04/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。四十肩確定


KinKi Kidsのデビュー曲がしばらく頭に鳴り響く。「しばらく雨は降りません」という雨雲レーダーの予測を信じ、傘も持たずに北区中十条あたりを散歩する。しかし本降りへと展開。

JR十条駅へ抜ける一本道で、歩くのにはちと厳しいと思い、シャッターの閉じている適当な店舗の庇のもとに避難した。

「雨宿りをするのは何年振りだろう」と、呑気に「それはそれで」と、半ば強引に何かを感じとろうとする。

雷鳴が一発。バシャバシャと止む気配のない降雨。<雨が踊るバス・ストップ>。ああ、出だしの歌詞がそうだから直線的にその歌が浮かぶのかと、連想元を俯瞰する。

路上につき、あまりよくないが、こっそりアイコスでも吸おうかとポケットをまさぐるもスティックの方が無い。忘れてきた。「それはそれで」と諦め、30分ほどただ、突っ立つ。特に想うこともねえなと、しかし閾下で何らかの思い出になるのかななどと空を確認し、小雨を見計らい、屋根のあるアーケード街に向かう。

酒煙草店でいつもの銘柄のスティックを買おうとするが無い。ふうんと思い、歩いているとなんか高頻度で人がぶつかりそうになる。

コンビニで厠を借り、ウォシュレットを「最弱」に設定してオンにしたのにも関わらず、ビームの如きアタック感に苛まれる。

ふはあと、やや疲弊して帰路につく。いつものスーパーで買い物をする。だが、ここ半年間くらいずっとお気に入りの「氷結無糖レモン 7% 500ml」が一本もない。

「そうか。そういうやつだ」と、何をしてもスムーズにいかない日があることを認識する。知人の占い師によると、俺の場合は60日おきにそういう日があるという。その日は、大事な決断や契約などをするべきではないと諭された。

だから俺はそう言われた該当日の2月1日、ずっとおとなしくしていた。あれから約60日後の今日、いわゆる「流れがよろしくない」という日にあたる計算になる。

やや誤差はあるだろうが本当なんだなあ、などと感心すらするが別にノーダメージだし、「それはそれで」と、あとは宅でじっと制作をする。例えばこういう日に、合法賭場で勝負した場合の負債額たるや10万円はくだらないであろうか。

経験則と占術的な見解で、怒りをともなわず「そういう日だ」と納得する。

むしろ、細かいことがうまく進まないことで今後の厄払いになったと強引に、俺は前向きに考えた。振り返ると、そんな雨天のいっときがあってもいいじゃないかと。

色鮮やかな、想い出たちだけ横切るような、そうでもないような、「やったー!」ということは特になくとも平穏な寧日。
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春の気候にまだなんか慣れず、眠くて妙な感じもする。毎年この季節はこうだ、例年よりはいくぶんかマシかなとセルフチェックする。

曲を作り進め、どこがゴールなんだろうと首を傾げながら音を整える。モチーフもレファレンスもない曲はだいたいそうだが、完成すると必ず凄いと自賛はできる。

しかし、こういうのはだいたい、ユーザーには広く受け入れられない。だが、今自分の内側に確かにあり、にゅるっと出たがっているやつは形にする。

それが何になるのか、なんの為かと何年考えてもわからない。とりあえず、いくぶんかの金にはなるが。

収益重視とするならば、制作と創作は切り離して進めるのことがスムーズさに繋がるのだろうか。だけど、各タスクのなか、楽曲制作だけはどうにも割り切れない。

こと手前に関しては、そのへんを肯定的に捉えている。首をいっさい傾げないで完成におよぶ制作は、今後、人の役割ではなくなる気がしてならない。その時代は秒でやってくるというか、もうそうなっているのかもしれない。
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はっと目が覚めて7時、中途覚醒の中、喉が乾いたなとキッチンで水を飲む。再度寝る。

寝室ベッドの枕側直上にハンガーで飾ってある特攻服(ハロウィンでもらったやつ)がファサと頭上に落ちてまた目が覚める。なんだよと思いまた寝る。

地震だ、仕事部屋のスピーカーとかおさえないと、こいつはでかい、CDや本がガッタガタに落ちている。なんだこの見覚えのない四角い物体たちは? おさえておくか? どうすればいい? と、焦る。

だが現実は布団の中。なんだ夢かよと朧げに思い、時計を見ると9時過ぎ。まだいけると睡眠に追い打ちをかける。

10時台に起きて「あ!」と思い、すぐに仕事部屋に向かう。大丈夫かなと室内を目視すると、何事も起きた跡はなかった。

「ああ、なんだ、さっきのは夢か」と、リアル地震ではないことを確認していつものムーブで朝を過ごす。

日中、スマートフォンでニュースを見ていたら台湾地震発生の事実を知る。沖縄では津波警報発令。詳細を確認する。日本時間8時58分とのこと。

集合的無意識って――と思った。被害が、どうか、最小限であることを祈ることしか俺の現状ではできないということが、とても歯がゆい。
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近隣を散歩する。あえて、既視感のない道を選択する。北区十条仲原という迷路のように入り組んだ長閑なエリア。空は、雨は降らないであろう、しかし、晴れもしないだろうという、ある種逆説的にクッキリした気候。

『ダンジョン・マスター』というゲームをプレイしているような気分で、景色、花、通りすがりのネコらなど、様々な各要素と同化する。

赤羽駅付近の自宅とは、さほど離れていないのに「この静けさはなんだ」と、旅気分に似た何らかに浸る。

昭和中期の一軒家という表現が第一に出る鄙びた物件があった。そこには「これがあったら田舎確定」らしい、「マルフク」という金融業者の赤白コントラストの看板があった。

ああ、小さな頃、足立区でよく見かけたなと懐かしむ。「まだやってんのかな?」と、看板の連絡先「0120――」に電話してみる。金貨してくれねえかなという意図ではなくただの好奇心。イタ電に近い。

当然、「オカケニナッタデンワバンゴウハ――」ということで太古の昔に倒産していることを確認する。実際のところはわからないが。

2010年に「¥en shop 武富士」が会社更生法適用申請を行なった、要は破産したくらいだから無理もないなと時代を感ずる。

当時、各消費者金融会社は年利29.2%という悪魔的金利(いわゆるグレーゾン。今は平均の法定金利で年利15%程度。これでも地獄が見れるが)で営業していたことから――俺も借りていたが(完済した)――時代によってあらゆる事象は変動するのだなという思念の中、「マルフク」の看板を背にした。あと、借りてスロット打ってた当時の俺を思い切り往復ビンタして律したい。

帰路、「買い物あったかな〜」と、適当に輸入食材店などで物色したり、スーパーをハシゴしたりする。

散歩にイタ電に無目的な店舗徘徊。こう事実を記すと、めちゃくちゃ暇な野郎じゃねえかという気もするが、これらは2時間半の出来事。ちゃんとあとは、仕事部屋で各タスクを行なう。

適格請求書、つまりインボイスでの請求書を作成してクライアントに提出。進行中の案件を確認。新規受注もあったので喜んで対応。楽曲制作。ほら真面目じゃないかと、いや、真面目とか暇な野郎とかそこではない、今をちゃんと生きているかが重要であるとリマインドする。

