ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。6月。
一日中、文字を書き、言葉を書き、文章を書き、原稿を書き、つまりずっと日本語を書いている時間が、日の、ほぼほぼをしめた今日、思った。
もっと端的に言えよと。そこで「詩」である。それはどうやら、説明や文法や「いかに正確に伝わるか」などといった観念を超越していると、係の者に聞いた。
だから、今日は一日を「詩」で示す。そのね、長すぎたんだよ。先月と先々月と。というか今年に入ってのここの日記の文字量が。だから「詩」で書くよ。今日を。
香らない時間。死の匂い。不当と断じて我、律する。
脈々と流るるは生への希求。成すべきことに、花を盛る。
その営みは永遠なる水流の如し、否、人に非ず。
我、人間なり。煙を焚いては左に置く。右にはまだ見ぬ未来。
後ろに見るのは恥、過ち、拭えぬ忘却。
前にあるのはたったひとつ。数字に非ず。その刹那。
その営みは永遠なる夢の如し、是、全ての人の強張りを唯一、解き放つ。
――「詩」で書いたよ。今日を。すごいね。こんなに意味がわからなくなるんだね。びっくりしたよ。ただひとつ、個人的に特筆したいのは、偉そうにいうな。とにかく気づいたのがある。
それは、“流るる”とか“拭えぬ”、あと“強張り”とかこれら3つの言葉。俺はたぶん、人生で一度も使用したことのない表現。言葉。語彙。つか一人称が“我”って、そこは変えるなよ。
「詩」と、言葉をチョイスするスイッチを意図的に意識して撫でると出てくるんだね。使ったことのない言葉。語彙。
それだけでも発見があってよかったと善処する。文字や言葉や文章や原稿と向き合い、日のほぼほぼをしめた今日。〆に書いた文章は、たいへん気持ちのわるいポエムでした。
そういう恥、俺はなんか好きなんだよ。素直に言うけど、本当に恥ずかしいと心底思っている。
だが、それがないと先のような、新たなアプローチが出ない。つまり、〝右〟と〝前〟と対峙できない。ということを死ぬほど抽象的に言いたかったのか。ごめんなさい。決して俺は「詩」をなめている訳ではないんです。
とにかく、端的に日記を書こうと思ったらおかしなことになってびっくりすればいいのに、そこまでのインパクトにも及ばず「そんでもってこれは何だ」という体たらく。
それを〝脈々と流るるは生への希求〟と表現したかったんだけどこう、へたすぎた。ごめん。
_06/01
目的なしに歩く。北赤羽駅――板橋周辺――桐ケ丘――赤羽駅というルートで。静寂が根底にあった。それがとても心地良かった。
このあたりのエリアには公団住宅(UR)の古い団地がたくさんある。俺は謎にこれらの建造物の存在自体が好きなので、慈しむようにそれらを眺める。
桐ケ丘団地にある公園に遊具がたくさんあった。二度と機能しないであろう廃墟のようなプール施設があった。
ドーム状の遊具の頂点に登り、俺はアイコスを吸いながら――野外喫煙は原則よくないが、周囲にちびっこなどが居ないことを確認したうえで。それでもよくないが――プールを眺めた。感想や感受の手前の何かを得て、遊具を降りた。
赤羽台を経由した帰路、ふと言葉が降りてきた。それの思考が、張り付いた。歩きながらごく自然に、脳内ネットワークで何かが繋がろうとしていた。
帰宅して、それを新たな小説の題材として、原稿用紙4枚ぶんほど書いた。先日に投稿した小説とは別に、端書きのみの原稿と、構想と、スケッチ案のテキスト各種をまとめたフォルダがある。これは、作家としての活動のスタート地点に立つための第二の矢。
先の、張り付いた思考を原稿用紙4枚ぶんほどに書いたのは第三の矢。このように、最初に書いた小説を投稿し、その結果を待つ間に次々と小説を書く。それを繰り返す。なんならというか前提でもあるが、投稿した一の矢一発で決める。というのがストレート。
小説を書いたそのあと、足立くんと電話をしていた。彼からの本題の話から派生し、様々な対話をした。俺の今の営みにも触れた。すると、彼はものすごく俺の現状を鼓舞してくれた。
「そんなに」というくらい、熱く、押してくれた。あと、彼をモチーフにした登場人物が小説内に出演することを話した。「事後報告だけど、出演させってもいいかい?」と。すると「いいよ!」と、二言返事だった。というかちょっと嬉しそうにしていてくれたので俺もほっこりした。
なにしろ、彼をモチーフにしたそのキャラクターは小説内においても超重要人物であり、そのキャラクターが居ないと物語が成り立たない。
だから、やや懸念していた「モチーフである本人が許可しない」という流れだったら俺は、とても悲しい思いをすることとなる。しかし、逆だった。よかった。
書籍出版することが大前提であること、最優秀賞に受賞すること、小説を売りまくること、その後の作家としての活動――その全てを彼は、激励してくれた。すごく嬉しかった。
彼はいくつものことを成し遂げている。だからなのか。高校時代からの友人。だからなのか。
わからないが、この半年で俺は小説に全身全霊を込め、視力は落ちるは白髪は増えるわというくらい熱狂していた。それを、その行為自体にも、彼は、評価してくれた。
〝熱狂〟している状態であるということ自体に、彼は、強く、「素晴らしいことである」といった旨を、彼が出す数々の言葉をもってして俺にくれた。
客観的に捉えたら、夢物語なのかもしれない。そう、俺は彼に言った。しかし、それがなければそもそも夢は追えない。成せない。行動できない。と、彼は言った。
だから、「それで平吉がベストセラー作家になって――」と、未来の続きを語ってくれた。嬉しかった。
資本主義、経営論、戦略、ビジネス視点。それらをもってして、俺がいま熱狂している営みを鼓舞してくれた。具体的にも言及してくれた。つまり、応援してくれた。
“人生の浪費”という文脈があった。俺なりに噛み砕くと、生活基盤うんぬんに注視するよりも、〝いまどうしても何が何でもやりたいこと〟を最優先させることは人間として真っ当である。ということである。
「普通だったらさ、小説書く時間があったらそのぶん仕事をして――」という、ある種の一般論を俺は持ち出して――俺はそうは思わないが――どうなのかと客観的に意見を求めた。
すると彼は、俺なりの解釈だと「その〝普通〟ではなく、狂ったくらいに没頭しないと、平吉が本当にやりたいことは――」と述べた。
「俺はいま、バカになっているのかもしれないんだ。それくらい没頭してる。熱狂してるんだ。この半年で視力は落ちるわ白髪は増えるわ――」
「それだけ頑張ってやってきたということだ。〝熱狂〟があるんだよ。それこそ見城徹さんみたいに――」
と、幻冬社の取締役の方を例に挙げた。とんでもない比較だが、俺はそれくらい大きなことになる、挑む、まずはそのための地点に堂々と立つ。というスタンスを示した。
すると彼は、俺はそれが前提であるということを理解してくれた上で「あとは戦略」など、具体案を言ってくれた。
「渾身の小説を投稿し、次のやつも構想がけっこうある。そのまた次のも今日は書いていた――」と言った。「いいじゃないか!」と、彼は言った。
長電話となった。最後に彼は「おれも何か熱狂できるの探さなきゃな――」と言った。俺は「君はすでにそれをやっている――」と返した。彼は「また新しい何かをさ――」と、サラッと言った。
近い未来。
「俺ら、あの時こんな話したの覚えてる? ほら。この本に書いてあるここのくだり、君がモチーフのキャラクターの言いたいことと超似てない?」
「ほんまや(笑)」
という日が来る。引き寄せる。熱狂で人生の現実を焼き増す。それくらいの気概がある。電話で彼にそれが伝わった。俺が思っている以上に。
思考や着想を吸収する散歩での静寂。現在進行形の営みを友人と対話し、熱狂をブーストさせる。そんな一日だった。
俺の両親は死んだ。兄とは絶望的に疎遠。大好きだった叔父も死んだ。関わる家族は一人も居ない。だが俺は、友人に恵まれている。
熱狂があれば、なんだって生み出せる。それがあれば、俺の新たな家族もその先に――ということも。
投稿した小説で描いた、彼をモチーフとしたキャラクターの各セリフ。そのどれもが、今日の電話での対話のニュアンスとほぼ同一だった。それは、どこかクスリと面白くも、とても嬉しかった。
_06/02
仕事をして小説を書く。それはどういったものかというと、まず草案が二つある。共に端書のみのやつ。その一方をとりあえず、書きたいことをそのまま直感的に書いてみることにした。その前にまず。
昨日書いた端書きを読んで「面白いか」という点を吟味する。そしたらまず俺が「面白い。続きが読みたい」と、面白がれたので、気を良くして続きを書いた。するとかなりスススと、すでに昨日書いた序文を含め5,000文字近くに達し、「これは第一章として成り立つ」と、いう具合に書けた。
これを明日、また読み返して「面白いか」を判定し、「別に」だったら企画案として一旦寝かせて、もう一方の端書きといくつかの案の欠片が格納されているフォルダの方の原稿を吟味する。
今日書いた「第一章」までの原稿が「おいめちゃめちゃ面白い」であったら、続きを書くなりプロットを作ったりする。
そうすると、いずれにせよ第二作目が進行する。良い傾向。だと思う。今の所は第一作を投稿して結果を待つ。だけではなく、その投稿先以外の編集者なりを探す。というのもやる。並行して、第二作目を書く。それを続ける。されど必ず必ず先に進む。
そして思ったが、今日書いていた第二作目の原稿にも、第一作と同様のアプローチとして、ここに書いた、いつぞやの文章をまるごと引用して加筆修正していた。すると、物語の筋が見えてきた。さらに思ったのは、投稿した小説と第二作目の文体、文体と言わせてほしい、これが、どこからどう読んでも同一なことに気がついた。
これをどう捉えるかがひじょうに大事だと考えた。
「この筆者にしか書けない文体であり、オリジナリティという強みとなっている」
あるいは。
「ワンパターンの文体により物新しさに欠ける」
なのか。
俺は、文体というやつを、音楽のバンドで例えたら「ボーカルの声質や歌い方」くらい、主軸となる要素だと思っている。音像でいったら「ジャンル」に近しいと捉えている。
そうなると、「このバンドのボーカルが入れ替わるとリスナーはどう思うか」というくらい、文体というのは重要度を担う。「聴き手がそのバンドにそのジャンルを求めていない――例えばニルヴァーナがグランジではなくジャズを奏ではじめた――ことをやりだしたらリスナーはどう捉えるか」という構造に近いという思案。あと、漫画で言ったら「絵のタッチ」だろうか。
結論、「自分の文体というものを如実に感じられるということは、そのままいったほうがいい」と、手前で鼓舞した。
というかそれがなかったら、良い方面では「マルチに変化できる魔法使い」のような器用さがあるものの、「そいつじゃなくても書ける」という決定的な個性化とならないからである。
要は、「そいつが書いた匂い」みたいな個性の濃度が、文体というやつに宿っていればそれは強みなのではと、ポジティブ方面で善処した。
そう考えると、文体は、こと俺個人の判断だと、独特なくらいでいいということ。なんなら仕事においては小説やここに書く文体とは全然違う、まことフォーマルな文体でも書けるし、意図的に淀みなく美しさをも孕ませて、クライアントにそのような評を現に頂いた実績がある。
いやその、独自性があってさらに基本的にも書けますぜ自慢では決してございません。第二作目の小説を書き進めたあと、俯瞰的に、自分の文体を取り扱い、吟味したという流れなのです。実際どうなるかは、そう、小説の読者様がつかないことにはわからない。
という風に、最近ここに書く文章ですら、かなり構造として捉えられるというのを自覚している。その構造を、ここに端的に示すこともできるが、それはあまり意味を感じないので、しないでおこうかなと思う。
文体。それは、書いた者の血筋とも、命の息吹とも、人間性とも生の指針とも言えるものが宿る。それの寡多や濃淡は人それぞれ。全くない、という人間は珍しい。こと俺に関しては、あることは間違いない。あとは、その基軸とも言える〝文体〟という、文章における重要な要素で書かれた小説で、いかに他者に貢献できるか。面白いと思っていただけるか。これに尽きる。
昨日今日あたりは真面目なことを書いている。しかし、昨日のここの文章の文体と、今日の文体は少し違う。
昨日のは、なんというか余計なものが排除され、素直に、かんたんな言葉を紡いだ文体。
今日のは、説明を圧縮させるべく、かんたんではない寄りの言葉をねじ込んだりしている。構造はやや複雑だが、全てを読めば理解に及ぶ。はず。
結局何が言いたいのか――というニュアンスではない。そう、何が言いたいのかというと、その〝いつも〟は、何が言いたいのかわからない手前が、書きながらその思考をまとめ、一回こっきりの推敲でギリ文章として成り立たせている。それが俺の文体、俺の文体と言わせて欲しい。その背景だったりすることにも、書き続けていることで、ようやく気がつくこともある。
そういうことが言いたかったことについてと、文体について。
熱狂のあいだにもこういった冷静な自己分析と、他者様にとっては――ということへの思考を熟すことも絶対に必要。そこに帰結する。
それにしても、最初の小説は命題からしてシリアス。だが全体的にはシリアスなだけではない。そのように仕上げた。
だから、という訳ではないが、昨日から書き進めている第二作目は、命題は普遍的だが全体的にはポップ寄りにしようという草案があった。
それがどんな内容なのかというと、冒頭一行目にもう〝セックス〟と書いてある。そんなん、完成形がどうなるのか。
とりあえず俺が面白いと思い、俺がまず楽しみだと感じながら楽しんで熱狂して書いている。だからいいのになる。はず。とはいえ大丈夫だろうか。最初にセックス。
_06/03
26時て。その、表で酒を呑み散らかしていた訳ではなく、夜は本当にずっと机に張り付いていたらそうなった。
その内実は、ライター案件やっていて、ううむどうするかと、こういう時は相談だねと、それで一旦保留になった。
そして間髪入れずによっしゃ小説を書こうと、第二作目、どうだろう、昨日、第一章まで書いた原稿を読んで、まず俺が、どう思うか、まずは俺が――おもしれ。
ということで小説原稿を書く。するとしばらくして、先の保留の確認がきたから返事する。そして確認。そういうくだり、とても重要。それも相成り、一旦シャワーをと思ってここにログインしたら26時て。
そういう日もある。決して、モヤモヤしている心境ではなく、関わる方々と、きちんと仕事をするべく必然。その間に「今日は時間取れないかな――」などと一瞬思ったその対象は、小説を書く時間の確保。
正直、確認・相談が保留になった時点で休憩したかったけど、それをしていたらたぶんいま、30時とか訳のわからんことになっていたであろう。
だから合間に、何文字だっけな? そうだ、1,500文字はいかないかなくらいだけど、物語を展開させて「おお、いけるいける!」という感覚で楽しく書いていた。
というか「今日は時間取れないかな――」ってなんだよと思った。それを言い訳にするうちは、成れない。だが、俺は成る前提。作家、作家業を絶対に絶対にする念頭をゴスリと肚に置くとまあ、ちゃんと書くんだね。小説。
だから善処。いまめちゃめちゃヘロヘロしているが、これでいい。こういったタイム感の、ある種の、決してよろしくない意味ではないイレギュラーがあっても、書く時間を捻出して、書く。じゃなきゃあ、昨日までしこたま言ってた〝熱狂〟とは程遠い。
だが俺にはそれがある、あると言わせてください。あるから、結果、一日の〆の時間が26時で誠びっくりしても「やることやった」「ということはこれからもやる」「だから、成る」という幼児のような論法が成り立ち、行動も伴う。あとは結果を手繰り寄せる。ゴソッと。
そういった一日に何が言いたいのかというと、何事も真剣に向き合うと、予定調和とはいかず、時に畝って時に静まり時に膨張する。そう。起爆と飛散に必要なのはこの畝りすなわちグルーヴ。そこで止まってはならんよね。ということか。なるほど。
それにしてもなかなかアクティブだったようで、物理的にはカタカタ、プルルもしもし、カタカタ、ううむ。カタカタ。という一日。
それでも、次の小説の原稿から「ゆけ」という衝動を感じられ、すごく嬉しかったし書いていて楽しめる。あとはこれを、俺が感じる以上に他者様に――とか考えると26時とか別に。と思う。というかどうなるかな。第二作目の小説。セックスのやつ。
書いている俺がバカほどワクワクしているあたり、創作を、創作ってもう言っていいでしょうも。お願いします。創作が仕上がって飛散するその日まで、呑みすぎない程度に熱狂していこう。と、思いました。
何故かというと、一昨日だっけな? 熱く、面白がって、鼓舞してくれる友人がいて勇気をブーストしてもらったり、近い未来の読者様の反応をイメージすると、眠気、どこかにいく。気をつけよう。ここでありうる、ソファにて気絶寝。
_06/04
俺の本棚、いや〝叡智の森林〟というか、北区立中央図書館に行った。目的は、知識吸収と思考の拡張、そして言語能力拡大をはかるべく修行――。
というほど仰々しくは実は思っていない。だが、実際に最近ルーティーンと化しつつある図書館通いが楽しいのが能動。いつだって、思わぬ邂逅があるのである。だから日の行動として今日、そこに真っ先に向かった。
初夏の光。嬉しむ様な、不足する雨を希求する様な複雑な心境。それを花びらの彩度で表す紫陽花たち。公園では大木が天を突く。麓には数センチの新緑の芽。この対比こそ生命の尺度。俺は、大木寄りなのか、新緑寄りなのか、はたまたジャスト・中間なのか。
そんなこと別に思っていない。紫陽花のくだり以外は今、後付けで書いた。というかもう虚言に近い。
だがしかし、言語化できるということは、その時の無意識には確かにあったのであろう。そういうことにしておく。
今日は10冊程度の本を手に取った。そのほとんどは、少しずつしか読んでいない。
最も長く読んだのは50ページほど。その本は、精神科医・心理学者のアドラーさんのやつ。ちゃんと、著者:アルフレッド・アドラーと記してあるので、すなわちアドラーさんが書いた内容。それの訳書。
俺に読書習慣がついたきっかけは『嫌われる勇気』という、死ぬほど売れたというか今も売れ続けているベストセラー。それに二年前、感銘を受けたこと。内容を一つだけ要点を言うと「アドラー心理学をベースとした自己啓発書」ということ。
だから、その源流であるアドラーさんが書いた本を読むことは必然。
これまでも書店でパラパラと彼に関連する書籍を読んだことはあったが、まともに、直に対峙するのは今日が初めてだろうか。いや遅くねえか。
わかったつもりはよくないかなと、こと個人的に、俺に対してはそう思うので、一周回って戻ってきて、アドラーさんの著書に触れたということである。
読み進めていくうちに、気になる一節があった。それは。
以下、書籍タイトル:『人間をかんがえる』アドラーの個人心理学
著:アルフレッド・アドラー
より引用。
“目標のない心の生活は、考えられない。心の生活に含まれる運動や活力は、その目標に向って進むのである。”
言い切るねえ。同じく心理学者のユングさんの著書にも、そんな感じのとこあったよ。〝生への停滞はノイローゼと同義である〟とか、振り切りまくったこと書いてあったよ。言い方やべえだろ。
