12/2019

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
12月


渋谷のタワーレコードの反対側を歩いていたら超聴き慣れた曲が大音量で耳に飛び込む。俺の曲ではないか。

俺がアーティストとしてリリースした曲が「Now on sale!」と流れている、というわけではない。

タワレコの店頭のでかいモニターで流れるCMかプロモーションか何かの映像に、俺の曲が差し込まれていた、というだけである。このサイトか委託先のサイトかどこかで選別して使用して頂けたのであろう。

こうなんというか、たいへん嬉しいのは確かだが、そんな目立つところで使ってくれるのなら、もっとこう、実入りがもうちょい欲しいというか、俺の曲だということをもっとみんなに知って欲しいというか、そういった欲深くも複雑な心境になる。

自己顕示欲や金欲は、俺の自覚以上に下品に水面下で蠢いている。よし、俺は健全な精神を失ってはいない、そう思い、仕事も創作もがんばろうと奮い立った。タワレコ渋谷店さんありがとうございます。もっと流してください。
_12/01

 

 


改めて、とんでもない情報量にあふれている現代だなと思う。

そのせいか、ついさっきのこと、昨日とか一昨日のことは、特にネガティヴなことはすぐに忘れてしまう体質になってきた気がする。酒の呑みすぎだろうか。

1の情報やネタを10に膨らませるより、10の情報を1くらいに圧縮する技術などが、現代では重宝されるのではないかと思ってきた。一番凄いというか重宝されそうなのは、やはり0を1に、なのかもしれないが。

こう、1つあった出来事をしみじみ愛でるというような思考が俺は好きなのだが、現代ではなかなかそうもいかん。スマホを1日見ない、ということすら、仕事上不都合が生じる。

「人間、何日間何もしなかったら発狂するか」という実験、あれをやってみたい。だいたい平均値として3日間、外部からの情報のいっさいを遮断し、自発的になにも作業的なことを行わないという環境にいると、人間はだいたい狂うらしい。

俺はたぶん1週間くらいいける気がする。どちみち発狂するのだろうが。発狂の向こう側も知っておきたい欲。
_12/02

 

 


覇気がないというかなんだか具合が良くはないので休み休み過ごす。

こういう時は1日寝てしまえば良い。そういうわけにもいかんので必須タスクはやる。夕飯食べてまた寝て、ホリさんと電話したあたりから回復する。誰かと喋りたかっただけなのかもしれない。

だからきっと、「人間、何日間何もしなかったら発狂するか」という実験の被験者となったら俺は1日もたないかもしれない。
_12/03

 

 


高まる年末感。先立って今年を振り返ると、まあ色々あったものだと雑多な記憶を辿れる。

数年に年に一度、あるかないかということばかりだった。

例えば仕事のスタイルをガラリと変えたり、PCと周辺環境を一新したり、撮影の案件のために一眼レフにややハマったり、常習犯的に行なっていた賭博行為のいっさいを年始から禁忌としたりと。

みんなはどうなんだろう。「今年ですか? いつも通りでしたね」という人の方がマジョリティなのだろうか。

「いつも通り」というのは、ずっとある目標やらに進んでいる類と、大きな変化はなく通常運転で平和だったという、2種類にわかれるだろうか。どっちも素敵だ。

人間の精神は、「変わりたい」という奮起する心と、「このままでいたい」という据え置き的な心と、絶妙なブレンド比で成り立っている気がする。

面白いのは、久しぶりに会う人に「雰囲気が変わったね」と「お前は変わらないな」と、相手によって言われることが分かれることだ。

その2つに反応がわかれるということは、絶妙なブレンド比を保っている証だと思って、良いほうにとっている。まずはそれを崩さないように2019年を完走しよう。
_12/04

 

 


今日は宮本浩次さんの歌声が生で聴けて幸せだった。

宮本浩次さんの、あの歌のカリスマ性はなんなのだろう。あんなに魅力溢れる歌声もないものだと思う。

とにかく良かった。あと、やっぱり喋っている姿も面白くて最高だ。
_12/05

 

