08/2020

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
手前の戸籍謄本を2度見。8月


ようやく執拗なまでの高湿度から解放された気候下、河原を散歩。

交番を通りかかり、「殺人罪」「凶器準備集合罪」「連続爆発事件」など、過激なフレーズとサムネイル写真が貼られた掲示板をながめる。

これらの凶悪犯を捕まえれば賞金が出る。しかし、写真は平成20年撮影だの昭和46年撮影だのと、今とは異なるであろう顔写真が並ぶ。検挙する気があるのだろうかと笑いが込み上げてきたがポリスが交番から出てきて目が合ったのでダッシュで逃げる。

追われて面倒なことによくならなかったなと思いながら、俺が指名手配凶悪犯だったらどこに身を隠すかと考えながら歩いた。どうやって時効切れまで逃げ延びるかを。

ホームレスになることくらいしか思いつかなかったので、物騒なことを考えるのはヤメる。とんかつを食って帰宅。ポストにでかい封筒が投函されていた。キッチンで煙草を吸いながら開けて確認する。中身は、この間手配した俺の「戸籍謄本」だった。初めて見た。

どういうわけか謎のベールに包まれている平吉家の間柄などが記されていた。父親の父親、すなわちおれのお祖父ちゃんの名前も書いてあった。

小さい頃、俺の祖父と祖母は一律死んでいると聞かされていた。

「おとうさん、僕のおじいちゃんとおばあちゃんは?」

「うん? 死んだよ」

「そう……」

子供が事実確認ができるはずもなく、鵜呑みにしていた。お年玉も、両親と叔父からしかもらったことがないこともあり、信じていた。しかしそれは嘘であった。

戸籍謄本を見ると、俺の父方の祖父の名は、俺が13歳くらいの時に家族で葬式に行った「親戚」と教えられた奴の名だった。なぜ、隠していたのかわからない。さらに、俺の祖母にあたる父親の母親の名前にいたっては「早田」という苗字の謎人物だった。

どうやら父親がよく言っていた「俺は継母に育てられて虐待を受けて……!」という嘘くさい話はこの戸籍謄本によって信憑性が増した。

さらに、父親の出身地は福岡県福岡市で、俺の出生地は新潟県三条市であった。なんだか、俺が子供の頃、両親に聞かされた家族構成やらが全て嘘だったことが明るみになった。40歳にして、手前の源流が嘘で塗り固められていたことを初めて知った。

ふうん、と思い、制作をする。家族構成や親戚やじいさんばあさんなど、相当どうでもいいなと思うが、俺は実は、平吉ではなく、早田だったのかもしれない。「早田賢治」。なんかトレンディー俳優っぽくて悪くない字面だ。

それにしても、なぜ俺は小さい頃から一親等家族に豪快な嘘を植え付けられていたのだろうか。家族に凶悪犯でもいたのだろうかと疑いたくもなる。

俺のおじいちゃんとかは過激派活動家だったのかもしれない。連合赤軍のメンバーだったのかもしれない。今度交番の掲示板を見るときは、顔写真に俺の面影がないかをちゃんと確認しよう。戸籍謄本確認による犯罪者一家疑惑が浮上した夏の始まり。
_08/01

 

 


ひとつ仕事をして池袋へ。機材を繋ぐ線を買いに行く。そういった消耗品はネットで買えばいいのだが、なんというか配達員さんに悪い気がするのでだいたい買い物は直で行く派。

線を2つ買って、散歩がてら西武デパートへ。俺は財布がほしい。今使っているやつはポール・スミスというブランドの革製のしっかりしたやつだ。

しかし、いくら強固な品とはいえ、外出時に10年近くもケツの右側に常に納めておけばそれはくたびれた姿になるというもの。というか限界を超えている。鯵の開きのような姿をしている。

以前、池袋のデパートで完全冷やかしスタンスでしっかりと接客を受けた。しかし今日は違う。現金をもっさり持っており、なんなら買ってしまう気概もある。そうなってくると物色する目つきも違ってくるのか、妙齢の女性店員さんが寄ってきた。

「そちらは、お値段的にプレゼントなどでヒョイと買われる方が多く……」

「はあ、ヒョイと23,000円ですか。やはりブランドですな」

「左様でございます。革製のをお探しで?」

「ええ。見てくださいこれを。御社のやつを10年は使いまして」

「あら! これはもう“次”ですね」

「ええ。“次”のステージに行こうかと。僕、これが一番カッコいいと思うんです」

「こちらは、ご自身で気に入った方がえいっと買われることが多く……」

「するとお高い?」

「税抜き40,000円でございまして」

いくつか吟味したが、どれも悪くなかった。しかし、このドス黒いワインレッドの革製の高級感と静かな威圧感、品性とヤクザ臭を漂わせるこの4万のやつが明らかに光って俺の目に映るのである。

「ちなみに、一番高いのはどれですの?」

「クスッ。そちらでございます」

「何が面白いんですか」

「クスクス……」

妙齢の女性店員はややメンヘラ気味だったがそれはいいとして、俺の目は間違っていなかった。感性は鋭さを失っていなかった。俺が気に入ったやつはポール・スミス池袋店内において最高級品だったのである。

「これがほしいです」

「ありがとうございます!」

「いや、違うんです。ご購入確定というつもりではなく……」

「あと、こちらの方は子牛の皮を使用しておりまして……」

「いえ、もうこの高いのを買うか否かの2択になりました」

「こちらは気に入った方はえいっと買われて行くのです」

「行くのです……ですか。ちょっと一周して考えてきます」

俺は30分くらいデパートをぐるぐる周って考えた。俺がほしいのはあの一番高いやつだ。しかし、子牛のやつも23,000円のやつも悪くない。しかし、買うならあの高いやつがいい。館内を歩きながら、色んな知人の買い物にまつわる金言が頭をよぎった。

「明日死ぬかもしれないんだぜ?」

「財布と靴はよいものを買っておくもんだよ。意外と見られるところだ」

「一番気に入ったものを買うこと以外は無駄遣いなんだよ」

「ここぞって時にドンと使うんだよ。金は」

どれも的を得つつも本質をついた金言だ。そして、これらの金言は全て、俺より金持ちの知人友人からの言葉である。しかし、金入れに税込44,000円というのも――財布自体に金を使うことはナンセンスと言う知人もいたし――でもあれほしい――帰った。

正直、国の給付金として頂いた10万円は全額景気良くつかってやろうかと考えていた。あれを買っても手前の資産状況に全然差し支えはない。しかし、なぜ買わなかったのか。

心底気に入ったデザインと色と機能性と、文句なしの品であった。だが、「財布を買うのに44,000円というのはいかがなものか」という賢者的判断が俺を揺さぶった。実にセコい。

こうしよう。こないだお誘い頂いた楽曲コンペには賞金がついている。俺の曲が通って賞金ゲットとなったらあの財布を買おう。されど、モチベーションも上がる。そう決めた。

頑張ってサクセスし、満面の笑顔であのデパートに行って、あの妙齢の店員さんからあの一番カッコいい財布をえいっと買おう。この予定通りにいったら相当ハッピーな気分になれる。もともと希薄だった物欲という情念がなぜか高まりつつある四十路序盤。
_08/02

 

 


休む。特筆してその日にやるべきことがない日は休むべきだ。とはいえ、何もしないで転がるのもあんまりなので風呂掃除をして梅雨に生じたカビを殲滅する。

散歩して過ごす。歩いて10分で着くブックオフで立ち読みして過ごす。ほしい漫画が見つからなかったので手ぶらで帰る。好きな漫画を見つけるのは難しい。昔よく俺好みの漫画を貸してくれたサブカル友達と最近は疎遠だ。

帰ってやることがあるといえばいくらでもあるのだが、休みと決めてぶらぶらとしていると割と暇である。外で呑むのを解禁しようと思ったが、なんとなくまだ油断できんと思って酒買って帰宅。

非日常的な刺激がほしい。コロナ禍となってから数ヶ月、呑みにも行かなければイベント等にも行っていないし、人と会って交流する機会も極端に減った。刺激が不足している。心にカビが生えてきそうだ。

しかしここは逸脱した行動をとるよりも、と思い、いつも通りDAWを開いて作業する。「これはいい」と思った楽曲が完成した時、快感をともなう刺激となるではないかと真面目に過ごす。

たまには女性とデートがしたい。動物園とか遊園地とか、わかりやすくスタンダードなデートをしてほっこりとしたい。最も平和的な非日常の刺激だ。「好きな人が見つかる」というのが人間的に最も刺激なのだなとか思いながら静かに過ごす。たまには恋に恋い焦がれ恋に泣きたい。
_08/03

 

 


