11/2022

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
会える魚。11月


エゴサーチをする。手前が制作した楽曲がどのように使用され、どういった層で反響があり、いかなるフィードバックがあるかを認知し、よりよい制作に励み、クオリティーとニーズを高めようという目的である。

なぜ「Anonyment」という制作者名でエゴサをするようになったかというと明確な理由がある。

それは、年始に某ファミリーレストランにて、村上氏と桑原氏から「Twitterとかでエゴサして、使ってくれた人の投稿のリツイートや『いいね』をする事でアピールするのだよ。営業の一貫なのだよ。ブランディングにも繋げるのだよ」と、コンサルを受けたからである。

「そこに何の意味が?」

「今説明したろ! いいから毎日やれ」

「わっかりました! 和風ハンバーグ頂きます!(おごってもらう)」

というくだりを経て、その日から、日記を書いた後に夜な夜なTwitterのキーワード検索でAnonymentと打ち、「話題のツイート」と「最新」のタブで反応を調査することが日課となった。

すると、「Music:Anonyment」「楽曲:『タイトル』Anonyment」「BGMはAnonymentさんからお借りしました!」など、けっこうちゃんとクレジット表記をしてくださっているユーザー様方がいることを知った。「いいね」を押したりして感謝の意を伝える。

それを続けた結果、たまに直接メッセージなりを頂いたり、フォローをしてくださったりと、いい事しかなかった。自分のやっている事は積極的にアピールする時代になっているのだなとしばしば実感する。

さて数字はどうかと、月初恒例のストック収益集計を執り行なう。ここだけはコロナ禍を経てもゆっくりと上がっている。かつての「ここの数字があと10倍だったら――」というラインから、「そろそろ3倍でもまずまずいいぞこれは」というくらいに伸びている。

とはいえ、誰かに胸を張って言えるほど大規模な数字ではないが、ここは本当にコツコツ枠なので伸びると素直に嬉しい。そのテンションで制作を張り切って進める。行けAnonymentと、手前で鼓舞する。

改めて思うのは、Anonymentという名前自体である。シンプルにどこか怪しげと捉えられても仕方がないネーミング。

2013年の俺に対し、アドバイスがあるとしたら「実名でいいんじゃない?」という点だろうか。名前がアレだが質は確か、という風に受けて頂けるよう、せっせと制作物を積み重ねよう。これに関しては量より質重視で。

ちなみに“Anonyment”は“匿名”、“匿名性”という意味との事。俺は造語のつもりで名付けたのだが、副詞などとしての、ちゃんとした意味があった。そういった意味なのに、自ら思い切り実名と紐づけているあたり、なかなか間抜けな気がしてきた。
_11/01

 

 

 

 


悲しげな着地点が見えてきたような気がする新業務だが、依頼を受けたので喜んで赴く。

帰宅してなんやかんやとデスクワークをし、本を読む。この間、おそらく30歳は年上と思われる女性から頂いたやつである。

『成しとげる力』というタイトル。内容は、兆円規模の分野で成功をおさめた経営者が書かれたもので、“成しとげる”事について色々綴られている。

女性は、俺に、「成しとげよ」と言いたいのだろうか。そもそも「成しとげる」とはどういうことかと、俺は一体何を成しとげたいのかと、手前の自己同一性について今一度考えながら半分くらい一気に読み進める。

いかつい経営者が書く本の内容にはいくつか共通点がある。それは、「とにかく行動すること」「目標、あるいは夢を大きく掲げること」「継続すること」「損切りの判断を素早く見極めること」といったところだろうか。この本にも、そのようなテイストが散りばめられていた。

確かに、それらが全てスムーズにいけたら、なんか成しとげられそうである。

行動については、やる方だとは思うが、方向性が思い切り違う場合があるので気をつけている。

大きな目標については、ない。「自由になりたい」とか、すごくフワッとしている。ここは改めるべきかもしれないが、柔軟性も必要かと思っている。

継続については、執拗な方だとは思うが、これも方向性次第という側面もあると考えられる。

損切り、すなわち「ダメだと思ったら撤退する」事に関しては、俺は実に女々しく、諦めがよろしくない部分があるので、ここは明確なウィークポイントとも言える。

半分読んで、そのあたりを今一度考えさせられるあたり、なかなかパワフルな本をくれたものだなと感謝の意を寄せる。

本は、出会い方が大事で、そのタイミングによっては名作が凡作にもなりうると、何かで読んだことがある。

この、頂いた著書が自分にとって名作となるか否や。そうだった場合は、成しとげる方向に進むと思われる。思われる、ではなく、行動せよと手前に言い聞かせる。
_11/02

 

 

 

 

 


お休み設定の曜日だが、なんかこう、前に進みたいなという見上げた気概のもと、休まない事にする。西川口へ行き2時間ほど、宅で4時間ほど、仕事や制作をし、直接報酬を得たり、ストック収益の種を作り進めたりする。

めしは山菜蕎麦しか食っていない。モツの食いすぎ起因か、口元にニキビができたからなんとなく制限しているのである。

そして夜中、当然腹が減ったとラーメンなどを茹でて食うのかもしれない。それでは何の意味もなかろうと、キッチンに袋ラーメンを備蓄しておくこと自体を控えている。

ふと頰をさすると痩けてきた気がした。めしの食わなすぎである。では何か、せめてカロリーしっかりめの肴でもと、またモツを求める。

この無限ループから抜け出すには、日中ちゃんと食事を摂り、夜中は食わないという当たり前のスタイルを心がければよいだけの事。わかってはいるが、モツが食いたい。しかし、せめて、今日はやめておこう。

「今日はやらない、飲まない」というのを毎日続ける。これは各種依存症からの快方に向かう考え方である。中島らもさんの本にそう書いてあった。とはいえモツくらいでそういう思考を巡らせるのはちと大げさ。第一、モツは体にとてもいい。いいや、今日はやめておこう。
_11/03

 

 

 

 


楽曲視聴およびダウンロードページの更新をしようとしたら、当サイトがクソ重くなっていることに気がつく。俺だったら速攻で離脱するレベルであった。

早いところ阿部寛のホームページばりに軽くせねばと色々試みる。使用していないプラグイン(エフェクター的なやつ)を抜いたり、新たに刺したり、キャッシュをクリアしたりと、なかなかに格闘する。ウェブの知識については素人に毛がサワサワと生えた程度なのでさらっといかない。

それではいかんと、試行錯誤した結果、わりと早くなった。しかし、現在再度チェックしたらまた重くなっている。阿部寛さんのホームページのすばやさには程遠い。

これは優先事項高めと判断し、徹夜をしてでも――という気持ちはあるが、それは体によくないので明日、再チャレンジをする。

今日、だいぶイジるにはイジったから、何らかの反映待ちということで明ければシュッと速くなっていればよいのだが、そういった安易な期待は禁物。

俺にphpとデータベースとJavaScriptとサーバーの知識がしっかりあればと、それっぽい単語を並べるもわけがわかっていない手前に最たる原因があると思われる。学びが必要。とはいえ、昨今サイトを軽くすることはさほど難しいことではないと思われるのだが。
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さほど難しくないどころか、変なところをつついたようでサイトの管理画面にすら入れなくなる。これは終わったと地味に絶望する。

そこから数時間、サーバーの方で色々と変更をする必要があるとわかり、サーバー屋に電話して聞こうかと思った。以前、サイトに不具合が生じた時は通話でのレクチャーで助けてもらった。確か、深夜だったのにも関わらず非常に手厚かった記憶がある。

しかし、現在ではそのサポート体制が縮小しているらしく、土日は非対応とのこと。これは自分でどうにかするしかないと、レンタルサーバーのコントロールパネルにログインし、原因究明に臨んだ。

わかる人ならササとできるのだろうが、俺の場合、ここをイジるのは少々の知識で脳外科手術を施すくらい危ない。ビクビクしながらポチポチと復旧に挑む。結果、数時間かけて、当サイトの管理画面ダッシュボードにたどり着き、緊張からの緩和という快感すらおぼえる。

しかし、目的であるサイト表示のスピードアップは、その後も色々やったが変わったのか変わってないのかという体たらく。トップページがやたら重く、そこからは少し改善したかな、といったむずがゆい結果を残し1日が経つ。

