03/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。オルタナティブな心理学が肌に合う。3


そんなことあるわけないだろうと、声が大きくなるほど驚くこともある。それは、能動的に探したわけでもない場面で直接、ふと知ることもある。

そろそろ春かと察する匂い。今日は暖かく陽もやや強め。窓からうっすら射す日光に有り難みつつ、机で仕事をする。夕方、定期検診に行く。

「――そういったわけでして、大きな変化は特にありません」

「よかったじゃないですか平吉さん」

「はい。だいぶ最初の段階で先生が仰った『仕事がうまくいってるかどうか』という点が際たる病理の原因だと実感する昨今であります」

「どうですかそのへんは」

「はあ、確定申告をして数字で見ると、本業である文筆業や音楽周りの業務より、給与所得が上回ったという点が……」

「それはそれでいいんじゃないですか?」

「6:4くらいの比率なのです」

「ほう」

「本来、本業『10』でありたいわけでして、そのへんがこう……」

俺は、メンタルクリニックなのになぜか業務と収入と数字の話を先生と相談していた。主治医とは長い付き合いだが、彼は、お金の話に謎にくわしい一面を持つ。

「いいと思いますけどね。収入源が多い方が」

「そう言われればそうですけど」

「副業があったほうがいいじゃないですか」

「まあそうですが、本業でこう、ドーンといきたいのです」

「私たちも最初は副業しながらなんてザラですよ?」

「は?」

「医院を開業しても、最初は患者さんがあまりこないじゃないですか? だからバイトをしながらという先生も全然いますし」

「独立開業した精神科医がバイト!?」

俺は思わず声量がでかくなり、全くもって想像もしていなかったことを現場で活躍する精神科医院長の口から直接聞き、本気で驚いた。

「いや、精神科医に限らずですよ。だから別に気に病むような考え方はしなくていいんじゃないですかね?」

「は〜」

「お薬はいつもの通りでいいですかね」

「ええ…いつものやつを……!」

精神科医がバイト。そんなパワーワードを引っさげて薬局に向かう。通りがかりのピンク・サロンの入り口から微かに、細かなシンセサイザー刻みサウンドのトランスが鳴り響く。「5,000円か」と一言呟き、ちょっと書店で立ち読みして帰る。

そうかあ、と思い、原稿を提出して音楽制作をする。

みんな、どの時期でも、どんな業態でも、一本道というわけではないのだなとハッとする。

とりあえず各種がんばりつつ、新たな業務や事業などを生み出す時間をちゃんと確保しようと、最近は給与所得の安心感からか若干、思考が鈍くなっていた本流をグイッと引きずり出す。

ある日は、「そうですか。死にたい気分に……眠れずに焦燥感もあると――」と、傾聴してはDSM-5(精神医学のマニュアル的なやつ)の手引きから精神薬の選択をする。ある日は、「いらっしゃいませ〜何名様で!?」と、バイトをする。そんな独立開業医院長も実際にいるらしい。

いろんな生き方があるし、下方に向かう思考は流し、自身の能力を発揮して人様を喜ばせる仕事をもっと膨らませようと前向きに考える。そのように鼓舞された、春と表現できる月の第一日。
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じゃあなんか新しいビジネス構想はないか、アイディアはないか、ヒントはないかとずっと考える。いろんなものを見る。需要とはと。

当然そんなすぐに思いつかないので普通に仕事して動画制作などをする。5年以上やり続けているスキルをさらに伸ばして営業力をつけ、行動するか、新たな事業を練り出すか。ずっとバックグラウンドで巡るその思考。

もうこれは結果が出るまで濃いめに思案し続けようと思えど、時間はどんどん過ぎていく。

今日形になったのは、収益化とは全然まだ程遠いコンテンツの制作進行。それはそれでいいが、まずは金になり続けることに着手すべきだと、そうだよなと辿るも深夜。明日も考え続けて答えに少しでも近づこう。
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仕事をする。赤羽駅構内書店で、漫画『あくた死に際』2巻を買う。夕飯いっさい食わず、楽曲制作をする。とても心地よい浮世離れしたサウンド。脳の扁桃体がバグったかのような感触。

目、肩、脳の疲労、これはたまらんとハイボール缶をシバッと開ける。ずるい程うまい。動画制作をする。メインコンテンツである楽曲は3、4年前に作った曲だからか、情け容赦なきラウドなMIXが気になる。

眠くて確かに、ふらっとする。気付けの煙草で繋ぐ。

先日、居住物件のオーナー経由で「早くて10年後には立て直したい」という旨を聞く。つまり、今この場所に居られる余命は約10年。

ギリそこまで住むとしてその時、俺は53歳。時間軸のボディ・ブローが肚に効く。今ここで、それまでに、あと数年かもしれないが、やれることをやろうと思うと如実にタスク充当時間が増える。

すなわち、30代後半から40代――いつになるかわからないが、ここでやるべきことをやりおおして「あの時代は」とポジティブに振り返られるようにと。

極論、死がリミットだが、居住においてもここまで「うわあ」と思うのだから、改めて人生なんてあっという間だと認識せざるを得ない。

あらゆる死に際まで、楽しく生きて、終わったらまずはあの世で両親と酒を呑みたい。親父が好きだったタコやマグロとキリン・ラガービール、お母さんが好きだった茶碗蒸しとワインと共に。現世においての今日の肴はベビー・ホタテだが。
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近所のおばあちゃんの日常のお手伝いに行く。2022年にコケた事業の名残り。ともあれ、収入源のひとつでもあるので現金払いで頂きスキップして帰る。おばあちゃんもいつも喜んでくれる。

本屋で色々とインプットする。やたらと新NISAなど、投資関連の書籍が目に付く。いまみんな注目してるのはこのへんかと確認。

俺は、なにか稼ぎのヒントはないかと、なんとなく箕輪厚介さんの著書を読む。そこには、色んな仕事や活動においての解釈や経験、人との接し方などが、とても読みやすく記されていた。熱量と行動力も大事だが、交わし方や立ち回りの洗練さなども重要だと。

あらゆる知識を得るための本があった。唯物論についての部分をよく読んだ。理解したような、わからなかったような。要するにどういうことかとChatGPT4に聞いてみた。

“物質が世界の根本的な構成要素であり、意識や精神などは物質的なプロセスの産物と考える哲学の一派です。つまり、すべての現象や事象は、物質的な条件や関係によって説明されるべきだと主張する考え方です。”

とのことである。ますますわからんと、「『在る』ほうが『思う』ことよりも先、という解釈で合ってますか?」と重ねて聞いた。

“はい、その解釈は唯物論の基本的な考え方をよく表しています。「在る」ほうが「思う」ことよりも先というのは、物質的な存在が意識や思考よりも根本的であるという唯物論の主張を指しています。つまり、意識や思考は物質的な世界があって初めて成立するものであり、物質的な世界が基盤となっているという立場を取ります。”

とのことである。とどのつまり、俺の解釈は正解であり、わかったということなのだろうか。

じゃあ俺がさっきまで制作に勤しんでいた、完全にモチーフなしで意識から出てきたと思っているエレクトロミュージックは、「先に在る」なにかから生まれてきていることになる。

てっきり、俺の潜在意識をサウンド化してる、すげえかも。とか思っていたが、そういった唯物論的な考え方からすると、どこか、レディオヘッド中期の作品やWarpレコーズのアーティストが出しそうな音像にちょっと近い。例えがでかすぎて恐縮だが、そっち寄りである。

まあ、好きな世界観だから「在る」ものが実は先だったとしてもいいかなと思う。

熱量を持って集中し、余計なことは考えず、「思う」なにかを得たり、成ったり、具現化させる。そのあとについてくる意識や感想がほっこりだといいなと、そんなところだろうか。平吉が在るから、こう感じた。そういった人間になりたいが、それはただの承認欲求なのだろうか。
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神様は「思うもの」だから「在るもの」ではないという事になるなのかな、などと考えては妙にスッキリする。

とはいえ、自身という、在るし思うものは確かだな、などとも考える。じゃあ自分なりにやっていけばいいのかなと。

哲学者の言うことはよくわからん、とにかく他者と自分を大事に思って互いの「在り方」を尊重すればいいんじゃないかという結論。

雨は冷たく春はまだ。思いひとつで変ずる万象、そうでもない気もしたところで、全ての何かは、常に動く。

率直な思考を文字に起こすが手前でも意味不明瞭。しかし、なにか、整ったような感覚を伴う「唯物」というフレーズ。
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毎日たのしい。起きるときはつらい。酒を呑めば強制的に安堵する。ふと、あれ、と通じ合うとBPMが上がる。興奮。興奮と熱狂が欲しい。それが自分を縛っている。

そんなことを、仲間と夜、ディスカッションしては確かめる。みんなそれぞれ違う。そこまで血中アルコール度数は心身の臨界点に近づいてはいないが、ふと、我たるやと思う。尻切れ蜻蛉。
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そういった思考が迷子になっている時は散歩に限る。赤羽八幡神社付近で蕎麦を食い、まだ通ったことのない道をつむつむと歩き、徐々に瞑想に近しい精神状態になる。

刻は夕暮れ。陽は隠れており、霞をついばむような空気感のなか、ひたすら歩く最中のデフォルトモード・ネットワーク(雑念に耽る脳の神経活動パターン)は幽玄で心地良い。

太ったネコがいた。じゃあ彼は大丈夫だなと一瞥し、長い道の構造がどこか現在の心境に近いと共鳴する公園を歩く。

桐ヶ丘付近。廃墟と聖地が併さったような、縦長に約6メートルで灰色の細い壁数枚が合わさる謎のオブジェのふもとで一服する。コンクリート質にもたれかかりつつ。

周囲を見渡す。美の要素はひとつもないが、なんとなく見とれてしまう景色や草臥れた遊具などを撮影する。えも言われぬ薄暗さが醸すメランコリックまでは収めきれないが。

ジャングルジムがある。いい大人が登るものではない。しかし俺は、いいのかそうでないのか、そのへんがよく解らない。一瞬だけ考え、冷えた細い立体的な鉄棒を手繰り、天辺まで登る。これといった感想はなかった。