恋だ愛だのとは無縁の、廃墟寸前団地散歩をする。

知人から聞く話によると、このあいだ『アメトーク』という人気TV番組で団地がテーマとなったそうな。宅にTVがないものだから視聴はできなかったが。

俺の団地愛は35歳の頃に芽生えた。「それまで認識していなかった性癖」というやつである。これをスライドさせると、人生の中盤以降に目覚めた特殊性癖、異常性癖など多岐にわたり、場合によっては人生を狂わせる。

昭和の時代に建設された古い団地の造形にえもいえぬ感銘を受ける。その感覚は「廃墟マニア」のフィーリングに近い。

なぜ、古い団地に愛しさと切なさとなんやかんやの情念が湧くのか。それを一言で言い表した方がいた。某オルタナティブ・ロックバンドのフロントマンと仕事でお話をする機会で聞いた言葉である。

最初にその方と会った昨年、彼らの作品のタイトル、テーマに関わる「螺旋階段」の話をした。彼らの初期の作品のMVには団地の描写があった。なにか繋がると思い、俺は団地についても聞いてみた。

すると、やはり「団地愛」はあるようだった。仕事のお話が終わったあと、「ちなみに、団地の話なんですけど…」と、雑談に付き合ってもらったら、螺旋階段を模したTシャツを作成したこと、そしてその螺旋階段を撮影した地は「赤羽台団地」という俺の宅の近所にある団地であることをお話ししてくれた。

しばらく経って次に彼とお会いした時、「また、団地の話をしましょう」と言ってくださった。そのまた次にお会いした時、俺は仕事のお話が終わったあと、「赤羽台団地はほぼ解体されてしましました…」と、伝えた。

そんな感じで団地のお話に付き合って頂ける稀有な方。しかし、側からするとマニアックと捉えられるようである。取材時の同行者が「こないだもそうですけど、僕には団地の魅力がどうしてもわからないんですよね」と、率直に投げかけていた。

そこで彼は、「まあ……『無駄の美学』ですかね」と、仰った。確かに。昭和団地に住んでいる住人は団塊世代以前がメイン。高齢化し、退去する者が大半で、スペース的にも建造物としても無駄である。廃墟も無駄である。しかし、その無駄な光景と存在感は、えもいえぬ絶望的なノスタルジックとタナトスを醸す。

夕方から2時間ほど、寂しく空が閉じる時間帯に、東京都北区桐ヶ丘団地あたりを散歩した。全盛期はさぞかし人口密度が高かろうという地だが、現在人っ気は少ない。しかし、いまだにやたらと古い団地がたくさんある。

歩いていると孤独感しか得られない。それが心地よい。心が調律される感覚だ。誰かとわいわいパリピに過ごしてエネルギーを得るという方法と真逆のアプローチである。そのまま死方面に吸い込まれそうな快感に近しいリフレッシュである。こういう感覚で歩いている時、決まってRadiohead の「There, There」が脳内再生される。

俺はこの楽曲の歌詞の
“Just ‘cause you feel it   Doesn’t mean it’s there”
(あなたが感じるからといって そこにあるとは限らない)

という部分が凄く好きだ。正直、レディオヘッドの歌詞は、ちょっと何を言っているのかわからないものがいくつかあり悔しいのだが、好きなフレーズだっていっぱいある。

団地愛を『無駄の美学』と言い表した彼も、レディオヘッドが大好きということを直接聞いた。レディオヘッド好きは団地および廃墟好き説浮上。

“あなたが感じるからといって そこにあるとは限らない”――、という和訳で合っているだろうか、これは、ほぼ廃墟の寂しい団地散歩中の心境に通づる気がする。ないかを感じるような気がするが、感じているのか、ある気がするが、なんもないのか。

実際、この歌詞の内容が何を表すのかというと、団地とか廃墟とかではなく、9・11や戦争、テロリズム絡みという説がある。でも俺は、不気味さと孤独感と変な死生観のワクワクを感じる散歩中にこの曲が聴こえてくる。

そういった、団地にまつわる話で盛り上がれる人が、俺にはほぼいない。どうか、『アメトーク』という人気TV番組から昭和団地ブームに火がついてはくれんかと思う。

俺のスマホ待ち受け画面の、解体前「赤羽台団地33号棟」の超オルタナティブな造形と存在感と不気味さの魅力を誰か共有してはくれんかと思う。

こういうことを考える時、決まって、手前はもっとポップな性癖なり趣味嗜好を大勢の人間とシェアすべきだと省みる。だから恋だ愛だのと縁遠いのだろうも。
_08/04

 

 


バイオリズムの谷に挟まったようなダウナーな心境で目が覚める。そのままのテンションで1日が流れていく。要はテンションが低い。

最近、極端に刺激が少ない。非日常的な、ファンタスティックな、とまではいかなくとも、人と会話をしたりなど、そういった日常的な刺激すらない。それにより、軽い抑うつ状態に陥ったと捉えられる。

今日は定期検診に行く日だが、徒歩1分のクリニックに行くのもだるい。しかし、俺は過去に3度ほど予約をすっ飛ばした前科があるのでちゃんと行く。

「先生、そういったわけでして。だるいです」

「ううん……他には変わったことは?」

「いえ、極端にテンションが低いだけです。『日常生活に支障はない』程度なので、まあ大丈夫かと」

「そうですか。じゃあ、いつものクスリを……」

正直、このタイミングで対話療法なりをされても逆効果というもの。積極的に秒で薬を処方するこの先生のスタイルは手っ取り早くてとても好きだ。

「平吉さ〜ん。採血ですよお」

「待ってました」

「好きって言ってましたね。採血が」

「ええ。最近刺激が少なすぎてこれくらいしか愉しみが……」

「けっこういるんですよ。ほら、これで3本採血しますよね?」

「はい。一回注射器を刺して、そのまま中の試験管みたいのを3本換えますね」

「3回刺してくれって人。いるんですよ。採血好きが」

「そいつはただのマゾヒストですね。僕とは違います」

「どっちも変態ですよお」

「一緒にしないでください。僕は血が抜かれていく感じが好きなんです。崇高な快感なのです」

「わからないわ。おほほ」

「わからないでしょうね。ぶはは」

そういったわけで血を抜いてややスッキリしたが、やはり夜までテンションが上がることはなかった。

そろそろ酒呑んで寝ちまおうかと考えながらDAWでMIXしていた時。どうも洋モノの音にならんなと、やっぱり今日は調子よくないなと、そんな時。こないだ足立くんがLINEで教えてくれた手法と、手前の創作的手法を加えてツマミをイジりまくったところ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンばりのドラムのサウンドが出た。今日一の快感である。

キックとベースがドーンと空気をタイトに震わせ、歪んだギターがヒステリックに絡みあう。意図的に揺らがせたリズムがグルーヴを生む。これぞロックの醍醐味だ。

非日常的な刺激、ファンタスティックな瞬間がないから、手前で作る。いいじゃないか。クリエイティブじゃないかと、少し気が晴れやかになる。でもたまには受動的な快感が欲しい。

呑み屋、博打場、ピンク街、この街には簡単に欲望を金で満たしてくれるスポットがいくらでもある。あり過ぎというほどである。しかし行かん。快感を創り出し、他者と共有するという行為の方が、刹那的でシャブ的な快感よりもよっぽど気持ちよい。そういうことにしておいて、真面目に過ごそう。テンションの低さと創作度は反比例するという解釈はたぶん合っている。ダウナーな時の方が、何故かいいのができる。
_08/05

 

 


リモート案件がひとつ。この仕事スタイルがいつまで続くのだろうとは思うが、電車に乗らないで済むので悪くない。

なんだかあっという間にいくつかの今日のタスクが済み、夕方。たまには缶酒ではなく、まともな酒でも呑もうと思い「ノイリー・プラット」という最高に美味いドライベルモット酒を買いに行く。歩いて20分の酒屋でこないだ見つけたのである。

クソ暑い道中、美味い酒のためだと奮起しながら歩く。古びた商店街の店先で眠りこけるネコの姿や風鈴の音色、きゃっきゃと道でボール遊びをする子らなど、風情があっていいではないかとリラックスする。

しかし酒店に着くと肝心の「ノイリー・プラット」がない。本当にこういったことは多い。俺が気に入った商品が短いスパンで陳列棚から消えるということが実に多すぎて、手前の嗜好はそんなにマイノリティなのかと意気消沈。何も買わず帰路、夕飯の具材を買ってしょんぼりして宅に着く。

死ぬほど辛い「辛ラーメン」を調理して食う。たまねぎ、しいたけ、鶏のささみ、たまご。栄養満点である。どうせこれもそのうち終売になるんだろとか思いながら信じられないくらいの発汗と共に食う。

今日はやや早起きだったので少し昼寝して制作して深夜。酒をどうしよう。もうすっかりベルモット酒を呑むつもりだったから、何を買ってきても「妥協」となる気がしてたいへん悔しい。

