ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
スピリチュアルにすがりつく。9月。
先月はなにかとさんざんであった。月が変わればきっといきなり良いことだらけであろうと期待に胸膨らませ一日を過ごす。別に何もない。原因がなければ結果など起きんと、根本的なことを考える秋の入り口。
_09/01
宅で一日過ごす。湿度が高くて散歩に行く気にならない。採譜などをする。あまりにもどんよりとした日。
_09/02
酒も呑まずにスピリチュアルな本を寝床で読んでいたら、当然のようにスピリチュアルな夢をみる。やっとあえた伴侶と憩い、もう現世に帰ってこないというくらいな心境のところで夢が落ち、最高にダウナーな気分で目覚める。
普通に仕事をする。最近仕事がさほど忙しくない。これはまずい。営業をする時期だろうか。しかし手前の何を営業すれば喜ばれるのだろう。どうも先月頭あたりから急に迷走しだした感が否めない。何かスピリチュアルな仕事がしたい。いや違う。
_09/03
Jan and Naomi を聴いていたら当然のようにJan and Naomi が夢に出てくる。最近、夢と現実の無意味なシンクロ感がおかしい。
何故か俺を叱りながら強かに家賃を請求してくるという恐ろしい内容だった。もちろんJan and Naomi の2人にお会いしたことはないし、彼らに物件を借りている訳でもない。とりあえずここ最近聴いた中で、Jan and Naomi の音楽が一番素敵だと思う。
最近のモヤモヤドロっとした感じが晴れてきた良い気分の一日。台風と共に飛んで行くのだろうか。そうあって欲しい。
_09/04
立ち飲み屋にでも行こうか、キャッチのお兄さん方もやる気が失せてきた夜中の時間帯、フラフラと赤羽の街でやさぐれようか、と思う。
特にインナーに耽りたい訳でもないし、ただ何となしにフラフラしたいのは、秋っぽい空気に入れ替わって叙情的なテンションが高くなっただけであると判断する。
ここ最近の調子の悪さは、空気が少しカラッとしたからか急激に絶好調へと翻った。ちょっとした躁転である。なにかワクワクすることをしこたましたいが、いつも通り仕事をして一日を完走した。
しかし変なワクワク感は褪せず、このまま睡眠につける気が全くしない。そこで酒である。もうなんというか、「結論、酒」という思考はいかがなものかと思う。
ここのところ読んだいくつかのスピリチュアル本の内容で共通していることに、「神様は酒が好き」という、希望に満ちた、罪が払拭されるような、自己を遠慮なく肯定できるような記述があり、俺はそれを見逃さなかった。
神様とサシで呑んだとしよう。何を話そう。俗な話で盛り上がるような存在ではないであろうが。
「神様、現世にはセックスというたいへん固執される行為がありまして」
「知っとる。あれはクセになる。だが収まる」
「神様、現世にはネコというたいへん可愛らしいやつがいまして」
「知っとる。あれは神みたいなもんだ」
「神様よ、現世では煙草がとうとう絶滅しそうでね」
「知っとる。そっちで吸えなくなっても、こっちにくればいくらでも吸える」
「ヒック。神様さんよ、あなたの存在意義はなんなのかね? え?」
「酒だ。結論、酒なんだよ」
「気が合いますね」
「乾杯。いいか、特別な日以外は2杯までだ」
俺は神の公認の結論を頂いた。だからこそ、たまに呑まない日をつくるし、呑み過ぎないようにするし、アル中や各種依存症・精神疾患の知識収集はもはやライフワークだ。2本、酒を買いに行こう。
_09/05
なんだか仕事が少なくなってきたような、と思っていたが、とととっと案件が来て安心する。本当に、先月の天中殺のような時期は何だったのであろう。何事にも感謝をして、頑張ろうと思う。
_09/06
レッスンに行き、戻ってデスクワークをしてソファで寝る。Massive Attack をまあまあでかい音量でかけながら寝る。わりと大音量でも静かな音楽と感じるからマッシヴは凄いなと思う。
マッシヴのライブをサマーソニックで観たのはもう13年前である。つい去年のようにも感じる。恐ろしい。13年間で俺は何が変わったのかと考える。まず、圧倒的にイライラしなくなった。20代の頃は何であんなに怒り心頭な気分に苛まれていたのだろう。
