07/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。もう二度とウンコって言いません。7


ショート動画をペロペロ観ていたら2回に1回はキアヌ・リーヴスさんが踊るやつが出る。バンバン出る。

そうか、そんなに俺はキアヌ・リーヴスさんに関心があったのかと気づかされるが、俺は彼の映画を何一つ観ていない。

YouTubeのアルゴリズムたるや謎。というかなんか見ちゃうねキアヌ・リーヴスさんということで納得。実に魅力的な方である。

休憩もほどほどに、楽曲制作を進める。サウンドメイクにおいて、出来てはいるがマネスキンには今は、かなわないと判断する。

もう、元々の録り音から機材からエンジニアリングの腕から何から違う。それはどこかで区切らねばと一晩寝かせて明日、音源として書き出すことにする。

今日は昨日と打って変わって心身の体調がよい。「凍結肩」もだんだんほぐれてきた。粘度不明の鬱っ気もヒュッと、どこかへいった。

このように自身の水面下では様々な動きがあると感ずるも、他者からしたらいつも通りの手前と映るのであろう。

そのへんは思い切り区切るのではなく、共同体という意識を持つことがわりと大切らしい。みんなで生きているのだと。

最終的にはどこか知らぬ場所的なところで再び集合し、あんなことがあった、こんなことがあった、などといった感じでまた一つにまとまるのだろうか。

最近そういった意識がわりと腑に落ちる気がしてきた。そう、哲学書とスピリチュアル系動画の見過ぎである。まあそれらはそれで、面白がれるうちは注視するのもいいかなと柔らかく捉える。

アカシックレコード(元始からの全ての事象、想念、概念、観念、感情などがまるっと記録されているという世界記憶の概念)に俺がなにを記憶させるのかなとかいう思惟は、現世で金に繋がる仕事の時間にあてるべきかなどとも考える。きっとどっちも大事だよねと。
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ものすごい支離滅裂なようで、文脈がありそうだがないような、サイケデリックでもあり現実とリンクしているかの感覚の夢を見る。まあ夢ってだいたいそうだよなと思いつつ、普段の感覚になるまで2時間くらいかかる。

そういう日もあるよねと、各タスクをやって、腹がやや不調だなと、そういうときは無理をせずと、ビオフェルミンを飲んで横になったりして過ごす。

仕事が多いのは喜ばしいことだが、体が資本で、いつも通りに動いてくれる各環境は決して当たり前ではないのだなと、さまざまな方面から実感する。健康第一。
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日中、昨日より腹痛というか膨満感というか、とにかくハラがいかんと堪えていた。これは大病だったらいたたまれないと思いつつ夕方、(sulpiride)スルピリド50mgを服薬する。

あっさり改善される。本薬は服用量により効果が異なり、「胃・十二指腸潰瘍」「うつ病」「統合失調症」に対して有効であるというたいへんユニークなやつである。また、北アメリカでは承認されていないという香ばしさもある。それはちと怖い。

前提としてちゃんとした医療薬。その効果が面白い――薬の効果を面白がるのはいささかどうかとも思うが――ことと、その薬効をよく理解しているつもりなので最低限度量の服用しかしていないが、ギリギリまで我慢せずにさっさと飲めばよかったと省みる。

その理由たるや、「なるべく自力で自然治癒でどうにかしたい」という思考が挙げられる。酒呑みの喫煙者が何をぬかすかとも思うが、なんかそういうところがある。

とはいえ、「sulpiride」に関しては妙ちくりんな思い入れもある薬なので、曲名としてまんま名付けて公開しているくらいである。

その楽曲の曲調はというと、その薬を服用した時の心象を表したもの。ジャンル的には、エレクトロニカ寄りのオルタナティブロックだろうか。

趣味全開の曲調だから、全然ユーザーには好まれないなと思っていた制作時の2020年。結果、思いのほかダウンロードされて頂いていてよかったなあと思う。

こんなダウナーな楽曲が少しでも誰かに貢献できているのかと思うと、やはりある種の様々な体験を楽曲に落とし込むことは大切なのかなと思う。

結局、なにかを制作する、創作する、という源流には、非日常にも似た体験が源流であるという共通項があるのかなという思索。これは合っていると信じたい。
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社会不適合者味があるかもしれんとも捉えられる。そんな、ほったらかしの長髪気味の今。では、さっぱり切ろうかなと思いつつ、う〜ん、まあいいかと、前髪を右側の耳にだけくるっとかけて出かける。

足立くんと会った。

「やや…!」

「お、平吉! 髪伸びたねえ!(ニコニコ)」

「うんそうなの。どうしたらいいと思う?」

「じゃあもう、伸ばしちゃいなよ!」

「(なんか機嫌いいな?)う〜む。そうするのか切ってしまうかで迷っててだな……!」

「いいじゃん、伸ばそうよ! カート・コバーンくらいにしてさ!」

「ああ! なんか『アンプラグド』の時とかカート・コベインはこうやって片耳に髪かけてたね!」

「そうそう! 俺、ジーパンあげるからさ!」

「ふへっ!」

「そんで古着みたいなの上着て、グランジ・オルタナみたいな感じでいこうよ!」

「お! 俺の大好きな世界観だな!」

「そうそう!! いいじゃん!」

なんか彼は謎に嬉しそうだった。俺は以下のように解釈した。

今日、向かう電車で『幸せになる勇気』という本を読んでいた。アドラー心理学をもととした名著『嫌われる勇気』の続編である。2016年初版。

アドラーの言葉に「ほめてはいけない。叱ってもいけない」というものがある。言葉通り受けると訳がわからんが、俺的にはまあまあきちんと解釈できた自負がある。

その言葉の本質は、「ほめたり叱ったりする行為は人間関係における序列の表れ」という点がある。ほめた時点で、その者は対象者の「上」の立場であるという考え方である。

例を挙げると、俺が道端でボランティア的に掃除をしていたとしよう。それを見たその辺のババアが「偉いわね〜よくできたわね〜!」と、俺をほめたとしよう。

純粋にほめられて嬉しいという感情はあるにはあるが、たぶんその前に、「うるせえババア。何を上から目線でお前は何様だ馬鹿野郎」という、アンビバレンスな感情が先に出るだろう。

しかし一方で、もしもババアが、率直に「あら嬉しい! ありがとうございます…!」と礼を言ったとしよう。その場合は俺は「いやいや! こちらこそ!」と、純度100%の喜びを享受する。

このババアの発言の違いが何かというと、前者は「ほめる」という行為により、俺を立場的に下に見ているとみなす要素がある。後者は、率直な礼を述べることにより「対等な関係」所以のアプローチとなる。

ババアは善行を見て、上下関係や序列などは抜きにして、率直に「よいことをしている男をみかけた。素晴らしい」と思ったことを俺に「教えてくれた」のである。

つまり、人間関係において、様々な行為や立場があろうが本質的には「対等」であることが重要であるということになる。これが「ほめてはいけない。叱ってもいけない」の本質。その点が、今日読んでいた『幸せになる勇気』の方で補足的に記されていた。

30年近く交流のある足立くんは、高校生の頃からずっと髪型が一緒の俺に対し、懸念を抱くというわけではないが、たまに「平吉って高校生の頃から髪型ずっと一緒だよね」と、揶揄していた。べつに悪い気はしないが、なんかちょいちょい言ってくるのである。

そこで今日、ほんのちょっとした変化ではあるが、俺は髪を右耳にかけて彼と会った。自他共に、ぱっと見でかなりイメージが違う。そして口頭一番、前述の対話のやりとりがあった。

彼は、「お、平吉! 髪型変えたんだ! いいじゃん!」と、俺を“ほめる”のではなく、その変化に気づき、今の俺の外見とそこからどう発展したらどうなるかなどを、“教えてくれた”のである。しかも俺の好みを熟知していることから、好きなアーティストを引き合いに出し、笑顔を伴わせつつ。

彼は、音楽家として実業家として――俺が知らない面でもっともっとあるかもしれない――世にたくさんのことを貢献している。数字や知名度といった点では明らかに俺よりもきっとそうであることは周知の事実であろう。

しかし、前髪右耳かけヘアスタイルを見て彼は、「それ、いいじゃん!」と“ほめる”のではなく、ポジティブな各要素を“教えてくれた”と俺は認知した。そこには、実のところ彼は、俺と“やっていることの成果などの差はあれど対等な関係”という価値観があるのかもしれない。ふと、そう思った。

だとしたら、本当に些細な友人とのやりとりの数分だったが、それは30年来の関係値の濃度がもたらす美しさを表しているとも思惟できた。

やはり俺は、周りの人たちに本当に恵まれていると感謝した。ありがとう足立くんと。見逃しがちな幸せのやりとりをまたひとつくれたねと。

とはいえ、シンプルに彼が「ま〜た平吉がダセえ。ひとつ持ち上げておちょくってやろうか……」と思っていたが故の文脈である可能性はゼロではないが、俺は、本文全ての通りであってほしい。というかそう信じている。

いや、なんかやっぱりおちょくられただけの気がしてきたが、仮にそうであったとしても、俺が嬉しいことには変わりはない。

そういった“幸せになる勇気”を俺はきちんと持っているつもりである。その本、まだ半分も読んでないけど。
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靴を買いに行く。池袋のサンシャイン通りの各店をまわり、ピンとくるのないなとパルコへ行く。西武へ行く。価格帯がちときびしいなともう一回サンシャイン側に移る。

