06/2019

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
6月


九段下にライブを観に行く。このあたりは山の手のほぼど真ん中、聖地なりパワースポットなりと呼ばれる神聖な場所がもりだくさんである。

聖地がなんなのかというと、由緒正しい場所、荘厳な場所、神々しい場所、名だたる何かにまつわる神聖な場所と、そう捉えている。

とっつぁんにとっては場末のスナックが聖地だったり、やさぐれたギャンブラーにとっては古びたパーラーが聖地だったり、ちびっこにとっては駄菓子屋が聖地だったり、人それぞれであろう。モノホンの聖地も良いが、そういった意味での“聖地”が好きだ。
_06/01

 

 


「ザ・ファブル」という漫画に感化され、「しかし――」「そうであろうか――」などと使用する、“――”という、含みと間を表現する表記が大好きになり、原稿を書く際もちょいちょい使用していた。

しかし今日、担当村上氏の指摘で「Macで別の表記を変換してるだろうから、たまに文字化けして“――”という表現が消されている」ということが発覚。

掲載された記事を見て、「――」という表記が消されている場合がたまにあり、「ああ、このレコード会社の担当さんはこの表現は気に入らんのか」と、しょげていたのだが事実は違った。

だから環境依存文字として文字化けしない「――」をきちんと辞書登録し、消されんようにしようと思う。「――」が文末にあるとないとでは印象が全然違う場合がある。というか表現的に気に食わず削除されたわけではなくホッと胸を撫で下ろす気持ちもある――。
_06/02

 

 


仕事に励む一日なのだが、腹は壊すわ夕方過ぎには理由無く鬱屈した気分に苛まれるわと、若干調子が優れなかったが夜に久しぶりの10割蕎麦を食ったら治る。

心身共に健康第一と思い知ると共に、10割蕎麦の蕎麦湯は万薬のようだと幸せになる。
_06/03

 

 


三島由紀夫さんの最期の地、市ヶ谷へ。烈士を仰ぐ心持ちで赴いた訳ではなく、普通に、彼の思想とは全く無関係な取材案件に来ただけであり、昭和の熱きエネルギーをただ想像しつつ仕事をこなす。

その後は打合せで景気良く呑ませて頂き、なかなかフラフラとなり宅に戻り、フラフラと寝くさろうと思うが、寝るには時間がまだ早い。

だが、やることはあるのだがアルコールに侵された脳でまともにやれる仕事は今ないので、全て明日以降にと思いつつ、本当にフラフラと眠ろうと思う。どう考えても翌朝は二日酔いであろう。楽しい一日であったが、酒とのアプローチの手前的な配分については少々感心しない一日。
_06/04

 

 


当然二日酔い。仕事部屋での作業のみの日で本当に良かったと思う。やたらと水とコーヒーを欲する。

二日酔いの元凶であるアセトアルデヒドの解毒には水、コーヒー、蕎麦。この3点につきる。某富士蕎麦で「冷やし肉富士蕎麦」という、いつだって俺に間違いのない満足感をくれるメニューをたいらげる。

旨過ぎたものだから大きめの声で「ごちそうさま」と器を返却。この店舗が出前サービスを展開してくれたらきっと週3くらいで利用するであろう。検討してはくれんだろうか。
_06/05

 

 


まだ開店時間前の酒場が所狭しと並ぶ新宿ゴールデン街を通り抜け、吉本興業へ。お笑い芸人さん4人衆のインタビューという、手前にとっては珍しい類いの取材案件である。

芸人さんというのは、普段もメディアで表すようなテンションのままなのか、それとも真逆にシビアで寡黙な雰囲気なのか――。全く予想ができない俺はだんだんお腹が痛くなってきた。

彼らの物腰がその業界の雰囲気全てを物語る、というのは間違っているかもしれないが、俺は芸人さんという生業の方と対峙して、なんて礼儀正しいのだろうという印象を受けた。そして、会話のどんなところでもツッコんでくれるし笑いに変えてくるし、気遣いも綺麗だし、とても賢い頭脳と優しい心の持ち主なのだなと感じた。

