ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
梅雨に入れど濡れ場なし。6月。
人はきっとみんな、0.1秒以下くらいでなんやかんや判断するのだろうか。「どうでもいい」と、「あら素敵だわ」と、「時間の無駄だ」と、「最高に面白いぜ」などと。
その判断元は、「経験則」が大半を占めるだろうか。以前、そのようなものをみた時に、どう感じたかで、ジャッジをする。それが賢明なのだろうとも思われる。
しかし、「経験則」が「しょうもな」と光速で振り分けても、本能の奥底では「なんとなく、これは――」という、未知の興味が湧いていることもある。
とはいえ、ほとんどの場合、そういった何となしのインスピレーションはノータイムで流れてしまうことが多いのかもしれない。でも俺は、そこには抗うことにしている。
すなわち、ちょっとでも「これは――」と感じたら、「ほぼほぼ、しょうもないかもしれん」という経験則があっても、「試しに」と、向き合うということである。
ブックオフ池袋店で、漫☆画太郎先生の著書などをがっつり立ち読みした帰りのことであった。サンシャインシティ通りは、なかなかの賑わい。人通りは60%超といったところであろうか。
鋭利でカオスなビートの打楽器音が聴こえてきた。近づくと、奇妙な柄にペインティングされたシマウマの被り物をした男が一心不乱にお手製と思わしきミニドラム的な楽器を、良い意味でクレイジーなテイストで叩いていた。
俺は、経験則で「どうでもいいかな」と思った。しかし、その手前の意識にあった「どうも、なにか、共感、共鳴するものがある気がする」という判断のもと、しばらく拝見していた。
ロックドラムとも、ジャズやフュージョン系とも、ダンスミュージック系とも、あらゆる民族音楽とも異なる、不思議な高速ビートを叩いては、あまり聴き取れないボーカルをちょいちょい挟んでは手元の機材のディレイ(音をこだまさせるエフェクト)で工夫したりしていた。
個人的には良質な狂気をも感じた演奏を聴いては、「どこか、エイフェックス・ツインなどのエレクトロ・ミュージックに通づるものがある」と、俺は思った。
展開や落とし所にまるで予想がつかないその演奏を、「どう、〆るのだろう」と、興味深くずっと聴いていた。20〜30分は経った。その間、立ち止まるオーディエンスは多くはなかった。その時は、俺一人であった。
男はウマの被り物に手を当て、「一旦、人間に戻ります」と言い、素顔を見せた。俺は拍手をしつつ、思わず口に出した。
「うわ。脱いじゃうんですね。それ」
「はい。人間なんです」
「ミュージシャンの方でしょうか?」
「ううん…ミュージシャン、パフォーマーでしょうか……こうして打ち込みも流してですね」
彼は、純粋な優しい目をしていて、綺麗な魂の持ち主のようなフィーリングであった。
「そうですか。被り物をしてドラム叩いて打ち込み同期もと。確かにテクノっぽいビートと言いますか――」
「よくわかりますね」
「いや、なんとなくですが」
「お兄さん、なんか、音楽やってそうですね?」
「はあ、よく言われます。テクノっぽいと申し上げたのも、僕は海外のコアなエレクトロ・ミュージックが好きでして」
「そうですか。デトロイトなんちゃらがどうの――名古屋ではどうの――エイフェックス・ツインが――」
「それ! 僕は、なんか少しだけ、エイフェックス・ツインっぽいなと思ってずっと聴いていたのもあるんです!」
「へえ! わかるんですね! あ、これ、ステッカーです。よろしかったら……」
男は、自身のアーティスト名の文字が書かれたステッカーをくれた。それは、多種多様なフォントを混ぜて一面文字だらけになり、白黒で、どこかゴシックテイストのデザインの、たいへんユニークなものであった。
俺は、「なるほど」と言い、投げ銭入れに硬貨2枚を入れた。
「ありがとうございます! こちらのステッカーもよろしかったら……」
「もう1枚あるのですね。ありがとうございます。これは、どこに貼ればよいのでしょうか」
「いやもう、どこでも! この間はパトカーに貼ったという人もいまして!」
「ははは。じゃあ僕は●居に貼ってこようかな」
「ははは! じゃあもう1枚、保存用に……」
もう1枚くれた。俺は、「たいへん感銘を受けました」と伝えて彼のもとを去った。
路上でたまたま見かけた彼が何者であろうが、どんな音楽、パフォーマンスをしようが、正直そこまで重要なことではないかもしれない。
そして、そこでけっこうな時間を割いたことは、人によっては「無駄」の一言かもしれない。それは客観的に、その時間においては、立ち止まって聴く者が多くはなかったことが物語っているのかもしれない。
しかし、「絶対にないであろう」と思っていた、「エイフェックス・ツイン」というアーティストのワードが、俺の脳内と彼の発言でジョイントしたことは非常に価値があると思う。
それは、「0.1秒以下での判断」の、もっと根源にある感覚を大事にできて、更に証明もできた、と捉えることができるのではないだろうか。
そのような、地味に狂気に近い思考を提げて帰宅。
いろんな人がいろんな頑張り方しているなと、俺も頑張ろうぜと鼓舞された気分である。
とはいえ今日は、お出かけ前に2時間ほどデスクワークをしただけで後はほっつき歩いていた。休みも大切。そういう時、新たなパルスを得る収穫があるのさと、池袋で買ったアルコール度数10%のいかつい修道院ビールを冷やしてホクホクとする。
捉え方によっては「何それ」という休日。俺にとっては、確かな満足の休息日。
_06/01
読書をしたり、制作をしたりと、なかなかおとなし目な日。いわゆる「ハレ」の日が月に何度かあるうちは、一人きりで過ごしていても精神衛生上健やかでいられると気がついた。
月イチで仲間と集まってやんやと遊ぶ日が各所で数回、定期的にある。ああ、俺は周囲の方々にまこと恵まれているなと、しみじみ思う。
今日あたりは誰とも話すこともなく、ビートを組み立てたりベースラインを考えたりと、良い意味で内に篭っていた。
これが毎日となるとわりとしんどいということにコロナ禍で悟った。結局、人は定期的に人と触れ合って快楽系・報酬系の脳内伝達物質をほとばしらせないことにはバランスを崩すと。孤独は何より体と心に良くないと。
以前、「幸せの受容体」という、仮の存在について考えたことがあった。それは、オキシトシン受容体のことではないかという身も蓋もない仮説を立てた。
もし、そうだとしたら、人は交流がなければないほどに、どんどん幸せを感じづらくなるのではないだろうか。
そうなってくると、結局、「人と、どう関わるか」という点が、人間の幸福に相当な割合で関与する気がする。
「誰かのためになった」「誰かの役に立った」「誰かを喜ばせた」ということでしか、人間は真の幸福を得ることはできない。と、何かの本に書いてあった。
鬱病などにおいて、社会学者の加藤諦三さんが、“毎朝あなたがまず最初にすることが、どうしたら人を本当に喜ばせてあげることができるかと考えることであり、そしてそれに固執すれば――”と、精神科医アルフレッド・アドラーさんからの引用で書していたということを、永田カビ先生の漫画で知った。