なんならと、サンシャインシティにも行く。あるにはあるがどうかと、とりあえず10店くらいまわってくたびれたので「予算¥5,000くらい」という弱気なスタンスを見直す。

そうなってくると選択肢は広がり、「ああこれかっこいい」というが目にとまり、迷わず購入。弱気価格の倍以上出す。

いやあよかったとホクホクして帰路につくが、「歩く」という行為を支える大切なアイテムを何故にそんな安く見積もっていたのかと省みる。

出かける前にやっていた案件に再び取り掛かり、仕上げて、YouTubeを観る。相変わらずキアヌ・リーヴスさんが小躍りするショート動画がレコメンドされまくる。

制作を進め、「これ以上は――」と、現状では達せないところまでいったと判断してDAWを閉じる。夏っ気の序章を感じる至って何気ない一日。
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「なんで〜俺もやね〜ん!」と、ジャッカル・富岡という架空の芸人のギャグのフレーズが脳内を周回する。

さっきまで普通に鍵盤の練習をしては「イマジン」とか「Pyramid Song」とかカーペンターズの楽曲を弾いて心地よくなっていた。なのに「なんで〜俺もやね〜ん!」なのか。

その前はキャッチコピーを作る仕事に着手していた。俺に丸投げではなく、依頼者も一緒に考えるスタイル。そこでまずは「キャッチコピーとは」という定義の認識をすり合わせるべく、テキストを一気に作成していた。

まずは自分なりの参照かなと、パッと思いついた他社さまのキャッチコピーは“丸くなるな、星になれ”であった。サッポロ黒ラベルビールのやつである。缶に施されたデザインに寄り添った素晴らしい表現。なんか希望も滲んで鼓舞されるまである。

そういうの! そういうのいいよね〜などと、様々なキャッチコピーについて俺の見識はどうなのかと今一度あらゆる面から内観・外観の両面から向き合った。

キャッチコピーとは、対象の本質を見事に一言、二言で表して引きつける。そして、納得させる。感銘を受ける魅力を孕んでいる。このあたりだろうか。

製品だったら消費者の購買意欲をそそらせる。その前段階として、キャッチコピーをきっかけに対象を「覚えてもらう」。これも含む。

そして、その対象がなんなのか、どういう性質なのか、という個別的な観念をピンポイントながらも斜めからの視点も踏まえて捉える必要もある。

「名刺かわりとなる一言」とも言えるキャッチコピー。それを生み出すには様々な教養や知識、体験に洞察力、本質を捉えるスキルが必要となる。

誰もが意識下にある「そうそう、そういう感じ」という思念を洗練して言語化する。シンプルだが、容易ではない。

そう考えると、YouTubeで活動される方々の最初の挨拶や締めの一言も、キャッチコピーと類似点があるなと思考がスプリットした。

最初に「ブンブンハロ〜YouTube!」となると、「ああ、ヒカキンさんのやつ始まるわ〜」と、チューニングが彼に合う。

最後に「行ってらっしゃい!」と締めくくられると、「ああ、ホリエモンだなあ〜」と、なんか安心する。

それぞれ、その人となりが、やや抽象的に、どことなく滲み出ている。類似点であり、共通点でもあるだろうか。

そうなってくると、なんかもっとスムーズだなとは思いつつも難しいのがキャッチコピー。

現代だと、「そんなの対象の特徴を羅列してChatGPT4oに投じれば、それっぽいのがいくらでも出てくる」というある種の一般論がある。

その通りである。しかし、本当に心に刺さるのは、たぶんいまのところ人間がやるのが適切だと感じている。なぜならば、ChatGPTでまんま試したことがあるからである。そこで“感じた”という体験がある。

そこで「なんで〜俺もやね〜ん!」である。

言葉だけだとひとつも面白くない。しかし、『ザ・ファブル』という、殺し屋が日常を過ごすという命題の漫画・アニメ・映画作品の、主人公とその世界観。はたまた、主人公の人格や、彼をとりまく各キャラクターという各要素を含むと、「なんで〜俺もやね〜ん!」が面白くなるのである。

プロの殺し屋の主人公は、日常で全くと言っていいほど笑わない。しかし、TVなどで架空の芸人である「ジャッカル・富岡」を目にすると決まって爆笑する。作品内においての“お約束”の一幕。それが繰り返されるうちに、なぜか俺までも「なんで〜俺もやね〜ん!」が面白くなってくる。

それら一連の“文脈”を、どう人間的に捉えて本質を突くか、それが素晴らしいキャッチコピーに必要なファクターなのではないかと考えていた。

だからいまも鳴り止まない「なんで〜俺もやね〜ん!」。うん、なんで俺もやねん。深い。

あと「なんで〜俺もやね〜ん!」は別にキャッチコピーではない。しかし本文で記した理由により、太い、何らかの線で繋がっている。そんな気がする。
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コンビニでアイスコーヒーの入れ物をレジにズイと出す。するとインドネシア人かなと思わしき店員さんは「パキャリ」と、かるく左手で掴んで握力で氷をほぐしてくれた。歳のほど、20代後半とみられる。

その所作が、セブン&アイ・ホールディングスの上の人が作成したマニュアル通りの行為かどうかは定かではない。彼の個人的な気遣いなのかもしれない。

その真意はどうでもいい。ただ俺はその行為を見てニコリと微笑を、目線を合わさずに寄せて「伝える」のではなく「気付いたらまあそれはそれで」というニュアンスの反応を示した。

すると彼は察知したもよう。大人が公でそんなに思い切りは如何なものか、という程度の俺の大アクビを見て彼はこう言った。「ネムインデスカ?」と。

澄んだ瞳を向け、広角は綺麗に上がっていた。意図的、商業的ではない笑顔がそこにはあった。

「眠いんだよね! あなたは眠くないの? ファ〜」と、俺は率直に彼に答えと質問を投げかけた。非常に軽微かつ簡易的なコミュニケーションである。

「ネムクナイヨ。マダネ……」と、彼はすこし額にシワをつくって返す。「ああ、そう。ありがとうね」と、買い物を終える。

「まだ」か。と、含みを探るもまあそれはそれでと思い、店を後にする。日本のおもてなしのホスピタル精神が世界中から賞賛されていると言ったら実態はまあまあ異なるかもしれないが、彼のちょっとした気遣いにも似た一言こそが真のサービス精神なのではないかと思った。

おもてなしだのホスピタリティだの、言い方いろいろあるしその定義はけっこう重厚かもしれない。しかし、異国で、眠そうな初対面の男に「お前、いけるんか?」という感じで軽く言葉をかける。それくらいのホッコリ感が気遣いとしてはポップでいいと、人間味があるなと思った午前のひととき。

今日は、興行のお手伝い案件で銀座で一日過ごす。ほかにもいろいろ楽しいことやらあったが、なんか「ネムインデスカ?」が一番記憶に残っているのは、疲れている証拠であり、彼がそれを察知してくれたというグローバルな共同体感覚所以のものなのだろうか。

実態はわからないが、帰宅してとにかく眠くて1時間仮眠して酒を呑みだす。「ココカラノムンダ?」という彼の言葉が仮想的に浮かぶ。「そうだよ! 君は?」と問うと、答えは「ノマナイヨ。マダネ……」だろうか。

「マダじゃねえよ。明日死ぬかもしれないんだぜ? 今から一緒に飲もうぜ!」と、俺は仮想的に彼に言う。バーチャルでも意識下でもなんでもいいけど、ふとした繋がりは人間的幸福を及ぼすが当然、俺の仕事部屋に彼はいない。居たら通報案件である。

そういうイメージを促してくれただけでも、彼のちょっとした気遣いは深夜にまで波及する。もう、眠いかな彼は。優しい彼が、ぐっすり眠れますように。
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わりと遅めに起きて洗濯など家事をする。俺の体温より高い猛暑日。蕎麦を食べに行き買い物をして帰宅する。

ライター案件をいくつか進めたり提出したりする。DAWを開いて1曲音源として完成させる。いつもより良くなった点もあり、課題点も浮き彫りになる。そうやってちょっとずつでも、右肩上がりの質向上に努める。

ごはんもきちんと食べたし家事も掃除もしたしと、なんとも平穏な初夏のひととき。
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少し、普段はあまりないことがいくつかあった。ともあれ、全て適切と思える対応をする。

このように書くとなんか色々あったのかなという気もするが、記しながら振り返ってみるとそうでもないなと俯瞰できる。

書き出すのは大事だなということが源流のひとつでもあったことも想起する。ウェブに日記を書くということを初めて、ちょうど10年がすぎた今、改めて思う。最初の頃は「お休み」と、一文でサボる日もあった気がするが。
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「生き物は、ほぼ確でウンコする」「人間は、生き物である」つまり「人間は、ほぼ確でウンコする」。

