09/2021

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
心の黄金比とは。


しとしと降る雨が街を濡らして季節が巡る。9月第一日にふさわしきエアコン要らずのエアー感。

外に出るとたいへん懐かしい匂いがして、とぼとぼと歩いているだけで不思議と希死念慮がフワァッと湧く。正確には、死を示唆するような沢山の柔らかい粒のようなものが、うっすらと、大きな布状になり、全方位から覆われるように、深く自身に浸透する感覚である。

しかしながら俺は「季節の変わり目とは、そういうものだ」ということをわりと具体的な知識をもってわかってきたのでそんな刹那的情念には屈しない。ひさびさに温かいキノコうどん健康定食をこしらえてすする。今日はそれしか食わなかった。やせ細って死にはしないだろうか。

一日中DAWに張り付いて制作をしていると、なぜかめしはわりとどうでもよくなるのである。体にはよくない。

しかし、制作コンテンツをどっさり購入して頂けた報せを受けると、手前の報酬脳はギンギンに刺激され、意欲も勢いよく増すというもの。もっと曲を作って収益を伸ばそうと、だいぶ張り切って作業するも当然手の疲労がえらいことになる。

夜も依頼案件のギターパートを考えていたら手首がさらにしんどいことになる。これはもう、熱湯の湯船に丸っこいアヒルでも浮かべつつゆっくり浸り、瓶入りギネスビールでもすすりながらたまには小説でも読もうかと思う。

太宰治さんあたりの作品にしようか。もっと遡って芥川龍之介さんにしようか。いずれにしても死にたくなるフィーリングに包まれることは避けられなそうなのでとびきりファンキーなやつにしようか。いや、こういう時こそ瀬戸内寂聴さんの小説がふさわしかろう。

“――私たちのあらゆる人間が、国籍、人種、貧富や身分の上下にもかかわらず、平等に与えられているものは、必ず死ぬという約束と、限られた生ということでしょう――”という、『寂庵説法』に綴られている一節。

なんとも身も蓋もない、“必ず死ぬという約束”というフレーズがわりと好きである。
_09/01

 

 

 


実の兄貴と死んだ母ちゃんが2丁ずつ包丁を持って殺しにかかってくる。俺は「ああ、これは本気の顔だ。刺される」と判断し戦慄。そのような夢を見て、これはもう、いよいよだなと思いながら起床し、数分間は手前の寝室にいる実感が湧かなかった。

寝起きのせん妄、よくあるよくあると心を宥め、蕎麦を茹でて勢いよくすする。ズバビバドゥと快音を鳴らす。

コラム案件を賜ったので早速着手する。珈琲が冷えるのも早くなる季節か、などと呟きながらしばらくすると一通り書き、どれどれと読み返してみると「なんてつまらねえ文章だ」という率直な感想が漏れる。

書いた手前がつまらんと思うものを誰が読んで喜ぶのか。俺はそのように、憤慨とやるせなさが混じり合った、えも言えぬ感情に包まれ、一度椅子から離れる。

フェンダーのいかついアンプ直でギターを鳴らす。現実逃避ではなく気分転換。それはまこと間違いない事実であると認識し、レディオヘッドの曲などを弾いていたらブワと高まったので動画に収めてSNSに投稿する。せっかくコンパクトに編集したのに間違えて無編集のほうをアップし、さっき15分ほど動画編集に割いた時間は一体なんだったのかと、しばらく編集ソフトの画面を眺めては「まあどっちでもいいし」と、トム・ヨークさんの歌い方くらいファルセットな声が漏れる。

やれやれと思い再び原稿を書く。「ひとつ、この内容を表す命題となる一節さえあれば」という段階まで煮詰まる手前まで進む。

そして「これならわりと面白いかもしれん」というくだりが書け、あとは明日に持ち越すという段階まで進み安堵。

あとは制作をする時間にあてようと、ストラトキャスターの弦を張り替えて依頼案件を進める。こちらもフレーズの全体イメージができて、あとは詰めて考えて丁寧に弾くだけ、という段階まで進みこれまた安堵。

とはいえ、「提出」や「発表」という最終段階と、進捗率50%〜80%との差は数字以上の開きがある。しかし、「明日もこれをせっせと張り切っていこう」と思える精神状態に関しては、進捗率50%未満のそれとではまた全然異なる。0%〜10%となってくると、いわゆる重い腰をなかなか上げない状態である。

要するに、よきモチベーションを保ちつつ案件ができてよかったなという真面目に幸せな一日。やはり、レディオヘッドの「Paranoid Android」を弾くと、謎にエネルギーがほとばしる。比類なき恰好よさの楽曲ではあるが、結局、何について歌っている曲かいまだにわからん。そういう曲がとても好きである。
_09/02

 

 

 


進捗率75%の原稿を完成させるまでになぜか恐ろしく時間がかかる。そういう時もたまにはある、そのぶんちゃんと書けていると思われるからよしと、ぐったりしながら手前に言い聞かせる。

そういったわけで今日の活動時間の半分以上はWordの画面を見ていたから目がチカチカして頭皮まで痛くなってくる。

隙間時間に『アウトレイジ』のDVDでも借りに近所のTSUTAYAさんに行こうと思っていたが叶わず。いくつかあるらしい『アウトレイジ』シリーズを最初から順に観ようという想い、今日あたりは散る。

ほぼほぼ机に張り付く日々が続く。人と喋らない日常も慣れてきた。刺激が少なくても特に不満を感じなくなってきた。こうして俺は浮世離れとなるのだろうか。

手前の人生の進捗率は何パーなのであろう。半分はいったのだろうか。実は10%もいっていないのであろうか。あるいは意外と75%とか過ぎているのであろうか。

率が高い方がいいのではないかと思いがちだが、「人生の進捗率99%」であった場合、それはもう、まもなく死ぬじゃねえかということに気づいたので「進捗」という概念をしばらく忘れることにする。あらゆる意味で「進捗率」という概念に悶絶した長雨の初秋。
_09/03

 

 

 


そろそろしつけえなというくらい続く雨。時期にしては肌寒い気候。温かいオニオンスープを作ってピザパンと一緒に食う。

今日あたりは一日中DAWに張り付く。やはり『アウトレイジ』を借りに行くタイミングを逸するのでもういいかなとか思いながらギターを弾く。

もう、「ギターを弾いて録音をしていた」という一点の日で本当に特筆したことのない日だが、久しぶりに連絡を下さった方と長電話ができてややほっこりとする。付かず離れずという関係性はとても心地よい。

とはいえさすがに人と会わなすぎな昨今、手前の体調が心配になってくる。孤独は煙草よりも健康によくないと聞く。

しかし、今日のようにたまに電話したり制作に没頭していればそんなこともなかろうと、すこぶる好調な心身を実感する。20代の頃よりよっぽど調子がいい健やかな40代序盤の日常。
_09/04

 

 

 


電車で都内をやや南下。今日はヨディーさんのバースデーイベント会場でみなさまと一緒に過ごす。

2、3週間ぶりくらいに人様とまともに会って良質な空気感を得る、というくらい最近はずっと、永遠に続くのかというくらい宅で一人で仕事、作業、制作と、現代社会の孤島にいるのではという暮らしをしていた。

その孤島からひさびさに本土に上がり、あらゆる人たちと接すると、賑やかに笑顔などが溢れており、なんというかシンプルに健全な心境になる。

決して、最近が不健全な心境だったというわけでもないのだが、やはり人と交わることは相当重要なのだなと改めてしみじみ思う。

兎にも角にも、みなさまが元気そうで何より。仲間のバースデーという尊い日を共に過ごせて、祝うこともできて、人との交わりの温かみを感じた初秋の長雨明けの良日。
_09/05

 

 

 


めしとか洗濯やらの時間以外は執拗に録音作業をし続けていつの間にか日が閉じる。

10時間くらい寝て相当元気になったのはいいのだが、そうなると休憩時間みたいな隙間が要らんわけであり、ずっとDAWに張り付く。

しかし完成までもう少し、というところまで進んだので明日仕上げようという予定として締める。今日あたりはもう酒と肴を買ってこよう。「ほぼカニ」という挑戦的なカニカマ商品をこの間みつけたのでそいつを食おう。

ほぼ、カニらしいのだが「カニではありません」とカッコ書きで予防線を張っているあたり、現代的な商品だなと思う。

よく社内開発部で「ほぼカニ」という商品名での企画が通ったなという挑発的かつシンプルなネーミングのカニカマ。

食べたら「ほぼカニだな」という感想となるか、「まあ、カニだな」くらいか、「ほぼは言いすぎだな」となるか、よくよく考えたが、カニカマもカニも俺的にはほぼ変わらない味な気もするのでどんな感想が出るか、ほぼ予想がつく。
_09/06

