10/2021

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
震度5強で漏らす


確かカレンダーの赤い日だったような、「都民の日」とかいう祝日だったような平日だったような、うっすらしか覚えていないがいずれにせよ手前の暮らしにはさほど影響がないなと、窓ごしの大雨を横目に机で過ごす。

昨日と等しく、原稿を数時間やってもうひとつ提出する。緊急事態宣言が解除され、飲食店の営業時間が若干長引いたので、ひさびさにカウンターで牛丼をと、すき家に駆けつけるも間に合わずテイクアウト。

キッチンでキムチ牛丼をたいらげてちょっと休憩して制作をする。ネタ出し。これが出ないときは悔しいくらい出ない。幸い、今日は2時間くらいギターを振り回していたらコンセプトに沿ったものが出る。ショートサイズの曲なのでアイディアさえ出れば2、3日もあれば制作時間は十分であるという目測。

やはり、一昨日しっかり休んだのがでかく、何事も淀みない。「次の休日を楽しみにする」という感覚を会社員時代より忘れていた昨今、そいつも取り戻した感覚がある。もう1案件完了と今日着手した楽曲の完成後、という条件の次の休日は何をしよう。また小規模な旅に出ようか。

緊急事態宣言解除というお墨付きもあるから思い切って遠出をしようかという欲はリアルにある。たまには泊まりで、というのもワクワクする。

ベストは、今も現存するという池島の神々しい団地群を巡りたいがさすがに長崎県は遠すぎるだろうか。なにぶん、飛行機が苦手なのがつらい。
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昼にニラキノコ蕎麦をこしらえてすする。そしてDAWを開いてせっせと音を重ねる。

編集部から電話を頂いたのは何時だっただろうか、気がつけば軽く半日は過ぎて夜であった。あっという間に日が閉じようとしていた。

案件の追加を何本か頂き、ありがたく賜る。それらの件についての打ち合わせも含め、雑談もいつくかし、しばらく電話をして秒のように日が過ぎた。

切電間際に、「めし、食えよ?」と言われた。なんかピンポイントでよくご存知だなと、手前を心配してくださったことに対しての感謝の意は禁じ得ない。確かに蕎麦しか食っておらん。

「俺は今日、何をしていたのだろうか」と、ふと思ったが、着手中の曲をわりと進ませ、案件を頂き、打ち合わせと、いいじゃないかということで手打ち。

やることと、やらせて頂けることが、連日あるうちは幸福。なんもなくなったらどうしようか。長崎県はそのタイミングで行こうと思う。新幹線とかで行く手もあることだし。
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さいきん長崎県、長崎県と、謎に行きたがっていた念が起因か定かではないが、長崎県関連のありがたい報せを賜った。

これはシンクロニシティというやつかな思いつつ、これはやはり長崎県へ行ったほうが――という旅欲が増す。

池島、端島(軍艦島)と、日本で最も美しいのではないかと思われる団地群があるのは長崎県。俺はもうウズウズとしてきたのでとりあえずグーグル・マップでストリートビュー。決して、暇だったわけではない。

「廃墟」という表現もできれば、美的建造物の「遺産」とも感じられる、長崎県の古い団地をネットで巡っていたらやはりアツくなってくる。とにかく、「島」に行きたい。できるだけ、人口の少ない島へ。

東京都の人口は約1,400万人。とんでもない密度である。それはそれで好きだし、駅も呑み屋も本屋も黒服さんたちが鎬を削る界隈も徒歩数分圏内、という赤羽のこのあたりはとても気に入っている。

俺は、あらゆる何かしらが入り混じっている環境が心安らぐのである。宅の乱雑無章な寝室はそれを体現しているのかもしれない。

しかし、ある種の非日常を味わうためにも、俺は人口の少ない島へ行きたい。ちなみに長崎県の池島という地の人口は100人ちょいとのことである。

旅の候補地として理想的だが、なにぶん遠すぎる。じゃあ東京都の島でもいいかという妥協案が出たので色々調べてはグーグル・マップ擬似旅行に耽る。この時点で「長崎県」という主旨からはズレが生じているのだが。

いよいよ運賃や到着までの時間、ルートを調べるまでに至り、なかなかリアリティが湧いてくるも船で行く必要があることを知る。

そして「船酔いはつらそうだな」と、シンプルな理由で「やっぱいいかな」とか冷静になってくる。

今日は制作中の楽曲が完成した。こう、先だおしでタスクをいくつもハイペースでおこない、再び緊急事態宣言が発令される前に、ひとり旅に出たい。

島へ行き、モリでブスリと魚を直でつかまえる。浜辺でアコースティックギターを構えながら、「現在、某島に来ています。見てください。野生の魚です。ピチピチ……」というくだりから生配信をする。なんて楽しそうな時間であろうか。

とはいえ、現実味はなかなか薄いことに加え、思いのほか居心地がよかったら東京都北区に帰ってこない可能性もあるので島旅行案は「棄却」スレスレの「たっての希望」という脳内フォルダに一時保存。
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ひたすら牛の出産のお手伝いをするという謎夢にうなされ、起床。産まれたての哺乳類のような所作でキッチンへ。今日も東京はよい天気であった。

原稿をやる。クシャミが20発は出てくる。これは風邪か、あるいはアレか、とは思うが体調自体は優れないわけでもないので通常運転で暮らす。1つ案件を提出してタンメンを食いに街に出る。

帰路、でかいネコを見かけたのでじっくりと距離を縮めてアプローチ。しかし、でかいネコは、何もない路地の隅をじっと見つめてはしっぽをゆらゆらさせている。ネコあるあるである。

なんでも、ネコには人間で言うところの「五感」以外の感覚があるらしく、そいつでなんらかをキャッチしているのであろう。深く追求するとまあまあ怖いかもしれないので俺はでかいネコに集中した。

「もしもし。ネコよ」と、ちょいと触れるとニャアン、グイ、と、友好的態度を示す。ああよかったと思いサワサワとするもでかいネコはすぐに何もない所を刮目している様子を解除しない。

うん、何かいるんだろうと思い、俺には見えんから関係ないと、そう思い、「もしもし。ネコよ」と、再度ちょいと触れるとニャアン、グイグイ、と、まあまあ仲よくなれたので「では、また」と、早足気味にその場を離れる。

帰宅して楽器を弾いたり、いろんな楽曲をアナライズしたりする。数日前から今日にかけて、仕事以外の用で「この日、空いてますか?」的なお誘いが3つあり、ひたすら宅で作業という時期にはありがたい声かけだなと密かに嬉しむ。

そういったわけで今日も特に誰とも会わず、飄々と過ごす。実は、会っていたのかもしれないが、俺には見えなかった、というだけなのかもしれないが。
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起床寸前にアイディアがぽっと出てこれは凄いと何より先に楽譜にメモをする。日中は原稿をやったり近所を散歩をしたりとたいへん静かな暮らし。

夜、降りてきた閃きをさて具現化させてやろうと、ワクワクしながらギターを手に取る。しかし、実際に音にしてみるとクソみたいなアイディアと判明し、即刻棄却する。保留の余地もない、まこと箸にも棒にもかからんものであった。

そういうこともあるよねと、DAWを開いてネタ出しをするも全くもって、なにひとつ出てきてはくれんかった。アイディアやネタというやつは出そうとすると出てこない。出る時はポコンといくらでも湧くのだが、出ない時は清閑そのもの。諦めてDAWを閉じる。