グラマラスなレオタード姿で大勢が踊り狂う、「武富士」の扇情的なCMを思い出す。当時のあのCM曲は色んな意味でずっと頭から離れない。今はあっという間に昔になる。
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誰かのためになることを、何かすることでしか、人間は幸福を感じないのか。などと、生きる命題を確認しつつ、喜んで各仕事に勤しむ。

とはいえ、一人で酒を呑んでいても俺は幸福を感じる。無論この行為は誰のためにもなっていない。

いや違う、俺にとって飲酒とは、他者に貢献するためのエネルギーをチャージしている行為なのだと、すなわち、利他的な幸福に間接的に繋がっているではないかという新たな飲酒の言い訳がリリースされる。

酒呑みの言い訳はとうとう心理学や哲学にも及ぶ。いや、巨大な先人の見識を役に立たせて頂いている。手前の知識にまで落とし込めているかはわからないが、多方面のことを学ぶのもまた人間の幸福のひとつ。これは間違いではないと思う。
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そういったわけで言い訳を増やすべく、いや、仕事や人生のあらゆる課題の質と楽しさを向上すべく、学ぶ時間を意図的につくる。具体的には、「知らん」分野の本を、えぐいくらいのモチベーションで読み込む。

「形而上学」の書籍を一つ、このあいだ池袋の『ジュンク堂』で買った。俺は今日、JR埼京線下りの車両で揺れながら、「まずは理解すること」「これまでの『点』を『線』で繋ぐこと」「新たな見識を得ること」「それらを全てに活用すること」これらを前提として読み進めた。

信じられないくらい……何が書いてあるのかわからなかったというのが現時点での率直な所感である。本当に、「人が書いたのか?」というくらい、理解が追いつかない。著者に、文章で頭を左右に振られて遊ばれている気分をおぼえた。

だがしかし、この「理解したい。こいつはどういうつもりだ?」という能動を昇華させた時、俺はヘロインを一気飲みしたくらいの快感を得る。ヘロイン食ったことは無いが。

まあ、それはそれでと、仕事をする。文字と音と、全力で向き合う。これらが今後、「形而上学」たる重厚すぎて、手前の透けた真顔を禁じ得ないようなやつとどう繋がるかというある種の「愉しみ」を感じつつ。

「Everything In Its Right Place」という曲が好きだ。直訳すると「すべてを正しい場所に」となる。

当該曲の歌詞は、一言の感想だと「散文」。文脈がみあたらない。タイトルの意味が全てを物語っていると、俺は勝手に解釈している。

いま、みんながやっていること。俺がとっ散らかりつつも日々真剣に行なっていること。それらが“Everything In Its Right Place”に回帰してほしい。

そのわけを、実行、迷走、学び、遊び、友好、愛、道楽――。あらゆることで全て繋げ、人類と、まだ知らぬなんらかとの“場所”を共有し、やった〜となりたい。

このように(俺のように)、春になると頭がおかしくなる人はいるのかもしれない。

しかし人間の特性上、どこかで、確実に正しい道から逸れてこそ正道――それがどの基準に帰属するのかはいまのところ手探りだが――において「これだったか」となるのかもしれない。そう考えると、俺あたりまだまだ「子供A」みたいな存在なのかもしれない。

世間とそれ以外に飛散している無線の頭を手動で手繰り寄せるのは、本当に面白い。
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蕎麦の選択肢はまるっと一周し、宅で乾麺を茹でることに戻る。ストックがないので買いに行く。明らかに春。赤羽公園では、お待たせと言わんばかりに桜が咲いていた。

日曜日の昼下がり、家族連れや子供たちで賑わう広場。犬だっている。俺は日常の天国の暮らしのような風情を感じつつ、さっさと買い物して教会へ寄る。

信仰心は別にない。ただ、建造物としての美しい造形と、清らかな念が留まっているこの場所が好きなのである。

帰宅して仕事をし、またふらりと散歩に行き夜桜を見る。視覚的解像度は低い時間帯だが、花が微笑を浮かべているように目に映る。

酒と肴をぶら下げて戻る。ゴリゴリのヘヴィロックだが謎に桜が似合う楽曲の動画をYouTubeにアップロードする。曲自体を制作したのはもう4年も前である。

新しい曲の制作をする。着地点が見えないが、もう仕上がっているとも捉えられ、まだ余地があるとも思える。とても不思議な曲。後日判断しようと、そっとDAWを閉じて1日も過ぎる。春特有の謎気分と、優雅で可憐な桜が交差する春の良日。

たったいま、親父の命日だったことを思い出す。彼は20年以上前、母親を火葬する寸前、最期の最期、「美代子、桜が咲いているよ」と、泣き笑いしながら骸に言葉を添えていた。その春の記憶が鮮明に残っている。
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ぬるっと温い春の初旬。今日も今日とて様々過ごす。これまでのことをアウトプットしつつ、インプットもしながら、一つずつ進めているかなとふわりと思う。

気がつけば夜、雨がまた降ってきた。そして晴れて、また濡れて、だんだん温度は上がっていく。

繰り返す季節の中でみられる変化と成長のように、自然と意図と無意識をもって、邁進したいなと心を落ち着ける。
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「形而上学」がまったくもって理解できない。いや、正確には「わかるような部分もある」が、全体像が見えないというのが適切であろう。それほど、重厚な内容の学問の書籍と向き合っている。つもりである。

「知らないということを知る」といった点ではまだマシであろうか。哲学者・ソクラテスさんの言葉を俺なりに噛み砕いたものである。

「さらに知りたい」という欲求が、この歳でもまだムクムクとあることに対してはむしろ、喜びをおぼえるべきであろう。

文献に「円」についてのくだりがあった。結論、「円とは、中心地点からどの地点において線を引いても、その値が同一となるもの」とのことである(まだ理解途中なので正確性は保証できない)。

だから「完全なる『円』は、ほぼ確で存在しない」的なことが、「これ、QRコードかな?」というほどの密度でびっしり活字で詰め込まれたページを“完全なる円”ではない状態の瞳で見つめていた。

そう、俺は今日、JR埼京線の満員列車のなか、QRコードを閲しては、ちょっと「なるほど……?」と腑に落ちた。

マンホールは「円状」であり「円」ではない。「いや馬鹿、平吉くんよ、それは円でしょ」と誰かに言われれば、俺は今なら「円ってやつはねえ、中心から――」などと細目で顎をクイと上げた実に腹立たしい表情で説明しては「そんなこと考えてて人生楽しいのかお前は?」と、反論を受けるであろう。

しかし、「いやほら、マンホールのここが中心で、そこから上に線引くと200mmとするじゃん? でも下に線を引くと正確には199.9mmくらいじゃん? だから『円』ではない」――「いや、だからなんだよ?」となることは明白。

俺は、その「だからなんだよ?」の詳細が知りたい。そこから何に繋がり、学問と呼ばれ、別のどんな学問に派生したのか。そこにたどり着いた方は人生楽しかったのか。どういうつもりだと、それをきちんと理解して「なるほど!!」となりたいのである。

「――というわけで、人生、楽しいよ?」と反論者に伝える。するとまあ、そいつは優しさからか「わかったわかった。平吉くんはまだ途中ってことね?」と譲歩してくれるとするだろう。

すると手前は「途中っていうのはね? 無いよ? 過去も未来も『今』の連続系であってねえ――」と顎を更にクイと上げて述べては「うるせえなもう! 面倒臭え野郎だな!」と、相手の苛立ちを煽るであろう。

