05/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。哲学かぶれ。5


アイフォーンの新しいやつを買いにauショップへ。現在使用中の物では今後のOSアップデートが不可というApple社の意向所以。とどのつまり、機種変更である。

友達にもらった「iPhone 7」。4、5年は愛用しただろうか、まだまだ使えるであろうが、LINEなどの連絡手段のアプリケーションまでバージョンアップできなくなると困る。その前に買ってしまおうという、10分前到着にも似た先回り。「iPhone 15」へと特大ジャンプアップである。

店内にて、20代後半と思わしき女性店員から説明を賜り、データ移行などをまるっと一任する。

「要は、いま使っている状態を、この新しいやつに移してすぐ使えるようにしたいのですが、今日中にできますでしょうか?」

「はい! 可能でございます!」

「よかった。すごいですね」

「はい! あと、途中でデータが正常に移行しているかを判断するために、お写真やお電話帳などを確認させていただくことになりますが、そちらはご承知いただけますか?」

「ええ。個人情報だからといった点でのご配慮ですね? 大丈夫です。やましいデータなどは――」

「ではこちらとこちらと、月々のお値段がこう、来月は事務手数料が加算されてこう、2年経ったらこうと……よろしいでしょうか? あと、データ移行でお時間数10分いただきますね!」

「お願いします。では僕はドンキに行って画面のフィルムを買ってきます」

「ドンキですね! 行ってらっしゃいませ!」

キャリアショップで販売している画面保護シートやケースは高いので、近場のドンキに調達に行く。

例えるなら、居酒屋にいるのに生ビールが580円もするから「ちょっとコンビニで缶ビール買ってきますね!」というひどい行為に近い。だがそこは言及されず。「行ってらっしゃいませ!」と、言質もとってある。

だから堂々とドンキに行き、まずはと思い廉価の各品々の購入で手打ちとし、ショップに戻る。

「いかがですか? 仕上がりましたでしょうか…?」

「はい! ばっちりです!」

「いやあ。よかったです」

「お電話帳などこのようにそのまま、お写真も!」

「おお。ありがとうございます。そのままですな」

「はい! あ! バンドやってるんですか?」

「はあ。(けっこうがっつり写真見たのね)音楽関係のことを少々……」

「私もベースをやってるんです! いいですね!」

「ベースですか! いいですね。何かあったらご連絡ください。お力添えになればと」

顧客情報管理にめっぽう厳しいKDDI株式会社のサービスブランド「au」の店員さんが、客である俺に対し、そんな相談をするために今日得た情報で連絡をよこすはずがない。

ただ、終始笑顔で接客してくれたその姉ちゃんがベーシストであり、それまでの業務スマイルから、あからさまにプライベートな表情になったその瞬間にほっこりした。そこでつい、手前も営業的フレーズがこぼれた。というだけである。

「お客様! 今日はどうもありがとうございました!」

「こちらこそです。音楽活動、応援しております」

「えへへ!」

という感じで無事、最新型のアイフォーンへの機種変更完了。俺は通信モバイルにはさほど愛着を抱かないほうだが、まあまあ気持ちがフレッシュになる。

というか冷静に考えれば、そんなに愛着ないとはいえ15万円もするデバイスを購入したのは、どこか相反した感情が伴う。

世界を変えた。そういわしめるスティーブ・ジョブズさんが手がけたアイフォーン。なんなら、人間の購買意欲などの行動心理すらも覆したのかもしれない。そう考えると、それはあらゆる分野でよく引き合いに出される偉人なのだなと改めて納得する。

最新機種あり、どんとこいアップデート。さて俺も新たな相棒のこいつと共に、どんどんバージョンアップしていこうぜと奮い立つが今日は基本的にお休みの日。

故に、あんま仕事はしていないが、データ移行やバージョンアップ時に製品本体が表面上は停止しているように、人間も時にはそういう日も必要。疲労も取れ、あらゆる面で感ずるフレッシュな気分。
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なんだか体調がいいのだが濃いめのコーヒーを超こぼす。よりによって着ていた白いシャツにおもむろにかかり、「模様です」と言い切れば「前衛的だね」というレスポンスが返ってくるであろうほど、汚す。

これは諦め、シャツ捨てようと断じる。今日あった、普段と異なるシーンはこれくらい。あとは普通に仕事して演奏の練習をして原稿を書く。

手前は本当に、モバイルのデバイスには一般的感覚に比べて興味がないのかな、というくらい、昨日ドンと購入した最新型スマートフォンを触る頻度はいつも通り。

強かにこぼし、任侠の抗争時の返り血くらいブラックコーヒーを浴びた以外はいつも通り。毎日来てくれるいつも通り、関わる全ての要素、少しずつでも向上したいと途絶れぬ気概、連続する楽しい今、それぞれに対し、濃いめに感謝する。
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なんだかやること多いなとか思っていたら、あっという間に日跨ぎ寸前。それだけやってるなと、そのように解釈すれば綺麗だが、そこに比例して稼ぎや資産がドンと増加しているわけでもない。

やりかたや行動のシステム的なところに改善点があるのかな? などとも思うが、そもそもドンと大金を稼ぐことに直結するムーブを俺はとっていない気がしてならない。

ああそうかと、じゃあ、金ではなく手前の行動原理とはなんであろうかとふと思う。とりあえずさっきまで向き合っていた原稿については、金とかよりも「こう書いたら読み手は喜ぶかな?」という点に大きな比重がかかっていた。

すると、俺の原動力は人が喜ぶことなのかということになる。そうでもあるし、金もほしい。

「どちらか一択だ」と、神的なやつに言われたら俺は前者をとるかもしれない。聖人君子ぶっているわけではなく、たぶん、そういった素の能動が確かにある。

そんなものほぼ全員あるわと言われればグウの音も出ない。しかし、人の喜びも金も同様に「報酬」という共通点がある。報酬が原動力かというと、そうでもあるし、そう言い切れない部分もある。

なぜならば、結果一人として喜ばず、一円にもならずのコンテンツを作っているとき、結果がまだわからない時点では「報酬」のことなど考えずに、ただただ没頭している時が多々あるからである。

そうなると先述の「こう書いたら読み手は喜ぶかな?」という心境には矛盾が生じるが、それは最終段階の判断基準であり、ババババっと書いている最中は本当に書くことしか考えていない。音楽制作だと、いかに気持ち良い音となるかしか考えていない。

それはそれでいいんじゃないかと思う一方で、俺が大金というか潤沢な資産を得られていない理由が明るみに出た気がする。

その時、楽しいというのがとても大切なのは大前提である。とはいえ、もうちょい金もほしいなという確かな欲望もある。

「平吉って、金儲けはヘタだよね」と、昔に友人から言われたことを思い出す。合っているが、いまだにへたっぴのままなのがどうにも。

とはいえ、その言及の接続詞の「は」に友人の優しさを感じた。理由は、助詞が「が」だったら、単に「金儲けヘタクソ野郎」というニュアンスだが、「金儲けは」だと「それ以外には上手い所があるんだけど、一方で金儲けに関しては」と解釈できるからである。

ちょっとポジティブすぎる捉え方だろうか。つまり、金儲けも頑張ろうと思った。他者に貢献し、報酬も得る。これがベストなのはわかっているが、なかなか難しい。ちょっと考えすぎなのかもしれないが、とりあえず「他の人喜ぶかな〜」という時は明瞭な幸福感がある。

このように、このへんの考えをつらつらと書かずとも、「他者貢献」「ドーパミン・報酬系」とかなんとか提唱できちゃう偉い人たちって本当にすごいなって思う。
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0時前、連なるハイボール飲酒の連鎖たるやどこまでかと思いつつ、俺は近隣の公園にそびえ立つ大木の呼吸をフィジカルに感じていた。ひたりと手をあてる感触は冷たくも、美麗な何らかを感じる。