ここ1週間ほどの間、わりと前倒しで色々やったし知らぬうちに疲れているのかもしれないので、明日はお休みにしようと思う。またどこか遠くへでも行こうと思う。俺とは無関係の、全く知らない土地に赴き、まずは頭をやわこくしよう。
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さて旅に出ようと奮起するも、LINE受信にて今日は来宅がある日だということを思い出し、そうだ、そうだったなと宅で待機。

ただ待っているのもなんだなと数時間ほど原稿を進め、逆にちょうどよかったなとか思いつつ夕方、駅に迎えに行く。

だいぶ歳下の方と仕事部屋でしばらく過ごす。みやげに酒と肴をぶらさげてくるあたり、なかなかおわかりだなと、俺のツボをよくご存知だなと、感銘を受けつつ素直に感謝する。

手前の「なんなら来れば?」的なアプローチに軽く応じ、大事な休日をさいて、はるばる来宅し、おみやまで持参する。最近の若者は実に見上げたものだなと、未来は明るいなと、俺はほほえみを禁じ得なかった。

音を具体的にいじりつつ、コンプレッサーがどうのなどと言いつつ、音を圧縮させたり実際にギターで音を出したりと、楽しく過ごす。

そして、帰宅する空気になってきたあたりで、「いやあ、楽しかったです」と、彼は率直に言葉に出す。

その表情を見た俺は、「楽しかったのか。そうですか」としか思いようがないのだが、なんというか、「大切なことを面と向かって当たり前のように伝える」ということの重要さを彼は俺に教えてくれた。

そういった感じで完全に休日とはならなかったが、とてもよい日であった。若者が「楽しかった」のなら、森羅万象だいたい大丈夫だろうと目を細める俺のアラフォー味もだんだん増してきた感は否めない。
_10/06

 

 

 

 


夢か何かで「3.11」の大震災を予言した、という記述で話題になった漫画がある。

なんでもそれは絶版で、中古本にはプレミアまでついているそうなのだが、今日ふと立ち寄った書店でその漫画の新装版を見かけた。確かに、表紙の描写から2011年3月の震災を示唆する記述を確認できた。

東日本大震災発生時、俺は近所の神社を徒歩で通りかかっていた。避難場所にもなりそうなロケーションにつき、東京都の「震度5強」の揺れの恐ろしさやらは、部屋内にいる場合に比べ、あまり感じなかった。「あまりにも揺れが長くて気持ち悪かった」という記憶があるくらいである。

あの災害を予言したのならちょっとピンポイントすぎて怖えなと、やや気になるし、読みたかったのだが、購入には至らず。「LaLa ガーデン」という商店街のラーメン屋で配膳を待ちながらその漫画についてスマホで調べる。

どうやら、その漫画は、著者が見た夢にもとづいた内容とのことである。「予知夢」というやつだろうか。確かに、睡眠中の夢というやつは変にパワフルなところあるよねと、意外と怖くなってきたのでそれ以上調べることを止めた。

今日は休日。とことんボテッと過ごそうと、近所のパトロール帰りはソファで読書しながらからの仮眠。むしろそのまま本気寝の時間だろうという23時前ごろ、スマホの「ギュイッ! ギュイッ!」という、まこと不安を煽るサウンド出力とほぼ同時に、地震発生。

10秒くらいだったろうか、「けっこうでかいな」くらいの感想の揺れは「部屋の何をおさえて倒れるのを防ごうか」というくらいのものだった。

しかし、グイとダイナミズムが生じ「絶対震源地が近い」という感覚を得る。そしてめちゃめちゃガッタンガッタン揺れる宅の物件。俺は率直に「終わった」と、そう思った。

結果、スピーカーやギターは倒れまくり、机まわりの小物やCDはまあまあふっとび、キッチンはガタガタの光景という破壊力の地震だった。ニュースによると、東京都足立区、埼玉県川口市は震度5強。東京都北区赤羽はちょうどその間に位置する地域。

体感的には、やはり震度5強かそれ以上だった。すなわち、この界隈での「3.11」クラスの揺れだったことになる。部屋にいるとこんなにも恐怖度が違うものかと慄く。とはいえ、実害は「びびった」くらいなのでまあよかったかなと思う。

それよりも、「2011年の『3.11』の大震災を予言したという記述で話題になった漫画」に、たまたまフォーカスしたその日の出来事であったということ。

この点についてどう解釈すればいいのだろうか。何かしらの見えない力や報せだったのかもしれない。そういうことがランダムな頻度で「ある」ということは、きちんと認識したほうがいいのかもしれない。

きっと、そのへんの認識や感じ方が相当ソリッドだったりすると、「3.11」の大震災の予言を示唆するような作品を書くことができるのだろうか。

なんにせよ、じゃあ3日くらい前に俺がみた、ひたすら牛の出産のお手伝いをするという謎夢はなんだったのだろうか。どちらかというと、なんかいいこと起きそうな類の夢な気はするが。
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「依存」につきものなのが「離脱」。毎日のようにおこなう、あるいは摂取することによって形成された依存は、いきなりその対象となる行為・摂取をヤメると「離脱症状」に見舞われることがあり、場合によっては地獄が見られよう。

正直そんな体験はしたくない。でもちょっと軽くどんなものかと思い、ここ2日ほど意図的にコーヒーを全く飲まないでいる。連日カフェインの摂りすぎからの突然の中断にも「離脱症状」が表れる場合があると聞いたので試してみたのである。

普段の手前のカフェイン事情はというと、毎日ドリップコーヒー2杯ちょいくらい。急にやめて「離脱症状」が出るか出ないか、なかなかギリギリのライン。

結果、今日の夕方あたりから頭痛や倦怠感に眠気と、軽めではあったが、確かに噂通りの「離脱症状」が確認できた。

その状態で赤羽公園に行き、何も考えないでベンチで憩っていたら、不思議と曲のアイディアがゆっくりと流れ込んでくる。

「おおこれが降りてくるというやつか」と、カフェインが抜けてピュアな何らかが生じたかと嬉しみ、すぐ帰宅して鍵盤を叩き、そいつをDAWでスケッチしてプレイバックする。同時に楽譜も書き、ルンルンであった。

だがしかし打ち込んだものを聴いていると、確かに、公園で思いついたものをそのまま音にした感じなのだが、これがなかなかしょうもなかった。というか、たぶんどこかで聴いたことがある。

「これだ」という閃きがクソで、「なんとなく」弾きながら出た着想が完成まで向かう。手前ではよくあるパターン。

むしろちゃんとコーヒーを飲んでシャキッとしていたほうがまともなネタが出て形になったのではという側面もふまえ、無意味なカフェイン断ちはやめることにした。

ちなみに、アルコールにおける「離脱症状」の手前の場合は、ピークが翌日の半ぶん程度のいわゆる二日酔い状態のみ。その後はどんどんスッキリしていく。絵に描いたような離脱症状が起こるレベルの依存ではないことは何度か確かめたことがある。ニコチンに関しては、まだ検証すらしていない。依存していることは間違いなさそうだが。

ことコーヒーに関しては、大量でない限りは明らかに毎日飲んでも体にいいことを逆の角度から実感。明日は多めに飲もう。いつもの濃いめのブラック・コーヒー。
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誰とも喋らねえなという日の頻度の高さたるや。世間の情勢やらの影響もあるが、まずシンプルに、家族と過ごしていないという要素、これはでかいなと頷く。