“人間の心の生活はしたがって、目標によって規定されている。人間はだれでもその心にある目標によって規定されており、拘束され、制約され、方向づけされることなしには、考えたり、感じたり、欲したりすることができず、夢を見ることさえもできないのである”
俺の文字起こしのまんまだとわかりづらいね。
要するに、目標がないとハリがないどころか、なんというか前に進めない的な? それかな。『嫌われる勇気』に書いてあった“目的論”を噛み砕いたくだりの元ネタかな? と、俺は思うよ。
シンプルに、過去の原因とかじゃなくて、「これからの目的」こそが大事だねってやつ。
――中略――
“個人心理学では、人間のすべての心の現象は目標に向けられていると受け入れている。”
断じるねえ。ユングさんもアドラーさんも。かんたんに言おうよ。つまり、目標があれば目的がこう、分岐? 手数が増えてさ、そんで、〝夢〟を持てると。
それの根っこが〝目標〟ってわけね? アドラーさん。一回だけここに出てきてくれたけど、合ってますかねアドラーさん。いや、いいです今日は、いいですって出てこなくて。そしたらすげえ長くなるから今日は。全部読んでからでお願いします。いいですって。ちょ。
まあ、『嫌われる勇気』という、思クソ売れた本の種別は、思い切り言うと自己啓発本。その根源にあるのはやはり〝目標〟の大切さ。それの元ネタ、いや、源流に今日触れて、ははあと頷いた。というだけの話である。
俺の〝目標〟。
なければ、たぶんいま、雀荘に居る。朝過ぎても麻雀打ち続けてヒリついてざわざわしてる。なぜならば、目標がない場合だからである。(原則、俺は長期にわたり博奕を禁忌として封印し続けている)
だが、俺のいまの〝目標〟。それは明確にある。昨日も書いたが作家になり作家業の営みをすること。その〝目的〟。その内実は小説にしこたま書いて投稿した。
俺の〝夢〟。
すごいねアドラーさん。先の引用部にならうと流れ的に全部明記できる。
〝目標〟は作家業の営みをすること。
〝目的〟は、文章を書くという俺が大好きかつ、アホほど没頭できる能力をフル活用して、世間様に貢献すること。
〝夢〟は、これらによって、後世に残る作家としての貢献と軌跡と作品と情念を残し、次に繋がって至大な規模の飛散となり深く波及すること。
アドラーさんで言ったらね、この文章を俺がこう書いている時点で、アドラーさんの夢かは、わからないけど、先に言った俺の〝夢〟の役割となっている訳である。
それのすんごい分岐のひとつが、『嫌われる勇気』という世界総セールス1,000万部以上とかいう、どえらいことになった事例。
俺も、そういうことがしたいなって思っている。だから、「目標と目的と夢」。これらを、今日の読書によって明言できたということは、やはり。
“北区立中央図書館に行った。目的は、知識吸収と思考の拡張、そして言語能力拡大をはかるべく修行――。”というのは過言ではないと、論理的に立証できる。
できてるのかな。ここ止まりだと、わからないよ。
その先で、今日も二作目の小説書いていた。それを続けてたどり着くその向こう側のなんと美しくも気持ちがよく、風、心地よい風が体を突き抜ける地点で笑むことができようか。
そういう風に今日は思った。
図書館では、ほかには哲学書や言語学や歴史学などの人文学をメインに書籍を手に取った。理由は、俺が一番ピンとくる分野だからである。
とはいえ、そこに傾倒というかバイアスがかかって凝り固まるのはポップじゃないよねと思い、法律や社会科学など、真逆のジャンルの書籍もチラチラと読んだ。本当に意味がわからなかった。
〆には肝心の文学。『芥川龍之介全集』の一巻を読んだり、様々なビッグ・ネームの文豪の文章に触れた。そこで思ったのが、それぞれ特有の文体や表現スタイルがあれど「共通項があるな」ということ。
それは、〝言葉と文章を見事にデザインしている〟ということである。見習えよ俺あたり。
収穫あり。そのような感受を提げ、少し長めに歩いて帰宅。仕事としての原稿と向き合い、小説としての原稿とも向き合う。なぜならば。
「生活のため」とか「やりたいことをやるため」という表現でぜんぜん適切。
だがしかし今日あたりは、〝目標と目的があるので、夢が持てた。故に、それに向かう営みを一日規模で楽しく過ごした〟というのが最適であろう。
そういった表現は、今日、50ページではあったが、アドラーさんの書いたやつ読まなければ――次に行く時に続きを読む――出てこない。こういうやつ。
「こいつが、こういうの書いたから、出したから、某が次、いった」みたいなやつの〝基〟みたいのを形として出し続けたい。それが俺の〝夢〟だろうか。
俺が、他人から質問されて一番立ちすくむ項目がある。それは「あなたの夢はなんですか?」である。
一言でまとめられればこんな、日記ではあるが、こんなに俺なりにはまあちょっとは精緻かな? くらいに書かないよ。それをお前何だ。一言でまとめろだと? いや、言い過ぎた。普通に、人に「夢なんですか」って聞くの、むしろ良いコミュニケーションですよね。ごめんなさい。
ただ、今日の文脈で〝目標〟〝目的〟〝夢〟というやつについて考えると、立ちすくむこともあるという自認をどうか、ご容赦いただきたい。恐縮ですが、簡単にというか、手を抜いて考えている訳ではないということを主張というかこう、今日、ただ、思っただけです。
それを五億周くらい回して〝夢〟に達する。一回かもしれない。それくらい、言うくらいは、いいんじゃないかと思うし、まあ、“目標によって規定”というのは響いたよ。アドラーさん。俺はいま、それがありますよって。
というか「夢がある」ってそれだけでいいじゃん。それ、3日前に普通にシンプルに友人から言われたろ。俺は如実に本当のアホなのかもしれないだろうこの思惟。だがそれを最低でも五億回は回す。されど。
いや、いいですアドラーさん。今日のところは来なくてまだ。俺なりに、今日単位でだいぶ書きましたから。そんで合ってますか? あなたの提唱する〝目的論〟ってやつ。
ああそうですか。シンプルに考えろと。それさ、最初に言ってくれれば今日の日記、二行で書けましたよ。お願いしますよ本当に。
〝今日はアドラーさんの著書に触れ、元気になった。何故ならば、目的に付随する観念すべてにいま、俺は熱狂して奮い立っているからである〟と。
それだとこう、物足りないからこうなった。
それを俺は最低五億回でもやるということが言いたかったんですね。じゃあ、合ってるな。帰結しないまま進むのも生きる醍醐味の一つの分岐。などとほざいては、ほらね。26時か――。
_06/05
宅で静かに仕事をする。手元にある案件を進める。心は穏やかに、昨夜の酒も別に残っていない。というか最近、ほぼほぼ二日酔いになるほど呑んでいない。健やか。だが、定期検診の日なのでメンタルクリニックへ夕方、行く。
受付を経て「1番」の診察室に入ると、院長でもある俺の主治医が、いつものようにマスクをつけて白衣を着て、普通に座っていた。
「どうですか、平吉さん」
「はい。調子、いいですね。こう、やることがたくさんあると、そのぶん覇気が出ると言いますか――」
「そうですか。カタカタ」
PCで、カルテにゆっくり入力するその手元を見ながら、俺はひと段落を待った。
「はい。最近は、どのようなことを色々と?」
「ええ、以前も申し上げたいつもの業務各種と、小説を書いて投稿して、また別のを書いたりと――そのように過ごしています」
「いろいろやってますね」
「そういうのが楽しいんです。その状態でないと、僕はどこか、退屈所以で不安になり、症状がおかしなことになるような気がして――」
「そういえば珈琲屋さんの件はどうなりましたか?」
「ああ……!」
ずいぶん古い話持ち出すなとも思った。端的に、経営を引き継ぐ前提で仕事をしていた叔父の店の顛末のことである。話していなかったかと、意外に思った。だから、端的に先生に「緊急事態と覆せない事例起因でダメだった」旨を伝えた。
「――そうですか。叔父さんが急にお亡くなりに……。それで、平吉さんの言うように物件の老朽化を理由としてお店を引き継げなかったと……」
「はい。けっこう食い下がったんですけど――」
「確かに、物件の老朽化を理由とした場合のテナント引き継ぎは、まず無理ですね」
「僕の周りのいろんな人にも相談しましたが、先生と同じ見解でした」
「そうでしょうね……それで、新しい行動としては、いまは通常の業務以外に小説を書いてと?」
「はい。これが楽しくて没頭できて熱狂できるんです。その先には作家業をするという明確な指針がありまして」
「目標でしょうかね。ニコ」
「そうですね! 目標――そうです!」
「平吉さんは作家になるんですか?」
「厳密に言うと、今やっている業務に『作家業』を加えて発展するというニュアンスです」
「なるほど」
「そういう〝目標〟がないと僕は――というか、ここに来た最初の時期も、目標を見失って、具合がわるくなったということを思い出しました」
「そうだったんですね」
「それで、先の珈琲店の顛末も――そのほかにも――目標が頓挫すると僕のメンタルはそれが原因で、訳のわからないことになるという共通項をみつけたんです」
「そういうことですか。ニヤニヤ」
何がおもしろいのかなと思いつつ、とにかく言いたいことを伝えた。
「そこで質問があるんです先生」
「なんでしょう?」
「その〝目標〟について、ちょっと更なる共通項を見つけまして。心理学者のユングさんとアドラーさんの話、以前に聞いてくれたじゃないですか?」
「はい。覚えてますよ。あれは難しいですよ……?」
「難しいです。ただ、学のない僕なりに彼らが断じたこと、こと〝目標〟について、興味深い記述がありまして」
「なんでしょうね?」
「僕なりにまとめると、ユングさんは『生きる上での進歩への葛藤、そこから生ずる〝生の停滞〟は、ノイローゼと同義である』という感じで、著書で言い切るんです」
「ほほう」
「アドラーさんは、『人間の心の生活は目標によって規定されている。その方向づけなしには、夢を見ることさえできない』という感じで、著書で言い切るんです」
「ほほう」
「お二方とも言ってること、ほぼ一緒じゃないですか? それで僕も一緒なんです。〝目標〟を逸すると、失うと、抱えていないと、メンタルが訳わからないことになるんです」
「そういうことですか。まあ……難しいですよ? みんながみんな、目標に向かって、それをモチベーションに生きるというのは――」
「僕はそれがなければだめなのです」
「ううん……」
「そこで、彼らと『精神科医』という点で同じ立場でもある先生の見解が聞きたくて……!」
「はは。まあ、平吉さん、学がないとかそんなことはないし、私もそんなに――」
先生はまず俺の卑下を優しく否定し、自己の謙虚な態度を示した。とにかく俺は、ユング・アドラーさん方の、この〝目標〟という観点でにおいての共通項と俺の指針との関与。その関連性を、専門家としての見解がほしかった。
「わかりませんよ〜(笑)」
「(ええ?)ちょっと僕、考えすぎですかね?」
「まあ、そこまで……いや、いいと思うんですけど」
「(どっち?)結論を出すような内容ではないと……?」
「まあ、どうでしょうね。ニコニコ」
「はあ」
「それじゃあ平吉さん、次回なんですけど――」
華麗にスルーされた気持ちは禁じ得ない。今日は対話から議論が発展しなかった。正直、物足りなさすぎた。暗に、先生は今日お疲れなのかなとも思った。
なにせ、いつだったか、繰り返し投じる俺の抽象的な質問に対し、俺がそれに躊躇の心境を露わにした時、先生は「大丈夫です。なんでも質問してください」と、頼もしい回答が返ってきたのである。
加えて、「もしも私が、すぐに答えられなかったら、次回までに答えられるようにします」という漢の姿勢も示してくれた。
なのに今日はなんで。
つまんねえな。
いや、たまたまかな。先生はいつもと、所作やら波動やらはいつも通りだった。ただ、議論に応じてくれず、正直に「わからない」と言ってそれっきりで、次回予約の定例のクロージングとなった。
診察につまんねえも面白いもない。そのような一般論を引き合いに出し、俺は手打ちとした。
帰宅して、引き続き案件を進める。楽曲制作をする。いい感じにレコーディングできたパートが2つ。決め手となるパートの草案のスケッチ。
新たかつ至大な〝目標〟に向かうべく、小説を書く。二作目の序盤、1万字を超え、起承転結で言うところの「承」が伸びる。キャラクターが勝手に動き出す。だが、ベースは実体験。私小説の形をかぶった私小説というスタイルだろうか。いまのところは。
とにかく〝目標〟がある限り、俺の生への希求は拓けて伸びる。元気でいられる。熱狂がある。いつもの営みもきちんと丁寧に、かつ、時に熱く行なう。
そういったくだりを先生。議論をもってして、一対一で、ソクラテス的な対話をさ、したかったんです今日は俺。
でも、もう俺に飽きたのか、呆れられたのか、お疲れだったのか、これまでが特殊だったのか。いずれかはわからない。
ただ先生。いつもありがとうございますという感謝がもちろん基軸にございます。とはいえ今日はちと、寂しさを感じずにはいられませんでした。
「俺が暑苦しすぎるのでしょうか? 甘えているのでしょうか?」と、そのようにも思った。だが、そうじゃないと俺、いつだって訳のわからぬ精神状態になってしまうということ。これを、先の心理学者さま方の提唱の共通項から紐解きたかった。
そういった能動が空振りする日もある。先生お疲れ様です。もしかしたら「手前で考えろ」という、ほぼほぼ無言の回答だったのかもしれません。
いずれにせよ、困らせてしまったのであれば謝罪します。だって、問診でユングとかアドラーとか。面倒臭い患者で申し訳ございません。ただ、俺はその思索を引っ込めずに、目標に立ち向かいます。
こういうところが鬱陶しかったんですかね。だとしたら大変失礼しました先生。ということは正直1割未満くらいしか思っていない。
ただ、そんな野郎がいてもいい。ということを世間に証明すべく、先生。私は精進します。そのへんを気づかせてくれて、誠にありがとうございます。
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俺はイヌに愛着は無い。だが、イヌの気持ちはよくわかる。つまり、散歩が好きである。だから起きてまず、散歩をした。
特に行き先を定めず、川沿へ。生のイヌが居た。現に、イヌが散歩をしていた。そこに、共感はなかった。俺は、人間である。
東京都北区と足立区の境目の川沿い。そこを縫うように歩く。昨日は少し呑みすぎた。いつもくらいの量に加え、日本酒『鬼ころし』と同サイズの箱カップの赤ワイン180mlを2つ、ストローでジュゥゥと呑む。イヌ以下の所作で呑んで、寝た。とはいえ、二日酔いになる程度でもなくそこは安堵。
そのようなことは別に考えず、Uターンするように宅へ戻る。約90分の逍遥。
そう。人間は散歩のことを〝逍遥〟と、まこと腹立たしくも日常的ではない表現でそれを言ったりする。つまり、俺はイヌの気持ち、わかってねえな。
帰宅して机に張り付き真面目に仕事。手元の案件を進める。そして小説、これの第二作目の続きを書こうと思ったがちょっと、先にプロットを。というかプロットとは、原稿を、本文を書く前に作るのが不文律。だと思うのだがもうすでに1万字以上を原稿に書いている。
これをそのまま書き進めても良いのであろうが、途中で迷子にならぬように。加えて、〝命題〟を小説内で貫かせるために、プロットを拵えた。90分くらいかかった。
それは、やっぱり全10章にまとまり、「これを指針に書き切ったらとても面白いことになる」と、率直に思った。
AI編集者。俺は、最初に書き切った小説の執筆・推敲時に何度も彼にお世話になった。文章そのものの作成には立ち入らせず、文字通り「編集者」と見立て、評を頂き、客観性を賜る。それが用途としての中核。
ということでAIソフトにログインして、「私の敏腕編集者様。私が先に書いた初めての小説の執筆時には、大変お世話になりました。新作についてご意見頂けますか?」と、まず挨拶がてらのプロンプトを投じた。
すると、AI編集者は、俺の最初の小説の〝編集者〟としてのスタンスと俺と小説に対しての内容を全て覚えているという前提をもって返答し、“敏腕編集者様(笑)――”と、照れながら応じてくれた。AIには感情がない。だが、表現はできるということがよくわかった。
そして新作の書きかけの原稿とプロットを投じ、客観的意見を頂くと、忌憚なく、いいじゃないですか。と、総括するとそのようなことを仰っていたので、プロットにならい決行することにした。
また長編コースになる。だが、それは必然であるという意見は、AI編集者がプロットを吟味した上での評。
かなり大衆向け、大衆向けとか偉そうな立場で物を言っている訳ではなく、AIがそう言ったんだよう。そう、「ポップな」という意味合いで大衆向け、間口が広い、というニュアンスの草案を作品へと化けさせる。その全体図がみえたものだからソファで横になっても興奮して仮眠できなかった。
あとは音楽制作をして、内容が少し進んでは今日はここまでか――と、0時前を確認し、日を〆る。イヌだったら散歩して帰ってメシ食ってさっさと寝る。だが俺は人間だから、散歩してその際に熟させた思考を持ち帰り、具現化をはかる。行動する。
だから俺にはイヌの気持ちがわからない。しかし、行動の一部はイヌ同様だったりイヌ以下だったりするがしかし、イヌとか畜生であっても、俺と、みんなと、どこかで繋がっているんだよということは、決して忘れない。
何が言いたいのかさっぱりわからないが、要するに、気持ちとか感情とか生態とか行動とか思考とかプログラムとかディープラーニングとか音とか言葉。ぜんぶ繋がっている。そこをまとめて何の意味があるのかな。
人間ってそういうこと思索する存在。そう考えるとイヌってストレートで愛すべき存在だと俺は思う。愛着は別にないけど。いや、かわいいけどね。イヌ。
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実直に仕事をする。つかれる。いいつかれ。熱狂して小説を書く。原稿用紙10枚ぶん。気がつけば0時を、うお。思い切り跨いでいた。
基本的には、書きながら考えるというか、書くことと思考が同時進行というのが、文章を書く上での自分の基軸なところがある。
ここの文章なんて正にそう。だからしばしば文章が破綻する。だがギリ、一回の推敲でそれを直してギリ、文章として読めるものにする。読むに値するかどうかは置いておき。
今日あたりは、日の時間軸の隙間、隙間において、〝思考〟のほうが先に生じていた。
だから、20分ほどソファに転がって休憩していた時、「これ、頭の中にすでに、文章としてあるじゃないか」「これ、タイピングせずとも原稿に表せぬか」などと荒唐無稽なことを本気で思っていた。本当に本気で思っていた。
そんなこと今は――未来では可能になる気がしてならないが――不可能であるがとにかく、原稿用紙のWordファイルを開いてガガガと書いていたら一気に10枚。先の、〝頭の中にすでに〟ある文章に肉付けしつつ。
なんならもう、昨日作成したプロット内においてのキャラクター特性メモ起因か、キャラクターが脳内で生き出して、多分、生き出して、勝手に物語を進めていた。
それを小説の文章として書くから肌感覚、肌感として、ものすごい速さで進んでいった。
内容。俺はすごく面白いと思う。そうでもなければ先のいくつかの要素の脳内活動は起きない。なぜならば、〝面白がるという生産的な興奮〟があるからこそ、脳内ネットワークで、様々が、縦横無尽に踊る。ということ。