どうやら、このサイトを形成しているWordPressというソフトウェアのバージョンが古いままで新たなプラグインが使用できず、サクッと軽量化できないことが原因の1つ。さらに、プログラミング言語であるphpも、ロクにバージョンアップしていないままなのも起因と、ほぼほぼ判明。

そのへんをアップグレードすればいいだけの気もするが、また時間のかかる不具合が起きたら悶絶なので、サーバーのサポートに連絡がつく週明けまで待つのが賢明と判断。WordPressに明るいコンサル求む。
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西川口へ出勤。1日せっせと過ごし、蕎麦を食い帰宅。ちょっと休んで制作をする。着手中の最近っぽいエレクトロミュージックを作り進める。

ピタッとしたリズムではなく人為的なグルーヴを打ち込みのサウンドでうねらせるというHIP HOP的なアプローチを含む。クリックを聴き、なるべくリズムを揺らして鍵盤のメインフレーズを弾く。そこに後から手打ちでビートを叩き、後でDAW上で微調整する。

文章にすると何て簡単なんだと思うが、実際に本意気で作るとあまりにも手こずる。「気持ちいい」と「ズレている」の中間の、「何か恍惚として引っ張られるリズム」がゴールなのだがめちゃめちゃ難しい。洋楽だと、こういったリズム感の曲が散見される。

やはり欧米人の血が流れていなければこういうのは無理なのかとも思うが、そこは諦めたくないので執拗に詰めていく。妥協しない方が後々吉と出ると言い聞かせて詰めていく。単にしつこいだけなのかもしれない気もしてきたが。
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しつこ過ぎて夜3時を回る。今日は1日、本当に1日中机に張り付く。サイトの軽量化と制作ずくめという日程。

相当いろんな手段を施したが、結局サイトが軽くなっているのか重いままなのかわからなくなってくる。

軽い時は「ついにやった」というくらい軽いが、もう一度見てみようと開くと重かったりする。だがしかし、サイトスピードをチェックするツールで診断するとかなり優秀な値だったりする。わけわからん。

制作を進めるが、何が正解か迷子になりつつ、もう眼・肩・腰・ケツが痛いよと、両作業共に煮え切らない段階で今日のところは〆ざるを得なくなる。そろそろ明るくなってくる。

しかし、思い返してみると、20代〜30代中盤あたりの頃は、こういったタイム感で作業に没頭していたなと懐かしく思う。そして、今でもそのしつこさがまだ健在だったと良い方にとる。明日、共にサクッと進むことを強くイメージして寝よう。夜空が明るくなり、謎の絶望感に苛まれる前にぐっすりと。
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業務端末から受注を受け、実務をする。たまにしか依頼が来ないくらいならこの事業は畳むのが賢明なのかもしれないが、リピーターがおられるとやはり進ませたいものなのだがなと、悩む。

とりあえず年内は続け、1年単位の数字を見て年明けに判断をすることにする。並行して色々やるのもいいが、手前のリソース(この場合、自分の資源や資産や行動範囲や時間など)を考慮するといかがなものかなとも思う。

この、とりあえず的な思考が甘いのかなとシビアに捉えつつ、唯一、徐々に徐々に伸び続けている音楽制作業務をする。

昨夜、なかなか理想に近づけんと悶絶して鍵盤の位置が物理的にズレるほど手こずったトラックをプレイバックし、全然いいテイクだ、これはいけると、音を整える。いかにもDJやトラックメイカーが作った雰囲気の曲である。

よしよし、資産の種が育ったと気を良くする。思い返すと、制作物がストック収益として得られるようになり始めたのは8年前。最初は、月に缶コーヒー数本ぶんくらいしかその源泉で稼げなかった。

そう考えると、始めた頃よりも相当伸びている計算になる。ずっと続けるつもりだが、あと数年したらその収入だけでもいけるのではないか、という展望も決して非現実的ではない。そういった見通しはモチベーションに繋がる。

稼ぐことは42歳のコンセプトであることもあり、制作物経由の収益が増えればシンプルに嬉しいが、何より、思い描いていたイメージが音として仕上がるまでの過程がたいへん気持ちいい。キツければキツいほど気持ちいい。

マゾヒズムか、とも思うが、稼ぐことや何かを作り上げることにおいて、そういった側面はある種、必須なのではないかとも考えられる。

いや、性癖との因果関係はどうだろう。そう真剣に考え、ネットで検索して“性癖診断”というやつをためしにやってみた。

いくつかの質問に答えた。結果は「サディスティック」とのことであった。もういっこやってみた。結果は「50%」であった。まさかの数値での診断結果。

さらに他のもやってみた。「サディズム」と診断された。そんなはずはないと、もうひとつ。「キモヲタ系の変態」と出た。

だんだん腹が立ってきたのでムキになり、もはや5こ目。そこでは「アブノーマル度70 『ドスケベ』」だそうである。俺は「50%」だけを信じることにした。
_11/08

 

 

 

 


Life On Venusという、たいへんタイプのバンドを見つける。大好きなシューゲーザースタイルが、彼らの音楽の主軸とみられる。

ロックミュージックにおいて、こと手前はオルタナティブやシューゲーザーなど、正道という表現の真逆のアプローチが中枢に刺さることもあり、Life On Venusというバンドには一聴一発で吸い込まれた。今年聴いたロックバンドの中で、好みという点で最も素敵だなと率直に感じた。

日本語ではないので歌詞の内容はわからないが、鬱屈としたことを歌っていることがサウンドから伝わってくる。40を過ぎてもこういった音楽でときめくことができることを純粋に嬉しむ。

シューゲーザーの語源でもある、足元を見つめながらプレイし、たまにしゃがんでエフェクターをイジりつつ奇妙な轟音をフロアに響かせる。そんなことを、20代後半ではバンドでやっていたなと懐かしむ。そうったこともあり、こういったやつをリスニングしていると当時を思い出してはキュンとする。

現代でもこういうバンドが活躍しているのだなと、なんだか元気になってくる。夜、張り切って制作をする。昼は『アルマンド』で業務をしていた。最近よくある過ごし方。

日々の通常運転の流れがここ3年半くらいで次から次へと変わるなと改めて思う。以前の、新宿の会社に日々通っていた時期がめちゃめちゃ遠い昔という肌感。

日々が過ぎるのを遅く感じているのかとも思ったが、机に常備しているスケジュールノートをパラパラめくると、もう、クリスマスまで色々書いてあった。実はあっという間に2022年が過ぎていっていることに気がつく。

年末の予定はまだ埋まっていない。2015年あたりから数年間恒例だった、紅白歌合戦のリハーサルおよび本番の取材も今年は俺の稼働は無さ気なので、普通にお休みになる可能性がまあまあ高い。

希望としては、仕事をして年を越したいのだが、訴求しても案件や業務がなかった場合は仕方がない。その際は、個人的にはホームパーティーがやりたい。仲間を仕事部屋に呼んで、全員酔っ払った上で、各々の2022年を振り返る内容の演説大会がしたい。

とはいえ、愉快な仲間たちはみんな忙しいので、そうもいかないかもしれない。すると一人演説会と相成る。想像するだけで虚しくなってくる。せめて、今のうちに鳥肌実氏的な衣装を探しておこうか。されど楽しかろう。いや、たぶん違かろう。
_11/09

 

 

 

 


案件で新橋へ。現地取材込みのライター業務は久しぶりである。久々なのは困るのだが。それが如何程かというと、一眼レフカメラの扱い方をまあまあ忘れているレベル。

前日に機材のチェックをしたところ「ISOって何だっけ?」という始末だったが、なんとなく体が覚えていたのでそこは安堵。

記者会見や試写会などの取材、いわゆるマスコミ的立場での記事作成は、YouTubeの切り抜き動画制作とどこか似ているのではと、最近思っていた。

前提として、会見などの内容を記事化することと、切り抜き動画というコンテンツの制作との過程や質を比較したりするわけではない。「なんかちょっと似てそう」と、ちょっと感じただけの話である。

会見では、対象者の言動から得られる情報の取捨選択をし、時には「――の平吉です。この度は、おめでとうございます。――についてですが……」という感じで質問をし、要点を簡潔に切り取り、フォーカスすべく主題を見出しとして記事を書く。