だったら呑まないで寝ればいい。明日は茨城からまた東京都足立区花畑に転院となる父親の件で早起きさんである。実に面倒くさい。いや、花畑には確かでかい団地があった。ついでに団地巡礼して楽しもう。

団地に合う酒とはなんだろう。なんとなく、ワンカップが思い浮かんだ。

じゃあ今日は「ふなぐち菊水」にしよう。オヤジ酒丸出しのあの缶のデザインからは想像もつかないくらい甘露な味わい、そしてアルコール度数19%。無敵の酒のひとつである。そして「ふなぐち菊水」はいつだって店頭に安定して陳列されている。知る人ぞ知る、日本が世界に誇れるスタンダード名酒。乾杯。
_08/06

 

 


最近お気に入りのドレイクさんのHIP HOPを聴きながら午前中、東京都足立区花畑へ。36度という高温度のなかよく歩いたらすったりくたびれる。

団地巡りしようかと思ったが、足立区は団地だらけで電車からもよく見えたのでいいやと思う。なにしろ暑くてクラクラする。徒歩30分程度、高校時代は悪名高く恐れられていた竹ノ塚駅へ。現在はすっかりクリーンな感じだった。

赤羽に戻り正午、もはや具合が悪くなってきたと思い、気つけにすだちおろしウドンを食べたら治る。帰宅して仕事と制作を。やたらと長かった1日。

何か、珍しくて興味深くて感銘を受け、書いておこうと思った出来事があった気がするが完全に忘れた。それくらいアクティブに過ごした日ということで手打ちとする。今日は絶対にぐっすり眠れる。
_08/07

 

 


深めに眠り起床したのだがまるで覇気のない日。冷静に考えてみれば誰かと会ってまともに話をすることがない日がどれだけ続いているだろう。受動的な刺激が極端に少ない。それは覇気もなくなる。

案件をひとつやる。静かに過ごすがやはり刺激がなく、ウズウズを通り越して空気みたいな心境に。この間「爆発したい」とか書いた数日後に他国で大爆発という洒落にならないニュースが目に飛び込み、滅多なことを考えるものではないと思った。因果関係はないはずだが。

刺激を求めて街に出る。赤羽のほぼ中央に位置するスクランブル交差点付近にある大型書店で立ち読む。すると地下から聴き慣れた音楽が。俺の曲だ。この「Dance Dance Cats」という楽しげな15秒ジングルは、いつだったか渋谷の街角でも耳にした。

この書店の地下にあるゲームセンターのPRモニターBGMとして使っているもよう。住んでいる街に手前が認められたような心境でたいへん嬉しい。もっと流してくれ。

若干の刺激を得たが、根本的には何も変わらず、どの店に立ち寄って呑んだり打ったりもせず、めし食って帰宅。寝る。覇気のなさ過ぎで寝る。1時間。

しかしこのまま何もせずというのも、と思いDAWを開いてHIP HOPでも作る。ドレイクさんみたいな本格派HIP HOPが作りたい。いいのを作って世に出せば、また身近で聴けてほっこりできるだろう。

遊びと刺激がなさすぎてさすがに滅入ってきたお盆前。今年は墓参りに行こうか。遊びと刺激とは縁遠すぎるしめやかなイベント。
_08/08

 

 


今日はサイトの更新と制作という日。一人自宅作業。こういった日常が何日連チャンしている、今日も孤独にコツコツと過ごすのか、と思いつつ昼過ぎまで机に向かう。

しかし今日は以前俺が務めていた会社の方達、すなわち元同僚達の月イチイベントの日。グループLINEで皆がキャッキャとしている中、俺は「たまには行こうかな」と先日残しておいた。

正直、そうは発しつつも行くつもりではなかったのだが、昼過ぎに「まだか平吉」という通知があったので、シカトするのもどうかと思った微量の罪悪感と、純粋に人恋しかったここ最近の孤独感が俺を現地に向かわせた。

数週間ぶりに直接人と会ってまともに会話をする。こんなにリフレッシュするものかというくらいの楽しみを得る。みなさま元気そうであった。組織を離れた人間というのにも関わらず、当時の関係値できさくに接してくれた。

なんやかんやで夜まで皆と過ごし、スッキリして帰宅。直接人とまともに会話をしては笑い合うという行為がこれほどまでに必要なことだったのかと、コロナ禍特有の気づきを得る。

そういったわけで今日はほぼお休みの日だった。軽視していたが、休日に人とワイワイというのはとても大切だ。

結局人間は、人と接することによって自然に分泌されるドーパミンやらオキシトシンやらの脳内神経伝達物質やホルモンは欠かせないのだろう。ここ最近「刺激が足りない」と感じていたのは、なんてことはない「人と接しなさ過ぎ」だっただけである。何しろ俺は隠キャのくせに人と直接会話をすることが大好きなのである。

こういった時期だから人と集まってどうこうは控えていたが、細心の注意を払った上で、たまにはこういうのも必要だ。そう実感した。

これからもしばらくは一人作業がメインとなるが、こういう日が1日だけあるだけでも全然違う。孤独は何より健康によくないという説は事実と実感したほっこりフレンドリーな1日。
_08/09

 

 


遊んですっかりリフレッシュしたのが功を成したか良好な気分で1日を過ごす。案件が手元にないのでサイト更新や制作をする。

「案件」フォルダが空になった時のえもいえぬ不安感こそあるものの、ひとつ後日の案件が来たので胸をなで下ろす。

夕方まではサイト更新をし、以降はDAWに張り付くという案件がない日によくあるパターン。HIP HOPをせっせと作る。

「最近のHIP HOPを」という意識があると、やはり90年代や2000年代のHIP HOPに比べるとここ数年のHIP HOPは進化しつつも洗練されているなと感じる。

そんな感じのビートの上にオルタナティブロック的なギターを入れてみると、なんとも味わい深い。こうなってくるとラップを入れたいところだが自粛。とにかく最近のHIP HOPは音数がシンプルかつ各パートがすっきりしていてカッコよい。
_08/10

 

 


着想通りのHIP HOPができたので1日MIX作業をする。合間にコンビニに行くくらいしか外出していないが故、ふくらはぎあたりに血栓でも出来やしないかと危惧するが俺の血液はサラサラだからまず大丈夫。

煙草を買いに行きがてら立ち読みという習慣。これがなかなか治らない。別に特筆して悪いこと捉えていないのは実にあつかましい。そう思いながらたまにはと少年漫画雑誌を読む。

パラパラとめくると、時代の流れか絵のクオリティがやたら高くなっている。手前的には『燃える!お兄さん』くらいの80年代の絵柄で丁度よいのだが、最近の少年誌の絵は、とにかく女性キャラに力が入っている。というか妙にエロい。

嘘だろ、と思うくらいエロい描写が散見された。こんなにたっぷりと少年誌で描いてよきものか、と倫理を疑いつつ念のため青年誌にも目を通す。やはり絵のクオリティが高い。手前的には初期の『行け!稲中卓球部』くらいが安心するのだが。そして当然のようにめっぽうエロい。

これはもはや18禁レベルのエロ描写ではないかと、倫理に携わる協会か何かに意義を申し立てたいという程であった。俺は愕然としつつも、逆にエロくて当然のとっつぁん向けの成年漫画雑誌も比較を兼ねて確認した。こういった劇画タッチで昭和ヤクザ描写がデフォルトくらいが今は丁度よい。エロさたるや、描写自体は断トツなのだが、絵のエロさで言ったら青年誌に軍配が上がる。

これは一体どうなっているのだと悩んだ。「少年や青年に悪影響がある有害図書」という概念が崩壊している。というか一番エロくなかった成年向け雑誌の立場がない。この国は一体どうなっているのだと憂う反面、「エロいのが若者に悪影響」という“常識”を疑ってみた。

若者なんざエロい方がいい。きっと際たるエネルギー源だろう。それが漫画で沸き立つ。なにが悪いのか。きっと、編集者はそれに気づき、エロさに拍車をかけてきたと仮定する。

そうか、世間はエロに寛容になったのだなという結論を引っ提げ帰宅。マスタリングをして楽曲が完成した。手前でカッコよいと言い切れる仕上がりだ。しかし、エロさが全くない。むしろエロとは対極のエネルギーを孕んだ音像である。そういうテーマだから問題ないのだが。

今着手中の制作が全て仕上がったら、今度はエロをテーマにしてみよう。初の試みだ。

「よい音楽をつくるにはどうしたら?」という問いに対し、「女の子とデートをすることだよ」という答えがあるという。

俺はこれは合ってると思う。ウンウン唸ってひたすら曲を書くよりも、刺激的で素敵な体験ひとつ得た後の創作というのはだいたい素晴らしい。逆に、絶望的で死にそうな目にあった後の創作もだいたい美しい。

となると、俺はまず、エロい行為をすることが先決となる。四十路がこういうことを言うとどこか有害。
_08/11

 