要は、「自分」に固執しすぎず、他者に意識を向けるだけでもだいぶ違うのかなと俺は解釈した。
だから最近、起きるのがしんどい時、まず、「今日は誰のために何をどうする」と、1つは考えることにしてみた。
見上げたことではないかと手前でも思いつつ、連日実践してみたところ、意外と効く。シンプルに、効くのである。そうなってくると、おのずと人は、変に独りぼっちな心境にならずに済むのではないかと思った。
よくよく考えると、ちびっこでも知っていそうな単純なことかもしれないが、俺はこういったことに最近気がついた。めっぽう遅かったのかもしれないが、気づかないよりはいいかなと、前向きに捉えることにした。
_06/02
でかめの某プラットフォーム経由でライター案件を賜る。おおやったと思い、さっそく着手。
これは、この方面からも月になんぼか仕事が頂ければなかなか明るいぞと、俺は晴れやかな気分になった。せっせと原稿を書く。
昼間は1件、新業務の依頼を受けて実務をし、営業もしていた。これはなかなか疲れてしまったと夜、YouTubeで廃人演説を流しっぱにしつつソファに転がる。ムクリと起きて制作を少し進める。
休み明け、わりとなムーブで良好だなと1日を〆る。今日あたりも酒が美味かろうと、マイブームの「キムチ胡麻油クラッシュ冷や奴」というコスパ最強かつ至高の味わいの肴をこしらえ、ハーッと軽めに呑んでぐっすり眠につこう。
レシピは、3パック100円以下の豆腐ひとつに味の素と胡麻油、醤油、キムチを少々。きざみのりもハラリと散らせばさらに美味しかろうが、それは贅沢というものだろうか。とはいえ、原価換算すると一皿軽く100円を切る。実にセコい計算。
_06/03
原稿を書いたりウェブサイトの更新をしたりと、デスクワークメインの1日。この、眼がズキズキしてくるあたりたまらんなと、気分良く作業を行なう。
なにか特筆したことがあったかというと、カップやきそばに湯を注ぐ際、四方麻雀牌サイズに切り込んだキャベツを投入して食うと思いのほか祭っぽい味になるといったところだろうか。
最後に「祭り」に行ったのはいつだったであろうか。よくよく考えてみると、神社などで生きたままの金魚などをすくったり、イカの姿焼きが売っていたり、「型抜き」という無理ゲーに近いギャンブル性の高い、ちびっこの射幸心を著しく煽る商売があったりと、実はなかなかカオスだなと、幼少期を回顧する。
とはいえ、そこに居るだけで楽しくなるあの雰囲気。あれはとてもわかりやすい非日常で昂ぶるものだったなとしみじみする。
親にこづかいを貰い、ファンタスティックな空気感の中ではしゃぐなど、少年少女にとっては盆と正月が同時に来たようなものである。
俺にとって、現在において、そのようなイベントとはなんぞやと考えた。案外わりとあることに気がつく。ネット配信できゃっきゃとはしゃいだり、ライブで全力演奏したり、仲間と酒を呑み散らかしつつ爆発したりと、大人なりに楽しんでいるなと、人生何時であれ、祭りはあるものだなと、なんだかワクワクしてくる。
では、人間にとって最たるワクワク感を得られることとはなんであろうか。やはり恋愛なのだろうか。オルタナティブな人にとっては博奕だろうか。しっぽり家族旅行だろうか。わからんが、祭りもいいが、コツコツとした日常もいいものだなと静かに過ごす梅雨の手前。
_06/04
営業するも今日は新業務の依頼なし。ではと、ネット経由で賜った案件のやりとりを進め、締結。原稿料を獲得。
おおこれは、このような水流での依頼もちゃくちゃくと増えたら、なかなかいい感じではないかと気を良くする。引き続き、ライター案件募集中。
夜は制作を進めるもベースラインに難航。打ち込みでやればサッとできるのだが、それはこの楽曲のコンセプトにそぐわないと、血の通ったトラックにしたいと、ちゃんと生演奏で固めるべく、プレジション・ベースをせっせとつま弾く。ともあれ、ストック曲もあるし、少しずつでも進行しているからいいかとDAWを閉じる。
さて今夜も近所の茶トラをモフりつつ、買い出しにでも行こうかと思う。しかし茶トラは、期待しているとだいたい出没しない。気に留めていない時にニャッと出てくる。
そろそろおやつでもあげてみようか、という案もあるがそれは棄却。されど、俺と茶トラとの間に序列が生じるからである。なんというか、平等な立場でいたいのである。深夜にたまに会える友達のような関係を保ちたいのである。
なにせ、首輪をしているのだからどこぞやの飼い猫であろう。そこにおやつをあげるなどという行為は、人様の伴侶にツバをつけるようなものである。
なんやかんやと考えるが、たまにスーパーのネコめし売り場で価格を確認するあたりは、不純な関係に憧れがあるのだろうか。いいや、別にない。
_06/05
わかりやすい程の6月的な気候。宅で制作をしたり、楽曲アナライズをして楽譜を書いたりしてひっそりと過ごす。
なんやかんやで、音や五線紙やDAWと向き合っていると時間が経つのが早いなと、0時を過ぎていることに気づき、しみじみ感じる。
今日あたりは誰ともまともに喋らんかったなと、ちょっと鳥肌実氏の演説のモノマネをして気を紛らわしていたりもした。仕事部屋に虚しく響き渡る玉砕演説。
そのような、たいへんしめやかな梅雨の入り口。四十過ぎ、梅雨に入れど、濡れ場なし。
_06/06
念願の新たなリピート依頼が入り歓喜。さらに、実務中に新規見込みからの連絡があり、今日の稼動可能時間を伝えるもご都合が合わずということで「じゃあ、また何かあったら――」とのことでクローズ。
また、ほぼほぼ同スパンでリピート依頼を賜っている顧客様がおり、「今日は来る」というタイミングではあったが、いつもの時間に連絡が入らず、しょげる。そのように、新業務において様々なアクションがあったりなかったりした日。
とにかく、「リピーター様を増やせばかなりいける」という明確な展望を描いているこの業務。新たに獲得したが、すでに獲得したリピーター様からの依頼は今日はなしという「いってこいなのかな」という所感。休み明けに連絡があることを切に願う。
そのようなことを思いつつ、夜は楽曲アナライズや練習等をする。配信も、また中旬とか下旬にできたらいいなと考えつつ、楽しみながら準備をする。
その間も、起きがけも、営業中もそうだったが、今日は各所からの連絡がとても多い日だった。
昨夜、駅のホームで、「なかなか来ねえな」という心境で電車をじっと待つ夢をみたが、それは「やることやって、待っていれば来る」という感じの暗示だったのだろうか。ほかにも、明らかに何かを暗示しているような内容の夢を複数みた。
初対面の女性に、手前に対しての印象として「ハイファイですね」と言われるシーンもあった。これに関してはまあまあ謎だったが、褒め言葉っぽいので良い方にとる。
「ハイファイ」の意味は「高忠実度」といったところだろう。忠実とは、「真心をもってよくつとめること。また、 少しの違いもなく、その通りにすること」という意味であろう。
