03/2023

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
仕事は安心のベースと認識。3月


スピリチュアルカウンセリングを受けたい。

そういった衝動にかられた理由は、人生に行き詰まっているからではない。シンプルに興味本位である。人生の取材である。そして、ただの冷やかしの心境が少々混じる。

むしろ最近は、行き詰まりからの好転をじわじわと感じている。そこで油断するなと、むしろもっと気を引き締めろと、そういった観点からも新たな景色を、新鮮な観念を欲するわけである。

だから俺は「スピリチュアルカウンセリング 赤羽」というワードで検索エンジンを叩いた。するとめちゃめちゃ近所に2件以上もあった。

「そんな、コンビニちゃうねんから」と、俺の脳内突っ込み相方は端的に述べる。しかし、現に近場にあったのは驚く。

「前世療法」というのが非常に気になる。科学的に「前世がある」とは証明されていないはず。しかし、なんらかのアクセス方法で、その人の前世に遡ることができるとしたらなかなかパワフル。

そのような非科学的なことに対し俺は、「信じている」というより、「確かにそうそういう場合がある」と、解釈している。

手相や人相がいい例である。興味があってちょっとかじった手前は、たまに遊びで人の手相や人相を見てはで「こうですよねえ〜?」と、占いごっこをしたりする。断じてキャバレーでモテたいが為ではない。

各種の相を見て、そういった傾向があることを踏まえて、言葉を伝える。面白いのは、相手と対峙して、例えば生命線が長いから「長生きしますよ。健康ですね今?」とかダイレクトに言う前の刹那に、色んな言葉がポンポンと頭に浮かぶことである。

それを散文的に伝えると、謎に的を得ていたりするから不思議である。対面して感じる相手の雰囲気と、相手が発する思念みたいなのが俺フィルター経由で言語化されるのだろうか。

もしかしたら、スピリチュアルや占い師といった方々は、そのあたりを訓練することによって、相手の傾向やらを当ててくる(あるいは導く)能力を身につけているのであろうか。だとすると納得である。

要は、手相そのものやタロットで何のカードが出たかというのは実はメインではなく、「その場で相手をどう感じたか」という思念がどう湧くか、どう整理して伝えるか、というのが肝心なポイントなのではないかと思っている。

そのあたりの証明もかねて、スピリチュアルカウンセリングを受けたいのである。俺がスピリチュアル的にどうこうというよりも、彼らがどういうつもりかというのが知りたいのである。

前提として、俺はスピリチュアルや占いを否定していない。体験しなければわからないことは世の中にいくらでもある。

「あなたは天使の生まれ変わりです!」

「そうすか? 酒ばっか飲んでますが――」

「色んな天使や神様がいてね、みんな天では酒盛りしてるんですよ(笑)」

「ははあ。じゃあやはり俺には天使的な力が?」

「だってお酒好きなんでしょ?」

「確かに」

「ほらあ」

という三段論法崩し程度のレベルだったらそれはそれでポップでいいかもしれない。そんなことないだろうが。
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仲間に進呈するプレゼントを買いに行く。品数充分の池袋の酒屋にて、当人が喜びそうなボトルを物色する。

直感でこれだと思ったものをキープし、一応もっと探してみる。しかし直感は精強。結局、最初にピンときたやつを買う。

ついでにブックオフに行き、手前の目当ての漫画がなかったので適当に『アゴなしゲンとオレ物語』あたりを立ち読みして帰る。春一番クラスの強風と真冬の気温が交差するわけのわからない気候であった。

原稿を書く。音楽記事以外のライター案件もバンバンやりたいとずっと思っていた。それを昨年あたりから発信し始めたところ、徐々に受注に繋がる。

仲間から紹介して頂くという形がとても大きい。非常にありがたい。加えて、本当に初めましての方や企業から仕事をもらえるのも嬉しい。もっと仕事を増やそうという思いが現実になるのは手応えがあって気持ちがよいなと切に思う。

寒々しいメロディの楽曲が完成したのでプラットフォームに申請する。ストック収益の種を撒き続ける。

そのような、わりと地味ながらも進んでいる実感のある1日。年末から2月中旬にかけての地獄のような心境は楽曲に落とし込んだので少し、昇華。似たような心情の最中にいるユーザーに使って頂ければ何よりだなと思いを馳せる。
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てきぱきと掃除洗濯をし、原稿を書き、次の案件の準備をしたりと真面目に過ごす。

合間に、最新人工知能のChatGPTで遊ぶ。なんだか日課になってきた気もする。今日は人工知能のライティング能力を試してみた。

ChatGPTのキャッチコピーを生み出すポテンシャルをはかるべく、「味のコクに特化した缶ビールのキャッチコピーを5つ教えてください」と、ChatGPTに質問した。返ってきた答えは以下の通り。

「深い味わい、豊かなコク。」
「一口飲めば、まろやかなコク。」
「濃厚な旨みが、心地よく広がる。」
「極上のコクが、舌を満たす。」
「美味しさの秘密は、そのコクにあり。」

率直に、わりといいと思った。しかしやはりどこか機械の回答だなという感想も同時に出た。そこで、もうちょいリクエストしてみた。「もっとインパクトのある感じにしてください」と。するとブラッシュアップされた回答が返ってきた。

「大人の味わい、一口で魅了されるコク。」
「贅沢なコクが舌を満たす、至福の一瞬。」
「満たされる、コクの深み。」
「このビールのコクに、あなたも酔いしれる。」
「深みのあるコクが、あなたの心を虜にする。」