いわゆる三段論法である。ああ、これ考えたのってアリストテレスさんなんだ〜などと、ウンコみたいな顔で本を読みながらハッとする。

つまり、アリストテレスさんっていう哲人もウンコか――と、明らかに間違えた論法が飛び出る。そっとしまう。

今日は特筆したイレギュラーなし。そういう日は希であり平均的日常。つまり、今日はほっこりとした日常。

なにが楽しくて、そんなことを構造化させて昔の人は考えては唱えていたのかなと怪訝になる。しかし、礎。

たいしたもんやでと、だから俺も基礎の基礎から考える。何で俺もやね〜んという発展希望的観測のポジティブ論法をなんと呼ぼう。

複数の本にまばらな穴が開くほど読んでいると、なんらかを提唱したくなる。こう、ウンコを絡めたポップなやつはないものか、ううむ。と熟考する。そして世に放っては論駁されて「ぐぬう」となるだろう。

その繰り返し。その基礎はギリシアにあったのかと、歴史の奥深さを手前なりのウンコレベルの思惟でたぐる。

俺は哲人たるやと考える。ウンコと絡めて考える。つまり、俺の哲人たるやという思考はウンコと絡んでいる。

結論、アリストテレスさんに失礼。ごめんなさい。もう二度とウンコって言いませんから許してください。
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思いのほかツユ、少なくなったな。という所感の茹で蕎麦をキッチンで食べる。買いたての靴をキュッと履き、赤羽駅東口前の喫煙所一服経由でケータイのプラン変更へauショップへ行く。月額、ほっそく安くなる。

宅でライター案件をふたつ提出する。別の案件を今日、受注したのでプラットフォームで対応する。またそれとは別のコピー・ライティング案件を進めて文字を重ねる。その一言を生み出すために、何千文字と。

案外やることあるな〜と思いつつ、合間に真空管アンプに繋げてギター練習をする。少しずつ、四十肩もほぐれてきつつある。その経緯をサウンドにしたためた「Frozen Shoulder」という楽曲は今日公開した。

初心に還り、洋楽にハマった初期衝動アーティストであるレニー・クラヴィッツさんの曲をいくつか弾く。最新のもいっとくかと、イタリアの人気ロックバンド・マネスキンの楽曲を耳コピしたりする。

は〜おわった。と、パァァとなりハイボール缶をおもむろに開けて「気持ちいぃっ!」と声が出る。つまり平和で幸せな日。くふっ。
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濡れに濡れた天候と比例してたいへん覇気がなく、あからさまに頭というか脳というか心か、そのへんの疲弊を如実に感じる。

外に出てふらふらと本屋で立ち読みしまくり、太った三角定規みたいな鰹のタタキと酒を確保して帰宅。

一つだけ案件対応をして再提出。あとはブックオフに避難する。スマートフォンも持たずに。

すると余分な思念はいくぶんかおさまる。脳の「自動運転」を「手動運転」に切り替えて休める感覚で、無意識に動いている思考のバックグラウンドを解放する。

そこでも立ち読みをしまくり帰宅。ビリー・アイリッシュさんの新譜を聴きながら思い切りソファで休む。心地よく静まる。

休息が必要と断じ、他の仕事はせず。とはいえ、なんか手持ち無沙汰なので、そうだ、ドラムンベースを作ろうと思い、DAWを開く。

BPM180前後で高速ビートを1パターン構築し、シンセサイザーを弾いてメインフレーズを考え、発展的な何らかが捉えられたので波形でメモる。あとは少し酒呑んで寝ようと鍵盤を拭く。意図的におとなしくしていた梅雨の中頃。
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去年はやっていなかった業務をやる。コンサルティングとコピーライティングである。なお、いまのところ別に儲かってはいない。共に「オープンセール価格!」みたいな値段設定で営んでいる。数をこなせたらこっそり値上げする目論見。

大前提として「依頼を頂ける」ことが重要であると、俺なりに誠実に対応する。すると、新しい知識が必要になってくる。これまでの見識はもちろん淀みなく出す。そして、取りに行く情報も必要。

こう記すとなんだかアグレッシブでいいではないかという心象。

しかし実態は、仕事部屋で「う〜む!」と唸りなら「そんなに吸うな」というくらいアイコスを摂取しながらカタカタと文字を打つ地味なもの。なお、タバコはだいたい1日1箱くらいだが。

新たに始めたものが「単発」で終わり、その後の長い日数が経っても依頼がこなければ、「俺がやる上では需要なし」と判断するのが賢明。

しかし、リピートが来るということはそれを根拠として「もっともっとやろう」という気概が生じる。

なんにせよ、いくつになっても新しいことに対してのチャレンジ精神は大事かな〜と個人的に思いふける。白髪は増える一方だが、中身の脳はピッチピチでいたいのである。そのために必要なのは、現状維持以上の“前進”であろうか。

10年くらい前の、某大手通信キャリア取締役会長のSNSにおいてのユーザーへの反応を思い出した。

“髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである”――と。

シンプルに素敵だし面白いことを言うなあと思った。なぜかと言うと、そこには「生産的な反論」と「気概の表れ」と「ユーモア」が絶妙に交差しているからである。

まあそれはそれとして、俺は前進できているのかなとこれまた思いふける。あと一週間ほど過ぎれば、44歳である。ここにツラツラ日記を書いてもう10年。うそだろ。
_07/13

 

 

 


ちょっとずつ右肩もほぐれてきたなと、立ってギターを弾いて実感する。最近のロックシーンのやつもおさえておこうと、マネスキンの曲をコピーする。

パッと聴きシンプルだが、けっこう細かいことやってるんだなと感銘を受ける。そのあと、なぞって弾き慣れたレッド・ホット・チリ・ペッパーズの「By The Way」を弾いたら今更気づいた。セクションごとにBPMが微妙に違うと。

ああこれだ、レッチリはこういうフィジカル的なポイントをさりげなく巧妙にやることであの高揚感が生まれるのだと、本当に今更気づいた。何度も聴いて、弾いて、ライブでも観たというのに今日初めて。

イントロと歌のバースがすこし緩やかで、バンドインすると少々速くなり、きっとそのままずっと同一のBPMではなく、コーラス、全バンドパートのバースを駆け抜け、アウトロの歌とギターのみのところでまた緩やかになる。

なんで今日の今日まで見落としていたかと考えたが、そこに気づかずに「やっぱレッチリはかっこいいな」と感じているくらいが、リスニングとしては最適なのかなと思った。

体感推定、曲中ずっと同一BPMのマネスキンの楽曲を弾いていた直後だったから感じ取れたのかもしれないが、20年くらいそこに気づかせなかった――あるいは俺のアナライズスキルが足りていなかったか――レッチリは本当にすごいと思った。

「解像度を高く」という、なんか意識高い系の言い方があるが、これって少なくとも手前にとっては大切な要素だなと改めて思った。丁寧に、深く、根っこから物事に向き合う。といったらかっこつけすぎなことだが、なんかそういうのが好きである。というだけの話。
_07/14

 

 

 

 


昨日と同じような時系列で過ごす。だいたい文字を打っている。途中、ChatGPT4oの「メモリがいっぱいです」アラートが出ていたので解決策をChatGPT4oに問う。

端的に回答が出る。そして、「しょうもないものメモリしてるな」というやつを手動で削除して解決。人間の記憶は簡単に消せないのに、コンピューターの記憶は秒で消せるあたり、なんだかちょっと怖いなとも思う。

夜、引き続きマネスキンの楽曲のコピーをする。わりと細かいことやっておられるなと思いきや、全体像として把握したら実はシンプルだった。

めちゃめちゃ複雑な体験や吸収や工程があるも、アウトプットはわかりやすい。そういう人になりたいなと思った。

それくらい、文字でのやりとりなどは手前の場合、絶対量が多すぎると省みた。シュッと伝えて、不要なのは削除してスッキリしたい。

とはいえ、その過程のノイズみたいに乱雑する各要素が人間らしさなのかなという葛藤もある。

なんとなく、音楽アルバム1枚を通して聴いたり、本を読んだりもしていたが、それらには、端的さと乱雑さが作品として収められているという素晴らしさがあることに気がついた。人間が生み出す創作物って凄いなと改めて思う。
_07/15

 

 

 

 


睡眠時、夢を10個くらいみる。すべて鮮明だったが、いまは1個しか覚えていない。

手前の側頭部の髪の毛1本を抜いたら、みるみるうちにカラスの羽のような美しい漆黒の輝きを見せ、その表面にピラミッドの壁画のような琥珀色の人物像が描かれ「なんということだ…!」という感情が漏れるという内容。いよいよかなと思う。

そんなのどうでもいいなと現実を過ごす。

現実は、具体的だなと思いつつ各タスクをこなす。ライティングをする。新業務のコンサルティングをする。ドラムンベースを作る。ハイハットの音とリズム構築にアホほどこだわる。

雨ばっかりだなと、ふと窓の外から見下ろせる濡れた道路を確認する。明日は、もしも晴れたら少し足を伸ばし、頭を空っぽにしたい。とりあえず上野の国立西洋美術館に行き、フェルメールのあの美しい青色に吸い込まれたい。

起きてから判断しよう。今夜のところは酒を呑みつつ『あくたの死に際』を読み返して寝よう。現実においての夢を追うストーリーは食指がうずく。3巻まだかな。
_07/16

 

 

 

 


フェルメールの青いやつがない。静かで上品な雰囲気の館内でそう、狼狽した。ターバンの青い色彩が秀逸な作品『真珠の耳飾りの少女』を見に、上野は国立西洋美術館へ赴いたのである。

