ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。取材療法。6月。
遅れてやってくる歓喜もある。経緯は14年ほど過去にまで遡る。俺は当時、いつものラジオ局から流れるあらゆる音楽を聴いては、「なんで! 俺の曲は流れないんだ。くは!」と、本気で憤慨していた。
30歳の頃は、応募型楽曲採用システム、いわゆるコンペに、たくさん自作の曲を連打してはことごとく玉砕し、一度も受理されずに、覇気ごと腐り果てて諦めた。
それはラジオから流れるはずもない。その頃の「腐っちゃダメだよ。ケンちゃん」という、現在進行形で活躍する友達のミュージシャンの言葉は今も忘れない。
そこから数年、楽曲を素材としてフリーで――完全に自由使用可能というわけではなく、利用規約があるが――配布して収益化させて頂けるプラットフォームとご縁を頂いた。
そこから約10年間、100曲以上作ってはそこに委託し、様々なユーザーにご使用頂けていることが確認できている現状。特に、コロナ禍の3年間は執拗なまでに質にこだわってたくさん作った。
数年前から、YouTubeなどから以外でも、街角などでも自分の楽曲が流れていることを受け、いちいち喜んでいた。
特に、自身、ヘビーリスナーであるラジオ局のJ-WAVEがBGMとしてご使用頂いていること、すなわち“ラジオから俺の曲が流れた”と認識した時は本当に嬉しかった。今日の昼も、確かに2曲、いまYouTubeで「おしゃれソングシリーズ」にカテゴライズした曲たちが、J-WAVEの美しい声のパーソナリティーのトークバックで流れていた。
その時々で思った。ある種、夢が叶ったのだなと。長かったなと。加えて、なんなら――地上波だったらもっと収益あってもいいのにな〜という具体的な欲求もはみ出た。
詳細は複雑なので省略するが、委託先のプラットフォームが、作曲者に対して新たな源泉が生じる仕組みをありがたくも生み出してくださった。
その初めての分配額を今日確認した。それは思っていたよりも多く、思わず俺は仕事部屋で両腕を天に上げては「つっ!」と、右肩を庇った。
楽曲を色んな方面でご使用して頂き、さらに「なんなら――」という点も具現化した、いや、プラットフォームがそういうシステムにしてくださったのである。吉報である。全方面に多大なる感謝を広げる。
とはいえ、その数字が今後どのように変化するのかは把握できない。そして、いつ、規約等に変化が生じるかもわからない。慎重にと、流動性に対しての冷静なスタンスを保つことを心がける。
音楽におけるマネタイズは難しい。コンペでボコボコにされていた時は、特にそう思っていた。今は無いが、六本木交差点の喫煙所で煙草の煙を斜め上の空に吹き出して黄昏れていた頃が懐かしい。
しかし、しぶとくしつこくやり続けた結果、徐々に結果が出てきた。そして、遅れてやってきてくれた歓喜を今日、確かに享受した。
そういったわけで制作に対するモチベーションはさらに高まる。
「四十肩で弾いてるな〜」というギタートラックを裸で聴いて吟味する。まあ、ダメではないから、これはこれでそういう記録として残そうかと、その四十肩グルーヴのギターに合わせてドラムの拍を微調整する。すると、なんかこれはこれで謎の訴求感があるなと善処した。
14年越しの執念とも言える何らかが数値としても認知できた今日あたり、引き続き張り切っていこうと思えた。
手前の楽曲をセレクトしてくださるユーザー各位と、強固に管理してくださるプラットフォーム様に多大なる感謝の意を寄せる。
_06/01
最近のよくある時間軸でフル稼働し、各タスクをやる。くたびれる。ソファに転がるとなんか天に吸い込まれるようなスピリチュラルっぽい何らかをおぼえて「いかん!」となるが、そのままちょっと寝る。
そういえば、ここのところ鍵盤を弾いていないなと思い練習する。あれ? と最初感じたが、弾いているうちに感覚が戻ってきて安堵。純喫茶『アルマンド』で、行くたびに毎回のように演奏を要求された「イマジン」がスムーズに普通に弾けなかったが、数10分で「ああ、こうだった」となる。
やはり人前で演奏したことのある曲は身にしみているのだなと改めて思う。そして楽器練習においてブランクを空けることは避けたほうがいいなとも。
1年半くらい前の、ウェイター、カウンター、コンサルタント兼、言えばピアノを弾く店員だった頃を遥か昔のように回顧しつつも、つい昨日の日常だったとも思える。
すごく、良い体験だった。その頃、店内で常に着用していた黒色のギャルソンが、いまだに捨てられない。
_06/02
昨日と同様に、仕事の合間にソファに転がると何らかに吸い込まれそうになる。
これは、睡眠に関連するメラトニンとかいうホルモンがとうとういかれてしまったと危惧するが、小一時間すると疲労回復。再度タスクに向かう。
こなして「トリス・ハイボール」をクパァと空け、生成AIツールをいじったりしてコンテンツ制作したりする。日常。楽しくも淡々と過ぎていく。
_06/03
11時間くらい寝る。すると世界がいつもと違って感じる。そうか、最近ずっと微妙に睡眠が足りていなかったのだなと自覚する。
良好な体調で仕事をする。明らかに俺が人力でやるよりも、AIを使用したほうが効率的つつ質も上がる工程で、ChatGPT4oを開く。というか開かない。
こういう時は「X」の即時性ある情報で確認だと、当該SNSの検索エンジンに「ChatGPT」と入力して最新の世間の反応をたぐる。
すると、どうやら不具合だかサーバーが落ちたか、そういった投稿をいくつか確認できた。それは仕方ない、ChatGPT大人気だもんなと、しばらく待つ。再度開くと使用可能になっている。
こういう時はどういう反応をよこすかなと思い、「さっき使えなかったですけど、何かありましたか? 大丈夫ですか?」とプロンプトを投じる。
すると、「何も問題ありません」的な返事をしれっと吐き出した。とうとうAIは、すっとぼけることを学んだのである。
「サーバーが落ちたとか不具合、エラーなどですか?」と、具体的に問い詰めた。しかし「いえ、大丈夫です」と、嘘を貫き通くような返事をした。
おのれこの野郎、人間のそういうところは学習しなくていいと思いつつも、その後はちゃんと使えたから不問とする。というか今また開いてみたらまた使えなくなっているので不具合が起きたことは明白な事実である。