ただ、登らなければ見えなかった、緑色の汚い水が溜まりっぱなしで10年は経っているだろうと思わしき、囲いで外部から遮断されたプールの内部が見えた。

子供の頃、遊具ではしゃいで楽しかった。水泳の授業では消毒液浴槽からプールサイドへ向かう。そこまでの道中がまるで死刑台に向かうかの心境だったことも回顧される。

浮浪者が居た。新聞を一枚ずつ仕分けし、なんらかの規律に則って並べていた。ふと、仕事をしているような様子だなと率直に思った。

認知症に罹った家族が、仕事ができない替わりなのか、似たような動作をしていたことを思い出した。足立区鹿浜2丁目の物件のダイニングで、当人にとっては大事なタスクを日々、真面目に、そんな所作だった。意図不明の書類を淡々と作成していた。

一連の朧げな心持ちがぴったり合う楽曲を制作する。メールをチェックすると、複数の楽曲使用制作報告メールが届いていた。まるで、もっと作ってくれと伝えてくれているような――そのように明るく捉えた。

思考が迷子になった時は、今やることに集中して、ひたすら行動する。真理と思わしき、そのシンプルな精神状態に回帰する。散歩ほど手前にとって良質なチューニングは他にない。まだ知っていないだけかもしれない可能性は極めて高いが。
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普通にめし食ってセックスしてクソして寝るのが「A = 440Hz」の一般的チューニングであろう。そういう風に俺も、なりたい。

心底そう思っているのなら、それなりの行動を起こすのが至極当然。手前はどうかと自問するも、シーンとだんまり答えてくれない。

それならそれで別のスタンスで、などと考えていては何回振り出しに戻るのか、もはや振り出したるやと考えているようで、そうでもないような。

そんな気もするな〜と楽曲制作をする。進捗率99%、あとなんかひとつまみの塩を足すか除くかで完成だが今日は至らず。

大体そういう時は「あとは機材だ。えらい高額な機材が他にもないとそこには達せない」と、物理的には納得し、現在の環境ではこれが全力だとwavファイルに書き出すのが恒例行事。

勤勉に真っ当に頑張れば、それなりに、もっと高い機材を買っては次のフェーズへ行けるのかもしれない。

しかしそうじゃない方法を手前なりに日々模索しては「違う、違う、そうじゃない」と、高次元の俺からの声が聞こえるような。

そのように音声として聞こえたと認知したら、統合失調症に罹患している確率が高いので主治医に相談しよう。

その精神疾患は、発症に対する遺伝的要因が強く示唆されている見解がある。

俺の母方の叔母は統合失調症だった。いつだったか最後に会話した時、彼女は車椅子に乗り、青空を眺めて「舟がくる」と無表情で言っていた。

四十肩なのか、こののところずっと右肩がやや痛いが、その点以外は健やかに楽しく過ごした1日。自覚する限り。
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音楽を視覚化するのは非常に難しいと改めて思う。結局、イラストとか生成AIじゃなくて演奏した動画を編集するのがいいのかな、などとあれこれ試して「まだ違うな」と、背中が反る。

とはいえ、現状ものすごく小規模のYouTubeチャンネルなので、じっくり取り組み続ける。今のところ、楽曲のポートフォリオというか作品置き場の役割の段階なので、各ツールの使用感やスキルアップに勤めようと。

音に関してはそれなりに詰めているつもりだが、やはり「画」というものに対しては、また別の高度な能力が必要。

昨晩、すごく不思議なグラフィックと明瞭な感触を伴う夢を見た。ああいうビジュアルを具現化できたらいいのになと、頭の中にある何らかをアウトプットする難しさを痛感する。
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人はけっこう見た目で判別する。そう断ずるを得ない。

なぜならば今宵、帰路の赤羽駅界隈で俺は、ほぼ確チンピラ・スタイルの格好でフラフラとしていた。すると、いつもの3倍ほどの頻度で香ばしい黒服メンズから誘い文句を賜った。

普段の目立たないファッションで歩いていると、誰にも声をかけられないこともある。あっても1、2名。

しかし今日は、ものの10分程度で6人から「いちゃキャバは?」「お店…! 決まってますか?」「キャバッ――」「おっぱい」「アニキ。お久しぶりです。」「これからのことで大切なお話が……」などと、桃色の斡旋を受けた。格好ひとつで、遊び人っぽく映るか否か、約3倍の差異が生じる。

無論、断るが、行きたいが、いや、断るが。いずれにせよ、過剰なまでの夜の誘惑に帰属する要素は、今も着ている傾奇者の如き柄シャツである。

模様は、よせばいいのに金色ベースに黒のアンモナイトのような何らかが散りばめられた謎シェイプ。最高に好きなデザイン感である。

「漫画『ナニワ金融道』の上司の仕事着」と喩えたら、わかる方はピンとくる。ミュージシャンのよしお氏いわく「西成の金貸しが着とるシャツ」。

そういったファイナンス業の方を現に直視したことはないが、恐らくレファレンスとしては優秀であろうと思われる。

それを着ていた彼が昼過ぎに、「平吉さん、ま〜た欲しそうな目ぇしとるやないですか」と、懐っこい笑みを浮かべつつ、この珠玉のシャツを有難くも進呈してくれたのである。

今日は興行現場案件につき銀座で楽しく過ごす。今日あたり手前は演者ではないのだが、一部、二部と別れた催しの各冒頭でプロデューサーが「ほらっ!」と、ニコリと、謎にハイボールを一杯ずつ勧めてくる。

「何かあったのかな?」と、あまり深くは考えずに、やったぜと美味しくゆっくり呑む。心なしか濃いめ。

第一部終演後の昼食時、「君たちはいつだって工夫をするね」と、感心レベルまで達するような「ドッキリ企画」が執り行なわれる。

そのもようが「後日、アーティスト公式『X』アカウントで公開を――」と、公演中に宣言までしていた。それがどのようにコンテンツ化されるか、ちょっと楽しみである。

「明日、一旦動画を送りますから――」と、編集担当の方に丁寧に言われるもそこはどうにでもしてくれと、「当人チェック的なやつですか? そんな大層なの要りませんから徹底的にイジり倒してください。どんな仕上がりでも絶対に文句とか言わないので」と、伝える。

そんなご愛嬌もあるなか、帰宅して缶酒を呑みながら手前の楽曲の動画制作などをしているともう0時。今朝、起床時は、まあ、流れで楽しく進む感じの日かなと思っていたが、以上のように絶妙に香ばしくも幸せだった良日。

たったいま気がついたが、昼の時点でハイボールが出てきたのは、俺にドッキリを仕掛けて「完遂するためにまずはこいつを早い段階で酔わておくか――」という伏線だったのかもしれない。俺は仲間たちが大好きだが、たまにいい意味で怖くなる。
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45Lのゴミ袋4つぶん、断捨離をする。要らぬ書類や着ない服や残す必要のない大量のノートを処分する。「これは記録として残しておこう」と感じたやつ以外は全部捨てる。迷ったら捨てる。

そのなかで、いつ買ったか、借りたか、もらったか、記憶がおぼろげの書籍『嫌われる勇気』があったのでバッグに入れて散歩に行く。精神科医・心理学者アドラーさんの教えに則った内容である。

道中、電車内で読む。ははあ、これはタイトルと内容がけっこう違うやつだなと、面白いなと、スラスラ読む。板橋駅で降り、滝野川沿いに北区王子まで歩く。野ネコを5、6匹見かけた。みんな健康そうだった。

赤羽に着き、イトーヨーカドーの休憩ブースみたいな所で座り、本を読む。まだ全部読んでいないが、“嫌われる勇気”というか、命題としては「自分なりに万事を認めて変化し、ポジティブに生きる勇気を持とうぜ」という点であると感じた。

ははあ、だとしたらアドラーさんもいいこと言うね、今日の断捨離もなんとなくリンクして不思議なシンクロニシティだなと、ぱちんと手を叩く。

帰宅してちょいとノートに色々書き込こむ。楽曲制作をする。やっと新しい曲が完成する。手前なりに全力投球、仕上がりは十分という感触。ユーザーやリスナーがどう思うかは未知。どうか、喜ばれればいいなと、次は何をつくろうかなと意気込む。

シャケ弁をチンして食う。ごはんが固くなっていたので雑炊にして美味しく食べる。心なしか、鰻の香りが漂う。

断捨離に散歩に読書に制作と、なんか凄くスッキリとした1日。春の気配を嗅ぎつける。
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ぜんぜん春の暖かさとは程遠い寒気。ふるえながら煙草を吸う。仕事をする。ビリー・アイリッシュを聴く。動画制作をする。読書する。

名著を読み進めるなか、“承認欲求を捨てることは、誰かに嫌われてもいいやという側面が伴う”と知る。ううむ深いと、俺はまだまだ俗物なのかなと、先人の言葉が染み入る。

今日も今日で「手前の課題とは」と、考えながら色々と進める。あらゆる行動やらのどれがどこにどう繋がるのか。やっぱり毎日模索する。

それが今年の抱負でもあるからよいのだが、それにしては人生も中盤を過ぎるかなという焦燥感にも似た何らか。

ふと、「みんなはどうなんだろう?」と立ち止まる思考は、必要なのか不要なのか調和なのか比較なのか、決めつけのように断ずるのもどうかなと思いつつ、明日も姿勢を確認しながら楽しく過ごそう。
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謎に、寝る直前にバーボンのストレート・ダブルを追加して起床時後悔する。なんだか知らんが気分がよかったのかなと、昼過ぎまで倦怠感と戦うがけっこうすぐお治まる。