 

 

 


「ほぼカニ」が売り切れだったので確実にホタテであろうパックの肴を昨夜食って寝て約6時間。謎に覇気が溢れる起きがけ。たまにある躁の日。

とはいえこれが単日で終了することは何度も何度も経験済み。確変状態のように連日いつまでも躁、というのは皆無なのである。すなわち、俺は躁鬱病でも躁病でもない、まあまあ健康メンタルの漢である。

こういった日は全く集中力が途切れないのを肌感で知っているため、一気にやろうと制作依頼案件をやりおおす。着手から11時間後、無事提出。たいへん密度のある作業っぷりだったなと思うが、やはりめしを飛ばすので本当にこれはどうにか対策をした方がよさ気。

俺にプログラミングやらなんやらという技術があれば、PCにコードを打ち、定刻になったら「めしの時間です」と巨大なポップアップを出現させ、作業を中断しないと鳴り止まない「ファ〜」という爆音が出るシステムを作る。めしを食わざるを得ない状態に追い込むわけである。

そういった発想こそあるものの、俺はHTMLすら怪しいので作れない。そして誰かに作ってもらったところで「やかましいわ作業ができんわで右往左往。元に戻せ。魚のエサにしちまうぞ馬鹿野郎が」と、クレームを入れるだろう。

じゃあ能動的にちゃんと3食定刻に摂ればよい、とも思うが、そういったキチッとした生活のほうがストレッサーになりかねん気もするので、食わずに平気な時はそれでよかろうと手打ち。正直、長時間集中し続けて何かをつくっている時のほうが満腹感より快感が得られる。

そういったわけで今日あたりは「ほぼカニ」くらいではお腹がすいてしまいそうなので「確かに肉」くらいのやつを食う必要があろう。

しかし、「確かに肉」というネーミングの商品があったら逆に生々しくて食欲と共に購買意欲も失せかねない。「逆に、確かではない肉ってなんですか?」という疑問にも取り憑かれるであろう。

さらに、今まで認識していなかっただけで「肉の味はするが確かに肉とは限らない」というなんらかを食べ続けていたのかもしれないという不安にも襲われるであろう。

とはいえだんだんどうでもよくなってきたのでたまには値段も見ずにカニと肉を買って食おうか。カニのチョキの部位に肉を挟む配膳のサイコパスっぽいごちそうが食べたい。誰もが引く程、この上なく映えるであろう。
_09/07

 

 

 


躁状態の確変には突入していないであろうと思われたが、今日も手前基準より相当少ない6時間ほどの睡眠時間で「さあ、やらねば」という気分になり目覚める。俺のベスト睡眠時間はインド人並みの9時間半である。

これはいよいよ「躁」の疑いがあるなとか思いながら今日の必須タスクをやる。しかし全然捗らず。覇気はあるといえばあるが当然の圧倒的眠気。

効率が上がらない時は数時間机でウンウン唸るより小一時間の気分転換が効果的。そういったわけで俺はブックオフに逃げた。『岸辺露伴は動かない』という、『ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ作品を立ち読みつつ鋭気を養った。

L’Arc-en-Cielや中島美嘉さんの楽曲がうっすら流れる店内で「そうだよな、岸辺露伴さん、『体験』という情報収拾や取材は大事ですよね」と、架空の漫画家キャラクターに共感する。

めしもちゃんと食べて帰宅して作業を再開すると、やはりといわんばかりにトトトと進み、予定を遂行する。

しかし、そのあたりで完全に電池切れとなり、「ああ、『躁』ではなかったのだな」と、安堵と困憊が混じった精神状態でソファに吸われ、ビリー・アイリッシュさんの素敵な音像のニューアルバムを1曲目からを流しっぱにしながら仮眠。

2020年の5月上旬に「寝渋りチャレンジ」という苦行を一週間おこなった。内容は、「普段より毎日、1時間半以上睡眠時間を減らして生産的時間にあてよう」というもの。

そこで俺は体験をもって知った。人間は、睡眠時間が一定以上少ない日はシンプルにちょっとアホになるということを。躁とか鬱以前に、アホになるのである。

もちろん人にもよるだろうが、少なくとも俺はそうである。とはいえ、アホになりつつも仕事や作業でいつものクオリティは出せるが、そのぶん時間をいつも以上に要するということも加わる。

様々な情報で溢れる昨今、「睡眠不足による弊害」についてはあらゆる情報があるが、俺は、体験をもって知った「一次情報」を最も信じている。それは、岸辺露伴でいうところの「体験という取材」と等しいかもしれない。

一週間睡眠時間を削り続けるという体験は、以下のような、寝渋り6日目に記した記録がなにかを物語っている。

“眠い。眠くてしかたがない。もう嫌だ。1日1.5時間以上も睡眠時間を削るなんて自傷行為に近しい。死なない程度のリストカットに興じるのとさほど変わらん”

とのことであった。その翌日は、散歩しながら寝そうになるというレベルまでに達し、チャレンジ最終日を迎え、体験をもって寝不足生活の非生産性を知った。

今日あたり体験をもってして知ったのは、「寝が足りなくても謎に冴えている日は持って一日。翌日以降は睡眠不足で元気であろうがアホになる」ということである。少なくとも手前は。

結局、体験という一次情報に勝るソースはないと再認識しつつも、「去年の『寝渋りチャレンジ』での検証はなんだったんだ」と、体験をもってして知ったことすらどこかに行ってしまうくらい、俺は寝不足だと如実にパフォーマンスが落ちる。

だから今日はインド人並みの9時間半睡眠でスヤスヤと休むことにするのだが、ふと確かめようと、改めてネットで調べたらインド人の平均睡眠時間はべつに9時間半ではなかったりする。

調べた去年のその頃は、「寝渋りチャレンジ」起因の睡眠不足によるアホの状態で情報収拾したのでそうもなる。
_09/08

 

 

 


アホを回復させるべく休日とする。案件もないところだしと、今日は作業的なこともせず、楽器をメンテナンスしたり本を読んだりと、たいへんのんびり過ごす。

湿度も高めの曇り空と、散歩日和とは言い難いので特に外出もせずのっそりとカメのように暮らす。

休みのトドメとして熱い湯に浸かり、酒をちょびちょび呑みながら静かに沈もう。休んでみてわかる蓄積疲労もあるものだなと気づく秋の緩やかなひととき。
_09/09

 

 

 


休日を設けようが設けまいがさほど変わらんなというコンディションを確認し1日が始まる。毎月10日は制作音源の収益の集計および傾向と対策、ひとり作戦会議という月次予定。

個人事業ではなく、これが法人で、俺が代表だったとしたら、実にそれっぽい会議室に社員を集めて会議するであろうというほど大切な毎月のルーティーン。でも現代的な側面から考えると一室に集うまでもないのかもしれない。

そのようなことを考えながら冷静にエクセルに数字を入力し、ユーザーに何が受け入れられ、何がそっぽ向かれているのか分析すること1、2時間。シンプルに、「希少性があり、クオリティが高く、暗くない」というものが喜ばれる傾向にあると判断。

わりと誰でも、実行せずともわかりそうな結果であったが、やったうえでの判断とそうでない場合とではなかなか説得力が違う。

しかし、会議でそのデータをもとにパワポ資料を用いて重役やらを説得するのではなく、ただ手前で「なるほどね」と頷くだけなのでちと侘しい。とはいえ伸びているからいいかと、DAWを開き少し作業をする。そして、外出予定だったので夕方過ぎに足立区へ向かう。

仕事ではなく、ただ遊びに行く目的。到着し、いつもお世話になっている2名と楽器を弾きながら、あらゆる機材の比較をしつつ、『BANDやろうぜ』や『GiGS』といった音楽雑誌の1990年代バックナンバーというお宝を読ませてもらいながら懐かしんだりする。

LUNA SEAやX JAPAN、黒夢といった国内伝説級の各バンドの当時のインタビュー記事はまこと貴重。インターネットが普及していなかった1990年代半ばというとこういった雑誌で様々な音楽情報を得てはワクワクしていたなとほっこりする。

俺はというと『YOUNG GUITAR』や『GUITAR magazine』派で、掲載されているTAB譜(ギタリストやベーシスト向けの楽譜)を見ては一心不乱にあらゆる楽曲をギターで練習していたなと、これまたほっこりするも今も同じようなことをし続けている気もするなという心境に。

みんなでも、ひとりでも熱中できることが続いていていいじゃないかと、リフレッシュしたところで帰路へ。都営日暮里・舎人ライナー&京浜東北線経由で帰るのもなんかダルいなと思い、徒歩で赤羽に向かう。