「確かに、あの吸い込まれるようで、心を安堵させる青いやつがない」。

俺は常設展の本館を、以前見た記憶を頼りにウロウロと、館内の誰よりも早歩きで各作品を吟味した。ぽつりぽつりと各ポジションで監視している係の人は、明らかに手前を「不審者」とみなしていたであろう。

カルロ・ドルチさんの『悲しみの聖母』という絵画が目に止まった。気に入る。まさに聖母、という表情で青色のローブを頭を覆うように着衣するその姿と色合いは如実にたまらなかった。

いやいや、フェルメールどこいったと、本題に戻る。別のフロアに行く。「ああ、これ、ルドンちゃんのやつだな〜」と、一発でそのタッチで作者がわかる作風に感銘を受ける。人間の閾下に確かにある、可視化は禁忌とも思わしき闇のような本質をモノクロームで表すあたり、実に素敵だなと。

ちがう。フェルメールどっちだと、もうわからんから係の人に聞いた。

「あのすみません。フェルメールさんの作品はありますか……?」

「はい! あちらの女性のものが……」

文学女史といった物腰の30歳少々と見られる方はそう言った。指を差す先に向かい俺はその女性の絵画を見て思った。ぜんぜん青くねえと。

首を傾げ、凝視し、脇のテキストを間近で読み、奇妙な角度で腕をからめ、「怪訝」という言葉を全身で表していた俺に女史は言った。「いかがですか……?」と。

インカム越しに「不審者1名。本館へ男性2人以上でお願いします――」とかじゃなくてよかった。

「これ、フェルメールさんのですか?」

「はい、こちらに『ヨハネス・フェルメールに帰属』とあるように、ほぼフェルメールの作品であるというものなんです。あ、私あんまり知識ないですけど!」

「僕もないです! 『帰属』ですか……『ほぼ確でフェルメールさんのやつってことにしとこう』ということだと……?」

「ええ、ほぼ……絵のタッチや当時の背景などからそのような解釈となっています」

「ははあ、この説明書きに“フェリーチェ・フィケレッリというイタリア人画家の作品の模写です。しかし両面左下に記された署名と年記(Meer 1655)からオランダの風俗画家として名高いフェルメールの作品である可能性が指摘されています”とありますから、やはり、ほぼ確定……?」

「そのようでして……」

「サイン、記名、なくないですか? 左下!」

「そうですねえ……!」

「どこだよう!(グアア……)」

「あの、近い……」

「あ、しつれい! 作品にお触りはなしですよね! あ! ああああ!!」

「どうされましたか!?」

「ここ見てください! 左下のサインにありがちな位置よりちょい上、このブロックみたいな岩みたいなところに、文字があります!」

「ううん…?」

「ほら! 1655? これでしょ!」

「ほんとですね〜」

「よかったあ! これフェルメールさんのやつですね!」

「そうですね! よかったですね!」

ちがう。

「あの! 青いターバンかぶった有名なやつはないんですか?」

「ああ、『真珠の耳飾りの少女』でしょうか?」

「(知識あるじゃねえか)それ! それを見に来たんです!」

「ないですねえ」

「なんと!」

「はい」

「じゃあどこにあるんですかあの青いやつは!」

「ううん……外国とかじゃないですかね!」

「ぐは」

「お客さま、当館は17時半まででして間もなく……あちらのフロアにはピカソやモネだってあるんですよ〜!」

「行きました! ルドンちゃんのやつありました!」

「オディロン・ルドンですね! よかったですね!」

「ええ! 彼のタッチはいいですよね〜」

「ですよね〜」

「この女性の絵画も、やはりソフトな線などがフェルメールという感じですね〜」

「確かにそうですね〜」

「あはははは」

「うふふふふ」

というわけで、フェルメールさんの青いやつ、つまり『真珠の耳飾りの少女』は国立西洋美術館にはなかった。昨夜ここに書いた記述は思い違いである。

俺は、フェメールさんの『真珠の耳飾りの少女』の青の美しさと、カルロ・ドルチさんの『悲しみの聖母』の美麗な青色を記憶の中で改ざんしていたのである。

人の年数の経った記憶というのもいいかげんだなと省みる。俺が好んで心打たれたのは、カルロ・ドルチさんの『悲しみの聖母』の青色。そして、フェメールさんの『真珠の耳飾りの少女』を実際に見た可能性は極めて低い。

まあそれはそれで、素晴らしき美術がいっぱい鑑賞できたし、他にも色々あったが良質なインプットができてよかったじゃないかと思う。

帰路、立ち寄った書店でちょいと読んだ本にはこう書かれていた。「アーティストのアウトプットは、良質なインプットの量によってもたらされる」的なことが。

いいこと言うじゃないかと、創作をする人間のある種の構造を説いた一節に頷く。俺もいいもの創ったり書いたりしようと、本日の様々なインプットをもって鼓舞された。

改めて訂正する。俺は昨日「東京都は上野の国立西洋美術館にフェメールさんの『真珠の耳飾りの少女』がある」ということを示唆したが、現には無い。

ただ、美しい青色に酔いしれたいのであれば、俺はカルロ・ドルチさんの『悲しみの聖母』をおすすめする。まだ目に優しく焼きつくあの青が、心を洗ってくれた。
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最近は、ずっと手元に複数の案件がある。だが、サーーーと、途切れる時もある。それではいけないよと、考える。

俺に、特に足りないのは「営業力」である。認めたくないが、どこか「待ち」の姿勢が根底にある。それじゃあ飛躍できんよと、さらに考える。

無料でも廉価でもいいからまず「こういうのできますよ〜」と、提示する。そして、クライアント見込みに「わりといいね〜」という感触を抱いてもらう。

「そういや彼、こないだこういうのやってくれたな」という思考の選択肢を抱いてもらい、そこから依頼されることに繋げる。

まずは相手に無償でメリットを差し上げ、「こないだタダでやってくれたしな〜。次はちゃんと仕事として――」という心理を生じさせる。いわゆる「返報性の原理」である。

5年くらい前に読んだ『影響力の武器』というベストセラーでは、この返報性の原理――社会心理学者である当該書籍著者のロバート・B・チャルディーニが提唱――についてかなり深くわかりやすく記してあった。

理解はできる。だが、実行・実践が難しい。本に書いてあることはだいたいそう。だが、やれば、大なり小なり成果が出る。その芽を、どこまで自分で信じきり、続けることが、努力と営業の基礎的なファクターとなるのであろうか。

というわけで、最近はまず無料で“完パケ”レベルのことを相手に差し渡したりすることを手段のひとつとしてアプローチしている。

最初は無料、あるいは、すっごい安い値段で引き受ける。そして、相手には「全然! タダですから! とはいえ、次はその限りではないですけどね〜!」くらい軽く伝えて布石を打つ。

去年まではやっていなかったスタンスである。たいへん小規模な額ではあるが、それが功を成したのか、それが「次」に繋がったという各案件が手元にあるのが現状。

わかってるならフリーになった頃からさっさとやっておけばよかったという後悔もある。

だが、何をするにも気づくのにも、遅すぎるということはない。やらん、気づかんより、何倍もマシだと、今の感覚を俯瞰する。

そのように、仕事の課題について考えるのは好きだが、「大儲けとはいっていない野郎が何を抜かしてけつかる」というのが一般論であろう。

何が言いたいかと言うと、誰でも平等に、その時その瞬間に気づいて行動する権利と可能性があるのではないかということ。

まだ、慌てる時間じゃない。じっくり一本。とか思っているうちにそろそろ44歳。うそだろ本当に。俺はあと、何年生きられるのだろう。
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定期検診で赴いたメンタルクリニック。待合室はガラガラであった。そうか、世間の精神衛生は健やかかと、勝手に安堵する。秒で診察室に呼ばれてノックを3回。入る。

「どうですか平吉さん」

「その……『いい感じです』と言ってもいいのかなといった塩梅です」

「そうですか(ニコリ)」

「やはり、繰り返しになりますが、僕の精神衛生と仕事の活動状況の因果関係は――」

「順調になってきたんですね? 良かったじゃないですか」

「ええ、順調という状態であれば、もっと頑張ろうという気持ちにですね」

「いいじゃないですか」

「4カ月くらい前、僕が出会った個人心理学について、先生にお話を聞いてもらました」

「そうでしたね」

「そこから先生は“Here and now”という、“今、ここ”を強調することの大切さを教えてくれました」

「はい、そうでした」

「個人心理学にも出てきたその言葉は、先生の提言には『認知療法』が源流にあると教えてくれました。そして、その本を読みました。その道の第一人者の書籍です」

「いいですね」

「そして、『認知』の歪み――先生と先生のお師匠さんの大野裕さんは“偏り”と表現する方がいいのではないかという考えがある――についても、僕と対話してくれました」

「しましたね〜(平吉さんあの時しつこかったな〜)」

「そこからいまは色んな哲学書などを読み、僕なりに学んでいるつもりです」

「ははは(侮蔑的ではない笑み)」

「その前は、海外の元・僧侶が書いたベストセラーに感銘を受けました。そして、その中でも『今に集中する』ことの大切さが書かれていました。なんならタイトルは『自分に集中する技術(和訳)』ですし」