ここまでいくと、提案された5個のいずれかの良点を組み合わせれば及第点までいきそうである。正直、やはり驚異的だなと思った。

ついでに、「もっとバカにも刺さる感じにしてください」と、かぶせてみた。すると、さらに砕けたキャッチコピーが羅列された。

「一口飲んだら、マジうまいっすわ!そのコクたるや、ヤバすぎ!?」
「コクが濃すぎて、他のビールはもう飲めないかも!?」
「このコク、ウマさで言ったら、他のビールはあきらめるレベル!?」
「コクが濃いから、まるで缶いっぱいに味が詰まってるっぽい!?」
「このコク、飲んでない奴は人生損してるっぽい!?」

いい感じにポップになった。というかわりと煽っている。あとはリテラシー的な部分を人間が調整すれば、新発売のコクに特化した缶ビールのキャッチコピーが出来上がりそうである。

念のための補足だが、これら15個のキャッチコピー案は全て、俺が考えたものではない。ちょっとライターとして危機感すらおぼえるほどの提案だったが、あくまで人工知能は人間が利用するものであるという前提であれば、心強いだろうかと前向きに捉える。

ここまでの文章を、試しに、本文に見出しをつけるとしたらどうなるか試してみた。すると返ってきた提案は以下の3つ。

1. ChatGPTによる缶ビールキャッチコピー案の提案
2. キャッチコピー案のブラッシュアップとバリエーション
3. 人工知能と人間の協力によるキャッチコピー作成の可能性

なんかパワポで作る企画書の1ページ目みたいで固かった。人工知能はわりと真面目という印象だが、今後の進化を加味するとちょっと凄すぎる。「大人の味わい、一口で魅了されるコク。」あたりは、なんかそのままいけそな気もする。
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バキバキの鬱っ気に見舞われる春の初旬。そう、春はあなどれない。そうだったそうだったと、気分とは裏腹のような天候の中、職場に行く。

こういう時、「なんのために生きているのだろう」「人生の目的とはなんなのだろう」などと考えてはいけない。思考はロクな方面に向かない。タチの悪い頭の中の無駄話でしかない。

ひたすら、五感で得られることに集中し、仕事なり作業なりするのが適切であろう。人にもよるだろうが、少なくとも俺は心底そう感じる昼下がり。

夜に入るとだんだん改善されてくる。これもあるあるだなと、まあまあスッキリした気分で帰宅。もうひと作業して締めに入る。

そういう気分になるということは春がやってきた証ではないかと、実にポジティブに捉える。

なんだかんだで、やることたくさんあって、いい方向に進んでいるではないかと正しく理解する。

徒然に、春の風の矢、突き抜ける。寛容に素で受け止める時、さまざまな想いが花開く。花との了知が肝心要。
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「春になるとご新規客が増える」というのは水商売界隈ではわりとあるあると聞く。それだけ、テンション上がりがちな季節なのだろうか。

俺は全然そんなことないなとか訝しみつつ日中過ごす。しかし、帰宅して夜中に差しかかると、どんどん気分が高揚してくる。

作業は捗り、新しい制作楽曲のネタが完成形まで見える段階までトトトと進む。気分と生産性とは、こんなにも密着なのかとむしろあきれる程。

常にこういったアッパー気分で暮らすにはどうすればいいかと考えた。やはり、思う以上の稼ぎと内容充実な仕事、そして、幸福な家庭と、仲間との良好な関係だろうか。

最近、死んだ父親がよく夢に出てくる。ほぼほぼ、一緒に仕事をしている様子の描写である。

彼は、いっとき、俺と家業をしている時期、確かにアッパーで幸福な人生のひとときを送っていたのだろうかと振り返る。

だとしたら、彼に対してのいっさいは昇華される。親不孝者の親孝行とは。手前にせがれがいればまた、別の角度からなんらかが見えるのであろうか。
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酒呑みつつ、アイフォーンからポーティスヘッドの1stアルバム『Dummy』を聴いていたらソファで寝落ちる。

ふと、フレーミング・リップスの「Race for the Prize」が自動再生され、イントロの美麗なサウンドで目が覚める。1999年の楽曲である。

ポーティスヘッドのデビューは1994年。とにかく俺は音楽のリスニングという点に於いて、物凄く恵まれた時代に青春を過ごしたのだなと回顧する。

今日はライター案件でインタビューを行なう。ちょっと久々だったが、とても楽しかった。

対話で相手から話を聞き出すことは、まずなにより対象を尊重するという大前提があるので、自然と健やかな気持ちになれる。

カタカタと原稿を書く。今日は締める。部屋の灯りの色を変える。もし俺が、一時のろまな人間だったとしても、栄誉を得て、今度はインタビューとか受ける方になったら、それは割と楽しそうだな、などと思いながら。
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小春日和も定着してきたかなという温度感。それなりに眠いが気分は良好に、仕事をする。仕事とは、誰かのために何かをして、対価を得る事である。当たり前だが再考するとモチベーションに繋がる。

こ難しいことはまあいいかと、タンメンを食って夜、帰宅。原稿を書いて今日やることをやりきる。今日、1日、やったなと思える。

昨日インタビューした方が「時間が一番残酷」と、言っていた。なんとなく確かにと思った。

言われてみれば、時間ほど平等に与えられ、残りが減っていく概念もないものだと納得。よく富豪のような属性の方は言う。「時間が一番大切だ」と。

一年がリセットされる時期はいつかと問われると、人にもよるだろうが、それは「春」だと思う。俺は毎春、入り口で律儀に落ち込む。謎に鬱に襲われる。

その理由が今日昨日あたりで判明した気がする。時間が残酷に過ぎていくのを年単位で自覚するタイミングだからではないかと。

そんなめんどくさい思考の野郎がいるのかといったら少なくとも手前、他にも、わりといるのではないかと思う。

とはいえ一般的には春はルンルン、入学に初任に花見だなんだとハッピーなカラーの季節。無駄にヘコむ時間があったら幸せを自覚して活動する方がいいと思う。

それこそ、有効な時間の使い方なのではないかとも思うが、理屈でうまく働かない時もある人間の精神構造たるや。とか考えるのもいかなるものか。

個人的には、悪くはないと思うが、行き過ぎると本当に危険を伴う場合があるのでバランスが大事であろうか。そういう時は酒呑んでいっときバカになって寝ちまおう。そして、起きてシャキッと人生を謳歌しよう。