「決して、歩く距離じゃないな」と思いつつも夜の散歩はなかなか快適で、うっすら漂ってきたキンモクセイの、あの魔力を秘めた香りを吸いつつ1時間少々、自宅付近に到着。

道端に目を向けると、安定の茶トラネコがお出迎えのように寄ってきたのでモフるも噛まれそうになる。こいつはホワッツ・マイケル似の可愛らしい顔ながら気性は侠客クラス。ネコともほどほど遊んで帰宅。

今日もほぼほぼ休みのような1日だった。こういった感じの日を週2回づつ、というのが社会人のデフォルトだろうか。

「社会人」とか「著名人」、「自由人」やら「放浪者」、「芸術家」「研究者」「はぐれ者」「遊び人」と、まあ色んな表現の生き方があるだろう。

俺はそういったカテゴリーで言ったら何なのだろうと、「手前は一体どういうつもりだ」という気分にもなってきたが、とりあえず周りのあらゆる方々のおかげでたのしく過ごせているから幸せなのだろう。気づかない幸福に気づいたような電波じみた心境の秋本格期の入り口。

キンモクセイの香りを吸うとだいたいこれ系の精神状態になる。毎年のように記すが、キンモクセイの香りには、絶対に人の精神を揺さぶる成分が含まれていると確信するがやはりエビデンスはない。
_09/10

 

 

 


机で予定のことを進めるもどうにも体はだるくシャキンとしない。これはもしや流行りの感染症ではないかと、少々疑いつつ横になる。

小一時間で起きてめしを買いに行くがやはり体調は優れないが、ノリ弁当に加え、珍しく甘いものが食いたくなったのでシュークリームも買ってまとめて食う。

そして、最近半分くらい読み進めていた分厚い本を一気に読み切り、なんだか賢くなった気がしたなと思っていたら「さっきまでのは何だったんだ」というくらいスッキリ体調が治ったので制作をする。

秋に入ってからというもの、ほぼほぼ晴天はおがめず晴耕雨読といった日々で、どうにも体がうんざりしていたのだろう。

またもや台風がきているもようなので当面はそんな感じだろうが、またありえない進路を描いて思い切り逸れてはくれんかと願うばかり。
_09/11

 

 

 


友人がいかつい機材を持って宅に来て、録音環境をさらにグレードアップしてくださる。なんとも僥倖、たいへんありがたいことだと感謝しつつ、珈琲を飲み交わしつつしばらくトークをしてほっこり過ごし、友人を見送る。

その、ちょっと外出した流れで、散歩でもしてバイオリズムの谷間といった昨今のコンディション整えようかなと、赤羽の賑やかな界隈を一人フラフラとする。いわゆる繁華街をさまよう宵の口。

「最後の仕上げを…!」

という、このあたりで最も巧妙な誘い文句で揺さぶってくる呼び込みのとっつぁんからのピンクなアプローチを受ける。「仕上げって」とか思いながらいつものようにスルーする。

俺はここ数年、このとっつぁんに数10回は声をかけられては、彼が気を悪くしないよう留意した所作で毎回ササと躱してきた。軽く笑顔を見せ、ゆっくりと手を「Noです」と、振るのである。しかし。

「あと、耳寄りな情報を…!」

と、今日は珍しく重ねてきた。まあ、話だけでもと思いピタリと止まり振り返る。俺は、赤羽の夜の一次情報だけでも得ておくのも一興かと考え、とっつぁんの話を伺うことにした。

「旦那、行かないんですけど、その『耳寄りな情報』だけでも……」

「へへ。もうね。5,000円ですよ」

「ほほう」

「いまならもう10分サービスで!」

「なるほど」

「もうね。まずYシャツですよ。それでね……」

「くはっ。なるほどなるほど。わかりました。では」

「くれぐれも、お見逃しなく……」

彼が長年、呼び込みをしていることは知っている。その話術と、「いかに短時間で相手をそそらせるか」というスキルに関しては見習うべきものすらあるなと、俺は若干彼に対してリスペクトすらある。

この辺りの黒服さんたちの80%以上は、「今日はお探しは?」「お呑みのほうは?」「キャバクラ、ガールズバーは?」というのが呼び込みの一言目である。

しかし、とっつぁんは毎回意表を付く言葉でまず相手を刺すように切り込み、柳のようにしなやかに、心のドアを簡単に開かせる。その、「一瞬で断られず、まず興味を持たせる」という点に長けた彼の語録には以下のようなものが挙げられる。

「見逃してますよ…!」

「今日はこれで総仕上げになりますねぇ」

「たまには、というのが今夜ですよね?」

「お待ちしておりました。こちらです」

「菊池桃子っ」

全く行くつもりがなくとも「ちょっと行ってみようかな」と、一瞬でも思わせるそのトーク力と相手の懐にヌルッと入り込むテクニックは流石の一言。

そして「菊池桃子っ」に関しては数年前に聞いた意図不明すぎるアプローチだったのだが、ふとした呼び込みの一言が長期記憶に叩き込まれるほどの匠の技のインパクトたるや、実に恐れ入る。

なんやかんやで街のみなさんはたくましく元気に過ごしているものだなと、少し覇気が出たので帰宅して制作をする。それにしても「Yシャツ」はちょっと気になるが、行かない。
_09/12

 

 

 


相当ひさびさの出向案件につき外苑前へ。若い方とお話をして元気になる。誰かと対面で会話をするということはシンプルながらも、間違いなく人としての基本的なエネルギー源なのだなと再認識する。

昼めしには、この界隈にある間違いのない蕎麦屋で何が何でも「鴨せいろ」を食べたかったので、同行の村上さんを誘う。「まじで美味いのです」と、彼の食欲を誘発させ、いざ入店。

もはや鴨のステーキと表現したい至高の肉、清涼感のどごし抜群の蕎麦、甘露と表現したい蕎麦湯と、一式綺麗にたいらげる。そして誘ったのにおごってもらう。少し高めの価格につき、いや、そうでなくとも、ご馳走賜ることはたいへんありがたいことである。

帰宅後は少々原稿を進め、くたびれたのでYouTubeを観てサボる。なぜかクラフトワークの動画がピタリと今の具合に合ったのか、4つくらい立て続けに閲覧。

そういや最近はそこまで熱心に聴いていないが、テクノやエレクトロミュージック大好きだったなと忘れていた何かを思い出し、その流れでオウテカの曲をSpotifyで聴く。どうやら昨年ニューアルバムを出していたようだったので流しっぱなしにしてソファーで聴きながらまどろむ。

「やはりオウテカは間違いない。いつ聴いてもおそろしいまでの恰好よさだぜ」とか呟きながら寝る。1時間は寝る。

いかんと思い、起きて制作をする。クラフトワークやオウテカとは真逆の、スティーヴィー・ワンダーさんを若干意識した生演奏メインのソウルミュージックを完成に近づけること4時間。峠を越えた感を得てDAWを閉じる。

眠い。眠くて仕方がない。しかし酒が呑みたいのでSEIYUに行って買ってきて流し込んでから寝ることにする。やはり今日あたりは当然蕎麦焼酎だろうか。「雲海」はまだ売っているのだろうか。あれもまた、間違いない一品。
_09/13

 

 

 


WordとDAWの画面以外なにか見たかなというほど、ほぼほぼ机作業の一日。雨ばかりで散歩へという気にもならない。秋の散歩はシーズン最強クラスの気持ちよさなのだが執拗に続く雨天。

逆さになっても天候ばかりはどうにもならんと、今年最高に時間がかかっている楽曲の制作を進める。ちょっとは進む。

「ちょっと進みました」

「よくやった。明日、もっと進めといて」

「はは!」

というやりとりでもあれば、やってる感は増す。あるいはこういうのでも意外と漲ったりする。

「ちょっと進みました」

「遅えよ。お前はストリングスの打ち込みに何時間かけてんだ馬鹿野郎。スピード出せ。スピードを」

「あっす。すいやせん」

要は、対面等でのやりとりがあると、それだけで案外進捗などが変わるというもの。一人で延々と、という方が捗る場合もあるが、こう長期にわたって「一人で延々と」というシチュエーションが進むと、誰かにチャチャを入れてもらいたい欲も少しは湧いてくるというもの。

とはいえコロナ禍という期間不透明な有事ばかりは逆さになってもどうにもならんので、エクセルとかに進捗率を「何%」と入力するくらいしか各タスクの「進んだ感」は実感できない。