その“面倒臭さ”を追求した色んな偉人たちの肩の上に乗り、現代における様々な恩恵を享受している。少なくとも俺個人は、そう解釈している“途中”である。QRコードみたいなやつを見つめながら。

そんな今日も一日、楽しかった。先人たち、そして、いま向き合って頂けている今日、関わった人たちに多大なる感謝の念を寄せる。その時ばかりは顎を下げる。
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セッションバーに遊びに行く。「交友」という大切なタスクのひとつである。

近頃は、金銭につながることに躍起になり、フィジカル的に右肩が悲鳴を上げている。痛い。

だから、直筆のタスクノートに、明日あたり“やすもう“と、実施でも宣言でもない希望的観測を記した。

今日は遅めに起床し、珈琲を淹れ、一つ二つの予定をこなし、遊びに行く。

錦糸町のセッション・バーに着いては、まず酒をちびりと呑む。ステージでギターを弾く。そこになんの責任はない。大事な大事な「遊び」である。

帰り際、オーディエンスとして居た黒人女性と、その伴侶と思わしき方々とコミュニケーションをはかる。

俺は学んでいるつもりだが、英語は100%理解していない。だが、彼女らの発するポジティブ・ワードは察知する。

「ウェルカム!」と俺は笑顔で対応する。すると彼女らは流暢に英語で、まっすぐ目線を俺に定めて言葉を向ける。

「ありがとう。俺は英語は話せるけど、ちょっとなんだ。クソほどちょっとなんだ(英語)」と、伝える。

しかし、彼女らはなんのその。察するにすごく俺のプレイを称えれくれたもよう。そこで「ウェルカム。また会おうね。」としか返せない己の英語的ボキャブラリーの伸びしろに対し、もっと学ぼうという気概が生じる。

赤羽に帰る。もちろん、時間的に黒服さん方のアプローチは顕著であった。

「さっ! このあとのお呑みは? ちなみに――」という若鳩の躍起。

「恐縮ですが、お兄さん、おいくつ?」と、俺は問う。

すると、つやつやの顔肌の彼は答えた。

「23歳ッス!!」

「そう。出世するよ……?」

と、彼の腰をバシッと叩いて鼓舞した。

彼は言った。「あざっす!!」と。

そして、くだりが締めたと断じて俺は「またね〜」と発した。

若き黒服さんに対する、新たなスルースキルの一端が生じた。

あらゆるコミュニケーションたるや、うん、面白いと思い、酒まみれのまま、更に酒をぶら下げ帰路につく。

そういった観点からの客観も鑑みたうえで、俺はあくまで、過ぎる時が幸せであったことを断言できる。今日も、ありがとうと。
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昨夜、何を書いたのか、ほぼ覚えていないくらい呑んでいた。やや二日酔い。いま読み返してみたら「どこから『若鳩』という語彙が出てきたのか?」と、手前の文章のアルゴリズムを謎に思う。

今日も今日とて、うまい蕎麦を食べてほどよく散歩。デスクワークに制作と、粛々と過ごす。

肩の痛みは『バンテリン』(主成分インドメタシンによる効果で鎮痛や炎症を鎮める塗り薬)で散らしつつ、昨日よりは回復していることを実感する。

体も頭も休めつつ、タスクは行ない、今という日を噛みしめる。とても健やかな一日。
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ううむ晴れやかかな、いやそう思い込もうと、意を決して起床。目覚めにそこまでの気合はいらんかな、などと思いながら身支度をする。

ああ俺も中年。壮年。ああ――と、鏡に映る漢字みたいな手前のツラを俯瞰しては思う。

仕事をして夜、いつものデパートに買い物に行く。謎に、通るたびに気になる女性用化粧品売り場がある。

完全に俺などはターゲット層ではない。しかし、狐が座禅を組みながら瞑想をするような描写のラベルのコスメが興味を引く。

かわない。買わないよ。8,000円もするし、俺用じゃないよ。女性用だよ。と、事実を確認しては一瞥するが、反対側にあるもっと廉価の乳液だかなんだかも目に留まり、これまた食指が動く。

ふうんと思い、「テスター」という呼び方らしい「おためし品」のキャップをおもむろに開ける。ニュッと白い液体を手にあてる。ツラに塗ってみる。

女性用の商品を試すというどこか禁断の行為。べつに背徳感はないが、なにごとも経験だと、そのまま手の甲で頬に液体を浸透させながら地下フロアで酒等を物色。ずっとなんか、顔から女の子の匂いがしていた。

これ、ちょっと他者が引く行為だったかなという感情をぶらさげながら帰宅。鏡を見るとなんか肌がいい感じだった。

あれあれ、これは「購入」までいくんじゃないか? 確かさっきのは2,000円ちょい。いいんじゃないか? と、率直に感じた。

しかしどうせなら、あの狐の瞑想のやつがほしい。8,000円。いやいや、手前の顔面ケアなんぞ「ワセリン」あたり塗っておけば上等だろうと心理的敷居を下げる。

とはいえ、気になる狐のコスメ。買わないよ。しかしほしい。そういったアイテムがなぜか、あのイトーヨーカドーの1Fフロアで散見する。いつだったか見かけた「ミケネコ・ビール」という猫ラベルがかわいいポーチも買わず終いだった。

とりあえずまだ、なんかもう仕事部屋中、女の子の匂いがする。えも言えぬ心境で1日が閉じるが、今日もたのしい日であった。
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主として右肩、脳髄、各々めちゃめちゃ疲労感たまらんと眠りこける。22時頃。睡眠時に松果体(脳器官)から分泌されるメラトニンがいかれたのか、ソファに転がりながら単にサイケデリックな感覚をおぼえる。幾度となく、ビクッとなる。

まあいいやと今日の仕事を締め、ハイボールを呑んで復活する。これはいよいよかなという感覚はない。理由は、絶対量はそこまでではないからである。

しかしアルコールは麻薬であるということは深く認識している。じゃあ呑むなと律したいが、体に合うのである。これを倒錯という。

春の仕業か、バイタリティー的な何らかが向上している昨今。とはいえ体の各機能は「やめとけ――」と、随所が囁く。

それを無視までとはしないが、行動を優先させる。これが吉と出るかどうなのかな〜というのが今日の雑感のピーク値。健康第一。
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桃源郷をみた。しかも近くの界隈で。

世間の血流や歯車がゆっくりとスローダウンするような園。二駅はなれた浮間舟渡駅の出口からその感覚を得た。

一面の湖。中心に小島。家族連れやアベック(死語)。英語圏や中東圏の外国人。様々な人たちがその公園で憩っていた。

湖の淵に立ち、水面を眺めた。ファースト・ビューに飛び込んだのは魚の死体である。脊髄反射で出てきた感想は「グロテスク」の一言。しかし同時に思った。

「スーパーの鮮魚コーナーで見る魚の死体は美しく、食物として魅力的に映る。一方で、こんなにものどかなユートピアの如き場所での同一物は、悲惨に映る」

この心情と認知のコントラストたるや――などと、俺は駅前で購入した「Lチキ」なるジャンクな鶏肉のおやつを買い食いしながら思った。あの水死体は、視界にすら入れたくないが、もはや鶏の原型を留めていないこれは、うまいと。