まあいいやと思い、ひとつ原稿を提出して楽曲制作をする。ベースの弦を張り替え、演奏して録音する。座ってベースを弾くと右肩が実につらい。
とはいえ、これはこれで今しか出せない、えもいえぬグルーヴが生まれたので採用とした。その時々の演奏記録。まさにレコーディング。よく言うとそうなる。
なんやかんやと日が重なり、いろいろと更新、記録していく。生き延びつつ、ひとつひとつ重ねることが大事だなと、姿勢を伸ばしてこの世の万象に意識を向ける。
_06/04
一通り仕事をしていたら腹のあたりが痛くなってくる。なんかヤバいやつだったらいやだなあと、今日の分と定めたタスクの後半、耐えつつこなして横になる。
ビオフェルミンを飲んで少し休むという至極一般的な処置をとる。ラジオから流れてくるドラムンベースが気持ちよく耳に響く。
小一時間もするとなんか良くなってくる。昨日、今日食べた、何らかのタンパク質あたりが当たったのかもしれないが、とりあえず痛みはすっかりおさまり、中腹部から下の方にゴウゴウと、静かに副交感神経が頑張っているフィーリングを確かに感じる。「これは普通の腹痛だった」と、安心する。
よって、制作をする時間は休息に充てたが、これが正解だと断ずる。やり続けられないと元も子もないと。
浴室に湯を沸かす。少しずつ可動域も広がってきた四十肩に、じわじわとケアを施すことを意識する。最近はシステマ(軍事武術)的呼吸法を取り入れたストレッチなども行なっている。身体の余分な緊張をほぐす。これがすごくいい。
各タスクに加え、制作や創作は長続きさせたい。やり続けたい。そのためには、非生産的な無理は禁物。それってすごく大事なことだなときちんと解す。華奢だが、わりと丈夫な身体をくれた両親とご先祖様に感謝する。
_06/05
人の心の状態などは、見えないものである。
しかし時に、ふとした行動や言葉から、その瞬間、過去、未来をも、全く別の情景として浮かぶこともある。
電車の中というのは、いつも通りの、その時代の、社会風景の現れとも思える。現代だと、8割以上くらいの人たちはスマートフォンを眺めている。俺は、それを見ては、「みなさんとても忙しそうだな」という風に思っていた。
それについての良し悪しなどの特筆した感想はそんなにない。「そうやって過ごす人が多いんだな」くらいである。ただ、俺自身は、明らかに意図があるという場合を除き、電車内では極力スマートフォンを見ない。
その深層心理には、どこか、大多数とは別の行動をとることで、他人とは一味違う何者かでいたいという、自分を特別視したいという変な欲求があることを認めている。
だからというわけではないが、電車内では基本的に本を読んでいる。今日もそうしていた。
埼京線下り列車、赤羽駅行きの車両に乗る寸前、前に居た男性が杖をつき、ヘルプマークをつけていることを目視した。
乗車すると、混雑具合は70%ほど。俺は、彼の後ろにつき、優先席のあたりで立っていた。席は全て埋まっている。
座っている人は彼を見てどういった反応をするのかなと思った瞬間、50代くらいの男性がすぐに「座りますか?」と、彼に着席を促した。
彼は、口頭で礼を述べ、席を譲ったその男性は俺の右側に立った。
一般企業の役職についたビジネスマンといった雰囲気のその男性は、「至極当たり前の行動をとっただけだ」といった横顔でスマートフォンを眺めていた。
俺は思わず、「あなたはいま、この車両の中で一番格好いいよ…」と、彼に念を送った。彼がそれを受理したかは知らないが、忙しそうにスマートフォンを操作していた。
俺は本を読んでいた。『認知療法』という、その界隈の第一人者であるアーロン・ベックさんが書いた書籍(日本語訳書)である。
今日読んだくだりでは、鬱病で1年寝たきりの患者に認知療法を施し、快方に向かったという事例の部分が印象的だった。
「私は、ベッドから起き上がれません」
「一歩も歩けないんですか?」
「そうです。無理です」
「この病室のあのドアまで、2、3歩でも無理ですか?」
「絶対に無理です。途中で倒れます」
「では、私があなたが倒れそうになったら手を貸します。それでも無理ですか?」
「……わかりません」
結果、手を借りずとも、その言葉で患者は歩くことを試し、その後は少しずつハードルを上げつつ、ついには表に出るほど回復したとのことである。
患者の「無理」という認知に対して、「条件(手を貸したらいけるんじゃね?)」を足して、「自発的行動」に繋げ、「成果」が出たという一例であろう。
ある種の説得、論破にも似た、そういうやりとりとも思えたが、現に実例があるという。相手の“認知の偏り”の修正に「自発的という前提での手助け誘発するべく、言葉で施した」とも言えようか。
へへえ、そういうのあるんだなと、色んなことに置き換えて考えていたその瞬間、本の裏表紙と最終ページの間に挟んでいた栞が足元に落ちてしまった。
秒で、「あ。拾う――その姿勢、いま右肩が痛いからしんどいんだよな」という思考が湧いた。
それと同タイムで、俺の真正面に座っていた男性は、俺が右手を動かす前に素早く拾ってくれて、渡してくれた。「ありがとうございます」と、口頭で感謝を伝えた。さも当然といった表情で、彼も、拾う前と同じくスマートフォンを操作しだした。
俺は、自分自身の認知が偏っていたことに気が付いた。
現代人は電車内でスマートフォンをいじっては心をどこかに持って行かれていると、どこかで思っていたが、みなさんはちゃんと他者を見ている。しかるべき行為で支えてくれる。なんと心が清らかになる車両内での数分間だったのだろうかと思い、下車した。
仮説が2つある。1つは、以上のような綺麗事ばかりではないということである。ただの、たまたま。誰も杖をついた男性に席を譲らなかったのかもしれない。俺の栞を拾ってはくれず、右肩をかばいながら「あああ…!」と悶絶しつつ自分で拾ったのかもしれない。
しかし、事実として、電車内の数分で2つの善行を目の当たりにした。
だから2つ目がある。それは、俺自身が認知していないだけで、それが普通。席を譲った好漢を見た俺の正面に座っていた男性も感化され、栞を拾うことを即座に行動に移した。善行が伝播した。もしかしたらそういった側面もあるかもしれない。こっちの説であってほしい。
いずれにせよ、「ありがとうございます」という言葉を引き出した方も、受けた方も、気分が良い。みんな、忙しそうにスマートフォンを眺めているわけではなく、事が生じれば、いつだって互いにとって過ごしやすい世界を保ってくれる。