常に周りに仕事をしている人たちと過ごしていた会社員時代のやりとりが懐かしい。特に、中間管理職をやらせて頂いていた時代はまあまあ印象的だった。

「平吉チーフ。これ、終わりました」

「おお。早いじゃん。やるやるとは聞いていたけどやっぱやるねえ」

「へへ……!」

「平吉さん、僕もこれ、終わりました」

「馬鹿野郎。仕事に終わりなんかねえんだよ。あと、遅えんだよダボが」

「ちょ、それパワハラっす。あとなんすか、さっきの子の対応とのこの差は」

「パワハラもパワプロもねえんだよ馬鹿野郎が」

「そういうくだり、なんか古いっす。無いっすわあ」

「古いとかトレンドとかそういう問題じゃねえんだよこのサンピンが。魚の餌にしちまうぞこの野郎」

そういったやりとりは実際にはなかったが、互いに冗談と重々わかった上での近いやりとりはちょっとあった気がする。

そんな感じでほっこりと、大きなビルのオフィスで日々を過ごしていたというのは今や懐かしき思い出。

季節的に、だいたい懐かしいという感情に覆われ、思い出は誇張されがち。秋は記憶のデフラグがおこなわれるという持論を誰か証明してはくれんだろうか。
_09/14

 

 

 

 


「ストレスには4種類あるな」と、ウンコをしながら俺は考えていた。まず一つ目は、最もわかりやすい、嫌悪するなんらかに晒され、心身にネガティブな負荷がかかるもの。

二つ目は、逆にハッピーだったり、嬉し過ぎたり、テンションが上がり過ぎたりと、基本的にはポジティブなのだがこれもまた、アクティブになり過ぎて心身に負荷がかかるもの。

三つ目は、とにかく平坦で負荷がなさ過ぎて、退屈すぎる、寂しすぎる、虚無感すら得る、という最も気づきにくいストレス。

これらを考えた時、どうも最近高まらねえなと思っていたら、俺は三つ目に挙げた類のストレスを実は感じているのではないかと仮定した。

じゃあここはひとつ、キャバクラなり雀荘なり呑み屋なりに行き、刹那的な刺激を買おうではないか。そういった発想こそあるものの、実行には移さない。もっと、生産的に、自発的に、楽をせずに、ストレスを解消したいのである。

そういったわけでとりあえずぶっとい真空管が何本も入っているギターアンプから音を出力し続けること2時間ほど。なかなかスッキリする。

これこれ、こういうこと、まあまあ答えに近い。とか思い、ちょっと休んでクラフトワークの「Radioactivity」という1975年発表の曲を聴く。理由はわからないが、4、5回聴く。この間もそれくらい聴いていた。

“放射能”という意味を持つこの楽曲に取り憑かれる。どこかで原発事故でも起きなければいいなと危惧しつつ、DAWを開いて制作をする。

ウンウン唸りながら鍵盤を叩き、ストリングスアレンジがやっと仕上がる。これこれ、こういうこと。こういうストレスはむしろ心身によい影響を及ぼす。そう思いつつ、進めれば進めるほどにアレンジ案が出てくるこの手強い楽曲に対し「なんでだ」と訝しむ。

きっと、完成したら手前でも感動するほどの名曲になるのであろうか。そう思い込むしかない。曲調は全然異なるが、「Radioactivity」くらい謎の魔力を孕んだ楽曲に仕上がってほしい。

「ストレスには4種類あるな」と考えていたところ、それらが人間にどういった影響を及ぼすかという思考の続きが出た。

なにかに没頭している時のストレスはよい種類。悪しき外的環境起因や心身の不調によるストレスはよくない種類。刺激を欲している場合のストレスは最も手前でコントロールしやすいストレス。

では、ストレスが無い状況とは、と考えた。何もせず、何も考えられず、生理的活動もほぼほぼオートで、全くなにもしないでいい状態だろうか。

しかしそれは、三つ目のストレスに該当する。結論、人間はどうあがいてもストレスからは逃れられない。よって、ストレスは、解消するのも得策ではあるが、躱すよりもむしろストレスを利用するのがベストであると判断した。

シンプルに考えると、ストレスをテコの原理みたいにして、よき方面に増幅させればこれはいいのではないかと、俺は前向きに捉えた。

とはいえ疲れたので全ての負荷を麻痺させてくれる「酒」を流し込もう。あらゆるストレッサーを受け付けない無敵状態になろう。

この行為は、ストレス解消に近いかもしれないが、厳密に言うと、ただアホになるだけなので何の解決にもならないのである。

人間は、なぜか、そういった行為も要するというわけのわからない生き物だなと、今日あたりは特に実感した。俺だけだろうか。

そして、四つ目のストレスとは、「こうなりたい、こうしたい」という欲求が満たされない時に生じるもの。

それは、一生かけて取り組むほかに方法は無い。死ぬまで取り憑かれる類のストレス。それが四つ目。
_09/15

 

 

 

 


病的に覇気がないので街をさまよう。3時間は歩く。そんなに俺は暇なのかと、やることがなくてランダムに徘徊しているのかと、そのようにも思うが、そんなことはなく、これは心のチューニングということにして気分転換をはかる。

赤羽一番街を抜けるか抜けないかという位置にある、いかにも個人経営的な酒屋がある。ここには珍しい外国産ビールがたくさんあるのでたいへん重宝している。

「デュベル(Duvel)」という、少なくとも俺が今まで呑んだなかで最もおいしいのではないかというくらいの秀逸なベルギービールを2本買う。

いつだったか、ここで同様に珍品的ビールを2本買った時、レジのばあちゃんは袋代をおまけしてくれた。今日は、袋代は容赦無くとられたが、「柿ピー」の小袋をひとつおまけしてくれた。

個人経営点ならではのほっこりだなと、袋をぶらさげながらまた暫く歩いていいかげん帰る。

YouTubeで「フィボナッチ数列と黄金比」にまつわる動画を観る。なんでも自然界のあらゆるものは、ある法則に則った姿や行動をするらしい。その点について、ほかにもネットで色々と調べてみる。

なんでも、黄金比の「1対1.618……」という比率は、あらゆる美しいものにみられる法則とのこと。

Apple社のロゴや、有名な絵画、伝説的な建築物、美人やイケメンの顔の部位の比率など、ほとんどの人間は、その比率がみられるものを「美しい」「整っている」と捉えるらしい。

たぶんではあるが、デザイナーや建築家や芸術家などは、この法則を当然のように知っていて、最適なデザインなどを施す時に応用するのかなとも思った。

音楽でも法則的なものはあるが、「黄金比」までいくものは、少なくとも俺は、はっきりとは知らない。知っていればヒット曲をバンバン量産できるのだろうか。

音階や和音の法則など、ある程度の音楽理論はわりと学んだつもりだが、「この曲の完成形には、明らかな答えがある」と感じることがよくあっても、たどり着くまで時間がかかることが多い。

そして、「答えまでいった」と判断できても、それが誰にでも好まれるかといったらまた別になってくる。一方、「間違いなくこれは答えではない」と必ず判断できるのは、曲を作っていて逆に面白い点だなと思う。

自然界のあらゆるもの、植物や動物の行動、はては宇宙的ななんらかまでにまできっとみられるのかという黄金比。人間の心の動きなどにも当てはめられる、そういった絶対的な法則がわかったとしたら、きっと学会でスタンディングオベーションが巻き起こるくらいの快挙であろう。

それくらい、人間の精神状態というのはものすごく流動的でグラッグラしたものなのだなと、改めて実感した1日。柿ピーひと袋でとても喜ぶという、幼児なみのコンディション。
_09/16

 

 

 


謎夢にレム睡眠メインの浅い眠りと、変な調子が続くなという気持ちを引っさげ、いつもの定期検診へ。

秋口のメンタルクリニックのロビーの様子といったら、混みも空きもせず、といったキャパシティ。ユニークな光景といったら、ふとももにスマホを延々とガンガン打ち付けている人がいたくらいだろうか。

診察室に呼ばれると、いつものように主治医の先生は「どうですか平吉さん。最近は」と聞く。

「はあ。決して、よくはありません。でも、季節の変わり目、特に秋はこんなもんかと」

「具体的にはどのように優れないのでしょうか?」

「ええ、眠りがおかしいです。寝すぎたり、逆にあまり寝なくてもという日が続いたりと。まあ、でもそういうサイクルは昔からありまして」

「なるほど。一般論ですが、加齢と共に、長時間眠ることが難しくなり、うんぬん。かんぬん」

まあ、当たり障りのない問診。ここ最近はいつもこんな感じである。きっと、先生のカルテには「こいつはまあまあ大丈夫」的な区分けがされているという肌感。それは、会話でも非言語コミュニケーションからも感じられる。