「確かに、そういう分野でも共通項としてありますね」

「そう、つまり、“今、ここ”に集中することで、僕のメンタルの不具合は改善、あるいはバージョンアップに繋がると信じること、実践することができたんです」

「素晴らしいじゃないですか」

「そういったわけで、個人心理学とその前の元・僧侶の教え、そこから先生の『認知療法』のくだり、哲学と、すべて“今、ここ”という命題で繋がっていることに気がつきました」

「はい」

「認知するのは“今”という瞬間に集中するのが適切である。この“認知”は、正しいでしょうか?」

「平吉さんね、普通のなんでもないときはそういうこと考えなくて大丈夫ですよ」

「はあ」

「人間の気分、感情、精神状態は波が、アップダウンがありますよね?」

「ええ。時に激しく」

「その、特にダウンした時、その時に“認知”について考えるのがいいと思います」

「ははあ」

「だって疲れるじゃないですか? 常にそれを考えていたら――」

「――僕は小さな頃からそういった性格の傾向があるという自覚があります」

「はい。なので、たとえば今は平吉さんはどんな気分ですか?」

「リラックスしています。元気であります」

「そういう時に考えても……どう思いますか?」

「シンプルに疲れるし、あんま意味ないですね」

「そういうことです」

「なるほど。こういう風に先生と対話を重ねることがいかに大切であるかということにも気がつきました」

「そうですか(ニコニコ)」

「もうなんなら、『座右の銘は?』と聞かれたら『Here and nowです』と答えようかなというくらい、“今、ここ”という刹那の連続的な生き方、考え方、ライフスタイルの解釈が刺さったのです」

「(そこまでかよ)いいじゃないですか」

「いいんですよこれが」

「ははは」

「えへへ」

そういったわけで、クリニックに行く前にひと仕事をし、診察を受け、その足で吉祥寺で開催される興行のお手伝い案件に向かう。

ライブハウス内では、演者からオーディエンスからスタッフまで皆、“今”を楽しんでいた。そう、こういうことだよねと思いながら、活き活きとパフォーマンスするヨディーさんを観ていた。他の出演者もとても元気。みんな、その瞬間、元気。

帰り、足立くんに車で送ってもらった。

「ねえ、ダブステップの派手なやつは一過性のものだったと思わない?」

「はは。そうかもね。平吉の中で有名なそのダブステのアーティストって誰かな?」

「う〜ん。スクリレックスじゃないかなあ? あと、内省的な方のダブステだとジェイムス・ブレイク。彼は間違いないよ」

「そうなんだ!」

「うん。ほら、ジャンル名で検索するとスクリレックスが一番頭に出てくる…」

「ほんまや」

「――じゃあ、ありがとうね」

「うむ! じゃあ!」

信頼する友人が運転する車内であっても、パニック発作の予期不安的な感覚に捉われていた時期があった。今日は全然そんなことはなかった。その時の“今”、隣に居る彼と、ほのぼのと音楽の話をずっとしていた。

人生とは、“今”という刹那の連続系であり、そのなかでダンスをするように生きる。

そのような一節が、とある書籍に記されていた。要するに、そういうことであり、それが俺の“認知”に落とし込まれた。

今という瞬間を、今日という1日をありがとうと素直に感謝できるようになってきた昨今。

これを他者に押し付けたりアドバイスした日にはただの老害の始まりだが、それを専門家と対話したり、自身の心で具現化させるのは正しい。そのような解がしっかり得られたとても幸せな1日。
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ちょうど一年前から今日まで、何をしてたかなと総括する。とりあえず、セックスとかはしなかったな〜と、シモの方から振り返る。

365日前からの初動としてはまず、YouTubeチャンネルを開設した。現在は音楽作品置き場の役割を担っている。生成AIとか動画ソフトとかに夢中になって動画にしたため、現在は50個くらい投稿している。チャンネル登録者数が激増するような要素はないので、いまのところ実にひっそりと運営している。

一般よりは音楽面で、あらゆる視点を持っているという自負から、音楽に特化したコンサルティング業務を開始した。クライアント全然来ないかなと思いきや、看板を出してみたらわりと依頼や見込み客の打診も受け、リピート顧客もあった。収益も得た。いまもひとつ進行中である。

コピーライティングもなんとなく「出来ますよ〜」的に謳っていたら案件を受注できた。今日もひとつ、その業務の依頼提案が企業から来た。受注する姿勢を崩さない。

あとは引き続き行なっている各業務。これはもちろん継続する。仕事面はこのようにわりと前、進んでるかな〜という感覚と事実はあれど、まだ大儲けには至らず。コツコツやる。

健康面ではなんといっても四十肩確定。これが辛かった。いまも完全に治ってはいないが、立ってなら普通にギター演奏ができるまでに回復してきたのでもうちょいというところ。「俺は、40代なのだな」と否めなくなった最たる現象である。

対人関係面に関しては、仲間や周囲の人々にすごく恵まれている。この一言に尽きる。

そのほかで顕著だったのは、読書量がいきなり増えた。これは、あらゆる面に作用する、いいことだと思う。

外は落雷と降雨。なんかすごく荒れた天候。抽象的感覚で、なんだか心地が良い。

明日からまた、一つずつ積み重ね、成長したいという精神を保ち続けていくというこの前向きな感覚。やはり内面は27歳。そうでありたい。

仕事、対人関係、愛。これらの3つの課題が人間には必要とまとめる識者がいる。そこに基づくと以上となるが、「愛の課題」に関しては「セックスとかはしなかったな〜」の一言で終わってしまうあたり、今後取り組むべく課題のひとつであろうか。

今日読み終えた本から学んだことは、俺は「愛の課題」つまり、人を愛したり家族を築くことへのアプローチ、恋人探しからでもいい。異性でなくてもあらゆる人に対する愛がある。

そこに対して俺は、家族関係など、過去のネガティブな体験や環境を理由にして、「回避しているだけ」だと気がついた。それはもう、やめようと思った。愛されることを求めるのではなく、まず自分が愛する。こんなにシンプルなのに、気づくのに43年かかった。

俺が43年も生きられたのは、両親の愛、家族の愛、関わる全ての人々の愛によるもの。そこに対する感謝があるものの、能動的にそれを回避してどうすると自覚した。

とはいえ、どこか極端な部分がたまにあるという自己認識があるので、それも一歩一歩。行なうことが大切。そう、清々しい気持ちで43歳を締めくくる。
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俺は「愛の課題」について考えた。なんでもそいつは人生において、アドラー心理学においての解釈で“最も難しい課題”と提唱されている。だから入念に考える。そしてその課題に取り組むことに尽力を試みる。

「はいアウト。その時点でダメ〜」

脳内・嫁はそう言うであろう。

「なんでダメなの? 俺なりに真剣に考えようって時にこう、水を垂直にさすような言葉はちょっとさあ、感心しないな〜?」

「お前は本当に日に日にバカになっていくよね。そこに素で気づいてないのがミソ」

「人をこう、ミソとかさあ! あ、柚子胡椒なくなってなかったっけ?」

「ああ、すまんこ! あれ美味しいしやつだし切らしたらあかんやつ!」

「君ねえ……シモがきついよ?」

「はい2アウト〜!」

「なんでだよう!」

「お前みたいな言い方で表現してやろうか? 100歩譲って」

「なんで譲歩と侮蔑とかいろいろ……」

「うるせえなバカ。聞け」

「はいー。(長くなりそうだから酒呑もっと。カシュッ。)」

「たとえ、そこに如何なる深い人間関係、信頼関係が結ばれていたとしても、性器・陰部を表現する単語を用いて日常会話に絡めるなど認めない。唾棄すべきアプローチである」

「おお!」

「完コピじゃね?」

「なんかわかるというか小馬鹿にしてるのかい君は、俺を……」

「おん! テーマの『愛』に戻ってみよっか!」

「お、おう。(こいつ酔っ払ってるのかな)」

「お前、聞いてんのか? 正座しろ!」

「やだよう!」

「じゃあ私の酒持ってきて。こないだのミカンのやつ」

「(シラフだったのか)こ、これかい?」

「おん。カシュッ!」

「嫁ちゃん一気にいくねえ〜。いやあ酒というのはいつだって、実においしいねえ。それはどう?」

「甘すぎる。20点」

「嫁ちゃんよ。その製品を作るのにどれだけ企業が努力と苦労を重ねたか――」

「はい3アウト〜! チェンジ!」

「チェ、チェ、チェンジ?!」

「お前はわかろうとして、わかっていない。そんで、わかることから遠ざかってる」

「て、て、て、哲学的なこと言うねえ……?」

「お前が最近かぶれてる色んな本の目次だけ眺めて私、秒でわかったし」

「えええ! 何で本文を読まないの?」

「はいアウ……もう退場だお前は!!」

「ごめんなさい!」

「いいか?」

「はい」

「愛というのはだな」

「はい」

「考えんな!」

「どうして?」

「お前の頭はニワ鳥か? 中身お留守ですか〜! 考えんなっての。『どうして?』が『考える』の始まりなんだよ」

「(嫁ちゃん、マジで全部の本の目次見たっぽい……)はい! 理解しました!」

「はいアウ……また考えてるだろ? もういいよ! お前は永久欠番だ!」

「俺は伝説になったのかい?」

「知らん」

「お、君の呑んでるミカンのやつ、いい匂いだねえ〜」

「いっとく? 20点のやつ……」

「ちび。うまいじゃん」

「何点?」

「20点だね!」

「だろ! いいか。これが『愛』だ!」

「嫁ちゃんごめんよう。一ミリもわからない」

「だから数字とか使うな!」

「(先に数字を使ったのは――)まあまあまあ。ここはひとつ手打ちとしようか」

「ウフフフフ」

「あはははは」

「いよっ!」

「パン。」

今日は、1日真剣に仕事に取り組んでいた。コンサルを伸ばしたい。コピーライティングの企業案件をもっと広げたい。楽器練習だって習慣として実施した。仕事の課題は、入念であった。

