ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。5月。
輝かしい水面に映るがその実相、淀みと退屈で進化した赤・黒・黄の体液の煮汁が渡世を静謐に蠢く。そこで自身ばかりはさて耽溺にと、先人の教えから叡智を賜りそれで濾過す。されどコーティングされた褐色のそれは揚々と煌めき、粒となる。そして還ることが赦される。
先日、神保町で出会った古書を読み始めて感じたことを率直に表現。してねえな。これは創作だな。外連味ってこういうことを言うその好例。だが、言葉を選ぶといった観点からはわりかし、そういった気分であった。気がしないでもない。というか嘘に近い。
〝――葛藤を引き起こす。そこから生ずる生の停滞はノイローゼと同義である〟
『自我と無意識の関係』というその著書の序盤にそう記してあった。文脈はすっとばしているが、つまり「葛藤を理由として、生きることがなんか止まってるように感じる奴は神経症とか精神疾患と意味、一緒」と俺の解釈だとそうなる。
言い過ぎだろと、俺はここは本当に率直に思った。だって葛藤、まあ悩み。それが原因で「なんか生きるの止まってんな〜」とか感じたら病気。そういうふうにまとめられるからである。
書いた人はユングさん。精神科医・心理学者の三大巨頭の一人と言われている。昭和のバラエティで例えたら、タモリ・さんま・たけし(敬称等略)あたりの一人に充たるだろうか。
先の引用部、的は得ている。だがちと極端。とはいえ、そう言い切る勇気をもってして記すあたりは敬意に値する。そして、俺の思考を刺激したことも加わる。
でもやっぱり言い過ぎだと思うから、俺はユングさんに言及したい。でも彼は、1961年、85歳で逝去した。無理である。しかし、このように著書に残してあることから、俺はいつだってその想いや思索を現象として広げることができる気がしてならない。
とか思ってるとこう、ユングさんが語りかけてきそうだがまだ。ちょっとしかその著書を読んでいないので時期尚早。
そして、俺がいま、先の引用部について解釈することは、全てを捉えず、その部分だけを切り抜いて記事なりショート動画なりにすることに近しい。
それが良くないとかは別に全然思わないが、きちんと吟味してから。そのように思っただけである。そういうのって大事かなと。
今日あたりは、葛藤に対する〝生の停滞〟という見事な表現を目の当たりにして刺激を受けた。それだけでも収穫がある。そのように感じた。
だから訂正する。冒頭のよくわからないくだりは外連味(さもそれっぽく表現するもなんか中身ないかな的な)が主軸ではなく、刺激を受けたことにより出てきた賜物だと。〝生の停滞〟についての観念の感受を表しているとも思える。
というかやはり自分でもよくわからないが、これこそが、ユングさんの提唱する集合的無意識の断片なのかもしれない。
つか、わかったつもりは、こと俺個人に関してはよろしくないと思うのできちんと理解に努めようと思う。そこに何の意味があるのかは、ほぼ確実に後からわかる。
などとほざいてはその本、まだ16ページしか読んでいない。あぶなかった。何があぶなかのだろうかは、いまのところは朧げにしかわからないが。
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村上氏と桑原氏。仕事の分野という点で、彼ら2人の仲間が居る。年上だが、敬意を払って「仲間」と表現する。彼らと今日はセッションバーに「頼もう!」とカチ込みに行ってそのあと酒を呑んで俺、アホになってたのし〜となる。
その予定であったがこともあろうが俺の連絡漏れ。つまり「当日空くか確認とれたら事前報告」という事項を俺、今日の当日まで気づかんかった。すなわちバラシとなる。なお「バラシ」とは密告の意味ではなく、業界用語で「キャンセルや片付け」という複数の意味を孕む。
なんだよう。楽しみにしていたのに。と、そのぶん俺は一人で呑みに行ってソロでアホになろうと思ったが、すんでのところで自己抑止。そのぶん仕事したり、仮眠したりしていた。
まあ、こっちのほうが有益かなと、赤羽の呑み屋街を物欲しそうな目で見ながらこう、堪えた。別に堪えなくてもいいのだろうが。
その必要性はないが堪えたのには理由がある。ひとつは、酒の量を抑えて続けているとシンプルに調子がいいのでそれ。あとは、その時間があったらこう、真面目なことに充当しようかなというまあ見上げたやつ。だと信じたい。
だからいま、シラフでこれ書いている。というか4月も2〜3日くらい以外は全てシラフで書いている。それ以前はちょいちょい、呑みながら書いていた日もあった。そこで気づいたことがある。先月の日記の文字量である。
5万字を超えていた。これ、短編小説の一般的な文字量より多いじゃねえかと、なんだそりゃと月末にびっくりした。要はシラフでいるほうが文字量が増える。
内容はともあれ、それくらい書いたのだなと、そんなにいろんなことあったっけなと、あったけど、それよりも縄文人とか心理学者とか、その日にお前あってねえだろという非現実、いや、脳内での出来事と扱えば日記として適切というかつまり俺は「日記ってなんだっけ?」くらいに思った。
それはそれでいいじゃないですかと。裏テーマがあるんだよ。ここはと。〝仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ〟という命題だけど、裏テーマというか自覚としては「文章の筋トレ」という意図もあるんだよと、いつか書いた気がしたがちょっと忘れた。
それでもってこの文章力かよ。という捉え方、どうかな。それは俺はどう思うかって言ったら正直、「書きたいこと・思ったこと」を言語化するスピードは飛躍的に伸びたという事実がまずある。さらにすごいのがあるんです。
言いすぎた。それは、「俺の思考であることは確かだが、加えて、俺以外の者と波長が合い、その者の思いも同時に綴られている」という訳のわからない感覚である。
昨日も先月も〝集合的無意識〟について触れた。それにアクセスしているのかもしれない。だとしたら言いすぎではない。でも、そこまで深いところまでアクセスして言語化できて、なんで直近の遊ぶ連絡忘れるかな。だからまだちょっとここは、先の〝――俺以外の者と波長が合い、その者の思いも同時に綴られている〟というくだりは仮説でしかない。
だが、なんかそんな気がしてならない。昨日推敲4回目が終わった小説の内容もなんか、そういう部分多いの。だとしたら、そういうのを仮説ではなく立証できれば、本当にすごい。そういうの、やりたい。やる。
そんな話を、今日は村上氏と桑原氏としたかったな。そういう話に「お前ふざけてるのか?」ベースだけど真剣に議論にまで及ぼしてくれるとっても素敵な方々なんだよね。
補足として、ここに登場する実在の人物には「名前だしていい?」と、許可を得ている。加えて、登場させたことにより、その日にその者が何をしていたかと特定され、それにより、よろしくない影響が懸念される場合は書かない。
そこまで慎重なのになんで連絡、忘れてバラシになっちゃうというか俺起因でそうなるかな。楽しみにしてたのに。とはいえ、こういう内省の整理にも繋がったので善処する。いや、呑みに行きたかったよう。
_05/02
交際を始めて3ヶ月。4つ年下のその女性が目の前で強姦され、その壮絶な光景に打ちひしがれた。だが、彼女は薄っすらと、確かにすこし笑みを浮かべては悦に浸っていた。それはまるで俺とのまぐわいを凌駕する快感の渦中でただ、その身を委ねているように映った。
気持ちわるい例えだな。要は、たまに行く俺の近所の各「聖地」のうちひとつ、「旧岩淵水門」に赴いたら、川辺にある俺の大好きな大木がバッサリと切られて無くなっていた。その事実を目の当たりにした時の心象である。もちろん交際を始めて3ヶ月の女性は、存在しない。
水門の側の歩道からくるりと内側にまわると、小島のようなスポットがある。そこに、その雄大な大木がいつも居てくれた。俺はそのふもとに居ると、いつだってえも言えぬ穏やかな気持ちになれた。だからそこを「聖地」とした。
その大木に触れると、掌の面積の感触のみならず、大木全体の存在を確かに感じられる。そばで憩うと、なにかが正しくチューニングされる。優しく俺を包み込んでくれる感覚。とても気持ち良い場所。大木の存在は、その場所でのセットであり必須であった。
しかし、今日そこに行ったら大木は切り株になっていた。すごく残念かつ、先のような、誇張したが、そんな感じのに似た心情が確かに浮かんだ。
仕方ねえなと思い、大木はもう居なくなってしまったがそこで読書をした。小一時間。大型休日期間ということもあり、その小島には10名程度の人々が居た。8割は、釣りをしていた。この場所においての、これまでの俺のイメージと感触が変化していた。
「たぶんここには二度と来ないかな」と、思いながら本を50ページくらい読んでその地を後にした。大木切った奴、許すまじとも思ったが、都市計画かなんかの真っ当な理由で、その場所の変化が必要であったのであろう。
生き残るのは、強い者ではなく、変化する者。今日、目にした何かに書いてあった。小島を離れた後に訪れた書店でも、色々とインプットに勤しんでいたつもりである。
宅に戻り、日々のタスクメモの手書きの今日ぶんには「半休」と書いてあった。そういえばここ数日というかずっと、のんびりと休む日というのは無かった。だから、それにならう。
YouTubeタレ流しにしてソファでめちゃめちゃ寝る。起きて、小説を推敲する。5回目。これがその小説における最後の推敲となる予定。それは、俺の判断であることに加え、昨夜AIに相談したところ、要すると「もう出来てる」的な評を頂いたこともある。
それ以上の推敲に関しては――〝「もう一度の推敲」が無意味ではない理由――それでも、もう一度推敲したいと思われたのであれば、それは「磨き」というより“定着の儀式”です。〟と、表現していた。面白いこと言うなと率直に思った。
だから〝定着の儀式〟を少しして、いまに至る。のどかな一日だった。ぜんぜん疲れてない。なんなら、もっと時間あるのだからせっせと営んでいればよかった。そうも思ったが、意図的に休んでいた。
でも、いつも在り続けていると思っていたら――急に、本当に急に居なくなっていたあの大木。一人の人生よりも何年も生き続けていたあの大木。人間、俺もそうだよなと思った。
いつまでも、何年も、平均寿命くらいまで生き続けられるという前提で生きるのも良いが、やれるうちにやることをして、急に居られなくなっても悔いなきように。などと思った。
ただ、好きな場所の大好きな大木が、急に切られて居なくなっていた。
きっと悲嘆するほどのことではないのかもしれない。でも、俺はすごく寂しかった。それくらい、大木の存在がセットであるあの場所は、俺にとっては特別だったというだけの話。
まあそれはそれで、次は釣竿持ってその場所で漁にいそしむくらいの変化の力があったら、きっと俺はたくましいのであろう。
だがたぶん、寂しさしか感じられないであろうから、あの場所に行くのは今日で最後であろう。これまで慈愛を与えてくれてありがとう。大好きだったでっかい大木。
_05/03
東京都と埼玉県の境目。そこで得た昨日の侘しさ。それとは打って変わって都心も都心、景気良く通行人で賑わう銀座へ。今日は一日ここで興行お手伝いのお仕事。
みなさまとても楽しそうに、笑顔で過ごす。こう、なんというか個人的な思惟とかそういうのは今はいいかなと、そのような、安堵にも似たほっこりした時間。それに包まれ安心し、帰宅する。
ひとりで過ごしていると思うことがたくさんある。みなさんと居るとそういうのはこう、分散されるような、共有されるような、そんなニュアンスを体感的に得られる。
