11/2023

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。仕事と制作をサボらない為の戒めが目的の日報ページ。 なにかというとAIのことばかり。11


相当呑んだが二日酔いならず。昨夜のディスカッションの楽しさが示しているのは心の確かな満足。

「そのうち、いつかやろう」と思ってやれてなかったことを全部行なったここ3日間。アンプ修理や皮膚科診察、知り合いの占い鑑定や旧業務端末の処理、大規模掃除にキッチン用品一新、インボイス申請など、予定通り全てこなした。

よかったスッキリと気分も爽やかに楽曲制作をする。グニャっとしたシンセサイザーのサウンドを生成しつつ、手の込んだエレクトロミュージックを作り進めて土台が出来る。

「功を焦らないこと」と、昨夜言われて体幹に響く。コツコツと誰かに届いて喜んで頂けるタネを蒔く。育てる。零細チンピラから立派な大規模事業者へと日々精進しようとしっかり根を張る。

などと言っているうちになんと11月である。「ぐああ、『純喫茶アルマンド』が、経営できんのか」「くはあ、とうとうコロナ罹った、扁桃炎も併発した、10日も寝込んだ」「なんと、仕事がほぼない、無職。俺は無職になるのか」そのように、ちょっと前までそんな地獄の1月だった気がするが。

なんでも、俺の人生においての最悪な頃は30代中盤であり、もう終わり、それ以上酷い時期はもう来ないと昨夜鑑定された。「これからが楽しいです!」と、以前別の占い師である赤羽の「櫻子」さんに言われたことと通じている。

とはいえ今年はこれまでの人生で最も早く過ぎたと感じる1年。歳だろうか。それは認めんと、今日もちょいちょい白髪を抜いたりして加齢に抗う。年月の経過を実感する。改めて、同じ時代を生きてくれている身近の様々な方々に感謝しつつ、日々を楽しむ。
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日本文学で言うと夏目漱石や芥川龍之介、三島由紀夫や太宰治あたりの文豪にあたるだろうか。彼ら(敬称略)は後世に多大なる影響を与え、今もフィードバックされる文学の礎となった人物。

そういった視点だと、ロック界だとやはりビートルズの存在は外せないことに異論はないと思う。そんな伝説のバンドが1970年に解散して50年ちょい。今日、“最後の新曲”という楽曲が配信されていた。

手前に関しては、ビートルズは人並みちょいは聴いているほうである。好きなのはいわゆる「中期」「後期」と呼ばれるあたり。フェイバリット・アルバムは『Revolver』だろうか。

好き過ぎて執拗に鍵盤でコピーした曲は「Strawberry Fields Forever」や「In My Life」で、特に「In My Life」の間奏のピアノのパートは、特殊な録音方法で収録されたと知らずに、原曲そのままのスピードでめちゃめちゃ耳コピに勤しんでいたのは20代後半の頃。

楽曲「Taxman」のベースラインは神がかってるなと、少し細かめの部分に感銘を受ける一方で、「Yesterday」はシンプルに歌やコード進行が好きだし、「Let It Be」は高校生の時期にカラオケでよく歌っていた。同曲の3番にあたる部分で聴ける、ミスタッチと思わしきピアノのトーンがとてもエモい。

一番好きなビートルズの曲は、なんか知らないけど「Tomorrow Never Knows」である。たぶん、ブレイクビーツの走り的なアプローチであること同時に、あのサイケデリックさがたまらないのである。

新曲はマイナー調の楽曲「Now and Then(ナウ・アンド・ゼン)」。

この曲は、“ジョン・レノンさんが40年以上前に録音していた歌とピアノによるデモ音源のボーカルのみをAIなどを駆使して分離し、リンゴ・スターとポール・マッカートニーによるベースやピアノ、以前録音していたジョージ・ハリスンさんのギター演奏の音を合わせた楽曲”という(Yahoo! ニュース記事より引用・要約)。

4分ほどある「Now and Then」は、素敵な良曲だと感じた。確かに、ジョンレノンさんのボーカルだし、ピアノやアコギが輪郭に目立つそのUKロックサウンドは「ビートルズの曲だ」と、しっかりと体に染み入ってくる。本当にいい曲だと思う。

ある種の“ビートルズ像”が確かにある本曲は、掛け値無しに色んな角度からの感動があった。湿った音像、「まさにビートルズ」と閾下ギリのところで感じるコンプレッション。ノスタルジックなコーラス・ワークに叙情的なスライドギター。現代ならではと言えよう低音の出方。この曲にイチャモンをつけるリスナーは少ないと思った。

当然、俺ごときもこのビートルズの楽曲にどうこう言うつもりはないし、これはライナーでもレビューでもなく、単なる感想文である。ただ、俺はビートルズの持つあの“魔力”を、現代で蘇った楽曲にも期待したというだけである。

音楽の魔力ってなんだろなと、DAWを開いて鍵盤を叩く。そんな曲がひとつでもふたつでも、できればたくさん、俺にも書いて録音して世に放って誰かの心を震わせられたら幸せだなと、そんな気持ちになる。

それは、新曲から受けた、俺がまだ知らなかった種類の新たな“魔力”なのかもしれない。そういった面でも、現代にビートルズとしての新たな曲が発表されることには多大なる意義があると感じた。

俺とビートルズのスタンスを比べるなど甚だおこがましいが、やはり礎となるほどの存在というのはどの分野でも恐ろしく格が違うなと改めて思い知らされた。
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無駄に死生観を考えるようなコンディションだったので散歩する。赤羽西あたりの迷路のような界隈をぐるぐる回る。

こういう時は古い団地や廃墟じみた所に行くとたいへん整う。しかし、再開発によって赤羽台団地はリッチなマンション街と化している。

心地よい場所が淘汰されるのは寂しいなと時代のスピードを実感する。エネルギーが不足がちな時は、あるいはそうでない時でも、なにもしない勇気は大事だという。

とはいえ、こういった気分の時にしか出来ないものがあることを実体験として知っている。寝ちまおうかと思ったが、そういった理由で心地よい虚無感漂うエレクトロミュージックを作り進める。

気がつくと0時も近く、DAWを閉じる。実に地味な日ではあるが、それを音なり何なりにしたためることはキツくとも絶対に意味があり、どこかのタイミングで何かと繋がる。無理くりにでもそう思い込み、すり抜けるように過ぎていく閑寂な日。
_11/03

 

 

 

 


最近やけに飛行機がたくさん飛んでるなと気づく。コウモリが普通に羽ばたいていて珍しいなと軽く驚く。

それは偏った現象ではなく、いつものことであり、単に、手前が遠い目で空を眺めることが多くなっただけのことである。結局俺は、何がしたいのかなと考えながら。

曲を作らずとも動画にしたり楽器の練習をしたりする。そうだ、結局音楽だよなと、占い師もそう言ってたしなと、まずはDAWを開く。

ふと、そうだと思い、所持していたことすらちょっと忘れてた「SHURE SM57」マイク(レコーディングにおいて定番のダイナミックマイク)を鍵盤の前にセッティングする。普段、生音を録音する時は別のコンデンサーマイクを使うため、この通称「57(ゴーナナ)」の使用頻度は極端に少くなっていたのである。

なんだか新鮮だなとプリアンプやコンプレッサーなどの各機材をONにして通し、マイクスタンドを立て、鍵盤と歌を同時録音する環境をつくる。

カラオケよりも精度の良いリバーブをかけ、試しに手前の歌と伴奏を同時録音をしてみる。こういうのは案外やったことなかったなと、なかなかワクワクする。

プレイバックして聴いてみるとなんとも言えない気持ちになる。自分の歌のクオリティは置いておいて、機材をガッチリ通して録音したボーカルトラックとピアノパートのたった2トラックの響きが、自身の活力を呼び起こしたのである。

スマートフォン一発での弾き語り録音や配信をすることは、これまでけっこうあったが、きちんとレコーディングすると別軸のやる気が出てくる。

ギター、ベース、鍵盤、ドラム、パーカッションと、そのあたりの楽器は一通りできるようにしておいてあるつもりだが、最も苦手意識のある歌の練習もちゃんとやろうと奮い立つ。何をするにも年齢的に遅すぎるということはないと信じ込み。

