08/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。「PDCA」の「ピ」の字もない。8


0時寸前、俺は直近のコンビニで缶酒をPayPayで買い、その足で「カシュ」と路上で開けて呑んだ。外国なら捕まる行為である。

ああ、なんといい国だ。などというのは後付けの思念だが、「なんと沁みよう!」という絶妙な冷感と炭酸のバランス。アルコール度数は7%。つまりハイボール。

その自由な行為に至る寸前まで、原稿を書いていた。他にも仕事をしていた。ここのところ新たに始めた類のライター業が重なり、まあまあヒイヒイ言ってたが、路上でハイボールを口につけては「くふ」と声が漏れるということはそういうことである。たぶん山場を抜けた。

とはいえ、ここはリテイクが来まくる前提の精神状態でいることが、おそらく長続きのコツ。現時点ではベストというものを提出したので、今日はよし。「カシュ」。というわけである。

なんでも始めてみるものだ、「やれますよ〜」と、言ってみるものだ、新たな視野を広げてみるものだ。そのように思う。なぜならば、案件につながっているからである。

要は、「思考を現実化させるためにはまず動くことからしか始まらない」と、体現したということ。

先月、とても色々ないいことがあった。それらについて共通することは、「とりあえず、してみよう」というアクション。単純なことだが難しい。しかし、それをすれば起爆剤とも成り得る可能性が広がる。

“生きるということは、動くことである”――的なことを何かでインプットした。それは、どんなコンテンツにも作品にも通ずる真理。

“生きるということは、表現すること”――と、ピアニストの清塚信也さんは言っていた。コロナ禍前くらいに、直接そうお聞きした。断言していた。あと、ジョークを絡めるタイミングが絶妙な方だった。

生きる、つまり、“命の最も根源的特徴は活動…動くってことだ…!”――と、アカギこと赤木しげるは言っていた(福本伸行著:『天』最終巻引用)。

まあ、要は動けば動くほど、なんか楽しいし、悶々とする方面からの回避法ともなり、イキイキと生きることにつながるのであろうか。

じゃあ俺はリアルタイム、イキイキとしているかといったら頭と体はくたびれてクタクタである。しかし、それは“動いた”という証、ほかならない。

そんなふうに無理くりにでも鼓舞すると、今日という一日に価値を見い出せる。そんなありがたい日を重ね、いつの日か、俺なりの“生きるということは――”という提唱ができる日が来るのだろうか。

今日のところは、目の前のことに取り組み、出来たと感じ始めて、「出来たかな〜?」という判断基準が交差した刹那、「これだ」と声が出て自律神経と魂あたりが“動く”時に「生きている」と改めて感じた。

確かに、それがなかったら、なにをもってして生きているのかと改めて感じた。ハイボールを呑み、即時的に「生きている」と快感を得るものとは真逆。だが、その両方を愛してポップに生きていきたい。
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家で謎に呑みすぎて二日酔いに見舞われる。なお、この場合は自業自得なので“見舞われる”という表現は適切ではない。

新規案件の打ち合わせをリモートで行ない、今後数日やるべきタスクをリストにまとめる。やはり、テキストだけのやりとりよりも、対話込みのほうがやりやすいし楽しいなという所感。

その間は仕事やってる脳が活性化していたので感じなかったが、ひと段落したあとに二日酔い特有の優れない気分が続く。

数日前、御茶ノ水へ行き、漢のストラトキャスターを調整に出した。弦高を自分好みまで下げると不具合が生じるからである。それが今日、仕上がったもようなので引き取りに再び御茶ノ水に赴いた。

一重まぶたの綺麗なイケメン・リペアマンは「ベストにするならば『リフレット』を。フレットを変えないのであれば……とりあえず現状でいけるところまで、ですかね……!」と仰っていた。要は、調整してみないと、どこまで改善が見込めるかわからないということである。

結果、完璧とまではいかないが「しっかり演奏できる状態」に調整していただいたので、多大なる感謝の意をイケメンに伝えて持ち帰る。この時点で二日酔いの気分的症状が治る。

俺のコンディションの9割くらいは気分に左右されるのだなと思った。そのまま、ストラトにしてはかなり重量があるこの相棒を、片手で持ちながら上野駅まで歩いた。

途中、秋葉原で様々なコスチュームを着たメイドさんが「いかがですか〜?」とキャピキャピしていたり、外国人観光客が写真を撮っていたり、上野恩賜公園では屋台が何十店も開かれていたりと、歩いているだけでウキウキとした。

上野恩賜公園の池一面には「ハス」が全力で生い茂っており、夏はこんなにもやる気出すのか、「ハス」。と声に出た。冬は真逆の生態であり、一瞥して「きたねえ」という感想が漏れるくらいなのに。

ストラトを調整に出した日も、今日と同じく御茶ノ水から上野まで歩いていた。その時は、書道家の方と出会い、素敵なひとときを過ごした。今日はいなかった。

そのかわりというかなんと言うか、齢70くらいだろうか、一人で小さなアンプとマイクで拡声し、布教に勤しむ御仁がいた。

目の前で立ち止まっていたら、話しかけてきた。新約聖書に基づくなんらかの会の布教とのことだった。近距離にいるのになんでこの人はマイクを通して俺と会話するのかなと、側からみたら相当シュールな光景であったことを回想する。

彼は、俺の所持品に目を向け、「ギターを弾くんですか?」と言った。俺は「ギタリストです」と即答した。

ううむ、いいギターを持っていると、その問答においてこんなにも即答となるのだなと我を感心した。

彼はそれを受け、「私はシンガーソングライターを」と言った。「じゃあ、そのマイクで歌わないんですか?」と、俺は、別におちょくる意図ではなく、笑顔で返した。すると、「歌いますよ」とのことだった。

「そうですか。では」と、振り返って駅に向かおうとしたら本当に彼はアカペラで歌い出した。俺は「これはたまらん」と、前屈気味に笑ってしまいながら彼のもとを離れた。布教、どこいったと思いつつ。

あとはブックオフで1冊本を買ったり、案件の戻りの確認をして提出したり、ギターを弾いたりして過ごした。ものすごく手に、体に、魂に馴染むストラトである。

しっかり調整してくれただけあるなと思った。とはいえ、数点はまだ改善の余地がある。その改善策はリフレットしかない。フレットを交換すると、7万円くらいかかる。そして、数ヶ月の期間を要する。だから、時期をみてリフレットしようと判断した。

一生物のギターなので、長い目でベストな状態にもっていこうと思う。そう考えると、8年くらい前に購入したブルーのストラトも、思い返すとけっこうな期間で色々と手を加え、最高のコンディションになるのに数年かかった。そして、そこからずっとその状態を、ほぼほぼ維持している。

物理学的には証明されていないのかもしれないが、楽器は生き物だと俺は認識ている。

「弾けば弾くほど音が良くなる」という説は本当だと思っているので――廉価のもともと作りがよろしくない楽器に関してはその限りではないが――しっかり弾いて、このメインギターと育っていこうと思う。

そういう伸びしろがあるあたり、やはり楽器は生き物。こいつと一緒に今後の人生共にしようと気持ちも高ぶる。

それにしても、リフレットは7万円くらいかと眉間にシワが寄る。そこはギターと共に稼げばいいだけの話。俺は、そう、本当に前向きに捉えた。
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グロテスクで腐臭をも伴うような夢を見るが、その内実は肉親に対する愛が描かれているようであった。

鮮明な夢を深夜まで覚えているということは、よく眠れていないのかなと一般論に帰結する。

そういったわけで今日はしっかり仕事をしつつも「仮眠」の時間を大切にする。数十分の仮眠は夜の2、3時間の睡眠時間に匹敵するとなんかに書いてあった。そこまでは言いすぎだろという実感。

しっかりと楽器練習の時間もとり、一日が閉じる。44歳をまたぐここ数ヶ月、体感的にも現実的にも、どうも流れがいいほうに向いており、それが続いているなという感覚がある。

それは何よりと、体が資本と、ちゃんとなんもしねえで酒とか呑んだりしてアホになる時間もしっかり確保する。なにもしない時間。これも大事となんかで読んだが、それはしっかりやることをやったという前提がある。

世にはびこる自己啓発的なことは、言葉の並びだけみると魅力的に映る。しかし、それを誤解するのは容易い。「どうしてそうなの?」と、自身なりに根底から考えて実践することにこそ重要性があるということまでは表現されていなかったりする。

とはいえ、あんまり考えすぎると、脳がオーバーヒートを起こし思考ループ起因のフリーズ状態をも招きかねないのでほどほどがいいかもしれない。

人にもよるだろうが、手前の場合は、徹底的に考える時間と、そうでないときをセパレートするのが肌に馴染む。

みんなはそのへんどう考えているのかなとふと思うが、それがわからないから人間関係というものが成り立つのかなと仮説を立てると、わりとシュッと納得できる。それぞれのスタンスへの尊重と適度な距離感。大事なんだなと。
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今日は興行スタッフ案件である。JR上野東京ラインに乗車し、ニーチェさんについての黒い装丁の本を読みながら銀座へ向かう。

このあいだ上野駅付近で、書道家に口頭で諭された「為」と「偽」について、ニーチェさんの言葉に共通点があったことを知る。

「君の為にやったのに何なんだ!」

「えええ?!」

「――この為にやったのになんでだよう!」

「やり方がおかしいんじゃないでしょうか…?」

「じゃあどうすればいいんだよう!」

「アドバイスが要りますでしょうか?」

「何をお前は上から目線で!」

「ええええ?!」

というように、端的に、「〜の為」という意図があると、その後の自他共に受けるフィードバックに、よろしくない心象があらわれがちだという考え方があるという。

じゃあどうすればいいかというと、「〜の為」ではなく、自身にでもそれ以外にでも、「自然に愛をもって行えばまるっと整う。いい方にいく」そんなところだろうか。

なんだ、あのとっつぁんは哲人じゃないかと感心する。ドイツの哲学者・ニーチェさんの言葉の一種と、表現は異なるが同じような文脈と結論を言葉にしていたと。

まあそれはそれでと、今日触れ合うみなさんとフレッシュな会場で楽しく過ごす。別に、「なんの為」とかは考えずに自然体で。

結果、たのしい日だったなと、その一瞬の積み重なりに感謝できる。

しかし、何事もそういったスタンスでいられるかといったら簡単ではない。「いまこれ、何の為だろう?」と考え出したらキリがない。

ともあれ、考えて「そうだ、みんなの為だ」「生活の為だ」「楽しむ為だ」「金の為だ」「喜んでもらう為だ」「自分の為だ」などといくらでも理由は出てくる。

そこで「愛」である。愛というやつはいつだって「無条件」という超大前提を孕んでいるということに、最近気が付き始めている感覚が匙一杯ほどある。

そうなると、考えることや、「何かの為」という目的を含む行為は全て「愛」ではないということになる。

ということは、やはり愛は「考える」ということとは対極にあるという仮説。

だがしかし、「ギリシア語:“知を愛する”=フィロソフィー」つまり、「哲学」は「考える」ということがベースにどっしりある。

矛盾している。そう、考えれば考えるほど、愛の定義がわからなくなってくる。

そこで「〜の為」というやつがキーとなる。

なんらかの為ではなく、万事がよくなるであろうという「無意識的な能動」が愛の成分であり、そこにフォーマットや目的は必要ない。

そんなことを考えているから、また「愛の課題」から遠のく。だから現時点で断言できることは何ぞやと整理した。

愛には程遠い。しかし、俺は「その為」ではなく、とりあえず考えることは好きだから寄り道や迂回をしながら愛を手繰っている。じゃあ、現状は、まあいいじゃないかと、好きなだけ訳のわからんこと考えて、手前なりに努力をしているつもりである。