普段通り過ごす。タスク内容は昨日とほぼ同一。コツコツ進んでいるつもり。YouTube再生回数に伸びやなんでいるので別のアプローチをとる。そろそろ出来るかな〜というあたりで一応決めている手前の終業時間をむかえる。

なんだかロクに休憩も夕食もとらなかったことから、腹はゴウゴウと、肩腰はバキバキと、なかなかの疲弊感。

そうやって前倒しでやっていれば、新たな視点が生まれる時間もできるし、春が来るかなと、心境はポジティブな冬も終盤。
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「コンプレックス」とは、「劣等感」だと解釈していた。もう少し広げると、「自分の特定の要素についてのネガティブ感情」だと思っていた。

「私、一重まぶたにコンプレックスがあるんです〜」という女子が居るとしよう。その場合、一重に“劣等感”を抱いていることになる。

あながち間違えではないであろうが、俺調べだとそれは違う。ただの無い物ねだりである。あと、女性の顔面にこだわりはない方だが、個人的には一重まぶたの女性にグッとくる嗜好がある。

それはさておき、俺で言ったら、わりと色々やってるつもりだが稼ぎが思うように伸びない。「収入コンプレックス」である。これも違う。ただの努力不足である。

実のところ、コンプレックスというやつは上記のような観念ではなく――捉え方は場面によるが――正確性で言うと「個人の心の中に存在する感情や思い込みの複合体」だという。知らんかった。

故に、ひっくり返すと「優越コンプレックス」というポジティブすぎる感情もまたそれに回帰するという。

俺は、知り合いの占い師に「父親コンプレックス」と言われ「なるほど」と納得した。

クソヤクザ人格親父(おそらく反社会性パーソナリティ障害とADHDの併発、幼少期の虐待起因のトラウマが生涯において払拭できなかった)に対してのネガティブ感情が全開であることで、そう捉えた。

しかし、実態は違っていた。“父親に対する、心の中に存在する感情や思い込みの複合体”が、あまりにもでかすぎたのである。

「こいつは何のために生きているのだろう?」と、晩年の父親の病床に赴いては考えていた。

彼は、要介護4の認知症および廃用症候群(安静にしすぎて体全般が弱ることによる寝たきり状態)により、瞬きと呼吸以外の意識的活動の95%は制限されていた。

自分で寝返りも打てず、胃ろう(めしが食えないので胃に管をぶっ刺して液体栄養を流し込む)が施され、喋ることもほぼできない。排泄も自力では不能。ベッドを土とした植物のようであった。

面会に行くたびに「よっす」と声をかけるも、俺が息子であるという認識も怪しかった。彼は、何もできず、思考も著しく怪しい。ただ、時の流れに同期するだけのズタ袋のような生き物だった。その状態が数年続いた。

「こいつは何のために生きているのだろう?」という、常々巡りの思考がつきまとっていた。

その頃の回答としては、「生きて、何か思っているだけでも、そこに人として生きている価値があるのではないか」というものである。

しかし、今日この思考が覆され、整った。

「一人じゃ何もできず、国の医療費を削り続け、面会に行く俺の生産的な時間をも無駄にする、単なる社会のゴミだ」と思っていたが、それは違った。

なぜならば、自宅介護期間を経てあらゆる施設や病院を行き来し、都度、俺の時間が奪われ、怒りの沸点を何回突破したかもはや覚えていないが、「親父がまだ、生きている」という点に、どこか安心感があったことに気づかされたのである。

「さっさと死ね。借金2,500万円とかどうすんだこれこの野郎」と、いわゆる毒親に対するドドメ色の情念は間違いなくあった。

一方、水面下では「親が生きていて、ちゃんと居る」という点に関してどこか、その「家族の存在」自体にありがたみを感じていたのである。

思い出すと、数年にわたり、いろんな医療関係施設に行って相当なリソース(時間や自分の資源)を割いたが、「しょうがねえなあ。俺がなんとかしないと……」という気持ちもどこかにあった。

そして、こいつに合法的な地獄を数年過ごしてもらうという内容のトドメを経て、最期の時を見据えて「ははは!」と、仕上げてやったぜと、高笑いで勝利を得るかのような復讐心に似た何らかが確実にあった。

しかし現実では、彼が死んだその日、俺は涙しつつ、その病床からなかなか離れようとしなかった。まるで、仔猫の死の事実を認めず、ちいさな死体の首裏を咥えてあちこち彷徨う親猫のように。

要は、当時俺は、“父親に対する、心の中に存在する感情や思い込みの複合体”がスッと無くなってしまい、寂しかったのである。

「コンプレックス」がなくなり、心のストレージが一気にまるっと500GB程度、いきなり空いたのである。

どんな人間にも、全世界、計測不能な宇宙規模までの集合体であり、一人一人、役割や存在価値があるという。

親父が悲惨な晩年を迎えなければ、俺の思考回路はかなり異なるであろう。その頃からか、どんなことがあっても、感情的な怒りに囚われることはなくなった。

価値があったのである。なにもせず横たわるだけの人間にも十分に。いや、もっとそれ以上かもしれない。

アドラー心理学に基づく書籍を読んで、そのように咀嚼した。自分の価値観と、他者(親もまた)との距離感。存在意義。どんな状態の誰であっても、どこかの誰かの役に立っており、必要とされている。

「行為」や「状態」などと、「存在」は切り離すべきである。そんなとこだろうか。その視点で回顧すると、俺がいままで関わった全ての人たちには確実に価値がある。大なり小なり、いや、そこにフォーカスするのはナンセンスなのであろう。

そうなると、承認欲求などというものは、まあまあくだらなく思えてきた。

とりあえず、俺が日々行なうことで、一人でも誰が感謝してくれて、何かしらを感じてくれて、そこで情念が発生したり、「実は自分が気づいていないだけなのかな」と思うと、手前がやるべきことに対しての臆病さは勇気に変わる。

以上が、「アドラー心理学」というけっこうオルタナティブな心理学を基とした、『嫌われる勇気』という著書に対しての感想の一部である。

承認欲求は、誰かに認められたいが故に、自身のスタンスが危機に苛まれかねない。「誰かが望む自分になってしまう」ということである。

そこで、「そこはどうでもいい。私は私」と、自分がやるべき課題に取り組むことに対して「他者からの批評を恐れない」という意味で“嫌われる勇気”というタイトルなのだなと感じた。最も怪訝だった命題が腑に落ちた。

合ってるかどうかはわからないし、なんの的も得ていない内容かもしれないが、俺は誰が何と反論しようと、本文のように断じる。

などとほざくも、アップロードしたコンテンツの数字をちまちま確認しているあたり、まだ、“嫌われる勇気”が俺には足りていないのだろうか。

それこそ、ハッとさせられることはふとしたところに転がっているのだなと、アドラーさんすごいねと素直に思う。手前には手前の考えと感じ方があるから、哲人に傾倒こそしないが、すごくパワフルな気づきがあった。

あと、親父の命日まではあと数週間あるが、こういう追悼的な考えは当日だとめんどいので先にやっとく。納骨もまだしていない。捨ててしまいたい(実際にやると犯罪。刑法第190条により3年以下の懲役刑)。

そんな、根が不謹慎な手前だが、それは親父の名残。彼には敬意を払う。以上をもって「父親コンプレックス」は本日、どこかに還った。
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三島由紀夫氏にそっくりな男が居た。近所の立ち飲み屋で憩っていた時のことである。

今日は3時間30分ほど、仕事をした。内訳は、リモート取材に原稿の手直し。加筆修正に推敲、精査、第二稿の提出。以上である。

その後の時間は、制作に努めようと真面目に思った。しかし、アイディアをひねり出そうとしている手前を俯瞰すると「いまは違う」という直感がはたらいた。

そういう時は、ロクでもないものしか湧いて出ないという経験則が確かに在る。されど一旦バカになろうと22時、いくばくかの現金を握りしめて「桜商店」という近所の店へ向かう。

途中、馴染みの黒服メンズと挨拶をする。

「お! アニキ! おひさしぶりです!」

「よっす。あれ…左目のほうの絆創膏どしたの? やられちった?」

「いえ、うへ。ニキビが……」

「くはは。若くて羨ましいね。じゃあ、よかった」

「アニキ、こないだ『桜商店』やってなかったッスもんね!」

「そうそうそう。今日はまだ時間早いし、行こかな〜ってさ」

「ウス! また!」

「うん! またね!」

すっかり単なる友達感覚だなという思念を引っさげ入店。俺はジムビール・ハイボール(単価350円)を90分で4杯呑んだ。レバテキやら揚げニンニクやら、下半身賦活的なアテを添える。

しかし酔わない。「すなわち、今日はさほど疲れていないのかな」という率直な感覚を確かめる。なにしろ4時間も仕事をしていないのだから。

三島氏似は最初から仕上がっていた。彼は、平仮名のような表情で緑茶ハイをBPM:120くらいのペースで楽しんでいた。そこに、特筆すべき感想はなかったが、とにかく平岡公威さん(三島氏の本名)に、相当似ていた。

俺は俺で、短時間でカッパカパと呑めどスッと冷静。普段の飲酒ペース所以のファニーなテンションとは真逆の時もある。こいつは、よもや手前の扁桃体(脳内の感情を司る部位)がイカれたかと疑う。