そして、会見のテーマと関係ない、面白いやりとりやハプニングなどがあったら、むしろそのくだりの情報をメインとした見出しにするという手法もあるかもしれない。

YouTubeの切り抜き動画で言ったら、例えば1時間ほどの生配信があり、トピックは20個くらいあったがそのうち1個(あるいは数個)に絞り、「ひろゆき 視聴者の質問にガチ切れ!」など扇動的なサムネイルを作成し、気軽に楽しめる数分の動画としてコンテンツ化する。自身で切り抜き動画を作ったことはないので憶測を含むが。

会見などの記事はそこまで極端ではない(媒体によってはあるのかもしれないが)が、捉え方としては、あくまで個人的にだが、共通点がいくつかあるのではないかと考えた。そして、その思考込みで取材をすると、わりと視点がシャープになることに気づいた。

昔、「なぜ同じ話題に対し、いくつもの媒体の記事があるのか」と、疑問に思ったことがあった。それは、記者によって視点が異なり、媒体によって重要と捉えるポイントの落とし込み方が様々あるからだと納得した。

先述のYouTubeの切り抜きの例えでいうと、「ガチ切れ」ではなく、別の質問に優しく答えた場面を重要視した「ひろゆき 神対応回答…!」など、そういったコンテンツとなるのかもしれない。同じ生配信回の切り抜きでも真逆の印象となりそうである。YouTubeや各プラットフォームでの生配信という、テーマを絞らない場合も往々にしてあるという特性も含まれるが。

そういうこともあり、たとえば総理大臣の記者会見など、重要な情報を得る時は、記者や媒体を介していないノーカット配信を観たりすることもある。YouTubeだったら、よっぽど好きな人の生配信は、ご本人のチャンネルで生配信全ての尺を観たりする。

とはいえ、記事でも切り抜きでもノーカットでも、どれにも長所があると思う。「ちょっと興味がある」という場合は、非常に短い記事や切り抜きでもいいのかもしれないし、俺もそういうのをよく閲覧する。そこにはやはり、現代の情報量が恐ろしいことになっていることも関わっている。

取材が終わり、近場の『ルノアール』でいい値段をしているブレンドコーヒーをすすりながら、原稿を書く。写真をデータで現像して添付して提出。現地で蕎麦すすって帰宅。

誰しも、人の一生には壮大なドラマがある。ノーカットでその情報を得たら、必ず感動する場面が散りばめられている。

だが、その情報を全て得るのには、えらい時間がかかる。自伝などを刊行する方は、そこにギュッと凝縮されている。

俺の場合はどうなのだろうと考えた。妙ちくりんなとこだけ切り取られて2〜3行で俺の人生をまとめられたらたまらんなと思い、明日からも頑張ろうと頬をピシャリと叩く。
_11/10

 

 

 

 


昼間、1件依頼を受けて業務をし、あとの時間は資格取得の時間に充てる。手元にメンタルヘルス系の資格を3つほど持っているが、今度はぜんぜん別の畑である。

それは、飲食店などで必ずその店に1人は取得者が居ないといかんという「衛生管理責任者」の資格である。そいつを取る必要性を感じたのである。

正確には、先月に仲間から有料級のコンサルを受け(呑みながら)、その時に「先々のことを考えると、取っておいたほうがいい」というアドバイスを賜ったことが起因。

この資格があれば、なんならいつの日か「赤羽で小洒落たミュージックBARでも開業するか」という案が飛び出た際に、明確に役に立つ。

今はそれが直接的な目的ではないが、さっそく調べる。すると、現代ではeラーニング方式で宅でも受講できるらしいので速攻で申し込み、受講を始める。全行程約6時間ちょいかかるという。

受講料は12,000円也。ちと痛いが、経費にするかと勘定科目を調査するも、こいつは個人に帰属する国家資格だから経費にはできないという結論にたどりつく。

完全に自腹となるが、なんかハクがつくかもしれんからまあいいかと、わかりやすい自己投資だと、ひたすらPCの画面に張り付いて受講する。地味に疲れる。

とはいえこうして一歩ずつ進んでいくのだよと手前を鼓舞する。明日も空いた時間に受講し、最短距離での取得を目指す。

それにしても国家資格が12,000円と6時間の受講と軽いテスト的なやつ合格で取れるのかというのは意外な所感。
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謎すぎるバンド・Psycadaが気になって仕方がない。どの国のバンドか、アーティスト名をどう発音するのか、そういった基本情報がいっさい出てこない。

Googleの検索エンジンで「Psycada」と入力すると、検索結果は現時点でちょうど2,000件。少なすぎる。そして、日本語での情報を含むサイトがほぼ確認できなかった。オフィシャルウェブサイトも見つからない。

音楽性が個人的にたいへん素晴らしいと思っているので、その正体が謎すぎると逆にそそる。とりあえず、バンド名については「Psycada:シケイダ」と、勝手に呼んでいる。

理由は2ある。1つは、彼らの1stアルバムと思われる『Hiking Lung』のジャケットに描かれた鋭利な表情をした少女の右眼に蝉が描かれており、蝉は英語で“cicada:シケイダ”であることである。

その“cicada”から俺が連想したのが「cicada3301」であること。「シケイダ3301」の概要を要約すると以下のようになる。

“暗号解読者もしくは言語学者を一般から募る為、3回に渡り、恐ろしく難易度の高いパズルを投稿した組織に付けられたニックネーム。

2012年1月に匿名画像掲示板4chanで始まり、3回目は2014年1月にTwitterへの新たなヒントの投稿が確認された後に始まった。表明された目的は、一連の解読されるべきパズルを提示することによって「高度な知的能力を持った人物」を募ること。

この「シケイダ3301」は、「インターネット時代における最も複雑でミステリアスなパズル」と呼ばれ、その役割については様々な憶測が存在している。”
(※Wikipediaより引用、リライト)

この「cicada3301」を画像検索して出てくる蝉のマークが、2022年7月リリースのアルバム『Hiking Lung』のジャケットで見られる蝉と、どこか似ていることが2つ目の理由である。

Psycadaの音楽性は、一言でまとめろと言われれば、「サイケデリックロックと60年代ロックのリバイバルかつアップデートされたロックミュージック」だろうか。

近しい音楽としては、The Doorsの1stアルバムのテイスト、ビートルズの中期の空気感、さらにジミ・ヘンドリックスの匂いも感じられる。そこに、彼ら独自の時間軸が表されるアンサンブルと、ダウナー方面に恍惚とさせられる世界観が展開されている。特に、BPMの揺らがせ方が特筆してエグい。そこが最も好きなポイントかもしれない。

結局、現時点で正体は何ひとつわからずじまいである。これまで1度もやったことがないが、彼らの楽曲が公開されているYouTubeのコメント欄で、英語で質問してみようかなと本気で思った。

「Your music is the best. It is good quality music that makes you feel very good. By the way, what is the name of your band in Japanese? Where are you from? Is this your first album? I am a musician from Japan and a fan of Psycada. I’m waiting for your reply.」

(「あなたたちの音楽は最高です。とてもいい気持ちになれる良質な音楽です。ところで、あなたたちのバンド名は日本語で何と読むのでしょうか? 出身地はどこでしょうか? 本作が1stアルバムなのでしょうか? 私は、音楽に携わる日本の者です。Psycadaのファンです。お返事待っています」)と。

コメントをしたら、正確な情報を答えてくるのか、はぐらされるのか、スルーされるのか、はたまた「cicada3301」ばりの暗号で返してくるのか――いずれであってもワクワクする。

これくらいの歳になっても、ファンになれてドキドキさせてくれただけでも、感謝の気持ちが妙なグルーヴで畝る。今年出会った音楽のロック部門1、2を争うPsycada。

ちなみに、エレクトロ部門では今の所æverというアーティストの「Untitled 97」という楽曲が暫定1位。90年代のドラムンベース、ブレイクコアシーンを彷彿とさせる音像。

そして、やはりこのæverの情報も、日本語ではほぼほぼ出てこない。俺の音楽の好みはマニアックすぎるのだろうか。いや、秀逸な彼らが、ただ、いまのところ、悪い意味ではなく、埋もれているだけの気がしてならない。
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日曜なので西川口『アルマンド』で業務をする。近隣でお祭りがあった為であろうか、恐ろしく忙しく、そのぶんたっぷり十二分の売り上げ。