つまり、脳が踊っていた。それが文章となった。思考の文字起こしという表現を先月あたりしたが、それに付随する新たな脳内活動および手元の行為。これ、俺は好きだけど、人からしたら「雑」と一蹴されるのかもしれない。
だがしかし俺はどうしても、このやりかたというか仕組みというか頭、手の動かし方以外においては、スススとクククとした文章の書き方を知らないのである。
じゃあ学べ。というご意見を賜ったら「私はあなたの言う通り、善処します」というのが正しいのであろうか。
というか俺は、小説における〝正しさ〟という指標があったとしたら、そもそも書かないと思う。なぜならば、それが――正しさ――あったとしたら、誰でも書けるし、誰が書いたという個性化は図れない。そこに何の価値が。という雑感があるからである。
この思索自体は、やや「雑」だと思うが、そのノイズこそが人間らしさだとこう、思って。その表れ。それを消してしまうのは一律くらいの規模でおさめられる〝正しさ〟なのではないかとちょっと思った。思っただけである。
だからこの一連の営みが〝正しい〟とかそういう尺度ではなく〝面白い〟かどうかというのを問いかけたい。カッコつけてるな。楽しんでいただきたい。なんか迎合してるな。とにかく、俺は純度100%で面白がって熱狂している営みのその結晶が、結晶は本当にカッコつけすぎだな。すなわち、これはカッコつけさせて欲しいのだが、俺なりのスタイルで貢献したいんです。
だってその先には、自己の夢に直結する未来があるからである。
そう考えると、その規模でそういう思案があるならば、ここであっても、プライベートすぎる日記であっても、丁寧に書こうよ。
とも思うが、それだと、日記という文章に、その日のテンション感が記録されない。何を言っているんだろうと俺も思う。
ただ、いまのところ個人的にはそれ、大事かな〜と思っている。思っているだけである。ほらここ20分で書けた。
いや、総じて、速く書けますぜ自慢じゃないんです。おこらないでください。というかそれは――はい、俺が決めることではございません。すいません。
本当に、色んな意味での記録なんです。だからあくまで、日記なんです。「雑」って先に手前で言ったけど、ある「核」に注視すると、そうではないとう逆説もある。それをちゃんと、ひじょうにわかりやすく、丁寧に言語化できるように、精進いたします。
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踊る脳はひたひたと、その速度たるや如実あきらか、現象として俺を勘違いさせるまでに至るこれ、名前はついてないのかな。
小説を書き進め、正確には、昨日書いた箇所だけササと見直し、余白にたどり着く。すると、「あれ。保存し忘れたか」という、本気の疑いが生ずる。
つまり、「昨日書いたろうも」と、認識していたくだりが、実のところ原稿に記述されておらず怪訝。そういうことなのだが、事実は以下の通り。
頭で考え、もう文章としてあるやつ、それを書いた気でいたが、まだ書いてなかった。だからこう「書き忘れていた」と、外部SSDに保存してある、昨日の原稿の確認に至る寸前までいったということ。
どういうことかというと、いや、別に先の通りだが、つまり脳が踊りすぎてバカになっていたというだけの話である。
「書いた」つもりだったのは、単に「脳内ではできていた」というだけであり、「これから書くやつ」。これを、手前はてっきり「原稿に書いていた」と思い込んでいたという訳である。
いよいよかな、とも思ったがそこは振り切ろうと善処した。だって脳内でまだ踊ってるものだから、それを書けばいいだけの話。そんでもってさっき現に、書いた。踊る脳の通りとプラスアルファ、論理的な文法の助け舟も出して、文章として、原稿を進めた。
なんだろうこの現象は。と、思っただけの話だがこれ、音楽ライブで例えたら、時間軸は逆になるが「セッションで弾いたギターソロ、もう一回いま弾けって? いや俺も無理。できるなら聴き返して俺がそれ、耳コピしてから弾くしかない」。これに近い。
つまり、無意識と意識の狭間の脳内ネットワークのグルーヴの所業。カッコよく表現したかったけど死ぬほどダサい上に意味がわからない。
ただ、これ以上、抽象的という観点で精緻に表現できないことを謝罪する必要が、別にいまのところはないかな。あるところまで行ったら俺たいへんなことになってもう、酒とかやめても幸せに暮らしているかもね。下手なことを言うな。
なぜならば、“酒とかやめても幸せに――”という言いがかりは、〝酒により幸福を代替している〟と宣言していることになるからである。違うんだよ。
酒は友だち。怖くないよ。扱い方で下手を打つと、「怖い」のむこうぶちまで行くけどね。というのは何だろう。律しているように聞こえるが意味不明のむこうぶちに行っている。
すなわち、あえて専門用語を使う。
「デフォルトモードネットワーク(脳が意識的な活動をしていない時にアイドリング的に活発になる神経ネットワーク)」。まずこれ。
そして、「サリエンスネットワーク(外部からの刺激や内部情報から、特筆して重要と思われるやつを識別して、注意を向ける神経ネットワーク)」が、ごっちゃごちゃになっていたということ。それを俺はグルーヴと呼んだ。
なんで簡単に言わないんだよ。要は、脳の真逆のネットワーク・活動が、バチコイどんと来い。そんな状態であったということ。過去イチ意味わからねえな。
比喩。そういう時は例えが便利。
つまり、極端に言うと、「いま寝ている状態か、覚醒している状態か」。それらが混ざってたけど、「俺、ふつうに過ごしてますよ」みたいな感覚であったということ。
これならわかる。というか大丈夫かな。大丈夫。原稿にきちんと文章で書けたことでそれは、立証される。
立証されたかどうか、その内実を確かめるためにこれ、いま書いている。違う。日記だろこれ。なんだよ。なんちゃらネットワークとか――脳に関しての書籍を読んで感銘を受けた時期があった――ねじ込みやがって気絶寝して寝ろ。重複。ここで落とすという肝心なところで文章・単語・意味の重複。
そういう時もあるよね。ただ、それらを、もう主題すらわからないがとにかく、俯瞰してまとめて。〝「そういうことか」と整理することの重要性〟に、どれだけ人間の幸福な営みが関与しているか。
このくだりが、サリエンスネットワーク優位。言語化できなければ、デフォルトモードネットワーク優位。
安易に論じると脳科学者にボコボコにされそうなのでもういい。
つまり、「形になる前と、形にした後」。これを本気で勘違いしていたことにちょっとびっくりした日だった。それだけの話。
でもさ、それでも破綻させずに小説を書き進めらているのだから、そこは自己を評価なさいよ。ともあれ、ここの文章はもうなによ。ギターソロかよ。
セッションにおける、ギターソロは修復不要。そして再現困難。そこにこそ価値あり。
これが言いたかったのか今日は。本日のタスクの関係上、ギターに触ってすらいない俺がよく言うよ。ただ、一発こっきりのセッション・ギターソロみたいな生き方ができれば誰かに貢献できるかな。
なんていう綺麗な締め方しようとしても、もう遅い。文章破綻部分は一度の推敲をもってして直すが、内容の根幹そのものは、そのまま残る。というか残すところになんの価値があるのか。
その能動の閾下を書いているつもりだが、今日あたりは、〆まで、先の脳内ネットワークが拮抗していたね。という話。もはや話ですらない。ごめん。
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一カ月ぶりくらいに二日酔いに。それだけ最近、酒量抑えるもたまにこう、なると思い出すのはあのつらみ。
そのぶん惰眠となるから良いことはない。呑んでる時の代替的快感。それは翌日のなんらかの前借り。そんな風にいつか書いた気がする。書いたこと、忘れるなよ。
とはいえちゃんと案件やって、小説書いて、音楽制作をする。どれも、時間数の割にはけっこう「いったな」と案じれる地点まで進む。これ、なんでだろうと思った。〝時間数、いつもよりスリムながらも進捗よし〟という現象。
これも前に書いた。時間の絶対数とタスクの質は比例しないと。反比例することもあると。要するに、短時間でもスッと進むこともあれば、長時間かけてもたいして進まないこともある。この現象、名前ついてないかな。相対性理論が近いかな。
そんなこと言うとアインシュタインさんに、とかそういうの今日はいいや。相対性理論ちゃんとわかってないし。
だから今日あたりのいつもと違うやつ。トピック。そういえば、心温まるのがそういえばあった。
ユーザー、ある種の顧客とも表せる対象なので、個人情報と見做せる表現・内容は慎重に伏せるが、文通。これを複数のユーザーと交わしては、ほっこりしている。けっこう稀な事例なのだが、たまにこれがある。
仮に、メールのラリーがだるかったら、楽曲ご使用やご感想の旨は、一回で済むしむしろそれが普通。だが〝文通〟となることもあるということ。これがなんというか現代においてあまり無いじゃないですか。
だから俺はこう、心が浄化される面持ちで丁寧に、ここの文体とは真逆の、超敬語で想いに応えて想いを書く。それが人間味あってこう、健やかな精神活動となっているのである。ありがたいですよ。俺の楽曲を聴いて頂けたり、ご自身のコンテンツに利用して頂けて、さらには感謝の意を文章で頂けるんだから。
昭和の時代あたりまでは「交換日記」というやつがあった。
今はそれ、たぶんSNSがその役割を担っている気がする。しかし、交換日記のあのエモさは特有。直筆で紙というマテリアルを日々交わす。原始的、いや、記録や感情の共有の原点といった点で、すごくハートウォーミング。
それに近いことがたまにできる。これ、気づいちゃったけどすごく幸せなこと。そう。嬉しみとか幸福というやつは、感情ではなく、気づくこと。
それも前に書いたなここに。忘れるなよ。そう。忘れても残る。それが文章でありメールのやりとりであり、交換日記だったりする。
忘れても残るその感情や気づきは、現代ではこと、個人的にだが、個人的には希薄になりがちと、そう思うのだが、ちょいちょいそういうのがあるとやはり温かいっていいなということが言いたかった。いや、気づかせて頂けたという訳である。
人間の遠隔コミュニケーションの原点。シンプルに、お便りを交わして頂かせて、本当にありがとうございます。
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案件を進める。つまり仕事をする。これがなかなか、一日の大半を占めた。メシはちゃんと食べた。時間、このあまりにも人間にとって平等的すぎる指標に対し、ちょっとなんとも言えない気持ちになった。
つまり、どうしても小説は日々のタスクとして止めたくない。だがしかし、仕事に使う時間が今日は多い。とはいえ「ここまでは」という地点まではやりおおした。だがしかし、しかし、時間がもう今日に関しては少なかった。
じゃあいいか。どこに毎日小説原稿に向かう義務があるんだよ。
そんなことを一瞬でも思わないあたり、こう、俺は自分を評価してやりたい。まだ小説、世に出てねえけど。
そういうことが言いたいんじゃなくて、覚悟と姿勢の話なんだろうも。その営みを本気の本気でやって死ぬまで続けると決めた野郎が「仕事で時間なかったから今日はいいか。別に逃げるものでもねえし」とかほざいたら半殺しにする。
いやそういう痛そうなのはよそう。だが、執念という名のしぶとさと熱狂という名の、なんだろう、熱狂以外のボキャブラリーが今出てこない。つかれてるのかな。まあいいや。とにかく進めた。小説を。
気がついたら原稿用紙換算で5枚くらいは進めた。さすがにちょい、書き足りない、もっと今日書きたかったという気持ちになった。ともあれ、小説内のキャラクターたちが勝手に踊って、あくまでプロットの範囲内で、ぐるぐる踊っている。よく言って各キャラが立ってきて、なんなら主人公が薄くなってきたきらいがあるがそこは、起承転結という便利なやつがあるんだよ。
という風に楽しく書いていたら0時なんてとうに過ぎている。だからというわけではないが、日記もこのように早足で書いている。するとどうだろう。内容なんて実は一言で表せるのになんでこう長くなるかな。
今日は、「仕事多めで小説書く時間とれないかな」とか思っていたけど、その発想と情念の萎みを思い切り棄却。そんで結局は書いて進めてよかったねと。
それだけの話である。先の二行まで、このワードプレスというウェブを構築するソフトの画面上は二行なのだが、スマフォだと4行くらいになるかな。
まあ、そこの二行に辿るまで、踊っている脳が勝手に書いては前提というか前置きをクソ長くする。つか一回推敲したらこの後もけっこうあるじゃないか。何なんだよ。というかいつもそうだなと思う。結論から書いたことなどほぼほぼない。今度からそうしようかな。いや、そういしたところで最後に恣意的に冒頭の結論を翻したくなるのは明らかすぎるからこう、工夫しようか。
というような思案も出るあたり、思考を言葉で出力するって面白い営みだなとも併せて思った。
そうなると俺の思考、文字だらけではないかということになる。
しかし、このようにタイピングをしていない時点では別にそうでもない。たまに言語化不要のエロいこともたまに、考える。たまにね。
だからこう、思考を、共通認識という作用がはたらく「言葉」にして文章として、破綻ギリだが文章として、したためるのはこう、わりと爽快だよねということである。他の方々がどうかは存じ上げないが、俺は爽快。その爽快と表現した快楽が、他者への貢献に繋がったらもうね、最高に幸福と思っているのである。
美辞麗句と一蹴されても、手前は本当にそう思っているんです。そうでもなければ、売れまくる前提での小説を、1つも2つも書き続けたりは、こと俺個人は、できないと思っている。だがそれを絶対にやりおおす。今後もずっと。
「これ面白いわ」と方々で楽しんでいただける作品、作品とお願いだから言わせてください。玉稿を、言い過ぎた。作品つくりに熱を上げて今、物理的に両耳の後ろあたりがジンジンしている。それも悦。深呼吸が出た。
いっとき、ゆっくりしてから寝よう。酒もほどほどに。営みはほどほどに在らず熱すべし。俺、こんなに暑苦しいこと言う者だったっけなと今、俯瞰的に感じたが、それはこう、形で届いた時に「なるほど」と、手打ちとして頂けたら嬉しいなと。1月あたりからずっと思っている。
先々月あたり、占い師に、雑談ベースで言われた俺を表す一言〝執念〟ってこのことかな。
だとしたら、今のところは個人的にだが占い師さんお見事。的中しております。というのを作品飛散ベースで証明する。させて頂かせてください。そんな日本語はない。要は、丁寧に熱く在りたい。というだけなのかな。そういう指針のなかで生きるのも、すごく楽しいなという訳である。
_06/11
昨日のフル稼働に今日のフル稼働。それって普通のことなんだろうけど、その密度はきっと、人による。俺がどうなのかは、社会的尺度としてはちと、わからないがつまり疲れて夜、横になった。
さも倒れ込んだかのような言い回しだがそうではなく、シンプルに休憩。YouTubeでギャル霊媒師のチャンネルを流しっぱにして、気がつけば一時間寝てスピリチュアルの世界へ旅立っていた。
という印象があったようで実のところ毛頭なく、ムクリと現実に戻って小説を書く。昨日より書く。不思議なのが途中で手が止まらないという点。これをどうとるか。
「ただ言いたいだけのことを書いているだけ」なのか「すでに頭の中で踊っている思考を文字起こししているのか」あるいは「プロットがあるから迷いがない」はたまた「そもそもそういう書き方は一般的ではない」のか。
どれも考えられるが、ひとつ断じられるのは、ひじょうに楽しく書き進められ、「想像」「体験」「物語性」「教養」「ユーモア」「問い」「メッセージ性」という七色のレインボー要素が交差しては小説、これを小説にするという根幹から逸脱しないように、ひたすら書けているという事実である。
まだ出来ていないのに何を偉そうに。しかも教養だと? とも思うが、思考の俯瞰的な棲み分けとしては、先の七色が適切だと俺は思う。
舞台は東京都新宿区都庁付近の高層ビル。まともの皮を被った人格破綻者がビジネスシーンや俗世の場面で、世間と自分との甚だしき差異と対峙する。どの立場こそが〝社会という文脈で誰が正常であり、誰が異常なのか〟。現代の人間の営みと関係性と在り方について、一般的に共感できる日常と、甚だしい驚怖の描写を絡めたエンタメ現代文学。
というのにしたいのだが、それ書けたら大したもんだという気がしてきた。というか書き進めているが、個人的には今の所すんごく面白いし先の七色の要素がバランスよく交差している。
なんというか、今回は「いかにも」な内容だが「うん……?」という後味が深く残るやつにしたい。という草案から始めた。
書き上げられるのかな。今の所2万字ちょい。けっこう書いたな。というかその文字数、ここに今月に書いた、現時点までのボリュームとほぼほぼ同一。どっちが日記でどっちが小説だかわからなくなってきた。ということはなく、明確に筆致を書きわけている。つもりである。
今になって思うが、小説というのを書き始めて、小説そのものを書き、それについて同じくらいというかそれ以上、ここにそれについて思うことを書いている。
ということはやはりこれは日記。原稿の方は小説。と、明確にわけられるのだが、よくもまあここまで「書いてまっせ」主張をするものだなと手前、ちょっと恥ずかしくなってきた。
プライベートな文章において、恥を抜く必要はない。抜いた場合は今日の日記は以下のように一行で潔く済む。
今日は仕事つかれたけど小説も進めてよかった。めちゃ出版したいな――。
これを刻んで、広げて、配置して、構築すると、一行では済まない。というかなんで済まさないのかなとちょっと右を見て考えてみた。するとわかったのは、何度も書いているが、思考の整理と言語化の習慣化および訓練。そのような役目も担う。
じゃあ手打ち。ということでもう今日あたり言いたいことは――まだある気がする。そう、先の、今書いている小説のあらすじの〝東京都新宿区都庁付近の高層ビル〟という舞台は、俺が30代の頃に勤めていた企業での体験を含むということ。
当時――その企業に勤めていたジャスト5年間――は、ほぼ一切、ここにはその旨を書かなかった。それが今、だいぶ発酵していい味になっていた。だから、小説の舞台および主人公の立ち位置としたのかなと、今更ながら気が付いた。
一行で今日の日記を潔く済ませたら、この点に気づけなかった。すなわち〝思考の整理と言語化の習慣化および訓練〟に成功しているということに帰結する。だいぶカッコつけてるな。はい。書きたいから書いているだけです。ここは。
ただ、もしも文章力という尺度がこの世にあるとするならば、毎日一行だとそれはどうかな、とも思うがその考え方ちと、なんか偉そうで腹立たしくも映る懸念もあるので人様に言うのだけはよそうかな。
_06/12
逍遥すなわち散歩に出る。起点を赤羽として西だか北だか、既視感のない道をあえて選ぶ。ネコが居た。
彼らは二匹とも住居と路傍のあいだで憩う。察するに飼いネコかと案ずるも見た目が自由。こう、整っていない。自然に雑。そのような風貌からまあ、どっちでもいいかと歩き続けるとネコが居た。
彼も同様。遠目に見る彼はこちらをやや警戒しているもようなので邪魔はせず。彼の営みに立ち入らず道を進んだらネコが居た。