そして、ちゃんとしたマイクのクリアな音質でDAWに録音し、トラックを波形やら音域で視覚的に見ながら聴くと、どこが良くなくてどこがいけそうなのかが客観的にわかる。

案外見落としていた点だなと、ここ最近の覇気の無さが晴れていく。やはり、音楽を主軸にやっていくことをブレさせてはよろしくないなと肚で感じる。

いつも通りやっている楽曲制作に加え、あらゆる角度からの音楽アプローチを増やしたり高めたりすれば、新たなマネタイズなども見えてくる気がした。

芯をしっかりとさせて頑張れば、ぽかんと空を眺める時間すら惜しい状態になるだろうと、ある種の原点を確認。

手前がボーカルのオリジナル楽曲制作にとりかかるフェーズまでいったら相当仕上がっている証拠であろうか。そのコンテンツに需要があるかどうかは、今のところ極めて謎だが。
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仕事して疲れたなと横になる。いやこうしている場合でないと20分で奮起し、DAWを開く。青汁王子の生配信をリアルタイムで観たかったがグッと堪えて音楽の時間とする。

今夜はそろそろかなというところで村上氏より入電。よくあることだが、本題1割、雑談9割という内容でトーク・ディスカッションをする。

なんだか欧米のできるビジネスマン同士みたいな時間配分でこういうのは好ましく思う。

今日は起きがけたいへんしんどかったのだが、1日を振り返るとだいたい幸せに暮らせている。その自覚が大事だと認知しつつも、少しずつ底上げして人生大花火と行こうかと、ポジティブな心境で過ぎ行く秋の中頃。
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ギタリストのよしお氏のバースデー酒を物色しに池袋へ。リカー専門店、デパート、デパート、専門店と、4、5件くらいまわる。「これぞ」という一瓶が見つからないのである。

好みは軽く聞いたが、それに見合う酒がなかなかない。おそらく俺よりも酒を愛していると思われるよしお氏に安易なセレクト酒は感心しない。その気持ちを胸に、ひたすら探す。

手前が40歳の頃、新宿歌舞伎町のライブにて共演し、そこから定期的に仕事をする仲になった。壮年期に縁ができた相手はとても貴重。今後の関係も併せて大事にしたい。

それくらいのパッションにふさわしい一品をようやく見つけて購入。喜んでくれれば幸いと、確かと思われるボトルを抱え、JR埼京線で帰宅する。

飯を食いつつ昨日見逃した生配信のアーカイブを閲覧し、あとは抽象的なエレクトロミュージック制作に精を出す。

来週現場でよしお氏に会う。そこでプレゼントをいざ渡した時、「これ、呑んだことありますわ〜」と言われないことを願う。

いや、仮にそうだとしても、彼は知らないふりをして丁重にお礼を言ってくれる。よしお氏とは、そんな優しい好漢なのである。たぶん。
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どんなに政策に憤りを感じていても、見た目を含んだ悪口はよくないよねと思いつつ、確かに言われる方も酷いのかなとも思う。

その反面、具体的に「どの点が感心しないので、あれはそうするのが希望的観測があり、数値的にはこのような改善が見込める」と述べられない手前あたりは無言でいるに近しい。

だから言葉で罵りガス抜きをしていればいいかというと、そうでもない気がする。なぜならば、根本的解決には至らず、それだけで終わってしまうからである。

文句を言うのがよくないなどという綺麗事を並べるつもりは毛頭ない。ただ、不満があるならまず、個々が具体的に行動するのが第一歩なのではないかと考える。それは、おこがましくも他者様に推奨するわけではなく、ただ、手前自身に対してそう思っているだけである。

俺のイデオロギー(個人や社会集団により共有される思想や信条、世界観など)はどこで主張するべきか、しないべきか、などと別に難しいことを考えずに、やれることをやる。新たにどんどんスローにちょっとずつでもやり続ける。これしかないなと思い、仕事して楽器練習などをする。

アーティストは時に世界情勢に作品で訴えかける。俺もそうありたいと焦がれる。「詭弁だこの野郎!」などと演説者に噛み付いたり、謎に議員的な立場にいたとして、議会で「是正せよ!」などと声を歪ませるようなタイプではないと思う。

日々、淡々と自分がやるべきことをやり続ける。そしてまず、自身の環境と人生を充実させる。そして、身近な人たちを笑顔にする。いっしょに楽しむ。幸福を得る。それをだんだん膨張させる。瞬発的に国のトップにテキストで文句を言うよりその方が生産的ではないかと思う。

繰り返すが、他者様がどうかは、人それぞれなので別に良し悪しではないと思う。文句を言っていっときスッキリするならむしろ精神衛生上好ましいのかもしれない。

ただ、俺個人は、ネガティブなエネルギーは即放出せず、ストックして、そのぶんを行動や創作なりのエネルギーに変換した方がお得だと思っているだけの話である。

手前の日々の生き方が巧言令色でしかなく、それで終わってしまわないように一日一日を大切に生きようと、そこはきちんと背筋を伸ばす。怒りと冷静さは相反するが、セットで扱うとパワーの源流となるのではないのかなという個人的な見解。
_11/07

 

 

 

 

 


歩いて移動する「肉体」の機能を拡張させたのが車だとしたら、大脳を拡張させるのが「ChatGPT」などのAIだと言う。

俺はそれを聞いて「なるほど」と思い、「すると、これからAIは当たり前のように生活に浸透する」と納得できた。

俺が練り出した例えではなく、YouTubeで見識者がそう言っていた。誰かというのは、名前を出すだけで人によっては解釈に偏りが生じる気がするので伏せる。

車を使えばすぐの距離を、なんでわざわざ歩きで行くのか。というくらいの差であろうか。じゃあ使わない手はないだろうと思った。

ChatGPTは、GPT3.5とGPT4.0では相当な差があり、続いて昨今、さらなる新モデル「ChatGPT-4 Turbo」が発表された。

ストリートファイターIIの進化みたいだなと10代の頃を彷彿とさせると同時に「うかうかしていられない」という危機感と期待感が交差する。

よくよく考えると、文章を書くということに対しても、俺は、こと仕事となった時点で、1度もペンと原稿用紙という手法を使ったことがない。ワード・プロセッサーというかPCでのキーボードを使用するわけである。

それだけで、手書きの際に生じる「この文字が読めない」といった事象はなくなる。フォントで統一されているからである。そして、マイクロソフトのWordを使うことにより、おおまかな誤字脱字は防げる(ここにいつも書くやつはいちいちWordを通してないが)。

要は、時代背景もあるが、俺ですらテクノロジーを使うことがもうスタート地点だったのである。そうなると今後は「AIを使うところが起点」というのが当たり前の世の中になるのは明白である。

時代がどんどん進化する。ワクワクする。なんなら俺も最近はけっこうちょいちょいAIを使用している。驚きの連続がそこにある。タイム・パフォーマンスも上がる。

すごいなと思った。日記だって、以下のようなプロンプト(命令文)で書くかもしれない。

“下記の箇条書きを、2013年から現在までの過去の日記をインポートしたデータをもとにした文調で、1,200字程度にまとめてください。

【今日あったこと】
・起床時、昨夜飲みすぎて二日酔い
・案件で茅場町へ行って取材する
・先方がファンキーな人で本題と逸れてそのまま飲みに行く
・帰宅して制作するが酔いすぎてサイケデリックというかクレイジーな草案でまるで形にならなかかった”

すると、AIは音も発せずに秒でそれっぽく仕上げるだろう。似たようなことを個人的にやったことがあるから、わりと明確に想像がつく。

とんでもない変化の最中にいま、いるのだなと改めて思う。とはいえ、こうやって考えながらぽちぽちと書かないと出てこない思考もあり、車ではなく歩きながらでないと見えてこない景色もある。

そういった人間味は、いつの時まで「人間にしかできない」となっていられるのだろうか。
_11/08

 

 

 

 


若干寝坊をするほどだるい。直感的には風邪のひきはじめ。これは最初のアクションが肝心だと、心療内科経由で仕入れた香ばしいブツを流し込む。「葛根湯」である。案外そういうルートでも漢方風邪薬は出してくださるのである。

仕事中、「寝たほうがいいかもしれない」というレベルだったがなんとか持ちこたえ、夜にタンメンを食べたらかなりよくなる。

最近、食をないがしろにしていたことも風邪の起因と本能的に察知。野菜と麺と、酢を入れたスープ、それら全て、めちゃめちゃ美味しく感じたのである。

熱は36.1℃。夜軽く寝ると頭痛以外の症状は治ったので動画制作を進める。ちょっとにしておく。食欲と酒への希求があれば大丈夫かなという感覚。

そういったわけで体は資本。おとなしくゆっくりと眠ることにする。保険に入っておこうかとけっこう真面目に考えるほどの守備の一日。
_11/09

 