「わかりました。では……」

「先生、ちょっとあと3分だけ、いっこ質問がありまして」

俺は昨日からずっと考えていることを、精神医学のプロに直接聞くことにした。きっと、先生のカルテには「こいつはたまにおかしなことを聞く輩」的な区分けがされているという肌感はあれど、俺は聞いた。

「黄金比ってご存知でしょうか」

「……? はい、なんとなくは。あの、レオナルド・ダヴィンチの絵のとか……」

「そうですそれです。なんでもその黄金比というのは、自然の植物や動物を観察した昔の人が発見したそうで」

「はあ」

「それで、ですよ先生。そういった黄金比というのは、人間が感じるあらゆる対象に適用されるというのです」

「そうみたいですね」

「ということは、人間のつくりや生理現象にもそれは適用されるかと考えまして。要は、『人間の精神、心のバランスの黄金比』というのがあるのではと思ったのです。先生はどう思われますか?」

先生は、俺の質問をちゃんと理解した目つきをして少し考えていた。いつもの、最近はあまり見せない、あの、足をぶらぶらさせる癖は、ここまでで出ていなかった。

「無い、と思います」

「そんな」

「というのもね、まず人間が……」

「先生、一応ですが、僕が言いたいのは、『恐怖』『不安』『喜び』『慈しみ』などの感情のバランスに、最適な状態というのはあるのか、ということなんです」

「ええ。ご質問はそのように解釈しました」

「さすが」

「でね、平吉さん。人間が不安になったりするのはまず『感情』があって、そこから『思考』に繋がるんです」

「おお」

「そして、『不安だな』という感情が思考にまわり、その不安に対してどう考えるかというところが大事なんです」

「不安を感じたら、シンプルに『嫌だな』とかですけど」

「ですよね。でも、『嫌だけど大丈夫』と考えて、ちゃんとそう判断できれば、不安というのは続いたり変に溜まったりしないんです」

「ほおお」

「そして、不安を感じてネガティブな思考ばかりして、その結果、その不安に対して『No』と確定させるのがよくないんです」

「どういうことすか?」

「例えば、『仕事A』をしていて不安を感じたとしましょう。そして、その不安が起きるから、『仕事A』は私にはできない、ダメだったと、マイナスのまま確定させてしまうのです。『No』と思い込まず、『?』の状態ならまだいいんです」

「自己判断しちゃよろしくないと?」

「そうです。よくありませんか? 仕事でも自分がやったことでも、『ダメだったな』と思っていても周りの評価は違い、むしろ悪くなくてよかったりすることなどが」

「確かにあります。めちゃめちゃあります。(ライブで「あそこミスったな」とか思っても、後で映像見たら全然悪くなかったり――書いた記事がイマイチと思っていても評価はよかったりと)」

「でしょう? そういう、不安からくる思考の偏りがあって、そのまま自分で『No』という方に『確定』させると、まずい方向に行くんです」

「認知バイアスとかいうやつですかね」

「いろんな言い方はありますね。私の師匠にあたる方もそのへんは重要視していて。たとえば、今こうして私が平吉さんの思考の偏りを感じたら、そこを客観的に見るというのも仕事なんです」

「なるほど」

「平吉さんは大丈夫です。なぜかと言うと、話していてわかりますが、どの不安や症状も受け入れていて、『No』と確定させていないからです」

「確かに」

「だから、『No』の方に行く前の修正も可能なんです」

「それって、自分の思考だけでは難しそうですね」

「そうなんです。しかし、それができると、病的な不安やら精神的な症状はあまり出ません」

「僕の場合はこうして、先生にたまに修正して頂けるわけで」

「そういう仕事でもあるんです。ただ、統合失調症や躁鬱病などになってくるとまた難しいんです」

「先生、そういや、父親が躁鬱病だと思うんです」

「どうしてそう思ったのでしょうか?」

「20代の頃、躁鬱病についての本を読んでいて、それを親父も読んで、彼は『これはまんま俺のことだな!』と、自己判断していました」

「なるほど。そうなると、私がいつも言う……」

「はい。『それにより、日常生活、社会生活に支障をきたしているか』ですよね。病気か否かのライン」

「そうです!」

「モロにきたしていました。なんなら本人以外の周りの人間にも。そして俺も被害者みたいなもんです」

「そうすると、診察に行くべきです」

「ですよね。もうほぼぼ手遅れですが……先生、そうなると、『心の黄金比』の話ですが、今のお話を聞くと、自分の思考や他人との関わりでその比率を保つことができるのではないでしょうか?」

「そうですね。バランスが大事なんです」

「やはり人それぞれでしょうか」

「バランスが大事です。そして、『No』の確定ばかりの状態になってしまったら、薬などでまず和らげて、修正できる状態にしてからこのような感じで問診するという方法もあるんです」

先生は、無茶振りのような質問にガチで答えてくれた。その際、けっこう脚をぶらぶらさせるそぶりを割と見せていた。

きっと、先生は、不安というか、緊張というか、気が張っている時、深く考えている時、そういう時にこの癖が出るのかなと思った。俺の診察の初期の頃は、いつもというくらい、その癖を見せていた。

別に悪い気はしなかったが、今になって感じることは、先生は、最初は俺の症状が具体的にわからないから、凄く真剣に考えていたのかなと思った。

そして、だんだん、傾向やらがわかってきたから、そこまでというか、脚をぶらぶらとさせる状態ではなくなったのだろうか。今日は、今までにない質問が飛んできたから、凄く考えてくれて、それでぶらぶらと、そういった感じだろうかと思った。

「先生、ありがとうございます。『感情』に対する『思考』を、一人で変な方向に偏らせて『確定』させるのは危険なのですね。」

「そうです。たとえば上司が部下から『できないです。私がやってもダメなんです。この間もミスをして、またみんなに悪く言われます』と言われても、『具体的に誰がダメって言ってますか?』と聞くと、答えられなかったりするんです。そこで、『誰もいないでしょ? だからダメではないんじゃないですか?』と、言ってあげることができるんです。そうすると、その部下の思考の偏りは修正できたりします」

「なんだか腑に落ちました。『心の黄金比』は無いけど、客観性と、人それぞれのバランスが大事なんですね」

「そうなんです。平吉さんが最初に言った眠りの変調にしても、一般的にはわりとおかしなことではなかったりもするんです」

「確かに。むしろ眠れるだけマシかと」

「そういうことです。そういう『思考』が大事なんです。『また眠れなかったらどうしよう』などと考えても悪い方向に行くだけなんです。『普通に考えて、そういう時もある』という『思考』は、その不安を払拭できることもあるんです」

「わりとシンプルだけど凄く深かったです。一人ではその答えにはたどり着けませんでした。ありがとうございます」

「いえいえ。ところでなぜ『黄金比』と?」

「いえその、YouTubeで……」

専門家の見解や発言は、内容はどうあれ、それだけでもかなりの影響力があると、この間読んだ本で学んだ。確かにその通りであり、先生の場合は内容も伴っている。さすがプロフェッショナルだなとスッキリしつつ帰宅してなんやかんやと捗る。

「感情」は制御するのが難しい。しかし、「思考」に関しては、それほどでもない。「そう思える」という段階まで行けば、何事も、明らかに間違いでない限りはそう思い込める。

俺は、「自分を信じきることの大切さ」という思考を、30代の前半で完全に自分に落とし込んだという感覚を得たことを思い出した。

それから、悪癖を制御し、なんとなく前進していっている実感を、ようやく得ることができた。

今日は、「どう認知するか」ということは、よくも悪くも心に影響を及ぼすということをクッキリと認識した。

そして、あらゆる「感情」は、「思考」という段階で制御することも、暴走させることもできるということを教えてもらった。

問診というか取材のような感じだったが、これは手前のなかでの“あるある”かつ、俺は「よいこと」だと捉えている。なにせ貴重な一次情報を得られるのである。そういった、パワフルな情報をもとに、変に思考を偏らせることなく、健やかに暮らしていこうと思った。

手前は昔から極端な思考になりがちではあるが、それは、悪いことではなく、むしろこういった答えを得る機会が増えると捉えることができるという「思考」が働いたので、今日あたりはぽかぽかと眠れそうである。精神科医、あなどるなかれ。
_09/17

 

 

 


やはりよく眠れ、やけに早く目が覚めて漲り起床。蕎麦にキノコを入れて食べて事務的なことをして数時間。眠くなったのでソファで横になったら2時間以上は寝くさる。

せっかく早く起きたのにこれでは意味がないではないかと思ったが、もう、睡眠時間が短いとそのぶん生産性が落ちるだけというのは立証済みだったなと省みる。

予定通り原稿を書いて、制作をして、早く起きようが起きまいが、タスクをやる量はさほど変わらない。トトトと流れたいたって日常的な1日。平和。
_09/18

 

 

 