 


暑すぎて寝た気がしない。ごくごく稀に酒を呑んだあとにシメのラーメン的なやつを食うのだが、昨夜はあろうことか「辛ラーメン」を茹でて食ったのもだから汗だくになりそのまま寝る。それは暑かろう。以降、禁忌とする。

今日あたりも制作をするのだが、案件のご連絡を頂き2つ承る。なんだかんだの時期だが、ちゃんと案件を頂けると実にホッとする。

結局終日制作をするが、進んだようなそうでないようなという進捗。いまいちスカッとしないが、作り続けて出し続けている限り、収益は少しずつ着実に上がっていく。たまにはこんな日もある。日々継続してコツコツ頑張ろう。

夏だからといってスイカだの海だのギャルだのという世風ではない今夏、篭って資産を作り続けよう。そして今日も酒をすすりながらYouTubeで連合赤軍にまつわる動画でも観て寝ちまおう。火炎瓶にニトログリセリンとは凄い時代もあったのものだ。1970年前後。
_08/12

 

 


コンペ用の楽曲をつくる。雷の凄い日。ひたすらギターを弾いていたのだが、窓越しにストラトキャスターのヘッドの金具の部分が避雷針的になって落雷しやしないかとビクビクしながら録音する。

ストレートなロックチューンで勝負しようとゴリゴリ作っていたらどうにもホワイトストライプスみたいになってくる。リフのあるロックを作ろうとすると、必ずと言っていいほど、なにかの洋楽っぽくなる。

もう、ロックギターのフレーズは過去の偉大なバンドたちがやりつくしたということなのだろうか。そういったことを言うミュージシャンは少なくない。だから、多少似るのは仕方ないということで、うまくオリジナリティを孕ませつつ、似ている感じを交わしながら作る。

俺はコンペの賞金が欲しい。わかりやすいやったぜ感を得たい。そういうモチベーションが湧くだけでも、たまにはコンペに参加するのも悪くない。だがしかし締め切りが4日後というのだけがつらい。なぜもっと早く着手しなかったのか。別に間に合わなくても何のダメージもペナルティもないのだが。せっかくなので間に合わせたいところ。
_08/13

 

 


気絶したかのごとく9時間半寝る。当然やる気はみなぎり、ガリガリと原稿をひとつやって出し、数日前提出して戻ってきた原稿確認もササと済ます。今日はすこぶる捗る。

5時間くらい作業したのでちと休憩と思い、全共闘が東大に立てこもった時の事件の映像をYouTubeで観ながらソファで横になる。

俺があの頃に大学生で、周りから「君も決起しようぜ」とか誘われたら火炎瓶片手に「造反有理!」とかわけのわからないことを叫びながら国家にたて突くのだろうか。それとも冷ややかな目で傍観するのだろうか。

とか考えつつ、昭和のライオット光景を眺める。理由はわからないが、この手の映像を観るとなぜか元気になるのである。学生運動でも活動家でも、黒い街宣車から卒倒しそうな爆音を放っているやつでも、その手のやつを観るとだいたい覇気が出る。前世で近いことをやっていたのだろうか。自分もやってみたいのだろうか。

しかし、あれらはほぼテロリズムなので社会的目線からすると感心しない。たぶん、あのはちきれんばかりの怒りのエネルギーみたいなのが好きなのだろう。感化されるのだろう。いづれにせよどうでもいいなと思いつつ制作をして1日が閉じる。

昔は直接的な暴動、暴力。今はネットやSNSでの言葉による刃。どっちも、時代の流れと共に淘汰されるだろう。現代では白ヘル・マスク・角材・火炎瓶で抗議する者達が絶滅したことがそれを物語っている。次の時代はどんなかたちの暴動が流行るのだろう。

20年くらいしたら、その時代の若者などは、「昔はネットの掲示板とかSNSでこんな酷いやりとりをしていたのか。ありえん」とか思うのだろうか。

どっちにしろ、体制や不本意なことに対して全力の怒りをもってアタックするということは、どんどんやればいいと思う。しかしそこに負傷者はつきものだ。負傷者が出ない争いというのはあるのだろうか。とか考えていたら眠くなってきたので寝よう。宅の植物と一緒に寝よう。きっと、こういったのどかな暮らしが活動家みたいなエネルギーに焦がれるのだろう。
_08/14

 

 


コロナ禍となった近頃のスタンダード的な感じで宅でせっせと過ごすが、変わったことがあったとすれば「PASMO」を道端で拾ったくらいの日。

財布、ケータイ、カード、現金など、決して落としてはいけないであろう物を俺は昔からよく拾う。財布やケータイは過去3、4度ずつくらいは拾ってはポリスへ届けた。

現金にいたっては1万円札、五千円札、千円札と、全ての日本円紙幣を複数回拾ったことがある。そういえば二千円札の存在は世間的にもはや無かったことになっている。

持ち主が明らかであろう財布やケータイなどは交番に届ける。しかし、現金は届けたところでどうか、という思いからポッケにないないしている。拾得物横領罪。昔、スロットで3万くらい負けた帰路で五千円札を拾った時はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。

今日拾った「PASMO」はネーム入りだった。英語圏ではない外国人の名だったので読むことすらできなかった。まあ、こいつは困っているだろうと思い、散歩がてら交番へ向かう。

一応、途中で駅の券売機に差し込み残高を確認。2千円弱。仮に1万円以上の残高だったらタバコ2カートンくらい買ってネコババするという発想もあるが俺もいい大人だ。届ける。善行をもって徳を積むべし。

こういった物を届けた際、必ずポリスは「謝礼などの受け取りはどうしますか?」と、聞いてくる。「いりません。紙に何か書きますよね?」と伝え、お決まりの拾得物処理書類的なものに署名をする。「謝礼はいらん」の項目にチェックを入れる。

第一、拾得物を届けて御礼の連絡やらが来たためしがない。現金をくれと直接懇願してきた異国人や浮浪者などに金を渡した時が何度かあったが、鶴の恩返し的な体験は一度もない。奴らは非情かつ賢明。要は、拾ったものは迷わずポッケにしまうのが得策なのである。

しかし、なぜ俺は交番へ向かうか。それは清算的な行為だ。具体的には書きたくないが、若気のいたりで悪事と呼べる行為をしたことがないとは言えない手前、そろそろ善行を積んであの世に備えようという宗教的観念である。

よいことも悪いことも、手前がしたことは同等のレベルで跳ね返ってくる。これは疑いようのない真理だそうな。

「スミマセン! PASMOオトシテ……トドイテマスカ?」と、交番に駆け込んだ異国人が、「ああ、さっき男性から届けられましたよ」とポリスに言われ「ニホンジン、カミサマネ! 祖国じゃアリエナイよ!」とかなっていればそれでいいやと思う。日本人は無宗教気味だが、宗教的観念は強い。
_08/15

 

 


昨日えらい勢いで作業していたツケなのか、起床し気だるい疲労感。コーヒーを淹れようとするも缶に入っているはずの粉がカラである。熱帯気候過ぎて10分歩いてコーヒー粉を買いに行く気力もないので1分歩いて着くコンビニでエナジードリンク「モンスター350ml」を買って飲む。

しばらくだるかったが、たちまちビンビンになる。江頭2:50さんの「ドーン!」というあのポーズを部屋で連発したいような、そんな気分である。

夜、案件で現役ロックンローラーとお話をする。ロッカーと話をするのは楽しい。コーヒーもドリンク剤もいいが、結局ロックの話をしている時のナチュラルな元気さはかけがえのないもの。

今度会った時、彼は私物の60、70年代のロックヒーローの姿が収められたDVDを貸してくれると言ってくれ、終話前まで無邪気な笑顔であった。ロックンローラーというのは実に気持ち良い存在だ。

夕方までは制作、夜の案件後は原稿書きと、予定通りの1日。マスタリングまで終わったコンペ楽曲は締切日である明日、最終精査して「完璧だ」というセリフが出てからエントリーしよう。

なんやかんやでコロナ禍でもやることがたくさんあるというのは恵まれている。明日も下半身がはちきれんばかりにドーンと頑張ろうぜと思える。
_08/16

 

 


ドーンと起きてちゃんとコーヒーを買いに行く。今日もエナジードリンクを飲ろうかと思ったくらいだが連日は体に負担がかかりそう。しかしあれはなかなか後を引く。

楽曲を仕上げてコンペにエントリー。通ってはくれんだろうか。通すつもりで全力制作した楽曲は成就してほしいところ。

この制作にお盆いっぱいかけていたので墓参りに行っていない。確か今年の墓の管理費をまだ払っていないような気がするので墓へ向かう足が進まないのだが、かれこれ2年は墓参っていないので行くべきであろう。金も払うべきだろう。