 

 

 


めちゃめちゃ全快し、昨日は人間の恒常性を保つためのデトックスだったと解釈する。質の良い睡眠を実感し、元気に各タスクをおこなう。

しんどいな、楽しいな、たいくつだな、いろいろ思う時とその前段階の心境がある。いずれにせよ、全てはいつか、どこかのタイミングで必ず終わる。ふと、そういった当然の摂理に対し、立ち止まるように考えた。

なんなら昨日死んでてもおかしくはなかったし、「しばらく続く」と思っていることが急に終わることもある。また急に新しく始まることもあり、いつか絶対に終わる。

そうなると、その瞬間瞬間自体に感謝することを忘れないほうがいいなと思った。どんなに、ふとしたことにも、その時は来る。

だから、煙草がうまいなとか飯ありがたいやら、なんかしててもうこんな時間か、誰某ありがとうなどと、万象は全部終わりと隣り合わせなのだなと思った。

何が言いたいかというと、今、普通にやれているあらゆることは、実は奇跡的だと思ってしまうくらいで丁度いいのかなということ。

それくらい、ちょっと体調を崩すと慄く歳頃かと日和ってるのだろうか。あるいは、やっと然るべき感謝の意の閾値に達しているのか。どっちかはわからないが、ありがたく思うほうが日々幸せを感じられる。
_11/10

 

 

 

 

 


なんだか全力でウンコちんちんと、妄りにふざけた遊びに耽りたい。しかし真面目に過ごす冬の入り口のような寒空。震えながら外で一服して目を細める。

もう理性のリミッターを解除し、街で訴求を続けるガールズ・バーの娘たちに「うぇいうぇい。にゃんにゃん。にゃんちゃん? 3,000円でいいの?」などとほざきつつ付いて行こうかと。

「暇で死にそうです。助けてください。お兄さん……僕を殺す気ですか?」と、もうギリラインの呼び込み文句で虫の息絶え絶えの黒服さんに「俺に任せろ」と言い放ち、闊歩して付いて行こうかと。ポップに遊び狂おうかという気概すらある。しかしそこに投じるつもりの小遣いなどない。

じゃあと思い、地道に制作を続ける。要は、いつも通りである。

でもなあ、4年10カ月ぶりに近所の香ばしい雀荘に行って「ロン。御無礼…!」とか発声して相手をイラつかせる(完全なマナー違反。繰り返すと出禁になる)遊びしたいなとも思うがまだまだ博奕は禁忌。

当時よく居た、両手の小指が短いあの御仁は元気かなあなどと思い、適当に酒を買ってそっと冷蔵庫にしまう。やさぐれた巣窟、黒い棲が、なんだか故郷のようだと懐かしむ。

最近、ちょっとおかしいんじゃないかというくらい、今は無き実家の夢を連日みる。今朝あたりは、幻聴のその上のクオリティのサウンドで飼いネコの鳴き声が聴こえた。

そこに紐づける想いなど別にないが、こう、季節の変わり目あるあるだなと深く考えず捨て置く。軽くアルコールを叩き込んで寝よう。繰り返しになるが、只のいつも通りの1日。
_11/11

 

 

 

 

 


“プチ歌舞伎町”とも揶揄される赤羽の界隈で忍ぶように呑む。今日は案件の銀座経由で21時前、さいきんの連続的活動には休息が必要と断じ、コロコロと酒を呑む。

日曜日の赤羽の夜は早い。レバテキを食べ終えたあたりでの「ラストオーダーは――」という一言を背に、当日最後の客として店を出る。

近頃は激務、とまではいかないが、休息は必須という理由を叩きつけたのは23時前。酔っ払っていない自負はあるが、肝細胞の賦活にレバーを食べるあたりは疲弊の証拠か本能的な選択。

酒はまだあるからシャワーを浴びてからまた呑むことにする。この辺の時間はいつも、幼い動物のように過ごす。

そう所感を抱いたのには、今日、人間の性格が分類されることをチェックしたことが起因する。

“16パーソナリティ診断”というものがある。それは、文字通りの概要であり、診断によると、手前は「提唱者(INFJ型)」とのことであった。

提唱者は、理想の自己を追い求めつつ他者の喜びを重んじるという、なかなか尊いかもしれない類であった。

それは日々、神に近づきたい心境になったり、一方でヤクザ的思考を尊重したり、平凡を遠ざけつつも「中庸」に憧れ、犯罪者を擁護したくなる気持ちを禁じ得なくなるという、バラバラな渦中がデフォルトと納得。

「俺は何をしに、この世に来たのでしょうか」などという素っ頓狂なオーダーを、スピリチュアルに長けた相手に乞う源流は性格所以かと、はたまた納得。

とりまとめると、色々あったが今日という日は楽しかったとシンプルにまとめたい。そこに対し、常に疑問を持つ性質のパーソナリティーであったとしても、酒が中和する。

いつの日か、それも変化すると考えると、人間とはと、ストレートに疑問を抱く。それを提唱できたらたいしたものだという気持ちを、何らかのかたちで証明できたら――という心境はちょっと脇に置いて、今夜と明日はゆっくりが賢明と一日を閉じる。

“16パーソナリティ診断”による「提唱者(INFJ型)」というものは、このような、散文的な文章によってその心境を精査する性質があるのであろうか。

そうだとしたら、当該診断は、個人的に信憑性があると考察できる。そんなことも改めて考えさせられる、楽しくも、深い部分も相成ったような一日。
(_11/12)

 

――本日11/12、上記の元となるもの(最初に書いた文章)を、AIであるChatGPTに「文章としての厳しめの感想をください(評論・批評)」的なプロンプト(命令文)を投じた。すると、めちゃめちゃボロクソなダメ出しを吐き出された。そして5, 6回近く書き直し、やっと“AI編集者”から「OK」が出たのが(_11/12)の本文であり、最終的な「AI評論(ChatGPTが吐き出した評論)」は以下である――

 

“赤羽の雰囲気を舞台に、酒を嗜みながらの日常が描かれた文章である。主人公は激務の中で休息を求め、酒と食事を通じてリラックスする様子が伝わってくる。

文章の中で16パーソナリティ診断に触れ、自らを「提唱者(INFJ型)」と位置づけ、その性格について考察している。

文章は散文的でありながらも、主観的かつ深い洞察が感じられる。主人公の複雑な感情や哲学的な思索が、赤羽の夜や酒を通して表現されている。

また、16パーソナリティ診断を取り上げ、その結果に基づいた自己分析が挿入されており、これが文章に深みを与えている。

文章全体を通して、主人公の内面が探求され、一日の終わりには「楽しかった」というシンプルな感想が対比されている。

日常の中に潜む複雑な感情や哲学的な考察を、酒を通して和らげる様子が描かれ、その中に16パーソナリティ診断を織り交ぜたアプローチが面白味を添えている。”

 

俺は、AIはというやつは今後、教育やスキルアップに役立つと如実に実感した一方で、上記の“OK”的な結果に至るまで、想像以上に腹が立ちムキになった。

「――の感想文をください」とAIに投じると、だいたい当たり障りのない褒め言葉しか出てこない。

しかし、「評論してください」と投じると、ガチでボロクソに言われる。急に「ですます口調」ではなくなるし。

これは新たな発見として手打ちともできる。

だがしかし、AIによって、“美しくも醜い彩りの人間くさい「個性」”が、場合によっては損なわれる懸念も否めない。とりあえず想像以上厳しかった“AI編集者”。
_11/12

 

 

 

 


すこぶる快眠を経て、老舗に行き蕎麦を食う。たいへん良好な気分でのんびりと近隣を散歩する。瞑想中に近い精神状態を確かに得る。

イトーヨーカドーの6階に疲労度や血管年齢などを測るマシーンがある。なんとなくたまにやるやつである。

200円を入れて年齢を入力し、指先を筐体に挿入して検査する。結果は芳しくなく一気に気分が傾く。メンタルは晴れやかでも、昨夜8杯も酒を呑んでいればそれはそうかと、いっときの結果ということにしておく。