晩婚。なんとなくそれもいいんじゃないかとか思いながら過ごす。俺は、家庭をガタガタに崩壊させる方法をいくつかシリアスに知っている。逆説的に、「それらをしなければよい」ということで、恐らく手前は意外と幸せな家庭が築けるのではという憶測。検証に向かう行動をいっさいしていないクソのような仮説だが。

憶測。それは、想像上の細い紐をたぐり、かつてない規模の価値を見い出し、周囲のあらゆる幸せに繋がる第一歩。「飛べんじゃね?」という無茶な憶測や想像や行動力からガチで飛べた古(いにしえ)の勇者。“思い込み”という生命体屈指のパワフルなエネルギーは、いつの時代も世界を輝かせる。

思い込み。これさえねじ曲がっていなければ、全てはだいたい上手くいく気がしてならない。このあいだ精神科医に聞いた「感情を思考でどう判断するか」というやつだろうか。判断によってそれは、「恐怖」とも「安心」ともなりえるという。

安心。2日ぶりに飲むコーヒーは、驚くほどの刺激を伴う満足というよりも、2泊3日の旅行から帰り、女房に「あら、おかえり」と言われ、ほっこりと「ああそうだった、やっぱいいもんだよな。これだこれ」と感ずるような、オキシトシンが分泌される類の幸福感であった。とはいえ女房は居ないから詳しくは知らん。
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なぜか6時間弱で覚醒し、もう眠たくなくなったので起床。歳と共に睡眠時間は短くなりがちと、このあいだ医師に聞いた。加齢か、それは抗えん、そうも思ったが、まあたまたまだろうということで早起きしてがっつりコーヒーを淹れて机へ。

事務作業やら原稿書きなどをして、あとの半日は全て制作時間にあてた。が、ネタがどういうわけか出てこない。さかさまになっても出てこない。着想があるような、ないような。こういう時は出てこないほうが必然。

このまま1ミリも制作が進まず一日が終わった場合、えも言えぬ悔しみに包まれるのは明白。気分転換にめしを食い、楽器を鍵盤からギターに持ち替えた深夜の入り口、やっと出てきたというか、1カ月くらい前に思いついた「仕上がりに向かいそうなフレーズ」がひとつあったことを思い出し、それを伸ばす。やっと設計図が出来る。

ちゃんとメモをすることは必須。メモが残っていれば、5時間くらいは時短できたのかもしれんと考えると悶絶。

手拍子でメモれるように、仕事部屋にホワイトボードとマジックペンを設置しようか検討の余地あり。「さあ、なにか書いてください」と言わんばかりのホワイトボードを。来客にめちゃめちゃ落書きされそうだがそれも乙。

「やめなさい。それは仕事用、制作のネタ出し用の黒板的にだな……」

「はははは。キュッキュッ」

「SEXとかすぐ書くんじゃない。中学生か」

「うははは。キュイキュイ」

「ウンコもだめだろうが。小学生か」

ムカついてもそういうのは意外とすぐ消さなかったりする。「ははは。あいつらめ」とか言って卑猥な落書きをしばらくは温かい目で眺めるであろうという妙なヘキ。
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お世話になっている仲間の方の「武者修行」と銘打つイベントに同行する。それは、東京都杉並区荻窪のとある店舗のブルース・セッションに参加するというもの。

思えば、俺はセッションバー的なところでのプレイ経験は確か無かったので新鮮。メインは、彼の演奏を見学するというオーディエンスのスタンスだったが、手前もプレイを、ということでシャッフルビートで胸を躍らせながら現地に向かった。

しかし、案件、というわけではないと俺はこうもルーズなのかとか思いつつ、時間に10分少々遅れて到着。もう、セッションは始まっていた。

3種類の和音を同パターンで進行させる「3コード」という、ブルースではおなじみの展開で、ソロ回しなどをしながら演者はステージでブルージーに振る舞う。

漏れ聞きした情報も入れると、その場にいた方々は、22歳の若者から64歳の御仁まで、非常に幅広い年齢層だった。イギリス人の紳士ベーシストもいらっしゃった。

そういった人たちとセッションをする彼を見て、大勢の前での即興演奏でもしっかりプレイするなと、しみじみしながらジントニックをガバガバいった。

俺の出番、となるとまあそれなりに、というかわりとラフに、というか、どちらかというとあまり手元も見ずにややおどけて、というか、楽しく演奏させて頂いた。

演者交代してのインターバルは、みなさんのプレイを観る。ああ、上手いプレイヤーというのはたくさんいるのだなと率直に感じた。

帰路、ちらほらと営業している呑み屋があった。緊急事態宣言も一応解除されたこともあり、彼と立ち呑みワインバー的なところでもう2杯ほど酌み交わしつつトークセッションをする。

俺は、彼がたくさんの方々の前でしっかりと自分のプレイをしていることに感銘を受けたことを伝えた。彼は、俺のプレイに対してお褒めの言葉をくださった。

ギタープレイにセッションに酒に立ち呑みと、実にいい日だったではないかと、仕事的なことは全くやらなかったが、こういう日はとても貴重ではないかと、あらゆる意味でのセッションの大切さを実感した1日。

実はブルースという音楽はさほど深く通ってきていないので、これを機にもうちょいブルージーにいこうかとも思ったが、「ブルージー」の意味を即答できないことに気がつき調べると、「憂鬱な」「気だる気な」「哀愁を帯びた」というニュアンスとのことであった。

まあ、手前はわりかし普段からそういうところあるじゃねえかということで、明日からも自然体でポップに張り切っていこうと思う。
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濡れているような、そうでもないような、煮え切らない気候。コーヒーの粉の買い出しに行った以外は、ほぼ宅で過ごす。

昨日にぎやかに過ごしたことで脳内神経伝達物質のバランスがパチンと整ったのか、心身ともにすこぶる良好。やはり、孤独が最も健康に悪しき要素という噂は真実であろうか。

原稿を一気に1つやったり楽器の練習をしたりと、滔々と過ぎる。いつもの感じが捗るのは健全の証。特筆して、偏りを感じない通常運転。

興奮、欣喜、焦燥、絶望、激昂、熱狂、畏怖、それらの極端な感情まではほぼほぼ達しない、ほどよくコンプレッサーがかかったようなナチュラルな1日。
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ライター案件をひとつやり、またもや「案件」フォルダが空と相成る。切ねえなと目を細めつつも、じゃあ制作楽曲のストックを増やしておこうと制作をする。いつものようにDAWを開き、この間ひねり出したアイディアを育てる。

親の仇の如きアグレッシブなピッキングパワーが必要なロックンロールテイストの曲。立って全力でギターを弾いていたら4弦が切れる。

4弦とは、わりかし太めの弦につき、ここが切れるとなるとよっぽどである。普通、切れるのは1弦か2弦の細い方である。しかも弦交換をしたのは数日前。ライブでもほぼ弦が切れるというアクシデント体験はないのに宅でこの体たらく。