前者の方でとると、なかなか素晴らしい気がする。忠実に、誠実に、というのはある種、高めの人間性とも捉えられるからである。そういったわけで何事にも誠実な漢でいたいものである。
そして、他者への褒め言葉の新たな語彙として、「いやあ、ハイファイですねえ」というフレーズを引き出しに収めておこう。良かれと思ってそう言ったところで「は?」と、返されるのはほぼほぼ明白だが。
_06/07
遠慮なく昼過ぎまで、半休ということでグウグウしていたら隣の仕事部屋の方から着メロ(死語)が聴こえる。
普段持ち歩くiPhoneに関しては、睡眠中はキッチンに置いて無音設定にしている。しかし、業務端末においては常にブルブルリンリンと鳴る設定。そして、この端末においては「着信=依頼の電話」なのである。
おお、とうとう非営業日にもがっつり鳴るようになったかと、起きて着信を折り返す。すると、昨日、逸したかと危惧していた従来のリピーター様からの連絡であった。「今日はお休みでしょうから、後日お願いできますか?」という、ご予約のお報せ。
はい喜んでと、よし、逸してはいなかったと俺は胸を撫で下ろし、蕎麦をかっ喰らいに出かけた。蕎麦湯をガブガブと飲み、やや残り気味の血中アルコール濃度を薄める。
さて、ぶらぶらしようかと電車に乗り、池袋で降りてレトロゲームも設置しているゲーセン「ミカド」に入店。なぜか俺自身がリピーターとなった脱衣麻雀を100円だけプレイする。驚異の5連勝。
ああ楽しかったと、珍しい酒でも買って帰ろうと、品揃え豊富な酒屋「やまや」に入り、これまたリピーターとなっている修道院ビールを1本購入。この「シメイ グリーン」というトラピストビールはアルコール10%というえげつない濃度で、芳醇な味わいがクセになる逸品なのである。
自身、繰り返し行なったり、利用したり、購入したりする動機は、無論「お気に入り」だからである。気に入ったから、リピーターになるのである。
ということは、仕事においてのリピーターが増えるということは、たいへん恐縮ながら、お気に召して頂けていると捉えて差し支えないであろうか。されど、こんなに嬉しいことはなかろうと、覇気が漲る。
人間は、お気に入りや好きな物、楽しめることや好きな人、応援している人や推しが多ければ多いほど、幸福度が上がると、そういった解釈もあると何かで知った。それは理にかなっていると実感する昨今。
好きなことやお気に入りが増えて幸福。シンプルでいいじゃないかとストンと納得。とはいえ、お気に入りのひとつが脱衣麻雀というのも、もうちょいこう、ほかにもなんかあるだろうとも思うが。
_06/08
梅雨の中休みと捉えるにはまだ少々早いかな、といった好天候。町田康先生の小説などを読んだりして過ごす。
日本のパンク・ムーブメントの重要人物という存在感もありつつ、文壇では芥川賞を受賞。現在もなお、執筆活動および音楽活動を精力的に、という憧れてしまうほどの経歴と生き様。ああ、カッコいいなと思いながら『けものがれ、俺らの猿と』を読む。
町田康先生ほどとは言わずとも、俺も60歳になっても何か書いたり音楽をやり続けていたいなと、手前を鼓舞させつつ、フェンダーのアンプからブゥゥンとクランチ・サウンドを出力させつつ練習をする。
60歳まであと約19年。信じられないほどすぐとも思われる一方、果てしなく遠いとも感ずる。19年の間に何ができるか考えた。そして、19年という年月はどんなもんだったかなと19年前を振り返る。俺が22歳の頃から今日に至るまでの期間である。
狂ったかのようにパチスロを擦りまくり、明らかに堅気の方ではないと思わしき御仁なども屯する香ばしいフリー雀荘に入り浸り、将来のことなどまるで考えず、永遠に死なないのが前提のような暮らしをしていた。19年前の俺、22歳の頃は、一言でまとめると、穀潰しそのものであった。
そこから19年、人格すら変わったのかなというほどのムーブで日々過ごしている。あまりにも紆余曲折あり、物の見方や思考回路が著しく変化したのである。
誰しも、19年も経てばそうだろとも思われるが、こと手前を振り返ると、客観的に、「変わったな」と思えるのである。
そうなってくると、60歳までの19年間で、様々なことができるであろうし、可能性はたくさんあるなと、希望すら感じられる。以前も同様のことを書き記した気がするが、やはり、改めて「約20年」というのはたいへん長い時期なのである。
20年と言わずとも、ここのところのたった3年で世界は激変した。では、あと3年後はどうだろう。10年後は、そして20年後は、と。日本人の平均寿命の半分くらいまでいくと、やはりこのようなことを考える。
何にせよ、日々のコツコツに勝るものは今のところ思いつかんなと何やかんや少しずつ積んでいるつもりの40代前半。60歳あたりになった時、20年前を振り返り、「やはり、穀潰し」ではなく、「よくやっていた。だから今がある」と、ポジティブに回顧できることが望ましい。
そのようなことに思いを馳せつつ今日も、この先ハゲんように数分の頭皮マッサージを欠かさない。顔が変にたるまぬよう、リンパ周りを優しく揉みしだく習慣を続ける。これらは、案外効く。人様に晒すのはちと小っ恥ずかしい、日々のアナログなアンチエイジング行為。
_06/09
今日は一粒万倍日と天赦日とやらが重なる「最強の開運日」らしいが、物凄く通常運転という所感。
むしろ、歩行中に赤信号を無視して渡っていたら警邏中の巡査さんに「オラァ、赤だぞ〜」と叱られる始末である。
どうみても歳下であろうその警察官にタメ口で、実に粗暴な口調で威圧的に指摘され、俺はわりと頭にきて「貴様、口の聞き方も知らんのか? うん?」と、追いかけて問い詰めようという案が瞬時に出るほどであったが悪いのは手前である。当然そのようなことはしない。下手をしたら公務執行妨害でお縄まである。
うん、道路交通法違反はよくないよねと、一応反省して安いパスタ買ってきてワシワシと食って制作をする。薬指の爪が欠けるほど一心不乱にギタートラックを録音する。このように、日々の積み重ねで、受動的ではなく能動的に運を開いていくのが吉。
昨晩は空に月が2つ浮かんでいるのを眺める夢を見た。なんかいいことがあるのかなと期待した。加えて本日は最強の開運日だったらしいが、思いきりスルーされた気がしないでもない。
いや、きっと後々のためにちゃくちゃくとストックされているに違いないと、俺は前向きに捉えることにした。そうだよなと手前に言い聞かせて1日を〆る。
_06/10
速攻でギターの弦が錆び出す濡れた季節。今日は依頼がない様子なので営業し、制作して、という地味な暮らし。
制作楽曲から得られる収益を示す各数値やグラフなどをしげしげと見つめつつ、常に少しづつは上がってはいる訳だしなと、やはりコツコツやり続けるべしと、MIX作業などを進める。
弩級な規模で収入がドカンという訳ではない昨今、出費を抑え気味にいこうと、ネギキノコ蕎麦をこしらえて食う。撒き続けている種がドーンと開花したら一も二もなく高い蕎麦屋で鴨せいろなのだがな、などと思いながら。