最近2合でまああまあ酔っ払うのは歳のせいだろうか。やはり時間は残酷。
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自分から見る他人、周りから見る自分、こうも違うのかと思うことは往々にしてあるのだろうか。

手前では、良かれと思っていたことが、他者からはシンプルなしくじりに見え、逆も然り。そういったことは客観的視点の指摘にして判明する。

今日は仕事をしてその後いろいろな場所に行って、そのようなことを深く深く思った。他者は、自分と違うのだと。自分は、他者と違うのだと。

ただそれだけのことだが、だからこそ人間は、近しい者共を愛おしく思うのかとも併せて思った。そして、そこになんの価値があるのかとも。

あるとしたら、各々の能動。たったそれだけのことかなと思うと、みんな違って当たり前だと思う。

しかし、どうやら、思いのほか決定的に違う部分もある。

そこを共有できれば全世界幸福そのもの。俺は、違いに対して敬意を払いたい。しかしそれは、どうやら贅沢の類なのかもしれない。
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橋の下で非合法なドラッグを喰み、そのほかに特にやることもなく、寝ては喰い、起きても意識はコントロールできないまま。

河原には使いまわした注射器が雑多に転がり、川の水で雑に洗ったそれらを使い回す。いっさいの希望がない場所。それが日常として流れる国があるという。以前、なんかのYouTubeチャンネルで観た。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「アンダー・ザ・ブリッジ」という曲の歌詞には、そういった描写を思い浮かべさせる節がある。俺が勝手に解釈しているだけだが。

今日は散歩がてら、橋の下へ行った。荒川である。人はぽつりぽつり、基本的に寂しげな空気感だった。

橋の根元の土手の、ちょうど中心に当たる場所に座り、川をながめていた。死ぬほど暇だったというわけではない。息抜きである。俺は静黙に、物理的に息を抜いた。

4カウント吸って、4カウント止めて、4カウント以上でゆっくり吐く。この瞑想導入の呼吸方法を10回繰り返した。

なんだかクサクサした心境だったのでそれを整えたいという動機である。静かに、あぐらをかいて、ただ何も考えずに川の音やらに耳を傾けた。

20分後くらい、整ったかどうか微妙だが少しチューニングが合ったような気持ちになったので帰宅。とにかく散歩は、手前にとって一番のリラックス方法かもしれない。

原稿を書き、制作をする。順調に進む。ということは整ったのであろう。

橋の下では、街で飛び交う様々な思念の残りカスみたいなのが静かに、聞こえる。そこにドラッグなどは当然なかったが、なんらかの薬が効いたような安堵がある。

それがファンタスティックかどうかといったら決してそうでもないので、他者におすすめはしない。とはいえ、人によっては平穏に似て非なる静けさを楽しめるのかもしれない。
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今日も健康にいってみようと仕事をする。春のポカポカ日和。北区王子の飛鳥山公園あたりで花見だ酒盛りだといきたいところだが、陽が高いうちは飲酒しない主義。理由は、それが続けば速攻でアル中になれる自信があるからである。

しかし「誰かと遊んでいる場面」は、その限りではない。遠慮なく飲む。なんなら寝るまでずっと呑み散らかしては、日の後半の短期記憶をだいたい飛ばすこともなくはない。

要は、「一人で、昼間から呑む」ということを禁忌としている。何故ならば、アルコールに深く依存した体験を綴った作家さん方の作品には共通項が散見され、それが「昼間からも呑む」ということだからである。

中島らも先生も、まんしゅう先生も、永田カビ先生らの作品からも、それぞれそういったくだりがみられた。だから、もっと言うとあくまで俺の場合、「一人で昼間から呑む習慣 = 依存症直行」という式が組み込まれているのである。

あまり深く考えずに、お酒はほどほどに。それだけの話である。人にもよるが、呑んで、呑んで、呑まれて、呑んで、呑んで、呑み潰れるギリ手前で寝る、くらいの日が月に1、2回くらいが丁度いいのかもしれない。なんの「丁度」なのかは、謎。
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「仕事は安心のベース」と、今2周目を読み返している本に記してあった。そりゃそうですよねと、身をもってわかりましたよここ数カ月、はたまた年単位でと、一言で示された真理に納得。

ひとつ、原稿を提出する。ひとつ、案件依頼の打診に対応する。給与所得の仕事もする。そういった日々が連なると、確かに、不安は払拭されていく。

だがこれで安心せずに、如何に野心をグワァと言わすかが、これからの人生の鍵を握る。「お前は自己顕示欲が強いのか?」と、仲間に問われた。「ああ強いですよ」と、正直に答えた。

それを満たすためには、人のためになることをグワァとやればいいのであろうか。そんな風に今日も、誰しもが認識していそうな人間的基本の概念を考えては、1日が過ぎていく。
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銀座の大通りは歩行者天国ということで人が妄りにはみ出していた。今日はアーティストのSPALのスタッフ案件で1日過ごす。

終演し、くつろいでフフンとアコースティックギターを弾いて歌って遊ぶ。すると、ヨディーさんが色々とアドバイスをしてくれる。

なかでも、「エッジボイス」や「ミックスボイス」の出し方について説明してくれ、手前の場合だと、どうしたら良くなるかというわかりやすい提案をくれる。有料級レッスンのひとときである。

「エッジボイス」とは、言葉に濁点をつけて歪ませ、アタック感強めの発声といったもの。「ミックスボイス」とは、地声と裏声の間の発声という感じだという。

ボーカリストというのは、こういったテクニックを各所で駆使しているのだなと感銘を受けた。そのなかでも、情念を音として表し、歌唱できる人こそが、プロフェッショナルなボーカルなのだなと併せて思った。