それとも、歳をとって、怒りのエネルギーが枯渇してきたのだろうか。それは悲し過ぎる。あるいは、酒で頭がバカになったのだろうか。そんなには呑んでいない。
おだやかな気分をキープできるのは平和的で素晴らしいと思うが、いちいち舌打ちをしてはこの野郎という気分に瞬発的に至るエネルギーも捨て難い。湯水のように湧いてくるあの怒りのエネルギーは何だったのだろう。どこへ行ったのだろう。
怒りを纏う音楽を聴くことも少なくなった。しかし、今日も聴いていて感じたが、Massive Attackは静かだが怒りも含んでいるようなエネルギーを発していてとても心地良い。しびれる。
_09/07
怒りというか湿度が高くて辛抱たまらずイライラする。何の生産性もない怒りに、自分はまだ俗物だなとしょげる。俗物の対義語は何だろう。俺はそれになってみたい欲がある。俗物以外は死のような気もする。仏とかそういった類いだろうか。合掌。
_09/08
イライラし過ぎなのかニキビまで出てくる。どうも、精神衛生バランスがよろしくない気がしてならない。旅に出てリフレッシュすべきである。いつもと全然違うことをしばらくして何かに気付くべきなのだろう。
_09/09
枯れたような心境で過ごす雨の一日。こういう日もある。できる限り、休む。ソファで寝る。仕事もやる。何と言うか心の栄養的なものが不足していると感じる。
俺にとっての心の栄養とは何だろう。無条件に楽しめ、誰にも気を遣わず、仕事に通じる思考が働かず、ただただ、リラックスできるものである。じゃあ散歩とマンガだろう。
散歩日和ではないのでマンガを買いに行く。どこに行っても見つからないスティーブ・ジョブズの自伝マンガ3巻以降がこのタイミングで棚に並んでいるのを見つける。しっぽを振って買う。
それはそれで、心の栄養について今一度考える。他人は、何を心の栄養としているのだろう。ふと気付いたが、俺にとっては「それ」を作る、やる、という行為が一番ほっこりである。しかし、なかなかそれは難しいものでもある。
それが、なかなか最近は上手くいってないきらいがあるので、どこかしょんぼりとしている気がした。今日あたりはマンガを読んで、栄養を摂って、日々それを頑張ろうと改めて思った。
_09/10
これはたまらんというくらい熟睡できて張り切る。仕事で五反田へ行って帰ってきて赤羽でめしを食う。
様式美な感じの教会が近所にある。俺的にそこはパワースポットで、何故か何かが回復する感じがある。教会のシステムはいまいちわからないのだが、解放しているようなので中に入ってみる。
ステンドグラス越しに綺麗な光がたまる構内、なつかしい匂いがする。たぶん並んでいる木の机の匂いだ。聖書的なものが250円で売っている。ちょっと読んでみたが、あまり読解できなかった。一人、女性が座って祈っている。後ろの方に座って憩ってみると、やはり心地良い。
しばらくすると神の声でも聴こえてくれば入信なりするのだろうが、うっすらとシンフォニックな音楽が聴こえてきたようなしないような、うとうと寝る。気が付くと1時間経っている。
やはりここは、認識できない何かがあるような。やっぱ神だろうか。あるいは、信じる者が集まる綺麗めな気が溜まっているのだろうか。どっちかわからないが、教会で居眠りは何だか失礼にあたる気がするので帰る。涼しくて清い空気の一日。
_09/11
教会で昼寝したせいか、妙にスピリチュアルな夢を見る。親父と2人で車でドライブする夢だ。レッドブルを飲んで張り切ってドライブをしていた。運転は、親父であった。
夢の中の父親は、働き盛りの元気な姿。今や、やけに清潔な病棟で係の方を困らせている現状を思うとなんだか切ない。
感傷的な空気が押し迫ってくる季節、選曲にも影響が出てくる。シャッフルで聴いて抽選されたのはオウテカのバキバキなセッションであったが、全くそんな気分ではない。ポーティス・ヘッドの3rdを頭からしっぽまで聴いてアンバーな世界に浸る。
めしの選択には影響はなかった。鴨せいろの大盛りを食う。しかし俺は気付いた。この店の鴨せいろの具は断じて鴨ではない。鴨の後味はこういったくどさとは無縁だ。決してこの肉は鴨ではない。これは鴨もどきの何らかの肉である。俺は怒り心頭、「騙しやがって!」と店主に箸の先端を突きつけた。
そんなはずもなく、鴨を鴨として認識できない頭のおかしい被害妄想所以であると判断し、電波野郎扱いされるようなクレームは発動させなかった。第一、蕎麦に失礼である。こってりした鴨もこの世には居るであろう。鴨のように、涼しい顔してちゃぷちゃぷと水面で過ごすような清い精神でありたい。
