ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。4月。
誰に見せるでもない可憐な笑顔。花よ。与えるでもなく受けるもなく、ただそこに居る。その美麗たる佇まい。俺は吸い込まれる心境を粛然とこらえつつ、花びらのたもとを探る。するとそこから確かに肉肉しい、人間の汚さを模すかのような実相を目視した。美しいものは、遠くから眺めるにとどめることが――。
などといった気持ちのわるいポエム文章を小説の原稿にねじ込んだ。訳ではない。
情報量が多過ぎと思える箇所のあいだに、もうちょい、さりげない情景描写を加筆しただけである。脇役も脇役の役柄でヤクザ出してみた。いや、本当に景色みたいなヤクザ役。どういう状況だそれ。ともあれ、内容はすごく普遍的なテーマ。だと思う。
要は、推敲3回目に入ってさっき、序盤が「おお、これだ」みたいになってよかった〜と思った。それでその前、日中は楽曲制作ずっと詰めててやっとこ完成して「これは(ことオルタナティブロック系楽曲については)最高傑作かもしれん」と悦に浸り、後者においてはプラットフォームに申請した。
もっと前。起きて最初。身支度してまず近所の教会に行った。徒歩数分なのに雨とか寒さがしんどかった。
中世の香りを確かに想起させるシンメトリーな造形。迷い人、そうでない者、懺悔を乞う者。拒まず。万事を慈愛で受け入れる。神のもとにあらゆる差異はない。静謐な構内に空調非ず。ひんやりとした褐色の長椅子に腰をかけ、思想書に耽る。しばらくし、非言語的な導きを受け講堂中央に導かれ、そこで書物と対峙する。啓示――虚構の感覚ではない光に包まれた。
いいよこういう気持ちわるい情景描写はもう。でもね、こういうのも適切に、ここまでおかしくは書かないけど、さりげな〜くねじ込むと効果あり。ということをちょっと実感したという訳である。
それで教会を出て、老舗蕎麦屋に赴き、「大もり」を美味しく食べたけど、なんかちょっと量がいつもより少ない上に100円値上っててもう、声が出なかった。しょうがないけどね、と思いつつもそこから帰宅していろいろ営んでいた。いろいろなことを考え、つくり、アウトプットもした。
そこでいま、思った。最終的にはどうなりたいのかと。さらにいま、思った。それを知ってしまったら人間というやつはきっと、絶望してしまい、生きる活力から精力から気力から何から何まで枯渇して動けなくなってしまうのではないかと。
だから、定期的にこう、手前に言い聞かせるように書いたりするが、今を生きることこそに最たる意味と楽しさがあるのではないかと。
だが、その〝今〟を変にこねくりまわして情景描写のような文章にすると、先のようになる。しかし、それが時に有効な時もある。
小説を書くということに真剣に対峙していると、様々な気づきのようなものも同時にあり、それもまた楽しい。
あと、ディテール――本文の場合は2箇所の情景描写ねじ込みがそれにあたる――は、ほどほどじゃないとおかしなことになる。そこは適切かつセンスよくいきたいよね。
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訂正。先日のあたった件、「ブリ」ではなかった。
さきほど、編集部の村上氏より入電。内容はというと口頭一番「変なこと聞くけど、最近腹こわさなかった?」とのこと。
当然俺は「ブリ」翌日の惨事を思い出し「ありました!」と口にするがすぐにわかった。村上氏は「やはり……」と、その前日に酒の席を共にした時の「牡蠣」を持ち出した。
つまり、俺は、ブリにあたったのではなく、居酒屋で食べた生牡蠣にあたったということがほぼ確定となった。
理由は、村上氏は生牡蠣にあたった経験があり、その時の症状と似ていたこと。ならびに、同時期に俺も発症したこと。おとといからの症状を口頭確認ですり合わせたところ、全くと言っていいほど同一の症状であったこと。現状のコンディションは〝80%くらいかな〟という彼の所感と一緒な部分も。
思い込みって恐ろしいなと思った。「ブリ」冤罪。「生牡蠣」本線。というかほぼ確定。ノロウィルス。軽傷寄りでよかった。そう、互いに電話口で安堵した。何故ならそれ以外考えられなく、それは、別の大病であることを否定することにも繋がるからである。
今日夜、いやいや治ってきたと嬉しみ、カップうどんに卵を入れて食べた。直後、具合がまたよろしくなくなった。小説原稿を推敲するもこう、横になっていた方がいいという本能に従い休む。その間に入電。上記のようになる。
という訳である。なお、この症状は数日で自然治癒する――ネット調べでしかないが――らしいのでまあ、一安心だろうか。とにかく、村上氏が早く全快しますように。あと俺も。繰り返しになるが、あたったのは「ブリ」ではなく「生牡蠣」だったという訂正文。
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