「みなさんとても忙しそうだな」というのは斜に構えた建前の思考であり、実のところは、「どいつもこいつも電車内ではスマートフォンを見るしか脳がないのかね」と、そういう実に嫌味ったらしいクソみたいな思考が自分にあったことを否定できなくなった。
その考えは生産的ではない。今日をもってして、その思考は捨てることにした。なんかシンプルにみっともないと認知したからである。加えて、「人それぞれでいいじゃないか」という、俺のイデオロギーに反すると。
スマートフォンを見ていても、ちゃんと周りの手助けをしてくれる。逆にすげえなと思った。
人の心の状態などは、見えないものである。しかし時に、その瞬間から過去と未来をも、これまで以上に美しい情景として浮かぶことがあった。
ちょっと手を貸すだけで、世界が広がるというケースもあるという。それに似た何らかを今日、目の前でライブ確認した。
すごく些細なことかもしれないが、色々あって楽しく過ごした今日という1日の中で、電車内のその一連の数分間が際立っていた。それを俺なりにきちんと正しく――“正しい”の定義はおいておいて――認知した。
それでも、今後も手前は電車内では極限までスマートフォンは見ないことを続ける。美しい瞬間を見逃したくないからという感情が追加された。
じゃあ車両内で本も読むなよという話にもなるが、そのへんの矛盾点も含め、“認知”が如何に個人や他者にあらゆる要素を及ぼすかと気づかされた、ほんの数分間の日常のハッとした一コマ。
_06/06
納期、大丈夫かな〜というくらい案件が手元にあるほうが健全でいられる。とはいえくたびれてきたらちゃんと休息をとる。ビリー・アイリッシュさんの最新アルバム 『HIT ME HARD AND SOFT』を聴きながら。
先日、最初に聴いた時「いいなあ」と思い、「また聴こう」と思った。
この微妙な、第一印象で絶賛、大感動、名盤だ〜! と感じるよりも、「なんかいいな――また聴こう」というフィーリングの方が、作品としての濃度が高い傾向があるというのは俺調べ。
それは、一度聴いただけではその全てを咀嚼しきれず、気持ちいい部分やフォーカスをあてる点、解像度の高さ、理解に及ぶまでの深さ、音としての情報取得ではなく音楽的体験、アーティストが制作に及んだ背景、過去の作品からこれからのシーンも含む文脈など、あらゆる面がディープであるという点の表れだろうか。
要は素晴らしい作品と認識して気に入ったということだが、その“深さ”や“何度もリピートする”というそれぞれの点について、別の分野だと具体的な理由が一点挙げらる。
飽きずに何度も読み込める漫画がある。2つだけ例を出すと『ナニワ金融道』と『働かないふたり』という各作品である。
前者は、昭和の時代の金融業界を骨の髄まで描き切った、ちょっとヤクザ・テイストの名作。後者は、「ニート兄妹」とその仲間たちの日常を描いたほっこりコミックで今も連載中。
これらは真逆の性質であり、読者層もおそらく異なると思われるが、俺は両作品とも謎に何度も読み返した。
シンプルに言うと、面白いからである。絵とテキストに味があるからである。“人間”の本質が描かれているからである。
それが共通点でもあるが、もっと細かい部分は「ほぼ、スクリーントーン(色んな柄が印刷された粘着シート)を使っていない」という画法である。
背景やキャラクターの衣服の模様なども細部までアナログに描かれ、そこは注視しているわけではないが、「そこは同一で切り貼りしてもいいのに」という部分まで人間の手で表現されている。
そのポイントが、主役級であるストーリーやキャラクター性やセリフを、しっかりと温かく支えているように感じているのからかもしれない。
音楽で言ったら、たとえば4小節くらい演奏してそれをコピペ(DAWでの制作においてはあまりそう表現しないが)して1セクションとして成り立たせる。それで十分な場合もある。
ドラムの音なども、同じ打ち込みの音を構築して、リアルに近いドラムサウンドにする。それでもぜんぜんカッコよく作ることはできる。サンプリングという手法(音を標本化し、任意に組み合わせる)もある。
しかし、頭から最後まで一発で弾き切ったギタートラックや生演奏のビートなどには、血の通ったサウンドとして出力されるえも言えぬ味がある。ちょっとミスってても一発演奏の重厚な説得力がそれを凌駕する場合もある。
そういうのって、もしかしたら漫画の「ほぼ全部手描き」にも置き換えられるのかなと、そんな風に思った。
ビリー・アイリッシュさんの最新アルバム 『HIT ME HARD AND SOFT』がそうであるかといったら、同様とは思わないが、ちょっと近い部分も要素としてあるのかもしれない。
同じ音のサンプルを繰り返していると聴き取れるところもあれば、そうでない部分もある。さらに、「どうやってんの?」という未来的なアプローチもあれば、9曲目の「アナログシンセサイザーかな!」と、恍惚とさせるサウンドもある。これまで聴いたことのない、美しくも可憐な歌声の表現がある。
人間らしさの表現を、現代の最新のサウンドおよび制作手法で、あらゆる可能性の先まで生じる舵をとるようにアルバムにしたためたのかなと、なんとなくそう思っている。
そんな心境で、アルバムから「過去も未来をも」というような感覚を得た。それがいま、新曲として世界中で響いていると思われる。アーティストの作品というのはそういうものなのかなと手前なりに感じた。
「また聴こう」と、今日も思った。俺も、誰かが何度も感じてくれるようなやつ、そういうのをいっぱい作れたらいいな、などと思いながら。
_06/07
今日もビリー・アイリッシュさんの新譜を聴く。いやあ、いいなあと、素敵な各サウンドが空気を経由して、身体にも沁みる。低音域がとても上品。
ライター案件がいくつかあり、着々と進める。一般的に、どんな分野の案件においても「納期」という絶対的なものがある。
「遅れたら7年殺し――」。そのようなイメージをケツの背部やや下、斜め45度の角度に配置し、高品質を保ちつつ、締め切りの遵守につとめる。
楽曲制作の時間がとれなかったのが歯がゆいが、それは、意欲がきちんとばっちり常にあるポジティブな心境であると善処する。ここ最近の通常運転の、健やかなる一日。
_06/08
今日はSPALの興行で日中みなさんと過ごす。ほっこりと。デスクワークではないので四十肩にもやさしい。
宅に帰り、手元の案件を進める。2時間以内くらいだと、肩のインナー・マッスルへの負担はたいしたことない。