そういったこともあり、いろんな皆様とたのしくしていた和やかな春の中旬。確定申告の締め切りは3日後。しかしまだやってない焦りの声はエッジボイスで強目に漏れるので明日が勝負。前提として、確定申告に勝ち負けなどない。
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所得や税やらの申告を確かに定める。昨日たのしかったことが起因なのか、やけに体調がよいので原稿を前倒しで書いたり、発汗するほどエレクトリックギターを弾いたりして暮らす。

いつもより食欲が旺盛なので食いたいだけ食う。これが年中だときっと俺はそれなりに太るのであろう。しかし、謎に仏のような心境の、食い物、要らぬ、的な時期もあるからいつだって体重は50kgちょい。

そうなってくると、今日のような正常範囲フラット以上な精神状態がデフォルトならば、手前は中年太りのハゲかかった40代という姿になるのだろうか。

そう考えると、少しはダイナミズムの効いた気分変動はアンチエイジングに繋がるのだろうかという仮説。

そんなことを考えつつも、シャッと髪をかきあげてはけっこうすぐに見つかる白髪をそっと抜く。日々のヘッドマッサージに精を出す。頭を毎日数分、まんべんなく揉むと、ついでに顔のたるみも改善されるという豆知識。

良好な血行と、淀みないリンパの流れは、気持ちと因果関係があるという持論。わりと合っている気がするが、他の人はどうなんだろう。
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総理大臣もマスクをせずに出廷。となると、さすがにみんな外すかなとか思いつつ、今日あたり外出先でもいっさいマスクをせずに過ごした。

電車に乗る。やっぱ9割がたの人たちはマスクをしている。出先、屋内だったがけっこう外している人もいた。

花粉症の季節を鑑みるとまだ、外すのは得策ではないのかとも気がつく。それにしても、みんながつけているものをつけないで雑踏にいるあの感覚。俺は社会不適合者なのだろうかという感覚すら湧く。

「外したいのは山々だが、職場などのルール上、そうもいかない」という人たちは多数いるであろう。その上で、個人の判断で外している手前は、身勝手この上ない非協力的な人間なのかなという感情にもなる。

しかし、みんなに合わせた方がいいのだろうかという葛藤もあるにはある。とはいえ、世界的な風潮も加味すると、そろそろ、マスクに対してそんなに過敏にならなくてもいいのかもしれないという風に結論づけるあたり、やはり国内においては、不適切なのだろうか。

前提として、コロナウイルス感染拡大防止対策として「引き続きマスクをつける人が正しい」「もう外してもいい頃合いである」と、いずれかであると判断する気持ちというわけではない。ただ単に、俺はもう基本的には外そうと思っただけの話である。

なんだか申し訳ない気持ちとセットで、マスクをせずに外で過ごすという特殊な時代はいつ終わるのだろうか。
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「お前は結婚したいとか思わないのか?」と、問われる。

「積極的ではないでしょうね」と、答える。

「好きになった女を離したくない――とかそういうのないのか?」と詰められる。

「その人が俺を見切ったら、その女性を尊重して、追いはしません」と、即答。

「それは尊重じゃない」と、反論される。

「じゃあ、『頼むよ、俺は君じゃなきゃダメなんだ!』とでも言えと? そういうのはないのです」と、リアルな雑感を伝える。

「それは尊重じゃない」と、断じられる。

「なんすか? 人様を縛ってでも、手前の能動起因でモノにしろと? それが男らしさなのですか?」と、噛み付く。

「お前は、人を好きになったことがあるのか?」と、前提を確かめられる。

「ある。が、固執はしません」などとほざく。

「あれだな、カウンセリングとか行って『これだ』ってのにピーンと気づいたらお前は変わるかもな」と、わりと自然な感想を賜る。

そういったわけで、カウンセラーの資格を保有している手前がカウンセリングを受けようという気概が生まれた。

カウンセリングとは、対象の課題を受容し、傾聴し、互いに協力して解決に向かうことである。そこに、アドバイスがあるかといったら、全然違う。

心理カウンセリング、スピリチュアルカウンセリング、臨床心理、精神分析などなど、いろいろある。

俺は、直感でこれだと思ったカウンセリングを受けようと決めた。事前に下調べはしない。理由は、無駄にけっこうその手の知識があるからである。

ではと、月初に記したスピリチュアルカウンセリングからいこうかと思う。心療内科、精神科、などはわりと体験込みで知っている。しかし、スピは知らん。だから取材に行こうと思う。

「俺は使命を確信した。旅に出る。そして、その記録を毎週固定曜日に、橋の下から配信する」

などど記したら恐らく道を外している可能性劇高なので、やっぱり気にかけてくれる身近な仲間の存在たるや、愛すべきと思える。

人を好きになる、というのはよくわからんが、相手を愛するというのはちゃんとわかっているつもりである。近年、最終的な死を無修正で目前にした様々な体験をもってして。それこそ、逆なのかもしれないが。

とりあえず今日は愛する人たちと1日幸せに過ごせ、鏡で笑顔を確認できた、まごうことなき春の良日。
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頭を空っぽにして飛鳥山公園で散歩をする。桜が咲き出すいい塩梅の陽気。大木に触れたりして自然のパワーを享受する。確かに、大いなる何かを感じる。

昔、足繁く通っていた『王子龍龍』というパチスロ屋の前の公園で、菓子パンとか食う。子らがキャッチボールをしている。高校生のカップルがイチャついておる。それらについて、特に感想はない。あったが忘れた。

今日のコンセプト通り、何も考えてないなとピントを合わせ、『北とぴあ』という区の施設の最上階展望台にのぼる。めちゃめちゃ高い。「飛んだら死ねるな」とか、そういうことは考えない。ただただ、眺めがいいがそれだけだなと、何もせずに過ごして降りる。