だいたい1,000円前後という、やや贅沢めしにしては絶妙な価格帯の大好物。鴨せいろ。「もう、いい」というくらい鴨せいろを食いまくりたい。なんなら鴨を養殖しようかなと思うくらいである。きっとグアグアと可愛かろう。
しかし、丹精込めて育てた鴨たちを絞め、蕎麦と共に食うその瞬間の、情の移った鴨ちゃんたちに対するえもいえぬ悲しみに俺はきっと耐えられない。だから今度の休みあたり、よその鴨を食いに行こう。鴨の油がじわりと広がった蕎麦ツユと蕎麦湯のマリアージュは至高の一言。
_06/11
東京は晴天と狐の嫁入りという時期らしい気まぐれ天候。ほぼ終日、案件先に居てみなさまとほっこり過ごす。
1日の中で、一人で過ごす時間が多くの比重を占める生活が続くが、やはりなんやかんやと、人様方と一緒に過ごすのは精神衛生上健やかなのだなと、切に思う。
今日のように、案件先に出向いて終日、という日でなくとも、仕事で依頼者にひっぱりだこ、ああ忙しいぜ、やれやれ、やっと一人でほっこり過ごせるぜ、というくらいで丁度良いのかもしれない。
以前、占い師に言われた、「人のために行動する方が、より力を発揮します」という言葉はそういうことなのかもしれない。もうシンプルに、発揮すべく張り切ろう。
_06/12
せっせと営業し、リピート依頼を受け飛んで行き、錆びた弦を張り替えて楽譜などを書き、アナログに機材のツマミなどをこねくり回しつつ制作をしたりと、通常運転の日。
強いて、通常ではないことがあるとしては、ここ最近の仕事部屋の蚊の多さである。蚊取り線香でも焚けば容易く鏖(皆殺し)と相成る。しかし、常にあの匂いに包まれるは不服なので、蚊を発見してはピシャピシャと手を叩く滑稽な所作を数分おきにせざるを得ない。
これはどうにかしたいと対策を考え出した刹那、ネットの情報で得た「お手軽かんたん蚊殺し」的な手法を思い出した。
それは、歯磨き粉をニュッと出して放置しておけば、蚊の方からすすんでそこに張り付くというもの。簡単じゃないかと思いつつ、ソファの前に置いてあるテーブルにティッシュを敷き、そこにニュッとウンコスタイルで歯磨き粉を出しておいた。
やれやれこれで蚊なんぞ鏖だぜとMIXを進めるが、蚊は俺を嘲笑うかのようにフンフン、ブンブン、アァァ〜ンと、顔の周囲に纏わりつく。
おかしい、実に腹立たしいと思い、仕掛けておいた歯磨き粉を見ると全くもって蚊など捉えていない。デマじゃねえかと、しょうもないフェイク情報じゃねえかと、おのれ許すまじと、俺はやり場のない怒りに包まれつつ、ティッシュをゴミ箱にそっと捨てた。
俺としたことが、ジャンクな情報などに振り回されて生活用品を無駄にしてしまったという不細工なくだりに悶々としているのかと、再度「蚊 歯磨き粉」でネット検索をして確認をした。すると結論、“根拠不明”とのことであった。
俺は、蚊の鬱陶しさと空前絶後のクソ情報共にダブルで頭にきた。令和にもなって俺は一体何をしているのだと、実に不甲斐ない気分になってきたのでもう酒呑んで寝よう。なかったことにしよう。
とはいえ悔しいので、誰かと「蚊がどうの」という会話になったら相手に「蚊の歯磨き粉で鏖方法」を教えて悔しい思いをさせてやろうかと考えた。しかし、こうしてデマは拡散していくのであろうと判断できるので即刻棄却。
仲間に、あんなに虚しい怒りを覚えるような思いをさせたくはない。人に優しく、蚊には厳しく。
_06/13
微妙に小雨が降り続く。出先で降られて手をかざし、頭皮に当たらぬよう努める。
そんなにハゲたくないのかと、わしっと髪をかき上げて、まだまだ全然いけるだろうと、モミモミきゅっきゅと揉みしだく。
ハゲたらハゲたで覚悟を決めよと、その際一体なにを思うか、一体なにを断じれば、そのようなことをふと思う。
思ったところで事は変わらず、たかが髪だと、されど髪だと、たゆんと濡れる前髪を、しゃっと靡かせメシを食う。一切合切メシを食う。メシ喰うな。いつまでも食ってんじゃないよと、こうして今日も過ぎていく。順調に梅雨は過ぎていく。
きっと歌詞を書く時というのは何となくリズミカルに文を連ねるのだろうか。意識した上記の内容は、きっとメロディに乗りやすかろう。
しかし、正直、最終的に何を伝えたいのか全くもって理解不能なことに加え、この上なく中身の無い詞なので楽曲にするつもりはほぼ起きない。
とはいえ、英訳してオルタナティブロック・サウンド仕立てにして制作をしたら、妙な外連味が滲み出てカッコよくなるかもしれない。レディオヘッドみたいなアレンジにしたらハマるかもしれない。
しかし、下手をしてリスナーに大いに受け入れられ、後々、「あの歌詞の内容は――」などと聞かれたら返しに困る。きっと「結局、断じるべきは――」などと、偉そうに何らかの比喩であったかのごとく後付けしまくった回答を述べるであろう。そういったくだり、ちょっとやりたい欲。
_06/14
仲間との集いがあり、事前にあった日程を調整して頂いてまで出席をする。そういった訳で半日くらいは共々一緒に過ごす霧雨纏う1日。
みなさまと居ると、今日なにがあって、なにを思い、なにをもってしてどうの、といったことは、即座その場でアウトプットして共有をする。
こういったコミュニケーションは大切だろうもと、宅に帰って少々カタカタとして日が閉じる。やはり、順調に梅雨は過ぎていく。
夏はまだだろうか。夏生まれの手前としては待ち遠しいような、別にそうでもないような、ぼちぼち晴れの日を待つような心境がないでもない、6月の良日。
_06/15
<愛に気づいてください、僕が抱きしめてあげる――>といった歌詞の楽曲は誰の作品だったかと、何のアニメのテーマソングだったかとふと思い、検索してネット動画で確認する。
まさにヴィジュアル系と捉えられるPENICILLINのその歌い方と、同曲がオープニングテーマのアニメ『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』の世界観は、なぜか妙にマッチするなとしみじみ感心する。暇すぎた訳ではない。なんかちょっと気になったのでその理由を音楽的に考えていたのである。
サッと答えはでなかったので一旦保留。それよりもと、昨日、答えに到達しているかどうかなかなか判断がむつかしくなってきた自作の曲のMIX具合をチェックする。
なんだ仕上がっているじゃないかと、日を跨いで聴くときちんと判断できる、ある種のあるあるである。よしよしと思い、楽曲をプラットフォームに申請する。
あとは漫画を買ってきたり、楽器の練習をしたり、ケーと高い声を出してお歌の訓練をしたりして過ごす半休日。アナログのみのリリースであるAFXの作品をYouTubeで大音量で流しながら昼寝したりもする。
いい感じに休めもした湿度60%超の梅雨のひととき。改めて、<愛に気づいてください、僕が抱きしめてあげる――>というストレートで求愛的な詞っていいもんだなと反芻する。
とはいえ俺は求愛自体をしておるのかと自問する。ダイレクトに、異性やらにそのようなアプローチはしておるのかと。していない。しかし、形を変えてなんやかんやと求愛している気はせんでもないなとも思う。