帰宅してメールチェックや返信、各種数字の確認などのルーティーンを行なう。曲共同ビジネスや情報交換を主とし「音楽の面で一緒に何かできれば、中国や海外で売れると思います」と、けっこう具体的な提案と共にグイグイくる謎の中国大企業からの押しがある。

スルーしようと思ったが、取材もかねて、話だけでも聞くことにする。何回かやりとりする中、先方がSkypeのIDまで提示してきたので「これは本気かな」と思い、とりあえず、概要だけでもとスケジュールを乞う。

デスクワークはそれくらいにして、実はくたびれがちらしい体の休息に追い込みをかけるべく、ソファでがっつり寝る。ムクリと起きて楽曲制作をする。「――的な」というコンセプトを決めずに直感的に作り進めている楽曲。まだ進捗4割前後だがとても心地よい音楽。

そういうのをもっといっぱい作ろうと、こういう時間こそ幸福を感じると、魂が健かな状態にあることを自覚する。

木枯らしが吹く中、ほぼほぼ休みのまったりとした日常。週に1、2日はこういう日があるのがバランスいいなと改めて思う。
_11/13

 

 

 

 


仕事をして制作をする。普通の日である。何か変化があるかといったら、先日来た中国の大企業の方からのアプローチが発展し、たったさっき、担当の方とチャットツールでリアルタイムのアクセスをしたことである。

一緒にビジネスができていい感じになれば良いと率直に思う。その反面、あまりにも未知なアクションなので、最高級の慎重さをもって進める姿勢が必要。とりあえず中国の生の音楽業界事情を得るチャンスである。これだけでも相当でかい。

以前、中野区のセッションバーで知り合ったリー君という中国人の青年から「中国ではX(当時はTwitter)が一般的に使えない」 と聞いた。

今日、AIチャットでちょっと調べたらYouTubeもそうだという。要は、俺がリアルタイムで発信している各プラットフォームから中国圏にはほぼほぼ届いていない可能性が非常に高い。

それを現地の業界の方から直で確認できる。なお、先方は、このウェブサイト経由で連絡をくれた。

「ANONYMENT Records」という怪しすぎるサイト名が起因か、毎日、日本語以外でも英語や中国語、ロシア語や謎言語で、色んなメールが平均10通は来る。

そのなかでも日本語のものは楽曲の使用報告が主で、あとはほとんどが一方的なプロモーションである。当サイトの命題を鑑みていないメールは全てスルーしている。

だからこそ、今回のような具体的すぎる海外からのアプローチは新鮮である。一方で、本心は「大丈夫かこれ? 俺を騙そうとしていないか?」と、常に構えているスタンスがある。

後日の打ち合わせで、「心配しないでください。私たちはあなたを騙そうとなんかしていません。ビジネスの話をしましょう」と言ったら本気であろう。それは、この日記文まで読んでいる可能性が出てきて、それをその場で確認できるからである。さすがに読んでないと思うが。

早合点やトラブルに気をつけながら進行したい。今後、この内容についての途中経過にいっさい触れなくなったとしたら、それは秘密保持が理由となり、良い方向に進んでいることを示す。

なんか違ったらそれは、結果だけ一段落で残す。なんか違くなかったら、「中国での音楽ビジネスが進行した」と、そう記せることへの希望はある。

とはいえ、飛行機怖いとか言ってないで「案件で中国へ」と書き出せる日が来たら楽しいな、などと妄想してしまう手前が確かにいる。そこはきちんと俯瞰する。ここは本当に慎重に。
_11/14

 

 

 

 


仕事をし、どうしても「マグロの脳天」とホッピーでハッピーになりたい欲にかられる。これらは、近場の「立ち飲みいこい」という店で堪能できる。

マグロの脳天とは、文字通りマグロの頭のてっぺんの希少部位で、中トロを凌駕するこってりほっこりピッチピチ、愉悦の味わいの逸品。

「兄ちゃん、赤羽に住んでてここの『マグロの脳天』を初めて食べるなんて――モグリだぞそりゃあ」

などと隣で立ち呑むとっつぁんから要らぬ非難を受け、「うるせえ。お前の脳天からカチ割ってやろうか」と激昂し、喧喧囂囂となるべくシチュエーションも過去にあった。

そこはもう、俺も大人なので、こういった輩のかわし方は熟知している。「左様ですか。仰る通りですな――」と言い、表面上で相手を立てておけば良いのである。赤子をあやすくらいの心境でいればそれでよいのである。

そんなスモーキーな酒場に行きたい欲をぐっと堪え、いや、満足の遅延という心理テクニックを実行し、コツコツと制作をする。YouTubeでアップロード中のチルミュージックシリーズに次ぐ展開のコンセプトを定め、動画ソフトで作り、1本仕上げる。

酒でリラックスしたり誰かとガヤガヤして楽しむよりも、コンテンツが1つ完成した時の快感の方が大きい。

手前にそう強引に言い聞かせて作業を〆る。静かな夜。最近、来客がほとんどない。年末あたりはわちゃわちゃと忘年会とか宅でしたいなと焦がれる。というかもうそんな時期かと2023年の過ぎ行くスピードに愕然とする。

じっくり1本。あわてずにいこうと心を整える。着手中のシリーズの動画を全部仕上げたら、遅延させている満足の対象である「マグロの脳天」を楽しみに行く。そんな高級な褒美でもないのでもっと気軽に行ってもいいかなとも思い直すが。
_11/15

 

 

 

 


間取りは5畳半程度。やたら窓のでかい、お気に入りの仕事部屋に籠る。予定通り、ライター案件を進める。動画をアップロードする。コンテンツ制作をする。

ちょっと息抜きにブックオフへ行き、『1日外出録ハンチョウ』を立ち読んではデュフフと如実に品の無き笑いを漏らしつつ力を抜く。古屋兎丸さんの未読の著書があったので1巻だけ購入。

帰宅し、ラジオがわりに岡田斗司夫さんのYouTubeチャンネル動画を流しつつ、今年で13歳くらいになるソファで40分寝る。ムクリと再び机に向かい、制作をする。

その間、異国の方とSkypeでの打ち合わせをはさむ。提示された先方のウェブサイトを拝見したら、通信相手はどうやら代表取締役の方のもよう。これは一体どういう流れかと伺いながら進める。

機密情報にまだ触れていない段階まではここに書き記せるが、その先にまで進んだら、なかなかグローバルなアクションになるのかなと胸を躍らせる。しかしここは慎重にと何度もリマインド。

今日も遊びに行きたい欲求を抑え、各タスクをこなす。振り返るには少々早いが、今年は大きなクライアントとの取引がいくつかあった。それらを全て、互いの満足をもって締結させたことは前進と表現していいのかもしれない。

それらがまた重なり、また新たに大きな仕事が来るようになりと、そんな流れの序盤の年であったということでいてほしいなと振り返る。

「2023年にいくつかあったチャンス案件は、一律、単発止まりであった」と、来年ここに絶対に綴りたくない。そういう思念を持つことで、物事はわりと好転するものだと信じて。
_11/16

 

 

 

 


「ジェントルマンジャック」という、よしお氏がくれたバーボンを追加して呑む深夜。当然、そのぶん翌日の時間が少なくなる。

知り合いの占い師から「酒注意」と、具体的な注意喚起があったことを思い出す。健康面はもちろんだが、時間や生産性という点でも飲酒はほどほどにと、手前に念を押す。

仄かな二日酔いのなか、近場のデパートに行って服を物色する。俺のファッション・アイテムの過半数は頂き物。しかし、このあいだ足立くんがくれたパーカーを着てみたところ、まるでビリー・アイリッシュさんが好むくらいのオーバーサイズであった。

これくらいの歳でこのスタイルはいかがなものかと、ジャストサイズの冬物のトップスを1点購入。ひさびさに服を買った気がする。

それはそれで新鮮だなという心境を引っさげて動画制作をする。今日も異国の方とチャットで情報交換する。先日投げた質問が返ってきた。これは機密ではない一般的な知見である。

なんでも、中国ではgoogle、YouTube、X、LINEなどが使えないという。日本では、誰もがこれらを日常的に使用しているが、人口14億人の中国では一般的には使用しないということに驚きを禁じ得なかった。