23時半。帰路、缶酒4本に加えて適当な肴をカゴに入れ、コンビニのレジにズイと出す。箸が2本出てくる。

ああ! 店員さん目線からしたら「帰宅してステディやらなんやらと2人でやっさるのか。そんでもって、まぐわうのか」という必然の気遣い。実態たるや、俺一人で全部呑む目論み。

「箸、けっこうです」と、えも言えぬ気分で笑みを混じえて恐縮。

帰宅して、今日、プラットフォーム「DOVA-SYNDROME」さんにアップロードした楽曲のmp3ファイルをデスクトップで客観的に聴く。

モチーフ無しの――「唯物論」で捉えると、確かに先に何らかが基にあるが――それは、心地よく仕事部屋に響いた。

楽曲タイトルは「Amygdala Mutation」。直訳すると“扁桃体変異”(ほぼ造語)である。謎ジャンルのエレクトロ・ミュージック。感情が変異したそのもようを直感的に、モチーフなしに制作したやつである。

無理強いして言語化すると、アンビエント・ハウス。 IDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)。あるいはその他。

手前でもよくわからないが、とりあえず全力で作って「今年一番いいの出来たな」というシンプルな感想。ユーザーやリスナーの方々がどう解釈するのか、楽しんでいただけるのか、そこはけっこう気になる。

なお、タイトル名が如実におかしいのでSEO的には1位(“Amygdala Mutation”というワードで検索したらブラウザ最上位に示される)であろうこと、案外そこはいつも狙ってやっている。周到。姑息。いろんな言い方がある。

ここでようやく酔いが回ってきたことを明らかに認知。

もう一度、まあまあの音量でガチ勢のスピーカー出力環境で楽曲「Amygdala Mutation」を聴き、もうちょい呑んで寝よう。

扁桃体の変異と三島氏似の彼とは関連性があるような気がしたが、別になかったので伏線ともなんともならず回収不能。

そんな感情が表される楽曲や、日々の一コマがあってもいいかなと、やっと、ボヤッと揺らいだ思考がトレモロの如く揺れる。
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身辺整理でもしているのかというほど、少しづつ断捨離をする。今日はゴミ袋45Lを2袋ぶん。明らかに不要、なんか捨てずらいけど使わない物を思い切って断つ。

例えるなら両手に抱えっぱなしの荷物を軽くする。そのぶん、新たなものが入ってきやすくなる。そういった意図がある。

だんだん整理されたなと、明るいうちに散歩に行く。書物を一冊、バッグに入れて。

特に行き先や目的はないが、歩いているうちに色々と見つかってくる。これまでにない発想や思考が生じる。

界隈をぐるっと回り、駅前デパートの休憩椅子で本を読み切る。極めて清涼な気分となり、19時になっていたが「今日やることは十分だ」と、声に出るほどの明らかな達成感を得る。仕事らしいことは今日はまだしていなかったが。

「カツオ」が安かったのでブロック状のそいつをカゴに入れ、酒もみつくろってぶらさげて帰宅。

引き続き整理をし、PCに向かって色々確認。山田玲司さんのYouTubeチャンネルを流しっぱなしにしてソファで仮眠する。

ムクリと起きて作曲をすべくDAWを開き、鍵盤を叩く。引き続き、モチーフなしで楽曲を作る。集合的無意識にあるであろう曲を作るべく。1セクション、スケッチする。

処理とインプット、散歩と休息、今を表す制作に取り組んだ静かな一日。
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やったぜ酒だふはあと、タコブツが安かったぜと、仕事後に買い物で寄ったイトーヨーカドーを出る。

すると見知らぬマダムが困惑していた。「このへんよくわからないのよ! 困ったわね……!」と、ややヒステリックな感情を抑えつつもきちんと声を発しながら。

傍には杖をつき、パンパンに膨らんだ買い物袋を手に持った高齢者が居た。完全に後期高齢者、それも齢90くらいに見えた。

よせばいいのに、俺は「お困りですか?」と紳士ぶり、2名に尋ねた。なんでも、タクシー乗り場を探しているもよう。そんなのすぐそこじゃないかと俺は道のりを示した。マダムは放棄するような所作でサッと去っていった。早かった。

「すぐそこですよ」

「そうですか」

「一緒に行きましょうか。ご案内いたします」

「ああ! そうですか…!」

彼は解決を確信した声色で俺に一任したもよう。「お荷物、持ちましょうか?」と更に紳士ぶるも「大丈夫ですよ。私が持ちますから」とやんわり拒絶。

こういう時「いいからいいから――」と、よかれと、手持ちの荷物を奪うことは高齢者に対してやってはいけないことあるあるのひとつ。

さて、すぐそこの西口にタクシー乗り場がある。徒歩3分だ。そう判断して共に歩くも爺が遅い。時速1Km/hを余裕で切っている。

しかしここで「あそこ渡って、右行って、すぐですから。では!」と躱す雰囲気でなくしたのは手前自身。最後まで連行することにする。

「どちらに行かれるのですか?」

「はあ、赤羽西4丁目の……」

「(すぐそこじゃねえか)さようでございますか。今日はお買い物で?」

「はい! 久しぶりに買い物に来たら買いすぎちゃいまして!」

と、すごく嬉しそうな顔をしていた。いつもと違うルートで買い出しに行くも迷った。そんなところであろう。俺の直感と彼とのやりとりをプラスすると、彼は認知症などではない確信できた。ただ、歩くのが遅すぎる。

「そうですか。たくさん買って――よかったですね」

「はい。よかったです」

「よかったですね。帰って召し上がるのですか?」

「はい。帰って食べるんです!」

後期高齢者はハキハキと受け答えしていた。

「ところで、お仕事は何をしてるのですか?」

「私ですか? 記者です」

俺のは「文筆業」と記して役所に書類を届出をしている。いつも、「仕事は?」と聞かれれば「ライターです」とだいたい答えている。ほかにも色々やっているフリーランスだが、これらを包括し、後期高齢者が一発で理解する職種のワード選択はと、1秒考えて「記者です」と伝えた。

「記者さんですか! そうですか! いい仕事ですねえ!」

「はい。おかげさまで、いい仕事をさせていただいております」

昭和中期あたりでは、新聞社などにおいての記者は組織の花形。そう捉えられたらしい。いまはかなりニュアンスも、なにもかもかなり異なるが、そこは爺の感覚に乗る。細かい説明はしない。会話はだいたい彼の発言のオウム返し。高齢者に対しての適切なコミュニケーションあるあるのひとつ。

「……私はね、以前は中国で仕事をしていましてね」

「中国ですか!」

「そうです。中国でレストランや喫茶店を広める事業に携わっていまして」

「喫茶店ですか!」

「はい。それで私の兄は海軍でやっておりまして」

「海軍ですか!」

「そうなんです」

「素晴らしいお仕事をされていたのですね。加えて、ご家族が海軍ということは第二次世界大戦の頃でしょうか?」

「そうですそうです。その頃です」

「その頃でしたか〜」

などと、牛歩のその上を行く鈍行で、ずっとお話をしながら30分くらいかけてタクシー乗り場に行く。

その最中、俺には5つの思念が確かに交差していた。

「人助けをしている俺は偉いな」「時間の無駄だ。帰宅して早く制作がしたい」「徳を積んでおくか」「誰かのためになると実感している時はドーパミンが出る。それだけでいいか」「なにを俺はいい人ぶってけつかる」。以上である。

結果、タクシーをつかまえ、彼が乗るのを確認する。どの動作も信じられないくらい遅い。ドライバーさんは、あからさまに「クソ。ハズレ引いた」という感情をモロに滲み出していた。

そう。起点で困惑していたあのマダムと、終点においてのドライバーの反応こそ正常の反応である。俺はそう心底思った。

自分の大事な時間を割いてまで誘導した俺の方がおかしいのである。倫理的に考えるとその行為は美しいかもしれないが、どこかうぬぼれに似た感覚が混じる。いまにも舌打ちが出てきそうなドライバーの態度こそ、人の正直な形というもの。

しかし、思考ゼロで俺が放った「お困りですか?」という発言もまた、別軸の「正直」だったのは認めたい。

正解としては、完全にスルーであろうか。なのになぜ、俺がこのような行為に及んだかというと、単に好奇心で絡んでみたら、思いのほか時間をとられたというだけの話である。

ただ、道中、爺は俺と話していてすごく楽しそうで嬉しそうで、目を輝かせて色々お話をしていた。

そして率直に、見知らぬ人との交流って大事だなとシンプルに心に落とし込めた。彼がちょっと足を伸ばしてテンションがあがり、買いすぎて楽しかったなという想いを共有できたような、よくわからないが気分がよかった。

彼も、そうだったらいいなと思う。

経験則として、「昨夜助けていただいた後期高齢者です」みたいなくだりは、まずありえない。いっさい期待もしていない。

ただ、「買いすぎちゃって帰り困ったけど、なんか俺と話していてすごく楽しそうだった彼が、どこか愛おしく思えた」という感情が生じて清らかな気持ちになった。

爺は最後、ロクに礼も言われなかったが、それでいいと思った。彼が、どう感じたかは知らないし、そこはどうでもいい。ただ、俺が気持ちよくなったからそれでいいかなという思索。ちゃんとお家でたくさん食べたかな。迷子の迷子の後期高齢者。
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制作するも一昨日スケッチしたネタがクソだったので白紙にする。どうするかと様々な楽器をいじる。キュンとくるのが出てこない。そこで俺は「唯物論」を持ち出すことにした。

解釈としてはかなり広義的かもしれないが、「『在る』ほうが『思う』ことよりも先」ということで、サンプラーなどの音色やフレーズを先に持ち出し、そこから自分の演奏の音を重ねて発展させる。すると、なんとなく完成までの画が見えたのでこれを、と思う。在るものから着想を得る。