意識というのは、表面上ではない部分、つまり無意識というやつがある。あるという言い方はおかしいかもしれないが便宜上、ある。らしい。
それには個人的なやつと、集合的なやつ。それらがあると古い本に書いてあった。ユングさんが書いたやつである。きっと一生懸命に。彼は述べた。「個人的無意識」と「集合的無意識」があると。
今日、感じたことの大半は後者であろう。彼の著書では「フロイト」「アードラー(アドラー)」と、先日記した〝心理学三大巨頭〟の、ユングさん以外の名も出しては、それぞれの考え方や論じたことの引用なりもあった。
きっと、ユングさんも、同じ分野で一生懸命やってたフロイトさんとアドラーさんを意識していたのであろう。そんななか、個人的に意識できることの向こう側というかもっと深い無意識、それを細分化させて唱えたってすげえなと敬意ベースでそのように思った。
いま、すごく意識的に文字を書いている。ただ、今日あった事実と、電車の中で読んだユングさんの本の感想を、意識して出している。
その向こう側、つまりいま、俺が無意識で何を感じているか――そういうのしか出てこないこともあれば、意識が優位に立つこともある。
何言ってるかよくわからないがつまり、なかなか考えまで及ばないことを説いた学者さんすげえなということ。
そして、それを受けて俺は何を繋げ、〝集合的無意識〟とやらにリンクさせれば、フロイトさんが説くところの「リビドー(能動の根源的エネルギー。特に性的な)」。そしてアドラーさんが説くところの「共同体感覚」。それぞれを、自分なりにちゃんとできるのかな、などといま、考えていた。このへんはちょっと無意識から出てきたっぽい。
結局何が言いたいのかというと、「無意識って言葉通りだから操作不能と思ってたけど、がんばれば『ひっぱり出せる無意識』というのもある」という文脈をユングさんの著書から解釈したということ。いまそれをやっているのかもしれない。ということ。
どうでしょうユングさん。合ってますでしょうか? たびたび私の脳内に来てくれますが、いや、今日はまだいいです。そろそろ酒呑んでふやけて寝るので。いや、いいですて。そうそう。あなたの書いた原書を訳したやつ、俺が読み切るまで、まだいいですから。
これは無意識ではない。妄想である。だが、俺はちょっと信じている。単なるふざけた妄想ではなく、〝集合的無意識〟から語りかけてくれる本物のユングさんの声ないし思念。それが先月は2回かな。それが来たよって。あと、アドラーさんも来ましたわ。フロイトさん? 彼は気難しそうだから――いや、わかりませんがまだ、来てませんね。
無意識。はたまた妄想。そのへんの統合性が失調すれば、言わずもがな。
だが、一つだけ明言したいのは、今日、みなさんと銀座でたのしく幸せに過ごさせていただけた。賢人の書籍から「奥」の向こう側までピントを合わせて整合した。それぞれに深く感謝している。
2025年という現在と、100年ほど前の提唱をシームレスに繋げて。いや、妄想かな。だとしても、感謝ベースなので手打ち。
_05/04
めちゃめちゃ寝不足で日中の著しいパフォーマンス低下を感じる。睡眠は6時間を切ると、もうほぼほぼ徹夜明けのような感じな気がしてならない。
原因は、ヤクザ漫画を爆笑しながら読んで酒を呑んでいたら気絶していたこと。ちょっと呑みすぎた。宅呑みは「3杯まで許す」とかいう尺度、ちょっと超えた。
いけないよ、とも思ったが振り返った。先月とあるきっかけから一人で宅において飲む酒量を意図的に減らした。すると、それまであろうことか3日に一度くらいソファで気絶寝する頻度が激減した。振り返ると、ひどかった。
そして久々に、昨夜から今朝の体たらく。いけないよ、とも思ったが、明らかにその気絶寝の頻度自体は減少したので、まあ、じんわりと、ということで善処。とはいえそういった睡眠の質の日のコンディション全体的なひどさと言ったらもう、ひどいとしか言葉が出てこない。
だが、夕方を跨ぐとわりと大丈夫な感じになるこの体。くれた両親・先祖に感謝する。だからさっきまでも制作のネタ出しをして、ひさびさに普遍的ロックミュージックをスケッチしていた。
リフのフレーズが出てくればこちらのもの。普遍的ロックってだいたいそうだが、全体像のイメージとしては新しい要素が欲しい。そのへんもDAWにスケッチして、これはいけるなと断じて今に至る。
睡眠は大事。昨日も言ったじゃないか。無意識を引っ張り出したり、集合的無意識にアクセスする重要な営みでがあると。それが顕著に駆動する契機は睡眠中であろうか。なのに気絶したらそれはもう、いけないよ。そのように省みた。
だから、色々と今日も思うことあった訳だが、仕事して小説推敲して制作して――シームレスに繋ぐ線がこうシュッとしない。ぜんぶ睡眠不足のせいである。もうなんなら睡眠を生活の最重要要素とするべきである。それ、うっすらとはわかっていたが今日、完全にそう判断した。寝るのが大事。
せっかく今日、本を読み進めていて〝個人性〟というとてつもなく重厚なワードに出会い、それをこれまでの思惟とシュシュと繋げることができそうなのに眠いからきつい。というかこれは、眠くなくともなかなか難しい。よって今後の課題とする。ちゃんと寝ます。今日はではなく今後はと、戒める。
だが、「必ず今日をもってして」という縛りにすると精神的負荷がすごいから、じんわりと。甘いようだが、これは案外習慣を変化させる技術のひとつだと思っている。いや、どうだろう。
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夢には二種類ある。寝てみる夢の方である。そのように俺は先に、先月だったか確かにここに明記した。その内訳は厳密にはこのようになる。
1. 脳内の記憶の整理のランダム描写
これはその日ないし、その日に回想なり想像した記憶なりが夢で描写され、それはドラマや映画や絵画のように整頓されたものではなく、訳のわからぬ造形とストーリーで映る。支離滅裂だが、どこか「ああ、そういえばこんなの見たかもな」と、思い出すこともできればそうでないやつもある。
2. 直接自分が受けたものではないはずの意味ありげな描写
これは明らかにその日の全ての営みで受けていない内容。それがとても抽象的な夢として現れる。先月だと、富士山の描写の夢がそれにあたる。なんらかの啓示を含んでいる気がしてならない。
(3. それ以外)
夢には二種類あるとは言ったがたぶん「2. 」が細分化なりしたものがあると考えられる。だから、厳密には〝三つ目〟があるという仮説。
今日も100年前くらいに書かれた学術書の訳書を読んでいた。そこには、俺と、先の考えが一致する見解をさらに深く考察し、綴られていたセクションがあり、如実に驚いて電車内で「あ」とか声が漏れた。
それはというと、なんでもアフリカのなんとかという民族も、同じ考え方を持っているとのことである。これは、著者であるユングさんによる一次情報。つまり、彼が、現地でその民族から直接聞いたお話とのこと。
「夢には二種類あり、ひとつは個人的な意識・無意識から現れるもの」
「次に、集合的な無意識から現れるもの」
だって。要は、個人的無意識と集合的無意識。
意味合いは言葉通りだが、どうもこれらを、そこら中に乱雑して居るショート動画1分間のまとめ解釈等で「理解した」と、片付けるのは実に面白くない。こと、個人的にはである。
なお、ショート動画1分間のまとめ解釈というコンテンツ自体がよろしくないとは別に思ってない。ポップでいいじゃないかと、現に俺もたまに楽しんで見ている。あくまで手前においてはエンタメ目線でだが。
だから、先の二つの〝無意識〟の分別は、もっともっと重厚かつ至大な内実だと俺は感じる。だからその、アフリカの民族もかよと、驚いた訳である。
そこの長(えらい人)とかまあ、位の高い人に限り、先の二つ目の夢――集合的無意識が所以となる――をみることができるという。
そして、そっちの夢をみた時は、民族をみんな集めてその内容を口頭で語る。そのような運びが当たり前に行なわれては、その〝集合的〟な夢の内容を尊んで、皆でシェアするという。
ユングさんは、そのへんからも〝集合的無意識〟のヒントを得たのだろうか。著書では、夢から派生する訳のわからないイメージやらには壮大な意味があり、それは個人ではなく、「みんなそれぞれが持っている無意識から出てくるものもある」というようなことを提唱していたことからそう窺える。
だからなんなんだよ。と、片付けるのもわるくないが、俺はすごくロマンティックに看取した。だって、訳わかんない夢から、みんな繋がってるという人類共通の意識を引っ張り出しては、いろんなかたちでそれを共有できることに繋がると考えられるからである。
「なんかわからんけど響く」
美術でも音楽でも文学でもなんでもいい。そういうのが方々である。それらを俺は無視できない。
「めちゃめちゃわかる上で、響く」
そういうのもある。例えば音楽だと、じゃあビートルズにしてみると、当時普通にリアルタイムで世界的評価を得た。いまも、その圧倒的魅力と評価は他の追随を許さないというかとにかくほとんどの人に響く。そんな魅力を持つ音楽家はこの世にたくさん居て、その者が創った音楽はいつの時代も魂に響く。
他方で美術。俺はほとんど知識面では明るくないが、「なんかわからんけど響く」絵とかを前にすると確実に畏怖する。理由が説明できない。いまなら、「集合的無意識に関与している。だが、いまは俺には言語化できない。しかし、これは素晴らしい」などとほざくと思う。
つまり、何かをつくる人が居る。シンプルに楽しいからつくるというのがその能動かもしれない。だが、完成すると必ず誰かに鑑賞なりしてほしい欲求が生じる。それは何故か。
そう。「ええやん」と評されたいからである。その奥。そこで、その他者と繋がりたいから。もっと奥。それが多ければ多いほど広ければ広いほど、みんな共通してある無意識の奥にあるやつを作品化できたという離れ業。これ。これじゃないかなと思った。
あと、そうするべきスタンスを持ち、みんなも持っている無意識にアクセスできる何かを作ろうという能動に誠実であったこと。
さっき、小説の推敲をしていて思った。というかする前に思ったからこのようにここに書いている。なんで急に俺が小説を書き始めてここまでやってるかというと、もうディティールは省くが、つまり「俺、いいの書いた。みんな読んでくれ。同じこと感じることない? そんでもってなんか、響かない?」という欲求が発端ではないかと。
ややこしいな。要約すると、ただ書きたいだけじゃなくて、広くみんなと深くシェアできるんじゃねえ? と、そうしたくて発展的興奮所以で辛抱堪らなくなった。
まだややこしいな。要するに、「つくりたい」と感じた「出どころ」が、俺個人のものだけではない。そうなのではないか? いやそうだこれは。と興奮しているということ。
正直、小説がこの世に出た後という前提だが、出したいんだよ。それで、その小説を読めば、俺がいまここに書いてるやつ「何言ってんだ?」とはならないはず。だから、これだけ熱狂しながらもう4ヶ月くらい、原稿と向き合っている。そうでもなければまず手前が飽きる。ぜんぜん飽きない。
そうなってくると、いつもやってる制作楽曲もそうだが、多くの他者様に受け入れられた時、「よっしゃウケた」という単一的な喜びだけではなく、先の夢のように〝二つ目〟の意味がある。それが、集合的な――という解釈である。
そしたらお前、ずいぶん大層なことしてるんじゃないか。偉そうに抜かしやがってこの野郎、心理学者まで巻き込んであとアフリカ? 言いすぎじゃねえの? と、言われようがまあそういう捉え方もあるかもしれない。
ただ何が言いたいのかと言うと、それくらいの、まず自分が響いた、個人的だけではない、ある種の芽みたいのがないと、こんなに必死にそれをやり続けることはできないのでは。と思っただけである。