愛について。考えたところ前述のような妄想がサラウンドにはみ出た。もう少し、もう少しで、なにかピントが合う気がしてならない。

しかしその「ピント」という尺度がそもそもお門違い。そんな気もする。

じっくり取り組もう。昨日気付いた、俺が無頓着であった、これまで“回避”し続け、おざなりにしていた、重要な「愛の課題」について。
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あれこれ考えずに、無目的で界隈を散歩する。だいたい2時間前後。俺はこれを「パトロール」と表現している。別の街に行くこともある。歩いているだけで、何かが整うのである。

この暇を持て余していると断じられても仕方のない行為。だが俺は、割と瞑想に近い効果があるという持論がある。

今日、この行為に「逍遥(しょうよう)」という言い方があることを初めて知った。 けっこう古代から行われていることで、リラックスやインスピレーション源の効果もあるらしい。

そして、この逍遥を行なう人には偉人が多いと聞いた。参照は、今日投稿されていたメンタリスト・DaiGoさんのYouTubeチャンネルである。

偉人は、逍遥を行なう。俺は逍遥をよくする。俺は、偉人である。などという三段論法が成立するはするが、俺は「偉人」と言われたことがない。つまりまだ偉人ではない。しかし、謎に偉人になりたい欲はある。

じゃあ日々のコツコツをしないとね! そう思い、本を一冊購入した。「読書は仕事の一環である」と、このあいだ立ち読みしたやつに書いてあった。いいこと言うなと感銘を受けた。

机で仕事をする。ライティングとコンサル対応である。そして昨日まで相談中だった企業からの案件を受注した。やったぜと思い、リッチー・ホゥティン(DJ・テクノミュージシャン)の来日公演の動画を流しっぱにして少し寝る。

起きてドラムンベースを制作するが、どうもキュンとくるメインフレーズが定まらず。

それも逍遥しているうちにポンと思い浮かぶかな、などと決して暇な行為ではなかった「パトロール」に意義付けをし、鍵盤を拭いてDAWも閉じる。

もしかしたら、このように毎日、日記を書くことも「逍遥」くらい重厚な言い方があるのかもしれない。そうであってほしいが、俺にとっては日々の習慣のひとつ。言語化トレーニングの役割も担っているだろうか。1日1日のジャーナルとも言える。

まて、「ジャーナル」ってなんかカッコいいなと気がつく。「なんちゃらジャーナル」という感じで「逍遥」みたいな深い意義付けがしたい。

とはいえ、いまのところ、ウンコとかセックスとか書いている時点でやはり前提として日記。くは。
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最近、エレクトリック・ギターを弾くのが楽しいな〜と、俺のSpotify内におけるプレイリスト「Gt Practice」 に並べてある各楽曲を弾く。なんか、毎日弾く。四十肩のリハビリも兼ねている。

プレイリスト「Gt Practice」には、ギターを弾く上でお手本と個人的に認めた楽曲を厳選している。最近はマネスキンの「ZITTI E BUONI」という曲を追加した。

他には、手前の洋楽初期初動(15歳)であるレニー・クラヴィッツ、レッド・ツェッペリンなどはもちろん、AC/DCやイーグルスのあの曲。

オルタナティブ・ロックではレディオヘッドやニルヴァーナにナイン・インチ・ネイルズ。ギターで弾く曲ではないが、ケミカル・ブラザーズも入れている。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの各名曲なども無論入れている。ロックばかりだが、カーディガンズやジェームズ・ブラウン、ジャミロクワイなども入れて、多方面のジャンルをおさえる。

あれ、洋楽しかねえなと思って改めて見たら、ザ・ミッシェルガン・エレファントが入っていた。あのカッティングは、いつまでたってもその領域に近づけすらできない。

エレクトリックギターっていいなと思う。フェンダーの真空管アンプをブゥゥゥゥン……と準備し景気良く鳴らすと、自然と身体が各楽曲と音とフィジカルに、それぞれ同期する。その時ばかりは、時空が歪曲する。10代の頃の精神状態になる。

明日、仲間と「交友の課題」――ええい、そういう言い方はもういいよ! つまり、みんなでビンテージギター・ショップに遊びに行く予定。

欲しいギターがある。

それは、俺が初めて購入したストラトキャスターというモデルと同一の色合い。とはいえ、生産年は1980年と、ビンテージというカテゴリー。おい、俺と同い年ではないか。

価格、税込42万円。

かき集めれば出せない金額ではない。しかし42万円である。なんなら車だって買えちゃう価格帯。

しかし欲しい。「40代を象徴するギター」が。

「30代を象徴するギター」は、35歳くらいの頃に買った。同じく、フェンダー製のブルーのストラトキャスターであり、いろんな人の前で弾いた。

音も構造も非常に有能で、様々な楽曲をこのギターで作った。マネタイズ面で言ったら、10万円くらいで購入したギターだが、元はとったどころか思い切り稼いでくれている。なんならさっきも弾いていた名器。

俺にとってストラトキャスターとは、いまの生業の初期初動そのものであり、体の一部であり、ビジネスパートナーであり、本当に頼もしいやつ。

42万円。明日、そいつに会いに行くわけであるが、どうなるか。運命の分かれ道。試奏して出音がクソだったら「期待しすぎたよね〜」で終いであるが、そうでない場合を考えると震撼を禁じ得ない。
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今日は仲間たちと1日遊んで過ごす。しっかりと。

ビンテージギター・ショップへ行き、狙いのストラトキャスターを吟味する。しっくりくる感が特にすごかった。即決はせずに一旦、判断を持ち帰る。なにせ金額が金額。

あとは肉は食うわドライブはするわノーレート・麻雀を半荘するわと、みんな仕事のことはほとんど話題にあげず、ひたすら遊ぶ。みんな、少年のような表情だったのがとても印象的。

こういった日は本当に必要だなとほっこりして帰宅。ストレスなど一つもない、たのしいたのしい寧日。
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起床。頭から離れないのは昨日、店頭で爆音試奏したギター。付き添ってくれた仲間はその時、こう言った。

「平吉さん、バチクソ馴染んでるっす」と。

ストラップを付け、1980年製のフェンダーUSA・ストラトキャスターを普通に構える全身の姿を鏡で見る。「我ながら……そう思います」と、返答した。小一時間は試奏した。

なんだか、「昔から俺が弾いていたやつ」といったノスタルジック感と、原点回帰のフィーリング――昔、初めて購入したギターと同様の色合いにつき――は俺を興奮させた。

ギター選びにおいて重要な要素の一つに「ネックの握り具合」が挙げられる。靴で例えたらサイズに匹敵するくらいのファクターだと思っている。そこは全く気にならないほどのレベルでジャスト・フィット。

肝心のサウンドは、「本物」の一言に尽きる。しかし昨日は買わなかった。一旦冷静になるために。

気がついたら今日昼下がり、同じ店に居た。店員さんは俺を覚えていてくれていた。

「ああ! 昨日の――」

「ええどうも。一晩考えまして――」

「そうですか(ニコニコ)」

「寝る前も起きても、あのギターが頭を離れず――」

「ふふふ。そうですか(ニコニコ)」

「ください」

「おお!! はい! では! お手続きを……こちらで」

ことはサササと、さも当然かのように進み、購入に至った。人生で一番高い買い物はなんだったろうかと回顧する。これかもしれない。

「新しいやつ買った! やった〜」という心象ではなく、「もともと俺が弾くためのギターを引き取った」という謎にナチュラルな感覚だった。

帰宅してさっそく弾くぜ、という感じではなく、まずはメインギターの定位置に座らせ、これまでめちゃめちゃ弾いてきた――もちろんこれからも弾くが――ブルーのストラトキャスターを隣に置く。

そして、予定通り机で各仕事をする。冷やし中華を食う。カラシのアクセントよと、そのように舌で夏を感じる。

仕事をする。たまにギターをチラッと横目で見る。「やった〜!」というより「もともと、ここにあるべきだ。俺が弾くべきギターだ」という安堵に近い感傷。

同じカラーリングのストラトを、俺は16歳か17歳の時に買った。20代の頃、売った。パチスロで負けまくって金がなくなったからである。そして、その、売った金で、パチスロを同日に打った。場所は池袋。機種はクランキー・コンドル4号機。4万円ほど勝った。鮮明に覚えてはいるが、その勝った金がどこへ行ったかは――全ての博奕打ちがそうであるように――いっさい覚えていない。

博奕に狂ってメインギターを売却するという蛮行。今では信じられない。ものすごく、後悔していた。

時系列としては、先月ふとした話題の流れで、「ビンテージギターを見に行こう!」という趣旨の遊びが仲間内で芽生えた。そして、店舗のウェブサイトで下見したら、当該ギターを見つけた。