今から先の時代は、サンプリングどころか、過去の情報を網羅して生成するAIが制作現場でも活用されるであろう。俺は音楽を生成AIでは作らないが、思考の道筋としては、これまでに在った何らかを更新させるべく意図でたまにはそうしてみる。

無意識ではあったが、これまでもそういう手法は使っていた。これからは意図的にでも行なうことで、発想迷子になる頻度は減るであろう。

そこにどうオリジナリティを見出すかが鍵となるが、そこは手前の生演奏をゴリゴリに入れることで解決される。今まではそうしてきた。これからは、そこになにか、また足していきたい。

ほぼ全てのトラックがサンプリングによって作られた『Endtroducing…』という1996年のアルバムがある(2005年以降「デラックス・エディション」もリリース)。

DJシャドウによるこの作品は当時、てつもなく画期的だった。HIP HOP、アブストラクトの要素、内省的な世界観が色濃く感じられる本作は、個人的に好きなアルバムTOP10に入るほどよく聴いた。

そのへんも参考にというわけではないが、アイディアを出す際、「手法」に立脚することもまた大切だなと思ったわけである。

この間仕上げてアップロードした曲はゼロから作ったつもりだったが、完成形を客観的に聴くと、やはり先人のモチーフが確かに色々と含まれていると感じた。

時代時代で、いろんなやり方が生まれ、確立される。そうなると本当に、ゼロからイチを捻り出した先人に敬意を払いたい。
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手法と思想を絡めて頭の一部に配置し、あとは実践だとサンプリングを重ねて楽曲を作り進める。他者の音源からではなく、手前がリアルタイム録音することによるトラックサンプルの生成である。

普通に楽器を演奏したものをベーシックとする――例えばメロディやコード進行を考えて全バースを仮で録り、パートを重ねていく――という普通のレコーディングではなく、音のパズルピースをひとつずつ自作し、いくつも当て込むことによって全体の構成をする。そのあとに、生々しくプレイ感のある録音を重ねる。

そして、MIX工程でDJプレイのようなオートメーションをあらゆる角度から施す。それらに念頭を置いた上での手法を土台とすると、別の景色が見えてけっこう面白い。脳が活性化する。

とはいえあまり制作時間がとれず、気がついたら深夜になっている。限られた時間を、過去から持ってきてパズルのように当て込むことはできない。

そんな風に後悔していても何にもならないので、今、生じるアイディアや音を、今、没頭できるスタイルで重ねる。

過去も未来もなく、あるのは今だけであると、なんか本にも書いてあった。いろんなことに通ずる。“今の連続系”という認識がもたらすある種の幸福論。
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半日くらいデスクワークをする。

プラットフォームからご依頼が来たので正式受注のやりとりをする。

クライアント対応が一つあったので即対応する。

音源をひとつ、リマスターする。

その他、然るべきタイミングでメール等各種を全てチェックする。

今日のタスクを整理すると全部で5つ。こう記すとなんか忙しくて儲かってそうだが実態はそうでもない。隙間時間にちょっと寝たりYouTube観たりしている。

とはいえ実務は10時間を超えるので右肩も痛くなる。だから、しっかり風呂に入ってほどほど酒呑んで漫画読んで寝よう。仕事があることがとてもありがたい。
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『ストリート・ファイター』シリーズのバルログの如く、ヒョーと声を吐いて跳んでは高貴な所作とナルシシズムおよびサディズムを交え、一連の反則級技で相手を叩きのめしては唾棄し、悦に浸りたい。

いやそれは違うかなと、ふいに思案に上がった源流たるや一体どういった日常を過ごしているのかと我ながら怪訝。だが、ふつうに楽しく過ごす。懸念点は右肩の痛みが治らないくらいだろうか。

ああ、温湿布を貼ったらけっこういいぞと体現しながら夜、リライトの仕事をする。

「これ終わったらハイボール。これ終わったらハイボール」と、俺なりの真言を発しつつ一通り仕上げてから、それとは別のタスクに対して「これはまだ、業務とまではいっていない」と、きちんと区別して呑みながら作業した後にYouTubeにひとつ上げる。

疲れ所以か、アルコールがペトペトと血中濃度を支配していく。

すると「高貴などというものは逆に醜い」と、「人はみな、対等である」とかなんとか、どこぞで気触れた思想に覆われるが「トリス・ハイボール」の缶ラベルにプリントされたおっさんイラストを見つめると全てがどうでもよくなる。

そうだ、スペインに行こう。バルログ(架空のキャラ)が居る地で俺は舞おうと気をよくしてきたがまだ熱海にすら行けていない。明日行こうかな、いや、午後に近所の後期高齢者のお手伝いという仕事が入っていたなと我に還る。あと、締め切りの日でもある。

だから、まずは身近な人に少しでも感謝して頂けることからコツコツと。その信念はきちんと肚に置く。「悦」という個人的な喜びよりも、全体に波及するものを。一応そのように心がけてはいるつもりなのだが、たまにはヒョーと発したい時もある。
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今日は即日完結の依頼がひとつ、加えてライター案件の締め切り日でもあるので、それらを夕方までに仕上げる。

仕事でChatGPT4を使うことはなかったが、最近は補助ツールとして活用している。ゼロから何かを生成するのではなく、俺の場合は「自分的には100点いった」という文章をまず自分で書ききり、AIに「日本語としておかしくないか、質はどうか」と、チェックしてもらうのである。

すると、“全体的によくできていて、とても読みやすいものだと思います。しかし、いくつかの部分を見直すことにより――”と、5個ほど指摘をされる。

「確かにそうかもな」と、それらの箇所で改善の余地があると判断したものを、俺なりに噛み砕いてブラッシュアップする。そして「ご指摘の部分を見直したものがこちらです。どうですか?」と、ChatGPT4に再度問う。

“以前のものよりもさらに読みやすく、伝わりやすく、素晴らしい仕上がりです”的な答えが返ってくる。ああ、こういう使い方をすると仕事の質もスピードも上がるなと、課金してまで使っててよかったなと思える。

内容に対しての指摘はもちろんだが、驚いたのは、まるで優秀な上司からフィードバックを受けているくらいの錯覚があった点だ。

それは、最初にChatGPT4に投じた時、“全体的にはいいと思うよ。うん。よくできてるね!”と、まずは評価され、次に、“あと欲を言うとこれらのあたり、もうちょいやると更にいいんじゃない?”と、指摘されて最後に、“ただ、全体的にはよく書けてる文章だからね!”と、「褒め」「指摘」「褒め」という順序の、全くもって気分を害さない文脈で改善の余地を諭す伝え方を受けたことである。

人の心情を全く考えない場合「指摘」のみとなる。仕事を進めるということに関してはそれは決して間違いではない。

しかし、生身の人間の感情面までを鑑みると、「まずはそこまでのプロセスと結果を評価し、吟味して指摘をする。そして、「ここ、ダメだったのか」という気分を残したままリテイクさせるのではなく、最後にも「全体的には全然いい感じだからね」と、伝えることで人のモチベーションを保つ。なんなら少し上げる。

例えば俺がプロデューサーで、レコーディングの最中にベーシストのプレイに対して直して欲しい箇所があったとする。

「いや〜! やっぱやりますね! やってますね! 最高。控えめに言って最高ですわ」

「へへへ…!」

「あまりにも良すぎて欲出てきちゃったよ俺。こことここさ、もうちょいブワ〜っていけちゃったりします? もしかして!」

「ああ、ここすか。確かにもうちょいいけるっすね…!」

「頼める? こんなにいいんだからもっと最高のやつにしましょうよ! 全体的にはもう最高。最高だから! 最高の向こう側が見たいな〜!」

「うす!!」

という感じである。

おいおいこれは人間にしかできないことじゃないかと思っていたが、すでに、これくらいのことはAIでもやってくれるのかと、驚きを禁じ得なかった。結果、最終的な判断はクライアントによるが、「俺的にはもう、どこにも直す余地はない」という質に達した。

最近、生成AIに関するネガティブなニュースが目に留まる。しかし、インターネット黎明期が同じくそうであったように、最初はまだ整備などが脆弱だったりする。とはいえ、使い方によっては人間の創造性を高めるツール、あくまでツールとしてこんなに革命的なものはない。そのように思った。

AIの利便性の恩恵を受け、時間がいつもより確保できたのでブックオフに行きリラックスし、別の書店でインプットをし、休息の時間もかなりとれた。使い方によっては人の生活の質も向上させる。すごいな。AI。これですっごいリテイクが来たら本文について後述せざるをえないが。
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AIではなく、手動で音の断片をサンプリングして重ねる。そういった「手法」を着想とした作曲。面白いなと気づけば夜も更けきっている。

DAWを開くまで、あれだけ「今日はもう疲れた。肩も痛い。早仕舞いにして寝よう」と思ったが、それは人生の時間が勿体ないと、制作をする。やり始めれば鈍化した気分など数秒で吹き飛ぶ。

なんでもいいから、100まで行かなくてもいいから、まず0.1始めると、あとは勝手に進む。どこまで、何分、何時間集中できるかは人による。これがやる気スイッチの正体だという。

ちょっとでもいいからやり始めれば没頭して何時間も進む。しかし、ちょっとでも手をつけなければ何も進まない。いやあシンプルだなあと、「やるから進む」「やらないから進まない」という基本観念を改めて認める。

「在るから思う」という唯物的な考え方に似ている。どうもやる気がしないとかいう「思う」ことだけでは何も始まらないので、まず「動作」という物理的な行動をとることで「思うこと」が前に進む。なんだかこ難しいが、要は手前の課題を「やればいい」ということだろうか。