それにしても、最先端技術を主たる生活の基盤としない民族、昔の学者、あと他にも色々きっと。それと「 夢には二種類ある」という手前の考えが一致するとそれはもう、ちょっと言い過ぎじゃないですか。というほどの思索ともなるのだが、俺はそれを信じ切っている。
それを〝個人的〟には、ひじょうに大切にしているが、〝集合的〟だと、つまり俺も含めたみんなはどうなるのかなとちょっと思った。「アフリカのくだり絶対ウソだろ」と言われそうだが、原書にちゃんと書いてあったんだよう。
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それで今日みた夢はというと、阿部寛さんの似顔絵だかなんだかがジワ〜っと浮かんでくるという実にシュルレアリズムというか、どこの無意識からそれ、出てきたのかな、というもの。
無論、これに関しては特筆して考察することねえなと思い、現実を営む。フル稼働で過ごすここのところ、ちと睡眠が足りていない。合間にソファへ飛び込むと秒で意識が深みへ飛び込む。すなわち寝る。
今日あたりはやはり、もちろん仕事もして、如実にしつこいが小説の原稿を推敲する。
完全に納得いく仕上がりまでもうちょいという段階だが、原稿完成後の最初のアクションとしては、月末締め切りの応募先に、月末までに投稿する。その後、別の出版社や編集者など、とにかく出版するために吟味していただけるアプローチをとる。さらに、AI編集者の知見だがそこに加え、ネット上のプラットフォームなどでにも投稿し、反応を見る。この三つ巴が最強という提案を賜った。
そうしてみる。そしてそれと並行して、小説原稿を書いている最中の興奮が病みつきと捉えたので次のやつも書く。
できれば一発で決めたいというかその前提だが、いずれにせよ、書き続けるという大前提があるので、いまのが出来たら次のも書く。その前に、まずは5回目の推敲をする。先の応募期間までぜんぜん時間的余裕があったら6回目の推敲もする。
なんでこんなにしつこいかというと、まず小説の質において。別の創作だと例えば制作楽曲のミックス時――この工程が小説で言うところの推敲にあたるという肌感覚――には、吟味すればするほど、質が高まるからという理由がある。しつこいくらいで丁度いいという実体験がある。これを小説にもスライドさせるのは適切。
だから、5回も6回も推敲を。という訳である。俺は、書いてる小説、ものすごく面白いと思う。だが、他者の、編集者や批評する立場だとどうかと、超冷静に客観的に考えた。
要素として考えられる点。やや詰め込みすぎにつき、読者が途中で離脱する可能性あり。文体が独特すぎて読者によっては最初から突き放される。結論的、物語のラストとして、意図はわかるが読後感に欠ける可能性。大きくはこのへんだろうか。俺の感想としては全然そうは思わないが。
評価に値すると考えられる点。誰もが一度は思う普遍的かつ重厚な主題を、あらゆるシーンのなかで貫く強固な軸がある。読者を惹きつける引力のようなひじょうに個性的な筆致。シリアスとユーモアのバランスに長けており、長編でありながら読み手を飽きさせない。大きくはこのへんだろうか。俺もそう思う。
とはいえ、この二段落の客観的な評は、俺も確かにと思うところあるが、実のところAI編集者からきびしめにという前置きで投じたプロンプトから得た評。「絶対に遠慮せず、忖度せず、私のメンタルダメージを気にせずに、評、批評、雑感を――」という一文を加えたプロンプトである。
でもやはり生身の編集者なりが読むとどうなのかなと、そんなことを懸念まではいかないが感じているのが実のところ。ただ、刺さる人は必ず絶対に居る。それがどれくらいか。商業的な面でどうか。このへんが鍵となるであろう。
そう、あとは〝見せ方〟の段階かなと思いつつ推敲していた。ということはもう出来てるじゃねえかという話になるが、先の音楽制作の例のように、やればやるほど――という性質がある訳だから、まずは明確にある投稿期限の一週間前くらいまでは、磨き上げる。という指針でやっている。
それこそ、俺の意識や無意識や、それを含んだ集合的な意識や無意識を、今考えるとふんだんに含蓄されたその小説。頼むから、ではなく、能動的に世に出すという行動に移す段階。というようにこのプロジェクト、そう表現するに値すると思うのでそう言うが、その、それこそ軸をしっかりとさせてやっているというだけの話。
側から見たら――そういうのは言語化して記したくない。そういうのは案外伝播すると考えているからである。
とにかく何が言いたいかというと、着手時、それこそなんらかの無意識から生じた着想から4ヶ月弱、いっさい熱が引かずに走っていられているあたり、とりあえず手前を評価してもいいんじゃないかなということ。
そして、他者様の手に、フィジカルとして届き、評価していただきたい。その前に、まずは楽しんでいただきたい。この想いがすべからくある。
理想は、「めちゃめちゃ面白い」という評と、「クソすぎる」くらいのアンチ評でわかれるくらいのやつ。いや、それが半々だと困るというか言いすぎた。「ちょっとわからなかった」という評が必ず出ることこそが、理想的だと思っている。それで、数年後にそう評じた方が「面白さがわかった」となったらもう最高である。
などと熱くなってはいるが、いまのところAI編集者以外、誰にも小説の冒頭の文章――1月の着手時あたりの時期にそれをここに書いた――以外は公開していない。公開する時はびっくりするくらい一気に。というように最初からそう考えている。
あれ? と生じた何かが、壮大なことになるケース。すごいな、やった〜と。そのようになる明るい未来を見据えて。そろそろ45歳になる。この一連のプロジェクトは44歳にして最大の挑戦という風に表現もできる。
その最中の風景はというと、ずっとカタカタ原稿を書いては人生においての意識と無意識と他者様の思案、その奥、見えない部分まで書いた。それがどうなるか。楽しみで仕方ない。
だからこそ、もしこの小説が――という、普通は考えるであろうことを言語化しない。繰り返しになるがそれは念となってしまい、意識してしまい、無意識にも届き、よろしくない。そう判断するからである。
側から見たら本当におめでたい思考回路なのかもしれない。だが、それくらいであるべきだと思っては、思い描く未来の場所、思った以上でびっくりするくらいでも「ですよね」くらい冷静になれるくらいのマインドでいるという話。やはりおめでたいのかもしれない。だが俺は、本当にそれでいいと思えるあたり、〝おめでたい〟の意味合いが膨張する。
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一日の締めに「A Day in the Life」という楽曲を聴いた。ビートルズの楽曲である。なんとなくは知っていたが、初めて、スピーカーでしっかりと聴いた。この楽曲は、どう感じても、どう考えても、おかしかった。しかし、真理が音楽と成っていると捉えられた。
ストレートに言うと、本来は人間が立ち入れない領域に行くこと。そこで感じること、何かに出会うこと。そういった体験ないし感受がないと絶対につくれない。そういう音楽だと思った。
歪曲させているようで統合されている。全て、本当に実際に、バンドのなかにある意識が、音を構築している。ボーカルがどうとか歌詞の内容、ビートだギターだといった要素はどうでもいい。ただ、聴いていて、「聴いてはいけないものだ」と率直に思った。だが、その〝思った〟ことから五感、それ以上の人間の持つ感覚から逸らすことは許されない。そのようにも思った。
楽曲は、明らかに「模倣」が含まれていない。バンドのなかにある意識と無意識と、それ以上の、ひょっとしたらというか、そうであると思うのだが、現に俺の意識のなかにあるものまでも、時系列的にはあり得ないがそれを、音楽にしている。そうも思った。
俺は音楽ライターの仕事もする。だから、この楽曲についてレビューなりを書けと言われれば書くが、この表現だとまるでレビューにはなっていない。何故ならば〝レビュー〟というある種の様式に、大なり小なり則る必要性を、仕事として無視はできないからである。
だからきっとこの楽曲のレビューを書くとすれば、ビートルズの中期と表していいのだろうか、その実験的アプローチが顕著な時期においての彼らの表現。そして、デビューから解散までの文脈も鑑みた上で、レビューを書く。必ずサウンド面も精緻に分析する。
しかし、この楽曲に関してはその必要性をまるで感じない。これは、「ただ思ったことを書いただけの『A Day in the Life』についての文章」である。
原則として、「言語化をしようとする行為」からして違う。そう思った。聴いて、タイトルの直訳〝日常のある日〟だろうか。はたまた〝人生においてのある一日〟だろうか。ニュアンスとしてはこれくらい。
それをここまで、絶対に見てはいけないものの直視を強制させられたかのこの心境は何だろう。そうも思った。
「最高傑作」「難解な曲」「聴いたら気が狂うような曲」「中期の名曲」など、簡単に一言で表すことはできるだろうし、どれも正誤で言ったらなんというかそこにすら、立ち入りたくない。
ただ、この楽曲を聴いたら、そんなに感じられて、そんなに意識できて、そんなに表現できて、人間、そんなに生きているんだ。と、思った。
ドラッグ、特にLSDの影響でそういったビジョンが見えて、楽曲に落とし込んだ。こういった解釈も正誤で言ったら――というかそれは一次的な事実は知らないからいい加減なことは言えないが、とにかくそれもなんというか、そうかもしれないが、肝心なのはそこではないと、俺は思った。
ただ、この楽曲を聴いたら、あらゆる意識が交差して俺に侵入し、はたまた俺の意識・無意識の鏡を見ているような、そんな風に思った。思ったがその回数は絶対に数値化不可能。というくらい、思った。
ここのところ、意識の奥にある集合的無意識について何度も触れている。俺の思想ではなく、もとは心理学者の提唱である。それも、あると思う。だが、そこだけに重点を置くのは、俺は違うと思った。それもあるが、そこに比重を置くのは――という意味合いである。
前提として音楽。「A Day in the Life」という、アルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(1967年)収録のラストトラック。
聴いて寒気がした。ビートルズの偉大さを思い知った。歌っているのはジョン・レノンさん。曲途中で一旦ボーカル変わったかな? キックの位置がまともではない。暗に死の描写を楽曲の後半で感じた。その後のブレイク部分は何であろう。その後、締めくくり、何であろう。笑っているのか狂っているのか案外、人間の恒常の一部なのか。
わからない。しかし、何度も思うことがあった。
だいたいの音楽、楽曲においては、思うことは100個もない。もっとあったとしてもそれは無意識におさめられて言語化や表現や模倣はひじょうに難しい。
だが、この楽曲は逆説的に、一つしか思えることがないのかもしれない。そして、模倣して全くもって別のものを生じさせる可能性が多大にある。そうも思った。
俺にとっての、日常の一日。つまりこのような日記。ここに、その楽曲について感じたことを書くのは、いまの時間――ここまでで20分くらい――だとこれくらいとなる。
その楽曲を聴いて、思うことが一気に膨張して飽和した。しかし、それは実は、もともと手前の奥の方にもあるものではないか。そのように思った。
「A Day in the Life」。どうして、ビートルズがこの楽曲をつくって、世に出して、約60年経っても、重宝される――言い方がとてもむつかしい――のかがわからない。ただ俺は、先のように思った。