とはいえ、座ってギターを弾くのが困難な状態が続くのはつらいなと、ちょと立ってギターの練習をする。やや右肩を庇っている自覚が確かにあるが、まあ、普通に演奏できる。
ミッシェルガン・エレファントのデビュー曲を流しながら、一緒に6分強の尺を引き続けられるくらいだから大丈夫だなと安心する。あの高速カッティングは、右肩の症状がない時でもなかなか難しいが。
ギター演奏自体が肩のストレッチおよび運動ともなるので、回復およびパワーアップを兼ねて、無理のない範囲でのこまめな練習を心がける。
やはり、いつも当たり前のように動いてくれる身体機能や脳機能など、ひいてはいつも会える人たちなど、当然であるということに対して、常に感謝の気持ちを持つことが重要であると改めて思う。
_06/09
日中において、キツい時間だな〜と感ずるシーンは誰しにもあるかもしれない。俺にとっては今日、19時台がそれに該当した。
しかしどうだろう。人間にとって適切なドラッグを用いると、全ては歪曲(distortion)される。つまり、飲酒である。2杯も飲めばホッピーでハッピー。事実として、呑んだのは現時点でビール4杯にハイボール2杯。はい。この時点で寝ろ。
そういった正論がありつつも、7杯目の「トリス・ハイボール(500ml)」を流し込み悦に浸る極めて怠惰なひとときであるリアルタイム。
しかし俺はそれを受容する。なぜならば、最近は、仕事に励みまくりつつ、それくらいいいじゃあないかあ〜。なんなら10杯呑め。ほれ! という、いなたいフェーズに至るからである。
手元がおぼつかない。だがそれもいいというか受け入れる。だらしない手前を。
そうもしなければやっていけない。あと3つ、ハイボールが宅の冷蔵庫で待っている。それをどうするかは自分次第。
他者にとってどうでもいい日。当人にとって幸福な日。どう捉えるか。その判別をサイケデリックに歪曲させるアルコール。愛す。いや、直ちに寝よ。
どちらが正解かなどと考えるのはおこがましい。
「あんた。今日はやめときな」
「知らんぞ、知らんぞ……8杯目――」
「ああ! 誰か!」
そのような“誰か”はいない。だが、それでいい。一方でそれを打ち消すように、いてほしいという愛への訴求。
結論。酒で、本質をないがしろにしている手前に対する疑問をどうしようか。とりあえず今日は呑み切って寝るけども。ふと、誰かを愛したい。
_06/10
いけるところまで眠り、体やや重で起床。近隣をフラフラと歩く。「富士そば」の券売機がテクノな感じになって素でびっくりする。
電球や刺身(カツオ・ブロック。半額)を買ったりして帰る。韓流ラーメンを野菜で煮込んで発汗しまくりながら食う。仕事は2時間弱ほどにする。そういう日も必要である。
なんやかんやと、全体的な意味で動くことがとても多かった昨今、ほぼ休日と呼べる暮らしをきちんと挟むことが重要。
そうじゃないと、今の右肩のように、蓄積した疲労が症状として現れては抗議をしてくる。その前に休めることを意識する。セルフケアの大切さ、歳を重ねるほど骨身に染みてくる。
_06/11
案件をたくさん頂けるのは心の底からありがたい。とはいえシンプルにこれはオーバーワークというやつではという思いも感じつつ、こまめに休む。これ大事。
一通り今日のぶんをこなし、真空管アンプに電流を流し込む。立ってギターを弾く際の右肩の可動域。そいつをこれ以上狭めるのは本当に怖いまであるので、これまたこまめに、練習する。
あまり時間がとれなかったが、レディオヘッドの「Paranoid Android」と、カーディガンズの「Carnival」を続けてフル尺で普通に弾けたから、まあ大丈夫かと胸をなでおろす。
「10分でも、15分でもいいから、とにかく毎日ギターを弾きなさい」
という、昔教わったギターの先生の言葉を思い出す。ストラトがよく似合う、鈴木宏幸先生はお元気でいらっしゃるだろうか。
「平吉くんは、弾いている時の顔がいいよね。ちゃ〜んと感情をこめている!」と、プレイではない面を褒めてくれたことは今でもよく覚えている。むしろ技術面より俺が大事にしていることをきちんと評価してくれたのが凄く嬉しかった。それは今でも自分の軸として、矜持として、非常に大切にしている。
ギターを弾くこと自体は、ストレッチや血行促進の役割も担う。練習兼、四十肩のケア&リハビリ。自分にとって、ちょっとでも毎日やることが重要。
歳。時に残酷とも受け取れるが、人生の節々の通過といった意味で、ネガティブに捉えることは面白くない。無理ない範囲で一生懸命、引き続き頑張ろうと、明日になったらその日が来たことにまず感謝をしよう。
_06/12
どんとこい。オーバーワーク。謎に四十肩が急によくなった。痛みがほぼない。肩の可動域が狭まっているくらいである。
よっしゃと思い、業務に励む。明日、半日弱くらいかかると捉えていた工程も今日、一気に前倒しでこなす。いまも元気で、なんならこれから90分のライブ1本、余裕で出来るくらいである。
まてよ、これは躁状態なのでは? と、冷静に手前を俯瞰する。そうでもない気がすると断じる。
いやあよかったと胸を撫で下ろす。とても気分が良い。心配や肉体的痛みがないだけで、こんなにも精神状態が異なるのかと、それはそうであろうと人間の恒常性のありがたみを噛みしめる。
とはいえ翌日、「昨日の好調はなんだったんですか。冷やかしでしたか」と声が漏れるほどのツラで右肩を庇うビジョンも否めない。
ここは落ち着いてじっくり一本。人生という楽しいマラソンを慎重に楽しもうと思う。いま、俺はどのへんを走っているのであろうか。
_06/13
「回復期」に入ったであろう四十肩のフェーズを実感しつつ 、いける、よかった、またちゃんと座ってギターが弾ける日は近いと、パァァと安堵する。
さらに前のめりに行こうと各タスクを進める。ちゃんと近所のパトロールも欠かさない。今日も赤羽界隈は平和であった。
帰ってお値引き弁当を食べる。玉ねぎスープを作って添えるという生活の一手間。これだけでだいぶ気持ちが豊かになる。
肩のリハビリバランスの関係もあり、今日はギターではなく鍵盤を練習する。この間ほどの違和感はない。いやあよかったとミスチルとか弾いて腕を保つことに努める。いまは、上達よりも回復優先所以。
梅雨のイントロがクソ長く感じるが、それも一興。顕著な日照りと紫陽花のコントラストがたまらない、6月の通常運転の1日。
_06/14