いびつな求愛。それは、なかなか気づいてくれなさげ。ともあれ、何事にも愛をもってやっているのではないかという自負はある。<愛に気づいてください>という一節は、やはり、シンプルながらも奥深いフレーズ。
求めているようであり、攻めているようでもあり、おびき寄せている感もある。そのあたりが正に「セクシーコマンドー」という架空の競技の概要と親和性がある気がしてきた。そこか、そこなのかと、ストンと腑に落ちたが、実のところの正解を誰か知らんだろうか。
_06/16
依頼が来ないのでほぼほぼ制作をして過ごす。DAWとエレクトリックギターにしがみついて4、5時間、骨組みが出来たのでよしとする。
制作が進むのはとてもいいのだが、1件で現金なんぼの依頼がもっとほしいなと爪をかじりたくなる心境。
もっと拡大しようぜと、新業務用に屋根付きバイクを導入する予定だったが、周辺駐輪場がどこも空き無しで悶絶。置き場がないのに買ったら大変な始末である。
ではということで、とりあえず中型の折りたたみチャリを発注する。これなら置き場には困らない。
俺がチャリに乗っていた時期はもはや10年以上前。現在の道路交通法においての自転車の走法は大丈夫だろうか。
聞くところによると、今やチャリで傘をさしながらの運転ですらアウトらしい。せちがらい。酒を呑んでの運転もダメだった気がする。それは普通に危ない。
チャリで下手を打って罰金を請求されたりなんぞ御免なので安全にいこうと思う。若干でも危険を感じるとスッと自転車から降りるくらいのフィーリングでちょうどいいのかもしれない。
交通社会において過去の免停歴が軽く2桁はあるであろう手前あたり、チャリにおいても慎重にいく必要がある。免停90日とかのやつはガチでキツかった。
とはいえ、とうとう次回の免許更新では人生初のゴールド免許ゲットである。おしゃれして顔写真の撮影に臨もう。
_06/17
今日は依頼がきたので即金の売上を得る。毎日数件はコンスタントに来てくれる段階に早く行きたいものだと空を眺める。深く湿って重そうな雲がサラウンドに広がる。
しばらくは蒸し暑いのだなと、今日あたりはエアコンを稼働させて作業をする。ここのところ電気代が高くなったのは宅だけだろうか。保険料などもなんか高くなった気がするのは俺だけだろうか。めし屋はだいたいどこも値上げしているのは気のせいだろうかと、世間の経済を憂う。
憂いたところで値上げはいつだって不可逆的。それではせっせと稼ぐしかないかと精進を心がける。俺もネットの依頼メニューの価格をちょっとしれっと値上げする。手前の安売りはよくないと、世間にならう。
「世間とは個人の集合体である」などと記したのは太宰治さんだったろうか。そうなると、足並みを揃えるのがむしろ妥当かなと強引に理由付ける。
ヌメッと厭世観が湧いてきた訳でもないが、天候と同期したような気分で1日を過ごす。それはそれで季節感があって乙であろうと。
_06/18
小学生の時の担任教師に煽られるという謎夢をみて目が覚める。あの先生は不眠症で悩んでいたな、大変なお仕事をなされていたのだなと懐かしむ。
さいきん眠りが浅いのか、連日、深夜になっても明瞭に覚えているレベルの夢をみる。昨日は、グロテスクなほど美しく青くそびえ立つ富士山を横目に、勢い余って車で海のもとにダイブするもギリで下の車道に着地してやれやれという謎夢。
ああこれはいよいよかとも思ったが、どれも良い方向に捉えられる気がするし体調も悪くないので手打ち。
睡眠中の夢は、あの世やらにつながっているという解釈もあるらしい。夢野久作さんの著書だったかに記されていたのは、内臓やらの記憶やらなんやらを反映するというくだりもあった。
心理学や精神医学では、夢は無意識のある種の表れだとも言う。フロイトさんは夢判断、ユングさんは夢分析と、各々、夢の研究をなさっていたという。また、スピリチュアル界隈だと――枚挙にいとまがない。
不思議なのは、過去にみた夢が連動して記憶に残っているという点である。手前でもなにを言っているのかわからないが、どこか、年月を超えて繋がっている夢がいくつかあるというサイコな現象。現象ではないかもしれないし、もはや表現の仕方がわからない。
そのようなほぼほぼ支離滅裂なことを考えるくらいなら、酒を呑まずにグッスリ寝て夢すら覚えていないほど熟睡すればよい。
しかし、夢を全く覚えていないというのもちと寂しい。それくらい、もしもビジュアル化できたとしたら、相当美しかったりドラマチックだったりグロかったりと、色鮮やかで、音も匂いも感触も、まるで別世界で体験しているかの如き内容が多いのである。
実は、みんな人に言わないだけで、俺と同じなのかなとも仮定する。誰かとやりたい遊びがある。それは、最近印象的だった夢を絵に描いたりして見せっこして互いに精神分析などをし合い、きゃっきゃとはしゃぐやつである。
これは人生で一度もやったことがない。なぜかと考えた。きっと、誰も相手にしてくれないからではないかという寂しげな結論が即座に浮き上がった。わりと盛り上がると思っているのは手前だけなのだろうか。
_06/19
制作をしたり、仲間から賜った採譜の依頼をしたりする。楽譜に起こす行為自体が大好きなので喜んで書く。
そんな「譜」を書いていて最近思う。音楽が、CDやレコードなどのフィジカル的な形として出回さなくても楽しめる時代。手前で作った楽曲も、「.mp3」や「.wav」などのデータ形式がメインで、フィジカル的にはほぼほぼ残らんなと、少々さみしく思っていた。
だからこそ、物理的な形にして残しておきたいといった心境が、譜に記しておく行為に繋がるといったところ。
手前が作ったほとんどの曲は譜に起こしてとっておいている。制作した楽曲の譜は、宅の鍵盤の前に3つ並んでいる譜面立てにがっつり束ねて置いてある。それ以上置けんというくらい溜まったら棚に保存する。
インターネット上に公開した各楽曲の譜を書いて、タイトルを記して、着手した日付を記し、五線紙に書いた譜として保存することによって、ああ、この世に存在している音楽なのだなと、実感できるのである。
正直、その工程は、他の方と共有する場合を除き、別に要らないのかもしれない。制作中に、自分がわかるようなメモ的の譜があればそれで済む話。自分が作った曲が、完成後に他の誰かでも演奏できるような譜を書くことは、収益等には関わりがない。
しかし、ほぼ毎回書く習慣がある。いわゆる自己満足なのだろうか。完成した曲とは別に、譜が存在すると、「ああ、作ったんだな」という確かな感覚が得られる。譜に起こして悦に浸る。個人的にはいいもんだなと思うのだが。
_06/20
もたれかかって殺しにきているかの如き重い雲空と低気圧。そいつに比例して鬱の淵のような気分であるが、やることやらねばと思い立つ。
家庭裁判所より、「相続放棄申述受理通知書」なる書類が届いた。俺は、依頼していた司法書士さんに連絡した。すると、「それで終わりでっせ!」と、お手本のような関西弁で、父親の相続放棄が完了したことを教えてくれた。