どれだけぶりかというくらいの晴天。これはすっきり洗濯の大チャンス。9月に入っての長雨は、いくら洗っても生乾きスメルがしつこいタオル等に相当イラついていた。

しかし俺はどれだけ部屋干しが続こうとも生乾きスメルを消し去る小技を知っている。洗濯機に入れた布類に熱湯を思い切りかけて数分浸し、それから洗濯をすると嘘のように臭いなどなくなるのである。付着し続けている雑菌を皆殺しにすればいいのである。

それを思い出して実行したのはおとといだったので、今日の洗濯日和のありがたみがやや霞んだがまあいいかと、ついでに掃除もと、数時間は主夫のような過ごし方をして仕事をする。

夜は友人が来宅したので「世界の自殺率」「霊の存在」などについて数時間ほどほっこりトークする。闇のテーマをせせら笑いながら過ごすなどいよいよだなと、そうは思いつつも楽しかったので友人を駅まで見送り、そのまま夜の街をパトロールする。

「お兄さん、ちなみに今夜は?」

と、当然のように声をかけてくる黒服の方。「いや、いいっす。帰るんす」と躱すも、どうもここ最近の黒服さん方は一律食い下がる。

「待ってください! お願いしますよ話だけでも!」

「はいわかりました」

「パイです。パイはいかがですかね?」

「いやあ。(パイ?)」

「お願いしますよぉ! 暇なんですよぉぉ!」

「お察しします。申し訳ない。本当に……」

アウトロースメルを消し去りきれていない彼の目はガチかつ必死であった。みなさん気合を入れて凌いでいるな、俺も頑張ろうと、パイへの邪念を熱湯で殺すイメージを浮かべながら帰宅。制作をする。

どれだけ手こずらせるのだという着手中の楽曲を進める。これはMIX(音を整えたりバランスをとったりする工程)ではどうにもならんと、もともとあったアコースティックギターのトラックを録り直す。そして納得いくレコーディングとなり、再びMIXをすると、ようやく、手前でも感動できる具合になった。

今日もなんやかんやと楽しかったなと納得し、しめやかに酒を呑んでおとなしく寝ようかと思う。とはいえパイが気にならなくもないが、やはり行かない。
_09/19

 

 

 


ずっとDAWに張り付いていたら秒で日が過ぎていく。めずらしい酒でも買いに、散歩がてらやや遠めに位置するディスカウント・ストアへ行こうとしたが気付けば閉店時間真近だったので叶わず。

合間にコンビニに行っておにぎりと煙草を買ったら丁度700円だったのだが、冷静に考えたら物凄く高くねえかと20年くらい前の物価を思い出す。その頃だったら300円ちょいで済む。

どんどん時代が過ぎていくなと、背中をすり抜けていくような秋風を感じながら、出かけて5分で帰宅。フェーダーやツマミをいじりながら、今日はずっと1つのことだけをしていた。これはこれで、妙な思考も生まれないから割といいなとは思うが世間との接点がなさすぎるのも考えもの。

別に誰に急かされているというわけでもないが、あと少しというところまで進んだ曲を仕上げてファ〜と弾けたい。飛散したい。それでまた戻ってきてまとまりたい。まとまりたいとはどういうことだろう。
_09/20

 

 

 


今日も昨日同様、ずっとDAWに張り付いていたら秒で日が過ぎていく。着手時に思っていたよりも信じられないくらい時間がかかった曲がやっと完成してスッキリする。まとまった。

しかし、制作にかかった時間と、受け手のレスポンスのよさは比例するかというとケースバイケースであることは体験済みである。

たった6時間で全ての工程が終わって完成した曲がありがたくもとても好まれたり、1カ月かかって出来た曲が全っ然受けなかったりと、こればかりは本当に予想がつかない。

時間がかかったやつはそのぶん、たくさん受け入れてほしいと思うのは人の性。とはいえ、手前の認識と他者の認識が異なるということは往々にしてある。

「自分の知っている自分」「自分は知っていて他人は知らない自分」「自分は知らなくて他人は知っている自分」「自分も他人も知らない自分」という4つのマトリックスが思い浮かぶ。

なんかすぐできたけど受ける、というのは「自分は知らなくて他人は知っている自分」のよい部分がポップに現れたものだと思う。

超頑張って最高の出来だぜとか思っても受け入れられないのは、「自分は知っていて他人は知らない自分」が如実に独りよがりに具現化したものだと思う。

そんな気はするが、先述の4つ、どれに偏っても、狙ってやってもそれはどうかなというフシがあるので、その時に「いい」と思ったやつが形になればいいかなとも思うが、収益という側面も含むので完全に自由にやるのもどうかというジレンマもなくはない。

だからといって「受けそうなやつ」というテンプレ的な発想と工程を経てできるものはだいたいため息が出る程スカスカなやつが多い。こと、手前に限ってではあるが。だからやらないようにしている。

何が受け入れられるか、という法則みたいなやつ、黄金比みたいなやつ、それがわかればなと思うが、わかってしまったら逆に興ざめなので、4つのマトリックスをぐるぐるしているくらいでもいいのかもしれない。

某プラットフォームで公開する曲としてはこれがちょうど100曲目となる。少なくともあと200曲くらいは作りたいので明日からも張り切っていこうと思うがさすがにケツあたりが痛い。中腰、いわゆるケツバット待ちの体制で酒を呑んでゆっくり寝よう。
_09/21

 

 

 


ぐっすり寝てヌルッと起きてスープを作る。俺はスープ作りに関しては相当自信がある。特に、三十路前後の時期によく作っていた10品目近い野菜を投入して煮込むスープは美味かつ百薬の長レベルである。

でも今日あたりは冷蔵庫内は閑散としていることもあり、豆腐とモロヘイヤとキノコミックス味噌汁という、誰が見ても残っている食材をただまとめただけというやっつけスープに仕上がる。もちろん、とてもおいしい。

日中は新たな原稿を書いたり戻ってきた原稿を確認して提出したり、YouTubeでラファエルさんと政治家の方の対談を観たり、楽器の練習をしたり、配信のネタを練ったりと、ほどほど活動的かつ平和に暮らす。そうこうしていると9月もなんと、もう下旬かと一驚。

「昨日まではそこに確かに無かったよね」と、急に咲く彼岸花を見かけたつい最近、今日あたりはもう枯れ散ろうという姿になっていた。いつまでも、あると思うな親と金。というか、森羅万象そうだろうもと、今日あたりは特に感ずる秋のサビ手前くらいの季節。
_09/22

 

 

 


今日中にやる必要がある原稿を日中ずっとやる。めしは何を食べたのか、忘れた。

延々とwordに文字を打つわけではあるが、俺はどういうわけかどれだけ文字を見続けていてもゲシュタルト崩壊(知覚失認的な現象)が起きない体質なのか、そもそも文字に対してゲシュタルト崩壊する人のほうが少数なのか、それはわからないが、統計が知りたいところであるが、とにかくずっとやる。

夜遅めのいつもの時間には1時間、ネット配信をする。観てくれる方々がいるということは本当に、ありがたいことこの上ない。

そして、まだ終わらない原稿をその後やる。やりおおして26時。まだゲシュタルト崩壊は起きない。実は知覚が強固なのかもしれんと前向きに捉える。

じゃあひとつ、ここに漫談でも記して1日に“落ち”でもつけようかという発想はあれど、その気力を今日あたり更に出したらクタクタの上をいくクタクタジャガー(くったくたの姿をしたジャガーのぬいぐるみ。レア)と化すであろう。

頑張れる時は張り切って、頑張れない時はぐっすり休んでと、そのようにさきほど発言した。それは、手前にも適用させるべきであろう。だからもう深夜も深夜というか下手をすればそろそろチュンチュンピチチとモーニング・サウンドが鳴り響くであろうグレーな時間帯。

とても好きなその時間帯が明けるその前に、遠慮なく酒呑んで寝よう。肴は「ほぼカニ」という商品名のカニカマにしよう。すっかりハマってもう今月5回は食っている。「味ですか? ほぼカニですな」以外の感想が出てこないユニークな逸品を世に出した企業様に感謝の念を送りつつ。
_09/23

 

 

 


無駄にビンビンなテンションで起床。4、5時間しか寝なくとも、若干酒が残っていようと、躁を思わす謎元気。たまにある。

俺は、今日か明日かはお休みにしようと考えていた。では今日にしようと、俺は旅に出ることにした。

目的地は大塚駅。実に近いこの地に対し、俺はさほどこれといった思い入れはない。なんとなく「文京区大塚あたりに行こうか」と、ピンときただけである。俺はこういった直感は大事にしているが故、電車でまず行ってみた。きっと、なにかがあるに違いないと。

