09/2024

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。光パイセンに誓う。9


月初は楽曲の収益チェック。これが決まった額ではなく、あらゆる場でご使用いただけた分が入る、いわゆる「変数」なのでちょっとワクワクする。

ドキドキしながら確認したら、前回よりも多かった。純粋に嬉しみ、寝た。喜びを熟成させるために。

いや寝ている場合ではないと、ギターのフィンガーストレッチを少々行ない、着手中の制作楽曲のMIXをする。限界までクオリティを上げるべく、本意気で作る。

というか、俺にはササッと楽曲を仕上げるスキルがまだまだ足りていない。いつも執拗に詰めて、やたらめったら時間をかける。そこは前向きに俺なりの投資だと思っているが、どうなのだろう。「もっと早く仕上げられればな」というジレンマは皆無ではない。

ともあれ、それが数字で確認できるとやはり嬉しい。世間的に開けたところでもご使用くださっていること、そこからの収益化を実行してくださった、委託先の秀逸なプラットフォームへの多大なる感謝の意はあふれんばかりである。

そういったわけで、もっとたくさん、質のよい楽曲をつくることに尽力してしたいと、綺麗事ではなく本心からそう思った。

とにかく、一生懸命つくった楽曲たちが、どこかで流れてくれているということから得られる貢献感は、たまらなく良質な感情。
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興行案件の詳細がきたので練習をする。なんだか相変わらず眠いが、楽器演奏している時はそれをいっさい感じない。脳内でなにかおこっているのであろうか。

その片鱗を、こむつかしい用語でもって言語化できなくもないが、ギターを弾いていて夢中になれればそれでいいじゃないかと、10代のような心境になる。

今日は暑く、まだ台風のしっぽがぶらさがっているような気候であったが、どこか秋を感じた。また、季節が巡る。

「やれるうちにやれることをどんどんやらないとす〜ぐ死ぬぜ」と、蝉の亡骸を直視してそう思う。正直それは後付けだが、本当にそうだと、時間の流れの平等さと、きちんと直面する。

ゆっくり夜は休んで、明日がまたきてくれたらありがたみつつ、その日を全うしよう。いつからこんな出家直後のような思考回路になったのであろうか。

そう、人の脳神経回路は、死ぬ寸前まで、いつだって、常に変化することができる。そのように、いま読んでいる本に書いてあった。明日は何をどう、思うのだろうか。だが基本的に明日は誰にもわからない。

「Tomorrow never knows」というタイトルの曲をつくった人たち(ミスチルやビートルズ)は、どうなのだろうかと想像だけする。

“誰かの為に生きてみても”(Mr.Children)

“It is not living, it is not living:生きていない、それは生きていない”(The Beatles)

“心のまま僕はゆくのさ 誰も知る事のない明日へ”(Mr.Children)

“Of the beginning:初めの頃 ”(The Beatles)

恣意的に切り取って並べてみると文脈が。
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数年ぶりに、明らかな秋への転換を全器官で感じとる。昼過ぎ、散歩をする。なんの目的もなく、ただ歩くだけである。

北区赤羽台を回り道して抜け、既視感のない景色を眺めながら桐ケ丘に着く。緑がたくさん茂っている公園の長い道を、ゆっくり進む。

かつては巨大団地エリアだったが、いまは、居住者の高齢化が進むことを起因のひとつとして、工事が目立つ。どんどん旧公団物件がなくなっていく。

人っ気が本当にない。誰ともすれ違わない。なのに、かつては人が大勢いたことを示す施設などが目に付く。もう、誰にも使われていない。辺りは、湿った土と大木、植物、朽ちたベンチなど、地味としか表現できない環境。

“まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物”と呼ばれるトマソン。廃墟な自然。その空間で、ゆらゆらと歩くのがたまらなく心地よい。かつての喧騒といまの静寂との、時間を超越したコントラストは美術級だと結論付けて、帰る。

ひたすら楽器練習して、楽曲制作をする。チルな曲調。今日、沁み入った感覚を音像に落とし込む。

そろそろ完成するのが明瞭にわかるが、完成させ、いまのプロセスが終了してしまうのが少し寂しい。そういった妙な心持ちのなか、なんていい音楽だと自惚れながらつくり進める。

都会と自然と内省が交差し、なんだかそれらがうまい具合に自分に織り込まれたような、静かで、綺麗で、慎ましくもあった秋の序盤。
_09/03

 

 

 

 


ものすごい清涼な寝起きに秋の気候。そして日経平均大暴落再び。そういうコントラストはいらねえなと、普通に仕事する。暑くないからいつもより疲れない。

ギターもゴリゴリ弾く。そうだ、本番のようなテンションで弾くからススっとパートがものにならないのだと気づき、丁寧に練習する。だんだんよくなっていく。

なんだかんだでフル稼動しつつコツコツ日々を重ねる。来てくれる一日一日に感謝しつつ。
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昼から仕事をする。その後、東京都は中野区のセッションバーに行って遊ぶ。

ふははと演奏した後、席でビールを飲み続ける。

すると、確か初見の女性に「アベフトシに似てるって言われません?」と言われ、気をよくする。

「シャツの色でしょ」と、同行の仲間は言う。「確かにな」と、そこは冷静になる。

赤羽に帰り、立ち呑み屋へ向かう。途中、かつて“地獄”と真理を学んだ、近場の雀荘を経営していた社長を偶然見かける。

「――社長。お元気そうで。ひらよしです」

「おおおおお!」

両手小指の第一関節が無い顧客が常連だった修羅場の雀荘。現在は閉めているという一次情報を、経営者であった彼から得る。

「そうですか……社長。いまは閉め、現状はまた異なるそちらの業態を――」

「ええ! 平吉さんどはうです? そういや、おいくつでしたっけ?」

「44でございます」

「僕は55歳です――ははあ、そうですか。あれから色々あったんですね――でもね! ぜ〜んぜんいけますよ!」

「――そうですよ〜! いけるよ! これからだよぉー!(その場に居た、社長が雇う可愛らしいキャストさんが応援してくれる)」

『フライデー襲撃事件』後のビートたけしさん記者会見時くらい、ギラついた眼が顕著な社長の生命力は顕著であり、俺はなんか奮い立つ。

俺は、そうだよねと思い、その場を「社長、いっぱい稼いでそっちに遊びに行きますね!」と添え、「お待ちしております!」と言われる。そして、近場の立ち呑み屋で3杯呑んで帰り、いまに至る。
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ずいぶん呑んだものだと見事な二日酔いにみまわれつつ、近所のおばあちゃんの家に行く。コロナ禍の頃にやって失敗した事業の顧客である。この方だけ残り、月イチくらいのペースでお手伝いを依頼してくださる。

1時間ほどで数千円。おばあちゃんはいつも大感謝。いい仕事だと思うのだがなあと、伸ばしきれなかった事業の名残を感受する。

あとは興行の練習をしたり、足元のエフェクターボードを組んだり、スリッパ買いに行ったり、シラスパスタ食べたりしてほんのり暮らす。夜は、以前勤めていた会社の後輩と電話したりする。「相談相手」と思ってくれているのだったら嬉しいものである。

メンタルヘルスマネジメント、アドラー心理学、認知療法、海外の僧侶の教えや哲学など、「悩み」に対応できると思われる、俺なりに咀嚼した見識と俺の人生実体験をベースにして受け答えする。彼がどう思ったのかは、彼にしかわからないが、彼らしく、楽しく日々を生きてほしいなと切に願う。

俺もまた、自分らしく愛をもって踊るように人生を謳歌したい。そこに必要なのはあとなんだろうかと、毎日考えながら。こう、楽しく。
_09/06

 