赤羽に戻ってふらふらと彷徨い、帰宅。なんも考えずにメールチェックとかしてちょっと寝る。起きてめし食って制作をする。

深く考えず、右脳だけを使い、「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンみたいな音像の30秒の曲」というコンセプトで、出来ている土台の上にエレクトリックギターを重ねる。ごちゃごちゃとは考えず、軽く各トラックを整える。素晴らしいペースで進行する。

昨日、「お前は考えすぎだ」と、言われた。確かにな、と思った。だから今日はなるべくナチュラルに、深刻に考え事をせぬように過ごした。すると、整った。

思考状態のオンオフを意識するだけで、無駄な苦悩は減るのだなとシンプルに体現したのどかな1日。夜、昨秋ぶりに近所の茶トラネコを発見。サワサワと撫でて挨拶し、春の訪れを実感する。
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もしも今日感じている艶やかさが物質起因だとしたら、先日発注して届いたスペイン産の謎のサプリメントの効果かもしれない。

プラシーボ(思い込みだけで効いちゃってる)かもしれないが、なんらかの良さを体現しているなら言及不要。今日も健やかに過ごす。

原稿を書いて提出し、制作をする。共に対価は生じるのだが、後者は広告収入も含む。近い将来、これまで主流だったビジネスモデルが激変し、その収益が衰退していく可能性が高いと懸念する。

要は、急激に進化してユーザー数を獲得しているChatGPTなどの普及により、「ネットで検索をする」という行為が当たり前ではなくなるかもしれないかである。

そうなってくると、検索してたどり着くあらゆるウェブサイトにある広告の役割が薄くなる。そこに依存する収益なども減る。といった理由である。

だから、なんか新しいスタイルの収入源を考え続けようとアイドリング思考を続けている昨今だが、まだ鋭い案は思いつかない。

AIにはできない、人間特有の、俺が行なう仕事の付加価値とはなんぞやと考えていた。

もしも今日あたりも考えていた案がまばゆく光り、勢いがありつつ普遍的な価値を生み出すビジネスとして具現化したら、きっと俺は水を得たお魚のように活き活きと暮らせるであろう。いつだってピチピチと過ごしたい。
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ひとつ案件が完了。もっとたくさん受注するにはどうすれば、さらに、音楽方面でもっとマネタイズを強化するにはどうすればと模索しまくる。しまくって寝る。

30分の休憩からを経て制作を行なう。ほぼいいのだが、どうも感覚的にピシャリとこないのはだいたいメインパートの録り音の演奏クオリティ。後日弾き直すのがベストと判断してDAWを閉じる。

〆てやはり考える。どうすればもっと収入を増やせるかと。依頼案件と、ストック収益と、給与所得。大分類としてこの3つが源泉である。前者2つは細分化されており、ここを掛け算的に増やせれば車買えるくらい跳ねるのだがなと夢を膨らませる。

具体案をずっと考える。いろんな分野の情報を吸収し、人に触れ、常にアンテナを張っていれば必ず具現化できるはず。

1月はいろいろありすぎて立てられなかった今年の目標は、いかにして事業所得を増やすかである。

よくよく考えたらそれは、去年とほぼ変わらないが、考え方の精度を上げれば達成に向かうと前向きに捉える。思考の精度とは。やはり、いろんな景色を見ることからだろうか。
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電車でちいさな女の子が窓の外を指差し、「あそこになんかあるよお」と、親に言っていた。

なんだか楽しそうな人を指すような表情だったが、明らかにそこには何もなく、誰もいなかった。

女の子には見えていたのだろうか。親御さんや俺には見えない何かが。そういうことはよく聞くなと、最近わりとスピリチュアル思考を働かせるものだから敏感にもなる。

子供の頃は感じていて、大人になるにつれ、感じなくなったこと。俺にもあったなと思い出した。

それは、実家である3階の部屋まで登る階段であった。小学生の低学年の頃くらいまで、俺は、その階段を登って家までたどり着くのがなんか怖かったのである。なんか後ろが怖かったのである。

振り向いてもなんもいないのだが、謎に怖かったということをよく覚えている。

3年ほど前、どういったくだりかは忘れたが、「足立区の実家にいる頃はロクなことがなかったです。赤羽に引っ越したら性格単位でなんかいい感じに変わったというくらいで」と、霊感のある人に話をしたことがある。

すると彼は、「その前の家、場所的に、周りに何がありましたか?」と聞いてきた。俺は、目立つものとして「目の前に学校、自宅物件を挟んで対角線上に神社がありました」と答えた。

すると、「それあれです、聖域だと思います」と、彼は即答した。俺は、聖域ならいいんじゃないのかと思ったが、「聖域っていうのは、本来人間が住むのは良くない場所なんです」と、そうではない旨を説明してくれた。

驚いたのは、「階段ってどんな感じでしたか?」と、続いて聞いてきたことである。

昇降方向などを伝えると、「じゃあ、通り道になってる可能性全然あります」とのことだった。何の通り道なのかはもう聞くまでもなさそうだったが、そうだとしたら、子供の俺は「感じていた」ということで腑に落ちる。

さらに、「怖かった」わけであるからなおさらかなと。

やはり差はあれども、人間には五感では察知しない感覚があるのだなと改めて思った、埼京線車内十条駅付近。

とはいえ、あの女の子は楽しそうだったので、楽しげな何かがいたのだろうかということで手打ちにしないと俺が怖くなってくる。
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手元の案件が途切れたので、ほぼほぼ1日楽曲制作をする。合間にブックオフに行った以外はずっと机にへばりつく。