しっかり仕事をしてさらにして、ヘロヘロのペロペロになってソファで横になる。岡田斗司夫さんYouTubeチャンネルを流しながら。
もうなんなら俺のYouTubeアカウントでログインすると、「おすすめ動画」には岡田斗司夫さんしか出てこねえんじゃないかというほど岡田斗司夫さんだらけである。フィルターバブル(情報選択の偏りがもたらす価値観の孤立的なやつ)の最たるやつがこれかとふと思う。
まあそれはそれでいいかなと。一方で、志村けんさんのコントを観て懐かしんだり、ビリー・アイリッシュさんを聴いたり、哲学者・プラトンさんのえらい小難しい書籍を読んだり、AIと認知症治療――正確には早期発見だろうか――との最先端技術関連記事の閲覧など、能動的な情報収集選択もしているから、いってこいかなと。
いろんな分野に目を向けると、それまであった自分の記憶や知識などに毛が生えるような感覚がある。なんなら、それらがシュッと結びつき、あらゆる点が強固になって繋がる場合もある。時には個別的な点が否定されることもある。
だから、何かを基軸としているかどうかは大事だなと思う。例えば俺だったら音楽だったり、お気に入りの人物のコンテンツや作品だったりと。それらを幹として、たまに別の木の葉っぱをながめる。
すると、手前の幹からは、何と、こんな葉っぱもあったのか――あ! 芽が出てきた――あれ……? これ要らねえな。捨てよう――という様々なフィーリングが生じる。
何が言いたいのかと言うと、地に足を付けつつ、いろんな景色に目を向けると、どんどん人生が楽しくなるな〜ということであろうか。
よく言うと、芯がありフレキシブル。そんな風に、静かに、時に激しく、ポップにダンスするように生きていきたい。
_06/15
「ハブ酒」のボトルを呑み干した後、中に入ってるハブの死体はどのように処理すれば適切なのか。
などと、わりとどうでもよかろう、いや、ハブにとっては最期の最期でおざなりにされるのはたまらんであろう、かわいい動物に対しての優しさかもしれない想いに情念を寄せる。
前提として本日、決してヒマであったわけではない。終日、働いていた。
ふと、先月あたりに近所で呑んだ「ハブ酒」がおいしくて記憶に留まり、また呑みたいが、前述の理由で処理に困るので購入には至らぬという、意識の閾値でプルプルと震えるアナログなメーターの動きにも似た欲求が思考の輪に巻きつく。
そこで思った。「自主的には買わないが、欲しい。それをもらうとめっぽう嬉しい」。そう、誕生日にもらったら嬉しむやつの定義に近いと。
だから俺は、もしも、「平吉よ。誕生日に何が欲しい?」という僥倖的質問を賜ったとしよう。回答は明白。「ハブ酒」である。
なんだろう、じゃあ明日、やっぱり買いに行くかという案もあるが棄却。絶対に俺は「ハブ酒」を買わない。しかし欲しい。
だから、誰か俺に、「ハブ酒」を買い与えてはくれんかなという謎の希求。
「それ、貴方、性欲が源流ですね」
そのようにフロイトさん(心理学者・精神科医)は言うであろう。
「古い哲学的な考えですなあ。違う。違う。そうじゃない」
「いいえ、あなたの欲求および葛藤の根源は、性欲です」
「うるせえバカ」
「“バカ”とは? 議論しましょう」
「ディベートですか? それは、生産的ではないよね」
「“生産”とは、性欲の根源の最たるものではないでしょうか?」
「フロイトさんよ。きっと合ってるよ。しかし現代ではみんな、俺も、知らぬ間に知ることすら端折られた世間に塗り固められ、“根源”とやらについて考える時間がないのよ」
「“時間”とは?」
「知らねえよ」
「議論しましょう」
「いいから『ハブ酒』をくれ」
「一緒に呑みましょうか。話はそこからです」
「話が圧倒的に話でなくなるけどいいかい? フロイトさん」
「買ってあげますから」
「それこそが、“生産”の源ではないでしょうか? フロイトさん」
「違う。違う。そうじゃない」
つまり、ハブ酒が呑みたいけどいつもの「氷結」で手打ちにしようかと思う深夜。昔の人ってちゃんと根本から考えててリスペクトを禁じ得ないが、そいつらといっしょに「ハブ酒」呑んでバカになって人間の本質を今一度、議論したい。
そこに生産性があるか否かがはどうでもいい。そういう時間も大事かなとふと思う。最近、本をよく読む。
_06/16
システマ式呼吸法で肩をほぐしながら仕事をする。だいたい家でタスクを進める。
ライター案件をやる。楽曲制作をする。友人からも依頼を受けるとは思わなかったコンサルティング案件を伸ばす。動画編集をする。
むし暑いので早めにハイボール缶を開ける。とはいえ深夜寸前。今日も平和に時間が流れていく幸せを実感する。
_06/17
すげえ雨降ってるなと、昨日茹でた緑黄色野菜の残りを温めて食べながら思う。今年は遅いなと思っていたら、いきなりサビから入るように梅雨へ突入かと。
宅で過ごすのがメインだなと、昨日仕上げた原稿をチェックして提出する。動画制作をする。音楽制作をする。
ふと、メールをチェックすると、丁寧なのはすごく伝わってくるが、文体は随分とポップだなという所感の楽曲使用報告があった。使用先のYouTube動画を観てみると、それはどう聞いても小学生が喋っている動画だった。
ああ、この子がちゃんと、お礼やら感想やら、著作権も鑑みた内容でこの報告メールを書いたのかなと思うと、とてもしみじみとした。
YouTubeや配信やプロモーション、創作物、CM、いろんなコンテンツや作品で楽曲を使用して頂き、いろんなユーザーから楽曲使用報告を頂く。
それらの文面から読み取れるのは、若者だったり俺と同じくらいの世代だったり、企業だったりと、様々な方面からであるということ。中でも、明らかに小学生という感じの方は初めてだったので驚きとともにホッコリした。
だから俺は彼に敬意を払い、相手のご使用内容に応じてテンプレート文章に少し内容を調整して返すといういつものスタイルではなく、小学生でも読めて全部理解できるような表現にして返信した。
端的には、下記のニュアンスである。
“こんにちわ。僕はAnonymentという名前で音楽を作っている平吉賢治といいます。曲を使ってくれてありがとうございます! 感想もくれてすごくうれしいです。
YouTubeで使う場合は、曲をダウンロードしたサイトのルールを守って使ってくれれば大丈夫です。いっぱい使ってください!
そして、あなたの動画の下の文章のところに、僕の名前をちゃんと書いてくれてありがとうございます。あなたのYouTube活動を応援しています!