多大な疲労感をおぼえたが、しっかり稼いだからよしよしと、クタクタと帰宅。頂き物の弁当を温めてがつがつ食い、YouTubeを垂れ流しにしながら仮眠する。

起きても完全回復とはいかなかったが、まだ時間があるので資格取得の為のeラーニングをいけるところまで受講する。わりと情報量が多く、頭がグラグラしそうである。

Life On Venusの楽曲を聴きながら〆る。今日あたりのいい感じの気だるさがマッチする煌びやかなシューゲーザー・サウンド。たまらなく心地よい。
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最近あまりしっかりとギターを弾いていなかったので、ライブワンステージくらいの90分ほど、立ってノンストップで演奏する。練習用に作成したSpotifyのプレイリストの楽曲を流しながら一緒に弾く。

立ちっぱなしで演奏し続けるとスピーディーに交感神経優位になり、覇気が出てくる。これは日々のルーティーンにしてもいいのではないかというほど、心身共への確かな良い影響を感じる。

あとは制作をして過ごす。ほとんどやらないアプローチでの制作方法だったこともあり、時間がかかりまくる。そのまま仕上げにかかってもいいと一度判断したが、ギターパートが入る余地があったので粘る。

バキバキに気が冴えたので入浴して副交感神経優位に切り替えようと思う。自律神経がガタガタなきらいがあるので、ついでに最近知っためっぽう効くツボ押しも加える。

「内関」という、手のひらを上に向けた際、手首にできるしわの真ん中から指3本分ほど離れた肘の方にあるツボを押す。これがビリビリするほど痛い。

精神を落ち着け、自律神経を整える作用がある「内関」を押すといつも痛いというのは、何というか、そういうことであろう。ツボ経由で心を落ち着けられたら苦労しないとも思うが、わりと効く気がする。なにせ、いつ押しても、本当に痛い。
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寝ても寝ても眠くてたまらず、10時間以上寝てもまだ眠い。昨夜、やや熱の風呂に潜水して1分以上息を止めるという謎のリラクゼーション目的イニシエーションがガン効まりしたのか、とにかく眠い。

そういう時は、先祖からのメッセージやらあの世からの休憩タイム要請等といった、スピリチュアルな解釈がある。

しかし俺は現実を鑑み、とりあえず最近しっかり休日をとっていないことに加え、気温差が激しく湿度もガラッと変化したことが原因であることも考慮する。

妙に意味深な夢をいくつも見た気がするので前者が濃いのかもしれないが、そこは抽象的すぎるのでこれ以上は言語化不能。日中は『アルマンド』に赴き業務を行ない、帰宅して制作を進める。

何かのタイミングや事象が、その人にとって良き方向に促されるきっかけとなることがある。そして、その本質をしっかり見極め、逆らわず、しっかりとその人なりに噛み砕いて行動すると、流れるように事が好転するというのは世の常なのであろうか。

穀潰しギャンブラー時代の後期、頻繁にあった妙なことがある。

それはまず、賭場に向かう途中、「さすがに今日は行かないでおこうかな」などと、中毒者なりにも内省の囁きが聞こえたりするた。しかし、それは別に普通のことで「行きたいけど、やめておきたくもある」という、機能しきっていないスカスカの自制心が所以である。

そういう時、面白いタイミングで外部から連絡を受けるのである。パチ屋の駐車場に停めたあたりでメールをケータイに受信したり、仕事の内容についての受電があったりする。

それらに対し、「何だよこのタイミングで」とか思いながら一応対応しつつも、完全に依存症だったものだったから「なんか今日はやめとこうかな」という気持ちには流れず、賭しに行く。そして、そういった時は超高確率で負けていた。

あれは、「今日はやめとけ」という何らかのメッセージだったのかもしれない。それは、当時もフワッと感じており、そういった報せもあるのだと、ちゃんと認識しようとチラッと思っていた。だが、賭博熱のほうが圧倒的に勝るのである。

今思うと、そういったことは後期に集中していたので「今日はやめとけ」ではなく、「金輪際やめとけ」というメッセージだったのであろうか。そう考えると腑に落ちる。

近年では、ネガティブなことに対してのそういったメッセージ的な現象はあまり起きない。逆に、ポジティブに受けるべく“報せ”のようなものが多い。そして、俺はそれをけっこう真に受けて行動原理の付加価値のようにちゃんと捉えている。

決断するには迷うが、流れ的にああいった不思議なこともあったしな――といった感じである。

「平吉さん、『流れ』ってあると思いますか?」と、当時通っていたフリー雀荘の20代の店員さんに卓上で問われたことがある。

そして、「あるというか、そもそも流れというのは――うん、あるんじゃないですかね?」といった不明瞭な回答をしたことを覚えている。

彼は、麻雀の成績においての「流れ」のことを指していたのであろう。だとしたら、確率が基軸にあるギャンブルにおいては、確率の偏りという点で「流れは、ある」が正解だろうか。人によっては、それは流れではなく、乱数のようなものであるとも考えるのだろうか。

今だったらこう答える。「流れはあります。絶対にあります」と。

理由として、「麻雀において勝ちっぱなしの者がいたといましょう。それは、会話に例えると、一人の人間が終始話し続けているのと一緒だからです」と。

「故に、会話で特定の者だけが喋り続けると会話自体が成立しないことと同様に、麻雀で勝者がずっと同一であることはありえないからです。その点で細分化されたものが『押し引き』ではないでしょうか」と。

「その『押し引き』が適切な人は麻雀が強いし、会話も盛り上がるでしょう。明らかにアガれないタイミングで攻めても点棒が減る一方です。相手が大切なことを言っている最中に遮って自分の意見を言うと、その人は次からあまり話してくれなくなります」と。

「だから、流れはあります」

「そうですか。ロン」

「おっと」

「ホンイツ、トイトイ、なんちゃら――18,000点です。平吉さん」

「ほらね。麻雀そっちのけで会話で一方的に攻めた結果がこれですよ」

「なんとなくわかる、いや、わかりません」

「要は、スピリチュアルなどの抽象的捉え方と、現実的思考と、人と人とのあらゆる呼吸のやりとりなのです」

「もっとわかりません」

「今日はこれでラス半(最後の局にして帰る宣言)にします。さっきからLINEの受信が多いので」

「大丈夫ですか平吉さん」

「こういったメッセージには、時に、倍音のように、いくつかの意味が含まれるのです」

「大丈夫ですか平吉さん」

実際に久々に雀荘に行き、このように「流れ」について回答したわけではない。仮にそうだとしたら、こういったやりとりを経てしっぽを巻いてちょい負けに抑えて帰るであろう。これが昔はできなかった。

何が言いたいのかというと、眠くて仕方がない時、休めるタイミングならしっかり寝ろと。わかってはいるのだが今だにそれが実行できず、何やかんやとしていた1日。

その中に、危険な遊びが含まれていないあたり、少々はマシになってきたかなとポジティブに捉える。そういったわけで、明日はできる限りゆっくりしよう。
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信用金庫の担当のお兄さんご来客。おすすめしたいサービスがあるとのことでお会いして20分ほどお話を、という前日予約があったのである。

香ばしい金融商品か何かかな、と構えたが、それは信用金庫経由でなければ得られない情報を得られるプラットフォームの紹介であった。

熱心にプレゼンする20代の若き銀行員。なんだかほほえましくも、応援したくなるような心境に包まれた。具体的に善処する。

随分と時間を押しているので「時間、大丈夫です?」と聞くと「大丈夫です!」と、話を続ける。進呈したパイナップル・ジュースをすすりながら意気揚々としておる。

小一時間してお帰りになられ、「平吉宅への来客は謎に長居する説」がどんどん濃厚になったなとほっこりする。

宵の口、定期的に遊ぶ愉快な仲間たちと合流。というか、今日の現場は赤羽ということで俺宅の前まで来てくれた。4人でおいしいしゃぶしゃぶを食べに繰り出す(おごってもらう)。

前回もそうだったが、俺の最近の様々な活動において、色々と話を聞いてくれる。そこについて、包み隠さず全て開示すると、多彩なフィードバックが返ってくる。

「先月、アドバイスしてもらったことは全部やったよ。例の資格も証明書到着待ちだよ」

「よし。えらい。あとはアレだな――」

「あと、平吉の場合はアレだからこういうのを勉強したり――」

「そんで、平吉さん今日体調悪いのは、話聞いてると最近めっちゃ動いて考え過ぎで疲れてんすよ。ちゃんと休めてないんすよ。仕事には『休み』っていうタスクが必要だと思うんす」