それでもう今日あたりは手打ちでいいじゃないかということにする。その途中でいろんな思索があるのも一興。

いまは、そういうのが楽しいからそれも愛の一種なのではないかと。だから、自分なりにじっくりと取り組んでいこうと思う。「愛の課題」という難しいやつに。

やはり、この時点でなんか違う気もするが、オルタナティブという面では、まあそれもありかなということでもう一つ手打ち。パン。
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リストカットは、明らかに自傷行為。ギャンブル依存症は、いま思い返すとわかるのだが、ある種の自傷行為である。

そして、それぞれ、自分のある部分、あるいは全てを認めてあげられず、肯定も受容もできず、他者にその歯痒さをアピールするような側面があると考える。

その理由は、誰か、世間、身近な人へに向けてることにおいての「SOS」と「復讐心」が伴っているという持論と他者の見解があるからである。

加えて、その原因は、他者からの愛と、自分への愛が、一定のライン以上に不足していることだとつきとめる。

俺は、いまは自己愛がまあまああるからか、病的に執拗にやり続けていたギャンブルをヤメられている。正確に言うと、博奕の烈火ではげしく興奮したい欲求は確実にあるが、自制しているだけである。

ギャンブル依存症は、完治しない。あるのは寛解。こと、手前のケースではそうだと思っている。

他者がどうか、WHO(世界保健機関。WHOはギャンブル依存症を病気と認定している)がどう規定しているのかは、知らん。「他者などからの支援などがあれば回復が十分に望める」くらいであろう。

なんらかに対する愛情と、自己愛が枯れない水のように循環し、新たにも生じていれば、自傷行為はしない。その“理由”がなくなるからである。

そうなってくると、やはり他者を愛するという課題の第一歩は、まず自分を愛するというところから始まる。これは、間違いないと断じた。

「言っちゃえよ!」

「いや、だって、告白してダメだったら……」

「ワンチャン、あるだろう! ほら!」

「だって俺なんて、あの子と釣り合うかな……?」

「知らねえよ馬鹿野郎! いけ!」

「ドキドキしてきたよう!」

「本気な証拠だ! ゆけ!」

「だって、もしフラれたら立ち直れないよ俺……」

「お前はダメな理由ばっかし探して! なんなんだよ!」

「でも、もし『キモ』とか言われたら……」

「それはそれで次に行けるだろ! 玉砕しろよ!」

「だめだ! いまの俺じゃだめだ!」

「馬鹿野郎! じゃあ『いまの』お前はいつ変わるんだよ!」

「とにかく怖いよう!」

「ゆけ! いいから行け!」

愛を恐れる人間の典型がこれかもしれない。俺にだって当てはまる。自傷まではいかないが、自分を信じていない時期があった。だが、もし信じていれば、玉砕しても「あの子じゃなかったよね〜」と、友人と笑い飛ばせる。

「やっぱりだめだったじゃんかよ!!」

「よくやった。お前は男だ」

「さち子ちゃん、あからさまに『キモ』って顔してたよ!」

「課題が見えたな。キモくなくなればいいのさ……」

「どうすればいいの……」

「バスケやってる時のお前はけっこうイケてる」

「いまチームでベンチだよう!」

「じゃあまず試合に出る努力を経て結果を出せ。勝っても負けても、まず試合に出ることだ」

「それなら頑張ればいけるかも」

「その段階までいったら、次に好きになった子に告白するときどんな気持ちになると思う?」

「今日とはけっこう違うだろうね!」

「そういうことだ! ゆけ!」

「はは!」

なんでもいいから、課題に立ち向かい、自分を成長させて1つでも自信をつける。すると「いまの俺」とやらが更新される。自分が好きになれる。愛に立ち向かえる。

しかし、その段階で、想像を上回る深手を負ったり、予想だにしていなかった不遇に見舞われた場合、また自分を愛せなくなるかもしれない。

そして、自傷行為レベルのことに走り、簡単に浸かってしまい、数年、数十年間、地獄をみるかもしれない。

だが、その地獄でも学べることはたくさんある。なんなら、それくらいの業火に包まれないと見出せないくらいのことも。

そこで、ギリギリの淵で、ふと判断し、自死してしまう人もいる。そうでない人もいる。

何が言いたいかというと、人によっては、自己愛を充足以上にすることは極めて難しいケースもあるということ。

俺がそうとかどうなのかとか、そのへんはおいておき、とりあえず、他者に愛される、その前に、自分を愛する。他者を愛する。そこから全てが始まる。

今日は、学問的な本を読み進め、うつ病で精神病棟に入院した体験のエッセイ漫画を読んだり、作中の描写のリアリティを感じつつ、そんなことを考えていた。

まずは、自分を、他者を、愛するところから。「愛の課題」においてそれは、基本中の基本なのかもしれない。44年間気づかんかった。いや、目を逸らしていただけなのかもしれない。
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なんか4時間くらいでスッキリ目が覚めたので、キッチンでタバコを吸う。いつもはとらない行動だなと、珍しいなとか呟きながらもう一回寝る。

今日は変な疲労を感じず、フレッシュに各仕事をする。もう、フルで行なう。その後、少々ギターを弾いては「やはりフレットを交換しないと、このストラトのポテンシャルをどこまでも引き出すことは難しい」と、判断した。

おとといはまだその判断はしていなかったが、「いずれは」と考えていたので、とりあえず良さげなリペアショップを探して電話で聞いた。

全体的に調整してもらった、御茶ノ水のリペアも素晴らしいのだが、リフレットとなると3ヶ月を要するという。それはつらい。だから、もっと短期間でやってくれる工房を探したというわけである。

結果、見積もりもいい感じに、何より一週間程度で引き取れるというのが決定打となり、早々にやってもらうことを決意する。

仕事でもなんでもそうだが、この「決める」という段階まで、俺はとても遅いという性質が確実にあることを自覚している。だから最近は、「展望が決まっている思考は即決・即行動」というスローガンを掲げている。もっと早く掲げればよかったとも思うが。

とはいえ、数万円かかる。きちんとしたコンディションで気持ちよく演奏できるようになるまで嗚呼どんだけかかるんだとも思う。しかし、それも楽器の醍醐味。なにせ44年も前に作られたギター。まだいいほうなのかもしれない。

早くこのストラトで演奏がしたい。レコーディングがしたい。ライブがしたい。他にも用途はあるかもしれない。一生物が手元にあると、こんなにも気持ちや視野が広がるのだなと若々しい気分になる。こういうのって大事だなと、しみじみ体現。
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仕事で手こずり、なんだか疲れてしまったなと、気がつけば何も考えず「世界が終るまでは…」という楽曲を聴いていた。WANDSの代表曲である。

1995年、この楽曲が収められている縦長8cm CDをチャリで買いに行き、すぐに聴き、かっこいいなあと中学生の時に思った。

ウルトラマリンブルーのお気に入りのラジカセで、やや小さな音で、親が買い与えてくれた学習机に座りながら、何度も聴いていた。ギターとか歌詞とか分離して解釈せず、ただ、「世界が終るまでは…」というのはかっこいいなあと、全体的に感じていた。

そして、俺もこういう風になりたいな、こういうのがやりたいなと、素直な情念が湧き出た。

そこから29年が経った。CDはあるのだが、さっき俺は、誰がアップロードしたか不明瞭なYouTubeチャンネルで「世界が終るまでは…」のMVをフルサイズで聴いていた。すると、印象が、あの頃と異なっていた。

イントロからして、「ああ、シンセサイザーの音がこう並んでいて、ギターが右でこう刻まれて、リードパートは――」などと、耳が勝手にアンサンブルの分析を始めた。

しかし、聴き続けていたら、音像とか、主題歌となった対象のアニメ・『スラムダンク』とか、WANDS第何期バージョンはどうとか、そのあたりの背景はどうでもよくなった。

コンパクトに表すと、俺にとっての“初期衝動”がこの楽曲なんだなと、思考がゆるやかにスウィングした。

その衝動がいま、どのように表されているかというと、少なくとも、“こういうのがやりたい”ということの界隈に、多少なりとも居られている自覚はある。よかったなと思う。

「世界が終るまでは…」の歌詞、リリース当時も昨日までも、なんとも思っていなかったが、いま、感じることがある。

それは、“戻らない時だけが 何故輝いては やつれ切った 心までも壊す”という一節である。

完全に俺の独自的解釈という前提で、これは、“過去の捉え方”の一言に尽きる。

当時20代だった上杉昇さんが、どういった想いで書いたかは、はかりしれない。だが俺は、その一節を、“過去といまをつなぐ美しいもの”と捉えている。だからさっき聴いてニュートラルになれた。

上杉昇さんは、当該曲でもそのほかの楽曲の歌詞でも、“tragedy=悲劇的な”や、“katastrophē=破滅的な”という、くっきりと、“タナトス=死の(死への)本能”を示す単語をよく織り込んでいた。

作詞において、それをどういった意図で使ったか、そのままの理由なのか、逆なのか、それはもちろんご本人に聞かなければわからないが、俺にとっては音楽的初期衝動の強固なピースのひとつであり、意味とは真逆の勇気をもたらしてくれる。

数年前、徒歩数分圏内に位置するライブハウスで、元・WANDSのボーカリストである上杉昇さんのライブを観た。

感想は一言で、「歌に魂を感じる」という稚拙な表現しかできないほどに沁みるものであった。

だからこそ、「世界が終るまでは…」という、含みのあるタイトルと、破滅的なワードがいまでも、オルタナティブに輝いていると思った。

“誰もが望みながら 永遠を信じない”と、上杉昇さんは歌う。

少なくとも俺は、彼のおかげでまだ、信じているのかもしれない。そこにネガティビティや、恥や、後ろめたさや、破滅欲は無い。

こんなにも秀麗な、生きる上でのコントラストを持つ楽曲。いまでもみんなに愛されている理由はそこにあるのかもしれない。

そういった思索があれど、実のところそのへんは個人的な机上でのお話。

WANDSの楽曲は、俺にとって、自分が生きる上での世界が終わるまでは、そばに居てくれる。それくらいの情念をそばにおいて離さなければ、それでいいのだと思えた夜のひととき。
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普段よりけっこう早い時間に起床する。やや眠いがとても気力がみなぎる。年に数回、こういった明らかな躁といった日がある。