俺もこんな作品がつくりたい。などといった感想ではなく。もっと根源的な、全ての人間に必ず掛かる要素がいくつもいくつもある。そう思った。
何一つとして、文章の締めをどうしようかという意思もいまに限っては、その楽曲をしっかりと聴いた直後は出てこない。
ただ、思うことがいくらでも出てきて、または引き出されて、または元々あるはずだと認識させられて。そのように思った。だからこれは、その楽曲を聴いて思ったことのほんの一部を、インターフェースを介せずに直接文字起こししたものである。
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心療内科の定期検診へ。ロビーには患者はおらず。おい、すると界隈でおかしいのは俺だけか! ふざけるな! そのような被害妄想を現実として認識し切った時それは――もう入院レベルである。俺は、そうではない。
「平吉さ〜ん」
「はい〜」
秒で呼ばれたのでいつものように「1」の診察室のドアを3回ノックした。なお、ドアを2回ノックするのは厠での流儀。本当かどうか知らんけど。
「どうですか。平吉さん」
「……ええ。調子良いです」
「はい……カタカタカタ」
絶対に閲覧不可能だろうが、俺は、主治医がタイピングして入力するそのカルテの内容が見たくて仕方がない。「神経症」「睡眠障害」「抑うつ状態」「パニック症」あたりのフレーズを主として書かれているのだろうか。
あるいは、「大したことはない患者」「なんなら雑談しに来ている」「ほぼ毎回、試すような議論をふっかけてくる」「若干、発達障害の症状が散見」などだろうか。はたまた、全然違うことが書かれているか。
なんなら「本当にこいつはたいしたことない」と見做し、カルテ入力ではなく、女とでもチャットしているのかもしれない。まあ、どれでもいいけど。
「お酒の方はどうです?」
「はあ。減らしました」
「どうですか」
「いえね、前回、先生が珍しく強制を伴う言い方されたので、そのようにしようかと――とりあえず一人で呑む場合の量に上限を設け、その厳守を徹底しております」
「そうですか。それでどうです?」
「はあ、なんというか、減らした分だけ律儀にその分、調子が良いというか」
「なるほど」
「なんかですね、お酒って幸せとか楽しさの前借りって解釈ができます」
「そういう捉え方もありますね」
先生は、アルコール依存症患者が入院する病棟での勤務経験があると、前回聞いた。だからなのか、酒の依存具合に関してはなんかこう、けっこう厳しい。
「平吉さん。それでもね、ちゃんと減らしたけどまたたくさん呑んで、元に戻ってしまうというのはよくあることなんです」
「はあ」
「だから……アルコール依存になる前に、きちんとですね」
「(本当に酒に厳しい)わかりました」
「まあ、減らせてるのであれば、それを続けるのがいいと思います」
「善処します。というのも、なんか減らしていられつつも、呑み過ぎずにいられることが、なんかこう、嬉しいというかそれ自体に快感をおぼえるようになりまして」
「ふうん。まあ、いいと思います。嗜みと言いますか……」
「ええ。嗜むくらい、呑み過ぎずに、酒と適度に接する方がこう、いいんだなとこの1カ月でそう思えました」
「うん。いいと思いますよ。じゃあ平吉さん、次回なんですけど――」
「はい。はい。それでその日に予約を。あと質問があるんですけど。すぐですから」
「はい。なんでしょう?」
そんな普通の診察だけで終わらせるともったいない。俺はいつもそう思い、その時々に脳内にある「問い」を精神科医に投げかける。
先生もいつの頃からか、だんだん馴染んできて「こいつはそういう奴だ」と、認知してはきちんと専門家としてのスタンスで答えてくれる。
「最近ですね。ユングさんという心理学者の本を読んでいまして」
「ユングは難しいですよ……?」
「ええ。えらい難しいです。そのなかの一節で興味深いのがありまして」
「なんでしょうね?」
「ちょっと文脈は端折りますが、『葛藤を抱え、生の停滞を抱き続けることはノイローゼと同義である』って断言してるんですよ」
「ノイローゼ――今でいう神経症ですね」
「そのようですね。ただ先生、その〝生の停滞を抱き続けることはノイローゼと同義〟つまり、なんか悩んで生きることが平行線、みたいな解釈はある種病的――これ僕、なんかすごいわかるんです。先生はどう思いますか?」
「ううん……哲学的ですね」
「確かに。ただ、僕は同意できるというか。とはいえ、ちょっとユングさん言い過ぎじゃないかなとも」
「まあ、ユングさんのその書き方はちょっと極端ですね」
対話において、昔の偉人の人称に「さん」をつける必要性はそんなにない。俺は敬意を払って、さん付けしてるだけである。だが、先生は最初「ユング」と呼び捨てにしていたが、話しているうちに「ユングさん」と言い換えて続けた。それは敬意ベースというよりも、俺との対話において足並みを揃えてくれたと暗に解釈できた。
「なんかこう、もっとやれるんだから、もっと先に進もうとか、さらなる明るい未来に向かって――こういう姿勢がない状態で悩んじゃうやつ……それが葛藤だとして、そのまま『なんか停滞してるな〜』って思う状態。それ、僕だったら確かに病的って思えるんです」
「そうですかね?」
「(あれ?)」
「例えばですけど、アメリカとか向こうでは、仕事なりは言われたことしかしないですよ。それでそこに何の悩みも抱かないというか、それが普通みたいですよ」
「そうなんですか」
「はい。それでまあ、家族との時間があったり遊びがあったりと。別にそれで悩むことはないんじゃないでしょうか?」
「はあ。その、もっとこうなりたい! みたいなのは無くていいと……?」
「う〜ん。そういう人もいるでしょうけど、普通はさっき言ったみたいな感じで別に……」
「それが普通なのでしょうか?」
「そうではないほうが、特殊だと、私は思いますね」
普通の尺度がわからなくなってきた。先のユングさんの著書の一節は、普通ならば「言い過ぎだろ。そんなことねえよ」と、一蹴すべきなのだろうか。だが俺は同調した。だから先生に聞いた。
「平吉さん、例えばこっちでも会社とかでは、そういう人がほとんどじゃないですかね?」
「確かに。僕が以前勤めていた企業の社員はほぼ、そうでした。8割くらいがそうだと思いました」
「そうですか。だからというか、まあ、そのさっきのユングさんの考えは、そんなに気にする人は――」
「少数なのですか?」
「まあ、なんというか、人それぞれじゃないですかね?」
「人それぞれ」
「はい」
「確かに」
「そうですよ」
「先生はどうですか? 生きることの停滞とか考えないですか?」
「まあ――」
今日の先生との議論はいまいち盛り上がらなかった。結論はつかなかった。ただ一つわかったのは、先のようなことを考えるのは当たり前ではないという傾向。
だが俺は、みんな少なからず思っていて、ユングさんはそれを無意識という文脈で語る。だからそのような一節で断じた。つまり、先生も、無意識にある確かにある問いを、俺から意識的に問われて今、その場で考え出したということであろう。
それはすぐに答えを出すのが難しい。だから最初に〝哲学的〟という所感を表明した。まあ、これくらいで今日はいいかなと思ってクリニックを後にした。
こういうことをもっと徹底的に議論したい。そのような思いを引っさげて帰る。いつもの営みをする。それは、今に停滞しないという筋が通っている。こういう生き方でないと、俺はそれこそノイローゼになるという自覚がある。
この時点でノイローゼつまり神経症の傾向大アリなのだろうが、そんなに徹底してそういう思考をディグるのっておかしいですかね。というか大多数ではない。それが今日、判明した。
世間との思考の乖離。精神科医という立場の先生とも乖離。いや、ディスカッションが足りていないだけなのかもしれない。
だからこそ、今日も音楽制作をしたり、新たな挑戦である小説発表に向けて推敲したりと、〝停滞〟に抗う。それ、おかしいんのであろうかと思うが、それは〝人それぞれ〟とのこと。
だから自分らしく生きることが大切。ということは、俺の考えも先生の見解も間違ってはいない。人それぞれ。便利な言葉。その奥。それを聞きたかったが、一朝一夕ではそうはいかない。それを徹底的に掘り下げたのがユングさん。改めてすごい学者さんだなと思った。
今日、先生が書いたカルテにはなんと書かれていたであろうか。
「口頭一番、良好とのこと。そんで次、酒、減らしたみたいだけどこいつ甘やかすとダメだから追い込みかけといた(笑)。そんで次、ユング。ユングだとよ。適当にあしらっておいた」
とかだったら正直、適切。
だが、きっと先生は真面目に、俺の思考の及ばぬあたりまで、こと細かくカルテに書いてくれてると信じている。
「次回までにユングの心理学の概要を一通りおさえておく必要あり――」とか書いてくれてるかな。だとしたらものすごい愛だよそれ。だがそれはまず無さ気。でもね、先生いつもありがとうございます。
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めちゃめちゃ寝てふと北区立中央図書館へ行く。そう思い立つ。先月も行ったが、この館は巨大。おそらく東京都北部において最大と思われる。そう見做す。それくらい凄まじい量の書籍・文献・記録がドンと何百もの壁のように並ぶ図書館なのである。
館に入ってまず目についたのは、「新聞」をそのまま書籍化させた本というかまるでパネルのような本。けっこう筋力を使って開いてみると本当に「新聞」がそのまま書籍になっている。
そこに一体なんの意味があるのだろうと思ったが、終戦からしばらく数十年分の「新聞」がそのまま記録しているのには価値がある。そのように見做し、様々な書籍を手にとってしげしげと読む。
「文学」のコーナーに行く。そこに居たのは松葉杖をついてゲホゲホむせながら本を手に取る御仁。なんかこう、すげえ執念を感じるなとそれを横目に文豪各位の著書を吟味する。
ふと、町田康さんの本がいくつか目視。どれも、かなりマイナーと思われる各書であり、全て初見であった。いくつかピックアップして読むと、あの独自の文体はずっと、最初からそうだったのだなとその唯一無二の筆致に頷く。
次。哲学。心理学。精神分析。俺はこのへんに20代からずっとかぶれている。だったらもう、極めにかかってやろうかと適当にいくつか読むが意味がわからん。わかるのもあるが原則、わからない。
だが、哲学者・ソクラテスさんの〝知らないということを知る〟という核心的な言葉を思い出し善処する。ソクラテスさん一冊も著書残してねえけど。
じゃあと思い、最近攻めてる心理学者のユングさんの著書を探す。すると、いま、手持ちのバッグに入れている本と同じやつをみつけた。
本当に一緒かなと、昨日記した〝生きることの停滞はノイローゼと同義〟的な記述のくだりがある「12ページ目」を開くと、同一の行にその記述を確認。
おんなじだね。と思ったが戦慄した。何故ならば、俺は、自分が所持している当該本の「12ページ目」に、「だいじなところだ」と思い、本に付属してるヒモみたいな栞の役目をするやつというかヒモだが、それを12ページに挟んでおいた。
そして、図書館のその本の「12ページ目」にも、同じくヒモが挟まれていた。つまり、けっこうとんでもないシンクロニシティを目の当たりにしたのである。
俺が意図的に「12ページ目」に挟んだヒモ。図書館にある同一の著書にも「12ページ」にヒモ。謎すぎる現象。原因は3つ考えられる。
ひとつは、まさにユングさんの提唱する集合的無意識がなす離れ技。あるいは、図書館のこの本を手にとった前の読者も12ページ目が気になってヒモ、挟んでおいた。あるいはあるいは、ものすごい偶然。