あとちょいで完成だが、「なんか足りん」というよくある詰めのハマりで後日に持ち越す。

曲でなくとも、コンテンツは全てそうだと思うのだが、「これだ」と、確かな完成を感じる瞬間がある。

例えば記事などでは、見出しをウンウン考えてひょっと出たのがハマると「これしかない」と、なる。その基準は、恐らくこれまでの経験やらを起因とする総合的な判断なのだと思われる。

そうなってくると、いかに多くの情報や出来事を吸収して、経験を積んできたかがものを言う。それは、最新AIチャットが凄まじい情報をもとにして秒で「これっぽい」ものを吐き出してくれことが物語っている気もする。

手前は相当な量の音楽を聴き、わりといろんな曲を作ってきたのにも関わらず、なかなか「これだ」という瞬間にたどり着けないことが多々ある。それは、それだけ音楽制作自体が難しいという事なのではないだろうかと思った。

ほとんどの人が納得する音楽をAIが簡単に作ってしまい、音楽制作経由の源泉という仕事が奪われるのではないかと本気でヒヤヒヤしている昨今。

しかし、実際に制作をして簡単に「これだ」というものがポンポン出来ずに躓きが多いという事は、逆に人間にしかできない事なのだろうかという安堵感とも捉えられる。

とはいえ、サラッとしたBGMくらいはすでにAIで出来てしまう時代。その技術は今後、加速するであろう。だからせめて、明らかに人間が作ったとしか感じられない制作をすることに努める。どうかそこに、なによりの価値があってほしい。
_03/20

 

 

 

 


“最強開運日”であるという本日。 なぜかというと、一粒万倍日に天赦日、寅の日と吉日が3つも重なる「トリプル開運日」だからであるらしい。

「どうしてそれで最強にラッキーなのか?」という科学的根拠は知らんが、俺はシンプルにワクワクとして過ごす。そして、明らかに普通に過ぎていく。

最近お世話になっている会社に稼ぎに行き、帰宅して制作をして、完成手前まで進む。〆に入る。ここのところめちゃめちゃよくある日である。

俺はこう解釈した。根拠なしに何かを期待せず、自発的に先々を照らすルーティーンをこなすことで運が最強に開けると。それを自覚する日だったのだと。

そうなってくると現状はいい感じなのだなとほっこりしてくる。

近しい仲間たちは何か、特別にいいことがあったのだろうかと気にする。そろそろ0時を迎えるが、「彼女ができた」やら「なんらかに当選した」だの「飼いネコに4つ子ちゃんが生まれた」などといったニュースは飛び込んではこなかった。LINE通知ひとつ、無かった。

ということは、みんな最強に向かって、いつもの日を重ねているのだなとやはりほっこり。

自他共に向けるこういったポジティブ思考はメンタル的によろしい。そこに行動と結果が伴っているかという大前提があるが、そこも最近は良きと現状を確認する。

日常において、“気づかない開運”という流れがあっていいのではないだろうか。幸福というやつはリアルタイムでは気付きにくい側面もあるのではないだろうか。などと背筋を伸ばして納得する春本番。
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視覚や聴覚でというのはよくあるが、触覚や湿度の感覚まで明瞭に記憶に残る夢は珍しいなと起きて思う。死んだ両親が共々登場したが、ああ彼岸だからかなあと月並に理由づける。

墓参りに行きたいところだが、まだ父親の納骨が済んでおらず行きづらい。なぜしていないのかというと、納骨をすると50万円だかそれ以上だったか、それくらい費用がかかると墓の住職から昨年聞いたからである。

すぐできなくもないが、なかなか手痛い出費となる。この場合は“出費”という捉え方が適切かどうかもちょっとわからない。

よもやその件に関しての抗議かとも思ったが、なんとなくそうではなく、夢のフィーリングはどこか温かかった。

現実世界で仕事をする。帰って制作をする。昨日とほぼ同時系列の日。彼岸とは、“煩悩を脱し、涅槃に達した境地”という捉え方があるらしい。

デザイアから抜け、ニルヴァーナへ。と英語で記すとなんかロックっぽいが、なんだか生きているうちは修行なのかなという雰囲気もある。

どうせなら楽しくやろうと日々思う。とはいえ、つらいこともキツいこともある。誰だってあるだろう。

そんな感じで、人生というのはなんらかの境地に達するまでの道のりなのかなとも思う。だとしたらそれは色々あるだろうとシンプルに考える。修行を楽しく捉えたい。
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そんなに酒呑んでないのにソファで気絶寝し、朝方目覚める。昔はそんなことあまりなかったがなと、やはり彼岸だからだなと、決して歳のせいではないなと、適当に時期のせいにする。

今日は1日作業日なので、1曲MIXおよびマスタリングをして完成させ、次の曲を作りつつ楽譜を書く。

滔々と人生を過ごすには、などと思いつつネットの各種受付窓口を見直してテコ入れしたりもする。斬新な受注方法や営業はないかと模索する。

雨音滴り、懐かしい匂いと湿度が纏う新たな季節。わりと真面目に過ごす静かな日。
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スマホなどから大量の情報が流れてくる時代なのにエレカシの新譜情報をアナログに店頭で知る。

赤羽駅前のイトーヨーカドー内CD店は、エレファントカシマシの聖地であることを示すように、めちゃめちゃ賑わっていた。

デビュー35周年に加えて新曲のリリース。ポスターがたくさん貼られていたが、このタイミングでなくとも、この店においてのエレカシコーナーはとても賑やか。

バンドの各盤はもちろん、メンバーが赤羽出身であることや、赤羽駅5、6番線ホームの発車メロディがエレカシの楽曲であることを紹介するポップがあったりとよりどりみどりである。

帰宅してSpotifyでエレカシの新曲を聴く。野性味溢れるサウンドと歌。今のエレファントカシマシは輝いていた。

35年走り続けてなお光を放つこと。それがどれほどの偉業なのか俺には現状想像しかできない。バンドメンバーの絆、宮本浩次さんの稀有性、サウンド傾向やメッセージの力に描写の見事さ、パフォーマンスエネルギーに継続力。いろんな要素が思い浮かぶ。