桜が張り切っていた。それに応えるように、様々な人々は明らかに普段のライフスタイルより緩和したオーラをそれぞれのカラーで放っていた。

スマートフォンで、各々にとっての美しい画角で撮影する景色を散見した。俺も撮ろうかなと思った。

しかし、ファイルに収めて後で懐かしむよりも、その場で見て、感じて、敢えて物理的保存をせずに、一度きりという感性にパッケージするほうがいいかなとその場で思ったが今、「さっきの魚とか桜とかもう一回見てえ」という感情も否めていない。

大木の呼吸を感じた。俺が生まれる前からそこに居る、大きな大きな幹と枝。葉っぱ。あと何らか。

ふと、木のふもとで直接耳を充てた。母親に抱きしめられているような感覚を得た。はたからみたら「芸術の人かな?」と、一瞥されていたのかもしれないが、直感的に耳を寄せては「やはり」と、無意識的な納得ができた。声とかそういうのは聞こえなかったが。

湖上の鴨。ちょっと飛んでスライディングという見事なムーブを魅せた。感銘を受けた俺は思わず「もう一回やって」と声にした。すると会話のレスポンス速度ばりの反応で、鴨はブルブルッと首を横に振った。

「通じたのかな? いやなのかな!」と、少し嬉しく思うもそんなことあるわけがない。だが、どこかで本当に通じたような気も捨てきれない。全ては根底で繋がっている。はず。

数秒後、鴨はもう一度、鮮やかなムーブをみせてくれた。「しょうがねえな。ほらよ」という、鴨の粋なおはからいを享受したという個人的な思案。「やはり全ては――」などと、いろいろ綻ばせる。

明らかなリラックスを得て、赤羽まで徒歩で帰宅。各タスクを行なう。

文字を打つ。言葉選び、間、言い回し、構成。全ての要素を起因として、書き手と受け手の感じ方にラグが生じる。それ以上に伝わることもあれば、逆もある。誤認されてしまうこともある。

自然や緩和状態の人間から得られる、あの直感的な感覚のように、ス――と、ナチュラルかつ納得感と安心感と先の課題の発見など、あらゆるポジティビティに直結することを心がける。

音楽制作をする。着手中の「M-414」は、すでに完成でいいだろうと判断できるが、今の感覚をふまえて吟味しながら各パートの音を調整する。

「もっとあの鴨のような躍動感を!」「あの大木のような安心感を――」「人々が出していたあの緩和感を」「時にはアンビバレンスにも似た思考が秒で浮かぶあの魚の姿のように!」。

これらを音に落とし込めたら本物の「芸術の人」である。そこも見据えてMIXを進め、さらに質を高める。まだ完成には至らず。

賢人の話を聞き、学ぶ。文献を読んで知識を得る。アートを鑑賞してセンスを磨く。どれも、吸収として好きな行為である。そして、散歩もその一助となっているという持論がある。

では、俺は散歩中にどんなアプローチで吸収しているのかというと、よくわからない。おそらく、ある種の逆算的思考をはたらかせ、静観なオリジナリティを生み出そうとしているのかもしれない。たかが散歩だが。散歩大好き。
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終日、各仕事を粛々とする。右肩の痛みは『バンテリン』で散らす。けっこう効く。

あとは買ってきたお値引き価格のシャケのブロックを切り刻み、ちょっと酒呑んで寝る。

昨日今日、太すぎる巨大な白蛇が出る夢を見る。会ったことない人物から「――必要だ」と言われ、3つの鍵をもらう夢を見る。

なにかいいことあるかな〜とか思うが、とりあえず現実の今を一生懸命、生きる。今日も、色んな人たちと関われていることに感謝する。とても楽しい1日。
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一日中ずっとタスクに向き合う。明らかなる疲労を実感するが為せば成る。俺は何を成したいのか。なんだろう。ううむと、それこそタスク(課題)が答えを導くであろうと手とか色々動かす。

答えとは、どこに行けば辿るのか、いまのところわからない。円周率のように、無理数、無限桁なのかもしれない。

3.14159265358979323846――これはコピペではなく、何も参照せずにリアルタイムで記憶から引き出して記述した数値である。

何を思ったのか俺は小学生の頃に、「どこまで覚えられるかな!」という無邪気な心でここまで覚えた。それは、長期記憶として現に今も生きている。

「ポップスにおけるコード(和音)の王道進行とは」

|IV |V |III_|VI_|

広義的には上記である。

<止まる事を知らない>

<瞳をとじて 君を描くよ>

<明日 春がきたら 君に逢いに行こう>

<誰も触われない 二人だけの国>

やめよう。偉大なる人様のレシピの一部を例に挙げるなどやめよう。と、ギターでそれらを確認しながら思う。

しかもオン・コードやメジャー・セブンスという、各曲でみられるスパイスを「広義的」という予防線で省略しているあたり、ちょっと我ながらどうかと省みた。

これらの楽曲は全て世代がモロに出る素晴らしき名曲たち。確かな敬意の念がある。最近の楽曲ではあまり――というか、部分的にしか――適用されていないなという「トレンドの変化」も感ずる。要は、コード進行のいいやつも長期記憶に漬けられている。

しかし、いつか忘れる時が来てしまう。それは死す瞬間かもしれないし、認知症的なものに罹患する時かもしれない。

だから、いま覚えていることは何かに活用して、現代で生きていたという、手前なりに思えるものを後世に繋げられればちょっとはマシかなということで手打ちとしたい。

何が言いたいかというと、俺が生み出すやつはなんなのかなと、ふと一瞬だけ思っただけの話。円周率や王道進行は先人の功績。それをどうするか。疲弊も臨界点の淵が見え、ハイボールひとつでクラックラする。

「トリス」と書いてある缶酒のラベルに「新」と追記されている。「新」もいいが、「トリス」を生み出したい。それもなんだかおこがましいなという気分もあいなり、作るとかタスクとかの本質たるやと、本気で考えているようで実態はこの体たらくである。
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トリスを呑んで即、寝ればよいのに「追い酒」を起因として、気がついたら仕事場のソファで「は!」と覚醒し、時刻を確認。AM6時。窓の向こうからピチュピチュという小鳥たちの声が聴こえる。

いかんなあ、と思いつつ当然の二度本気寝。昼過ぎまで起きられない。

そういう時もあるよねと、具体的な是正策を明確にしないあたり、第三者による生活指導が必要とも思えどそれもつらいなあ、などと思いながら薄暗いキッチンで蕎麦を茹で、スパパパッと鮮やかなスピードで食べては今日のタスクに向き合う。

合間、近場のでかい団地に行く。ツインコリダー造形の物件の、最上階へ直行する。

全国各地の団地の最上階への侵入は、一般的にはとてもむつかしい。ほぼほぼ、施錠により入れないというある種の禁断のエリア。

その理由は、昭和の時代、東京都板橋区高島平団地各棟において、過剰なまでの自殺防止策が適応されたことが起因だと俺は考察する。なお、当該団地は俺の本籍地。

北区の団地の最上階の柵。そのギリ手前で観るサラウンドな景色は綺麗だった。「世界は美しいな〜」と、雑感がそのまま言葉に出る。

帰る。値引きの「タイ」の刺身のいいやつを買い物して。そして再びタスクに向き合う。各種案件対応。楽器の練習。制作。創作。以上が今日のやることリストのすべて。全部しめやかに執り行ない、日がふわりと着地するような感覚をおぼえる。

毎日が来ることは、決して、当たり前ではないということに感謝の念を寄せる。
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「能力の輪」というフレーズが輝いて目に止まった。近所の書店で平積みされている本を手にとって読んでいた時のことである。