たまには墓であの世と通信するのも必要といえばそうかもしれない。今週は予定がアレだから来週行こう。そうこう予定を右往左往させているうちに秋くらいになるるのかもしれない。ふと先祖や死んだ母ちゃんが恋しくなる。という感覚がまるでないといえばないと言ったら恐らく罰あたり。たまには母ちゃんが好きだった綺麗な花とウメッシュでも添えに行こう。
_08/17

 

 


猛暑のピークを超えたと肌で感じる盆明け。やや寝不足で起床した朝イチに食うキウイは口の横がキーンとなってたまらなくおいしい。

正午にリモート案件、あとはデスクワーク。それにしても人と直接会って話す機会がない日が続く。

こういった時期ではあるが、夏休みをとりたい。ここ数日はありがたくも案件をトトトと頂けているので、もう1週間くらいは休日とはせずに過ごす予定である。

だから月末、3日くらい羽を伸ばしたい。世間と俺個人のコロナ的な温度差がどれくらいかというのも確かめつつ、半年以上ぶりに呑みに行きたい。誰かを誘うのはまだ、という気がするので知人がやっている馴染みの店で呑み散らかそう。

しかし、「これじゃ呑みに行けん」というくらい、案件が立て続けにくることも願っている。他のフリーランスの人はどうやって休日を適度にとっているのか知りたい。この点は完全に二極化している。「ほぼ休まない人」か「必ず休日を設定している人」だ。

最近YouTubeのスピリチュアル・チャンネル的なやつで頻繁に目にする“二極化”というワード。この概念にはたいへん注目している。

しかし、それが何を示しているのか完全に理解できないのが悔しい。スピリチュアルに傾倒しているというわけでもないので、あまり深く考えず、手前が感じたまま過ごすがよいのかもしれない。感染者が減ることを切に願いつつ。
_08/18

 

 


20年前が二十歳で20年後が還暦。なんだかどう考えてもあとちょっとしか生きられないのかという感覚が日増しに色濃く脳内を覆う。

どうせ死ぬのなら子孫を残そうかとかとも考える。はたして俺の精子に命の源は宿っているのかと下半身に問う。「あるよ」と言っている気がする。

「壁に向かって独り言をするのは正常です。でも、壁から返事がかえってきたら病院へ行ってください」

と、先月くらい何かで読んだ。気が違うか否かの見事なライン引きを言い表したものだと感銘を受けつつも、とりあえず俺の下半身は肉声として返事はしていないので正常、健やかに頑張ろうと案件、制作と張り切る。

何年かは知らんが、生きられる時間は限られている。子孫はいいのか。そういった強迫観念が出てきたことは正常であるが、恐らく一般よりも10年は遅い気がする。

不思議なもので、俺が親しく、あるいは不定期的にでも付かず離れずの友人・知人には子孫、すなわち子供がほとんどいない。

子供がいる友人・知人とは話が合わないため疎遠になるから、という理由もありそうだが、不思議なくらい周りに子供持ちがいない。何故だろうと考えた。

2カ月前くらいに誰かに言った、「なんとなく、俺たちの世代ですべてが終わる気がする」という壊滅的な仮説を無意識下で信じているのだろうか。

そんなことはないでほしい。コロナをきっかけに世間が以前よりもスマートな生活様式になり、AIの発達により人間の苦労は減り、昭和のSF漫画のようなユートピア的な未来が待っている。そう信じたい。あと20年くらいだろうか。

20年あれば、手前に気概さえあればなんでもできると思う。20年どころか2年、いや、2カ月でも人間は劇的に進化できるということを俺は知っている。

だから絶望的な妄想的思想はしまっておこう。毎日コツコツやれることを頑張ろう。原稿を書こう。音楽を作ろう。たまには友達を遊びに誘おう。もっとフランクに女性をデートに誘おう。とりあえず今日のところはペロッとワインを呑んでスヤスヤと寝よう。

これはあれだ、下半身からの返事がどうのとか考えている時点でただの引きこもりデスクワーク疲れだ、そう、ここまで書いて気がついた。

せっかくだから、「もし俺の下半身が返事をしたらどんな声なんだろう」と考えて秒で出てきたのはギターのいなたいチョーキング音だった。俺の下半身は「キュィィン!」と、鳴く。たぶん。
_08/19

 

 


ニュース記事でアルコールと精神薬のカクテルでラリることが問題視されているという情報をみかけた。

そこには、予想以上に具体的に書いてあった。

コロナによる失業や仕事の影響で心のバランスが崩れ、精神科やら心療内科に駆け込み、薬を処方され、それと酒を一緒にやって高まる、という人が増えているというものだった。

そのブレンドの種類まで記してあった。「ストロング酎ハイ」と「ベンゾジアゼピン系抗不安剤や抗うつ剤、睡眠薬」だという。

ストロング酎ハイとは、9%という高いアルコール度数に加えファンタくらい飲みやすいということで、人によってはほぼドラッグ扱いされているわりと香ばしい庶民のお酒。

ベンゾジアゼピンとは、抗不安剤などの主成分の種類の一つで、つい数年前に民間での取引が法律で禁止されたもの。医師による処方箋なくしては入手不可能。要は適切な用法・用量を守らないとまずまずな危険物となる。

ビリー・アイリッシュさんの2019年のアルバムに「Xanny」という楽曲がある。どうやらこのベンゾジアゼピン系の抗不安薬「Xanax(ザナックス)」について歌われている内容らしい。凄くカッコいい曲かつ、深い内容の楽曲。

俺は、現役の精神科医に、このベンゾと酒を同時摂取するとどうなるかと、直接聞いたことがある。確か、去年くらいにここに記した気がする。

ここからは俺が読んだニュース記事には書いていなかった内容である。

ベンゾジアゼピン系の薬は耐性がつくのが早い(薬に慣れること)。薬の種類によっては、半減期(薬の効果のピークを超える時間)が24時間とか36時間とか、恐ろしく後をひくものもある。

最も危険なのは、ベンゾと酒の相乗効果で効き目がブーストされ、「呼吸中枢に影響することがある」というものだ。

しかし、現役精神科医の説明や注意喚起の空気感からは、そこまでの危機感は漂わない。「窒息して死ぬまでありますよ」と、笑いながら話すくらいなのである。それは、精神科医によるのだろうが。

ベンゾジアゼピン系のみならず、アルコールもそうだが、これらは中枢神経系に作用し、「脳の神経伝達物質そのもの」を操作する。ドーパミンとかアドレナリンとかそういうやつである。

すなわち、自身の意思でコントロールするべき行動や感情などを、薬の成分で直でズラすことができるということである。そんな成分を含んだものがヤバくないわけがない。

用法・用量をきっちり守っても、けっこう危険なのが各種精神薬。その辺のお店とかでは手に入らないが、病院にいけば簡単に手に入る。

そして、その薬の内容をよく知らずに飲み続け、本末転倒な結果になっているケースがかなりあるという事実は、あまり報じられない。

ちゃんと症状に合っていて、適量という条件下であった場合は、精神薬は効果てきめんである。しかし、医師が短い診断時間で適切な処方をするということはけっこう難しいのではないかと個人的に思っている。

理由は、心の不調や脳内神経伝達物質の分泌異常などは数値化ができないからである。患者の口頭での申告、それを聞いた医師の判断というアナログな判定で、時に麻薬級の威力を発揮する薬が処方される。

だから、気をつけたほうがいいなと思う。まだ発展途上中の精神病・神経症・発達障害・自閉症スペクトラム、パーソナリティ障害、色々あるようだが、そういった分野に対する診断と処方薬の種類。

海外に比べて日本は比較的麻薬が蔓延されていないという見解がある。しかし、そのぶんというか、海外に比べ、酒や煙草やギャンブルに対して寛容だったりする側面もある気がする。そして、向精神薬、抗不安剤、睡眠薬、抗うつ剤などのヤバさ。もうこれは、個々が知識を持って身を守るのも必要なのではないかと少し思う。薬の主成分くらいはググれば簡単にわかる。

「ダメ、絶対」の手前あたりのものは実は一番恐ろしかったりする。
_08/20

 

 


半休の日。昼リモート案件をひとつやり、夕方には舞台を観に出かける。終演後、知人4、5人と呑みに行く。

実に半年ぶりとなる居酒屋での憩いであったが、楽しかったのだが、あれ、こんな感じだったっけかなという若干の肩透かし気味の感覚もあった。呑みに行くのを自粛し過ぎて、呑み屋で過ごす時間というのもが極端に美化されすぎていたもよう。

終電くらいで赤羽へ戻る。どうせならと、もう少しフラフラとしていたいと歩いているとすかざず黒服さんは「今日はどちらへ?」「キャバクラは?」「さあっ! おっぱいは?」と、各人はりきって揺さぶってくる。