俺は最近、「他人と対峙した瞬間の直感的印象」というものは極めてファンタスティックな感覚だと感じている。どういうことかというと、最初の直感的印象は、後々その人について考えたり、その後、その人と付き合い続けた場合、「最初の直感」が結局全てで、変わらない場合があまりにも多いからである。

たとえば、高校からの友人なども、最初の直感のままの印象と性質で、今40歳近くになって会っても「こういう人なんだよね」という基礎的な部分は何ら変わらなかったりする。

5年前会った人に対しての最初の直感も、今対峙しても基本的には変わらない。だから最初の直感はファンタスティックであり、疑るべき感覚ではないと思っている。みんながみんなそうかは知らないが、俺はそういう結論に達した。

だから芸人さんは、少なくとも数日前にあった吉本芸人さん方は、世間の“お笑い芸人”のイメージがどうか知らないが、俺は「真面目で賢い人種」だと思った。俺が真面目で賢いという意味ではないが、どこか似たような人種なのではないかという匂いを直感的に感じた。何が言いたいかというと、彼らはおもろかった。
_06/06

 

 


本気な雨が降ってくる。梅雨がきたとみた。雨天特有のだるさに堪えつつも宅で仕事をし、ソファで「オモコロ」のシンデレラの4コマ漫画を読んで休憩していたらまんまと1時間寝くさる。こうやって宵っ張りになる。
_06/07

 

 


ほぼ休日というのんびりした日につき、散歩や日用品の買い物などと、まずまずまったり過ごす。

しこたまトンコツラーメンを食って帰宅してDAWを開ける。「こういう曲が作りたい」というのがあるのになかなか形にならないというのは、本当に音楽作品というのは簡単ではないと思う。音楽のみならず、作品というものは実に尊いなと最近改めて感じる。
_06/08

 

 


「世界に一つだけの花」について考えた。曲、スマップさんについてではなく、世界に一つだけの花ってなんだろうという話である。

俺がこの世で一番恐ろしい事象ベスト3に入るひとつに、「無くしてしまったもの」「死んでしまったもの」「壊れた、あるいは壊れかけのもの」、これらに限りなく近いものを手に入れたときに、それまでのものには興味がなくなる、あるいはほぼ完全に忘れられる、ということだ。

要は、“自分にとって同種の存在であったものや人の、替わりとなるいいやつ”を手にしたら、その手前まで愛着のあったものは、その存在すらどうでもよくなる、ということである。

別に恐ろしくもなんともなく人間特有の性質らしく、思い出せないのだが、この心的状態の変化を一言で表す心理学用語が確かあった気がする。

さいきん紫陽花というマンスリーでとても綺麗な花をよく見かけは立ち止まって観察するのだが、よくみるとひとつひとつ違う魅力を持っている。紫陽花はよくみると本当に美しくて、ちょっと人をおちょくったような咲きかたをしていて、デザイン的に非常に特徴に長け、他に替えのきかないような存在の花だと感じる。

もし、紫陽花に似ていて、なおかつ紫陽花よりも魅力的なものを見つけたら、俺は紫陽花に見向きもしなくなるだろう。見かけても、「こないだ見つけたネオ・紫陽花には劣る」と思うかもしれない。

そう感じたら、手前は愚の骨頂に達したと判断すべきである。紫陽花は紫陽花、ネオ・紫陽花はネオ・紫陽花で、それらは別物であり、手前にとって限りなく役割の近いものに対して“魅力の優劣”をつける思考回路は、最終的に世界紛争に直結すると、そう解釈すべきだろう。

しかしそうなると、古いものを捨てられない、思考停止に近い執着心につきまとわれ前進できない人間、という風になりかねない。しかし、それは悪いことではなく、むしろ優しさと尊さを大切にしている精神の持ち主でもあるということも併せて思う。

今日、鴬谷で、紫陽花を見ながらこのあたりまで考えたところで、雨がポトポトと降ってきた。「さすがに雨が似合う花だな」と思いながら、とりあえず紫陽花は世界にひとつだけの花だし、同じような形で葉や花を並べていても、それぞれちがうチャーム・ポイントがあることに気が付く。

