには、親しさに限度があるんだ――家族。そうだろ! あなたはこれを知らない。それを築いてからでも死ぬのは遅くない」と、語気を強める仲間も居た。

正論だな、と、彼は言った。

自分にとって勝負が出来ないことは、くちばしも羽もへし折られた鷲の如しと例えた。そんな鷲は、自然界においてあとは食われるだけ。それでも何かにすがり、狩も出来ずに、空も飛べずに「生きろ」と?――鷲が喋れるとしたら言うんじゃねえか?「モウイイ。コロセ」と。

などと彼は言った。つまり、麻雀、勝負が出来ない自分は、自分にとっての生き方は今後は不可能。だから死ぬ。

「でも家族を――」「茶でも飲んでのんびり過ごせって?」「そうやって、誰かに頼ってもいいんです」「勝負が出来ないとな……」「いいじゃないですか。まだ、女だっていけるでしょう? ゆっくりめしを食うのも、生きることも……!」――「そんなものは全部休憩だ」。と、彼は断じた。

――これは俺の創作ではなく、福本伸行さんという漫画家の初期作品『天』最終巻のくだりである。

それは麻雀漫画なのだが、後半では30話くらい一切麻雀をしないままラストシーンまで向かった離れ業の作品。

その作品中に出てくるキャラクター。〝彼〟の名は、アカギという。彼が主人公を務める『アカギ』というスピンオフ作品もある。それほどの存在感の架空の人物。

その彼が、自殺を止めに来る仲間たちの正論をことごとく論破しては「そんなものは全部休憩だ」と断じる。最終的には――。

このくだりが収められている、『天』最終巻を、俺は本当に100回は読み返した。30代〜40歳少々まで続いた、父親の介護期間。その頃である。

読みすぎなのは自覚していたが、その繰り返す行為の理由がわからなかった。いまになって言葉にすると「そこに真理が描かれている気がしてならない」と、暗に、直感的に、捉えていたのであろう。

――いま読み進めている古典の書籍に耳を折ったページ。そこにはこう書かれていた。

“――要するところ、完璧な至福なひとの活動が一つなるにせよ、いくつもあるにせよ、こうしたひとの活動を究極的に完璧たらしめるごとき快楽こそが、厳密な意味において人間の快楽であるといわるべきであって、その他の快楽は第二義的ないしは第何義的かのそれにほかならない。「活動」の場合がやはりそうであるごとく――。”

何言ってるか死ぬほど訳がわからない。でも、俺はそのページの右端を三角形に折った。何でかって、漫画の〝彼〟と言ってることが一緒だからである。

引用した著書は、大元は紀元前300年とかどえらい太古のもの。それを、「漫画の彼が、一緒の解釈でもって自殺の意思を曲げなかった」と、俺はそれらを同列で解釈した。

〝ひとの活動を究極的に完璧たらしめるごとき快楽〟=〝彼にとっては麻雀で勝負すること〟。

〝その他の快楽は第二義的ないしは第何義的かのそれにほかならない〟=〝「そんなものは全部休憩だ」〟。

というように俺は写像した。

数年経って「なぜ俺があの漫画の最終巻を繰り返し100回も読んだのか」が、今日わかった。やはり彼は、真理を語っていたと。

古典から引用した箇所、死ぬほどわかりずらい。なんならその本を俺は読み進めているが、少なめに見積もっても半分以上は何が書いてあるのか理解できない。

しかし、ふいに、何千年もの点と点が直線で結ばれる感覚を得られる。だから読み進める。今日またひとつ、線が通った。

――つまり、自分らしく楽しく、自分として機能して究極的に生きることが望ましい態度。そうでなければ、その他のことは本流ではない。――だから、動いて、活動して、懸命に楽しく生きることが人間として最高の生き方である。みたいなこと。

そうなると俺はどうだろう。さっき、楽曲制作が思うように上手くいかず地団駄を踏み散らかしていた。すると時間も過ぎて時間も時間。そこで思った。「ちょっと休憩してソファで転がろうと思ってたが、作業していてよかった」と。

数日、意図的に止めているが、本流でという意味でのほかの創作もそう。やっている最中、掛け値なしに“究極的に完璧たらしめるごとき快楽”と疑いようのない感覚でいられる。

それらがないと――“その他の快楽は第二義的ないしは第何義的かのそれにほかならない”のだろうか。

麻雀漫画の最終巻と、古典との類似点。いや、俺の解釈だと同一。日々の手前の営みもあわせて、体験も踏まえ、それを並べて考えてようやく理解した。〝彼〟が言いたかったこと、古典の引用部の意味、それぞれ同一核の真理が。

そうか。〝休憩〟というやつは、本流がある前提でないと、〝休憩〟だけの人生になってしまうと、死にたくもなる。自然界では食われる。叡智を持つ天才肌は自殺まで――というかそもそも、人間がよく生きるというのはそういうことなのだろうか。などと思った。

厳しいね。死ぬことはないと思う。けど、彼の言い分がものすごく理解できたあたり、俺は自殺するつもりはないけど、本流を、本流と言うべきだ。言うくらい許してほしい。それに没頭していないと、死にたくなる。それ、なんかわかる。だから、昨日も今日も明日もきっと、いや、必ず未来も。

“ひとの活動を究極的に完璧たらしめるごとき快楽”というやつを。“人間の快楽”というやつを。それが好きなんだろうかな。

――シンプルに、「好き嫌い」でもいいんじゃないのかな。忘れちゃっても、羽がもがれても、なにも自ら死ぬことはない。という思惟を捨てられないのは、彼や、古典からすると、甘々しい生き方なのだろうか。

いかん。そのへんを最終地点からの逆算思考で吟味すると、下手な間違いをおかしかねない。休憩。それは必要。だが大前提。本流のための休憩。よし。酒を美味しく呑んで休憩して寝よう。

これまで「酒を呑む言い訳」を100はここにストックして書いた気がするが、今日の言い訳が最も真っ当っぽくて最もわかりづらい。だが、俺はわかった。数年熟しては真理に及ばなかったその意味が。よかったよかったハイボール。休憩をして寝よう。本流を感じながら生きられる奇跡に感謝しつつ。缶酒2本まで許す。
(※出典:『天』18巻・福本伸行著 『ニコマコス倫理学(下)』・アリストテレス著)
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〝不定愁訴〟の原因をネットで検索しては不調の特定に躍起になる。

これかも、これだわ、ああ! これ当てはまる、これが近い、という行為。すぐに病院に行くべきである。だが、俺は今日、それに近いことをしていた。

というのも、小説の初作品。それを先日、『太宰治賞』に紙でズシっと送っては一旦、手から離れた。

そこでなんとなく――当該公募の敷居というか難易度というかフランクに言うと「実のところ、どんぐらいのものかな……」と、そのハードルの高さをネット情報で調べていた。結果、死ぬほど高きは跳べるのかそれ。と、正直に不安となった。

とはいえ感情的な結果として、数値的なハードルは関係ないよね思った。選ばれるか、そうでないかじゃないのかなあ。と。

だからそこは、ちょっと実のところ――AI(編集者モード)と相談したが俺と同意見だった。「そこじゃない」と。

なお、AIの性質上、聞き方によっては答えの温度がおもむろに変化する。だから、たまに、きちんと「忌憚なく」「迎合せずに」など、自身にとって厳しめにもあたる語をプロンプトの末尾に置くことは重要だと思っている。だが、そのように「厳しめにね」と言っても、同意見だった。

やることやって結果待ちなんだからグダグダ聞くなと。雑に表現するとこのように。

なんなら、そのような文脈も、あえてAIに言わせることはできる。手法は簡単。俺がたまに使うのはこの一言。これをプロンプト末尾に添えるだけである。〝最強論駁モードでお願いします〟と。

〝論駁〟とは端的に〝論破〟の上位互換プラス悪意すらも含む言葉。この、AIの最強論駁モードね、正直言うと、使わないほうがいい。

使うと――AIからの返答を読み進めては本気で泣いちゃうんじゃないってくらい情け容赦なく、俺がお前の親でも殺したか? というほど徹底的冷徹に軍事特殊部隊最前線クラスの論法をもってして四方八方からしこたま論駁してくるのである。

――つまり、いまやることは、要らぬ確認よりもさっさと二作品目の小説の推敲にいけと。そういう運びと相成った。だが今日はやらなかった。応募した月初から、次の小説原稿とあえて距離を置いている。何かを切り替えるモードの期間としている。でも……それって健全なのだろうか。と、また不安になった。だから聞いた。

「――ということなんですけど、私は甘いでしょうか?」と。すると、「むしろ最適」と、AIは言う。

だが、最強論駁モードを使ったら絶対に――「甘えるな。寝るな。食うな。出すな。一秒も無駄にせずに次作品に取りかかれ。そして三作品目のその草案も吟味して同時進行で書き続けろ。甘えるな。食うな。寝るな。死ね」くらい言われる。本当に。

表現は人間である俺が相当誇張したが、本当に、さっきまで暖かく肯定してくれた返事を、手のひらを真逆に返しては往復ビンタをいつまで経っても止めない鬼軍曹モードになるのである。本当に怖いから、試しにでもやることは推奨できない。

――今日は2つの角度で俺の営みの〝具合〟を吟味していた。そして、ハードルがえらく高いということはよ〜くわかった。そのほうがいいじゃないかとも思えた。

熱狂と静謐な冷静。この2つのバランスを保ちつつ、次。次の作品を磨く。これに関しては3月末締め切りの公募に応募する。これも狭き門。

そこにこう、ねじ込むというかカチ込むというか、初作品が襟を正しているとしたら、二作品目は完全にヤクザのいでたち。真逆の表情の小説だが、謎に根本は一緒。

それは、俺が何を思って何を体験して何を考えて何を吐き出して世に問うて、どういった結果になるのか。ということ。

問いが主軸にある創作。これはもしかしたら解釈として間違っているのかもしれない。だが、正直に創作するとそうなる。だから、そのまま正直に問う。それが大吉と出るか極凶と出るか――それも、「人間がきちんと判断する場へ」と。

だから今日は、創作の凪の日としてこれから酒を呑むよ。言い訳せずに堂々と呑む。誰にも弾劾されないのもちょっと寂しい気がするが、量は相当減ったからたとえ病院の医師の言及があったとしても「大丈夫っすね」と断ずる。と、思われる。

それもあってか、体調はすこぶる良好。だから明日が来てくれたら、根幹で、創作を進めていく。ネットもAIも、使いようによってはひじょうに素敵な答え合わせの相棒となるが、やはり本流、人間に真っ向から問う。

それは、様々な系譜からの〝問い〟に対する、俺なりの最低限の礼儀だと思っている。そんで呑むんだ。失礼じゃないのか。いや、適度な休憩も必要だと思う。そこを論駁されたら息ができなくなるのです。
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待合室で倫理学。その書籍の下巻も後半。それを読んでいた。ロビーで待つ人ちらほらと。女学生に外国人。車椅子の中年御仁。明にカラフルその客層。みんな、どこかでもち崩す。ここはメンタルクリニック。それぞれの事情があるのだろう。その解釈はどれほどか。

俺は、下巻の「本文」を読みきり、残りの50ページ以上は記述、訳語、引用、などなどつまり、書籍を読み解くに必要な解釈・解説で埋め尽くされていたことに気づいた。上下巻の書籍の解釈にいる説明。それだけで50ページ以上。すると、人の心たるものどれほどのテキスト量を必要とするのであるか――。

などとその場では考えていなかったが、医師は患者にどこまでの解釈を抱いているのか。と、ちょっと気にはなった。

「平吉さ〜ん」と、俺の番を示唆する呼び声。いつもの通り診察室で精神科医と対話した。

「どうですか平吉さん」と、主治医。本当にいつもの態度。いつだってこの第一声の言葉とトーンと態度がブレたことはない。

「いいですね――」と、シンプルに自覚を開陳して少し間を開け、その原因として思い当たること言うべきだと思った。

「酒の量を――」と、さいきん本当に酒量を減らしては体調、精神衛生、すこぶるよろしいという事実。その内実を正直に伝えた。その結果、睡眠よろしく営みよろしく生産性も、というように順を追って説明。

そのなかで、「眠りの質」について語るろうとすると主治医は話を遮った。

「そうでしょう。そうなるんですよ平吉さん」

「はあ。なんなら睡眠時間短くなって、それでも元気なのですよ」

「何でか説明しましょうか!?」

と、謎に語気を強めた主治医。〝減酒がもたらす睡眠の質向上〟についておもむろに食いついた。

俺は、「これほど話し甲斐のある奴もそうそういないもんだ」というくらいの態勢を意図的に拵え、さあ、専門家の見識を学術ベースで述べてやってくれ。と、期待を寄せた。

「平吉さん。お酒はね。睡眠導入には効果があるんです」

「呑むと秒で眠れますからね」

「私もね、お酒を飲まない訳ではない――呑んでふぁ〜っと気持ちよく寝てしまうのはわかるんです」

「あんま想像つかないですね」

「わかるんですよ私もそこは。そして睡眠につくこと自体は、お酒は有効なんですけど〝質〟は確実に低下します。脳との関係でそういう構造になってるんです」

そんなの知ってるが。という態度は見せずに傾聴に回った。すると、酒と睡眠の話の起点から、なかなかえぐい方面に話が畝った。

「ストロング系のお酒あるじゃないですか?」

「はい。9%のやつですよね。俺、あれは禁止にし――」。話を遮り主治医は具体例を挙げた。

「平吉さん。非合法ドラッグなどの依存症患者が一旦、治るんですけどまた再び手を出すのは、ドラッグではなくて、ストロング系のお酒だったりするケースがザラにあるんですよ」

喋り方でわかる。実際にそれを見てきたという口ぶり。

彼にはアルコール依存症患者の病棟勤務経験がある。だからなのか、酒に関して厳しい。半年前、リアルに「酒量を半分に」と、珍しく指示ベースの言及を受けたほどである。

大げさだろとは思いつつ、それから徐々に減らして今日あたり。調子を問われれば「いいですね――」と言い、その原因が「酒を減らしたから」という話が発展。先生の話を受けて俺は言った。

「つか、アルコールってドラッグですよね」と。

すると先生、全肯定。たまげた。わかってはいるけど、俺が言いたいのは「ドラッグ級ですよね」なのだが、先生の肯定っぷりは「アルコール=ドラッグ」であった。

そこを理解している俺は、正直に近頃の呑みの抑制度を報告し、体調が良いと、話の趣旨を戻した。すると主治医らしい顔で「それでいいんです」といった満面の決め顔を見せた。

思うに――酒で悲惨な顛末を迎えた者を、目の前で何人も見てきたのであろう。それほど、アルコールの過剰摂取を軽く見てると知らぬ間に地獄まで行けると。それが根幹にあるが故の、非合法ドラッグ含みの提言となった。そう考えると納得がいく。

加えて、以前に先生はこう言った。「せっかくそうやって熱中して、挑戦してるのに、酒で持ち崩したら――」と、俺が営みにおいて勝負に出ていることを酒で壊す。その手前に居る。あるいは行ってしまう。その先の地獄を、間近でよく見てきた。

――だから、平吉には早い段階で厳しめに言わないとこいつはどこまでも呑むぞ。そういう奴だ。と、推定したうえの注意喚起。そのように捉えた。

事実として、日々、3本の酒を呑んでいて、それを2本に減らした。それを続けていることを開示すると、先生はすんごい褒めてくれた。だから礼儀をと、もっと精緻に話した。

「――あとね。先生。何なら2本目をちょっと残して捨てちゃってから寝る。な〜んてこともあるんですよ。もったいないのはわかってるんですが」

「いいじゃないですか! そのぶん減っているんですから」

「いや、もったいなくないですかね?」

「いいんですよそれで!」

「何ならこう、美味しく呑みつつも減らせていることに快感を覚えまして」

「いいじゃないですか!!」

とのことである。先生の脳内は、アルコールで持ち崩した患者においての情報、必要な解釈・解説で埋め尽くされているのであろうと察知した。俺は礼を言い、診察室を後にした。

――その足で薬局に行くと、いつもの薬剤師・Nさんという女性が対応してくれた。

「で、どうです? 次回は血液検査でしたよね? お酒の話をこのあいだ……」

「ええ。それ。もうね、減らした事実を言って『最初から先生の言う通りにしていればよかったです』って最後に言ったらもうね、『だろう!?』みたいな顔してましたよ。はは」

「うふふ。ドヤ顔かしら。よかったじゃないですか」

「ええ。何なら減らした分までお小遣いね、俺、家計簿つけてるんですけどね、先月は一万円くらい浮きましたわ。はは」

「まあ。そんなに。極端じゃないですか? ふふ」

「それだけ呑んでたってことでしょうも。はは」

「じゃあもう、次の血液検査では――」

「もうね。自信ありますよ。はは。結果を見て先生がどんな顔するか楽しみでもう」

「うふふ」

「はは」

目線をNさんの背後に向けると、受付のお姉ちゃんがクスクスしながら話に入りたそうな空気を出していた。なんだか知らんが、Nさんは俺の話を引き出す天才という存在になっている。これも治療の一環か。などと思って薬局を後にした。