「ふむふむ。わかりました。やりましょう」

と、前回同様、有料級のコンサルをそれぞれ賜る。俺の親父は、俺同様、個人事業主だったが、人の話やアドバイスにちゃんと対峙しなかったことで、リッチな晩年とはいかなかったと認識している。それもあり、俺は仲間の愛の言葉をちゃんと聞くことにしている。そして、それを行動に移すことは言うまでもない。

コンビニに寄り、「平んち行く?」という流れで仕事部屋へ。体調不良なので、酒はもの凄くゆっくり呑む。いろんな話をしてわちゃわちゃ過ごす。

同級生が鍵盤の前に座っていたのでシンセサイザーの電源を入れる。そして、話の流れで、俺が日々制作している楽曲に興味を持って頂いたのでいくつか聴いてもらう。なんか、気持ちいい。

たまたま、流した楽曲の楽譜が譜面立ての最前面にあった。同級生は「今の曲これ?」と言うので「そうよ」と答える。すると、彼は俺の曲を初見で弾き出す。

「自分の曲を目の前で誰かが弾いてくれるのって快感だよこれ」と、率直に伝える。「そうなん?」と、俺の楽曲を流暢に弾き続ける。めちゃめちゃ気持ちいい。その楽曲の制作過程や魅力のポイントを説明する。

「お、なんか平吉のテンション上がってきたな。よかったよかった」と、先輩は言う。トークを続けるうちに、もう一人に関してはソファで寝てけつかる。

みんなが俺の仕事部屋でリラックスしているのは幸せだなと思い、その感情を伝えた。「嬉しいのが前提ですけど、なんか、ウチに来る人って謎に長居するんですよね」と。

先輩に「何でなんすかね?」と投げかけると、「なんか、居やすい」というシンプルな感想が返ってきた。ヨディーさんも以前、宅で「なんかここ、居心地いいんですよね」と仰ってくれた。

手前の宅が憩える、というのは、どこか自身を全肯定されているような感じでとても気持ちがよい。

そのような流れで、気がつけば余裕で日を跨いでいる時間帯。仲間たちを送る。

帰ると、空のペットボトルやお菓子の残骸などが軽く乱雑している。

「しょうがないなあいつらは」とか思いながらちゃっちゃと片付けるこの喜び。それは、豊かな人間関係と愛所以の感情以外に形容しようがない。

おかげさまでだいぶ元気になれたことに、彼らが帰った後にもひっそり感謝の念を送る。
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サンシャインの近くの水族館に行き、生命の源を目視して生きる悦びを改め、回転寿司で豪遊して帰るという休日プランだったが、西川口から入電があったのでコンサルに向かう。実務をして報酬を得る。

俺の休日が、とも少々思ったが、求められて仕事ができるほうが幸福である。回った寿司なんざいつでも食えると、そもそも、さほど水族館には別に行きたくなかった気もするなと、とんかつ食って帰宅。

あとの時間は疲労をとるべくダラダラ過ごす。とはいえ、デスクでPCに向かうと何やかんやと負担がかかっているのかもしれないが、明らかに自由時間という感じだったのでよしとする。

ゆっくり酒呑んで眠ろう。なるべくゆっくり呑むほど、酒は美味く感じるものである。血中アルコール度数と手前の華奢な体重を鑑みればわかりそうなものだが、こと、その点について昨日気がついた。1時間につき1合くらいで全然仕上がるものなのだと。
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Windowsと格闘する。新たな業務となった喫茶店コンサルにおいての経理デジタル化計画のため、サブのマシーンを持ち込もうかなと、とりあえず頂いたPCで色々と設定する。手前がいつも使用しているMacではないので全ての動作が慣れない。

おかしい、会社員時代は「Windows 7」「Windows 8」あたりのOSで日々仕事をしていたはずではないかと訝しむ。ネット接続すらサクッといかず悶々とする。

ようやくYahoo!のトップページ表示まで至り、ネットは大丈夫。では肝心のエクセルやらパワポやらを起動させようとデスクトップに置き、帳簿のベースを作ろうとアプリを開くも「権限切れ」的な警告が出現して足止めである。

アカウントやらは元々の持ち主に聞かないとわからないか――などとネットで調べていたら急に回線スピードが重くなる。もしやと思い、テザリングで繋いでいた俺のiPhoneの余力を見るとギガが枯渇しておる。

何故、家で作業していてギガを買い足すハメになるのかと憤慨したが、テザリング経由で色々とダウンロードすればそうもなるだろうと、怒りのやり場は手前に帰属しており煩悶。

下準備からしてできておらんと、キャリアのショップに行きギガ無制限プランへの変更と、Office系アプリのアカウント等を教えてもらうことを明日のタスクとして一旦Windowsをたたむ。

俺自身がまず、まだまだデジタル化されておらんと反省するも、なんかもう面倒だからもう1台それ用のMacを買おうかなと検討する。

メインは手元のMacbook Proで、サブはMacbook Airにしようかと考えた。音楽制作以外の作業であれば、Macbook Airで妥当なところだろうと価格を調べるとえらい高価くなっていて驚きを禁じ得なかった。

ここはひとつ、自己投資としてえいっと買ってしまうのもいいかもしれない。Macでもエクセルとかが使える「Office Home & Student for Mac」も手元にもう1台ぶん使えるやつがある。すべてスムーズに行く。

しかし本体が高価。これも過激な円安の影響なのだろうか。明日あたり1ドル80円くらいまで死ぬほど変動していたら海外製品はめちゃめちゃ安くなるかもしれないので、その際は速攻で買う。だがしかしそれはまずありえないだろうし、もしそうなったら全為替トレーダーが爆発しそう。
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撮影の立会いで西川口へ。純喫茶『アルマンド』においてのイベントや、撮影における対応の業務を一任して頂いたので、そういったものはできる限り締結させる。無論、報酬も頂く。

ご来店したクルーはしっかりした機材に囲まれ、着々と撮影を進行させていた。画角内に入るべきではない物をどかしたり、珈琲を入れたりしながら、応援の意を送りつつ眺める。

撮影前、「カウンター内に一人居るといいですよね」との話が出たので「私めでよろしければ」という流れでエキストラ出演する運びに。以前もそのようなことがあったが、わりと出たがりな手前にとっては楽しい。

無事撮影が完了し、夜道を歩きながら帰路につく。親子丼食って帰る。気がつけば年の瀬も見えてきた昨今、今年はいろんな仕事ができて面白いなとつくづく思う。筆舌に尽くし難いこともあったが、よいことの方が多かった。

いつぞやに赤羽八幡神社で今年の俺の運勢について調べた。その内容は、一言で表すと「今後の発展に繋がる種撒きとなる重要な年」的なものであった。振り返ると、本当にそんな感じだなと解釈できる。

すると来年以降は花満開であろう。咲き乱れよ、咲き続けよと、潜在意識に叩きつける。頭の中がお花畑、という意味ではない。決して。
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案件で銀座へ。ライブスタッフ業務である。今日はマニュピレーター的なタスクも頂く。そういった所作は初めてやったのでとても新鮮かつなんか面白かった。わりと早い段階でミスったが。

終演後に当然平謝り。興行後、いくぶんか酒を呑ませて頂き、冷たい雨を浴びながら帰宅。電車で思い切り寝る。

気がつけば赤羽駅。あっという間に過ぎた1日。みんなといるとそれだけで安心感があるというのは、とても恵まれているなと切実に感ずる。
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ケータイのプランを変更しに行く。7ギガまで使える容量限度から無制限へ。以前と価格が変わり、7ギガまでと無制限での差額は約500円。なぜいつの間にかそんな安くなっていたのかと手前の情弱ぶりを憂う。

「出先でのテザリングやら、Wifi落ちに気づかなかったりすることが多く、ギガがかかるのです」

「これは――いってますねえ」

「見てください。今月4回も1ギガずつ買い足しているのです」

「あちゃあ――もったいないですねえ」

「買い足すたびにもう、いたたまれなくなるのです」

「無制限にした方が――いいですねえ――」

ということで使用可能ギガ残量を気にしなくていいプランに変更。やれやれと思い、あとは仕事して、ちょっとYouTubeを観て、謎に早起きしたぶん当然眠いので小一時間ソファでくたばり、制作をし、やっぱこの楽曲にはギターパート要らねえやと、別のトラックを追加してようやくMIX工程に進む。