同時に、ここ数年ほぼ同スパンでバンバン郵送される「金を返せ、この野郎」的な旨が、たいへん丁寧な文面で記されたものをよこし続ける各機関への対応をご教授賜った。
「事件番号 令和4年(家)第●●●●●号」と書かれた、ずいぶんえらいことをしたのだなと感じさせるその書面。これが全てだという。父親の借金をはじき返す俺にとってのリーサル・ウェポンである。
「その番号を、各債権者にファックスなりメールなりするのが一番丁寧な方法でっせ!」と、司法書士さんは仰る。
「でも、そこまでせんでも、賢治さんが電話して書類の番号教えるだけでも十分でっせ! それで向こうさんも家裁と照合できるという訳ですわ!」とのことである。
俺は面倒なので後者を採用した。オレンジ色に黄色、赤色と、だんだんと圧がパワーアップしてく督促状の封筒を死ぬほど保存してある。約6年分である。
そこから最新のをいくつかピックアップし、債権回収会社やら法律事務所やらに電話を架けた。
「――の件で、3つお伝えすることがあります。1つは、本人が先日死亡しました。2つ目は、郵送物の届け先である私は、相続放棄をして、その手続きが完了しました。3つ目は、『相続放棄申述受理通知書』の番号を口頭でお伝えするので、そちらでご対応願います。以上です」
と、自分でも嫌だなあと思うくらい冷静かつ事務的な口調で報告した。一律、どの機関も「書面のコピーを郵送して頂くことは可能でございましょうか?」と、述べていた。
「可能ではあります。しかし、司法書士の方に、口頭でも問題ないとのことをご教授賜ったので、お伝えした番号をもって、そちらでご対応をお願いいたします」
と、引き下がらずに押した。「司法書士が――」というワードはなかなかパワフルなもようで、どの機関も全て、了承してくださった。
4件かけたあたりでなんだかへとへとになってしまったので、あとは順次、催促がきたら対応しようと思った。変な疲労感をおぼえる作業なのである。
それにしても、つまみまくったもんだなと、山のように積まれた督促状を見つめて思う。法的に、俺に返済義務は無くなった。だが、人道的には、返すべきなのだろうか。罪悪感を抱くべきなのだろうか。
「なぜ俺が、晩年さんざん苦しめられたあの親父の、こともあろうか借金まで面倒みなければならんのか」というのが正直な心情である。
とはいえ、貸した方の気持ちを考えると気の毒と思わなくもない。しかし、俺に法的な義務は無くなった。そういったわけで、全ての貸主に対し、“事件番号”をお伝えしてこの件を完了させようと思う。
相続放棄の手続きと、債権者への対応。経験のある方と共有したい。「ああ、あれね。あれは神経すり減るわ」と、言ってくれれば「ですよね本当に」となる。それくらい、シンプルにくたびれる。だから、この経験自体をせずに済む人生を送る人が大半であることを願う。
唯一の救いは、ご担当頂いた関西の司法書士さんが物凄く迅速丁寧かつ優しく明るい方であったこと。
『ミナミの帝王』の逆バージョンみたいな人に巡り合えて本当に頼もしかった。おおきにおおきに。この度は本当にありがとうございましたという感謝の意を西に向かって飛ばす。
_06/21
『なぜか聴きたくなる人の話し方』という書籍を上梓した、ラジオDJ、ナレーターの秀島史香さんが夕方、J-WAVEのラジオ番組に出演なさっていた。
それは、もともと秀島さんとコンビを組んで放送していた『GROOVE LINE』という、DJのピストン西沢さんが主として進行する番組である。
その番組は、俺は20代の頃からずっと聴いており、たいへん楽しく過ごさせ頂いており、今もなお、自宅で楽しく聴いている。現在は、主にピストンさん一人で放送しているスタイルである。
今日の放送で、ゲストとして招かれた秀島さんが書かれた『なぜか聴きたくなる人の話し方』についての話になり、秀島さんが率直に「どんな話し方が、聴きたくなります?」と、ピストンさんに質問するシーンがあった。
すると、ピストンさんは、「話をしているその人が、どれだけ興奮しているかどうかじゃないですかね?」的なことを仰った。秀島さんはそれを受け、「それは真理を突くような――」と、心象を述べた。
俺は「なるほど」と、感銘を受けた。ピストンさんが仰ったことは、「話し方」のみならず、あらゆることに通づるのではないかと、加えて思ったのである。
「どんな内容を話しているか」よりも、「どれだけ高いテンションで言い切っているか」の方が、前者よりも「刺さる」ということはよくあるなという点が一つ。
そして、「どれだけ当人がドーパミンやらを出し、興奮して楽しんでアクションしているか」というのは、受け手にどれだけ伝わるかということに比例しているという点。
それらを一言で、ピストンさんが言い切ったことにある種の感動すらおぼえた。
今日は半休日。仲間のK氏と、もはや月イチのルーティーンと化したセッションバー突撃を敢行する。
いろんな人の演奏を見聴きする。みなさん、演奏が達者である。しかし、「いちリスナーとして、刺さるかどうか」という点においては、決して多くはないという所感が少なからずともないとは言い切れない。
おおこれはいいプレイだ――と思う時は、決まって、演奏者が興奮しているのが共に伝わる。そういったプレイヤーも居た。ピストンさんが仰っていたことと通じるなと思いいつつ、ハートランド・ビールをちびちび呑っていた。3、4回くらい、ステージで演奏もした。
「まあ、楽しいかな」という心情であった。そして、だんだん飽きてきた。理由は、俺の望む「興奮」を感じるシーンがなかなか無かったこともある。
閉店もそろそろという時、最後の俺の演奏のターンで、クリスというギタリストと一緒にセッションする機会が来た。
彼は欧米人であり、先月の入店時に軽く挨拶を交わした。今日は、彼を見つけて「ヘロー。ミスター・クリス!」と笑顔でストロークを交えた。要は、ちょっと仲良しになりかけているフェーズ。
彼は今日、エフェクターを数種組んだ機材を持ち込んでいた。気合い十分である。クリスに機材の詳細を聞くと、なかなかの逸品揃い。「これは、コンプレッサーだよお!!」などと、笑顔で説明してくれる彼の口調からは確かな「興奮」が伝わってきた。
「ああ、彼と一緒に演奏したいな」と思っていた矢先に機会に恵まれた。ステージで、俺はK氏にお借りした素敵なストラトキャスターを構え、フロントのクリスに「よろしくね!」と拳を交わし、興奮を伝えた。彼は「オケー!!」と、興奮で返してくれた。
俺はガチで楽しくなり、彼の指定する楽曲をファンキーに演奏した。興奮して演奏した。クリスもまた興奮して演奏しているのが、少なくとも俺には完全に伝わってきた。
おお、これぞバンド感。グルーヴじゃないかと、俺はさらに興奮し、皆と一緒に演奏した。興奮が音になっている、リズムになっている、これだこれだと、俺はギャラを頂いてライブしている時くらいの勢いでギターソロを弾いた。楽しくて仕方がない。クリスもまた、同様の温度感と思えた。
聴いている方はどうなのか。興奮していたらやはり、聴きたくなるのか、伝わるのかと、そう思い、終演後に、客席で聴いていたK氏に聞いたところ「とてもよかった」とのことである。