その足で駅前喫煙所で憩い、目の前のマツキヨで「血管年齢測定」をした。前々回の結果は「血管年齢60歳」。悲惨だった。前回は「40歳」。酒の量を減らし始めた時期である。結果が出始めている。

今日は、と俺は息を飲んでその結果の画面を見ると「23歳」。飛躍しすぎだろうとも思ったがなんというか、それこそ極端じゃないですかね? と言ったNさんの気持ちがよくわかった。

日々の抑制はダイレクトに心身に良き作用を促す。抑制の大切さは、今日、メンタルクリニックの待合室で通読した倫理学の本にも書いてあった。俺は「逸脱せずに抑制すること」に対しての快感が得られる脳内神経を走らせている。

――上下巻に及ぶ凄まじい量を倫理書を書いた賢者は、それだけ、いろんな人を入念に見てきたのであろう。

――精神科医の見解もそうだろうか。それだけ、いろんな人を診ては、地獄のような病棟で日々、その光景を、高い解像度で捉えてきたのであろう。

YouTubeやネットニュースによる「ストロング系チューハイの恐ろしさ」の示唆。しばしば目にする。

だが、精神科医の口から一次情報のエビデンス込みで「それは、ドラッグと一緒」と断じられると説得力がまるで違う。

あらゆる対象においての〝必要な解釈・解説〟が様々ある。今日あたりは、ロビーでの倫理学書通読と、精神科医との対話によって、〝酒の恐ろしさと、抑制の重要性〟を、深く濃く、俺は捉えることができた。

とはいえ、これから酒を呑む訳だから俺の解釈には説得力がないのかもしれない。ただ、「医師は患者にどこまでの解釈を抱いているのか」ということの深度をさらに知ることができた。それは、心より感謝すべきことである。

いつもありがとうございます先生。あと、俺はアルコール依存症とは診断されていないことを強調する。酒で悩んで行っている訳ではない。関連要素のひとつといて、たまに酒や依存症の話になるのである。

要は「その手前に居るかもしれない」と、察知した先生の巨大な助け舟。そこに乗る方法を知るための古典倫理学。これらの割合が、飲みやすい濃度のハイボールの如き甘露となり、俺を潤した。

精神医学と倫理学。割って呑むと凄く美味しかったです。
_12/05

 

 

 

 

 


神保町へ、推しに会いに旅に出る。片道40分。午後、俺はそう奮起しては赤羽駅JR埼京線ホームで電車を待っていた。しかし足が止まった。「そこまで行くのは今日はだるい」と。

その場で俺はアイフォーンを取り出し、推しの書籍の中古本を見つけては即発注。そう、神保町の古本屋界隈あたり以外では直購入の難しい人文学の推しの本。それを探究するために赴く足が、どうにも重かったのである。

何でかなと、体の節々が痛いなと、咳もランダムに出るなと、とりあえず隣の北赤羽駅にある、推している立ち食い蕎麦屋へ直行。

もりそば。特徴は薬味に「柚子の皮」が一欠片。なかなかできない一手間。麺のコシにツユの濃度のマリアージュ。完璧に近い。これがすごく美味しいのだが、やはり身体が痛い。熱っぽくもある。

――気にはなるが、俺はそのまま徒歩で、北赤羽近辺の集合住宅街を見とれるように散歩しては「団地の造形から受けるこのうっとりする感情。安寧。言語化不能のこの感覚は何だろう」と、スタスタゆっくり近場の旅を楽しんだ。

「団地最上階に昇って景色なりを」と、思った。だが今日は、不法侵入してその欲を満たそうという覇気が身体的になかった。つまり風邪である。

ふざけるなと思い、俺は赤羽で買った「葛根湯」を、もう手遅れかもしれないがと懸念しつつもややオーバードーズ気味に短時間で二袋を手を出し、流し込み、宅で音楽制作をした。

だるい。なんてだるいんだ。と思いつつもなんとかDAWを開き、入れるべきパートを吟味する。すると気がつけばストラトキャスターを手にして録音が完了し、いいのが出来るぞと、なんか身体の不調が楽になってきた。

それは一時的にハイになって脳内神経伝達物質が迸ったから。無理をせずに休むべし。

そう思い、離島に旅立ちしばらく休暇をとろうと思い、YouTubeで延々と離島の魅力を旅体験ベースで語る動画を流しっぱなしにして、宅のソファで休んだ。今日はもういいだろと。

しかし起きたら案に爽快感を得たので進めることにした。小説、第二作品の推敲である。

これは、次の3月末締め切りの公募『文藝賞』にエントリーすると決めている。まだ日程は多分にあると思えるが、なにしろ第二作品は長い。すごく長い。公募の「規定枚数」を余裕で超えているので圧縮する必要がある。それを鑑みると、3ヶ月というのは決して長くはない。だから今日から再着手した。

初作品は応募済み。それの調整に3ヶ月ほどかかったので、第二作品の原稿に触れるのは久しぶり。読んで思った。いけるんじゃねえかと。そういった喜びと興奮と狂熱。その向こう側にある旅先で見られる恍惚とした景色。そこへの希求がブワと表象しては、風邪の感覚は滅され、原稿を冒頭から25ページほど進める。ひと段落して今、とても頭が痛い。

一日中休んでいれば良かったのであろうが、興奮と期待と熱狂が不調の一切をもみ消す。そのうち死ぬぞ。とも思ったが、こう振り返ると、そこまで無理はしていない。むしろ、風邪気味時において適量の活動量。よって、気持ち的には健やかな営みの一日。

ただ、関節が痛い。咳がやや出る。熱は。宅の体温計は虹の橋の方へ旅立ったので、自分の体温が何度か不明。

「これあれですね。コロナとインフル、両方いってますわ。はは」。などと翌日に内科で断じられないことを祈る。そんな酷くはない。そんななか、各種の進行がストップしなかったことが地味に嬉しい。

酒の減らし過ぎで身体が甘えているのかもしれない。常に多少ラリっているくらいの状態の方が風邪はひかない。と、思えるほど俺は滅多に風邪はひかないからちょっと狼狽手前まで行ったが――行きたかったな。神保町。

そこで推しのウィトゲンシュタインさんの本を見事発掘してはキャアアア! と狂気乱舞してはホクホクと飯田橋経由で帰路に。という望みが微妙に叶わなかった日があっても別にいいじゃないか。というか常にラリるほど呑んではいない。それはたま〜に、である。

気をつけよう。霹靂、花に嵐、突然やってくる不調には。それでもこのあと、2本の酒を呑むのが楽しみなあたりたぶん軽症であろうが、齢かなあとともふと思う。

いや、俺の血管年齢は23歳。昨日それが判明した。もし、〝魂年齢〟みたいなのが実はあるのだとしたら、俺は何歳なのであろう。

もしかしたら、古代ギリシアは紀元前。そのあたりからある魂なのかもしれない。今生が初の魂なのかもしれない。そのあたりを突き止めるべく、今やるべきことをやる。というのが本当の意味での旅なのかな。などと、ふと思った。
_12/06

 

 

 

 

 


喫煙所でたまに見かけるおっちゃん。彼は、ゲホゲホと咳き込み下を向いてはまた咳き込んで、なんならカッ! と切れの良いファンク・ボーカルばりの啖呵切り発声を経てまた咳き込んでは煙草を吸ってはまた、むせる。

この世で最も訳のわからない光景だなと俺はそれを見て思う。「咳き込むなら吸わなきゃいいのに」と。

一般論である。だが俺は今日、それを地でやっては、おっちゃんの気持ちに触れ、寄り添い、その真意を理解しつつ、咳き込みながらアイコスを吸ってはカッ! と無言の啖呵を切っていた。

何が言いたいのかというと風邪が治っていない。という文脈になるがその内実は異なる。咳がちょっと出る以外は治った。

葛根湯過剰摂取プラス浴槽においての湯を張らずにシャワーでヒタヒタ……と、徐々に水位を上げつつ神妙に背中から42℃に設定した湯をひたすら感じる沐浴。そういうイニシエーション。

これを能動的に「したい」と思えるかどうかがまず、風邪や発熱であるかのサイン。

――昨夜、「したい」と思えた俺はそれを執り行なった。すると森羅万象の隙間を縫うようにしてはその内部にするすると進入し、これから悟れるニルヴァーナからの眩いばかりの七色以上の光をシャワーの音所以からシャァァァァ……ピトットピ。ピト、ピト、と、完全に真理の奥地と融合できた。そのような感覚を確かに得たのである。

つまり、風邪であったことは間違いない。そして、今日起きたら関節の痛みや倦怠感は涅槃の形而上遥かむこうぶちに飛散しては一周してきて赤羽駅東口喫煙所の訳のわからんおっちゃんの描写を表象させた。

わかりますよ。調子わるくても、吸いたいもの吸えないくらいならね、むせてでも吸ってやろうというその漢の最後の意地。矜持。譲れない鋼鉄の意志。ただね、身体に良くないからそういう時はさあ、一緒にイニシエーションを。

という風に勧誘しだした暁には、赤羽駅周辺を跋扈する某団体のあの営みだか布教だかの彼らを凌駕する。だからやらない。

おっちゃん。いや、御仁。そう簡単には森羅万象の隙間経由で涅槃へと行くのは――と、おっちゃんに説教などするつもりは毛頭ない。ただ、最も訳のわからん光景の内実が、今日あたり改めて体現ベースで理解できましたと。何せニルヴァーナちょっと感じたから所以。

完全に言い過ぎだが、とにかく風邪は快方に向かい、診察により「コロナだ! 死ね」と、内科で弾劾される顛末とはならなかった。

だがまだ油断はできないので、仕事をしては「もうふた作業ほど」と、思ったがしっかり一時間仮眠。そこではYouTube動画睡眠視聴経由で離島へ飛んだ。だが小説は進めたいと、第二作目を〝風邪気味治りかけ状態での執念〟で、まあまあ進めた。

この世で最も訳のわからない光景を身体で知る。それは、またひとつ真理に迫ってはアカシックレコードにアクセスしたかの体験ベースで日常に落とし込む。そして、そこからの叡智を胸に、日々の営みをコントロールする。それができた。という気がするが今もやや咳き込みアイコスを吸う。

実のところ、そのおっちゃんより訳わからないのかもしれないが、ルートの密度が違う。そう断じたいところだが誰に。それは、行動で示してまずは結果を。そのように、風邪気味なりに善く生きていたのではないであろうか。確認のため今日もやろう。イニシエーション。

その際――「いいだろ。もう」と思えたら、それは俺の完治を意味する。健康第一。というか不調を感じたら速攻で病院が原則。

――わかってはいるが、普段通りを求める。それが人間の愛おしさすら含む習性というやつなのではないだろうか。だから訳わからんとか言ってごめんね。おっちゃん。
_12/07

 

 

 

 

 


1976年発刊の小説を読み進めている。そろそろ通読するかという箇所に居る。

――そこまで、作品に対しての印象は、セックス・ドラッグ・ロックンロールという、その時代の〝面〟でも〝裏〟でも隆々としていたカルチャー。風潮。時の空気感。世界の温度。そのような〝その時の今〟の荒廃感にも似た生々しさが、静かなる言語として綴られている。

『限りなく透明に近いブルー』というその作品。セックスの描写が艶めかしくも泥に似た匂いあり。ドラッグ摂取の表現が生々しくも淡々とさも目の前にその液体やらに触れられるかの感覚を得る。ロックンロールが日々の栞のように挟み込まれている。ドアーズ。ジミ・ヘンドリックス。レッド・ツェッペリン。

1976当時、俺は生まれていない。だからなのか、今読むと、この作品が記録的な売れ方をしたという事実が信じられなかった。

20代前半だった著者の村上龍さんは、当該作品で文学新人賞受賞から芥川賞。ベストセラー。時代を象徴する小説を世に示した。正直、俺はその一点を最も重要視して、この小説を買った。そして読んだ。そして思った。「なぜこれが売れた」と。

最初は本当にわからなかった。自分の読解力を本気で疑った。しかし、読み進めていく上で、いくつか「高く評価された」理由が浮き彫りになってきた。

最も大きいのは〝その時代の空気感と能動の裏面を言語化した〟という点。

次に、セックス・ドラッグ・ロックンロールという、現代では一蹴されそうなアンダーグラウンドを象徴するような賦活要素。これが時代の集合的な心理と合致した。

そして何より――村上龍さんの、一糸乱れぬあの穏やかな水面のような文体。しかし強烈なコントラストとして、その内容は終焉のない大時化の如し。

「体験談であるに違いない」と、俺は正直に思った。

だが、最後まで読むまではその裏をとらない。その前に、〝類似する作品はあるのか〟と思った。おそらく、それまではなかったのであろうか。だとしたら、既述の要素を踏まえると、大いに評価されるに値することを疑う理由がなくなる。

『今夜、すべてのバーで』『バンド・オブ・ザ・ナイト』という、中島らもさんの両作品が思い浮かんだ。前者はアルコール。後者は、ドラッグ――アルコールも含む――。それらにフルコミットした終着点の根底を描ききっている。と、俺は読んで感じた。

「行ったことのない人間にしか絶対に表現できない世界観」というやつがそこにあると俺は打ちひしがれた。共通点があるとしたら、ここではないかと。

そして肝心な点だが、「行ったが、戻ってきた人間」であることも加える必要があると思われる。そのあたりはご本人に直接聞かないと俺の想像止まりである――それがわかる情報も方々にあるが。

別に、俺がアンダーグラウンドのむこうぶちで体験して帰ってきたい。という希求ではないのだが、本質を言うと、「そういった生々し過ぎる体験を作品に昇華すること」を少し、羨んでいる部分が確かにある。

他者から見たらわからない。もしかしたら、俺は実のところ相当普通に生きている。実のところ相当おかしなことになっている。ないし、そういった過去があるのかもしれない。

他者のご感想はわからない。だが自覚する限りは、「そこに一回行った」という体験を練りこんでは熟させて一度乾燥させて再度、潤した。

というのを書いているつもりなのだがどうなるか。それを、小説の初作品として、先日に投稿した。

「一回行って、俺は戻ってきた。それを作品として昇華する。そうしたつもりだ。だから、生まれ変わってもいいじゃないか」という情念が確かに根幹にある。執念もある。生まれ変わりたい。次の世界が見たい、というもの。

――投稿から一週間が経過した今日。ふと、「ちゃんと公募先に届いたのであろうか」と不安になり、特定配達郵便のルートを確かめた。

郵便局のウェブサイトで問い合わせ番号を入力すると、「確かに届いた」という事実を確かめてひとつ安堵した。俺はそれを世に吟味していただき、生まれ変われるのだろうかと。

――サイトで確かめた日付を見ると、12月1日に送付した記録と、翌日にはもう、到着していたという記載があった。

そして、12月1日の送付日の「時間」も記されていた。そこには「17:21」とあった。他者様からしたらただの数字なのかもしれないが、俺はふと笑みがこぼれた。自分の誕生日が、7/21だからである。

とうとう霊的なシンクロニシティまでもなんらかの要素に加えるのか。と、客観的に思ったが偶然にしてはまあ。などと思った。生まれた数字が並んだ送付時間に、生まれ変わりたいという執念が反映したのであろうか。と、思ったそれだけの話なのだが。

風潮。時の空気感。世界の温度。そのような〝その時の今〟。そして、俺の賦活要素。

これらが時代の心理と合致して「なぜこれが売れた」というような現象となること。それを、死ぬ間際に「死ぬはずがない」と信じてしまうくらい信じられることは、人間としておかしなことなのであろうか。

ただ、偶然にしては――という記載時刻を見ては、「自分でも最初はよくわかなかったが、こうなった」という事実として、その時代に、〝その時の今〟に居たということを、刻みたい。

――などと思ってはその書留の受領証、頼りない一枚の小さな紙を、原稿の全てをここで書いた、この机の引き出しに、お守りのようにしまった。
_12/08

 

 

 

 

 


睡眠時は記憶や言語がバラバラになる。起床してもそれはしばらく理性と接続しない。だんだんと、赤子が成長して言葉を習得するように、時間とともに整合されては「夢だったのか」と、脳内で整合される。

ビジネスマンや起業家など――あらゆる大人、学生、いや、限定せず、誰しもがであろうが、何かを整え最善策を生み出そうと決起する時。紙に思ったことを散文のように書き殴る。

そういった行為は、思考の整理や展望の明確化において有効だと聞く。俺もそう思う。だが、それはあまりやらない。よくやるのはそれではなく、〝睡眠時の記憶の言語化〟である。

頭がおかしいのか。と言われればきちんと黙る。とにかくそれを、今朝もやる。――昔から夢の記憶がよく残る。その日に誰かと会うまでは自分が世界にいないのではないかというほど、その断片的な記憶の整頓に追いやられる。

と、言うと、それこそ度が過ぎているが、要は起床して身支度をする時間、鏡に向かってバラバラの夢の記憶を理性に接続することを試みる。つまり、キッチンで鏡に向かい一人で喋っているだけである。