 

 

 


仕事してちょっと仮眠して、あとはずっとギターを弾く。なんでも楽器演奏は、脳の神経回路が活性化して、結果、精神状態が健やかになるらしい。

それは弾いているとき、弾いた後は気持ちよくなるしなと、あまり深掘りしては考えず。弾いてるときは音に没頭し、そういった知識を得るときは読書に集中する。

加えて、そもそも人間の脳はマルチタスクができないという情報もあった。確かに、しているとき、出来ているようなときでも、正直、気持ちよさは伴わない。

そりゃそうだ、なにかに没入して時間を忘れているようなフロー状態こそ、刹那的である一方で人間らしい快感を得られるしなと、答え合わせのように解釈する。

ひとつのことに集中しつつ、複数のことを行ない、それぞれにピントを当てる。なんだシンプルではないかと、爽快な気持ちで一日が過ぎていく。
_09/07

 

 

 

 


19時台くらいに、ビリー・アイリッシュさんの3rdアルバムを聴きながら寝転び、仮眠をしていた時間帯以外はだいたい生産的に動く。都内某所で行なった興行のリハーサルは深夜に及ぶ。

こういうの久しぶりだなと、疲れを感じつつも充実感を得る。みんなで得る。やはりみなさんと音を重ねるとまた格段に全細胞が活性化され気持ちいい。演奏に集中するという幸福感。

帰路は送っていただき、自宅着は14時を過ぎていたので速攻で酒を呑む。別にわるくはないが、肩や眼や方々に抗えない経年を実感するので、酒量を減らそうかなと健康に目を向ける。

酒自体をやめればいいのにという正論もあるが、それも切ない。ほどほどの付き合い。それが長続きのコツ。飲酒にコツもヘチマもねえなと思うが、ほどほどは大切。

そんな風に、人間だんだん丸くなっていくのだなと達観するも、俺と同年に生産され、同年代を生き、最近入手したストラトキャスターの音は、スタジオにおいて大音量でMarshallアンプで鳴らしたところ、想像以上に尖っていた。温かみや重厚感がありつつも、鋭いサウンド。それがすごく嬉しかった。

リハーサルは「オケー!」という一同の認識のうえ完了。ロビーや出口でごく自然にリラックス状態に戻る。

「ヨディーさん。さいきん左瞼がたまに軽くピクピクと痙攣するのです」

「ああ、疲れですねそれは」

「なんかやばいやつだったらどうしようという不安もありまして」

「疲れですよ(笑)」

とのことである。今日はみなさんとしっかりリハーサルもして、あとはここをこう、あそこはこうと、やるべきことをやったので明日は少し休みベースで過ごそうと思う。

尖るべき場面ではそのようにして、そうでないときは穏やかに。一日という限られた時間で、温かい人間関係や機材を通し、いろんなことを感じるのだなとしみじみ思う。
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ばっちり睡眠をとって買い物にでかける。仲間のバースデープレゼント選定である。やっぱここはパルコかなと、「パルコ」って語感がいいよねと池袋へ。

別館に入ると、高いブーツで有名な「RED WING」が一階に店舗を構えていた。このブランドのやつかっこいいよね〜と、これに関してはとりあえず俺が欲しいかもしれんと口を開けがならしげしげと眺める。

すると「何か気になるのがありましたら――」と、お決まり文句で店員さんが話しかけてくる。「はい〜」と笑顔で応える。興味本位で「どれが売れ線ですか?」などと、ブーツ市場の内情にすこし迫る。

定番は柴犬のようなカラーリングのもので、価格帯はどれも5万円前後。今年の新作はなかなか人気。

率直な興味から、このブランドはどの企業なのかと聞いてみた。店員さんにそういうことを質問してもあまり深くは答えられない場合もある。

例えるなら、「すき家」で牛丼を食べながら店員さんに「ところで、親会社どこですの?」と聞いて「ゼンショーホールディングスです」と即答する店員さんは少ないであろうというように。そんな客いやだ。だが、なんか敢えて聞いてみた。

すると、30代くらいの上品な所作の公家顔イケメンはきちんと教えてくれた。

「RED WINGという会社なんですよ!」

「さようでございますか! この店舗では一日にどれくらい売れますか?」

「まあ、一日に10足売れることもありますね!」

「すると一日で売り上げ50万! すごいですね〜」

「ばらつきもありますけどね!」

「ははあ! ちなみに海外の会社ですよね?」

「ええ。“レッドウィングシティー”という街がアメリカにあるんです」

「なんと! アメリカにも“赤羽”があるんですね!」

「ははは。そうなりますね!」

「僕は赤羽に住んでいまして、それもあって『RED WING』を履いてるとなんか“乙”かなあと……!」

「いいですね(笑)。それで赤羽に飲みに行きましょう! 履いてみますか?」

「いま買う前提ではありませんが、いいんですか!?」

「いいのです!」

そんな感じでノリもよく、知識も申し分ない公家顔イケメンに55,000円のブーツを履かせてもらう。

「いかがですか?」

「いいですね! 気合が入ります!」

「今日のお客様のファッションともすごく合ってます!」

「ほんとだ!(よしお氏にもらった激しいシャツと細黒いスキニーパンツ)」

「では、お客様の足のサイズ等を記してお渡ししますね」

「すいませんね〜!」

まず履かせる。体験してもらう。購買意欲を高める。顧客のニーズの質問にきちんと答える知識を備える。この公家顔は素晴らしい好青年ではないかと微笑みつつ、店を後にする。本題が、と思い。

歩きながら考えていると、「これだな」という贈与品は自然に決まり、買ってリボンをつけてもらい、持ち帰る。

いやあ楽しかったと宅でコーヒーを淹れてちびちび飲む。今日はゆっくり休むと決めていたので、YouTubeでも観ようとPCを立ち上げる。休むとはいえメールチェックくらいはする。

するとライター案件が来ていたのでそれはすぐに対応する。デスクワークは今日はこの一点。あとはギターの練習をしたり、寝たり、岡田斗司夫チャンネルを流しっぱなしにしたりと、ゆるりと過ごす。

ブーツ欲しいなという意欲が出た。正確に言うと公家顔に引き出された。それはそれで、稼いで欲しいものを買おうぜという、ポジティブな感情が生じてなによりと思う。とてもほっこり過ごせた半休の一日。
_09/09

 

 

 

 


それなりにいそいそと各タスクをこなす。休んで動いて人間らしくていいじゃないかと思う。

むこう数日は、やること多めなので張り切っていこうと思う。そして、今月中旬以降に俺は連休する。絶対にする。

たっての想い、熱海旅行といきたいところだが、それよりもまずは溜まりに溜まったプライベートな用事を全て行なうという目的がある。

まずは平吉家の墓参り。親族で俺以外に行く人間が存在しないから必ず実行する。近況を両親、ご先祖さまに報告する。やってますよと。

朽ちたヘッドフォンを修理する。大好きな生音レコーディングに必要不可欠である。安く済んでほしい。

本を買い漁る。いま読んでるやつがそろそろ終盤に差し掛かるので、なるべく知識の血肉となりそうなやつを大型書店に行って探す。買う。

どこでもいいから見知らぬ土地で逍遙(無目的散歩)する。これはクリエイティビティにつながる好きな行為だから思い切りやる。いまのところどこに行くかは決めていない。

定期検診へ行く。先生に議論をふっかけに、いや、身のある対話をして“取材療法”を進める。たぶんここのところのこのくだり、先生も楽しそうな気がしてならない。

制作をする。これだけは業務。作りかけの曲を完成させて配布する。そして新たな楽曲のネタ出しをする。

ほかにも細々あるが、おおまかには以上である。俺は時間計算をした。すると、早起きをすればこれら全ては、丸2日もあればいけるような気がしてきた。しかし、その都度、合間で、想うことに意味づけさせる「余白の時間」も必要ということで最低3日は連休をとる。