1980年製。俺と同い年。カラーリングは、初期衝動の塊である最初に買ったギターと同一。サウンド申し分なし。各パーツ、奇跡的にほぼほぼ全てがオリジナルの状態。そして、弾いた時の「これ、44年間、あまり人に弾かれてこなかったやつだ……」という雑感。

ストーリーがあった。過去の後悔を払拭とまではいかないが、それがあってのこのギター。40代を象徴するギター。機能、ルックス、想い、それら全てが相成り一心同体となれるストラトキャスター。

まだ、弦も張り替えていない。さっきちょっと生音で(アンプ等機材を通さず)軽く弾いただけである。

価格は、かなりの高額。だがそれがいい。これからこのストラトと共に、音楽をして、ギタリスト、ギター弾きとして音楽を作り、演奏し、誰かに貢献し、稼ぐ。当然のようにモチベーションはグンと上がる。

これほど、俺の自己同一性と深く浸透するギターもない。率直にそう思った。なんならもう、それが宅にあるだけでもいい。資産価値も十分にある。なんならほぼ確で今後、市場価格が上がり続けることは明白。

だが、前提として俺はこのストラトキャスターをメインギターとして使用し続ける。思い入れと感性と好みが全部合格点どころか、沸点を突き抜けているのである。

1980年製のストラトキャスター。同じ時代・時間軸で生きてきた。こいつがいれば俺は烈士にだってなれる。

そういった文脈があり、新しいギターを今日、購入した。短いと言われる人生、まだ先がある。一緒にいこうぜとフレッシュになる。

とはいえ「1980年製のストラトキャスターは、ビンテージである」

「俺が生まれたのは、1980年」

「つまり、俺はビンテージである」

やめよう。こういう自虐的な三段論法とかもうやめよう。

そうも思うが、シンプルに「やった〜!」というはしゃぎ方は別の角度で、落ち着き、回想しつつ、このギターとの関係値を未来込みで捉えているあたり、俺はそこそこ大人になれたのかもしれない。それを証明するためのギター。そういう考え方だって、ある。
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普段通り日常を過ごす。やることが多いなとありがたみつつ、各タスクをせっせと行なう。

楽曲制作面で、どうもドラムンベースのいいメインフレーズが浮かばないなと、一旦置いておいて別アプローチのものに着手する。

ギターを弾いたり調整する時間がとれなかったが、こういった時間のマネジメントってすごく大事だなと改めて思う。

時間ほど平等なもの、概念だろうか、感覚だろうか、目安だろうか。どれが適切かわからないが、いままで以上に意識して時間を大切にしようとふと思った。あっという間に7月も過ぎようとしてるし。
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ひとつ、進行中だった案件が完了する。昨日着手したやつの続きをやる。未着手のものが1案件。確認待ちがひとつ。

こう整理して記すと、タスクが途切れず潤沢でいいじゃないかと思う。一方で、ガツンと裕福になっているわけではない。

ううむ、単価かなと、考える。安くはない。しかし上げてもいいと判断できる業務もある。なので、業務単価を検討した。

案件単位ではない収支に、制作楽曲のストック収益がある。これが、コロナ禍終焉かな〜というあたりの時期で伸び悩んだ。

だが、プラットフォームの有能な神アプローチにより、増えた。やはり楽曲制作は引き続き力を入れるべきである。

いつだったかの小学生と思わしき文面で、YouTubeで使用する旨の楽曲使用報告メールが届いた。こういうのはすごく励みになる。楽曲を選んでいるのはチームの大人かもしれないが、そのへんはいいかと、純粋な喜びを得る。キッズにも貢献できているのかと。

ちびっこからでなくとも、使用報告をくださるユーザー、未報告でも、ご使用いただけていることに対して、いつも、感謝しかない。

そんな暮らしのここ数日、入手したストラトのいいやつの調整がまだできていない。やや歯がゆいが、手元にあるだけで身が締まる。

いや弾けと、それで新しい楽曲を作れと、物欲所以で購入したわけではない、ある種の覚悟の象徴とも表せる決意と決断だったと、きちんと芯から認識する。

そういったわけで、今日は合間合間に、今の仕事のスタイルをどのようにブラッシュアップしていこうかと考えていた。

「仕事は『楽』を選ばない。しかし、生活は『楽』な方がいい」。そう、何かで聞いた。確かにと思った。そういう風に生きていくには、いま、何をすればいいか。今日は、いま、するべきことをしたなと思える。

「今日するべきことをしなかった、今日のスケジュールは本当に今日するべきか。そう思えない日が続くようであれば、何かを大きく変化させるべきである」

これはスティーブ・ジョブズさんの言葉の列から切り抜いて勝手にアレンジしたものである。意味合いは歪曲させいない。

ほんとそうですよねと思いつつ。彼が世に送り出した「マッキントッシュ」シリーズの現代の製品をカタカタしながら、ありがたく今日も幸せに過ごす。だんだん文面テイストが宗教じみて、いや、自己啓発に傾倒、いやいや――考えて感謝することはシンプルに大事だなという思案。
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スッキリした目覚め。そして、「いまやっていることは良き。次なるアプローチは――」という展望を定めようという前向きな心境が生じた。

だいたい手前は、「これはもうしたくない」という、ネガティビティを打破する方面のエネルギーで、次のステップへ移行することがこれまで多かった。

たとえば、「もうここには居たくない」という思いから引っ越したように。「もうこれ以上、博奕をし続けていたら社会的に死す」という絶望からギャンブル欲を仕事欲に変換させたように。

それはそれでいいのだが、今朝のは「いま、良き。じゃあ、さらにもっと」というポジティビティ所以のものだった。

とはいえ、どうせ一過性の躁状態だろうと思っていたが、日中各タスクをこなしてクタクタになったが、深夜になっても起床時の心境は変わらなかった。

その直前では、眠い、なんと眠いんだと22時40分、ソファに転がりリッチー・ホゥティンの大好きなアルバム『Closer』を聴いていたら、なんかアイディアが閃いたので鍵盤で具現化をはかり、やったこれだと思ってその欠片を楽譜にメモる。「これは完全に、経験則から、途中で没にならずに完成に向かうモチーフだ! ちゃんとトキめく音の並び。ファ〜!」と、断じつつ。『Closer』の内省的でミニマムな音楽性とは全くもって異なるが。

要するにわりといつもの感じだったが、おい、これは本物の情念の上質のやつだ、次元上昇だ、アセンションか! と思ったので作戦会議を諮る。

議場である行きつけの立ち呑み屋で整理しようと思ったが、今日中に対応すべくご提案をいただいていたので優先する。

それは、昨日までも行なっていた業務のひとつ、音楽コンサルティングである。一つ終わってまたすぐご新規のご提案。そんなにうまくいくかと思ったが、事実、来た。

この業務は、今年初めに走らせ、ためしにやってみた。すると思ったよりも打診を受けることが多く、受注まで至らぬものがありつつも数件完了し、リピーターも収益も得ている。そして偶然にしては出来過ぎだというタイミングで連なるご新規さま。

ということは、この業務、わりといけるのかという期待は、事実ベースで認めるべきである。

つまり、「いまやるべきことに集中すると前提し、今日の発作、いや、奮起の念を脳内でアイドリングし続けるべきだ」と、結論づけた。

目標や夢から逆算して「いま、やるべきこと」をあぶりだして走るタイプがある。

「いま、やるべきこと」に集中しながら踊るように駆けていくタイプがある。

俺は後者なのであろうか。目標や数値化したものに猪突猛進するのは性に合わない。寄り道しながら悠々と、焦りや、しくじりや、恥を楽しみつつ、それら全てを血肉とし、「最終的にどうなんのこれ?」という感覚を自信過多くらいに抱きつつ、いまやるべきことに全力投球するのが、たのしい。

そういったわけで、なにかを大きく変えようかなという思惟があったが、いま、やることがたくさんあるから、まずはそれに全力でと判断した一日。

またストラトのいいやつをイジる時間がなかった。くは。とも思ったが、もしかしたら、このギターを手にしたことによる確固たる決意が、今朝の情念の源流なのかもしれない。

「立ち呑み屋でハツテキを食べたかったよう!」とも思ったが、そんなの明日でもできる。

今日は、今日しかできないことをした。だからこう、「自分に対して堂々と」していられる。あの鬱のカスみたいな自分はどこに行ってしまったのだろうかというほどに。

いろんな意味で、一過性でないことを願う。というか自己実現させ、本当の意味で「やった〜」となりたい。それにしても立ち呑み屋は本当に行きたかったが今夜は、おあずけ。

赤羽駅から徒歩数分に位置するの俺のセーブ・ポイントの一つ「桜商店603」は明日に持ち越し。生ビールがめちゃめちゃ美味しい良店。
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立ち呑み屋に行くか否か、相当熟考した末、それにかかる時間はギター調整および演奏に充当することにする。

結論、さすがビンテージ。さっそくリペアが必要な箇所があると断じた。しかし、まだベターではない状態で演奏しても、すごくしっくりくる。

特に、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの楽曲を流しながら同時に弾くとシンクロすら得るフィーリングに驚く。あと率直に、音がものすごくしっかりしている。「これがフェンダーUSAビンテージギターか」と、感動する。