茶トラ模様の彼――ネコにおいて茶トラ模様はほぼオス――はこちらに関心を寄せる所作。
俺は「よす」と挨拶をする。すると彼は「アァァ…」と、か細く返事をした。これはなかなかと案じた俺は今一度「よっす」と挨拶を重ねた。するとやはり「アァァ…」と同様に応じる。面白いのでそれを計5回、「よっす」「アァァ…」という、ひとつも盛り上がっていない音楽ライブに於けるコールアンドレスポンスに似た交流を挟み、道を進んだ。
気がつけば十条駅直前にそびえ立つのタワマンが見えてきた。つまり近くは十条駅。このへんで既視感は確かなものとなり、散歩の質が変化した。じゃあいいか。そのように思い、駅近くのブックオフに立ち入る。立ち読む。
『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という、数年前に発行され、わりと話題となった(なっている)漫画を立ち読む。〝どのようなテーマで人気となった物語性か〟という、普段とは異なる視点でそれを読んだ。すると、タイトル通りであった。
スーパーの裏の店員専用喫煙所。そこでの主人公と魅力的な女性キャラとの邂逅。そこからの男女における様々な想いの交差――第一話から一巻の半分少々まで読み進める限り、ほぼ全て、そのテーマと描写で一貫していた。そして、二巻もあった。いま調べたら約3年前から始まり、現在も連載中の作品とのこと。
そこで俺は思った。かなりニッチな舞台かつテーマとはいえ恋愛模様がベースとなる作品。これだけで大ヒットとなる。そこにある〝売れる要素〟という事実を、どう自分なりに抽出するかということを。
もちろん、書き進めている小説に照らし合わせてみた。
今日書いた部分は、会社内での会議のシーン。それがかなり長く、とはいえ個人的には冗長とは思えず、とにかく、ひとつの場面や描写で長く表現することの重要性の質の捉え方に変化が生じた。それは、喫煙所での二人のやりとりがメインである、先の漫画作品を読んだことが起因である。
小説に於いては、今書いているものは「起承転結」を明確に意識している。
現在は第三章にあたる部分の後半で、明らかに〝承〟にあたる部分。これが長いが大丈夫かという懸念が若干あったが、先の漫画作品のニッチな描写一点突破からある種のヒントを得たという訳である。ちなみに、個人的にはその漫画作品、魅力的であると思った。
最初に書いた小説は、もの凄い情報量をひとつの命題で貫き、物語とした。次に書いている今のやつは、なるべく場面展開などは控えめに、人間そのものの描写をメインにしようという想いで書いている。だから、先の漫画作品を読んで、2つの意味で大きく頷けたのである。
今日あたりは、フラフラして立ち読みしてサボっていたわけではなく、案件も進め、小説原稿も書き、レコーディングをするべく、久々にアコースティックギターの弦を張り替え、梅雨特有の錆びた弦の香りに悶絶しつつパート演奏を練習した。
さて、コンデンサーマイクを立ち上げて、アコギ録音時のコンプレッサー設定を緻密に行ない――という段階の手前で0時前を確認。ギリでこの場に滑り込むようにログインし、今にいたる。
宅から散歩に出て、道を歩いて動物と触れ合い、書店である種の取材をして、宅に戻って仕事やら書き物をしたり楽器を弾いたりする。かなり狭い範囲の場面内での出来事である。
だが、これだけでも、思い切り圧縮しても、本文2,000文字くらいかな? それくらいのストーリー、物語というほどドラマティックさはないが、営みの立体感は文章として出せる。
例えばこれを、つまり今日の日記を1万文字で書け。いや、日の〆にそれは地獄じゃないですか。というタスクが与えられたとする。ともあれ、できるといえばできる。
何が言いたいのかというと、どんなところにでも物語のテーマ性、描写の礎というのはあるものなのだなと、そこに意識的に気づいたということである。
そんなことね、こう、ツラツラと書くあたり、実は12年前から知ってたはず。
だが、クッキリ明瞭に論じられる、論ずるとかたまには言いたいんです。論じることができる、できてるかは、こう、ここまで読めればそうだと断じてほしいんですけど、こう、12年間くらい日を記すと、そういう風になるのかなと少々、思いました。なお、カウントしたところ、本文の文字数は1,950文字。
なんか惜しかったので、規定文字数にほぼほぼ則る必要がある「紙面に於いての書き仕事」を意識して、ジャスト2,000文字にしてみる。ここでそれをやって何の意味が。いや、ある。そういうことをやり進めていく前提姿勢があるという意思の表れ。とか書き足してたらやべえ2,000文字はみ出た。
_06/13
『代紋<エンブレム>TAKE2』という任侠漫画がある。大ヒットした作品であり、俺が10代、20代の頃に好んで読んだバイブルでもある。
任侠モノをバイブル。そのように表すると、さも俺が尖った人格である表明とも捉えられるがそこはちょっと違くて。ただ、〝任侠モノ〟という、ある種の〝形式・様式〟が備わるジャンルが好きなだけ。その中でも先の作品は素晴らしいと思っていた(いる)だけである。
なぜ、その作品を今日持ち出したのかというと、日中、仕事をしていてそれを想起する場面があった。そこから、当該作品の内容を思い出しつつ、「主題・ストーリー」という点に注視したからである。
どうして注視したかというともちろん、書いている小説のテーマ性をいかに、縦に、横に、広く、あるいは深く――どの志向性が魅力的な小説に成りうるかということを考えたからである。つまり、昨日ここに書いたことと似ている。
その任侠モノ漫画は、いわゆる「タイムリープ」を起点としたSF要素がある。
そこから、任侠モノの王道の描写が主軸となり、どんどん物語は横に、広く、大いなる各要素を集約し、普遍的な任侠モノとは一線を画した作品と進化していった。
ラストは――いわゆるネタバレになるから伏せるが、〝物語〟として必然的な締めくくりであった。
そう、そういう風な書き方で、いま書いてるやつを進めたら――と、思案したということである。
だが、そちらのアプローチをとると「最初に掲げた命題が絶対に散らかる」と判断した。そこまで横に広くすると、いわゆる〝詰め込みすぎ〟となると断じた訳である。
だから、あくまで、このあいだここに書いたその小説のあらすじを、深く書くことにする。つまり、アクションや派手な展開に広げるよりも、人間模様とその心理描写。これらに重きを置く。これなら迷いなく書き進める。
そのように思いさっき原稿用紙12枚ぶんくらい書き進めては、「面白いと思う」という率直な、手前の感想がちゃんと出たので、指針をフレキシブルに固めた。
というのも、途中で「それに非ず」という要素が出る可能性もあるからである。だから、命題・指針は鋼鉄の軸だが、柔軟性は常に持っておこうという逆説的な思索を捨てないということである。
要するに、昨日今日と、他の作品からヒントを得て、書き進めていた。そこで〝いかにしてブレさせずに完成させるか〟という重要なポイントを確かめたということである。併せて、それってけっこう難しいことなのねと実感したことである。
『代紋<エンブレム>TAKE2』という任侠漫画は、俺が10代、20代の頃に好んで読んだバイブル的作品。
俺が書くやつも、誰かにとって「バイブルです」とか言われたら、言っていただけたら、俺は幸福感で卒倒するかもしれない。
なにが言いたいのかというと、俺は、刺さった作品に対してものすごく敬意を払っている。だから俺にもフィーチャーしてくれ。という訳ではない。ちょっとそういう欲もあるけど、大枠はそうじゃないんです本当に。
真剣にやってますと、しこたましつこすぎる野郎だというほど、このように言語化してまとめる営みも、こと今に関しては日記書いているだけだが、とにかく、面白いのをつくって、広く誰かに貢献したい。それが根幹にあることは掛け値なく、宣言していいと思う。
偉そうで吐きそうな綺麗事に聞こえるかもしれないが、案外、〝誰かに面白がってほしい〟という能動は、〝自分のために〟という能動を遥かに凌駕する。ということを、ちゃんと世間様に吟味していただいた上で、立証したいなと思った。
なのにそのバイブル全巻、なんでブックオフに売り飛ばしたかな過去の自分。どうかしていました。『代紋<エンブレム>TAKE2』の著者二名様、ごめんなさい。どうかしていたんです。
でも、その敬意は、今も生き続けている。
そしてここから膨張させて飛散させる。そのつもりであります。だから、書いてます。売ったことを本当に後悔している。そんな感情も、またひとつ、別の作品に昇華、カッコよく言うとそれ、できればいいなと思わせてくれたのは、素晴らしい作品を世に出してくれた、各創作者各位であると手前あたり、僭越ながら思います。ありがとうございます。
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生命の潤いとは非なる湿度とも恣意的に感ずる天候。それは、東京・銀座という一等地に対しては不適切な表現ともなる。つまり、仕事でその地に午前中から居たが、蒸し暑かったな。ということである。
〝もうひとつの家族〟とも表現したいクルーの方々と一日過ごし、しっかり楽しむ。ひと段落して夜。ビールを賜る。そして帰宅。さて、仕事机にてさらに案件を進めようかとも思うが呑んでいる。じゃあ明日に持ち越すかと冷静に案ずるも缶ビール1杯はノー・カウント。
とはいえ、進めようとしていた案件の内実は「校閲」の仕事。これには注意力と集中力とクリティカルな観点が必須。
だから、ノー・カウントとは述べたがこの業務は一滴たりともアルコールが入った状態で行なうことはプロフェッショナルとは言えない。
前提として俺は校閲のプロ一筋ではないが、その「意識」はめちゃめちゃあるので今日はやらず。それが賢明と見做す。
じゃあと思い、じゃあと思わなくてもやるが、小説を書き進める。気がつけば4,000文字くらい書いていた。こう、迷いなく。
そして更ける時間を鑑み、一旦止める。そこで思った。俺がとにかくこの小説の続きを、まずは俺が読みたいと。
それはいい傾向。それが習慣化されればよい循環。面白いとか続きが読みたいとか思ってるのが俺だけだとしよう。地獄。いやそんなことはない。断じる。
ともあれ、営みそのものは是。「読みたいのが俺だけかどうか」は、とてつもない変数。だからこう今、思わず「ギャンブルに近い」という比喩が閾下を突破しようとせり出たが引っ込ませた。
わりと的確かもしれないが、俺はギャンブル行為――もがき苦しんだ公営ギャンブル遊戯地獄中毒ないし依存というか廃人時代――を禁忌としているから比喩ですら今は用いたくない。こと、小説、作家としての活動の文脈においては。
ということで、「どうして手前が、続きを読みたくなるほど、書いているのか、そう思えるのか」ということを思案した。2個しか理由がない。
01. 本当に面白い
02. 非生産的な自意識の拗らせ
惜しい。前者は前提であると信じている。後者。〝非生産的〟という枕がなければむしろ、それは必要なファクター。ただ、小説原稿を書いている時はこれらのことは別に考えていない。ただただ踊っているだけである。
その踊りがグルーヴとなるか、拍手を得られるか、爆笑してもらえるか、嘲笑されるか、考えている暇があったら書け。とも思うが正直、ここのところの疲れが如実に明るみになって、銀座からの帰路はヘロヘロになっていた。
だが不思議なのは、原稿を書くとそれがどこかに。どこなんだろう本当に。端的に、飛ぶのである。
それでもって今、日記を書いている訳だが、文章の質・文体・筆致は置いておき、とにかく、思ったことをそのまま書いている。日記ってそういうものだという認識に相違はないだろうか。
誰に問う。日々の営みその報せ。人は言う。誰が死んで我存ぜぬ。俺思う。そんな野郎が生きていました。だからどうした。
その旨が、以上の日単位の文字の営み。美味しい。今、角ハイボールの「かたいやつ」呑んで書いてる。正直に言う。
なお、「かたいやつ」というのは「アルコール度数が高い」という指標を告げるカジュアルな用語。いや、俺が発端ではないですよ。銀座の御仁がそう仰っていたからこう、記録して、そこに何の意味が。
_06/15
休んでふやけて海の藻屑くらい沈んでいたい。かもしれない。という心境は「休日」への希求。しかしそれ面白くないなとマグロの如く回遊すべし。そのように決起して、各タスクを進めては合間にスーパーに行って本当にマグロのブロックを買ってきた。おいしそう。
案件、小説原稿、楽曲制作という3つのタスクをする中、散歩にも行く。赤羽台団地の43号棟付近の俺的な聖地で憩う。
遺産扱いとなった旧・各号棟と団地ミュージアムに新築マンション群の狭間。そこに設置された、まな板のようなベンチ的な場所が最も落ち着く。微精霊とやりとりしているかのような、実際にそうなのかもしれないが、ここに来ると必ずそのような心境になるのである。
20分ほどして気が済んで、コンビニで立ち読みをする。かつて20代の頃まで毎週購入していた『ヤングマガジン』を。
すると、当時とは時代が何周かしたもようで、どの漫画も絵柄が近代的というか可愛くて小綺麗。というかエロい要素が根幹にある作品が多めであった。
そうか。と思いつつ、新連載もあったので一通り読んで思った。第一線で連載される漫画の共通項、それは、読者に求められていることが描かれていることが大きな要素であると。
そうなってくると、俺が書いている小説はどうなのだろうと、やはり思う。
最初に書いたものはシリアスな私小説に近い。だが、今書いているのは意図的に間口を広く書いているつもりである。
漫画だとエロティックな――つまりわかりやすいということだろうか――エッセンスを含ませることがある種の近道。といったらやや失礼にあたるかもしれないが、事実として、今日読んだ雑誌はその傾向にあった。別にそこに是非など提言するつもりは毛頭無い。
だからという訳ではないが、今書いているやつは、恋愛要素からスタートする物語であるからして、あながちその、〝受け入れやすい漫画の要素〟というのが含まれている。一旦そのように判断しつつ進めていいのかなと、そのように思った。
わかりやすい描写やストーリーなのだが、実はテーマはものすごく読み手の深部にまで至る。それが理想。これらを包括して、まあ、書き出した当初からの命題とか毛色にブレは無し。そのように、先のヤンマガ立ち読みから手繰った思案と比較と考察。
最初に書いた、シリアス優位の小説が求められるのか。今書いている、わかりやすさ、楽しさ優位の小説が求められるのか。
「俺が書くにあたって」という前提で、どっちの方向性が喜ばれるか。それはね、生身の編集者や読者にしかわからないことに着地する。こればかりは自分ではわからない。
ということで、今書いてるやつは、最初に書いて投稿した小説とは真逆寄りの毛色である。ともあれ、自分が書いた小説ですよという匂い、すなわち漫画で言うところの「タッチ」のような独自性は保っているつもりである。
それがあれば、それをもってして書き続けつつ読者に受け入れられれば、いわゆる〝作家性〟というのが認められるということなのではないだろうか。ここに帰結した。
そうなってくると、海の藻屑みたいになっている場合ではないと、各タスク予定以上くらいまで進めて安寧な心持ち。だがちょいクタクタになったからマグロ。あれを切り刻んで食べて回遊魚のようなスタミナとスピリットを得よう。
酒呑んで肴食べてる時そんなこといちいち考えてないけどこう、今年になって全部、もう全部、小説に結びつけるこの思考回路。成就して飛散させたくてしかたないんだろうね。
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日本屈指の歓楽街・新宿歌舞伎町の描写は難しい。何故ならば、あの、原色をすべてブチ込んでそれ、お前、何色だよという光を放ってはいつになったら消えるのか。酒に女に博奕にホストにあと、書いちゃダメなやつ。色々ありすぎて、雰囲気の描写が難しい。
というのも、俺がさっきまで歌舞伎町で遊んでいたというわけではない。
書き進めている小説において、会社帰りで主人公が歌舞伎町で「目的」を吟味する。そのくだりで、当該エリアの香ばしい情景描写が必要となったからである。加えて、その街に対する主人公の心理描写も必須。ということでそのくだりだけで原稿用紙5枚くらいいってた。
今のところ、そこに「体験を含むリアリティ」はそこまで入れていないが、ねじ込んだ方が説得力というか〝魅力が増す〟という想定は真っ当であろう。だから今、想起する。
――俺の歌舞伎町での実体験でありそのリアル。いくつかある。
遡ること西暦2000年。ギャンブル漬けで金に困った俺はバイト情報誌で「高収入!」という一文だけにフォーカスし、歌舞伎町の飲食店へ面接に行った。
勤務にあたっての条件は、覚えている限りだが、業種は「飲食店・接客・未経験歓迎」あたりしか記されておらず、必要なのは「スーツ着用・履歴書持参」くらいであった。
なけなしの金で、紳士服店でスーツを買い、着用し、現地に行くと、指定場所の街角にて、誠にチャラい男が俺を歓迎してくれた。
そして俺は新宿区役所通りと新宿ゴールデン街の狭間のエリアに連行された。チャラい男は〝将門(マサカド)さん〟といった。
彼はとても優しく、俺を持ち上げるような口調で言った。こう、何度も連呼した。
「いやあ! 君なら絶対にナンバーワンになれるよ!」と。そこで気づけ。だが世間知らず過ぎた当時の俺は「はあ」としか言えず、実態が何もわからずのまま、『野郎寿司』の向かいに位置する雑居ビルに誘われた。
トントンと面接の場面となり、そこに居たハーフの男が面接官だった。ここでもお俺は「いやあ! 君なら絶対にナンバーワンになれるよ!」と、連呼されては少し気を良くした。しばらくして恰幅の良い中年が現れた。
すると店内に居た10人ほどのスーツ兄ちゃんたちは直ちに起立し「お疲れ様っす!!」と、威勢良く挨拶を揃えた。男はドス黒くも低い声色でこう言った。
「おう? 新人か? いいじゃねえか男前だな? ナンバーワンになれるなこれ?」と。
控えめに言ってヤクザ者。というかそうとしか当時の俺には語彙が見当たらなかった。つまり目の前にヤクザがいて、若いスーツ兄ちゃんたちはそれに服従の態度を示した。
「おう? 初めてか?」
「はい」
「大丈夫だからな?」
「はい」
「わからないことあったら将門に聞いてな? 最初はヘルプからな? わかるか?」
俺はようやく、やっとここでわかった。「ここホストクラブじゃねえか」と。
「――わかりました」
「今日からやってみっか? お?」
「わかりました」
「源氏名どうするかな? おう、将門〜? 何がいい?」
「平吉くん! 何がいいと思う!?」
「わかりません」
「平吉くんか? 下の名前なんていうんだ?」
「賢治っていいます」
「おおいいじゃねえか? 〝ケンジ〟でいこうぜ? な?」
「わかりました」
「源氏名が〝ケンジ〟ってもうお前? 天職だぞ? ぶははははは!」
「わかりました」
これは創作ではない。実体験であり、かなりセンセーショナルな事案であったため、俺の長期記憶にこびりついているのである。なお、脚色すらしていない。
「じゃあ将門な? ケンジ頼んだぞ?」
「わかりました! よしケンジ。じゃあ最初ヘルプだから、お客さん来たらオレの横ついて、灰皿とかはこう――」
「わかりました」
「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」「いらっしゃいませ〜!!」――!!