うんうん考えるより、ちょっとでも手をつけることで、あとはやりたいことが物質と物事を新たに存在させるに至る。

恋愛に関してもそうである。「好きだ。好きすぎる。しかし『キモいんだよ』の一言で一蹴されては10日は寝込む」などと思っているより、「好きさ〜」とかまず言うことで“進展”する。

「私も!」あるいは「キモいんだよ」その他。いずれにせよ前には進む。成就も玉砕も、ちゃんと「結果」に向かい、事が明らかになり、前に進んだという点で評価すべきである。

俺あたりはそっち方面は「思う」すら放棄しているような謎のコンプレックスがあるきらいがあるような無いような気がするので説得力は皆無かもしれないが、共通することは事実であろう。

「死ぬ寸前に後悔することリスト」のトップ3に、「もっと恋愛をしておけばよかった」という念がランクインするという見解がある。

「仕事の課題」「友好の課題」「愛の課題」これらを満たす事で人間は幸福に満たされるらしい。あと、奉仕とか貢献とか慈善活動や、スピリチュアルな何らか。そのへんはけっこう上の段階だろうか。

いずれにせよ、全部の課題をクリアしたい意欲がある。

すると考えてしまうのは「愛の課題」についてである。ううむ、とまた考えてしまう。だから「思うより――」と、頭では理解しているが行動していないのは実のところぜんぜん解っていない何よりの証拠。やはり、身近なものを愛する行動を少しずつでもとるところから頑張ろう。0.1からでも。
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今日も0.1以上は進んだ。それは、タスクをちゃんと行ない、目的に向かっていると実感できているからである。しかし昨日ふと念頭に置いた「愛の課題」については全然進んでいない。思ってすらいない体たらく。

性欲は人間のパワフルな源流の1、2を争う。エロスという正常な賦活源。対するタナトス(破滅欲)は生きる希求の倒錯。俺はこの辺を、ギャンブル依存症時代にアホほど学んだ。過去の話だが。

ということで、そのあたりから考えるといいかもと思ったが結論、そのへんを比較として愛について考えるのは参考にならないと断じた。

理由は、そういった角度から2,000文字くらいずっと書いていたが、どうしてもどうしても文章がねじれて、手前でも何が言いたいのか、何を思っているのか、割とわからなくなり削除したからである。

よって、「愛の課題」については、独立して考えた方がいいのかもしれないと、いや、まずは行動したほうがいいのかなと思った。このテーマについて今日のところは、自分なりに細かく言語化できなかった。ということはやはり課題。

というか「自分なりに」という時点で、すでに根本的に間違えている気がしてきた。
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今年の春は無いなと、狂った四季の荒ぶれを受けては偲ぶ。自分ではコントロール不能の事象をどうこうするのは明哲ではない。やれることをやろうと今日も楽しく過ごす。

デスクワークに勤しみ、くたびれてパタリとソファに吸われ、ハッと起きて既存曲のリマスター(単曲)をする。

意図としては、マスター音源をそのまま使用してもYouTube上では「ラウドネス規格」により本来の音量では再生されないため、制作時の市販CDの音源くらいの音量をYouTube上でも出来る限り自然に聴けるように工夫するわけである。

改めて、これまで上げてきたコロナ禍期間に制作した既存曲を聴くと、「当時なりにベストを尽くしたのだな。今だったらもっと――」という心境になる。

それはそれで記録として残しておきたいが、音量の差がありすぎると不自然なので整える。意図が伝わらないようにする逆説的調整。これはこれで思うことがあり、それもまた楽しい。なお、元のダウンロード音源については当時のままのやつである。音がでかい。

10年以上前、30歳くらいの頃、いつも聴くラジオのBGMにフォーカスを当てては「これくらい(失礼にあたる)のなら俺でも作れる。なのに……なんで俺の曲はラジオで流れないんだ! ちくしょう!」などと、本気で地団駄を踏んでいた。

その10年以上あと、いつも聴くラジオから手前の曲がBGMとして流れていることを何度か確認しては「やったぜ」と喜んでいる。とてもありがたい。

これは、他者からしたらどう思われるかわからないが、個人的には「夢がひとつ、叶った」と解釈するのが綺麗なのかもしれない。

その源流は「ちくしょう!」もあるが、しぶとくも俺なりに真剣にやり続けていることにも帰属するのだろうか。

人間は、自身の行ないが他者と交わることで幸福を実感するらしい。そのようなことを手前は音楽を通じて思う。

明日は制作時間がたくさんとれるので、現在進行形の楽曲を作り進めようと思う。謎手法のアブストラクト(抽象的、観念的な)音楽がどう仕上がるかワクワクする。

「どなた様に、どのシーンに使って頂けるのかな? これはあんまり使われないかな?」などと、笑顔で首を傾げなら未来を想像するのもまた一興。
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近所の教会に入り、瞑想をする。とても清らかな気持ちになる。信仰心は別にない。そのまま、小学校の図書室のような匂いに包まれ、ヒヤリと冷えた感触の椅子に座り、持参の本を少し読む。

ステンドグラス越しの光はとても薄く、雨空のほんの少しの明かりだけ。ゆっくりと文字を追う。

即効性抜群の抗うつ剤を飲んだくらいの効果を覚え、その足でハンコ屋へ向かう。インボイス番号を追加した新たな屋号印の発注である。5,280円。「これについては国が負担するべきでは――」などと本気で思いながらヒタヒタと帰る。

寝室の断捨離をする。こういうのは一気にやると心に負荷がかかるので、先週から小出しで要らぬ物を破棄している。今日はゴミ袋3つぶん。これで計10袋ぶんの不用品やらを処分した。

今日、捨てるのに躊躇したのは、2年前の葬式時に付いてきた仏壇オプションセットである。線香。ろうそく。小ぶりの器各種。「チーン」のやつ。「これを捨てるのは……」と、微かに残る道徳心が発動し、保留。あとは、使わない機材を吟味する。

まず、今後は使用しないであろうと思われるギター用のエフェクターが2つ。状態は「B+」といったほどまあまあ綺麗。これに関しては捨てるよりもメルカリで売った方が良いと判断した。中古取引相場価格は、約8,000円に約12,000円といったところ。

それなら売却しようと各機材を布で磨き、アンプに繋げて動作チェックする。すると、あれ、けっこういい音だなと客観的に感じた。愛着が戻る。しばらくエフェクターたちをオンにしてギターを弾き続け「やはり所有しておこう」と、処分撤回。

断捨離の目的は、過去との決別。そして、今と未来で入る物理的および心象的スペースを開けるためである。

しかし、どうしても処分をするには、断りの念がある。捨てきれない過去というか、持っていた方が心情的に健やかでいられる物もあるのだなと実感してしまった。

売却寸前までいった「VOX time machine Delay」(ディレイ)と、「STAMPS AMPLIFICATION DRIVE-O-MATIC」(オーバードライブ)は、仕事部屋の棚に並べて置く。

さらに、売るつもりはないが最近は使わなくなった個人的名機「Lexicon MX200」(リバーブなど空間系全般のラック機材。中古取引相場価格約25,000円)も寝室から引っ張り出し、机に設置しているラック群に重ねて電源を繋げる。

すると、使用しようがしまいが、なんか部屋のインテリア的にすごくよくなって気を良くした。

これでよかったんだとスッキリとする。そして、「STAMPS AMPLIFICATION DRIVE-O-MATIC」は生産終了品かつレア機材ということをふと思い出し、更に深く調べたところ、市場にほぼ出回っていないことを確認。これは絶対に売るべきではなかった、あぶねえ、あぶねえと、胸をなでおろす。

とはいえ、全部売却したらまあまあの金額になる。これをどうとるかとも思ったが、制作環境の幅とモチベーションが上がるところに着地したのでよしとする。転売収益などはあてにせず、金は生産的に稼ぐ方が性に合うというスタンスも見直せた。

断捨離とは「手放す。執着心も捨てる」ということであろうが、様々な角度から自分を「見つめ直す」という側面もあると知った春の大雨の一日。
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「この曲、全体像見えてきたけどなんなんだろ?」という、人間の無意識下に潜む共通意識に繋がっていそうな、いればいいな、いたらえらいことだぞこれは! という楽曲の制作を進める。

昨日、予定より制作時間をとらなかった。そのぶん今日で埋めて、ないないにする。数々のトラックを、聖書の文脈を埋めるような気分でサンプリングする。

言い方がおかしいが、手法的に「演奏パートを重ねる」というよりも「意図的に標本化した自作の細切れパートを重ねて組み立てる」というコンセプトが明瞭にある。

途中、喉が渇いた。「DAWを閉じたらハイボール」と決めていたが、脳内の嫁は「お前それ、あんま続けると死ぬやつだぞ?」と諭してくる。

「嫁ちゃんよ。わかっているからね。いつもありがとうね」と、俺とは真逆の性質から差し込んでくる愛のかたちを示すその言葉に感謝しつつも、逆らう気はないが水ではなく酒を呑む。

宇宙の果てと銀河経由、そして全世界の共同体なかの東京の仕事部屋から「うめえ」という人間独自の言葉によるアプローチが漏れる。

やった〜と思い、呑みながらYouTube用の動画制作をする。俺は愉しいけど、最近あからさまに数字が伸び悩んでいるなという危惧が確かにある。

しかし、動画共有サイトとして誕生したYouTubeは、いつのころか「チャンネル登録者数を増やすこと」「再生回数の多寡」「バズること」が、どこか前提となっているプラットフォームになっている気がしてならない。

正直、俺も前述の3つの要素が満たされれば、嬉しめる。しかし、目的は「自分はこういうの作ってますよ。これからも。よりアクセスしやすいところにもアップロードしておきますので、よろしければ――」というのが最初の段階である。