どこかしらには行きたいのだが、エロい遊びに興じたいわけでもないので全て丁重に躱し、赤羽一番街からシルクロード街あたりを漂う。時間的にほとんどシャッターが閉まっている。この街は都内屈指の呑み屋天国だが、引くのがわりと早いのである。

缶酒ひとつ買って帰宅。なんとも言い難い虚しさをおぼえながら、明日からどう張り切ろうと思いながら暗がりでPCをカタカタと叩く。刺激が枯渇。平和でいいじゃないかと言い聞かせる。じゃあ、刺激をつくることに躍起になればよいじゃないかというフワッとした決起のもと、今日もぼんやりとした気分で1日が閉じる。
_08/21

 

 


今日は夜にリモート案件がひとつ。というかここ最近の案件は、ほぼ全てリモートである。故に、実際に対面する時のあのアナログな感覚のコミュニケーションに飢えている。

非言語コミュニケーションとも言うが、会話のちょっとした“間”や、ふとした一瞬の表情の変化など、Zoomなどのリモートでのやりとりでは得られない人間味の旨みというか、魂の感じ方というか電波の発し方というか、そういった交流の枯渇が俺の心を乾かせる。

第一、リモートでは目を合わせるということがない。なんでも人間というのは他者と目を合わせるとオキシトシンというハッピーなホルモンが分泌されるとのことだ。要は、よっぽど緊迫感や悪意の元でない限りは、目を合わせるだけで楽しくなるという。これは犬コロでもそうらしい。

目を合わせるだけで嬉しいだと。目を合わせる機会が激減したから心が乾くだと。手前はそんなにシンプルな精神構造だったのかという、ある種の残念感をおぼえる。

当たり前のことがこんなにも、ということに気づかされるこの2020年という時期。その気づきやらをこれからどのように発展的にするか、というのがスピリチュアルな人達が言っている「二極化」の正体だろう。これはきっと合っている気がする。

「いやあ、あの時期は大変でしたわね。よかったわよ元どおりになれて」と、コロナが収束したとしたらその時期にそう感じるか、「何を言ってくさる。あの時期に何を学ばなんだ」と、感じるか。

どっちがよいかという話ではないが、少なくとも俺はこの半年で、手前が自覚していなかったことを自他共の事例と体感をもとにいくつか知った。

とりあえず、手前はわりと孤独感に苛まれやすいということと、各種の依存というのは「寂しさ」や「つまらなさ」という感情が原因であることが大半だということ。これらの2つが、各人が持つある一定のラインを超えると「刺激」を求める行動に直結する。

今振り返ってみるとよくわかるが、俺はギャンブル狂時代、寂しかったのだろう。半分はただのヤケクソの精神だったのだろうが、それらが行為障害・嗜癖障害による脳内麻薬中毒を引き起こしたのだろう。

手前と向き合うということを強制させられる時期。しかし、まだある気がする。なにかもう1つ2つ、大きく思考やスタンスが変化するきっかけとなることが待っている気がする。ここはどうかポジティブにドンと構えていよう。

ネガティブに捉えると俺なんざはまたリアルカイジに逆戻り、あるいはアル中になるだろう。博打も酒も、ほどほど楽しめれば人生にプルンとした艶と潤いを与える。前者はもちろん禁忌続行中だが。
_08/22

 

 


早めに起きて仕事をして、夜は多分に時間ができる。体調もよく、すこぶる気分のよい1日。

ふらりと古本屋へ行き、『女子高生に殺されたい』という古屋兎丸さんの漫画を読む。古屋兎丸さんの漫画は20代の頃によく読んだが、この作品は読んだことがなかったので少し立ち読みした。

主人公はタイトル通り“女子高生に殺されたい”という特殊な願望を持ち、それにまつわるお話だった。彼は、自分の特殊な性癖、衝動について調べ、その異常と言えよう性癖には「オートアサシノフィリア」という名前が付いていることを知り、安心したような描写があったところが印象的だった。

自分の特殊な一面や変な感情、えもいえぬ体験にちゃんと名前がついていると安心するという心理、よくわかる気がする。

今でこそ有名な病名になったが、その病名、発作名が全くもって一般的ではなかった1994年、俺は苦痛を伴う幽体離脱のような、めちゃめちゃサイケデリックな体験をした。なんてことはない、一人でリラックスしている時だった。

その体験は未曾有の恐怖として後をひいた。そして、誰に話してもそれが何なのかわかってもらえず、「また起きたらどうしよう」という不安に常につきまとわれていた。

中学生の俺は、『女子高生に殺されたい』の主人公のように、図書館でそれらしきことが詳しく書いてありそうな書籍を読み調べた。そして、その謎の幽体離脱体験もどきが何なのか、名前がついていることをつきとめた。

要はパニック発作による「離人症」というやつだった。それがどういうものかというと、急に、一瞬で、何の契機もなしに、自分の体が自分でないような感覚になるというもの。自分の手足は人形のように見え、感覚的に数10メートル上から手前を見下ろしているような、魂が抜けかかっているようなフィーリングという、シラフでのトリップ体験。

この症状は5分〜10分くらいでおさまる。そして、この症状によって死ぬことはない。そう、分厚い精神医学の本に記されており、俺はそれを理解してとても安心したことをよく覚えている。精神医学に興味を持ち始めたきっかけとなった出来事だ。

俺は「離人症」という、脳のバグ所以の症状のがあるのだなと知っただけで、その症状は以後起きなくなった。正確には、起きそうになることは何度もあったが、「知った」ということが大きかったのか、パニックになるほどの程度までいかなくなった。しかし、完全に消えたのはここ数年くらいなのでなかなかあなどれない。離人症。現在では「解離症群」「解離性障害」やらと呼んでいるらしい。

『女子高生に殺されたい』の主人公は、自分の特殊性癖を知った上で、己の衝動に忠実に従いあらゆる行動を、という内容だった。

面白過ぎて2巻全て立ち読んでしまったことを非常に後悔している。今度、ちゃんと買おう。知るというだけで全然違うということがこの世にはたくさんありそうだ。とりあえず、精神疾患に関しては「症状の正体を知る」ということはめちゃめちゃ大切らしい。だが、それでもまだ精神医学というやつは発展途上だという。分厚い本も今度買おう。
_08/23

 

 


22,000円もする分厚い精神医学の診断マニュアルは池袋のジュンク堂に売っている。しかし赤羽にもないものかと近場のでかい書店へ行くも見当たらない。

「ロック」「ソウル」「J-POP」「クラシック」という風にCD屋で棚がカテゴリーでセパレートされているのと同じく、書店でも「経営」「プログラミング」「金融」などなど各棚でコーナー別けされている。

医療関係の棚に行くとさらに細かく別れている。メンヘラ系の棚に並んであるはずである『DSM-5』という俺の欲しいやつはなかった。需要がないのだろうか。マニアック過ぎて売れないのだろうか。メルカリで探しても「裁断済」というやつしか売っていない。スキャンでもするつもりか。切るんじゃない。

適当にコツコツ歩いて棚を眺めていたら「認知症」というカテゴリーがあった。正直、手前の心情的に最も忌々しいコーナーだがいくつか手にとって読む。

俺は認知症についてわりと調べたが、最も知りたいことがまだわからない。「認知症末期患者がどういう精神状態であるか」ということだ。本に書いていないものかと数冊読む。

どの本にも書いていない。基本的に概要と介護のコツと医療関係者向けの知識となる内容ばかりであった。それは当然だろうと思いつつ、タイトルは忘れたがギンと食指が動いた本を見つけた。それは、認知症当事者が書いた本だという。

「これは期待できる」と思い読んだ。どうやら筆者は「痴呆症」というネーミングから「認知症」と病名を変えたという、認知症やらに特化した偉い先生らしい。さらに期待は高まった。

しかし、よく考えてみたら認知症だが執筆ができるという時点で俺の知りたいことはそこに書いていないことは明白。

俺が知りたいのは、手も足も口もロクに動かせず、「やりたいことはなにもない」と言い放つような認知症患者が残りの人生で何をしたいのか、どういうつもりなのか、ということだ。

2時間ほどそのコーナーで、他にもあらゆる認知症の本を読んだが、どこにも答えは書いていなかった。

前にも書いたが、『天』という福本伸行先生著の漫画の後半は――気になる方はこの先は完全にネタバレだから飛ばしてほしいのだが――重要キャラの「アカギ」がアルツハイマー性認知症に罹り、「自分が保てなくなった場合は、死にたいんだ」という信念のもと「認知症が末期になる手前」と、自ら判断したタイミングで自殺した。死ぬ前に話しをしておきたいと集めた仲間達の説得にはことごとく応じず、自殺した。

俺はこのくだりを、『天』の16巻から18巻を、自分でも「なんでだろう?」と思うくらい数十回は読み返しては反芻していた。それが確か30歳ちょいの頃だった。父親がアルツハイマーに罹る前、その兆候も見られなかった時期である。