今日は興行案件でみなさまと楽しく跳ねる。様々な立ち位置で各々、仕事をする。そういったゴールデン・ウィークたるや、わーいと、とても良いなと率直に思う。

いろんな人と話をする。価値を見い出す。時にポップに、よしお氏が引いた確率変動フィーバー・スタート――ライブ出番までの待ち時間の遊び――を見守ってはパチンコ屋でのひと時を慈しむ。楽屋へ戻る。出番を待つ。本番、体感的に秒で過ぎる。

幸せの実感は後からじわじわ来る。そんなことを想起しつつも、「ライブ」という言葉通りの瞬間をみなさまとシェアすることができて幸福と断ず。

めしを現場で食う。メガ・ジョッキで酒を呑む。足立くんに帰りを送って頂く。宅にて機材を整理する。

ううむ、まだまだ今日、というありがたい時間があったので徒歩数分圏内に立地する呑み屋へ。「レバテキ」と「にんにく揚げ」をアテにハイボールを流し込む。

おいしかったな〜と、満足して帰路。いやしかし、まだ浅いなという思索のなかコンビニでハイボール350ml缶をひとつ買い、公園で呑みながら木を見る。そして、0時が過ぎる。

以上、漏れどころはいくぶんかあるが結論、とても楽しかった若葉生い茂る季節の或る1日。
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数日前から、あらたな源泉を得るタスクを考えている。そういうアンテナを張りつつ大型書店へ行くと、また別の視野が広がる。

書店で平積みされている本や、レジの前や店舗入り口など、目立つ場所にある本の内容は「今、みんなが欲している知識」の目印ともなる。

「お金の稼ぎ方、その仕組み」「話し方、コミュニケーション」「健康」「大物作家の小説」「仕事術、マネジメント」。ざっと、これらにフォーカスがあてられていた。つまり、みんなお金や人間関係や健康などの悩みがあるのだなと判断できた。

そりゃそうだろうと一瞥し、あらたなタスクのヒントを得るためにまず、手前の仕事の地盤である「音楽」関連書籍のコーナーへ行く。

すると、以前よりも明らかに、それらにまつわる本が少ない。スペース自体が縮小されていた。これはもしや、音楽シーンそのものの縮図ではなかろうかと危惧したが、昨日参加させていただいた興行の生の空気感からは、そんなことはないという主観が生じる。

単に、書店においては可視化されていないだけであると信じたいが、事実として、音楽雑誌などの売り上げ自体は落ちているのではないだろうか、という点はきちんと認識する。

では、全く別のビジネスモデルを考えて、そこに音楽と執筆を加えて何か――と考案しつつ宅に戻る。一旦リラックスしてYouTubeを観る。

好みとしてよく観る三崎優太さんの最新動画で、「霊媒師」「霊能力者」といった肩書きというか、そういうスタンスの人が出演していた。

その霊媒師は、霊やオーラや念などがビジュアルとして視えるらしく、何なら守護霊との対話や、対象者の記憶を辿ることもできるという。

三崎さんは「霊視」を受け、記憶を辿られ、具合が悪くなって(そういうこともあるらしい)横になるというくだりもあった。

俺の仲間にも霊が見えたり、場所的に良し悪しがあることを察知できる人物が居る。昨日も一緒に居たが。

彼いわく、とりあえず俺の仕事部屋は「居心地が良い」と表現し、来てみんなと過ごす時に彼は決まって、「この部屋において最も俺が落ち着くソファの座り位置」で憩う。来ると必ずそこに直行して座るのである。「場所」や「気」を、ちゃんと察知しているある種の証明であろう。

そういう身近な例もあり、動画の霊媒師のように、霊が見えたり相手の魂の色から性質を判断できたり、除霊や結界を張ることもできたら、それはそれで大変もあるだろうが凄いなと率直に思った。

その霊媒師は、男女2人ペアによる『彩咲ちゃんねる』の男性の方。そのチャンネルをいくつかみたら、潤沢な数字を持っておられた。

各種収益の流れも整備されており、チャンネル登録者や再生数から察するに、きちんとマネタイズができていると断定できた。

要は、そのチャンネルが、“霊媒師”というスタイルをビジネスに結びつけているといった点で、俺の新たなタスク探しのヒントとなった。

自分の卓越した能力に少々エンターテインメイト性を加えてコンテンツ化させる。今日参考にしたものはかなり特殊な方だが、他者からしたら特別である自身の能力に焦点を絞るという考え方だと、非常にシンプルだなとも考えられた。

すると一周して、俺の場合は、卓越まではいかないかどうか――それは受け手が判断することだが――音楽と文章という、10年近くはいちおうマネタイズできているタスクに絞って膨らませることがいいのかもしれない。

それでもまだ、自分では気づいていない長けた能力があるのかもしれない。そのへんはいわゆる“能力の輪”の境界線を見極めることが大事だなと、先月得た見識に回帰する。

とりあえず、ここのところずっといそいそとしていたので、水面下でヒント探しの思考を走らせつつ、娯楽ベースでいろいろ見て過ごす日も価値があるなと思った。

それにしても、霊や気の流れ、守護霊との対話。これらができると、どんな気分なのか凄く興味がある。明日起きたらいきなり視えるようになる可能性もゼロではない。

されど、さっそくビジネスとしてと考えるかもしれないが、とりあえず今は、続けていて社会に関われていることをこれからも発展させたいという、地に根を張った生き方をベースにしようと改めて思う。本当に明日、急に視え出したらどうなるかはわからないが。
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まあいつも以外のビジョンはそう簡単には視えねえよなと、起きて普通に仕事をする。なにか新しい源泉、ビジネスはないものかなと考えるも浮かばず。

それはそれでと思考をアイドリング状態にしたまま、やれることやるかと新しい楽曲の制作をする。「ギターリフものCM向け」というコンセプト。このあいだのライブのテンションがまだあるうちに、その熱量を曲にしたいなと。

レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンと、ザ・ホワイト・ストライプスのかっこよさの音像、プレイ感、人間味溢れるロック・ギターサウンド、それぞれのイメージをモチーフとする。そう簡単には出てこないものの、なんか良さげなスケッチが4小節できたのでDAWに波形でメモる。

そうこうしているうちに深夜。外は謎に強風が吹き荒れる東京都北部。俺にもいい風吹かねえかなと思うがそれは自ら起こすものだと、いつものように自己啓発的な気持ちで日が閉じる。
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とにかく何が述べたいのか本気でわからん「形而上学」の書籍。頼む、メルマガとかそういうやつみたいに結論から言ってくれと、首を斜めにクククと鳩のように傾けながら読み進める。

本の第10章。すなわち最終章に「これが結論、本書の要点か」という箇所を見つけた。

俺なりには、その部分が「形而上学とは、要するにこう」という一節として光って見えた。

そこを最初にペカッと光らせて欲しかった気もするがまあ、それも、こ難しい書籍を読み進める上での醍醐味なのかもしれない。

“形而上学は、世界がもたなければならない特徴やもちうる特徴をもっぱら理屈に基づいて考えるのだ。”

165ページ目に書かれていたこの一節は、「ここだったか! そういうのは最初に書いておいてくれ」と心底感じた。長尺のコントか何かで発せられる「お前が歌うんか〜い!」くらいのテンションでそう思った。

しかし、仮に、冒頭にこの一節があったとしても、最初からは全く理解できなかったであろう。後半も終盤、第10章にその文が配置されてはじめて、それまでのクソ長い文脈と共に腑に落ちるものなのかな、とも思った。

「個別者」「性質」「変化」「因果」「可能性」。

書籍では、このようなキーワードが各所に散りばめられていた。上記を用いて、俺なりに形而上学テイストで例をあげると以下のようになる。

「俺という『個別者』は、身長173cmという『性質』をもつ。しかし、40年という時間の経過に伴い、以前は身長100cmにも満たなかった『変化』がみられる。そして今後、老後に向かい173cmよりも縮む『可能性』があり、そこには加齢という『因果』を含む」