そんな、すごい人たちがこの街から羽ばたいて、邁進しているのだなと考える。赤羽は、ほかにも西村ひろゆきさんや清野とおるさんなど、著名な方のゆかりの土地として知られている。

なんか、俺はいい場所に住んでいるのだなと改めて思う。あと、林家ペー・パー子さん方に関しては近所で本当に普通に見かける。
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出勤し、夜は都内のライブハウスに行く。あっという間に1日が経つ。

ライブパフォーマンスをしているミュージシャンを観ていると、各々、様々な情念や信念があり、それをドンと放出しているのだなと改めて感じる。とてもいいものだなと率直に思う。

自身の中にあるものを表現することは、人間にとって重要なことなのだなと重ねて再認識する。

それがライブであったり、創作だったり、人とのコミュニケーション、誰かの支援、愛情など、誰しもそれぞれ色んなスタイルがあるなと思考を広げた。

ピアニストの清塚信也さんは、「生きるということは、表現することなんですよ」と、言っていた。2019年くらいの案件の時に直接お聞きしたことがある。

冗談をふんだんに散りばめるフランクで気さくな話ぶりの中、その言葉を聞いて「おお」と、刺さったことを今でもよく覚えている。

逆に、表現をしないというのはどういうことかと考えた。それは、シンプルに自分の意思を伝えないことだろう。それは、さぞ、生きづらいであろう。

こ難しく考えなくとも、「なんでもいいから話してみ?」「……そういえば――」というやりとりも、表現のひとつでないかと思った。すると、何事も前に進むと捉えられる。

たとえ、表現して進んで違っても、「こっちじゃないか? なんか違ったわ」と、一つ明らかになり、また別の表現から何かが生じる。それが人を生きる、すなわち人生なのかなと整った。

ライブというのは、ただその場でサウンドや実演を楽しむ以外にもこういった思念が湧き出る尊い催しなのだなと今日、そのように思った。

2019年から3年半以上経って記憶を反芻し、改めてその言葉の真意の理解に近づけることもあるのだなと、言葉の深みを知る。
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確かに市場を獲得しているような気がするチルアウト的なローファイヒップホップ系の曲を作る。

音楽をジャンルで捉えない場合には訳がわからない名称だが要は、まったり落ち着くゆったりしたビートのおしゃれなエレクトロミュージックである。

ビートはジャストのリズムではなく、意図的にズラす。シンセサイザーはまっすぐな音ではなく、若干うねうね揺らす。ベースはやりすぎない程度にウーファー的な低音域をリッチにする。仕上げは、わざと全体的に、あるいは部分的にザラッと汚してアナログ感を出す。

テキストで示すと簡単だが、本当に気持ちいいチルアウトを作ろうとすると、ビートにしても鍵盤にしても一音一音のサウンドクオリティがものを言うので難しい。

とはいえ、じっくり感覚を頼りに音を捜し、恍惚としつつもリラックスできる音やグルーヴが生成されるとたいへん心地よい。

全部バシッと合っているというより、ほぼほぼ全て、微妙にズレている要素で生成されるというあたりに魅力がある音楽。

ちゃんとしているよりも、なんかズレているけど気持ちがいいという点。それこそエレクトロミュージックなのに人間味があって魅力的。ゆらいでズレてたりする人間的魅力。

そんなチルアウト的な音楽で、最高だなと思うのはBoards of Canada(ボーズ・オブ・カナダ)の音楽。特に『Music Has the Right to Children』という1998年の盤。

10年くらい前、鹿浜というスラム街に住んでいた頃に夜な夜なよく聴いては酒を呑んでいた気がする。

語源がチルアウトであろう“チルい”という表現はそろそろ死語になるのかもしれないが、チルアウト音楽はけっこう長生きするだろうという所感。それくらい気持ちがいいサウンド。
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制作したり、ネットでの営業を模索したりして過ごす静かな日。出かけるにはベストという天候ではなかったが、気晴らしに散歩をする。

「趣味は」と聞かれたら本当に「散歩」くらいしか出てこないなという娯楽への渇望。本当は博奕に興じたいのだがそれは禁止中。いっさい打たずと決めて4年が過ぎた。

というか、あんまり無理するのもよくないので、ここ最近はよっぽど経済的に余裕が出たら禁ギャンブルは解除しようという草案が頭にある。

経済的余裕とは具体的に、余剰金1,000万円以上と決めた。それだけあれば近所のフリー雀荘で死ぬほど刺さっても笑ってられるダメージで済む。

とはいえ、ほぼそうなるである心情がリアルに想像できる。それは、「やった本当に1,000万円くらい溶かしてもなんてことないフェーズに来たぜ。よっしゃ打ちに行くか」と、解き放たれたように揚々とパチ屋あたりに行く。

バシバシ打つが当たっても全然嬉しくない。そして、超久々にかつて行きつけだった雀荘に行く。

「あれ平吉さん久しぶりじゃないですか!」と、雀ボーイに歓迎される。数局打つ。勝ったり負けたりだが全然熱くなれずさっさとラス半コール(この局で最後、帰りますの意思表示)をする。

そして帰路、立ち呑み屋で「楽しみにしてたのに全然面白くなかった。なんか思ってたのと違った」と、呟きながらグラスを空ける。

20代、30代と、あんなに執拗に没頭していたことにもう魅力を感じられなくなったと物凄く侘しくなる。

その瞬間をもって、俺はギャンブル依存症から脱却したと言えるのかもしれない。とはいえ、1,000万円くらい軽いとかいう状態になったらギャンブルする気は起きないであろう。