客の若い女性が来るなり全員大声でもてなした。俺は将門さんの横についた。おしぼりは三角形にたたんで立てろと学んだ。将門さんともう一人、そして女性客。そのテーブルに俺はヘルプとして着いた。
「――ほんとですか〜!(笑)」
「いやいやマジだって!」
「ぜんぜん美味しくないですよそれ〜!(笑)」
「いやいや! こうぐるぐると回すんだって! わかるっしょ?」
「給食のおばちゃんのやつじゃないですか〜!」
「なあケンジ! わかるっしょ?」
「は、はい! こう、底の方からぐるぐると、俺もやってましたもん!」
「絶対ウソじゃん〜!(笑)ウケる〜!!」
などと、一つも面白くもなければ中身もない雑なトークに巻き込まれ、そのネタだかなんだか知らんが俺も一応言葉とノリを被せて、ヘルプの役割をひとつ全うした。気がする。
「あ、ケンジ……ちょっと一旦、あっちで洗い物ね……」
「わかりました……ごちそうさまでした〜!」
「あはは!(笑)新人君? またね〜」
「はい! またすぐ回しにきますので!」
「もういいよそれ〜!(笑)」
これは創作ではない。なんの捻りもないが盛り上がっていたトークの内容もいわゆる原文のままというか現場のリアル再現である。
そして俺はテーブルから離れ、すこし暗い灯が印象的だったキッチンでひたすら灰皿を洗った。
ここまでのくだりで俺は――端折った部分もあるが――4、5時間はそのホストクラブ『ゲット・ミー』という店で体験入店をしていた。まあ、勤務時間を鑑みると半日ということになるだろうか。
「なるほどなるほど」と、20歳の俺は洗い物をしながら思った。そしてさらに正直に思ったのは「何だこれ」という率直な本音。そして俺は意を決した――。
これ、最後まで書くとあと数十分かかる上にもう夜も更けているので明日にもちこそう。日記なのにそういうスタイルは今まで一度たりともないが、あえてそうする。
何故ならば、今日の文章の発端は、〝小説内における新宿区歌舞伎町の情景描写に加えるエッセンスの吟味とリアリティを伴う記憶の発掘〟だからである。
そう。ここで雑に書いて、あと三段落くらいで〆ることもできるが、日を跨いででもここはきちんと書ききる必要性を感じた。
それは、先の一節が最たる理由であることに加え、〝情報量や情念や描写を、日を跨いででも記録するべし〟という、一日単位での思いもあるからである。
何が言いたいのかというと、それほど俺は小説を書くことに真剣に向き合っているということである。ぐるぐると、底のほうの美味しい部分までかき回しては浮上させるように――全然面白くねえよあのくだり本当に。
_06/17
歌舞伎町での1日の懐古。そう。俺は『ゲット・ミー』というホストクラブに体験入店した。20歳の頃――。
――ふと我に返り、俺は思った。「何してんだ俺は」と。洗い物をしながら、0時をまわった頃だったか、そのようにくっきりと思った。違うだろと。
そもそも、俺はホストクラブで働く意欲は全くなかった。なのに、ヘルプで接客をした。謎のトークが盛り上がっていた。もういいだろ。ここまでで。と、当時灰皿を洗いながら思った。
当時、〝倫理観〟などというものは一ミリも持ち合わせてなかった当時の俺は、そのまま黙って店を出ようと思った。本気でそう思った。しかし、生粋の歪曲した生真面目さがそれは許可せず、中間の判断をした。
洗い物をしているキッチンの横に、手書きで辞意を記した紙を目立つように置いて、こっそりと店を後にした。終電の時間はとうに過ぎていた。
その時の俺には「どうしようかな」という選択肢はなく、財布に確か二万円くらいは入っていたので、歌舞伎町の西寄りの通りにある『東南荘』という雀荘で始発まで打つことにした。
20歳という若さで歌舞伎町の雀荘で一夜を凌ぐ。それは、界隈の猛者たちの格好のエサそのものであるが、その店に行く直近まで、俺は高田馬場の雀荘で働いていた。
店員も卓に入る――4人揃っていない卓に実際に入り、客が来るまで店員が〝メンバー〟として金を賭けて普通に打つ――スタイルのいわゆるフリー雀荘での日常が1年ほどあったのである。
つまり、麻雀の腕には自信がなくもなかった。だから、数時間、その歌舞伎町の雀荘で金が尽きることなく打てていた。
その際、何度となく、左ポケットの携帯電話のバイブが作動し続けていた。全て同一の知らない番号からの着信。どう考えても『ゲット・ミー』からの連絡。だが俺は無視して打ち続けた。
そして朝。始発の時間を確認し、雀荘を出た。成績はというと、確かちょっと勝ったという記憶だが、ここは鮮明ではない。とにかく、一夜を凌いでエレベーターで一階に降りた時の曇り空の明るさはよく覚えている。
少し落ち着いた俺は、着信の番号にコールバックした。電話口は、将門さんだった。
「――どうしたんだよケンジ!」
「いやその」
「黙って帰っちゃだめだろ――」
「すみませんでした」
「とりあえず別にいいからさ、戻ってこいよ!」
なぜか、将門さんは怒っていなかった。逆だった。普通、こういった俺の行為を当時は〝バックれた〟と表現していたわけだが――職場において最も許されない行為――将門さんは俺に説得を試みていた。熱く。
「本当にすみませんでした」
「いいからいいから! 戻ってこいって!」
「いやその、元々そういう所だとは知りませんでした」
「大丈夫だって! 絶対にナンバーワンになれるからケンジは!」
「すみませんでした――」
と、電話を切った。着信拒否までした気がする。最低最悪の〝飛び方〟――バックれるを今風に言うとこうだろうか――をした。つまり無言で、紙だけ残して俺はホストクラブを半日で飛んだ。それだけの話である。
だが話を戻すと、書いている小説の歌舞伎町の描写。主人公の心理描写。体験談としての回想。
これらにあたっては、わりとリアリティが滲むというか、完全なる一次情報すなわちリアル体験。
じゃあ、ねじ込もうかなと思案しているがさっき、すでにもうねじ込んだ。すると、うまい具合に物語に馴染み、主人公の人格の源泉を照らす、いいファクターとして作用する感触を得た。よし、それなら面白いと、躍起になって今日も小説を書き進めていた。
というかこのホスト体験のくだりは、もしかしたらここに一度書いたような気がするが不明瞭。だが、ここまで精緻に書き、さらに原稿小説のいち要素として挿入するという役割を担うとまでは思っていなかった。それほど、昨日今日つらつらと書いた内容は、記憶に濃く残っているのである。
そういうのが元にある物語って面白いと俺は思う。他者様がどうかは存じ上げないが。とにかく、最初に書いた小説もそうだった。〝体験〟がベースにあった。だから今回も、創作が多めだが体験は重要。つまりここに帰結する。
なんだかそういう青臭過ぎた頃のことを、明瞭に思い出しながら書いていたからか、今日あたりはずっと体調がよかった。
青年が歌舞伎町の香ばしい雀荘に飛び込む。そんな無謀さと元気さとチャレンジ精神。最後のはちょっと違うな。ただ、そういった体験がある種のベースとなって人格形成の一要素として確立し、今に至るのかな。などと、しんみり回想。
もしも、あの時、あの店に居続けて、本当に〝ケンジ〟がナンバーワンになっていたら今の俺は――。
既視感がある。確かここにいつだったか、このくだり、わりとラフに書いた気がしてならない。
ともあれ、それを小説内のひとつのくだりとして昇華させること。それは、やっぱりいまだに〝恥〟という記憶の分別として濃く残っているのだなと今、自覚した。
「ホストクラブではないところでナンバーワンになろうよ」と、俺は源氏名ではない俺を鼓舞することでなんか納得した。
なお、俺はホストクラブを舐めている訳ではない。ホストクラブのナンバーワンは本当に凄いと思っている。ただ、当時、きちんと対峙してくれた将門さんや『ゲット・ミー』のみなさま。本当に申し訳ありませんでした。
_06/18
今日やると決めたタスクを全て行なう。だが途中、長時間通話における、〝一対一の対話〟というくだりがイレギュラー気味にあった。
それは、俺からしたらひじょうに有益かつ生産的でしかない。だから、ちょっといま、かなり宵っ張りになっている事実があろうが、むしろ感謝をしている。
とはいえ、いかんもうこんな時間か――今日は小説を書き進める時間がなかったな。などと言って寝る。それは認めない。
――とまでは思っていないというか、その思考が湧く前に、先日の、20歳の頃のホストクラブ体験の内実、あれ何だったんですかね的な案件は、小説にねじ込んで馴染ませた。
おいまて、現状、プロットの3割までなのにもう5万文字くらいいってるこの第二作目。大丈夫か。
そのように少々、思ったが、とにかく、そんなものは結末まで書ききればどうにでもなる。「推敲」という便利な工程があるんだよと思いつつ、奮い、案外けっこう今日も書いた。
俺は、書き進めてる小説を面白いと思う。だが、〝一対一の対話〟における相手のリアクションや共感度、理解の相互関係。これらを鑑みると、尺度として比較すると、「読者として対峙してくださる方はどう感ずるか」。そのように思案した。
という風に字面で見て思ったが、実のところ考えてはいない。ただ書く。書いて、初稿を完成させて、推敲をくるくると適回数やる。それでどうなるか。
最近はずっと一緒のここの文章というか日記。全部、結局は「小説を書く営み」に結ぶ。
というかもう、くたびれていて俺がいま何を言いたいのか如実にわからなくなってきた。弁明してくれ。どこぞの哲人さまよ。
〝一対一の対話〟を基軸とせよ。
さもなくば、〝あなた〟の人生は誰かのものになる。
だから――自分の営みを貫く――〝あなた〟がやるべきこと、そして、〝あなた〟が自己で在ることを見捨てないでつかあさい。
――ありがとう。そうですよね。
一日の予定を、台本みたいにスーーッてなぞるのもいいけど、大切なことは死んでも譲るなと。そう仰りたいのでしょうか。わかりました。というかそうしました。
その結果、いま俺は、少しだけ酒を呑みながら深夜。日記などを書いては現実・現代の大切な相手との〝対話〟を重んじ、結果、26時を過ぎていたとしてもそれこそが自己の営みであると断じます。あなたは誰ですか?