端っこの方でナナメになっていびつな咲き方をしている器量の良くない紫陽花の魅力たるや、オルタナティヴ過ぎて言葉にならない妖艶なオーラを放っていた。<もともと特別なオンリーワン>だったか、歌のそんな詞は、そういったことを含んでいるのであろうか。

2002年リリースの楽曲 「世界に一つだけの花」が大ヒットしたということは、世間の大勢の方はその点についてすぐに解釈ができたということかと思われる。俺は今日、紫陽花を観察していて、ストンと腑に落ちた。理解するのに17年かかった。たぶん遅過ぎる。

いつまでも紫陽花を慈しめる人間はミニマリスト的なのかもしれない。常にネオ・紫陽花を追い求める人間は勇者的なのかもしれない。これらに魅力の優劣があるだろうか。優劣をつける必要があるだろうか。

ネオ・紫陽花を見つけても、6月になるたびに紫陽花の花がズラリと並ぶ場を通ったら、以前と同じようにじっと観察して慈しめるような、優劣や個性や偉業や愚行などに対し、幾何学的なカテゴライズをもって手前と他人の生身の情念を殺すことをしない、聖人のような心の持ち主になりたい欲があるような無いような。
_06/09

 

 


<40年後、科学の発展と倫理のねじれによって、手前の死は、苦痛を取払ったうえで、自らそのタイミングを選択することが常識となった>…という前提の夢を見た。いよいよ何らかの病が疑われるがそんなことはないと思う。

俺は79歳でそのタイミングと察したのか選んだのか、「よし、じゃあ逝くわ」と係の者っぽい奴にその旨を伝えたが覚悟ができず、「やっぱ怖い」とビビった。これは夢の中の話である。

「今俺は、きっとそのタイミングなんだけど、この身体はまだいけるし、勿体なくないか?」と、手をグッパーグッパーとさせ、まだ割と40〜50代くらいの時期の元気な感覚が全然あるなと、そう考え少し希望を感じたところで目が醒めた。

係の者の無機質な表情から、レコーディングスタジオのボーカルブースみたいなその場所、穏やかな褐色を基調とした周りの色と、ぼんやりしているが意図的にクッキリできる身体の感覚まで、恐ろしく明瞭に覚えている夢、こういうのはいったい何なのだろう。当然覇気が出ないまま一日がスタートする。市ヶ谷へ。

市ヶ谷=市ヶ谷自衛隊駐屯地=三島由紀夫最期の地、という、この場所においての俺の脳内の紐付けはどうも固く、“自決”とか“自死”とか、そういった闇ワードが頭から離れない。しかしチキンカツカレー大盛りを食ったら超元気になる。昨夜から腹が減っていたのである。

仕事はにこやかに丁寧にこなし、宅に戻り原稿なども今日分はちゃんと仕上げ、酒を買いに行く前に、三島由紀夫さんの最期の演説をYouTubeで観ることにする。

俺は別にそこまで三島由紀夫さんの大ファンでもないが、ノイズ混じりの中で絶叫口調で、たぶん超大事なことを説く彼の姿を観ながら演説を聞くと、落涙手前の感覚に襲われた。

「これは今日、東京は土砂降りの天候だからだ」という結論に達する。最高気温など昨日と10度は差がありそうだ。そういうときは、人間のタイプによっては鬱々とした気分に不思議ちゃん思考が混じりもする。

そんな日はそんな日なりの、際どい角度の楽しみ方が色々あるのだから人間の思考やらは便利にできているなと思う。そんな日はカレーを食えば一時、日なたのような気分に還れると覚えておこう。
_06/10

 

 


この世で最も手に入れるのが困難なものは“自由”である。暫定ではあるが、そういう結論にならざるをえない。その考えは、様々なシーンで頭をよぎる。

ホームレスの方は、たぶん自由だ。ホームレスの定義は、わりと曖昧だ。「住む家がない」という定義なら、橋の下でテントや段ボールで家を作りそこで暮らす人はホームレスではない。「住所不定」という定義なら、うら若き女性の家に転がり込むジゴロなヒモ野郎はホームレスである。しかし、イメージ的にヒモメンはホームレスとは捉え難い。