当たり前だが、1日の時間は限られているなと実感する。ギガ使用可能数のように、あと8時間くらい使えるプランに変更できやしないものかと想像する。すると1日32時間である。それはそれでしんどそうなので24時間でいいだろと着地。生きる時間を買い足せる時代がいつか、来るのだろうか。
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経済や経営だの税金といった勉強をする。今日はインボイス制度についてである。来年秋に実施されるとのことだが、今まで何のことか一切わからなかったのである。

フワッとした前情報として、フリーランスや個人事業主を震撼させる施策というイメージがあった。そして、様々なウェブサイトを参考にしたがよくわからなかった。

俺はアホの子なのかなとげんなりしながら、ここは中小企業診断士YouTubeチャンネル『ほらっちチャンネル』にすがろうと動画を検索した。

結果、「インボイス制度:個人の事例 / 影響を受ける業種 等――」という20分の動画閲覧ならびに自分用のテキスト作成によって、その概要を理解することができた。「本当に震撼させるほどの施策というほどでもねえかな」と、言うと少々の嘘が混じる。

“影響を受ける業種”は、正に俺のような業態。対策を練り、実施する予定を立てて無事、情報のインストール終了。

普通にネットで雑多な情報を取捨選択していたら、下手をすれば半日以上かかったかもしれない勉強が1時間以内で済んだ。それは、中小企業診断士YouTubeチャンネル『ほらっちチャンネル』のほらっち先生のおかげである。

俺は感謝の意を送りたかった。念じても届くかどうかはあまりに抽象的。そこで、俺は人生初の行動に出た。と、表現するとちと大げさ。

具体的に何をしたかというと、その動画のコメント欄にお礼の文章を綴った。加えて、「Super Thanks」という投げ銭的機能があったので、クレジットカード決済経由でいくぶんかの金を払った。

おかげさまで、短時間で勉強になりました。いつも参考にしています。あと、あなたのこういった点がとても好きです。

といった、端的にはこのような内容を丁寧に書いて現金と共にコメントを投稿。ちゃんとお礼を伝えられるのは実に清々しいものである。

そのあと、休憩中にYouTubeを開いたら手前のアカウントに通知が来ていた。そういうのは初めてだなと思い、見てみると、ほらっち先生ご本人からのお返事がありますよという内容であった。

とても紳士的なお返事を受け、これまた清々しい気持ちに包まれた。そして、謎に「注目の返信」という表示もあり、なんかすげえなと思った。

YouTubeにおいて自身のアカウントで発信したことは無いが、今はこういうやりとりもできるのだなと視界が広がった。

そして、アカウント名が実名なので、ご返信のはしがきが「平吉賢治様――」だと、なんだか本当にちゃんとやりとり出来ているのだなという実感もプラスされる。

いつも感謝しております。という気持ちが実名込みでネット上にドンと表示されるのはなんか新鮮であった。

ほらっち先生、重ねて、感謝申し上げます。そして、投げ銭の額につきまして、自身、もっと頑張って稼ごうという心境になれたということを踏まえた上で、お察し頂けると幸いに存じます。
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ブッキングしたイベントの立会いで西川口へ。最近ちょいちょいある業務だが、そういった仕事も自分に頂けるのだなと改めて思う。

盛況のなか、無事完了。よかったよかったと報酬を胸ポケットに突っ込んで帰る。最近、本気で休日を設けていなかったので、明日こそはと考える。

水族館に行って回転寿司。そしてブックオフかアニメイトで漫画を買い漁る。これはほっこりするはずである。気の済むまで、ツブ貝の寿司を食いまくろう。
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何事においても行動するか、しないか。それだけで人生の振り幅は全然違うとよく聞く。

手前はその通りだと認識し、こと仕事においては自分なりに行動力を意識しているつもりである。一方、プライベート的なことに関しては有言不実行が散見される。

しかし今日は違う。俺はちゃんと水族館へ行った。わりと楽しみだったのか、いつもよりかなり早く起床するという遠足当日の小学生ばりのムーブ。いざ池袋サンシャインシティへ。

行くまでが謎にだるかったが、チケットを買い、「行ってらっしゃい!」と係の者からの気つけを受け、あらゆる水族たちに会いに行く。会える魚。俺はまだ子どもなのだろうか、というほどすぐに元気になる。

一般的なフォルムをした魚や、まず日常では目にしないスタイルの生物、美しいサンゴ礁に見事なライトアップ。そして、適度な暗さの館内。実にファンタスティックな空間であった。

客観的に、水族たちを見て、「気持ちが悪い」「たくましい」「美麗である」「一生懸命生きている」という、それぞれどこか相反する感想が湧いた。

「君はどうしてそんな体つきになったのだね? 細っくなって」と、太刀魚に問う。彼は、「これが自分のスタイルなのです」と言わんばかりに、輝きながらウニウニしていた。

「君はほぼ、動かないよね。やる気はあるのかな?」と、ナマコ的な奴に問う。彼は、「その必要がないからです」と言わんばかりにディフェンスに徹するような所作でたまにピクッとしていた。

「おちょくってるのかな君は。なんだねその卑猥なピンクの首回りは」と、ウーパールーパーに問う。彼は、「いやそんなつもりは。むしろ、良くないですかこれ?」と、自己肯定感に満ちた表情でポップに堂々としていた。

「落ち着きなさい。そんなマグロ並みに回遊しまくって、疲れはしないのかい?」と、アザラシ的な奴に問う。彼は、「生きるということは、こういうことなのです」と言わんばかりの速度でグルグルと、ずっと水槽内を泳ぎまくっていた。

スマホカメラのシャッタースピードでは、その必死な表情はブレてしまった。そうか、それくらいでいいのか、つまらねえことを言う輩には目線すら向ける必要はないのだと、そう言いたいのだねと、君が生きる時間において、そんな暇はないのだねと、めちゃめちゃ怖い顔のアザラシ的水族の撮影をした。

完全に満足し、退館。思いのほか興奮できて「これだ、こういうのが最近足りていなかったのだ」とスッと頭の霧が晴れる。そして、予定通り回転寿司屋に行き、水族をバラバラに切り刻んだ食事を摂る。

このご時世だからか、寿司は回っておらず、逐一、大将にオーダーする雰囲気であった。俺は、右側からバンバンくる皿を能動的にキャッチして限界まで食うのが好きなのだが仕方がないと、とりあえずツブ貝を頼んだ。

やけにちっこいなと率直に思ったが、この物価高の時期では一皿180円でこれが限界であろうと、世間を憂いつつ納得して食う。味は美味しい。しかし、ガンガン食えるペースではないことも起因し、7皿でフィニッシュとする。

さて漫画を買いに行こうとブックオフへ。いやまて、今日は娯楽はもう十分だと、グルグルとハイスピードで回遊する水族の如く、前へ進めと、俺は教養を得るための書籍を探した。

今、俺に足りていないのは経済と経営の知識である。経済については今年に入ってから、投資を始めるという行動込みで、わりと勉強をしている。

そういったわけで経営に関する本を2冊チョイス。1つは、動物キャラがわかりやすく説明してくれるゆるゆるのもの。もう1つは、明らかに「お前にはまだ早い」と判断できる超難しそうなやつ。それぞれ購入し、帰宅してゆるゆるの方から読み進める。

知らないことがまだまだたくさんあるなと、ソファで仮眠する。そして、速攻で酒を買いに行き、早めに呑み始めてぐだぐだ過ごすのが今日のコンセプトに沿っていると思うも、やはり作業をしようとDAWを開く。

あの太刀魚のような、生命体として仕上がっている説得力あふれるエネルギーを醸すくらいの楽曲をたくさん作ろう、もっと稼ごうと、MIX作業をする。着手中のおしゃれなエレクトロミュージックがだいぶ完成に近づく。

正直、「ちゃんと休む」という予定を敢行したかかというと「半分はそうでした」といった1日。とはいえ、水族に生きる活力を貰い、モチベーションも上がったので超良しとする。