“――もたなければならない特徴やもちうる特徴をもっぱら理屈に基づいて考える”と、こんな感じになる気がする。

そんな理屈、要るかね? と問われれば「知らん」と答える。絶対にそう断じる。しかし、そういう考え方をもとにしてあらゆる科学や学問として派生したという点を念頭に置く場合では、「知らん」では決して片付けられない。

だから、日常会話では「知らんけど、哲学とかの基礎的なやつじゃね?」くらいでいいだろうか。そうでもなければ、例えば、ふだん普通にいじっているスマホに対していちいち細かい思考が湧く。

「これはiPhoneという一つのデバイスで、通話に加えて撮影もインターネット接続もできる。一方でそのどれかの機能が失われたとしてもスマホはスマホとしてその個体であることができる」

そんなこと考えながら俺はスマホと接しない。何も考えずに「ゆっくり魔理沙だぜ〜」とかのんびり観ては、ふははと笑っている。

「ううむ、このチャンネルの性質はテンプレートであり、その“変化”という部分に焦点をあてるとあらゆる分野を紹介する汎用性に長け、その“可能性”は現代の知識・技術共有との“因果”があり――」などといちいち考察しない。

正直、これらの例文や感想などから、俺がきちんと形而上学という重厚な学問を理解できたかといったら甚だあやしいかもしれない。

とはいえ、随所で「なるほど……?」と思わせる、考えさせる、知らなかったことを知る姿勢が伸びる、いままで“無”だった思考の発端が生じたことは、脳内では事実となったと思える。

それこそが、形而上学のパワフルな点なのだろうか。読んで良かったと感じたことに加え、ようそこまで書いたなと、著者に対しての敬意と感謝と尊敬の念が芽生える。

いまのところの、この学問を主題とした雑感は以上である。昔の人は、情報源がいまより遥かに少なかったぶん、深く、物事を考えていたのだなと、そこはシンプルに感銘を受けた。

なんなら、それを享受できただけでも、ひとつの読書後の成果かもしれない。

次はもっとポップな本を読もう。『スピ子の大開運アセンションまるっと一発網羅!』みたいなやつにしようか。そんな本ねえよとも思うが。
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霊媒師とラファエルさんのYouTubeコラボ動画をがっつり一本46分くらい楽しく観る。ちょっとソファで寝る。

岡田斗司夫さんの動画を流しっぱなしにしていてウトウトしていると、体がビクッとなったり、岡田さんのトークが謎言語に聞こえたりする。

これは疲れているか霊的な何らかか。ほぼほぼ前者であろうが、まあそれはそれでと起きて、制作を進める。前提として日中はしっかり仕事をしていた。先月打診を受けたライター案件の詳細がおりてきたので仕様の確認事項も送る。後日対応とする。

つまり、まあまあいつもどおりの日。何か変わったことがあったかというと、前髪を耳に片方かけて過ごしていたくらい。

切ろうか迷うが、10代の頃から髪が短いと落ち着かないという変な感覚があるので多分ばっさりとは切らず。「これは前世の名残だろうか」という思考は、明らかにここ数日ハマり始めた霊媒師さんの動画の影響。

こういう割と入り込みやすい手前の性質をどう捉えるか。それは、深く向き合う特性と、良い方向に捉えておくのが精神衛生上よろしいのだろうか。
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接待かこれはおい。というくらいの、うはあと声が出るクラスのおいしい食事やらお酒とか楽しい会話・対話。東京都新宿区で今日過ごした所感。

とはいえ、予後に吟味すると確かに感じる孤立感。しかしそれが課題なのかな〜とか思う。別に、いま酔っ払ってはいない。
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どうも覇気が出ないなと、ややクサクサした心境で過ごす。おととい詳細が来た案件に手をつけるまでが長いという体たらく。

こういうのは「とりあえず5分だけでも」というのが定石。やる気スイッチの正体。そういったわけで、ちょっと手をつけるとそのまま淀みなく、進捗20%までできる。

よしよし制作もと、各機材をオンしてDAWを開いてギターを弾くが肩が痛い。立っての演奏はそうでもないのだが、座って弾くと四十肩が謎に際立つ。

とはいえ弾いているうちに慣れてきたので全体像の尺、その下書きのような段階までは辿る。

時間が経つにつれて気分もフラットになってきて夜、日が暮れる。半分くらいはお休みのような日だが、各タスク、少しずつは進行する。このペースを加速することがいまの課題だろうかとふと思う。
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一変して隆盛たる覇気、漲る本日。この落差たるや何ぞと思うがいつものことだと仕事をする。

細かい小休止以外の時間はほぼ全て、文字を打って過ごす。時間さえあれば制作もしたかったがそこは0時前になったので打ち止め。定量。

起きる時間がわりとバラバラなぶん、寝にかかるタイミングはけっこう統一させているこの1年半くらい。

寝酒を片手に仕事部屋のソファで斜めに気絶することがしばしば、そんな不摂生の向こう側のような体たらく、即刻律すべし。という気もするが、それ以外はだいたい同じ時間に寝る。

そういったわけで、進行中の案件を一気に書ききる元気はあったが、明日「起きれんかった」ということを回避するためにもしっかりめの塩梅で〆る。前のめりな進行具合が心地よい。

当たり前のようだが、心身の調子が良いことをきちんと感謝する意識をカッと顕在化させることで、人間は恒常的に健康でいられるのかもしれない。まだ肩は痛いけど。
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昨夜から、肩に加えて頭と耳とかまでもが謎に痛いのは、“太陽の表面で起きる爆発現象「太陽フレア」”のせいにしておく。

それはGPSとかにも影響すると聞いたので、もうそういうことにする。しかし元気はあるので一日中フルで仕事をする。もはや痛みが気持ち良いやもというマゾヒズムのフェーズに達する。

一通りこなし、そういえばと思い、YouTubeの動画を作る。生成AIってつくづく脅威だなと、いい方に捉えてハイボール呑みながらツールをいじくる。痛みは麻痺する。

いろいろ前倒ししてタスクを進行しているので、もう数日もしたら意図的に設けた連休に突入できそうな気配。とても楽しみ。

一方で、なんかもうこの時間になると機知に富んだフレーズとかぜんぜん出てこないくらいクタクタになる。それはそれでそういった幸せのかたち。
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なんとなく鶯谷のラブホテル街あたりを散歩したかった。だがしかし圧倒的雨天。ならず、無目的徘徊。

しからばと前のめりに案件を進める。仕上がる。精査のため一晩寝かすことにする。コンテンツの客観視という観点において、これは案外大事だったりする。

今日のタスクとしてもうひとつ、公開楽曲管理がある。いま公開している楽曲は、外部2つのプラットフォームで管理して頂いている。

その片方に公開中の楽曲を全て非公開にする。 権利の関係でその必要が出てきたのである。今後のトラブルを未然に防止するために、委託先としては一方のみでの公開とする。

そうしたところで即座に大きなダメージがあるわけではないが、100曲以上ある楽曲の「公開停止申請」するひとつひとつの作業。進めていると確かに感じる寂しさ。10年近くの付き合いだったからそれはそうかと、けっこう収益化させて頂いたものだなと、様々な感傷に浸りつつ、終わらせることも肝心だと認識する。

とはいえ、当該楽曲たちがもうリスニングおよび使用できないというわけではない。

もう一つの巨大なプラットフォームでいつでもダウンロードできる。なんなら当ウェブサイトからも、今のところなかなか零細な俺のYouTubeチャンネル経由でも、ユーザーは100曲以上ある公開楽曲にアクセスできる。

じゃあ作り続けようと楽曲制作をする。座ってギターを弾くと右肩にくるが、弾いている間は脳内のアドレナリンやエンドルフィンの関係でさほど痛みを感じない。それだけきちんと向き合っているのかなと、フィジカル面でもメンタル面でも、あとみえない何らかと、多方面からそのように実感する。