そんなもの語気を強めるように日記に書くことでもない気がしたが、そうでもないと「案件がきたから――」などと普通に仕事をし続ける可能性がとても高い。だから意識をする。

よって楽しみなプチ秋休み。とはいえ、ドドドと案件が来たらありがたいので普通にやって「連休成らず」となりそうな気もするがそれはそれで。目的ベースの成り行き約定連休プラン。墓参りだけは、なにがあろうと必ず行くが。
_09/10

 

 

 

 


買ってきた値引きのムキ海老とキノコを炒めるのが楽しみだなと、一日のタスクをこなした深夜に思い、今日も十分やったと納得する。

世の成功者と呼ばれる人たちはもっとやってるのかなとも想像するが、そこは比較せずに、自分なりのキャパシティを少しずつ上げるべく、啓発的思考に耽る。

そう、去年よりもいい機材で音楽をしているではないか。俺にできるわけがないと思っていた種別の案件にも挑みOKをもらえているではないか。自分なりに学びの視野を広げているではないか。などと、自己肯定よりの自己受容をする。

気がつけば、デフォルトであった抑うつ気分もここのところはおとなしい。その理由は、手前のいいところも、駄目なところも、受け入れることができてきたからなのかもしれない。

人が腐るには5つくらいのフェーズがあると提唱する人がいる。その、最後の段階は「自己の放棄」だという。いわゆるセルフネグレクトというやつであろうか。

暴れたり、他者を傷つけるような行為をして悦に浸るうちは実はまだマシ。最も危険なのは、自己の関心も希望も喪失し、生理的に必要最低限の行動以外はなにもせず、ただ時間に溶かされる状態だろうか。

誰にも必要とされず、自分も必要とせず。しかし、ぬるりと、そこがどこかは、もはやどうでもいいという場所なりで生きても死んでもいない。

「今の俺はそうではない」という自負はあるが、そのフェーズにいた時期が確かにある。それは博奕中毒時代である。あれが自己放棄でなければなんなのであろうかというほど。

だからこそ、いまは目の前にあることに集中できることが人一倍楽しく感じられるのかもしれない。そう分別しないと、いつまでも過去に縛られる。そんなの本当に面白くない。

酒の肴に「ムキ海老」をチョイスするのは無意識でもあるが、どこか能動もはたらいている。

なぜならば、海老にはトリプトファンという必須アミノ酸が豊富で、その成分は活力や意欲に作用する脳内伝達物質のセロトニンの原料となる。セロトニンが正常に機能していれば、やることやれる。

いろいろ要因はあるが、おいしい海老を食べて酒呑んで明日も頑張る。それくらいシンプルに考えていいのかもしれない。

ただ、一度でも底辺の底辺で足掻く体験があると、海老ひとつとっても精緻化された想いがあるなという、それだけの話。スペイン産のオリーブオイルとニンニクと胡椒とバジルの粉で炒めるとめちゃめちゃ美味しい。海老。
_09/11

 

 

 

 


とうとう現金以外の決済も可能となった「富士そば」で、もりを一枚たいらげる。それまでは宅で軽く興行の準備をしていたので、すこしリラックスしようと近隣をふらふらとし、書店に入る。

なんとなく手にした本をちょっと読んでみたら、それは「CD Baby」の創業者であるデレク・シヴァーズさんの著書であった。

CD Babyとは、作った音楽を大手ミュージックストアやプラットフォームに流通させることができるディストリビューターである。

俺が11年前に「EPを作ったからiTunesとかで世界中で聴いてもらえるようにしたい!」という思いのもと、どうすればと調べた結果みつけた配信代行企業でもある。

そのEPは、たいへんニッチなエレクトロミュージックということもあってか、全然ダウンロードやストリーミングの収益は入ってこなかった。そのときに初めて「プロモーションをしないと音楽は売れない」ということを体現した。もちろん、そうでない音楽家もいるが。

そんなことを回顧しつつ、『Anything You Want:すぐれたビジネスはシンプルに表せる』という著書をパラパラとめくっていたら面白かったので、気がつけばほぼ全部読んでしまった。

著者のデレク・シヴァーズさんは、元・プロミュージシャン。CD Babyを立ち上げて様々な体験をして学んだことを一冊におさめた。そんな内容だった。

iTunesにも配信するというくだりで、直接スティーブ・ジョブズさんやApple社とのやりとりもあったというセクションは非常に興味深かった。

ああ、立ち読み読破してしまったと、「買えばよかったな」という、後ろめたさにも似た心境で別のコーナーへ行く。デザインや美術にまつわる本をちょいちょい手に取る。最終的には、別のジャンルの本を選定していたとき、いま読んでいる本とひとつのワードの共通点があったのでそれを購入した。

そのワードとは、「サリエンシー」というやつである。“突出した”、“顕著性”、“注意を引きやすい特性”といった意味合いをもつ。

全くもって日常では使わないワードであろうと思う。使用される分野は、脳科学や精神医学、心理学などとのこと。

俺はそのワードでつながったとピンときた。しかし、手に取ったその本は、それらの分野ではなく、“倫理学”という学問の名がタイトルに含まれていた。

書店を後にし、赤羽公園のベンチでそいつをすこし読んでいた。すると前書き的な部分に「哲学書である」と明記してあった。そうなんだと、ますますこれはつながりとして面白いなと、サリエントに捉えられた。

いい買い物したなと帰宅して、また興行の準備をする。1曲、とても難しい楽曲があり「いけるのかなこれ?」と、さっきまで慄いていた。しかし、ふとしたきっかけで「ああ、これならいける」という感触を得た。楽器を弾いているときのこの感覚を得る文脈がたまらない。

11年前にCD Babyを通じて曲を世に出し(それは全然売れなかったが)、その時の体験が今日、書籍で創業者の想いを読みとることにつながる。さらに、ここのところ読む様々な本のジャンルがひとつのワードでつながる。

前後や、体験や、無意識下で動いている、なにかがつながる瞬間がある。それこそ人間として生きていく上での感性のサリエンシーを高める。そんな気がした。

とはいえ、日常会話で「サリエントが――」などとそのワードを使うと相手をイラつかせるだけであることはほぼ確なので、やめておこう。なんなら“文脈”と言うのも微妙――見識者のトークではよく耳にするが――なところである。そう。シンプルに表そうと肩の力を抜く。
_09/12

 

 

 

 


せっせと仕事してせっせと楽器の練習をする。興行演奏案件をいただけるとき、いつも思うことがある。

それは、当日はみんなで演奏するということ。一人での個人練習を、ベストを尽くしたというまで詰めるわけだが、前提としてはその場のみんなが一体となること。

そこを念頭におくと、いらない力は抜けて気持ちも整う。みんなで楽しく一生懸命に、みんなとつながって、幸せに過ごす。

それが最高だと、気を引き締めつつも明日を楽しみにする。楽しくやるのがなによりだと。
_09/13

 

 

 

 