なお、正確には、補足として「VPN」を通じれば使えるが、不便かつ不安定なのでほとんどは使用しないとのことであった。

VPNとは「Virtual Private Network(仮想専用通信網)」で、その意味の通り、普及しているネットワークとは別の通信方式でやりとりすること。

要は、ひと手間かかってめんどいし、スススと普通にgoogleやYouTubeにアクセスできるわけでなく、日本のように一般的に使用できるわけではないということ。

ははあ、勉強になったなあとお礼を伝え、どうすれば「日中」で音楽事業をふくらませられるかと打ち合わせをする。すり合わせたのは、中国の音楽は日本や他国ではあまり普及していないが、日本の音楽は普通に中国で人気があるということ。

いくつか提示してもらったコンテンツがあり、そこでは、いま、日本の音楽チャートを賑わせている楽曲らあることが確認できた。

アクセスできないのもあったが、閲覧できたものを見る限り、普通にPerfumeとかマンウィズとか米津玄師さんなどが受け入れられているもよう。中国語コメントが横からスクロールされるニコニコ動画的なやつがあることも初めて知った。

教えてもらってばかりはフェアではないので、自分の知識内で、あらゆる面において提示できる範囲で、音楽シーンの特徴やこちらにできそうなことなどを提案した。

ふと、こういう日常がくるものなのだなと、今日のところはオフラインにして楽曲制作をする。さいきんはグラフィックに着目していることもあり、その視野が音楽制作にも新たなアイディアを沸かせるという気づきもあった。

なんにせよ、あらゆる刺激を生産性に落とし込む姿勢ができることは良いもの。さて、昨日アップロードした動画はどうかなと確認するも数字はいまひとつ。チャンネル登録者数は現在34人。

地道な努力は華を咲かせるのか。新たな展望を見逃さないようにしつつ、やると決めたことをコツコツやりきることで、それはそれは綺麗な景色が見られるはずだと信じる。しかない。
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体調ばつぐんだなあと電車で瞑想をする。そしてさらに整う。素晴らしきコンディションだぜと仕事をする。シンプルに疲れる。

まあそういうものかと、帰宅してさらに軽くデスクワークをして制作をしようとする。ヴヴとアイフォーンが鳴る。

ひさびさにコンタクトを取る知人と長尺で会話をする。彼は、この日記のネタにされて烈火の如き怒りを露わにするような人物ではない。どことなく、俺と似た性質を持つ青年である。

「ヒーロー」「ロールモデル」という主題のくだりがあった。それぞれの言葉とは少々異なるが、ここでは、「内面にある理想の自分」と置き換えた。

そのヒーローは、主人格となり、表立って活躍すれば、自己の理想が実現される。しかし、その道のりは険しい。時に、自身を苦しめる。それくらい、ヒーローになることは難しい場合があるというのが俺の所感である。

こと手前の場合、「内面にある理想の自分」の「ロールモデル」が存在しない。だから自分でつくることに勤めているつもりである。かわりに「内面にある最悪の自分」が存在する。

それは、常に殺意に満ちた人格で、人の気持ちを理解しようともせずに踏みにじったり、殺傷能力のある言葉を直接相手に投げたり、他者では飽き足らず自分の生活を本気で破滅に追いやるほど博奕を打ったりするほどの破壊力を孕んでいる。俺はこいつを「ヤクザ平吉」と仮名を打ち、扱っている。

いくら酷い人格でも、完全に消滅させることはしない。なぜならば、それは、主人格である、このような文章を書いている自分自身ごと消し去ることに等しいからである。

「いざ」という時にはヤクザ平吉さんに出てきてもらい、バイオレンスに事を手打ちとさせる。それは、ある種の守護神のような感覚でもある。

ただし、下手に表に出ると破滅方向に行きがちなので、ふだんは後ろに隠れてもらい、見守ってもらっている。「統合」が困難な一方で、頼もしさがあるのである。

だから、気持ちがへこんで自信を失いかけた時、たまにヤクザ平吉さんに励ましてもらう。

するとそいつは『アウトレイジ』みたいな彫りの濃い悪魔的微笑を浮かべ、「お前、そんなん、空気だろ? 秒だろこんなもん。何を日和ってんの?」と、100%の自信を持ったうえでの賦活をおよぼす。

そして、理想に向かう主人格は「ですよね」と、自分を信じることができる。なお、気付けにはなるが、本当に危なっかしいので滅多に表に出ることは控えて頂いている。

彼は、俺とは真逆で、かっこいいスーパーヒーローが内面にいる。羨ましいと、素直にリスペクトできる。ただし、スーパーヒーローが所以、押しつぶさそうになることもあるのではと、そのような感想を述べた。

何がいいたいかというと、このようなことを再認識および発展させて考えさせてくれて、本当にありがとうという感謝の気持ちでいるということ。

実のところ、「平吉さん、久々に話したけど訳のわからないことを熱弁していたな?」と思っているかもしれないが。
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「頼むから、あと2時間眠らせてくれ」と毎朝のように思うのは俺だけではないはず。時間は皆、平等。

「そのぶん酒呑む時間とか削ればいいのに」という正論は一応頭にある。だが、「だが」の一言である。

せっせせっせと活動をする。夜はライター案件の取材もあり、改めて、人と話を深掘りするのは価値あることだとしみじみする。なにせ、相手の頭脳と感情にアクセスしているのだからそれはエモい。

一日が閉じ「爽快に起床するには――」などと思考を巡らせながらエコ・バッグをぶらさげて酒を買いに行く。たいへん非合理な行動である。

しかし、人間は、いつの時代も非合理的アクションから進化に向かい、イノベーションの芽を生み出している。だから俺は間違っていない。

なんども繰り返すが、酒を呑む言い訳をここに何十回も記している。そろそろ3桁は下らないだろうか。

居酒屋の厠にありがちな「親父の小言」みたいなスタイルでまとめ、なんならコンテンツ化できるのではないかという程の体たらくである。原稿にして竹書房か幻冬舎さんあたりに持ち込もうか。夢を見るのは自由。行動を起こすのは自分次第。

綺麗にまとめた風だが要点は「酒呑みつつもスッキリ眠り起床したい」という単なる自堕落な我が儘。
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パタタタヒタヒタ、タチンとキーボートを叩く。原稿を書き進める。インタビュー取材の音源の尺は約90分。内訳、60分少々が本題で、あとは制作サイドとの打ち合わせと雑談である。なんとなく、そこまでレコーダーで録音しっぱなしにしていた。

俺は質問項目の中にひとつ、「いま、ほしいものは何ですか?」というものを入れた。対象者から返ってきた答えは、想像の中になかったものであった。

経験上、この質問の答えの95%は、「お金」「物」「人間関係に関するもの」「時間」「健康面」の5つの要素が占める。

そのあたりの見解に興味を示したのか、本題後の雑談で制作サイドの2人は、俺が聞いたわけではないが、能動的に「さっきのやつですけど僕だったら――」と、その質問にそれぞれ答えていた。

内容は、「無茶振り」「無理難題」が欲しいとのことである。これまた、たいへん興味深いものであった。

「まあ、『ドM』だからね〜」と、当人方は笑っていたが、俺は、その回答の奥に潜む「自身の潜在能力を最大限に拡張させたい」という欲求こそが本質であると思った。

自他共に、追い込めば追い込むほどパフォーマンスを発揮するが、その一方で単純に「つらい」という側面が邪魔をする。ほとんどの人はそれを回避する。よって、無理難題を欲する人は明らかにマイノリティと言える。

しかし、「無茶振り」「無理難題」を受けた際、応えるといままで以上の自身の力が形となる。表現される。

やはり、アーティストやクリエーターは、良い意味で違うなと思った。そのような旨をちゃんと伝えたら「そうなのかな〜(笑)」と、やはり雑談ベースのままだったが、俺の見解は以上である。

何かを成し遂げる人間は、自分にも、他人にも、「無茶振り」「無理難題」を投げかけて実行し、実行させる。現代だとイーロン・マスク氏がそのような人物と聞く。めちゃめちゃ社員に無茶を言うらしい。

だから手前も、「ちょっとやり過ぎかな」くらいの日々を送ることで、「俺はこの世に何をしにきたのでしょうか?」などという疑問を払拭させられる時が来るのかもしれない。

要するに、やればやるほど、努力すればするほど楽しいし欲しいものが手に入る、見たかった景色にたどり着けるのかな、という話。

いつもより1時間ほどオーバーワークで日を〆る。今日あたりの俺の「無茶振り」はたったの1時間。

ただし、そのぶん確かに、それだけ事が進む。そういった意識を持つ事は自己実現に繋がるのであろうかという光明まで照る。雑談のパワフルさ、おそるべし。
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昨年の事業の残り香の件で現金を得る。メンタルクリニックへ定期検診に行く。主治医位なんだか調子良さげ。帰宅して原稿を書く。夜、電車で移動して仲間と盃を交わし合う。