その言葉は、自分の能力において、より出来ること、より出来ないことを把握するという考え方だという。

つまり、その効果としては、「出来ないことをするよりも、自分が人よりちょっとでも能力が高い部分を伸ばすといいんじゃない?」というもの。

それは、ウォーレン・バフェットさんという、投資の神的存在が提唱したものを引用したものであった。

「は!」っとさせられることは、いつだってシンプルに表現される。例として、バフェットさんさんは「投資」の分野に集中して大成功をおさめた。

マイクロソフト社のビル・ゲイツさんはプログラミングの能力に長け、そこを伸ばし、Windowsなど、みんな一回は使うであろう製品(OS)を普及させた。

Apple社の創始者であるスティーブ・ジョブズさんは、デザイン性の洗練やカリグラフィー(文字を美しく見せる手法)などを突き詰め、MacやiPhoneを開発して世界を一変させた。

「能力の輪」の概要として、「得意なことを伸ばし、その『得意』かそうでないかの淵を見極めることも重要」とも書かれていた。ここで挙げた3名の凄い人たちについては、書籍に記されていた例である。

手前で言ったら、ギターは一般的よりちょっと得意だと思っている。じゃあ伸ばそう。そうだ、ベースも鍵盤も弾いてみよう。けっこういける。打ち込みもできる。録音はどうだ。なかなか! よっしゃ。歌いってみようか。あれ、これは――と、“淵”が見えた。

そのまま歌を練習しまくるのもいいが、それよりも、ギター等の演奏技術と録音&MIXスキルをさらに向上させ、音源としてのクオリティーを高め、よりユーザーに喜ばれるライフスタイルに務めた方が、ある種の適切な進み方とも言える。

面白いなと思ったのは、その“淵”の存在である。それは、言い換えると「自分は、それはやらなくていいことである」と判断するラインとも捉えられる。

動画制作で例えるなら、自分なりにちょっとずつやってみたら面白いものだから「3D」にまで手を伸ばしてみた。

そこで思ったのが「これ、すぐは無理だ。それどころか俺がやって誰かが喜ぶとは、今の所は到底思えない――だったら、今は音楽作ったり文章書いていたりするほうが適切だ」と、“淵”を見て断じられた。

「能力の輪」の、輪の“淵”は、手前だと先述で例えた「歌」や「3D」にあたる。それより、得意と判断できる「輪の内側」に集中しよう。そう思い、今日も文字を書く仕事をし、音を出して制作物の質を高める。

「人よりもちょっとは得意で、できることからコツコツと」および「人よりも不得意で、できないことはしない」という双方を包括した「能力の輪」というフレーズがピカピカと光る。

その言葉がしたためられていた本の名は、ロルフ・ドベリさん著の『Think clearly』。やはり、タイトルからしてシンプルである。

そして、その“シンプルさ”に辿るには、あらゆる分野に一旦は目を向け、それらが自身の「能力の輪」のどのへんにあたるかという視野も必要だなと思った。まだ自分が気付いていない“輪の内側”を知るべく、毎日来る今を楽しもうとほっこり思った。
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「輪」そのものを膨らませるというのは強欲だろうか。などと考えながら、普段通り過ごす。欲には個人差があるしな――と、拡張させて思索していた深夜0時。インターフォンが鳴り、如実に驚く。

「この時間に来客などありえない。苦情か! いつもの音量でさっき色々音を出してたがそれか! 最近この辺に越してきた人がお冠か! ぐああ!」と、めちゃめちゃビビる。

畏れと上気が混じった訳のわからんテンションで「どちらさまで――」とも言わずにまず、ドアをガッと開けて牽制する。

「ウーバーイーツで〜す」と、マクドナルドの匂いがする方がそこにいた。おいおいと思い、「ああ、はいはい。それはウチじゃなくて――」「ああ! 申し訳ございません……!」「いえいえ。遅くまで――」「すいません……」というくだりでしかなかった。

ああびっくりしたと己の臆病さを思い知る。

こんな時「おや? こないだのあいつがお礼にでも来たかな?」と思うか「苦情だ! そうに違いない!」と思うかで、その時の精神状態が明瞭にわかる。

いやそんなわけねえだろと、誰だってこんな時間にインターフォンが鳴ればビビりまくるだろと、己のメンタルヘルスは至ってフラットだと言い聞かせる。

一日の回顧が「ピンポン」の一音でふっとぶ。そんな日もあるが別に嫌な気はしない。むしろ、とっさに「遅くまで――」と、ねぎらいの言葉が出た手前を評価するくらいでいいのかもしれない。ああびっくりした。
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起床時如実にしんどく、「これは今日は全てを休もう」というほどの倦怠感と抑うつ気分を確かにおぼえる。

だが、つらいなりに移動したり本を読んだり、しばらく仕事をしていると、そこそこなテンション感になり、夕方以降はむしろハイになってくる。

脳内伝達物質やら鬱や躁などと気分の因果関係など細かいことは置いておき、全て春という季節特有のものが起因とみなす。

ともあれ疲れは確実に相関しているので風呂を沸かす。栄養面も鑑み、さっき値引きシールがピタッと貼ってある「牡蠣」も買ってきた。

心身のケアと休息は、豊かに生きて活動するために必ず要する大切なエッセンス。肩の痛みもわりと柔らいできたので、ここで入浴と牡蠣と共に追い込みをかける。日跨ぎの時間も近づくと、今日も楽しかったとちゃんと思えることに感謝する。
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ちょい仕事をして夕方、ライブを観に東京・リキッドルームへ。ううむ、熱気がすごいと感服する。

フロアで、以前から数回お顔を合わせさせて頂いたことのある、アーティストの直道さんと会う。帰路、いろいろなお話をしながら、個人的には距離が縮まったような親近感を得てほっこり。

彼は、美しくも野性を帯びた、えもいえぬ特有の雰囲気を纏っていらっしゃる。「今後、もっと一緒に仕事ができたらいいですねえ」という互いの意欲があることを確認し、元気になる。LINEを交換して握手をして各々の帰路に。

一緒にいると、気が高まる特性の人は確かに居る。直道さんは、俺の判断では確実に、確実に、そういう存在。とっても稀有。

いつものスーパーでテッカテカに光る美味しそうなシャケの刺身を買い、仕事部屋へ。もうちょい仕事する。制作をする。「ゴール、どこ?」という楽曲がやっと仕上がったので音源として書き出す。

タイトルは、主治医の精神科医のこのあいだの言葉を引用し「Here and Now」とした。サウンド感とぴったりハマる。まだアップロードしていないが、今まであったかというくらい、如実に抽象的な音像。

右肩の痛みは治まりきらず。その点は気になるが、包括すると、様々な人たちとコミュニケーションをとり、たいへん幸せだと実感できた春の中盤。
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“人間の弱点”と表現されるとグウの音も出ない。

ここ一ヶ月ほど、ずっと右肩の痛みが気になっていた。湿布を貼った。肌がかぶれた。「ムヒ」で散らした。では、塗り薬をと「バンテリン」を塗布した。少々痛みは静まる。

しかし、峠を越えた感覚こそあるものの、やはりまだ痛い。

これはもう病院案件であると判定。近所の整形外科へ行く。3年前に見舞われた謎の脚の痛みを「5日で治ります」と断言され、「本当かよ」と思えど現実として5日で治ったことがある。界隈に、そんな名医がいるのである。