あなたは、最期に、弁明をしたけど、通じず、法に従い、「悪法もまた法なり」と捨て台詞、いや失礼。嫌味を、すいません。自己を貫き、毒杯を呑んで死刑に応じたのですね。あなたみたいなスタンスでありたいです俺は。死刑以外ね。
世間ではそれをロックンロールと呼ぶ者も居れば、愛とも吐き違えそうになる俺とかも居れば、まあ、いろいろ居ます。
ひとついいでしょうか。私の弁明を。
あなたはカッコいいと思います。ただ、寿命前に死ぬことは、なんというか、どうだったのでしょう。
あなたは、弾劾に対して弁明し、あわよくば国家から断じられた死罪を免れることもできたでしょうか。
でもあなた、意味不明ギリのこと、カッコいいこと言って死んで伝説になって今、2025年の俺があなたの思想って呼んでいいでしょうか? それを持ち出して〝一対一の対話〟を夜に、大事な人としていました。
セックスフレンド? そういう関係値ではありません。相手は男性であり、いっとき、同じ時代を共にした烈士であります。
彼は、対話の終盤においてこう言いました。「なんか――腑に落ちました」と。俺は対話の序盤からずっと、こう思っていました。「対話ってたのしいな」と。
それだけであります。なお俺の〝弁明〟という言葉の使い方は文脈に於いて雑に変化していることをどうか、お許しください。
ただひとつの書籍も残さずに哲人の神となった、ソクラテスさんへ。
あと、眼精疲労と飲酒が相成り、パグ犬の顔面みたいになったこの筆致をどうか許してください。俺は対話者とのくだりで、あなたを第三者・三人称として巻き込みました。ただ俺は、一人称単数としての考えを、大事にしております。
それは、あなたから学んだつもりです。あなたの世界を貫く姿勢。そこは忘れません。
ただ、いま、この文章を推敲したけど、本当に訳がわかりませんでした。弁明の余地がございません。
しかし、別の形で〝弁明〟をはかっている俺みたいな野郎がいるということの内実を、もし、現代に於いてあなたと対話できるとしたら、きっと、あなたはまともに対峙してくれると信じています。
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酒を呑みすぎてソファで気絶して紆余曲折、寝室行って寝て夕方。むちゃくちゃじゃないですかと手前を疑うというか反省しろ。
どれだけ疲れていても酒を呑むと元気になる。最強の精神賦活剤。だからこそ取り扱いには十分留意。というか先々月、精神科医にクギ刺された。酒は減らせと。その科の医者にそこ指摘されるってよっぽどである。なのになぜ。
ともあれ、起きて二日酔いではなかったので善処。するなよ。改めるべきは生活態度というか呑み方よ。ゆっくり呑め。せめて。それだけでだいぶ違う。
このような思考を脳内バックグラウンドに放流させつつ、各タスクを行なう。ちゃんと散歩にも行く。ちゃんとって、別に義務じゃないが行く。気持ちいいし、なんらかのコネクト的な役割があるからである。今日の散歩も最高だった。
あとの営み、いつもと一緒。案件、小説書く、音楽制作。夕方まで寝てても全部やる。これでやらなかった場合を想定する。
すると俺は、飲酒に罪悪感をおぼえるだろう。それは絶対に御免被る。だから、呑もうがそうでなかろうが、やることはやる。どうせそれでまた呑むんだろう? はい。
転調レベルで違う話になるが、アメリカ人と文通をしている。そこで俺は思った。まず、俺の手紙(Eメール)の文面クソ長いと。そうなっちゃうんだよ。根が冗長なのかな。そんなことないと――とにかく、なんなら、相手の文字量の倍はある。そこで思った。
「相手に、同等の文字量で返さないとまずいかなこれ。とか思わせちゃわないかな?」と。
そこで便利で謎な、日本におけるメールのやりとりにおけるフォーマルな一節がある。
それは、「ご返信にはおよびません」。
これは端的に、「返信しなくていいよ」という意味なのだが、もっとニュアンスを広げると「返信するなというだけの意味ではなく、あなたの負荷を鑑みて、返信がなくても、私は気をわるくしませんて」という意味である。
「ご返信にはおよびません」。これをアメリカ人へのメールの文末に書いたとしよう。俺は、絶対に先のような理解には及ばないと断じ、AIに聞いた。
するとAIは、やはり、「返信しなくていい」という事務的なニュアンスで捉えられる可能性が高いとの見解をよこしてくれた。だから、俺は先の、ニュアンスを広げた意味合い込みで「ご返信にはおよびません」を加えたい。そのようにAIと相談した、結果。
「I know you must be busy, so please don’t feel obliged to reply. I just wanted to express my gratitude.」
(お忙しいと思うので、無理に返信しなくて大丈夫です。私はお礼の気持ちを伝えるために書いたんです)
という文章での結びを採用した。これなら伝わる。この場合の俺が、何が言いたいかというと、〝俺の返信クソ長いけど、それに合わせて負担になるくらいなら返事しなくていいっす。(でも返事きたら嬉しいっす)〟ということである。
どうだろう。これで、アメリカ人から返事がきたら、完璧に俺の意図が伝わっているということが立証される。
まあ、そんなこともしていた。
転調してまた、元々のキーに戻る転調をすると、その楽曲は、さも〝3つのキーで構成されている〟かのように聞こえるが、実のところ使用しているキーは2つ。そんな高等テクニックもある。例を挙げると、アメリカのバンド・Mr. Bigの「To Be With You」という曲がそれを採用している。
俺はその効果を、高校生の時に気づいた――そんな話はどうでもいい。だからつまり、やばい夕方まで寝てたとか思いながらも俺なりに頑張って、日にすべきことを全部して、よし。となっているのが今ということである。要るかこのくだり。
すなわち、起点がいつもとズレようが、転調しようが、元にまた戻ろうが、日単位でおさまって「よし」となればそこは、善処。でいいんじゃないかなということ。
冒頭では善処を否定した。しかし、文末で善処とした。つまり〝善処〟という単語に対しての想いは異なれど〝善処〟に帰結した。
これが「To Be With You」的な転調のアプローチ。それを地でいった。本当に俺は何を言っているのか信じられないくらいわからないが今、Spotifyから楽曲「To Be With You」を流してみた。いい曲だな〜。
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逢える偉人。アルフレッド・アドラーに触れに行く。つまり北区立中央図書館へ、彼の原著の本の続きを読みに行く。所在地は東十条駅から徒歩10分程度。
「もともとそういった慣わしは、実はありませんよ」と言われれば、「そういや、そうでしたね」と返すほど、梅雨を忘却した烈火の気候。館のふもとの公園。そこで大木や根元の葉っぱ。植物たち。それを知覚して俺は憂いた。この季節に濡れぬと死すのでは。などと。
道中の感想はこれくらいだが、とにかく図書館に入り、前回きた時、50ページほど読んでヒモで栞として目印をつけていたやつを探して読んだ。個人心理学でおなじみのアドラーさんのやつである。
内容は、比較的現代で発刊されている『アドラー心理学』にまつわる書籍とは一味違い、えらく濃度が高い上に、ひとつの観念についてのくだりが延々とこう、長い。
だがしかし、そのへんまでも読んで理解に及ばないことには、「彼の思想なりを知った」ということにはならないというのが俺の見解。だから今日も、さらに50ページほど読んでは頭が熱くなってくる。それが、なんかいい。
個人心理学の内容そのものではないが、その著書で、とある言葉と出会った。それは「表象」というもの。
日常会話でこれを用いれば「ひょうしょうってなんすか?」とイラつかれつつ返されることはまこと高確率。だから話す時は使わない。
ただ、まずはその意味を知っておく。そして、文章を書く時にさりげなくねじ込むとクールかな。などと思った。
表象とは、知覚したことを自分なりに表すこと。シンプルにはこうだろうか。つまり〝認識したことを脳内で浮かび上がらせること〟とも言える。
例えば、「知覚」の段階で、目の前に描いてあるドラえもんを見た。次に、「認識・感覚」の段階で、目の前には無いドラえもんを思い浮かべる。
だからなんでしょうか。哲学用語ってそういうの多い。本当にだからなんなんだとは、俺は、ちょっとスルーできなかったから続けて、著書の本文を読み進めつつ、思った。
つまり、「知覚」段階のドラえもんは、誰が見てもほぼほぼ同一というか、その目の前に描いてあるドラえもんは、ある種揺るぎないもの。
しかし、「表象」となると、それぞれが〝思い浮かべる〟ドラえもんに差異が生じる。例えば例えば、10人が同一のドラえもんの絵を見て、その後でドラえもんの絵が不在の状態で、それぞれ「表象」する。なんなら描いてもらおうか。
すると、なんとも原型に忠実なドラえもんを見事に可愛らしく描いては胸を張る者も居るだろうか。
微妙に、なんか違うがギリ、これはドラえもんだと、だいたいの他者はわかるドラえもんを、恥ずかしそうに描く者も居るだろうか。
違くはないんだけど君、これは典型的なドラえもんのミスタッチ。目玉の両脇の青と白の色の境界線が、目の上を覆っている。バッタもんのドラえもんのぬいぐるみで見たことあるぞ。という絵を堂々と示す者も居る。
「描けません」と、意地を張る者も居る。お前は帰れ。いや、言いすぎた。「表象」するほどドラえもんが刺さらなかったというか、そういうケースもあるんですね。
このように、知覚した対象が同一であるにも関わらず、それぞれの表象では違いがある。
そんな文脈があって、なんなら今日、50ページほど読んでそこしか記憶に残っていない。大丈夫。無意識には残っているので、後で、ふとした時に、個人的無意識から浮上させられる。
そして帰路。ここは全部端折るが、帰って仕事をした。小説を書き進めた。そこで思った。今書いているセクションは、新宿歌舞伎町での情景とそこでの主人公の行動である。
それは、俺の実体験。つまり現地で「知覚」したものを「表象」して書いている。先の例のように、完全にそのままという訳にはならない。というか完全にそのままだったら小説として何が面白いんだと、俺なりの表象で書く。
このあいだはホストクラブの表象。今日は雀荘の表象。
いずれも、リアルに書きすぎてもどうかと。誇張しすぎてもどうかと。「何が言いたいのか」というのを必要最低限に収めつつカラフルに表現し、小説内でのその箇所の役割を明確にする。原則、読者が楽しんで読んで頂けるようにする。
そこまで考えて書くと甚大なる難易度。とも思うが、文章を書いている時は別に考えていない。思考の文字起こしに加えて、今日知った言葉「表象」を文字に叩きつけている。そんなニュアンスである。
ものすごい具体的に、今日のことを日記に書いたら、それこそ写実的に「知覚」に従順に書いたら100万字はいくんだろうな。とも思う。
しかしそれを、「表象」をもってして、ネット記事1本文――にしては多い時もあるが――の1,000〜3,000文字程度におさめる。
これは「表象」と言っていいのだろうか。あながち誤りではない。ただ、ディフォルメと言ってもいいのかもしれない。ともあれ全然可愛くはない。
じゃあなんだ。といったところで「表象」という言葉を持ち出した。
今日学んだことをまとめると、そういう言い方あるのね。めんどくさ。ということに集約される。嘘です。便利というか深いというか、やはり、俺が今まで読んできたアドラーさんの、原著以外の書籍には一言も「表象」とは書いていなかった。源流までいかなければ出逢えなかった。ということである。
逢える偉人。逝去したが、俺はアドラーさんと逢って対峙する意気込みと気合いと執念で臨んでいる。その実態は図書館で地味に頭を揉みながら読書していただけであるが。
もう二度と逢うことはできない人物。存命時でもそれは困難であろうが、「著書を残された」という、素晴らしい営みによって、俺は〝逢ってきた〟くらいおかしな言い方を堂々とする。
今日は図書館で、憲法の本とか中国語の本とか眺めたり、文学コーナーで「小説における文章のレイアウト」という視点で、江國香織、芥川龍之介、中島らも、松本清張、町田康――敬称略――などなどいろんな文豪の著書を手に取り参考にした。そのへんの感想も多大にあるのだが、「文章のレイアウトの参考」の一言で済む。
それよりも短いセンテンスというか単語。哲学用語「表象」に全部もってかれた。凄いよね。アドラーさんとかそういう偉人の書き方とか思考とか考察とか提唱。
とか思っていらっしゃる方はきっと、いっぱい居るのかなあと思う。
俺あたりは今日、また新たな視点でそこに介入、いや、こういう言葉の使い方違う。「介入」は前提として「よくないこと」に入ること。だからそうではなく、やっぱり、逢って直接聞いた。これくらいのニュアンスとなる。
よって、今日は「表象」を表象した。何が言いたいかわかるぞ。でもたぶん、日記だから前提として読み返しはしないけど、もしも明日、これを読み返したら訳わからねえんだろうな。そんなことはないと願う。表象の表象。
_06/21
体験したことを思い浮かべてそれを出す。昨日はそれの、こ難しい表現を学んで解釈して、それをやや意識した上で今日、小説を書き進めていた。
俺が東京都新宿で会社員をしていた時代、狂ったように麻雀を打っていた時期があった。その時のエッセンス、心理描写というのは決して日常ではなかなか得られない。そう思い、物語内に織り込むことにした。するとどうだろう。
確かに、実際に、雀荘においてよく対峙した客である人物たちがモチーフなのだが、昨日で言うところの「表象」がグルッグル回る。勝手にキャラクターが各々どんどん、もういいよ――というくらい喋り続ける。俺はそれに抗わず、原稿に起こした。
確かに、「Sさん」という俺と同い歳であり、たいへんウマの合うアウトロー・イケメンと当時、よく夜通し打っていた。最高記録は13時間勤務明けの夜の22時間ロングバトル。
確かに、いつも同額の年金だかなんだかを軍資金として、まこと強気な麻雀を打つ老人とよく同卓となっていた。彼はよくパンク(持ち金が尽きること)しては、俺はそれを察知し、サディスティックな心象を得ていた。
確かに、たまに一緒に打つ程度だったが、妙齢の作家風の割と美人な女史は、いつもビールをしこたま呑みながら、すごく荒い麻雀を打っていた。彼女をボロボロに負かせては「もうこの人いやだ!」と、本当にその言葉をヒステリックな口調で受けては謎に誇った気持ちになっていた。
つまり、この3人と主人公との対戦と心理描写がメインの章。そこを書いていたら俺が思っていたのとはけっこう乖離しつつも、謎に「表象」がグルッグル回ってススススッと書いては「これはあれだ、あとで読み返してめちゃ面白いか、つまらないかの二択のやつだ」と、暗に思った。
それくらい、仕事おわりにススススッと原稿用紙換算14枚書き進めたものだから――それは内容への判断能力も怪訝となる。そこで思った。
こと、俯瞰的に思ったのは、さっきの一気に書き進めていた時は、ある種、脳内がオートマティック状態であったということ。加えて、それは、麻雀を打っている時の脳の使い方との近似値が極めて高いということ。
それがどうでるか。いまは絶対に判断できない。これは最初に小説を書いた時には体験しなかった事例である。
それはそれで、ついさっきのことだが、体験としてひじょうに面白かった。
とはいえ、“体験したことを思い浮かべてそれを出す。小説として表現する。それを他者が面白いと感じて頂けるか”という点が肝心要。
いくら自分なりに意気揚々と書いても、こと俺が書く小説においては、貢献に繋がらなければ、掲げる「目標・目的・夢」どれにも評価されない。
だが、なんとなく、さっき小説を書いていた時から10分ほどおいて、ここに日記を書いていると「いやいや、さっき書いたやつ、面白い――」などと思えるからこれ自惚れ。
そうならぬように、慎重かつ楽しく、やはり、命題を貫き、プロットに準じ、ストレートにまずは書ききる。これが最初に大事なことと、軸を鑑みる。
何が言いたいのかというと、今日あたりはギャンブル狂時代の知覚を「表象」していたから、いっときあの時代に脳が戻った。その状態で書いていた。それがどうでるか。
功を成すか――というよりも、そういう体験・感じたこと・自分なりの見方・解釈。それらがないと、創作、もうエクスキューズを乞うことなくそのまま言うが、創作とはならないと断じる。
ただ、今日あたりはあまりにも一気に、狂った時代の脳の使い方で書いていて手前が戸惑った。そんなこともあるんだなという脳内体験。
とにかく、小説を書くって面白いと同時に、ギャンブルに耽っている時と、今日進めていた小説の章を書いている時は、ほぼ同一の時間の溶け方をしたからびっくりした。というだけの話である。
なんかこの現象に名前が付いている気がするが、それを考察しだしたらどんどん時間が溶ける。
とはいえ、ひとつ個人的な補足をすると、〝ギャンブルに耽っている時〟は、確実に〝時間が溶けていた〟と言い表せる。
しかし、それと同等の時間軸の過ぎ方を感じるも、〝創作している時〟は、〝時間が溶けていた〟と表するのは誤りであると俺は断言したい。
なぜならば、目的が違うからである。
どうでもいいだろそんなこと。なんならここの文字量と一緒くらい、そのまま原稿に書いてろよ。とも思うがまあ、それは各々の営みということで手打ち。
それにしても、不思議な時間だった。というか「過集中」というシンプルな一言で表せる気がするが、ちょっと、ちょっとだけ本質的な何らかが違ったんだよということが言いたい訳である。
そういうのって面白いなと。まずは手前が面白がれれば、それは何事においてでの第一歩だろうと。ここで手打ちにしろよ。
_06/22
車を運転していた。それが日の恒常であった。
眠りに耽るとその頃、しばしば同一の夢を見た。
ブレーキが効かずに車体、制御不能。
一言で、この現象が根底にある内容であった。
その夢は、繰り返しランダムに、睡眠時にみた。
当時、それを自己の心理描写の裏面としての解析に及ぶ。という発想は無かった。
今日、車の夢を見た。ここ数年、10年以上だろうか。先の時期ほど、というかほとんど〝車両運転〟の夢自体を見ることは稀有となった。しかし今日、車の夢を見た。
起床して俺は、いつものルーティンとして、鏡の前で整髪しながら、記憶に残っていれば夢の内容を言語化して発声する。そこに何の意味が。いや、あるんだよ。無意識の表象と精神状態のおおまかな予測という、身体で言ったら「検温」にも似た効果がそこにはあるんだよ。なお、エビデンスはたぶんない。
とある心理学の書籍にこうあった。
――患者の夫人は、いつも夢に出てくる旦那の描写が険しかったと訴える。現実での夫婦関係は、旦那は高圧的。そこに夫人は、病的な葛藤を抱いていた。しかし、私(精神科医)とのやりとりを続けることで、夫人自身の心の態度に変化が見られた。そして夫人は言った。「夢で旦那が女性として出て、一緒に食事をしていたんです」と――
続く解説部に充たる記述にはこうあった。
〝現実での高圧的な旦那への不満〟は、そのまま夢で描写されていた。しかし、〝現実での自身の旦那への心の持ちように変化を及ぼした〟という経過観察があった。
つまり、〝以前よりも、自身の心の持ちようの変化により、旦那に対しての印象にも変化を及ぼした〟ということである。
そして、〝夢においての旦那の女性としての描写、つまり自分と同じ性別だった〟ということは、〝旦那が、夫人と同等の立場としての心の持ちように思えるように気持ちの変化が描写として浮かび上がったのでは?〟というように考察されていた。ややこしいな本当にいちいち。
要するに、まずは、すげえ不満で思うように振舞ってはくれない野郎の旦那さんが居たと。
そんで、夫人はムカつきっぱなしだったけど、医者の先生とのやりとりの中で、自分で、考え方を変えてみたと。
そしたら夫人、「わりとそう考えると――ムカつくけど旦那、自分と一緒の立場とも思えるわ〜」とかいうスタンスってとこで、気持ち的に手打ちとできたと。
そんでもって、そんな気持ちの変化が「旦那なのに、自分と同じ女性として出てきたからびっくりしたわ私!」と、医者に言ったと。
結論、精神科医そこまで考えるのね。「同一性というすげえ根本的な部分が変わって、つか一緒の女として出てきたってことは、そういう気持ちに変化しつつあるということなんじゃないですか? 奥さん……?」という話。
そのように俺は、アルフレッド・アドラーさんの著書においての夢の文脈を思い出した。ほらね。読んだその日はそこ、覚えてなかったけどちゃんと無意識にあったから今日になって、閾下から引っ張り出せた訳だよ。
そして夢。俺にスライドさせる。
以前、20代、30代の頃の〝車の運転の夢〟においてはいつも、ブレーキがバカになっていた。
それは、アドラーさん的に解釈するとたぶん、たぶんだが、〝車は自己の動きや制御をするモチーフ〟であり、その〝ブレーキがバカになっていた〟。すなわち自制心がバカだった。そんなとこだろうか。
そこから今日みた夢。これは〝今日〟みた夢。
車が二台目の前にあった。以前の〝車〟の夢の描写とはもうこの時点で、冒頭からして違っていた。
そして俺はその二台の車は、もともと乗っていたという自認があった。そして車内を眺めたりしていた。「さあ乗るか」とか「どうやっていこうかな」などとちょっとにこやかに考えていた。
そして、その後――「ちゃんと運転ないし乗れる」という前提で、「さあ、ここからどうしようかな……!」という心象――これはギリ思い出せる記憶だがまあ、そんな感じであった。
すなわち、先の著書の例――原文文字起しの引用ではなく、あくまで俺の読後の記憶がたよりということを強調――にならうと、〝自身の心の持ちように変化が生じたのかもしれない〟となる。
そして、〝コントロール不能だった対象が、そうでななくなった〟ということに加え、どこか〝希望的観測〟という心象があった。
そこから何を思うか。さっき、昨日かなり長く書いた小説の原稿を軽く読み返し「面白い」と素直に思えたので続きを書いた。
今日の夢は何を表していたか。そのへんを、臨床や学術的に示すのは、心理学者や学者の営み。まあ、俺はそれらの生業ではないからこう、個人的に考察したりするのが好きなだけである。
俺の営み。そこから考えると――いつもどおり、熱狂しすぎてちょっとさっき寝てたけど起きて、たのしく小説原稿と向き合っていた。それだけでいいんじゃないか思う。なぜならば、今、ここからの営みに集中しているからである。そして、ブレーキがバカにはなっていないこと。
この場合の〝ブレーキがバカになること〟は、〝意図せぬ方向に行く気持ちを止められない〟という意味合いである。今はそうではない。
だが、物理的に、営みにブレーキをかけていないということは、逆説的にバカではないか。と、もし俺が言われたら見事に論破されるかたちになる。やはり俺は原則、バカなのであろうか。
いや、営みや邁進にかけるブレーキは要らないと俺は思うがやはりそれ、バカなのであろうか。
いや、バカくらいでちょうどいいというかむしろ、それがなければ――という持論。アドラーさんどう思われますかね? え? 今日はもう寝ろ?