以上が本日のすべて。その節々で、人と人との交わりを経て、いかに自分と他者との価値観との差異が著しいかを知る。

近しくとも遠くとも、他者の常識がある。手前との常識とのかけ離れた感覚を知る。一言で、そういったいことを認識した1日。みんな、それぞれ違うのだな、俺、大丈夫かなと、思いつつ、過ぎ去る時間。

基準とは、人それぞれびっくりするくらい異なると、なんだか内省的にもなるが、そういったフィードバックを受けて認識することも大切。そこに痛みを伴うこともある。だが、それで邁進できることもある。

どうしてこんなにもみんな、違う考え方なのかなと考え過ぎ、酒もまるで水道水のよう。
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水のように酒を呑んではいけないよ。いけないよ、というお叱りのような二日酔い。何もする気が起きないがそうもいかずと家事をする。原稿を書く。制作をする。

合間にYouTubeを観る。メンタリストDaiGoさんがお誕生日生配信をしていたのでリアルタイムで視聴する。

滝のようにコメントが流れている。様々な知識をみんなに提供したりする利他的な行動に対しての反応が視覚的に表され、率直に素晴らしいなと思う。

俺も普段楽しませて頂いているしと、感謝の気持ちをスーパーチャット込みでコメントしてみる。初めての行為。

少額ではあるが、スパチャを投げてみると、その投稿に対してのコメントがあったりして面白かった。「ナイスパ(ナイス・スーパーチャット。お金を払ったコメント主に対する賞賛らしい)」という言葉があることを新たに知る。

さすがに読まれないだろうと油断していたら、配信画面にがっつり俺のスパチャコメントが字幕の位置に表示される。

アカウント名がおもむろに実名であることもあり、そういう仕様なのかとなんかドキッとするも、DaiGoさんが俺のコメントに反応し、一言くれたのでなんか嬉しかった。

俺もYouTube生配信をやりたいなと思いつつ、とりあえず視聴者側の温度感を体験込みで知る。

YouTubeで広告をつけたり、PCで生配信をするには、規定以上のチャンネル登録者数が必要。そこまでの道のりはまだ長い。

そんなことを思いつつ、地道に楽曲がメインコンテンツの動画を作る。シンプルに、スーパーチャットに憧れる初冬の1日。
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「どうかしている」と、やはり思わざるを得ないくらい、実家の夢ばかりみる。今月に入って少なくとも10回以上みている。内容は異なるが、ロケーションが足立区鹿浜の実家の中なのである。

いや、俺の実家なんてもうねえし、という事実がある一方で、一体どんな深層心理の現れなのかと分析せずにはいられない。

「ストレスや不安」「重要な出来事や経験」「心の中の課題や欲望」「脳の処理」このあたりが理由として挙げられる。そのようにAIチャットは答えた。

夢の内容については、AIとは真逆であろう、スピリチュアル関連の方に相談するのが最適な気もするので、そういった方面にフォーカスしてネットで調べてみた。

いろいろ要因として挙げられるものがあったが、最もピンときたのは「その場所を連想させるもの」が寝室にあるという要素である。

もはや「父親コンプレックス」と占い師に言わしめた、ヤクザ人格の父親の写真を、何の心境の変化か、先月あたりから寝室の棚の上にそっと置いているのである。

生前、親子関係が酷くなってきた俺の青年期あたりから、リアルタイムでの「当たり前の挨拶」を一言も交わさなくなった。しかし彼の死後、今更するようになったのである。遅すぎる。

出かける前に、写真に向かい「行ってきます」と。帰宅して「ただいま」と。ある種、家族間では当然のくだりである。死んだあとにそれをやってどうすると率直に思う。

本来、当時そうしていれば、もっと良好な関係でいられたのではないかという「未練」がそこに確実にあると自己分析できた。

20代、親父と同居していた頃、必ず彼は「おう賢治、今帰ってきたぞ――」と言った。俺は100%無言であった。内面が著しくクソガキだったのであろう。

「ただいま」ではなく、「おう――」という言い回しだったのは、彼なりの工夫というか照れというか「どうせ返事しねえし」というような、様々な感情が交差することを表すフレーズだったのだろうか。

なぜ、あの頃に、俺は大人でいられなかったのか。そんな後悔というか未練に似たなんらかが、いま、毎朝と帰宅時に写真を見ては潜在意識で盛り返され、実家の描写の夢をみることが多くなった。こんなところだろうか。

生前、一方通行で彼から受けた「ただいま」。死後に一方通行で俺が発する「ただいま」。

前者は、言えば「おかえり」と返せた。後者は、どんなことがあろうと「おかえり」とは返ってこない。

そのへんに今更、寂しさを覚えているのかもしれない。そして、その寂しさを、彼は当時、毎日感じていたのであろう。

原因はきっと、手前に帰属する。親父ごめん。
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コンビニでも売っている「スミノフアイス(275ml)」を呑むと、量にかかわらず謎に酔っ払うなと深夜を振り返る。

起きてすぐに机に向かおうかと思ったが、運動というか瞑想というか何らかの調整のために散歩に行く。JR京浜東北線で一駅移動し、川口西公園あたりを散歩する。

赤黄色の紅葉が散る景色を見ては、まだ秋なんだなと思い、ぽつりぽつりと各場所に設置された彫刻を眺めては、作者の創作動機を逆算して考えたりする。

「川口総合文化センター・リリア」という建物に入り、適当にぶらぶらとする。駅ビルに移動し、「アニメイト」で様々な漫画の表紙のタッチを確認し、昨今の日本の画風のトレンドの平均値を個人的に割り出したりする。

無目的のようで色々な発見があり、散歩が一番落ち着くなという想いを引っさげて帰宅。原稿を書いたり動画制作ソフトをいじったりする。

11年前の11月24日、俺は北区王子のパチスロ専門店で賭博をしていた。

そして適当に負け、まだ勝負する現金も時間もあったのだが、精神的に灰のようになったのを実感した。「勝っても負けても同じか」などと静かに連呼しながら、徒歩で帰路についた。

借金をしてまで打ち続ける自分への嫌悪感がようやく臨界点を突破し、その日で、パチンコ屋でギャンブルする事と決別した。

「――をやめますか? 人間やめますか?」ではなく、俺の場合は「自分らしさをやめますか?」といったフィーリングで、その日ようやくその鋭利な問いに向き合い、ちゃんと「No」と判定できたのである。

それまで、何100回も「二度とやるか。こんなもん」とは思いつつもヤメられないのが博奕の恐ろしいところ。ギャンブルとは、行為を介した“脳内麻薬中毒”だと俺は思っている。違法ドラッグくらい性質がよろしくないと。

要は、パチンコ・パチスロをヤメてちょうど11年が経つという超個人的に超重要な日だったりするのである。

当時の、過剰なドーパミンおよびエンドルフィン中毒だった手前からすると、11年後には、のどかに散歩をするだけで確かな幸福を感じる日が来るとは思っていなかった。

そう考えると、また11年後に手前は何をして何を思うのかというのが必然的なところ。

けっこうな確率で、酒も煙草もやめてしまっている気がするが、今はこうして煙草を吸いながらカタカタと過ごし、冷蔵庫には数本の缶酒を転がしている。

11年という月日の長さと、行動と価値観の変化、そして人格もきっと相当変わったのだろうなと、秋空の下で改めて回顧する灰色の記念日。
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激しい気温差と鬱状態は、寒暖差疲労との因果関係がある。そんな知見をどこかで見かけたなと、ダウナーな気分で起床。

そういう時は、やることがあれば着手するまで、行く場所があれば行くまでが、なかなか地獄だったりする。

一方で、そこに辿りさえすれば、わりといつも通りくらいのパフォーマンスを発揮する。できなければ、そういった日が続くようであれば、個人的には心療内科などのに行くのは全然ありだと思う。