それが心身にとても良いと、原点に還る気分。ギターを人前で弾いたり、制作物として落とし込んだり、それを好んで使って頂いたりと、それらの行為からは貢献感が得られる。

「右肩が痛くてギターが弾けない」ではなく「ギターを弾いているときは痛みを感じない」というこの現象というか体質というか、とにかく制作できることに感謝する。

今日頂いた楽曲使用報告メールを読むと、なんだか凄いところで使って頂けるのねと、幸せな気持ちになる。

俺がどこまで他者様に貢献できているかはわからないが、それがふと具体的に知れると、純粋にやる気は向上する。

“幸福とは、貢献感である”と、断じたアドラーさんの言葉は、確かにそうだよねと頷ける。

誰の役にも立っていない夜の飲酒も、とりあえず酒買って経済回して酒税まで収めているという“貢献”も伴うとも解釈できる。強引に述べるとそういう側面もあるだろうか。

別にそこはいちいち考えず、シンプルに頭をアホにして呑んでいるだけだが。最近は「GINON」という缶酒推し。
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ちょっと四十肩よくなってきたかなと思いきや、油断すると「ピリッ」として「あああ!」と声が出る。シャツ羽織ろうとすると「あああ!」となる。どうか、慢性期から回復期に差し掛かっていることを祈る。

仕事をして、東京都の沼袋という、行ったことのない土地へ赴き、足立くんのバースデー・イベントを観る。

時間的にちょっとしか居られなかったが、少し話し、彼がとても嬉しそうな顔をしていたので良かった良かったと、それだけでも良いよねと、帰路につく。アーロン・ベックさんという認知療法に特化した精神科医による書籍を手に入れたので、そいつを電車で読み進めながら。

「その本を読みなさい」と促されたわけではないが、俺の主治医の精神科医からそのベックさんの名が出てきたので興味本位で能動的に読む。

とりあえず、「心の不調」には「認知の歪み」という、因果関係だか相関関係やらがあると、なんとなく思っている自分の考えが、この著書にはしっかりばっちり学術的に記されているもよう。まだ30ページ程しか読んでいないが、これも面白いなと理解に努める。

わからん概念、観念が、「わかった…!」となった時、自分の中で分布されていた色んな点と点が線で繋がる。新しい強固な点も生じる。ここに俺は快感を覚える。

それも大げさかな〜とか思いつつ帰宅して昨日の案件を精査して提出。ちょっとYouTubeの動画を作り進める。

手前の肩に、デスクワークに、友人のイベントに、認知療法の追求、コンテンツ精査、動画の脚色、様々な要素がある本日。

今後、それらがどう繋がってどう明るみに出て記録されて、人生腑に落ちるのか。などと大観で考えるがわりと普段通りの日。人によっては年に一度の特別な日。

それぞれ同じ時代を生きているが、それは奇跡的だなと、ふと思う。やはり、おおげさかもしれないが、どこか、実感が、おぼろげにあるような気がする。
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そんなに酒を呑んでいない。だがしかし気づいたらソファでハッと目が覚める早朝。おいおいと思って寝室でもう一回寝る。こういう睡眠スタイルは、今日のように7時間睡眠でも明らかな寝不足感を引き起こす。

もっと言ったら、手前は9時間ちょい寝ないと本流の感じではないのだが、そうもいかない日だってある。要は、フルで仕事をするにはまあまあのしんどさも感じた日。

起きて1時間くらい変な感覚が残る不思議な夢もみた。決してネガティブな内容ではなかったが、なんとなく言語化しないほうがいい気がするので、一度書いたが全部消して書き直す今。

あんまそういうの関係ないかなとも思うが、なんとなくの感覚。

日中、寝不足起因でしんどさもあれど、日が閉じるといい疲労感。仕事をして、ありがとうと言われれば、俺はそれで幸せになれる。

YouTubeでいろいろ観たり、Chat GPT4oというハイパーグレードアップしたツールをもっといじったり、制作をしたりと、各種いろいろ意欲があるが、今日は睡眠時間加算を優先する。

つまり、シンプルに眠かった日。今日はしっかり寝室で、眠りの尻尾をたどるように健やかに熟睡しよう。
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見事に眠りにつくも疲労がとれず。日中は仕事をして夜、意図的に仮眠を追加する。岡田斗司夫さんのYouTubeチャンネルを流しながら。そのあとの作業は、ちょっとだけ動画制作を進めるくらいにとどめておく。

湯を焚いている。四十肩とはどうやら1年とか3年とか半年とか、そういったスパンの付き合いになることが一般的なようなので、肉体的可動域を狭めぬよう、筋力が衰えぬようにと日々、少しずつねぎらう意識を持つ。

受診時、整形外科医に「そのうち治りますよ〜」とは言われたが、ほったらかしというスタンスはよろしくないと省みた。

今の懸念は、弾けるには弾けるが、座ってギターを演奏して録音するスタイル時の感覚。プレイすると謎に痛みは気にならないのだが、それは集中が痛覚を麻痺させていると思われる。よって、ダメージの蓄積となっている見解も否めない。

だから、まめにケアすることにする。「今日は1日かけて5トラックのギターとベーストラックを満足いく出来で仕上げられた」というようなくだりが普通になるように。

当然、元に戻るといったら少々表現が異なるかもしれないが、よくなる、よくする前提で右肩に配慮する。

いつも通り機能してくれる身体、脳。精神、魂、ほかにも俺が認識できていないあらゆる何らか。それらなどは「機能」とは別の言い方だろうか。

とにかく、「いつも当たり前に」という考えではなく、「今日も使えてありがとうございます」と、自分を動かせてくれる身体、使用する様々な道具、とりまく環境、周囲の方々、心や閾下の要素。全てのことに対して感謝するべきだと改めて思う。心底、そう思う。

そのうち四十肩も治り、なんなら前よりよくなってメジャー・アップデートされてやった〜というポジティブな可能性も視野に。その数年後の五十肩は本当にご免被るが。
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正直、最新型のアイフォーンの恩恵をあまり感じていなかったのだが、動画を撮ってみたらわかった。以前使用していたiPhone 7よりも、明らかに音質がよく、画素数も高い。

宅の真空管アンプから1メートルほどの距離で撮影したその動画の音声は、デスクトップで聴くと、Spotifyなどのサブスクリプション・サービスで聴く音量とさほど変わらなかった。音が圧縮されていないのだろうかと仮定したが、単にけっこうなボリュームで弾いていただけかもしれない。

それでも、以前の機種とは明白な差異がみられた。ううむ凄いなと思う一方で、動画を客観視すると、わりと右肩をかばっての演奏と伺えるのが切ない。

四十肩の影響で本意気とまではいかないが、弾けるだけいいかと、そのうち戻るだろうと前向きに考えた。というか俺は、先月からここに何度「四十肩」という単語を使えば気がすむのかと俯瞰する。SEO対策でもしてるのかというレベルである。

さて、明日はレッド・ホット・チリ・ペッパーズが上陸する。彼らのそのエネルギー所以か今日から気温が熱い。昨年も同様であった。

天候とレッチリとの因果関係はない。相関関係もない。ただ、なんとなくそういうのあるかなと、完全否定はしない。

「レッチリが来たから肩が治った」というフェーズまで行ったら、俺の認知は相当おめでたい方向にバイアスがかかっていることになる。

良いほうならいいかなとも思うが、人間、ある種の思い込みでどうにでもなるという持論があるのでそういうのもありかなと思う。レッチリが来るから、今夜はよく眠れて疲れは全快する。それくらい思っておこう。
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東京ドームでライブを観る。レッド・ホット・チリ・ペッパーズである。去年も観た。今年のは、2024年の彼らの今の姿だった。この一言に尽きる。