言葉の意味合いとイメージを組み合わせ、「橋の下や路上で生活し、自由を獲得した者」をホームレスと定義づければ異論はなかろうか。そんなことを考えながら、俺は今日、自由人を観ていた。羨みも蔑みとも違う、哲人を観るような心境で。

赤羽と川口市を繋ぐ県境の橋から河川敷サイドを見下ろすと、とっつぁんがメシの準備をしている。先の定義にドンピシャのライフ・スタイルの者である。

あくまで見た目のイメージだが、住所も定職も何の社会的保障もなかろう彼は、それらのかわりに、何より得難い“自由”を持っている。

何年か前、俺は池袋の路上で宝焼酎カップ酒をあおっていた自由人にインタビューをしたことがある。個人的に。

「おっちゃん、何でこういう生活してんの?」

「うるせえ!」

「あのさ、俺いいこと知ってるんだ。役所とか福祉の所とかに行くと、事情を話せば生活保護とか手当とか、当面の現金や住居の世話してくれるんだぜ」

「うるせえ!」

「なんか病気とかだったら施設とかに入ればいいし…」

「うるせえ! あそこには自由がねえ!」

何年たっても刺さりっぱなしの「あそこには自由がねえ!」というフレーズはディレイのように反響して俺の心の中でいまだにフィードバックしている。現金や保障よりも、自由の方がよっぽど大事ということを、とっつぁんは俺に説いたわけである――。

今日、橋から観ていたとっつぁんにも聞いてみよう、社会的に便利な保障制度を具体的に提案してみよう、知らないだけでそういう生活しているのかも、そう考えた。だが、結果はなんとなく見えているのでヤメた。彼の大事な自由を少しでも邪魔したくない。第一、野暮である。

俺は手前に問うた。「自由であるか」と。その前に「自由でありたいか」と。「自由とはなんぞや」と。

社会断絶が自由かというと、そうでもあるが、生活的に不自由である。そもそも自由とは、一体どの部分にフォーカスした概念なのかと考える。これに関しては秒で回答案が出た。それは、「人間関係」ではないかと。

人間関係がストレスフリーであるためには、完全に社会や家族や組織仕事を断絶する必要がある。ほんの少しでも誰かと関われば、不自由は必ず生じる。なぜなら、相手との利害関係や共存意識が出てくるからであろうと思う。

それは平たく言うと“人との繋がり”なのだが、これは一般的に最も大事とされると言っても過言ではない。しかし、自由を欲しがる人間は間違いなく数多く存在し、そこには矛盾というかアンビバレンスというか、「人間は結局何がしたいのよ」という、人を死に追いやるような思考が芽生える。

社会を放棄すれば自由人になれるし、自由を放棄すれば社会人になれる。どっちが良いか。もちろん、優劣はつけるべきではないと思う。

ベストは、「自由な人間関係のなかで生きて行く」なのであるが、それはただの浮気者というか、色んな場所でごはんをもらっては日々凌いでいる半野良ネコに近い。人間は、不自由な環境下で何かを積み上げていく不思議な生き物だ。

社会放棄 or 自由放棄、「甲乙つけがたし」というところで、この件についてもう考えるのをヤメた方が良さそうである。宝焼酎買ってこよう。
_06/11

 

 


ラファエルさんというユーチューバーの動画を観たり制作をしたりと宅でじっと過ごす。ユーチューバーのあの溢れんばかりのエネルギーが羨ましいくらい、寝ても寝足りん日が続く。そういう時期もあるから仕方がない。

立てかけていたアコギを倒し、下敷きとなった観葉植物の葉が4、5枚ほどもげて驚くほどの罪悪感に苛まれる。俺にこんなに葉っぱ愛があったとは。自責の念は身体に悪い。愛で続けていればまたもりもりと生えてきてくれると信じよう。
_06/12