「右肩が、痛いのです」

「平吉さんね、じゃあ縦に腕を上げてみて」

「上がるには上がるのです……ここから、はうあ! この角度から痛いです!」

「はい、じゃあ横――後ろ――どうです? はあ。なるほどなるほど」

「回るには回るのですが、痛いのです」

「じゃあね、レントゲン撮りましょっか」

別室での検査。春物のトップス越しにX線が俺を貫く。無感覚だが、確かに1 pm – 10 nm程度の電磁波が身体を通っていく。

「平吉さん?」

「どうです先生。骨、いってますかね?」

「骨、いってないですがこれは――」

「(この間はつらい。とてもつらい)」

なんちゃら骨肉腫、あるいは内臓疾患所以の痛み、まさかの痛風――あらゆる難病の可能性が俺の脳内をよぎった。これが続くと心気症ともいう。

「四十肩、五十肩ですね!」

「まじですか!!」

大声を上げてしまった。病名(正確には病名ではなく、症状)として言われるとは夢にも思わなかった。というか、嘘だろとにわかに信じられなかった43歳もあと数ヶ月の手前。

「先生……四十肩の概要のご説明を賜りたく――」

「まあ、経年劣化というか、人間の弱点なんですよ」

「どういうことですか?」

「四足歩行では両腕が地に着くので、筋肉が平等につかわれます。一方で我々現代の人間はこう、立っている時などは両腕がぶらんとしてますよね?」

「はあ」

「その時に、肩にあるセロテープのような4つの腱に負荷がかかります」

「なるほど」

「経年による腱への負荷で、炎症が出る場合があります。これが四十肩などと俗称される『腱板炎』といいます」

「けんばんえん。そのセロテープみたいな腱の炎症が原因なのですね」

「そうです。治りますよ」

「どうすれば治りますか?」

「人間の弱点ですからね。期間は人によりますけど、治りますよ」

先生の「治りますよ」という言葉は強い。とても強い。変な病だったらどうしようという感覚はとりあえず払拭された。

「先生。ショックと安心が同時に生じました……」

「ははは。まあ、弱点ですからね。仕方ないですよ」

「すると、薬などは?」

「湿布などをお出しできますが、あくまで症状を抑えるだけなので根本的治療ではないですね」

「すると、放っておいていいと?」

「はい。右腕をぶら〜んとさせる状態などにするのはよくないです」

「逆かと思っていました」

「なぜならば、右肩の筋肉を使用することにより、腱の負荷が減るからです」

「なるほど!」

「あと、寝る時に平吉さんの場合は右側を床につけないように意識するといいでしょう」

「理屈でとてもよくわかりましたが――まさか四十肩とは……」

「人間の弱点ですからね」

「四十肩か――」

と、明瞭に発声して天井を見つめる。そんなオーバーリアクションが自然と出た。背後に居た女性の看護師か係の方は、プークスと小さく笑っていた。

とりあえず、人間の弱点だから仕方ない。現実として俺は40代だ。それにしても――と、痛みの原因がはっきりと判り、メンタル的にはすっきりしたが、肩に老いたシワができたような心境でそのへんを散歩する。

帰宅し、試しにと、アンプをオンにして、立ってギターをライブリハくらいのムーブで数曲弾いてみた。右肩があんまり痛くない。じゃあいいね! と、人間の弱点を受容した。俺の強みでもあるタスクにさほど影響を及ぼさないのであれば、と。

経年。弱点。両方とも、抗えない要素。改めて、人間は、時間軸という平等で有限な時期で生きる生物なのだと実感した。

「とどのつまり、歳」と、先生は仰りたかったのだろうが、すごく論理的に医学的に生物学的に説明してくれたことに、多大なる感謝を。
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思い込みかプラセボ効果か、「治ります」「そのうち治りますよ」と繰り返し強調された医師の言葉は非常に強力だったのか、右肩は昨日の半分も痛くない。

なんとも単純な、チョロい身体なのかな手前はと、あるいは受け入れやすすぎるのかなとも思う。ともあれ、いずれにせよ痛くなくなってきたという事実がある。

そういったわけで今日、意気揚々と各タスクと向き合い、あっという間に日が閉じる。

当たり前のように思える健康と、当たり前のようにやってくると思う日々に、心からの謝意を。
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どれだけぶりかというほどクリアに、記憶に夢が残らぬ睡眠。今日もせっせと営み摩る右肩のほど。

新たな曲を、生み出すべく濃く掲げる意図。それは使いやすさ。さもCMで流るるようなというテーマ。

意識は全て外に向け、内省的な気を払う。最近そういうのばかり作っていたからである。ちょいちょい挟むポップネス。皆が使いやすい音像をたぐり。

芽が出た一節のギターリフ。そこが地となり固まれば、全ての枠組みほぼ決まる。

とはいえ痛む四十肩。はふうと漏れる時流の証。過去、今、未来、もう過去、今、未来。今。そのリピートのなか生きているなと階段を踏む。

アイディアがピタリと決まらぬ日、こういう三文ラップみたいに成りうる。

まあ、それはそれでそういう日もあるが。今日も幸せに過ごせたことに対するあらゆる恩恵に感謝する。
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今月の少々手前あたりから、ゆっくりなような急激なような、俺が関わらせて頂いているあらゆる方面で、様々な変化がみられる。それは、時代のすんごい速さの流れの影響もあるかと思われる。

今年に入りちょっとして、2月くらいだっただろうか、思いつきと挑戦が源泉にある、「音楽業と執筆業をミックスした新サービス」をインターネット上にメニューとして出した。すると、わりと早い段階で最初のお客さまがつき、リピートまでして頂いた。

その新サービスは、やってみたところ凄く心踊るものであった。やりとりをしている期間、楽しくて楽しくて仕方がなかった。

そのままたくさん顧客獲得という展開が最高であるが、仮に、当該サービスの需要が、ほぼほぼこれっきりであったとしても――もちろん膨らませたいが――これから先のあらゆるビジョン拡大、ポジティビティの上昇、スキル向上、ほかにも何かを感じる。「確実に未来の何かに繋がる」あるいは「現実の利他と自利の両面の豊かさとして膨張する」と、心底感じた体験だった。

現時点でそこに対してきちんとギャランティーもついてきたわけだから、「俺なりに勇気を出して踏み出して一歩進んだ」と、自己評価するのが正しいと断じた。

一方、別のタスクで、いままで通りだったものに整備等の大きな変化が入るという面もあった。こればかりは権利問題やプラットフォームの方針などもあるので、きちんと問い合わせて、最善策をとるべく最中となっている。

また、ライター業においてご新規様がついたり、お久しぶりのクライアントからも声がかかる。継続して走り続けているタスクもある。

今日はその、継続しているタスクのひとつである興行現場業務の中のひとつ、ライブ演奏練習をする。しっかり足場(エフェクターボード)に各機材を組んで、曲目を練習する。

変化するものと、変わらないもの。なくなるものと、新たに生み出すもの。各要素、時代の空気感を察知しつつ、適切に、より向上すべく姿勢でいようと、そのように自身に落とし込む。

こう記すと、「要は儲かってきたのか?」というように捉えられる側面もあるが、実情はそうでもない。資産は極端には減らず、グーンとは増えておらず、というのが現実。

とはいえ、毎日幸せに過ごせているということは、ある種、社会不適合者の属性だという自覚が少々(他者様からしたら立派な…)ある手前も、ちゃんと社会と「やりとり」ができているのかなと、ふと思う。そこに対して必要不可欠なのは感謝の念である。