まあどれでもいいかなと思い、その本――意識と無意識についてがメインのやつ――は俺は持っているので別のやつ。夢分析の著書、もちろんユングさん自身が書いたやつの訳書を座って読む。ここで始めて机に座る。
おかしいなと思うのが、夢に対する基本的な分別というか扱い方が俺と一緒、恐縮だが、類似点が多いのである。それは共鳴。そのように見做した。
具体的には、意識に上らなかった記憶や解釈や反応が無意識、閾下(意識にのぼらない無意識状態)にあり、それが夢で仕事をする。「仕事をする」と確かに明記してあった。
そう。夢ってただの記憶の整理だけじゃなくて、もう先月だったかしこたま書いたから端折るが、個人的な解釈にとどまらず、誰かと、全体的に繋がっていることも示唆する。
加えて、自分の意識・感情となる〝補償〟という仕事をしている。何言ってるかわからねえけど、要は、理路整然とした思考や感情に及ぶまでのヒントとして夢を扱うことは学術的だよ。そんなとこである。
気がつけば3時間以上経っていた。帰ろうと思ったがふと「校閲」に関する現代の書籍があったので半分くらい立ち読んでいたら面白い。
校閲が何かと言うとつまり本文が「校閲」された際には真っ赤な原稿になって返ってくるということ。具体的には、誤字脱字にファクトチェック、適切な日本語であるかを徹底的に精査すること。次回。次回読もうと続きは保留。外に出た。
五月の夕方は新緑の息吹が湿度と混じる。爽涼な相互呼吸を得る感覚。先人の叡智を賜り敬意が生じる。その情念は自然と調和しサラウンドに感覚が飛散し察知する如実な安寧と快感。
書籍。文献。特に、古い本ってなんらかのアメイジングな引力があるなとそこで外的に感じた。
それを肚に落とし込み、自宅までの徒歩での帰路。清々しく、なんかひとつ賢くなった気がするがその内実は本文の通りくらいの薄っすい体たらく。だから、また来ようと思った。
帰宅して小説の原稿を推敲する。補足すべき点、圧縮すべき冗長な点、などなど、カッコよく言うと文章自体を吟味する解像度が上がった。別にカッコよくねえな。とにかく上がった実感が確かにある。
それは、わからないなりにも、わかるやつも、とにかく意識にも無意識にも、著書に書いてあることを読んで叩き込むことで、その時はわからずとも後からがんばれば、閾下に在りさえすれば、引っ張って出せる。それを体現した。
楽曲制作をした。先とはまるで異なる脳の部位をきっと使っている。しかし、これも案外スススと展開がみえてくる。もうちょいで全体像が――というところで0時。図書館に居すぎた。
新たなライフスタイルとして、あの図書館に週4日くらいで通う。それを一日のスタートとする。そんな未来の展望を考えると胸踊る。そのために、意識的に営み、無意識下にもぐりこませた大事なことは、都度、がんばって引き出して有効活用する。
うん、今日は即座に金に直結する仕事してねえな。そうも思うが、こういった日も大切であると手打ち。そうだ。出禁になるくらい図書館に通おう。
そこで、どのような蛮行に及んだら図書館出禁になれるのかを考えたが、意識的にも無意識的にも確実に不要な思考。
図書館に居る方々は、自分のためにも他者のためにも、なんかがんばって没頭して営んでいるのだなと、俺にはその光景が美しく思えた。だから出禁とか考えんな。
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そういった訳でとことんいってみようと書籍を読む。なになに。また派手なこと言ってやがるな。〝不安を抱える者は依存を必要とする〟だと? ふざけんなよ。俺のことか。
その一節が目に留まり、著者の解釈の前に俺の海馬がフル回転した。そう、ギャンブル依存症時代の記憶である。
先の一節を、まともにうけると、俺は当時〝不安を抱えていた〟から、〝依存〟を必要とし、依存症に成り果てたとも解釈できる。おい、ぐうの音も出ないよ。そう観念した。
たしかにあの頃は、怒りや憤慨で精神がパンクしそうだった。その吐け口として賭博に手を染め続けていた。これは合っている。
そして、〝怒り〟というのは人間の二次的な感情であり、一次的つまりこの場合、本来どうして怒りが生じるかと言うと〝不安〟が根底にある。これが恐怖の正体。これはかなり普遍的な解釈と、以前読んだ本から学んだ。
たとえば、ある国のボスが、ある国がなにをしてくるか甚だわからない。なんか喧嘩売っている気がしてならない。夜も眠れん。不安だ。クソ。あの国、滅ぼしてやればこいつは解消する。ふざけるな。某国。と、戦争の発端となる。その根源、国のボスの不安。
相当極端だが、俺はあながち的外れではないと思う。何故ならば、国々がある程度友好的であり、自身の精神衛生も健やかであれば、ボスは戦争などしない。
その昔。ヨーロッパあたりのチョビ髭のボスは神経の病気を患っていたなんという話もある。そうなると、その病ないし他国との間で抱える不安ないし、まあ、そのへんがなければとんでもねえ大虐殺などをするには至らなかったのでは――これは俺の憶測、推測である。
話を戻すと、個人においての〝不安を抱える者は依存を必要とする〟。その依存的行為に共通することは、シンプルに〝苦しめること〟であると思う。
俺で言うギャンブルだったら、よせばいいのに手前を苦しませている。そこから得る快感というかなんというかもう構図的にはリストカットに近いという持論があるのだが、言いすぎた。つまり自分を苦しめ、生の代替的な感覚を得る。そこに依存して抜け出せなくなる。その対象が他者であれば争いとなる。そんなところだろうか。
でもね、やっぱり〝不安を抱える者は依存を必要とする〟ってちと過激。言い方が過激。ただ、その先を読み進めるもまだその真意には至っていないのでじっくりと学ぶことにする。本文は、著書における続きの解釈とはおそらく異なる。俺がただ、その一節のみから感じたことである。
そこでひとつ純粋に感じたのは、この主題もそうだが、心理学者ってけっこう過激なこと言うのねということ。でもね、的を得て居るからもっと過激と言うか怖いと言うか、その奥には不安はないから、「先の恐怖の正体」とは厳密には異なる意味で、怖い。
だからそんなことしれっと書いちゃうユングさん。この世に居たら一緒に呑みに行きたかったよ。そんで俺、伝えたいよ。
「結局ユングさん、不安なことだらけだったのではありませんか?」と。すると彼は顔を真っ赤にしてブチ切れつつものすごい勢いで論駁してきそうで恐ろしい。ただ、この場合の「恐ろしい」には、敬意が込められております。誤解なさらないようにひとつ、お願いいたします。個人的思惟ですから。あと、その際は奢りますから。立ち呑み屋代は。
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静謐なる鼓動の安堵。その赤き脈は万事で廻り一つに留まる。その終着は再び輪る命の踊り。恒常の在り方。森羅に拡がる個々の膨張は共同の一節。母性と父性の遺伝子の産物。その全ては、必ず帰属し紡ぐ営み。その全ては、必ず全てと結合する。
こういうのを外連味と言う。過剰なハッタリ表現のことである。
何が言いたいのかというと、チルアウト・サウンドの楽曲をさっき作り進めている過程、つまり全体像を「これだ」と決定する意思や判断の源流がどこにあるのかと真剣に、外連味全開で文章表現したらどうなるかと書いた結果、それはそれは如実に悲惨なものであった。
だが、楽曲のサウンドスケッチ・青写真自体はとっても心地よいなという所感。だから命とか母性とか紡ぐとか帰属とかいうフレーズが出てきたもよう。
さも、他人事のような言い方だが、そこが要。
つまり、俺の判断基準で「この和音はこう」「ここのセクションの繋げ方はこう」と、俺個人が決めているようで実のところ、無意識にある俺以外の決定権を持つ者とアクセスしている。そんな気がしてならない。
だから精緻なる鼓動の――四つ打ちのビート。赤き脈がどうこう――人間が演奏してますよと。命の踊り――ダンスミュージック。恒常の――音楽理論から逸脱していない音の積み。森羅に拡がる個々の膨張――いろんな音楽を聴いてきた上で、何かを無意識に参照している。母性と――もういいよ。
つまり、外連味全開の甚だしい恥部とも見做せるポエム的冒頭の表現全てに明確な意味がある。楽曲に対しての。
そう考えるとこう、まずは俺に伝わるかなという感覚がある。
俺が俺に伝わるというのは日本語が崩壊している。だが、無意識の他者からという文脈を踏まえると、こと俺はだが、全然まともなことだと思っている。思っているフェーズなら病ではない。そう思ったのは、以下のような一節を今日、読んだからである。
〝芸術家が自分のなかで無意識に関して体験したことを書き起こした――それは芸術家としての体験であって、人間としての体験という意味においては不完全である〟
なにが言いたいのか全然わからねえよ。だから俺なりに解釈した。要は、先のように、さも自分だけでつくったっぽいけど実は、無意識から引っ張り出したなんかがあって、それは、その人間の体験だけじゃないよ。ということかなと思った。思っただけである。
その思ったやつを抱えて、鍵盤を叩いて和音とメロディを並べた。楽曲の全体像を組み立てた。その意思、俺だけど、俺以外も混じってる。ということである。これならギリ、わかる。
芸術家――無意識――学問的な意味で――あと営みが紡がれて帰属――すなわち全部繋がってる的なやつ。
もはやなにを偉そうに何様ぶっているのかすらわからない体たらく。いや、そんなつもりはない。ただ、思うことを膨らませるのが楽しいだけだという話。
そのような背伸びしたアプローチの思考は、これまで以上に広い領域に侵入できる。そこから引っ張り出せる。表現、これくらい言っても許されるかな。表現できる。という思念が、思案が、思索が、思惟が、〝思う〟ってだけでいっぱい単語あるんだね。
先の〝芸術家〟に関しての引用部があり、そこをちょっと切り取って考えて思う。切り取るのよくないかな。でも切り取ることで派生する別の考え方、オルタナティブがあってもいいのかな、などと思う訳だから、そうした次第ということでまとまる。
まとまってないね。つまり、なにかをつくろうという時に、読んでいる書籍とかで「うん?」と入り込んできた一節を、自分なりに思うことで解釈して昇華させるのって、わりといい営みなのではということ。
俺は書籍の読み方を間違えているのかもしれない。しかし、この一連の、思うということから事実として楽曲が作り進められていたりする結果に繋がる。じゃあいいんじゃないということで手打ち。
旅行に行き、帰ってくる。「いやあアメイジングな旅だったよね」と、振り返る。その時の印象。他方で、旅路のその時々で思う「なんとアメイジングな!」という瞬間的な印象。それぞれは、きっと異なる。本文の場合は後者に充たる。
屁理屈もここまでいくともう、なんか名前をつけていいのかもしれないとか思うが、結論。
読んでいる本の一節と、日々の営みを瞬間的に接続すると、奇妙な、いや、自分ではアメイジングと思える瞬間が湧くということ。それが、ただ楽しいというだけの話。
人それぞれ、いろんな思いや考えや捉え方があっていいと俺は思います。それにしてもこの捉え方はひどい。いや嘘ついてるな。手前では、必要なことだと信じている。破綻スレスレの思考も、丁寧に扱い、抱えていれば、いつか必ず美しい結果に昇華する。はず。
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立ち止まって考えること。あと、それを同時に出力すること。このリャンメン(2方面の意。博奕用語。日常会話において非推奨)攻めを原則として営むとこれ、もっと良い方向に進めるのではないかという仮説。