どれだけ思い切り弾いていたのだと、ギターの弾き方が雑なのかなと、俺はまだまだ未熟なのかなと、弦代もバカにならんなと、ブツブツ言いつつ弦交換。

しかし、勢いあまって4弦を根元から切るくらいのテンションでいいじゃないかと前向きに捉え、制作を進める。まあまあ形になってきて25時。

制作でロックンロールもいい。でも、バンドで、ライブで、弦が切れるくらいのロックンロールがまたやりたいなと、やはり目を細める。
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シャワーを浴びている時に玄関のチャイムが鳴る。絶対に出られないシチュエーションNo.1であろうタイミングだよなとか呟きながら湯を纏い、一応バスルームから「はーあーい!」と大声を出すが反応はない。

何らかの郵便や配達なら「不在連絡票」が投函されているだろうとポストに行くと入っていない。何かの勧誘だったのだろうか。

さも入会やらしそうな空気を匂わせつつ、一通り話を聞いて、十分な情報が得られたタイミングで「今のとこいいっす」と、笑顔で丁重にお断りするのが好きなのだが、そのチャンスを逸したかと、まあまあどうでもいいかと、コーヒーを飲んで机でなんやかんやと3時間くらい別サイトを整えたりして過ごす。

制作のベース録音をする。いいのが録れたので、ビートの細かい打ち込みもをしてDAWを閉じる。

明日も、同時刻に、玄関のチャイムが鳴ると想定した。意外と、怖い。「昨日も来たのですがご不在で……」的なアプローチはホラー気味に怖い。

どんな用事なのか気になるが、同時刻にまた来たとしたら、ほぼ確で俺はシャワーを浴びている時間なわけだから等しく応じられない。

そんなことが1週間も続いた。となるとガチのホラーだが、それはそれで話のネタになるなとも前向きに考えたいところだが、正直、連日シャワー中にチャイムが鳴るなど、本気で慄くので御免被りたい。

そうなった場合、怖すぎるのでもう全裸でびしょ濡れのまま「何度も何度も、お前かあ!」と、1週間目くらいに強硬手段に出るも普通に国勢調査とかだったら赤っ恥をかくことは歴然。やはり、シャワー中は水浴びに集中しよう。
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ビクビクしながらシャワーを浴びるがチャイム鳴らず。それにこしたことはないと、昨日茹で溜めて保冷していた緑黄色野菜に韓国胡麻油とポン酢をドレッシングしてをモリモリ食う。手前の食生活たるや見上げたものだと感心するが食事の絶対数が少ないのは改善の余地がある。

父親の入院費の支払いに出かけた帰り、北赤羽あたりでバスから降りて桐ケ丘団地界隈を散歩する。この一連の流れは確か先々月あたりもやった。

それくらい、「過去はたいへん賑わっていたが今は閑散」という感じの古い団地の敷地内は、手前の心がゆっくりとチューニングされるのである。

このあいだ見かけた、細いネコたちを再び目にした。以前、俺は確かに言った。「昔のようにエサをたくさんくれる住人はもう、ほとんど、いないのだよ」と。

だがしかし、芋づる的に見かけるネコはというと総勢10匹。こいつら、俺の話を全く聞いていなかったのか、むしろ増えてるじゃねえかと、呆れていた。そこでふと視界に入ったのは、ネコ缶をほぐして器に配膳する妙齢の女性。

妙に高いトーンの声でなにやらネコたちに話しかけつつ、せっせとメシを食わせていた。この地に住人はほぼいなくとも、まだ食いっぱぐれていないのだなと安心しつつネコ集団のもとを去る。

少し歩くとまだまだ、ぽつり、ぽつりと野生のネコを見かける。確変状態である。彼らは、首輪をした飼いネコでもなく、耳先に切れ目を入れられた地域ネコでもなく、生粋のノラ。顔つきからして違う。

野生のネコたちには所定の住処やエサ場などはなく、ヤクザなヤクザなその日暮らし。どことなく、共感できるようなしてはいけないような、そもそも生態が異なるやら、そんなことを考えながら散歩して赤羽駅に着く。

古団地のあの静けさとは真逆のコントラストの喧騒。駅前では政治家の方が演説をしていた。

イントロが終わり、さあこれから、というタイミングだったようなので俺は真正面に立ち、街角のポスターでよく見かけるその政治家の顔をガン見しながら終始聞いた。すると側近の人的なスーツのとっつぁんがチラシを持ってグイとくる。

「ありがとうございます! 応援されている方ですか?」

「その判断をしているのです」

俺の姿が、ライブ会場で推しの真正面でわくわくしているように見えたのだろうか。「応援している」という前提で話しかけてくるそのとっつぁんは、きっと育ちがよいのだろうかと想像した。

政治家の方の話は、内容がピンとこなかったのか、波長が合わなかったのか、ひとつも俺には響かなかった。どこがサビにあたるくだりだったのかすら、わからなかった。何より気になったのは、体感的に20分は静聴していたのだが、政治家の方は、1回も俺と目を合わさなかった。

そういう決め事があるのか、というくらい不自然に目を合わせなかった。ちなみに今日の手前のファッションはさっぱりすっきりとしており、どう見ても人畜無害な、いきなりヒャッハーと火炎瓶を投げつけるような輩には見えなかったはずである。

身近な、目の前の人間と対峙せず、大勢の暮らしを支えることができるのかな。いや、1人を見捨てて99人のことを考えるのが政治なのかな。とか考えながら帰路。

近所の茶トラに、桐ケ丘団地のネコたちの話でもしてやろうとテリトリーを見回したが、まだ夕方あたりだったのでいなかった。奴の活動のピークは25時〜27時くらいなので無理もない。

人間というのは妙なもので、野放しの動物に無償で食事を施す者も、それを傍観する者も、何万人のことを考えていることを伝えながらも目の前の1人には伝えようとしない者もいたりと、まこと謎な生態なのだよと、そのへんも伝えたかった。

それはネコにではなく、かたちを変えて人である誰かに伝えたほうがよさ気だが。要するに、至近距離の政治家の方に全く相手にされず、若干悲しかった。
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宅でMIX作業をしていてミキサーの画面を眺めていた昼間、そういえばと思い、叔父の経営する西川口純喫茶『アルマンド』へ向かう。店内音響設備の充実のため、手前が以前まで使用していたミキサーとケーブル一式を寄贈するためである。

加えて、叔父は、「そろそろ歳も歳だから親族などになるべく会っておきたい」との連絡を一昨日受けたこともある。

店に着いてコーヒーを頂きながら叔父と話す。全然元気であった。なんでも、俺は血縁ではこの店にわりと顔を出すほうだが、ほかの親戚にもということで、生存やら連絡先やらを教えてくれないかとのことだった。

しかし、俺の父方の家系はなにかと謎すぎるので情報は皆無と言っていいほど。母方のほうも、目の前にいる叔父以外の親族とは一律疎遠である。

そういったわけで、力にはなれなかった。ミキサーの繋げ方を常連客に一通りレクチャーし、あとは常備されている鍵盤などを弾いて遊んでいた。

そして、叔父が買い出しに行った隙に帰ることにした。また、こづかいをズイと渡されたら、それはそれでたいへん嬉しいのだが、やはり気をつかうので、常連客に「賢治さんは『本屋が閉まっちゃうから』と言って帰った」と、叔父に伝えるようお願いしてソソソと帰路に着く。

嘘ということにしないためにも、駅前のブックオフで立ち読みをして過ごす。『ハンチョウ』という漫画(10巻)の「久々に『mixi』にログインして、昔の日記を読んで恥じらい合う」というくだりの回が超絶面白くてプークスと声を出して吹く。