ギタリストのジョン・フルシアンテさん。推す。右耳に髪をかけているのがチャーミングと感じたので今、真似して手前もそのようにして余韻に耽る。

思い出す音楽的初期衝動。帰路、連れの方とたいへん楽しき酒を交わす。向かい合って演奏するレッチリのような時間だったと、共々思えれば至極幸い。

今年のところ、最高の1日。それを更新していこうとも思う。さっき呑んだ「ヘビ」を浸けた酒が体を火照らせる。今は「トリス・ハイボール」を呑む。うめえ。

ありがたき「レッチリ休暇」に感謝する。ところで、明日は何をしようか。今日のために前倒ししすぎて、ひとつも予定なし。そういう幸せに浸る。
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「――私たちの罪を、許したまえ」

やべえなんか始まったと、俺は逃げるように教会をあとにした。信仰心は別にないが、近所のこの教会は俺のパワースポットのひとつ。たまに立ち寄り、しっとりと憩うのである。

今日は昼下がりに来て本を読んでいたところ、気がついたらぽつりぽつりと周りに信者らがおり、それっぽいとっつぁんが神の教えをマイクで喋り出した。

外に出て時刻を確認すると16時33分。いつもは閉まる時間だが今日は日曜日。そうか、あれが「ミサ」というやつかと認知する。

聖書じゃなくてアーロン・ベックさんの著書を読んでいたので、色々とお門違いだなと、尻尾を巻いて周囲を散歩する。適当にさまよい気が済んだので「ブリ」のブロックの刺身(500円弱)を買って帰る。

レッチリ休暇だしなとリラックスし、岡田斗司夫さんや青汁王子こと三崎優太さんのYouTubeチャンネルを観て楽しむ。

前者は、観てるとなんか教養になるからよく視聴する。後者は、俺には無い圧倒的な金稼ぎの能力を持つ者への憧れというスタンスでよく再生する。

こういうのんびりした日もいいねと思えど、なんも作業ひとつしないのもむず痒いなと、ギターの弦を張り替えて制作を進める。YouTube動画の編集をする。うん、今日はこれくらいでちょうどいいなとハイボール缶を開けてヒタリと呑む。冷たくておいしい。

今日の起きがけ、やや二日酔いながらも気分は良く、全身、元気に満ちていた。レッチリの素晴らしいライブ所以か。ハブ酒の効能か。アテの生牡蠣の栄養か。深夜に及ぶ楽しい対話か。

まあ全部だろうと、当然、レッチリのライブ会場に居た数万人のエネルギーが集合的無意識下でも沸騰したのだろうと、レッチリ休暇を総括する。右肩の痛みを除き、たいへん明朗快活な状態にしてもらえたことに対し、ちゃんと感謝する。
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老舗に行く。蕎麦湯ってなんでこんなに美味しいんだろうと、肚の底から声が漏れる。

少し散歩をする。5月特有の青々しい匂い。ほどよく濡れた湿度が風とともに体にあたり、心地よく感じる。

帰宅して動画制作をする。34歳の時に作った楽曲にグラフィックを施す。当時は、この曲にAIなどの各ツールを使用して、動的コンテンツにすることなど想像もしていなかった。

ライター案件の打診を受ける。継続して依頼してくださるクライアントはとてもありがたい。二言返事で丁重に受注の意思を伝える。

楽曲制作をする。座ってギターを弾くと肩にくるので立って演奏する。そのほうが負荷が軽くなる。

というかそもそもフレーズ自体が地味に難易度高いなと思えど、クオリティが高いにこしたことはない。しっかり納得のいく演奏トラックと判断できるまで詰めに詰める。先日観たジョン・フルシアンテさんのプレイが如何に偉大かを思い知る。もっと、ちゃんとギター演奏を洗練させようと奮い立たせて頂けた。

なんやかんやで、ものをつくり進める時は没頭できて生を感懐する。その成果となったものを使用してくださるユーザーから報告を受けると、貢献感を得て幸福の情感。

そういうことで今日もやることやったので酒ちょっと呑んで寝よう。昨日おとといと、外でも家でもゲラゲラ呑んでいたので少しにしよう。安定の「氷結」で。
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やっぱ休暇大事だなと起きて快活フレッシュな午前。いつもどおり各タスクに取り組む。

素材がおりてきた案件に着手し、動画をアップロードしたり、音源をリマスターしたり、安定の岡田斗司夫さんチャンネルを観たりして過ごす。今日も蕎麦をすする。なんなら「ニラ」を入れて栄養価をブーストさせる。

楽曲制作もしたかったが肩が「今日はもうやめとけ」と言わんばかりの鈍痛、炎症痛。言い方が難しいがとにかくオーバーワークはしないことにする。というか十分やったから手打ちとする。

今月は何だか色んなことをするなと充実感を感受するも、何故にそのぶん資金がガンガン増えはしないのかというこの怪訝。

何かほかに、「もっと稼げる」に特化したタスクはないものかと、いつも水面下で考えているつもりだが事案に結ばず。

ともあれ、やるべきことが目の前に、毎日こうしてあるだけでありがたいので感謝はしている。そもそも、その「感謝」の閾値が俺はあからさまに低いのが前述のジレンマの起因ではないかと仮説を立てる。

「こんなので満足していてはだめだ」という考え方はストイックだし向上心が漲っていてカッコいいと思う。一方で「部屋の葉っぱがすくすく伸びている。幸せだ」という小さな幸せも大切だというスタンスもある。

欲。「欲がない」と、30歳くらいの頃にある人に言われた。それは、俺を肯定する言葉ではなく、その表現の裏に潜む人間関係におけるドドメ色の本質的な何かを感じた。確かにそう感じたはずなのに、当時はその感情を秒で押し殺した。理由は今になって少しわかる。

欲がないことはよいこと。とは思わない。あったほうがいい。恣意的な欲は他者から反感をかうかもしれない。何が言いたいかというと、そういう考え方ではなく、もっと素直に生きればいいのかもしれないということ。

確かに、歳を重ねるにつれ、わりと自分らしく生きられるようになってきた気がするが、もっと素直にとなると、やはり欲はつきまとう。

「お前は一番何が欲しいんだ」と問われれば、「自分とみんなのほっこりです」とか答えるだろう。そして「あともっと刺激が欲しいかもしれないです」と補足するだろうか。

その、あともうちょいの刺激って何だろうとやはり心象的に迷子になる。その「刺激」の倒錯の対象が手前にとってはギャンブルだったことは死ぬほど理解した。そういう時期もあった。

では、そうではなく、俺にとっての「正道の刺激」とは。そこにヒントがあるという結論。

たどり着くのは簡単ではなさそうだが、とりあえず思考はちょっとまとまる。そうやってそれをどんどん行動に繋げながら、意図的に欲の閾値を上げていく。欲に対する欲。わけわからん。
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いかんストックが! と思い深夜寸前、タバコをカートンで買ってくる。なんだかやること多いなと、それでいいじゃないかとカタカタ過ごす。

今日はどれだけの方面の方々とやりとりしただろうか。それくらいなのが続いて、伸びて、稼いで、ほっこり。やった〜というのが望ましい。

とはいえ今日は非常にタスクが多かった。だがそれでいい。そう、きちんと思う。よって、もうシュッと酒呑んで寝る。手前に関わって頂ける全ての方々に多大なる感謝を寄せつつ。
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ううむやること多いな! と思い深夜。やはりそれでいいと手前の正しきチューニングを確かめる。

ひと段落して編集部の村上氏とLINE通話で様々な対話をしつつ、本題についてはほんの数分。そういうの好きである。

今、なかなかの時間、あとは明日頑張ろうと肩をナデナデしながら副交感神経優位にもっていく。

今日もタスクは多く、生き生きと過ごした。つまり、もう酒呑んでファ〜と寝る。どうか、仕事部屋のソファで気絶寝しませんように。
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いくつかあるタスクの合間、メンタルクリニックへ行く。ロビーには一人も患者はおらず、そうか、みんな健やかなのかなと、世間の精神衛生の尺度かなと勝手に捉える。