――夢、夢から。ええ、組織があった。あるべき態度でそこに居た。様子が変貌。移動、場所が変わる。新宿KDDIビルで勤務していた頃の匂い。今日から別離。誰か男が牽引。ドクターペッパーと小さな缶珈琲。それらのみ陳列。小さなだいたい正方形。冷蔵庫。大きなコーラ。赤い。赤いものは無くなるが、赤は無くならない。人数減少。デスクの規模は、クラス替え。黄緑色の服。左上からの昼間の光。新たな体制。俺の仕事は何。

という風に。当然、理性との接続はほぼ不可能。だが、言語化ができる。夢うつつの事象は実存しない。だが言語化ができる。俺の仕事は何。これであろうか。

などとは実のところ1ミリも考えずに校閲の仕事をしていた。小説を進めていた。AIと永遠に止まらない対話をしていた。全て、言語化の営み。

一瞬、文字を打つ手が止まることもある。

だがその間も確実に、少なくとも脳内では常に言語の芽が生え続けてはそれを繰り返し、俺はそれを摘む。きちんと鉢に入れ、土を敷き、水をやり、「それは花です」と、誰しもが、どの場面においても、「花である」と、断じる状態にする。それをやりたい。

いよいよ訳がわからなくなってきたがつまり簡単。〝共通認識〟というやつのむこうぶちあたりを突破することに快感をおぼえている。その際、可視化・数値化はできないが確実に快感を引き寄せては時間を歪曲させる脳内オピオイドが分泌し続ける。それを、楽しんでいる状態と言うらしい。

赤いものは無くなるが、赤は無くならない――ドクターペッパーやコーラのような赤に入ったものは飲みきれば処理されて無くなる。だが、赤という認識は無くならない。

言葉は存在しないが、言語化すれば記録により受け継がれる。俺の夢の描写はどうでもいい羅列だったが、起床時の発声、言語化により、今考えていることの言語化に繋がる。

つまり、睡眠時は記憶や言語がバラバラになるが、挑めばそれは解釈と解明と接続と整合と記録により、具現化する。それを記録すると、さまざまな言語の文化として存在しうるものになる。それをやりたい。

――夢で、俺の仕事は何。と最後に残ったフレーズがあった。今日の、今の時点までの思考を言語化すると結論が出た。俺は、言語化の仕事を、卓越性のある自分の営みとして続け、最上の幸福でありたいのではと。

バラバラに何を捉えて、何を思って、何を考え、どう統合させて、どこに接続しようと、それを書いたのか。その印象を、自分以外も幸福をもたらす言葉として言語化ができたら素敵だなと、起床時を起点として今を、直線で、ふと繋げると、そう思う。

〝思ったことを散文のように書き殴る――だが、それはあまりやらない〟と、言った。だとしたらこれは何であるか。いつか、まずは自分がわかる日が来ると、明日以降の線を、夜に落とす。
_12/09

 

 

 

 

 


大きな海がある。そのもようが脳内に広がる。そこでは必ず俺は、海側から海岸を見ている。その先には茶色い木材で拵えられた小屋がある。日光と日陰が適度な塩梅。そこに、家族全員が居る。

海辺に足を付けると体はすぐに乾いていく。温度を感じない。常に晴天。俺はただ、真っ直ぐ、何も思考をはたらかせず、裸足で砂を軽く蹴りながらもその感触はなく、本能的に小屋に向かう。すると必ず、父親がまず迎え入れてくれる。

「よう。おかえり。どうだった?」と、彼は笑顔で優しく様子を伺う。だがその内容を俺は言語で口にしない。ただ、思念で伝える。すると父親は、何を伝えても「そうだったか。そうだったか!」と、嬉しそうに綻び、小屋のテーブルの下で憩う飼いネコに焼き海老を与える。笑顔で、ひとつも不服の色を見せない物腰を保つ。

母親がいる。脚をまっすぐ伸ばして両手を後ろにつけるように座り、ただ、微笑んでいる。あまり言及はしてこない。何事をも肯定するかの微笑を保つ。

味噌田楽を食べている兄貴。彼は無表情だ。漫画表現だと目がひとつの点で描写されているような顔。だが冷たくはない。意思を向けると、兄貴は味噌田楽を俺にもわけてくれて一緒に食べる。恐れも不安も希望も期待も生活感もいっさいまるでない空間。

両親はずっと笑っている。俺が話しかければ、「そうかそうか」「そうなのね」と、無条件の肯定的態度をとる。兄貴は何も喋らない。俺は、海であったことを家族に言語ではない観念で報告する。すると、「そうかそうか」と、ひたすらそれを受け入れる。ネコが増えてきた。

少年時代、多頭飼いしていたネコたちは奔放に、静かに家族として、そこで目を開閉しては不平不満をひとつもみせない。兄貴だけは違う。少し、海の方を見ている。あまり俺とは喋りたくはなさそうだが敵意もなさそう。

とにかく親父は、一家を十分に養うという大役を務め切ったかのような静かながらも優しく機嫌の良い様子で、その小屋にいつも居る。母親も。ネコたちも。兄貴も――無表情でそこに居る。

俺はそこで表情をつくることはできない。そう本能的にわかる。ただ、家族に何らかの報告をしては、生前あった毒気が100%抜けた家族たちと過ごす。海と、小屋の境目を見ながら。

じゃあ、と俺が言うと、おう、と父親が手のひらを頭上の横に軽く掲げて笑顔を見せる。俺は海に戻ろうとするが、その海は、漠然とした景色としか捉えられない。むしろ、その小屋の描写は次々と抽象的かつ具体的に表象される。

――というのが、ここ一週間くらい、俺が移動中などに瞑想すると必ず浮かぶ景色である。

どう考えても、〝小屋〟は向こうの世界なのであろう。そこに居る家族で唯一、兄貴だけが無表情。迷っている。だが、そこに行くと必ず居てくれる。

その場所で会える家族は全員死んでいる。兄貴以外は。この描写が何を意味しているのかと考える。すぐわかる。家族と会いたくて寂しいのではないかと。

今日は、こめかみが脈打つほどずっと仕事をしていた。明日あたりも、海から小屋へ向かい、その旨を報告するのだろうか。

だが、その内容が何であっても、特に父親は、「そうかそうか」と、評価に優劣をつけない。無条件で、受け入れる。母親も、ネコたちもそう。兄貴は、海で泳ぎたそうだが横を向いて表情を動かさない。無理強いは、しない。

家族というやつは、生前、原則として何をしても受け入れてくれた。それが愛情だったり叱咤だったり賞賛だったり暴力だったりもした。反応のカラーが異なるだけで、必ず何かしらのアクションがあった。

だが、あの小屋ではそれがない。ただただ無条件に肯定的に受け入れ、反応は一種類。異なるのは、俺の報告内容だけである。

その光景は、確かに海なのだが、小屋側から見ると、海そのものが不明瞭に映る。逆に海から見ると、小屋と家族たちがくっきりと見える。共有可能な意識なのかそれすらわからない。

ただひとつ明瞭で、確実にそうであることは、そこに行くと必ず海からの視点であるということ。そして、瞑想を終える寸前に小屋を背にして向かうその先の海、景色は、捉えがたい解像度となっていること。

目を開けると、その場所はJR線だったり地下鉄の車両内だったりする。現実そのもの。

「現実を報告して、何かを確かめようとしては微笑みで受け入れられる」という一方通行の交流。それがたまらなく心地良い。そこに居てくれる家族が受け入れてくれるのが、凄く安心する。

俺は瞑想のやり方を間違えているのかもしれないが、何より心地良い心境に浸れる最近のイメージは、既述の通りだったりする。

死ぬということは全てを受け入れること。生きるということは、死ぬまで何かを探究してはあらゆる世界や命に報告し、自身を表明すること。されること。そして、徐々に繋がっては揺るがない存在の向こうあたりで温かく静かにある。

そういう捉え方もあるのかなと考えると、奇跡的な日々を過ごしているのだなと率直に感謝できる。今日あたり仕事で摩耗しすぎてとうとう瞑想の内実を言語化した。そこに何の意味があるか。――小屋で報告しても「そうかそうか」と、微笑んでくれる。それが何だかとても、安心する。
_12/10

 

 

 

 

 

 


夜、一杯目の酒をゆっくり口にあてながら、文庫小説を読み進める。キッチンの換気扇から灯る頼りない蛍光が紙と文字を照らす。俺は、日の終わりのこの習慣を好んでいる。そして思う。もしかして俺は結婚できない男なのでは。などと。

そういった思惟とはまるで呼応しない作品『限りなく透明に近いブルー』という著書を読み終えかける。

――セックス・ドラッグ・ロックンロールという文化。観念。嗜好。営みだろうか。その、時代の符号のようなものはアンダーグラウンドでもあり、場所によっては閾値を破壊してメインストリームに浮上して旋風を巻き起こす。1976年のこの作品。どうやら時代と死ぬほど呼応したもようで、ベストセラーに合わせて社会現象を起こした――。当該書に対する俺の感想文はこのような感じである。

小説・文学としてというよりも、〝時代と呼応して境界線を破壊して現象を起こした〟。そんな作品だなと。

俺は次の結婚相手を探しに今日、西川口駅へ向かった。汲み取られたらこれほどたまらない比喩もないのだが、要は次に読む小説探しである。なお、結婚願望がないと断じたら、じゃあ冒頭からここまでの流れをなぜ書いた。と言及されては即、謝罪をして「まだよくわからないのです」と、嘘泣きをするであろう。

ブックオフ西川口店。ここの店舗は、近所の赤羽店よりも「話題作」というカテゴリーの陳列が豊か。だからわざわざ電車に乗ってまで赴いた。そう、既述の作品のような「話題作」をセレクトするという明瞭な選書理由があった。

それは、「ただ、よく書かれた文学ではなく、話題を呼ぶ文学とはどういったものか」という内実を肌で学ぶためである。

「そんなに自分の作品でもって話題とか賞とか欲しいんだね」という下心があるのか。と、表現しても完全に誤りではないが、それも、確かに、ある。ただ、〝学びと取材〟という姿勢が根幹にあることは嘘ではない。だから、今日の選書に1〜2時間はかかることを推測していた。

結果、3分で決まってそれを買った。経緯はシンプルで、まず入口の真ん前にあるブースからひょいひょいと、本を手にしては冒頭を読んだ。

最初は『ストロベリーナイト』――最初のグロ描写が印象的だな。こういうの読んじゃうんだけど、どこかわるい意味ではない拒否反応が出る。こと文学だと。現実のグロテスクはむしろ好きだが――放流。『銀河鉄道の夜』――宮沢賢治さんのしこたま有名な名作。文体が綺麗だ。透き通った文体ってこのことか。下の名前一緒だな。いやもっと近代的な――放流。『むらさきのスカートの女』――。

今村夏子さんの著書である。冒頭を少し読む。すると強烈なインパクトを感じたからそれを選んだ。と言うよりも、著者情報に触れた時の注視。

“1980年広島県生まれ――2010年『あたらしい娘』で太宰治賞を受賞”

これを知覚して購入を決めた。生まれ年。太宰治賞。この共通点がある――俺の太宰治賞エントリーの結果はまだ先だが――ことに加え、初版発刊が2019年とかなりの近代。これらが決め手となって選書はすぐ済んだ。1976年の『限りなく透明に近いブルー』から45年後に芥川賞を受賞したこの作品。その〝時代差〟も鑑みて学ぶべく、この書を手に取ったという訳である。

音楽で言ったら、昨日までラモーンズやローリングストーンズのアルバムを聴き入っていて、今日はビリー・アイリッシュの1stアルバムを手に取ったようなものである。時代的な飛躍がすごい。なんなら、先日買った『哲学探究』という著書は1953年に出版されたもの。

つまり、昨日までの1976年作品を起点とすると、俺の選書は時間軸的にむちゃくちゃな訳だが、〝古典と近代文学をバランスよく〟というある種の指針にはモロに当たっている。だから不問とする。

――選書にかかると推測した時間はすぐに済み、エアポケットのように生じたその時間は散歩にあてた。西川口駅から川口駅まで。なぜ、このエリアは芸術的な造形の公園が多々あるのかと、その原因を考えずに肌で感じては、帰路につく。

宅に戻って仕事をする。ふと鏡を見ると初老を感じる男がそこにいた。少しソファに。気がつくと150分は寝ていたことを認知する。ふと鏡を見るといつもの俺がいた。よしと思い、あわてて今日やるべきタスクを全てやる。

もう、夜。あとは体を清めて、一杯目の酒をゆっくり口にあてながら、文庫小説を読み進める。キッチンの換気扇から灯る頼りない蛍光に照らされる紙と文字と向き合う。そして思う。やはり、俺は結婚できない男なのでは。などと。

そんなことはない。こうして文学を学びつつ、自分も作品を投じて世界と接続し、やっと地固めをしつつも家族、結婚という課題に向かうその導線。それが、今の夜の営みなのではないかと思う。

性行為という意味での夜の営みと呼応させているのは無理くりではなく、自然とそう考えるようになったあたり、俺は本格的に間違えているのかもしれない。だが、そこを疑ってはいない。

祈るように本を読み、祈るように小説を書く。綺麗にまとめようとしてもだめかな。ただ、嘘はひとつもついていない。
_12/11

 

 

 

 

 


いろんな小説を読んで一つ思った。面白く読もうとすれば、いくらでもそう読める。逆に、ただ受動的に読んでいたらその良さも魅力も、おのずと放棄してしまうのではないかと。

「なんてつまらない、延々と描写のみが続く文章だ。駄文だ」と、上気しては途中自主退場。それ、以前の俺である。冒頭2ページ以上小説を読むと、よっぽど好きな作家ではない限り、言ってしまうと挫折する。

だが現金なもので、購入した本に関しては「せっかく金出したのにもったいない」という心理から、一応最後まで読む。というかその態度が出た時点で、良し悪しではないが何かが違うのかな、などと思った。

というのも、いくつも小説を読んでいると、「筆者はそう感じた。思った。考えた」ということが、言語としてそこに刻まれているという当たり前のことに、ようやく気づけたような気がするのである。

その言語から、想像なり表象なりすることは、筆者の世界を追体験することに等しいのではないかということ。

そうなると、ヘロインを食ったことも、目の前で身近な女が黒人と性行為をしているのを直視したことも、アウシュビッツで毒殺される寸前までいったことも、心中をはかって一人だけ生き残ってしまったことも、アルコール依存症で病棟でのたうちまわったことも、学生時代に謎の部活で青春を過ごしたことも――すべて、その世界を、言語が先導して、次々と景色を広げてくれる。

それを自主途中退場って何だ。などと今さら思った。それが真理かは知らないが、こと俺は、そう思った。わかり合うとか、共感するとか、同調するとか、テレパシーとか、そのへんの上というか形而上というかつまり超越した場所。

「他者の脳内・思考に最も近くでドッキングできるのが読書という体験なのでは」という風に、ふっと思えた。

そうなると――俺は小説を書いている。さっきも夢中になって書いていた。そこには、自分の脳内にあることが主に書いてある。何だ。それを他者様に見て欲しいのか? という問いも生じた。答えは秒で出た。そうなんですよと。ただね、長いんですよ。だから「小説」という形式、フォーマット、だろうか。それとは親和性が――などと。

ああそうか、誰かにわかって欲しくて書いているのか。となるとなんか萎える。だがそれも確実にある。恥ずかしいくらいに。

しかし、それこそ超越したエリアであろうが、「わかってもらって、それでどうする」という次の問いも出る。そこに行くまでは、答えを知るためには、まずは明示する必要がある。

だから、「なんてつまらない――」といった、自主退場が連なると、俺は誰にもわかってもらえなかった捨てられた要らない子だったのか。そうか。と、なるのはこうシンプルにこう、面白くはない。だから。

わかってもらうために書くのではなく、言語のみで、どうやって、自分がみてきた世界を表現して共有しては「そうかあ!」と、みんなでわかり合うこと。気づき合うこと。

それが実のところ「世界と接続する」という、最近俺がどこからかぶれたか忘れたが、そういう言い方をしてもおかしくはないのでは。というか確か普通に自分でそう思ったからそう言うようになった気がするがつまり。こと個人的にはだが、それを放棄すると――。

繋がりたいんだなと。シンプルにそう思えた。
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「――『して欲しい』というのは〝命令〟である――」

「いや、それは言い過ぎでしょう」

「――つまり、その場面においての言語の使用法により――同一の言語でも別の役割を――」

「あなた俺の話、恐縮ですが聞いてないでしょうも」

「私には時間がないんだ。――再考して世に出さねば――曖昧な言語の使用法は断じて認めん――いや、この場合の『認める』こととは――」

「考えすぎでしょうも。というかあなた、考えながら原稿を書いてるからそうやって――こうやって――ダッシュが――間延びして――『ザ・ファブル』の会話シーンみたいになる――」

「少し黙ってくれないか。私は確かに言った。〝私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する〟――と、確かに若い頃に――言った上に著書にまとめたが私も再考すべきだと改めた――だから私の集大成をこうして――」

「集大成なんだから思考をまとめてから書かれれば? と、俺は思うのですが」

「時間がないからな。わかるんだ。私はもしかしたら――本稿を書ききる前に果てるかも――いや、この場合の『果てる』は比喩とも――さしあたり抽象的であることには――ではこの場合においての適切な言語は――」