気がつけば2時間は経っていたのでおやおやと思い適当に漫画1冊買って赤羽へ戻る。カツ丼「竹」を食って帰宅。「梅」で充分だったなと腹をさすりながらちょっと休んで再びMIXを進め、もう1日あれば完成というところまで進めてDAWを閉じる。

「もう歳も歳だから」というのは、叔父も言葉として出していたが「終活」というテイストも含むらしい。

人が死ぬ間際に「もっと何をしていればよかった」と思うことベスト3くらいに、「もっと家族と過ごせばよかった」「もっと友達と会って過ごしていればよかった」というシンプルなものが挙がると何かで読んだ。

4年くらい前、父親の自宅介護期間中、まだ認知症中期といった感じだったのでよく2人で散歩に行った。彼がまだ、杖をついて、そこそこ歩ける頃だった。

農業公園というだだっぴろい場所を散歩していた時、明日死んでもおかしくなさげな老人が話しかけてきて、なんやかんやと親父と会話をしていた。

側から聞いていたら全くもって噛み合っていないトークだったが、まあそうもなるよなと、俺は「早く帰りてえな」とか思いつつ、ただ眺めていた。

最後に老人は、親父と握手をして「ああ、幸せだあ」と、笑っていた。人の幸せの様子を感じられる場面は多々あるが、ああもリアリティがあるというか、肚の底から「幸せだ」という感情を発する人を見るのはまこと稀有。

人は最終的には、もっと人と触れ合いたいと思うようになるのだなと、その時、初めて実感したのをよく覚えている。

俺に、「ああ、そろそろかな」という時期が来たら、何を思うのだろう。病室にいたとしたら、会いにくる家族はいるのだろうか。

いなかったらいなかったで、看護師さんに「もうあれだから、せめて酒呑ませてくれんか」とか「もう先もないし、ずっと我慢してたフリー雀荘行ってきていいか」やら、俗な欲求を口にするのだろうか。

それとも、「――くんに、あと――さんに会いたいのだが」とか、まともなことをせがむのだろうか。

その時にならないとわからないが、とりあえず現状において、貴重な親族に対しては、「会いに行く」ということを怠らないようにしようと思う。されど、互いに後悔は残らないようになるのであろう。

そのように、わりとまともなことを考えていた。20代、30代半ばまでではいっさい考えなかったことである。人間、10年ちょいでこうも考え方に変化があるのだから、俺が70、80代とかまで生きていたとしたら、今では想像もしない思考になっている可能性は高い。

そうなると、その時、その時代に考えていることは、わりと貴重だなとしみじみ思う。とはいえ、手前の20代後半の頃の「mixi」の日記はガチで黒歴史っぽいのでログインはせず。
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昨夜、近所で会ういつもの茶トラの首輪がおニューになっていた。心なしか、彼のテンションは普段より高めで、かなりのロングトーンで鳴きつつ近づいてくる。「ニャアアアア」と、グイと脚にぶつかってくる。

わかる。新たなアイテムを自慢したいのであろう。そのへんは人間もネコも、共通して抱いている顕示欲というもの。俺はちゃんとその件を拾ってやった。

「おや、首輪が新しくなっているね」と。「すごいね。ポール・スミスのアイテムの裏地みたいなカラフルな柄だね」と。「奇遇だねえ。俺の財布もポール・スミスのやつでね。そう、そのブランドの池袋店で一番高いやつさ……」と。

まあ、何を言ったところで「ニャー」以外の返答はないわけではあるが、俺は彼の雰囲気から明らかに「だろ? いいだろこれ?」という空気感を得られた。

相手との距離を近づけたかったらそいつの持ち物を褒めろ、というのはもはや対人関係においての定石と言えようか。それは、ネコにも通用するのか。検証した結果、通用した気がするようなしないような。

深夜に長時間界隈をうろつくという悪行が習慣のこの茶トラも、飼い主さんに可愛がられているのだな、大切にされているのだなとほっこりした。

しかし彼は、褒めたりモフっていたりと、喜ぶであろうことをずっとしていると、何故か感極まって噛んでくる習性がある。昨夜は肘をガブリと噛まれた。意味がわからない。人間でいうところの、褒めすぎて「ちょっとお!」とか言いながら軽く叩いてくる女の子のようなニュアンスだろうか。

真意は知らんが、俺はその度に諭す。「いいかい? 噛んじゃダメだ。基本的に」と。それでもやはり「ニャー」以外の返答はないわけだが、たぶん、理解していても噛んでくるだろう。

褒めて噛まれて諭して理解してもらえない関係。なんだか青春期の男女の恋愛みたいで淡いではないか、とも思うが、その美化の仕方たるやあまりにも過度。
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昨日仕上げた曲を聴き返して確認し、「完成」と判断できたのでプラットフォーム様に申請をする。その後しばらくギターを弾いたりして過ごし、あとの時間は都内の某BARでまったりしていた。事前に頂いたお誘いに出かけた。

様々な方々がいる場で賑やかに憩う。たいへんおいしいフードをたくさん頂きつつ、ジントニックを健全なペースで呑みつつ、半日弱はそこで和やかに楽しむ。

こういう日もいいものだと穏やかな気持ちで帰宅。車で送って頂くという僥倖。色々と、完全にご馳走になったことへの感謝の意は禁じ得ない。健やかな非日常。ふれあいを賜りほっこりした良日。
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コラム案件を頂いたので着手する。「こういったテイストで」という、おおまかな内容を受け、それを鑑み、だいたい2,000字くらい、原稿用紙5枚分くらいの文字量がちょうどいい感じの記事。3時間弱かけて執筆する。

「執筆」と書くとどうも恰好よい。「平吉さん、この案件書けるかな?」と、依頼されるのと「平吉さん、この案件の執筆をお願いできるかな?」とではテンション的にわりと異なる。後者のほうがやる気が出る。そんなんでモチベーションが変化するのなら編集部としては実にチョロいところであろう。

どっちの言葉のチョイスで受けたか忘れたが、いずれにせよせっせと書く。不思議なもので、ここに約2,000字を記す時は15分くらいで書けるのだが、媒体を通して記事化される原稿の場合はその10倍の時間はかかる。

なぜかというと「自己検閲」のレベルがまるで違うからである。たとえばここに「ウンコがどうの」と書いても誰も咎めないし不都合はない。少々、品がないかな、というくらいである。しかし、案件の場合は当然そうはいかない。

固有名詞や事実関係の正誤はもちろん、文調もこのようにユルユルというわけにはいかない。誤字脱字はないか、読んだ誰かが傷つくような表現はないか、内容が重複している部分はないか、対象を持ち上げすぎてないか、主観でディスっていないか、根本的に、つまらなくはないか、テーマに沿っているか、読みにくくはないか、などなど、常に色々な要素に対する検閲がかかっているのだからそれは時間もかかる。

とはいえ、こういった日記的雑文にも俺は最近「自己検閲」をかけている。それは、周囲の人たちの固有名詞を基本的には記載しないという点である。

理由としては、ここに書いているあらゆることはノンフィクションなこともあり、固有名詞を出してどうこうというのは立派な個人情報になりうるからである。

昔は、たとえば足立くんが家に来てわちゃわちゃ遊んでいた、などと具体的に書いていたが、最近は控えている。「その日に」「誰が」「どこで」「なにをした」というのは、個人情報なのだという。それは、昨今は特にデリケートだそうな。