到着するとまず「懐かしい」という気分になった。20代中盤以降から31歳の頃あたりまで、この大塚付近は仕事でよく車で通っていた。たまに、このあたりでめしを食べては車内で昼寝、というケースも多々あったのでやはり、懐かしかった。

付近を徘徊するとエロティックな店舗がかなりあることに気がつく。俺は「そういうことか」と思ったが、決してそうではないと言い聞かせ、赤羽に比べたらだいぶおとなしい呼び込みを余裕で躱しつつ、正午前後の大塚の空気を味わう。

べつに美味くもなければ不味くもない空気。「ちょっと懐かしいぜ」以外の感想がなかったのでその足で池袋へ向かい、サンシャインビルの根元で佇み、頂上まで登ろうか否か迷っていたら編集部から入電。

「こないだのコラムありがとう。全体的にすげえいいんだけど、あとこれこれこういった感じのがちょっとだけでもあるともっといいんだよね…」

的な、まあよくあるやりとりである。優しいリテイクは愛を感じる。「オッケーですわかりました。あとこないだのやつは…」という風に返しつつ、徘徊している場合じゃないのかなという方向に。

「いま、お散歩中でして。夜でもいいでしょうか?」

「ああ、全然いいよ。お散歩て…どこにいるの?」

「サンシャインビルの根元です! 頂上まで登ってやろうかと思いまして!」

という風に電話をしながら、あとは雑談。そのまま、一緒にリモート散歩をしているような感じで過ごし、楽器屋に寄ったり、PARCO内の店舗『エヴァンゲリオンストア』で「NERV」というロゴの服を買おうか本気で悩んだりしつつ、結局は、豊潤な品揃えの酒屋に最後に寄ってベルモット酒を一本だけ買って帰路。

赤羽に着くとあたりはもう暗かった。6番線ホームの「〽く〜だらねえと〜つ〜ぶやいて〜」というエレファントカシマシの楽曲の発車メロディが「おかえりと」言っているように聴こえる。

駅を出るとガールズ・バーの呼び込みの娘さんたちや黒服さん方が凌ぎを削っている。夜あたりにこの光景を見ると「ああ、帰ってきたな」と、土地に対する帰属意識がじわっと湧く。

「お兄さん、僕のビッグボーナスになってくれませんか?」

と、「江南スタイル」を歌っている方に似た物腰の黒服さんからのスパイシーな呼び込み文句のアプローチを受け「これはレベルが高い」と、大塚とは一味違うなと感心する。

思わずプクッとなってしまったので俺は江南さんを見て「いえ、また今度」と伝えると、彼もまた笑ってけつかる。手前で言って手前で笑ってしまうという体たらく。きっと、彼の先輩だか同僚から授かったフレーズなのであろうか。まだ言い慣れていない。まだ仕上がっていない。

しかし、あれをモノにしたら江南さんはきっと化ける――そう考えながら弁当屋に向かい、でかいおにぎりと惣菜を買って帰宅。俺の小規模な旅は着地した。

原稿の修正をひとつ、もうひとつの原稿も仕上げて提出と、 結局完全に休日とはならなかった。とはいえ、ささいなことがいくつも楽しめる気分の1日だったので手打ち。

それにしても「ビッグボーナス」がどうも気になるが、行かない。しかし、体験として、たまにはいいのかもしれないが、なんとなくまだそういったテイストのお店に行くのはまだ照れがあるのもどうなんだろうと自問する中年期序盤のふとした1日。
_09/24

 

 

 


やはりデスクトップの「案件」フォルダがからっぽになるまでは「休み」とするべきではないと、そのようなスパルタ思考がはたらき、原稿をひとつやりきることにする。

世間では「緊急事態宣言」やら、その類のアラームを今月をもってして全て解除する方向を示しているという。その後はどうなるのか。

いきなり、原則20時閉店および酒提供おあずけが解除である。俺のような酒呑みたちはほぼ確でまず、呑みに繰り出すであろう。ボカーンと爆発するであろう。そしてその後の世間は何色に染まるのか。

なんとなくあまり変わらないような、また「緊急事態宣言」引き戻しとなるような、これはもう、やり手の占い師でも的中不可能であろう局面。

手前がやれることに精を出すのがとりあえず得策だろうか。そのような独り言を断続的に発しながら、カタカタと過ごす。まこと静かな時間。静寂閑雅とまではいかない、地味かつまあまあ真面目気味の1日。
_09/25

 

 

 


「案件」フォルダがとうとうからっぽになり休みの大チャンス、ではあるが、なんか元気だけどそれもなと、ほぼほぼ制作をして1日を過ごす。

ネタをメモってそのままにしておいたものをいくつか掘り起こし、完成形がイメージできたやつを1つチョイスして育てる。久しぶりにエレクトロミュージック寄りのテイストを作る。

50%くらいまで出来たのでよしよしと、あとは明日にしようとDAWを閉じる。明後日の案件を頂いたので休みは月末か月頭だなと、そのように思うが猛烈な台風が近づくタイミングらしい。逸れたらピクニックに行こう。直撃したら制作をして過ごそう。いずれにしても悪くない。
_09/26

 

 

 


だいたい8時間くらい制作をし、合間にラーメンを食いに行ったりちょっと昼寝をしたりと、なんとなくちょうどよい1日。

季節の変わり目の乖離しそうなあの気分を表したようなミステリアスな楽曲があとワンクッション、というところまで進み、よしよしとDAWを閉じる。

明日は案件がひとつ。そしてその曲が完成までいったら、明後日から2日間は本格的に休日とすることにした。

俺は絶対にヘッドスパに行ってやろうと思う。白髪が簡単に見つかる昨今、やはりここは根本的に頭皮のケアからである。鏡を見ながら、白髪を見つけては抜こうか否か迷っている時の手前の表情が切なすぎるである。

そして『レオン』や『アウトレイジ』などの、ずっと観ようと思って観ていなかった映画も鑑賞したい。叔父の店にも顔を出したい。

とはいえ、一番何がしたいかといったらわりと、仲間数人とキャッキャと呑みに行きたい。その一点である。しかし本日のニュースによると飲食店20時まで営業要請は続行とのこと。難しい。赤提灯的な店に行ってほっこりしたいのだが。

「やきとり、串からほぐさんといてよ」

「いや、みんなで食べやすいじゃん」

「やきとりはこう、串からガッといくからおいしいのに」

「それはわかるが」

「一口ずつ食べてみんなでまわせばいいじゃないの」

「それ、今の時期一番やっちゃいかんやつだな」

「ですよね。ほぐしてあげて。よっしゃレモンかけとくか」

「それは認めん」

「もう、わけわかめだよ」

「それ、死語っすね。ひさびさに聞いたっすわ」

「ですよね。ああ、ありがとう。注いでくれんだ」

「酒もほどほどにな……」

「逆。ホッピーと焼酎の比率、逆だから。殺す気か」

「死ね! ドボドボ。カラカラ……」

「ゴクゴク。うまい! ししゃも来たね」

「こいつは早い段階でレモンをこう……」

「基準がわからん」

というような、些細なやりとりが、わりと幸福度高めだったりする。ホッピーとやきとりを愉しむのがこんなに難しい世の中になるとは。葉巻をくわえるようにシシャモとやきとりを食い散らかせる日が早く来ますように。
_09/27

 

 

 


半日はリモート案件をやって原稿を提出して夜。どうしても温かい中華が食べたかったのでレバニラ定食をしっかり摂りに出かけ、戻ってきて制作をする。

着手中の楽曲はようやく確かな満足の仕上りへ。とはいえこういった曲調はさほどニーズは多くないとは思いつつも、こういうのがあってもいいんじゃないかなと、しっかりしたのが完成したしと、ポップなのは次に作ろうと、そのように納得。予定通り本日を締める。

よって、明日明後日は完全に休日にしようという計画が遂行できる。確か、ピクニックと『アウトレイジ』鑑賞とヘッドスパ突撃とやきとり祭りだったか、色々とやりたいことがあった。

全部それ通り果たして過ごすという予定調和のような休日というのもアドリブが効いておらんなと、やはりせっかくだからフリーダムに48時間はつかおうと思う。

案件が減少している昨今ではあるが、何かしら宅で作業しているとちゃんと休まないことが起因で、昨夜は酒を呑んだら左耳が変に聴こえなくなり、今日は背中全般が疲労所以で痛かった。

耳は起床時に、背中は現時点で治ったが、休まないとこうなるのは必然。休まずになんかせっせとずっとやっているのが恰好よろしいかといったらそれもあるが、ちゃんと休めないことはちゃんと仕事ができないということとさほど変わらんと個人的にちょっと思う。