これからも曲を作って発表するから、気に入ったらもっと使ってくださいね。”
というように。いつもなら、めちゃめちゃ固いかしこまったビジネスメール調であるが、それをまんま送るとキッズは「ヒッ……!」となってしまうかもしれないからである。
なにしろ、若者どころか子どもの感性に俺の曲が刺さってくれたのがとても嬉しかった。非常に励みになる。
“いっぱい使ってね!”的な文面で返信したが、実のところ対応するのは保護者の親御さんだったらシンプルに恥ずかしいまである。
しかし、親御さんの援助があったという前提だと、「いい? ちゃんと使わせてくれてありがとうってお礼を伝えるのよ? そして、あなたが感じたことを、作った人にきちんと伝えることも大切なのよ?」という親子のやりとりがあったのかもしれない。
「わかった!」
「じゃあどうしたらいいと思う?」
「お礼をちゃんと書いておくる!」
「そう。ほら、サイトのここに『音源使用報告メールフォーム』というのがあるでしょ? これが、曲を使うことを、曲を作った人に伝えるところなの」
「ぽち。わかんない!」
「こことここに名前と自分のアドレスをこう……この下の大きな枠に、あなたの言葉で、お礼と、何に使うかと、どう思ったかを、自分で書くのがいいんじゃない?」
「わかった!」
というようなくだりを想像した。だとしたら“丁寧なのはすごく伝わってくるが、文体は随分とポップだなという所感”が納得できる文面であった。
そういったわけで、俺なりに真摯に、相手と対等な姿勢で対応したつもりであるということが伝わったら幸いである。しかし最近の子どもすげえな。
_06/18
座ってギターが弾けない。四十肩で関節の可動域が狭まっているからである。しかし、ストラップをつけてのライブ演奏スタイルならいける。違和感はあるが、弾ける。
そういったわけで、「四十肩の今しか出来ない楽曲」という観点を、いささか強引にポジティブに盛り込んだ制作を進める。「肩が治ったらこの楽曲は決して成立しない」という、まこと意味のわからないコンセプト。
ようやくギタートラック5本を全部立って演奏し、録り終える。「肩が痛かったんよ」と、言わなければ誰にもわからないかもしれないが、手前の感覚では確かに、いつもと違うグルーヴが出てる。
出揃った各トラックのバランスを調整し、俯瞰して聴く。するとこう、人の執念のような血の奔流を感じると言ったら大げさかもしれないが、現に、聴いた後に、言葉としてそう漏れた。すなわちOKテイクである。
切なくも荒く、痛々しいがなんか訴求力と執着心がある。そうだ、ロックってそういうのが根源にあるから――などと勝手な解釈でロックの源流をみつめる。
シンプルに四十肩で録音したロックミュージックだが、これも記録として形に残しておきたいという想いがフィジカル的負担を凌駕した気分でとても晴れやか。
気持ちは恥ずかしいくらい27歳くらいのままのつもりだが、やはり身体は正直。40代にもなればどこかしらガタがくる。ただ、そこに逆らうという点、その気持ちが普通に生きているのが嬉しい。ああ痛い。
_06/19
昼過ぎから夕方にかけ、信じられないくらい体調が芳しくなかったが結論、治る。疲労だろうか。
今日は宵の口手前までほどほど仕事をして、その後は愉快な仲間たちと「しゃぶしゃぶ」を食う。ビールを飲む。店内ではなんとネコ型ロボットが配膳をしてけつかる。
おのれ、人間の仕事を――とは思わない。こうやってテクノロジーと共存していくのだと未来を明るく見据える。「片付けるニャ!」とかネコ・ロボがコメントするあたり、かわいいものではないかと。
帰宅して村上氏と電話で様々な話をする。音楽機材の話からAIの発展、哲学、個人の思考の在りかたの行方、その他モロモロ、色々と。こういった議論ベースのポップな対話は非常に価値がある。
さてもう少し呑んで寝ようかというくらい、体調は回復する。ほどほど休むのが人生のコツ。そんな風に涼しい顔で抜かせるくらいのフェーズに向かって明日も張り切っていこうと思う。
_06/20
定期検診でクリニックへ。ロビーはほぼ満席。みんな梅雨入りで心の調子を持ち崩したかと令和の浮世を危惧しつつ、リラックスして瞑想しつつ待つ。
耳に染み入るのはいつものオルゴールBGMではなく、ウクレレギターのような音色がメロディを奏でていた。
鼻から吸って、止めて、ゆっくり口から吐き出す。心身共にとても有効な呼吸法である。無心になる。しかし曲のメロディが意識に入る。は。これはエアロスミスではないかと、メンタルクリニックにおいての意外な選曲にふと驚く。
おいおい、あの後半バースの、スティーヴン・タイラーの野性味を帯びたシャウトをどのようにウクレレギターで再現するのか、無理だろ、知らんぞ、知らんぞと、耳を傾ける。結果、めちゃめちゃ端折っていたもよう。
そりゃそうもなるなと、全然集中できず。だがリラックスはできた。「平吉さ〜ん」。「はい〜」と、問診室に入る。
「どうですか平吉さん」
「はい。先月より悪くなっている、ということはありません」
「そうですか」
「それは明らかです。やはり仕事をいっぱいもらえるとそれに比例して――最近とても忙しくて――調子もいいのです」
「ははは。そうですよね――。カタカタカタカタ」
「………(カルテ書き終わるまで待つ)」
「先生、質問がありまして」
「はいなんでしょう(ニコニコ)」
「先月話した、先生のお師匠さんの大野裕さんが訳された、アーロン・ベックさんの『認知療法』を読み終えまして」
「読みましたか!(クワッ!)」
「とても難しかったのですが、僕の理解が追いついているかと。そういった意味での質問です」
「はい」
「本の中盤にあった、“神経症などは、認知の歪み(歪曲)を正すことが重要である”的な部分が確かに、先生が仰った通り、著書の山場でした」
「そうでしたよね」
「それで、その後は実例などの記述がメインでした。その際に、『精神分析』『行動療法』『認知療法』の3つが交差していました」
「そうですね。あの本ですと」
「まず『精神分析』はわりと古いやりかたで、過去の出来事などに注視する手法、その後に、今とこれからにフォーカスをあてる『認知療法』が生まれたと」
「そうです。アーロン・ベックさんも最初は『精神分析』をしていたんですよ?」
「そう書いてありました。途中から精神分析について『なんか違えな?』と思ったんですかね? アーロンさんは……」
「途中で気づかれたみたいですね。それよりも有効なやりかたもあるのではと。そこで、平吉さんが咀嚼したように“今とこれから”に目を向ける方法をと。それが『認知療法』です」
「それ。“Here and now”ですよね。先生が数ヶ月前に仰った、先生自身の患者に対する治療におけるスタンス」