これが歯がゆい。どの日に、「誰」と何をしたのかというのがかなり重要なのだがそこに自己検閲がかかる。よっぽど開けて知られている時、たとえばライブの日にどこで何をした、打ち上げでメンバーが家に来た、というような時は、事前に告知もされているし、日時も公開されているので問題はないと判断し、ふつうに書いている。

それ以外の時は、「同級生」とか「知人」「仲間」やら「かつての同僚」「某氏」など、ふわっと表現して特定の証拠に至るまでの情報とまではいかないようにしている。

歯がゆいのならばネットで閲覧できるところではなく、手前のノートにでもしたためていればいいとも思う。しかし、そうなると俺は高確率でサボる。やる気がある時しか書かない、おおよそ「日記」とは呼べないものになるであろう。

加えて、遠慮なく何を書いても問題ないからといって、日頃のドス黒い不平不満で埋め尽くされたデス・ノートのような日記になる可能性も低くはない。

そうなってくると、ここはここで、不平不満用にノートへと、書き分ければいいのではないかという案が出た。されど、なにもかもアウトプットしてスッキリぐっすり眠れるのではないかと。

「裏アカ」ならぬ「裏日記」。嫌だなと思ったことを書きなぐる行為は実は精神衛生上よいらしい。しかし、こと手前においては、それを記す意味も効果もクソな気がしてきたので即刻棄却。裏日記はシンプルにめんどい。
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昨日の原稿を精査して提出し、あとは制作をする。ギター入れの依頼案件なので入念におこなう。

わりとウンウン唸って数時間、やっと形が見えたので半分くらいは行ったかなというところまで進める。

唸りすぎて考えすぎて、なんとも遠回しな感じのパートになっているもその日は気づけないということがたまにある。明日聴いて「あれ?」とならないことを祈るばかり。昨日今日と、とても気温の低い秋の追い込み感の1日。
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まるっと1日制作をして過ごす。昨日録音したトラックを聴いて「あれ?」とはならなかったのでその線で続行。依頼者は早めだと嬉しいとのことなのでなんなら今日中にという勢いでやるも終わらず。

とはいえ70%はいったかなという進捗なので明日仕上がれば優秀。昼に米と豆とモヤシを食べたきりなので当然腹が減る。わりとクタクタといった感じなので今日あたりは酒1合で仕上がりそうだがやはり2つはいきたい。

そのモチベーションを食事に向けるべきだとは理解しているがなかなか難しい。めしを飛ばす生活習慣。タモリさんあたりは確か1日1食と聞いたことがあるから大丈夫な人は大丈夫なのであろう。

しかし、たまに深夜に酒を呑み干した後、謎に蕎麦や袋ラーメンを茹でて食う時があるのは大丈夫ではない証拠であろう。この1点については自戒したい。と、考えている現時点で相当食いたいラーメン。やはり夕食は大切。
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昨夜、ひとりホッピーを呑んでいたら二日酔いに。宅呑みのホッピーは虚しいとあれだけ自戒していたが定期的に湧くホッピー欲には抗えず。しかも〆の宅ラーメンまで食い散らかす始末である。

「夕食は大切」と、つい昨日省みていた気がするのだがこの体たらく。もしかして俺はアホの子なのだろうか。

決して、そのようなことはないと信じる心が大切である。逆に、アホならアホで自覚することも必要である。手前にとって適切なのはどっちか。アホか賢いか、要は「頭がよい」というのはどういった観念かと考える。

答えはすぐに出た。「どれだけ考えられるか」であろうか。だとしたら俺は決してアホの子ではない。「めちゃめちゃ考えたが、そこに則らない」ということがたまにあるだけである。

「すなわちバカじゃん」と、言われた場合、否定はしない。しかし、肯定もしない。俺は、アホとか賢いとかそういったポイントで人間を判断しない。というか、そもそものテーマは「これはしない」ということをしないかしちゃうか、という点である。

そのように一人論点のすりかえ遊びが頭を馳せめぐるなか、今日とて昨日と同じ内容・時間軸で過ごす。ギター入れ依頼案件の全トラックを収める。なかなか出し切った感はあるが今日はめしをちゃんと食ったのでまだいける。

とはいえ深夜なのでいく必要はない。明日、精査して提出である。今夜はソファで酒でもすすりつつもっさり休む。好きな漫画を読み返す、YouTubeで離島の動画を観て旅欲を擬似的に満たすという省エネなエンタメライフ。

とにかく旅に行きたい。インドとか、いかにも手前が行きたくとも行かなそうな場所ではなく、現実的な場所へ。

しかし現実的な場所への旅たるや、それはもはや日常の類。それこそ、もっと考えて行動すればいいだけの話である。要するに、島とかに旅行に行ったら俺はアホの子ではないことが証明される。手前で唱えて意味不明のまこと捻じ狂った理論。

三段論法で整理するとこうなる。「ちゃんと考えている者はアホではない」「俺は、非現実的な場所の旅先を考えてから行った」「すなわち俺はアホではない」と。いやなんか違う気がする。
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宅で作業し、よし完了だという頃、夕方過ぎあたりに友人よりめしのお誘いを受ける。実に丁度いいタイミングだなと食いつき、ステーキ屋に連れて行ってもらって450グラムの牛肉を共にたいらげる(おごってもらう)。

あとは宅で珈琲を飲み交わしつつ、音楽や人生のスタンスや対人関係などをテーマにずっとトークに興じる。ほぼほぼ友人と喋っていたというほっこりした1日。ここ数日間、連日一人で録音作業をしていたのでとてもよい心地だった。

不思議なのは、この友人のお誘いに限っては、必ずと言っていいほど「今はちょっと」「今は出先で」「作業の山場なんだがな」という時ではなく、「丁度いい」という頃に声がかかる。

同年代の時間軸の、なんとなく合致する何かがあるのだろうか。そういった存在は相当に貴重。「何年後には――」というような話もしたが、その頃になっても気さくに絡んでいられることがリアルに想像ができることも相当に貴重。日に日に、友人という関係値の大切さが沁みる。
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仲間のバースデイプレゼントを買いに池袋へ。ついでにずっと気になっていた『アニメイト』という店に行き、9階まである全フロアを周る。

ずいぶんいろんなジャンルの漫画があるものだなと、色々とまだ世界観がたくさんあるのだなと感銘を受ける。気になった漫画を1つ買い、メインの買い物もし、ずっと欲しかったスマホスタンドも購入。これは生配信等がとても捗るであろうアイテム。

たまにはと思いトンコツラーメンの替え玉つきを食べたり、滅多に買わない缶のコーラを飲んだりして街をぶらつき、いかにもな日曜日感を一人で地味に出す。

宅に戻って楽器練習や楽曲アナライズをして過ごすうちに、「やはりあの、あまりにもコアそうな漫画を買うべきだったのかもしれない」と若干の後悔が生じる。なぜ、無意味な抑制がかかったのか謎でしょうがない。
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ほぼ1日制作をして暮らす。寒風やら秋雨やらと、徐々に年が暮れていくのを肌で感じる。ここ数日、馴染みのネコとも出くわさないほどの薄ら寒い気候。やはり、飼いネコだから自宅のコタツあたりで丸々と過ごしているのだろうか。