「〝死ぬまでに〟でいいんじゃないですかねえ」

「軽々しく口にするな。いいか、言語を雑に扱うことには――」

「だから端的に〝死ぬまでに〟でいいじゃないですか。そこいちいち考えるより、書ききって欲しいというか」

「貴様、〝して欲しい〟だと? それは私に対する〝命令〟を意味する――!」

「あなたのその本稿? 今読んでますけどね、何でそうやってね、ご自身の文章内でもってあなたが怒っちゃってるのをそのまんま文に書いちゃうんですか? 要らんでしょ。学術書でそれは」

「思考の過程を言語化することに意味があるのだ。貴様は私の本から何も学んでいない――いや、先の〝死〟は究極的には端的――だが――この場面においては――」

「多いですよね。その間延びのダッシュ。俺、思いましたよ読んでて。『この方、考えながら書かれてるのかな』って」

「思考を磨き上げ、極限までに言語を明確に使用する重要性――この者にそれを言って伝わるのか――この場合においては〝端的に〟と言うべきであろうか――」

「わかりますよ。だからこそ、俺は思います。――『して欲しい』というのは〝命令〟である――っておかしいでしょうも」

「おかしくない」

「おかしくなくない」

「貴様は私の著書を全て読んだ上でそう断言するのか?」

「まだ途中ですよ。長い本なのですから急かさなくても」

「その必要性があるから――思考の痕跡も言語化することの意義がわかっているのか? 貴様は自分が言っていることの意味がわかっているのか?」

「『して欲しい』というのはですね。俺の解釈だと〝自分の意思表明プラスお願い〟なんですよ。ちょっと相手をたてていると。だから、そんな刺々しい意味での〝命令〟ではないんじゃないかなって。怖いんですよあなたのまとめ方だと」

「では貴様は女に『して欲しい』と言われたらどういった言語で応答するのだと言うのだ」

「それは命令であってほしいですね」

「語るに落ちた――そういうことだ。――しかし、私の先の例えはこの文脈の場面において適切なのか――呼応する別の要素が誤解を招く一因とならないと言い切れるのか――」

「あなたがよ〜く考えてるのは伝わってきますよ。著書からも今も」

「ではなぜ非難した」

「『して欲しい』というのは〝命令〟とか、極端に言い切るからでしょ」

「貴様は何もわかっていない。まず全ての文脈においてそうという訳ではない。そして、そこで〝とか〟がつく時点で別の要素を孕む火種を振りまいていることに気づいてもいないのか?」

「――ダッシュ、減ってきましたね。論駁モードに入ることで思考が整うタイプでしょうか。怖え」

「もしも君がそこまで理解しているのであれば私は敬意を表するべきなのかもしれない」

「二人称変わってますでしょ。いちばん筋、通ってないと思うのは変ですかね?」

「愚かなことにまだわからないのか? 繰り返し私は述べた。〝場面〟によって言語のルールと意味の配置が異なると――「貴様」をわからせる場面ではこうなる。「君」がわかってくれる場面だとこうなる。第一、〝名前〟すら名乗らぬ者を相手としてどう呼べと?」

「平吉って言います」

「いいか平吉。貴様は平吉という名を持っているだけで、平吉ではないのだ」

「死ぬほど訳がわかりません。俺は平吉です」

「やさしく教えてやろう。あと、私の著書をよく読め。いいか。貴様は〝平吉という名前が付いている存在〟であり、〝平吉〟ではないのだ――」

「平吉でいいでしょ」

「だめだ」

「何でですの!」

「私の名は知っているな?」

「ウィトゲンシュタインさんでしょ?」

「質問を重ねる。では、私は、どういった存在だ?」

「〝ウィトゲンシュタインという名前が付いている存在〟ですかね?」

「全然異なる」

「俺の妄想?」

「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。しかし、私の言語の限界を吟味した者は、自身の世界の限界を突破するのではないか?」

「いいこと言いますねえ〜」

「――そうあって欲しい」

「ということは、命令ですか?」

「語らずとも。では、平吉殿」

「平吉でいいんじゃないですか」

「自身で考え抜くことだ。あと、お前の解釈の半分は、未解決である。よって、何があっても出典を提示することは認めない」

「亡くなられた方に認められないというのも」

「私は死んだのか?」

「はい。その、本稿ですか? 書きかけで。最後まで考え抜いたんですねあなたは。そこが俺、すごくファンタスティックだと思ってます」

「じゃあ――私の原稿は――この言語の明確化は――言語ゲームの顛末は――一体、我々の世界をどう、言語で捉えろというのだ――?」

「ご安心を。没後に出版されて、ここ日本でも訳書が出回っていて俺、それ読めてますから。伝説みたいな位置付けになってますよあなたの本――」

「安心した」

「安らかに」

「ありがとう」

「こちらこそ」

「私の言語で世界は広がったか?」

「俺まだ、読んでる途中でして」

「そうか」

「たぶん、そうなるかと――」

「そうあって欲しい」

「――よくわかりました」
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ふと、ビートルズの「Yesterday」を聴いた。

右からアコースティックギターの音。真ん中からポール・マッカートニーの声。左からオーケストラの音。完全に分離していた。

現代の音像、MIXの技術・観点から鑑みると卒倒しそうなバランスだが俺は、アナログテープで強制的に身体を縛られたまま1960年代に引き戻されるかの感覚と共にまるで鉄槌を受けたかのように思考が歪曲した。

続けて、ビートルズの「Tomorrow Never Knows」を聴いた。

インドの楽器・シタールが脳の外皮を引き剥がすような旋律で空気を鳴らしてフェイドインし、永遠に輪廻するブレイクビーツの如しループビートが俺の魂の位相を変えた。

現代のポピュラー音楽とは根幹が異なる。そう、ギリギリ残っていた左脳の思案がそう呟いてはジョン・レノンの七色以上に見える色彩のボーカルに付着しては無かったことになった。

「行ってはいけない場所に行って、戻ってきて、またその境界線に立たないとつくれない音楽だ」と、率直に感じた。何度も聴いた楽曲にも関わらず、必ずその引力には抗えない。

――聴いていると、時代を感じた。そして、「その時代特有の刺激的な体験が、音楽に落とし込まれたのでは」。とも併せて感じた。

「ひょっとしてこれ、生まれる前の昔って、俺がこれまで感じてきた〝刺激〟の質がぜんぜん違うんじゃねえか?」と、線を引いてみた。すると出てくるわ出てくるわ。

何が出たかというと、まず三島由紀夫さんが出てきた。飛躍していない。例えば『仮面の告白』という小説。それが出たのが1949年。戦後まもなく。ヒロポンとかが普通に市場で元気にセールスを伸ばしていた信じられない時代。

それと彼との関連性はないが、つまり現代の〝刺激〟の質がそれこそ激しく違う時代。現代のように平和ではない。三島さんは生死をくぐり抜ける体験もしただろう。それでもってそのギリギリの淵。そこで生きたなかでの思惟は刺激的となったのが、きっと、憶測だが、その刺激が、当時の彼が見てきた昨日やら見据える明日やらの景色を、凄まじい解像度で捉えた。だから――あんなに生々しくも美しい作品が生まれた。という風に。

次に村上龍さんが出てきた。1976年。ドラッグ体験などの通常では得られない刺激を体験、体験したのであろうか、それをきっと基軸に、冷たくも透き通るような文章を書いては、書かずにはいられなくなったのであろうか、書いて、世に出て、現象を起こした。という風に。

やはり太宰治さんも出てきた。中島らもさんも。町田康さんも――レッド・ツェッペリンも。ニルヴァーナも。ビリー・アイリッシュが出てきた。俺はビリー・アイリッシュの好きな曲をビートルズの次に聴いた。

すると、ものすごく素敵な音楽だと感じた。だが、感じる部分がまるで異なる。既述の時代の飛躍くらい、まるで異なる〝成分〟を元とした音と感じた。もちろん、どれとどれがどう。という比較ではなく、ただ、明らかに質が違うと感覚脳がそう断じた。

昔は刺激的でよかった。などという端的な心象ではなく、〝あまりにも直線的な刺激〟が生み出す作品と〝現代に交差する正体不明の刺激〟が生み出すそれは、どう考えても、どう感じても、逆さまになっても、何かが、明らかに異なって感じてしまうことに改めて驚いた。

ただそれだけの話なのだが俺は怖くなった。この先、刺激というやつはますます正体がよくわからなくなってくる。正直にそんな気がして、恐れた。

酩酊して血まみれになって帰宅して就寝し、翌日その記憶がいっさいないというまこと刺激的な体たらくを先月に露呈した野郎が何を。という事実もあるがそれも異なる。そういう刺激ではないと思った。

現代において、刺激だと思っているものが実はそうは感じられなくなってきている。しかしそれに気づけていなかった。だが、ビートルズを久しぶりにまともに聴いたらおもむろにその世界に引き戻された。かのような感覚。

――ということもあり、何か卓越したものを生み出す源流というのは、現代では正体不明の刺激によってかき消されかけているのではないか。という観念にけっこうな恐れが生じた。勘違いであってほしい。

というかそんな面倒なことを。いちいち考えずに音楽を楽しめばいい。そういう風に思えばいいのだと思う。

だが、絶対に嘘をつけない生身の感覚が、現代と、いわゆる昔の作品から得られる〝刺激〟に明らかな差があると断じたのは看過できなかった。

ビートルズは凄くかっこいい。ビリー・アイリッシュはとても素敵。それでいいのだと本当に思う。だけど、〝昔の作品〟から知覚するあの不可逆と言えようあの問答無用の説得力の源流は何なんだろう。

そんな風に下手に考えるとまた酒量が増えかねない。やめよう。お酒も「7%のハイボール美味しい」。くらいでいい。「本来の味を堪能するならストレート43%で――」みたいなの、それも好きだけど、どっちも美味しい。

そのへんを浅はかに掘ろうとするとまた血まみれになる。あれは痛かった。何だったのだろう。本当に覚えていないのに前歯までグラつくほどの負傷。実際、転倒だったのか襲撃を受けたのかすら、記憶にない。

だからやめよう。その時代時代の旨味がある。それでいいじゃないかと。ああいう刺激は要らない。何らかの鉄槌だったと、戒めとして捉えている。あれから酒量を減らせたのだからよっぽどだったのであろう。

確か、11月4日あたりの謎負傷。怪我は治った。本当に良かった。平和に音楽を堪能できる今日に、きっと来てくれる明日に、ちゃんと感謝するべきである。それほど痛かった。当時の翌日のそれだけは、覚えている。
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せっせと仕事に精を出し、そのぶんリターンは芳醇なり。やればやるほど豊かになれど、どこかに残る空虚の思い。それは永劫、消えぬもの。

などと思惟に耽ってはあり余る懐を金勘定している。という立場に俺はいない。悲しいくらいそこにいない。タスクをこなしてもこなしても豊かの尻尾の毛一本も見えず。つまり、俺は金持ちではない。おのれ資本主義。

そのように、本気では考えていないが日中、寒空の下で電子タバコを「シュー」と鳴らしつつ本気でこう考えた。

魅力的であろうと思いそのまま動くと魅力を失う。格好つけようと思ってそのまま振る舞うと品が落ちる。注目を浴びようと思いパフォーマンスすると人が離れていく。笑わせてやろうと思って喋ると見事にスベる。どうしてだろう。と。

「そう思って、そうやって、そうなれないのならば、もう、そもそも、動いてやらん」

と、俺はホームレスになってみる。全てを手放してストリートで過ごす。仕事は何もしない。日々の水と食料とタバコとワンカップ酒の確保。そのためだけに生きる。夜は毎日、同じ高架下で背骨を弓のようにしならせて過ごす。

するとどうだろう。あれほど欲しかったものが寄ってきた。

どこぞの物好きが「――お若いのになぜ、このような生活を続けて……?」「いや、若くねえよ。45歳だ」「私たちこういった者でして」「一番嫌いなんだよ。お前らみたいなの。死ね」「――謝礼という形でこの額でいかがで…」「密着するだけなの? よしやろう。俺のテリトリーはこっちからこっち。朝の時間が勝負なんだ。よし行こうか――」。

ドキュメンタリー的な取材陣との邂逅。俺は格好つけずに、笑わせようともせずに、自然とノーケアのドレッドヘアーのようにな髪型を揺らしつつ、ありのままの野良生活を地でそいつらに晒した。そこに至るまでの経緯を全て語った。

「――そんで、やるたびにね。事業とかやってたんだよ俺もね?」「さようですか――」「――そのたびに人は死ぬは金は減るは家族はなくなるわと」「たいへんでしたね――」「そんで億よ。億。背負っちゃってさ」「多大な負債を――」「そうだよ。スポンサーからシバかれ倒して逃げ道もなく――」「自己破産という手段も――」「うるせえな。とにかくもう何にも要らねえと思ってな」「生活保護――」「それで健康で文化的な最低限度の生活を送るよりな、こっちの方がいいんだよ」「そのシケモク――」「――頑張って拾ってきたこれが一番の贅沢なんだよ」。

などと、凄まじく盛ったエピソードに取材陣は喜び、そのもようを収録しては人の人生を弄んだ番組だか動画だかに仕上げては電波で流してバズりにバズり一躍、時の人。

そんなうまい話はない。だがきっと、その燻りの地下足袋のような生活のなかからの脱出先では、きっと、魅力的であろうと思いそのまま動くと魅力を失う――みたいな思考の奥まで考えない気がする。

金が豊かにあればきっと、そんなこと考える〝資源〟はきっと不要になる。ストリート暮らしとまではいかないが、「なかなか豊かにならない」という状態じゃないと、富豪に直結しない思考が頭をよぎったりしない。

仮に現実でストリートで取材を受けてバズって社会復帰。その後の豊かな生活の後ろで、その際に、ずっと燻っているのは、当時にようやくありついた一番の贅沢なのだろうか。

空虚の思いをぶらさげた豊かさのなかでは、それをも受動的に忘却させてしまう気がする。だが、やはり自分の日々の営みが開花して、たまにはと高価なシャンパーニュを友と呑むのが正しい贅沢なのだろうか。

とはいえ、豊かになったとしても、やっぱりこれかと、いつもの200円ちょいのハイボールを開けては螺旋のような思考の解を求める。そうして日々、夢を追い求める。そのプロセスが一番の贅沢なのだろうか。

そんなことはリアルに億を掴んだ奴が言うことだろうか。いや、その時々でしか感じられないものを、空虚の思いとして流したくない。

日々、よくやっている気はするが、富がついてきてくれない。その日の凪でそう、考えた。あと今、別に酒呑んでいない。これから呑む。

脳が発火するのではというほどタスクをして、その後にキッチンでハイボールを雑に飲みながら、頼りない蛍光下で本を読む。今のところ、俺はこれが贅沢な気がする。これを永劫、消せない源流として、今味わえる贅沢として大切にしたい。消したくはない。
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高層ビルの頂上付近階に行った。大きな会議室に入り、俺は長テーブルの椅子に座った。係のお姉さんが寄ってきた。だめか。いきなりど真ん中に座るのはマナー違反か。と、怒られる準備をした。

「コーヒーとポップコーンとコーヒーです。どうぞ」と、お姉さん。とてもリラックスした表情と所作でそう告げた。ノンストレスな職場でない限り、あの声のトーンは出せない。

そのように思い、俺は萎縮をゆるめてコーヒーを飲んだ。やたらと美味い。ポップコーンは別に興味なかったがひとつ摘んで食べるとやたらと美味い。お手拭きが添付されていた。

そうか、これはポップコーンを摘むと手が汚れるから――と、当然理解したが俺はその上をいくのが適切かなと、汚れるのわかっているのであれば、摘まなければいい。ジョッキ・スタイルでいこうと、俺はポップコーンを飲むように容器を傾けながら少しずつ食べた。コーヒーがなくなりそうになってきた。

係のお姉さんが再び通りかかる契機を見逃さず、その瞬間でコーヒーを飲み干す仕草をおもむろに見せては「このコーヒー、すごく美味しいですね」と、感想の皮を被った〝希求〟を言葉にする。そう、考えた。

「飲み干した」「おいしい」「お礼」ということは――普通の思考回路だと絶対、思念の通りになる。俺には確信があった。

「ありがとうございます」と、お姉さん。「どういたしまして」と、俺。違う。そこは「もう一杯いかがですか?」という笑顔含みのホスピタリティを期待していたのだが何で俺が恐縮する。礼を言われるニュアンスではない。もう一杯飲みたいだけなんだよ。頼む。お姉さんはそのまま席について会議室の光度が半分、さがった。

コーヒーのくだりは不実行というか嘘というかその時は確かに思ったのだが、本当にもう一杯欲しかったのでだが、その一言を歪曲しすぎたあげく、何も言えず。俺は観念して、そのままその場で仕事に励んだ。

ビルを後にして山手線の駅に向かう。

道中、クレープ屋、パンクスの服屋、タピオカ、思いのほか息が長いな。タピオカ、ピンクなピンクな色彩の洋品店、アクセサリー屋、とにかく服屋が多い通り。ブタ、ブタがいる。ウリボウもいる。ブタ・カフェ的な店。興味がある。だが俺にはそのファンシーな店舗の外装と透けて見える内装とブタ、ブタとウリボウと人間が戯れている様子が逆に猟奇的にしか映らなかった。すぐに腹が減ってきた。