何故、「仮」なのかというと、それを実践中だからである。その実践の結果を明確に出すための起爆装置をつくっているからである。つまり、しつこいのにも限度があると本当に思うが、だからつまり、書いてる小説の推敲をさっきしていた。5回目を。
その原稿の後半、というか終盤。我ながら面白いと一気に進めたらくたびれる。しかし面白いなと、自惚れではないことを証明した暁には――と、イメージしながらちょっと寝る。そして思った。
それは、次の小説もどんどん書こうという絵図(「えず」を「え」と発音。企てること・主にわるさの計画やその全体像や概要を指す。ヤクザ用語。日常会話において非推奨)である。
そこに必要なのは、しっかりとした命題。そして、仕上げるまでのスピード。質。読者が共通して響く要素。量。このあたりに優先順位をつける方もいる。
スピードが大事というスタンスが多いもようだが、持論として、現代の発展そのもののスピードを鑑みた今後においては、スピード重視してつくった作品なりは、どうかな。とか思う。思うだけである。
いずれにせよ、書くということに関しては、どの場面――ライターの仕事の原稿だったりメール文章だったりここだったり小説だったり――においてもスピードは速い方じゃないかなという自負がある。
そのへんは自惚れか、客観的にどうかと言ったら、事実ベースとして編集部やクライアントから「速い」というご評価をありがたくも頂いている。「本当かな?」と疑っている訳ではないが、原稿と執筆時間をAIに投じて吟味してもらったところやはり、結果は生身の人間からのフィードバックと同一。
だから、「とにかく速く書こう」とは、意識的には思っていない。どうやっても速く書く結果となる。だからこのような乱筆というか破綻というかそのような筆致となる。
しかしそこは使い分ける。それが「スピード感があり没入感を生み出す」という良点につながることもあるらしい。あえて、丁寧に、ゆっくりと書けば、そのぶん、どこか、真摯な気持ちが文体に宿る。端的にはこういった使い分け。
なお、ライティング講座のようなことを述べ垂れるつもりは毛頭ない。これは日記である。
要するに、速く書けるし内容も質も手前で面白いと思えるのなら、どんどん書いて前に進むのが最適。そう判断したのは、初の小説がもうさすがにこれ以上の推敲はいいかな――という段階に達したからである。あとは明けて今夜、AI編集者に相談しよう。
立ち止まって考えること。あとそれを同時に出力すること。この時点で、実はスピード自体が二倍になっている。そこに気づいたということが今日、理論的に気づいたこと。理論、それ破綻してますよと指摘されそうだが、どうだろう。
「入力と出力を介するインターフェースなしに文章を書く」ということは、入力と出力がほぼほぼ同時のアプローチとなる。つまり二倍。そういうことである。
何言ってるかわからないから整理すると、インターフェースというのは、ここでは思い切りシンプルに言い換えて、「変換装置」とする。すなわち、「インプットしたものを適切に変換して出力する媒体」みたいなやつである。
たとえば、昨日はユングさんの著書の一節の引用部から感じたことを手前なりに解釈した。その、「解釈を思考としてまとめて、文章として整えるべく思考も働かせ、書く準備が整う」というのがその場合のインターフェースの役割。
だが、立ち止まって考えること。あとそれを同時に出力すること。という場合だと先の役割の工程をすっとばす。
つまり、「書きながら考えて、その解釈を書きながら文章にまとめる」。だから、どこか破綻スレスレの筆致になる訳だが、そこには「推敲」という補助工程がある。ここの文章に関しては推敲は必ず1度のみとしているが、そこでなんとか、ギリ、文章にする。
結局何を述べたいのかというと、感じたことを素直に書くことって、それがその人らしさが表れる上に正攻法じゃないかなということ。こと手前の場合はインターフェースを挟まない方が何故か書きやすいということ。
だとしたら、本文の理論上、俺自体が破綻スレスレの野郎ということに帰結する。俺はそんなことないと思うけど、面白いのは、文章ってそういうところがあぶり出されちゃうところ。
そして今、本文を一度推敲したらやはり破綻していたのでササと直す。
なんで最初に博奕用語の説明をしたのかがまず謎。ただ、なんかこう、読み物って、読むだけでなんか気づくところあっていいんじゃないかなと善処する。
しかし博奕の知識を得てもどうかなとかは、元・博奕中毒者として警鐘を鳴らす。いや、それは節介というものだろうも。というか文脈でわかるように書いたつもりだが、そもそも〝リャンメン〟という言葉の使い方を微妙に間違えてる気がしてならない。
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「さも既存」といった、マイルドで端的な、ユーザーが親しみやすいチルアウト楽曲。そのような着想だったが、つくり進め、鍵盤で弾く音の連なりの奥とか時間軸とかを感じ取り、なんらかの意識にアクセスしつつ構成していたら、想像とは別の形ができた。
思いのほかドラマティックというかやはり、俺以外の意思が混じっているとしか思えないこの電波的感覚。いや、繋がってる俺以外の何かを察知してそれが音として並んだ。そう捉えるのが適切。楽譜2ページぶんびっちりと和音を書き込み全体像が見え、やった〜となる。
そのあと、仕上げて公開して、リスニングなりご使用なりしていただければ、ストック収益すなわち俺の源泉となる。この流れがあるから楽曲制作は当然ただの趣味や道楽ではない。仕事の一環。
この構造を俺は、小説という新たに挑む分野で大展開させたい。簡単に言うと、小説を書いて原稿料なり印税なりその他二次的使用においての源泉を生じさせる流れ。これをつくりたい訳である。
だから第一作目をものすごい本気で書いたら出来た。やれば出来た。あともう一回だけ推敲するかもしれないが、現時点で出来ていると見做せる。第五稿まで、結局4カ月ほどの期間を要した。
その間の心情というと、ここにしこたま書いたからよく覚えている。だからこの作品、作品と言っていいと思う。それを商業的に扱えるという段階までもっていき、先の、「源泉」となる仕事として新たに発展させる。
ともあれ、制作楽曲の配布のように、作れば世に公開できるという位置にはまだ着いていない。だからそれが次のステップとなる。
そこに立つ前提であるが、立てることが確定した時のことをイメージすると、とてもポジティブな気持ちになれる。だが、それを決めるのは俺個人ではなく、吟味する他者様。ここが重要。
なんとかして「いけますね」と判断していただく。そこまであと、数ヶ月、年単位、あるいは年内かもしれない――それくらいだと最高。つまり時間を要する。だからその間もまた書き続ける。そのようなことを昨日ここに書いて決めた。
そして今日、楽曲制作をしていて思った。
約12年前、世に向けるという前提での楽曲制作を始めた。それは今でいう小説を書き始めたニュアンスの段階。そして、当時からしばらくして、きちんと「源泉」となり今に至っている。だから、小説も、同様にそのようになれる。この、体現含みの前向きな三段論法と現実化を強くイメージして次の未来に向かう。すんごい自己啓発のように言葉を並べるが、現実化させるためこれが有効なことをよく知っているからそのようにしている。
思考は現実化する。必ずする。実際に、そういう体験を何度もしてきた。だから、今のチャレンジも成せる。と、断ずる。
逆に、12年前以前、20代の頃とかは俺、そのへんをきちんと捉えていなかったとんでもない阿呆だった。自分を信じ切れていなかった。しかし、12年ほど前にようやく、そこに気がついて、言語化した。それを紙に書いて厠に貼って毎日視覚として捉え、意識と無意識と潜在意識と魂に叩き込んだ。そうしたら、本当にそうなった。
だから、今のチャレンジを成すために、こうやって、本当にどれだけしつこいんだというくらい日々書き出す。
言葉には人を動かす至大かつ重厚な力がある。だから言葉にする。そうすると、人である俺は動き、在るべきことを成せる。この論法。「自分に言い聞かせる」というやつの超上位互換。
それで、実際に動いていると、制作中のチルアウト楽曲のように、思いのほか大きな規模となることは現実としてある。日々の営みや、それ以外でも、些細なことでもそれは起こる。そう思って信じ切っていれば、本当にそうなる。今日、ずっと同じこと言っているがつまりそういうことである。
自己を確立させるためには、まず、自分がそう信じないことには始まらない。そして、そのうえで始めれば、思いのほか動き、自分以外のなんらかの素敵なエネルギーも想像以上に、多分に、作用する。
すなわち、これは決して電波思考ではない。学術書にもおんなじような文脈と結論が書いてあったから本当なんだって。摂理、人間とそれをとりまく全ての要素を踏まえた真理なんだって。だから、側から言わせると電波野郎とかサイコ野郎とか、そういうのもあるだろうけど、そのへんは気にしないでいいと思うよ俺は。本当に。
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「俺の本棚」くらいに思っていいんじゃないかなと、そう思いつつ北区立中央図書館にて叡智の森林浴に耽る。言い方があつかましい。いや、ただ、書店で延々立ち読みをするよりかは道徳的に正しい。そのように断じてとにかく、図書館で本を読む。
つい先日、ここに赴いた時の帰り際に手にした「校閲」に関する本。まずはこれを読破する。
校閲の人ってめちゃめちゃイラっとされる役割なのでは。そう思ったのは、「それは別によくねえか?」という部分まで、確実に正しく読者へ伝えるために指摘する。「細かすぎねえか?」という箇所を見逃さない。それが校閲。そこに読書観点で立ち入り「必要である」と肚においた。
次に「人物学」のコーナーで冷やかすように各書の背表紙を眺める。ひとつ、『人間が人間でなくなるとき』というタイトルが俺の触手をピクンとさせた。だから読んでみた。
どこのどいつが書いたか。俺は必ず、本を読む前にそれをチェックする。その本の著者は、岡山敬二さんという哲学博士。文学部卒。俺の10歳年上の人物であった。
じゃあ先生お願いしますとじっくり読む。「人物学」のコーナーにあった書籍だが読み始めてすぐにわかった。これ哲学書だろと。
もうね、すぐわかるの。それくらい、わからないくせに哲学書ばかり読んでいるからすぐわかる。例えるなら、音楽を耳にして冒頭2秒でJ-POPか洋楽かわかるくらい、すぐにわかる。
〝人間が人間でなくなるとき〟ということはどうせ、どうせさ、「人間とは?」とかから入ってそのくだり、クソ長いんだろうと思ったらそれもあったがまあ、さすがに文学部卒ですよ。読みやすいのなんの。文体が綺麗で優しいのよ。見習えよ俺。そのようにも思いつつ、スラスラと読める訳だがほら来たよ。
フッサールとかハイデガーとか指向性とか現象学とか、ほらね。もうわからねえ。
そうも感ずるが、なんとなく文脈でわかったようなつもりになれる。それを後から、「ああ、そういえばあの本に書いてあったのは、これと繋げると――」という風に、後から理解できるパターンがよくある。だから通読した。
志向性。意味わからないよ。ただ、先生の本には一言で解説なさっていらっしゃったからちょっと、わかりましたよ。志向性というやつはこの(フッサールさんの提唱のうちのひとつ)場合。
〝なにかが、なにかであることが、わかるという意識をもつこと〟ですね。
どうしてそんなこといちいち、考えるのでしょうか。それが哲学というやつでしょうか。必要でしょうか。人間の営みにおいて。必要あるよ。ああ、わかった。それがなければ〝人間が人間でなくなるとき〟が来るんでしょうも?