「そ〜です、そうです!」
「本にも出てきました。『認知療法と行動療法は“今、ここ”を強調する』と!」
「それですよ」
「263ページです。一番大事なところですよね?」
「ははは。そうですね!」
「で、質問の要点は、『認知療法』『行動療法』『認知行動療法』の違いです」
「それはね平吉さん、『認知療法』と『認知行動療法』は一緒です」
「一緒ですか!」
「はい。そして『行動療法』は別です。患者に行動で改善を促すものです」
「なるほど。あと、本の中にあった恐怖症や不安神経症に関しての例えで、“歪んだ思考における『警報』の誤作動を引き起こす(パニック発作など)ことがあり、そこの認知を正すことが大事”的なことが書いてありました」
「わかりました? そこ……」
「めちゃめちゃピンと来ました! 要は、僕の場合だと、電車移動などが苦痛だったのは、別に緊急事態でもないのに『へんな精神感覚に襲われてどうにかなってしまったらどうしよう』という想像が“警報の誤作動を恐れて不安になる(予期不安)”。これに苦しんでいたのです!」
「そういうことなんですよ。ただね、そういう風に“警報の誤作動”という例えでも、いまいちわからないという患者さんも多いんです」
「僕はすごく腑に落ちましたが……!」
「なら良かったじゃないですか?」
「はい、こうして先生の援助をお話で受け、『なるほど!』となるだけでも、なんか良くなるんです僕」
「そういうタイプもあるかもしれないですね。良かったじゃあないですか(ニコニコ)」
「はい。質問は以上です」
「じゃあね、平吉さん次回なんですけど――」
先生はいつもより頭の回転速度を上げたり、思考を深くすると、脚をブラブラさせる。言いたいことを、より言おうとすると、マスクを下にズラして口元を見せて発声する。そして、締めの文言はいつだって一語一句等しく全く同じトーンで目をそらして言う。
なんだか精神科医の問診というより、俺の取材と観察メインになりつつあるが、これはこれでとても価値のある体験だと思っている。
先生は、もしかしたら、俺をあんまりいないタイプの患者だと思って面白がっているのかもしれない。
自身が学んできたことをなぞってくる年下の見解を確認しては指導するような、そんな喜びも感じているのかもしれない。
雰囲気として、なんかそう朧げに感じる。そうであってほしい。
主治医は、ちゃんと治療をしてくれて、さらに、俺に知識まで与えてくれている。それらは、治療と成長の両面において良質な効果を俺は享受している。いつもありがとうございます先生。
_06/21
昨日ややまったり目に過ごしたからか、体調がよい。半日程度のリラックスでそうなのであれば、なんだ、まだまだ全然いけるじゃないかと夜、ちとソファに転がったらがっつり1時間くらい寝る。
いや、きてるなと、気持ちの面かなと手前のバイオリズムの謎を知る。それでも今日はその後もやることやって、深夜にいたる。
季節はどうやら本格的に雨季に入るらしいが、その時期特有のダウナーさはそんなにない。というか、気がつけばだんだんフェイドアウトしていく恒常的な抑鬱気分。そういうの治ったのかなという察知とも捉えられるが、そこまで深く考えないことにする。
ふとした急な沈みで、また歪曲した、いや、偏った認知が生じる可能性があるからである。そこは、これまでいろんな方面から得たあらゆる手段で守る。発展させる。興奮しないでいい場面では自然と冷静でいる。これ大事というかふつうの考え方。
体験ベースでこういった思惟にたどり着くまで随分かかった気もするが、みんなはどうなのかなと、ふと思う。
_06/22
ふと思うだけで治る訳がねえだろというくらいの確かな鬱っ気。起きがけピーク値。スレッショルド(閾値)がブンとメーターの端まで思い切り振り切るようである。
ああこれは今日全部仕事休もう。そのように、設定した目覚まし音が鳴る数分前に強く考えた。
いやしかし折角やってきてくれた今日というありがたみ。そこをきちんと認知し起き上がり、「ああ、なんか昔はこんな気分でずっとパチスロを打っていたな」と想起する。
夕方に差し掛かるあたりからだんだんよくなる。もうお馴染みのあるあるである。他者からしたらいつも通りの感じに見えるようで、内省は異なる。
とはいえ夜になると元気。原稿を書いて、制作もする。ストレートに「Frozen Shoulder(凍結肩・四十肩・五十肩)」と名付けた楽曲のMIXをする。今しか出せないグルーヴである。
いやいや、思いのほかいいじゃないかと、肩をかばいながら立って演奏した各パートにEQを施す。コンプレッションする。音像を整える。
かっこつけて「欧米人が立って頭を振りながらレコーディングする感じをイメージしたのさ!」と言ったら「なるほどね〜」という反応が返ってきてもいいんじゃないかというくらいの自負。実態は、四十肩の執念の表れ。
なんだかんだで普段通り過ごす。今日という日に感謝する。明日が必ず、当たり前のように来るとは限らないと。
あのまま寝つづけていたら後悔しかない。というか著しい鬱症状(大うつ病)の場合は、考えて起きることは不可能。物理的に起き上がれない。体が動かない。厠にも行けない。それくらいのレベルらしい。
だから俺はそうではないときちんと認知して今日も幸せに暮らす。動く。少しずつ、考え方の偏りを修正しながら。
_06/23
山手線の人身事故により人の首が物理的に飛ぶという解像度高めの夢を見る。「いかん!」と思い、目覚めて暫く覚醒するも再び寝入り、結果、ニュートラルな目覚め。
そういうことが現実として、どこかではあるんだよねと思いつつ、ミネラル・ウォーターを酒呑んだぶん飲んでは濾過し、いつも通りに活動する。
ここ数日と、ほぼ同じ時系列でタスクをこなし深夜、コンビニで煙草を1カートン買って酒もつまんで宅で空け、動画編集をする。
睡眠時の夢よりインパクト少なめの現実だが、それなりに幸せに過ごす。みんなそれぞれ、やることやって、どこかで繋がるなどと思いつつ。
_06/24
よく寝て部屋を掃除する。宅の整理具合や清潔感は、その人の精神状態を表す。そういった持論のもとにしっかりキレイにして草たちに水をあげる。
フラットな気分で界隈をパトロールし、適当に本屋で立ち読みしたり蕎麦を食べたり、酒買ったりする。
気になったのは、謎にどの本屋でもアドラー心理学の書籍が平積みになっていることである。流行っているのだろうか。
確かに、その学問で提唱される「目的論」「自己受容」「課題の分離」「共同体感覚」「人生の課題(仕事の課題・交友の課題・愛の課題)」「他者貢献」などの各内容は、現代の社会においてすごく汎用性が高い気がする。というか俺としては普遍的であると解釈している。