思えば、俺が最初に心療内科に行った大きな原因は「睡眠」がやられたからである。当時の環境が起因し、怒りの感情で眠りを正しくとることが困難になったのである。

もうひとつ、その頃は介護問題で疲弊しており、福祉の担当の方から「一回行ったほうがいいです」と、真顔で促されたこと。

そして最大の要因は、実はだだの興味本位であった。

あらゆる精神科医が執筆した著書を何十冊も読み漁った20代、その知識の元に作った別のウェブサイト、心理学も独学で色々学んだ。しかし、実態は未体験だった。要は、精神科医はどんな人物で、いかなる診断をして、なんという種類の精神薬を処方するのかのリアルを知らなかったのである。

これは童貞がセックスについてあたかも経験豊富であるかの如く偉そうに熱弁することに近しいのではと、超個人的に自分に対してはそう思ったという冒険心もあったことを思い出す。もちろん、童貞を非難するつもりは毛頭無い。男それぞれのタイミングがあり、相手との巡り合いもある。そして、貫くことがあってもいいと思う。

主題は、おセックスではなく、前提として「心の病(と呼ばれる)」についてなので、医師ではない俺は他者に対しては軽々しいことは言えないが、「罹患者」としての視点や思考が持てたのは引き出しとしてカラフルさが増すかなくらいに思った。

昨今のテクノロジーの変化は目まぐるしい。少なくとも10年以内には、体重や血圧が数値化してわかるように、精神状態が数字として示され、正常かそうでないかが判定できる日は遠くないと想像する。

そうなってくると、「熱が38度を超えています。今日は――」「わかった! 今日は出勤しないほうがいい。お大事にね……」というやりとりが当たり前のことのように、「脳内のセロトニンの数値がいつもの半分以下です。今日は――」「わかった! とにかくゆっくり休んでくれ。総務に連絡しておくからお大事にね……」というのが普通になるかもしれない。

仮にそうなったら、「2020年代までは、このような過酷な状況でも世間的な理解を得られず――」といった感じで振り返る時代が来るのかもしれない。

人間の心や精神状態は数値で測れるものではないと思う。上記の事実を除いた部分は俺の脳内ファンタジーである。

ただ、ひとつ言えるのは、その体験をしないと「わかる」ことができないことも往々にしてあるのではないかということ。そういった上で、明日からも元気に張り切ろうと思う。
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「これからはギターが上手く弾けるだけじゃダメだよ。平吉」と、2つ年上の先輩から諭されたことがあった。

当時の俺はただ、怪訝に思っただけであった。その時から振り返ると、時系列で、まず「MTR」が一般的になった。この機材により、機械に疎くても多重録音をすることができるようになった。

そして「DTM」の時代が来た。「デスク・トップ・ミュージック」の名の通り、PC上でDAWを活用することにより、市販音源レベルの音質まで仕上げることが可能になった。

同時期、インターネットが普及し、ブログなどで個人が文章や画像を駆使して表現したり、プロモーションをすることができるようになった。

スマートフォンの登場と同じ頃、SNSユーザーが爆発的に増え、発信や交流、著名人との交流すらも容易くなった。

このサイトを構築する「WordPress」のようなオープンソースのブログソフトウェア(プログラミングの知識がほぼなくてもウェブサイトが作れる)によって、その道のプロでなくともちょっと頑張ればホームページ作成が可能になった。

突き抜けて達者なギタリストは、ギターの腕一本の生業でいける。しかし、そこまでのレベルではないと、他のこともする必要がある。そういうことを先輩は言っていたのかもしれない。

ここまでで、例えば「ギターが超プロ級未満で弾ける人間」が音楽を仕事として成り立たせるには、「作曲」「編曲」「ウェブサイト作成(あるいはプラットフォームでの普及)」「広告」「ブランディング」「収益化」「マネージメント」このあたりも一通りできるようになることが求められる。

例えば手前で言ったら、ギターの腕前は、わりと弾けるという自負だが客観的に“超プロ級未満”なので、先述の一通りの要素をクリアしないと音楽でのマネタイズは難しい(ヒット曲を生み出すことができて、企業やレーベルに所属する場合はその限りでは無いが)。

そういったわけで、自分ができることの棚卸し的思考をすると、現代ってやること多いんだなという思索にふけった。

そして、AIの進化である。今日、一通り仕事をして、後の時間はいろんなAIツールを試す時間に充てた。

動機は、「イラストをアニメーションにしたい」というものである。

現状で試せる様々なソフトに、AIイラストを読み込ませて動かそうとしたが、そう上手くはいかなかった。だが、「それっぽく」できるようになるのは時間の問題だと確信できた。

さらに、イラストや写真を3Dにするソフトもあったので試してみた。仕上がりは、原型が破綻していたが、これまた同様の所感だった。上手く使える人が使ったらいい感じになるのだろうが、とりあえず触ってみるだけでもここまでできるのだなという驚きは禁じ得なかった。

よくネットニュースで、クリエーターの仕事がAIに奪われる的な問題が取り上げられている。

個人的には、一部は確かに奪われると思う。しかし、人間にしかつくれない本当に魅力的な創作物は、それはそれでもちろん残ると思う。要は、AIとは共存するのがベストだと思案した。

ある程度パターンやテンプレートがあることはAIに任せて、人間の感性と判断能力でしか行えないことは人間がやる、という感じだろうか。

俺ですら、こと楽曲制作においては、生演奏が基軸だが、打ち込みも加えるし、サンプリング(音の標本化)の手法もとる。だが、経験上、打ち込みよりも生演奏した方が早いしカッコよくなると判断する部分は人間である俺が行ない、明らかに最終形がみえておりプログラム的にやったほうがいい工程に関しては、機械的な作業にしたりする。要は、テクノロジーによる効率とアナログ作業の共存と言えるだろうか。

どうせ作るなら100点を突破した、人を魅了するコンテンツを、という想いがある。そこには、現代ではテクノロジーを含ませるスタイルを上手く取り入れるのがいいなという結論。

そのへんの見識、そもそもAIはどう判断するのかなと、AIに聞いてみようと思った。どうせなら最新のをと、ChatGPTを最新バージョンにアップグレードさせようとした。

すると、「いま、需要多すぎで制限してます」的な状態でアップグレードできなかった。この状況こそが、この先の未来の在り方を物語っているのかもしれない。

個人的には人間くささが溢れるやつが大好きだが、少なくともどの時代でも、俺が産まれた時からほぼ全てのコンテンツに、大なり小なり、機械的なエッセンスが加わっている。

その中で光る人間味にキュンとくる部分を見逃さないようにしたい。そして、AIも使うが、ちゃんと日々の楽器練習はサボらないようにしようという初心に還る。

楽器に1ミリも触れなかった今日の、ある種の罪悪感が、AIに対しての衝撃と葛藤に似た思考を生み出すのかもしれない。このへんは人間ならではであろう。
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アホになり、人工知能だのテクノやら、もはやインターネットにも一切アクセスせずに1日を過ごしたらどうなるか。

ジャングルか秘境か廃墟か、現実的には熱海の宿あたりでそういう日をすごしたい。メールチェックなら1日空けてもさほど差し支えはない。

しかしLINEや入電など、丸一日返さないと「何かあったのか?」と負担にさせるような心配を生みたくはない。とはいえ、1通もLINEがこない日なんて無くもないが。

旅に出て、当たり前の日常のどんな行為が、どういった情報のインプットが無駄であるかを精査したい。年内は難しくなった旅企画は来年に持ち越す。

なんならもう、その時期に仕事よりも優先して休みを設けるくらいの気概がないと、俺はいつまでたっても行かずじまいなのは想像に容易い。そこまで忙しいわけではないが。

2024年のスタートが「旅」というのも粋でいいかなと、いい加減本当に企てる。今日は仕事に制作にと、通常運転の1日。それを別の角度で吟味することができるのが、旅の醍醐味のひとつであろうか。熱海まで赤羽から乗り換え無しで行けるので本当にさっさと行けばいいと思う。
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出かける用も無ければ納期のある案件も手元にない。「休める時に休んでおけ」「休むのも仕事のうち」という、以前言われた言葉を思い出す。

フェンダーのでかいアンプが修理から戻ってきた。「重症」とリペアマンに言われたこの機材の修理費は、運輸代含めて4万円ちょい。

経済的にこれは痛いが、宅にしっかりとした真空管ギターアンプが無いほうがもっとつらい。今年は機材をほとんど購入していないので、そのぶんいいかと心の中でそっと手を打つ。