合間に本屋でがっつり立ち読みをする。俺は株やらの投資は全くしないのだが、なんとなく「四季報」なる、会社の業績などがびっちり記してある本をしげしげと読む。

コロナ禍の影響で旅行業界や音楽業界、エンタメ業界などは大打撃、とよく聞くが、そこには数字でその具合が明瞭に示してあった。

売上、利益、共にグンと上がっているのはやはりAppleやらGoogleやらといった超メジャーどころ。そりゃそうかと納得し、他の業界も色々見てみたら気になったのはサラ金、今は消費者金融と呼ぶのだろうか、そのあたりの「利益」の伸び具合である。

売上は減っていても利益が伸びている。サラ金等の儲けの多さを如実に物語っている。あな恐ろしきはマックス18%という年利の破壊力。そして介護業界も伸びている。これも何かを大いに物語っている。

手前が以前勤めていた会社も書いてあった。けっこう伸びていた。しかしこの間、元同僚に聞いたら賃金等はべつに増えていないとのことであった。

いろんな業界、多種多様に凌いでいるのだなという客観的な所感。手前はというと、一昨日あたりで再び手元の案件はカラになる。大丈夫なのかなと年中感じているのだが、資金が大きく減りも増えもしていないので世間の空気を読みつつ、蓄えに育つコンテンツを作る。とんでもない数字の「利益」があとからついてくると信じて。とはいえ今日あたりはネタ出しをしてもピシャッとしたのがあまり出てこなかったのがつらい。悔しいがそういう日もある。
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書店で見かけた『文豪の死に様』という本。某氏に勧められたことを思い出し、ちょっと読んでみる。タイトルだけで満腹になりそうなテーマだが、とりあえず芥川龍之介さんのくだりを読む。

芥川龍之介さんや太宰治さんなど、想像だが、鬱の淵でキリキリしていそうな作家の話をしいて、2、3人は同じことを言っていた。「あれは現代からするとメンヘラだ」と。

歴史的文豪をつかまえてメンヘラというのも豪快な解釈だなとは思うが、手前も似たような印象を抱いてなくもない。精神に異常をきたすギリのラインというか、そのへんは作品から十分伝わってくる。

もし、彼らが現代にいたら、きっと頭がいいのだろうから、自身の具合について情報を集めるうちに、メンタルクリニック等にたどり着くルートもあると俺は思った。

希死念慮や、“何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安”という類の気分は、現代では副作用薄めの薬でも、わりと改善するケースがある。

芥川さんが改善してめっちゃパリピになったと想像した。されど、『歯車』などの傑作は、まず生まれなかったのではないかと感じた。

太宰さんも、カルモチン(当時の睡眠薬)ではなく、依存性が弱めの最近の睡眠薬や抗不安薬などを試したら、彼は陽キャの方面にいくのではないかと想像した。されど、『人間失格』などの名作は残されなかったのではないかとも思った。

名作と呼ばれるあらゆる作品は、作家のギリギリの状態と創作物のコントラストというか、そのような源流ありきなのかなと想像した。それは、なんとなくいまだに否定できない。

文句なしの円満な家庭で育ち、順風満帆な人生の日々を過ごし、潤沢な蓄えもあり、友人知人に恵まれている人間がいるとする。それは、幸せだと思う。しかし、そこから絶望的な傑作が生まれる理由というのは見当たらない。

逆に、複雑な家庭環境等が起因で人格形成はとてもオルタナティブ。あるいは、または加えて、調子が優れない状態がデフォルト。そこが根っこだから常識的世間とはソリが合わない。それが不幸かどうかは人によるが、そういった人間は、対価として、魔法を手に入れたように、ソリッドな作品を創ることが多い気がする。

そのあたりの、基本的にはつらいとも解釈できる部分が、ある種の「原料」のようになり、人によっては芸術として昇華することができて、多くの受け手の魂を揺さぶることができるのだろうか。

ズンと響く作品と、その作家の精神状態の相対関係はいつの世も濃いのではないかとつくづく思う。単に俺が、恐ろしいまでにリアリティを孕んだ暗い作風の作品を著しく好んでいるというだけの話なのかもしれないが。
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選挙で誰に投票するかの選考基準は人それぞれかと思われる。俺はいつもだいたい「やってくれそうな顔」と判断した方を選んでいるが、 今回はもうちょい真面目な方法をとった。

やはり何事もライブを見て判断するのがよかれと、俺は赤羽駅付近で演説している候補者の演説をいくつか傍聴したのである。一人は、目の前にいる俺に一瞥もくれはしなかった。あれは実に寂しかったということで除外した。もう一人は、正直何が言いたいのかわからなかったが謎の勢いが十分あってまあまあと感じた。

そういったソースをもとに前もって投票に行った。今回は推しはいないが、まあこの人なら、という感じのフワッとした投票。とりあえず手前はアナーキーではないという個人的主張も含む投票。本当にフワッとしていた。

外出といったら今日はそれくらいで、あとは宅で制作やらをしていた。このあいだ、ギターを弾くにあたって相当重要な左手の中指の先っちょを負傷し、しばらくギターが弾けなかった。だから鍵盤で作曲をしていた。

五線紙にえんぴつ、消しゴム、鍵盤のピアノの音色のみと、現代においてこのスタイルはいるのかなというくらいシンプルな制作。「何世紀の前の人はこんな感じで作っていたのかな」と、今日あたり感じ、落ち着きつつも興奮も混じるよい心境が生じる。

なんなら、DAW上でビートを組み立てたり、サンプリング音を重ねてDJ的な手法で作ったり、MIDIと呼ばれる演奏データを打ち込んで作ることも可能だし、それらはまあまあよくやる手ではあるが紙とえんぴつと鍵盤。DAWに波形を並べるよりも、音符やコードでだんだんと五線紙が黒くなっていく方が作ってる感がある。

そろそろどうかなと思い、ちょっとギターを弾いてみたらいける。指先の傷は埋まりつつあり、過激なギターソロとかでなければ問題なく弾ける。

じゃあやりやすいギターでと、楽器を持ち替えることはせず、怪我の功名でアナログすぎる作曲方法から得られる幸福感を思い出したとポジティブに捉え、そのまま鍵盤のみでアレンジ以外は完成させようと進める。

オーバーダビングもしなければ録音メモもとらない。音と紙とペン。ゼロとイチの組み合わせのデジタルではなく、ゼロとイチの間に無限の感覚があるアナログ。やはり、人間はこの感触に対する快感は根強いのだろうか。

「iPod」の真ん中のホイールをキャリキャリするというアナログな操作方法。この点について、もっとデジタルなデバイスにすることもできたが、あえてそういったアナログな部分を残したと聞いたことがある。

スティーブ・ジョブズさんのアイディアか、Apple社製作陣の総意なのかは定かではないが、そのほうが人間が根源的に持つ「操作している感」の悦が得られるという目的があったと知って関心した記憶がある。確か「iPod」だった気がする。

そんなことを思い出しながら、メロディと和音を確定させた部分の32小節くらいを楽譜に書いて悦に浸る。アナログな記録方法はやはり気持ちがいい。

とはいえ、いまだに紙とえんぴつの投票方法に関してはそろそろデジタルでいい気がしないでもない。候補者の名前を手書きして箱に入れるアナログな行為に快感も何もなかろうもと。それとも、「これじゃなきゃダメなんだ!」という方もいらっしゃるのだろうか。だとしたら、目的は違えど、気持ちは少しわかる気がする。
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案件を賜ったのでさっそく着手する。ほぼほぼな感じまで進み、指も治ったことだしギターも弾けると思いツイキャスをやる。