まあいいやと思い帰宅。先日、編集部の村上氏からオーダーがあった、とある機材の組み合わせの検証をする。
3パターンの機材の組み合わせで同一のフレーズ(ニルヴァーナのあの曲のイントロ)を演奏してレコーディングし、3つのwavファイル音源に書き出して送り、村上氏にブラインド(どれがどういった環境下で録音したか伏せて聴き比べる)で吟味してもらうというものである。
その雑感を電話で議論し、「機材によっては、何かを足さずにそのままのほうがいい場合がある」という結論に回帰する。たいへん生産的な検証であった。
いつもと違うことがあったといったらこれくらい。あとは案件の戻し原稿チェックや楽曲制作など、いつもの感じ。とてもホッコリした1日。
機材などは組み合わせが多岐にわたり、足すべきではない場合もあるが、日々、なにかを少しづつでも足していくのは、人間が生きていく上でのタスク(課題)なのだろうか。
_06/25
セッションバーで遊ぶ。演奏する。その際、面識の浅い方からフィードバックをいただいた。
「平吉さんって、『ちょっとトイレ行ってくるわ!』みたいな感じでギター弾いてますよね!』」と。
俺は、「おま、お前、この野郎、完全にバカにしているだろう」とは、決して思わなかった。逆説的に、何らかの本質を理解していただけていると解釈した。
それがとても、本当に嬉しかった。今日は端的に、フォーカスにあてるべき点はこれに尽きるかなと、そう思った。
_06/27
今日は軽めに過ごそうと、案件のチェック工程や楽曲制作などをする。とても暑いのでチンピラみたいな柄の半袖を着用して。
今年、新たなメニューとして出した業務に「コンサルティング」がある。ありがたいことに、わりと早い段階で1名から依頼を受け、リピートまでしてくださり、ご満足いただき無事、クロージングした。
まあ、始めたばかりだし、そうそうトントンくるものでもないだろうと達観していたが昨日今日、2名の顧客見込みがあり、それぞれ対応した。
コンサル内容は、一言でまとめると「音楽活動面全般のお悩み相談」的な気軽なもの。「どうすればもっと自身の音楽を聴いてもらえるか」「各種の数字が伸ばせるか」「よりよいプロモーションはないか」「演奏や制作面の向上」。こんな感じのを包括したやつである。
手前は、いちリスナーとして、音楽ライターとして、演奏者として、音楽制作者として様々な視点があるという自負。ライター業でレコード会社の人など内部の方から直接聞いた、言えないやつもあるほどのけっこうな一次情報がある。客観的にも主観的にも、それは明瞭な特化点な気がする。そこに今年の初めに気がついて一歩踏み出した。
「それだけカラフルでわりと深めな見識があれば、コンサルできんじゃね?」くらいのノリで始めたが、そういえばついこのあいだも、友人が「仕事として」という前提でコンサルを所望してくれて、支払いにまで及び無事完了。
そういった経緯もあり、案外やってみると需要があるのだなと実感する近頃。手前の作ったやつはもちろん、知識としても、いろんな人の音楽ライフがほっこりしてくれれば凄く幸せである。
俺はコンサル一筋の専門家というわけではないが、「その人に何ができて」「それを求めている人がどれくらいいて」「いけるのかそうでないのか判断して提案し」「対象者が気づいていない自身の強みを顕在化させ」「方向性を示したり、よりよい提案をして取捨選択を促す。時に指定する」という点は、あらゆる仕事に共通していると考えられる。
特に、“「それを求めている人がどれくらい居る」「対象者が気づいていない、自身の強みを顕在化させる」”という点は、出版業界編集者の仕事の大切な要素の一部だと聞いた。箕輪厚介さんの最新YouTubeチャンネル動画で。
面白いところで色々なことが繋がるものなんだなと、今日も思う。
_06/28
このもっさりした気候を梅雨と呼ばんでなんと表現できよう。東京は雨。終日しっかりばっちり地が濡らされる。6月は毎年、律儀に雨季。
自然の摂理とは、人間のあるべき姿とは。などとはさほど考えずに牛丼食ったり仕事したり。音楽制作をしては、あと一歩、エクセルシート進捗率欄には「99%」と入力するまでに至る。
残りの1%は、リファレンスのアーティストの音のクオリティと引けをとらないかというフェーズ。今回はロックミュージックなので、Måneskin(マネスキン)の音像との勝負。
「さすがにこの先は、機材の差、世界レベルのエンジニアの腕との差」と、これ以上は「現時点では限界である」というところまで詰める。それが残りの1%。
やりすぎかなという気もする。ここ数年ずっと思っている。しかし、この「質の高さへのこだわりへの執念」がなければ、差別化をはかれない。よって、マネスキンとの勝負は明日に持ち越す。彼らはとてもいいバンド。
ほかにも、昨日同様、ライター案件のチェック段階やら新規案件の対応などで時間が満たされる。今日も一日たのしく過ごした。明日も適度に気を引き締めていこうと自戒しつつ健やかに生きていこうと思う。
_06/28
ChatGPT4oは「もう一声!」というプロンプトで「リテイク」と判断できるのだなと面白がりつつ利用する。とても賢いが、人間のそれとは明らかに性質が異なると実感。
その前は、マネスキンの音像に勝負を挑むも、最新アルバムの曲のクオリティに驚き、「これは、かなわん」と思うも諦めるにはまだ余力ありと断じてマスターを詰める。
夕方過ぎまでは各種タスクをこなす。昨日と同様。日中はここのところの普段に応じた過ごし方をする。
起きがけは、謎に熟睡して素晴らしく絶好調だった。そういう日がデフォルトであって欲しい。つまりいつも通りの一日。呑み始めの酒が「クワッ!」と沁みる深夜の入り。
_06/29
なにかが沁みすぎたのか、全然やる気が出ない。これはいかんと思いつつも普段通り身支度などをするが、水面下が何か、スッカスカなのである。
特筆した理由は、明らかにはない。じゃああれだ、この捏造された亜熱帯のような天候のせいにしておこうと、ぽっかりした気分で一日が流れていく。
ごはんはタンメンとなんちゃらゼリーしか食べてないが能動的に食を欲さない。まあそういう時もあると、最低限のことをこなし深夜、エアコンの風音が聞こえるほどの無音のなかカタカタとする。
最近こういう状態になる頻度があからさまに減った。しかし、たまになる。それはそれで、そういう「性質」なのだと受け入れる。いい時もあればそうでない時も、普段通りな時も。
それらに対し極端に優劣をつけず「全てまとめて手前である」と受容することの大切さ。それはなかなか難しいことなのかもしれないが、認める。
変に思考を歪曲、いや、偏らせずに「そういう状態の時だってある」と、認知する。なんかこれ、大事らしい。自己受容。
_06/30