 


感性の変化について考えた。

どう安く見積もっても、10代の時の感性、感じ方というのは、はち切れんばかりにビンビンだった気がする。たぶん万人共通の傾向だと思われる。

若いほどにインプットのパワーが凄いというか、そう考えると、納得できる。歳を重ねると、インプットパワーは下降する代わりに、アウトプットパワーは上昇すると自分では感じる。

10代の頃だったらどう表せば伝わるかわからんかったことが、いまならスムーズに伝えられたり表現できたり。いまじゃ全然興奮しないことなのに、10代の頃は発狂の如く昂ぶったりと。

だから、昔の方が冴えていた、という考え方ではなく、バランスが整ってきたという考え方が一番健やかな気がする。

そう考えた上で、いま自分が一番興奮することは何かと考えた。シンプルな根源としては、やはりエロスとタナトスだろうか。

要は、「生きている!」と心底感じるか、「死ぬかも!(あるいは死にたい)」という情念が湧く、なにかしらである。

「死ぬかも!」というタナトス的興奮、死の疑似体験は、ギャンブルという分野でだいぶやったしもういい。

「生きている!」という方は、まだやる余地が十分にあると思う。普通はそれ一択なのだが。

どうすれば最も自分が「生きている!」と感じるかは、案外日常にあったりすることに気がついた。

人と話していて笑いあったり、アウトプットしたことに反応があったり、めしが旨かったりと。全部基本的かつシンプルである。

エロスもタナトスも、疑似体験ではなく、そこにリアリティがあるかということが、真のサティスファクションに繋がるということは、たぶんみんな知っていることっぽい。

そしてそれは、ひとそれぞれ違う形で追求していると思う。「自分なりの」というのをはっきりと一つ、あるいは複数見つけて没頭すること、これが真のサティスファクションっぽい。

感性の変化というのは、疑似体験を削いでいく上で生じるものなのかもしれない。そう考えると、そのうち俺も酒も煙草もやめて、「本当に自分に必要だ」と思うことしかやらなくなるのかもしれない。

それは、崇高でストイックな生き方でカッコ良いが、なんというか、ノイズもヨレもない完璧的な音楽を聴いているようで、少し味気ないような、寂しいような。でも、憧れる生き方でもある。
_12/06

 

 


レモンサワーとヤキトリとカキフライ。先方様にお誘い頂き、呑ってから帰宅。ほっこりと楽しかった。都心で温かい年末感を少し味わえた。

駅で別れ際、「まあ、帰っても寝る前にまた呑むんですけどね」と言ったら、「私もです」と言う。「ですよね」と言って別れる。ここである。俺はこの選択の寡多を知りたい。

呑み会とかが終わったあと、どれくらいの人が帰宅してもまた呑むのか。少なくとも俺は酒を呑み始めたら、「酔いが覚める」という感覚までもっていかず、酔ったまま寝る。だから、0時より前にお開きになったら、ほぼ帰っても1、2杯呑む。

どう考えても、酔いを醒ませてから就寝した方が健康的なのだが、その選択肢がない。

アルコールの半減期は、個人の体重にもよるが、2、3杯だとだいたい約3時間くらいらしい。だから「酔いが醒めたな」と感じ始めるのは呑み終わってから約3時間後だ。それまでの間、何をしていろと。ホットミルクでも飲んでおとなしくしていれば喜ばれるのだろうか。

作家の町田康さんが禁酒についての著書を出したらしい。読んでみようか。禁酒の向こう側にどんな景色が待っているのか、知りたいような知りたくないような。
_12/07

 

 