この世の果て。そのなんらかと繋がり、契約するのかしないのか、どっちなんだよう! ――そんな夢の尻尾を捉えきれずの起床時。

不安であった。いつもだいたい起きがけはどうかしている。

正午あたり、足立くんが迎えに来てくれた。今日は興行案件の本番である。

「ねえねえ足立くん。起きてさ、俺はアカシック・レコードのなんらかと――」などという数十分前の感覚を話題には持ち出さない。

「ううむ! いい天気だねえ!」と声にし、青空を見ては和む。個人、あるいは全ての共通的かもしれない、起床時の謎はそっとしまう。

会場に着くとヨディーさんが居た。挨拶もそこそこ、雑談ベースで彼はこう言った。「平吉さん! SUGIZOさんに似ていますよ!」と。

はて、ヨディーさん元気でなによりと綻ぶ一方、「なんぞ?」と右側に首をかしげる。「ああ、LUNA SEAさんの?」と、会話をかぶせる。

「テレビでSUGIZOさんが出ていて、観ていたら平吉さんに似てるなって! なんか喋り方も(笑)」

そう、彼は言う。ははあ、と思い俺は掛け値なく気を良くする。だってSUGIZOさんってすごいギタリストだし、それに“似ている”と、無邪気に微笑む彼の顔を見ていると、「そうすか!」と、素敵なギタリストに似ている=俺はいいギタリストの片鱗を彼はそう感じたという図式が仕上がるからである。

よって、今日のライブセットリストの難しさからか、昨夜から緊張を禁じ得なかった手前のメンタルはお花のようになる。ヨディーさんのこういうところが、俺はとても好きだ。

あっという間に興行全行程終了。いやあ、楽しかったなと俺は思うが、皆様はどうだったのかと、フロアを俯瞰して感覚を研ぎ澄ませる。

なんか全体的に、脳波レベルの周波数的にも「幸せ感」をなんとなく得たのでそのように直感的におさめる。

帰路も足立くんに送ってもらう。宅で機材を片付け、直近のコンビニで酒を買い、ちびちびと呑み、近場の公園で憩う。言語化しない方が適切であろうという幸福感を確かに得る。

そして再度帰宅し、ほどほど呑みつつ最低限のことをする。そして、今日を反芻する。

ステージで、ギターを弾かせていただき、如実に思ったことがある。

手前がどう、彼がどう、お客さんがどう――いろいろあるが、その場でみんな、つながっているこの感覚を、どうかきちんと心やら脳内やら精神やら魂やらに、記録しつつも次へつなげること。それこそが、漠然とではあるがひじょうに大事なのだと。

本当に演奏中にそう思ったが、細かいことはまあいいやと思える。シンプルに、幸せを感じた感謝すべき一日。
_09/14

 

 

 

 


とうとうウロコ雲が空に広がる明らかな秋。2回目の入店となる近隣の蕎麦屋へ足を運ばせる。

「大もり」を食べた。やはりおいしかったのでバックボーンが気になり、会計時に「何年からやってますの?」と聞く。すると「90年前くらいからかしら」と、老婆は言う。

別のいきつけの老舗蕎麦屋は「昭和3年創業」と聞いたので、ここは懇意の老舗蕎麦屋の2店目と心象的に位置付けた。

適当に散歩して帰り、当ウェブサイトのPHP(プログラミング言語)バージョンアップ対応をする。手前の専門外すぎる要素なため、極限まで慎重に、サーバー側のコントロールパネルで調整をする。たぶん成功したっぽい。

明後日17日、サーバーのメンテナンスにより、0時から8時までサービス一時停止となる。その際、いまこのサイトを動かせているのPHPの特定のバージョンは使用不可となり、自動的にバージョンアップされるという報せを受けた。

だから、そのときに不具合が起きないよう、今日、手動で「PHPバージョンアップ」という慣れないことをした。

ついでというか、今日やるタスクメモに「サイトにも楽曲アップ」と書いてあったので、それもやる。音源をアップロードして新規ページを数点作成するからそのぶん時間がかかる。

やれやれ無事済んだと思い、ジェイムス・ブレイクさんの楽曲をいくつか聴く。2011年のデビューアルバムは確かリアルタイム気味にCD盤を購入して聴き、その芸術性の高さに腰を抜かした記憶がある。

改めてその盤と、2021年のアルバムを吟味すると、あいかわらず崇高なサウンドメイクに容赦ない低音の処理。とにかくLowがえぐい。

いいアーティストって素敵だなと率直に思う。どこからが「アーティスト」の線引きなのかなとも同時に思う。なんか創作していればその時点でアーティストでいいんじゃないかなと俺は思う。

そう考えていると、俺の周りはアーティストだらけである。みんな、なにかを日々創作して、披露している。そして、誰かの心を動かしている。

手前もまたそうありたいな、そうあるのかな、もっといけるかな、よしいこうかとナチュラルに自己を鼓舞する、動的テンション感は昨日と真逆の静かな秋日。
_09/15

 

 

 

 


サーバーメンテナンスで8時間サイトが止まることをすっかり忘れ、DAWで作業後、あいやと気づく。

昨日そのくだりを書いたのに何故だと訝しむが、それだけ制作に集中していたということで善処する。

明朝、バージョンアップしたPHPで、当サイトがきちんと表示されるかすこし心配だが、その要素が見当たらないので杞憂であることを祈る。

俺にもっと資金と収益があれば、ウェブサイト機能は専門家の人材に任せたいなとも思うが、それもまた当面の目標として掲げておけばいいかなと思う。

人員があり事務所がある。みんなでほっこり仕事する。なんて幸せな目標であろうか。

はたから見れば小規模な目標かもしれないが、ちいさくとも数人でやりくりする事務所を構えるのは、わりと数年前からのちょっとした夢のひとつ。そういった想いを肚に、いまやるべきことに集中し、すこしずつ前に進もうという健やかな気持ち。
_09/16

 

 

 


さてサーバーはどうかなと当サイトを確認すると普通に表示された。やれやれと胸を撫で下ろすも、メールにサーバーからおしらせが届いていた。

要約すると「昨夜メンテしようとしたけど、ちょっと変なのあったから途中でヤメたのさ。また今度にするね! なお、実施日は未定!」とのことである。

おいまて、俺は丁寧にSNSで周知までしたのになんぞと思い、そっとXのポストを削除した。事実とは異なることを知らしめることになるからである。

まあそういうこともあるよねと、いま、このページではなくテキストアプリに昨夜書いておいた日記をコピペする。

日中は普通に仕事をして、夜はギターを2本弦交換して綺麗に手入れをする。30代中盤に購入したストラトキャスターと、20代中盤に購入したフェンダージャガーである。

やはり、いつでも弾ける状態にしていないと気が締まらないという思いのもと、しっかりと拭いたりチューニングしたりする。

20代ではジャガーで様々なバンドでライブをしたなと回顧する。30代ではブルーのストラトでたくさんライブもしたし、特に楽曲制作で相当使用したなと懐かしむ。

この2つのギターは、客観的に計算するとわりと稼いでくれている。どう考えても、各ギターの本体価格およびリペアやカスタムにかかった総料金をペイ(プラス採算)できている。

もう弾かない過去形みたいになっているが、そうではなく、すぐに正常に音が出せるコンディションで仕事部屋で待機していてもらう。そのためのメンテナンスというのが大前提。これら2本のギターはもちろん今後も場合に応じて弾く。

そして一日の締めに、40代中盤に手にしたビンテージ・ストラトキャスターを演奏する。全ての面において「たまらなく馴染むな」と、至極良質な気分になる。

メンテナンスは大事だなと、それが命題となった一日。空けて本日から連休と定めた。やることはたくさんある。しかし、“休み”という自分のメンテもとても重要。

しかしというか、ひじょうにありがたいことなのだが、さきほど、割と時間を要する案件を受注した。もちろん明日すぐに着手する。

そういったわけで、“連休”というか、“休みベースでのメンテナンス期間”と、予定のコンセプトを改めた。それはそれである種、過ごし方の質が高まったと、そのように俺は前向きに捉える。
_09/17