 

 


仕事はやや早めに済み、創作活動をする。なんてカッコいい響きだ。創作活動。しかし「創作とはなんぞ。何になる」という考えがつきまとう。

最近何をしていても、どんなことをしていても、こういった「それが何だ」という思考になる。陥る。はっきり判断できるが、まず身体に良くない思考だ。

創作とは、自分と自分以外を見つめ直すイニシエーションと俺は捉えている。創作をしているだけで救われた気持ちになる。よしここで考えるのをやめよう。そう、創作とは叡智を含んだ美しい行為である。

普段、人前では表面化させないようにしているが、俺は何かを訝しむこと、ディスる思考・暴言に関しては感心しないくらい自信がある。むこう10年はトラウマとなる一言などワンテンポで思いつく。

しかし悪口や批難は、小学生でもできる。褒めたり的確に評価するということは、いい大人でも相当難しい。それに32歳のときに気が付き、俺は冗談以外ではディスる行為をいっさいヤメることにした。

そうしたら、明らかに以前より人生が好転した気がした。そう自負があるからこそ、悪感情の失禁だけは絶対に控えたい。最終的には確実に手前が損をすることを俺は身をもってよく知っている。

何故、人が批難や悪口や暴言に及ぶのかというと、本能的な自己防衛機能だからだと思う。恐怖や不安の感情を司る、脳の扁桃体が反応しているのだと考えられる。ディスることによって自分の中の何かを保護するためなのだから、ある種あたり前の行為だと思う。それ自体は悪いことではないと思う。

悪口をいっさい言わない人間は、自分が傷ついている場合が多々ある。じゃあ、悪口などは吐いた方が健康的なのか。どうやら科学的にはそうらしいという記事を読んだことがあるが、不平不満を即時放出するのは少なくとも美しくはない気がする。

悪感情の取り扱いとしてのベストな方法は、受け流すことだろう。それを一言で表した「スルースキル」という表現を最初に使った奴は天才だ。「そういう見方もあるよね」とでも言ってパッパと肩を払えばいいのだろう。

呼吸のように罵詈雑言、暴言を放ち、スルーされたことにすら気付かない陰性のサイコパスに関してはその限りではないあたりが難しい。個人の言論が濁流のように広まる現代では、サイコ野郎を見抜く力はなかなか重要かもしれない。

でも、本物のというか、生産的なサイコパスは、日常的には善人そのものに加えて、見た目もトークもオーラも魅力的というあたりが逆に恐ろしい。

サイコパス、あるいはサイコ度数の見定め方として最も有効なのは、俺が思うに「どれだけその人が自分の非を非と認めないか」という一点だと、なんとなく思う。

しかしそれは決して悪そのものでもなく、「どれだけ突っ込める力」であるかという捉え方もできる気がする。だから、サイコパスの創作物は、良くも悪くも、恐ろしいほどに人の心を囚えるものがある気がしてならない。創作とは何なのだろう。
_06/13

 

 


スイカの切れはしだけ食ったのみで夜まで過ごす。当然腹ペコになるので有楽町で牛丼の大盛りをワシワシ食う。

いつもは並なのだが、「大盛りってこんなに少なかったか」と感じる。それほど腹が減っていたのであろう。

「これは決して大盛りではない。もっとくれ」というクレームをよこしたいくらいだったが、大盛りとは多分これくらいである。腹が減り過ぎていただけである。

第一、そんなクレームを入れようものならサイコ野郎扱いされた挙げ句、店の裏に引きずられ、サングラスで黒スーツを着たマッチョな人に問答無用でボコボコにされるであろう事は明白である。

「もう一度訊く、お前さんが食べたのは何盛りだい?」

「大盛りです! 大盛りです! ごめんなさい!」

と、なるだろう。

痛いのは嫌なので笑顔でごちそうさまをして帰る。店を出た瞬間に腹は落ち着く。大盛りが大盛りと思えなかった理由は、腹ペコでがっついているときはドーパミンが分泌し過ぎて満腹中枢がバカになるからであろうか、とか考えていたら赤羽に着く。平和な日とおいしい牛丼に感謝。
_06/14