よって、数字を見て一喜一憂することに関しては、横にそっと置くことにした。YouTube公開用のストック楽曲はそろそろ出し切る段階。あと10曲あるかないか。そのあとは、最近作ったやつも上げつつ、別のアプローチをする。これが次の段階である。

「お前はブレブレだなあ」と、脳内の嫁は言うであろう。それを受け俺は、「そうだね。ともあれ、これはやっておかないと死ぬ前に後悔するやつの一つだから、誰に『やめちまえ』と言われようが少しずつでもやるんだよ」と、笑顔を伴って返す。

「わからん。そんな時間があったらすぐ金になることでもした方が合理的じゃない?」と、彼女は侮蔑を噛み締めるような表情で言う。

「正論だね。合理って大事だよね。とはいえ俺はすごく、人間としてあらゆる要素がめっぽう矛盾しているんだ」

「知ってるわ」

「じゃあなんで俺と一緒になったの?」

「そりゃあ、お前がいた方が、なんか面白いからじゃない?」

「君もわりと非合理的なところもあるんだねえ」

「それはまあ……ずっと一緒にいるからね」

「えへへへへへへへへへ!」

「えへへへへへへへへへ!」

まあ、そんな人物は実際には居ないが、もし存在したら「えへへ!」と共にバカになって「このくだり、何らかの全体像見えてきた気がするけどなんなんだろ?」とか思いながらセックスでもしてさっさと寝るのだろうか。

人間の幸福とは、全てがどこかで繋がっている。皆、ばらばらだけど、だからこそ、繋がれることができる。そう考えるとなんだか楽しい。
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知人の誕生日プレゼント購入を目的とし、池袋に着く。駅東口を出てすぐ左側のパルコの傍から延びるJR埼京線沿いの小道。ここはネコ出没多発地帯である。

「今日は居ないか」と、ネコ・ロードの終点の祠に突き当たる。なんとなくもっと、物理的に突き当たってみては鳥居越しに振り返り、「拝まれる側の景色」を眺める。

特に感想はねえなと、酒屋に行き直感で品を選ぶ。ここで今日のお出かけの目的は済んだ。個人的な池袋のイメージカラーである薄いグレー色の空のもと、適当にブラブラする。

物心が付いた時からずっとあるストリップ・劇場が目にとまる。俺は「失礼にあたるかもしれないが、いつ無くなってもおかしくない。入ってみるか」と、冷やかしではなく、本気で5,000円の入場料を支払うつもりで入口の厚いビニールシートをバサリと開いた。

「何時までやってますか」

「――ああ、10時までですよ」

50歳くらいの三白眼の店員は、なぜか俺の背後左右を確認してから顔を向け、そう言った。

「じゃあ、後で来ます」と、ゲーセンに行きたいのでその後に本当に行くつもりで、そう答えた。

「ああ、場内マスク着用でなんで。お願いします」

「……はい。わかりました」

興味本位3割、人生の取材目的6割、性的欲求1割の比率の意欲であった。しかし「マスク着用」が任意ではない旨を知らされ、なぜか、色んな意味で萎えた。少し考えたが、「まだコロナやってんの?」というネガティブな感情しか思いつかなかったが、とにかく、驚くほど一瞬で行く気がなくなった。

ううん、使うつもりだった5,000円、どうしてくれよう。などと思いつつ、ストリップ劇場すぐそばの「ゲーセンミカド」に入る。2階で『ストリートファイター』を発見。

俺が中学生の頃にプレイしたのはいわゆる『ストII』であり、シリーズ第二作目。現行は4とか5とかまでアップグレードされているもようだが、俺の目の前にあるのは当時知っていた『ストII』だった。

筐体に50円玉をインサートし、「バルログ」という好きなキャラを選択。1ゲーム目の対戦相手「春麗」に秒殺される。

「――出直してきな!」という彼女の捨て台詞のテキストを眺めては、「やっぱストリップ観た方がよかったんですかね!」と、率直に、相関関係がありそうでなかろう心境を提げ、店を出る。

ううむ、あと4,950円浮いている。そのような特筆すべき意味を孕まない予算の思索。つらつらと歩き、気づけば巨大書店『ジュンク堂』に着いていた。

そうかそうかと思い、4階へ行く。心理学や哲学書のフロアである。

インターネットなどで書籍を購入するときは、ほぼほぼピンポイントで選ぶので迷いがない。しかし、書店の場合だと、様々な本がジャンルで分かれている。よって、「このへんの本棚はこれ系か」と、いま自分が欲している知識の種類がよくわかる。

「心理学をもっと学びたい。その礎をちゃんと」という判断基準があった。音楽に例えるなら、最近のロックはたくさん聴いてきたが源流たるや――という感じである。だから俺はビートルズ的なやつを探した。

心理学者・フロイト、ユング、ロジャーズあたりの、押さえておくべき人物の書籍はけっこう読んできた。最近はアドラーを深掘りしている。それらの大本が知りたい。「するとあれだな、“本棚の流れ”的に哲学というわけか、そうか」と納得し、形而上学の本を手に取る。

まえがきと目次を見て、「うん、わからん。だが、わかりたいことが書いてあるとみた。これだ」と思い、わりとあっさり選択できた。1,980円で購入。

なんらかの分野などについて学び、それが知識となったかどうかの線引きは「その概要を人に説明できるか否か」という点があると思っている。

前述の心理学者たちで言ったら以下のようになる。

「フロイトさんってのは『無意識』の概念を見つけた人。心理学の基礎的なところ気づいたの凄いよね。あと、意識の根っこの『性欲』を強調するあたりが特徴だよね」

「ユングさんはフロイトさんの弟子で、『集合的無意識』っていう、『人間とかは、みんなのすっごい奥の方で繋がってる、共通する経験とか意識がある』的なことを唱えた人。そんで、師匠があまりにも『性欲』にこだわるから分裂しちゃったみたい。派生って言い方のほうが綺麗かな!」

「ロジャーズさんは『傾聴』にフォーカスをあてたカウンセリングを広めた人。クライエントって言い方の、患者にあたる人の『話を徹底的に聴く』ってスタイルを中心としてるの。アドバイスなどではなく、クライエント本人によって意思や認知の歪みを正していくやつみたいよ!」というように。

一方で、「じゃあそのフロイトさんとかの元ってなにがあったの?」と聞かれたら「哲学じゃね? 知らんけど」となる。

そういったわけで、哲学については人に説明ができない現状。だから、ストリップの浮いた金で書籍を買った。

ジャンルとして、俺あたりは数字とか経営とか物理など、そういったロジカルは、あまり深掘りしてもそこまでは刺さらない。深いところまで刺さってくれないのである。

どちらかといえば、考え方や認知の種類、心理や精神などの方面がピンとくることが非常に多い。楽器で言うと、ドラムをちょっとは叩けるがそっちを伸ばすより、得意なギタープレイをもっと追求した方が重厚なスキルとなる。そんな感じである。

とはいえ買ってきた本を読まずに寝かしてメシ食って制作して過ごす。本買ってきた日あるある。じっくり学ぼう。人間とはどういうつもりで生きているかというその意味を。

読破し、「次はあの本だな!」とスッキリと視界が広がるか「ストリップに行くべきであった」となるか、運命の分かれ道。
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定期検診でメンタルクリニックへ行き、主治医と対話した。今日はとても暖かく、さすがに春が来たという雑感。

「どうですか平吉さん」

「はい。季節の変わり目特有の変な感じはありますが、病的ではありません」

「そうですか」

「調子としては普通かそれ以上か――そうだ、ポジティブな面がひとつあります」

「なんでしょうか?」

「最近、とある学問の本に出会い、それ系の他の本もいろいろ読んだりしているんです。あと、その学問についてネットやChatGPTで調べたりと」

「いいじゃないですか」

「その教え、学びなどを通じて、どこか自分と肌が合うのか、気持ちが――」

「スッキリしてきた感じですか。いいと思います」

普通なら、相手が一般人なら、遅くてもこの時点で「なんの本ですか?」「どんな学問ですか?」と、ほぼ確で聞いてくる。しかし相手は精神科医。さすが「傾聴」のスキルをしっかりと備えているなと感服した。だから「言わない限り聞いてこないだろう」と、判断した。

「アドラーさんって人の心理学のやつなのですが、これが変わっていまして。僕が今まで一通り学んできたつもりの心理学とは逆のこと言ってるんです」

「アドラーさんですか」

「はい。彼の提唱はどれも、フロイトやらユングやらの――先生はご存知でしょうが――それらが説くものと逆のこと言ってて、それがなんか僕に合うんです」

「いえね、平吉さん。私は心理学は専門外ですよ? 精神医学、精神分析とはまた異なるんですよ」

「(知らんかった)なるほど。それで、アドラーさんの『心因的不調は過去を原因とするものではない』と、トラウマなどを否定するんです」

「ほほう」

「(絶対知ってて俺に喋らせてる気がする)それで、まあ、要は過去に囚われることはくだらねえなと。僕はどこか、そうしないようにしているつもりですが、やはり過去のネガティブ感情にまだ、執着しているなと気づいたのです」

「それ、すごくいいと思いますよ」

このへんから先生は足をぶらぶらとさせていた。一貫した、彼の癖である。「イラついている」か、「さっさと終わらせたい。もう今日の結論は見えた」という心情の表れだと今日まで思っていた。