なんだ簡単じゃないかこの本。そうも端的に理解に及んだ気になるがすぐに俺の理解度はボコボコに打ちのめされる。
〝身体と心は別である〟〝それを心身二元論という〟。だと? いや、心と身体は繋がってるって。
心――脳機能とか精神とか魂とかそのへん――の意思が、身体を動かす。俺はそう思っている。でもそうじゃなくて別だってほざくのはデカルトとか名乗るなんか聞いたことある哲学者。
勘弁してくれ。俺は正直に音をあげた。しかしデカルトさん、わりとムチャクチャなことも仰っていたらしい。
〝身体と心は別である〟原則として身体は物質。心はそうではない。だから別。ただ、互いのやりとりはある――ここまではわかる。
「そんじゃあやっぱ繋がってるかもね。そしたら仮に、『松果腺』って呼ぶ線だかヒモだかがあると仮定して、それで心身が繋がってるってことにしとくか」などと言ったという。ふざけるな。
つまり心身二元論とやらが破綻する仮定をなんで。デカルトさんなんで。ああそうですか、生徒さんだかなんだかに、俺と同様の指摘をされてその「ヒモ」的なやつを引き合いに出したと。なるほどね。苦しくないですかそれ。とか思いながらけっこう面白いなという率直な思案。
このへん突き詰めるだけでも数十年は費やす気がするので、本に書いてあったことを俺なりにまとめるに留める――そんでこの本書いた著者の先生、なんでも若い頃、幽体離脱して札幌の景色楽しんだらしい。やばいだろ。
しかし、哲学書にこういう実体験ベースのくだりねじ込んであると読みやすい。しかもさっきの心身二元論と、主題の〝人間が人間でなくなるとき〟双方とちゃんと「筋」が通ってるから素晴らしいと思いましたよ。さすが文学部卒ってすごいですねと感服した。
まあそのくだりはなんか箸休め的なセクションだったのだがしかし。著書は、〝――じゃあ、あの幽体離脱を体験したとき、私は人間だったのだろうか。身体と心が別れていたのだろうか〟とかそんな感じの文章で締めくくっていた。
哲学書なのに最後めちゃめちゃ文学的。でも、問いを投げかけて締める。最高じゃないかと、おそらく俺はその著書の内容の半分も理解に及んでいないであろうが、すみません先生。でも、面白かったです。とか思っていたら数時間経っていた。
叡智の森林。すこし道を開拓して様々な書籍を手に取る。
好きな分野を攻めるのもいい。だが、ほほ興味なし。しかも苦手意識まである。そういうのもちょっとずつ無意識に叩き込んでおこうと俺はノイマンとかいう人の本を手に取った。
彼は数学者で、コンピューターの礎を生み出した人。あと核爆弾の研究にも深く関与したとんでもない天才らしい。そのくらいの概要は、ショート動画1分の雑な豆知識コンテンツで概要を得ることは可能だが、書籍でそれに触れるとあからさまにその質が異なる。だから叡智の森林と俺は表現したいということである。
とにかく数学はちょっと置いておいて、文学。ここ大事。ここちょっと触れて今日は帰ろうかと思った。夏目漱石。みんな知ってるすんごい文豪。彼の短編を読んだ。
内容は、ネコさんの様子がどうもおかしく、最終的に死んじゃったまでの過程を文学的に描いたもの。それが、なんというか、「こういうのが文学か」と凄く腑に落ちた。
正直、古語だらけで言い回しもどこか現代とは明らかに異なり、「ゐる」とかそういう昔の平仮名が乱発するから読みづらい。でも、なにか心に響くものがあるから最後まで読めてしまう。
それが文学か。夏目さんはネコさんすんごく好きなんだね。「我輩は――」という書き出しの有名な小説も書かれたくらいだし。それで、ぜんぜん無駄のない描写とか文体とか、それは千円札のジャケにもなるよねと感銘を受けた。
哲学。志向性。現象学。数学の背景。古き文学。それらに触れて森林を後にする。境界線である門をくぐるとリアルな森林というか公園に抜ける。
この瞬間、前回もそうだったが、すばらしい音楽ライブを観たりやったりした後の感覚に近い爽快感を得る。理由は、ここで言語化する必要はない。別でする。というかちょっとしてる気がするが、とにかく、そのために図書館に長時間居た。それだけの話。
叡智の森林に立ち入ると、必ず収穫がある。以前はそのような感覚はなかった。というか叡智の森林ってカッコつけてる風な表現だけど別にそうでもないよ。でも、秒で、その表現が、ここの冒頭を書くときにで出てきたから本気でそう感じているという訳である。
だから、「俺の本棚」という捉え方はやめた。すべての人間が、それぞれの人間らしく営めるための、神聖な領域のひとつ。それが、巨大な知の空間である公共の図書館。これくらい書かないとね、俺は「図書館」を「図書館」としか捉えられないのである。
だから、志向性で言うところの〝図書館が、図書館であることが、わかるという意識もつこと〟がこう、いい感じになってきたなという帰結。そんであと、「志向性」の使い方合ってますかね。フッサールさん。
あなたとかデカルトさんとか、本当に言ってることいちいち難しいんですけど、今日読んだ日本の哲学博士の本読んだら、それが〝ヒモ〟的な役割を担った上で、ちょっとくらいはわかった気がします。
合ってますかね先生? はあ、そうですか。それを繰り返せと。それは知ってるよ。それだけは。それだけだから叡智の森林に今日、もういいか。酒呑んでアホになって寝よう。
_05/15
普通に仕事はしたが、楽曲制作が全然進まないなと打ちひしがれる。頭の中で確かに、確かに鳴っている気がするパートが具現化しない。それどころか音色選びでもう、シンセサイザーの音100色くらい試したけど全くもってピンとこない。
そういう日もあるのかなと、バイオリズムのせいにしようとした。だがたぶん違う。考えながら、感じながらやっているだけでは進まないこともある。そのように省みた。
それで明日になってピョンと出てくることはわりかし多い。だがそうでないときもあるのでその場合はリファレンス。すなわち参考のフェーズに戻ってみる。後戻りのようにも感じるけどそうではないルートが正道だったりもする。
とはいえ、ちょっとでも進行しないこの歯痒さはどうだろう。とにかくDAWを開いて鍵盤叩いては、違う。違うな、どれだろうと、模索していた意識がどこかで後日繋がる。そうやって今まで制作をしてきた。そうだ思い出した。そういうときって必ずあるじゃないかとむしろ前向きに捉えた。
こと個人的にだが、俺に限ってだが、一番よろしくないのはDAWすら開かないこと。楽器に触れさえもしないこと。絵画で言ったらキャンバスの前に座ることすらしないこと。筆に手を伸ばさないこと。執筆で言ったら原稿を――全部一緒。
とにかく、なんかススっといかなくても即座に具現化できる環境に立つこと。それはできている。しかしそれでも今日あたり、悶絶までもいかないこの半クラッチ状態。たまにある。こういったシチュエーションで何が起きているかと言うと、アウトプットする準備がまだ脳内でできていないから例えるならばアイドリング状態だろうか。
そんな気もするが、「すんごい進んだ。美しい脳内の景色と集合的なイメージがみるみると音色に昇華された」と、書き記して一日を〆たかったが、そうでない日もある。
焦らず、ほぼ毎日、DAWやら原稿に向かうこと。インプットも欠かさないこと。何にも考えずにフラットな姿勢の時間も設けること。それを続けていれば大丈夫。そう信じている。
創作。カッコよく言って創作。それってそういうものなんだよなと再確認する。なんでもかんでも毎日ススっと進める人もいるのかな。そういうの凄いと思う。俺はたまにこうなるけど、しつこさには自信があるうえに、いつだったか飯田橋の占い師が俺の印象について、「執念」と単語ひとつで言い表せられたこともある。
だからそこは長所と捉えるのが適切だろうか。というか俺の顔をまじまじと観ながら「執念」と言い放つってあの占い師、何をもってしてそう思ったかすんごく謎。合っている気がしないでもないが執念。執念か。なんかいい言葉な気がしてきてちょっと気が晴れてきた。ありがとう易者さん。
_05/16
読み進めていた書籍を通読。タイトルは『自我と無意識の関係』。神保町の古書店で発掘したものである。
著者はユングさん。心理学者の大御所。なのにもうね、読みづらいのなんの。だがしかし、大切なことがたくさん書いてあった。
最も重要な点は「無意識」を2つの層にわけて提唱したこと。個人的無意識――ひとりひとりのやつ――と、集合的無意識――個人のやつの奥で全体的に集合的につながっている――というもっと深い層。
つまり、「ユングさんと言えば『集合的無意識』だよね」と述べても過言ではない。なんならこれだけ知っておくくらいでも妥当。そのようにも思えた。ほかの提唱やらは訳がわからん。しかも、最終的にユングさんはそれらを〝考察の解釈〟と位置付けていた。結論とかじゃねえのかよ。
正直俺はそう思った。だが、著書の最後の方にこのようにあった。
〝この書物で、読者の理解力に過大の負荷をかけたことを、私は重々承知している――〟
ふざけるな。自覚あるならわかりやすく書いてくれ。
〝――理解しやすいように道をならそうと、私は苦心を重ねはしてきた。〟
政治家の言い訳かよ。がんばってもうちょい噛み砕いて書いてくれよ。つかそれ、最初に書いてくれよ。
〝――すなわち、私が述べていることの基盤となっている数々の体験は(俺の注釈:原則としてユングさんは精神科医で、患者と向き合う中での体験から様々な考察をめぐらせたみたい)おそらく大多数の人人にとって未知であり、そのため異様なものであるという事実である。〟
未知すぎなんだよ。最初に認めてくれよ。その事実。
〝――だから、読者のみなさんが全員残らず私の結論についていきてくださるであろう、とは思っていない。〟
ふざけるな。帰結させてくれ。
〝――どんな著者でも、読者に理解してもらうことを喜びとするのは、ごく自然の成り行きである。〟
それは、わかる。
〝――しかし本書では私のいろいろな考察の解釈を私はあまり前面に押し出さないで、むしろまだほとんど解明されていない、広大な経験領域があるという事実を示唆することを念頭に置いた。〟
けっこうゴリゴリに押し出していた上に、けっこう解明してたっぽいけどね。あと経験領域は確かに広すぎですよ。広すぎ。
〝――この書物を通して、多数の人々がこの領域に通じていただきたいと念願してやまない。〟
わりとその念願。俺は受けたつもりですけどね。
〝――この今まではほとんどしられていない領域には、意識心理学がこれまで近づきもしなかった多くの謎に対する回答がひそんでいる、と思われてならない。〟
「思われてならない。」じゃなくてこう、言い切って欲しかったな。回答。