_09/12
俺は本来どんな仕事を死ぬまでやるべきか、という沼のような思考で一日中過ごすささくれた日。内容は何でもいいから、パーティーみたいなシーンで尻でも出して踊りたい気分である。
_09/13
真面目にギターレッスンをする。1に練習、2にアナリーゼ、そして創作と披露である。音楽とは奥深くて尊くてたまに辛いが楽しい。
「楽器は生き物」という説があるが、あれは真実だと思う。エレクトリック・ギターなど、物理的に音は鳴るわ、電気を通していくらでも増幅するわ、物質的に劣化もするわと、活動と摩擦と死を伴っている存在だ。ここに“意思”が加われば、完全に有機生物である。
しかし楽器そのものに意思は無い。だからミュージシャンが楽器を鳴らす。そして、楽器はミュージシャンを誘う。楽器は、どんな楽器でも、人を誘うような姿をしている。エレクトリック・ギターの「くびれ」のある形状は、女性の身体のラインをイメージして形どったという説もある。
俺は仕事部屋に、数本の弦楽器を置いている。しばらく弾いていなかった竿を久々に弾いてみると、「こんなにいい音がしたものか」という音で鳴ったりする。不思議である。「このフェンダージャガーはこういうサウンド」という固定認識こそあるのだが、実際は弾く度に少しづつサウンドの印象が違ったりする。生き物である。
そいつを買ったときのサウンドとはもう全く別モノである。当初、15年ほど前にそのギターでしっかりとレコーディングした音源があるのだが、聴いてみるとそのサウンドは現在のそのフェンダージャガーのサウンドと明らかに異なる。
明らかに、自分の記憶や気候、コンディション経由のブレではなく、楽器そのものが起因する変化に思える。絶対生きている。だから、「こんなクソみたいな音だったか?」という印象のときだってある。それは、体調でも悪いのであろう。そういうときは弦を変えても機材を変えても、ミックスでどう誤摩化しても無駄である。
今日は、仕事が終わってストラトキャスターを弾いたら、「おい、どうした」というくらい艶っぽい、ジミヘンばりのトーンで鳴っていた。こいつはそこまでグレードの高いギターではないのだが、絶好調であったのか、鳴りたくて仕方がなかったのか、そんなところであろう。
あらゆる楽器から、そういった印象を感受しているうちは、俺は幸福だと思った。そればかりは絶対に失いたくないものである。
_09/14
せっかくの秋なのに雨ばかりである。乾燥してヒヤっとしてくる秋の空気が好きなのにムシムシとする。早くキンモクセイが香ってほしい。今年こそは枝ごと仕入れて宅で香らそうと思う。
_09/15
アコギを弾いていたら宅の前の道に神輿が通る。たいへん覇気があって良いなと思うが大音量の生音で何もできん。上野に行く。たくさん話をして帰宅。そんなに呑んでいないのだが、何だかぼやっと不穏な気分がやってきてしんどくなる。寝ちまおう。
_09/16
一日中DAWの画面と過ごす。昼過ぎは原チャリで病院へ行き、父親の様子を見に行く。動き回ったら赤外線が察知してナースから声がかかるというシステムが設置してあった。まるでセコムである。
俺が認知症になったらどうして欲しいか考えてみた。ヤバめの精神病に罹ったらどうして欲しいか考えてみた。恐ろしいことしか思いつかない。
気が付けば9月も後半になっている。明日は何をしよう。明日は何をしているのだろう。とりあえず、早く、スカっと晴れた空の下で、手を引いてでもゆっくりと散歩がしたいものである。
_09/17
すっきり起きて仕事をして煙草を吸ってコーヒーを飲んで。普段通りの静かな日で何より。なんとなしのタイミングがいつもより良かったり、もの凄い集中豪雨に見舞われた帰路で目の前に傘が落ちているなど、ささやかにツイていた一日。このままバカヅキになって欲しいものである。
_09/18
屁がもれる程にやる気が出ない日であったが、きっとそれは死ぬ寸前に後悔すると奮い立ち、元気に仕事をする。
結局、誰かと何かをしてワクワクと爆発したいという想い一点だけが楽しく人生過ごせることだと、もう結論はそれしかないと思いながら、てきぱきと仕事をする。何ともカラ元気のような、よくわからない心境の一日であったが、2本ほど酒呑んで何かをリセットさせよう。