 

 

 

 


“休みベースでのメンテナンス期間”。

初日、空けて現在、午前3時半。いまもクパァって酒を呑んでおかしいだろと、“予定”という概念の脆弱さを思い知る。

だが、きちんと今日は“予定”であった「バスルームの徹底清掃(きたねえから)」および「モニター用のヘッドフォン修理(マイク録音できねえから)」は敢行。だから今日はこの時点で満点。

そのあとに仕事関係の方々と呑み耽る。楽しいなと、宵のしっぽはどこまでも伸び、今に至る。

やることやっていまに至るのだからよし。そう結論づけることもできる。だが酒の呑み過ぎは事実。

ううん、いかんな、明日の“予定”のメインタスクの墓参りができるか――墓場は17時をもって入場が制限される――という懸念がある。

平吉家の墓は、俺の親父が建立した。それをケアする役割を実行できる平吉的なやつは、もはや俺しかいないという香ばしい事実がある。だから墓参りは率直に、おざなりにできない。

だが、早朝寸線の現在、俺はあきらかに酔っ払っている。

平吉家のみなさま。私はどうやら、あなたがたの「キーパーソン」であるもようです。しかしこの体たらく! 許されますか?

そのような問答や弁明に俺は興味がない。ただ、予定調和は不完全。それが現実。

そこに異論があるような家系ではない。そう信じたい。そのへんを肚に、明日のメインタスクの“墓参り”に臨もうかという真剣未満くらいの感覚。

死んだ両親および、ご先祖様。大切に思ってはいますが、手前の現状たるやこのようなものであります。

しかしどうか、平吉家において、孤立にも似た現状を鑑みている俺を、どうか、愛して欲しいです。
_09/18

 

 

 

 


平吉光という面識のない先祖は昭和56年12月23日、つまり俺が生まれた約1年後、25歳という若さで亡くなった。

名前がやたらとスタイリッシュな光パイセンは平吉家の墓で眠っている。そう表現するのは今生に限るのかもしれないが、スピリチュアル的に今日、平吉家の系譜を示す方々に逢いに行く。

赤と白、それぞれのちいさなワインを一つずつ近場のコンビニで買い、東京都足立区鹿浜へ。俺の実家があったエリアである。

バスを降りて徒歩で墓地に直行する。平吉家の墓と対面。こないだ来たのはいつだったか、思い出せない。とにかくパッと見て「きたねえ」と思った。

そう思ったのは今回が初めてである。もしかしたら、先祖が大切という思いがしっかりと根付き、墓を見る解像度が上がっていたのかもしれない。

とりあえず磨いておくかと思い、「節水」と書かれた桶が並ぶ小屋に行くがタワシがない。かわりに、便器を磨く道具とほぼ一緒のシェイプのなんらかがあった。

俺は「これでいいか」と思い、数十分かけて、墓と墓標をゴシゴシ磨く。だんだん綺麗になっていく。俺の心もなんか綺麗になっていく。そんな心象を確かに得た。

暑過ぎて首から汗がしたたるほどであった。おい、こんなのほぼ労働じゃねえかと、そのようにすこし思ったが、これは必要な行為であるため手打ち。

まずまず、いい感じになったので、線香をそっと添え、2本のちいさな紙パック・ワインの蓋を開け、供える。手を合わせて目を閉じる。

近況を無言で伝える。各項目ごとに、返事が返ってくるような感覚は確かにあった。そして、墓参りの正式な流儀は知らないが、とりあえずこの場に俺がいることに意義があると、ご先祖さま方がそのへんを褒めてくれたような気がした。

目を空けて、おもむろにワインを少しずつ、赤からいく。「こっちはお母さんのだ」と。白もいく。「これは親父のやつな」と。「一緒に呑むんだ」と。

はたから見たら出禁必至の行為かもしれないが、俺は直感的に、これが正しいと思い、各ワインをちょうど半分ずつ呑んで「また来ます」と声にして墓をあとにした。

足立区鹿浜は、現住所の北区赤羽とかなり近いが「帰郷」という気分である。

昔お世話になった大人気焼肉屋「スタミナ苑」に寄り、そこの店員さんであるイトーさんと顔を合わせ、「お元気そうでなにより」というコミュニケーションをとった。あいかわらず、呼吸するかのようにエグいジョークを放つイトーさんが元気で嬉しかった。

店のボスにも挨拶できた。すごく忙しそうだったが、一呼吸ついた瞬間を見計らい、「ボス! お元気そうで!」と声を掛ける。彼はとても優しい表情で「おい…! ありがとうな!」と、言ってくれた。

別に俺は何もしていないが、縁ある場所に久しぶりに赴き、顔を出すという行為そのものに意義があると断じてくれたような気がして、ひじょうに嬉しかった。

その足で、徒歩5分圏内にある実家物件に行く。いまは他人が住んでいる。そうか、と思い、当然物件内には入らず。外観だけ眺め、対面にある母校が更地になっていたことを確認し、時代の流れを感じる。

当時、車を置いていた神社に行く。駐車場には、もちろん親父のハイエースも、俺が乗っていたエブリィもない。そうか、と思い、小学生の頃よく遊んだ公園を横断し、懐かしみ、バスで赤羽に帰る。

この時点で、連休とかそういうのどうでもよくなったので、宅で原稿を書く。楽器練習をする。楽曲制作をする。新規案件のなんかいいやつの打診があったので「承りたく存じます」といった旨の、超ビジネス文調で返信をする。

休日、「家族」のこと、仕事、日常と。それぞれが交差する感慨深い日。

「ご先祖様に守られている」「守護霊についてもらっている」そのような見解が当たり前であるとしたら、俺は今日、墓を磨いてその場で飲酒して、ますます平吉家にまつわる亡くなった方々の恩恵を賜るか、なんかバチが当たるか。

どっちでもいいが、年々、墓に足を運ぶというその行為自体が大事なのだなという認識が深まる。その理由は、彼らが居たから、いま、俺が居られるというシンプルな事実所以である。

ご先祖様ありがとうございます。光パイセン、俺の中ではあなたは平吉家の伝説のカリスマ的存在と勝手に思っていますが、俺はその上をいく、平吉家で最も他者に貢献する存在になるべく、日々邁進いたしますという気概があることを、現場での念に加え、ここにも記録しておきます。
_09/19

 

 

 

 


精神科医との対話。これがとても面白い。患者である俺がそのスタンスであるのは著しくおかしい気もするが、まあそれはそれで。

今日、メンタルクリニックのロビーは閑散としていた。いつも思うのだが、混み具合の落差がひじょうに激しい。それはまるで、人間のメンタルの波を具現化させいるようである。

「平吉さ〜ん」

「は〜い」

と呼ばれ返事をして、受診室に入る。主治医はとても艶やかな表情に物腰と、シンプルに体調がよさそうでなによりという印象を受けた。

「どうですか。平吉さん」

「はい。今日あたりこう、いいです」

「そうですか(ニコニコ)」

「ここ3、4日、意図的に仕事量をほどほどにして、連休のような過ごし方をしているのです」

「ほほう。どうして?」

「はあ、墓参りや整理整頓、仕事道具のメンテナンスやなんやらと、行うには時間を要するタスクが溜まっていたのです」

この時点でぜんぜん医師と患者との会話とはかけ離れている。だが、さいきん、俺と先生はだいたいこんな感じである。

「昨日は墓参りに行きました」

「いいじゃないですか」

「そこで思ったんです。墓がきたねえと。それは、いつもとそんなに変わらない状態のはずだけど、僕が先祖を尊ぶ気持ちが高まってそう見えたのだと思いました」

「(相変わらずおかしい。平吉さん、今日はあろうことか墓の話からきた。まあ、傾聴しとくか……)いいことじゃあないですか!」

「ええ。先生には以前お話ししましたが、父親の素行の酷さや母親の死期の早さ、兄との疎遠さ、祖母と祖父が居るのに既に死んだことになっているなど、僕は家族という概念に対して斜めから構えていたのです」