〝――いずれにせよ、そのような回答を最終的に定式化したなどと主張する気は、私には毛頭ない。〟
ないのかよ。いや、わりとけっこう文中では激しめの文体、俺はそう感じたけど……わりと熱を帯びた提唱、いっぱいあったけど。
〝――だから、本書が一つの解答への手探りの一つと認められれば、望外の幸せである。〟
認める。すごく考えること、あった。
そんで、ユングさんの言う「集合的無意識」は、心理学のみならず、日々の生活や文化、芸術、学問、スピリチュアルなどなど様々な分野での〝解答〟ないし〝解釈〟につながると俺は捉えられた。
ただね、これ、先の複数の引用部、ぜんぶ著書の最後の2ページにつなげて書いてあったのを、センテンスを分割しつつそのまま文字起こししたけど、それらの部分ね。冒頭に書いておくとものすごくわかりやすい構成だったと俺は思うよ。
そのへんを直接ユングさんに伝えられたら、不可能だが、伝えられたらどれだけエキサイティングか――
「読んでくれたんやの〜」
「来てくれましたか」
「これな、一生懸命書いたんやで?」
「ユングさん、ありがとうございます。まずは謝辞を。だがですね、ひじょうに読みづらかったです」
「のほほ。それは訳書やからの。君な、それやったら原書のドイツ語のやつ読みなはれ」
「無理でしょ」
「のほほ。それやったら我慢するこってすたいのう」
「あなたの京都弁――確実に間違ってます。どれだけ日本のKYOTOにというか」
「のほほ。KYOTOはええねんよ〜金閣寺たまげたこって」
「あなたが京都に来て、感銘を受けたという情報は、僕は聞いたことがありません」
「そんやから君の妄想やろってほんまのとこ」
「いえ……まあ、とにかく『集合的無意識』が軸となっている各部、感銘を受けました」
「素直でええ子やな〜」
「僕は44歳です」
「ヒヨッコやそんなん。それ書いた時、52歳やったで?」
「さようですか! 意外です。その年齢であの思クソ読みづらい文章を……」
「なめとんな」
「いやすいません」
「のほほ。そんでどこが刺さったんでっしゃろ?」
「は。『個性化』という解釈は現代においても、むしろ現代においてこそ、響く提唱かと!」
「そこな」
「自分らしさの追求。みんなという社会、国家、まあとにかくみんな。それがあった上での個人の役割、意識。そのへんが大事だという解釈で合ってますか?」
「ちゃんと読んだんやのう。ええ子やで。おおむね合ってまんねんどっこい」
「どっこい?」
「文末に書いたやろ?」
「ああ、〝結論についてきてくださるであろう、とは思っていない〟ですね? なんというか、謙虚ですね」
「なにせむつかしいからの。のほほ。でもな? 君が現代でそう思うならな? いま何年?」
「西暦2025年であります」
「なめとんな」
「なんで!?」
「のほほ。なんせ書いたの1928年さかいにびっくりやでほんま」
「僕もびっくりですよ。ほぼ100年前にその、今でいうダイバーシティ的な思想を提唱したわけですから」
「まあ、近いっちゃ近いわなさ」
「わなさ。まあ、その、さっきの『個性化』というのは『集合的無意識』を根幹にした提唱とも僕は捉えられ――魅力的でした」
「むつかしい言い方しまんな〜」
「く……! つまり、みんなつながっている意識の中で、ひとそれぞれ自分らしさを発揮して頑張ろうぜ。的な?」
「まあ、本のラストに書いたとおりでおま。えらい綺麗な締め方やったろ〜?」
「は。〝本書が一つの回答への手探りの一つの試みと認められれば、望外の幸せである。〟でしたね」
「せやな」
「こう、問いを置いておいて去るって感じは確かにクールですね」
「のほほ。のほほ。最高やろ? 控えめに言って」
「そういう発言さえしなければ」
「ええやろ。言わして欲しくもなるがな君、だいたいはわかったやろ? 言いたいこと」
「だ〜いたいは」
「それでええねん。ええねん。そんで、本に書いたやつを元に、君なりに考えるんや。それ肝心要やで?」
「そこはすごくわかりました。言葉を借りるなら、認められました」
「なにを偉そうに『認める』て!」
「あなたが書いた言葉でしょ!」
「せやったな。のほほ。なにせ100年近く前だから原稿に何書いたか覚えておらんこってすたい」
「こってすたい。まあいいでしょう。ユングさんが言うように、〝一つの解答の手探りの一つの試み〟として僕は取り扱う訳ですから」
「ええ子やな〜アメちゃん食うか?」
「京都じゃなくてあなた大阪行ったでしょ?」
「ええがなええがな」
「そんでユングさん、文中にあった、アニマとアニマスのさらなる精緻な解釈、ならびにペルソナとマナとの関連性についての具体的な説明をこの場で一言二言で要約して欲しいのですが」
「いかん! バイトの時間だ! 行かなきゃあかんでっせ!」
「また逃げる気ですか?」
「もう一回読んでみ〜。わかる〝手探りの一つ〟がまた増えるさかいに」
「正論ですね。いってらっしゃい」
「ほな」
「ところで何のバイトなさってらっしゃるんですか?」
「いや、患者が待っとるさかいに」
「あなたの感覚どうかしてますよ」
精神科医・心理学者ユングさんは偉大な人物である。
細かい部分は端折るが、とにかく、普遍的であり問い続けられる提唱をし、それを現代でも扱うことができて、さらにそれが発展へとつながる題材・ヒントとして今も波及していることが俺をそう思わせる。意識的にも、無意識的にも。
なお、彼がバイト感覚で精神科医をやっていたかというのは、俺の完全なる妄想である。
だが、個人的に、著書を読んでいると、ノイローゼ(当時は神経症をこう呼称した)患者の容体や、患者のみた夢の解析から、様々な本を書いた。学問に昇華させた。それは、ある種の取材、研究題材なのかもしれないという雑感。
なにせ精神科医という立場に対してであるものだからデリケートというか、本当にこれは俺のただの妄想ということを強調するが、ユングさんは精神科医でありながら、もちろんそのスタンスも真面目だったがそこから得られる解釈などに夢中だった。そんな風に想像する。
補足として、妄想でない部分は、本文中の引用部と、「集合的無意識」にまつわる各解釈・提唱の概要。
それを確実に確かにする方法は、個性化を念頭に、著書を読むのがいいのだろうか。ドイツ語の原書の方を。ユングさん。それはキツいです。
でも、とても考えさせてくれるアメイジングな著書を遺してくれて、心より感謝申し上げます。
生まれ変わったら是非、日本にお越しください。私が、東京都北区赤羽経由で京都にご案内いたします。だってあなたの京都弁ムチャクチャだから何とかしないと。
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丁寧に文章を書く。それはとても大切なこと。何故ならば、文章は人に何かを、思いを、考えを、それぞれきちんと伝える役割がある。つまり、雑に書くことは、人との関係をないがしろにしているようなもの。だから俺は、丁寧に文章を書くことを念頭に置いた。
でもね、小説の最後の推敲をしていたら、内実は〝丁寧〟というかなんかそういう性質じゃない訳。手前では、はあそれ自体が何であるかを表現できない。
だからAIに小説の文体にのみ言及した。すると、〝潮の満ち引きのようで気がついたら海に入っているような――〟とか詩的なこと言い放ったよ。意味がわからん。いや、褒め角度で捉えたら、いいじゃないか。
そこはまあ置いておいて、とにかく、もうほぼ完成した小説の推敲だから微調整というニュアンスでやっていくも、けっこう細かい加筆修正に及んだり及ばなかったり。
今日は散歩とか外出は控えてなるべくデスクワークに徹する。そのようなデイリー・テーマがあったから推敲は3時間。楽曲制作は3時間かな? まあそれぞれそれくらい。あとは合間にメールチェックとかその類。そのように過ごしていた。いかん。どんどん文章が雑になってくるな。
梅雨の気配。それは肌から察する湿り気の濃度。確かに感ずる見えぬ水滴が身体に絡む。そして季節が循環する。それは生の営みに深く関与する必然。潤いと見做すか湿度の不快と見做すか。それは各々、自由に解釈することで自然との調和の尺度となる。
意味がわからねえよ。丁寧に文章を書くというのはこういう外連味ボンとはみ出す不要なポエム描写をねじ込むこと。そうではないのであるよ。あるよ。
文章で伝えるということは、端的に要点を共有することが前提であり、スピーチのように少々のユーモアを挟んで緊張と緩和をうまい具合に利用する。それこそがAIの言う〝潮の満ち引き〟だろうも。やっとこの時点でわかった。AIが言いたいことが。
考えないで書くとこのように、意識してない倒置法とか口語とかあともう訳のわからぬ何らかが織り混ざったピョオオって感じの文体になるわけだがすなわち。
仕事、制作、小説、各創作等、文章とわりかし真面目というかそいつの深めのスタンスで、俺は日々良かれと思い向き合っているつもりである。そうすればね、それを続けていれば、社会不適合。そんな「ケ」を確かに自覚している俺も、誰かに貢献できるかなとこう、背筋を伸ばしたくなるのである。
そもそも――社会に適合することとはどういうことか。そのへんもね、小説にしこたま書いた。それの発表、つまり最初のアプローチの期限がもう二週間切ったから今日は濃いめに机に張り付いていた。
言いたいことは日記としてまとめるなら、二行で済む。
しかし、それでは、文章と真面目にというか真摯にというか真剣。どの表現が適切か――執念。これがやはりピタッとくるな。それがあるからこのように丁寧に書いている。嘘だな。いや違う、俺らしく文章を書くとはどういうことかということ。それを突き詰めているつもりである。
やっと本音が出た。昨日〝個性化〟という概念。観念だろうか、これを提唱した人はユングさんね。彼は〝結論〟は出さなかったとのことだが、おかげさまでね、そういう「イチかゼロか」みたいな俺の不得意な分野の解釈とならず、延々と考え続けていられるのである。
それがある限りは、個性化というか自分らしさってなんだろう。それがあった上で、他者様とやっと、ちゃんと関われる。そしたら社会不適合者に非ず。俺なりの寂しさというのが実はあるんだよ。
いや、そこまで考えて文章書いていない。こと、ここに関しては。
ただ、日記という性質上、最もプライベートな文章となるのは必然。「 丁寧に文章を書く」という命題が冒頭であったが最終的にはこうなるんだよ。でも、そこは許してほしい。俺はなんも考えずに文章書くとこうなるのです。だからぶたないで。ぶたないで。
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