_09/19
何かはリセットされ、たいへん健やかでフレッシュな心境である。それは選曲にも鮮やかに反映され、シャッフル再生で引き当てた楽曲は「Race For The Prize」だ。
フレイミングリップスの美しい曲、しかもミックスがオルタナティブな、アルバムラストに収録されたバージョンの方である。
右からドラムが鳴ってて左からボーカルが聴こえるこのミックスの方が、俺はクッキリと音と情念が染み込んできて好きだ。
非主流、キワモノでサイケデリックな音楽性で突き進んでいた彼らは、その頃に何を思ってこんなにキャッチーな楽曲を書いたのだろう。
この楽曲をリリースしたとき、フロントマンのウェイン・コインは俺とほぼ同じくらいの年齢の頃である。こういった年齢のときに、こんなに美しくてフレッシュで、健やかだけど影のある楽曲を産み出すということに、なんだか勇気付けられる。
_09/20
久しぶりにバスに乗って仕事へ行く。雨で原チャリを飛ばすガッツはないが、体調はすこぶる良い。食い過ぎじゃないかという程に今日はめしをがつがつと食べる。
一日中弦楽器に触れている日で指先が少々痛くなる。これくらいでいいと思う。久しぶりにアイコスではない煙草を買って吸う。うまい。間もなく煙草の値段が上がるという。そろそろ禁煙にしようかという発想が湧かないのは、銭金ではなく中毒なのだという自負。
_09/21
書店で漫画コーナーを物色していて、「自分の好きそうな感じの作品はだいたい読んだな」という寂しい気持ちになることが多くなった。
新刊で好きな類いの作品を見つけて買えば良いのだが、それがなかなか難しい。誰か的確なレコメンをしてくれんかとため息が漏れる。
そこでふと思ったが、俺は映画をほとんど観ていない。過去の有名作品も話題の作品もほぼ観ていない。きっと音楽で言ったらまだビートルズもスティービーワンダーもカーペンターズもロクに聴いていないような状態である。「名作」と呼ばれる作品をほとんどチェックしていない。
仮に、先に挙げたミュージシャンの作品をほぼ聴いたことがない、しかし音楽は好きで感度も高い、という輩がいたらそれはもう羨ましい。今後何年かは音楽の感動と感銘と快感に飢えることはないのだから。
そう考えると、映画はおろか、ドラマもロクに観ていないし、小説もかじる程度しか読んでいない。そしてゲームなどは全くと言っていいほどプレイしてないし、アニメもエヴァンゲリオン以降はほぼ観ていない俺は、この先エンタメや芸術・文学系の感銘に飢えることはないだろうと思った。
そこで、何か映画やらの名作を片っ端から観てみようと思うのだが、「何から観ればよい」のかわからない。これは「ちょっと陰鬱なロックが好きなんだけど、何から聴けば良いのかわからない」という洋楽迷子の方のそれに似ている。
「まず、Radioheadだ。90年代の作品からチェックして、そのあと周辺のアーティストを漁るんだ」というような作品アドバイザーが居たらな、と思うがそれは怠慢である気もする。とりあえず人の破滅と希望を描いた作品が観たい。『トレインスポッティング』あたりから観るべきだろうか。
_09/22
チンピラ風のシャツを着て夜の赤羽を歩くと、いつもの2倍くらいの頻度で呼び込みのお兄さんが声をかけてくる。「お兄さんキャバクラお探しですね?」と、10回は言われた。「じゃあ、オッパイ?」とも7、8回は言われた。
しかし俺は立ち飲み屋でレバテキと焼酎をやりに行きたかったので全て断る。黒服さんスルーもだいぶ慣れてきた。もはや空気みたいなものである。
一品注文する毎に金を払うシステムのいつもの立ち飲み屋だが、本日は定休日ということでガッカリする。もう、どうしてもレバテキが食いたいのだが。レバテキばかりは家で作ることができないのである。
諦めきれず、通りすがりのサンドウィッチマン・伊達ちゃんみたいな黒服さんに訊いた。「レバテキとか食える店ないですか?」と。「この時間だとないね! じゃあオッパイ行きます? ね!」とのことだ。
何だかもう行ってみようかとちょっと思ったが、色々とかっぱがれそうな気がしたので西友でタコブツとワインを買って帰宅。もう俺の頭の中はレバテキとオッパイで訳がわからない。俺には現金を払ってオッパイをどうこうしようという発想は無いのである。わかってくれ、伊達ちゃん。
_09/23