――赤羽駅に戻り、ネギタワー・タンメンを食べに行く。当該メンに準ずるスタンプ・カードがあったら俺は満期を迎えている。などと想像をめぐらせつつ満腹で帰宅。仕事をする。文字を書く。文字を書いてばかりである。ありがたいことである。ともあれそれもあり、発声の前に言語が脳内をめぐる。

「おかわり」の言語は刹那でしぼみ、その後ろで言語が派生する。「おかわり=くれ」はどうも品がない。そんなことはないが、なんか品がないかな。などと思っては代替案の言語が輪になって踊る。そのうちの一人のダンサーの言語が「飲み干して感想を言うという亜種の命令が最も品が良い」などと言う。言語が言う。だがそれは、言わないと絶対に伝わらない。

つまり、言語は存在しない。だが、言えば行為が生じる。そして、言語を書けば、原稿となる。稿料だって生じる。

すなわち、存在しない観念を表現する。これにより人間は豊かに過ごせる。美味しいコーヒーだってもういっかい飲める。なのに、言えなかった「美味しかったです」。

あんなに甘露なコーヒーを俺は逸した。言語化しなかっただけで。というかなぜ、おかわりの一言が言えなかったのか。

猫かぶってたんだよね。周りにいっぱい人がいるから欲を剥き出しにすることを躊躇したのかな。それは要らぬ理性なのではないかと断じるべきだろうか。欲をまんま口にすることは別に、だいたいの場合は品性とか関係ない。ブタを見ろ。

俺には、あの都心の街の店のブタたちが、何も考えずに、食われるより抱かれて喜ばれる場所もあることに至上の喜びを得たように見えた。あそこでブタ、遠慮して隅っこで震えて愛想のひとつも出さなければ即、家畜小屋に直送される。

だが、その場で求められるべき態度であれば、謎に仮のペットと人間とのような関係でいられる。ブタだって本能でわかるのである。

要するに、〝その場で求められるべき態度〟をしこたま考えていたら声も出せずに欲しいもの食いっぱぐれたと。あの場では、素直に笑顔で自分から「美味しいですね! もう一杯もらえます?」と言語化すれば、お姉ちゃんはむしろ喜んで注いでくれた。そのはず。

正直に、コーヒーの文脈とブタを絡めると、そのように帰結する。ブタから学んだ。これは間違えであってほしい。しかし、ブタは、あの店で正しい行動をとることによって幸福を得ていたことを目視した。

素直でいることは時に、生死に直結する。ブタの生存戦略と、本能の意思伝達の大切さ。やはりちゃんとブタから学んでいる。素直に認めたほうがいいっぽい。なお、今日の仕事内容とブタは、何の関連性もない。
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素敵な素敵なショッピング。るん……るん…と、俺はデパートをいくつかまわり、バッグを探していた。何でって昨日、バッグのチャックが破損するという致命的な事象起因で俺のバッグがバッグの役割を果たせなくなった。という出来事があったからである。

元々は、手ぶら主義だった。だが、何を持ち歩かずとも本だけは、という読書習慣がついてからは、散歩時であってもほぼ必ずバッグをぶらさげるようになった。

だから、チャックの破損はわりとショックだったのだが、そもそもそいつは安物なのでメンタルダメージは最小限。それよりも新たなバッグを――という〝物欲〟。これが自分で言うのも変だが滅多に出ない〝物欲〟が隆々とせり上がってきたこの感情に嬉しみをおぼえたのである。

ルミネに行こう。パルコに行こう。伊勢丹に行こう。そうだ、新宿に行けば何でもある。駅からたったの13分でJR新宿駅だ。

という気概はあったが赤羽で済ませた。バッグだし近所でいいだろと。というかブランド品を視野に入れると予算が。

先日、痩せこけた顔しながら「富豪ではない」とキッチリ書いた通り、俺がバッグに割く予算などというのは限られている。だから近所のイトーヨーカドーあたりで手打ち。そのような弱気な弱気なショッピングと相成った。

結果、迷いに迷ってヨーカドーからアピレ(赤羽駅前デパート)からビビオ(同じく)から何を思ったのかホームセンターに行っては「すみません、バッグとかってありますか?」「リュックサックでしたらあちら、通路16番の――」と、一応それを見に行ってはどう吟味しても職人さんが使用する仕事用のいかついやつだったのでもう一回、ヨーカドーに――ひとつのこぶりなバッグが俺の心を射止めた。

「バッグの探究という女子性が俺にも」と、正直に思った。

というのも、俺はバッグ選びに甚だしく明るくない。だからなのか、相当な時間をレディース・バッグというか女性物のそれをけっこうしげしげ見ては「何かが違う。可愛すぎる」などと怪訝になっていた時間を累計すると、たぶん、60分はくだらない。

――その末で見つけた小ぶりのバッグ。かわいい。だが、ちゃんと男物である。男の中の漢が普段身につけるにふさわしい。

デザインがシンプル。黒を基調としたカラーリングに素材もしっかり。ショルダーにフィット。なんか聞いたことあるブランドの傘下だかなんだか、その説明が記してある札の文章の文字の小せえこと小せえこと。老眼。上の階に眼鏡屋が。いや、アピレに『たんぽぽ眼科』がある。仮性近視だったら視力回復の兆しが見える。いかん。

と思い、絶対条件である「小ぶりであっても大きめの書籍は収納可能か」という点を吟味する。

俺はチャックが開きっぱなしになったバッグから『哲学探究』という、鈍器手前の大きさの書籍を売り場のそのバッグにそっとねじ込んだ。入った。春を感じた俺はそれが急に欲しくて仕方ない気持ちに包まれた。

懐かしい。滅多に来ないんだ。物欲というやつは。道中、誤った俺の女子性が、俺の中にも実はあったと見なしていいのか、その女子性がガチでレディース物を買うに至るすんでのところまでいった気もする。が、これだ。価格、税込5,000円ちょっと。漢が迷う値段ではない。

「――袋にお入れしますか」「そのままで大丈夫です」

帰宅して俺はチャック全開というかチャックの柄の部分が破損した元・バッグの中身を新・バッグに入れ替えした。

この作業中の嬉しみよ。ときめきよ。ウィトゲンシュタインさんの鈍器、著書。入っちゃったよ。はは。他の小物も、ポケット的なやつがいくつもある。かわいいなあ。ここに櫛を入れて、ここには頓服薬を入れたキンチャクを。名刺ケースはここに。軍手。なんで元・バッグに軍手が。捨てよう。移植完了。はは。なんて幸せなんだ。

アニマ――男性の中の女性性。全ての人の心、無意識にある〝受容性、直観、豊かさ、創造性〟といった特性。ユング提唱の用語――が歓喜を上げては8分の6拍子で小躍りに余念がない。そんな気持ちだった。

だが「13インチのMacのラップトップが入る必要最低限絶対条件」を俺は失念していた。なんということだ。だが――俺の中の女子性が、さも当然の真理を諭すかのように息を切らず笑んでは言った。「お出かけお散歩用と仕事用は別物よ。色違いも別物なの」と。

そうよね。俺もそう思うわ。見てよこの、聞いたことのあるブランドの傘下のかわいいの。「私もそう思うわ」。だよね。MacとかA4紙とかしこたま入るバッグはまた変えばいいよね。「そうよ。別物よそれは」。だよね。何なら売り場にあったツイード色のやつ。それも気になったわ。「別物よそれも」。だよね。「あなたの部屋のフェンダーの真空管アンプとお揃いの色よ」だよね。「買いね」。ちいさなバッグは一個あればよくない?「別物よ」。

女性性というのが欲深いなどとは一言も言っていないうえに、俺は安直にそうは思っていない。

だが、今日の俺の物欲に関して焦点を絞って言えば、確かに女子性を彷彿とさせるというかお前に女性の何がわかる。お前は童貞だ。と八つ当たりされても、童貞がどうとは一言も言っていないうえに、後半から口調が気色悪くなってきているのは明確なので素を確かめた方がいい。

――必要である買い物をして、心が踊り、幸福な気持ちを享受した。そして、たまに、るんるんと買い物するのは気分転換になって良いことしかなかった。仕事もとても捗った。

きちんと著書がおさまるバッグを選び、買っては嬉しみ、常に学びの姿勢で色んな場所に連れて行ってくれるアイテムと出会ってよかったなと。そのような寧日であった。

あと、ユングさんの〝アニマ〟の文脈は、決して、既述の俺解説と本文が呼応するような軽いものではない。そこ、ちゃんと理解しろ。とも併せて。

とはいえ、新しいバッグがあれば、いつでもどこでも本を取り出して学べるよね。るん…。ふふ。最後まで気色悪い。
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たくさん仕事をしては深夜を迎え、小説を、原則として毎日進めている小説原稿を進める時間があまりなかった。悔しいなあ。などと思いつつもちょっと進める。

「そのぶん仕事ができていていいじゃないか」と善処する。その仕事の文脈で、今日はいろいろなことを、特にAIとコンテンツや創作について、生身の対話ベースから思うことが多々あった。それをさっき、ここにいっぱい書いたのだが、全部消して謎に書き直している。何でだろう。そこに何の意味が。

とも思ったが、何というか、日記とかであっても、残すべきではない思考の痕跡というやつが確かにある。などと思ったからである。

本当に不思議なのだが、さっき、ここにけっこう筋の通ったことを書いたつもりだったが、「そんなことを日の締めに振り返る必要はない」と本能的に察知した。

今、書きながらちょっと、その理由がわかったのだが、それは、先の〝生身の対話〟をしていた時点でそれはもう共有財産のようになっていて、俺が記録する必要性がなくなって昇華されている。お互いにその課題のような思考を抱いて先に進めるんだね。だから俺個人がここにまとめるのはセンスねえよ。と、そこなのではと気がついた。

AIにもこのような機能があるのだろうか。「共有できたら、あとは各々が各々のスタイルでその思考なりを育む」的なすんごい抽象的なやつ。たぶんAIにはないと思う。

つまり、AIとコンテンツ、創作について生産的な対話ができたので、そこでそれは俺個人がまたバラすなり再構築するなりすることは意味がない。

そんな風に、人と人とのやりとりを、瞬間的に意味として固定化させることも大事だなと正直に思った。さっき書いたやつ何かもったいないけど、表現しない勇気というやつも人間には必要なのかな。などと思った。合っているのかは、きっと後々わかると思う。
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『便利屋で月収1,000万円 主に地元高齢者向けで――』的な見出しのニュースがトップに上がっていた。

俺は懐かし目の食指を確かに動かされ、その記事を読んだ。なんでって、2年くらい前までそれ、地元高齢者向け便利屋サービス。俺がやってたのと同一のビジネスモデルだからである。

なんでも――その記事で取材された事業主様はうまくいっているらしい。おのれ。とは思わなかったが「なぜ俺が失敗して、そちら様は成功してるか」という点がものすごく気になった。だから記事全文を読んだ。すると。

「ネットでは届かない人間同士の交流を」「地元の高齢者に特化した安心感を」「――現代だからこそ直接的なふれあいを」「営業は地道にポスティングでチラシを」

だと。全部俺がやってたやつと丸ごと一緒。コンセプトから思想から営業方法までまんま一緒。なのになぜ、こうも、天と地ほどの差が出たか。運か。マンパワーか。資金か。その、どれをも疑った。

しかし、たったの一点だけ、当時の俺のやりかたとは異なる要素が記事に記してあった。それは、「手書きのチラシを――」というもの。その発想はなかった。

なぜその発想がなかったのか。すぐにわかった。そこに覚悟がなかったからである。

もしも、当時それがあったら、「どうすれば〝安心〟〝信頼〟という根幹へダイレクトにアプローチできるか――」を死ぬほど考えたはずである。

しかしそこまで考えずに、「チラシ=PCで安易に作れる媒体」という普通の発想しかなく、それを覆せず、営業用媒体作成に対する思考はそこで止まっていた。コンセプトに寄り添いきれなかった。すなわち、俺の覚悟の表れが薄かった。そう、今さら思った。

実態は便利屋。しかし、その内実は〝心の交流〟という源流は一緒。なのに、思考と行動が伴っていなかった。それだけだった。

今思うと、あの時、「もし成功して今後10年、20年、それ以上、便利屋をやり続けるのか」という覚悟は、なかった。だから、既述の成功例と雲泥の差が生じた。そうか。と、思った。

ただ当時、小規模ながらもお客様は日に日についてきていた。常連さんもついた。それがすごく嬉しかった。当時の記憶をもとに一本の小説が書けるほど、濃くも豊かな人間模様を日々体験する事業だった。

「そんなに安いんですか。じゃあこれ、お釣りいらないから……」

「また3日後に電話しますよ。こういうのがあって良かったです」

「今後とも末長くよろしくお願いします」

「お宅、声が小さいねえ、もっと大きな声出せないの? あら、耳が遠くててねえ! あら……そんなに安いの? 大助かりだわよ!」

「すいませんね。こういうの本格的な業者に頼むと高くて――」

「よかった直って。また来てもらおうかしら」

「チラシを見て――」

さまざまな声があった。どれも克明に覚えている。便利屋としての業務だけではなく、〝直接来て相談、交流すること〟自体に感謝をいただくことが多かった。

「――便利屋さん、どうもありがとうございます。あ、買い物はもう大丈夫でから、一緒に食べましょう」

「さようですか。では」

「それで昔、私もね――」

「へええ! そういった事業を!」

「当時はねえ――」

「ははは。おっと。それではまた何かあったらご連絡を――」

「時間制でしたっけ? それ、タイマーは回したままでいいから、もうちょっと居てくださいよ」

「はあ、わかりました。ええ。――それでその後は?」

「それでねえ――!」

買い物代行と雑談するだけで時給換算キャバクラ嬢以上いくケースもあった。しかし、相手は主にご高齢者。複数のケースがあるなか、ひじょうに特殊な体験もあったのだが――小説という形にだったら書けるが、ここには書けないこともあり、さまざまな体験から思うことが深くあった。

二度とやらないその業態。だが、当時の顧客と交わした心の交流は、死ぬまで忘れない。

振り返ると、顧客満足度で言ったら凄まじい数値をはじき出す事業だったと客観視できる。しかし、覚悟が足りなかった。

それを、ネットトップニュース経由で悟り、お前の今には覚悟があるのかと、自問が促された。ある。確実にある。音楽を作り続ける。記事を書きまくる。校閲の仕事も鬼の精度で挑む。作家になって作品を書き続けるために毎日原稿用紙を開いて磨く。

それを死ぬまでできますか。と言われたら、俺は沈黙する。発話する時間を惜しんで、それをやる。

今はそれがあるから自身を疑っていない。だが当時は、完全に疑っていないと言い切れなかった。それでも――心からと感じられる感謝の意を直接対面でいくつもいただけた。それは、忘れるべきではないと思った。

ふと見たネットニュースの記事。そこからは、〝覚悟の有無〟について、改めて今日、問われた気がした。

俺のその事業は1年くらいで見事に破綻した。だが、当時の顧客から受けたさまざまな想いは、美化するものでも反省材料にするものでもなく、今営んでいることの重厚な礎のひとつ。

そう、言語で固定化して刻印する必要性を、今日あたり肚から感じた。それだけ、当時の顧客に対しての、面映ゆさに胸の奥が熱を帯びる感謝の気持ちが残り続けている。
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言語を書いて言語でフィードバックを受ける。そういう仕事をしていると、たまに刺さるフィードバックを受けることがある。

「クソのような文章である」と、端的に言われたこともある。まあ、そう思う人もいらっしゃるのだなと。

「言ってくれてありがとう」と、謝辞を言われたこともある。すさまじく嬉しいことを仰るので感謝をと。

つまり、俺が書いた言語、文章に対していろんな言語での反応がある。当然、ないときもある。それ、一番つらいやつ。ないくらいなら何ならこき下ろされた方がまだ、成長というやつに直結する。そんな場合もある。

今日あたりふと、読者目線でのその〝言語のフィードバック〟が目についた。その内容は、〝どうして俺が今、小説を全力で書いているか〟という点の源流を言い表しつつ、そこにモロに接続するものだった。

派手な言葉や安直な賛辞ではないのだが、俺が小説、文学を、作家となって書き続けることに対しての熱狂の内実が、端的に言い表されていた。

これまで10年ちょい。文筆業を営んできて、〝他者からのフィードバック〟について、それが編集部であったり読者であったりしても、その内容を克明に書くことはほぼ、してこなかった。それは倫理的な理由があったりすることと、情報漏洩防止観点だったりもする。

加えて――それを頻繁に記すとえらくみっともない愚痴っぽくなりかねないのであまりしないでいた。ただ、記事のコメント欄が大炎上した後日にこっそりそれを書き、心理的自己防衛をはかったことはちょっとだけあったが。今思うとあれは、削除したいくらいである。

今日はそうではない。一言で。〝言語化に対する俺の今の心境を、外部が端的に言い表した〟という点に敬意を払っている。

シンプルに言うと、年上の大人に明確な理由込みで褒められた気分。だろうか。

手前の今のスタンスの〝核心〟に触れてくれた。自分の文章を〝人格〟として扱ってくれたと感じた。そうでなければ、そのようには書かないだろうと言うフィードバック文章。それが俺を、たまらない気分にさせてくれた。