もうちょいやりたかったなと、どうすればもっと観てくださる方々に楽しんで頂けるのかなと、そのようなことを考えながら、23時前あたりから散歩をする。夜間の徘徊。

自宅より少し離れた通りで、最近見かけなくなった茶トラを発見。ここまで彼のテリトリーが拡大したのか、あるいは手前の自宅付近にいいかげん飽きたのか、色々問うたが、まあ「ニャア」としか返ってこず。いつもの、実際に噛んでくるくらいの勢いのテンションでもなかった。どこか、探検や縄張りチェックで忙しそうな様子に見えた。なにしろ元気そうで何よりと、30分くらいで帰宅。

俺もテリトリーを広げたり探検したりして奮起するべく、なんやかんや頑張ろうと思った。最近ずっと燻っている旅欲は、「いやあ、なんやかんや頑張ったな」と判断した暁の褒美としようか。それともグダグダ考えずにまずは行ってしまい、なんらかのきっかけやらを得るのが先だろうか。

こういう時はだいたい後者、まずやってみるというのが後悔をしないパターンだったりする。とりあえず、旅に耐えうるバッグを買うところからだと現実味が出る。

そもそも、そういったアイテムを持っていないあたりは「バンドを組んで楽器をプレイしたいけどギターもベースも鍵盤も持っていない」という状態に等しい。まずは、バッグを買おう。なんなら数千円で買える。

旅に出たいとかぬかし始めて約1カ月。旅に出るスタートラインにすら立っていなかったことに今さら気づき夜が更けていく。バッグを買って前に進もう。というほど大袈裟なものでもないが。
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謎に絶好調に早起きをし、正午過ぎには2、3、タスクを済ませて寝間着の買い物に行く。

ところがじわじわと腹と気分の調子が下降してきて「これはいかん」と思い買ってすぐ帰宅。横になったり厠に行ったりを何往復かする体たらく。

ほぼ確で、昨夜食べたおつとめ品のマグロが当たったと思われる。確かに絶妙な味がした気がしないでもない。しかし悪寒までセットというのは何か別の体の不具合ではないかと素で心配になる。

とはいえ熱もないし食欲もあるので、袋ラーメンに卵やネギを盛って食い横になる。ほとんどの時間をソファでぐったりして過ごす。早い時間にやることやっておいてよかったが制作もしたかったなと、そうは思いつつも健康第一ということで休む。

深夜、やっと峠を越えて回復の兆しの感覚を得たのでだいぶ落ち着く。とりあえず良くなって安堵する。つくづく、何事をするにも企てるにも、元気であることが前提なのだなと再認識した冬の初期。
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病み上がりの素晴らしいテンション感。11時間も寝込めばそれはそうもなろうとシャキリと起きる。体調はすっかり治る。今日は、こことは別のウェブサイト更新や制作をして過ごす。

夜、めしを買いに街に出ると異様な人出。選挙関連の方々や陽気にアコギを弾いているとっつぁん、いつもよりはるかに多めの黒服さん方、なんだか今日はやる気がありそうなガールズバーの呼び込みの娘さん方、「東京卍會」という刺繍の入った学ランだか特攻服を来た兄さんと、千差万別。

これはみんな、コロナ禍が終わったと判断しているのかなという空気感だった。選挙投票日寸前とハロウィンが重なった週末だからそうもなろうと、でかいおにぎり2つとコロッケを買ってササと帰る。

やはり今年のコスプレのトレンドは『東京卍リベンジャーズ』かと、この間「アニメイト」で確認した知識を確かめつつ俺もなんか扮してえなと思うも、ハロウィン仮装というのは未体験である。

世代的に『ナニワ金融道』とか『代紋TAKE2』あたりのコスプレがいいのだが、それをやったら反社的な方から普通にオイコラと絡まれそうなのでいかん。

じゃあポップに『エヴァンゲリオン』とか普遍的なアニメのキャラに、という案もあるが、年齢的にきっと碇ゲンドウか冬月コウゾウあたりが適しているのかなとか考えるとだんだん切なくなってくる。そうなってくるとやはりハロウィンとは若者の祭りなのだろうか。いまだにコンセプトを知らん。
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「思考は現実化する」などとはよく言ったもので、ポジティブなものも、ネガティブなものも、願わくば、想えば、言葉にすれば、それはリアリティを伴って現実となりがち。

そういった観念を、俺は信じているというか体験や実感込みで、シンプルに「そういうものだ」と、解釈している。

何が言いたいかというと今日あたりは夕方頃から特攻服を着てコスプレをしてイベントのお手伝いをしていた。確かに昨日、「俺もなんか扮してえな」という思考を記した。この即時性たるや。

ギタリストのよしおさんのバースデイ・イベント、そしてハロウィーン当日。出演者であるヨディーさんとよしおさんは共に、2部構成の第1部の衣装として『東京卍リベンジャーズ』のキャラクターのコスプレをしていた。

「ああ、いいですねそれ。恰好いいですなあ」と伝えたら、2部では別の衣装ということもあってか「じゃあ2部では平吉さんこれ着てます?」と、きたので、いやいや俺は今日は演者ではないしとか思いつつも「着ます!」と食いつき、「天上天下唯我独尊」やら「初代総長」などの文言のいかつい刺繍が入った特攻服を着させて頂く。

着てみたらたいへん気に入ったので、イベント終了後にみなさん着替えた後も着用していた。するとヨディーさんは「そんなに気に入ったんならあげますよ!」と、微笑む。今日以外に着る機会があるかどうかという思考は出てこず、遠慮しつつも「ありがとうございます!」と、笑顔で賜る。

足立くんにせがんで記念のチェキも撮ってもらいハッピーな気持ちになる。よしおさんとヨディーさんのステージパフォーマンスも素敵だったし、楽しい1日だったなと、特攻服のままJR線に乗って帰る。めちゃめちゃ着心地がいいのである。

さすがに上着は羽織っていたが、変なのにオイコラと絡まれんようにしないとなと、赤羽駅北口から家に向かう。時間帯的に当然、呼び込みのお兄さん方がぬるりと寄ってらっしゃる。

「今日はいかがですか……?」と。「ちなみに……?」と。「キャバクラは? オッパ……」と。軽く手を横に振るなどのジェスチャーのみだと、黒服さん方は最低3度は食いついてくる。最初に相手の目をちゃんと見た上で、口頭でも「いえ、いいです」と柔らかい表情で伝えると、平均2回くらいのアプローチで抑えられる。

「仮装したままでもOKっ!」と言い放ったあの旦那には、どうやら上下特攻服姿だったことがバレバレだったようで、わりと照れつつ「そういうわけで帰るんです…!」と、ご納得して頂く。

そのような感じでイベントを共にしたみなさまと楽しく過ごした。国内におけるハロウィンという祭りは、「Trick or Treat」的な本来の習慣とは毛色が違うのかもしれない。しかし、初めてコスプレというものを体験して、みなさんとハッピーに過ごしたことにより、“ハロウィン”とは仮装という表現込みで大勢で楽しむというコンセプトなのだなと、体験をもって理解した。

なお、頂いた特攻服はしばらくハンガーにかけて部屋の壁にぶらさげておくことにする。俺の寝室は年々、順調にカオスさを増していく。
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