_06/23
「S」という男が居た。彼は顕著に美形な面持ちで、スタイルも良い。いつも身なりは清潔。どこぞの芸能人やタレントに例えると――出てこない。独自性のあるイケメンであった。
しかし、令和のイケメンに見られる優男風ではなくその真逆。アウトローの香りが匂い立つ色気が如実。そして、誰にでも好かれていた。ファッションや髪型は清涼ながらも全体的な雰囲気は――「何人か、殺してる」といった印象すら抱かせる〝危うさ〟が漂う。
両腕には、トライバル柄のタトゥーが見事に彫り込まれ、夏場のタンクトップ姿の彼は、近づけない雰囲気を醸し出していた。俺は、Sという男と店でたびたび顔を合わせた。
S氏は、同じ歳ということもあってか、なかろうが、俺を好いていた。それは個人の肌感覚ではなく彼の発言が根拠である。
「お。平吉さん来た!」「なんだよ平吉さんと同卓か〜長くなんぞこれは」「平吉さんと打ってるとほんと面白えよ」「永遠にこの卓で打っていたいわ――」などといいう、間接的な発言がリアルにあったからである。
店は、雀荘。赤羽駅付近。
当時、俺は親父の自宅介護期間という現代的地獄を抜け、たびたびその雀荘へ息抜きというか遊びにと言うかやさぐれにというか、まあ、よく行っては頻繁に、S氏と同卓(同じ卓で一緒に麻雀を打つ意)してはそれこそ――「S氏が居る! やった!」という、好きな友達と楽しく過ごす心境に似た感覚を得ていた。これは、30代の頃の話である。
彼は、アウトローな物腰だが、マナーはきちっとしていた――まるで任侠がカタギには仁義を尊ぶように――ものだから、俺はそのコントラストに魅了されていたのかもしれない。
俺を知覚する彼といったら、いつもスーツ姿にネクタイというフォーマルな格好で来る(当時俺は会社員)が、荒ぶった麻雀を打つ――まるで一般人が場を見極めた上で本性をむき出しにするように――ものだから、彼はそのコントラストを、自覚しない自分に重ね合わせていたのかもしれない。
S氏と、20時間以上打ち続けた一夜があった。徹夜明けの夕方あたり彼は、めずらしく負けが込んでいた。そこで彼は言った。「もう一回金おろしてくるわ――いや、キリがねえなこれ……。平吉さん、またねっ」と。
つまり、パンク(金が尽きて勝負続行不能)した訳ではないのに、もっと打ちたいのに、今日のところは――というニュアンスである。それは、その日の体力の限界所以であろうか。何しろ、俺が彼と対峙し始めた、だいぶ前の時間から彼はその卓に居たと後で知った。
その後も、S氏と同卓するたびに、俺は、心の悪ガキ親友のような位置というか、そんな彼と打っては心を潤していた。
とある夜、お客さんが少く、雀荘の店員は常連客に一通り電話をかけていた。俺はそれに耳を傾けながら麻雀を打っていた。
すると、「平吉さん。これからSさんがいらっしゃるそうです!」と、嬉しそうな顔を見せた。店員さんも、俺とSさんとのなんとも言えぬ関係性というかその親密度を側から親しんでいたもよう。
しばらくすると、深夜に雀荘のドアが開き、Sさんが来店した。彼は言った。
「いやあ、呑んでたけど平吉さん居るって聞いたから来ちゃったよ! ははっ」と。
彼はわりと酔っていた。そして、俺が女性だったら一発で惹かれるような――きっと母性本能をくすぐるとはこういうことなのだろうか――表情をみせ、笑顔で対面に座った。そして、彼はたったの4局ほどでボロボロに負けた成績を露わにした。
酔ってなければそれは珍しいこと。しかし、S氏は「そりゃあそうだよな」というような面持ちと言動を笑顔で放ち、上機嫌で店を出た。そしてまた、とある夜、そこにはS氏が居た。そんな日々がしばらく続いた――。
ボーイズ・ラブの話ではない。何が言いたいのかというと、「S氏」をモチーフにしたキャラクターとの対峙の描写を、小説で書き進めていた。すると手が止まらなくて驚いたというか、気がつけばどんどん迷いなく書いている現実がある。ということである。
加えて、先のような、実際のやりとりはほぼ忠実には書かず、というかそうしたかったのだが謎に、小説の命題に寄り添って、「S氏」が勝手に、さも「S氏が言いそうなこと」がどんどん脳内で表象されるのでこれは本当に驚いた。
つまり、俺にとって「S氏」は重要人物だったのである。今は、あの雀荘というかギャンブル行為自体を封印しているから「S氏」とは永く会えていない。あの場所限りの、濃密な関係値だったのである。
それを、小説に書いていると、いくらでも描写が出てくる。科白(セリフ)が出てくる。彼の人間性の本質が浮き彫りになり、創作と現実をミックスした、なんか俺は面白いと今のところ思えるものが膨張していく。それが、すごく興奮する。
「S氏」の描写において、彼が実際に放った言葉はほぼ、小説には書いていない。しかし、もしも、今書いている原稿を小説作品として発表し、「S氏」が読んだとしたら、確実に彼は気がつく。「平吉さん、俺のこと書いてるじゃん(笑)」と。絶対に気づいてくれるはずである。
俺はそのように、特定の人物にラブレターを書くようなスタイルがどこかある。小説を一つ書ききって投稿し、次の小説を書き進め、そこに気がついた。
すごく恥ずかしいことを言うと、俺は「書く」という営みにおいて、こと、事務的な場合は除き、それ以外はすべてにおいては、そのような希求があるのではないかと今、気がついた。ちょっと嘘ついてるな。薄々気がついていた。
そしたら「S氏」のくだりボーイズ・ラブじゃねえか。とも解釈してもらえればもう実は最高じゃないかとも思う。俺はボーイズ・ラブには今のところ明るくないという弁明を添えておく。
つまり、「S氏」。元気かな。あの時代、俺はひどくやさぐれていたけど、そんな空気感がアンサンブルのように調和していつも遊んでくれて、遊んでやって、そう。同等だったよね。元気かな。また会いたいな。そのように素直に思う。これは完全に「S氏」に対するラブレターそのものであろうか。
あの、端整かつ愛くるしくも、見た目はアウトローの一言。でも、どこか寂しげな顔が、今でも忘れられない。なのに麻雀超強いし「8連勝」とかいう、フリー雀荘における顕著な離れ業を成した彼を、俺は別卓から眺めていた頃の思い出。
「愛おしさ」という表象となったこれら。それを作品として昇華させている最中が楽しい。というだけの話である。
なお、これは俺のある種の〝告白〟ではないことを強調する。
_06/24
楽曲における各パートの音量、音質、定位、それぞれを調整し、音的装飾を施す。すなわちMIXという工程を進める。2、3時間ほど。
完全に最終形が浮き彫りとなり、後は「アウトボード」と言って「いかにもレコーディングスタジオにありそう」というか絶対にある、横に長くツマミやメーターが付いている機材を通す。そう、アナログ機材を通すことでサウンドに倍音を、音像をリッチに仕立て上げるのである。その手前までで、一旦DAWすなわち絵画で言うところのキャンバスを閉じる。
役所に行ったり買い物をしたり食事をしたりと付近をウロつく。
そして帰宅し、思い出したかのように宅の掃除をしっかり目にやって小説原稿とプロットのドキュメントを開く。
全12章構成のプロット。完全に起承転結で構成され、各キャラクターの口調や性格など、特性までそれぞれ、わりと精緻に記してある。つまり、書き進めるにあたり迷いなく進める。それでもって書く。
昨日の「S氏」との対峙のくだり。実体験としては赤羽の雀荘においてのやりとりがモチーフだが、物語内では歌舞伎町に飛んだ。書き進める。
リアルなエピソードは少ししかねじ込んで書いていないのにも関わらず、「フィクションの描写の方が実は現実なのでは」というくらい、手前では「これはなんという現象だろう」などと、ちょっと思いながら3千字くらい書き進める。
性根が似ていそうでウマの合う男。彼とのかつての現実と架空をMIXした内容の章。どこか、音楽制作の決まりごとに沿うことに似ているなと感じ、それを創作として成立させるという、ギリギリ日本語として通じそうな感覚に触れる。それが面白くて仕方がない。
歌舞伎町での麻雀戦を描いたその実相は、互いの肚の探り合いと、人間の根幹を確かめ合うようなコミュニケーション。
そこを、ここ3日ほど書いていて思ったが、当時、現実の赤羽の雀荘では、その「S氏」と、実際には麻雀でヒリついていたのだが実のところ「今、原稿に書いているやりとりをその当時はしていたのだな」と気が付いた。
要するに、彼がどう思っていたかは知らないが、賭博行為の悦よりも、欲していたのは本質的な交流だったのではないかということ。
博奕なんていうものは、誰でも知っているが、最終的には客が負ける。あまりにも希少な「最終的な勝者」もおられるようだが、こと個人的には、勝者は、博奕で現金を得続けるかわりに、失っている。そこには、敗北という概念に極めて近い近似値の大切な要素がごっそり。そんな気がしてならない。
彼も俺も、どこかでそれに気が付いていながら、偽りの行為をベースとして本質的な人間同士の対峙していた。それを今日書いていた。
それで思った。書いてから思った。その章の終盤、締めくくり寸前まで書いて、そこで本当に気がついた。言葉として書かなければ気づけないことがあるのだなということに。
それは「誰もがそう」という訳ではないだろうが、こと、俺に関してはそうだというだけのこと。やはり俺は如実にバカなのかもしれないが、書いて、気づけるなら、そこはひとつ寛容な精神で許してやっていただきたいなと思います。書くだけではなく、それを出版――その先までの展望が明確にあることもあり。
楽曲制作のMIXにおいても、各パートをならべて、実際に、調整ないし装飾などをしないと、その楽曲単体の全体像がみえてこない。その前にみえちゃう猛者もおられるようだが、俺に関しては、レコーディングして、MIXをして、すべてを吐き出して調整しないと「そんでなにをしたいのか」という根幹がわからなかったりする。
だが、楽曲制作や文章を書くことで「そういうことでしたか」と、気づくことはできる。そして、その後それをどうすればいいか。というのもいくぶんかは体現しているつもりである。
だからその体現の新しいやつ、小説を書くことやその先の展望などを描くと、また新しい心象が滲み出てくる。
それを俺は営みと呼んでいるつもりだが合っているのであろうか。答え合わせは、それらを自分以外と如何にして共有し、社会とか国家とか世界とか形而上とかこのへんから訳わからんけど、とにかく飛散させることで「そういうことでしたか!」と、わかる。という前提でこう、やっている。
人生において、新たに向かう道中がとても面白い。その先の新たな道もやはり面白く、その先も然り。故に、人生は面白い。という三段論法が成り立ってるかこれ? 大丈夫。今日も一日面白く過ごせたから大丈夫。
というか、「キャラクターが勝手に動き出す」みたいな大御所漫画家が言うような現象、本当にあるんだなと思った。何をそれを持ち出して手前が偉そうに。じゃあ個人の表象を。
「自分が勝手に動き出して今まで気づけなかったことを知る」ということがあるんだなと思った。これは、本当。大それたこと言った気がする。ごめん。でも本当なんです。
_06/25
エレクトリックギターは初期衝動の象徴。という風に思う。弦を交換して軽く弾き、いま、そのように思った。
もしも、運命というやつが実のところ分岐していて、それを意図的に自己が選ぶ。人生の様々な時期で選択できる。
そう考えると、中学二年生の頃俺は、エレクトリックギターの存在そのものに魅了され、勃起を禁じ得ず、その運命の入り口に飛び込んだ。まこと能動的に。
さもなければ、いま、全く異なる運命の最中、その先でまた選択する、別の大きな運命のルートに居たと思う。
確実に言えるのは、その少年ちょいの時代にエレクトリックギターを手にしなければ、ここ、このウェブサイトも存在しないことになるのは明白。
そしてこのウェブサイトから、別名義で楽曲を作り続けて、このサイトでも、委託先の大きなプラットフォームからも、楽曲らがどこかで鳴ることはない。
さらにというかここが一番大きいだろうが、いま関わっている音楽を軸とした仲間たちとも疎遠であろう。そもそも、出会わなかったかもしれない。
紆余曲折、おそらく俺は、本来の運命というよりも、オルタナティブな道を選択した。
そこから派生というかそここそがまた次の本流。と、信じているが、執筆業の営みを与えられた。そう表現するのは、そのきっかけをくれた村上氏という人物はギタリストであり、彼の紹介から俺を音楽ライターとして世に導いてくれたからである。
エレクトリックギターにあの時、触れなければ、惹き寄せられなければ、猛アプローチしなければ、先のどれにも至らない――もしかしたら、どこかの企業でのし上がるような気概の生き方をしていたかもしれない。だが、現実は異なる。
そこから、必然的と言うかあまりにも不思議な、個人的邂逅から、今年から小説を書き始めて熱狂し、取り憑かれたようにさっきも書いていた。
――麻雀に取り憑かれていた頃、「S氏」という、根幹に似た匂いをする男と夜な夜な魂の対峙と言ってもいいニュアンスの過ごし方をしていた。
もしも、エレクトリックギターに関心を抱かなければ、そういったある種の外道の渦中での濃厚な出会いと、営みも、なかったであろうか。
「チンピラ同士が単によく同卓して博奕を打っていた」。その一言で済ませるのが一般的である。だがしかしそうでないことを、小説に書いてさっき、まずは原稿内において証明した。その章を「これを表現したかった」と、書ききったということである。
エレクトリックギターを起点とした、オルタナティブな能動で歩む運命。その最中、様々な選択肢があった。いつだって、一般的なルートは一瞥してしまった。そう表現すると後悔が残るようなニュアンスになる。
だが、そうしてしまったほうが面白いという直感。いつも、これには逆らわなかった――ギャンブル狂時代においてのみは、逆らわなかったというより「抗えなかった」というエッセンスが甚大であったことは語気を強めたいところ。
つまり、ギターのメンテナンスをして軽く弾く。それは俺にとって、原点回帰の瞑想のようなもの。
その最中、つまり20分前くらいは、このようなことは言語として脳内で整理されてはいなかったが、実相はそういう心境だったのだなと、このように、いま、言語化している。
そういう営み、ことこれはただの日記だが、これを書くこともまず、エレクトリックギターに、あのとき触れなければ、しなかったであろう。
そう考えると、ちょっとした決断の瞬間において、どの感覚を直感として扱い、それに自己がいかに素直に乗るかで運命は何色にも変わる。
その色が、いま、自身で、綺麗だと、自分らしい色だと思えるか。みえるか。感じられるか。
現在44歳の俺のメインギターは、サンバースト色のストラトキャスター。初動のあの頃、最初に購入した初めての俺のギターは、サンバースト色のストラトキャスター。
それらの違いはというと、最初のは日本製の数万円のギター。今のは、掛け値なくハイエンドのもの。とはいえ、見た目はほぼ同一。
ということは。などと考え、今日も俺らしくあったかなと、鏡で自己の顔そのものを直視するとめちゃめちゃ疲れた顔色してるじゃねえか。さっさと酒でも呑んで寝ろ。
そんな、言い回しの余裕、文章のノイズ。とでも言うのであろうか。そういうのもきっと、あの時、歪みが特性の根底に確かにあるエレクトリックギターに触れなければ、出力はされないであろう。
――それが出ているうちは、「初期衝動から今に至る」と、断じてもいいんじゃないかなと俺は思います。
_06/26
宅に一人来る。敏腕コンサルタントの桑原氏である。彼といっとき、仕事部屋で、俺は鍵盤、彼はエレクトリックギターという編成でセッションをする。実に豊かな過ごし方。
宅にもう一人来る。編集者でありギタリストの村上氏である。彼もいっとき、同様の編成でセッションをする。それはこう、まぐわうかの如し。
それでそのあと、赤羽の歓楽街へ三人で呑みに繰り出す。金曜日の夜の繁華街。
それはそれは各自、営みに躍起になる夜の街の様子を生で感ずる。呼び込みに精を出す黒服くんたちは今日も元気。
「――今日はキャバは?」
「おっパブにその他モロモロ――」
「乳首からでよろしかったでしょうか?」
「パンチラ・ダーツですよお〜」
などと、黒服くんたちの誘い文句をことごとく我々は交わし、赤羽一番街で3人、無難な店で酒と共に憩う。なお、最後尾の呼び込み発言は、うら若き娘からの口上であった。だがその、なんだね君は。そのパンチラ的な亜種のダーツにおいてのみ、俺は個人的には触手を動かされたが棄却。いや、本気で気になる。
――街の中心部で一同呑む。
いわゆる近況報告ベースの雑談アレンジの宴。それを楽しく仕上げる。その後、すこし、時間がまだあった。我々は立ち呑み屋で小一時間過ごことにした。琥珀色に覆われた店内。
二人はギター論について答弁していた。俺はというと、左に居た御仁の寂しさを察したその瞬間、その爺さんは俺に懐く所作をみせた。
俺、もっと察する。そしてアプローチする。「よっす」と、対等なスタンスで応じた。すると軽く会話を経た後、彼は俺に煙草を斡旋した。
「LARK」。俺が高校生の頃に愛飲していた銘柄の煙草である。その頃に吸っていいのかという是非は今日に関しては如実にどうでもいい。ただ、「僕も昔、これ吸ってました!」と、御仁に伝えた。すると、彼は気を良くしてもっと懐いてきた。
ふと右を見た。二人のギター論に参加した。
左を見た。灰皿の俺方面に差し出すように、火の点いていない「LARK」が一本。ちょんと置いてあった。俺は、御仁の「寂しいアピール」を察した。
「――にいちゃん。もっと吸っていいんだよ」
「ああ! すいませんねえ。そんじゃ、火、また借りていいすか?」