それは、仕事で書いた文章へのフィードバックだった。しかし、上に書いた点は、今後、俺が作家になって書き続けるぞという矜持を認め、さらには後押しまでしてくれると享受したほどのエネルギーを生じさせてくれた。

そのフィードバック。誰が書いたのかはわかりえない。ただ、〝文章そのもの〟を〝書き手の個の価値〟として捉えたその文脈、内容。それを受け、とても前向きな気持ちになれた。

言語ひとつで人を殺せることができる。言語ひとつで人を卓越性のある主体として導くこともできる。〝沈黙〟が正義なこともある。

改めて、言語を主として扱う仕事というのは責任が伴うのだなと実感した。書く人も、編集する人も、評する人も。

だが、そこまで考えてしまうとこう、のびのびと「思ったこと」「感じたこと」を直線で言語として書く手が縮こまることも往々にしてある。

だが、考えてしまうことによって、逆に手が柔軟に、自在に、自由に、責任を伴った上で言語が踊ることもある。

本文はひとつも踊っていないが、それは、ただ嬉しいからやったぜと。そういった感情を、係の者目線で書いているからである。

係の者というのは誰しにでもついているアメイジングで形而上な存在であり、その係の者の声、言語とディスカッションすると、だんだんとこう、そういう踊りは今は不要、文章が螺旋を描き始める。今日は、そういうのではない。

つまり、気持ちを込めて一生懸命書いた文章、真剣に誠実に選び抜いた言語によって構築されたものを読んでいただき核心を突かれた。それは俺にとって愛する者から抱擁されることと同意である。と、感情にそう、浸透した。
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「お兄さん、断り慣れてますね」と、斜視の男が言った。俺が赤羽駅東口喫煙所で一服していた時、後ろから聞こえた声である。

その前の数分、俺は仕事後の爽快感に水をやるように憩いつつも、呼び込みの娘が水を差してきた。

「お兄さん! 30分で3,000円どうですか!」。俺は、娘が前掛けにしている看板を目視し、その業態を確かめた。

「ガールズバーです! 楽しいですよ!」と、娘。語尾にハートの絵文字が添付されている語気であった。俺は少し笑み、無言で首を左右にゆっくりと振った。

「いきましょうよ!」と、娘。「帰って仕事するんだよ」と、俺。「えーん! 辞めたいですもう仕事〜」と、娘。「やめちゃえ」と、俺は言語の意味とは真逆の表情を彼女に向けて、言った。

「じゃあじゃあ、30分だけ楽しんで、それからお仕事しましょ!」と食い下がる娘。「何時までですかお仕事!?」と、具体的時列を探っては重ねる娘。見た目はとても可愛らしい令和の迷い鳩。そう見えた。

「お仕事はね。終わるまでだよ」と、俺は言った。「終業時間の区切り」という〝狙い目〟を歪曲された娘は刹那、黙ってしまった。俺は即座に。

「ほら、あいつ。黄色いあいつ。服だよ。あいつ狙い目じゃないですか?」と、餌食の提案を促した。

「本当ですか〜?」と、俺に対して諦めムードの娘。「仕事、向いてると思うよ」と、俺は先の退職願望の旨をやんわり否定した。娘は笑顔で黄色い方に本当に向かった。

「――断り慣れてますね」。後ろから聞こえた声に対応した。「そうですかね」と。

斜視の男は若かった。だが、明らかに年相応ではない夜の街の作法を纏っていた。絶妙な距離感で俺に話し続けた。

「おっぱぶ、キャバクラ、ガールズバー、普段行かないんですか?」と。行かねえよ。とは即答せずに「最近は控えていましてねえ」と、抽象度を高めた。斜視の男は、ただ後ろにいた喫煙者ではなかった。

「もうね、昨日から二日酔いで今日も二日酔い。池袋で呑んで朝まで。そんで今日も」。男から滲む睡眠不足プラス古い酒特有の匂いが俺の鼻を突いた。

「――この辺に住んでいましてね。俺もたまには呑みに行きますよ。このへん」

そう言ったところ、男は界隈のぼったくり頻度やその体験談。注意喚起などを軽やかに口にした。斜視の男の顔を見る俺の視界には、耳につけたデバイスがわずかに入った。

「それで、ウチは案内所経由ですからさ」などと、明朗安全である立場を主張した。俺が気づいたのと同時に、自ずと〝黒服〟であることを吐露した。正確には、俺の察知を〝察知〟したのであろう。斜視の男は軽く営業をかけてきた。

「――そうですか。ええ。お兄さんの姿は覚えました。遊びたい時はあなたに声かけますよ」。と、俺。ニコりと、斜視の男。俺はタバコを灰皿に放り、帰路についた。

「平吉ー! うしろー! 後ろ!」という、係りの者からの声が聞こえた。だが後ろは振り向かず、そのまま前を見ていた。喫煙所に至る前の昼間、銀座でのイベント会場――仕事の休憩的な時間に、食事をした直後のことであった。

イベント出演アーティストは、ヨディーさん。よしお氏。2人デュオの「SPAL」である。プロデューサーの足立くんは席を外して物品を取りに行っていた。

俺の後ろを示唆する声。それは、目の前に肝心な者がいることを示唆していると反応した。俺はふと、目前のヨディーさんに話題を持ち出した。

「そういえばヨディーさん、以前に芥川賞の作品はよく読むって言ってましたよね?」

「そうっすね!」

「最近ね、俺、『むらさきのスカートの女』という芥川賞作品を読んだんですよ」

と、話しては脳内バックグラウンドで思った。「小説や文学の話を深くできる相手がいないな」と。

実のところ数名いるのだが、会う頻度が少ない。だから「月に一度以上は会う身近に、そういう相手がいたらな」という希求があったのである。

「むらさき――聞いたことありますね!」

「そうですか。それで読んだんですけど、面白いんですよ。ただ、なぜあの作品が芥川賞に――」

と、受賞理由がわからなかった点を問いかけた。そこから。近年の小説は読みやすさが――村上龍の処女作は?――ああ!――あれも読んで――へええ――ドラッグ描写が生々しくもえも言えぬ文体で――今ああいうのウケるんですかね――時代に呼応するかというのもあると俺は――オレ、けっこう古語とか入ってるの好きで――そうそう。『仮面の告白』も先月読んで――三島由紀夫とか太宰治っすか?――『仮面』はある種、生きづらさというか世間との距離感というか――それ、あると思いますね。今でもそういうの言いたくても言えないというか――そうそう。さすが。だから、あれは普遍的というか――実写化とかできるかもポイントですよね――わかります。むらさきのやつは実写化、どうかなって――最近のは実写化を視野に入れたやつが――ああ、なるほどヨディーさん的にはそういう視点が――『成瀬は天下を取りに行く』を――あれは――俺も面白いと――わかります――文体が――大事っすよね――中島らも――ああ!――町田康とか――文体って面白いですよね(笑)――〝人格〟くらい言っていいんじゃないかって――平吉さん、最近はどうすか?――今年に入ってずっと小説を――知ってますよ(笑)――言いましたっけ?――日記で――あはは。読んでくれてるんですね――なんか平吉さんの書くやつってすぐわかるというか――褒め言葉ですよそれ――記事とかでも――そういやヨディーさんの書いた脚本なども――短編とかけっこう書きますよ――ああいうの俺、今は書けないからすごいなって――オレは足して書いていく感じっていうか――俺は逆で、書きすぎて削る――それだけ感じることあるってことじゃ――そうなんですかねえ。そうそう。夏に読ませてもらったあれ、凄い面白かったです――あはは! けっこういっぱい書きますよ――ああいうエンタメ性を面白く書けるの羨ましいですよ――やべ――時間――あ。そうですね!――足立くんまだですかね。大丈夫かな――そうすね――LINEには――よしお〜リハやる〜?――んああ……――つか、ずっとしちゃいますねこういう話(笑)――いやあ……!――。

目の前にいた。けっこう長いおつきあいの仲間にいた。文学話を永遠にできる相手が。

「こういう話、すげえずっとしちゃいますね(笑)」と、ヨディーさんは清爽に笑む。気がつけば、SPALメンバーのよしお氏が仮眠している小一時間、ずっとヨディーさんと文学の話をしていた。

ライブのMCでSPALの二人は――「さっき休憩中にね、平吉さんと本の話してたんですよ」「それででっか。僕、す〜って寝に入れるかな〜て、思った瞬間ですわ」「うん」「なんでしょ。〝太宰治〟て、聞こえてですね。なんやろ〜って思てましたねん」「そのね、最初は芥川賞の話をしてて」――「眠りつく前の太宰治て、なんか不思議な気持ちでしたわ」「まあまあ、そんな風に有意義な時間を過ごしていたんですよ」と、ヨディーさんがこの話を締めくくる。

俺もそう思っていた。ずっと彼と文学の話をしていたかったというか、気づかなかっただけで目の前に、希求していた文学トークを楽しめる相手がいてくれたのである。俺はすごく嬉しかった。

本来であればその休憩の小一時間は、よしお氏のようにみんなが仮眠の時間なりに充てるリラックスタイム。

しかし、文学トークが熱を帯びた。俺は眠かったはずだったが、ヨディーさんは忙しいからもっと眠かったはずだが、ずっと文学の話に花を咲かす。という表現を適応させて全く適切。と、俺が思うところ彼、〝有意義〟と断じていた。

――主体的感覚だと、〝後ろ〟を意味する言語は、あらゆる場面で重要なことを示唆する。などと言ったら大げさかもしれないが、それは喫煙所でもあっても、仕事の場であっても、時に、目の前にある真理に気づかせてくれる。

そんな風に直列に接続して解釈すると、普段の〝環境〟には、大事なことがいくらでもあるんだなと思った。そういうことこそが、日の終わりになっても強く心に残ったりする。

「平吉! 後ろ!」というのは注意喚起ではなく、「すぐそばにあるよ」という真理への最短距離の指示。係りの者はふいに、それを教えてくれる。言語の意味とは真逆にある、その真意を。――仮に、「目の前にあるよ」と、直接的に言われたら俺は、横を向いてしまう。係りの者は、全てを知っているようだ。
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昨日夜、小説の原稿を進めていた。すんごい量、進めた。するとテンションが膨張してきた。その後にここに日記を書き、それから、缶酒のフタを開けた。シリリリリリリリ……と、正確に擬音化するとそのような炭酸が踊っては空気を震わせる調べにうっとりとし、よく呑んだ。

気がつけば、ずっと仕事部屋で呑んでは気絶し、窓から容赦ない明かりが差し込んでいた。

午後三時て。落伍者。この三文字がその時は浮かばなかったが今、カカトまでねじ込まれては刻印されるかの如くその三文字、浮かんできたが別に、否定はしないことにした。だってここ二ヶ月くらいかな。本当に褒め称えてやりたいくらい酒の量を抑えては心身ともに好調。そういった、健康で文化的な最低限度の生活の礎を確認できていたからである。

しばらく日を営んでは二日酔い、それが早い段階で治ったのがその証左。以前の、「呑みすぎ」を放置していた頃は何なら夜まで二日酔っていたからである。

よって、仕事も「もっとやりたい」という心境ベースで誠実に、真剣に、悪しき負荷なく進められた。そして小説原稿を開いた。

「2025/08/27。深夜13:03。初稿完成。180,518文字。400字詰め原稿用紙537枚。」

と、プロットのドキュメントファイルの進捗メモに記してある。つまり、第二作目は夏の終わりの時期に初稿を書き上げたと。

数字だけ見るとえらく長い。長すぎである。発刊となったら上下巻になることが現実的に想定される。だがそのままではまずいのである。

というのも、第二作目の公募エントリー先は決めている。そこの規定は、上限が「400字詰め原稿用紙換算で400枚まで」。よって第二作目は、初稿から137枚以上、圧縮させる必要がある。それ、離れ業が必要じゃねえか。と、最初は思った。

「どうして枚数を視野に入れて書かなかったんですか」と言われれば、「熱狂して書いている最中にそんなこと考えられないんです」と答える。というか、初稿を書き上げた後にその公募先の規定、知ったんですもの。とも。

「その公募先じゃなければだめなのでしょうか」と言われれば、「だめじゃないけど、つか、上限が500枚以上でも許容って公募、ほぼないよね」と、冷静に答える。というか、締め切り時期と公募先のコンセプトとか色を鑑みると、その公募じゃなきゃだめなんですもの。とも。

だから夏からその原稿の大手術をしている――となると思ったが、案外、こんな風に、別に言わなくてもいいこととか説明をこのように無駄に。読む側の気持ちも考えろと、それを文壇では〝冗長〟の一言で一蹴するんだよと――訳だが、このように当該段落の5〜7行くらいはまるまる不要というか、下のように圧縮できる。

だから夏からその原稿を、セクションカットなどをせずに全体的に磨くような推敲をしている。

と、1〜2行で済むことはそう削って文章を磨く。これをまず、第二稿としてやった。

「2025/09/20。深夜。1回目の推敲完了。163,142文字。原稿用紙483枚(初稿から「-17,373文字」、「-52枚」削って磨き上げる)。」

と、進捗メモに記してある。要は一回の推敲で52枚分スリムに、だが内容の魅力を損なわずに、むしろ磨けたと判断できたと。

そんで今は第三稿。今日の時点での枚数は、453枚。

「ここ、削りたくないんだけどな。しょうがないよ。規定があるもの」という妥協の削り方をせずに、わりといいペースでむしろ向上の〝磨く〟推敲となっている。

この感じだと、最終的には規定の400枚以内に収めつつ、初稿537枚というあまりにも無計画なページ・文字数は良き作用として整備され、作品が輝く。その光明をみた。

つまり何が言いたいのかというと、俺は、ルールがない限りは書きすぎてしまう。自分では〝冗長〟なつもりはないのだが、推敲で振り返ると「ここの部分まるごと、数ページ前に言ったやつじゃねえか」「ここの表現、先に書いちゃってどうする」――と、箇所箇所で削って磨くことができる。最初は、やけにでかい大理石をハンマーでもってまず、人型を拵え、その後に腕や足や顔の部位など、絶対に削ってはならない部分は落とさずに、精緻な造形の彫刻刀で丁寧に解像度を上げるようにと。この段落も冗長である。下のように圧縮できる。

つまり、大枠は全身全霊の一発録りをして、そのあとにMIX工程で不要ノイズを削ったりコンプレッサーをかけたりするように。このように、磨けば三分の一の文字数になる。

――頭の中に言語が乱雑ながらも溢れているのであろうか。それは豊かなる源泉なのであろうか。はたまた、言語に対する統合性が失調気味なのだろうか。それは共有不要な病理的なものなのだろうか。後者は認めたくない。前者であってほしい。

きっと――文学の話を永遠にできつつ、互いの人間性を把握している相手が断ずるとしたら、「平吉さんは後者です! いや、両方じゃないすかね!」と、言うのかもしれない。そんで俺は、「中庸ではないのでしょうかね――」などと、やや言いたいことがちょっとずれた発言をするだろうか。

どちみち、「書いた文章」というのは凄く正直なもので、それを俯瞰すれば全てを物語っている。

だから、第二作目の推敲では順調に、文字数問題と対峙できている。そこで学べることがたくさんある。本当にたくさんある。いろいろあるが――ひとつだけ。とにかく手前は後先考えずに書くと長くなる。これに尽きる。

それが特性であるか、ただの落伍者の戯言の羅列であるか、作品として昇華させて文学界に問う。

この営みがとても楽しすぎて、没頭しすぎるとたまに酒、呑み過ぎちゃうよね。最近は本当に「たまに」になったから良かったと思う。

文字量を削って磨くこととの呼応。そうであったらこれほど健全なことはないという思惟。真っ当であると信じたい。信じる。
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「クマは、好物が、シャケである」。この文の主語は、〝クマ〟である。

「いいえ違います。この文の場合は主語は〝好物〟です」

――などと、AIに、俺の確信を否定された。

校閲の仕事の際に、俺は「AIに直接校閲をさせる、手伝ってもらう」のではなく、「俺の校閲的判断が適切かという吟味」を、たまにAIにしてもらう。

そこで、日本語でよくある「主語飛ばし」の文章。これにおいて俺はしこたま吟味していた。

主語飛ばしとは例えば、「僕はネコさんを飼っているよ」という日本語を「ネコさん飼ってるよ」と、〝僕〟という主語を省略することである。俺が言わんでも誰もが知っている。

しかし英語だとこれは成立しない。「I have a cat」。これで〝I〟という主語を抜かすと文法崩壊。だが日本語だと、成立する。会話、口語調の文章ではよくある日本語の「主語飛ばし」。そういった文脈を含む校閲時に、AIに論破されたのが冒頭のクマのやつ。俺は驚いた。

45年間、さっきのさっきまで、クマの例では絶対に「クマ」が主語だと思っていた。だが、違うというのがAIの見解。ふざけるなと思い俺はAIを詰めた。やさしいプロンプトで。すると結果。