 

 


台湾の方とお話をする。俺は台湾語が喋れないので通訳をはさみつつである。その前に、台湾は中国語がメインで、通常は台湾語ではないということすら知らず、手前の馬鹿を露呈させるところであった。

以前にも思ったのだが、言語が通じない相手の方が、どこか身構えずにコミュニケーションがとれると感じる。

日本人同士、日本語で喋ると、言葉のフシブシから要らぬ詮索やらをして変に気遣いあっているうちに互いの上下関係とかを意識したりなんやかんやと、とにかく無意識下の要らぬ配慮が多いと思う。

ほぼ杞憂である感情のやりとりが取り払われたコミュニケーションは心地が良いなと思った梅雨本気空の新宿歌舞伎町二丁目。
_06/15

 

 


「ハイスコアガール」という漫画を気に入ったものだから小出しに買っては楽しんでいた。しかし巻の購入を重ね、とうとう残すは最終巻の10巻である。

それを読んでしまうとある種、楽しみがひとつ終わる。しかし読まない訳にはいかない。だがもっと楽しみたい。

「ゲームとラブコメ」という、手前が敬遠するであろうテイストの作品なのに何故こんなにハマれるのかと考えたが、たぶん作者の押切蓮介さんが同年代であろうことと、舞台が90年代だからということが大きな要因だろうか。同年代というのは、ツボが近いのだろうか。

そのへんもあるだろうが、何しろ押切蓮介さんの絵がとても好きだ。似たタッチの絵を描く作家はいないと思う。歌手で言ったら“唯一無二の歌声”というやつだ。それはでかい。唯一無二はでかい。“っぽさ”の源流であり、ある種のパイオニア的存在にもなれる。でかい。
_06/16

 

 


なかなかいそいそと過ごすが、仕事がたくさんあってありがたむ。

遊び欲が出る。俺の一番好きな遊びは博打なのだが、現在、痛みを伴うほど禁じている。禁止しなければ良かった。いや、ギャンブル中毒者である俺にとって博打は禁忌である。果てしなくやってしまうのだから。

前のいきつけの雀荘へ行きたい。そこで勝負をする以外の関係はない、同年齢の、イケメンの、やたら麻雀の強いストウさんと夜通し勝負がしたい。

20時間くらいノンストップでやったデス・マッチは3年くらい前だったろうか。明らかに気が狂っている。だが、本当に楽しかった。「狂気の沙汰ほど面白い…」と言い放った福本伸行漫画のキャラ「アカギ」に彼は顔が似ていた。

狂気はあまり含まない、健全な遊びにふけるべきである。しかしこれがなかなか思いつかないのである。
_06/17

 

 


「若者の街・渋谷」という言い方は、俺が10代の頃からそうだった。今も、そのようである。いつだって人でごった返しているスクランブル交差点と駅入り口の間の広場で、今日それを実感した。

「Alcohol is my life」だったか、そう書かれたパネルが地べたに、そしてそれを掲げる推定20歳ちょいの若者らが荒ぶっていた。アルコール・イズ・人生。それは共感できる。

ただの酔っぱらい青年達とは少し様子が違う。パッと見の1秒で判断するなら、10人弱の男女がラジカセから出力されるハウスビートに乗りながら叫び猛るその光景は、「デモ」「抗議」「演説」「小規模暴動」だ。

拡声器で高らかに「Alcohol is my life! Alcohol is my life!」と4つ打ちに乗せて連呼。そしてうら若き娘は絶叫気味に、わりと希求力のある演説を始めた。

内容を要約すると「ハロウィン騒ぎのとばっちりで、路上飲酒禁止条例が施行される。我々の自由を奪うな政府よ!」という感じである。もちろん、暴徒たちは呑んでいた。第三のビールを片手に怒り狂っていた。警察官が止めに入ってもおかしくはない状態である。