これが毎日だったらなと、その原因は解明できずじまい。まあいいやと、所用で原宿へ行く。世間は平日にしてはキャピついていた。そうか、これがこの街のデフォルトかと、少し楽しい気分になる。

あとはもう、だいたい宅で仕事してカタカタと過ごす。ちょっと仮眠して、また起きて文字を打つ。ファイルを閉じたらもう日を跨いでいた。

気がつけば、ノートに手書きで「丁寧・尊重・貢献がモットー」などと書いている。そんなの大前提だろうと一瞬思うが、大切なことと思ったから能動的にペンをとったのだろうと数分前を回顧する。

躁とはいえ、別に暴走的なことはせずに、今日やるべきことを行なえた良日。
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梅雨の前あたりからずっと途切れず、複数のライター案件があった状態だった。それが今日、昼間に作業してひと段落し、あとは、2件の確認待ちという状態。PCをスリープにして散歩に出た。

「いい本棚を見つけられたら買おう」という、確定的な目的ではないものをひとつ旨に、歩く。徒歩距離圏内の「ニトリ」までとりあえず歩く。しかし、行ってみたものの、望みのサイズの品がなかったので目的はなくなった。

あとはひたすら、瞑想するように無目的で歩く。逍遥というやつである。4時間近く、赤羽から志茂〜東十条あたりを縫うように歩く。考えながら歩いているうちに、離れ離れの思考がなんとなく纏まるような感覚がある。ほかの発想も浮かぶ。それが気持ちいい。

帰宅してネットで本棚を探す。ベストなのがあるじゃないかと「IKEA」のサイトで見つけた5,000円くらいのやつを発注する。到着がたのしみ。

なんだか棚といい、靴といい、ギターといい、アイフォーンといい、最近買い物のしすぎ、金の使いすぎではないかと冷静になる。月一恒例の資産集計をする。資金は思ったほどそんなに減っていなかった。

じゃあいいかと、使用するのが前提の必要な買い物だしと、浪費ではないことを認識する。加えて、完了案件で着金待ちが数件ある。それが9月までに入る試算となっているから、あと――万円入って、と考えると、最近いそいそとしていた甲斐が数字として出るじゃないかと経済脳が落ち着く。

とはいえもっとやれるだろうと色々考える。歩いているうちにまとまった思考を楽譜に書き起こす。ああ、これはいけると、楽曲の断片を確かめてDAWも鍵盤も今日は閉じる。

歩いて考えていることがメインタスクという、そういう日も必要だなと実感した夏の真ん中。
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音楽制作をする。いつもほぼほぼ、まずギターや鍵盤などの和音楽器を鳴らしてモチーフの主軸をDAWにメモする。

そのあと、ビートをざっと打ち込で楽曲構成をする。そしてメロディやら他のパートのアレンジする。都度、手書きで楽譜を書くことが多い。そしてだいたいは生演奏でレコーディングする。

これらの流れは、正直、現代においては非効率的なのかもしれない。

なぜかというと、今ではもう、最初からワンクリック、スマートフォンだったらタップひとつで和音も鳴らせ、ビート構築もオートマティックにできる時代。AI機能を駆使してテキスト入力により秒で楽曲自体がはじき出されるツールもある。

多分というか、ほぼ確で、数年後あるいはすぐ近い将来に、BGM制作の役割は生成AIによって成されると思ってる。数年前、30代の頃によくいただいていた「文字起こし」というライター案件がゼロになったことがそれを示すように。

当時おぼろげに、「この仕事、今はたくさんくるけど数年後なくなるな――」と感じていた。現にそうなった。世間全体において、完全になくなったわけではないが。

じゃあAIにはできないこと、音楽の魅力として人間でなければ不可能な要素はと考えた。俺が思うのは、生演奏と失敗である。

魂のこもった血の通う素晴らしい演奏。失敗によって生み出される発想。これらは、AIでは生成にはできない。できるようになるとしても、近年にとはいかないと思う。

だから、やはり今日も鍵盤を叩きながらモチーフを形にする。リペアから返ってきたらギターも生でゴリッと録音する。

とはいえ、AIツールは魅力的かつ利便性に長けているので、どこかのタイミングで、オリジナル作品と謳って問題のない範囲で導入しようとも考えている。

今のところ楽曲制作においてその必要性を感じていないが、そのへんの絶妙なバランスがとれたら、また新時代の制作方法での音楽を作ることができるかなと思っている。

俺が気づいていないだけで、既に生成AIによって生演奏“らしき”トラックが人を魅了しているのかもしれない。

だが、それを作ったのは前提としてAIである。あまり好きな観念ではないが、「どんなものを作ったか」よりも「誰がつくったか」が、より重要になってくる時代が加速するのかもしれない。

埋もれている超名作よりも、超有名作家がつくった作品の方が、売り手はプッシュしやすい。そういった点で、あまり好きではないという意味合いである。

そんなことを考えて手を止めるよりかは、作り進めてアウトプットして、そこから考えればいい。

“動いて、体験して、そのあとに考える。その繰り返し”というようなことを、先月会った書道家に諭された。

さいきん読んだニーチェさんの本にも、かなり近いというか同一の解釈ができる一節があった。

書道家も、哲人も、きっとそれぞれ、書いて発表して批評され、コツコツとブラッシュアップを重ねていったのかもしれない。

そう考えると、まあ、普遍的という意味ではこのやり方でいいのかなという思惟。だがやはり効率的というやつには惹かれるものがある。

しかし、それを優先させ、身を委ねてしまうと、一番大切なものを失ってしまう気がしてならない。彼らもそういうことが言いたかったのかもしれないが、そこに関しては俺もそう強く思う。

などと主張気味に言いたげだが、わりと毎日のように使うAI機能。「便利」というやつとの「付き合い方」は安易ではないという点について、どう捉えよう。

今日の分は、やって、考えたので、そろそろ「氷結」呑んで寝よう。グラスに氷を入れて注いで呑むと、マイルドになってとてもおいしい。
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仲間から「AIで作曲したよ〜」的なコンテンツを2つ、2人からグループLINEで受信した。昨日そんなこと書いたなあと、シンクロニシティか直接的か、そこはまあいいかと、それを聴いてみた。

なんでも「Suno AI」という作曲生成AIで作ったとのこと。これがなかなかのクオリティをはじき出すというのは、間接的に捉えていたが、改めて身近な人間が投じたプロンプトによるAI楽曲を聴くと、率直に「すごいですね〜」という感想だったので同文で返した。

俺も、初めて生成AIでイラストを作った――厳密には創作にあたるかどうかは今、世界中で議論中だが――時は興奮した。やったぜと思った。簡単に日本の漫画やアニメタッチの女の子がいくらでも生成できたからである。

しかし、けっこう途中で飽きた。理由はすぐにわかった。「そのイラストのクオリティ自体はかなり高いが、『作品』としての魅力はそんなにない」という一点である。

ということは、やはり、AIは「ツール」でしかなく、「ほぼ全工程をまかなうことで『作品』にはならない」という、現状の結論に達する。

そんな帰結を肚に、シンセサイザーを弾きながらDAWにトラックを重ね、都度、楽譜に記しながら楽曲制作をする。

しかし、人工知能ではないものの、DAW・打ち込み・シンセサイザーなど、これらは、コンピューターやプログラムを介している。よって、完全天然無添加というわけではない。

たった今、当該仲間内の村上氏からLINEが届いた。

「じゃあ、そのAIのプロンプトに『バカみたいなユーロビート』と投じたら出来ますか?」と、俺は昼間にオーダーした。その返信として「OK! やってみる」とのことである。

そこで、「じゃあ俺は人力で『バカみたいなユーロビート』を作るので、それと比較して色々と議論しましょう!」という課題を持ち出した。

そういうのって面白いよねと思いつつも、「バカみたいなユーロビート」ってAIがどう判断するか楽しみである。なぜかというと、AIはだいたいネガティブワード(この場合“バカ”にあたる)やユーモアに関してはまだまだかなという雑感があるからである。

どこまで俺がバカになりアホ極まりないユーロビートを作れるか。それをAI が凌駕するか。最新テクノロジーとの真っ向勝負である。

なお、前提として俺は別にユーロビートという音楽ジャンルを侮辱するつもりは毛頭ない。今後の発展的モチーフの一環としての生産的な表現である。

“AIの脅威”という世間の声もキャッチすることもあるが、こういう風に楽しむ段階なのかなと今は思う。
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多忙な時間を割いて、村上氏は作ってくれた。「生成AIによる、バカみたいなユーロビート」を。

プロンプトは、“バカっぽい ユーロ・ディスコ 90′s”と、打ったもよう。聴いたらバカさは如実に足りてなかったが、それっぽくはあった。

俺は、「思ったよりいいです! たぶんユーロビートに関してはAIで、もうある程度は作れらることがよくわかりました!」と、LINEで返信した。

村上氏は、ユーロビートは日本だけの言い方であることと、最初はハウスの出来損ないみたいなのが出てきて苦労したという返答をくれた。

俺は、「フォーマットがある程度決まってるジャンルには、AIが優勢」という所感を伝えた。

すると、作るのが楽しいのであれば、比較としてユーロビートを作るのもいいが、楽しくなければ、違う曲作りに労力を使ったほうがいいという見解をいただいた。

加えて、商業ベースでの音楽作成は、既存の楽曲からの「どこかで聴いたことある感」をリスナーは求めているというプロならではの考察、そして、人間は新たなものを作り出し、それをAIに学習させるのがいいということを述べた。

じゃあ俺は引き続き、感じたことや先人の系譜、自分の音楽力などを含めた、自分が作る音楽を追求するという結論に達した。村上氏は、AIの方を追求するという。

結果、俺は「バカみたいなユーロビート」を作って比較、という工程に及ぶ必要性はない。自分で思ったように作る。“人力で『バカみたいなユーロビート』を作るので、それとAI生成の曲を比較して色々と議論を”という課題は、以上のような対話で一旦締めくくられた。新たな課題も生じた。