動物的本能で何かを察していたのだろうか。真相はわからないが、とりあえず父親がアルツハイマー型認知症と断定された時、アカギが頭をよぎった。

アカギは、自分が自分を保てなくなったら生きたくない、という信念のもと死んだ。架空の人物ではあるが、俺は、この考え方に賛同したいのだろうか。これもわからない。ただ、いろんなかたちの“自分”があってもいいんじゃないかと思う。アカギにとっては、「勝負師としての自分」しかなかった、という感じだろうか。

「自分が自分を保てなくなった場合、人間はどうするべきか」ということを定期的に考え続けて今日に至る。答えを期待したがその場所ではわからなかった。本ではわからないことだってある。

そうなるともう、リアルしかない。

俺は認知症に罹ることを恐れている。日記を書く習慣も、日々何をしていたか忘れてしまうことに対する恐怖心からかもしれない。

絶対に御免被りたいが、手前が「アルツハイマーです!」と言われたらやはり真っ先にアカギが頭をよぎるだろう。俺は自殺をしたくない。だから知っておきたい。認知症の症状が進むとどんな気持ちになって日々を過ごすのか。その前に何をすべきなのかを。

知れば防げること、得られることはいくらでもあるということを最近本当に実感する。そして、知っている者、体験した者の言葉は強い。

これだけ医療が発展しても、アルツハイマーの根本的治療薬がないのは、死ぬ苦痛をゆっくりと長い時間をかけてやわらげる人間の摂理のようなものだと、今日読んだ本には書いてあった。

そして、認知症患者が最期を迎えるまでの時間は平均8年と記してあった。介護者はその約8年間、あらゆる段階の考え方をするという。最後にどう考えるのか、俺は知りたい。脳がゆっくりと萎縮していく人間には、何が見え、何が聞こえ、何を欲し、何をしたいのだろう。

今のところ俺がリアルに知っているのは、「なんもない」と言いくさる患者もいるということだ。

何かあるだろう。あるのだが、言語化もできず、欲求も欲望も萎縮しているのかもしれない。俺は、絶対に何かはあると思う。それを引き出せれば、残りの人生、少しでも幸せに暮らせるだろうも。

『天』では、アカギの仲間たちは誰一人としてそれを引き出せなかった。
_08/24

 

 


17歳で活躍している若者と案件でお話しする。基本的に仕事の話しをするのだが、アラフォーである手前とティーンズに何か共通点でもないものかと考え調べる。あるわけなかろうも。

しかし、なかなかアイデンティティに関わる部分でそれはいくつもあった。ニルヴァーナやソニック・ユースなどのアングラ寄りのロックが好きだということ、そして、俺は最近HIP HOPに改めてハマり、ドレイクさんをよく聴くのだが、彼も好きだという。さらに、寝る前にその日のことを文字でしたためるという共通点もあった。

人間、共通項があるとなんで嬉しくなるのだろう。なにしろ、10代の若者とソニック・ユースのお話しができるなんてほっこりだ。とても楽しい気持ちになる。最高に感性が若くて豊かな方と話しをするとたいへん覇気がみなぎる。

お話しを終え、さてもうひとふんばりだぜと思いメールチェックをすると、楽曲を委託している事務局様から一報。そこに書かれていたのは、このあいだエントリーしたコンテストに関するものだった。

それは、今月、耳から血が出るのではというくらいガチで制作してエントリーしたコンペティションとはまた別のもので、委託している自身の既存楽曲から選曲して応募するというもの。俺は先方様のコンセプトにマッチすると判断した楽曲で勝負に出たのだった。

その事務局様が運営されているサイトは国内最大級のもので、ユーザー様もクリエーターの方々も非常に多数おられる。

俺は「たくさんの曲がある中から、手前の楽曲がいかなるものなのか判断してほしい」という気持ちがとても大きかった。ソニック・ユースみたいなアングラ寄りの曲もあるが、ここはポップでストレートな曲をセレクトし、直球を投げた。その結果ご報告メールだったのである。

メール文中のリンクから先方様ページへ飛ぶと、なんだかめでたい感じだった。ちょっと下にスクロールすると手前のツラを発見。受賞とのことだった。

俺は嬉ションを禁じ得なかった。コンテストに受賞するという、実にわかりやすいめでたさの気持ちに包まれた。

SNSなりの開けた場で「やったぜ」と言いふらしたいところが、コメント機能もいいねボタンも低評価ボタンもない、この場に記すにとどめよう。リンクを残して記録しておくくらいにとどめておこう。

なにしろ、俺の楽曲を選んでくれて誠にありがとうございます。そして、他の受賞者の方々も、本当におめでとうございます。
08/25

 

 


先月あたりから最新のHIP HOP、具体的にはドレイクさんみたいな感じのにハマっていた。「じゃあ最新の本格派HIP HOPを作ってみよう」と思ったが、それだけでは芸がない。ボスボスチキチキいってるそれっぽい“HIP HOP風”な楽曲が炊けるのが関の山。

だったらと思い、好きなオルナタティブロック要素も混ぜつつ、本格派HIP HOPビートとベースも作ってやろうと挑んだが、めちゃめちゃ難しかった。“HIP HOP風”まではたどり着くのだが、「この曲は最新のHIP HOPサウンドだよ」と、他者に言い切れる仕上がりにいくまではかなりの根気が必要だった。

「よっしゃできた」と思って、同音量に設定してドレイクさんやビリー・アイリッシュさんのHIP HOPテイストな楽曲と手前の楽曲を比べる。「MIXリファレンス」というやつである。理想に近い音像の楽曲と比べて、ひけをとらないか、ショボくないかと判断するのである。

手前が作ったHIP HOPを聴いたあと、間髪入れずドレイクさんの曲を聴くと「ドレイクすげえ」となる。「それ、どうやってるんですか」となる。「その低音、どう処理してるんですか」となる。

ドレイクさんやビリー・アイリッシュさんのようなグラミー賞レベルのミュージシャンの楽曲をリファレンスしていてはいつまでたっても曲が仕上がらないだろう。でも、なんか悔しいのである。

そういったわけで執拗なまでに詰めた手前のHIP HOPはようやく完成した。世界最高峰の方々とのクオリティの差こそもちろんあるものの、比べて手前の曲が「ショボ過ぎだろ」というラインは超えたと判断できたからである。

しかし、手前的には満足がいく仕上がりの楽曲でも、聴き手にはウケないということはわりと多い。その逆もあるから不思議である。

しかし、この曲自体がウケなくとも、重要なのはそこではなく、ドレイクさんやビリー・アイリッシュさんに、勝手にある種の勝負を挑んでいるような過程こそが、次の制作の糧になるということだと思っている。

大昔に作った誰にも受け入れられなかった手前のエレクトロEPの制作過程は、今の制作に大いに活きている。その時はエイフェックス・ツインとかのワープレコード(イギリスのレーベル)勢に対して勝手に勝負を挑んでいた。一人相撲というやつである。当然勝てなかったが、もちろん全然売れなかったが、たいへん参考にはなった。

今日も、ドレイクさんやビリー・アイリッシュさんに勝てなかったという思いこそあるが、糧にはなった。考えてもみろ。仮に勝ったとしたらグラミー賞クラスの楽曲ということなのだから落胆することはないのである。いや、落胆するくらいの気概はあった方がいい。

要は、参考にするなら、比較するなら、勝負を挑むなら、最高峰の神クラスの人達を選ぶということはとってもいいことなんじゃないかなというお話し。

今日は発泡酒ではない「秋味」といういいビールと、ストロングチューハイよりもちょっと高いアルコール度数9%の美味いモスコミュール瓶を呑んで一人打ち上げして寝静まろう。
_08/26

 

 


リモート案件や原稿書きという1日。もはや外出を要する案件がないのも慣れた。

Zoomやらでのやりとりを何度もやって気づいたのは、画面上での映り方には光の具合が圧倒的に影響するということ。

「なんか、この間会った時と相手の印象が違うな」という時は、相手の環境下の光量が足りない時であることに気づく。これはもったいない。光が足りないというだけで印象がブレるのはなんとかしたいところ。なんだかんだでパッと見の印象は大切だ。

そういう自分も、いつも思っていたが、リモート画面上での手前のツラはどこか険しい。それは、仕事部屋の明かりがさほど多くないのと、南向きの部屋ということが原因であると特定した。

リモートでも見た目の印象は明るくしたい。手前は仕事で関わる方とのやりとりの時は陽キャを心がけている。それは、いつだってよい方向に作用している。

YouTubeを見ていて思う時がある。微妙に光が足りていないユーチューバーさんのチャンネルは、それだけでもったいない印象があると。

そういったわけで、ユーチューバーさんが使うのに適した感じの、動画撮影用の照明をネットで色々調べて厳選。「CRI 」という演色評価数の値が90以上あるもの、そして4,000円も出せば失敗はしないという結論に落ち着き購入。