わざわざ時間を割いて頭がバグった父親の面会へ行く。しかし、彼は帰り際「それでお前は何しに来たの?」と言いくさる。

そこで考えたのだが、俺は一体何をしに行っているのだろう。バスに乗ってまで北区赤羽から足立区江北まで、なにか重要なことをしに行っているのだろうかと。月に一度とはいえ、行き帰りまでで数時間はかかることを、何の為に行っているのであろう。

施設の料金の支払いは振り込めばいい。逐一現金で払いに行く必要はない。そのついでに面会、という習慣は、どうやら不必要ではないかと思った。当人に言われて気が付いた。

俺が行ったところでふざけた病が改善に向かうわけではない。むしろゆっくりと、病状を遅らせる投薬を続けたところでどんどんゆっくりと、アルツハイマーというのは進行する病である。

「自分が自分でなくなるなら生きる必要はない」という頑なな持論から、アルツハイマーに罹った中期くらいで自決する、という内容の漫画がある。

それは、福本伸行先生の『天』という作品で、重要キャラの「アカギ」は、盟友の渾身の説得に応じず、認知症によってボケきる前に、自らの手段によって死んだ。そして、物語は完結した。

その言い分は、まるでカート・コベインの遺書の内容のようだ。アカギもカートもカッコ良いのだが、人間そう、潔く逝けるものなのだろうか。

アカギとカートと父親に共通しているのは、完治する療法が現在ない病に罹患したという点である。

身体的な病と異なり、脳や精神の病は、数値化と視覚化があるようでない。だから、わかってあげられない。

「それでお前は何しに来たの?」の返事として適切なのは、きっと「わかりたいから」だろう。

帰路、そんなことを考えながら環状七号線鹿浜橋から見た夕暮れの美麗な西日と空の橙と紺のコントラストは、はっきり言って汚かった。じわじわ陽が落ちるくらいならスパッと暗くなれと、そう感じた。しかしそれはどこか残酷であり、心底思うことが俺にはできない。
_12/08

 

 


死んだら苦も楽もいっさいの感情がなくなる。

そう思うと、頭に霞がかかりながらゆっくりフェイドアウトするのも悪くはないのではないだろうか。そういった死生観ばかりぐるぐると考えるのはどうなんだろう。

頭がメコメコになるくらい考えすぎて、スーパーで買い物をしたあと、袋に入れずにまんまカゴを持ちながら100メートルは歩いて引き返す。これは恥ずかしい。死ね。カゴを被って死ね。

単純に、気温が低いとより内向的になる。鬱っ気のあるダウンビートを作っていると気持ちが安らぐ。こういうときに陽気でパツパツのEDMなど聴くとたまらん。

酒すすってポーティス・ヘッドでも聴いて寝よう。
_12/09

 

 


今日はなんだかやけに褒められたり、自己肯定してくれる言葉を直接対面して頂けた不思議な日だった。さいきん鬱々としていた傾向にあったので漲る。

人を褒める時は、具体的かつ、自身独自の表現で褒めると刺さるという。

ただ「可愛いいですね」ではなく、たとえば「目が凄く綺麗ですよね。吸い込まれそうというか」くらい、口説いているのかというくらいでいいという。

「渋いですよね。喩えようのない雰囲気です」とかもいいかもしれない。唯一無二感にプラスして“雰囲気”という全体像を指して相手を完全に肯定している。

たった一言、自分の言葉で相手の良きと思ったことを直接口にして伝える。あるいは、そういった褒めや自己肯定に繋がる言葉を受ける。すると、言った方も言われた方も、どっちもドーパミンが噴射するらしい。確か。

要は、良いことを直接相手に「いい」と言うその数秒だけで、最低2人はハッピーになれるということだろう。「いい」と思ったことは即相手にアウトプットすると良いことしかない。

しかし、「照れ」や「嫉妬」という感情がそれを邪魔するのか、なかなかストレートにいかないこともある。それらの感情に勝つのはけっこう難しい。

だから、自然に褒めたりできる人間というのは感情面、コミュ力面で優秀なのだという結論に達した。人付き合いがうまくいかないなと思ったら、嘘は交えずとりあえず褒めてみれば円滑にいく気がする。これはたぶん合っていると思う。