自分らしい制作・創作には、自分なりの感性が必要不可欠である。そう思い、俺は散歩に出かけた。

ふとバスに乗って足立区新田という地域に行った。10分くらい乗車した。たったの10分程度が、とても長く感じた。

到着して、記憶にあるこの土地の景色――12年前くらいにこの辺で営業周りをして顧客もけっこう居た――は、すっかり変わっていた。

昭和団地の半分はなくなっており、立派なマンションが乱立していた。それでも残っている古風な集合住宅などの写真を撮る。荒川の土手に登る。

足立区の夕焼けチャイムが17時半を告げた。育った土地付近所以、禁じ得ないノスタルジックは散歩を捗らせた。

その足で河川敷沿いに赤羽方面まで歩く。途中、ずっと、サラウンドに広がる空を眺めては「高い層に行きたい」などと思ったり、謎にテトラポットが300個くらい並べてあるブースを見ては、なんとシュルレアリズム的光景だと動画を撮ったりする。

水門を見上げ、あらゆる角度から撮影する。この圧倒的存在感はなんだと、この魅力はなんだと、なんらかの“気”が集まっているに違いないと、それぞれの雑感を深掘りするも答えには辿り着けず。

北区の夕焼けチャイムが18時を告げた。つまり30分間、河川敷の土手を歩いていた計算になる。バスに乗っている約10分よりもはるかに短く感じた。

楽しかったとかリラックスできたとか運動したとか、そういう類ではない、言語化が難しいスーっとした気分。何かを得たはずだという、それが今後ずっと心身に纏う感覚だけが残る。それがいい。

帰宅してライター案件の戻りの確認をして提出。あとはちとYouTubeで、成田悠輔さんとタレントのYOUさんによる対談のような、生々しい漫談のような動画を観て楽しむ。そして制作をする。

けっこう全体像が見えたなという段階まで進み、鉛筆で楽譜におさめる。DAWに波形とMIDIデータをスケッチする。

楽譜を書いているときに思った。「AIなら、これは秒で済む」と。だが、いまを収める音楽の記録の書きかけを横目にながめると、なにかを感じる。調号に各コード、音符にセクション記号。

AIだとこれがプロンプトに置き換えられるわけだが、テキストで生成する音楽と、作りながら書く楽譜をもとに録音される音楽は、この時点で俄然異なる。

それぞれの仕上がりは、聴く人によってはそんなに変わらないのかもしれない。しかし、そこまでのプロセスは様々ある。

これまでの体験や学び、演奏練習。なんなら今日の、移り変わった土地の風景や謎のテトラポット、えも言えぬ迫力の水門。シンセサイザーのような音で鳴く虫の声。体感時間の差。それらも付加されるかもしれない。

そう考えると、AIは、人間のアウトプットをディープラーニングしてコンテンツをはじき出す。人間は、あらゆる体験と感覚をもとに、あらゆるものを作る。創作する。

この差と魅力をなんとかして証明、そこまではいかなくとも、形として作り上げ、そこから誰かがどう感じてどう昇華してくれるのか、などと大げさに考える。

そのうち、俺もいちいち楽譜を書いたり生演奏すらしなくなる時代が来るのかもしれない。それでも、その気概と楽しめる感覚があるうちは、ずっとやり続けたいと思った。

楽譜に音符を書く際、どうも見づらいと感じた。些細なことだが、いつまでも、いつも通りのパフォーマンスで物事を進められるとは限らないことを示されたようなフィーリング。

個人差はあるが万人がそうである。いつか絶対、全員死ぬ。だから、いま、ここで、できることを。という手前のモットーに帰結する。とはいえまさかの老眼の始まり、ほぼ確。くは。
_08/12

 

 

 

 


「IKEA」から本棚が届いた。これを設置すれば、最近増えまくってる本を綺麗に納められる。

まだ組み立てていないが、棚と本はインテリアにもなるので然るべき場所に配置するのがちょっと楽しみである。

そう思い、ふと仕事部屋を見渡すと既に棚だらけであった。

CDを収納している棚が2つと小さいの1つ。俺の身長より高い、やはり「IKEA」製の縦長本棚が1つ。漫画用のやつが1つ。ドキュメント格納棚が1つ。弦のストックや昔作ったマスター音源CD等をならべたものが1つ。新たに1つ。形8つ。

「一人暮らしにしては家財が多い」と、ここに引っ越してきた時に業者に言われた。ああそうだねと改めて思う。

ともあれ、棚に並ぶ作品の数々が、手前の頭やらにインプットされていると考えると感慨深くもある。

ブックオフやメルカリに売却するという手もあるが、なんとなく全部並べておいたほうが書斎っぽくあるので手放さず。これは現代的なスタイルではないのかもしれないが、部屋を謎に書斎やスタジオやアトリエ風にしたいのは中年以降の男性あるあるな気がしてならない。
_08/13

 

 

 

 


お盆だが通常運転で過ごす。やたらと眠い。ちゃんと最低限寝ているのに、微睡む。この時期はそういうものなのかということにして、気にはせず。

機をみて墓参りといきたいところだが、向こう数日間でやりきりたいことが程々あるので持ち越す。

というか墓自体をどうするかとふと思う。俺の子孫が残らない限り、平吉家の墓標は更新されない。

「墓じまい」という概念と向き合う。それは、お墓を解体して、撤去した後に別の方法で供養することである。

愛の課題から目を背けずに、結婚をして子を育むという、俺からしたら最大級の難関に立ち向かわないことには墓じまい一択となる。そうなると数百万円くらいかかる場合もあるという。

タバコの蒸気を吐き出し、疲れ目をキュッと絞りながら思考を整理する。というか想像する。

伴侶と一緒に生きて、子を授かる幸福に恵まれる。タバコはやめるであろう。酒だって減らすであろう。チンピラのような働き方も再考するかもしれない。あくまでここまでは想像ベースだが。

そうなると、両親はすごいなと改めて感謝の念が浮き彫りになる。俺というやつを育てるのに、どれだけの人生のリソースを割いてくれたか。愛してくれたのかと。

とりあえず一気にやろうとすると俺はバスンとパンクするだろうから、秋の気配を感じる頃でもいいから、まずは墓に行く。花を添える。酒を備える。俺もその場で呑む(この行為は許されるのかいまだ謎)。

そして墓前で「さいきん急激に人生についての考え方が変わりました」と、報告しようと思う。両親とご先祖様に。

「いまさらか」と、あの世から徹底的に叱咤されるかもしれない。しかし、気づくこと、やり始めること、新たに動き出すことそれぞれに、年齢的に遅いということはないという持論で弁明したい。そこは許してつかあさいと。

とりあえず、数日後に墓へ行きセーブすることにする。あなた方の愛によって俺の今があるんですね。すいませんでした。ありがとうございますと、手前なりに改心したつもりの現状を報告しに。親父の納骨まだしてないけど。
_08/14

 

 

 

 


グーグルのレビューに星5つ。一方で、星1つでボロクソのクチコミコメントが少々。

俺は普段、お店選びの際にこの手の評価を全く参考にしないが、なんとなく目についたので詳しく見てみた。

理由は、一生物のストラトキャスターのリフレット、人間で例えるならばなかなかの大手術を施すということもある。

先週、原宿駅から少し歩いた距離にある老舗のリペアショップにギターを預けた。手付け金も払った。そして今日、引き取りに行った。

物を見ると、フレットを交換するわけだから相当見た目も変わるかなと思ったが、ごく自然。「ああ、変えたんですね」と、わかる人はわかる、といった感じだった。

一通りリペア内容のご説明を受ける前に、まず試奏を促される。四十肩が完治していないので立って弾いて各ポジションでコードを鳴らしたり、チョーキング奏法でデッドポイント(音が詰まったり鳴らなかったりする箇所)を確認する。

「いいですね!」と、笑顔を向けると、リペアマンはニヤリとする。何度となく、色んな和音や単音を弾いては「いいですね!!」と微笑む。リペアマンはニコリとする。

そして、リペアマンから各ご説明を受ける。「いやあ、よかったですね! ここがどうで、ここはこう、あれがきたらこう……」などという、主観混じりの不要な説明はなく、「それは必要である」という部分だけを丁寧に、紳士的な言葉遣いと所作で教えてくれた。もちろん、俺が聞けばちゃんとプロ目線で答えてくれた。

帰り際、ネットのレビューの件が少し気になっていたので「あの、お気を害されたら申し訳ないのですが、レビューで……」と投げかけた。

するとリペアマンは、「はは。まあ、どこにでもそういうのありますよね…!」と、ブレない姿勢を示すように少し笑っていた。俺は彼から、矜持の表れを感じた。

深くお礼して「レビューをつけさせていただいていいですか?」と一応聞き、5つ星をつけ、この店は素晴らしいというコメントを記すことにした。

普段は絶対にやらない行為だが、「現在、現場は良質な店である」ということを伝えたい能動がそうさせた。

低評価を下した方に関してのことは書かない。その人にとっての主観と感想に言及する意図は全くなく、ただ、「俺は今回、こう感じた」というだけだからである。

帰宅して、いくつかやることがあるのだが、真っ先にアンプに繋げてギターを弾いた。気がつけばかなり時間が経っていた。最高の仕上がりだった。あと、昔からこのギターを弾いていたような、不思議で、幸せな感覚があった。

“ギターは弾けば弾くほど音が良くなり、演奏者に応えてくれる”という持論のもと、これからずっと弾き倒していこうという気持ちが高まった。

東京都渋谷区神宮前にある「松下工房」というリペアショップは信用できる。腕も確かで、しっかりとヒアリングも提案もしてくれる。価格は相場より安くてお得。工期がとてもスピーディー。水曜と木曜日に依頼するとなんとリペア代10%引きサービスあり。

“フェンダーUSAビンテージストラトのリフレットをお願いしました。リフレット以外にも改善点を提案していただき、結果、相場より安く、一週間という速さで仕上げていただき、とても満足しました。ありがとうございます!”