四十過ぎ、水族たちに励まされ、襟を正して生と向きあう。感化され、今度は水泳といきたいとこだが、まあ、ほぼ確で、やら無さげ。
_11/24

 

 

 

 


こ難しい経営の本を読む。すると、手前がやっている各種の仕事の捉え方に対しての視野が広がる。

今日特に思ったのは、どれがいけていて、どれを続けるべきで、どれに期待するべきで、どれをバッサリやらないか、といった点である。

「PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)分析」という手法を知った。それは、要は市場成長率と市場占有率の2つの軸からなる座標に、事業や製品やサービスを分類し、マトリックス化して、あらゆる資源の分配の具合を判断することである。要してもわかりずらい。

一点はっきりしているのは、成長も占有も見込めないことはやめちまえということ。

これを手前の個人事業の各仕事にスライドさせると、なんと今年始めた新事業は撤退するべしという判断にたどり着いた。たどり着きたくなかった。

即、いっさいやらない、というのが適切な判断かもしれない。しかし、女々しさと、多少なりともリピーターがいることと、初めてゼロから立ち上げた事業に対しての愛着と、残りの営業資材のもったいなさを理由として、今年いっぱいは営業をし、翌年1月末に続行か撤退かを決定することにした。

続行か撤退かの予測値比率はシビアに1対9といったところだろうか。虚しすぎる。9割がた「失敗」という展望なのである。

何か勉強をする時、どういった手法が最もベストなのかと考えた。学び舎に行くこと、書物を読むこと、ネットで情報をかき集めること、メンターとなりうる人物に教えを乞うこと、地頭で考えること――色々ある。

俺は、それらからひとつに絞らず、4つの方法をとっている。まず、書籍を読む。そして、気になる点はインターネットで深掘りしてあらゆる情報を得る。さらに、その分野に詳しく具体的に成功している人物から一次情報を得ること、そして、学んだことを行動してフィードバックを得ることである。

学校へ行ったり講義を受けるのもいいかもしれないが、現代ではインターネットが発達していることと、様々な分野のプロが仲間にいるという点で、先述の4つの方法で学ぶ。とても恵まれた環境である。学びに行くには現金が必要で、それが惜しい、という点は否めない。

ある楽曲を演奏できるようになろうとすることは、勉強することに近しい。その際、どのような手法をとるのがベストかは知らんが、俺はまず対象楽曲を聴いて、耳で拾えるところを軽く覚え、インターネットから得られるコードや楽譜などの情報を参照し、より正確な音の並びやリズムを楽譜に書く。

そしてひらすら練習する。楽器演奏に関してある程度いけるという前提だが、これが一番早い。

そういったわけで、とある理由で演奏する必要が出てきた某UKロックバンドのある楽曲のピアノ演奏を練習する。

いつも思うが、楽曲アナライズというのは本当に楽しい。コンポーザーや、その楽曲に携わった人たちの想いを、言語以外で、音から伝わってくる点が大きいと思われる。みんな、色々勉強して、この楽曲を世に送り出したのだなと感銘を受けることが多々ある。

だからどんな分野でも勉強は大事だぜと、20代の頃の俺に言えるとしたらこう告げるだろう。

「パチスロ機の機械割と期待値の計算なんざしてねえで、もっと他にあるだろう?」

「ずいぶん達観したようなことを言うねえ。42歳。あるけど、これも大事」

「いいか22歳、『PPM分析』についてちょっと調べてみろ」

「PPMよりPGGの方が大事だ。42歳」

「いいか、PGG(プレミアム・ゴッド・ゲームの略。パチスロ史上最狂の問題機の超でかいボーナスゲーム。一撃で約10万円が得られる)とか考えるな」

「わかってる。あの台は危険だから打たん。手固く地道な台でコツコツ稼ぐ」

「いいか22歳、それはコツコツとは言わん」

「何が言いたいのかちとわからんね。42歳よ」

「20年後に少し気づく」

「うっそ、そんな長いの?」

「そう思うならいろんな勉強しなさいな。されど、その期間はもっともっと、短くなるかもよ。とりあえず各種分野の読書だけでも」

「漫画じゃだめ?」

「それは20年後も継続してる」

人生の資源には限りがある。増やすこともできれば、ひたすら溶かすこともできる。それだけでも、もっと早い段階で心からそう認識したかった。

それを後悔とも呼べるが、正確にはアホ過ぎた期間、長すぎ。今もいくぶんかはそうなのかもしれんが、多少なりとも成長しているのであろうか。還暦の俺が告げにくるとしたら、何と言うだろうか。
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仕事、西川口の店、制作と、「これはどうなるかな」と、近ごろ朧げであった各事象がいい感じに進むだろうと実感した日。

車の運転で例えると、「ちょっと混んできたかな」というドライブ中、少しづつスムーズに動いてきたというフィーリング。

それまで、良くない方面への思考が反芻されることもあったが、それもピタッと止まるといった感触。

先日、「流れ」やら「押し引き」やらについて記した気がする。その解釈で言うと、今、攻め時なのか、引き時なのか、わりとちゃんと判断できている冷静な精神状態である。まあまあ穏やかな心境な日。
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家庭環境が独特であったことについて言及された。相手は、かつての同僚であり、「同属性」と互いに認識している仲良しである。

「平吉さんは親父さんがDV野郎気味だった――的な話を前してたじゃないすか?」

「ええ。わかりやすいドメスティック・バイオレンスとはまた違いますがね」

「たとえば、親父さんがお母さんに暴力を振るったりとか?」

「そういうのは稀でした。前提として、親父は生い立ちが壮絶過ぎて人格が一般的な感じに形成されなかったと俺は読んでいます」

「へええ」

「そして、『恐怖』や『不安』の感情が生じる際『激昂』に全振りされるパーソナリティとなったのです。心理的防衛機能でしょうね」

「怖かったり不安を感じるとキレる感じすか?」

「そうです。逆に、怖がっていたり不安がっているそぶりを少年の俺に見せることは全くと言っていいほどありませんでした。その代替なのでしょうね――めちゃめちゃ理不尽な理由でひっぱたかれたりしました」

「どんな理由で?」

「いつも通りなのに、『なんで、てめえは、布団をちゃんと、畳まねえんだ!』などと抜かして思い切りひっぱたかれてから小学校に行ったことはよく覚えています」

「意味わからないですね」

「なんか俺と関係のない別なことでストレスを抱えていて、ふとしたタイミングの矛先が俺に向いたのでしょうね」

「ほかにも?」

「挙げれば枚挙にいとまがない、というほど日常的ではなかったですが」

「一番印象的だったことは?」

まるでインタビューのような流れであった。彼は、とても聞き上手なのである。

「そうですね。親父はもちろん優しい面もあって、毎週日曜日に本屋さんに連れて行ってくれた時期があったんです」

「いいすね」

「少年の俺は『ドラえもん』が大好きで、毎週1冊づつ買ってもらっては楽しく読んでいました。すごく嬉しくて、本がボロボロになるまで何度も何度も読み返しました」

「親父さん、優しいところもあったんですね」

「そこがポイントなんですよ」

「それで?」

「それでですね、その『ドラえもん』が全巻、あったかな……とにかく棚に並べて、俺の宝物だったんです」

「なるほど」

「何のきっかけか記憶に残っていないのですが、とにかく理不尽な理由で激昂していて、罰するように、俺の大好きな『ドラえもん』コレクションを全て捨てられたんです」

「なんで? なんでですか!」

「理由が記憶に残っていないんです。それくらいショックでした」

「ひどいっすね……」

「で、ここからがポイントなんですけど、その『ドラえもん』の時も、そういった各激昂事例のあとは、決まって優しい態度で寄り添ってくるんです。謝罪はなかったですけど」

「なんか、典型的というか……彼女をボコボコにしたあと、DV彼氏が『さっきはゴメンな……俺、どうかしていたよ。本当にお前のことを想って』的な――」

「そのようにスライドして問題ないと思います。そういう時、少年期の場合は、まず、わけがわからなくなるんです。憎んでいいのか、許すべきなのか、やっぱり優しいと思うのか、自分が悪いのか相手が悪いのか、正解にたどり着けないんです」