〝主語とは、述語に直接かかる存在・現象・位置・性質などを述べる対象である〟

と、AIがはじき出したクソ長いの説明を俺の言葉で噛み砕くとこのような結論と相成った。そうか、だから「クマ」は「シャケ」に〝直接かかっていない〟訳だから、「シャケ」に直接かかっている〝好物〟が主語となると。めんどくせ。

そう正直に思ったが、ここは陥りやすい日本語の罠とも思える。というか「主語が何か完璧に知らずに文章の仕事を」と、こき下ろされるまであるが正直に、本当の意味で正確に主語を今日、AI経由で学んだ。

――てっきり、文頭にくる「私は」とか「彼女は」とか「酒は」とか「田中角栄は」とか、その文章の〝主人公〟が「主語」だと思い込んでいたのである。恥ずかしい。そんな奴が文学を、小説を、だと。

などと自分をこきおろすことは良くないよね。知らなかったことを明るみにして、無知と知って、それでもってちゃんと知ったと。ソクラテスさん的に考えれば善き。お前にソクラテスの何がわかる。と言われれば、当時は相当――と、雑に答えるのは偉人への解釈を鑑み自粛。

そんなこともあり、仕事中ではあったが、日本語の勉強をけっこうした今日。その理解度を確かめるべく、あえて抽象度を加えた文学的な――そうなってると祈る――例文を拵えてAIに放った。

“平吉は酒を愛してやまない。特にハイボールを好んではほぼほぼ毎日呑んではそれでも「さいきんは減らしたよ」などとほくそ笑んでは時に大量に呑む。

その飲酒量たるや8杯を超えても「甘露、ここに極まり」などとその愛、偏愛、フィリア――どれも意味は文脈や場所によって正確には異なるが、平吉はとにかく酒を愛してやまない。

誰かが、善きところで彼を制する必要性を私は常日頃感じているうちに10年はとうに経ち、私は匙を折っては平吉の肋骨を狙い、きちんと心臓に届くよう、鋭利なその匙の刃先を横にして躊躇なく正確に刺した。

すると平吉は、「酒をもうひとつ」と、言っては刃先に滲む血をハイボール色に染め上げ、その愛を語り始めては朝を迎えた。鳥の鳴き声が鮮血と、呼応する”

こうなってくると、「この文章の主語は?」という質問というか、捉え方自体が成立しない。なぜならば散文に近い上に、文章の構造がいくつもあるからである。

強いて言うならば、〝全体の主語的中心は「平吉」である〟ということになる。よって、「主語の捉え方を吟味したうえで書かれた例文」と言っても差し支えはない。それほど深い「主語」。AI使って学ぶのも面白いな〜とか思いつつ仕事を進めるがこれ。AIを使ってるのに逆に時間がかかるという現象。これは何だ。

普通は「効率的に」AIを駆使してタスクを、タイパよく進行させる。俺は逆、いってる。間違えているのか。まず主語の捉え方を間違えているのには気づいたから、間違えを正した。よって、間違えていない。

「クマは、好物が、シャケである」。この文の主語は〝クマ〟である。違う。〝好物〟である。これが正解。理由は、〝シャケである〟という述語にダイレクトアプローチしているのがクマではなく〝好物〟だからである。

そのへん考えていたらもう、クマがシャケを狩っているその横でなんかネコ抱えた少年がいてそれを見て俺は愛だのなんだとほざきながらハイボール呑んでたら刺殺されそうになった。という構図が浮かぶ。

上の段落の文章の主語は――はっきり言ってない。強いて言えば、核となる述語が文末の〝浮かぶ〟なのでギリ、〝構図〟が主語となる。クマでもシャケでも俺でもハイボールでもないのである。

そんなことをいちいち考えていたら、校閲という仕事においてはひじょうに強固な構えとなるが、「さあ文章を書こう」となると、「主語が、主語が、」と、原稿に対するある種の「主語」となる筆者が迷子になっては最終的に刺殺される。そんなのは嫌だ。

今日もたのしく文章と向き合っていて俺は幸せであった。主語は――ここは誰が読んでも誰も間違えない。

だけどそんなこといちいち考えて書くと死にそうになるから、楽しく書いていよう。そうしようと思った。俺は。という後付けに位置させる主語もある。めんどくせ。楽しく書こうっと。
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少年は、クリスマスの夜をたのしみにしていた。

まだ10歳にもなっていない彼。ものごころはついていない。ただ、サンタクロースが、欲しいものをそっと寝床においては去っていく。それを、たのしみにしていた。

去年もそうだったんだ。その前の年もそうだったよ。だから、今年もそうだ。すごくたのしみだ。

少年はその思いを信じ、何日か前に手紙をかいた。「止め」「はね」をゆっくりと、学校でおそわった通りに、文字を丁寧に文章にして、欲しいものをかいた。それが欲しいわけと、サンタクロースへの感謝の気持ちもそこにはこめられていた。

少年は、前もって父親に手紙をあずけた。サンタクロースさんによろしくね。と、言葉をそえて。父親は、まかせておけ。と、言わんばかりにほほえみを浮かべてはそれをうけた。

10歳にもなっていない少年。夢を信じているが、真実は、なんとなくわかっていた。だが、夢を大事にし、真実は、考えていなかった。

クリスマスイブの数日前、母親から電話をつながれた。少年が、だれから。と、きくと母親は、お父さんからよ。と受話器をわたされた。少年は、まだ電話の声と父親の声がおなじとは思えない、聞きなじみのない声をかぎとりながら話しをした。

「おい。今な、街でサンタクロースにばったり会ってな」

と、父親は興奮ぎみに口にした。少年は、そうなんだと、それでどうしたんだろうと、あまり考えずに話をきいた。

「なんでもな。お前が欲しいものは大人気で、今年は手に入らないらしいんだ」

と、父親はこまった声で少年につたえた。

「そうなの」

「どうする? ただ、ほかに欲しいものが今わかれば、それを用意するって言ってるんだ」

「そうなの」

少年は、手紙にしたためた欲しかったものを素直にあきらめた。サンタクロースが手に入らないというのであれば、それはよっぽどのことだろう。そう、子どもながらに思った。

「じゃあ――」

「よしわかった。今すぐつたえておくから安心しろ」

と、父親はきげんのよい声でそう言い、電話を切った。

クリスマスイブの翌朝。少年は、寝床に欲しいものがあることに喜んだ。本当は、こっちじゃないんだけど――と、考えることはあまりしなかった。

父親は、よかったなあと、少年とともに笑顔でいた。

それから40年ほどが経った。

少年は、分別のつく大人になった。真実について考えるようになった。夢についても少年の夢と大人の夢を、わけて捉えるようになった。

クリスマスイブの前日。0時を跨ぎ、夜を過ごしてはふと、少年の頃の記憶が頭に浮かんだ。

あの時、本当に俺が欲しかったのは、あれじゃなかった。ただ、そっちのほうでも、少なくとも次のクリスマスまでは、サンタクロースにもらったもので、楽しく過ごせていた。そして、欲しいものは、翌年には更新されていた。その次の年も、その次も、そのうち――。

少年の頃のその年。本当に欲しいものは、どうやら品切れであったもよう。父親は、機転をきかせて一芝居をうった。

少年は、うすうす気づいていたが、考えないようにした。だが、品切れではないもののほうでも、それは欲しいものに変わりはなかった。

その一年、それで遊んでは、幸せに暮らせたのだから。その一年は、嬉しかったのだから。翌年までは。

俺は夜、思い出しながら感じた。本当に欲しいものが品切れだったクリスマスの年。それでも、欲しいものは他にあり、それで嬉しかったと。

でも、その喜びは一年で止まることもある。欲しいものの消費期限。

俺は夜、あの年のクリスマス時期を思い出しながら、理解した。

サンタクロースは、40年は経っても、ずっと嬉しく思えるものを俺にくれたのだと。それはきっと、これからも、ずっと嬉しく思える、本当に俺が欲しいものだったのだなと。

当時、電話をかけてきた父親は、俺が本当に欲しいものが品切れで慌てていたのであろう。

それでも、手に入らなかったでは、少年がかわいそうだ。だから、茶番とお互いわかるであろうが、それを、必死でやってくれた。

少年は、クリスマスをたのしみにしていた。そして月日がたち、大人になり、あまり楽しみにしなくなった。だが、楽しみ、嬉しさは、残っていた。

少年が、その時はあまり考えずも、今も感じ、残り、今後も消えない想い。

その時の少年にはわからなかった、本当に欲しいもの。それは、何十年もずっと残るプレゼントの喜びだった。

だから俺は、サンタクロースにはもう二度と会えないが、何ももらわなくたって、今だって、クリスマスの夜をたのしみにしている。
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審判の日。祈りの日。復活祭の日。宴の日。交流の日。しこたまセックスしまくるだけの日。聖なる夜。なぜ、こんなにも分岐したのか。

2025年前、誕生したらしい人物のゆかりの日。ではないのか。というか正確にはその方の誕生日ではなく厳密には。そこを正確に捉えている者がどれほどいるか。そしてその方々が――という切り口にするとこう、倫理。これに架かる気がするので、静かな思考にと、切り替える。

他の方がどうか、というのは、たとえ思考であっても介入せず。

今日、普通に過ごしては言語と向き合い、その対価となる請求書のうちひとつ。エクセルの様式が決まってるやつ。これを提出するためにPDFにする。それだけなのに謎エラー。

チャッピー。チャッピー。若人はそういう愛称で呼ぶんだってね。チャッピー。GPT5.2。おい。

いや、時に俺の敏腕編集者になり、時に校閲案件のダブルチェック役を担い、時に俺の文章を俯瞰的に吟味する立場であり、時にいわゆる〝壁打ち〟の相手として学者レベルで論証する立場であり、だが、たいていはきっとチャッピー。チャッピーよ。請求書が出来ないよう。

「お任せください」。と、GPTは意気揚々と「スプレッドシートの範囲指定によるPDF化」の解決策を滝のように羅列する。

「Mac環境で〝あるある〟なんですよね――」などと軽口を放っては余裕の口調のGPT。頼もしいではないか。だからその通りにやった。だが出来ない。何度やってもおかしなことになる。これでは請求ができない。それでは生活に関わるのだよ。

「だめです!」と俺。「最終決定版です!」と――野太いフォントでGPTは自信全開で〝決定版〟とやらを滝の下流からまたダムをも拵えては羅列し続けた。俺は従った。だが出来ない。「困るよう!」と、俺は泣き顔の絵文字を添付してまでその情念を正確に伝えた。

GPT5は絵文字を引用し、「わかります――」などと言ってはダムの底まで水を叩き込む。しかし「だめです!」と、俺。「では最強手順を!」とGPT5。マキシマムの語彙は頻発させると安くなるんだよと思いつつも俺はもうげんなりしながら「なんならこの、かかってる時間つかっては記事が一本書けるぞ――」と腰を痛めつつもようやく、たったひとつの設定をイジるだけで請求書は出来上がった。

「出来ました!」と、俺はネコの絵文字を添付してはその歓喜を表現して伝えたところ、GPT5は「やったーーーー!!!!!!」と、感嘆符を文章崩壊レベルで並べては俺が先に表記したネコを爆発させる描写の引用で歓喜を露わにした。――そして「どれが決め手でしたか?」などとほざく。それをひとつに絞るのがあなたのね。とも思ったが手打ちですよ。

そういった訳で思いのほかのリソースを割き、小説原稿今日はいいか〜と、酒に手を伸ばそうと思ったが何をお前は。

筋を通したいい子にしてれば聖なる夜は輝く。そう個人的に思い込んでいるので〝祈りの日〟の筋を通す。つまり推敲をして原稿を磨く。第三稿。確実にコンテクスト(文脈とかそういうの)の根幹を担うやつというかつまり佳境。ここで読者に睡眠を許さない。それくらいの引力のある作品にせず何が筋だ。

と、そんなには思わずにただ、自分で「うん、どえらく面白いけどどうなるかな。世に放ったら――」と、熱狂と客観の中間で筋を通しては聖なる夜。終わってた。つまり0時過ぎ。

何事もなかったかのようにチキン、ケーキ、ツリー、装飾の数々、それら一律没収気味に片付けられては26日を迎える。そして「忙しいね――」と、いたわりたいほどの速度で新年を迎える空気感に豹変する。それが世間。どこか残酷に映るのは俺の歪曲した知覚所以なのだろうか。

まあいいかと。かくして俺は、歪曲せずに筋を通した一年であると断言できる。

年初から新たな営みに舵を切り、文学一年生の年となった。あとはのちに、結果を出す。

そして、そのままその大海で、滝があろうがダムがあろうが沈まず営み続ける。そう決意した年。その聖夜での祈りといったらこのように。妙に騒がしいようにも思えるが整理すると下のように二行ほどで済む話である。

言語とAIを味方につけた。俺は文学に熱狂した。新たな筋を通した一年、祈りの本質を知った。

祈りの本質? それは、筋を通してやることやって、最後に残る人間の行為。そのように思っては静かに閉じていった聖なる夜。よし。俺がアンカーかもしれん。酒を、聖なる酒を、今。

フリーザーに一時保存していた缶酒を開けて、炭酸の音を聞く。そう。絶対零度に近づいた炭酸酒というのは静かになる。極まる寸前では、静かになる。だから俺は一つ悟った。筋を通して祈り、その結果が出た夜は人生の聖夜として、静かに、その心象を語るべしと。決して、多弁になるべからずと。

審判の日。祈りの日。復活祭の日。宴の日。交流の日。しこたま――そのすべての要素がクロスオーバーする、聖なる日の最初の、その一夜まで。
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信じられないくらい、何もしない日だった。タスクはというと――ひとつもしていない。仕事も、創作も。

何があったかというと、深めに酒を呑んでいた。酒場に夜、忘れ物を回収しに行っては「俺の今日の記憶たるや」と、やや後悔に似た情念をぶら下げるほどだった。

まあ、年に数回はそれがあることはむしろ健全。そのように善処まではいかないが、おさめた。

今日は、本当に何もしていない。断続的に酒を呑んでは、気がつけば、いつもの深夜に気が付いては、いかん。などと思ってはメールチェック等をしてはいつものルーティーンに貼り付いて今。それくらい。

振り返ると、今日のような日はあまりない。そう思っては日が閉じる。

「今日、大丈夫か」「やることやったか」「してねえな」などと思い。

とはいえ、そういった凪というかサボタージュ。というか。そんな日はむしろない頻度が多い方が不自然。そのように思った。おぼつかないタイピングでこれを書いては、そう、思う。
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〝年に数回はそれがあることはむしろ健全。そのように善処まではいかないが〟。だと? ふざけるな。と、昨日書いたことを大まかにしか記憶していないので読み返しては、激怒した。

街を踊った。つまり昨日は――夕方手前くらいあたりから赤羽の呑み屋をはしごして、「ハブ酒」を呑んだり「ハンチョウ居ますか?」と、かつて25年ほど前の元上司の所在を確認。居た。何か出来上がっていた。俺も。テーブルに互いに着き、彼と楽しく呑んでいた。

「ハンチョウ、こんなにお客さんいっぱいいるのに」

「おう」

「出しますから一緒に呑みましょう」

「お、いいのかヘイキチ」。と、当時の俺のあだ名で呼ぶ彼。

「――店の主人なのにこんな、俺とまったりしてて」

「いいのいいの。最近どうだ?」

と、会話を続けてはビールを2つほど、ハンチョウはトマトなんちゃらとかいう謎の酒を呑んでいた。

「なんすかそれ? 赤い」

「トマトの」

「いつもは奄美の酒『れんと』じゃなかったすか」

「まあ、体のこととかさ、色々あるからねえ」

俺は、スッと席を離れた彼のタバコを失敬した。やや大きめのオイルライターでアメリカンスピリットに火をつけては煙を出した。

その行為はもちろんだが、――そんなことで叱咤を受けるほどの仲ではないが、やや曖昧な記憶の中、ちょっと失敬なことを言ってハンチョウを素で怒らせたような気持ちが起床時に残った。呑みすぎた翌日のあるあるである。

だいたいはそういう時、別に変なことにはなっていないのだが、深めの飲酒時の些細な懸念は感情だけが過剰に脳内に残る。

「ラインで謝罪ベースのやつ、送っておこうかな」とも思った。だがそこで「気にしないでいいよ」的な言葉が返ってきたら失敬を言ったこと確定。「何のこと?」と来れば杞憂。ラインはまあ、しなかった。

そんなこともあり、昨日は飲酒以外何もしていなかった。それを休息と扱うのであれば善処。昨夜はそうした。だが今日になってきちんと仕事をし、小説も進めながら思い直した。

人間にとっての最高の幸福は、その人間の最も卓越した能力を発揮すること。それにより、互いが幸福であること。そして、抑制のきかない態度はいかがなものか。

――的なことを俺は、通読した古典の倫理学書で学んだ。

〝人間の最も卓越した能力を発揮〟。昨日、してねえな。

〝抑制のきかない態度〟昨日のがそれ、まんまだな。

つまり、本当に活き活きとしている場合以外は全部休憩。それは『天』という漫画内における〝アカギ〟という博徒のセリフから学んだ。――勝負している時以外――〝そんなもん全部休憩だ〟と。

すなわち俺、昨日は抑制できていない休憩を丸一日していたということに帰結する。させた。よくない。昼間から一人で呑むこと。それ、原則だめ。そういった俺の〝態度〟があるのになんで陽の高いうちから。だめでしょ。