グーグルのクチコミ・レビューには、このように書いて投稿した。

アカウント名が実名で表示されるのでちょっと戸惑ったが、良いことは、きちんと良いと知らしめたい。そういう気にさせてくれるくらい、大事な楽器を仕上げてくれた「松下工房」への感謝の意は禁じ得ない。

なお、当サイトに色々な広告は出ているが、当該店のものを意図的に貼る操作はしていない。リンクが出たとしてもそれは自動機能である。よって、本文はステルスマーケティングではない。ただただ純粋に、「松下工房」への謝意を主軸とした日記である。リペアをご担当してくれた方、本当にありがとうございます。
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一通り仕事をして、演奏の練習をする。昔は弾けたけど忘れたかも的な、ギタープレイに特化した名曲をSpotifyの「Gt Practice」プレイリストに色々追加する。

初心に還り、洋楽初期衝動のレニー・クラヴィッツのかっこいいやつを追加する。思い出してすぐ弾けた。エアロスミスも入れておく。楽曲「Walk This Way」って、本気でジョー・ペリー(ギタリスト)のニュアンスに寄せて演奏するとこんなに難しいのかと、偉人との壁を認知する。

ロックミュージックばかり聴いていた時期が20歳ちょいの頃。そこから、他の音楽に視野を向けさせてくれたきっかけでもあるスティーヴィー・ワンダーの曲もたくさんリストに入れる。

しばらくして、もともと入っていたレッチリの曲が自動再生されたので一緒に弾いていたら0時を跨いでいた。

そうだ、少年の頃は、ギターを弾いていてこんな感覚だったなと、やったーと声を出して真空管アンプを一旦オフにする。執拗に毎日ギターを弾いていた心境がまだ残っており、それがいまでも再生可能であることに喜びをおぼえた。

44歳でもそんなことあるんだと、どこか、いつのまにか、ジワジワと、無意識下に一般常識的感覚が落とし込まれていたかもしれないことにも同時に気づく。

しかしそれを払拭し――しなくてもいいのかもしれないが――良い意味で自分らしくなれるものは、やはり楽器。最初に夢中になったエレクトリックギターなのだなと心が帰結。

久々に指先が痛いくらいだが明日も弾こう。すんごい金かけたけど、それ以上に稼ぐであろうこのストラトキャスターを。いや、当面、少なくとも数日でもいいから、そこは一旦考えずにあの頃の心境で弾いていよう。

俺が金儲けが下手なのはこのへんを起因としているのかもしれない。でも、この心境を捨てる引き換えに大金を手にするくらいだったら、そんなものいらない。

いや、金は欲しい。では、バランスよくいこう。今はあの頃と違い、音楽でマネタイズもできている。まず弾いて、感じて、考えて、実行する。その繰り返し。

このあいだ諭された哲人のような書道家の言動にも、ニーチェというガチ者の哲学者の言葉にも、同じ文脈でそのようにあった。だからシンプルに幸せに自分らしく生きよう。

とはいえ、まあいい歳なので、どうしたら後から収益がついてくるかという点も見定めつつ。

それが最優先という考え方がマジョリティなのであろうが、とりあえず、今の所は、忘れかけていた何かをまたひとつ思い出し、踊るように楽しくいられるので弾きまくろう。

「PDCA」の「ピ」の字もない、真逆をやってるが、そのスタンスがどう出るか、それをもって明るい方向へといけるのかを、少しずつでも証明できたらという前提で。
_08/16

 

 

 

 


ライター業のリテイクがあったので対応する。音楽記事ではない、めちゃめちゃビジネスビジネスしたライティングなので、それはそれで別種の楽しさがある。当然真剣に書いて、戻しの内容はクライアントの仰せの通りにする。

そうだ、最近出費がかさんでいたから大丈夫かなと思っていたが、完了案件で請求済み、未着金のものが4件ある。あわてることはないと、音楽の方に打ち込む。

制作を進めたかったが時間的な関係で今日も演奏練習をする。ギターと一体となっていく感覚がたまらない。

村上氏からAI生成の新曲――この場合の“新曲”という呼称が適切かはわからないが――が届く。

もう、iPhone本体の出力環境で聴く限りは、人が作ったのかAIが作ったのか、ボーッと聴いていたらわからないくらいのクオリティである。村上氏の打つプロンプトのセンスも当然あるだろうが。

じゃあ、生身の人間による音楽制作とはどう向き合うべきかと考えるその前に、演奏をする。人が生演奏する姿とサウンドと「気」などは、AIでは出力できない。だから、いま演奏の練習に精を出すのは適切。そのように、弾いてから考えた。

その一連の流れを落とし込んだ楽曲は、人の作る曲。とはいえどこかでAI機能をプラスしてもいいかもしれない。

完全生演奏から、シンセサイザー、MIDI、コンピューター、サンプリングといった要素が取り込まれてきた音楽制作の系譜の先に、AIの導入があるのだろうか。

そのように、動いて、感じて、考えて、実行に移す。それを繰り返す。この場合の“実行”は、ライブ演奏や作曲、レコーディングにあたるだろう。

なにせ、演奏している時や曲を作っている時、楽譜を書いている時は純粋に、人間としての楽しさを伴う。なんというか今のところ、その一言に尽きる。

昨日と同じ時間軸で、同じ暮らし方をして、動作や感覚や思考を少し、少しでも更新できたかなという肌感の盆の過ぎ。
_08/17

 

 

 

 


ショートショートという形式の本を読む。はじめて手にした類かもしれない。そこには、いままで見えていなかった新鮮な世界が煌々と広がっていた。

知らなかっただけで、こんにも魅力的で人間を表す文学があったのだと、移動中の電車内で読み耽ってはいちいち「おおお」と声が出る。

公共の交通機関で一人でそういったリアクションをとるのは「恥」という風潮が国内である気がするが、俺は遠慮なく漏らす。著者に対する敬意を隠すことはない。というか、文字を書く仕事をしているのにショートショートを知らなかった時点でけっこうな「恥」なのかもしれないが、そこも、隠すことはない。

書いたのは、星新一さんという、ショートショートの第一人者らしい。レゲエ音楽でいったらボブ・マーリーさんにあたるニュアンスだろうか。要はそのジャンルを生み出して確立させ、後世につなげる功績を残した人物。

300ページほどあるその本は、昭和46年初版。以降、増刷を繰り返しまくり、俺が手にしているのは令和何年とかであった。いわゆる、時代を超越して愛されている名著というわけであろう。

それも納得。老若男女が読んでも楽しめる要素が詰まっているのである。

ショートショートがどういった形式かというと、なにも参照せずに俺の言葉で表すと、「人間の本質を風刺をしてSFの世界観で表現し、必ず最後は想像や予測が困難である結末で尻切れとんぼ気味に締めくくられ、その内容について深く考え、気づかされる」といったものだろうか。

なんでもまとめてくれるAI・ChatGPT4oはどう捉えているだろうかと思い、「ショートショートとはどんな形式でどんな性質か、100文字程度でまとめてください」と投じた。すると以下のような見解を示した。

“ショートショートは、短く簡潔な物語形式で、通常数百字から千字以内で展開されるフィクション作品です。驚きやユーモア、予想外の結末が特徴的です。”

俺が感じたことと、さほど差異はないと思われる。しかし、“予想外”という部分は俺もそう思ったことだが、そこは一言でまとめるべきではないという、AIに対する反論があった。

なぜならば、確かに“予想外”ではあるのだが、どの短編を読んでも「予想外だが、本質的にそうなるよな」と、逐一、深く考えさせられるからである。

昭和独自のブラック・ユーモアが目立つ中、人間の腐臭を伴うような習性やらが丁寧な文調でまとめられている。

まとめられてはいるが、最後は「はい、この結末が何を言いたいのか、考えてみようか?」みたいなアートを感じさせるアプローチがある。だから、“予想外”の一言でまとめるのは少し、足りないかなと思ったのである。

そして細かい点だが、驚いたフォーマットがあった。

それが当時はルールだったのかもしれないが、作中で「!」や「?」の表現がないのである。俺は、編集部の方々に教えていただき学ばせていただいたが、普通に疑問文を記す際に「?」を使用しないで表現するのはわりと簡単ではない。「!」を使わずに躍動感をつけるのもそう。

そんな、今だと感じる「制限」がある中でこれだけ豊かに読者の心を掴むことができるということに関しても、へへえと頭が下がる思いだった。

「ボッコちゃん」というこの書籍は、俺が能動的に手を伸ばすものではないだろう。しかし、現に読んでみると世界が広がった。自分自身で視野を広めることは、感心できるものではあるが、受動的に広げてもらうのも気持ちいいなという率直な爽快感。

だから、この本をくれた方に、多大なる感謝の意を送る。世界、人間、表現、解釈、思索に対する解像度を上げてくれて、どうもありがとうございますと。
_08/18

 

 

 

 

 


「IKEA」の本棚をまだ組み立てていない。ダンボールに包まれたまま、玄関の壁に粗野に立てかけ、5日は経つ。

小一時間もあれば、四角く仕上げて予定通りのスペースに配置し、既存の本棚に横にねじ込まれた何冊もの本を綺麗に並べられる。仕事部屋のインテリアを更新するちょっとした楽しみだった。

しかしそれよりもギターが弾きたいと、リペアから戻ってきて「しっかりとした演奏に対応できる状態」になったストラトキャスターを弾き倒す。ここ5日毎日、ワンマンライブ1本ほどの尺を、演奏練習の時間に充てている。

夏らしいことは何一つしていない。盆だし墓参りというプランも後ろ倒しにしている。すまん。ご先祖様。せめて近所のプールでイワシのように泳ぎたいがまだ、四十肩がそれを許さない。たのむ。そろそろ全快してくれ。

だが、立ってギターはしっかり弾ける。だからここのところは、その点に集中した。その時にやれることをばっちり行なう。たまにはこういう夏があってもいいのではないかなと思う。
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だいたいの時間は楽曲制作をする。ベースパートに4時間くらいかけ、いいのが録音できる。めちゃめちゃベースの生演奏にこだわる。

仮で打ち込んだほぼ同一パートのMIDIと聴き比べる。圧倒的とまではいかないが、違いを感じる。確かに、生で弾いたパートのほうが、音に血が通っている。

ライター業の打診を2つ受ける。ご新規様なので締結を願いつつ各位、ご対応する。最近は音楽以外のライティング依頼も少しづついただけ始め、とても嬉しく思う。

あとは友達と電話したり、岡田斗司夫チャンネルをBGMに仮眠したりして、ほっこり過ごす。ずっと一人で居たが、どこか賑やかにも感じた夏の一日。
_08/20

 

 

 

 

 


天然育ちの「鯛」が安かったので昨夜ススーと包丁で捌き、ワサビをぬりたくって食う。なんか変な味がするなという第一印象だったが「ああ、いつも俺は養殖のやつを食べていたからか」そういうものかと、その違いを認めるが開けて本日、下す。

おのれと思いつつもいいデトックスになった。さすが天然育ちは腸のケアにまで及ぶのだなという、明確に否定すべき解釈でポジティブに躱す。

今日は一日仕事をして、ギターの練習をする。「10〜20代の頃弾けたがいまは忘れた楽曲の復習」である。これが、演奏技術向上はもちろんだが、不思議と、気持ちもあの頃の青臭い天然の初期衝動が蘇る。

エアロスミスの「Eat the Rich」を思い出し弾きする。これが案外、難易度が高い。超絶技巧というベクトルとは別軸の難しさである。いわゆる演奏タッチの“味”がモノをいう。

「ああ、こうだったな」と、少しずつ反復し、当時はわりと弾けているつもりだったが細部を端折っていた――当時はいまほど正確には聴き取れていなかった――ことにも気づく。

高校生の頃、コピーバンドでこの曲を足立くんのドラムと一緒にやったなあと、モスグリーン色のブレザーを着ていた高校時代を思い出す。

ううむ、そういえば昨日彼は、電話でギターの話題に差し掛かった際、「エレキギターはロックの象徴だからさ!」と、語気を強めていた。ああ、そうだったなと、大事なことを言語化してくれて省みる。