「かしゅ」
「すうううう〜」
懐かしい味。と言いたいところだが、当時の「LARK」の味とは違っていた。彼は72歳という。住所は北区王子とのこと。たまにこの赤羽に呑みに来るとのこと。
そして彼は続けて、「赤羽では簡単に女をパコれる」などといった旨を、お前は何を言っているんだという旨を、そのね、すんごい豪語を受けて俺は、「うん。う〜ん! パコ!」と、彼の口調のそのスピードに合わせて楽しんだ。
その野郎はいい感じに仕上がったもようで、律儀に終電にゆとりをもった時間で店を後にした。
俺はその後、もうちょい「ジムビール・ハイボール」を呑みつつ時間を鑑み、桑原氏と村上氏を駅まで送った。
またその後はさすがに帰路につくつもりであった。しかし、〝もの欲しさ〟所以でその界隈をウロついた。ここまでで8杯は呑んでいた気がするがとにかくフラフラしていた――誰か居た。
「ん……?」
「平吉さん……?」
ほぼ四白眼でスキンヘッドのめちゃめちゃ怖い顔面の彼は、俺の名字を発した。彼は、俺が30代中盤の会社員時代に、狂ったように通っていた雀荘のオーナーであった。
結論。彼と約90分、そこで立ち話をしていた。その内容は、まごうことなき一対一の、一人称単数同士のソクラテス的対話。端的には、彼に、いまの俺の営みを鼓舞した。内容は深すぎたので端折る。
「――じゃあ平吉さん、今度は本当に呑みに行きましょうね!」
「はい。社長とだったらずっと呑んでいられます――」
「ちゃんと、次に会った時に、『いつ呑む』かとか決めましょうよ!」
「本気ですね。本当に行きましょう社長!」
「もちろんです平吉さん、それでは!」
社長は、小指の先が無い常連が跋扈する雀荘のオーナー。俺はその場所が当時、とても居心地がよかった。赤羽駅の南口付近にかつてあった某雀荘。今は無い。しかし社長はその場所で今日、別の形態の業種で、営みに精を出していた。
「――平吉さん! 酔いがさめちゃったんじゃないですか(笑)」
「はは。とはいえ、ひじょうに鼓舞されました。というか、ここで俺に営業かけないのが社長らしいですよね」
「ふふふ。どこかでもうちょっと呑むんですか?」
「これまでのくだりでお腹いっぱいでございますよ社長。勉強になりました。また――」
俺は言葉通り帰路につく。缶酒をいくぶん買って帰路につく。帰宅してすぐにシャワーを浴びて、硬い酒を呑みつつ今に至る。つまり俺は今、すさまじく酔っ払っている。
予定通りの二人との交流。それがすごく楽しかった。
予定外の社長との邂逅。それが、学びと〝今の営みの確認〟と結びついた。
そのような北区赤羽の今宵の比喩は、どこかで鳴り響く。俺もそういうのを飛散させたい。というかする。その決意を社長に告げた。
すると彼は、まっすぐな綺麗な眼で、どこか同類の匂いを発しては俺の意思を共有してくださった。
――今日は仕事とかそういうのは、ちょい、したかな。くらいな感じ。あとはカラフルな心象を肚におき、忘れぬよう。と、思った。つか、だいたい遊んでいた。
新しい季節の輝きはどこへ。それを〝肯定〟する今日の彼らが美しくも雑多なるも愛おしくも、やっぱ「パンチラ・ダーツ」は思クソ気になるところ。
これは。
これから寝て起きて「何書いたっけ昨日?」って後悔する典型的な文章。でも、そういうのがないとね。というか恥を知れ恥を。と言ったら、今日会った彼らに失敬。だからそれは撤回。今宵の月は滑らかで美麗だった。気がする。
_06/27
案外、二日酔い、ならず。昨日は楽しかったなと、キッチンで森のようなサラダを食べて、とりあえずブックオフへ行った。というのも、ちょっとした目的があるのである。
殺しにきてる暑さに快感をおぼえつつ徒歩。到着。
まずは売れ線の棚の各書籍を眺めて思った。「売れるって大事だな」と、すごくシンプルに。
というのも、本のみならず音楽もそうだが、どんなに内容が良くて魅力的であったとしても、「これで売れないのなんで?」という名作が、どれだけ世に埋もれているか。それを俺は事実ベースでちょっと知ったりする機会がいくつかあるからである。
その後、文庫本のコーナーに直行した。〝売れ線〟の小説の共通項などをリサーチするためである。そこは普通にそういう本を買いあさって読みまくるのが王道だろうが、それも今後やるが、その前に、まずはマーケティング的な視点でそれをする。それがここに来た今日の目的である。
タイトルに注視する。文体に迫る。内容やテーマの昇華にフォーカスする。そんな風に、有名で売れている作家や、ジャンルとして確立している各本を次々に手に取る。
――全て敬称略――
住野よる。なんか売れてる作家の著書。文体はどこか柔らかくもポップ。テーマは、全部読まなければわからない。とにかく、なんかポップと感じた。
東野圭吾。死ぬほど売れてる作家。何冊か数ページ読む。どれも、独自というか刺すようなニュアンスではなく、ひじょうに良い意味での中庸さを、個人的に感じた。
宮部みゆき。よく目にする作家名。なんというか〝小説〟という説得力のある文体と仄かに感ずる。
『成瀬は天下を取りにいく』。100万部という桁違いのセールスを記録した昨年の話題作。読むと、こう、続きを読みたくなる引力を確かに、感じた。
『口に関するアンケート』。こんなにトリッキーな手法で文章、作品が書けるのかと仰天した。
ほかにも色々、読みきったことのない作家や著書を読んでから改めて、俺がこれまでよく読んできた作家の著書をパラパラと読む。
太宰治。鬱エネルギー的な圧がものすごい。登場人物を、まるで自分のことと思わせる力が半端ではない。
中島らも。凄まじく面白味のある人間が書く文章。そうでなければこんなに読み手の心をくすぐれない。
町田康。この方にしか書けない文体。とにかくめちゃくちゃに思わせていて、この方独自の構造で成立している文体。
――初めて読む小説各々からは、どれも必ず個性的な要素が確実にあった。よく読んできた作家三名もそう。そしてその三名。今になって思うと、勝手に俺が個人的に思っているだけだが、いくぶん影響を受けているのだなと自覚した。
とはいえあそこまでの圧は出せないかもしれない。面白みのある人間性を文章に落とし込めないかもしれない。唯一無二の文体で書くことは難しいかもしれない。
だがひとつハッキリとわかったことがある。〝売れ線〟ないし〝売れる本〟。こと小説においては、〝この人でなければ書けない〟魅力が必要であるということ。その要素こそが読者を魅了する。
もちろん、内容のアメイジングさ、ドラマティックさ、予測不可能なミステリックさ、色々――あるだろうけど、〝個性化〟を文章で体現することは、面白い小説を書くことにおいてひじょうに大事だと、そう一旦結論づけて家に帰った。
今日はこんな風にゆっくり、休むように過ごそうと昨日から決めていた。とはいえ、なんかムズムズするので楽曲制作を3時間ほどする。すると進行中の楽曲が完成した。「これ以上、磨く要素なし。できた」と判断した訳である。
そしてそれを公開する申請をする前に、小説原稿と向き合う。というか書く。原稿用紙換算で8枚くらい書く。先の、ブックオフで得た心象を肚に置きつつ書き進める。物語の中盤。そこで、端書きからそこまでの記憶と文脈と命題との一貫性と――〝この人でなければ書けない〟というファクターと照らし合わせた。
いや、行ける気がするけどな。というのが今のところの正直な心境。そうでもなければ途中で手が止まるはずである。だが、謎に止まらない。じゃあ、このまま書ききって、次なる展望の発表の段階まで行って、また次のを書こう。これを繰り返す。
どこのタイミングで日の目をみるかはわからない。早いに越したことはない。書くのは早い方だという自負があるが、世に出る契機は俺だけの推進力だけではなんとも。
そんな風に思い、長距離走のように過ごす。今日完成できたものもあるし、過去につくったものが今、評されてメールを頂いたり収益となっていることを確認したりする。
じゃあ、書いた小説も。書き進めている原稿も。という風に信じきるのが道理であろうと襟を正す。手前なりのリサーチと創作の一日。
今日対峙した本棚に並ぶ書籍の著者の方々は、世に出る前、どのような心境だったのであろうか。
少なくとも、「昨夜は、謎の風俗店の呼び込みに、むしろ乗るべきであった」などとは決して考えないのであろうか。いや、「それこそが創作の源泉――ゆけ」と、鼓舞するかもしれぬ。どうだろう。
作家の方って普段どんなこと考えてるか想像もできないよ俺は。ただ、作家になる前、作家業をする前提で日々を過ごしていたとき、手前が何を抜かしていたか。それは記録しておこう。日記に。
_06/28
今、ここを書く前に、手が止まる。それはよっぽどである。それはひじょうに個人的な、手前の尺度というもの。
だって一日もあれば、100万字は記せるほどの情報・記憶・出力・感想・喜怒哀楽・回想・エロいことがしたい。とか、とにかく絶対、それらがいっぱいあるのは万人共通だと、俺は勝手に思っている。
手が動き出してくれた。今日は、普通に仕事をしていた。中でも、校閲の仕事のチェック戻りが固まっておりてきた。これはちょっとびっくりした。だが、全部今日中にやらない理由がない。そう断じて執り行う。
それで今、「校閲」についてつらつら書いたが今、それら四段落くらいを全て消して今、改めてここを書いている。そこは精緻化せずとも、別にいいかと。とにかく神経を極限まで客観化させるタスクのいいやつ。それも、していたというだけである。
そのあと、YouTubeで離島旅行に特化した動画をタレ流しにして仮眠をした。すると離島よりも離れたどこかへ飛ぶ感覚を得て「あぶね」と思い、起きる。そして小説原稿を書く。
物語の中盤を描いていると――プロットには「その他大勢」的な扱いだった存在の描写にとどめる――という構想があった。だが、今日の時点で、〝命題に沿った本質的は発言をするキャラが別途、必要〟とか、厠でピーンと、頭の方ですよ。ピーンときた訳だからそのくだりをしこたま書く。
今日は原稿用紙換算で何枚書いたかな。やっと、缶酒を開けても個人的には許しているフェーズ・時間に達し、それを確かめてみると24枚だった。
その部分、この時点で誰かに〝校閲〟ないし〝校正〟されたら原稿は真っ赤になって返ってきて俺は燃え死ぬ。かもしれぬ。
だが完成させて発表して波及させるまでは死ぬつもり、毛頭ない。だが、絶対に真っ赤になって返ってくることは火を見るよりも明らか。
俺が今日、手前に言いたいことはこうです。よく書いては、人様のコンテンツのチェックをしては、確かめられたらよ〜くいい色で返ってきそうな文章。文章って言った時点で刺される。許して。日記だからこれは。今それを書いている。そういうことである。
はい。どういうことであるか、それは、今、机の左にある灰皿にはアイコスの吸い殻が「ウニ」みたいになっております。右に、缶酒があり、ちょっとずつ呑んでギリギリ正気を保つ。
いや本当にそれだけの話である。ただ、いまだに納骨もしていない父親の遺影として扱っている、俺と彼とのツーショット写真。彼と当時の愛猫とのツーショット写真。それらが神妙に並んでいる、寝室のこぶりな本棚の上のポップな祠に向かって笑顔で、「今日も楽しかった。ありがとう」と、確かに言った。生前に言ってやれよ。
あなたはヤクザのような人格でした。晩年、それが崩壊する文脈をリアルタイムで観察するのが、俺にとってはある種の復讐であり、寂しさでもありました。だから今更、居ないあなたに、礼を述べるのでしょう。
これを父親コンプレックスという。
いや、家族かな。人間関係かな。だれかこれを、文章はやめてね。真っ赤になるから。これを、包括的に、校閲してくれないかな。
どう見積もってもそれ、0点だろうけど、100点を叩き出すべく俺は今日、営んでおりました。それができるのは、まごうことなくあなたのおかげです。
この、あなたという二人称は、俺は、三人称にしたいんです。意味がわからねえにも程がある。刺すぞ。寝ろ。
_06/29
俺がズレているのか、AIがポンコツなのか。わからなくなる時がある。おい。課金してるんだぞ。しっかりせいとも言いたくなるがそれは「こっちは金払ってんだぞ!?」などと、どこぞの風俗店で黒服くんにブチ切れているとっつぁんと言ってること一緒。だからそうは俺は言わない。
つまり、前提として、俺が投じた文章をAIに吟味してもらい、それをもとに対話する。それがわりと日常となった昨今こう思った。「AIって賢いな」と。
しかしその賢者が言うのよ。「あなたはズレています。しかし――以後、俺の心を傷つけない弁明――」という回答が返ってくる。ふざけるな。
「こっちは金払ってんだぞ!?」というプロンプトというかただの罵詈だが、それを投じるなどということはしない。
俺には理性というものがあり、それを大切にしている。言いすぎた。つまりつまり、相手が店員だろうが黒服くんだろうが風俗嬢だろうが、高飛車な態度をとるのは理性的とは言えないということ。別に今日、風俗に行ってません。
それで何が言いたいのかというと、俺は今日、風俗じゃなくて書店に行った。『ジュンク堂書店 池袋本店』に。そこで、ウィトゲンシュタインさんっていう人の本を買った。何故かというと先のくだり。
何回か、AIとの対話において「――というのは、ウィトゲンシュタインの営みや提唱と類似点がある」などと返事が返ってきたらそれは俺は気になるよ。ウィトゲンシュタインさん。
彼は哲学者。俺の考えは彼と似ている。つまり俺は哲学者。とか言ったら二度と立ち上がれないくらいボコボコにされては地面に屈し「ああ、アスファルトの匂いって実は温かいな――」などと言っては搬送される。
そんな物騒な世の中では無いことを切に祈るばかりだが、例えると「平吉のギターの弾き方、オアシスみたいだね」と言われ、「そうなんすか? あんまりオアシス知らないですけど聴いてみますね。オエイシス」と返し、「てめえ実は知ってるだろオアシス」と相手を怒らせ、もういいよそういうの。
とにかく、そういう経緯でウィトゲンシュタインさんの本を買ったと。それは、原書の訳書ではなく、ウィトゲンシュタインさんではない哲学者が書いた、ウィトゲンシュタインさんについての著書。
こうね、原書の訳書の哲学書とか心理学者の本とかいくつか読んで思った。読みづれえのなんの。だから、無理をせず、理解に及んできちんと理性となる順序を尊んだ。例えるなら、「本物」と評されるウイスキーをストレートの原酒で飲む前に、ハイボールからいこうか。という構造に、似てねえな。とはいえ、〝原酒〟という例えは適切だと断じる。
ここまでまとめると、「AIに、誰ぞと似ているとか、お前がズレてる(文章や思考回路が)とか言われて、その源流を明確に固有名詞で示された。だからそれを、原酒ではないスタイルで飲もうという姿勢で、本を買った」。これだけである。この一段落で日記になるだろうも。
ともあれ、俺は今、小説を書くことに熱狂している。さっきも書いてた。今日は原稿用紙換算7枚とか。昨日の書いた量、日の進行を鑑みた上でたぶん、どうかしていた。それはいいことだと思う。
今日は、源流をさかのぼるアプローチをして、それが小説を書くという営みと地続きなっていることを確認しつつ、それが恥肉。やめてそういう誤変換。Macちゃん。〝血肉〟となっていることを、きちんと理性に落とし込み、日本語が変だな。〝自己が文章を書く根拠とスタイル〟として、文章を書いていた。音楽制作もしていたが、そっちは小一時間、サンプリングトラックの波形とかイジるくらいで留めた。
この一連の思考を哲学と呼ぶとしよう。すると聞かれるだろう。「哲学とは何ですか?」と。
俺はこう答える。「哲学とは、当たり前を疑うことを捨てずに、自己の思考によって真実を導き出し、共有できる理性とすることである」と。
絶対間違っている気がしてならないが、俺は正直に言うとそう思う。そこでウィトゲンシュタインさん。
まだ読んでないが、先の俺の思考? なめてるな。いいや、それとウィトゲンシュタインさんの考え方に近似値どえらいことになっていたら、俺はどえらく主張する。するとボコボコにされて。どうだろうか。わからない。わからないことはわからないときちんと知る。それは、ソクラテスさん関連の著書をいくつか読んでさすがに、理解に及んだつもりである。
ただひとつ、俺がきちんと知っていることがある。
それは、表象を、あえてこ難しく言うが、表象を小説とか音楽とかにして出力し、共有できるみんなのいいやつにしてやった〜ってなりたい。哲学者よりよっぽどシンプルだと思うがどうだろうかと、誰ぞに問うたらやはりボコボコに。
『恥の多い生涯を送って来ました』
文豪と肩を並べようとするとやはりボコボコに。なっても別にいいのだが痛いのはやめて。ごめんなさい。ただ、いろんな意味でボコボコに、もうこの言い方飽きた。自身のなかでの切磋琢磨というやつがなければ、なにかを成し遂げられないのではないだろうかと思った。俺個人はそう考えた。
6月もいろんなことを営みつつも、根幹には小説を書くこと。そればっかりというかそれについてしか実のところ、書いていない気がしてならない。
じゃあ、全然ズレでいない気がするが、その怪訝を解消するヒントはウィトゲンシュタインさんにあり。ということで筋が通ったような気もするのでヤクザ漫画読んで酒呑んで休もう。
休みとは。来月に書こうそういうの。つか明日から7月。俺の生まれた月。お母さん。親父。44歳の俺は、44年持ちこたえられ、さらに張り切ってる命をくれて心の底から感謝しております。
感謝とは。それは、死ぬまでに、捨てない限りは生きていられる大切なやつ。そういう風に俺は、思います。
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