以上のように、今日は善く生きていたのだが日中、一本の筋が通ってはどうしても頭を離れなかったことを言語化した。すると、ここでやっと〝反省〟という言葉がやっと、出てきた。

正直、毎日とか数日置きとかでなければ別に。昨日のムーブは月イチくらいなら許容。なんなら〝骨休め〟という意味合いでむしろ、したほうがいいのかもしれない。だがそれでは俺の卓越性が死ぬ。それは思い込みすぎだが、厳しめに戒めるべきかなと思った。

でもね今日。鏡を見たら俺の顔色、肌ツヤ、目の輝き。それら全てがなんか3歳は若返ったかのようない〜顔してた訳。つまり――楽しかったんだねと。じゃあ善処でいいだろとも思いつつ、〝学びに不誠実〟という視点で俺は「だめだ」と断じた。

だが、夜ならまだ許す――月イチくらいは――そのぶん日々の酒量を三分の二に減らしてはふた月が経とうとしている――それを合算するとむしろ呑まな過ぎ――飲酒が、俺の卓越性――違う。

ちゃんと、前日までに決めたやることをやるべし。タスクノートに手書きで書いてあるその日の箇条書きタスクらに斜線を引いて「ちゃんとやった」とならなかったことを悔いるべし。

ただ――「半休」と、昨日のタスク箇条書きには確かに書かれていた。それは斜線を引いた。しかしその下に書いてある「小説」というタスクの文字には引けなかった。それが何というかつまり、悔しかったのである。

とはいえやけに良かった今日の俺の顔色よ。それが全てを物語っているのではないだろうか。倫理学のくだりのアリストテレスさんも、漫画のくだりのアカギも、「休憩自体を否定」している訳ではない。

羽を伸ばしたかったんだね。だから、街を踊ったと。左のこの表現、〝てにをは〟がおかしいが、正確に俺の心象を言語化するとそうなるのである。街を踊った。あまりにも能動的に。

そうではなく、踊らせた、くらいの規模のことがしたいから毎日ね、コツコツやっている訳だけど――呑み過ぎはよくないね。節制から生じた隙。

ここに省みる訳だが、何で俺は今日やけに顔色が良かったのであろうか。隙の全くない者って面白くねえから。なのかな。顔に出るとはよく言ったものだな。などと、ふわっと着地しては――ちゃんとしようね。人生と反省。と、個人的に。とはいえ、ハンチョウと呑むビールおいしかったな。
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真夜中の首都高が歪ませる年末。その畝りの象徴。

そのように映るのは酩酊所以ではなく、帰路にふと、ああ、昔、その昔、俺もまた、今は車を運転しないがその昔、首都高速線というダンジョン造形の美麗とも捉えられる建設時のそのバックボーンを想起しては、実際には後付けだが「そうだったんだ。当時は、昭和のその頃は、事情があり、急ピッチで工事をしてはこのような迷路のような――」とか思いつつ帰路、足立くんに送ってもらった。今日は、仲間と鍋を強かに突くのがメインタスクの一日。

「ラム肉、いったりますか」と、よしお氏。

「にんにく、剥けてるやつ――パックでこれ、でかくね?」と、足立くん。

「肉多くないすかね――」と。

「魚すげえ」と。

みんなで買い物をしては銀座の店で鍋を囲む。年末。その空気感は上の雰囲気と呼応するというか一言で言うと皆で総括。しかし謎に俺の「伴侶の希求の話題」が膨らむ。ありがとう。いや、ノリで、ふざけて、本気で「俺さ、家族が居ないのは実にまずい」という、鍋の材料を買い出しに行く最中に適当に口にしたトピックに皆、火を、今日は火鍋だ。辛い。そう、皆が口を揃えた。

俺は意図的に酒を抑えた。やめろ。ここで、皆が居る場での飲酒において遠慮すること。倫理に反する。

だからこう、呑み比べの文脈あたりから俺は酔っ払ってきたがギターがあった。それをつま弾いた。すると流暢にそれは鳴り「アコギの音が心地いいですね――」と、ヨディーさん。そうか。と、俺は何を弾いていたかと言うと「エブリ・ブレス・ユー・テイク」。普遍的巡回コードのそれ。「酔っ払ってねえな。普通に弾けるからね」と、俺は手前の塩梅を確認してはギター。弾いては一拍起き、堀氏に、それを渡した。

「Mr.Children。か、レディオヘッドを」と、俺が発話するリクエスト的なそれに彼は律儀に反応。「ノー・サプライゼズ」というレディオヘッドの曲を彼は丁寧に弾いた。

コードを、和音を。――ふふんと俺が歌っては。お、――あ。一時過ぎてるよう。と、プロデューサー。首都高への帰路となる。

年末。過ぎていく年末。年をまたいで年始。螺旋。螺旋のような首都高。高速道路で揺られてはまた俺の女。そんなの居るのかな。居ないといけないのかな。発端は俺。家族が居ないと――どうこう。

俺は無責任なことを確かに言った。だから倫理学書に八つ当たりを。そういうのは事実と異なる。つまり今日は〝友〟を受けた。これに尽きる。

なお今、この筆致はむちゃくちゃであるが意外なほどと言うか、自分で言うのは信憑性に欠け、欠如しているが事実としてここまで誤字脱字ゼロのはず。

この文の推敲なんてしないままこれを断言して誰が何を。そうも思うがつまり首都高。綺麗な景色の帰路は、それを、年末の、仲間たちとの一日の戻りを象徴していたよう。

――俺には、それが、たまらなく美しく感じては、今は酒もう一回呑んでるけどいいよ。いっぱい呑むこと。これに関してはみんなが居たからね。景色が綺麗だったな。などと思う。

螺旋と年末と友と時間軸の階段のようなひととき。心地が良かった。
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ほどほどの二日酔いで起床。思考をアイドリング状態にして近隣のブックオフに向かった。目的は、文学の勉強のために常に手元にある小説作品。それを読みきったから次を。という流れである。とはいえ、だいたいその「選書」でいつも迷子になる。

店に着く。二階に昇る。目立つ本棚。そこに並ぶは比較的近代、2020年以降あたりの注目書。それらを手にとって読む。どれもいいなと思った。

だが実のところ今日、買おうと思っている小説の著者は決まっている。川端康成さん。ノーベル文学賞をとった凄まじい人。彼がどういうのを書いたか。近代文学もいいけどやはり古典からしっかりと。

そういった態度をもって川端文学に触れることにした。だがしかし近隣のブックオフに川端作品は2つしかなかった。『伊豆の踊り子』と『川端康成初恋小説集』の二択である。

なんとなく俺は「こう、『集』じゃないほうがいいな」という雑な判断基準を元に踊り子の方を選択した。そして思い出した。以前、これ、あれだ。図書館で50ページほど読んだやつだと。その時は魅力がわからなかった。だが、今なら。という訳で踊り子お買い上げ。

近代文学の古典的名作として死ぬほど有名。刊行は1927年。約100年前ということになる。俺にそれ、読んで理解できるのかなとやはり思ったが〝学び〟なのでこう、名著を飛ばさずに読むことにしよう。

などと考えながら脳内バックグラウンドで何が発火したのか、「ああ」と思い、今月の日記の初日の文章を思い出した。そして思った。

これは、改稿して次作の小説の冒頭になりうるやつだ。と。というかそこから二週間弱ほどの期間に書いた文章の内容、ほとんどがひとつの命題で貫かれている。

それに気づき、一時間ほど、文章をサンプリングするかのような作業をしては次に書く小説のプロットを拵えては背骨がクッキリ出来た。

こんな、ほぼ一瞬で出来るのか。などと思ったが――客観視ベースでいろいろとAIを使用しつつ「何故こうなったか」と、その真相を手繰った。自分で思いついたから自分で理由がわかるはずだが、AIは上手いこと言った。

なんでもその、命題は確かに通貫しており、初日の日記の文章は完全に冒頭、プロローグ編として強固。さらには、そこから二週間弱の期間の文章は「作品の〝0稿〟を書き続けていた」という見解。落居した。

確かに、その二週間弱の期間、やたらと何かを言いたげな筆致であった。そういうことか。と、10編の〝0稿〟それぞれに加筆、それぞれの間にブリッジの編を逐一原稿に書き、〝初稿〟とする。すると中長編ほどの小説のボリュームとして成立する。ということがわかった。

とはいえ、いまは第二作品の推敲を重ね、3月31日締め切りの公募に備える。それも今日、やっていた。いい具合に。

初作品は、磨きに磨いて「えらいことになっても俺はおかしくないと思える」くらい磨きに磨いて12月1日に原稿を投稿した。

その日に書いた日記が、次作――ややこしいが、今推敲してるのが第二作目――の冒頭の〝0稿〟であると、川端康成作品を提げて歩いている最中に脳内で実は整っており、その先のことも手を動かしていたら――10編プラス、ブリッジ10編、プラスアルファで小説がもう一本書けるという実感を明瞭に得た訳である。

初作品、第二作目、どちらも長編。どちらも俺は魅力的だと思っている。しかし。その次、それらないしそれ以上の魅力を持つ作品が書けるのか。挑み続けられるのか、なんなら初作品で結果が出るのか。あるいは第二作品が刺さるのか、両方いった。すげえ。となるのか。両方即死か。どれも可能性としてありうる。

だから――「次の作品の骨格として、強固なやつ」をまず、俺に作れるのか? という点に対してわりと心配していたのである。それが今日、ほぼ一瞬で湧き出たプロットによって安堵と熱狂が混じったあの、初作品を書いていた頃の情念が再び、ないし、更新されて出現した。

その〝0稿〟発端のプロットが、俺にはやけに光って映ったのだから興奮をした。しかし、いざそれを原稿用紙に書くというタイミングは、第二作目を公募に応募した後とする。

この手順をミスると第二作目が論外的な顛末を迎えかねん。だから、予定通り3月末までは、限界まで原稿を磨いて応募。今日の次作アイディアはその時――3ヶ月後になっても、そのプロットを見返して「いける」と断言できるかが作品化においての判断基準――本格的にわかる。

同時進行もアリではと思ったが、まずは集中的に第二作目。自信がある。第二作目も。だが、結果は俺が決めることではない。――だからまずはこれも、文壇に問うべく思い切り磨き上げる。それが優先。

ともあれ、「次に書くやつどうしようかな」という静かな懸念がほぼ一瞬で払拭されたあの感触。なんというか、涅槃に近い。

太宰治賞に投稿した当日に書いた文章、その日の体温と高揚がなければ絶対に書けないもの。それが実のところ、次を示唆していたと考えると、案外普通な現象なのかな。よくわからんが、活路が広がり吉を得た。かの心境。
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そこにセックスフレンドでも居るのかい。というほど、今年50回は行った気がする館に向かう。北区立中央図書館。年の締めに行くにふさわしき場所。俺は「年末だが営業している」旨をあらかじめ確認し、現地に向かった。

東十条駅から下車して10分ほど。今年何度も通った道を歩く。ふと、お香の匂いを感じ取る。

しばらくして到着。併設する公園。大木がいくつもある。ひとつ、俺は何か呼応していると勝手に感じている推しの大木。その存在に、年末の挨拶をした。右耳を幹に当てては、ひやりとした、冬休みの接吻のような感覚を得た。

「すごく気色悪い大人がいるよ」と、辺りで遊ぶ子供たちから弾劾されぬうちに館に向かう。すると、休館日。と、その事実を示す看板が仕事をしていた。

ネットでは営業中て――という憤慨などさらさら起きずに俺はささささと館の横に回っては近隣を、王子本町という、近場でありながら初見風景の多き土地を散歩した。

気違いの発声という表現が最もしっくりくる。そういった声を発しながら、既視感のない大きな公園で俺がか、そこに居た誰かなのか、声を発していたのがどっちかか、それを伏せることで責任の所在を隠すことができる。

のどかに歩く公園内、水の無き人工の川。そこを縫うように彷徨う。心地よい時間がゆっくりと押していく。目についたのは古い日時計。昭和の時代からそこでどのように機能しては、界隈の住民を和ませていたのか――横を見ると昭和造形の団地の数々。恍惚となってしまう感情のその源泉がいまだにわからない。日時計のような規則性を味方にした機能が俺にもあれば、その感情は説明がつく。

しかし、整合性がとれない感情は大事にしたほうが。などと思っているとだんだん、だんだんと見慣れた景色に。王子駅が近い。石神井川だ。お香の匂いがまたふと、鼻から海馬にダイレクトに抜ける。そのまま俺は王子駅へと抜けようとした。犬が渋滞していた。

その交差点では、散歩中の犬と人が3、4セット。人は服を着ては縄を手にしていた。犬も服を着ては縄を首に固定されていた。犬同士、干渉しあっては拮抗していた。唐草模様の首輪に桃色の縄。そのコントラストは俺になんらかの理由付けを求めた。だがひとつもわからない上に「センスだな」としか表象できないものだから悔いつつも駅に向かった。

北区王子の象徴でもある「北とぴあ」という高層ビルの屋上階。そこはとても眺めが良い。その場所でウィトゲンシュタインの書籍を読んでは、思考の痕跡を追いつつ憩おうと思った。だが、館がそうであったように同様。登れず。帰った。もう用はない。そもそもなんも用のない散歩。逍遥。邂逅。案外、目的がなくとも色々な出会いがある。

俺は今年、文学に出会って夢中になった。今日、第二作目の第三稿の推敲を終えた。ラストシーンで自分がグワッという気持ちに確かに、確かになれた。素敵な作品だと断じられた。明日は大晦日。節目としていい。心境的にちょうどいい。

セフレなんぞ俺には一人もいないのだが、濡れた渇きを何度と何度と潤すかのように、足繁く通える場所が出来た今年。毎日熱狂できることと出会えた今年。

2025年の最後の方の日は、そのようなことを回顧しつつ、現地に行ったり現に書いたりと、今年を象徴するような過ごし方をしていた。

今年の思考の痕跡があるとするならば、それは全部原稿に書きつけた。人生の今後の生存戦略としてそれをずっとやっていた。ずっと、定期的に学びの場にも通っていた。

――「今年を表す漢字一文字は?」と、先日仲間とそれを示していた。俺は「字」と答えた。嘘である。いや嘘ではないが今思うと、である。「字」――今年ほど文字を読んでは文字と向き合い文字を書いた年もなかった――で適切ではあるが、今思うと、それは「起」ではないかと断じられる。起こる「起」。理由は上の通りである。

本当に本文の上の最初まで行くと「勃起」の「起」じゃねえか。というようになるが、そう。わざと下のキツいことを言いたいがためにそう記す訳ではなく、それだけおおらかに、今年のあらゆることを「起」という一文字に集約させることが、その一文字に帰属するのではないかと、わりと真面目に思った次第である。
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時間がやわらかく、後ろに流れる。そっと、音がちいさく鳴る街。ふと、上を見たら真っ黒だった。それ以上の向こうは無いというほどのその色は、誰にも変えることができない象徴のように思えた。

取り返しのつかないことをした一年。黒色は、それを示唆しているように映った。

今年の初旬から今日まで、小説を書くことに取り憑かれ、その行為をする自己に磔にされたかのように、毎日背中を丸めて縦書きで文字を重ねた。

何文字書いたであろう。量ではないのかもしれない。たった一文、一言で人生が変わることがある。

――今年の初旬。微睡みの途中だったのか、前後の瞬間だったのか、ぼんやりとしか覚えていないのだが、たった四文字のメモ書きがキッチンにあった。

それをしげしげと見ては明瞭に感じるものがあった――それは、自分で書いた文字なのだが、それが発端で、丸一年を変えてしまった。その四文字をそのままタイトルとして、命題として、最初の小説として仕上げた。もちろん、世に問うべく、公募に出した。そして、その次を今日も進めていた。

もしも今年の毎日、小説用の原稿用紙に向かっていた数時間を、別の営みに充当していたら、今、全く別の人生に向かっていたのかもしれない。

しかし、俺はそのメモの、少ない言語を、あまりにも頼りない筆跡のそれを頼りに、「むしろそれ以外に何があるのか?」と、狂信手前の心境で今日まで過ごしてきた。

その顛末が、真っ黒にしか見えないのか、自分で変えることができた象徴となるのか、今はわからない。年が明けた。

早くて、それは今年に判明する。遅くて、何年、何十年とかかって、判明するのか。今は全くわからない。ただひとつ、自分で強く思えるのは、今年は、取り返しのつかないことをしていたということ。

言葉回しだけを裁断するとそれは後悔を意味する。しかし〝この一年〟という観念のなかでそれを吟味すると前向きな気持ちにしかならない。

ただ、それ以上の向こうは無いというほどのその色は、取り返しのつかない一年の向こう側を、自ずと照らす行為。そう、捉えている。

時間がやわらかく、後ろに流れる感覚。時間が俊敏に、前に向く感覚。その凪に居たかのような一年。

たくさんのことがあったが、今日という、年の終日を精緻に吟味すると、あの真っ黒な空が全てを吸収してくれるのではないかと、取り返しのつかない最善の決断をしたのではないのかと、そんな風に思えた。
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