「そうでしたね……」

「僕の周りで、こういった心療内科等の受診経験がある知人たちは、みんな家庭環境が一般的ではないという共通項がもれなくあるのです」

「はあ」

「だから、家庭環境のオルタナティブさと精神疾患は因果関係があるのではないかという仮説があります。先生はどう思われますか?」

「(きた。平吉さん最近毎回なんかこういうの聞いてくる)そうですね……一概には言えませんが、『そういう場合もある』くらいに思っているのがいいと思います」

「そうですか。『そうだから、そうなる確率が高い』など、そういった考え方は適切ではないと?」

「う〜ん、仮にそうだとしても、そうじゃない人もいるじゃないですか?」

「いますね。たくましいやつが」

「ですから、そこを裏付けるような提唱などがあると、『私がこうなったのは、そのせいだ』という図式になるんです」

「なるほど」

「そういうこと、そういう、特殊な環境ではあったけど、変えられない過去に固執するよりも、“いま、ここから、どうするか”ではないでしょうかと」

「それそれ。先生がくれた僕と先生との共通認識です。“Here and Now = いま、ここから”です。『認知療法』の要とも言えることです」

「そうですね!」

「僕の親父は死ぬ寸前まで、幼少期の虐待経験に縛られていました」

「言ってましたね」

「程度は違えど、僕はそうはならないと思いました。肝心なのは、いま、ここから何をするか、というのが命題だからです」

「ははは」

「だから、人生で最もきつかった、親父の介護時期も、途中までは『こいつがこうだから』と思って、いつ首を絞めて、ゆっくりと青ざめる顔を見ながら、笑って殺してやろうかと本気で思っていました」

「つらかったと思いますよ……!」

「でもね、先生」

「はい」

「とある瞬間で転換したんです」

「それは?」

「認知症の一人暮らしの男――反社会的パーソナリティーの人格ならなおさら――の蛮行はひどいんです」

「ははあ」

「何度も親父は警察の厄介になり、身元引き受け人として僕は署に呼び出されたんです」

「そんなことが……!」

「その3回目くらいですかね、僕は『もうこいつはどうにもならん』と無力感に苛まれ、署から親父を引き取って道端で、泣いてしまったんです」

「お父様がかわいそうと思ったんですか?」

「それもありますが、シンプルに『もう、どうしようもねえ。許そう』と思ったんです」

「はい」

「そして、僕は立ち上がり、親父の手を取って、『行こうぜ。帰ろう』と言いました。すると親父は、子供みたいな顔をして嬉しそうに僕の手を取ったんです」

「はい」

「その時に思いました。親父に必要なのは、治療ではなく、愛なのだなと」

「平吉さん」

「へ」

「その文脈は以前ご説明いただきましたが、すごいことです。自分を評価しなければなりません」

「僕自身を評価?」

「そうです。誰でもできることではないことを、平吉さんは、きちんとやり遂げたんです。そして、そこから変わったんです」

「はい。自覚もまあ……というか明らかに」

「それがあるとないとでは……平吉さんの場合は、それあったので、そのあとが大きく違ってくるんですよ」

「まあ、結果、親父が死んだあともいろいろありましたが、こう、穏やかにというか達観する“癖”みたいな、それのいいやつみたいのが身についた実感はあります」

「そういうことですよ。平吉さんはよくやったんです」

「はあ、ありがとうございます」

精神科医は俺を褒めてくれた。なんかこう、もうちょいそのへんの感情を精神医学的に分析してほしかったのだが、率直に讃えられ、俺はパァァと気をよくした。

「私の患者さんでもね、そういう方いらっしゃいますよ。家庭環境がよくなかった、そのせいでこうなったんだ! と、いうような……」

「わかる気は、します」

「でもね平吉さん。そこでその方に対し、『過去にとらわれず、“いま、ここから、どうするか”』という旨を伝えても受け入れてくれない方もいるんです」

「無理もないかと……」

「だんだん、何度も対話するにつれてわかってくれる方もいれば、そうでない方も」

「そうでない方は俺の親父みたいな方かと」

「それはそれで、そういう人もいます。だから、平吉さんはそういった経験がありつつも、“いま、ここから、どうするか”という点にフォーカスをあてる強さがあるんです」

「先生のおかげです。(「いま、ここから」を意味する「Here and Now」という曲をつくったくらいで)」

「いいじゃあないですか平吉さん。前向きですよ」

「ええ。だから墓参りに行き、『この墓をどうするかは僕にかかっている』と思い、そのために必要なのは、僕が家族を築くことにつながると奮起したのです」

「(そういうつながりの話だったのね)なるほど。いいじゃあないですか! 仕事いっぱいしていってと!」

「そうであります。僕は、家族やら恋愛沙汰などには人一倍関心がなかったんです」

「そうなんですか?」

「そうなんですよ。だからこういうお話を切り出したんです。“その源泉は、香ばしく不協和な家庭環境のせいにしていた”という自分のクソみたいな思考に気がついたんです」

「な〜るほど」

「そのままでは親父と一緒になります。しかし、僕は違います。なにせ、そういった境遇の親父でも、家庭を築いて俺を仕上げてくれたのですから。なんかのせいにするのはお門違いも甚だしいと」

「平吉さんのご家族に対する心象は計り知れませんが、私もね、そういう時期がありましたよ」

「グレちゃってたんですか?」

「まあ、やはり父親に殴られた記憶もあるし……大学生の頃など、そういうネガティブな気持ちになっている頃はありました」

「意外ですね」

「でもね平吉さん、それでも父親は私を大学にまで入れてくれて、いま、ここに至ります」

「素晴らしいかと」

「そうなると、過去のよろしくない感情なんてどうでもいいじゃないですか?」

「どうでもいいです。覆せませんから」

「そうです。だから、いま、ここから、ということです」

「万能ですねそれ」

「ふふふ――じゃあね! 平吉さん次回なんですけれども――!」

時間いっぱいのもようである。先生のイントロとアウトロは必ず毎回ブレずに同一フレーズで整える。

いやあ、精神科医との対話って本当に面白いなという思いを引っさげ、そのへんをちょっとぶらぶらして帰る。

原稿をやる。楽器練習をする。楽曲制作をする。もやは連休ではない。だが、むしろこれくらいが心地よい。

主治医である先生は俺の心のスーパーバイザーでもある。

しかし、ほぼほぼ面白半分の取材気分があることに対し、先生は見透かしているのか、付き合ってくれているのか、気づいていないのか。

いずれにしても、いい関係値だという肌感。先生、いつもありがとうございます。先生からご教授いただいた見識は、俺の周囲の方々にも、ちょいちょい波及に努めているつもりでございます。つまり、先生は俺にとってのメンタルヘルスの師匠だと勝手に思っています。

そういった一連の想いのもと、次回診察が楽しみだなという感情は、かなりユニークな治療のかたちとも捉えております。ちがっていたらごめんなさい。そのあたりは、また来月質問させていただきます。