なにが言いたいのかというと、「興奮」というピストンさんの表現をお借りしたが、要は、当人が楽しんでいないことには伝わるものも伝わらないぞと、そのようなことに対して感銘を受けつつも、その解釈をもとに改めて体現もしたという話である。
楽しんでいるかどうか、勝負しているかどうか、挑んでいるか、攻めているか。いろんな言い方があるかもしれないが、起点のボルテージは大事だなと、ふとしたきっかけで再認識した1日。まずは手前が楽しめと。されど、それは伝わるし、万物の幸福にも繋がるのではないかという壮大な着地点すら見えたようなフィーリング。
そのようなこともあり、K氏と、クリスと、バーのみなさんと、楽しく過ごせた良日。
シンプルに、まずは手前が興奮できればいいのかなと、それはそうだろうが、それってけっこう簡単じゃないぞと、そこに辿り着くには様々な努力が必要なのが前提であろうと、秀島さんが咄嗟に「それは真理を――」と返したのも頷けるなと深く納得した。
さすが、“名コンビ”と言われたお二方のトーク。おかげさまで自身も場面でたいへん興奮できた。けっこう体調がよろしくなかった日であったが、あの一瞬の興奮をもってして全回復。J-WAVEがあると思われる東京都は港区六本木方面に向かって敬礼。
_06/22
半休の日だが、賜ったライター案件の原稿を書く。数時間かけ、スムーズに提出まで進み、よしよしと一休みする。
楽器練習などをした後に、さて制作をしようかと思うったが、2日ほど廊下に放置してある巨大なダンボールをなんとかせねばと、中身の折りたたみチャリを組み立てるべく決起。
これが意外に手こずったが無事完成。何年振りかにチャリにまたがり、近辺をサイクリングする。なかなか気持ち良いなと、いい買い物をしたものだとまあまあほっこりする。
しかし、玄関に折りたたんで置くわけだが、案外スペースをとるなと、どうにかならんかとも思うが、駐輪場代が浮くわけだから良しと手打ち。半分は働き、半分はぷかぷかと過ごしていた文字通りの半休日。
_06/23
チャリを稼働させて依頼元へ行く。さほど遠くはなくとも徒歩とこんなに違うのかと、ささいながらも機動力があることの快適さを実感。
今日は新規依頼の予約も入り、なかなかいい感じに新業務が展開しているのかもしれんと気を良くする。
しかし暑くて辛抱たまらんとエアコンも稼働させる。いきなり梅雨が明けたかの如く天候。高気圧のせいか体調も心なしかフッと上がる。
夏日らしくタンクトップで仕事をしたいところだが、それは顧客離れを引き起こしそうなので当然棄却。白シャツを腕まくりしてせっせと励む通常運転の1日。
_06/24
偏西風起因の夏空か、昨晩酒をやや控えめにしたのか、いずれが理由かわからないが体調がとても良い。どれくらいかというと、張り切ってエアコン掃除に着手するほどである。
フィルターを洗い、筐体内部の手の届く部分もせっせと磨く。そして、さあ更に涼しげだぜと稼働させるも、風向きがいっさい変わらない。こともあろうか前面のハネみたいな部分がビタ止まりしている。
こいつはやらかしたと、ネットで検索しながら自力で治そうと原因を調べたところ、ハネの根元の物理的破損と判明した。
これは業者に頼んだらまたお高いだろうもと愕然とする。シンプルに金を払いたくない想いが汗と共にブワと吹き出してくる。
ということでとりあえず、100円ショップで接着剤を購入し、ダメ元で工作レベルの修理を施した。すると、ハネはめきめきと稼働し出して元の鞘。修理代が100円で済み、数万円は得したような気分であった。
この時期、エアコンの清掃をすることは多かろうと思う。しかし、良かれと思ってハネの部分をキュッキュと強めに拭くと、わりと簡単に根元が壊れて風向きが変わらなくなる不備が起きがちという豆知識を残しておこうと思う。そして、ハネ部のみの破損の場合は自力で直せる場合もあると。
本気で暑くなってきたタイミングでのエアコン故障時の絶望感たるやけっこうなものであった。とはいえ100円で直って「ほらね!」とかいう歓喜が仕事場にこだまする、もしかしたら梅雨明けの頃合いの1日。
_06/25
営業を終えて帰宅し、衣類を替えるほどの暑さ。梅雨は明けたのだろうか。個人的に用意していた「梅雨の雨ソング特集」の配信はどうしてくれようと、雨の日にやりたいと思っていたのだがなと、バキバキに仕上がった晴天を見上げながら考える。
元気になったエアコンを稼働させて宅で作業をしつつ、なんかのついでに、ちょっと昔のツイートなどを見返してみた。すると、5、6年くらい前の投稿で、公園でホラ貝をブォォと吹いている写真付きのツイートがあった。
ああ、こういった所作を公開していたら「こいつアホかもしれん」とも捉えられても仕方がないかもしれんと懸念するも、あれは音楽的探究心所以のムーブであったと補足をしたいところ。
確か当時、公園でホラ貝を吹いているとっつぁんをつかまえて「すごいですね! すごいですね!」などと絡んだ際、「吹きます?」と笑顔で立派な貝を手渡されたのである。という背景もテキストで記すべきだったなと省みる。まだだろうか。ツイートの編集機能。
そして、せっかくだからマイ・ホラ貝でも持っておこうかとネットで価格を調べる。すると、US製のストラトキャスターが買えるほど高価な物と知り驚愕。
あなどるなかれ。ホラ貝。あの時たくさん吹いておいて良かった。すかした屁のようなサウンドしか俺には鳴らせなかったが。購入して練習したい気概はあるものの、貝に20万円前後はさすがに。
_06/26
新業務の依頼が2件きたので各顧客の元にすっ飛んでいく。いい感じに売り上げを得る。ああ、これくらい以上のペースが毎営業日続けば――と、俺は前向きな展望を見据え、チャリを漕ぎながらカラッカラの夏空を見上げる。
仲間にけっこうよく言われる。「新しい事業のほう、どうよ?」と。そこで「ええ。軌道に乗ってきましたわ」と、年内に胸を張って言える段階までいけば上々である。
そうなることが前提で進めているのでやはりコツコツ頑張るのが王道かなと、制作もせっせとやる。着手中の曲は全体図はできたがベースラインが恐ろしく難しいやつでないと整わない。もう「これは欧米人でないと弾けないやつかな」と声が漏れるほどのクラスである。
しかし、手前の音楽力を高めるためにも、生演奏でちゃんと録音したいと、ブラックミュージック的にハネた16ビートをプレジション・ベースでせっせと弾く。
問答無用で梅雨明けという雰囲気の昨今、今日あたりはラジオからその旨が報じられた。スッキリしていいじゃないかと思う。しかし、あれだけ鬱陶しさすら感じていた濡れた気候があっという間に終わってしまうと、ある種の寂しさも感じる。
四季において、蒸すだの暑いだの寒いだの鬱になるだのと、色とりどりの不平を年中漏らす手前はなんと身勝手なのだとふと思う。
だから、四季おりおりの良点に目を向けることにした。暑すぎる季節は、キンキンに冷やしまくった発泡酒が沁みる。この点に尽きる。ほかにもっとあるだろうとも思うが。
ビールと発泡酒と第三のビールの味わいの違いについて、以前通っていた雀荘で仲良くなった同年齢のタトゥーバキバキでやたらイケメンの彼はこう断じていた。