素敵な褒め言葉を受けると随時幸福感再生可能な感情がずっと残るし、人格否定の言葉は殺意が芽生える。俺は前者を尊ぶ。後者は暴力よりも悪しき。褒めよう褒められよう運動。
_12/10

 

 


カレーうどんを食べたことがなかったので作る。見よう見まねで作る。

カレーもうどんもそれぞれ単体なら好きだが、混ぜるとなると言語道断という思いがあった。

しかし食わず嫌いは良くないので食う。普通にうどんを作って、最後の工程でレトルトうどんを投入する。たぶんこれでカレーうどんになると思う。

出来上がったものを食べたところ、生まれて初めてカレーうどんを食べたところ、なんの感動もなく、100%予想通りの味がして逆に驚いた。あまりにも普通に美味しかった。

じゃあカレーそばも、と攻めたいところだが、蕎麦好きとしてはやはりカレーと蕎麦の組み合わせは禁忌。蕎麦の香りもだしの味わいもへったくれもない。カレーが強すぎて、麺ならなんでもよかろうとなる。うどんでも蕎麦でもソフト麺でもなんでもいい。

そう考えたあたりで、小学校の頃にカレースープ的な謎汁にソフト麺を入れて食ったことがあるのを思い出し、別に初体験でもなかったとがっかりする。今度、ちゃんとした店で“カレー南蛮”というやつを食べてみよう。俺が今日食ったのはカレーうどんではなく、ただのカレー麺だ。

“カレーうどん”とか“カレー南蛮”だったら、きっと初体験の感動をもたらしてくれると信じている。
_12/11

 

 


「人生を変えた本」というのをよく聞く。読んで生きるスタンスなりに大きく影響を及ぼした、というやつだろう。

8年くらい前に「人生が変わった。ケンちゃんも読んでみなよ」と勧められて借りた本を読んだが、俺はピンとこなかった。しかし、そいつはそれからメキメキと頭角を現した。よっぽど刺さったのだろう。借りパクしたまま本棚で寝てる。

俺にとって 「人生を変えた本」があっただろうか。大きく変えたのには出会っていないと思う。第一、読む本のジャンルが偏りすぎている。

心理学や精神医学系というか犯罪者系や異常者系というか、メンヘラにまつわるやつが多い。「人生が」というような感じではなく、人間の肚の底の知識が備わるという系統である。

小説も読むには読む。有名なところはおさえとこうと、太宰さんや芥川さん、三島由紀夫さんに夢野久作さん、中島らもさんに町田康さん、坂口安吾さんに澁澤龍彦さんも読んだだろうか。

どこかサブカル的に偏っている気もするが、読むには読んだ。面白いが、「人生が」というところまでには、と言う感じである。

「人生を変える本」というのは一般的に自己啓発系か社会学系が多い気がする。そういえば、わりと「あなたの人生を変えた本は?」という会話はしたことがない。返事を用意しておくとしたら何の本だろう。

『人間失格』だろうか。ラストが凄まじく良かった。でも隠キャと判断されそうな気がする。

『今夜、すべてのバーで』だろうか。アル中の手前と思われがちだ。

『歯車』だろうか。情緒不安定だというイメージがつくかもしれん。

『連合赤軍「あさま山荘」事件』だろうか。危ない輩だと思われる。

『少年A  矯正2500日全記録』だろうか。ダメだ。

どれも超面白いのだが、難しい。こう考えると「あなたの人生を変えた本は?」という質問は、どこか相手を値踏みしているコミュニケーションともとれる気がしてきた。

こういうところで背伸びするとボロが出る。「そうですね。『カイジ』です」くらいではぐらかすのが良かれ。ある種、嘘ではないし。
_12/12

 

 


 

 

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