たくさん稼いで久しぶりに打って「つまんねえ」と言える日に向かって張り切ろうという謎のモチベーション。そういうのがあってもいいと思う。
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ショート動画を垂れ流して頭からっぽにしてアホになっていたら、「仕事って、やるのが嫌なことをすることなんですよ」という言葉が飛び込んできた。

まあ、嫌まではいかなくとも「めんどくせえな」の代行がほとんどの仕事を占めているなと気づかされる。

さっき食った牛丼にしても、「作るのめんどくせえし」という動機がけっこうあった上での入店。店員さん方は、それを代行してくださって、対価を得ている。

ほかにも例を挙げればいくらでもあるが、なんか根本的なことを認識し、仕事全般に関しての苦悩のような情念はなんかはスッと上のほうに蒸発した感覚があった。

他者があまりやりたがらないがその上で、自分の得意な分野に落とし込めればそれは幸福だが、そうでなくても金になる仕事をしている時点で誰かの役には立っている。

役に立っていないとしたら、その仕事は成り立たないし、いっとき仕事になっていてもいつか淘汰される。

そう考えると、俺は仕事に関してどこか贅沢なスタンスがつきまとっているなとわかった。

確かに、特化したスキルを活かしたいのは理想的である。ただ、そこにこだわりすぎると収入は限定されることもある。これはここ数年の手前の挙動に共通した事象だと断じられる。他の人はそうでない場合もあるが。

そういった、ふとした気づきがなんか気分を楽にさせてくれた。誰しもが知っていることなのかもしれないが、俺あたりは今日本当にそう思えた。

じゃあここはひとつ、エロ記事とか卑猥極まりない文章などを真剣に書く案件を売り込むのもいいかもしれない。

本質は、できるのに仕事を選んでいるうちは俺のようになかなか利益が上げられないということ。やはりそう考えると心の間口すら開けていくようで爽快。

淫らなエロ記事を書きまくる仕事ないかな。死んだお母さん、命日にこういった内容の日記を書いてごめんなさい。
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老後のことを考えた。せっせと日銭を稼いで暮らしているのかと。はたまた、食うに困らぬ収益の自動化に成功して悠々自適なのかと。あるいは、労働という概念が社会からなくなっているのかと。そもそも、生きているのかと。

還暦あたり、または、そこまでの年齢で厄介な病に罹り、伴侶も家族もいないものだからサクッと寝たきりになってしまうというリスクはゼロではない。

もしくは、ついに奮い立ち、超頑張って結婚なりをして和みつつ過ごしているのかもしれない。そこまでには当然、今以上の努力を要する。

そんなことを考えていたら、結局は今、やれることをやるしかないという結論に達する。

人生においてのプランというものを、どれだけの人間が明瞭に描いているのか想像した。周囲に目を向けると、きっとほとんどの人はそういったキャンバスに色を足しながら邁進している。

要は、成り行きもいいかもしれないが、目標がいくつかあったほうが人生にメリハリがあるなと反省していたのである。なんだかいつだって手前はどこか漠然としているきらいがあるなと、改めて認めていたのである。

もうひとつ、「これだ」というタスクがほしい。それでもっと稼ぎたい。そいつを見出すには、今やっていることをいくつか整理するなり、手放すことも必要かもしれない。棚卸しのようなものであろうか。

そんなことを考えているうちにも時間は絶対的に過ぎていく。「一番残酷なのは、時間」という、このあいだ聞いたフレーズがじわじわくる。

とはいえ非生産的なネガティブに陥り無駄にヘコむのは御免こうむるので俺は前向きに考えた。

整理しつつ、これはやり切ると決めたことは継続し、常に新たな一手を真剣に考え、全て行動に移す。されど人生のキャンバスは艶々の色彩を放つであろうと。

老後について考えた。誰かと酒でもすすりつつ人生を振り返り、いやあ、こういう感じにしたかったんだ、面白かったよね。この後も、もうちょいは生きていたいよねと、げらげら笑っていられるだろうかと。その時、誰といるのだろうかと。

みんながいたらいいなと思う。これから出会う愉快でエロい人たちもいたら楽しいなと思う。老年期のその団欒の様子こそが、歩んできた人生の結果を物語るのであろうか。
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パツパツする頭痛と著しい覇気の無さが相成り起床が極めて困難。こういう時は散歩に限ると、桐ケ丘団地あたりを彷徨う。

散る桜がひらひらと身体に触れ、心地よい自然の恩恵を受ける。まだ残る古い団地の物件を目視して愛でつつ、ひたひた歩き続け、整ってきたので帰宅。

正に散歩をしている時の心情のようなチルアウトを作り進める。静かな1日。気づかないうちに疲れが溜まっていると判断したので、浴槽シャワーイニシエーションというトリッキーな半身浴もすることに。

散歩にオリジナル半身浴と、心身共に回復できる方法。安上がりかつ効果は抜群。そう信じ込む。
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半身浴が効き過ぎたのか起動時がしんどい。しかし結果、1日良いパフォーマンスだったので効果はてきめんであったはず。

色々あって収益の波が激しい昨今だが、唯一ここ3年で右肩上がりである音楽制作業務に精を出す。冷静に、数字を見ての判断である。とはいえ額としてはもう数倍はほしいところだが。

そういったわけで、質は落とさず、スピードを意識する。意識するだけで人間の能力は上がる。これはまごうことなき事実だと信じている。

どんな仕事であっても、どれだけよいものが出来るとしても、完成までが遅すぎると仕事になりずらい。

手前でいったら、どれだけよいかどうかは一旦おいといて、質的に及第点に行くまでが早いという自負があるのが原稿作成である。ここの文章の質はおいといて。

スピードは仕事においてかなりの武器。じゃあその意識を制作にもスライドすればいいだけの話ではないかと最近気づく。

もうちょい早めに認識したかったが、気づいただけマシだなとDAWでちゃっちゃと打ち込みをして深夜。あっという間に3月が過ぎていく。
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