「どうですか。平吉さん」

「はい。ここのところ、けっこういい感じです」

「よかったじゃないですか(ニコニコ)」

「最近、仕事がいっぱいありまして。やはり、仕事量と僕のメンタルヘルスの良き具合は比例しているようです。先生が仰る通りのもようなのです」

「そうですか。ふふふ」

「あと、メンタル関係ないですけど、整形外科で『四十肩』って言われまして」

「私もね平吉さん。四十肩になりましたよ。両肩とも」

「なんと!」

「でもね、治りますよ」

専門分野ではなくとも、医師の「治りますよ」の言葉は強く大きい。しかも、その症状を経験した当人のその見解は、何よりも強固なエールと感じた。

「でしたら安心です。あと、先生が前回仰ったアーロン・ベックさん(精神科医。現代の鬱病等の認知療法の創始者)の書籍を発見しまして、買って読んでいるんです」

「ははは。ありましたか」

「はい。『認知』についての本で――」

「『認知療法』ですね?」

「そう! そのタイトルです。アーロン・ベックさん著で、大野なんとかさんが訳した――」

「大野裕さんですね?」

「そう! よくおわかりで――」

先生は食い気味に、全てお見通しですよと言わんばかりに先回りして俺の伝えたいことを言葉にした。

例えるならば音楽を追求してる者が居て、似たようなくだりがあり、ビートルズで言ったら「あの横断歩道を4人が歩く――」と言ったら「アビー・ロードですね?」と、秒で返される感じだろうか。

「先生。学のない僕なりに、その本を読み進めているのですが、とても難しいのです」

「そうでしょうね。一般的にすぐ理解できる性質ではないかと思われますね」

「ですので、先生に質問といいますか、僕なりの解釈が合っているかと。まず前提として、僕のような神経症気質の人間は、どうやら『認知』が極端だというのがまず一点です」

「はい」

「そして、その『認知』が歪んでいる、すなわち、起きもしないことに不安をおぼえるシチュエーションがあるとしましょう。僕で言うと、一時期著しかった電車などの移動時の、あからさまに病的な不安感です」

「神経症のみならず、不安障害やパニック症などでみられる症状ですね。予期不安とも言います」

「そのようです。先生、本の内容を咀嚼して思ったのが、僕は物事をおかしく『認知』することで極端な恐怖や不安にメンタルが振り切ってしまい、たとえば、確率1%にも満たないネガティブな事例を90%くらい『起きるのでは』と思い続けていたのです」

「なるほど」

「それこそが『認知の歪み』であり、シンプルに『1%の確率を90%以上と捉えている』思考を正せばいいという考え方で合ってますでしょうか? 事実として電車内で別に何が起こるというわけでもないのに、ひたすら漠然とした不安に苛まれるのはおかしいと」

「その通りです。平吉さんは、電車内において、密閉空間において、『何かあったらどうしよう、逃げられない、倒れてしまったらどうしよう、死ぬかもしれない』という、1%にも満たない『事実』を歪曲……これは言い方に改善の余地があるのですが、そのように捉えていたと自覚したのですね?」

「そうです。アーロン・ベックさんの本に、そのような記述のセクションがあり、これだと思いました。要は『認知の歪み』が、漠然としながらも鋭利な、あの忌まわしき不安の正体だったのではと……」

「平吉さん、その本の内容の中核はそこです」

「そうなんですか!」

「平吉さんね、その本を訳した大野裕さんは私の師匠なのです」

「なんと!!」

衝撃を受けた。なぜかというと、大野裕さんという精神科医が書かれた本を、俺が20代の頃、抑うつ状態がデフォルトの時期に、何冊も読んだからである。

「びっくりしました。先生のお師匠さんだったとは……大野裕さんの本を僕は何冊も読んだことがありまして(尊敬の眼差し)」

「私は直接、大野さんに教わったんです。大野さんは認知療法や精神医学においての治療を広めるためにどうするかという時代、厚生労働省から白羽の矢が立った人物です」

「すごい人なんですね……?」

「ええ。雅子さまの診察をしたのも大野先生です」

「ほんとですか!! こ、こ、皇族の……」

その瞬間まで知らなかったが、大野裕さんはもう、音楽界で言ったら桑田佳祐さんやYOSHIKIさんレベルにあたる人物だと俺は認識した。

「アーロン・ベックは、1970年頃に、これまでの精神医学や認知療法、心理学もそうなのでしょうか、そこまでの常識を覆す療法を確立させたんですよ」

「先生、それが本にもある『認知療法』の内容ですか?」

「そうですね。それまでは夢診断とか」

「古すぎますね! フロイト(心理学者)さんとかのやつですよね?」

「そうですね」

「だから平吉さん、さっき言ってた感じですと、平吉さんはアーロン・ベックの本の内容を理解してますよ(ニコニコ)」

「それはよかったです! とはいえ、なにしろ難しい本でして……!」

「それは直訳に近いからでしょうね。大野先生はアーロン・ベックの見解を正しく伝えるために、あえてそうしたのでしょう」

「なるほど。大野先生の著書はすごく読みやすいのになんでかなと思ってました。そういったリスペクトがあったのですね!」

「そうかもしれません。大野先生も言ってましたが、認知の“歪み”という言い方についても、いかなるものかという姿勢を持っていました」

「“歪み”とか“歪曲”とかはネガティブワードですもんね」

「そうですね。だから“偏り”という言い方にしたりと」

「“バイアス”みたいな言い方とかちょっとポップに流行ってますよね」

「ええ。それなら病的という意味ではなく伝わるし、あらゆる症例を正す場合に『認知の“偏り”』を極端な方向から修正すると言いますか」

「“偏り”だと、なんか心情的に構えないでいい感じありますね」

「そう。平吉さんは著書の通りに“歪み”と表現しましたが、私もまた“偏り”のほうが適切かなという考えがあります」

「なるほど」

「日本で自殺者が3万人を超えた年がありました。世界でもダントツの自殺者数です」

「ははあ……」

「それでどうしようかという時に我々は、薬物治療と認知療法など、正しく診察することに注視したのです」

「先生は前回、“認知症に罹った後は、鬱病になりやすい。その場合はカウンセリングなどではなく、抗鬱剤投与の一択です”とキッパリ仰いました」

「はあ。“一択”とまで言いましたかね?」

「間違いなく、仰いました(日記に書いて記録したくらいだもん)」

「そうですか……それもありますが、例えば、極端に気持ちが沈んでいる時に認知を修正しようとしても難しいのです」

「先生、そういった補足も述べていたことを追加します」

「ですよね」

「その、よくある『落ち込んでいる時に大事な決断や決定をするな』的なやつに近いですか?」

「そういうことですね!」

「だからまず、薬をと?」

「そうです。それでまず、正常とまではいかなくても、症状が緩和してきた状態で認知の偏りを修正していくんですよ」

「確かに、自殺寸前の精神状態の人を言葉で食い止めるのは難しそうです」

「だから、まずは薬物治療で緩和してからという方法をとります」

「先生が前回、カウンセリングについて懐疑的な部分があると仰ったのは、そこもかかるのでしょうか?」

「極端に言ったらそうですね。心理カウンセリング自体については、否定はしませんが、順番の話ですね」

「本にも書いてありました。“自殺志願者は、つらすぎる現実を終わらせる、解決させる手段として『自殺』が、一筋の光のように解釈する”というようなことが――」

「認知が偏っていますよね。明らかに」

「そこまでいったら僕も、そう思うかもしれません」

「平吉さん。そんな時に言葉で『今はあなたの考え方、認知が偏っているだけだ。一緒に考え直そう!』などと言われてどう思いますか?」

「もちろん『こいつ何言ってるんだろう?』と思いますね」

「だから、そこまでいってしまったら、認知療法などよりもまずは薬物療法ということですね」

「なるほど」

その後も、先生は雄弁に、俺が投げかけた「認知」についての精神科医としての見識をわかりやすく説明してくれた。

時折、なぜかマスクを下にずらして、何度も口元を見せた。「深く伝えたい」という、彼の深層心理の表れだとしたら俺はすごく嬉しいなとその時、先生を観察しながら思っていた。普段はやらない行為だからという理由もある。