メンタルヘルスマネジメントの資格を取ろうと思い、受験料を払う。II種とIII種を同時にいってみようと申し込むと12,000円ほどかかった。
もちろん取得するつもりで受けるが、落ちたら丸損な訳である。何と言うかけっこういい商売なのではないかと思ったりする。全国各地から何千・何万の受験生から一万円とか二万円をごっそりと。勉強して金まで失ったら「俺は一体何を」となるだろう。そうならんように丁寧に復習しておこう。
_09/24
はりきってデスクワークをしているところで、コーヒーカップに小さな虫か何かが飛び込んだ。俺が昨日買ってきておろしたてのネコ柄マグカップに、である。
いつだったか誰かに「あなたは物好きだ」と言われたことがある。そうなのかどうか自分ではわからないが「わからんことをしてみよう」欲は多分にある性分である。
そういった訳で、せっかくだから虫か何かごとコーヒーを飲んでみようかという衝動にかられた。しかし飲んだところで誰も得をしないし、美味しい訳があるまい。
だが、一生のうち、しなければわからない体験というものはある。それは、損得ではかれない。得られるものがあるとしたら、どういったインスピレーションが湧くのか、どういったエモーションがこみ上げるのか、そのへんであろう。
俺は「しなければわからない体験」をちょっとした常識心でスルーするのが嫌である。それだけの理由で、虫か何かを飲むのか、一体どういった了見だろうと、マジョリティは叫ぶであろう。
そんなことを考え、まだ判断を下していない刹那、俺は「いかがなものか」と眉をひそめながら無意識にコーヒーカップを口に向けていた。一瞬「やべえ」と思ったが、すでにコーヒーを口に含んで飲んでいた。あわてて口を離すと、虫か何かはまだコーヒーカップで浮いていた。
その瞬間の感情こそ、正直な自分の気持ちではなかろうか。あろうことか飲み損じた虫か何かを確認して、俺は安心した。「よかった、あやうく虫を食うところだった」と。それはそうだろう。自分は、興味本位で虫など決して食いたくないと、ようやく確信できたのである。みんなはこういうときどうしてるんだろう。
_09/25
ここ数年、9月が梅雨のような時期である。涼しくなって乾いた空気がキンモクセイの香りと共に流れ込んでくるのは、もう過去の季節となってしまったのだろうか。せつない。
_09/26
喉とか頭などがぼんやり痛く、素がラリっているようなヌルっとした心境のこれは風邪だ。どれくらい風邪かというと、仕事で出る際に手帳とアイコス本体を忘れるほどであった。これはもうあたたかくして寝ちまおう。
_09/27
文句無し秋の晴天 にたいへん気分は良く、台風前の貴重な良天候のありがたみを感じる。ギターレッスンや編曲作業をゴリゴリやって、やれやれとめしを食べに出かける。赤羽界隈の人たちは皆、良天候によりニコニコしているように見えた。
帰路、ふわりとキンモクセイの匂いがした。とうとうきた。鬱を鮮やかに呼び起こす秋の悪魔の香り。だが俺はこの匂いが最も好きなのでキンンモクセイの木が生えている場所をクンクンと探した。2秒くらいで見つかる。犬より素早い嗅ぎ分けである。
しかしそれは明らかに個人の所有地の敷地内、要するに一軒家の塀の内側から生えている。香りを持ち帰るために小枝をポキリと失敬すること、それは倫理的にためらった。
人間は、本当に好きなものを前にしては、決して自制が利かない生き物であると思う。どんな人間でも、欲望や目的に対してだけは、何よりも正直に行動するものである。
だが中年が他人さまの家の枝をこっそり折った瞬間に「コラ!」とカミナリ親父的な主に叱られるのはたいへん不格好であるし、シンプルに良くない行為である。
景色やビジュアル、音などを瞬時に取り込んで楽しめるツールはスマートフォンひとつで事足りる時代に、何故、好きな香りを気軽にレコードできないのであろう。
だが、「そのときのみの刹那的な感覚」というのは、キンモクセイの匂いのイメージとピッタリだから、俺はむしろベストな楽しみ方をしたと思う。
_09/28
せっかく咲いているキンモクセイもひと吹きで香りごと消えてなくなりそうな嵐が来る。来る前から残念でならない。
_09/29
風邪が完全にぶりかえし、屍のように過ごす。一日のほとんどを睡眠にあてる。台風だからちょうどいいかもしれない。風呂場でお湯をチャプチャプしていると安心する。
_09/30