じゃあロックとはなんぞやと考える。このへんが、当時と今との違いのひとつだろうか。

ロックとは、逆らうことほかならないと思う。

一言だと俺はそう表現するが、その内訳には、アンチテーゼ・劣等感の昇華・若い衝動のサウンド化・鋭利な自己同一性の表現・マイノリティの主張・無骨なアート・繊細さの逆説的解釈。勝手に考察するとこのあたりだろうか。

そんな風に言葉にすることはなかった頃は本当に無添加天然ロック。他とは何かが少し違う味がするが、それはそれで思いもよらぬ効果がある。取り込みすぎると毒ともなりかねないといった背景もあるだろう。

そういったわけで、音楽、ことロックミュージックに関しては天然育ちだったが、いつの日からか理論や他分野音楽にも傾倒し、エレクトロミュージックにかぶれる。一周、二周、何周目かわからないが、いま、また天然育ちの気分になる。

それも一興かなと、やはり今日もアンプから歪んだ音を出力させ、立っていろんな曲を演奏して、あの頃の衝動を引き戻すような感覚になる。

さて夜更けだと思い、各機材を一旦オフにする。すると、膝にくたびれた痛みをちやや感じる。

こればかりはしょうがない。ここばかりは、あの頃のようにはいかない。当時はそんなこと考えもしなかった。ただ、ひたすらギターを毎日何時間も弾いていた。

しかし、あの頃から30年近く経っても同じような心境でギターを弾くことができるとは、やはり当時は考えもしていなかった。いろんな意味で、そこは天然のままでいいのかもしれない。
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さいきん過活動気味な一方で、従来より慢性的に睡眠が足りていない。つまり、なんかずっと眠いが覇気はあるという訳のわからないコンディションが続く。

これはいけないかなということで、明日はまるっとお休みにすることにした。「IKEA」の本棚を買って組み立てずにもう一週間は経つ。そいつを仕上げて本を並べ、仕事部屋をおしゃれにして読書でもして、そのへんプラプラして夜は立ち呑み屋で誰かに絡もうか。実にいい休日プランである。

体が資本。心の安らぎ必須。時間のゆとりを意図的にこしらえる。これ、長続きのコツ。そのように言い聞かせ、明日は「君、そんなことしている場合じゃなかろうも」というくら休んでやろうと思う。

「いやご心配には及びません。近頃は食い気味に色々やっていましたので」

「じゃあ3本まで許す。外での一人呑みは3本まで許す」

「帰宅してもう一声、倍プッシュであと3本呑んでいいでしょうか」

「すると君はソファで気絶寝するであろう」

「それは遺憾であります」

「好きにすればいいさ!」

生活指導担当の脳内人格個別者はそのように律するであろう。しかし明日は、好きにする。そういう日が、必要なのである。というか主観的にはそこまで多忙というわけではない気がするが、そのへんの尺度は人それぞれであろうか。
_08/22

 

 

 

 


心療内科のロビーには外国人が居た。彼は受付からファミリーネームで呼ばれ、診察室に入った。俺は背もたれして座り、ショートショートの本を読んでいた。暫くすると別の患者が呼ばれた。戦慄した。

「さっきの外国人がまだ入ってるのに他人と一緒に診察? 何事? セッションすんの?」と。

ふと左に目をやると、外国人が静かに座っていた。とっくに彼は退室し、次の患者が入るという自然な流れであることを認知した。ただ、俺が本に夢中で気づかなかっただけであった。

数分し、「平吉さ〜ん!」「は〜い」と、俺の番になったのでノックを三回して入室した。

「どうですか。平吉さん」

「はい。先月より……変な風にはなっていません。元気であります。夏らしく」

「そうですか(ニコニコ)」

主治医は一貫して、第一声は「どうですか。平吉さん」である。ただ、その決まり文句を発するまでに、ワンクッションの無言時間が必ず数秒ある。おそらく、患者の方から何かを言う隙間を意図的においておくという、医師ならではのやりかたではないかと憶測した。

「いい感じにやっているんですね?」

「ええ先生。やること多いというか、体と頭はずっと疲れておりますが、こと、メンタル面は別に、という感じであります。ただ……」

「なんでしょう?」

「やはりあの、変な感覚は完全には消えておらず、いつも根底に残っているんです」

「はあ」

「それで、なにかイレギュラーなことが起きるたびに『またあいつがきた!』というような不安や恐怖にも似た、言い表すのがとても難しい感覚があり、消えないのです」

先生はマスクを顎下にずらし、40代後半にしては綺麗なアゴ元を見せて笑顔で仰った。

「その感覚ってどういうものなんです?」

神経症、不安症、パニック発作、予期不安、抑うつ気分、統合失調症、せん妄、自閉症スペクトラムやADHD――などなど、もちろん先生はプロだから、各症状の特徴は把握しているはずである。しかし、今日はとても抽象的かつストレートに俺に聞いてきた。

「はあ、たとえばですが、さっきロビーで」

外国人が出てきたことに気がつかなかったくだりを説明した。そして、その際に「俺はやはりおかしいのでは?」という病的寄りな不安を感じたことを説明した。

「なるほど。待っているあいだに読書をしていてと」

「ええ。それでというか、まあ、過度に集中していただけなのでしょうが、そういう些細なイレギュラーな認知を変に疑う『クセ』みたいなのがついて、消えないんです」

「平吉さん」

「はい」

「そういう“認知”というのは、平吉さんの特性であって、それとどう上手く付き合っていくかという課題なのだと思います」

「先生、とても腑に落ちる言葉です。“それとどう上手く付き合っていくかという課題”というのは」

「平吉さんの特徴なんですよ」

「確かに、そういうのは幼い時からあります。それが大人になってから『まずいのでは』という認知がプラスされた感じです」

「その『認知』というのはですね、いろんな場面で逐一感じる、思う、考えることを指します。生きていればあらゆる波があるじゃないですか?」

「はあ、先生のお師匠さんが訳した『認知療法』という本にもそんな文脈があったような……」

「だからその時々でどう『認知』するか、それをどう扱うかという点で、平吉さんは悩む方向にいく傾向があるのではないかと」

「とはいえ先生、最近いろんな本を読むんです。僕以外の人はどんなこと考えてるのかなと。それでたくさんの解釈や捉え方、提唱、観念などを知ると、人それぞれあって面白いなと感じるんです」

「いいことじゃあないですか」

「ですよね。その方向に舵が向いたのは、先生との対話の中にあったと思うんです」

「へえ(ニヤニヤ)」

「ここのところ何度も申し上げますが、心理学の本から派生して『認知療法』という書籍を読み、その内容について感じたことを先生とシェアしました」

「しましたね(あのときの平吉さん、ほんとしつこかった)」

「それで、それらの本やその分野の各書籍には、みんなソクラテスさんの名前が出てきたんです」

「ああ、確かにそうなりますね」

「ですよね。だからソクラテスさんの本を読もうとしたら、なんでも彼は当時、議論ばかりしていて執筆はしなかったそうなんです。だから、彼の弟子のプラトンさんの本を読みました」

「プラトンですか! 難しいですよあれは……!」

「難しかったです。それで今度はプラトンさんの弟子のアリストテレスさんの本を読みました」

「それも難しいですけどね(笑)」

「はい。まあ、僕なりに一つの捉え方として、こういう人たちはゼロベースで色々と考えていたのだな、くらいの理解には及びました」

「平吉さん、でしたらこういうお話ができます」

「はい!(そういうの待ってました!)」

「私がね、平吉さんに『こうするといいですよ』と、投薬ではない療法で、よい方に向かう『答え』を言うのは簡単なんです」

「ほほう!」

「しかし、私はそういうのは好ましく思っていません。まあ、診察の時間が限られていることもありますが――」

先生は、いつにもまして雄弁というか、半年くらい前あたりから、診察時において俺が深めの質問を投げかけるようになってから、やや学術的とも呼べる『対話』に発展することが定例となった。もしかしたら、先生は、それをわりと楽しんでいるのかもしれない。

「――ですから平吉さんに、『どうしてですか?』と、聞くんです」

「たしかに、さっき先生は『それってどういう感覚?』みたいに、すごくシンプルに聞いてきました」

「どうしてかというと、平吉さんがその名を挙げたので言えますが『ソクラテス問答法』がある種、源流にあるものなのです」

「なんと!」

「例えば平吉さんが今日、浮かない様子でここに来た。私は理由を聞きます。平吉さんが『人間関係で上手くいかなくて眠れなくて…』など、具体的なことを言ったとしましょう」

「はい、はい」

「そこで睡眠薬を処方するのは簡単です。その『上手くいかない場合の対処法』をアドバイスすることも簡単です」

「先生は医者ですからね!」

「しかし、そうではなく、『ソクラテス問答法』を活用というかその流れで言うと、理由を掘り探るんです」

「対話ですね」

「そう。『どうしてそうなったんですか?』『その時どうあなたは感じますか?』『その場合どうしたらいいと思いますか?』という風に」

「んー。わかりました先生! 『当人に気づかせる』というわけですね?」

「そういうことにもなりますね」

俺は思った。いろんな本を読んだり学んだりして得た一つの結論と、先生の見解が合致したと。それは、カウンセリングや心因的な治療においては、「他者になんとかしてもらう」のではなく、「自分で気づいて改めることにより、自分自身のバージョンアップを促す」という点である。

「そうですか先生。僕はここ数ヶ月、どうしちゃったのかなというくらい本ばかり読んでいるんです」

「いいと思いますよ」

「それであらゆる人の考えを取捨選択して、自分がどうあれば自分らしくいられるのかということを心で実践している感覚があるんです」

「そうですか」

先生は、もう結論は出ていると言わんばかりの紳士的笑顔で「どうしてそうなったんですか?」と、ソクラテス問答はしなかった。しても、いい意味で別に効果がないと判断したのであろうか。

「先生、読書ってメンタルにいいですかね?」

「はい。平吉さんがそれで心地いいならいいんじゃないですか? 知識もつくし、勉強にもなりますし」

あくまで、先生はずっと俺目線を基軸として言葉を発していた。そして、“心理学は専攻ではありませんが”と、以前に言ったが、言葉の節々や、結論までのスピードを鑑みると、どう考えても先生は心理学にも哲学にも精通している精神科医だ。

「じゃあ平吉さんね、次回なんですけど――」

締めくくりの言葉も、毎回必ず一緒の言い回しである。しかし、今日は明らかにその声のトーンが嬉しそう、明瞭、声量が顕著に大きかった――いろんな要素があるが、いつもよりなんかポジティブな意味で違った。