「先生、これまでもしばしばありましたが、僕のようにちょっと知識をかじって質問をする、議論を欲するという行為は、プロである医師に対して失礼にあたると思っているフシがありまして――」

「そんなことはありませんよ。なんでも聞いてください(ニコニコ)」

「そうですか!」

「もしも、平吉さんの質問に答えられなかったら、私は次回までに、それに答えられるようにします」

「(抱いてくれ!)」

1,430円。再診の料金である。ほぼ毎月一度、俺は通院している。ただ、問診して処方されて終わりでは面白くないなと思い、いつの日からか俺は先生に、精神科医に、あらゆる角度から話を引き出すスタンスをとるようになった。

すると、いつだって新たな発見がある。治療とは別ベクトルかもしれないが、知識が身につく。貴重な一次情報が得られる。「対話」による症状の改善――これがメインだろうが――だってある。

少し変わっているのかもしれないのは、俺は積極的に、自分の症状を軸としつつもその概念と他者はどうなのかという視点、学術的にどうなのかというフィールドも含めて質問をする。

「平吉さん。“Here and Now”なんですよ」

「先生が前々回に仰っていましたね? “いま、ここから、何をするか”ってやつですよね?」

「そうです。過去に何があったか、その原因をどう対処するか――そうではなく、いまここから何ができるかです」

「僕はその考え方を、アドラー心理学から学び、その話を先生に投げかけたタイミングで、“Here and Now”と仰いました。その学問では“目的論”と言うそうです。僕には、すごく合う考え方になりました」

「よかったじゃないですか」

「過去――やらかしたものはどうにもならない。そんなことより、いま、なにをするべきか」

「そうですね(ニコニコ)」

「先生! 認知療法も、そこにかかっている気がします」

「じゃあ平吉さん、次回なんですけれども――」

ここはいつもと一緒だった。「もうちょい」というところで、なんか急に話をぶった切って診察を終わらせようと、次回予約の確認をする。

俺の神経症気質が病的なのか、性格なのか、精神疾患なのか、先生は明言しない。ただ、今日あたりはすごく晴れやかというか、自分の心の色の解像度がより高く自認できたような気分になれた。

対話している時は、なんだか『嫌われる勇気』という本の「哲人」と「青年」のやりとりに似ているなと思った。

青年である俺(43歳)は、哲人である主治医(40代後半)から色々諭して頂いて世界がクリアに見えた。自分もそれ以外も、シンプルに捉えることができた。

つまり、“認知”の歪み、いや、偏りが、あるべき姿に変化しつつあると自覚した。

精神科医にアグレッシブに議論をふっかける。質問をする。ディスカッションする。そういったアプローチでスッキリするような輩も、このように居たりする。

その一連の流れを俺は「取材療法」と名付けることにした。造語である。

それが、今後いろんな人とシェアできて幸せに生きられるような提唱にまでつながったら――なんだか興奮するなという気持ちで帰路につき、タスクをこなす。いま、ここで。やるべきことを、健全な心持ちで。
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肩が痛いが仕事をしないわけにはいかない。なんもしないのは社会的にも肩的にもよくない。放っておくのはよくない。そこは共通している。

そういえば昨日、先生も四十肩をご経験したという文脈から「激痛になる時期もありますよ」などと笑顔で仰った。

それは御免だと、とりあえずストレッチは効くらしいので程よくほぐしつつ、今、浴槽に湯を沸かしている。血行促進がどうのと、整形外科医が言っていたので入浴は効果があるだろうと。

そういったわけで今日はみっちり仕事とはせず、楽器も軽く練習するくらいにとどめ、半分くらいは労わりの日とする。それでも各タスクは進んでいる。それが俺にとっては良好な精神衛生に直結する。そのようにまとまる静かな一日。
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けっこう元気に目が覚めて確かに感じる体の軽さ。体への労わりの大切さを知る。

しっかりと仕事をしたら明らかにくたびれ、なんと燃費のよろしくないことかとYouTube動画で睡眠学習すること小一時間。

起きて新たな動画生成AIを見つけたのでいじってみるも「黎明期」感は否めない。やはり、手作りのオリジナルコンテンツに勝るものはないのかなとは思いつつも、積極的にAIと共存したい。

そうこうしているうちに夜が更ける。とはいえ、やることが多いってメンタルによろしくないファンタジー思考が生じなくていいなと切に思う。
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深く考えることは生産的だという持論こそあるも、事実、発生率1%にも満たないネガティブ事象に対する思考を、恣意的に、過度に膨らませるのは健全ではない。時にはそれが疾患の原因となる。

いま読んでいる認知療法の書籍と精神科医との対話の概要をまとめると上記のようになる。

いや〜シンプルだなと思い今日も元気に過ごす。ライター案件を引き続き頂く。色々同時進行で一生懸命やる。それがすごくいい。

数分前に開けたハイボール缶をおもむろに流し込む。これは良し悪しではない。人間の特権である。

たまらんな〜と思いつつ日が閉じる。梅雨の導入のエアー感を空から確かに感じる5月も終盤。
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物件の防災設備点検のため、めちゃめちゃ早起きを強いられる。ソフトな家宅捜索かのごとく、数人がドカドカと寝室にまで入ってくる。

もう面倒だから、やばい輩と思われてもいいやと、壁に掛けてある特攻服2着(ハロウィーンイベントでもらったやつ)は隠さずにそのまま。言及、されず。

そもそもの日程が強制的だったため、俺は納得がいかずに「誰が決めたか」「一方的ではないか」「もっと前もって言うべきではないか」という3点について、来た方に訊いた。はたから見たら明らかに問い詰めている描写だったであろう。

寝不足も相成り、自分で言うのも何だが珍しくイラついていたのは明白な事実。手前は怒りを露わにして話す時、主語と述語と質問内容を超簡潔にし、まるで記者会見の質疑ような口調になるのだと、俯瞰的に感じながら抗議に近しい剣幕だったことを振り返る。

実によくないなと思った。なぜならば、その行為、態度は、相手を屈服させたいという一時的な感情が根底にあることに気づいたからである。それで、怒りを湧き起こしたと。

さらに、相手が強面だったら、ビビってあのような態度にはならなかったのかもしれないとも思い、「怒っている自分は嫌いである」という感情を改めて認識した。

普段の自分は好きである。なんなら自己愛性なんちゃらに片足以上突っ込んでいるのかもしれない。ともあれ、自分を大事にして、好きでいる。しかし、怒りの感情を対人などにおいて露わにしている自分は大嫌いである。昔そういう時期が長期に渡ってあり、その頃はロクなことがなかったということが起因かもしれない。

そういったわけで反省しつつ、日中は夜まで宅で案件をやる。途中、音楽制作の案件も頂き、すぐに対応できる内容だったので即対応、提出とする。

連なる案件とひたすら向き合い、けっこう食い気味に進行させる。これが気持ち良い。

外はわけのわからない強風の東京都北区。だいぶ頑張ったことだし、あえてこの天候下で立ち呑み屋に行こうかと考える。

24時間営業がウリのひとつでもあるその店は、コロナ禍以降、23時閉店が常となっていた。だが、この間行った時に「〜曜日以外は24時間営業」という手書きで貼り紙が掲示されていた。吉報である。

行こう、1,000円札を2枚だけ握りしめて。そんで行ってやってないというのはよくあることだが、今日は頼む。あの「ハツテキ」と共に憩わせてくれと昂ぶるいつもより巻きで締める23時半。
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「ハツテキ」は品切れだったが、誰もいない深夜の居酒屋で憩う。セーブ・ポイントである。しっかり2,000円以内で会計をおさめ仕上がり、寝る。