だから俺は明日明後日は「大丈夫かな」と心配になるくらい休む。遊ぶ。すると、そうしないと出てこないアイディアや思考がはたらくというのはよく聞く話であり人間の摂理。

そのように決めたのではあるが、「やはりなんか不安なので机に向かった」というようなくだりになる確率は魚群リーチで大当たりを引く確率くらい(確か40%とか)はあるも、それも「フリーダムに過ごす」というコンセプト内の選択肢でもあるからアリであろう。

天気予報も以降2日はお日さまマークが表示されている。コンディションもばっちりである。正直に、一番何がしたいかというと、やはりデートである。誰かとUFOキャッチャー的なゲームなりで相当どうでもいいキャラクターを獲得すべく、100円玉を積み上げては熱くなりたい。

「それそろあきらめなよ。もう2,000円くらい使ってんじゃん」

「やめん。角度的にもうひと押しなのは明白なんだ」

「ぬいぐるみ取って私にくれるって想いは嬉しいんだけど、正直このキャラなんかブスいしいらないっていうか」

「もうな、そこじゃあないんだ。俺とこの台との勝負なんだ」

「やめとけって言ってんだろ。お前は両替機をカラにする気か」

「それそれ、ちょっと両替頼むわ」

「1万円札出すんじゃねえよ。アホか。私、もうこれで靴買ってくるわ」

「ちょ」

と、本気で止められるような、そんな過ごし方がベストである。とはいえそういった相手は、いない。
_09/28

 

 

 


確か蛭子能収さんの著書だったか、「――休日はむしろ早起きをして、予定を立てて」というようなことを綴られていた気がする。俺はそれがとても印象的で、なんとなくずっと覚えている。

だからというわけではないが、数日前から、今日明日は「休日」として、「このように過ごそう」という絵をいくつか描いていた。

思っていたより早くに起床し、猫でいうところの毛づくろいと伸びとツメ研ぎにあたるであろう準備をする。そしてすぐには出かけず、PCと周辺機材を全て起動させて珈琲をすすりつつメールチェックなどをする。習慣とは恐ろしい。

今日は、今それをやらんでもいいのになと、インターフェースやスピーカー等はOFFで差し支えないのになと、惰性とも言える行動ではあるがむしろ真面目なくだりかもしれんというくだりの最中、案件受注の連絡をキャッチ。

3件、賜った。いつもなら、すぐにやる。休みの予定だったがやっぱ案件優先だぜと、「そのほうがよかれ」という、ある種の思考停止気味の流れでそのまま仕事をする。

しかし、今日に限っては異なる。たとえば、3つのうち1つを明日やりおおして提出しても「はやいね!」と、きっとそう言って頂けるというフィーリングのもの。よって、予定通り今日は仕事の類は一切しない。例外としておこなったのは、メールチェックと、案件の資料ダウンロードからの「案件」フォルダ格納、のみである。

休みの日にやりたかったことがいくつかあった。しかしそれらを全て無視し、とりあえずJR埼京線に乗って、池袋、新宿、渋谷など、仕事やらでよく訪れる土地とは真逆の方面に向かった。どこで降りるかは、決めていない。しかも「快速」に乗ったからこれは胸が躍る。

どこに行くか決めず、ただ、県をまたいで見知らぬ土地へ向かうというなんとも地味なワクワク感。“フリーダム”という、本日のコンセプトにばっちり合致。しかし、だんだん景色から高層ビルが少なくなってきたあたりから「電車代もったいねえな」という感情が漏れ、ササと降りることにした。

俺とは全く関連性のない土地。初めて降りる駅である。下車寸前に、車窓から珍しい団地が見えたので、まずはそこに向かうことにした。

方角だけなんとなく覚えておいたので、iPhoneのコンパス機能を使った。マップ的なアプリケーションを使えば最短ルートで到着するのだが、そうするのが当たり前の昨今ではあるが、今日あたりはコンパスを頼りにするほうがロマンがあるなと、傍から見たら完全にアホの子であろうという姿勢にこそ、今日あたりはなんらかの意味があるのではと俺は前向きに捉えた。

北口からちょうど「東」に進み、レア団地へ向かう。郊外特有の、草のような匂いはしなかった。

「本当に俺と関係のない地だな」と、しみじみ思いながら1時間くらい歩く。驚くほどに、道中は静かだった。ふと目に付く、正確には強制的に見せられている「歩行者信号」は、まだLEDに変えていない、昔ながらの仕様のものが多かった。

正確には「青」ではなく「緑」の色をした現代の交通LED信号。昔のはガチで「青」である。よくよく見ると毒々しいなと、チクロやサッカリンなどの人工甘味料がガンガン入っていた昭和の駄菓子のケミカルな色を彷彿とさせる。

見知らぬ土地の信号ひとつでも、こうも思考が刺激されるのだなと、来てよかったなと、そうは思うがシンプルになんもねえなと、俺は何をしに来たのだろうかと首を傾げながら歩く。ユニセックスサイズのロングTシャツ一丁では肌寒い気候だった。

川を跨ぐ。赤羽の荒川あたりの水の色とはまるで毛色の違う清流。飲めるのではないかというほどの透明感。元来、川というやつはこうだったんだよなと、橋から下を眺める。

コンパスは意外と便利だなと実感しつつ、ほぼ最短距離でレア団地に着く。推定、昭和50年代の建設と思われる見事な造形。暖かい差し色のオレンジの壁。俺は、団地巡りの時は必ず、最も高い棟の最上階に昇る。

エレベーターの階数選択ボタンはなぜか、「1・4・7・10」のみであった。今は亡き赤羽台団地33号棟のような「スキップフロア」という構造なのであろう。

かなりレアな団地に当たったものだと胸を震わせながら上昇し、10階へ。廊下から真下を見下ろす。まあまあの高さ。ケツがキュッとなると共に「飛んだら確実に死ねる高さだな」と、確認をする。とはいえ、キュッとした感情が脳から光速でケツに届くあたり、決して、飛びたくはないのだなと、そこも確認した。

そりゃそうだよと思いつつ地上に降り、適当にぶらぶらとしてそろそろ戻ることに。駅周辺はけっこう栄えつつ、おしゃれな施設等もあったが、その界隈以外で俺が歩いたエリアは、コンビニや自動販売機を1つでも見かけたかな、というくらい、なんもなかった。普段、いかにあらゆるものが密集している土地で過ごしているのだなと実感した。

武蔵浦和という、手前となんの関連性もない土地で3時間ほど過ごし、頭をからっぽにして赤羽に戻る。個人経営の古書店で5冊ほど本を買い、めし食って帰宅。

これほど地味な休日があったものかという本日。収穫はというと、「なにもない」「俺と関係ない」「特筆してやることはない」「目的もない」という場所で彷徨っていると、なさすぎ起因でいつもとは別種の思考が生まれるということ。なにかをインプットする準備段階のような精神状態になれること。

それらがないと、それこそ本当に思考停止してしまいがちなので、「無目的」の意味を見出した、というところである。

意味もなく葉っぱを見つめて、そこから「黄金比」という絶対的な法則を発見した人がいるように、無駄が、なにかとんでもないものを生み出すということは、賛否あるだろうが、俺は人間にとって必要不可欠なことではないかと思った。

AIが人間を凌駕する、というシンギュラリティが現実味を帯びていると、まあまあよく聞く。

ワンチャン、人間がパーフェクトなAIに勝てる要素があるとしたら、「ちょいちょい無駄なことをする」という点ではないかと思った。

なぜなら、人間は、無駄な行為や幼児性多めの遊びなどから様々なことを発見して進歩してきたからではないかという点である。

そのへんもAIに学習させたら、もういよいよわからなくなってくるが、とりあえず無駄な行為も捉え方ひとつではないかという結論に、ある種の体験含みで再確認した。

とはいえ、どうせならもっと遠くに行けばもっと感動があったのかもしれなかったのだがまさかの埼玉県止まり。距離的に中途半端な無駄は若干のやるせなさを生むことも併せて学習した中秋の休日。
_09/29

 

 

 


今日も休日という予定だが、案件が手元にあるのにそれもなと、今ある3つの案件を提出しきるまでお休みはキャリーオーバーとした。とりあえずもり蕎麦すすって机に向かう。

ライター案件を1つやる。昨日しっかり休んだこともあり、全然疲れない。

何事も淀みなく進めるにあたり「休日」というのはやはり大切だな、必須だな、それは誰もが知っていることだなと、改めて実感した台風接近前夜の月末。

特筆して色気のあるエロめの出来事が何かあったかというと、ない。実に真面目な日常の1日。
_09/30

 

 

 

 


 

 

> 08/2021

> BLOG Top