“それとどう上手く付き合っていくかという課題”と、先生は「俺の症状をどうすればいいか」を言い表した。それが、爽快だった。

なぜかと言うと、“それ”は、「症状」や「疾患」ではなく、“俺の特性”と捉えてくれたからである。

確かに、“それ”は常に俺の深いところにあり、たまに表に出てはよい効果を表したり、暴れたり、静かにいじけたり、病的な側面をみせたりする。

だから、解離せずにうまく統合し、“付き合っていく”という課題として示したのである。

精神科・心療内科の診療明細書の区分には「精神科専門治療」というのがあり、その内訳には「通院精神治療(30分未満)」というのがある。先生が仰る“限られた時間”の具体的な内容である。

しかし俺は、近頃はいつも質問をしては対話に発展し、どう考えても30分以上はお話をさせていただいている。

“じゃあ平吉さんね、次回なんですけど――”と、いつも必ずブツ切りで話を終了にもっていく理由は、時間制限があるためであろう。それさえなければ、俺は先生といくらでも話ができる。したい。

今日は“ソクラテス問答法”が飛び出た。それは、ポップに扱えば、潤滑なコミュニケーションにも応用できるし、インタビュアーのテクニックとしても有効である。俺は、その源流を知らずにそれを、シチュエーションによっては自然と行なっていたことにも気づかされた。

先生が仰る、“それとどう上手く付き合っていくかという課題”。

俺の場合は音楽面全般だったり、文章を書くことだったり、人と話す時だったり、創作する時だったり、その課題を含みつつあらゆるシーンで向き合っている。そのように、気づかされた。

人それぞれ、そういうのがあろうとも、他者目線でも考えた。そして、まずは俺が“それ”を、いま、ここからどうするかという点が最も重要だと結論づけた。答えは、シンプルだった。

なにせ、“それ”を、キツ目の薬などで抑えることができることは知っているが、その方法によって、“それ”がなくなってしまうと、“自分らしさ”も同時にどこかに隠れてしまうことを本能的に感じている。個人的には、それは人生においての最たる不本意である。

だから、どう上手く付き合っていくか。それを一人でやるのではなく、助走するように居てくれるのが本当の意味での医師ではないのかと思った。こと、精神科や心理カウンセラーなどにおいては。答えを出して、そうさせるのは簡単だが、それは本流ではないという先生の中にある軸。

つまり、症状が酷すぎて「まずは薬が必要だ」というケースは治療の前提としてあるが、回復から「自立」に向かうのは、自分自身で行うべきであるということの片鱗を、先生は今日楽しそうにお話してくれた。

今日はお休みの日と昨日決意した。日中は本棚を組み立てたり、診察を受けたり、新たに本を買ったり、昼寝をしたり、ギターを弾いたりしていた。PCのメールを確認したのは22時過ぎである。これを休日としてなんと呼ぼう。

新たに設置した本棚に、ここ数ヶ月で読んだ本を並べた。これらが、“それとどう上手く付き合っていくかという課題”に取り組んでいる成果の一因だと解釈し、そこを信じ切れるあたり、快活な気分になる。

こういった気分にさせてくれるのは、自発的な行動は主軸にあるも、先人や現代の方々が執筆された著書を読んだり、助走してくれる様々な人がいるからであると、みんな支え合って生きているのだなと根本的なことを認知する。

「あなたはあなたらしくいてください。その際、もちろんたくさんの課題がありますよ」というニュアンスを、精神科医に諭された。

対話という療法は、論駁や論破の真逆の性質が混じる。すぐ答えを導き出すという効率を超越した愛を含む気がしてならない。なんなら、療法ではなく、対話という概念そのものがそうなのかもしれない。

「先生、俺のこの一連の解釈間違ってないですよね?」という懸念が全くないわけではないが、それならそれでまた対話を通じて次の課題に取り組めばいい。先生いつもありがとうございます。
_08/23

 

 

 

 


仕事部屋で楽曲制作をする。ずっとする。今日はこのタスク一点に集中する。食い物を買いに行く以外、外出をしていない。

そういう日もいいものだと、ストック収益の種をつくるべしと、ちゃくちゃくとトラック録音および打ち込みをする。

途中、SE効果的に本のページをめくる音が欲しかったので、コンデンサーマイクを立てる。ヘッドフォンをする。左耳から聞こえない。

おかしいなと思い、プラグを磨いたり、インターフェースではなくシンセサイザー直結で試すも同様。つまり壊れた。

SONY製の「MDR-CD900ST」。レコーディングの定番ヘッドフォンである。25歳くらいの時に、当時の金銭感覚では「高いな」と思ったが、「プロも使ってる定番のやつだしな」と決し、エイっと購入したのである。

それから約20年も経てばそれは不具合も出るかと、さほど落ち込まず。とりあえず紙めくる音とハンドクラップを録音し、色々整えて楽曲全体像がほぼ出来てくる。

うんよかったとは思えど、また修理かとネットで調べる。費用はだいたい6,000円くらいかかるもよう。本体は現在の価格だと15,800円。この価格の差と経年劣化を照らし合わせると、同じやつもう一個買ったほうがいいのではと悩む。

それにしても、アイフォーンを機種変更したり、ギターを買ったりリペアに出したり、本を買いまくったり本棚を買ったり、今度はヘッドフォンかと、今年の出費のエグさを直視する。

機材関連は経費となるのでそれはそれでと思うが、かなり金を使っている。とはいえ、使ったぶんだけその道具で仕事をし、制作をし、本を読んで知識や見解を広め、前進する。そう考えると、むしろ金を使ったほうがいい。

知り合いの占い師に「平吉さんの場合、お金は使ってもそのぶん入ってくるから大丈夫です」と、笑みと共に言われた。いまのところ、確かにそういうところあるからいいかなと思考を善処する。

頑張るためにお金を使ってはりきって仕事して、お金を得る。なんだシンプルじゃないかと思うが本当に大丈夫だろうか。いや、やることやっていれば問題ない。そこは間違いないと、そう俺は前向きに考えた。
_08/24

 

 

 

 


おととい買った本を読み進める。如実に面白くて、歩きスマホならぬ歩き読みするほどの魅力に満ちている。止まって読んだほうがいい。

この本の内容は、アートと脳の関連性について書かれているもよう。タイトルは、まんま『アート脳』である。まだ半分も読んでいないが。

アート面でも他にもあらゆる分野において、よく、「インプット」は「アウトプットをすることを前提にすると身につきやすい」という定説がある。

確かにそう。覚えていることなどを人に教えたり、学習したことをレポートにまとめたりすると、長期記憶に定着する。

だが、手前が好きなのは、もう少し深くというかその中間。

「イン」と「アウト」の流れの際に、頭の中で解釈してどう自分なりの見識とするかという段階を楽しんだりすることが多い。

これは、「デフォルトモードネットワーク」という脳の神経回路が、活発に活動する状態においての思考を指すらしい。

具体的には、たとえば読書によって「内的思考」に集中しているとき。音楽を聴いて「これをどう自分なりに昇華させようか」など創造性な思考になるとき。

つまり、デフォルトモードネットワークは「意識が安静時や内向きになったときに活動が増加する」という神経回路である。

アートなどに触れて感銘を受けたりすると、そこが活性化して創造性が高まり、「イン」と「アウト」がスムーズになるという利点があると俺は捉えられた。

一方で、これは車で例えたらアイドリングのような状態でもあるので、脳内がデフォルトモードネットワーク状態のままだとシンプルに疲れる。

余計な思考のノイズがぐるぐる回り続け、「考えすぎの疲労」を引き起こすという側面もあるという。これは瞑想などでおさめる方法が有効とされている。

手前はこの概念の負の要素しか今まで知らなかった。デフォルトモードネットワークのまま、つまり内省的に考えすぎておかしくなりそうになる、ぐは、というのを日常的によく体験するからである。

だが今日は、こと創造性においてのよい効果もあるのだと改めて見直した。「むしろ感性や見識を養う、めちゃめちゃ大事なやつ」ではないかと。

しかし、その状態であり過ぎると脳がオーバーヒートしかねない。なんでもデフォルトモードネットワークは、脳の総エネルギーの8割近くを消費するときもあるらしいからである。

ほどほどがいちばん。それで疲れたらゆっくり深呼吸、瞑想、いや、酒だ。一番手っ取り早いのは酒である。デフォルトモードネットワークを鎮めるために酒を呑む。それがいいそうしよう。

缶酒が冷蔵庫で「これ、何待ちっすか?」と、今か今かと開缶を控えている。そうだ、脳の休息のために酒を呑もう。

どうもそのへんについて、得た知識がプラマイゼロになる気がしてならないがどうなんだろう。この現象には名前ついてないのかな。
_08/25

 

 

 

 


仕事をしていて瞼がピクピク痙攣するほど眠くなる。それは仕方ないと、ひとつやりおおして少し寝る。

起きて新たに案件を1つ受注する。すぐに着手して資料をSSDに格納し、バックアップもとる。

楽器練習をして、これまで学んできたあらゆる楽曲の細部をいまの感性で見直す。すると、案外聴こえていなかったなという様々な点を確認し直しては、音楽力向上に努める。

友人たちから呑みの誘いがあったが、やんわり断った。行きたいが、手元にある案件を優先した。

あらかじめ予定の打診がある場合はその限りではないが、当日付けの場合は、あまり「おん! 行く!」とはならない。

その気持ちの源泉は、いろいろ後ろ倒しになり、制作やらの時間が確保できなくなるのを回避するためである。

気がつけば、コロナだなんだと騒ぎ始める前から5年が経つ。その間、本当にいろいろなことがあった。

そうなると、ここから5年間、やっぱりいろいろあると仮定する。その密度を深めたい。だから、遊ぶ時は遊ぶが、とりあえず目の前にある課題を最優先して集中するべきだというスタンスになる。

5年後、手前は何をしているのか想像がつかない。なぜならば、5年前に想像していたいまは、「そうなるんだ!」という現状だからである。よくない意味ではなく。

だから5年後、「そうなったんだ!」という驚きを伴うような未来であってほしい。そのために、いまやれることにすぐ取り掛かり、常に余白を持ち、斬新さも伴う次なる一手に踏み出すべく邁進したい。

とはいえ5年後は「来年50歳か〜」という時期である。そう考えると、時間の流れはグニャっとした恐怖をも孕む。

歳をとるのが怖いわけではないが、“ただ、いっさいは過ぎていきます。”という、人間の全要素がえぐられるようなフレーズを俺は体現したくない。だから、いま何するべきかと常に考える。

真面目風なことを言うもハイボールを呑みながらというあたり、根本的に俺は矛盾しているのかもしれない。しかし、それをどう昇華させるかという思考を根付かせている前提の暮らしも、決してわるくはない気がする。
_08/26

 

 

 

 


仕事部屋でほぼ過ごす。めしだってキッチンで食べる。誰とも話さずコツコツ作業。

昨日の案件を進め、また瞼が痙攣してきたので転がって休む。20分。起きて続行し、小一時間ほどYouTubeを観る。投資家のテスタさんにフォーカスを当てたやつであった。