以前、先生はこう仰った。

「平吉さんのそういった質問はどんどんしていただいて大丈夫です。もし、私がその場で答えられなかったら、次回に答えられるようにしておきますから」

そういった、医療従事者の愛もあるのだなと感銘を受けた。

みんなそれぞれ、思いもよらないところでつながっていたり、協力し合ったり、ひとつの共同体意識をもってこの世を生きているのだなと思うと、まあ、とりあえず酒が美味い。
_09/20

 

 

 

 


電車で「退屈と暇」についての本を読みながら移動する。「退屈」は感情で、「暇」は状態。そうか。と、思い鶯谷駅で下車する。暇なわけではない。心身のリフレッシュという、意図的な散歩である。

なんで鶯谷はこんなにラブホテルが多いのかなと、その原因を考える。この辺りだけ発情して盛りまくってるというわけではなさそうな空気感。

「デリヘルとかで指定されがちな場所なのかな」という俺なりの思考をまず出してから、Chat GPTで答え合わせする。

すると、「昔から風俗文化が盛んだった」「交通機関的にアクセスしやすい」「歓楽街とまではいかない閑静な土地が、情事に対しての配慮にもなる」など、なんか特筆した原因はないなという所感。まあいいやと思い、小一時間様々なラブホテルの外観と料金やらを眺めて帰る。

机で原稿を書き、ひとつ仕上がったので明日の精査をもって提出とする。昨日、当サイト経由で新たな案件を受注したので正式な返答をして資料を待つ。プラットフォームでひとつ、案件の提案をしてみる。

あとは楽器練習をする。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「Eddie」という楽曲をコピーしようと挑んでいるここ数日。シンプルに聴こえる部分も激しいプレイもある。どのセクションも、実はとても難しいギターパートだと感服する。

同バンドのライブを東京ドームで観戦した時に、ギタリストのジョン・フルシアンテさんの手元をもっとよく見ていればよかったと振り返るが、体験として全身全霊に刻み込まれているのでいいかと思う。

ああいう風に、丁寧だけど、どこまでもエモーショナルに弾けるようになりたいなと、このくらいの歳になると演奏の仕方について改めて考えるようになる。

生き方も丁寧に、どんな時も退屈と感じないように、活き活きといくのがいいかなと、ソフトに総括する秋の日常。
_09/21

 

 

 

 


寒さに気づく気候。ノスタルジックを嗅覚で、あの世の入り口を視覚で、それぞれを感受させる金木犀と彼岸花の出現はまだかなと、秋に待つ。

気分的にはそんな感じで、生活面は至って普通。いまやることをコツコツと進め、少しずつ理想に近づいていく。

過ぎる時間に点を打つように、粛々と過ごす。

経過と共に点が増える。交差する。

神経回路かどこだかわからないが、それらがどんどんとつながる。最後は全員、丸になる。

そしてみんなまとまり、ひとつの円に収められる。それがまた爆発して散り散りになる。その繰り返し。そんな気がしてならない。
_09/22

 

 

 

 


なんとなくキング・クリムゾンの楽曲を弾いたりしては、もっと演奏が巧くなりたいなとう感情が残りつつ、ギターアンプをオフにする。

60〜70年代あたりのアーティストは、録音も一発勝負(セクションごとに録音するのが主流の現代の手法とは異なる)が普通だったと考察できるので、そう考えると音楽において、演奏力と集中力はどの時代であっても強固な要素。

しかし、いま一発演奏に重きを置くことは、こと演奏技術面においてはよろしいが、ことレコーディングにおいては、進化したテクノロジーを活用するのが望ましい。いずれにせよ、「演奏力」という普遍的なスキルは磨いておきたい。

そういう理念が起因か、一生物のギターを買ったある種の決意がもとか、その思考はさほど建設的でもないかなとは思えど青年期くらい毎日楽器練習をしている。それは純粋にいいことであると、やはり考えることはないなと着地する。

なんにせよ、ここ一ヶ月くらいで楽器を演奏する習慣の密度が高まったことは、アイデンティティの一番最初のやつが洗練されることにつながるという原点回帰の気持ち。これは大切だなと俯瞰する。

習慣化されたあらゆることは、複利のように膨らむ。

だから、これでいいんだと思うが、昔は弾けたはずの楽曲「21st Century Schizoid Man」の一番テクニカルな部分に手こずるあたり、中高生の頃は毎日こんな気分だったなと回顧する。

あの頃の執拗さが約30年後にもあると、当時の俺に伝えられるとしよう。

されど、「うるせえな? 誰だ手前は馬鹿野郎。邪魔すんな。いま俺はこの「Smoke on the Water(Deep Purpleの代表曲のひとつ)」のソロを完コピしねえとダメなんだよ。失せろ」と言わんばかりに、言葉にもせず目線も向けず、ただただフェンダー・Japan製のストラトキャスターを弾きながら威嚇されるであろう。

「いやいや君、その姿勢を捨てなければ将来それで収益もだね――」と伝えたところで「金とかじゃねえんだ馬鹿野郎」と、そこは演奏を止めて、怒鳴られるだろう。

結局、「大事なのは先」で、「必要なものは後から」。

そんな真理を得たようなそうでもないような。

とりあえず、「Smoke on the Water」のギターソロに関しては、当時よりも巧く弾けることをさっき確認して思い耽る。その曲を、東京都足立西高校の文化祭でライブ披露し、ソロどころかリフ(ギターのテーマフレーズ)をおもむろにミスったのは、いまやいい思い出。
_09/23

 

 

 

 


100円ちょいで売っている、しっかりした出来の蕎麦をシイタケと共に茹でる。すする。美味い。秋の清涼。赤羽公園ではとうとう彼岸花が咲いていた。

数年振りだなというくらい、明瞭に、秋を感じる。これは辛抱たまらんとコーヒーを淹れ、机に付いた15時ごろ、DAWを開いて制作をする。

気がつけば22時。くは、久々に夕飯を飛ばしたとピシャリと手を打つが、曲が完成したからまあいいかと音源として書き出す。

モチーフがちゃんと音楽となり達成感を得る。あとはみなさまがリスニングおよび使用できるように配布すべく、プラットフォームに申請する。

ここで承認され、公開し、ユーザーにダウンロードしていただき、はじめて、制作した楽曲が機能する。その源泉は手前のイメージと、インプットした様々な要素の系譜。そう考えると感慨深い。

今日は非の打ち所なき篭りっぷりの作業日。仕上がったやつはこのあと改めてプレイバックして悦に浸る。その瞬間が最も幸せだという知人もいる。わかる。

とはいえ、その時点で、あってはならないノイズの混入などに気づいてしまうとやり直しである。そういった個人的なスリルも相成り、聴き返して「出来てるよね〜」と認知する瞬間は、やはりたまらない。
_09/24

 

 

 

 


自宅よりすこし離れた公園に向かう。曇り空であったが、そこは緑が多く、穏やかな気分にさせてくれる。

何かを感じる巨大な岩のふもとの芝生に座り、本をしばらく読む。文中に頻発する「資本論」ってなんぞやと思う。次はそういう本を買おうかなと頭の片隅に置いておく。言葉ヅラからしてなんかエグそう。

その足で北区は十条駅まで歩く。アーケード商店街をケツから入って駅に向かう。個人経営のお店の惣菜などを眺めては、この界隈は物価が安くて素敵だなとほのぼのする。

帰宅して買い出しに行ったり寝たりする。原稿を3時間くらい書いたりする。それとは別に、昨年やりとりがあった大手から案件をいただいたので、改めて経理的なやりとりをする。こういうとき、屋号とかインボイスとかきちんと登録しておいてよかったなと思う。