綺麗事でも本心でも習慣でもなんでもいいから、「やった〜」「助かりました」「きれいだな」「面白いな」「学んだな」「もっと知りたい」と思ったらキッチリ感謝する。そして幸せをシンプルに感じる。そういう生き方でいたい。
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議論をふっかける。今日の命題はこれに尽きる。

昼、ちょいと仕事をして夕方、いつものメンタルクリニックへ行く。月に一度ほどの頻度で行く。理由は、いろいろある。

前回の診察で俺は、主治医の精神科医に「アドラー心理学」を軸として、議論をふっかけた。

その学びから引用した“課題の分離”。つまり、自身の課題において他者が土足で踏みにじる事は「不当な介入」といった意味合いでその点を引き合いに出した。

すると前回のその瞬間、精神科医は「じゃあ、どうします? 平吉さん?」と、やや不機嫌な雰囲気を確かに醸し出した。彼は、医師としての役割と、俺のスタンスに乖離が生じていると判断して怪訝のご様子であった。

しかし決してそういうつもりではない。だから俺は弁明した。

そしてそこから、前回に彼から出た言葉は「平吉さんね。私は『Here and Now』なんですよ」というものであった。それは、「いま、ここで、ここから、何をすべきか」という姿勢を表した言葉であった。

そのあと俺は、“Here and Now”というワードについて徹底的に調べた。すると、「なんだ、アドラー心理学を凝縮した一言ではないか」という結論に達した。

先生は前回、「精神医学、認知――それらと心理学は別です」と仰った。すなわち、彼は心理学を本格的に学んではいない、セパレートしていると明言した。そして今日。

「平吉さん。どうですか?」

「はい。悪くないですね」

「そうですか(ニコニコ)」

「ええ。前回の先生の言葉、“Here and Now”ですね。それがピタリとハマりました」

「ほほう」

「先生は前回、『心理学は専門外』といった旨を仰いました。しかし、僕がアドラー心理学を引き合いに出した場面で、“Here and Now”という言葉を提言したのはつじつまが合いません。逆に言うと、知ってましたよね?」

「ほほう」

「先生は、私が心理学を自分なりに咀嚼した上で差し出した、アドラー心理学を実はご自身できちんと理解なさったうえで、“Here and Now”と仰ったのですよね?」

そのようにふっかけた。

「平吉さんはね。なんでも決めつけるのは――精神医学の教科書があるとするじゃないですか?」

「はい。僕にわかりやすいように、先生なりに端折っての例ですね?」

「そうですね。まあまあ、その“精神医学の教科書”の最初の1、2ページくらいしか心理学については触れていないんです」

「ふふん(知らんかった!!)。すると、『精神医学』と『心理学』との差とは?」

「医療か、そうでないかというか――」

まあまあ長い付き合いだからわかる。先生は、俺の“議論のふっかけ”を楽しんでいる所作というか雰囲気を出している「ギア」を上げている熱気を感じた。

「先生。アドラー心理学では、“トラウマを原因とする精神的な疾患や葛藤”を、きっぱりと否定しています」

「平吉さんね。前回に私が言った精神科医が1970年代に、それをさらに明確に否定しているのです。精神医学的に」

「はい。アドラーさんも、トラウマなど、過去を起因とする“原因論”を否定しています」

「そのアーロン・ベックという精神科医が同様に否定しています。だから、心理カウンセラーなどが『過去にこういうことがありましたね? だから……』ということに関して、私は懐疑的です」

「先生、僕もアドラーさんを解釈した上では懐疑的です(心理カウンセラーの資格を取得している俺としては中立的解釈もあるけど――)」

「言ってしまうと――私は、例えば、脳梗塞になった人がうつ病傾向になったとしましょう。よくあることです」

「(それ、俺の親父だな)」

「そこでその罹患者に対し、心理カウンセリングをしても、『過去にこういうことがありましたね?』などと過去を掘り下げても、根本的にどうかと」

「(今なら理解できるが、そりゃそうだ)」

「だから、その場合は、抗うつ剤投与の一択です」

「極論ですね」

「違います。医学的にはそうなのです。平吉さんは、精神医学と心理学を並行して捉えています」

「(俺、患者スタンスなんだけど諭されてるのかな)」

「あの、平吉さんね? あんまり極端に決め付けないほうが……」

ここである。先生は、俺の急所かつ――手前では利点とも思っていたが――個性的とも捉えている部分を明確に否定することがしばしばある。これは、カウンセラーが絶対にやらないことである。

「先生、要は、『医学』と『心理学』は僕が思うほど…かなり別と?」

「いろんな捉え方がありますが、私は医師として判断しているのです」

「先生、その文脈ですと、僕が心理学を引き合いに出すのはナンセンスと? 僕なりに様々な角度からの理解につとめるべく、哲学や形而上学まで手を伸ばしているんです」

――こいつ、患者じゃねえな。本当に面倒くせえ。そういう雰囲気が室内に及んだのは個人的主観。

しかし、処方されている以上、俺はあくまで「患者」と「医師」という関係値をおざなりにはできない。

一方で、好奇心から色々ふっかけてる俺のような輩は、医師としては鬱陶しいことこの上ないであろうか。

だが、俺は楽しかった。彼も、節々で彼自身が現状の生業につく初期衝動を引き出せられているような何らかを感じた。

だがしかし、規定的時間があるのだろうか、急に先生は声のトーンを変え、舵を切った。

「平吉さんね、じゃあ次回は――」

帰宅して仕事をし、夜は日暮里に行く。友人夫妻との交流のために。

そこでは、なんともポップな議論のふっかけ合いに華が咲く。アルコールと共に。

俺は彼と、彼女が、友人として、大好きである。だから、議論は常に建設的。俺の環境下では考えられない彼女らの「議題」を元に、ふっかけ合う。そこから生じるのは生産性しかない。とてもたのしい。

ビールビール。寿司。狙ってた「エビ」があっという間に食われる。そっちより議論のふっかけ合いのほうが栄養を伴う。

共通意識として、俺と彼女らには「アドラー心理学」があった。

だからもはや、「課題の分離」とか「トラウマ」や「承認欲求の否定」、「他者貢献感」の観念など、ビールのおつりくらいにしかならない、先ほどのクリニックとのコントラスト。たまらなく面白く、俺はなんと対人関係に恵まれているのかと笑い惚ける。

楽しく呑んでいればいいのに、主たるや「議論」。つまりここでは酒の肴。

場面によっては「医療」と「カウンセリング」の線引きの解説ともなれば、ただのネタにもなりうる。議論とは、相手を論破するような戦場的エンターテインメントに非らず。生産性を伴い、建設的であるべきかな〜とか思う各々の帰路。

「じゃあ、――さん! 次回は『時間』と『今』と『唯物論』について、議論をふっかけ合いましょうね〜」と、笑顔で京浜東北線下りホームへ。

何かの形に残るかといえば、よくわからない。結論として、「議論」ベースとして幸せに過ごせた、とても生産的な一日。
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アドラー、アドラーと、最近よく引き合いに出すが今日、ふとラジオでパーソナリティーがそれを話題に出していたのを小耳にはさんだ。