彼は資産100億円という想像もつかない世界で暮らしている。なんてこったと口を開け、頭皮マッサージをしながら思った。

テスタさんは本名・年齢非公開のようだが、どうも同い年の気がしてならない。なのにこの資産の差はどうしたと頭を揉む。それは努力の差だろうと素直に感服する。俺は俺でと、制作をする。

いま作っている楽曲は、現時点で、全パート入ってるとも判断できる。ともあれ、「大人びたギタートラックがあったらどうだろう」というブラッシュアップ案が出たので、漢のストラトキャスターを初めてアンプ以外、つまり録音機材に通して鳴らす。

ラグランジュ(Bogner La Grange)という歪むエフェクター。NEVE系のプリアンプ。名器と断じているドイツ製のコンプレッサー。DAW上のアンプシミュレーター(Neural DSP)。これらでサウンドメイクする。なんという説得力のある音だと惚れ惚れする。

シンプルに聴こえるが相当凝った和音進行の上で、座ってギターパートを弾きながら考える。このギターを買ってから座ってしっかり弾くのは初めてである。

なぜならば四十肩起因で、着座演奏時の肩の可動域が狭まっているからであった。しかし、いまはかなりよくなったので、ちょっと痛いが普通に弾ける。

「これを土台にすれば」というスケッチがとれたのでDAWを閉じる。風呂場に湯を沸かす。四十肩に追い込みをかけるべく。

100億円とは言わないが、自分らしく生きて行くに必要な収益を稼ぎつつ、やったぶんだけ誰かに貢献できればいいなという思念を胸に、今日もやることやって日が閉じた0時1分。過ぎた一日に感謝する。また来てくれる今日に対しても。
_08/27

 

 

 

 


どえらい台風がくるという。自他の生活に支障をきたすので、きてほしくはない。だが律儀に、定期的にやってくる。

なんでくるのかと考えた。気象学的なことは完全に無視して考えた。そこは学者さんと気象庁のスパコン(スーパーコンピュータ「富岳」)にでも任せておけばいいと。

台風がくると「えらいことだ」と皆、避難する。俺もする。そして過ぎ去ると空気が変わる。季節の巡りを感じる。ある種の、自然の代謝のようにも捉えられる。

逆を言うと、嵐が来ないと劇的には変わらない。すなわち、変化を及ぼすために台風が来るのではないかと考えた。

それは自然の摂理であり、人間にも適応される現象だと思う。「急にどうした」という、嵐にも似た態度や思考、行動をみせると、そいつは嵐が静まったのち、何かが変わっている。その嵐の規模に比例して、だいたいはよい方面に。

そうなると、台風はいやだが、地球および全生命体規模で、必要なアクションなのではないかと思案が整う。理由はもちろん「変わるため」である。

だからかどうかはわからないが、俺は台風がくるぞとなると、わりとワクワクする。

2019年の秋に発生した巨大な台風は関東圏をモロに直撃し、窓を閉め切っても轟音が鳴り響いていた。

だが当時、「これはいい」と思い、その台風の自然由来ノイズが入りまくる室内でコンデンサーマイクを立て、アコースティックギターを録音した。「Estazolam」と名付けた楽曲に、そのまま収録した。よーく聴くと、その嵐の音が混入している。それがなんかよかった。

それはさておき、とにかく、嵐は次なる未来への変化を及ぼす象徴とも思える。

とはいえ、完全に日本列島をピンポイントで狙いに来てるとしか思えない今回の台風10号に関しては、被害が最小限であることを祈るばかり。いいほうに考えている場合ではないのは明白。

だが、ふと、嵐という現象に関して、大いなる変化・転換との相関関係が頭を馳せる。そんなこと思えるほど、巨大台風が来ても暮らしができる現代のインフラストラクチャー(この場合、社会的基盤・設備)の屈強さに、まずは感謝すべきである。

なんならそこと被害の心配だけを考えるべきであろうが、なんとなくいま、そう感じた。急に進路を変えて、無かったことになってほしいと思うべきなのであろうが。
_08/28

 

 

 

 

 


終日フル回転で仕事をしているつもりだがドンと資産が増えない。なんか今日は金のことをよく考えていた。

「時間は金で買える」

「幸福は金では買えない」

「金はより広い世界に行くための鍵」

「給料は麻薬」

「金に困るとIQが低下する」

「なにをするにも金は要る」

さまざまな、金にまつわるフレーズがある。金とは、それほど汎用性のある観念なのだろうか。

金があるにこしたことはないが、無さすぎても、有りすぎても、なにかが崩れる引き金になりかねない気がする。

特筆して、金銭にまつわるなんらかのきっかけがあったという日ではない。しかし、一律して金が存在しない世界があるとしたら、それはどれだけ幸せな場所なのかなと想像だけする。

価値や競争、階級や嫉みもない世界。それはそれで刺激がないという観点で、面白くはないかもしれない。

だが、とどのつまり、みんなそこに行き着いて、行ったり来たり右往左往。

そういう構造の籠の中でおちょくられてるのかなという気がする。なんかそういう気がする。

そんなことは、人何倍も稼いでからでないと、なんの説得力もないようなきらいがあるも、だいたいそんな気がする。
_08/29

 

 

 

 


起きたら14時間くらい寝ていた事実に驚く。そんだけ睡眠をとると、人相もなんか変わるんだなと鏡を見て思う。平仮名の「は」みたいな顔をした奴がそこにいた。

今日明日で仕上げようという段取りだった案件を一気にやりおおす。疲れる。しかしそのぶん、明日の時間が稼げたと心持ちを善処する。

野菜や豆を中心とした食事を摂り、健やかな体であり続けたいと、壮年期のいまを大切に扱う。

静かに過ぎる夏の終盤。俺はあと何年生きられるのだろうと思うと、家族がいないとまずいのではと、至極当然のことを見つめ直す。

44歳独身。年収はなんぼで、こういった生業で、身長は173cm。見た目はこのようなほっそい容貌で趣味は散歩。長所は思慮深さで短所は依存症気質と無計画さ。伴侶に求める要望は、互いを尊重する気持ちと対等な関係性。

結婚成就活動、略して婚活においてのプロフィール的な草案はこういったものだろうか。どうもパンチがない。

他者やあらゆる事象を観察したり分析したりするのは好きだし、そこはわりと長けているという自負はあるも、こと手前のことになるとよくわからない。俯瞰しきれない。

そういうことをいちいち考えているから、愛の課題においての第一歩を踏み切れないのである。

「すいません、もう辛抱たまらないのでセックスをしてください」

「キモい」

「じゃあ、せめて抱きついていいでしょうか?」

「キモいって」

「すいませんでした。せめて、30分ほどカッフェでおいしいストレート・コーヒーでも飲みながらお話しをしませんか? 『苺カチ盛りドラ焼き』という、たいへんユニークな品が売りの喫茶店がありまして」

「まあそれなら。キモいけどとりあえず話だけなら。ドラ焼きちょっと気になるし……」

こういった「絶対無理なハードル」から「徐々にハードルを下げて、本来の目的に対し『Yes』と言わせる」という、心理的常套手段を駆使し、まずは懇意の女性にアプローチすることからだろうか。

なんだかそういうことする時間があったら曲でも作っていた方が楽しいし有意義だと思う。違う。そこをきちんと分離できていないあたりがおかしいのである。

やはり手強い愛の課題。正直、どこから手をつけていいかわからない。そそるドラ焼きが人気の店を探すところからであろうか。絶対に違う。
_08/30

 

 

 

 


長いこと入店を見逃していた、自宅から徒歩10分程度に位置するクラシックな蕎麦屋で「せいろ」の大盛りを食べる。

配膳されて、まずときめく。それは、単品なのに、わさびとネギの薬味に加え大根おろしとウズラの生卵が添えられていているという、プラスアルファのほっこり要素が予想外だったからである。すごくおいしい。

食後、帰ろうと思ったら外は大雨に移り変わっていた。これは参ったと、やや気まずいが本を読んで雨宿りをさせていただく。

「あら、雨ねえ」と、お店の老婆の方は言う。「ええ…ちょっといいですかね?」と、俺は恐縮する。「ウチのボロ傘でよかったら(笑)」と、優しさを投げかけられる。「ありがとうございます。もう少しで止む予報なので……いいですかね?」と言うと、「どうぞどうぞ……!」と、長居の許可をいただく。

なんだか、このニュアンスといい雰囲気といい人当たりといい、泣く泣く閉店となった西川口の純喫茶『アルマンド』を思い出した。全体的に、本質的な部分が似ていたのである。

一服のハートウォーミングなひとときを経て、宅で制作をする。とても高価いストラトで数トラック録音する。驚きのサウンドの質とノイズのなさに嬉しさを禁じ得ない。

一通り納得のいくまでアレンジができてレコーディングもできた。軽く全体のバランスをとる。「絶対に、少なくとも、いまの時点では、決してAIにはつくれない曲だ」と、断言できる楽曲の空気感と断じることができる。

ギタートラックが主の楽曲ではないが、こんなにも生演奏を多めに入れると、明らかな生命力が生じるのだなと、音楽の魅力を改めて感じる。

ここ連日、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「Eddie」という楽曲を聴き続けている。この楽曲には、2020年10月6日に惜しまれつつ亡くなった、エディ・ヴァン・ヘイレンさんへの想いが込められているという。

そう遠くない先日、レッチリの東京ドーム公演で「Eddie」の生演奏を観た。確かに、ギタリストのジョン・フルシアンテさんは、ギターソロにおいて、エディさんが確立した「ライトハンド奏法」を少し取り入れ、情念あふれんばかりのプレイでオーディエンスを魅了した。

「Eddie」のレコーディング音源を聴いても、その凄さは伝わってくる。連日、繰り返し聴いているのに、「かっこいいな。よし、コピーして弾いてみよう」という気にはならない。凄すぎてコピれる気がしないからである。

この、ジョン・フルシアンテさんのギターソロの「上辺をなぞる」ことはできるかもしれないが、「彼の想いも込みのプレイ」には及ばない。できないというあきらめではなく、ギタリストとしての系譜を鑑みたリスペクト。イントロのフレーズあたりはおさえておきたいが。

結局のところ、ギターにしてもいろんな楽器にしても歌にしても、その人の心や情念や魂の繋がりなどが、感動や美的感覚や幸福感を生むのだなと、そうナチュラルに感じた。

蕎麦屋でのひとときでも、手前の曲作りや演奏・録音でも、ライブ観戦でも、夜な夜な聴く音楽にしても。

人間の想いは、それがどんな方面のどれくらいの濃度であっても、なんらかのかたちとして誰かとの繋がりとなるあたり、動けること、生きることとは、とても尊いなと思える夏の終日。
_08/31

 

 

 

 


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