「そんなの、キンキンに冷やしちまえば全然わからねえよ。ねえ平吉さん?」と。名セリフである。
彼とのバチバチの闘牌でも懐かしみながら、ほどほど酒呑んで寝よう。キンキンに冷やしてわからなくしつつ。
_06/27
このままマスクを着用して歩き続けていては死ぬのでは、というほどの容赦なき暑気。いつもの倍は消耗したわと、冷やし蕎麦をバルルと流し込み帰宅。デスクワークをしつつ依頼を待つ。
今日は来ねえかという気配を察知し、どうも前倒しで夏バテ気味かなと判断しつつソファで仮眠をとる。やはり眠りは麻薬。まあまあ回復する。
もう今月も末かと思い立ち、生配信を行なう。観てくださる方々がいて本当にほっこりとしつつ、確かな幸福感を賜る。
少しでも、はははっというひと時でいてくださったら何よりだなと、そうだとありがたいなと、まあまあキンキンのハイネケン・ビールを流し込む。至上の味わい。
そのように、急な気候変動に伴う疲労などもあったが、最終的にはおかげさまで多幸感溢れる良日。
なんだかんだで、誰かと触れ合っている時間こそが、人間にとって最も幸福をもたらすのであると再認識。
最近意図的に酒を減らしていたからもうちょい呑んでから寝よう。あまり感心はできない、いってこいのプラマイゼロ。ほどほどにしよう。
_06/28
今日はお休みということでゆっくり過ごそうと、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの新譜『UNLIMITED LOVE』を初めて聴く。
Spotifyだが、アルバム1枚じっくり通してスピーカーで拝聴したところ、「俺の一番好きな感じのレッチリだ」という所感だった。
今作のメンバーは、アンソニー・キーディス、フリー、チャド・スミス、そしてジョン・フルシアンテというゴールデン・メンツ。
さらに、プロデューサーは、『Blood Sugar Sex Magik』『Californication』『By The Way』『Stadium Arcadium』などの名盤を手がけたリック・ルービン氏。
サウンド感も、“ロックサウンドのお手本”と言っても過言ではなかろうクールさ。久しぶりに、「ハイハットの音、気持ちいいな」と声が出た。生々しいロックサウンドに浸れた。
レッチリの楽曲は、楽器のプレイ感が半端ではないのでずっと聴いていられる。アンソニーさんやフリーさんは60歳くらいなのにこのパワフルさは何だと、ジョンフルさんのこのストラトキャスターギターのサウンドおよびプレイの仕上がりっぷりは何だと、もう頭の中はレッチリで満たされた。
チャド・スミスさんのドラムは相変わらずグルーヴが最高だなと、その一言で終わらせたいところであるが、少々、マニアックなヘキが湧いてきた。
「チャドさんは、レコーディングにおいて、クリックを使用しているのだろうか?」という点である。
ネットで調べた結果、そのあたりの情報を見つけることができなかった。以前記した、ミスチルの楽曲「抱きしめたい」のチューニングがほんのちょっと高いということに気がついた時と似ている。
そういったわけで、レッチリの既存曲で検証をはかることにした。とりあえず「Can’t Stop」あたりの有名曲は、クリックを使用してレコーディングされていたかどうかを調べた。
「Can’t Stop」のBPM(リズムの値)は、「一定だよ」と言われれば「そうなのですね」と思えるし、「実はけっこう揺らがせているんだよ」と教えてくれれば「なるほど」と納得できる。これは本人に聞くほか、事実としてはわからない気がしてきた。
以前、グルーヴがとても気持ち良い作品をリリースされたとあるミュージシャンに、直接聞いたことがあった。
「――本作を拝聴したら、グルーヴがたまらないのです。(意図的にグルーヴを出す目的で)レコーディング時に、あえてクリックは使用されていなかったりするのでしょうか?」と。答えは、「うん。使わずにやったのもあるんだよ」とのことだった。
ということで、チャド・スミスさんにも直に聞きたいところだがそれはなかなか。だから俺はDAWを開いて「Can’t Stop」の音源ファイルを貼り付け、詳細はマニアックすぎるから手法は全て割愛するが、本格的に検証した。
結果、「Can’t Stop」は「BPM:92」等、楽曲単位でリズムを数値化できるものではなかった。
イントロはちょっと遅めに入り、ギターだけになったところでほんの少しまた遅くなり、歌が入ってやや走り、フリーのベースが入ってさらに、微妙に速くなり、サビの部分で「BPM:92」あたりに到達する。そして、また若干遅くなり、次のサビでまた勢いを増し、その後のCメロ的な部分でわりと遅めのテンポに変化し、ギターソロからまた徐々に速くなりだす。
この一連の流れのグルーヴは、クリックを聴きながら録音していたらまず、不可能ではないかと思われる。
よって、こと「Can’t Stop」に関しては、クリックは使用しないでレコーディングされたのではないかと、個人的には結論づけたいところではあるが、そこはメンバーとプロデューサーのみ断言できる領域。
あくまで、俺調べだと「レッチリの『Can’t Stop』は、あえてテンポがどれくらいかというと、『BPM:89〜92』の間でグルーヴしている」という結果が出た。この作業に2時間はかかった。ヒマだったわけではない。音楽的探究心所以である。
そうなってくると、レッチリの曲は、他の作品もそういったスタイルなのかなと仮定できる。俺の感覚が正解だとすると、生身の人間のグルーヴが如実に出ているからこその、あのレッチリの曲のリズム面の気持ち良さがあるのではないかと腑に落ちる。
そんな視点でも再度、レッチリの新譜を聴いたら更に楽しめるなとレッチリ愛はさらにブーストされた。
ロックの、音楽の、バンドの、ミュージシャンの、人間が放つプレイの奥深さを、現代において改めて考えさせてくれたことに対し、嬉しみが増した炎天下の休日。
_06/29
楽器のメンテをする。今月は湿気のせいで5、6回はギターの弦を張り替えた気がする。弦代もバカにならんなと、音楽制作の収益をもっと上げようと、今日は主に制作をして暮らす。
グルーヴを、もっとグルーヴをと、俺は欧米人のマッチョなタフガイだと、南米の血を掻き立てよと、そう言い聞かせながら難しいベースラインを弾きおおす。ようやくイメージ通りの録音ができる。座りっぱでケツが悲鳴を上げる。
気がつけば6月も最終日。雨は枯れたかのように早々の梅雨明け。俺にとって42回目の夏が来る。たまには海あたりに行って素潜りをし、サザエなどをゴロゴロとつかまえてはその場で焼いて食いたいという野性味溢れる欲がある。
しかし、水泳の際、耳に水が入り込むあの感じが極めて苦手なので躊躇する。サザエだったら近所の磯丸水産あたりで手打ちにしておこうかという代替案が出る。
来月末あたり、たまにはハッピーアワーでメガジョッキあたりを呑み散らかし、背徳感を味わう遊びに耽ろうと思う。野性の呑んだくれ。
_06/30