そこでは、アドラー心理学についてわかりやすく書かれた『嫌われる勇気』という書籍の内容を軸に、その観点から日常の様々な事象に対するアプローチなどを語っていた。

昨日の今日で、なんだ? アドラー心理学が流行ってるのかな? と不思議に思う。シンクロニシティなのか、ブームなのか。わからないが、こういった“同時性”はよく体験する。そして俺はそれをわりと重要視する。

なぜかというと、今なら言語化できる。

人間やら、あらゆる万物は、根底の無意識下で全て繋がっているという見解があり、俺はそれに同意しているからである。これは、心理学者・精神科医のユングさんが提唱する“集合的無意識”というやつが源泉。

『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイで言うところの「――繋がっている」というセリフもこのへんにかかっているのであろうか。

まあいいやと思い、各タスクを行なう。近所のおばあちゃんの各所用の代行をして金を得る。2022年にコケた事業の名残。

興行曲目のギター練習をする。仕事の準備。

アーティストの音源のレビューを書く。文筆業としての生業。

生活面で繋がる。音で繋がる。文字で繋がる。気づいていないだけで、ふとしたこともどこかで誰かと繋がる。

社会においても、対人関係でも、家族や恋人などとの愛所以の向き合い方でも、なにかと繋がった時に、人間は「生きている」と感じる。

そう考えると、えらいシンプルだなと、ふと机に向かいながら肩の力が抜ける。とはいえまだしつこく痛む四十肩。

ともあれ、「40年以上、生きている」と捉えるのがポジティブな考え方だろうか。いやそこにそういうの要らねえかなとも思う壮年期の1日。
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興行スタッフ案件で都心へ赴く。ゴールデン・ウィーク感満載の街中。今日はプロデューサーが別件で不在のため、自然と気も引き締まる。

とはいえ、こういうのはみんなが一体となり、演者とお客さんを主として行われるものであるという前提を忘れずに、一日楽しく仕事をする。

終盤、ギタリストのよしお氏がくれたハイボールをゆっくり啜りつつ、ヨディーさんたちと語らい、安全に快活に着地する。

帰路、自宅界隈もお祭りだったようで、雰囲気がいつもより明らかにうかれている。どこもかしこも、手前の今日も、楽しそうでなによりと仕事部屋の机につく。ちょっと原稿を書いて深夜を確認。

世間の流れに沿うような日もいいなと、心地よい疲れの中そのように思う。
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レビューを書く。カタカタとキーボードを打っているうちに、「そもそもレビューって何だろう?」と、ふと思う。

「評論」「批評」「再検討」「再評価」。一般的にはそういった意味合いをもつ。個人的には、「何かのコンテンツに対し、専門知識を持った特定の誰かが評価する」と、解釈している。

しかし、今はネットショップの製品のセールページに“レビュー”として、消費者の声が記されたりする。これも立派なレビューだろう。雑な表現だと「ただの感想」というものもあったり、「クレーム的な意見」「中庸な一言」という分類もできる。

ううむ、じゃあちゃんとしたレビューとは――などと、さらに考えた。手前はこれまで、仕事として楽曲レビューを何度も書かせていただいている。

中には、一発でオッケー原稿となるものもあるし、緻密なダメ出しリテイクを賜ったことだって何度もある。中には「専門的で立派すぎるのでもっとラフに」という非常に珍しい“戻し”もあったりしたこともある。

くふう、レビューとは、と再考する。なんなら、この一連の思考も“レビュー”と呼んで間違いではなかろうか。

さっき、足立くんが機材のやりとりで宅に来た。お互い一服しながら、ふと「執筆者による記事の様々な文調・スタイル」といった話題に及んだ。彼は言った。

「――まあ、そういうのもあるけど、平吉の場合のはさ、ちゃんと相手に興味を持った上ってのがあるよね」と。

なるほどと、ポジティブに捉えた。その視点で俺の文章スタイルを論されたことはなかったからである。

仕事、案件の場合、俺が対象において主観的な興味があろうがなかろうが、まずはきちんと調べ、コンテンツを深く吟味し、浮き上がる“興味”を限りなくあぶり出す。

そして、よい主観とそうでない主観は相当控え目にし、客観視する。すると、俺以外の受け手が、対象のどこに“興味”を抱いているかが浮き彫りになってくる。

そして、それらを包括した思念の上で、対象の制作意図や感情、パーソナリティーや、その人の現在のトレンドなどを逆算して想像する。憶測をたてる。

そんな流れをいつの日からか、無意識でやっていた。それを、足立くんは「興味を持った上で」と、一言でまとめて俺を納得させた。なんなら気を良くさせてくれた。

自分に興味を持たれてよろしくない気分になる人はいるだろうか。こういった個人的議題も上がるも、答えは秒で出た。

「なにか行動しており、主張する意見があり、広義的な意味での物作りや、表現をしている人間は、他者に興味を持たれた時点で、繋がりや相互理解などの幸福感が生じる」というものである。

要は、なんか作ったりパフォーマンスする人は、ほかの人から「どれどれ!?」と思われて、決してわるい気はしないであろうということである。

俺だってそうである。「この曲、どこから作ったの?」と聞かれたら、日が暮れて相手が寝落ちするまでの超長尺で嬉しんで語り尽くす。

例外もあるだろうが、つまり「他者に関心を寄せる」という行為は、幸せの種なのではないかという結論。

長々と書くとこうなるが、“ちゃんと相手に興味を持った上”と言ってもらえると、そう思えるということである。

彼の言葉は、“俺の書いた文章をちゃんと読んでくれている”ということ、すなわち“興味を持ってくれた”、ということになる。

だから、彼は俺に興味を持ってくれた。嬉しい。

俺は、対象に興味を持って文章を書いている。嬉しいと思ってくれるだろうか。

これらは「評論」やらの意味を持つ「レビュー」についての、ある種の「感情論」となるかもしれない。

とはいえ、結局は人間同士のやりとりは幸せの源流という前提があると思うので、「言われて嬉しい」「言って喜んでもらう」というシンプルなところに回帰するくらいでいいのかもしれない。なにせ、いずれも、本人も対象もほっこりした気分になるのだから。
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都内スタジオで興行のリハーサルをする。午前中から体調がなかなかよい。音を合わせて確認事項をあぶり出し、一旦帰宅。

夕方前後は机でカタカタとし、新モバイルの吟味を目的として界隈2店舗を周り、夜は高円寺のBARへ。

ジンやテキーラやハイボールなどなど、5〜6杯呑んだが、けっこう長時間居たのでさほどディープには酔いどれず。楽しくポップに過ごす。

深夜手前、居合わせた仲間たちと〆にラーメンを食べる。どことも競っていない、ジャンクな味付けに溺れていない、ノスタルジックな味わいに感銘を受ける。

仲間に車で送って頂く環状七号線道中。俺は課金してまでAIツールをイジり続けている現在の雑感を、彼は為替や外貨などについて実践を含んだ見識を、友に実体験を基とした情報交換をする。約30分間のたいへん有意義な会話。

自宅近隣で降ろしてもらい、酒買ってまた帰る。4月、色々あった。総括すると「楽しかったです」の一言で問題ない。

細分化すると、フィジカル的に歳を感じつつも、知識欲に似た何らかは伸び続け、新たな体験もあり、先に繋がる点をしっかり感じつつも今という時間をより大切にする意識が強くなったなという前向きな気持ち。内省からも得た「春」という感覚。
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