「そりゃそうでしょうね」

「心理学とかで捉えられる『アンビバレンス(相手に愛情と憎悪を同時に持つこと)』って感情が生じるんです。そうなると、ムカついても悲しくても憎みきれないんです」

「ははあ……」

「俺がどうかは置いておいて、そういう環境下におかれた人って、人間関係の構築が普通ではうまくいかなくなりがち、らしいんです」

「確かに。例えば、幼い時にDVを受けた人がDV野郎を恋人として好きになったりとか」

「あるあるっすねえ」

「そういう映画観たことあるっす。最終的に、DVを受けていた主人公の女性は、DVの彼氏を殺害して、死刑になるんです」

「救いがない内容ですね。『DVは、誰も救われない』ということを伝えたかったんですかねえ」

「そうかもしれないです」

「俺の場合は、救われないかどうかは置いておいて、『そういう環境で育ったのかな』という相手を、なんとなく雰囲気で察したりします。その能力が得られんだなと」

「前向きですね」

「そんな感じでしたけど、親父は小さい俺に好きなものを買い与えてくれたり、ちゃんと学校に行かせてくれたり、旅行に連れて行ってくれたり――感謝しています。ムカつくことも悲しいこともありましたけど。家族ってそういうものなのかなと思うんですけど、めっぽう極端だっただけ、とも捉えられます」

「なるほど」

「だから、俺の『家庭』に対する認識は少し歪んでいるのかもしれません」

「今の話を聞くとそうもなるかと」

「際たる原因は、親父を虐げた、親父の家族じゃないかなと思っています」

「そうかもしれないですね」

「あと、親父はドメスティック(ここでは家庭的、家族的な)ではない方面、要は他人ともよくキレて揉めたりしていたので、単にDV野郎ではないと」

「こわ(笑)」

と、ここまで話して気持ちが少し晴れるような部分があった。加えて、胃が痛くなった。何が言いたいかというと、過去のそういった話をリアルに開示すると、気持ちが柔ぐ反面、やはり当時のことを思い出すわけなのでダメージもあるということ。

人にもよるだろうが、俺にとっては初めての体験だった。だから、「そういう環境で育ったのかな」と俺が察する相手には、その詳細を、こちらからは絶対に聞かないことにしよう(そういうことをしたことはないつもりが)と、リマインドした。

もし、「聞いてほしい」と言われた場合は、真剣に受容・傾聴をすることが大切なのかもしれない。あるいは、「私では受け止められないかもしれない」と、前置きすることも必要なのかもしれない。

その際、間違えてもやってはいけないことは、相手が求めていないのに「こうすればいいんじゃない?」などとアドバイスをすることであろうか。

理由は、メンタルヘルスや心理カウンセリングについて、資格取得レベルで学んだ際、そのような解釈があったことがひとつ。

加えて、トラウマについてではなくとも、相手が誰であろうと、求めてもいないアドバイスをされると、少なくとも俺はシンプルにモヤッとなることもあるからである。

また、詳細は割愛するが、青年期のトラウマについても話した。どんどん晴れるような気分と、身体のダメージがそれぞれ増した。そして、そういった体験は、今はきちんと理解をして、むしろパワフルな方面に昇華されたというポジティブな結果となったであろうということを伝えた。

宅に遊びにくる流れから、そういう話をちゃんと聞いてくれる仲良しがいるのは、幸福と捉えて間違いないであろう。なお、胃痛は、胃薬服用および散歩のコンボですっかり治った。赤羽の夜の街は、今日も元気いっぱいであった。
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覇気がないという主訴の不調。起きるのがしんどいが、めしはバクバク食う。なにかしらに手をつけるところまでいけば、作業は進む。

恐ろしく手こずったエレクトロミュージックが完成し、プラットフォームに申請する。仕上がりは、思い描いていたものになったので上等。

気だるい日はそれなりに逆らわずに過ごす。たぶん、長くやっていく秘訣のひとつなのかもしれない。
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ライター案件をまとめて3つ受注。はははやったぜと資料素材をまとめて「案件フォルダ」にそっとしまう。

そのうちの1つを書き進める。これまで何度も記したが、やはりライター案件は常に枯れずに手元にあるくらいが覇気が漲る。

ふと日付を確認すると、もう月末最終日ではないかと、ずいぶん光陰も俊敏になったものだなと、歳のせいかなと、いいや俺は脂が乗っているぜと、しかしアラフォー男性がそう表すると単に小汚ねえ奴みたいだなと、色々思う節はある。

綺麗に生きていきたいとも思うが、穢すぎた過去もあるのでそれも如何なものかとふと思う。第一、綺麗に生きるという表現がそもそも生を冒涜しているのではないかとも併せて思う。そういった捉え方はなかなか極端ではあるが。

そもそも「綺麗に生きる」というのはどういうことだと考えた。

罪を犯さないことだろうか。他者を傷つけないことだろうか。汚物や悪言を撒き散らさないことだろうか。真面目に生きることだろうか。奪わないことだろうか。見た目と心と魂の美しさだろうか。結論は、出なかった。

推定60歳の俺が脳内に降臨した。

「お前は相変わらずしょうもないことを考えてるな。しかも言語化してけつかる」

「いけませんかね? 60歳」

「べつに。いいんじゃない? ただね、お前はまだ、答えにたどり着くまでがクソ遅いから教えてやろっか? 今回は特別! 特別だよぉ! よかったねえ!」

「バカにしてるのかこの野郎」

「お前自身にこの野郎て。プークス。いいか42歳」

「いま考え事してるんだから水を差さんではくれんでしょうかね」

「どうどう。『綺麗に生きる』なんてこと考えんでいいのよ」

「うむ。俺の今のこの時間を見事に全否定してくれたな」

「42歳よ。『自分らしく生きる』でいいんじゃね?」

「それな」

「それな」

自分らしく生きるには様々な課題を乗り越える必要がある。それに対し、真摯に向き合う。乗り越えて、超スッキリして、自分らしいスタイルでみんなと楽しく過ごす。究極に個性的な水族たちのように。

先日、水族館へ行き、はしゃぎ、魂レベルで感じたことがあった。それは、生命体として、個として、“らしく”生きる美しさと崇高さである。

そういったわけで「自分らしく生きる」ことの尊さは、池袋に行った当日に気づけたわけである。60歳の手前の提言は、わりと的を得ていた。思考の式がまだまだ、無駄に複雑であると。
_11/29

 

 

 

 


終わる11月。手前にとって「11月」というのは色々ある月。こと、20代の頃からそうなのであった。今月においては、日記の文字量(約27,000字)がそれを物語っていよう。とはいえ、客観的視点ではマジで別に大したことではないのかもしれない。

転職や、タスクの流れの激変、人生における失意や転機を感ずるのは、これまで11月に集中していた。

具体的には、仕事が移り変わったり、契約事が締結したり、伴侶に見切られたり、著しく依存性のある何かを完全に断ったり、断られたり、普通運転免許取消処分(遡ること西暦2000年。事故や傷害等ではない、アホすぎる起因)に処されたりと、11月にはそういったことが多いのである。今月も、振り返ればわりと色んなことがあった。

今日たるや、仕事のよきクロージングやら新たな展望やらシビアな決断事やらと、「今日そんな集中してくる?」と、目をパチパチされるくらい押し寄せる。俺はこれを良き方向にとらえる。

全て対応し、遊びに行く。遊びの最中もそういった連絡が来るが、酒がまあまあ入っているという前提なので冷静時に改めて、という対応する。

そして、仲間とセッションバーでうぇいうぇいして酒呑んで各自の精神を解放させるという、ルーティーン化した大人の遊びにふける。これが愉しい。

日に日に、時が流れる速度が早まる。そこから感ずるのは、今をどう楽しもうかという所感。ここ数年、三十路を過ぎたあたりからずっと、「楽しむ」という表現とは別の、もっと適切な言い方はないかと考えているが、これがなかなかむつかしい。

「今を生きる」だと、合ってはいるが、なんかぴしゃりと来ない。「乗る」だと、適切ではあるが、ちと足りない。「自分らしくいる」だと、間違ってはいないが、どこか利己的。

では、何か。どこかで臨終前の手前からの叡智が脳内に響く日を待っているきらいがなくもないが、それはけっこうなんか怖いので、現在の俺が考えるべきだというところで手打ち。11月は、よく考える。
_11/30

 

 

 

 


 

 

 

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