少なくともそれは、どこの馬の骨かわからずに信用されないということに対しての回避に直結する。それにしても「馬の骨」ってどの文脈でそういう表現が一般的になったのか訝しむ。

気になったので調べたところ、“特に馬の骨は役に立たない上、大きくて邪魔にもなる。 そこから「誰にも必要とされない者。所在、出処がわからない者」といった意味で定着した”との情報があった。中国由来らしい。

“誰にも必要とされない者。所在、出処がわからない者”というのは、どこかダークサイドなパトス系というか、なんか逆に可哀想なヒールみたいでかっこいいかもしれないと感じるのは俺だけだろうか。

とりあえず、馬の骨の語源そのものこそ役に立たないのではという気がぶらさがる。だが、応用が効きそうなので覚えておくことにする。

今日は、わりと深夜まで机につき、時間も時間なので楽器練習はチョロっとしかできなかった。だが、ほぼ毎日することに意義がある。大昔、先生にそう教わった。「15分でもいいから毎日弾きなさい」と。

「先生すみません。今日は5分しか弾けませんでした。主にキングクリムゾンの曲の、あのやたら難しいとこの復習だけです」

「平吉くんそれでいいんだ。15分というのは目安ではなく、要となるのは『毎日』だから、時間がないなりにも、5分でもギターを手にした自分を称えなさい」

表をぶらぶらしたり寝たりしていなければ、余裕で2時間は練習できた気もするがそれはそれで。先生はお元気でやっていらっしゃるだろうか。

「平吉くんのアドリブのフレーズはロックでいいねえ!」と、顔中にシワを寄せながら熱く評価していただいたことは、20年以上経ったいまでも忘れていません。
_09/25

 

 

 

 


どうもやることが多い気がするなと、せっせと暮らす。多いと思うから在る、そういう観念論みたいなこ難しいやつはいまはいい、現に、目の前に、ありがたくも多く在る。だからやる。それでいいかと、いちいちそんなことを考えながらタスクを行なってはいないが。

普通に各タスクに集中して、丁寧に仕事をする。ちょい前のめりにやっているつもりだから行けるだろうと、月の最終日に知人の店に呑みにいこうかなという楽しみを遂行できるように祈る。いや、祈ってもしかたがないので粛々と行動する。

店に行き、「いいの入ってるんだって……?」と、演技じみた口調でオーダーをし、店主が「おう!」と、謎のサワーをせり出す。このあいだ行った時はそんな雰囲気だった。

それはそれで、やはり、日々積み重ねることに精を出す。

その繰り返しで、そのうち「あれ〜! ここまできたか〜! やった〜!」となることを祈る。いや、行動する。ここのところはそんな心境に対して、とても幸せを感じる。ああ呑みに行きたい。
_09/26

 

 

 

 


やっぱり多いなと各タスクをそれぞれ行なう。いけるのか、月末呑みに、いけるのかと、仕事と遊びのバランスを絶妙にとるべく、手前なりに、食い気味に進行する。

秋の清涼からか実に体調がよいので、そのぶんやれるうちにやっておこうと張り切る。しんどいときに悶絶しながら手を動かすこともある。そのぶんを前倒しでやる。

「苦労の前払い」みたいなやつだろうか。そういう感覚もあれど苦ではない。むしろ、適度な負荷がかかって物事に集中している時が一番幸福度が高いというのは俺調べであり、わりと普遍的な気がしてならない。

なにもなし、あっても、なにかをやっていても、どこか退屈を感じている時こそが、幸せとは対極にある。そんなふうに思う。
_09/27

 

 

 

 


一日机に張り付いて原稿を書く。丁寧に書く。夕方、ドドンと危険を察知する音が外から聴こえた。

とうとう抗争が始まったかと界隈の治安を危惧する。とりあえず「X」の検索エンジンに「赤羽」と入力すると、どうやら花火大会が始まったということが判明。なんだそうかと落ち着いてまた書く。

夜、駅前にタンメンを食べに行ったら浴衣姿の男女がちらほら。かなりの人出であった。ずいぶん俺は世間と真逆の過ごし方をしていたのだなと、それはそれでと買い出しもして帰宅。また書く。

明らかに初稿として8割がたできたので安堵する。締め切りが近い案件だからである。やればできるさと、アンプをオンにしてギターを練習する。

やっぱり毎日弾いていると精度が上がるなと実感しつつ、カーディガンズやマネスキンやコールドプレイの各楽曲を弾く。

世間はドーン、手前はカタカタ。よきコントラストだなと思い耽る秋の中旬。
_09/28

 

 

 

 

 


おやこれはいけるかなと、原稿を提出したり、またほかの原稿を推敲したり、各種タスクを前のめりにやる。そんなに後日は呑みに行きたいのかと、手前の原動力を認める。

こと表においての酒の席は社交場である。その場でしか受けられない情報もあれば、交友関係も生じる。対峙する人の既知の面とそうでない面も観察できる。

そんなもの美辞麗句である。ただ、他の人と交わりつつ、適度にアホになりたい。ただそれだけである。

とはいえ、社交場としても機能しているという各要素の全てを否定するのはいかがなものかという思惟のなか、そういった事実もあることは揺るがない。だから俺は、サボりたいわけではなく、きちんとそのためにリソースを割り振り、仕事をする。

じゃあ酒がなかったらだらだらとしてしまうのかというと、そうでもない。それはそれで、いつだってきちんと納期を鑑みて各種タスクを行なう。酒があるから、だらだらしない。これは一体どういうことであろう。

どちらにせよやるという前提があり、酒というスパイシーなエッセンスは、絶妙に善処してくれる。そのように捉えると、酒という“文化”はなんと尊いのであろうかという情念に帰結する。

「酒を辞めて生産性が上がった」という旨を聞いたことがある。それは万人に適用するかといったら、明確とまではいかなくとも批判したい。しかし、ほぼほぼそうであろうという確証もある。

結論。しっかりやることと少々のスパイス、つまり酒。それらのアンサンブルこそが人生に彩りを添え、生産性の「質」を高める。俺はこのように提唱したい。

これまでで一番もっともらしい飲酒に対しての言い訳だが、その内実たるやわりとしょうもない。あと、このようなことをいちいち考える必要があるのかといったら、そこは好き好きかなとフワッと着地。

さっき買ってきた値引きの「シラス」をアテにちょっと呑んで寝よう。ゴマ油と丸大豆醤油と一味を少々加えるとすごくおいしい。生の小魚。海の幸と「氷結」のマリアージュ。コスパ最強。
_09/29

 

 

 

 


なんとなく、予定していた「呑み」には行かなかった。本当になんとなくである。そのぶん、夜は事務的なことや、戻り原稿の確認などを前倒しでやってクライアントに色々と提出する。

ああ、これはこれでよかったなといまに至るが、あんなに呑みに行きたかったのになんでだろうと思う。

単に、そういう気分だったのかなと、その直感的な感覚に基づいたのだから、なんかそのほうがよかったのかなと、いま、ハイボール缶をやや食い気味に開けて呑む。一人で呑む酒と、誰かと呑む酒とでは、それぞれの目的が異なる。

その内実は、言語化できるが、なんとなく今日は別にそういうのいいやという感覚。秋が逆流するようなフィーリングである。

ああ、ここのところは遊ぶよりも、手元にあることをやりたいという心境が勝っていたのだなと俯瞰する。そういったなか、すごく静かな心境で9月が閉じる。
_09/30

 

 

 

 

 


 

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