寝よう、寝てしまおうと、適当にYouTubeをちくちく観てはソファで寝る。ヴッ、とLINEが震えたので確認すると『なか卯』のプロモーションだった。

なんだ、と思いつつも足は『なか卯』に向かう。450円の「親子丼」を食べながら、定期的な広告というのはわりと効果あるなという、まんまと客となって動かされた所思。なお、『なか卯』の親会社のゼンショーホールディングスの株価は今年初めから約2倍以上という爆上がり。

やはり結果を出しているところは、細かなところからして違うなと、手前も見習いたいなと思う。

なんもしないで休んでいるのもムズムズするので制作をする。楽曲メインの動画コンテンツを作り溜める。

来年あたり、俺の資金も2倍以上に爆上がりせんかと目を細める。そこには、それだけの労力と発想とチャレンジと実行力と継続することが必要。当たり前である。

せめて、やれることは前倒ししてやる癖をつけつつまずは今年いっぱい張り切って行こうという活力。ほぼほぼ休んでいたのでそのへんはまあまあ回復。

やったらやったぶんだけ、休んだら休んだだけという当然の摂理を確認する11月の終盤。あっという間に過ぎ行くような2023年。
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聴くとツイキャスをやっていた時期がフラッシュバックする曲を、別の形にしてアップロードする。配信していたのは1年前。当該曲を楽曲制作をしたのは昨年2月。曲とは、いろんな頃合いで様々な使い方があるのだなと感じる。

YouTubeに楽曲メインの動画コンテンツを上げ続けるここ3カ月半、今度は生配信をこっちでやりたいなと思うが、なかなか伸びないチャンネル登録者数。

コツコツしつこくやり続けることも大事だが、見切りも肝心。また、ガラリと変化させる必要性も出てくる。

なんにせよ、ちょっとずつは増えているから続行する。シンプルに、これまでやらなかった制作方法、始めて触れる各ソフトウェア使用などにより、物の見方の角度が拡張する。これはこれで凄く大切な気がする。

例えば、楽器を始めてある程度演奏ができるようになってくると、これまで聴いてきた曲の聴こえ方が変わってくる。より細部まで、感性の解像度が増すという表現が適切だろうか。

そういった理由で、なにかを始め、自身で想い描くいくつかのゴールに進むまでが遅くとも、そこで得られる発見があり、視野の幅が広がる。それがもっともっと増えると、世界の見え方がさらにカラフルになってくる。

みたくないものまで情報として認識してしまう反面もあるが、手前はそういったデメリットがあっても、こう、毎日一歩前に進みたいという気概があるつもりである。

とはいえ現在チャンネル登録者数37人。とりあえず500人を超えないと困るのだが37人。これが現実。現実を直視する解像度すら上がるというのはきっと、良い方に捉えるほうがいいかなと今日もコツコツ各タスクを進める。

コツコツやっているうちに人生あっという間という必然もある。人間43年目。だが、死ぬその日からしたら、生きている限りは今日が一番若い日。誰かがそう言っていた。

ものは言いようだなと思う一方で、やはり、何かをするにあたって決して遅すぎるということはないと心から思う。しかない。
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大抵のことには「黎明期」と「全盛期」と「衰退期」があると、何かの本に書いてあった。要は、「出始めの頃」「めちゃ盛り上がってる頃」「飽きられて、あるいは飽和、時代の進化により不要」という風なもの。

音楽の「CD」で例えるならまず1980年前後からが黎明期で、1990年代が全盛期、2000年代中盤から衰退期にあたる。

CDは、デジタル化した高音質音源(44.1kHz / 16bit)をフィジカル媒体として爆発的に普及したが、音声ファイル(mp3など)でのデジタル配信やサブスクリクションが主流となり、衰退期を迎えた。CD大好き世代としては認めたくないところだが、事実である。

今日、一通り仕事をこなし、「次に熱を注ぐべく仕事のスタイルたるや」と、いろいろインターネットで調べつつ考えた。そして疲れて寝てしまった。

起きて、昨日作成した楽曲メインコンテンツ動画のプロジェクトを開き、出来てるか確認した。完成と判断したので動画(mp4)として書き出した。

その動画の楽曲は、2021年6月に制作したもの。コンテンツの再利用というやつである。当時は、その曲もそうだが、あらゆる制作楽曲はフリーBGMとして配布し、広告収益などで利益を得ることを主として考えていた。

しかし、その2年少々後の未来に、AIでイラストを生成し、動画ソフトなどで加工をして新たなコンテンツとして発信し、自身のプロモーション等にあてる目的で発信するなどとは想像もしていなかった。

たった2年で、AIという革命的なものが普及する現代、また近い未来に、掛け算のように凄まじい変化が重なると予測している人の方が多いと考えられる。俺は確実に、そうなると思っている。

いま、AIは「黎明期」であろう。なぜ「全盛期」ではないかというと、各種AIツールにはまだ不完全な部分が散見したりすることが挙げられる。それは、自分がAIチャットや画像生成ソフトを実際に使用した所感がまずある。そして、世論的にまだ「AIツールを実際に使用したことはない」という人のほうが多いからである(間接的には触れているであろうが)。

では、AIを駆使してなんとかフレッシュなビジネスはできんものかと試行錯誤するのは自然な流れ。いまのところ、俺はYouTubeに公開しているコンテンツでAIを使用しているくらいである。まだ、収益には繋がっていない。

じゃあなんのためにやっているのかと小馬鹿にされたら、YouTubeという、おそらく普遍的なプラットフォームであってほしい場所で、自分の地固めをしている段階だと答える。

現状、冷静に数字を見ると思うようには伸びてはいない。「公開しても再生数が10回もいかない」というほどの数字ではないので、しばらくはこのスタイルで続け、発見があったらアプローチを進化させる構えである。

俺なりにちゃんと仕上げているつもりの現状のスタイルでも楽しんでくれる視聴者、YouTubeをきっかけに知ってフリーBGMとして活用してくれているユーザーがいれば本当に幸いである。

総じて、何が言いたいかというと、まだ「黎明期」のうちにいろんなAIに触れ、リアルタイムでそれを駆使して発信し、「全盛期」がきた時に、しっかりとしたコンテンツとして発信して収益を得られる状態でいたいということ。

パッと客観的に「別になにも珍しくもない」と感じる人もいるのは心得ている。しかし、AIツールで何度もリテイクして「これだ」というコンテンツが生成され、それを自分の感性で少し動的にする一連のくだりには衝撃と驚きがある。それを「感動」にまで落とし込むのは人間にしかできない役割であると強調したい。

現段階ではYouTube公開中の動画のとおりだが、地道にやっていくうちに3Dやアニメーション、アナログに撮影した動画などを包括した真新しいコンテンツを手前でも作れる時がくるはず(もうきてるが、力不足で作れていないという要素もあるが)なので、引き続き色んな分野にアンテナを張りつつ精進したい。

人間の感性そのものすらバージョンアップされているのか、単に便利なツールが登場しただけなのか、正直よくわからない。ひとつ言えるのは、自分なりの何らかのイメージなりを、実際にAIで使って「これだ」というものが出てきた時には時に衝撃が走るということ。

衝撃や衝動が生じた時、人間の新たな原動力も同時に生じる。俺がいまやってることは、はたから見たら全然新しくもないかもしれないが、衝撃や衝動が生じたその時の感情は、その時の形として残しておきたい。

それが誰かの感動を呼び起こすクオリティにまで達すればいいなと地道に作業をする。

AI(artificial intelligence=人工的、人為的な知能)という呼称は文字通りだが、「人為的」という部分を、ほぼ全てを網羅した巨大な情報を集約したもの、スーパーコンピューターを超えるほど秀でた数値的なものなどと、冷たくとらえず、「人間味のある」という風味で、より進化した人間らしく使用して共存したい。まだ黎明期であろういまのうちに、AIの基礎的な部分は自分なりに噛み砕いておきたい。

とはいえ、結局は目の前での弾き語り生演奏やバンドなどのライブ演奏、ノーカットの生配信のほうが心に刺さるという原点に還るのかもしれない。

「その人でなければ、意味がない」という存在になりたいと思うのは誇大妄想だろうか。正直、それをAIに判定される日が来たら悶絶ものである。きっと、自分に求められる仕事を追い求める源流は、逆説的だが、案外そのへんからきているのかもしれない。

人によっては全然そういった考え方をしないだろうが、俺あたりの承認欲求をこじらせている人間はそう思ってしまう。前提として、世のため人のため、誰かが喜ぶことを、という根底があるつもりでいることは、せめてもの救いと信じたい。
_11/30

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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