とりあえず照明の到着が楽しみである。リモート越しに「平吉さん、テッカテカですね!」と相手に言わせたい。そして明るく仕事がしたい。色んな意味で、光は大切だなと実感するコロナ禍の序盤か終盤か中盤か全くもって判断できない夏の下りめ。
_08/27

 

 


最近運動不足も甚だしいと思っていたので仕事をササとやり、夕方に買い物がてらJR埼京線で新宿へ。

日本で最もわかりやすいデパート感を醸す「伊勢丹」へ向かう。やはり俺は新しい財布が欲しい。こないだいいこともあったことだし、手前への褒美がてら高価い買い物をするのもよかろうと思う。

伊勢丹メンズ館にはディオールだのプラダだのと、大人な威圧感たっぷりのブランドテナントで埋め尽くされている。フロアでは、シャキンとスーツを着こなした店員さん方からのシュッとした会釈を受ける。なぜ俺は昭和のチンピラ柄シャツで来たのかと少し小っ恥ずかしい気持ちも否めないが一周してトレンディーな客と見られている。そう捉える。

ポール・スミスを発見したので物色すると、一目で「これ」というのが光って見える。それは今月頭に池袋店で悩みに悩んで買わなかったモデルと同じやつであった。

俺はまた店員に聞いた。

「これが一番高価いやつでしょうか?」

「左様でございます。こちらは馬の皮を使用しておりまして……」

池袋店の妙齢の女性店員と同じ説明を受ける。

「これ、いいですよね」

「ええ。こちらを買われる方はなかなか……」

“なかなかセンスがある”と、俺は店員の体言止めをそう解釈した。しかし買わなかった。なんだかそういう気分ではなくなってきたのである。

不思議だなと思いながら帰路につく。安倍総理が辞意を表明した悲しみが伝染したのか、なんだか覇気がだんだんとなくなってきて帰宅して寝る。

1時間して起きたら急に元気になる。疲れていたのだろう。最近思い切り休んでいないことが起因であろう。俺は起きて「財布買えばよかった!」と声を漏らしながらいつものように制作についた。

まあ1時間の仮眠でこんなにもというくらい捗り、イメージがストレートにDAWへとメモされ、気づけば構成ができて楽譜2枚が書き切られていた。

欲しい財布を買おうとしたがなんだか元気が無くなってきて買わずに帰宅して寝て捗る。それらの因果関係は不明だが、とりあえず当初の目的である運動がてらの散歩もできたし曲もできたからよきとする。

財布は来週あたり、空いた日に買っちまおう。安倍総理の采配のもと頂けた10万円をちゃんと使おう。

安倍総理、お腹の具合が悪い中、未曾有の事態に対応してくれてお疲れ様でございました。マスク支給や某シンガーソングライターとの謎コラボは正直微妙でしたが、手前が思うに、総理はやることちゃんとやったと思っております。ありがとうございます。国会議事堂方面へ向かって敬礼。
_08/28

 

 


「リモート案件の際に手前を明るく照らして印象度アップ」という動機のもと発注した照明到着。

今日は16時半から若者とのリモート案件がある。なんとよきタイミングだと梱包をペロペロと開けるがバッテリーもアダプターも付いていない。すなわち今日は光らん。

「それらは別売り」ということを確認せずに購入した手前も軽率だったが、ライトを買ったらまずは光るだろうと思うのが恒常的心情ではないだろうか。「バッテリーとかセットにしてくれよもう」とか嘆きながら別売りバッテリーをネット発注。険しいツラでリモート案件にとりかかる。

しかし、21歳のギャルは対面でもリモートでも、いつだって明るい。キラキラテカテカしている。「ギャルってマインドなんですよ!」と、彼女は言う。

非ギャルである四十路の手前はハッとした。照明で物理的に光るのもいいが、まずは己の内面が光らないでどうする。

案件後、俺は反省した。明るい姿で相手と向かい合う、その発想はよい。しかし、その根底にある「明るく人と接しよう」というマインドこそ最も重要なことである。

つい一昨日も、17歳の若者に色々と基本的なことを学ばせて頂いた。「僕はカウンターカルチャーの人間なんですよ!」と、彼は言った。

俺が17歳の時、確かに自分もそうだった。気に入らないことがあれば正面から「うるせえ馬鹿野郎」とメンチを捻りつつ持論を押し通す実に生意気な輩だった。だから今日だって、「バッテリーがないと光らないだろうも。馬鹿野郎」と、即座にクレームの鬼電を入れるべきであった。いや、それは絶対に違う。

現代の若者は、そういったチンピラ・サンピン・反社的な種類のものとは別種の、透き通るようなピュアなカウンターカルチャー精神を持ちつつも、相手を尊重した上で人と向き合う。素晴らしい人間のかたちである。

日本では令和という新たな時代。世界的にはコロナを喰らってからの新時代という転換期。己を見つめなおし、手前の棚卸をする時期なのかもしれない。

そのタイミングで若者たちは俺に、忘れかけていた大切なことを明るく伝え、光を与えてくれる。俺はその言葉と光を真摯に受け止める。キラキラのマインドとカウンターカルチャー精神を保ちつつ、相手の人間性を最大限尊重する。手前が手前である大前提となるスタンスとしては最高である。

いつの世も光はフレキシブルに俺を照らしていることを忘れてはならないと再認識させてくれる蝉の声もだんだん弱ってきた8月下旬。
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ひとつ原稿をやったら買い物に行こうという予定の日。しかし思ったよりも長びき、仕上げた頃には目当ての店の閉店時間寸前につき行けず。

これはもう、今日は半休にしようと思い適当に過ごす。ちょっと横になったりYouTubeでビリー・アイリッシュさんが喋っている映像や、ラファエルさんと鴨頭嘉人さんが対談している動画やら、飼いネコが発狂している姿を収めているチャンネルなどを眺めたりする。

昨日買った照明に電源がついておらず、再度発注したバッテリーが到着したが、そのバッテリー自体の充電がなかなか終わらないのでまだ新機材は使えず。こういう日は手前自身も充電しておくものだと手打ちとする。
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外へ出ると懐かしい空気を感じたので今日をもって夏終了と本能的に感じた。東京では明日は雨が降り、空気は一転して季節が変化するだろう。

コロナ禍がきっかけで手前の懐事情も変化した。よくもとれるし、不安にもとれる。俺はよい方向に捉えている。じゃあやはりこれを機に、懐事情の象徴である「財布」を買いに行こうとデパートへ直行。

どういった財布を買うかは一択である。それは、今月2度も下見をして厳選した結果、今まで10年は使っていたであろうブランドと同一の、現行モデルで最も高額の一品。

数ヶ月前、「間違いない」と表現できるくらいのスピーカーを買い、使用してきて思った。やはり、手前が本当によいと判断し、心底欲しいと思った物にこそ思い切り現金をぶち込むべきだと。

そうすると、他のどうでもいい買い物をせずに済むし、何しろ後悔は残らないし、利便性やコスパ面にクオリティなどあらゆる方面での満足感が得られる。要は、本当に欲しいものはちゃんと頑張って買って、それ以外は買わないのが正解という判断をしている。

だから俺は、このあいだ値段を見ずに「これが一番カッコいい。欲しい」と感じたやつを選択し、今日、ちゃんと買った。自分の中の最上位に君臨する人格が「それでいい」と言っているのを感じた。

時期的にもなんとなくベストな気がする。コロナ禍という時期もあるが、この8月、9月あたりはあらゆる取捨選択や、自分が信じる選択を信じ切って行動に移す時期だとなんとなく感じる。

YouTubeでスピリチュアル系や経営者系のチャンネルの見過ぎで洗脳されているのかもしれんが、俺の直感も確かにそう判断しているのである。40年弱生きていて確実に断言できることは、魂や本能が直感で感じたことを疑うなりして行動に移さないと、超高確率であとで後悔するということだ。

10年は使った財布を埋葬し、直感で決めた新たな金入れが右ケツのポッケに収まる。わかりやすい転換である。仕事の仕方だってわかりやすく転換し、その流れでせっせと日々を過ごしている。

特殊な時期も長引き、この先どうなるかわからないが、手前が今やっていることや、日々の行動が「合っているのかどうか」というのは、「なんとなくそれで気持ちが前向きか」という直感的判断で俺はいいと思う。

しかし、そこに数字的裏付けも必要なことは、疎いながらもよく知っている。だから各種源泉やらの推移のデータはエクセルで管理してシビアに判断するという、中間管理職時代を思い出すようなこともする。これが実に苦手である。

だがしかし、冷静に数字を見ても成果は出ているのである。だがだがしかし、もっと増やす必要があると遠い目になる秋の入り口の匂いが漂う8月最終日。気持ちはとても前向きである。
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