夕方、来客があった。面識はない。彼女は言った。「神を信じますか?」と。

何らかの宗教ですか? と、俺は主旨の側面について質問で返した。「はい。●●●●●というものです」と、彼女は言った。後ろには婆さんも付いていてニコニコしていた。

ああ、あれね。そう思い、とりあえず話を聞いた。冊子を差し出された。「幸せに生き続けるには」「正しくいるために」などというようなこと(内容は意図的に表現を変えている)について同意を求めてきた。

「生き続けることが前提であり、正しさとは普遍的なものか」という点において俺は答えを明言できないので、そのように返した。

「あなたは何を信じておられますか?」と聞かれた。「はあ、僕は自分を信じていますね」と答える。婆さんは「まあ……!」と言って微笑んだ。何だそのリアクション。

「――人それぞれじゃないですかね。僕は特定の対象を生涯信じ続けるというスタンスとは言い切れません。なぜならば全ては変化し続けるからです」

「それは深く物事をお考えになり、素晴らしいと思います。どのような生き方でいようなどと、お考えでしょうか?」

「僕は、今、今日、その日に感謝して生きています。その時にやるべきことに一生懸命に生き続けています。その連続です」

「素敵ですね。その考え方は、●●●のこちらの一節にも――」

差し出されたスマートフォンに表示されたコンテンツには、同じようなことが書いてあった。昔の神的なやつも、アドラーも、現代の精神科医も、ホリエモンも同じようなこと考えてるからそこは面白いなと思った。

「今日はお時間もございますでしょうから、またこちらに来てもよろしいでしょうか?」

「(来んな)いえ、僕から行きますよ。近隣の拠点はどこですか?」

「集まりが定期的にありまして――赤羽ですとそうですね……こちら、わかりますか?」

「ああ、すぐそこですね」

「それではありがとうございました」

「いえいえ。ちなみに、毎日このように色んな宅に訪問なされているのですか?」

「いえ、普段は仕事をして、休みの日にこうしてボランティアで――」

「ははあ」

すげえメンタルしてるなと思った。「帰れ」「いらん」「うるせえ」「二度とくるな」などの罵声を浴びせられる体験を何度もしたことは容易に想像できる。

とはいえ、神がバックにいたらなんのその。なのだろうか。そんなことを考えながら池袋の大型書店に行ってプラトンさんの書籍を購入した。

なんでプラトンさんかというと、心理学や精神医学の本はたくさん読んできて、次のフェーズは形而上学や哲学だなと、明瞭にルートが見えたためである。そして、プラトンさんはその界隈では重要人物だからという理由。なるべく情報量の多いやつをチョイスした。

とりあえず今読み進めている本を読了するまで積読とする。宅で案件を進める。仕事が途切れないっていいなとホッコリする。

右肩が心配だな、ずっと治らなかったらいやだなと、ギターを手にして真空管アンプをオンにする。Spotifyのギター練習用プレイリストから数曲流し、レイジやレッチリの曲を続けて演奏してみる。

ああ、このあいだ、ジャミロクワイを弾いたとき違和感を感じて凹んでいたが、今日はそれがそこまでない。いやあよかったとギターを磨いて定位置へ。

神は思うもので在るものではない。そう、唯物的に捉える人もいる。飛び込み営業以上クラスのアクションまでするほど、神を信じる人もいる。そのへんどうでもいいという人もいる。自分が自分らしくあると安心できる人もいる。

俺が信じているのは、そのように、いろんなスタンスがあり、それらが調和されてこの世とかが成り立っており、自分とは違うものをいちいち否定はせずに他者を尊重し、俺は自分なりに手前らしい姿と行動で、自分らしいライフスタイルで進むことを信条のひとつとしている。

自分軸さえあれば、神はどこにだっていると捉えられる。こないだは東京ドームでジョン・フルシアンテさんという神に会いに(観に)行った。そして、身近なところでも神のような存在はたくさんいてくれる。

だから、神を信じる信じないではなく、そういう考えでいられる自分を信じている。あの強靭なメンタルを持ってして来訪した彼女に、こういった文脈があった上での、「信じているものは?」に対しての回答であったことが伝わればいいなとも思うが、別にそうでなくてもいい。

彼女が提示した、その神についての集いには行かないとは思うが、とりあえずここまで考えさせてくれたことには感謝できる。
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けっこう案件が連なっていい感じだなと、健やかに過ごす。伴って、姿勢もなんか意識的によくなってくる。

丁寧に仕事をすることに務めると、すごく気分がよくなる。疲労もあるが、ポジティブな感情が圧勝する。

やることをたくさんちゃんとやる。簡単に言うとこうなる。そうでない時、たくさんない時は、どんどん認知が偏って具合がよくなくなってくる。

つまり、案件がいっぱいあれば、そのぶんまずは俺が幸せになる。クライアントやユーザーも喜んでくれればなお良し。最後に、報酬。

いや、最初に報酬。目標設定。そこから数値的に逆算し、数字絶対主義に“一旦”なれば、収入がますます上がることは明白。以前読んだ『数値化の鬼』という書籍に、そのようなことが言いたいのであろうくだりが記されていた。

しかし、俺はやっぱり現状、いま目の前にあることに集中し、「金とかは後からついてくる」的なスタンスの方が性に合う。だから未だににフェラーリの一台も買えない体たらくなのだろうが。そもそもフェラーリ欲しくないけど。

とはいえ、一回そいつに乗ったら乗ったで上記の考えは覆されるかもしれないが、とりあえずと言うか素直に、案件をいっぱいもらえている現状が、とても嬉しい。
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雑感、今月、やることいっぱいあったなと振り返り、帳簿的なやつの数字を見てみる。すると多かったタスクに伴ってか、収益がいつもより多い。零細という前提は否めないが、多い。

これは素直に喜ぶべきだなと感情を確かめる一方で、おい、月初に高いデバイス買ってるじゃないかと、どこか、行ってこい感もある。

消費して収益があり、経済が回っていいじゃないかとグローバル視点に逃避する。いや、事実である。

このまま世界に羽ばたく生き方を――とも上を見るが、まだ、たっての能動の熱海旅行にすら行けていない。一体俺はいつ行くんだろう。

梅雨が来る。開けて夏にひらく。7月の誕生日をもってして44歳。せがれが成人してもおかしくない実年齢だが、自覚がない。いつまでも27歳くらいの心情で生きている。本格的にバカなのかもしれない。

ぐは、このまま種を残さずに朽ちていくのか、すると平吉家の墓はどうする、ああ! 管理費を払っていない。その17,000円がもったいない。文字にすると、なんかひどい。

だが、主観的には毎日たのしく幸せである。まわりの人たちに恵まれているからである。

今月も、いろんな人とファンキーに過ごした。

仲間とライブをした。文筆業関連の方々と遊んだりもした。Red Hot Chili Peppersのライブを観た。液体を漏らした。その夜の酒と交流は桃源郷のようだった。一度も顔を見たことのない各方面の方々とオンラインで仕事した。同じく、会ったことのない方々から色んなご評価を頂いた。精神科医に対面で議論をふっかけては優しい言葉を頂いた。他方面の仕事でもほっこりした空気感で過ごさせて頂いた。

直接的にだけでもこんなにある。細かく精査するともっともっとある。掛け値なく、毎日感謝できることだらけであった。

顔を真っ赤にして怒る場面もあったが、それは省みる。そんな感情はつまらないと。嫌いだと。

琥珀色の光が手元を照らす。四十肩で蚊を仕留めるのがいつもどおりにいかない現状。今。

同世代付近の複数の方々が同一のフレーズを発した。「人生折り返し――」と。それは統計的に異論の余地はない。しかし、医療や科学の発展によりぜんぜん折り返しではないかもしれないし、なんなら明日死ぬ可能性もある。

そう考えると、今、楽しいなと思えることの連続性は幸福以外のなにものでもない。四十肩痛いけど。

瞬間、刹那、月単位。どの場面でも感謝できるようになったのは、ちゃんと40代も半ばに差し掛かるにふさわしい精神性を帯びているのだろうか。どうか、そうであってほしい。
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