すぐにライブ演奏・レコーディングでの使用は時期尚早。しかし、今後の伸びしろを考えると素晴らしいパフォーマンスを魅せるのは明白。とてもウキウキする。

今日、そういったくだりまでは、ライター案件各種に精を出す。前のめりにひとつ完成させる。来月中旬締め切りの案件に着手する。

危険を伴う猛暑のなか、コツコツと暮らす。こづかいを節約して、家で呑む。そのぶんを、漢の仕事道具代にあてる。

うん、いいじゃないかとも思う一方で、酒呑まなければ年間数十万円は浮くという現実的ソロバンがその数値をはじき出すも、俺は酒以外、趣味等にほぼほぼ金を使っていないから手打ち。そのように捉える。

今日も、働いた脳やらに廉価のハイボールが「キン」と響く。
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上野公園のアメ横側入り口の階段に男が座っていた。齢は60ほどだろうか。左足は義足だった。季節にいっさいの抵抗をみせないような日焼けの肌。彼の側には数点の、独自の筆跡で文字が書かれた色紙が並んでいた。俺は、なんとなく声をかけた。

「書道、でしょうか?」

「あ? はい。こう、色々と……」

「思ったことを書かれたのですか?」

「そのようなものありまして」

「いまこの場で、書いてくれるんですか?」

「ええ」

以前、池袋あたりで、路上で同様なアプローチをしていた男がいた。「インスピレーションであなたを字で表現します」的なことを謳っていた。そういうやつかなと思った。

「こう、直感で、僕に対して感じたことを文字に?」

「そうですね!」

「じゃあ、書いていただけますか?」

「ええ! ありがとうございます!」

「いくらですか?」

「その、『気持ち』というかたちで、いくらというわけではなく……」

各色紙の横に、プラスティックの器が設置され、小銭が20枚ほど入っていた。5円玉から500円玉。

「なるほど。ではお願いします」

「わかりました」

「その、真剣にお願いします」

「は! 私はね、いつだって真剣ですよ。お兄さん!」

「さようですか」

「下のお名前とか入れますか?」

「いいえ。あなたが僕を見て思ったことだけを書いてください」

彼は、墨汁を茶碗にペットボトルのキャップ一杯ほど注ぎ、水を数滴まぜた。筆をとった。野太い筆跡で一言、二言、豪快に書くことを想像していたが、彼は色紙の右隅から縦書きに、ちいさな文字を重ねた。

意外だなと思いつつ、ずっと観察していた。彼は確かに真剣に字を書いていた。同一のペースで、無言で書き続けた。

「うん。よし」

「できましたか。拝見してもいいですか?」

「どうぞどうぞ!」

10数行、言葉が並んでいた。俺が見る前に、まず彼はそれを読みながら発声した。

「するどさの中に」

「やさしさを」

「少しやわらかく」

「自分を見つめ」

「視野を広く」

「考えるより」

「感じて行動」

「今が自分をのばし」

「成長させられる」

「そのくりかえし」

とのことである。なんか、感動したので俺は思わず拍手をして「おお!」と、讃えの発声をした。

「ありがとうございます。これが、あなたが感じた僕への所感でしょうか?」

「はい。お兄さんはね、こう、こう、言葉にするのがむつかしいんだけど、凄さがあるんだよ!」

「なんと!」

ははあ、これは、バーナム効果(誰にでも当てはまるような曖昧で一般的なことを言って相手を納得させる効果。心理学用語)を使ってゆさぶり、抽象的に褒めちぎって俺の財布の紐をゆるませるこいつの常套手段だな? とも思ったが、どうやら続きがあり、その先にも感動があった。

「それは恐縮です。その、“今が自分をのばし成長させられる”、“その繰り返し”というあたり、最近常々思っていることでして…!」

「お兄さんはね、真面目すぎるの」

「はあ、思い当たる節がとてもあります」

「しかもね、小さい頃からずっと」

「そうなんです……!(なんでわかるんだろ?)」

「それもいいんだけど、そこにプラスアルファして、“やわらかく”、柔軟性を持つといいんですよ」

「はあ(確かに、「シリアスと緩和のコントラストの重要性」について最近納得した。そこ見透かされてるのかな?)」

「あとね、いいこと教えてあげようか?」

「いいこと!」

「我欲はよくないですよ。でも、欲はいいこと」

「なん……言葉どおりですか?」

「自分のことばっかりかんがえてちゃいけないよってことです」

「我欲ですね。確かに」

「『為』って字、あるじゃないですか?」

「はい。大事なことかと」

「でもね、そこに『人』って字を足すと……」

「『偽』ですね」

「人の為にというのは『偽』なんですよ」

「そこは反論があります。貢献することはいいことだと僕は思います」

俺は、このとっつぁんを論駁するつもりはないが、そこは違うということは議論したかった。

「だからね、『人』というのは抜いて『為』だけでいいんですよ」

「ちょっとよくわからないですね……“我欲”と繋がりますか?」

「そうだね! ただ、為になることをすれば、“人の為にやっている”っていう自我みたいなのが抜けるのよ。だから『為』だけでいいんです」

「すると……?」

「自分も、相手も、幸せになるんです」

「なんと!」

ちゃんと中身がある解釈だった。ギリシアの哲学やアドラー心理学にすら通づる。そして、そのへんのしょうもない豆知識系ショート動画で表示されがちな「人」と「為」と「偽」のくだりだったが、おそらく、彼はゼロからこの解釈を生み出したという直感があった。そこは素直にリスペクトできた。

「――いやあ、とにかくありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ」

「あとすっごく気になるんですけど、下の方に文字を縦書きで並べてくれたじゃないですか? それで、その上の色紙の7割くらいのスペース何もないですよね」

「はい」

「たぶん、最後にそのスペースに、命題を表す一文字を思い切り書くのかなとイメージしていました」

「これにはね、理由があるんです」

「なんと!」

「お兄さんとコラボなんですよ」

「は?」

「この色紙を持ち帰っていただいて、読み返して、何ヶ月後か、何年後かに、お兄さん自身でそこに思ったことを書くんです」

「なんと!!」

これも、彼の作品メニューのひとつのスタイルなのかもしれない。しかし、そうではなく、いまここで、そういったインスピレーションで生じたアプローチだった場合、この色紙に書かれた字とレイアウトは「作品」と言い表わせる。

「いやあ。2度も感動をありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ」

「お名前は?」

「琴音といいます(アーティスト名)」

「ことねさんですね」

「本名は、ヨウイチといいます」

「僕の叔父さんと一緒の名前ですね」

「そうですか。ニコ」

「では……“気持ち”を……」

「へへへ……」

「小銭しか入ってないですね。この界隈の人間の、琴音さんの作品に対しての“気持ち”はこんなもんなんですか?」

「ああ、なんだか外国人とかが、私が字を書かなくても“カンパ”で入れてくれるんですよ……」

「勘違いも甚だしいですね。(その風貌で義足だと――無理もないかなという気が、差別的ではない意味でそうも思うが)」

「では。琴音さん、これはあなたの作品に対する“対価”ではなく、“気持ち”であることをご理解いただきたいです」

「ええ」

「ファサ」

「え〜!! いいんですか?!」

「僕の、琴音さんとこの作品に対する、“気持ち”です」

彼は、“気持ち”を受け取った時、びっくりするほど無邪気で嬉しそうな声でリアクションした。

「では」

「はい!!」

「ありがとう琴音さん」

「はい!!」

この間、約1時間。中略したが、琴音さんは、「考えすぎないこと」「まず行動すること」「そこからのフィードバックで考える」「そうでないと、考えが身につかない」といった文脈の持論を語ってくれた。政治の話もしていた。もっと大きな声で、自身の思想を広めたいという夢もあるらしい。

きっと彼は、インターネットを遮断している世界で暮らしている。全国を周り、30年ほどこういった活動をしているとのことである。

俺は、心と魂に響くものを感じた。だから、俺なりに真剣に彼と、彼の作品と向き合った。

“今が自分をのばし、成長させられる、そのくりかえし”

若者に言うならわかる。だが、平均寿命の半分を過ぎた俺にその言葉を向けるのは一般的なことではないと思う。

だが、現に俺は、いまここでずっと何か、目の前のことに集中することで、もっと仕上がるという強い思念を持っている。琴音さんは、それを直感で書き表した。そして、“そのくりかえし”の部分だけ、太字で強調していた。

俺がここによく書く“コツコツと”がそれにあたる。初対面なのに、そこに気づいてくれたのかもしれない。

そういったわけで、額縁やマテリアルに収められていなくても、作品や感動はそこらじゅうにあるなと感受した。そして、それは、能動的にとりにいくものだと。

なにせ、俺の“気持ち”に対して大喜びしてくれたのは嬉しかった。“為”になったのだろうか。

彼の言葉を借りると、“お互いにとって”という点で、そこは肯定すべきところであろう。とても気持ちのよい、上野でのひとときであった。渡したの1,000円だけど。
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ちょっとあわてるほど、やることが多いなと少しあせるが一つずつ対応する。逆算して時間を考える。

少し冷静になり、ペース配分の目測をたてる。すると、「まだそんなに慌てる時間じゃない」と、俯瞰できる。

それくらいでありがたいじゃないかと、本来どうあるべきかを正しく認知する。振り返るとかなり色々なことがあった今月。

信じられないくらいあっという間に過ぎた。とはいえ、やることがたくさんあることに対しての感謝は大前提とする。本当に早かったアツい7月。
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