人だまりの一歩、二歩前、スローガンが書かれたパネルの寸前まで近づいて「うんうん、わかるぜ」という顔をしていたら、絶叫演説を交代した娘が俺にチラシを渡してきた。そこには先述の内容が、良い意味で拙い、若者らしい文体で丁寧に記されていた。

彼女は必死だった。しかし、この規模、この質のデモくらいで法の施行を覆すことは不可能に近い。そう、うっすら気付いていながらも、行動せずにはいられない。そんな感情を俺は彼女の酔っぱらった表情から若干感じ取った。

「どんどんやった方がいいよ。大人しくしてると若い子がやりたいことが問答無用で何でも禁止されるからね」という旨を5分くらいかけて彼女に伝えた。我ながら中年ぶったものであると思う反面、ことの是非は置いておいて、俺は拡声器で演説したくて仕方なくなった。

しかし、「路上飲酒禁止条例」に対しては、賛成でも反対でもないというスタンスがそれを邪魔した。「グレーにしておくべきである」というのが俺のスタンスである。酒と煙草とギャンブルは日本において、一般的にグレーな扱いであり続けないと、平和な国ではなくなってしまうのではという、なんとなくの考えがあるためだ。

そのかわり日本は、犯罪未満の非人道的行為(不倫とか)や非合法薬物に対しては極刑くらいの風潮で、法的処置に加え、実質的な私刑が日常的ににおこなわれている。「人に迷惑をかける行為」という概念がどれほど難しいかを、改めて考えさせられた。

リーダー格と思わしき危ない目つきをした兄ちゃんは「FREE HUGS」というパネルをぶらさげていた。

俺は先の理由で抗議に参加するスタンスを持ち合わせいないが、抗議やデモといった怒りの行為はバンバンやるべしという想いを行動で伝えたかった。しかし、俺にこのデモの拡声器を取る資格はない。

そういったわけで、せめてと思い、娘に「彼のあの『FREE HUGS』は『抱きしめてくれ』って意味だよね?」と確認をとった。すると娘は嬉しそうな、若々しい、酔っぱらった目で俺を真っすぐ見た。軽く3合は呑んでいるとみた。

だから俺は両腕を左右に並行に広げ、リーダー格の男に目線と魂をストレートに向けた。だがしかし何故か男はやや引いた顔をした。「違ったかな?」と思いつつ、両腕を広げながらゆっくり男に歩み寄ると、だんだんと歓迎の表情に変化していった。俺は拡声器ごと彼をハグして、「Alcohol is my life! 」と耳元で伝えた。

オーディエンスからの冷ややかな目線を背に、俺は渋谷駅埼京線ホームへ向かった。電車内で、もらったチラシの抗議文約2,000文字程度を改めて読む。まず、これでは法案ないし施行は覆らないであろう。

しかし、行動を起こす若者の姿に俺は心打たれた。両腕を広げたときの「何だこの黒スーツのおっさん、止めてるのか? 馬鹿にしてるのか?」という若者の表情が、抱きしめた瞬間に「味方じゃん!」と花開いたなんとも言えん感情は、何かを思い出させてくれた。

デモと「FREE HUGS」、両方やったことないが、手前に大義名分があると信じきれるのであればやるべきであるということを、渋谷の若者は俺に教えてくれたようなそうでないような。とりあえず酒買ってきて家で呑もう。
_06/18

 

 


DOVA-SYNDROMEの稿屋氏がうまそうなパンをぶらさげて宅に遊びにきた。うまいコーヒーを淹れる。

話に花を咲かせつつ、彼は英語ができるのでちょっと教えてもらうことに。俺は英語をマスターしたい欲はあるが、レッスンに行くほどの気概もないので遊びがてら教えてもらった。

「それってどうやるの?」とか「そこにあるよ」とか、「大丈夫だよ」など、会話の基本的なことすら英語で出てこないジャップな俺にはありがたい学びである。

今日みたいにちょいちょい教えてもらい、そのうち少しは英語が話せるようになったら、「英語縛りで呑みに行く」というささやかな遊びがしたい。実に健全かつ教養的な遊びである。言語の楽しさに触れた良日。
_06/19

 

 


 

 

 

 

 

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