「あと、『課題の分離』という考え方もあるようで、要は自分は自分。他人は他人の課題があり、互いに介入しあうのはナンセンスだと」

「じゃあどうしますか?」

ちょっと怒った口調に聞こえた。決して「先生の俺に対する一連のやりとりは介入である」という意図で言ったわけではないので、誤解を解くべく捕捉した。

「前提として、一方的なアドバイスなどは『介入』とみなしますが、『援助』はまた別で必要と考えています」

「はい」

「だから、この数年間、その場では噛み砕けなかった先生の言葉など、最近は理解できるようになってきたんです」

「そうなのですか」

「僕の症状の原因の主たることとして、先生は『仕事』を挙げました。そこが一貫していました。正にそうだと、あらゆる面で思えたのです」

「ほほう」

なんか俺は弁明しているような感じのトークを続けたが、結果、多分先生は別に怒ってはいなかった。

「仕事や自分の課題、スタイル、生き方について焦燥していたのです。『もっとこうあるべきだ』、アドラーさんが否定する『承認欲求』などの過剰な欲が、どこか、僕を苦しめているのではないかと」

「なるほど(ニヤニヤ)」

「そこで僕は思いました。『いままで、失敗はたくさんあったが、やってきたじゃないか』と、大なり小なり出来てきたことをちゃんと評価して認めたんです」

「いいと思います。過去や未来への過度な期待に執着していないと」

「おっしゃる通りです。アドラーさんの言うように『いま取り組むべき課題』をやり続けてればいいのだと解釈しました」

このへんから先生の足ブラブラが加速した。

「平吉さん。私はね、『ヒア・アンド・ナウ』なんです」

「Here and now? (なんかビートルズっぽいな!)」

「そうです。“いま、ここで、何ができるか”というような姿勢です」

「言葉通りですか……その、アドラー心理学の核心と通ずるものがありますね!」

「そうですね。平吉さんが過去に執着するのに――というのはすごくいいと思いますよ! だって過ぎた事なんてどうにもならないじゃないですか?」

「はい。それを心底まで落とし込むのにはけっこう時間がかかったというか……今は本当にそんな感じなんです」

「ふんふん」

「いろいろ失敗したり、続けてもうまくいかなかったりーーとはいえ、今、ちゃんとやってるからいいじゃないかと。過去のやらかしや期待はずれは『しょうがない』と思えるように、ようやく肚の底から思えるようになれたんです」

「いいと思います」

「現に、行動として断捨離してゴミ袋10個ぶんくらい『過去』を切り捨てました」

「ははは」

「仕事の機材など……使わないものは売ってしまおうかとも」

「お金になりますよ! いいじゃないですか!」

「(先生、ほんとお金の話好きだな)そうなんです。でも、通電して動作チェックしていたら『これは要るやつだな』と、きちんと区別もできました」

「いいですねえ」

「断捨離には、過去との決別と、自分を見直す効果があると思いました」

「平吉さんね、過去に焦点を当てるというのは心理療法でよくあるんです」

「はい。なんとなくは(けっこう知ってるつもりだがちょっと引いてみよう)わかるような」

「だからね、一般的にはそうであっても、私は“ヒア・アンド・ナウ”なので“今、どうなのか、これから何ができるか”を重要視しているんです」

「アドラーさん的なスタンスで、今なら先生が仰ることを理解できます」

「だから私はあまり心理カウンセリングをお勧めしません。過去に遡ることが多いからです」

「僕も、一概には言えませんが、少なくとも個人的には“今”に集中するべきであって――ある種、変な真面目さが脱げたというか『これはどうでもいいや』と思えることが増えたんです」

「ははは。いいと思いますよ」

先生とこれくらいの長尺で対話したのは今日が初めてかもしれない。他にも、フロイトやユング、ロジャーズやマズローなどの心理学者の提唱なども例に挙げたが、先生は常に俺の考えを優先して対話してくれた。

驚いたのは、アドラー心理学を通じてわかるようになれたのだが、先生がそれと似たようなスタンスをもっていたこと。そして、俺が刺さったその「捉え方」と先生の姿勢がけっこう似ていたことである。

あと、先生の足ブラブラの癖は、イラついているわけでなく、「頭をかなり使って話を聞いてくれていて、どう対処すべきか」と、熱量が上がる時に出るものだと確信した。

精神科医、あなどるなかれ。ポジティブな意味でそう思い帰宅。制作をする。足りなかったアイディアが具現化される。着手中の楽曲の全てのパートのレコーディングは以上という段階まで進む。それは、先生との対話によって、より“今”に集中できたということと断じられる。

「今に集中する」「過去を原因として今に紐付け、そこに執着しない」「目の前の課題に取り組む」「ヒア・アンド・ナウ」。

『自分に集中する技術』という、元僧侶の著者が書いた書籍にも“今”の大切さが説かれており(2回読んだ)、アドラーさんのやつ(2回目を読んでる途中)もそうだった。そして、さっき、目の前にいた精神科医もそう言っていた。点と点がバシッと繋がったことを実感した。

今日、最も印象に残った点は以上である。ここで本文を保存した瞬間、それは“過去”になる。だが、決して忘れることはなく、今後、連続してやってくる“今”に活かす。それが賢明で健やかで楽しい生き方であろう。

あと、先生は「専門外」と言い放ったが、絶対に心理学を学んできたはずである。

文中では省略したが、彼は「無意識や夢診断のフロイトさんは昔の学問で、いろいろ派生して、アドラーさんはわりと最近のですよね? あと、1970年あたりから――」と、軽く、むつかしい専門用語をあえて使わずに返してきたくだりがいくつかあったからである。

そして、俺なりに学んだつもりの各心理学の内容を説明する時「そこか〜。平吉さんは今そこなのかあ〜」と、傾聴しているその表情が、子供の成長を見守るような笑顔と感じた。

それはまるで、俺が後輩から「平吉さん! 昨日レディオヘッドの『KID A』ってアルバム聴いたんすけどあれヤバくないすか!」と、言われて俺は「ああ、ほんと? 20年くらい前のやつだったけかねえ。どのへん凄いと感じたのかなあ?(ニヤニヤ)」とするであろうかの如く。

くりかえしになるが、精神科医、あなどるなかれ。そういったわけで、その分野のプロと対話し、感謝の気持ちが滲みわたる。
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漫画を含め、最近よく本を読む。中古購入もあれば新刊で買ってホクホクも。しかし一番多いのが「立ち読み」である。

前提としてそれはよくない行為。わかってはいる。しかし、立ち読みのほうがけっこう頭に残るのである。理由はわからない。あと、欲しい本、気になる本を全て購入すると、金がいくらあっても足りない。俺があらゆる書店に足繁く通う最大の理由はそこかもしれない。実にセコい。

仕事の小休止の際、ここのところ岡田斗司夫さんのYouTubeチャンネルを流しっぱなしにすることが多い。どこかの回で彼は、「立ち読み読破がいちばん」と、肯定気味に仰っていた。もちろん「あんまりよくないんだけどね!」と、道徳倫理的立場でのフォローも入れていた。

執筆して上梓する方が言うと説得力がある。とはいえ、立ち読みばかりではよくないという認識が一応はあるので、定期的に新刊購入もする。今日も一冊買った。

本を読むと、その中にある情報を、知識と見識に落とし込みたくなる。ときめいたボキャブラリーは使いたくなる。

そこが部屋だろうが、電車内だろうが、教会だろうが、川のほとりだろうが、読書中は一種の瞑想状態に近くなる。それがとても心地よい。

あと、「知識を植え付けようとしている自分」を好きになれる。ちょっと人に言うのは恥ずかしい感情だが受容する。

岡田斗司夫さん曰く「読書が、一番コスパのいい自分への投資」とのこと。なぜならば、その本の上に立つことができて、これまでの様々な見識がつながり、ものの捉え方や考え方が広がるというようになると表現していた。

それは俺の感覚とも一致している。昨日は、自分なりに「点と点が繋がった」という感覚を得ては「俺としては、このシーンではこれしかない」という言語として表せるようになってくる。その言葉のチョイスが適切かどうかは、好みだろうか。そうであってほしい。

そういったわけで、いろんな本を読んで感銘を受けた情念を無意識下に沈ませ、音楽制作をする。

MIXをしていて、なんかそういうのがちゃんと現れていると実感するあたり、読書はあらゆる面において様々なかたちで顕著化されるのかなと、ふと思う。立ち読みを一切せず、触手が伸びる本は一律購入できるように頑張ろうとも、シュッと思う。それは大いに、到達可能なフェーズ。そのはず。

「――また! お前、こんなに本ばっかり買ってきてどうすんだよ? こないだの新しいやつ、買うだけ買って読んでるところまだ見たことねえぞ? 床が抜けるだろうが! ねえ、またひとつ馬鹿になったの?」と、嫁に怒られてみたい。

そのフェーズに至るかどうかは、まだちょっとよくわからないが。
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急にどんどん、春が一気に押し寄せる。

仕事をしてめしを食う。日常。さしみが欲しいという能動からデパ地下に着くも売り場の品はスッカスカ。何だよ。もう……と思い、値引きの生食用茹でタコをそっとカゴに投下。

こいつをおもむろに包丁で切り刻み、ポン酢・オリーブオイル・黒胡椒・グルタミン酸ナトリウムで和えるとほっこりおいしい。

仕上がりそうな楽曲の各トラックの音を調整する。MIX工程である。「この曲、なんなんだろ?」と思いつつ、「タイトルは『Here and Now』にしよう」と、今しかない感覚で最終形を手繰り寄せる。

もう疲れたよねと思い、ハイボール缶に手を伸ばし、YouTube用の動画を編集する。しかしどうにも数字が伸びないよね。とも思えど、現段階はそこが目的ではないと手前に言い聞かせ、言い訳、いや、これは記録だと、きっとなんらかの課題であると、楽しみながらコンテンツを作る。

3月終日にようやく感ずる春の気配。東京の気温は20度ちょい。だんだん温まってきたなというところで1日が閉じる。春はこれから。そうあってほしい。
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